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「コミュニケーション支援の可能性」

長谷川 唯 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200904


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード



■報告レジュメ

報告要旨

 筆者は2008年から筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちを中心にコミュニケーション支援を行なってきた。ALSや意思伝達が困難な重度の障害を抱えた人たちのコミュニケーションは読み取る側の裁量に任されている。もちろん、コミュニケーションはそのどちらか一方で成立するものではない。だが、ALSのような自ら意志を伝えることが困難な人たちは、読み取る側――家族や介助者、周囲の人たち――がその人の意思や思いを読み取ることを諦めたときにそのコミュニケーションの可能性が絶たれ、意思疎通ができない状態へと追いやられ、より不自由さが増していくことになる。それゆえに作られてしまう閉鎖的な空間が、ALSの人とその周囲の人たちの間で摩擦を生じさせてしまっていることが多い。
 しかし、そうした人たちを取り巻く日常は迷いや葛藤に満ちていて、その家族や介助者、支援者らもそこに巻き込まれながら、何とかその関係を取り結びまた解きほぐす方法を模索している。その関係を取り結び、解きほぐす過程で、コミュニケーションの問題は立ち現れてくる。本報告では、コミュニケーションの不便さを解消しようとするから――その可能性を他人に委ねざるを得ないからこそ生じる閉鎖的な空間や関係性について、明らかにする。

研究方法

 筆者が行っているALSの人たちへの支援活動で得た実証データをもとに分析・考察を行なった。分析には相互行為論の研究枠組みを援用する。なお、当事者及び関係者には目的・方法・倫理的配慮について口頭で説明を行い、事例の使用について了承を得ている。

読みとる側に委ねられるコミュニケーションの可能性

 最初に述べたように、ALSのような自ら意志を伝えることが困難な人たちのコミュニケーションは、読み取る側が読み取ることを諦めたときに、その可能性が絶たれてしまう。コミュニケーションがとれなくて困っている人は少なくない。たとえば、ALSの妻を介護している男性は、「身体も動かず言葉も発せない妻が何を考えているのか、言いたいのか、それが知りたい」と言った。
 話を聞けば、彼の妻はALSを発症してから間もなく動けなくなり、それからはベッドの上で人工呼吸器につながれて寝かされているという。彼は、そうして彼女が言葉が発せなくなってからコミュニケーションが途絶えたと訴えたのだった。どのように彼女とコミュニケーションをとればいいのかわからないまま、彼は介護を続けてきた。彼はその状況を、「せめて暑いか寒いかだけでもわかれば布団をかけたりしてやることができるのに」と、話した。彼女の眼球は動くようなのだが、その表情がよみとれないために、それさえも確認できないという。彼は、意思伝達装置が何かも、透明文字盤や口文字といった方法があることも知らなかった。そして彼女は、自分の意思を伝えることができずにベッドの上に寝かされたまま過ごしていた。
 こういう状況にある人たちは少なくない。そしてこうした中で、ケアをする人もケアをされる本人も追い詰められ、生きていくことすら危うい状態に晒されてしまう。たとえ、意思伝達装置を知らなくても――公的な介入がなされなくても――、透明文字盤や少しでも動く部分を知っていれば、コミュニケーションの可能性は開かれている。しかし実際には、多くの人たちがそのことに気付けないまま、知らず知らずのうちにコミュニケーションの可能性が絶たれてしまっている。

素人から作り出されるスイッチの可能性

 ALSの多くの人たちは、その症状によって話したり書いたりすることが難しくなって周囲の人たちとのコミュニケーションが円滑に図れなくなると、意思伝達装置――オペレートナビや伝の心など――を申請し使用することになる。しかし、その意思伝達装置を使用するための入力装置(以下、スイッチ)は種類が少なく、その本人の状態に適合する/しているとは言えない。ALSのような進行性難病の場合には、症状の進行やその程度に個人差があるために、既存のスイッチをそのまま活用すること自体が難しい。
 こうした状況では、意思伝達装置が部屋の片隅へと追いやられ、実際に活用されないのは当然のことであるともいえる。もちろん、他の理由で――たとえば本人がその使用に対して消極的など――利用されないことはあり、これも無視できない問題ではある。しかし、スイッチがその身体に適合していないこともそうした他の理由に大きく影響し、意思伝達装置を使用することを躊躇させる大きな理由となる。指先や頬など、わずかにでも身体の一部分を随意で動かすことができれば、スイッチを工夫することでその操作が可能になる可能性が広がる。だから、身体状態と日常生活上の動作や環境に適合したスイッチの製作と提供が重要になってくる。
 技術専門職ではない素人が工夫して製作するスイッチは、簡単な仕組みで作られている。そのため、家族や介助者でも容易に理解ができて、その場で改良が可能な構造になっている。ALSのような進行性難病の場合は、変化する身体の状態や環境に合わせて、その都度スイッチも取り替えていく必要がある。そうした身体の状態に合わせて、あるいは不具合が生じたとしても、周囲の人たちで一時的にそれを解消し間に合わせることができる。たとえ不安定であっても、そこでトラブルが生じたとしても、その経験によって必要な知識や知恵、技量が獲得されていき、より重要なことだが個別性が高いスイッチもそうした蓄積のもとで製作が可能になる可能性がある。

コミュニケーション支援の状況

 日本では重度の障害を持つ人たちに対する有効な意思疎通の方法――HALスイッチなどの開発は進められてはいるものの――や支援制度は整備されているとは言い難い。コミュニケーション支援は各地域によって取り組みが異なり、病院や施設の理学療法士や作業療法士、患者会やNPO団体の自主的な取り組みによるところが大きい。こうしたボランタリーな取り組みに委ねるだけでは、地域格差の解消はもちろんのこと、必要とする人が必要なときに適切な支援を受けられる環境はいつまでたっても実現されない。
 しかし、そうしたボランタリーな支援も受けられない場合は、多くの人が家族や周囲の人たちの工夫に頼るしかない。先に述べたように、専門的な知識を持つ支援者や公的な支援――意思伝達装置の給付――を利用したとしても、それが必ずしも適切に機能するとは限らない。製品化された意思伝達装置やスイッチは、その動作の安定性と安全性、品質の保証は兼ね備えてはいるものの、高価であり経済的な負担が伴う。また、その供給体制を整備したとしても、個別性が高い装置を標準化することは難しいということがある。いずれにしても、その人たちのコミュニケーションの可能性は他者へと委ねざるを得ない状況に置かれていることに変わりはない。

コミュニケーションの不便さの解消の手立てとしての日々のケアの積み重ね

 コミュニケーションの不便さが生活のあらゆる場面で「不自由さ」を生じさせることはいうまでもない。とくに、ALSの人たちのコミュニケーションの不自由さは、身体がままならなくなっていく過程で立ち現れ、症状の進行と同時にその度合いが増していく。ALSは身体を動かす自由だけでなく、コミュニケーションの自由をも奪っていってしまう。そのことで、人工呼吸器の装着をためらう人もいる。ALSの場合、身体が動かなくなればなるほど、他人に委ねる範囲が増えていく。だからALSの人たちにとって、ケアの方法や身体のニーズなど自分の意思を伝えることは、私たちのそれよりもはるかに重要な意味を持つことになる。
 先にも述べたように、コミュニケーション支援――コミュニケーションの不便さの解消――は、自主的な取り組みに任され、とりわけ家族や周囲の人たちが手探りで対応しているのが現状である。このことは、ままならない身体を抱えるALSの人たちのケアそのものが委ねられているといってもいいだろう。日本においては、その制度体系からも家族がケアすることが当然視され、過酷な家族介護を問題視しつつも、根強い「家族介護」規範が存在している。だから家族が熱心に介護にかかわる姿はごく当たり前のこととして捉えられている。こうした規範も人工呼吸器の装着を躊躇させる大きな理由となる。
 京都では、ようやく重度訪問介護が知られて、少しずつだが、家族がいてもその生活の中に他人介護の時間がみえるようになってきた。一人暮らしを実現する人も出てきた。しかしそれでも、そこにかかわる専門職――とくに介護保険を主とするケアマネージャー――の多くは、重度訪問介護に詳しくない。そのため、制度利用にまでたどり着けずに、ほとんどのケアを家族が引き受けているケースも少なくはない。
 こうした「家族介護」規範は、京都市内よりも京都府内の奥の方に近づくほど違和感なく、当然視されているように思う。そういう地域には、介護派遣事業所が数件しかなく、家族がケアを引き受けなければならない状況がある。
 いずれにしても、京都府・市内ともに、その多くは家族が日常的にケアを引き受けていることにあまり違いはない。一方で、たとえ重度訪問介護を利用しようとしても、家族がいるというだけで必要な介護時間が支給されず、結局はその負担を家族が引き受けざるを得ない状態もある。さらにその負担を軽減するためには、他人介護の時間を交渉して勝ち取らなければならない。
 多くの場合、病気や障害があることで生じるコミュニケーションの不便さは、家族や周囲の人たちのコミュニケーション方法やスイッチの制作や工夫によって、その解消の手立てが用意されることになる。そこにいる人たちが精度の高いスイッチや環境を用意しているのである。つまり、それは日々のケアの積み重ねから創出された方法や工夫なのである。

他者に「代わりに」させることの可能性

 ここでAさんのことを考えてみる。Aさんは、家族(妻)と暮らすALSの男性だ。家族は仕事をしていて、Aさんはその昼間の時間帯を一人で過ごすことになる。Aさんは話すことができるが、自力ではほとんど身体を動かすことができない。そんな彼の要望は、ベッドのリモコンを自分で操作できるようにしてほしいということだった。話を聞けば、今の彼の現実的な悩みは、昼間一人の時間に寝返りをうてずに身体が痛むことであるという。これまでは、かろうじて動かせる左手指のところにベッドのリモコンを置いて操作し、寝返りの代わりにベッドの上げ下げを利用して過ごしていた。しかし、左手指が動かしにくくなりその操作自体が難しくなったとのことだった。
 私は話を聞きながら、それがたとえ自分でしたいという欲求があったとしても、他人の手で安全になされるのなら、その行為を他者に「代わりに」させることの可能性を思っていた。だが、そのことを口にすることは躊躇われた。それは、徐々に動かなくなる身体とどのようにつきあっていくか、という不安や悩みが「これから動かなくなるんや」「今はこうして話せるけど時間の問題」「僕には時間がない」という言葉とともに、度々語られたから。このことはケアを受けることに対する悲嘆のようにも聞こえたからだ。
 話を聞いていく中で、日中の訪問介護が2、3時間しか入っていないことに気づいた。その合間に訪問リハビリなどが入っているものの、そばに誰かがいて介護をしてもらえる時間はたったの2、3時間しかない。それ以外の時間はベッドの上で一人きりで寝かされている。そこにいたケアマネージャーの説明では、長時間の介護を可能にする重度訪問介護は、介護保険が優先されるから申請自体していないという。さらには、家族がいるから申請してもあまり時間数は期待できないという。そしてAさんからは、家族やヘルパーがいるときはベッドの操作を代わりにしてもらっていることが話された。とくに家族は、夜間に寝返りができないAさんの体位変換もしているとのことだった。そうしたケアを代替する者が日中は不在だから、最初から他者に「代わりに」させることの可能性が選択肢としてなかったのだ。
 家族に負担が集中する、あるいは介護者がそばに常駐していない介護体制では、Aさんのように――たとえその行為を他者に代わりに委ねることができるとしても――自分自身でその環境を整えることを可能にするような装置を求められることが多い。この背景には、本人にも専門職にも十分な情報が行き届いていないことがある。しかしそれ以上にその基底には、「家族が介護を担わなければならない」という考えがあるのではないか、と思う。このことは、一方で家族の支援を得られない人たちの地域生活の可能性を断ち切ることへとつながっていく。そうして、家族あるいは「家族代わり」となる特定の誰かにケアが委ねられ、そこでの切り離せない関係が閉鎖的な空間を創出していき、摩擦を生じさせてしまうのではないだろうか。

取り残される本人のジレンマ

 結局、コミュニケーション支援とは一体何なのだろうか。コミュニケーションという行為自体が生活のあらゆる場面でかかわるために、それはいろんな形に姿を変えながら問題を投げかけてくる。Bさんのことから考えてみる。Bさんはすでにその生活すべてに介助を要する状態で人工呼吸器を装着していた。
 Bさんの主なコミュニケーションの方法は透明文字盤である。意思伝達装置はあるにはあるのだが、それを操作するためのスイッチが合わずに、部屋の隅へと追いやられてしまっていた。そもそもBさん自身が意思伝達装置を使うことに消極的だった。しかし、透明文字盤をスムーズに読み取れる介護者は限られていた。また、Bさんは、わずかに動く左手人差し指でスイッチを押して介護者に身体の異変やニーズを知らせていた。それは、少しでも身体がずれてしまうとたちまち押せなくなるほど非常に敏感で、他の介護や作業ができなくなるくらい位置調整に時間をかけなければならなかった。そのためだけに業務時間を延長しなければならないほどであった。
 その結果、Bさんの介護に慣れている介護者に負担が集中してしまうようになっていった。そこで、ケアマネージャーや訪問看護師、ヘルパーらは、こうした状況はBさんにとっても負担であり、Bさんのニーズに迅速に応えられる環境を整備するためにも改善が必要だと判断した。ケアを行なう側である介護者たちの悩みは、透明文字盤を読み取ることとスイッチの位置調整に時間がかかることに加えて、それを遂行できる者が限られてしまっていることだった。そのため、誰でも簡単に位置調整ができる、本人も押しやすいスイッチや、意思伝達装置の操作ができるように環境を整えることが求められた。
 Bさんにとっても今よりも押しやすいスイッチの製作は強い望みであったのだが、実際にスイッチを製作するにあたっては、彼女と周囲とではその要望にズレが生じた。これまで通り左手の人差し指を使ってスイッチを押したいと要望するBさんに対して、周囲は確実に動かすことができる首や顔を使って押すことが出来るスイッチを考えて欲しいと主張した。それは、Bさんの左手の人差し指がまだ押せているという感覚と、日常的な介護場面から押せていないと判断する周囲との、身体状態についての認識のズレでもあった。
 最終的には、作業療法士によってBさんの左手人差し指の機能が判断され、確実に動かせる部位を使用したスイッチを検討することになった。Bさんにはこれ以上周囲に負担をかけたくないという気持ちがあったのではないか、とも思う。もちろん、Aさんのときと同様に動かなくなっていく身体とどうつきあっていくかという不安や悩みはあり、さらにBさん自身も日常的に変化する身体の状態を把握することが難しいということがある。結局は周囲の意見や判断を受け入れざるを得なかった。そこには、今まで押せていたスイッチが「押しにくくなった」というままならなくなっていく身体に自覚的でありながら、なお「まだ押せる/押したい」というジレンマがあり、その葛藤は取り残されたままになる。

誰にとってのコミュニケーション支援なのか

 誰にとってのコミュニケーション支援なのだろうか。少なくともここでは、Bさんとのコミュニケーションが円滑に図れないことで生じる不便さは、Bさんの視点ではなく、周囲が感じる不便さが課題として提示された。本来のコミュニケーション支援は、本人の要望のもとに身体状態と日常生活上の動作や環境に適合したスイッチの製作と提供がなされるのではないか。しかし、結局のところ本人の要望や主張、身体の状態は、その介護者や作業療法士によって判断される。そして周囲が感じる不便さの改良がいつの間にか「本人」にとってもよいことになってしまい、本人のジレンマが解消されることはない。Bさんが望むケアが、たとえ家族と特定の存在によってのみ担われることで可能となったとしても、周囲の「本人のニーズに迅速に応えるために」という主張は、介護する側の不便さの解消を要求しているにすぎない。
 「コミュニケーション」という行為そのものが持つ重みを、誰よりも敏感に意識し感じ取っているのは、まぎれもなくその本人である。ままならなくなっていく身体に自覚的でありながらも、なおもそこに希望を見出そうとする感情を前に立ちすくんでしまうのも、その本人だろうと思う。介護者や支援者としてその本人の生活に濃厚なかかわりを持ってしまうからこそ、介護する側の不便さと本人が抱える問題とが介護者の目線によって語られてしまうことで片づけられてしまうことがある。
 しかし、そうして取り残されてしまう本人のジレンマに対して、肯定的に――ままならない身体に変化していくことを引き止めるかのように――語りかけられるのも、何の利害関係ももたない存在だからこそできるのかもしれない、とも思う。何かの立場を持たなければその生活に義務を負わなければかかわれない、そのこと自体が閉鎖空間へと近づけ追いやっていく。だからこそ、外側からその生活の一部分に触れることがそうした閉鎖的な空間や関係性を解きほぐすための糸口になるのではないだろうか。




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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。



*頁作成:岩ア 弘泰
UP: 20200904  REV:
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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