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「「権利」をわかりやすく伝える工夫の難しさ」

高 雅郁(立命館大学大学院先端総合学術研究科) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200915


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード

わかりやすい情報、知的障害者、権利条約、情報保障

■報告要旨

I.研究背景と目的

2006年12月に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」(以下、CRPDとする)は、世界中に障害者の権利の大きな躍進として受け止められた。日本政府は2014年1月CRPDに批准し、2020年には国連が日本の実施状況について審査することになっている。CRPDについては、これまで障害者当事者・運動団体などが活発に議論してきた。CRPDに関する出版物はたくさん刊行されているが、当事者の中でも特に知的障害者にどのようにその内容を伝えるのかということについては十分に明らかにされているとは言えない。
 障害の原因は社会の障壁のようものであるという社会モデルの視点から見ると、知的障害者が一般的な情報を理解しにくいのは、認知能力が低いという個人因子によるだけではなく、適切な情報を獲得できていない環境にも依ると考えられる。日本では,CRPDの批准後、さらに2016年4月「障害者差別解消法」が施行されてから、情報弱者とそうでない人たちの「情報格差」を減らすために、「情報保障」に関する合理的配慮と課題が注目されている。そこでは、「情報のユニバーサルデザイン」が謳われ、その一環として、知的障害者の情報保障や言語権が検討されている(あべ 2015;打浪 2018)。しかし、「権利」という抽象的概念および法律条文をどのようにわかりやすく伝えるか、まだ十分に検討されていない。
 本報告では、2009年3月に知的障害者の親の会連合会「全日本手をつなぐ育成会」1)(以下、育成会とする)がCRPDの条文をわかりやすく訳して編集した本『わかりやすい障害者の権利条約――知的障害のある人の権利のために』(以下、『わかりやすい権利条約』)に注目する。これは、2019年9月に伏流社から出版(再版)されている(長瀬 2019)。初版を刊行した2009年当時、日本はCRPDにまだ批准していなかったが、育成会はどのような経緯でこの本を作ることにしたのか。国際的な法規である条約を日本国内の環境と状況に応じて、どのように工夫して知的障害者に伝えようとしたのか。これらの問いに基づき、2009年に育成会が作成した『わかりやすい権利条約』を作成の過程をたどりながら、知的障害者に対して「権利」に関するわかりやすい情報を作る際に、どのような工夫や配慮がなされたのか、そこでどのような問題が生じたのかを明らかにする。


II.調査方法と倫理配慮

本研究は資料分析とインタビュー調査の研究手法を用いる。
 資料分析について、2009年に育成会が刊行した『わかりやすい権利条約』の作成過程に育成会及び育成会前身のプロジェクトの議事録や参考資料などを分析する。また、『わかりやすい権利条約』の内容と、その作成の際に参考とされた川島聡と長瀬修が訳したCRPDの内容(2008.5.30日付)2)と比較し、どのように翻訳されたのかを分析する。
また、『わかりやすい権利条約』作成に関わった4名の研究協力者にインタビューした。編集者の長瀬修、条文内容をわかりやすく転換する作業の段階に参加した遠藤美貴、条文とイラストや頁割などの編集作業に参加する久保田美也子、そして、『わかりやすい権利条約』の作成作業を担当した当時の育成会の事務局員の袖山啓子である。インタビュー実施時期は2019年5月と7月に、各人に1回行った。久保田と袖山は二人同時にインタビューした。インタビューは逐語録を作成した。本稿では逐語録を引用するとき、(氏名:頁数)とする。
 倫理配慮について、インタビューする前に、研究協力者に研究の目的や行う方法、扱った情報の用途、研究協力者へ不利益なことを発生しないよう注意を払うことなど、「立命館大学における人を対象とする研究倫理指針」に従って、研究倫理に関わることを説明した。研究協力者の同意を得て同意書に署名してもらった後、インタビューを実施した。調査結果は研究協力者の許可を得て、すべて実名で表記する。また、本稿で研究協力者以外に登場する関連人物の氏名はすべて公開資料に掲載されおり、実名で表記する。


III.『わかりやすい権利条約』の作成過程

『わかりやすい権利条約』は、2007年8月から2008年12月にかけて作成された。「作業チーム」と「編集委員会」の二つのグループが活動していた。以下では、作成にいたるきっかけから、作業の各段階について明らかにし、考察する。

1.作成の動機とチーム結成のきっかけ

『わかりやすい権利条約』を作る動機について,長瀬は国際育成会連盟のロバート・マーティンに影響を受けたと述べている(長瀬:1)。

 (1)海外の知的障害者が国連で交渉する姿に刺激を受けた

ロバート・マーティン(Robert Martin)は2008年まで、国際育成会連盟(Inclusion International)の理事を12年間務めていた。1960年の国際育成会連盟創立以降、二人目の知的障害をもつ理事だった(長瀬 2016)。また彼は、2016年から2020年まで国連の障害者権利委員に選出された、ただ一人の知的障害をもつ委員である。CRPDの草案が国連総会で検討された当時、国際育成会連盟のアジア・太平洋地域の理事はマーティンと長瀬の二人だった。長瀬が身近な同僚のマーティンが会議で議論する姿を見て、日本の知的障害者にもCRPDをより広くわかりやすく伝えたいと考えるようになった。
 当時育成会の「国際活動委員会」の委員長も務めていた長瀬はCRPDをわかりやすく書き換ることを、2007年はじめに育成会の国際活動委員会に提案した。しかし、当委員会に知的障害をもつ委員は当時本人の活動が多忙であり、協力することができなかった。また、通常は前年度に翌年度の予算を組むが、2007年度予算にはこの件が含まれておらず、長瀬の提案は実現されなかった。

 (2)研究プロジェクトとして,初対面の知的障害者と取り組んで始まった

CRPDでは、「私たちの事を私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」という「当事者参加」の理念が強調されている。その理念に従い、長瀬は『わかりやすい権利条約』を作成する際に、知的障害者の参画を望んでいた。研究職も務めている長瀬は、2006年10月に開催された「日本社会福祉学会全国大会」にて講演し、CRPDを知的障害者にとってもわかりやすく作りたいと訴えた。当時、大学院生の遠藤美貴はこの大会に出席しており、長瀬の講演内容に関心を持ち、東京都国立市でわかりやすい情報づくりに取り組んだ経験がある小林勇輔(男性、当時20代前半)を長瀬に紹介した。小林は軽度の知的障害をもっており、日常的な会話は問題なく、支援者が付き添わなくても行動することが可能であった。小林は国立市で関わった身体障害者から影響を受けて、制度や福祉サービスなどへの興味がわいたようだと遠藤は述べた。同市で『地域保健福祉計画』を策定したときに、小林は委員として参加し、同計画をわかりやすく書き換える作業にも携わった。この作業を通じて、小林は福祉サービスや制度について学び、政策立案とわかりやすい情報伝達作業を経験した。
 当時、遠藤は小林と面識があったが、直接に「支援者」と「被支援者」の関係ではなかった。『わかりやすい権利条約』を作成する際には「当事者(小林)」と「支援者(遠藤)」のような支援関係として結び付けられた。長瀬と三人はそれぞれの立場から、研究プロジェクトに関わることになった。

2.第1段階:作業チーム

小林(当事者)、遠藤(支援者)、長瀬(研究者)というメンバーが決まり、2007年8月に、三人は「わかりやすいけんりじょうやくづくりいいんかい」(議事録2007.8.4)という仮称の「作業チーム」として集まった。会議は長瀬が当時所属していた大学で行い、必要な支出も研究費から運用した。しかし、CRPDの原文は英文であり、当時日本政府の和訳はまだ公開されていなかったため3)、メンバー全員がCRPDを詳しく理解しているわけではなかった。また、国際的な条約をわかりやすくする前例もなかったため、作業をどのように進めばよいのかが問題になった。

 (1)CRPDについて理解を深める

まずは、チーム全員がCRPDはどういうものを理解する必要がある。初回の会議で、国連のCRPDを議論する場に参加したことがあった長瀬がCRPDの背景と条約の法としての位置づけ、日本への影響、また障害者との関連などを説明した。そして、CRPDの存在意義という第1条「目的」も解釈し説明した。説明をしながら、長瀬と川島聡(当時の育成会の国際活動委員)で和訳したCRPDの仮訳を参考資料にし、小林と遠藤に配布した。しかし、この「仮訳も結構難しい」(遠藤:9)ものであった。仮訳の第1条は以下である。

この条約は、障害のあるすべての人によるすべての人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し及び確保すること、並びに障害のある人の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とする。
障害〔ディスアビリティ〕のある人には、長期の身体的、精神的、知的又は感覚的な機能障害〔インペアメント〕のある人を含む。これらの機能障害は、種々の障壁と相互に作用することにより、機能障害のある人が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げることがある。(川島・長瀬 2008)

仮訳は専門用語が多く、わかりやすいものとはいえなかった。この文言を解釈して説明する際、特定な用語の意味をチーム全員で理解しなければならない。長瀬が「『ディスアビリティ(disability)』と『インペアメント(impairment)』の違い」(遠藤:8)などを説明した(議事録2007.8.4)。

 (2)「宿題」として各自が翻訳

次のステップは、書き換える作業をどのように行うのかということである。最初にこのチームで採用された方法は、会議後「宿題」として、全員は各自で条文の内容を書き換え、次回の集会で、各自の理解し解釈し、わかりやすく訳したものを他のメンバーに配るというものであった。会議で議論しながら、長瀬がまとめ、条文内容のわかりやすい表現を決めていった。2009年に刊行された『わかりやすい権利条約』の第1条は、以下のようになった。

この条約は、障害のあるすべての人の権利を守り、その人らしさを大切にすることをめざします。「障害があってもなくても同じ大切な人間」と、社会のすべての人がわかるようにすることが、この条約の目的です。
障害のある人が暮らしにくいのは、社会にバリアがあるからです。バリアをなくさなければなりません。

仮訳より、文字数が減り、使われた言葉の表現も平易でわかりやすくなっていることがうかがえる。そして、CRPDの最も重要な核となる概念の「人権」は「障害があってもなくても同じ大切な人間」という言葉とし、障害に関わらずみんなが人間として対応することを強調した。さらに、簡単な言葉で社会のバリアをなくすことが重要であるという社会モデルの理念も伝えることを含意していた。

 (3)生活に関連が高い条文から作業に入った

CRPDの条文はどのような順番で訳されていったのか。それは第1条から順番に翻訳を進めていくというものではなかった。第3回の議事録(2007.9.29)に「今日の作業:第19条をわかりやすくした」とある。なぜ条文の順番とおりに作業せず、第1条の次に第19条を訳したのか、そこには何の配慮があったのか。川島・長瀬の仮訳で、第19条のタイトルは「自立した生活〔生活の自律〕及び地域社会へのインクルージョン」と訳され、地域生活についての内容であった。遠藤が「まずは難しいことよりは、わかりやすいところからっていうところで…勇輔さんが関心があったり、イメージしやすいこと」と述べる(遠藤:9)ように、地域で暮らす小林が第19条が理解しやすいということで、ほかの条文よりも先に作業することになった。そのあとの作業を進める際、「みんなにわかりやすいものを作るというスタンスで、24条(教育)、27条(仕事)、23条、30条などわかりやすいところから進める」という方針がとられたのである(議事録 2007.9.29)。こうして、日常生活と関連が深く、作業しやすい可能性が高い条文を選び、チームメンバーの同意を得ながら作業を進めていった。

 (4)スクリーンに映して、メンバー全員が対等な関係で検討しあう

メンバー全員が「宿題」として、CRPDをわかりやすく翻訳したものを会議に持ってくるという方法は、3回目の会議から議論して決める方法に変わった。「今回からスクリーンにうつす、みんなで確認しながら作業を進める」議事録(2007.9.29)こととなり、各自で書き換えた条文の内容をスクリーンに同時に映して、全員でそれを見ながら、議論し即時に修正するという方法になった。遠藤によると、その方法の提案者は小林であった。元々「支援者」としてプロジェクトに入った遠藤は、会議外の「宿題」をするときなどは小林の支援はしておらず、小林がわからないところにすぐに返答したりすることができなかった。けれども、スクリーンに映す方法に変更すると、会議で小林がわからないとき、すぐにサポートできる。
 障害者自立生活運動の「介助者=障害者の手足」論は、知的障害者に主体的な意思表現を支える場面にもよく運用され、支援者は自らの意見を出さないという規定がある。遠藤は『わかりやすい権利条約』の作業を振り返るとき、「こちらは『支援者だから』とか、当事者だから』みたいなのはあまりなく、対等に一緒に、それこそ長瀬さんも含めね、一緒にやりながら、だけど『ここわからない』とか『ここを説明してほしい』って言われたら、その時に説明をするっていう」感じだったという(遠藤:12)。遠藤は「支援者」と「作業チームメンバー」を同時に担っており、議論のなかで小林を支援しながら自らの意見も言える状況であった。「支援者」「当事者」の区別がなく、メンバー全員は対等な関係で互いに支え合うことは、この作業の重要なポイントであった。

 (5)育成会の事業に変更し,当事者オブサーバーが参加,より広い当事者の視点が入った

2007年10月から育成会は民間の財団の補助金を受けることが確定した。育成会は『わかりやすい権利条約』の作成を援助することとなり、2008年1月から『わかりやすい権利条約』の作成は長瀬の研究プロジェクトから育成会国際活動委員会の特定事業小委員会の活動に拡大した。毎回、複数の知的障害者が「ボランティア応援団(オブザーバー)」として参加し、小林と異なる当事者の視点から意見を提供した。なお、育成会が関わる以前に翻訳作業を行っていたときはCRPDのひとつの条文ごとに作業したが、育成会が関わるようになってからは、作業会議の長さが半日から一日に伸ばされ、一回の会議で4〜5条、最大7条の条文をわかりやすく書き換える作業が可能になった。育成会が関わる以前に6回の会議、育成会の小委員会以降は2008年6月まで、19回の会議が行われた。
 第1段階の当初、作業チームの知的障害をもつ当事者は小林一人だった。小林の提案で、作業の内容をスクリームに映しながら話し合い、作業をより順調に行うことになった。また、「当事者参画」が重要な部分であり、育成会が関わるようになった作業段階の後半からボランティア応援団のオブザーバーとして知的障害者が参加し、当事者として、CRPDをわかりやすく翻訳する作業に大きく関わった。作業チームは「支援者」「当事者」に区別することなく、全員が「作業チームメンバー」として意見を表しながら議論する「対等」な関係だった。このことは、わかりやすい情報づくり作業に欠かせないポイントである。

3.第2段階:編集委員会
 (1)作業チームと異なるメンバー

CRPDのわかりやすい翻訳草案が完成した後、本格的な編集作業が開始された。編集作業では作業チームとは異なる視点からチェックするために、作業チーム以外のメンバーを中心に「編集委員会」は形成された。編集委員は育成会とつながりがある知的障害者の奈良崎真弓(女性、当時30代前半)と知的障害の子どもをもつ久保田と赤津保子、国際活動委員の山崎裕美子、長瀬を含めた5人であった。
 編集委員会は、作業チームの成果全体を精査し、文字とイラストの組み合わせを検討し、また頁割などをおもに行った。わかりやすい情報作成の経験がなかった編集委員たちは編集の際に漢字にルビを振り、イラストも付加した。長瀬はまた「イラストの印象がものすごく強いでしょう」とも述べる(長瀬:19)。『わかりやすい権利条約』にインパクトを強く与えるイラストは育成会の会員で、知的障害の子どもをもつ母親である後藤真由美がイラストを描いた。ただし、知的障害の委員である奈良崎が、「イラストが多すぎるとわかりづらい」(長瀬:15)と指摘し、イラストの数が減少した。

 (2)「学ぶ」のではなく,ともに「勉強」する

編集委員の中で,ただ一人の当事者である奈良崎は,どのような役割を担ったのだろう。

例えば24条の「勉強と学校」。(最初は)「勉強する」じゃなくて…「学ぶ」とか、そういうこう柔らかい表現の方がわかりやすいんじゃないかなと思ってたら、「そうじゃない」と。「みんなが普通に使う言葉は私たちも一緒に覚えたい。」と…勝手に考えて、こういう言葉の方がわかりやすいっていうことはないと。「『勉強』は『勉強』だし、『障害者権利条約』は『障害者権利条約』だ」と。そういうふうに言われたので、使われてる言葉はなるべく普通のままで入れよう、というふうにしました。それは非常に新鮮でした。(長瀬:16)

『わかりやすい権利条約』の第24条の草案には「私たちには学ぶ権利があります」と書かれていた(議事録 2007.10.6)。奈良崎の指摘を受けて、出版されたものでは「私たちには、勉強する権利があります」と変更された。
 知的障害者にとっての「わかりやすい言葉」とはいったいどんな言葉なのか。知的障害者に向けた情報は、事前に周りの人が判断し、言葉を選別し伝えられる。しかし、当事者にとっては「みんなが普通に使う言葉は私たちも一緒に覚えたい」という願いがあった。知的障害者に伝えられる情報の言葉や内容などが事前に第三者によって選別されるということは、知的障害者にとって情報が公平に伝わらないという状況が生じる。奈良崎の発言は、障害者の権利に関する法の文言をわかりやすくする作業で、知的障害者の「当事者参加」に大きな意味があることを示唆している。
 こうした作業を繰り返し、2008年12月までに14回の編集委員会議が行われ、『わかりやすい権利条約』が完成した。作成過程全体を通して、わかりやすくする作業の工夫には、知的障害者の意見が欠かせないものだったことがわかる。編集段階で知的障害当事者がイラストの表示や言葉使いなど提案し、当事者の参画が実践されていたといえる。作業全体を点検することは編集委員の役割とは言っても、ある言葉を編集段階で当事者ひとりの意見により、前段階の作業に加わった他の当事者らも含めて決定した言葉の使い方を変更したことは、当事者の意見のなかで何が優先されるべきかという問題も生じる。こういった点で、情報をわかりやすくする工夫の難しさが明らかになったといえる。


IV.考察

本節では、『わかりやすい権利条約』の作成過程から、三つの論点をさらに考察する。

1.主体性を表すため、「障害者の主張」と「国の責任」との葛藤を生じた

わかりやすく訳す作業は、平易な言葉に置き換えることだけでなく、原文の意味が伝わる「翻(通)訳」のプロセスでもある。この作業では、同じ言語――日本語(仮訳版)から日本語(わかりやすい版)へ――の転換によって、わかりやすく伝わるかどうかはもちろん、CRPDの意味が正しく訳されたかどうかも重要なことである。佐藤(2011)はアイヌ研究者の知里真志保がアイヌ神謡を日本語に訳すことを例に、「高度に可視的な翻訳の形態として」原文の概念そのものを言い換えるだけではなく、「翻訳者の主体位置を見せつけ、翻訳者の透明性や中立な記述という幻想に対抗して、逆に翻訳の物語に語り手としての訳者の声を導入し、従って翻訳に明白な観点を与えて、それを武装する」と述べる(佐藤 2011:183)。『わかりやすい権利条約』作成時にも、翻訳に知的障害当事者が加わることにより、障害者が主体性を持ち、単に平易な言葉で伝えるというのではなく、当事者としてのわかりやすさを明確に伝えるということがなされた。知的障害者を含め「翻訳者」の立場でもあるチームメンバーは、各自の解釈を導入しながら、異なる立場のメンバーの主体性を尊重しながら、対等な関係を築いていた。それは従来の主流であった障害者観に対抗する姿も見せることにもつながっただろう。
 また、CRPDは批准国に批准国内の社会的かつ物理的な環境を改善し、障害者の人権を向上させ、定期的に国連に現状と進展の報告を義務づけている。国は批准したからには責任を負う。しかし、「国の責任」という抽象的な言葉を、いかに日本の状況に応じながら、わかりやすく知的障害者に伝えるのかという問題に直面した。条約の位置づけをいかに翻訳するかということについて、2回目の議事録(2007.9.2)に「国がまもるべき約束として」、或いは「障害をもつ人の主張として」のどちらにするかという課題が提起された。当時、メンバーの間でどのような議論をあったのか、議事録には残されておらず、インタビューからも解明できなかったが、「『障害をもつ人の主張として』にする」という記録がある(議事録2007.9.29)。作業の進行方法を企てて、「国の責任」より「障害者の主張」の視点を強調したことが推測される。『わかりやすい権利条約』の冒頭で、「『障害者権利条約』は、私たちのための条約です」と明記された。わかりやすく訳された各条文の冒頭は「私たち」という主語から始まるものが多い。「国の責任」から「私たちの権利」に転換すると、読者の誰にでも関わりがあるように読むことが可能になる。
 しかし、「国の責任」と「障害者の主張」とは葛藤がある。袖山の語りをみてみよう。

「差別されない」にするのは誰の責任なのか?…「(権利を)守るのは誰の責任なのか?」…自分で守るわけじゃないじゃないですか。自分で守れないし。「やっぱりちゃんと国の責任なんだよね」…「障害のある人もない人も、みんな同じ権利があります」っていうのは事実じゃない?…国が差別を禁止するし、国が合理的な配慮をする、みたいなところだよね。だからやっぱり、究極のファクトみたいな部分と国がしなければいけない責任。(久保田・袖山:63=袖山)

『わかりやすい権利条約』で読者に伝えたい核となるものが、障害者がいわゆる健常者と平等に権利を持つことであった。CRPDは批准国の義務と責任を強調するもので、すべて「私たち」という主語で表すと、逆に「障害者の個人責任」の強化につながる。それは、「個人モデル」が潜むことである。編集委員会では「障害者の主張」と「国の責任」の両方を述べるために、「私たちは」と「国は」と二つの主語を明確に示すことがなされた。

2.イラストは逆効果になりうることもある

『わかりやすい権利条約』でイラストが文字より目につきやすく、わかりやすいものとして編集過程で取り入れられた。しかし作成過程で奈良崎が指摘したように、イラストが多すぎると、視点が分散される。わかりやすく伝えたはずが、結果として逆効果となるというものであった。 イラストに関する事例をもう一つ挙げる。第24条「勉強と学校」の条文に、一つのイラストが付いている。教室で生徒4人と教師1人がいる絵である。4人の生徒は2列に座って、教科書を開いて読んでおり、教師が1人の顔を覗きこんでいる、「みんなと一緒に勉強している」、「教師が生徒を配慮している」といったインクルージョンと合理的配慮のイメージに見える。『わかりやすい権利条約』刊行後、オブザーバーの知的障害者の一人のイラストに対する反応を、久保田が覚えていた。それは「先生優しいようなこと言ってるけど、自分はいつもこう(いうふうに)仲間(から)はずれにされてた」というものであり、当人はこの絵を見ると自分の学校時代を思い出してしまい「このページだけは開けないようにしてた」というものである(久保田・袖山:22=久保田)。 このエピソードからこの絵は、教師がずっと知的障害者の傍に立っている緊張感と特別に扱っている雰囲気を読み手に伝えるものでもあることがわかる。「配慮」と「排除」の境界線はイラストでもわかりにくく、イラストは異なる解釈につながってしまうこともある。

3.わかりやすくされたものと親の会の事業との矛盾:第19条

作業チームは、第1条の次に第19条を作業した。それは知的障害のあるメンバーの小林が理解しやすいという配慮であると同時に、長瀬の提案でもあった。その理由は、第19条の「最も重要な意義は、障害者の権利の主体とし、『条約』という法的拘束力を持つ文章でその権利を明確に規定したことになる」(崔 2007:58)からだろう。第19条は「自立生活条項であり脱施設条項ともいえる」(崔 2007:60)ものであり、誰とどこで暮らすかを選ぶ権利があること、地域生活のために支援が必要であること、つまり、すべての人が地域で暮らす権利を表している。そのため、作業チームは川島・長瀬が訳した「自立した生活〔生活の自律〕及び地域社会へのインクルージョン」というタイトルから、「町のなかで自分らしく生きること」とのタイトルに置き換えた。
 ただし、2009年の初版では、本条約のタイトルは「病院や施設ではなく、町のなかで自分らしく生きること」となっている。世界的潮流である脱施設化と地域生活の思想を導入し、知的障害者には地域生活の権利と選択肢があることを伝えるため、「病院や施設ではなく」という言葉が加えられた。しかし、第2刷で19条のタイトルはまた変更される。この背景、袖山は「育成会の会合で保護者から意見があったことを、常務から聞いた」と述べる。
 知的障害の子どもをもつ親たちが1952年に設立した育成会は、制度やサービスなどはまだ整備されていなかった当時、知的障害者を収容する入所施設を求めた活動を行った。やがて、徐々に各地の育成会が自ら開設・運営する入所施設も増えてきた。こうした活動を担ってきた親たちからの反応により、『わかりやすい権利条約』第2刷以降の第19条のタイトルは「病院や施設ではなく」という文字が削除された。
 わかりやすく伝えようとして,言葉を足したり変えたりすることは必要であり、有効なこととして認められるべきだろう。しかしその許容される「幅」があるということは、その幅の中で、関係者の利害や思惑が入ってくるということでもある。とすると、それをどのように扱うのかという問題が現れるのである。


V.おわりに

本報告では、2009年に刊行された『わかりやすい権利条約』の作成過程を明らかにし、「権利」についてわかりやすく伝える工夫とそこに現われた困難について考察した。
 情報をわかりやすく伝えようとする工夫は作成側の期待通りの効果をうまないことがあった。イラストは、読み手の視点や経験からさまざまに解釈され、作成意図と逆効果を生じる可能性もあることも踏まえるべきことの一つである。
 また、原文その全体の意味合いを重視し訳を変更することがある。『わかりやすい権利条約』には、障害者は健常者と同等の権利があることを読者に伝えるため、CRPD原文で批准国の責任を規定しているものを、障害者の権利に変更し、「私たちは」と障害者を主語にした。しかし、すべてを障害者の権利に変更すると、今度は逆に障害者個人に責任を押し付けてしまい、原文の意味とは大きく異なってしまう。そこで、誤読させないように、障害者が主張すべき部分と国が背負うべき責任をはっきり分け、『わかりやすい権利条約』の主語を「私たちは」と「国は」に並列するという工夫がなされた。さらに、第19条では、刊行先の育成会の事業と矛盾するエピソードが生じたので、刊行された内容の一部分が変更になった。わかりやすい情報の作成では、作成者や刊行先の価値観と原文のイデオロギーのジレンマを発生することもあることが明らかになった。
 さらに、わかりやすい情報づくりのガイドラインでも強調されている「当事者参加」という点は、『わかりやすい権利条約』の作業においても、その開始時から複数の様々な知的障害者が参加し、意見を提供し、関わったことが明らかになった。最も重要なのは、情報をわかりやすく訳すときに、専門家などが先に翻訳したものを知的障害者が点検するという体制ではなく、知的障害者や専門家の各メンバーが、それぞれの立場から全員が対等であるという前提に立ち、ときには知的障害者への配慮をしながら作業を進めていったということである。
 今後は、当事者の実経験を解明することが課題である。本稿ではCRPDを翻訳した『わかりやすい権利条約』の作成過程を明らかにしたが、知的障害者自身が当時を振り返るという視点が欠けている。


【注】


【引用文献】




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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。

◆2020/09/14 宮崎康支

 関西学院大学の宮崎康支と申します。貴重なご報告をありがとうございます。
小生の専門が言語学なので、様々に勉強になり、考えさせられるところもありましたが、一点だけお伺いします。
 そもそも、日本は欧米に比して、「権利」に対する思い入れというか執着心というか、そうした意識が弱いと言われることがあります(その善悪については、横においておきます)。
 それを踏まえてお伺いします。今回調査された「翻訳」の過程において、CRPDの原文に示された
‘rights'(「権利」)についての記述が日本語に訳され、更に「わかりやすい」日本語に書き換えられる中で、日本における障害者「権利」意識と国連の「権利」意識の相違(ないし温度差)が表面化したことはあったのでしょうか。ご報告の中で「責任」の所在について言及されていたこととも、関連すると思います。
 やや抽象的なお伺いで申し訳ありません。ご存知の範囲内でお答えいただけると幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。


◆2020/09/17  高雅郁

 宮崎さん、ご質問ありがとうございました。
 私の理解の範囲では、『わかりやすい権利条約』の作成と関わる人たちは、日本における「権利」意識と国連の「権利」意識の相異や温度差を表面化する意図がないと認識しています。単純に、日本語話者の知的障害者、またはその周りの人たちに、こういう世界に通用する(つもりの)「権利」を伝えたいという意図であると推測します。CRPDを各国で実践するとき、各国における「権利意識」と国連で想定する「権利意識」の相異や温度差がどのように影響するのかを見ていくことは今後の重要な課題だと思います。
 高雅郁


*頁作成:安田 智博
UP: 20200904 REV:20200915, 18
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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