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「障害と言うアジール ―― 公平のために棲み分けることについての提案 デジタル・アジール・モデル」
堀江 幸生(名古屋大学情報学研究科社会情報学 博士後期課程2年) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告
※オンライン開催
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last update: 20200916
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質疑応答(本頁内↓)
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■報告レジュメ
1.はじめに
障害はひとつの個性とみるべきものであり,それを無条件に負として捉えることは現在障害もって生きているものに対する蔑視でありその存在の否定であると言う意見に従えば,障害の発生を予防することは否定される.対して,障害は個性とは異なる病理現象と捉える性質であり,病理モデルで捉えるものであると言う意見がある.負の存在である障害を,生命が発生する以前の段階で治療・予防することは現在この世に生存している障害者の存在否定にはならない.もしそのことすら否定することとなると,全ての医学・医療はあってはならないものになってしまうからであり,医療は,がんや神経疾患・精神疾患等の治療や予防を実践することでそれらの疾患を消滅・除去することを目的とするのであるのだから,それらの行為は疾患を持つ人々の存在を否定することにはならないと言う意見は,このように正当化される.ただし,こうした主張は障害というハンディキャップを持って生まれてきた障害者に対する,同じ人としての共感と社会的支援があってはじめて説得力を持つ.すなわち,共生する社会の実現が必要である.
しかしながら,社会において障害者は,常に健常者との共生を考えてきたのにも関わらず,獲得してきた概念が異なることで共生が実現しているとは言い難い.貧困ビジネスはその最たるものである.我々は社会において連帯は可能であるが,共生はしあえずに棲み分けることに高い公平性を見出す.十分な資源を備えた理想的な社会であっても,社会的能力に応じて社会の原則に基づいたサービスを提供することはできない.それは現在の監視資本主義のような複数の大きな権力,地位,富の不平等な分配を伴う対立社会ではより明白になる.これは,社会の有する機能にも起因しているが,我々は概念の不一致から現れる“ずれ”からも,多様性を容認するような理想的な共生はできないと考える.
2.抑圧された集団
一般の社会モデルに描かれた障害の概念によれば,障害のある人を無効にするのは社会である.障害により,不必要な孤立,社会への完全な参加から排除される方法そのものを障害と言う.したがって,障害者は社会の抑圧された集団である.社会的抑圧を感じる様々な集団はそれぞれ分類されてある種の形態として存在する.障害とは社会的抑圧における特定の形態である
[1]
.
生産性と言う性質を人が生きるための基準のひとつにするような社会では,障害とは疾病や,広義の意味では犯罪も含まれる(犯罪を肯定しているわけではない).例えば,なぜその人が罰せられるべきなのかを考えるとき,社会規範があるのにも関わらずそれを破ったからと言うことは一般的な意見である.それは,食べることさえ事欠いている者が食べ物を盗んだ時でさえ有効である.では多くの健常者は食べ物を盗むような状況に陥ったことがあるのかと問われればないと考える.これは,窃盗を起こすような規律違反に直面せずに生きてこられたことの裏返しである.健常者の多くは規律違反に直面せざるを得ないよう状況から離れた環境に存在している.
さらに現在では,規律による分類だけではなく,社会の高デジタル化に伴ってリスクによる分類も行われている.このように抑圧のかたちは変化しつつも抑圧自体はなくならない.
本稿では,現在の社会モデルにおいて抑圧される性質を称して障害と呼ぶ.
3.共生と言う幻想
厚生労働省大臣官房統計情報部「社会福祉行政事業報告」も示すように,施設経営を行う社会福祉法人数が1990年の10071から2012年の16981へと増えて障碍者の働く場での受容は進んだ
[2]
.同時に障害者自立支援法下の就労継続支援A型事業では,国庫給付金を得た企業が利潤追求のために劣悪な就労条件を障碍者に押付け,彼らを真の労働・生活から排除している.そこでは一時的に障害者は生産者として位置付けられるが,恒久的には難しい.それは,健常者と障碍者の世界モデルが異なっているからである.
障害者と言うものは,その存続の為に非行為者としての自由を達成せざるを得ない存在である.すなわち健常者の形成する社会とは相容れるものではない.
世界を範疇化することにより世界が秩序づけられ,世界の中での自らの位置が定められていく.この範疇を心的に特徴づけるものが概念
[3]
である.概念は現実世界を映し出すものであるが,ある実体が外界と相互作用する過程で形成される.我々は,時間であろうと空間であろうと,我々が存在する世界の抽象的な表現を学習する.これを本稿における概念とする.知覚,記憶,感情,および観念は脳の機能として理解可能であり,概念とはそれらに存在する世界モデルの有り様とする.このように考えるとき,障害者と健常者は構築してきた世界モデルが明らかに異なる.
昨今,社会における多様性を認めて生きていくこと,共生が叫ばれる.私たちは,道徳的共同体を築いている.共生していくとは,障害者がこの道徳的共同体に属していくことになるが,それは,不在者の世界から存在者の世界へと越境していくことである
[4]
.
その領域では障害者と健常者の根源的な相互浸透性を視野に入れることのできる社会規範が求められるが,障害者と健常者は構築してきた世界モデルが明らかに異なる.
近代の規律社会では,規律を逸脱した存在は社会的の抑圧された集団となったが,社会モデルがどのように変化したとしても世界モデルの差はなくならない.このような観点より我々は障害者と健常者は棲み分けることが公平性に繋がると考える.
4.障害と言うアジール
誤解を恐れずに述べれば,我々は障害者が障害を持つゆえに障害と言うアジールを認め,その中で不安や困窮とは無縁の領域を創出したい.行為することなく生きられるアジールを確立したうえで初めて,社会的抑圧者は自由を得られる.
障害者は、これまで常に健常者からの視点で扱われてきた.それは差別と排除の対象であり続けたというだけではなく,福祉的施策や援助においても,常に健常者から障害者へ向けられた一方向的な関係である.では障害者は,健常者社会に同化していくことを目標にすべきなのか,それとも健常者社会にどうしても同化できない部分があることを自らのなかで対自化し,健常者とは異なる独自の社会と文化に自己同一性を求め,健常者社会に対抗していった方がよいのか.我々は,後者を選択する.これは異文化共存という立場をとることになり,障害者文化が障害者のなかで閉じたものとなって自足してしまうことで社会の中の差別構造を変えるに至らないという問題が生じることが危惧される.それゆえに我々は,共存・共生ではない新たな関係,アジールの連帯と言う手法を提案する.
我々が呼ぶアジールとは,社会的弱者が時に自律した個人としての責任や意識決定を放棄できる機会を提供する場所である.それはTAZ
[5]
のように一時的な場所ではなく恒久的に存在しなければならない.
人は社会において環境と言う適切な対処ができれば存在を否定される者はいない.さらに,小泉義之
[6]
が説明するように,生存するに値する様式として積極的に肯定されなければならない.
アジールでは,働く義務を強いらない.働きたいが働けない,働きたくないと言うような線引きをすることに現実的な効果が作用しているかを考えるとき,例えば精神障害者は,外見から働けるのか働きたくないのか働けないのかわからない.しかしながら第三者から働けると見込まれて,障害が悪化して自死してしまうような事例は枚挙に厭わない.このようなとき,働けるか働けないかを選別して働ける人は働かなければならないとは,我々は考えない.これは労働に関わる問題となる.我々は労働と切り離した所得保障を考える.それが人工知能によるベーシックインカムである.
5.社会の在り方
本稿では社会の在り方を,主体と客体からなる集団との相互作用から,孤立,包摂,排除,連帯として分類する.孤立とは,相互作用が全くない集団,包摂とは,有向な相互作用のある集団,排除とは,相互作用が成立しない集団(集団に属さない実体が存在する),連帯とは,無向な相互作用がある集団である.これと並行する考え方として,相互作用に時間軸を加えた,排斥,同化,棲み分け,共生という分類も提唱されている.排斥とは,いずれは排除されるという考え方,同化は,場に合わせて包摂に変化する考え方,棲み分けは,連帯に変化する考え方,共生は,場で有向をお互いが変化するという考え方である.
社会は確かに歴史的な大きな抗争を経て徐々にある均衡点に収束しているようにみえる.その潮流の中で,先人の研究も含めて我々はより良い社会の在り方を考察してきた.しかしながら,我々は社会を人が作り上げる限り収束しないと考えるに至った.日本ではダイバーシティ社会(多様性に寛容な社会)を実現する動きがある.しかしながらこの実現は,消費と生産という枠組みの中で実現される動きである.障害者にとっては,生産に携わりたくても関われない場合もあり,持続可能な社会においても居場所はない.そもそも障碍者とは,誤解を恐れずに述べれば,狭義の人の定義から欠落している部分をもつ者であり,変化ができない.マルチモーダルの一部が欠損しているのである.そのために我々は必然的に棲み分けすることが正しい選択とする.文化背景とは世界モデルであり,お互いに異なる世界モデルでしか認識(生活)することができない者が共生することは不可能である.
アジールは社会を構成するひとつの集団であり,我々は,社会的強者を含むそれぞれの集団の連帯を目指す.
6.制御社会主義
昨今の急激な情報化によって,決定論的な社会構造がつくりあげられつつあるが,それは社会の高デジタル化に他ならない.人工知能によれば,我々は自己決定し判断する主体としてではなく,一定の確率や法則に基づいて,その行動を予測することのできる対象として把握されている.そこでは、過去の事実に基づいて未来の行為を予測するシミュレーションが絶えずおこなわれている.膨大な個人情報の蓄積は,我々が自分で何かを判断する前に,するべきことの指針を提示してくれるようなシステムとして利用されており,それは,個人が何を選んだか,何を望んだか,何を考えたかということが,自動的に蓄積され,その個人情報の集積を元に,次にするべきこと,選ぶべき未来が,ネットワークのあらゆる場面で提示される.このような人の極度なデジタル化により制御資本主義は確立される.
デジタル・レーニン主義とは,共産主義社会が計画経済の崩壊による解体と言う二の轍を踏まないため高デジタル化を導入した結果である.そして,資本主義社会では行き過ぎたグローバリズムが,必然的に高デジタル化された社会を産み出した.両者は本質的に出発点が異なるが,目的地は人の極度なデジタル化に違いない.高デジタル化社会では,障害者は無意味なデータ,危険なデータとしてとして対象化される.例えば,犯罪は,それが起こる確率をもって規定される
[7]
.その原理となるのは,正常と呼ばれるものとの偏差であり,与えられた細密な規則にかなった最も模範的な振る舞い,すなわち正常と呼ばれるものという無限点に人を近づけることではなく,多様な個人は正常と呼ばれる者(確率分布の中央値)のまわりに位置づけられ,そこからの距離を測ることで全体と個を同時に管理していく.
制御社会主義と現在の行き過ぎた監視資本主義の違いは,監視資本主義は全体主義だが,制御社会主義は,制御する主体を機械に任せることで社会を公平に運営することを目指す.制御の倫理として,他者への配慮の必要性を提唱する.この意味において制御は正当化される.制御社会主義はデジタル・アジール・モデルの核となる.
我々は,労働を機械に任せる.昨今よく耳にする持続可能な社会,成長の限界という言葉はこの世界を人が操れるという驕りからくる愚かな言葉である.たかだか人による生産と消費のサイクルは資本主義であろうが社会主義であろうが永遠に続くことは幻想である.
7.機械化される社会規範――デジタル・アジール・モデルの誕生
インターネットの拡大と人工知能の進化は,社会構造と相互依存的に人の生活を大きく変化させている.例えばスマートフォンの普及拡大に依って,我々の生活様式が大きく変わったことは否定できない.社会構造の変化は受動的に我々の倫理観を変化させている.
犯罪は,社会構造と密接に関係している.社会構造を変化させないと犯罪は繰り返し起こる.犯罪者一人を裁いて済ますことは,社会構造を変化させずに済ますことになる.社会構造の変化には多大なコストがかかるので,わずかな犯罪者を出さないようにするためのコストが割に合わないと判断されれば,犯罪がただ一人のせいで起きているとみなして,その一人を裁くのはコストに見合った合理的な判断と言うことになる.
しかしながら,インターネットの拡大と人工知能の進化は,社会構造の変化にかかるコストを効率化によって減らすことを可能にした.効率化は,犯罪をなくすには,犯罪をなくすのではなくて,犯罪行為そのものをなくすという社会構造の変化を現実のものとする.例えば,ドライブレコーダは,ドライバーに無意識下で交通規範を遵守させている.お互いに監視しあうことで速度違反は無くなってしまうかもしれない.また,無人のコンビニエンス・ストアで,ある客が手に取った商品を機械が読み取って自動的に精算してしまうこと可能にしたのならば,そのとき窃盗という行為はなくなる.インターネット世界に限定すれば,デジタルデータは除いて(悪意ある複製ができる)窃盗という行為を失くしてしまった.犯罪を人の倫理から切り離し無意味化する社会は,シンギュラリティよりも脅威であるが,簡単に言えば,犯罪が侵せないようなシステムを作ることが,我々から善悪の選択肢を取り上げてしまうように,社会規範は機械に委ねることが可能である.
我々は高デジタル化社会のもつ機能を機械上によって社会規範を実行化する手段として用いればよい.最終的には,ニック ボストロム
[8]
が言うような,シングルトン(世界秩序)が社会を管理する.国家権力によって強制される社会規範のことを法と言うが,社会規範を機械に委ねることで国家権力のひとつは必要なくなる.このように国家権力のもつ機能である物の生産やサービスの提供,富の再分配を実現する社会(システム)をひとつひとつ機械に置き換えていくことがアジールを恒久的に作り出せる仕組みであり,これをデジタル・アジール・モデルと呼ぶ.デジタル・アジール・モデルとは,機械による統治の枠組みである.
デジタル・アジール・モデルでは,連帯を維持していくべき規範を定義しなければならない.我々は,ロールズ
[9]
の原初状態における無知のヴェールを平等な関係性の経験を通して現実の社会構造に反映させる.
ロールズの正義の概念は,経験的結果として効用によって正義の概念が決まるという功利主義的な正義の理解とは著しく対比する.功利主義者が関心を持っているのはあくまでも効用の最大化であって,その効用を等しく享受するかについては関心を持たない.功利主義における平等とは,利益に対する平等な配慮であり,同じ大きさの効用を得るためには障害者よりも健常者の方が少しの財しか必要としないとしたら,功利主義は健常者に財を与えることを要求するからである.それでは,極端な不平等を生む可能性があり,社会で最も恵まれないグループが基本的な権利や自由を確保できない.ロールズは,そもそも社会に不平等があることを前提として,それを再分配的政策で是正することを目指している訳ではなく,最初から不平等や不公正がない社会を構成し実現するべきだとして,無知のヴェールと原初状態を提案した.本稿もこの立場を支持する.
8.脱労働社会
人工知能の普及は,技術進歩率を飛躍的に高めて,労働生産性や経済成長率を新たに伸長させる可能性がある.しかしながら,それは大量の失業者の増加と引き換えに実現されるものであり,しかも供給した製品やサービスが市場で実際に売れることが前提であるにも関わらず,むしろ労働者所得の減少,失業者の大量発生により総需要の劇的な縮小をもたらす.これはデフレとマイナス成長を長期化させ,所得格差をさらに拡大させる可能性が高く,加えて高先進的な技術を導入した国とそうでない国の間に大きな格差が起きる.
しかしながら,このような機械化経済が訪れると,労働者がいなくなるので資本家が労働者を雇い,労働者が機械を使って商品を生産するような経済である現在の資本主義経済がシステムとして終わりを迎え,人が機械へと置き換わるので,人が労働から解放される脱労働化社会を実現できる.ただし,このように訪れた脱労働化社会では労働者の収入の在り方は変化せざるを得ない.現状、手段として考えられるものには,1)生活保護,2)社会主義経済,3)ベーシックインカムがあるが,1)と2)は,生活の充足感や勤労意欲を考えても十分に機能しているとは言い難い.3)は,国から直接国民すべてに,最低限の生活費を給付するというものであり,選別的に給付する生活保護に比べて,一括で給付できるので行政コストが割安になるが,医療や介護等の障害支援に費用がかかる人に対しては,今まで通りの社会保障制度が別に必要となる.
デジタル・アジール・モデルの実現をエネルギー・トレードから考える.例えばブロックチェーンのブロック生成時のエネルギーは,電気自動車の製造と廃棄されるまでの過程で用いられるエネルギーと変換可能である.これは,例えばマルクスの労働価値理論をビットコインに紐づける強力なモデルとなるように,ブロックチェーンを用いてアジールを維持するために必要な経済的課題への具体的な解決方法を示す.さらに,このようなエネルギー間の変換が価値に相当するような理論的な裏付けは,ビットコインをプログラムすることで,定期的にベーシックインカムを支払うようなシステムを形成することもできる.
わかりやすく言えば,現代では多くの人が社会の目的達成のため人生の大部分を労働に費やすが,豊富な資産を受け継ぐ者は労働とは無縁である.働かなくては食べていけないので働かなくてはいけないと言う考え方自体が誤っている.働きたいなら働いてもいいけれど,働きたくなければ働かなくても構わない,我々はこのような選択肢を提案することで障害者が心身ともに何不自由なく生きていく仕組みを提供できると考える.
9.終わりに
本稿では,機械知によるアジールを含んだ連帯を考察することで公平な社会の実現について考察してきた.我々は障害者を疎外するのではなく,彼らを尊び,存在を認める社会をつくりたい.政治体制がどのように変革されても,人の価値についての革命がおこらぬ限り,社会は根本的に改善されない.力対力,報復に次ぐ報復でどんなにバランスをとろうとしても,競争原理を捨てて新たな原理に立つ人の生き方を実現しない限り,障害は無くならない.人は,誰もが必要な存在として造られており,人が生きてゆくのは,他を愛し共に生きるためであることだと考えるが,人は愚かであり戒めることはできなかった.それを実現する方法は人が社会を治めることを諦めることである.
高度な機械化が可能になればアナーキズムは実現可能であり,そこで連帯は保証される.デジタル・アジール・モデルとは,階級原理と国家原理に基づく社会システムを連帯と人工知能に置き換え,機械が自主管理する自由な非国家主義社会で置き換える.能力の欠如や状況による制約を,人は技術によって克服してきた.自動車,飛行機,計算機などがそうである.ある種の技術は,社会規範に介入し,それを補助している.プログラム化された望ましい行為を実行する機械は,人間の意思決定に介入する人工知能に比べ受け入れやすい.機械であれば、人間に比べて周囲の状況や感情に左右されることなく確実に実行する.ただし,我々の提案するような社会モデルの正当性は,あたかも,今の技術と監視資本主義が正当化されているように帰結主義的にしかわからない.
最後に我々は,今の社会構造に不満を抱いている人たちが,新たな自由の獲得手法を手に入れたことを確信する.
注
[1] 星加 良司,障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて,生活書院,2007
[2] 竹内 章郎,障がい児者を巡る受容と排除―生存権理解と関わって,総合人間学第9号,2015
[3] 児玉 徳美,概念化と言語化,立命館大学人文学会編,2009
[4] 小原 克博,不在者の倫理――科学技術に対する宗教倫理的批判のために,宗教と倫理第16号
[5] ハキムベイ,箕輪 裕(翻訳),T.A.Z.―時的自律ゾーン,インパクト出版会,1997
[6] 小泉 義之,あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学,青土社,2018
[7] 山口 宏,新たに排除される狂気―統治の社会理論と精神障害―,日本福祉大学社会福祉論集第113号,2005
[8] Nick Bostrom, What is a Singleton?, Linguistic and Philosophical Investigations, Vol. 5, No.2, 2006
[9] John Rawls, A Theory of Justice (Harvard University Press, 1971, reviseded, 1999
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■質疑応答
※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人は
tae01303@nifty.ne.jp
(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じく
tae01303@nifty.ne.jp
とします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→
http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法
名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。
*頁作成:
岩ア 弘泰
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障害学会第17回大会・2020
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障害学会
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障害学
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『障害学研究』
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