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「知的障害者の自立生活と母親の語り」

田中 恵美子(東京家政大学) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200917


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード

障害児の母親、支援者としての役割、託す、分かち合う

■報告要旨

【はじめに】

従来、自立生活運動の中で親は敵とみなされることがあった。それは自立生活の実践が重度の身体障害を有する全身性障害者によって行われてきたことに由来する。彼らは成長とともに自らの決定によって生活をやりくりすることを希望するようになるが、親はその際、彼らの決定を邪魔する存在にもなりうるからだ。
 一方知的障害者の場合はどうか。発語がなく、意思がはっきりしない場合、あるいは意思ははっきりしているが表出が難しい、表出の読み取りが困難といった様々な理由から、彼らの意思を代弁する機能を親が担っていることが多い。親との衝突はあるが、そこから自立生活に向かう契機を本人がつかみ取ることは難しい。したがって自立生活という、子が親と生活を分ける状況を作り出すには、親の方にその意志がなければ成立しない。
 知的障害者の自立生活についての先行研究には、寺本らによる研究がある(寺本他 2008, 2015)。この中で親の立場での論に岡部耕典氏による「第4章 ハコに入れずに嫁に出す、ことについて―<支援者としての親>論」(寺本他 2008:145-160)及び「第3章 亮佑の自立と自律」(寺本ら 2015:65-87)がある。これらを参考としつつ、本稿では母親の語りに注目したい。なぜなら、子育ては母親の役割とされ、特に障害のある子どもたちの介護は、子育ての延長線上に位置づけられてきたからである。
 厚生労働省の調査によれば、65歳以下の在宅の知的障害者の92パーセントが親と暮らしている(厚生労働省 2018)。しかし親との生活はいずれ終了する。施設入所も困難な現在、どのような障害があろうと、地域で暮らしていく、それもただ単に地域にいるだけでなく、そこに生きていく場を確保して一人の人間として生きていくことが求められている。多岐にわたる課題検討が必要だが、本研究はその一端を担うものである。現段階では粗削りで試行的な発表であることをご了承いただきたい。


【調査】

調査は2018年から2020年の間に行われた。対象は50代前半から70代の5名の母親であった。それぞれの子どもは男性4名(A,B,C,D)、女性1名(E)で、年齢は10代から40代(インタビュー当時)であった。このうち、子どもが親と離れた生活を開始していたのは3名で、10代の1名と20代の1名は親と同居中であった。インタビューは半構造化面接を実施し、出生時からこれまでの子どもの成長と障害の経験について語ってもらった。1名は途中に配偶者が、他の1名は支援者が同席する場面もあった。インタビュー時間はおおむね3時間強で、長い場合は6時間強に及んだ。インタビューはICレコーダーにて記録し、逐語録に起こした。インタビュー調査については、東京家政大学倫理委員会の承認を得た。


【結果】

<誕生〜幼少期>

☆障害の確定

誕生の時、1名は口唇口蓋裂の手術のため、出産後から入退院を繰り返した。1名は出産時から黄疸がひどく、光線療法を受け、1か月入院した。1名は三つ子の一人として早産で生まれた。
 知的障害が確定したのはそれぞれ2歳以降で、喃語が出ない、なかなか立ち上がるようにならない、といった発達上の遅れがあり、医療機関や保健センターでの検診等で障害が確定した。ただし、1名は口唇口蓋裂の手術を受けるため訪れた専門病院で、医師が顔を見るなり、知的障害があるといった例もあった。知的障害の程度は最重度から重度、そのほか身体障害者手帳も保持している例が1名あった。
 2名は障害が確定するまで、様々な医療機関を訪れたが、1名は古い家のしきたりの中で、自分の孫に障害などないといわれ、嫁の立場から自由に病院に行くこともできなかった。1名は病院通いで抵抗力の弱くなった子どもが風邪をひきやすくなり、病院で抗生物質を処方され、腹を下す、中耳炎になるという悪循環を繰り返していた。その時医師から「耳が聞こえているかどうか確認できないならもういいんじゃない」といわれ、病院通いを止めた。1名は診断の前に自分で調べて自閉症であることを薄々わかりながらも否定していた。しかし、医療機関で診断が下り、パニックになった。障害がわかる前までは「跡取り息子」、「自分の息子にそっくりだ」と喜んでいた夫の両親が、障害が確定した後に「今までこんな子は見たことがないと思っていた」といわれ、さらにショックを受けた。自分の親からは聞きたくないと拒否された。

☆家族

祖父母との同居が1例、二世帯住居が1例、1例はマンションの別の階に夫の両親が暮らしていた。すべての家庭が二人または三人きょうだいであった。きょうだいの中に障害のある場合が3例あった。夫の両親と同居していた例は子どもの障害がわかると子どもを連れて家を出た。その際夫も共に出た。二世帯住居に暮らしていた例は、多動のため外出が難しく、実家は近所の目があるので障害のある子どもを連れて帰ってくるなと言われたため、息抜きのために郊外に別荘を借りて週末は常に出るようにした。マンションの別の階に親がいた例は、実家に帰ると育て方が悪いと叱責されたりしたため、ほとんど帰らなくなった。
 1名は夫との価値観の違いから、障害のある子どもを含めて3人の子どもを抱え離婚し、シングルマザーとなった。三つ子であった例は、第2子が出産後死亡し、その後妹が生まれて3人きょうだいになった。

☆社会活動・仕事+療育機関

子どもの出産とともに仕事を辞めたのは、4名で1名は結婚時に夫の家に入った。シングルマザーの例は、働かなくてはならなかったが、仕事を探すが子どもを預けないとならず、保育園は仕事が決まってからしか受け入れてくれないという悪循環のなかで、故郷に戻り、親にも手伝ってもらいながら、仕事を見つけ保育園に子どもを預け、生活がようやく回りだした。
 1名は社会参加・自己実現のために働きたかったが、夫の仕事の関係で自分が子育てを引き受けざるを得なかった。子育ては楽しかったが、社会との接点がなくなることに焦燥感があった。子どもが3歳の時に仲間と互いに子どもを預かる場を作った。その後1週間に1度の非常勤の仕事を始め、その際は民間のホームヘルプサービスを自費で頼んだ。短期入所や入所施設などで支援を頼んだが、母親が就労したいという理由では「こんな小さい子を置いて」と否定されることが多かった。
 1名は専門職を辞めて専業主婦になり、療育機関で知り合った母親たちと知り合い仲間をつくった。療育施設では、「他と比べなくていい、お母さんは一人じゃないから」と支えられた。きょうだいが不登校になったときは、きょうだいのほうにかかりきりになって構わないからと障害のある子どもの面倒は全面的にみてくれた。
 1名は療育機関で「いやな訓練をいっぱいさせられた」ため、一般の幼稚園を探し、入った。

<就学期>

☆学校

普通学校に入学したのは、2名。1名は普通学校入学のために学区変更を目的に引っ越した。しかし、養護学校義務化の年に3年生から養護学校へ転校した。1名は保育園からのつながりを大事にするか、子どもの発達のために特別支援学校に行くべきだという周囲の声や受け入れる学校の否定的な態度の中で進学先を悩んだところ、子どもの姉に「〇〇ちゃんは〇〇ちゃんのなりたい人になるんだよ。先生が教えてくれるような人になるわけじゃないだよ」と教えられ、普通学校へ進学した。言葉がはっきり徐々に厳しくなる時間制限についていくことが難しいと判断し、小学校6年生から特別支援学校へ移った。
 1名は就学前に幼稚園に入ることを希望し、試行期間で子どもが周囲になじめない状況を目の当たりにして自分の価値観を押し付けていたことを後悔し、学校は特別支援学校に最初から入れた。他2名は最初から子どもの状況を鑑み、特別支援学校だと決めていた。
 4名は高等部まで特別支援学校で教育を受け、1名は不登校の後、中学卒業とともに福祉的就労についた。子どもが3人いた例は、1名が普通学校、1名が特別支援学級、1名が特別支援学校と分かれたため、行事等大変だったが、出世を度外視した夫が毎晩早く帰宅してくれ、週末も子ども最優先で動いてくれたので何とか日々の暮らしを回すことができた。

☆社会活動・仕事+家族

1名は子どもが小学校のころから将来を見据えて作業所の活動や親の会の活動にも積極的に参加した。しかし、どれもが知的障害本人のための活動になっているのかという疑問があった。学生ボランティアをいれて一緒に食事をするといった活動を個人的に始めた。夫は快く思っていなかったが、きょうだいは協力してくれた。その中で身体障害者の自立生活運動の活動家に出会い、関わるようになった。しかしその中でも知的障害は常に後回しにされていることに憤りを感じた。
 1名は仲間と興した活動を広げ、法人格を取って仕事として確立していった。障害の有無に関係のない様々な人が関わる居場所としての場を確立していくことを目指し、障害福祉の枠組を利用しながら文化活動をメインに活動を広げた。一方で、多動で言葉のない子どもは、制度の変更で有償ヘルパーから公的ヘルパーになったが支給時間も派遣時間も限られ、どうしても増やしてもらえなかった。依然として母親が、そのサポートとして父親が関わる形であった。父親は夕方から夜寝るまでの時間、子どもと毎日のようにドライブをした。施設入所を検討した時期もあったが、母親は積極的になれなかった。施設からも本人の状況で施設に入ると本人の個性が否定されてしまうといわれ、入所には至らなかった。
 1名は子どもの不登校を原因として徐々にママ友との距離ができ、親子が孤立した状態となっていった。自傷行為も激しくなり、パニックを受け止めながら、どのようにしたら本人が落ち着くのか試行錯誤した。父親は仕事が忙しかったため、全面的に母親が介護を担っていた。

<青年期>

☆自立生活前

1名は海外の自立生活運動を学ぶ研修に参加した。母親は娘の介助者という位置づけであった。自立生活運動のリーダーたちに学び、日本に帰国後母親は地域の議員となり3期12年務めた。その間に公立作業所を作り日中活動を安定的な場として確立させ、現地で学んだグループホームの仕組みを日本でも実施するよう、奮闘し、設立し、グループホームでの生活を始めた。
 1名はきょうだいの受験時に初めて5泊6日の短期入所を経験し、その後ガイドヘルプを利用するようになった。その後認知症になった祖父母を引き取って同居が始まった。祖父母は、以前は障害を受け入れていなかったが、当時の近隣への手前連れてきてほしくなかっただけであり、居住地を移すと障害のある子どもも含めて孫をかわいがってくれて、相互の関係はよかった。しかし、認知症に加え祖母にがんが見つかり、通院が始まると介護の両立が大変になった。
 1名は特別支援学校高等部からすぐに就職することに疑問を感じ、知的障害でも高等教育を受けさせたいと、専攻科を探し、入学のため引っ越した。専修科が終了し、地域の生活介護事業所に通いながら、毎日入浴支援のホームヘルパーを入れている。本人はこれまでに短期間入所施設を経験しており、その時の経験がトラウマになっていて、グループホームも含めて建物に入ろうとしない。移動支援や見守りのための支援が必要だが、支給時間も少なく、事業所も少ない。知的障害者の自立生活を取り上げた映画や支援者の声明文プロジェクトの存在を知り、地域で暮らし続ける方法を知り、市の福祉課に相談したが「重度訪問に該当しない」と言い渡され、この市での自立生活を諦め引っ越すことを考えている。
 1名は不登校となり引きこもっていたところ、学校の紹介で放課後等デイサービスに徐々に行くようになった。2年は母親が同行し、3年目は一人で行った。その後、中学卒業と同時に同じ事業所の福祉的就労で働くことになったが、しばらくして事業所の事情もあり、辞めることになった。再度の引きこもりが始まり、パニックを起こすようになった。母親は行動を分析して本人の不快を招くことを確定し、対処法を教え、徐々に本人が対応方法を獲得していった。そのころ新しい事業所を紹介してもらい、日中活動も落ち着きだした。試行錯誤の間に、知的障害者の自立生活について、具体的にイベントを通して知るようになった。さらに映画の上映もあり、現実味を帯びてきた。今は入浴介助のホームヘルパーを入れるようになり、少しずつ今後について考え始めている。

☆自立生活開始時

1名はガイドヘルパー付きで外出時に事故に遭い、入院した際、泊りの付き添いが必要となり、本来は親でなくてはならなかったが、支援者も交代で入った。その際に母親が今後への不安を吐露した際、支援者から自立生活の可能性を示唆され、それから1年ほど緊急一時保護の施設をヘルパーと泊まる経験を1週間に1度ぐらいのペースで続けた。その間に事業所が物件を探し、シェアハウスとして障害のない人とスペースを分けながらの生活を開始した。
 1名は父親が体調不良となり、家を出て不在となったため、母親だけでは介護が担いきれないため、支給時間を増やしてもらい、新しい事業所を探して派遣時間も増やした。その後助成金を得て、物件を探し、日中活動の場とシェアハウス・ゲストハウスの併設された建物を建築し、シェアハウスに試験的に生活をするようになった。

<壮年期>

☆自立生活開始時

1名はグループホームで子どもがいじめにあい、実家に戻ってきた。常日頃から身体障害の自立生活のような生活が知的の人たちにもできないものかと思っていた。市民活動の中でたまたま支援者と出会い、交流が深まった。母親と子どもが常に一緒にいると衝突してしまうので、親族の空き家に、月1,2回泊まる会をしばらく行った。その後、その場でヘルパーとの自立生活を始めたが、家になじむことができず、実家から徒歩10分程度の住宅に転居した。


【考察】

☆障害児家族の孤独・母親の孤立

出産後母親は自分の親や配偶者の親から障害のある子どもを受け入れてもらえない経験をしており、そのために家を出た例もあった。このような経験は、児玉2020でも指摘されているが、ほとんどの障害のある子どもの家庭で起きていることだ。
 さらに他のきょうだいにも障害のある場合、より一層支援の手が必要であったことも想像できるが、祖父母からのそれが期待できない場合、子育てに対する公的支援が基本的に不十分な現在の日本の状況において、母親たちは一手に介護を担っていた。すべての母親が一旦は専業主婦になったのは、そのような育児+介護を受け止めた結果であるといえよう。
こうして社会とのつながりが希薄となり、障害のある母親は孤立していく。
 一方で、障害のある子どもの抱えるという同じ境遇であることで、療育機関等で出会った母親同士が協力し合い、支え合う活動が起こった。専門職に心理的にも支えられ、子どもの障害を受け止め、理解する機会を得た母親もいた。だが、働くという理由で子どもを預けたり、ホームヘルパーを頼むのは難しく、特に子どもが小さいと顕著だった。専門職からは母親の役割を強調され、傷ついた人もいた。子どもを通してつながった人たちとは子どもの関係が薄れると同時に関係が希薄になっていった。
 父親は子育てに協力する例もあったが、あくまでもサポートであり、主は母親だった。心理的サポートが得られたり、介護労働力の一部を担う例もあったが、その両方ともが得られず、母親が孤立する例もあった。

☆自立生活の始まりの時期

自立生活を開始している3例は、青年期に2例と壮年期に1例、親元を離れる生活を開始している。岡部2008では、高校卒業をめどに自立生活の開始を目標としており、2015では実際に高校卒業後3か月でアパートを借りて生活を開始している。一方、本研究の事例の場合、自立生活へ移行はそのような計画的なものではなく、グループホームでのいじめや本人の怪我、父親の病気など、偶然起きた出来事に対処する方法の一つとして試行されたものであった。きっかけは上記のような偶然の出来事ではあるが、青年期に自立生活をスタートした2例は男性で、壮年期は女性であった。例が少ないため断定はできないが、やはり本人の体格、体力、運動量などが増加する青年期の男性が、母親が中心の介護体制ではなかなか抑えきれないところもあっただろう。

☆自立生活の始まりと支援者の役割

岡部2008は子どもが地域で暮らし続けるための支援者との関係を、「ハコに入れずに嫁に出す」と表現した。ここには本人の意を尊重しつつも、より根本的なところではその生活のやりくり、そしてその人自身を支援者に「託す」ことが示されている。児玉2020では、様々な細かな場面で、母親が障害のある子のことは「自分でなければ」と思ってしまうことを示している。どんなに大変な介護を経験していたとしても、そしてそれを誰かに「託したい」と常に思っていたとしても、実際に手放すと寂しくなることも、そして自分ではない誰かに「託した」ことによいのかと思ってしまう罪悪感も語られている。児玉の論は施設への入所を経験した親の語りである。
 自立生活へ移行した3例は、先述のように、グループホームでのいじめや本人の怪我、父親の病気など、必ずしも計画的に自立生活の開始が訪れたのではないことを示している。しかし、いずれのケースも試行錯誤の中で親との距離感を図りつつ、生活の場を形成している。全面的に支援者に障害者の生活やその人自身を託すのではなく、親が親の役割を変更しつつ、支援者とそれらを分かち合いながら生活を作り出している。支援者としての役割を託すこと、分かち合うことができる支援者との出会いは、偶然でもある。1例は身体障害者の自立生活を深く知っていたが、それを知的障害者に実現してくれる支援者が身近になかなか現れなかった。たまたま参加した市民活動の中で支援者とであり、その人がかなり以前に付き合いのあった団体の職員であることがわかり、交流を深めていった。1例は、以前から支援を通して関係性が出来ていたが、自立生活については知らず、その開始は支援者に委ねられたものとなった。1例は以前から行っている自らの社会活動の人間関係に決定を委ねつつ親子の距離を模索している。
 自立生活を開始していない2例のうち、1例はホームヘルパーの利用を増やしながら今後について前向きに検討している。1例も同様だが、支給量と派遣時間、どちらも制限が厳しく、今後についての検討が難しくなっている。支援者としての役割を一部託し、納得できる形で分かち合うことのできる支援者との出会いが必要である。


【謝辞】

本調査にご協力いただいた調査対象者の方々、すべての関係者に深謝する。なお、本研究は公益財団法人日本社会福祉弘済会2019年度助成金及び東京家政大学女性未来研究所研究費によって実施された。研究への理解と支援に感謝したい。

【文献】




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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。


◆2020/09/06 高雅郁

田中さん、
知的障害者の自立生活に重要な役割とも担う母親の語りをご報告してくださって、ありがとうございます。
自立した3人の事例から、自立した前後の親子関係・家族関係の変化がわかったら、ご教示いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

◆2020/09/09 田中恵美子

 ご質問ありがとうございます。
 3名の方のうち、1名の方は調査時期が自立生活開始から1か月後の方でした。この方はその後、介助体制が安定しなかったことが影響したのか、熱が高い状態が続いたりしたため、いったん自宅に戻られました。現在、短期的に親と離れる生活を実験中とのことです。
 2名の方は1名がインタビュー当時で9年、1名は4年経過していたため、それぞれが親から離れた生活を確立していました。9年目の方は本人の生活が落ち着くには5年はかかったとのこと。自宅にいたときは、「毎日お母さんと顔つきあわせてるとけんかもする」状況でしたが、5,6年ぐらいからは実家に帰ってきても、自分の部屋に戻ると言い出すようになったとのことでした。今は、週末は実家に遊びに来て、月に1回ぐらいは泊まる日もあるとのこと。
 もう1名は最初のころは支給量のこともあり、週末は実家に帰っていたこともありましたが、今はほとんど帰ってこないそうです。徒歩10分程度のところでもあるので、散歩の途中でいきなり寄って、自分の必要なおもちゃを持って帰ったり、インタビュー当時本人が住んでいた建物の一階にイベントスペースがあったため、家族がそこに行って本人に会う、ということはあったようです。お母様は本人が一人暮らしを始めてからガイドヘルパー、社会福祉士を取得され、インタビュー時は洋裁も始めたいとおっしゃっていました。
 こんな形でよろしいでしょうか。

◆2020/09/16 糟谷佐紀

 神戸学院大学の糟谷佐紀と申します。
 貴重な報告を読ませていただき、大変勉強になりました。知的障害者の自立生活には支援と住居の双方が重要な因子でありながら、どちらも親への依存を前提としてきた日本の状況があります。支援と住居をどのように分解し、組み合わせていくのか、今後の自立生活のあり方を検討する上で重要な示唆を得ることができました。
 1点、公的統計の数値について、確認させていただきます。
 「はじめに」の最後の段落に「厚生労働省の調査によれば、65歳以下の在宅の知的障害者の92パーセントが親と暮らしている(厚生労働省 2018)」とあります。しかし、生活のしづらさ等に関する調査(平成28年度)では、65歳未満の全体を、@同居者有81.0%、Aひとり暮らし3.0%、B不詳16.0%とし、さらに、同居者有の内訳を複数回答で提示しています。ですので、示されている「親と暮らしている」92.0%は、同居者有の内の割合であり、65歳未満全体でみると、「親と暮らしている」割合は74.5%となります。ご確認いただければと存じます。
 よろしくお願いいたします。

◆2020/09/16 田中恵美子

 ご教示いただき、ありがとうございます。
 訂正したいと思います。

◆2020/09/17 高雅郁

 田中さん、ご回答、ありがとうございました。
 知的障害者の自立生活と家族(親子)関係の多様な実態により立体的なイメージを感じられました。
 高雅郁 拝


*頁作成:安田 智博
UP: 20200824 REV:20200906, 09, 16
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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