1960年代に国内で多発した神経難病スモンは、キノホルム製剤の服薬に起因した。この薬害については、研究者による被害の実態の報告、弁護人や支援者による訴訟経過の分析、被害者や支援者による運動の成果の報告など、多様な立場から研究がなされている。
この薬害訴訟の原告をになった被害者運動が、分裂と連帯を繰り返したことは周知の事実である。当初、マンモス訴訟を「全国スモンの会」が率いたが、のちに「全国スモンの会を正す会」へと分裂し、その後「スモンの会全国連絡協議会」が結成された。分裂の要因については、会計問題、診断書取得の有無、訴訟目的・決着点の相違などが先行研究において指摘されている(亀山 1977)。
スモン訴訟・闘争の経過や成果について、スモンの会全国連絡協議会など原告が中心となってまとめられた詳細な資料はある。しかし、1979年に被害者団体が国・製薬3社と和解確認書を交わして以降も、判決をもとめて唯一訴訟を継続した少数派の動向などについての検証はすくない。
そこで、本報告では、唯一最高裁まで訴訟を継続した古賀照男の訴訟経緯、意図などに着目する。くりかえすが、1979年に被害者団体が和解確認書を交わして以降も訴訟を継続した、古賀の動向の検証はすくないからである。
古賀は、当初から集団提訴に参加しなかったのではなく、参加したが最終的に単独で裁判を継続した。古賀の事例からは、彼が裁判を継続した意図や、どのような支援者と関係があり、いかに市民運動の影響をうけたのか/うけなかったのか、また、ほかの原告や弁護人といかなる目的や利害の相違があったのか、などを検証する。なぜなら、原告同志や原告と弁護人などとのあいだで目的や利害が衝突する具体的局面、それは個人がどのような意図をもって、いかなる理念などの影響をうけた結果であるのか、などを検証することで、薬害訴訟や支援運動において、連帯を困難にする要因などをあきらかにできると考えるからである。
上記のような研究目的のもと、古賀の訴訟経緯の事例からはつぎの3点を検証する。1.被害者運動全体のなかで古賀はどのような立ち位置であったのか、2.古賀の市民運動などへの関与およびこれらからの影響はいかなるものであったのか、3.訴訟戦術における弁護人との連携の実際、である。このうち、本報告では2点目を中心に考察する。
古賀の訴訟の経緯、意図などについては、彼の著作、インタビュー記事などを分析する。また、古賀の動向がスモン訴訟全体および被害者団体の活動のなかで、どのように位置づけられるのかをあきらかにするために関連資料を検証する。
古賀は1927年1月に生誕した。1967年6月に、キノホルム製剤を医療機関にて投与されたことによりスモンを発症した。発症当時は、チェーン展開していた飲食店の店長に就いており、神奈川県内に居住していた。スモンが薬害であることを知って被害者運動に参加し、スモン訴訟にくわわった。精力的に、大阪の製薬本社などで抗議行動を展開した。また、古賀が連帯した、支援した/されたと言及しているのは、サリドマイド被害や薬害エイズ問題、水俣病問題などであり、スモン以外の薬害や公害支援にもひろくたずさわった。2003年1月に、京都市内の病院にて逝去した。享年76歳。
古賀の訴訟をめぐる経緯はつぎのようにまとめられる。
古賀がスモン訴訟を継続するなかで、関与していた、影響をうけた市民運動の一つに、東京大学講師および医師であった高橋晄正や、医療ジャーナリストの平沢正夫らが率いた薬批判、薬害支援運動がある。彼らは、1960年代1970年代に、薬害被害者とともに厚生省などに要望をだす活動などをしていた薬害共闘や、薬を監視する国民運動の会などに関与していた。彼らはおもに、医薬品の有害性や無効性、薬害・医療被害などを告発したり、被害者を支援する活動をおこなっていた。
『古賀さん追悼集』(「古賀さんとスモンを語るつどい」実行委員会編 2004)に寄せられた追悼文のなかに、高橋らの活動に古賀が参加していた経緯についての記述がある。
「私は当時、平沢正夫さんの主催していた『薬害を告発する被害者と市民の会』に薬学生のグループとして参加していた。しばらくして、東大で開かれていた『医学原論』の中でSMONが取り上げられた。その中から『キノホルム被害者を支援する会』が生まれ、そこでも活動することになった。……
キ支援は東大の高橋晄生(ママ)講師の講師室で毎週水曜日の夜開かれていたが、古賀さんはそこにやって来た。ゴム長靴を履き、カナディアンクラッチを突いていた。ここで、いっしょにSMONについて基礎から学んだ。」(「古賀さんとスモンを語るつどい」実行委員会編 2004: 9)。
高橋が主宰していた「医学原論」から「キノホルム被害者を支援する会」が生まれ、そこに古賀も参加していた。古賀自身も、訴訟を継続するにあたって、高橋からの支援があったことに言及している。
「さらに仙台のグループ、東京の厚生省交渉団の人々等々の私に関係した人たちと神奈川のスモンの仲間の励まし、特に高橋晄正先生・中里氏・杉山氏等のやる気が、私にやる気をださせたのです。」(スモン訴訟の確定判決を求める会編 1991: 報告3)。
古賀がみずから訴訟の継続にあたって、「特に高橋晄正先生……等のやる気が、私にやる気をださせたのです」と述べているように、高橋から勉強会や運動をつうじた支援があったのは事実である。
高橋らの勉強会や活動では、スモン被害の発生機序や発生にいたった社会構造、国・製薬企業の責任などについて検討され、古賀もこれらの情報を得ていたと考えられる。
高橋の薬批判などの活動の立脚点は、医療は科学的エビデンスにもとづいておこなわれなければならないというものである。高橋は、1950年代ごろから、診断などが科学的エビデンスに依拠しておらず、医師の経験知によってなされているなどの批判を展開した。たとえば医薬品にかんしても、有効性および有害性が科学的に検証されているとはいいがたく、「使った、効いた、治った」という「三た論法」によって処方されていることを批判した。高橋は市民運動のなかでも、科学的エビデンスにもとづく診断や医薬品の必要性を強調していたのである。
上記に訴訟経緯をしるしているが、1990年12月7日に、古賀の東京高裁控訴審(二審)判決があった。勝訴であった一審は破棄され、控訴は棄却された(即日、上告している)。
このさいの判決内容を要約すると、「キノホルム製剤の相当量の服用は認められるが、原告の症状は類似疾患と識別診断が不十分である。原告がスモンだという証明が不十分であり、原告の本件請求は棄却する」というものであった(スモン訴訟の確定判決を求める会編 1991)。
この判決にたいする古賀や支援者らの見解および古賀が単独で裁判を継続した意図の考察については、第46回日本保健医療社会学会大会(2020年9月開催)にて、すでに報告済みである。重複する部分もあるが、支援者であった高橋の判決にたいする評価について補足し、高橋らが古賀が裁判を継続した意図にいかに影響をあたえたかについて考察をくわえている。
まず、この判決を古賀は、再三にわたる和解拒否をしたことへの報復判決だと理解していた。『スモン高裁判決は人権を断つ!! 1990.12.7スモン控訴審判決批判』(以下、『1990.12.7スモン控訴審判決批判』)のなかの判決報告では、「再三にわたる和解拒否(……がスモン=ウィルス(ママ)説を撤回せず、事実は……の和解拒否です)が、私のせいだとしての報復判決です。」(スモン訴訟の確定判決を求める会編 1991: 報告5)と言及している。
さらに、弁護人とのあいだで、訴訟戦術・決着点についての十分な合意を形成しないまま裁判を継続したことにより、不十分なところがあったと古賀は分析している。
インタビューのなかで「だから、結果論として、本来は、高裁で国も含めてやるべきだったんだ。……弁護士が、そういうことをちゃんと言ってくれればさあ。こういう和解じゃ一銭の得にもならんし、国も含めてやったほうがいいんじゃないかってね。……で、ああいう判決が出てきちゃったわけよ。……いや、そういう矛盾したのが裁判ですよ。弁護士と、裁判官と、被告とのね、この三者一体の中で、充分な形の話し合いはされてない。」(高山俊雄・糸山敏和 2000c)と回顧している。
また、支援者の高橋は、高裁判決について、医学を専門としない裁判官が古賀がスモンかどうかは確定できないとの医学的診断を下した点が問題であったと述べている。
『1990.12.7スモン控訴審判決批判』のなかで高橋はつぎのように言及している。「この判決の著しい特色は、全ての医師の診断書を却下し、全く医学の系統的教育を受けていない医学の素人である裁判官が書証として提出されている文献(時には、書証として提出されていないものもある!!)を操って、自己流の医学論を展開するとどのようになるかという社会実験をおこなってみせてくれたという意味において、画期的なものである。」(スモン訴訟の確定判決を求める会編 1991: 批判1)
高橋は、同冊子に上記のような観点から判決を批判する2つの論文を寄稿している。「判決批判――古賀氏の臨床診断」16ページ分と、「高裁の神経学理解状況の批判」71ページ分である。高橋は、この2つの論文のなかで、高裁の判決文のなかの「診断」が、いかに医学的科学的根拠に依拠していないかについて論証している。
では、なぜ古賀は単独で裁判を継続したのか。その意図は資料からつぎのように検証できる。なによりも、訴訟上の和解ではなく、キノホルム製剤とスモン発症との因果関係およびスモン発生にたいしての国・製薬3社の法的責任を明確にするために確定判決をもとめたのである。法的責任から逃れようとする製薬企業の訴訟戦術にたいしてつよい憤りがあった。さらに、スモン・ウイルス感染説によって、古賀自身が周囲から差別的待遇をうけた経験から、製薬企業にウイルス感染説を撤回させたいというつよい思いがあった。スモン・ウイルス説によって多数の自死者が生じた。このような事態をひきおこしたウイルス説はゆるしがたく、また明確に撤回しない製薬企業につよい憤りを感じていた。そのため、キノホルム製剤によってスモンが発生したという法的責任を訴訟にて明確にしたかったのである。
もう1点指摘できるのは、古賀がいだいていた使命感である。原告の多数が和解に応じていくなか、訴訟を継続して因果関係・責任の明確化をだれかがになわなればならないという使命感があった。『古賀さん追悼集』のなかで原告のひとりがつぎのように回想している。
「全国で和解と判決に分かれたときに、大分県スモンの会では、元気な人のほとんどが和解派にいった。判決派のほうにより重症者がいっぱいいた。……(引用者注――改行)ただ、患者たちは病状も悪化し、私自身、家族をそろそろ安心させたかった。東京での会議では、私自身は絶対判決だと思っていたけれども、大分の地に帰ってきたらそうはいかない。何となくもうそろそろ和解したいみたいな感じの人のほうが多くなり、……大分であくまで判決を目指すというのはちょっと難しくなり、大分のみんなを和解させ、最終的には私一人が判決で闘わなければいけないのかなという気もしていた。(引用者注――改行)そこに、古賀照男さんが『オレが判決で闘うから、あなたたちは和解して、家族を安心させたほうがいい。まだ小さい子もいるんだから』と言ってくれた。その言葉に、どれだけホッとしたか。」(「古賀さんとスモンを語るつどい」実行委員会編 2004: 2)
古賀はスモン・ウイルス説が撤回されないことにつよく憤っていたため、法的に責任を明確化したいとの意図で裁判を継続した。同時に、スモン訴訟全体のなかでだれかが確定判決をもとめることをになわなければならず、それを古賀自身がひきうけたという見方もできるのである。
先行研究において、スモン訴訟における目的や訴訟戦術、決着点などの相違、たとえば補償などを優先し和解するのか、長期になっても法的責任を明確にするのかなど、が薬害被害者の連帯を困難にすることは指摘されている(スモンの会全国連絡協議会編 1981c)。本報告では、スモン訴訟において検証がすくなかった古賀の単独裁判の経過に着目し、その意図やそれに市民運動がどのようにかかわり、いかなる影響をあたえたのかを考察した。
古賀が訴訟をつづけた意図は、第一に、みずからも差別的処遇をうけることの原因にもなったスモン・ウイルス説をゆるしがたかったからである。この説が多数の自死者を生じさせた。固執する製薬企業にこれを撤回させ、キノホルム製剤との因果関係および国・製薬企業の法的責任を明確にさせたかった。
第二に、スモン訴訟において多数の原告が和解に応じていくなか、古賀には自分が確定判決をもとめなければ、という使命感があった。この使命感の形成に、高橋らの市民運動は一定影響をあたえたとかんがえられる。
『古賀さん追悼集』のなかで古賀ではないが、大分県スモンの会の会員が、当会が和解を選択したことを高橋に伝えるのが「言い辛く」、電話で報告するのを躊躇したというエピソードが語られている。「長いことお世話になったのに、あくまでも判決ということで闘えなくてすみません」(「古賀さんとスモンを語るつどい」実行委員会編 2004: 3)と高橋に報告したという。報告のあと高橋が述べたのは気をつけて帰りなさい、というひと言だけで安心したと、大分県スモンの会の会員が語っている。
もちろん、薬害被害救済の市民運動をけん引した高橋らが、原告らに判決を選択するようもとめたのではないだろう。しかし、原告らと高橋らが勉強会など行動をともにするなかで、和解ではなく判決をもとめて国・製薬企業と闘うという使命感を、原告みずからがつよめていったとかんがえられる。そのため、原告のひとりは、和解を選択したことを高橋らに報告するのをためらったのだろう。多数の原告が和解を選択していくなか、古賀は原告で唯一判決をもとめて裁判を継続した。ウイルス説を撤回させたいという意図がつよかったが、これにくわえ古賀の判決をもとめるという選択には、高橋らの市民運動の影響もあったとかんがえられる。
ここで指摘したいのは、判決をもとめて闘うという市民運動の理念および方向性が、原告の訴訟経過に影響をあたえたことは問題である、ということではない。そうではなく、この理念がじっさいの訴訟戦術のなかでいかに活かされたのか、活かすことが困難であったのかが検証されるべきだということである。
よって今後の課題は、古賀の訴訟経過において、弁護人との連携がいかになされたのか/なされなかったのか、弁護人とのあいだでの決着点にかんする相違、などをあきらかにすることである。報告者の力量不足により、これらにかんする資料の収集が滞っている。ぜひ関連資料についてご教示いただきたい。