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「もうひとつの「ケア付き住宅」建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の足跡」

増田 洋介(立命館大学大学院/東京通信大学) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200901


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード

障害者運動、ケア付き住宅、生きる場、埼玉県川口市

■本文

1.はじめに

1970年代から80年代にかけて、身体障害者の「ケア付き住宅」建設運動が、全国各地で一定の広がりをみせた。この取り組みについては、『自立生活への道』(仲村・板山編 1984)や『続・自立生活への道』(三ツ木編 1988)で、多くのページを割いてとりあげられている。1987年には、全国的な催しとして「『ケア付住宅』研究集会」が開かれ、各地からの報告と討論が行われた。この集会の基調報告(萩田 1988)では、ケア付き住宅建設運動のおおまかな経緯が説明されている。
 まず東京都で、東京青い芝の会を中心とする要求を受けて、1976年から「ケア付住宅検討会」が開かれ、1978年に報告書が出された後、1981年に「八王子自立ホーム」が開設された。横浜市では1983年に「グループホーム研究委員会」が設置され、翌1984年に「ふれあい生活の家」が開設された。神奈川県では1984年に「ケア付住宅基本問題検討委員会」が発足し、1986年に平塚市、藤沢市、相模原市にケア付き住宅が開設された。また北海道では、1978年に札幌いちご会が運動を開始し、1986年に「北海道営重度身体障害者ケア付住宅」が開設された。仙台市では、国の「身体障害者福祉ホーム」制度1)にもとづくかたちで、1987年に「ありのまま舎」が開設された。
 一方で、1970年代半ば、これらとはやや様相の異なるケア付き住宅建設運動があった。それは、埼玉県川口市で展開された「川口に障害者の生きる場をつくる会(以下、生きる場をつくる会)」2)の運動である。この会は、ほかのケア付き住宅建設運動と同様、重度障害者も制約のない生活ができるよう、充分な介護者がついた小規模な住宅を市街地につくってほしいと、行政に対して要求した。しかし、生きる場をつくる会の運動は、研究会のような場での穏健な話し合いではなく、行政闘争のかたちで行われたものであった。雑誌や新聞、書籍で多くとりあげられ、全国的にも無名な運動ではなかったが、『自立生活への道』や『続・自立生活への道』が刊行されたころには、およそケア付き住宅とはよべないものがつくられてしまったとして、「失敗」に終わった運動ということにされていた。
 本報告ではまず第2節で、運動の推移を追っていく。そして第3節で、なぜ生きる場をつくる会の運動が「失敗」とされたのかについて考察する。


2.運動の推移

2.1 八木下の在宅訪問と小学校就学運動

生きる場をつくる会は、脳性マヒ者の八木下浩一を代表として、1974年5月に結成された。八木下は学齢期、障害を理由として入学を拒否されていたが、いつかは学校に行きたいと考え続け、1970年に28歳で学区内の小学校に入学した。八木下がおこしたこの運動は、障害児・者の普通学級就学運動の先駆けといわれている。のちに八木下は、関西青い芝の会連合会、関西「障害者」解放委員会とともに「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」結成の呼びかけ人になり、養護学校義務化が施行された1979年には、代表幹事として阻止闘争の最前線に立った3)
 生きる場をつくる会の運動のもとをたどれば、1960年代半ばまでさかのぼる。埼玉県川口市で生まれ育った八木下は、「川口市には重度の寝たきり障害者が何人いて、どういう生活をおくっているのかを知りたい」との思いから、在宅障害者の家を訪ね歩くようになった(八木下 1980: 157)。訪問しても家族から拒否されて本人に会えなかったり、ときには塩をかけられて追い返されることもあったが、八木下はこの在宅訪問を通じて、のちに会の運動に大きくかかわることになる雨宮正和、山崎広光と出会った。
 雨宮は、ほとんど外に出られず、家のなかで毎日を過ごしていた。15歳から19歳まで療護施設に入所した経験があり、家よりも施設にいるほうが友達と話せたりして楽しいと思ったものの、時間や規則に常に縛られる日々が苦痛だと感じた。また、施設内の学校で文字を覚えることはできたが、社会のことについては何も教えてくれなかったという不満もあった。こうした体験から雨宮は、自分のような重度障害者は家や施設のなかに追いやられ、社会から分断されていると感じており、そうではなく表に出ていきたいと思っていた(雨宮 1975; 八木下 1980: 158)。
 山崎は、施設入所の経験はなかった。おもに母親に面倒をみてもらっていたが、その母親は「体力の限界」「心の休まることがない」という状態であった。山崎は母親から、ゆくゆくは兄が代わりに面倒をみると言われていた。しかし、兄には兄の家庭生活があるにもかかわらず、面倒をみられることになったら、ずっと気兼ねしながら日々を送り続けることになるので嫌だと思っていた。そのような状況になる前に家を出たいと思っており、「ぜいたくはいわない。三度の食事と排せつが自由にできればいい」と考えていた(山崎 1975; 川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 12, 18)。
 そのかたわら、八木下は自らの思いを果たすべく、1969年11月から「埼玉県身障者問題をすすめる会(以下、すすめる会)」の支援を受けながら、小学校就学運動を行った(八木下 1972a: 13)4)。すすめる会は、県南地域に療護施設をつくることを目的として、1967年に結成された団体であった5)
 すすめる会は当時、脳性マヒ者の沼尻ふさ江が代表を務めていた。沼尻は、国立身体障害センターに入所していた1955年に、足の手術を受けた。手術を行ったのは、センターに勤務していた整形外科医の和田博夫であった(沼尻 1992)。和田は、身体障害者の機能改善医療を専門にしており、手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として、障害者から「神様」と崇められる存在であった。センターの方針転換にともない、和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省内で座り込みが行われるなど、激しい抗議活動が展開されたほどである。和田は、自分のシンパであった障害者とともに「根っこの会」6)を組織しており、沼尻もその会員であった。また、沼尻が住む浦和市(現・さいたま市)内で和田が経営していた「浦和整形外科診療所」が、根っこの会の本拠地になっていた(二日市 1979: 80)7)
 八木下は1970年4月に、小学5年生として入学を果たした8)。しかしこれは、八木下が知らないままに「小学校生活を経験させる」との目的で、聴講生扱いとして編入させられたものであった。教材が配られず、手を挙げても教師から指されず、通知表も渡されなかった。また、ほかの生徒よりも文字を読んだり書いたりするのが遅いこともあり、なかなか授業についていくのが難しかった(北村 1972)。
 3学期に入り、学籍がないことを学校から正式に知らされ、また5年生だと難しいので3年生ぐらいのレベルから勉強し始めるのがよいのではないかという話になった。そこで八木下らは、正式な3年生として学校に入ることを求め、ふたたび教育委員会と交渉をもった。ここでも、すすめる会が主導的に支援し、学籍保障をいちばんの目的として運動が行われた(八木下 1972b: 21)。その結果、八木下は1971年4月、29歳で学籍を得て小学3年生になった。この時点で、すすめる会は目的が果たされたとして支援の手を引いた(八木下 1971a: 28)。
 八木下は一時期、小学校就学運動だけでなく、雨宮や山崎らが暮らせる場をつくることについても、すすめる会や根っこの会に支援を求めていた。その過程で、和田が八木下や沼尻とともに、土地を視察しに行ったこともあるという(和田 [1978] 1993: 300)。しかし次第に、すすめる会や根っこの会と八木下らとの間で、方向性の違いが明確になっていった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 16)。

2.2 「八木下さんを囲む会」から川口の運動へ

この時期に前後して、八木下は大学教員の西村秀夫から声をかけられた。西村は、1960年代後半の大学闘争に、東京大学教養学部の学生部教官としてかかわっていた。学生への強権的な支配を進めた教授会に対して、西村は少数の教員とともに異議を唱えた(西村 1969)。大学闘争が終息していった頃、西村は志を同じくする教員や学生とともに、市民に開かれた討論の場として連続シンポジウム「闘争と学問」を開催することを考えた。そして1969年11月に、第1回のシンポジウムが行われた(西村 1971: 1)。シンポジウムは毎回、たんに講師の話を聞くというのではなく、さまざまな現場で闘いを担っている人が報告者になり、参加者どうしで議論を重ねるかたちで行われた。
 1年ほど経て彼らは、重要な関心事として教育問題に焦点をあてるようになった。「『教育』が体制の求める人材の選別・形成の機構と化し、さらに近代的・合理的に再編される現状」において「どこに選別・差別の『教育』をこえる道を開くことができるのか」(西村 1971: 1)という問題意識のもと、連続シンポジウムは続けられた。そのなかで1971年6月、「身体障害と教育」と題するシンポジウムが開催され、八木下が報告者になった。
 このシンポジウムの終わりに、八木下は次のように提案した。

私からも一つお願いといってはおかしいけれど、私なりにみんなに聞きたいと思うのです。僕なりに討論集会をやりたいと思うのだけれど、僕は何のために訴えるかということを考える場合、はたして、どういうことで障害者問題を世の中に明らかにしていったらいいのか、ということをみんなに聞きたいのです。(連続シンポジウム実行委員会 1971: 25)

この提案を受けて1971年7月、西村やシンポジウムに参加していた学生、教師らによって「八木下さんを囲む会」ができ、月1回のペースで討論会が行われるようになった(連続シンポジウム実行委員会編 1971: 33)。西村は「これは『八木下さんを支援する会』ではない。障害者も健全者も同じ会のメンバーとして討論し、考える会であり、健全者中心の文化の中で育って来た私たちが、障害者によって目を開かれ、教えられる機会である」と考えていた(西村 1972: 37)。
 しかし八木下は、次第にこのままではよくないと思うようになる。

 私だけなんで普通の小学校に通っているのだろう。ある面では正しいことをやり、ある面じゃまちがったことをやってきたのじゃないかと思う。それは何であるか。いまいったように僕だけ学校に行っていて、本当の重度の人で、教育を必要とする人々をなんでまきこんでいけなかったのか9)。(八木下 [1971b] 1972: 31)
川口の運動と「囲む会」をどうやって結びつけていくかって、考えているわけだよ。今の「囲む会」にある面では満足なわけだよ、俺は。はっきり言って、今までは良かったわけだよ、あのくらいで。これからは、俺、違うと思うよ。まず、市民運動を川口の中でやっていかなくちゃあならないと思うわけだよ。(八木下・名取 1972: 55)

一方、山崎は1972年ごろ、和田に会うために浦和整形外科診療所を訪ねた。和田は医師業だけでなく、複数の施設経営にかかわっていた。山崎は当初、施設入所の相談をしたいと考えていただけで、診察してもらうつもりはなかった。しかし和田は、施設に入るためには手術して歩けるようになったほうがいいだろうと勧め、山崎はいつの間にか勧めに応じて手術を受けた。(山崎 1975; 和田 [1978] 1993: 308)。山崎に続けて、雨宮も和田の手術を受けることになったが、すぐには手術が始められなかった。雨宮は、自分のような重度障害者は社会の役に立たないという考え方によって後回しにされているのだと思い、疎外感を募らせていった(雨宮 1973)。
 浦和整形外科診療所は、入院病床も備えていた。山崎は、何回か手術を受けながら入院生活を送った。施設入所の経験がなかった山崎にとっては、はじめての長期間の団体生活であった。診療所のなかでも重度者であった山崎は、軽度者からつまはじきにあいながらも入院を続けた。それは、退院したら以前のように、家族に気兼ねしながら過ごす生活に戻ってしまうと思ったからであった。入院から2年近く経った1974年、いよいよ真剣に今後の人生を考えなければならなくなった山崎は、八木下に対して「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」と問い詰めた(山崎 1975)。

2.3 生きる場をつくる会の結成から市との交渉へ

山崎の訴えをきっかけにして1974年4月、生きる場をつくる会が結成された。会の結成にあたって、まず趣意書が作られた。八木下、山崎に加えて西村秀夫の3人で喫茶店に行き、山崎が言うことを西村が聞き書きし、手術直後で診療所から出られなかった雨宮にそれを読み聞かせ、意見を加えて趣意書がまとめられた(西村 1975: 6)10)。趣意書の題名は「わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと」であった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 40)。生きる場をつくる会は、1974年5月にこの趣意書を川口市に提出し、交渉を開始した。
 9月に行われた3回目の交渉で、会はさらに市に対して陳情書を提出した。その内容は「@定員10名入れる場所(建坪90坪)、A土地を市街に見つけて下さい、B重度者3名(山崎・雨宮・仲沢)には3名の介護者をつけて下さい(重度者1名に対して介護者1名を必要とします)、C管理職員8名(炊事、洗濯、雑務)をつけて下さい」の4項目であった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 41)。こうした要望をあげた理由については、以下のように述べられている。

「生きる場」をつくることによって、今までの数少ない人間関係をこわさず、新しい友だちをつくっていくこと、それは「生きる場」が大規模収容や、山奥の施設ではできません。小規模の集団で、人間関係がもちやすく、街の中で外出、買い物などの社会的生活がしやすく、隣り近所をはじめいろんな人と往き来できるところがいいのです。そういう日常生活の中ではじめて地域の人々も「障害者」の実情を理解していけるのだ。また、たとえ街の中に設けられたとしても外出の介護すらできないような少ない職員配置では意味がない。常時、人手を要するような「重度」の人には、一対一を原則とし、軽度、重度の区別なく、人間が制約されず、そこを基盤に生活をすることが「生きる場」なのです。
 私たちは普通の人が暮しているように、街の中であたり前の生活をしていきたい。そして「生きる場」とは、建物や、その場所を指すだけではなく、そこを基盤に、地域社会全体のなかで築き上げ、きり拓いていく、「障害者」の存在の場なのである。私たちは、単に「障害者」を収容するところを求めているのではなく、私たちの周囲をとりまく、地域社会総体が、「障害者」を受け入れ、ともに育ち、ともに生活し、人間関係をつくっていけるような社会になるまで運動を広げていきます。(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977a: 33-4)
私たちの目指す“生きる場”とは、単に、小規模な施設をさすのではなく、そこを自分自身の生活の基盤としながら、それまで人間として奪われてきたものを取りもどしてゆく場であり、自分自身の甘えやあきらめとも闘う場である。又、家族や友人と対等な人間関係を結べるための場でもあり、一般社会の偏見や押しつけと闘い、「障害者」の存在を主張してゆく拠点でもあります。さらに、そこから地域の中に出てゆき、地域の人々と接する中で、人間関係を築き、「障害者」の利用できない都市構造の問題や、教育・労働をはじめとする、社会的活動の場を切りひらいてゆくための拠点なのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 11)

交渉当初、市の回答は前向きなものであった。1回目の交渉では、民生部長が「八木下君たち3人の考えはよくわかるから、関係者と相談して、試験的にも実現してみたい」と発言した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 12)。また、9月に行われた3回目の交渉では、市長が出席して「完全に要望のとおりにいかなくても、ある程度のものは作りたい。しかし、私たちだけでは決められないから財政関係とも相談する。作ることは確かに作る」と発言した11)。そして、建設資金として1,650万円が予算計上された。
 この時点では、「生きる場」の実現に向けて順調に進むかにみえた。しかしこのあと、大きく揺り戻しがおきた。

2.4 運動の分断

市はたびたび見解をひるがえし、そのたびに生きる場をつくる会は反発した。結果として、市役所ロビーでの座り込みが4回にわたって行われた。座り込みには、会の中心であった障害者や支援者だけでなく、学生や労働組合員、他県で障害者運動を展開していた人たち、のちに県内各地で障害者と健常者が共に生きる活動をおこした人たちも参加した。一方で、生きる場をつくる会は、市民に対して「生きる場」の必要性をソフトなかたちでよびかけ、多くの人々から理解を得ようとしていった。
 1975年度に入り、民生部長が交代になると、市がなかなか交渉に応じなくなった。ようやく9月に行われた交渉の場で民生部長が、通園の授産施設を建設するという通告を行った。生きる場をつくる会は、これまでの約束を反故にされたとして、強く抗議した。市はその後も交渉にほとんど応じず、提出した質問書への回答も得られなかったことから、会は1976年1月19日から20日にかけて1回目の座り込みを決行した。これは、1933年に市制施行されて以来、初めて行われた座り込みであった。その結果、交渉の場を後日設けるとの約束を得て、座り込みは解かれた。会は市を追及し、通園施設案を撤回するとの確約書を1月末に受け取った(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977b: 148-9)。
 一方、こうした展開が繰り広げられていた最中の1975年12月、『埼玉県身障根っこの会会報』に「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」と題する和田博夫の文章が載せられた。

@「収容保護施設の設備場所は、市内の繁華街でなくてはならない」としたり、
A「日常生活動作のほとんどが、他人の介補によらなければならないような重度の障害者の収容を予定する施設を考えながら、職員と対象者の区別のない言葉どおりの共同生活の場としての施設を要求する」とか、
B「その施設はかならず公立公営でなければならない」などという激しい要求に固執しなくても、我々身障根っこの会の、
@「設備場所は市内の多少田舎でも我慢したらどうか。そこにできるだけ広い土地を用意してもらって、その収容者の数はいつまでも五人とか十人とかいわず、社会福祉事業法による福祉法人を目ざして、将来三十名ないし五十名程度になることをしのばないか」
A「そのためには公立公営一点ばりでなくて、公立民営でも民立民営でも、初めのうちは我慢できないか」
B「精神的には共同生活の場という発想は充分理解できるが、現実的には施設の中における職員とその対象者との区分の存在は、重度重症の対象者を考える限り避けられないことを理解して、職員とその対象者との新しい人間関係を創造して行くような施設を考えないか」
などという助言に耳をかしてもよかったのではないかと思われる。(和田 [1975] 1993: 252-3)

この文章を読んだ民生部長は、和田に会って相談を始めた。また和田は、診療所で入院生活を送っていた山崎と雨宮に対しても、自分たちの意見のほうが現実的だから賛成するようにと説得していった(和田 [1978] 1993: 302-5)。
 1976年2月、市は交渉の場で、新たに「専門家の和田医師とも充分協議の結果、@市立民営の収容施設。A委託先は和田博夫医師。B土地はグリーンセンター脇に150坪用意する」との案を提示した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 17)。グリーンセンターは、植物園や集会堂などを備えた広大な公園で、交通の便が悪い郊外に位置していた。また、民間への運営委託は、公的な介護保障を求める要望とも相容れるものでなく、会のメンバーは強く抗議した。
 しかし、その交渉中に突如、山崎と雨宮が「この案は検討の余地がある」として退席する事態がおきた。まったく思いもよらなかった出来事に、ほかのメンバーは唖然とし、その場は混乱した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 17)。さらに翌3月には、山崎と雨宮、和田の連名で、市の案でよいので早く開設してほしいという内容の要望書が、市に提出された。八木下はのちに、次のように記している。

 ひとつ和田氏たちがやったことを例にあげると、「生きる場」の会員でめった雨宮君の親をおどかし「生きる場」から抜けるように親から説得をさせました。雨宮君の親は雨宮君に対して、殴る蹴るやの親としての脅かしを加えました。つまり和田氏は雨宮君と山崎君を「生きる場」から抜くことによって私たちが市に作らせようとしている「しらゆりの家」を乗っ取ろうという計算だったのです。そのことは二人の障害者からずっと後になって聞きました。  最終的には二人共、和田氏の脅かしに屈して「生きる場」から抜けました。私たちは二人がやめたことはショックだったけれども団結を固めて川口市に対して私たちの要求をつきつけてきました。(八木下 1980: 165-6

会のメンバーは、山崎と雨宮を説得したが受け入れられず、2人は会から除名になった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 20-1)。この時点で運動は、あくまでも収容施設ではなく市街地であたりまえに生活する場として実現すべきとする原理派と、行政が示す案を容認する条件派の2つに、完全に分断された。

2.5 小規模療護施設「しらゆりの家」の開所

生きる場をつくる会は、山崎、雨宮らよりも自分たちが正統であるとして運動を継続することを決め、和田への委託案に反対する見解書や公開質問状を市に提出した。しかし市は、2人の障害者が賛成したことを理由にして、強行を図ろうとした。会は、「無責任な民間委託案反対!和田委託案白紙撤回!四項目を実現せよ!」と抗議し、7月1日から3日にかけて2回目の座り込みを行った。このときには、近隣の公共施設で映画上映会も開催され、200人ほどを集めた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977b: 150)。
 9月の交渉で和田委託案は撤回され、市から新たな案が提示された。その案は「@土地は柳崎地区に550坪。予算は建築費7,500万、年間運営費1,000万。A定員10名の小規模施設とする。B『障害者』の生活費、人件費として1,000万程度をつける。C公立民営方式とするが、和田博夫氏には委託しない。D今後も会とよく話し合って案を練り上げてゆく」とするものであった。提示された柳崎地区の土地は、工場と公営住宅に囲まれた区画で、グリーンセンター脇に比べれば市街地に近くなった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 24-5)。
 会は、土地については了承したが、運営形態や予算に大きな問題があるとして交渉を続けた。市から示された運営費を検証したところ、職員4名を住みこませ24時間体制で働かせることを強いる案であることが明らかになった。会の追及によって次に市から出された案は、「重度者5名・中軽度者5名の計10名に対し、7名の介護職員・施設長1名・炊事2名の計10名にする。昼間5名・夜間2名、のべ7名(公休1名を含む)の介護者を配置する」というものであった。これは、週88時間拘束、54時間勤務、週3回の夜勤で、夜勤の時間は施設内宿泊として労働時間から除外されるという、著しく労働基準法に反する案であったが、市は「労基法など守っていたら、とても施設なんか出来ない」「障害者は外出しないから、外出介護などは考えていない」と答弁し、「これが市の最終的見解」であるとして交渉を打ち切り、強行を図ってきた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 25-6; 八木下・吉野 1979: 40)。
 これに対して生きる場をつくる会は、市議会開会中の12月16日から17日にかけて3回目の座り込みに入り、議場で市長が「労基法を守る。職員を増員する」と答弁せざるをえなくなるまで追い込んだ。1977年2月の交渉では、「重度者5名、中軽度者5名の計10名に対し、直接介護職員12名、施設長1名、炊事2名の計15名、労働条件は公務員なみとし、問題があれば増員する」との回答を得た(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 26)。
 しかし翌3月になると、市はその回答も反故にし「対象は『重度者』十名、診療所方式をとる」とする案を示した。7か月で1,996万円の予算のうち、人件費に1,615万円をあて、残りの月30万円程度で入所者10人の食費、生活費、事務費、設備維持費をまかなうというものであり、算定根拠も「委託先との交渉が終了するまで秘密事項だ」として明らかにしなかった(八木下・吉野 1979: 40-1)。委託先は、和田が理事を務め、東京久留米園、和泉園、清瀬療護園などの入所施設を運営する社会福祉法人まりも会であった。市はこの案をもとに設置条例を作成し、9月議会に上程しようとした(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 28)。これを阻止するために8月24日から25日にかけて、会は4回目の座り込みを行った。結果として、民間への運営委託はついに撤回させられなかったものの、まりも会への委託案を白紙に戻すとの確約を得た(八木下・吉野 1979: 41)。
 一方で同時期、山崎、雨宮と根っこの会は、「市の案にもろ手を上げて賛成します」「生きる場をつくる会の圧力に屈せずガンバレ!」という内容のビラまきを行った。委託先が白紙に戻された直後の8月29日には、今度は彼らが座り込みを行い、まりも会委託案の復活を求めた(『読売新聞』1977.8.30朝刊,埼玉県版,20面; 川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 28)。
 10月に開所する予定にしていたものを翌年3月に延期させられ、さらに先延ばしにさせられては困ると考えた市は、まりも会以外の社会福祉法人に対して運営受託の要請を行った。しかし結局、手を挙げる法人がなかった。八木下は、次のように記している。

 市側は市長自らが私たちの行動の場に出てきて「まりも会」には委託をしないと確約をしました。「別の法人を見つける」「私たちと協議をして委託先を見つけたい」と民生部長は言っていました。しかしながら最終的には委託先は「まりも会」に決まってしまったのです。
 川口市は一九七七年八月ごろから関東近辺の福祉法人にこの「しらゆりの家」を引受けてもらたいたいという要請状を送りました。返事がきたのは十六くらいの団体で、多分よい返事は四つの団体くらいであとの団体は断わってきました。その四団体も最終的には断りました。……
 最終的には川口市は他の福祉法人に全部断わられた結果、市が直接運営するか、民間委託をするか、二つに一つしかなくなりました。結局は恥も外聞もなく委託先として「まりも会」が決まりました。(八木下 1980: 167-8)

1978年3月1日、「しらゆりの家」と名付けられた施設が開所した。当日、市長代行が参加して開所式典が行われようとしたところ、現地に50人ほどが集まって抗議活動が行われ、式典の開催が阻止された(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 2)。また半年後の10月にも、現地で抗議集会が行われた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978b)。


3.なぜ、生きる場をつくる会の運動は「失敗」とされたのか

「しらゆりの家」の開所後も、要求がすべて通るまで交渉を続けるべきとする意見があり、しばらく抗議活動は続けられた。ただ、趣意書や陳情書の内容からみれば、生きる場をつくる会の運動が獲得したものは、けっして少なくなかったともいえる。重度障害者が街のなかで暮らすことが一般的ではなく、それを実現するだけの国の制度もないなか、市独自の条例を制定させ、地元・川口市内の市街地に定員10名のものをつくらせたことは、画期的であったはずである。
 当時、大学助手として建築の研究をしながら運動に参加し、生きる場の設計図面の制作を担ったことが契機になって、のちにバリアフリー建築の第一人者になった橋儀平は、次のように述べている。

 「川口に障害者の生きる場を作る会」という名称の「生きる場」とは、八木下たちが日本ではじめて障害者の世界で使った言葉である。当時としてはどこまで受け入れられるかという懸念もあったが、今日でも依然として何の問題もなく素晴らしい響きをもっていると思う。……
 1978年3月に川口市単独事業として「しらゆりの家」が開設された。「川口に障害者の生きる場を作る会」の主張が完全に認められず障害者運動の成果とまではいえないが、小規模ケア付き住宅(定員10人)が建設されたのである。(橋 2019: 36-8)

そして何よりも、切実に「いえをでたい」と希望していた雨宮と山崎が「しらゆりの家」に入ることができた事実がある。雨宮、山崎とともに市に対する陳情書に入居予定者として名を連ねた仲沢睦美12)は、次のように振り返っている。

 いろいろあって場所も内容も思い通りではなかったが施設はできた。自分たちに運営はさせてもらえず、東京の社会福祉法人がやることになった。話が違うと怒っている人もいて、要求が全部通るまで交渉を続けるという話もあった。そのとき、重度障害者のお母さんに「明日の100円よりも、今日の10円がないと今日すら生きられない人がいる」といわれた。(仲沢 2017)

もとをたどれば、生きる場をつくる会の運動は、八木下が在宅訪問のなかで雨宮と山崎に出会ったところから始まった。生きる場をつくる会が結成されたのも、山崎の「いえをでたい」という要望が発端であった。会の運動は、地元・川口市に根ざして暮らす障害者どうしが出会い、唯一無二の人間関係が地道に築かれた延長線上でおこされたものであった。こうした経緯を踏まえれば、運動は、部分的には成功したと考えられてもよかった。
 しかし、運動の結果について、完全に「失敗」に終わったと捉える者は多かった。会のなかで精神的支柱のような存在になっていた西村秀夫は、次のように述べている。

 このグループが求めたのは「施設に収容される」ことではなく、「地域の住宅に住む」ことだった。しかし川口市当局は一貫してこの点について無理解だった。重度障害者が介助付きで町の中の住宅に住むということがあり得ることとは思えなかったのだろう。約2年かかって「10人以下の小施設」を町の中に建てるということを約束したが、管理体制の点で難航を続けた。……昭和53年3月、社会福祉法人『まりも会』の経営する『白百合の家』が開設された。場所は市街地であり、人数は10人と少数であった。しかし、内容は従来の療護施設と変わらないものになってしまったのである。(西村 1981: 26)

また、運動を外部から見ていた者も、もっぱら同様の捉え方をした。ミニコミ紙『月刊障害者新聞』を発行していた本間康二は、以下のように記している。

 彼らは地元に根を張って生き、障害者の真の自立を目差して健常者と共に共同生活の場を求め、川口市当局に働きかけてきた。親に頼るのみの「在宅」にあらず、さりとて隔離収容、規則ずくめで自由のない「施設」にあらず、10人程度の、きわめて家庭的なふんい気の中での人間的な暮らしを求めていた。
 だが行政はそんな彼らの願いを理解しなかった。「もっと困っていて施設を求める人間がたくさんいる」「できるだけ多くの市民のニーズ(要求)に答えなければならない」と小規模施設に反対し続けた。
 しかし生きる場の会の地域住民を巻き込んだ激しい抵抗に会うと、今度は会の要求する公立公営を無視し、民間の法人に委託しようとした。それも会が以前よりクレームをつけて反対していたまりも会という法人で、この会の運営を握っている中心人物は障害者の施設収容化を肯定し、障害者を受け入れる社会を目差すのではなく、社会に障害者を合わせようという考えの持ち主だった。
 かくしてここに又ひとつの小さな“障害者収容所”ができたのである。(本間 1978)

生きる場をつくる会は、街のなかでふつうの人と同じように、外出や買い物などが気軽にできたり、友人や家族と自由に会えたりできるような生活をしたいということを、繰り返し主張した。そして「たとえ街の中に設けられたとしても外出の介護すらできないような少ない職員配置では意味がない」と訴えた。会のなかには、収容施設では職員配置の乏しさが入所者に対する劣悪な処遇を招いており、それによって職員と入所者との対立関係がつくられているという問題意識があった。
 また、生きる場をつくる会は、「単に『障害者』を収容するところを求めているのではなく、私たちの周囲をとりまく、地域社会総体が、『障害者』を受け入れ、ともに育ち、ともに生活し、人間関係をつくっていけるような社会」にすることをめざしていた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977a: 34)。そして、「『障害者』の存在を主張してゆく拠点」「社会的活動の場を切りひらいてゆくための拠点」として「生きる場」を構想した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 11)。しかし、開設された「しらゆりの家」は、このような構想の出発点になりうるものとは考えられなかった。
 運動の推移において、山崎と雨宮が会を離脱したことは大きな分かれ道であった。この時点で条件派が形成され、運動が分断されたことが、その後を決定づけるひとつの重要な要因となった。
 代表の八木下は、市に対する陳情書には入居予定者として名前が載せられていなかった。それどころか、八木下は「生きる場」をつくること自体を良しとしていなかったふしもある(増田 2019)。この点が、東京青い芝の会の幹部であった磯部真教が所長に就いた八王子自立ホームや、代表の小山内美智子が誰よりも入居したいと考えていた札幌いちご会の運動などとは異なっていた。もし、八木下自らが入居希望者であったなら、主導権を奪われることはなかったであろう。歴史的可能性ではあるが、ひとつ条件が異なっていたら、日本で初めて実現に成功したケア付き住宅建設運動として名を残すことになったかもしれない。


4.おわりに

本報告では、「川口に障害者の生きる場をつくる会」の運動について推移を追ったうえで、なぜ生きる場をつくる会の運動が「失敗」とされたかについて考察した。これまで地道に築いてきた人間関係の延長線上で「しらゆりの家」が開設されたという点でみれば、運動は部分的には成功したということができる。しかし、重度障害者でもふつうの人と同じように生活できる場にすることや、地域社会を切りひらく拠点となる場にするという目標はかなわず、それゆえ運動は「失敗」とされた。そして、その「失敗」を決定づけた大きな要因として、条件派の形成によって運動が分断されたことがあった。
 本報告を締めるにあたり、「しらゆりの家」の開設後について、少しふれたい。運動としては分かれてしまった雨宮と山崎であるが、生きる場をつくる会に参加していた何人かとの個人的な関係は続いた。八木下は時折、雨宮や山崎に会うために「しらゆりの家」を訪ねていたという。雨宮が亡くなったときには、八木下も葬儀に参列した。
 「しらゆりの家」の運営は、つねに波乱含みであった。職員間や利用者間の揉めごとが多く、職員が入所者の預貯金を着服して逮捕される事件もおきた(『読売新聞』1987.11.6朝刊,埼玉県版,22面; 引間・奥野 2004)。1995年3月末、まりも会は川口市から委託解除になり、「しらゆりの家」の運営は別の法人に移った。
 生きる場をつくる会の主要メンバーは、「しらゆりの家」開設の少し前から「川口とうなす会」というグループをつくり、活動を始めた。このグループは、月1回のペースで例会を開いて、とりあえず街に出るという活動スタイルであり、生きる場をつくる会とは対照的なものであったが、表裏一体でもあったという。生きる場をつくる会の運動や、それに連なる運動・活動の全体像を把握するため、引き続き調査を進めていきたい。


付記

2020年2月、八木下浩一氏が逝去された。享年78歳。謹んで哀悼の意を表したい。



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*頁作成:安田 智博
UP: 20200901 REV:
増田 洋介  ◇障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇ケア付住宅  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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