――――――――――――――――――――――――――――――* 第1審の原告が控訴したので控訴審では原告の事を控訴人、被告の事を被控訴人と呼びます。
「国は勝手に私の身体にメスを入れて、知らぬ、存ぜぬ。責任さえもない。そんなことで許せるわけがありません。亡くなった妻や親の墓、裁判で証言してくれた姉さんにも報告したいが、いったいどんな報告をすればいいのかわかりません。私は死ぬまで闘う、そう思いました。でも、この苦しみを墓場まで持っていきたくない。そのために、私は控訴します」。
原告の北三郎さん(活動名・七七歳)は、「不良な子孫の出生を防止する」ために国策として推進されていた優生保護法に基づく不妊手術(以下、優生手術)を一四歳のときに行われた被害者の一人である。優生保護法をめぐっては二〇一八年一月に仙台で国に対して損害賠償請求をする第一号提訴があり、二〇二〇年七月末において、全国八地域で二五名の原告が提訴している。北さんは東京訴訟の原告であり、二〇一八年五月に提訴。北さんの姉、優生保護法の問題に長年取り組んでこられた市野川容孝東大教授の証人尋問を経て、先日二〇二〇年六月三十日に東京地方裁判所にて判決がなされた。仙台判決に続く第二号判決であったが、原告の請求は同様に認められなかった。
私は弁護団の一員であり、弟に障害がある家族の立場でもあるが、優生保護法の被害や国の責任が裁判官に理解されていないという印象をもつと同時に、理解されるためには何をどう伝えればよいのかという原点を考えさせられた。なお、本稿は、筆者個人の見解であり、弁護団としての見解を示すものではないことをご理解いただきたい。
北さんは宮城県に生まれたが、複雑な家庭環境と反抗期による素行不良により一三歳のときに教護院(児童自立支援施設)に入所した。そして、一四歳のとき、突然、施設の職員に病院に連れていかれた。「悪いところは何もない」と言ったが、全く説明されないままに優生手術が行われたのである。後日、施設の先輩から「子どもができなくなる手術だ」と教えられ、大きなショックを受けた北さんは、父親が手術をさせたと恨み、実家との音信を絶った。就職後、結婚にも消極的で見合いなども断っていたが、周囲の勧めで結婚。子どもができないことで妻も辛い思いをしていたが、手術のことは妻にすら打ち明けられない。誰にも話せない秘密を抱えて一人で苦しみ続けた。
その後、手術から六〇年以上経ち、北さんは二〇一八年一月の第一号提訴を報道で知り、自分に行われた手術が優生保護法という法律に基づいて進められていた国策だったことをようやく知った。手術をさせたのは父親ではなく、国だった。驚いた北さんは姉に連絡。姉も北さんの手術のことは祖母から聞かされていたが、「絶対に誰にも言ってはいけない」と口止めされていたのだった。弁護団に連絡した北さんは、より多くの被害者に声を上げてほしいと決意して、同年五月、提訴に立ち上がった。
東京判決は全体で一四六ページにわたるが、「判決要旨」(一〇ページ)は、優生保護法被害弁護団ホームページで閲覧できるので、合わせてご覧いただきたい。
東京判決は、北さんに対する優生手術については、憲法第十三条で保護された実子をもつかどうかについて意思決定する自由を侵害するものだとして、国による人権侵害を認めた。しかし、優生保護法の違憲性については言及せず、踏み込まなかった。
この点については、仙台判決が、社会的な注目を集めている裁判であることを前提に「憲法判断の回避はしません」と宣言した上で、「優生保護法は違憲」と正面から認めたのに比して、東京判決は後退であった。「仙台判決は山の八合目まで行ったと評価したが、今回の東京判決は登り口で終わってしまった」(新里宏二全国弁護団共同代表)と受け止めざるを得ない。
また、東京判決、仙台判決ともに、優生保護法によって侵害された人権を「実子をもつかどうかについて意思決定する自由」、「子を産み育てるかどうかを意思決定する権利(リプロダクティブ権)」としているが、それだけでは狭い。優生保護法の被害の本質は、国家に「不良」な人間だとされたことにより「人間の尊厳」というまさに基本的人権の中核を奪われたことにある。
なお、東京判決は、優生保護法において優生手術の対象とされた疾患が北さんにあったとは認めがたく、優生手術を適当とした宮城県優生保護審査会の審査が誤りであり、違法だとも認定している。この点は、優生保護法それ自体が違憲であり、すべての優生手術が対象疾患の有無や優生保護法上の手続の適法性にかかわらず違憲であること、優生保護法を国策とした国の責任を見過ごすものである。
東京判決は、上記の通り、国の人権侵害を認めたものの、「除斥期間(=二〇年)」という時効に近い概念を適用して、損害賠償請求を提訴できる期間が過ぎていると請求を退けた。優生手術は、法律が「不良な子孫の出生を防止する」手段として掲げており、厚生省の通知により拘束や麻酔の使用、騙して行うことも許されていた。このような国による犯罪行為とも言い得る重大な人権侵害行為の責任が、単なる時間の経過によって消滅するとされたのである。この結論は、仙台判決も同様であった。
ただし、これについて今回の東京判決は、除斥期間の二〇年のスタート地点(起算点)を手術のあった一九五七年よりも遅らせる可能性を検討している。一九八八年頃までには優生保護法の問題点は社会的に理解され得る状況にあり、どんなに遅らせるとしても一九九六年改正で優生条項が削除された時点においては、優生条項の存在によって差別意識が助長される程度が、かなり低下していたのであるから、提訴が困難な状況にあったとは認められないと判断している。
しかし、これでは事実認識と評価が現実から乖離し過ぎており、優生保護法による被害の実情を理解しようとする姿勢さえないと言わざるを得ない。北さんは、手術について全く説明されず、優生保護法という憲法に違反する法律によって自身の手術が行われたことなど知り得なかった。そして、手術のことは、妻にも打ち明けられない、誰にも言えない秘密であった。北さんの姉に祖母が「絶対に言ってはいけない」と口止めした通り、本人はもちろん家族を含めて被害を公にすることなどできなかったのである。現在も、活動名での提訴で、顔を出すことも非常に悩んだ上で、声を上げる人が増えればと考えた上での決断だった。除斥期間の適用は著しく正義・公平に反した判断である。なお、一九九六年から二〇年と言えば二〇一六年であり、北さんの提訴は二〇一八年であるが、あと二年早く、二〇一六年に提訴していれば、請求を認めていたとでも言うのだろうか。
一九九六年改正時には提訴が困難でなかったと判断したことについて、東京判決は、特に以下の点を根拠としている。裁判官の視点を踏まえて、今後何をどう伝えていけば理解されるのかを、読者の方々にも一緒に考えていただきたい。
ここで根拠とされている与党内の小委員会の資料、科研費による研究報告書、厚生省内の内部メモは、すべて今になってようやく出てきた資料である。北さんがどうやって知ることができようか。なお、これらの資料は、著しい人権侵害の問題を認識していながら対応しなかった国の責任を追及するために原告が提出した証拠の一部であるが、逆手に使われたのである。
根拠A 一九九五年には、民間の障害者団体からも優生保護法の優生条項の人権侵害性が指摘されるようになり、一九九六年には、優生条項が「障害者に対する差別になっていることを正面から認める形」で改正が行われた。一九九六年改正において、国会では、「障害者に対する差別になっていることにかんがみ」という提案理由の説明がなされたのみであり、実質的な審議は一切なされずに優生保護法は廃止され、葬り去られた。そして、国は、一九九六年の改正以降も、優生手術は当時としては適法であり、謝罪や補償を考えていないと言い続けてきたが、これを「障害者に対する差別になっていることを『正面から』認める形での改正」と言うのだろうか。
根拠B 優生学ないし優生思想自体は、十九世紀末には広まっており、二〇世紀に入ると各国でこの考え方に沿った立法がされた。障害者に対する差別的な意識は、優生保護法の「不良な子孫の出生を防止する」を始めとする優生条項や施策によって「助長」された面があったことは否定しがたいが、国が「作出」したものとは言えず、またその排除は現実問題として必ずしも容易であるとはいえない。ハンセン病については、らい予防法により、療養所に強制的に患者が隔離され、法律について知る知らないにかかわらず、社会が物理的に認識可能であり、優生手術を行われた者が置かれた問題状況とは質的に異なる。このように述べる東京判決の意図は把握しきれていないが、根拠@Aと合わせて優生保護法の被害と国の責任が何かが裁判所には全く伝わっていない。さらなる調査、説得力のある主張、裏付ける証拠が必要であると考えさせられた。
少なくとも優生保護法は戦後の議員立法の第一号であり、障害者関連法の先頭として与えた影響は大きい。ハンセン病との比較については、国による重大な人権侵害について被害が見えるか見えないかで国の責任及び救済の線引きをすべきではない。優生保護法については、被害が見えないことで被害者が孤立し、声を上げられなかったことを考慮すべきである。
また、判決は、国が補償等の被害回復のための措置や立法を行ってこなかったことへの責任も認めなかった。除斥期間に関する判断と同様、「一九九六年に法改正がされた時点では、すでに障害の有無によって人を差別することは許されないという意識は国内に広く浸透していた」等の現実と著しく乖離した認識をもとに、優生条項の撤廃のほかに、被害回復のための措置や立法をすべき必要性、法的責任はなかったとした。
この点は、仙台判決が、一九九六年改正から既に二〇年以上も経過して提訴された仙台訴訟が全国で初めての訴訟である事実等から、提訴は現実的に困難であったとして、被害回復のための立法の必要性を認めていたのに比して後退した。東京判決は、司法の人権の砦としての被害者救済の視点が致命的に欠如しているというほかない。
東京判決は、判決本文の最後のページの一四六ページに入る直前に、昨年二〇一九年に成立した一時金支給法が優生手術等の被害者に対して三二〇万円を支払うとしたことについて、「諸外国の救済立法例に照らし、救済対象や給付金額の面で必ずしも不十分であるとはいえない」と一時金支給法への評価をあえて表明している。結局は、どのような論理や言葉であろうと、登り口であろうと八合目であろうと、「一時金を申請すれば三二〇万円もらえるのだから被害者救済はそれでよい」という判断を前提に、原告の請求棄却という結論ありきである感が否めない。高く険しい山の頂上にたどりつくためには、この判断部分こそをひっくり返さなければならない。
一時金支給法は、全国で被害者が声を上げ、国に対して裁判を起こしたこと、報道でも大きく取り上げられたことなど、裁判の内外での大きな動きにより、謝罪も補償もしないと言い続けた国をようやく動かしてつくられた法律である。では、一時金支給法制定後も二五名の原告が裁判を続けているのはなぜか。
北さんを始めとする原告の方々は「お金がほしいわけではない。国が間違ったことをしたのだから謝ってほしいだけ」等と繰り返し語っている。しかし、読者の方々は、三二〇万円という金額についてどう感じられるだろうか。
もし仮に交通事故で怪我により生殖機能を失った場合の後遺症の慰謝料は一〇〇〇万円が目安とされている(七級:両側の睾丸を失ったもの)。これに対し、国策として推進された優生保護法に基づく優生手術は、身体を傷つけて生殖機能を奪うのみならず、不良な国民であると人間としての尊厳を傷つけるものであり、被害の重さは、個人の過失による事故と比較できないほどに重い。一時金支給法は、お詫びも形式的なものにとどまり、「補償金」や「賠償金」でもない「一時金」の三二〇万円はあまりにも軽んじられている。
そして、その三二〇万円ですら受給できたのは、二〇二〇年七月末において六六一人。厚労省が把握している範囲での優生手術の被害者数二万五千人のうち、わずか二・六%にすぎない。厚労省が見込んだ、優生手術に関する記録が残っており、生存しているとされる被害者数三四〇〇人を母数としても、二〇%にとどまる。今も被害者が知らないまま、知らされないままの状態、被害者や家族が声を上げられない社会が続いている。優生保護法の問題がまだ終わっていないことの証左である。それが、原告二五名が声を上げ続ける理由のひとつである。
今後も、東京高等裁判所での控訴審、各地の裁判が続く。東京判決を受けて、主張とそれを裏付ける証拠を補強するべく、全国の弁護団では議論と調査検討を重ねているが、優生保護法による被害と国の責任を裁判官に理解してもらうためには、まずは自分たちが背景や本質を理解しなくてはならないと痛感している。そして、裁判だけでなく、世論にも訴えかけ、原告や被害者への共感と理解を広げていく必要がある。
国会が優生保護法の立法経緯や社会的背景、被害の実態等について、調査を開始することを決定したが、国によるこのような被害を繰り返さないためにも、徹底した調査と検証が不可欠であり、調査結果を踏まえて被害者への補償を充実させていくべきである。
優生保護法の制定から七〇年以上、母体保護法への改正から二〇年以上の年月の中で、筆者が関わったのは二〇一八年の訴訟からであるが、原告、被害者と家族の方々、長年活動を重ねてこられた支援者の方々との関わりの中で、筆者もひとつ下の世代の障害当事者の家族として、優生保護法の影響を受けている当事者の一人であると実感している。高く険しい山の道半ばにいるが、頂上まで登るために裁判の内外の道から多くの方々とともに前進していきたい。