筆者は、2018年から筋萎縮性側索硬化症(ALS)である増田英明さんのパーソナルアシスタントとその生活にかかわってきた。京都では、2007年に甲谷匡賛さんがALSで初めて一人暮らしを実現した。2008年には、杉江眞人さんが地域での一人暮らしを実現している。彼らの地域移行や地域生活では、字義通り「独居」であることが壁となって立ちはだかった。それは、家族の存在や介護が前提とされている社会において、家族が担うべきかどうかは別として、家族に求められる役割が浮き彫りにされる形で実現していった。一方で、増田さんは2006年から家族と一緒に地域生活を開始した。そこでは、「家族」がいることが壁となって立ちはだかった。このように、家族の存在をめぐっては、甲谷さんや杉江さんが経験したように家族がいないために地域生活が選択肢として示されなかったり、増田さんが経験したように家族がいることでサービスの利用が認められなかったりと、「壁」となって立ち現れることが多い。筆者は、増田さんの生活から家族の存在や立場、それがどのように維持されているのか、されうるのか、その可能性を見出したいと考えている。そしてその手がかりは、増田さんの生活を支えている「パーソナルアシスタント」との生活にある。そこで、本報告では、増田さんが「パーソナルアシスタント」と呼んでいる介助者との生活について明らかにする。なお、本文中では、介助、ケア、介護、文脈によって言葉をかえているが意味合いは同じである。
2004年 | ALS発症 約1年で四肢が動かなくなる |
2006年2月 | 息が苦しくなりバイパップ導入、飲み込みが難しくなり胃瘻造設 |
2006年5月 | 気管切開、人工呼吸器装着 |
2006年8月 | 呼吸器をつけて在宅生活を開始 |
2011年 | パーソナルアシスタントを導入 |
増田英明さんは70代の男性である。2004年にALSを発症してから、約1年で手足が動かくなった。そして2006年2月に息苦しさから非侵襲的陽圧換気法(NIPPV)を導入した。このとき、飲み込むことも難しくなったことから、胃ろうも造設している。同年6月には、気管切開をして人工呼吸器を装着した。だが、人工呼吸器の装着は、「つけます」との「生きたいです」ともいえるような雰囲気でも状況でもなかったという。そうした中、「つけません」と言ってしまった。
増田さんがそう言ってしまったのには、ひとつには、家族の負担を考えてのことだった。医師から説明をうけたとき、増田さんは、病気に対する知識が全くない中で、将来の見通しが見えなくなっていく不安ばかりが増していく状態だったという。医師の説明を聞く中で、人工呼吸器を装着した場合には家族の負担が大きいということがわかり、介護や経済的負担をかけられない考え、「つけません」と医師に伝えた。将来への不安や身体の痛み、家族への負担を考えると、生きたいとも生きたくないとも言える状況ではなく、「つけない」と言うしかできなかった。ただし、「死にたい」とは思っていなかった。
そこで、家族に介護負担をかけない方法を探るなかで、定量自動吸引機「アモレ」があることを知り、人工呼吸器を装着しても家族に負担をかけないで生活できる可能性がでてきた。そして、2006年に退院してからは、日中はデイケアに通所しながらの生活をしていた。デイケア以外の日常生活のケアのほとんどを家族が担っていた。介護保険を利用していたものの、ケア内容が決められた短時間の介助であったため、仕事をしながら家族がケアを担うしかなかった。2011年5月からは、重度訪問介護の利用を開始した。だが、重度訪問介護の時間数が200時間しか認められず、一日あたり6時間程度であった。これは行政が、家族が同居していることを理由に、本人にとって十分な時間数を認めなかったためである。たんの吸引や胃ろうなど24時間の見守りが必要な状態の本人を支えるには不十分であり、またベッドから車いすへの移乗や外出には二人介護を要する。障害者団体の協力を得ながら行政と交渉し、2012年2月には、24時間の二人介護を可能とする987.5時間が認められた。
増田さんは、ALSという病気でありながら自分で介助者を探し育成して「自立生活」をしている人の存在を知って、2011年7月からパーソナルアシスタントを活用し「自立生活」を開始した。
増田さんは、自薦ヘルパーのことを「パーソナルアシスタント」と呼んでいる。そして、パーソナルアシスタントとは「私の専属のヘルパー」のことをいう。そこでのヘルパーは、日常のケアだけでなく、活動全般にもかかわるからだ。地域生活を開始した当初は、サービスは介護保険のみの利用であり、外出時間も限られていた。そのため、家族が仕事をしながらケアを担うしかなく、家族に負担が集中していた。それは家族に負担をかけないで生活できる方法を探していた本人にとっても望まない生活であった。そこで、家族とともに――家族の介護だけによらない――自分のしたい生活をするために、パーソナルアシスタントを活用した生活を始めた。
全身性の身体障害を伴う進行性難病であるALSは、その症状の進行には個人差があるものの、しだいに身体を動かす自由が奪われていくため、日常的に介助を要するようになる。さらに、呼吸筋の働きも妨げられ呼吸することさえも難しくなるため、医療的ケアも必要になる。そのため、24時間の見守りはもちろんのこと、生活のほとんどすべてにおいて介助が必要になる。それは家族だけでは到底対応できるものではない。さらに介護保険で提供される介助は短時間でその内容も限られているため、症状の進行に即したニーズには対応できない。それらを可能にするためには、自分で自分のニーズを満たす介助者を探して育てていくことが、生活の質――自分のしたい生活をするために最善の方法だと考えた。
現在、16人のパーソナルアシスタントがいる。パーソナルアシスタントの多くが看護学生や福祉を学ぶ大学生で構成されている。これまで52名の学生のパーソナルアシスタントが卒業し、病院や福祉関係の仕事で活躍している。増田さんは、パーソナルアシスタントとして看護学生や福祉を学ぶ学生を多く採用することで、医療や福祉の現場に社会還元――自分のケアを通してALSのような難病や重度の障害を持つ人たちのケアの充実を目指している。
採用前 | 募集(チラシを作製・配布)→ 在宅で面接 → 重度訪問介護研修・修了→ 採用 |
仕事中 | パーソナルアシスタントがシフトの希望を提出する → 増田さんが調整して個別に連絡 → 勤務 |
卒業 | 学生は学校の卒業がパーソナルアシスタントの修了 |
身体介助 | 体位交換、車いすの移乗や操作、吸引、口腔ケア、洗顔、着替え、食事と薬(胃ろう)、 オムツの交換などの日常生活に必要な全盤的なこと |
コミュニケーション サポート(仕事補助) | パソコンと口のスイッチの調整、本や郵便物などの代読、印刷とスキャンなどの仕事補助、 文字盤を介したコミュニケーションのサポート |
見守り | 見守り 重度訪問介護でのみ可能となる介助 |
余暇活動 | 音楽会、映画、親睦会の同行 |
散歩·買い物 | 散歩、宝くじを買いに行く |
旅行 | 学会参加などを含めた外出・外泊 |
講義や学会などの参加 | 難病コミュニケーション支援及び医療的ケアなどに関する講義での代読 国内外の学会への参加におけるサポートと発表と発言の代読 |
患者会の活動など | ALS協会の活動の参加の同行とサポート ALSおよび難病に関する相談(ピアサポート)におけるコミュニケーションサポート |
ALSの人たちの地域生活や人工呼吸器の装着の可能性は、家族の存在の有無によって影響を受ける。実際に多くのALSの人たちが、家族に頼ることができないから、迷惑をかけたくないから、家族の介護負担を慮って人工呼吸器をつけないという選択をしている。家族がいないALSの人たちは、地域ではなく病院や施設での生活を余儀なくされていることも事実である。
他方で、日本の介護保障制度は、障害者が家族に頼ることなく、介助者を使って施設ではなく地域で暮らす自立生活運動によって全国的な展開を実現してきた。その背景には、介護を担うべき存在としてあたりまえに家族を位置づけている社会がある。自立生活運動は、家族の愛情や家族という存在を切り離すことで地域生活を実現してきた。ただそれは、単に家族を否定してきたわけではない。
増田さんの生活からは、パーソナルアシスタント――増田さんの「専属のヘルパー」がいることで、家族との生活や関係が維持できていることがわかる。ALSになったからといって、本人や家族にとってその存在や意味合いが変わるわけではない。むしろ、社会が家族を介護者として位置づけているからこそ、地域生活や人工呼吸器の装着の可能性が狭められてしまう。だからこそ、本人は家族の介護負担を慮って人工呼吸器の装着や地域生活を諦めてしまう。パーソナルアシスタントや介助者の存在は、その生活の主体が本人であることを明確に示し、それによって本人も様々な活動が可能になる。そうすることで、家族との生活や関係が維持できている。増田さんの生活からは、パーソナルアシスタントや介助者の存在によって、本人が家族の負担になる存在ではなくなることが示された。