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「教育現場における「障害者」との共生――インド・ケーララ州におけるスペシャル・スクールを事例に」

中江 優花(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・グローバル地域研究専攻3年生(博士一貫制) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200919


質疑応答(本頁内↓)



■発表原稿

 本発表のタイトルは、『教育現場における「障害者」との共生−インド・ケーララ州におけるスペシャル・スクールを事例に』です。
 はじめに、簡単に自己紹介をさせていただきますと、私は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科グローバル地域研究専攻3年生(博士一貫制)の中江と申します。大学時代には保健学科でリハビリテーションを学び、その後現在の大学院へ進学し、インド・ケーララ州をフィールドに、「障害者」含む多様な人々との共生社会について研究しています。障害学に関しては勉強し始めたばかりですが、もっと勉強したいと思っておりますので、皆様よりご教授いただけますと幸いです。では、本題へ移りたいと思います。
 本発表の目的は、インド・ケーララ州のスペシャル・スクールを事例に、教育現場における「障害者」との共生社会について考察することです。スペシャル・スクールは、日本語に訳すと「特別支援学校」ですが、日本で意味する特別支援学校と、その特質が異なることから、現地での呼称「スペシャル・スクール」と表記いたします。
 研究背景に移ります。国際的な議論における障害児教育は、障害の有無によって隔てる「分離教育」にはじまり、ノーマライゼーションを根拠に障害児を通常学校へ統合する「統合教育」、さらには障害児を含む全ての子どもが同じ場で学ぶことを追求する「インクルーシブ教育」へと発展してきました。
 2006年の国際連合による「障害者権利条約」で明文化されたこともあり、多くの国々でインクルーシブ教育が目指されています。インドも同条約を2007年に批准しており、国内の当事者団体の活動もあって、2016年に新たな障害者法が制定されるに至りました。また、2009年の「無償義務教育に関する子どもの権利法(RTE法)」がインド中央政府によって成立されました。これは6−14歳までの児童に無償義務教育を保障したものでしたが、成立当初、障害児の位置づけ明記されていませんでした。これに抗議する当事者の声を受け、2012年の改正時に障害児が「社会的に不利な立場にある子どもたち」の中に位置づけられました。インドにおいても、国際社会および国内の当事者運動の影響を受け、インクルーシブ教育を基本理念として政策が展開されてきました。ちなみに、この当事者運動の勃興には後にでてくる「社会モデル」が主軸となってきたと言われています。
 ですが、現在、全インドにおいて6−14歳の障害児のうち34%が通学できていない状況にあり、この課題として、(1)財源や資源不足(貧困による学習機会の剥奪など)、(2)行政の問題(法整備の問題、管轄側の連携不足)、(3)通常学校の教職員の問題(通常学校の教職員の技術不足、意識の低さ)、の三点があげられ、通常学校の教育を供給する側の脆弱性が取りざたされる傾向にあります。
 しかし、インドの障害児教育に関する議論の問題点として、そもそもインクルーシブ教育には具体的な定義がなく、その解釈や実践は千差万別であることをふまえていないこと、一部の先進国で実施されている「全ての児童は通常学校にインクルードされるべき」という規範論が先行していることがあげられます。国際社会における議論が、ローカルな教育現場での理解や実践との間に摩擦が生じることもいわれております。つまり、インクルーシブ教育の解釈、実践やその目標といったものは多種多様であり、それらがその地域固有の文脈のなかで、検討される必要があります。
 インドにおける教育機会の剥奪とは、障害の有無のみによらず、ジェンダーやカースト、宗教、貧困などあらゆる個人の属性との連関の上で生じることが指摘されています。これをふまえれば、あらゆるハンディキャップをもつ子どもが何らかの教育機関(スペシャル・スクール含む)にアクセスできること、が、インドにおける「インクルーシブ教育」と理解されるはずです。つまり、この立場を取れば、スペシャル・スクールは、インド固有の文脈では、「インクルーシブ教育」を担う教育機関と捉えられる可能性があります。
 本研究では、ケーララ州のスペシャル・スクールを事例として取り上げ、「障害者」との共生社会について考察するものであり、スペシャル・スクールにある種の「包摂」空間を見出したいと思います。その視座として、これまでの障害者研究を支えてきた「社会モデル」と「インペアメント」への再検討を促した一連の研究を参照したいと考えています。皆様のほうが詳しいと思いますので、社会モデルの説明は省略しますが、インドの障害者研究および政策動向に関しても、社会モデルは核となってきました。
 ですが、インドの「障害者」を考察する上で、社会モデルに依存することへの限界が既に指摘されています。インペアメントへの再注目を促したモリスやクロウの議論は有名かと思いますが、未だ障害学内部でこの社会モデル批判に回答されていないかと思います。星加先生の本も拝読しましたが、今の障害学のなかには、インペアメントを社会的・文脈的に位置づけようという潮流があるかと思います。その立場を参照したいと思います。加えて、インド固有の文脈をふまえると、「障害」の意味が、ジェンダーやカースト、宗教といった個人の属性によって流動的に変化することが指摘されています。例えば、「障害」を抱えた女性は、同じ「障害」をもつ男性よりも結婚しづらい、などが言われています。
 以上より、本研究では、インドのローカルな「障害者」を考察するに当たり、インペアメントを文脈的に考察すること、および、インドの多元的な個人の属性による「障害」の意味の流動性に留意することによって、スペシャル・スクールという空間にある種の「包摂性」を見出したいと思います。
 本発表での問いは、ケーララ州におけるスペシャル・スクールは、「障害者」との共生をいかにして実現しようとしているのか、です。
 調査方法は、現地で3つのスペシャル・スクールに訪問し、参与観察および聞き取り調査を行いました。調査期間は約4ヶ月弱、使用言語に英語と現地語を使用しました。
 調査地のケーララ州は、インド南西部に位置し、人口約3300万人、宗教比について、ヒンドゥー教(54.73%)、イスラーム教(26.56%)、キリスト教(18.38%)の順に多くなっています。全インドのキリスト教徒のうち30%がケーララ州におり、インドの他の州と比較し、歴史的にキリスト教の影響を強く受けた地域であり、キリスト教宣教師の活躍が一因となって、インドの中でも医療・教育水準が突出した「福祉州」として知られます。
 ケーララ州の障害者に関する指標について、障害者人口は全人口の約2%を占めており、障害者の就学率はインド平均61%に対しケーララ州は73%、障害者の識字率(70%)も同様にインド平均(67%)より良好な数値を示しています。
 今回、時間の都合上、スペシャル・スクールの起源や変遷について、詳細は説明できないのですが、ケーララ州周辺地域には1885年にキリスト教宣教師によってスペシャル・スクールが導入され、1980年以降増加しました。2016年時点では約400校あり、他州よりスペシャル・スクールが普及した地域です。大多数が民間団体によって運営されています。障害児の不就学率に関しても、インド平均が53%に対し、ケーララ州は27%と、比較的障害児が就学しやすい地域だといえます。運営者側の話に依れば、ケーララ州では障害を持つ子どもは前世での行いによる恥だとする風潮により家に隠されていたため、そうした子どものためにスペシャル・スクールが始まったそうです。
 現地調査では、3つの学校に訪問しましたが、ここでは1校(K・スペシャル・スクール)にしぼって、紹介したいと思います。この学校は、2001年、K島の村落部に設立された島で唯一のスペシャル・スクールです。運営しているシスターの話によると、この島でも、障害をもつ子どもを家に隠す傾向が根強くあり、こうした子どもたちのために設立されたそうです。34人のスタッフによって運営されており、州政府による財政支援および、運営する慈善団体への寄付によって資金が賄われています。3階建ての大きな校舎、広いグラウンドが特徴的です。
 では、この学校にどんな生徒たちがいるのか紹介していきます。学校側は、「受け入れに際し、年齢、ジェンダー、宗教、「障害」の種別、カーストといった制限はない。」としております。
「図1:男女別・年齢別の図表」画像
図1.男女別・年齢別の図表

 これは、男女別・年齢別の図表ですが、年齢層は4−59歳と幅広く在籍しています。男女比は、男性103人、女性66人おり、女子生徒の人数が極端に少ないです。この点に関しては、最後に説明します。

表1.障害の種別
精神発達障害 脳性麻痺 自閉症 ダウン症 重複障害 身体障害 「健常」
Pre - Primary Class 5 1
Primary Class 6 1(HI/MR)
Secondary Class 25 1(BI/MR)
Pre-Vovational Class 28 2 1 1 1
Vocational Class 86 3 1(HI/MR) 1
Total 150 5 1 1 4 1 1

 こちらは障害の種別の図表です。州政府が発行する診断書に基づいており、精神発達遅滞が150人、脳性麻痺が5人、自閉症が1人、聴覚障害と視覚障害が合わせて4人、身体障害が1人、診断書をもたない生徒が1人います。例えば、日本の特別支援学校は、障害の種別が視覚障害、聴覚障害、知的障害、身体障害の4つに分類されて運営されており、いろんな障害をもつ生徒が混在しているのはあまり日本では見られない光景かと思います。圧倒的に、精神発達遅滞が多いですが、おそらく、世界標準の基準を用いると、自閉症やダウン症といった他の診断がつくのではないか、といった生徒が多数存在しており、こうした生徒が精神発達遅滞にまとめられています。おおざっぱにみてきましたが、受け入れに制限がないことから多種多様な生徒が混在していると言えると思います。
 つづいて、この学校の取り組みについて見ていきたいと思います。この学校は通学制ですが、なかには非常に貧しくて、毎日学校に通学する交通費を支払えないような貧困家庭も存在します。このような家庭に対し学校は、座位姿勢保持椅子の無償提供など在宅サービスを行っています。このように学校が地域に出向く時もあります。つまり、学校および教職員の認識として、学校内にいる人だけが生徒というわけではなく、学校外にいる地域に暮らす障害者も生徒として認識しており、スペシャル・スクールという空間が伸縮自在であることがうかがえます。
 授業場面に移りたいと思います。この学校にはあらゆる障害を抱えた生徒たちが在籍していますが、こうした生徒たちの多様性に対し、教職員はどのように対応をしているのでしょうか。これは先生によると、紙コップ積み上げ訓練で、紙コップの数に比例し、集中力を要する時間が長くなると言う集中力向上訓練だそうです。まず、一人目に対し、「紙コップでタワーを作るよう」指示をし、この生徒は、クラスで一番多くの紙コップを積み上げます。時間の関係上、映像を全てお見せすることはできませんが、続いて、2人目の男子生徒には英単語を教え、つづいて3人目の女子生徒の元へ行き、その生徒に対しては紙コップの数を数えるように指示をし、彼女が数が分からなくなると、先生は「今は、3,4,5」というように口頭で介助します。4人目の生徒には、紙コップのタワーを作るように指示をしますが、その数は1人目と比較し少なくなります。というように、先生は、生徒の能力に応じて、授業をするのか、紙コップの訓練をするのか、を選択しており、訓練をするにしてもその介助量、課題の難易度を変化させています。このように個別に対応することで、生徒の多様性に対処しています。日本でいわれているユニバーサルデザインなどのように集団を統制する授業形態とは少し異なる性質をもっているかと思います。
 次の事例はボールボーイの事例です。彼は、精神発達遅滞の診断書をもつ6歳の男子生徒です。話すことができないという言語発達の遅延、および常時ボールを持って遊んでいるというボールへのこだわりから、単なる精神発達遅滞ではなく、自閉症ではないか、と世界標準の診断基準DSM-5を元に報告者は見ていました。特別ニーズ教育の文脈では、診断に基づく障害に特化した環境整備、および訓練の提供を行うことで、質の高い教育・訓練の提供を目指しますが、この学校の先生や生徒の視点は異なります。
 そもそもボールボーイが「自閉症か、否か」といった説明はなされず、教職員は「あの子はボールが好きだからね」と言って笑い、授業中もボールを追いかけている彼について特に咎めることはしません。また、周囲の生徒は、投げられたボールを投げ返し、時には、青年たちが沢山集まってきて、ラグビーのような新たなボール遊びが展開されることもあります。この時、ボールボーイは「ボール」を介して周囲の人々と関わっており、周囲の人々も、彼にとって「ボール」は「言語」の代替手段として自然に認識されています。障害や診断の同定にこだわらないこの自然な認識によって、彼を取り巻くディスアビリティが解決されているとうかがえます。一方、いつもこのようにはいきません。彼が他の人の物を投げようとした場合、教職員は木の棒を振りかざして厳しく叱責することから、この空間内にある規範の下、文脈に応じて、許容するのか、躾をするのか、を判断し、それによってボールボーイは規範を学んでいます。
 つまり、彼の「物を投げてしまう」という側面に対し、ボールなら「会話」の手段、「他の人の物」なら躾の対象として捉えられる、そうした両極性を持つことから、周囲の人々および教職員は、彼のインペアメント全てを否定しているわけではありません。この「インペアメント」を個人の差異の一つとして自然に受け入れられているような空間が面白いと感じました。
 また、この学校は、階段や教室移動、食事の配膳などディスアビリティだらけです。こうしたディスアビリティは、歩くことができない生徒には大きな壁となります。シャヒードもそのうちの一人です。彼は、診断書は精神発達遅滞なのですが、両足が不自由で一人で歩くことができず、教室移動では一人教室に取り残されてしまいます。では、どうしているかというと、クラスメイトのヴィシュクがやってきて肩を貸し、シャヒードも当然のように肩を借りて、教室移動しています。というように、生徒同士が助け合う場面も見られます。このように、生徒同士の相互行為を通じ、互いの能力を補完し合って、それぞれを取り巻くディスアビリティを乗り越え、過ごしています。
 この学校には両足が不自由で、車椅子でしか移動できない女性の先生が勤務しています。主に生徒会長のロバートが先生の車椅子を押すなど移動を手伝っています。というように、時には障害を持つ生徒が主体となって、他の生徒、あるいは教職員を手伝う場面もあります。
 小活です。受け入れに制限のないこの学校には、いろんな人がいます。それぞれ抱えているインペアメントは異なれば、直面するディスアビリティも異なります。こうしたディスアビリティに対し、生徒同士の相互行為や互いの能力を補完し合うことによって、乗り越えようとしています。また、このような多様な人々がもつ能力も多様であり、教職員は、特にこの空間内の人々を統制しようとはせず、個別に対応することで多様性に対処しています。
 結論にうつります。国際的な障害児教育の議論において、特別支援学校というものは、障害者とそうでない人を分け隔てる「分離」の象徴であり、「全ての子どもは地域の通常学校へインクルードされるべき」とする立場からは「遅れたもの」とされます。一方、ケーララ州のスペシャル・スクールとは、障害を持つ子どもは前世での行いによる恥だとする風潮により家に隠されていたという歴史的背景がありますが、こうした子どもたちを「家」から「学校」という一つ大きな社会へと連れ出したという役割を持っています。そして、受け入れに制限がなく、だれでも通学できる、あるいは通学できない場合は学校とつながりがもてるように取り組んでいることから、スペシャル・スクールの門戸は広く開かれており、ケーララ州の文脈における「インクルーシブ教育」を目指したものと言えると思います。
 そこでの取り組みとして、受け入れに制限がないことから、多種多様な人々が混在しています。こうした人々の多様性に対してユニバーサルデザインや「社会モデル」といわれるような画一的な環境整備に基づく教育・訓練・規律の提供は困難を極めます。では、どうしているのかといいますと、多様なインペアメント(身体的・機能的欠陥)に対し、文脈に即した教職員による個別の対応、および生徒の自発的な相互行為に重きをおくことで、ディスアビリティ(社会的障壁)を乗り越えていることがうかがえます。このインペアメントへの自然な対応が成立している空間が面白いと思ったのですが、この学校でみられるインペアメントへの対処から、従来の障害者研究で指摘されてきたインペアメントへの再検討、およびインペアメントを社会的・文脈的に位置づける手がかりを提示できるのではないかと考えています。
 しかし、このように「障害者」を包摂しようと取り組んでいるスペシャル・スクールにも限界はあります。訪問した3つのスペシャル・スクールにおいて、女子生徒の人数が極端に少なかったのですが、これは、インドにおいて「障害」をもつ女性は男性よりも排他的に扱われる傾向にあることが影響しているのではないかと考えられます。しかし、スペシャル・スクールでは、特にジェンダーに特化した取り組みは行っていません。
 今後の展望としては、これまでの調査では、学校内を中心に見てきたので、各家庭や地域に足を伸ばし、学校外の社会への広がりや、学校を出た後の社会でどのようにこの学校で培ったものが活かされていくのか、など調査の範囲を広げていきたいと考えています。
 また、私個人の今後の課題としては、今後は日本の現場を中心にみていきたいと思っておりますので、日本についてもっと調べて、日本の現場に足を踏み入れられたら良いなぁと思っております。したがって、今後、どのように日本で調査を進めていくのが良いのか等、ご教授頂けますと幸いです。
 ご清聴ありがとうございました。



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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。

◆2020/08/22 20:34 栗川治 osamu.kurikawaあっとnifty.com

 立命館大学大学院先端総合学術研究科3回生の栗川治です。
 中江優花さんの報告について質問、要望します。

 口頭発表を想定しての原稿と思われますが、以下のような表現がありました。おそらくパワーポイント等で図を提示している想定であろうと推測します。

 調査地のケーララ州は、インド南西部に位置し、人口約3300万人、宗教比はこの通りです。
 ケーララ州の障害者に関する指標はこの通りです。
 障害の種別はこの通りです。
 参考文献はこの通りです。

 視角障害のある者にとって、このような「ご覧の通り」的な表現は情報アクセスにおける障壁を感じさせます。今回のような発表形式の場合、視覚情報を得られる人にとっても、図が提示されていないのであれば、内容がわからないと思います。図そのものがhpに提示されているのであれば、一般の口頭発表と同様に、視覚障害者への合理的配慮に欠けていることになります。表現の追加など、改善をお願いします。

→◆2020/08/24 栗川様のご指摘をうけて、修正した原稿に差し替えました。

◆2020/09/14 宮崎康支様からの質問

 関西学院大学の宮崎康支と申します。
 貴重なご報告をありがとうございます。たいへん勉強になりました。いろいろと思うところがあったのですが、さしあたり2点質問させていただきます。
 1)ケーララ州はキリスト教の影響がある程度及んでいる地域のようですが、「ケーララ州では障害を持つ子どもは前世での行いによる恥だとする風潮により家に隠されていた」とも報告で記されています。この「風潮」は、特定の宗教の影響によるものでしょうか。
 2)日本の特別支援学校と比して際立っているスペシャル・スクールの特徴の一つは、民間主体で運営されているところが多い、ということだと理解しました。これが果たして望ましい在り方なのか、あるいは政府(連邦政府か州政府か、それとも基礎自治体か、という問題もありますが)が責任をもって資金と制度を整備したほうがよいのか…。現地の実態を見てこられた中江さんのご見解をお伺いしたいと思いました。
 以上の質問につき、可能な範囲でお答えいただければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。


◆2020/09/19 中江優花様からの回答

質問:1)ケーララ州はキリスト教の影響がある程度及んでいる地域のようですが、「ケーララ州では障害を持つ子どもは前世での行いによる恥だとする風潮により家に隠されていた」とも報告で記されています。この「風潮」は、特定の宗教の影響によるものでしょうか。

→ご質問、誠にありがとうございます。この部分に関しては、混乱を招くことを危惧し、あえて明記を避けていた部分でした。このような「風潮」は南アジア地域に根ざした観念であり、「カルマ(業):前世/過去での行いが現世/現在に影響する。輪廻に基づく。」が影響していると考えられます。インドに限らず、南アジア地域で広くみられる考え方です。
 この「カルマ(業)」はポジティブに働くこともあり、例えば、病気になった患者さんに対し、「こんだけ良くなったのはカルマだ(これまで頑張ったからだ)」というようなやりとりがあったりするようです。一方、「障害」をもって生まれた子どもに対しては、「前世で銀を盗んだからだ」など「前世で行った仕業への罰」として「障害」をもって生まれたと捉えられることがあります。さらに、家族にとってもネガティブな表象となるため、「障害」をもって生まれた子どもを家においていた(支援の現場に連れて行きにくかった)という話を聞いています。

質問:2)日本の特別支援学校と比して際立っているスペシャル・スクールの特徴の一つは、民間主体で運営されているところが多い、ということだと理解しました。これが果たして望ましい在り方なのか、あるいは政府(連邦政府か州政府か、それとも基礎自治体か、という問題もありますが)が責任をもって資金と制度を整備したほうがよいのか…。

→この点についても、ご質問いただきありがとうございます。確かにこの点についても、議論の余地がある部分かと思います。
 今までの先行研究で、長年にわたりインド中央政府の障害者政策の脆弱性は指摘されてきました。その都度、国際社会の潮流(「国際障害者年」や「サラマンカ宣言」、「障害者権利条約」等)の影響を受け、法整備に取り組んできたにもかかわらず、障害者の咲くなくとも34%は就学できていない現状です。現地調査では、「ケーララ州政府の財政支援は不十分だ」という声を多数聞いております。
 つまり、「政府が責任を持って整備をする」ことを求めるにも限界があるのだと思います。政府が空けた穴を埋めようという役割を担ってきたのが民間団体なのだと思います。これが望ましい状態かどうか、という質問に私が答えるべきではないかと思いますが、少なくとも、現時点で、障害者の一番身近な支援者として寄り添っている存在として民間団体は重要だと考えております。
 あまり直接的な回答にならず申し訳ございません。確かに「なぜ、これほどまでに民間団体の力に依っているのか」という点は今後の調査の視点にしたいと思います。ありがとうございました。



*頁作成:安田 智博
UP: 20200822  REV: 20200823, 0824, 0919(岩ア 弘泰
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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