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「支援費上限問題から障害者自立支援法制定過程と自立生活運動」

白杉 眞(立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫性博士課程) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200827


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード

自立生活運動,財源不足,介護保険制度

■本文

【目的】

1990年代後半以降,国家財政および地方自治財政の悪化を背景とし,当時の小渕内閣によって社会福祉基礎構造改革が推し進められ,障害者施策も措置から契約へと転換する.現在,「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)」を根拠法として障害福祉サービスが提供されているが,この現行法の基になっているのが障害者自立支援法である.しかし,決して多くの障害者や関係者による合意のもとで制定された法律ではなく,財源問題の中で国の意図に押し切られるかたちで制定された.そこには障害者団体間での意見対立や当時の政治情勢が関係している.
 障害者自立支援法制定過程でDPI日本会議や全国自立生活センター協議会といった自立生活運動は反対の立場をとった.連日のようにデモや集会,議員へのロビーイングなどの抗議行動を行ったが,とくに地方の団体は東京までの交通費が大きな負担となり,すぐに集まれる状況ではなかったのではないだろうか.そこで,団体に所属していないと見えない事情や当時の様子を探る


【先行研究】

障害者自立支援法制定過程で何があったのか記述している文献はいくつもある.

いずれも制定に至る過程で団体としての動きが書かれてある.しかし,各障害者団体がどのような経緯でそれぞれの立場をとり,それぞれが事情や難しさを抱えながら参加したところまでは触れられていない.


【研究方法】

組織の立場を知る材料として,厚生労働省社会保障審議会障害者部会に提出された資料や衆議院厚生労働委員会議事録から拾い上げた.また,DPI日本会議副議長である尾上浩二氏にインタビューを行った.エピソードや感じたことを引き出すために思い出しながら自由に語ってもらうことが最適と考え,非構造化インタビューで行った.当時,自立生活運動では尾上浩二氏が中心となって厚生労働省との交渉を行っており,社会保障審議会への出席,衆議院厚生労働委員会に参考人として招致されている.こうした点から自立生活運動を代表しており,インタビュー対象として最も適任であると考えた.
 また,発表者自身も奈良の自立生活センターに所属し,奈良の各団体と協力し活動を行うと同時に,集会への参加などで何度も東京に出向いた.こうした渦中にいたことから,発表者自身が見聞きし,感じたことを述べる.


【支援費上限問題闘争】

●ホームヘルプサービス利用上限設定

社会福祉基礎構造改革において中心的な議論
・措置制度の見直し
・市場原理の導入
1997年:児童福祉法改正により措置から契約へ
介護保険法の成立→高齢者分野でも措置から契約へ
障害者施策は・・・
2001年3月:支援費制度担当課長会議において支援費制度の事務大要を発表
支援費制度の事務大要→障害者の自己決定を尊重し,利用者本位のサービスの提供を基本として,事業者との対等な関係に基づき,障害者自らがサービスを選択し,契約によりサービスを利用する仕組みとしたところである.(2003年1月:支援費制度Q&A集を出した)
2002年9月:厚生労働省との交渉で,障害者の介護は一律に時間が決まるわけではなく,一人ひとりの実情に合わせて決めることや,個別のニーズに応じた支給決定することを確認していた.
2002年10月:DPI世界会議札幌大会でのプレイベントとして,それまでの全身性障害者介護人派遣事業はどうなるか,日常生活支援は障害者固有のサービスであるといった内容の講演を行った.
2003年1月5日:厚生労働省は支援費制度ホームヘルプサービス利用の国庫補助基準を決めようとしていることが分かる.国庫補助金の配分のためホームヘルプサービス利用時間の基準を設定するもので,24時間の介助を必要とする重度障害者は,日常生活そのものが成り立たなくなくなることを意味した.従来,障害者団体と事前のやり取りの上で通知文等を出すといった流れがあった.それが自立生活運動側にしてみると,手のひらを返したような話で,最初は信じられないことであった.
2003年1月6,7日:厚生労働省交渉が行われたが,話は平行線のままそこからおよそ25日間,厚生労働省前での座り込みの状況になった.
(呼びかけ)DPI日本会議,日本障害者協議会,全日本手をつなぐ育成会,日本身体障害者団体連合会
(事務局)全国自立生活センター協議会
真冬の気温の中を昼夜問わず,抗議行動が行われた.
2003年1月16日:緊急集会(厚生労働省1階ロビーには100名を越える障害者や支援者であふれ,集会参加者は1200名と,大規模な緊急集会となった.同時に緊急の話し合いとして再度交渉が行われた.

厚生労働省担当者の姿勢は,障害者団体とうまく話をまとめようというよりは,だって金がないんだから,仕方のないものは仕方ないじゃないかと,徹底して開き直りだったかな(尾上浩二談)

また,インターネットを活用して障害者自らが怒りの情報を発信し,全国から20を越える自治体からも緊急要望が届けられた.障害者団体の働きかけで,自民,民主,社民,共産各党の国会議員も動き,マスコミはこれを社会問題として報道した.
2003年1月27日:厚生労働省は,ホームヘルプサービスの国庫補助基準は,個々人の利用量の上限を定めるものではない.現在提供されているサービス水準が確保されること,検討会をできるだけ早い時期に設置すると,主管課長会議資料での通知案を示し,障害者団体4団体はこれに合意した
2003年1月28日:日比谷公園で緊急行動の成果報告集会が行われた.
午前10時30分から行われた報告集会は500名を超え,各団体の代表者たちの発言は拍手に包まれた.午後は厚生労働省講堂で行われた主管課長会議を傍聴した.こうしておよそ25日間に及んだ支援費上限問題は収束した.

●相談支援事業の一般財源化

支援費上限問題闘争では,市町村障害者地域生活支援事業や地域療育等支援事業といった相談支援事業の一般財源化に対する抗議も障害者団体は主張していた.
 地方財政の悪化が進む中で,財政再建,地域経済の活発化には地方分権による自立が必要との観点から地方行財政改革に関する議論がなされていた.地方分権推進法や地方分権一括法の施行などを契機に地方分権が進んでいったものの,国から地方への財源委譲については議論が平行線のままで停滞していた.こうした状況の中で,小泉純一郎首相(当時)は,地方交付税制度の見直し,国庫支出金の削減・廃止,財源委譲を三位一体で進める三位一体改革を打ち出し,地方行財政改革への強い意欲を示していた.
 こうした国の動きの煽りを受け,市町村障害者地域生活支援事業や地域療育等支援事業といった相談支援事業の一般財源化が持ち上がった.
 2002年8月末に出された次年度概算要求と比べると,2002年12月下旬に出てきた次年度予算案では,市町村障害者生活支援事業,障害児(者)地域療育等支援事業,精神社会適応訓練等事業,精神医療適正化対策費補助金を地方交付税措置として1,000百万円→3,492百万円と,次年度予算が前年度予算よりは増えているとは言え,在宅系サービスの予算が削られていた.とくに市町村障害者生活支援事業は,自立生活センターをモデルにして創設され,厚生労働省も相談事業事業の充実を掲げていた.
 ところが,相談支援事業の一般財源化の話が出たことで,これまで言ってきたことと実際にやってることが違うとざわつき始める.1995年の障害者プランで盛り込まれ,1996年に国の目玉政策として創設された市町村障害者地域生活支援事業と障害児(者)地域療育等支援事業であったが,一般財源化されれば財政基盤の弱い市町村においては運用が難しく,事業を行わない市町村が出るなど,相談支援事業の後退が危惧された.
 2002年12月26日付「平成15年度予算案における『市町村障害者生活支援事業』及び『障害児(者)地域療育等支援事業』について」事務連絡において,一般財源化する旨を通達し,2003年の事務連絡「生活等支援事業の一般財源化について」で,一般財源化の趣旨を「支援費制度への移行後において,広域行政を担当する都道府県の適切な関与の下で,どの市町村等においても整備されるべき一般的な機能であると考えられることから,平成15年度予算(案)において,個々の都道府県・市町村の創意工夫を通じ,地域の実情に応じてより弾力的に事業展開できるよう,財政的には地方交付税で措置することとし,市町村障害者生活支援事業については市町村分に,障害児(者)地域療育等支援事業については都道府県分に,それぞれ措置することとしたものである」と説明されている.一方で「改めて申すまでもなく,一般財源化の意味は,事業を廃止することではなく,むしろ,地方交付税措置を通じ,地方公共団体の自主性を尊重しつつ事業を推進することである.障害者の地域生活支援に当たり,身近な相談支援体制を構築することは極めて重要な課題であり,国としても今後とも専門的な研修・技術支援等積極的な支援に努めていくこととしているので,各自治体においては,この趣旨を踏まえ,事業の更なる推進に努められたい」と明記されている.2003年1月21日,全国厚生労働関係部局長会議でも同様の説明がされている.
 こうして,ホームヘルプサービス利用上限設定と同時に,相談支援事業の一般財源化の撤廃を求めて抗議行動が起こる.前述のように2003年1月27日,厚生労働省は,ホームヘルプサービス利用上限設定について文書で,
@ホームヘルプサービスの国庫補助基準は,個々人の利用量の上限を定めるものではない.
A現在提供されているサービス水準が確保されること.
B検討会をできるだけ早い時期に設置する.
 以上の見解を出し,障害者4団体は基本的に合意し,翌日の担当課長会議において冒頭,上田茂障害保健福祉部長(当時)は,この間の出来事について,十分な意思疎通を図れず配慮が足りなかった旨,ホームヘルプサービスは,全国どこでも一定の水準のサービスの提供をバランスのとれたものにしたい旨,国庫補助基準は,市町村に対する補助金の交付基準であって,個々人の支給量の上限を定めるものではない旨を強調した.同時に市町村障害者生活支援事業と障害児(者)地域療育等支援事業を含む一般財源化については,芽出しとして見直すものの,引き続き事業の実施が確保されるよう通達し,一定の暫定措置が示された.
 支援費上限問題闘争では,相談支援事業の一般財源化についてホームヘルプサービス利用上限設定問題と並んで要望していた.しかし,ホームヘルプサービス利用上限設定問題は、明日から介助が得られえずに生活できなくなるという,個々人にとって切迫感があったために,ホームヘルプサービス利用上限設定問題が前面に出て,相談支援事業一般財源化は影に隠れるかたちとなった.

●支援費制度財源不足と介護保険統合への潮流

こうして始まった支援費制度だが,当初の厚生労働省の見込みを大幅に超えた利用が,とくに知的障害者のガイドヘルプで利用があったといわれている.それまでとくに知的障害者のガイドヘルプを含むホームヘルプサービスはない地域が圧倒的に多かったが,支援費制度によって,ガイドヘルプを含むホームヘルプサービスが全国化した.また,支援費制度では公費で賄われる.措置制度下では,世帯単位で利用者負担が発生していたが,支援費制度では,本人と扶養義務者のみ判断対象となったことで,多くの人の負担額は減った.また,ホームヘルプサービスでも利用者負担額に上限が設定され,長時間利用があっても負担額は減少した.地域生活をする上で必要なサービスを利用できるという点において前進したと言えよう. ところが,初年度半ばに財政不足となり,初年度の2003年度にはおよそ120億円,2004年度にはおよそ250億円もの財政不足となった.
 厚生労働省では2003年5月26日から2004年7月6日までの合計19回にわたり,「障害者(児)の地域生活支援の在り方検討会(以下,『在り方検討会』と表記)」が開催された,その内容は,例えば,スウェーデンにおけるパーソナルアシスタンスサービス(Personal Assistance Service)の歴史と現状など,障害者福祉の理念や先進諸国の事例などであった.
 尾上浩二氏は,2004年の春までの国の動きについて「ああ,日本でもやっとこれで何て言うの,パーソナルアシスタンス的なものにちょっと目がいくかな,みたいな期待も含めてあった」と語っており,今後の制度設計に期待感が広がっていた時期もあった.
 その後,最終取りまとめ「障害者(児)の地域生活支援の在り方に関する議論の整理」が出された.そこには,地域生活を支える体系の在り方といった方向性の部分では「障害のある人もない人も,地域で共に暮らし,共に働く社会を目指すべき」などといった言葉が使われている.他方,パーソナルアシスタンスサービスやそれに近しい,先進諸国の事例を参考にするような制度設計は明記されていない.むしろケアマネジメントの重要性などが上げられている.在り方検討会を傍聴していた尾上浩二氏は,当時をふり返り,


厚労省はたぶんね,この2003年から4年の在り方検討会での議論を見て,これだと障害者施策と介護保険をまとめるというか,ここでやってる限りは,自分たちがやろうと思ってることはできないなと思ったんだと思うのね.最初は結構すごくいろんな講師を呼んだりとか,いい議論をしてたと僕は思うんだけど,最後取りまとめが夏ぐらいだったかな.2004年の春ぐらいにはもう何て言うの,こう,おざなりなというかね,まとめ方みたいなのになってね.

と語っている.このように,各障害者団体は,当初の期待はあったものの,2004年になると次第にトーンダウンしている.その理由に議論の内容も一つとして考えられるが,2004年1月に2005年の介護保険法の改正を踏まえて,各部局をまたぐ横断的な組織として,介護制度改革本部が立ち上がったことがある.検討項目には、介護保険と障害保健福祉施策の関係も上がっており,これに対して在り方検討会構成メンバーの障害者主要8団体(日本身体障害者団体連合会,日本障害者協議会,DPI日本会議,日本盲人会連合,全日本聾唖連盟,全国脊髄損傷者連合会,全日本手をつなぐ育成会,全国精神障害者家族会連合会)で,塩田幸雄障害保健福祉部長(当時)に介護制度改革本部の設置についての説明を要望し,2004年1月16日の第1回説明会では,塩田幸雄障害保健福祉部長(当時)より「介護制度改革本部では,障害者の問題については幹事会を作って検討する.厚労省としては幹事会で議論して,6月ごろに方向性を決める.介護保険の改革案は9月に発表し,様々な意見を聞いて,来年の通常国会に法案を出すことになっている」と説明があった.
 このように幹事会を設置したことにより,介護保険制度と障害者施策の関係性について議論が加速する.以降,2004年3月まで合計11回にわたり,厚生労働省障害保健福祉部とのやり取りがなされている.
 あと1点は,社会保障審議会障害者部会において,抜本的な見直しを視野に入れた検討が進められてきた.在り方検討会とは異なる委員のもとで議論されていることである.2004年4月14日の第8回社会保障審議会障害者部会議事録には,事務局提出資料として配布された前回までの議事概要の中に「すでに条件が整えば介護保険と統合する」と発言している.つまり,介護保険統合論は在り方検討会の最終取りまとめを待たず,もっと早い時期から議論されていたことになる.
 2004年6月25日の第14回社会保障審議会障害者部会では,部会長提案として介護保険統合は積極的選択肢のひとつという見解を社会保障審議会介護保険部会に提案している.2004年7月13日の第15回社会保障審議会障害者部会では,一部修正をした修正案を「中間的な取りまとめ(案)」として再提案している.第14回以前の社会保障審議会障害者部会において,介護保険と障害者施策の関係を「介護保険もサービス体系のあり方などについて議論がなされており,それは地域生活重視の障害者福祉の流れとも一致する部分が多い」としている.その上で「支援費制度等の現行制度の当面の改善を図りつつも,国民の共同連帯の考え方に基づいており,また,給付と負担のルールが明確である介護保険制度の仕組 みを活用することは,現実的な選択肢の一つとして広く国民の間で議論されるべき」であるとした.ただし「介護保険の仕組みを活用することについては,障害特性に配慮した仕組みとなるのか,関係者から課題や懸念が示されており,これらについては,十分検討しその内容を明らかにするとともに適切に対応することが必要」であるとし,統合を視野に入れて推し進める内容であった.


【介護保険との統合問題闘争】

2004年1月から急遽,障害者主要8団体で3月ぐらいまで週1回の頻度で介護保険の学習会を行った.介護保険の立場と,障害者施策の立場それぞれ講師を呼び,まずはそれぞれの制度の現状を確認するために2004年4月ぐらいまで行われた.2004年4月30日には,介護保険と障害者施策について考える集会を8団体共催で行っている.
 ところが,その春頃から,例えば全日本手をつなぐ育成会は,介護保険の活用も視野に入れてといった趣旨のことを表明するようになり,8団体の間でそれぞれの立場が異なってくる.2004年6月18日の第13回社会保障審議会障害者部会において各障害者団体の意見書が提出されている.

(全日本手をつなぐ育成会)

急速に増大するサ−ビスの需要に対応し,安定した財源を保障するためには,介護保険制度との統合は<必然>であると考えます.その意味で,『障害者部会』での『報告』には基本的に賛同いたします.それは,現行のサ−ビス水準の確保が前提です.介護保険制度との統合により,財源不足の解消という点と同時に,障害者の問題がさらに社会化され,共生社会の実現への一歩にもなります.また,保険方式への移行でサ−ビスの自主性が高まり,小規模作業所問題の解決やグル−プホ−ム等の地域生活支援システムの充実が一段と期待できます.

(日本身体障害者団体連合会)

現在,支援費制度の介護保険制度への統合問題が論議されているが,障害者を取り巻く現状を考えた場合,地域生活支援を進める観点からは,障害者福祉サービスの提供について,平成16年6月4日に社会保障審議会・障害者部会の3臨時委員名で提示された『障害者福祉を確実・安定的に支えていくために 〜支援費制度と介護保険制度をめぐる論点の整理と対応の方向性(以下『中間報告原案』という)』にある,介護保険制度を活用する新しい障害者施策体系の案は,現実的な選択肢のひとつであるとも考えられる.

(全国精神障害者家族会連合会)

国家財政の逼迫を背景に,障害者福祉施策と介護保険制度の統合という課題が提示され検討を重ねてきたところであるが,安定的な財源確保という極めて現実的なことから検討するならば,介護保険制度との統合は一つの選択肢として,前向きに考える必要がある.

(全国脊髄損傷者連合会)

支援費と介護保険整合性については,厚労省より介護保険と統合された場合の具体的な内容を盛り込んだ案の提示がない限り,全脊連としての判断材料がない.従って,現行の支援費制度(制度発足後1年)をより発展させることこそが重要である.

(全日本聾唖連盟)

介護保険制度でも支援費制度でも,対象となるろう者の利用は,一般の場合と比べて著しく低いのではないかと思います.利用しないのではなく,利用できないのです.この点の解決が先決問題であり,前提問題であると考えます.

(DPI日本会議)

地域のサービス利用当事者,行政の現場窓口職員,サービス提供者は介護保険の現場のサービスのあり方から考えて,介護保険に障害者が入ることが良い福祉サービスを提供することになるとはまったく思っていない.このすべての人々を説得する材料がこの障害者部会の一人一人にあるのだろうか.それが可能でない限り,介護保険統合賛成を安易に唱えるべきではない.

(日本障害者協議会)

今回の場合は,制度の統合というよりも,支援費制度の介護保険制度への吸収という色彩が強い.(中略)今回の『障害者福祉を確実・安定的に支えていくために』は,障害者の自立を支援する真の改革からはほど遠く,財源論的な観点からの表層的な提言と言わざるを得ない.場当り的な政策変更ではなく,時間をかけながら関係団体との合意を図りつつ,しっかりとした理念とデータに基づいた真の改革を強く望みたい.

それぞれが立場を明確にするなか,DPI日本会議,全国自立生活センター協議会,ピープルファーストジャパン,全国障害者介護保障協議会,全国公的介護保障要求者組合,全国ピアサポートネットワークの共同呼びかけで,2004年6月に介護保険統合反対の集会を行った.この集会で結成された団体が,「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動実行委員会(以下,『全国大行動実行委員会』と表記)」という.このことで,障害者団体の中で意見対立するかたちになった.
 この全国大行動実行委員会は,賛同団体を集めるかたちで,最初の集計(2004年9月22日)で全国475団体,最終的には500を超える団体や事業者が賛同した.
 当時,厚生労働省では,介護保険統合と,三位一体改革に伴う在宅サービスの一般財源化が議論されていた.尾上浩二氏は,厚生労働省障害保健福祉課との当時のやり取りを次のように語っている.

厚労省はこういう脅し方をその当時していました.『介護保険と統合しなければ,もうそれこそ一般財源化する』と.障害者の施策っていうのは,もう国ではやり続けれなくなると.まあ言うなら『介護保険統合反対するんだったら,もう地方へ障害者施策を売り渡してやるぞみたいなね.(中略)どちらを選ばれるんですか?』みたいな.『このまま介護保険統合しなければ,一般財源になりますよ?』みたいなね.

入所施設だけ残り,在宅サービスは一般財源化になる可能性が本当にあったかどうかは分からないが,支援費制度下において24時間介護が出てる自治体と,そうでない自治体があったりと,非常にばらつきがみられ,そこを統一させたいという厚生労働省のねらいはあっただろう.
 全国大行動実行委員会は,介護保険との統合と一般財源化に反対であるとし,国としての障害者施策の道筋を示すよう求めた.2004年の6月9日の集会では,およそ1300人が集まり,介護保険統合も一般財源化も反対をスローガンに掲げて行った.
 当時,集会やデモの様子は,参加者同士で名刺交換したり,神輿に見立てた土台に車椅子を乗せ,担いで行進したり,また別のグループは車椅子に風船を付けて目立つように装飾したりと,思い思いのアピールをしていた.2004年9月の東京であった全国大行動は大型台風が直撃し,大雨の中をデモ行進し,全身ずぶぬれになり,車椅子が火花を吹いて故障した人もいた.
 また,各地で集会やデモ行進が行われ,例えば関西では2004年10月には大阪市でも扇町公園から難波までの約4kmをデモ行進した.快晴で季節外れの暑い日であったが,参加者の雰囲気には危機感があった.
 その後,障害者団体だけでなく,介護保険対象年齢の引き下げということで,日本経済団体連合会の反対を受け,介護保険統合は見送りとなるが,2004年10月,「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」が出される,ここで示された方向性で,とくに注目したい点は,現行の制度的課題を解決するという部分である.


【障害者自立支援法をめぐる闘争】

この「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」が出てからは、2週間おきの頻度で勉強会を行い,リーダーたちは各地で開催される勉強会に講師として飛び回っていた.また、社会保障審議会障害者部会が月2回開催されるたびに厚生労働省前で反対集会を行っていた.この「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」は,障害者自立支援法(案)というかたちで法文化され,2005年2月,閣議決定された.
 障害者自立支援法は多くの問題点が指摘されていた.その一つであった応益負担の導入について尾辻秀久厚生労働大臣(当時)は,閣議後記者会見で「私どもは『その他の制度との整合性』とでも言いますか,もっと言いますと『将来の介護保険の普遍化』ということなども考えますと,どうしても建前として一割負担は言わざるを得ない.ただ建前として一割負担を言うけれども,障害者の皆さんのことを考えると実質一割負担というのが厳しい方も非常に多いわけでありまして,実質のところではうんと既に配慮しておる.」と説明している.
 2005年5月17日には,障害者主要8団体が衆議院厚生労働委員会に参考人として召集された.そこでの発言内容は次の通りである.

(日本身体障害者団体連合会・森祐司事務局長(当時))

これまでに日身連として訴えてまいりました障害者施策の目指すべき将来方向や,(中略)制度改正に関する日身連の基本的な立場と大筋において一致しているものであり,本案について基本的には賛成するものである.

(日本盲人会連合会・笹川吉彦会長(当時))

もしこの法律が成立をしなければ,再びあの不安な支援費制度が継続される,これは私どもとしてはかないません.したがって,この法律をぜひ今国会で成立をさせていただきたい,それはやまやまですけれども,このままでは到底,我々障害者の将来を希望を持って見出すことはできません.そういう意味で,いろいろと修正をしていただいて,本当に障害者がそれぞれの地域で安心して生活ができる,国際障害者年の基本理念であります社会への完全参加が実現できるような,そうした内容のものにしていただきたいと思います.

(全日本手をつなぐ育成会・松友了常務理事(当時)

障害福祉制度の持続を確実なものにするために,障害者自立支援法の今国会での成立を強く望みます.幾多の課題と限界を抱えた法案ではありますが,支援費制度が破綻を来した現在,サービスの断絶と停滞を許すわけにはいきません.その意味で,この法案は,修正が加えられたとしても,確実に可決いただきたいと思うのであります.

(全国精神障害者家族会連合会・小松正恭理事長(当時))

今度の法案におきましては,三障害の壁を取り払って一元化を図る,それから福祉予算の義務的経費化,また,現状のままで将来の精神障害者のサービスの需要増にどう対応できるんだろうかというふうなこともございます.そういう観点,及び,将来的には,年齢や障害のあるなしにかかわらず,普遍的な介護サービスがみんなが受けられるような,そういう制度化も視野に入れながら,この自立支援法案につきましては,私どもとしては,非常に期待が大きく,また大枠的には評価するものでございます.

(全国頸髄損傷者連合会・大濱眞副理事長(当時))

基本的には,これらの重要な具体的な項目,問題点が不明なままでこの法案が審議ということになると,本当に多くの障害者が不安を抱いたまま今日に至っているという状況をきちんと把握していただきたい.現実問題として,財源不足という現実が,この法案が現在行われている支援費制度より後退するのではないかという疑念を多くの障害者が抱くことは,これは当然の帰結であろうと私たちは考えています.(中略)この法案の審議過程でできるだけ具体的に踏み込んだ形で審議していただいて,障害当事者の不安を払拭するべく努力を尽くしていただきたい.十分な審議を尽くしていただきたい.

(DPI日本会議・尾上浩二事務局長(当時))

この自立支援法,やはり私たち抜きに私たちのことを決めないでほしい.これがまず第一点でございます.きょうもたくさんの障害を持つ仲間がこの傍聴席に詰めかけています.この法律がこのままいってしまえば,本当に重度の障害者の地域生活はどうなるんだろう,そういう不安でみんな集まってきているわけですね.(中略)この法案上程後もますます波紋が広がっているということが,いかに拙速につくられ,問題が多い法律であるかということを物語っているのではないでしょうか.

(全日本聾唖連盟・安藤豊吾理事長(当時))

昨年の春から障害者福祉法が,介護保険との統合とか,また十月には改革のグランドデザインとか,そしてこの二月には自立支援法が出されるというような,非常に短期間で大きな改革が提案され,タイムリミットがあるということ,私たちには受け入れられないというような問題があります.そのような改革には,まず障害者や家族の皆さんとの合意が必要ではないかということです.

(日本障害者協議会・藤井克徳常務理事(当時))

今般の障害者自立支援法案,私たちは大きな期待を持って見守ってまいりました.どんよりとした暗雲が垂れ込めている中で,ようやく薄日が差し込んできたな,そういう印象を持ちました.しかし,この法案の実相を見るにつれ,言いようのない不安感が次第に募ってまいったことも事実であります.期待感を抱きながら,今,むしろこの不安感は危機感に変化しようとしております.(中略)肝心な,重要な事項といいますよりは,決定的な事項が抜け落ちてはしないか,そういうことを言わざるを得ません.

このあと,夏には全国脊椎損傷者連合会が法案反対はしないという立場を表明する.その時代の与党を支持することで,いろいろなことを勝ち取ってきており,いつまで反対運動ばかりやっているのだという内部の突き上げもあったようである.このことで反対しない又は条件付き賛成を含む法案賛成が5団体,法案反対が3団体となり,障害者団体の中でも一部の人たちが反対していて,多くは賛成しているという道筋がついた.尾上浩二氏は,当時の状況について次のように話している.


それこそ「声の大きい身体障害者が自分たちの利益のためだけにやってるんだ」と,「この国の障害者施策の未来なんてのは何ひとつ考えてないんだ」みたいなことを,公式の記者会見ではもちろん言わないですよ.でも、厚生労働省の記者クラブの記者たちには,休憩時間とかいろんなことでそういうふうに言うわけですよ.記者会見をぼくらも何度かやったけど,もちろんぼくらの意見に耳を傾けてくれる記者もいたけれど,ある新聞記者なんか「いや尾上さんたち,ちゃんとこの法律の資料を読んだことあるんですか?」って,ものすごい馬鹿にした言われ方をされたことがあったのを覚えてるね.

障害者自立支援法に反対している障害者団体への風当たりは強く,まともに聞いてもらえない状況だったという.そのため,国会前や議員会館前での座り込みを毎日行った.国会では火曜日から金曜日でいつ審議がなされるか分からない中で,声をかけ合い,とにかく毎日行こうと座り込みを行った.2005年7月5日には,全国大行動実行委員会,日本障害者協議会,全日本聾唖連盟の3団体共同で集会と国会までのデモ行進を行い,夏日の中を1万人を超える人が参加した.また,全国大行動実行委員会としては,全国一斉ビラ配り週間を設定し,各地の自立生活センターが中心になってそれぞれの地域でビラ配りを何度も行ったり,その合間に地元選出の国会議員に会いに行き法律の問題点を説明にまわった.
 また,報道各社への働きかけにより,マスコミでも取り上げられるようになった.とくに熱心だったのがフジテレビで,閣議決定されたときに厚生労働省前で座り込んでいるのを当時のキャスターがそれを見かけて取材したのがきっかけで,その後もインタビューや集会の様子,障害者自立支援法の問題点を報道し続けた.
 その後,障害者自立支援法を取り上げるマスコミが増え,反対する障害者団体の人たちが集会やビラ配り,自立生活をしている障害者の姿がテレビや新聞で頻繁に報道されるようになる.実際に最初は街頭マイクアピールを聞かずにビラも受け取らずに素通りされることが多かったが,少しずつビラを受け取ってくれ,アピールを聞いてくれるようになるのが増えていく感触があった.
 障害者自立支援法は,2005年4月下旬に衆議院厚生労働委員会で審議入りした.当初の予定では,5月中旬には衆議院を通過し,5月下旬には参議院で審議され,6月初旬には可決と言われていた.それが多くの問題点が報道され,反対運動も起こり,当時の国会状況として野党が一致して反対する中で,国会や各地でのヒアリングや公聴会に時間がかかり,衆議院厚生労働委員会での審議は遅れていった.
 審議は2005年7月まで延び,東京都議会選挙が入ったことで,議員たちは選挙応援に出ていくため,委員会は開かれず審議はなされない状態となった.このとき3団体の間では,このまま会期末を迎え,もしかしたら廃案になるかもしれないという空気が流れた.結果的には,審議未了・継続審議というかたちで衆議院の解散総選挙へと流れていった.
 小泉純一郎首相(当時)は,この総選挙を「郵政解散」と位置付け,「郵政民営化,是か非か」を掲げて全国を遊説し,多くの自民党候補者を擁立した.多くの有権者が小泉首相の発言に注目し,小泉劇場と評された総選挙は,自民党の圧倒的多数による大勝利に終わり,多くの小泉チルドレンと呼ばれる議員を生み出した.
 2005年9月には特別国会が開会し,障害者自立支援法は,元々の内容を修正することなく国会に再提出された.開会後は国会前での座り込みは続き,議員へのロビーイングも継続していたが,大多数を得た与党は強行採決により傍聴席から怒号が飛ぶなか可決された.そして,2005年10月31日,国会議事堂を障害者3団体が取り囲むなか,参議院本会議において可決成立した.


【考察】

支援費上限問題闘争では,国庫補助金の1人当たりのホームヘルプサービス利用上限を設定に対し,その撤廃を求め,DPI日本会議,日本障害者協議会,全日本手をつなぐ育成会,日本身体障害者団体連合会の4団体が呼びかけ団体となった.ホームヘルプサービスの利用上限設定は,地域生活の根幹を揺るがすものであった.とりわけ重度障害のある人は,市町村実施の全身性障害者介護人派遣事業と,生活保護受給者は他人介護料の組み合わせで自立生活を行っていた.それだけにホームヘルプサービス利用上限設定は自立生活の継続不可能を意味していた.親の立場としても十分な介護が得られないとなると,足りない分の介護は家族が担わざるを得なくなり,家族負担の過重や本人の自己実現が不可能となるなど,制度の退行は明白だった.そういった点で問題がシンプルだったともいえる.
 その後,支援費制度は財源不足に陥り,制度の運用が行き詰まっていく中で,在り方検討会の構成メンバーであった障害者団体の間でも立場が異なり,障害者団体の中で分裂状態となる.介護保険統合問題では,4団体が統合やむなしとの立場だったが,日本経済団体連合会が反対したことは大きな影響を与えた.しかし,障害者自立支援法をめぐり障害者団体間で立場分裂したことは,結果的に障害者自立支援法の成立へと進むこととなった.
 支援費上限問題から障害者自立支援法制定に至る一連の行動で全国規模の行動は数知れない.その都度交通費がかさみ,東京での行動に毎回参加していると,たちまち経営赤字になる.発表者も所属先の代表の了承のもと,団体の代表として参加していた.頻度も重要なタイミングでの全国行動に限られた.連日の行動に参加したのは首都圏にある団体,あるいは財政規模の大きな団体が実際のところであった.参加のタイミングも代表や事務局長の考えに左右される部分も大きく,コーディネーターが代表や事務局長より力を持っている団体もあり,そういった場合などは参加もままならないことはよくある,また,そもそも障害のある職員自体の意識が希薄など,それぞれが事情を抱えていた.


(文献)




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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。

*頁作成:安田 智博
UP: 20200827 REV:
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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