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尾上浩二氏インタビュー

20200807 聞き手:立岩真也 於:

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尾上浩二 i2020 インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也・岸田典子 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ
 (NPO)ちゅうぶ:https://npochubu.com/outline
楠 敏雄(1944〜2014/02/16) ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 20200807_183分
cf.
◇尾上浩二 i2020a インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ
 (0807インタビュー前半になります。以下、この頁は後半になります。)

 ※註をいれたりする作業はこれからになります。


立岩:ぼくは79年だから79年養護学校義務化で。

尾上:もう終わったあと。

立岩:でも、もうやるよって、もうはじまってるんだけれども、日共系とそうじゃない系とドンパチやってて。ぼくはもう大学入った4月に初めて知ったんだよね。初めて知ったけど、それ以来、けっこう長いですけど。そうか、その1年前に大阪市大入られて、市大がある種の拠点だったわけですね。

尾上:全障連が、結成大会をしたの、実は大阪市立大学だったりするんですよね。そういう学外の団体にも全国大会をするっていうので大学の教室を貸すような文化が残ってたのが、その頃の市大でしたね。青い芝の介護グループとかけっこう行ってたりもしてましたからね。

立岩:よく大学だと障問研とかさ、障害者問題研究会とか、そういうのがある大学もあるよね。

尾上:私の入った頃は、大阪市大は障解研ですね、障害者解放研究会。

立岩:解放ってやっぱり大阪だよね。ちょっと大阪ノリだよね。

尾上:あえていうとね、差別問題系のサークルで、○○問題研究会っていうのはどちらかというと、共産党系というか。いや、当事者の自らの立ちあがりと差別からの解放っていうと解放研。問題じゃなくて解放だろうっていう、そこの問題か解放かっていうのはやっぱり関西の大学では大きなテーマでした。京都もそうですよね。

立岩:そうですね。

尾上:関西では障害者問題研究会か、障害者解放研究会か、その名前の違いで養護学校賛成か反対かがわかれるみたいな感じでしたね。

立岩:市大は両方あったんですか?障解研と。

尾上:障害者問題研究会はなかったですよ。

立岩:障解研はあった?

尾上:障解研はあったというか、もう少しいえば青い芝運動と連帯するサークルという感じですね。

立岩:じゃ、その研究会っていうか、サークルに入ってるのは健常者で介護者みたいな。

尾上:そうです。そもそもそんなに大学に障害者がいなかった時代だったということもあって、ぼくが障解研の中で初めての障害者学生だったんかな。

立岩:そんな感じやな。特に党派が入ってたとか、そういうことはないですか?

尾上:ではないですね。むしろちょっと他のサークルとかが、党派が入ってて、それこそ障解研オルグに入ってたけど、むしろそこは青い芝がやっぱり作ったというのもあって。当時、市大は中核派の拠点だったんですね。障解研に入る学生たちにその中核派のオルグとかを、すごくしつこくされたのを覚えています。でも、このあとの話になりますけど、楠さんの関西障害者解放委員会と彼らの障害者解放委員会とで、わかれていったあとの時代なんですね。私が障害者運動に関わり始めた頃というのは。

立岩:そうですね、わかれた、

岸田:78年はね。

尾上:わかれてるでしょう?

岸田:72年ですね。中核からわかれたのは。

尾上:それから6年も後のことなので、「青い芝、全障連に連帯して、障害者解放運動の一翼を学生として担おう!」みたいな感じが、障解研のスローガンなわけですよ。

■楠

立岩:それでそろそろ岸田さんも、あれやから。こないだ郡山で飲んだときに、最初の出会いが楠さんから連絡がきて、呼びだされて、行って、喫茶店行って、楠さんカレー食ってっていう、そういう話を聞いたもんですから☆。
横山 晃久尾上 浩二 i2018 インタビュー 2018/03/17 聞き手:立岩 真也・岡部 聡・田中 恵美子 於:郡山市(福島) ※

尾上:じゃその最初の出会いですよね。岸田さんお待たせいたしました。

岸田:今、録音、ちょっと途中からさせてもらってるんですけど、いいですか?

尾上:ぜんぜん問題ありません。最初からでも全部、使えるぶんあったら使ってもらってけっこうですよ。私が障害者運動に関わりはじめたのが、4月にはどこの大学でも新歓あるじゃないですか。新歓祭。そのときに障解研が、青い芝の連中を連れてきて、「障害者と語ろう会」っていうのをやる。

岸田:障害者解放研究会?[01:15:17]

尾上:障害者解放研究会。それ、略して障解研。で、それで「障害者と語ろう会」っていうので。ぼく以外でいうと健全者ばかりだから、「障害者と語ろう会」という名前の企画。その頃、ぼくは松葉杖で歩いてた。今から思えば、青い芝の介護に入ってた連中がぼくを追いかけてきて、「きみ、障害者学生やね」って、「今、障害者と語ろう会やってるからこないか?」「けえへんか?」って。おれ障害者やけど、障害者と語ろう会ってなんか不思議やないですか。新歓なので、授業もなかったんでね、行ってみようと思った。
 さっき言った通り、高校のときからこじれてはいた、こじれた高校生ではあったんですけど、どちらかといえば観念的にこじれてた感じなので。例えばいろんな新聞記事、社会事件をていねいに追いかけたりとか、そういう部分はあんまり知識なかったので。そういえば障害者がバスジャックをしたとかっていうのはなんかで見たなぐらいだったんですね。ぼくの予備知識ってね。それで、その青い芝のかれらと出会って。それこそ他はぼく以外は障害のない学生たちですよ。「きみたち学生が、なぜ、ここ、大学っていうのがあるかわかってるか」とかって、急に言いだすんですよ。「大学っていうのはな、障害者差別の上に成り立ってる、その頂点が大学や」とか、なんかそういうふうにして、学生を糾弾というか、学生たちからしたら一生懸命がんばって大学に入ったつもりで、それが「おまえらは差別の頂点だ」って、ガーンとくるわけですよ。そういうふうにして、障害差別の問題を学生に突きつけて自分たちの介護に入るっていうのは、困っているから介護に入ってくれじゃなくて、そういうことも知らずに大学に通い続けるのはおかしいだろう。自分たちの介護に入って差別の実態を学べっていう言い方なんですね。学ばさせてやるという感覚だったと思います。おぉなんか語ろう会っていうけど、そんなににこやかに語るというよりは、ハードやなと思いながら参加してて。そのときの一番大きなテーマになったのは養護学校義務化なんですよ。1978年ということは、1979年から始まる養護学校義務化の前年なので、「来年から養護学校義務化というのが始まるんだけど、これはどう思う?」って。なんとなく養護学校義務化という名前からしたら、「養護学校にいけなかった子がいけるようになるんだったらいいんじゃないですかね」と参加した学生は答えて。「それが差別だ!」(笑)「養護学校義務化っていうのは障害のある子とない子をわける、きみの小学校中学校時代に障害のある子周りにいたか?」「いませんでした」「なぜそうなってるかわかってるか?わけられてきたからだ」っていうそんな感じ。つまり、青い芝からいえば無自覚にその差別構造の中を歩いてきた学生たちに対して突きつけることで自覚させるみたいな場だったと思うんですね。
 養護学校義務化の問題については、ぼく自身は、自分のこじれた高校の体験もあったりとかしたので、それこそその当時のぼくの感覚の言い方で言うと、なんとか勉強とか追いつけたから、いろいろと悔しいことや嫌なことあったけども、それでもなんとかやれたけれども、すべての子どもがっていうのはなかなか厳しいんじゃないかなみたいなのが実感みたいな感じ。行きたい子がいったらいい。当初は、選択論に近い感じだったかな。自分の経験からみたら、「自分でも、やっぱり苦労したから、もっと重度ですべての子ってなるとなかなか厳しいんじゃないですかね」みたいな、そんなことを言ってたんだけども。ただ、そういう話よりもね、よく覚えてるのは、坂本博章さんっていう亡くなられた人のエピソードなんですよ。

岸田:坂本さん☆ね。南部の人ですよね。[01:19:38]
☆『坂本博章さん追悼文集』、南部障害者解放センター、2007年

尾上:じゃあもう、坂本さんは脳性まひによる全身障害で、手も足も全部障害があり電動車いすを足先でちょっとコントロールできるぐらいだったかのかな。全面介護が必要でした。それで、ヘビースモーカーだったんですね。1日2箱か3箱吸ってたと思うんですね。1日40本から50本ぐらい吸ってるから、1時間2時間一緒に話してると、4〜5本は吸うわけですよね。障害があるから「おいタバコ」と介護者に言って、咥えさえて火をつけて、ふっと吐いて。しばらく喋って、また「おいタバコ」。たぶんね、ぼく以外の学生は、そもそもそういう重度障害者が目の前にいてて喋ってること自身が驚きなんだろうと思うんですね。でも、ぼくにとったら、施設にいた時に同じぐらいの子どもがいくらでもいたから、重度障害の存在そのものは驚かなかったんですよ。それよりもね、「えっ」と思ったのは、「あ、タバコ吸うんや」と思ったんですね。さらに自分で「えっ」と思ってる自分にとまどう。なぜかっていうと、さっき言ったような高校生なのでね、ジャズ喫茶で何時間もいてたら、タバコ吸わないとやってられないじゃないですか。(笑)もちろんタバコ吸ってたんですよ。まぁええよね。これ時効や。タバコ吸ってて、あれ、自分でタバコ吸ってるのに、なぜ彼がタバコ吸ったら「えっ」て思ったんやろう?そうか人の手を借りてタバコ吸ってるから「えっ」て思ったんやって。あれがね、例えば「ちょっと水飲ましてくれ」とか「ちょっとトイレ」とかっていう話やったら、水とかトイレで「えっ」ていうふうに思わなかった。「あ、自分で火をつけれなくてもタバコ吸うんや」っていう、そこになんか自分自身が「えっ」と思ったことに、さらにとまどって…。後で知った理屈で言えば、「支援を選びながらの自立」っていうのかな。ぼくらの子どもの頃って、人の手を借りずに、そして障害を克服することが自立だとずっと言われ続けてきたんじゃないですか。でもそうじゃなくって、自分でタバコ咥えられなかったら「おいタバコ」っていうて、介護を得てタバコを吸うのが自立の姿だ。自立とは自己決定うんぬんとか、いろいろ理屈っぽくいおうと思えばいくらでもいえるけど、自分にとっての原風景っていうのはその坂本さんの咥えタバコですね。

立岩:その新歓の、なんとなくわかりますよ。キャンパスで出店みたいなの出てて、その話そう会って何人ぐらいいたのか記憶にあります?ざっとでいいです。

尾上:ざっくり学生8人ぐらいは、7〜8人ぐらいおったかな。

立岩:7〜8人の全部で?その中に坂本さんが?

尾上:学生が7〜8人、プラス

立岩:サークルのメンバーも含めて?

尾上:いえいえ、新歓、新入生が7〜8名で、上級生、上の連中が3〜4名ぐらいで、あと青い芝が3名ぐらい。

岸田:青い芝3名ぐらいですか?

立岩:そこの1人が坂本さん?

尾上:そうそうそう。

立岩:なんとなく情景がわかってきた。

尾上:規模的にいうと、全部で20名ぐらいの集団だったかな。芝生で、こう語ろう会とかって。

岸田:それは新入生の?

尾上:それが障害者運動と出会う最初のきっかけなんですね。ちょうど養護学校義務化阻止共闘会議っていうのがあちこちに作られてて、その坂本さんっていうのは、大阪市阻止共闘委員会の事務局長してたんですね。4月にその新歓があって、語ろう会で坂本さんとあって、5月の連休明けくらいに坂本さんから電話かかってきて「今度、大阪市教委と交渉を持つから1回見にこい」とかって。授業もあんまりおもしろくないから、行ってみようと思って。今から思えばむちゃくちゃなんですけど、交渉のための事務折衝とかがないんですね。突然行って、5月のある日、10数人ぐらいで押しかけて。養護学校義務化に対して大阪市として反対することとか、今後も障害のある子が地域の学校で学べるように本人、保護者の意思に反した就学決定をしないことみたいなねそういう要望書を読み上げて、この件で今から話し合いもてっていう。話し合いをもてという交渉なんですよ。

岸田:その場で?

尾上:その場で。

岸田:へぇー。

尾上:しかもですよ。「いきなりこられても」とか、初めて、そりゃそうやわなとかて思いながら。「でも来年に迫ってるから。我々も命かかってるんだ」とか言いながら、「今日は約束するまで我々は帰らないからな」とか言って、「今日はこれから座りこみます」って。「えっ?」聞いてなかったとか思って(笑)突然座り込みが始まるんですよ。[01:25:13]

岸田:それに楠さんがおったんですか?

尾上:楠さんはいなかったんです。大阪市教育委員会だったから、どちらかというと、坂本さんが責任者でした。まだその頃は高校時代の友達とはつながってて、その日の夕方に久しぶりに会ってめし食いに行こうとか約束してて。その頃まだ携帯とかそんなんないじゃないですか。だから連絡しようがない。「坂本さん、これ何時に終わるんですか?」「そんなんわかるか!」(笑)けっきょく8時まで座り込みだったんですよ。
 でもね、ぼくにとっては、たぶんそれが、すごくちゃらんぽらんな言い方に聞こえるかもわかりませんけど、その波乱万丈さがおもしろかったのかもわからんな。ずっと周りから「障害があっても乗り越えろ」みたいな、いわば秩序だったずっと押しつけられじゃないですか。「そんなものクソくらえ」みたいな。そういう、なんかはちゃめちゃだったから、ぼくは逆に魅力感じたのかもわからないな。今どき、こんな話したら、「そんなんだったら、もうぼく、そんな交渉とてもじゃないけど、次から行きませんわ」「なんで尾上さん、次から行こうと思ったんですか?」「いや、あれね、たぶん事前に意思統一して獲得目標がどうのこうのとか言われると、なんかおもんないなと思って、途中で辞めてたかなと思うんだよね」と言いたいところです。
 そういうのから始まっていろんな交渉を、それこそ養護学校義務化の前の年なんでね、大阪府なんかは、全市町村40いくつあるのかな。40いくつの教育委員会全部に交渉をもって、「本人、保護者の意思に反する就学決定はおこなわない」っていう確約をとるんですね。いわゆる最低限選択権を認めさせるというか交渉がどんどん入ってくる。
 そうやって、ともかく交渉にわけもわからないまま、一参加者として参加してるときに、たぶん楠さんに名前は聞こえたんかな。だからその交渉のどっか、7月ぐらいだったと思うんですけど、大阪府教育委員会の教育委員会の交渉のときに、そのときは府だったから楠さんが責任者で、楠さんが司会してたんですよ。青い芝の交渉では「我々の声を聞け!おまえらは差別者だ!」と突き上げて交渉を進めていくのが基本スタイル。ところが楠さん、例えば向こうが「政令三百三十なにに基づいてどうのこうの」って説明するじゃないですか。でも「政令っていうけど、あなた達、これまでの大阪での経過をどのように評価しているのか」といった感じで、向こうが言ったことに対して論理的に批判をして、「せめてこれくらいはあなたたち地域の教育委員会としての役割だし、あなたたち指導主事としての責任と思わないか」っていうふうにぐいぐい攻めていくんです。それが楠さんの第一印象。ちょっと先走った言い方になりますけども、「楠さんの話とか、それで印象に残ったことはないか?」っていう質問ありましたけど。講演とか本とかよりもね、交渉を仕切ってるというか、進行という意味じゃなくて、行政側がなんか適当に説明して、のらりくらり逃げようとしたときに、ガッとこう相手の尻尾を掴んで離さずで、「せめてこれくらいはできるだろう」みたいな形でね。

岸田:論理的に、交渉していくというか、青い芝はどっちかというと気持ちっていうか、それが強いっていう感じがするんですけど。楠さんの場合はやっぱり、非常に論理的な人やったから、まとめるの上手やったし、話まとめるの。

尾上:たぶんね、楠さんの魅力というか力っていうのは、楠さんはそういうふうにまとめるんですけど、青い芝から色々と問題提起や突き上げをし行政側が返答に詰まる状況の中で、向こうが言ってる言葉尻を掴みながら攻めていくっていうのかな。そういう力、その司会ぶりみたいなテクニックっていう意味じゃなくて、そこの相手に切り込んでいくキレキレの感じが魅力的だったというのが、それが7月ぐらいですね。[01:30:02]
 そのあと楠さんと個別に話をしたのは、そのときの9月か10月。それは去年、郡山で話をしたことなんですけど。楠さんってその当時、天王寺高校の二部の先生やってたじゃないですか。ちょうど天王寺高校ってね、この近くの美章園って駅が最寄り駅なんですね。ぼくも、実家が美章園だったので、近くの喫茶店よく知っていて、そこで楠さんと会うことになりました。連絡があったのは、楠さんから直接じゃなくてね、楠さんの秘書みたいなことをしてた全障連の本田さんからでした。本田さんとは、なんかの集会で会ったことがあって、「おたく、最近ときどき見るけどなにやってんの?」って言うから「市大の学生です」とか。

立岩:ちなみに尾上さんって市大の何学部いかはった?

尾上:文学部。いちおうね、元文学というか、哲学、文学でこじれてたから、なんとなく哲学か文学やろうと思った。

立岩:市大って、学科っていうのは行くときに決まってないんですか?

尾上:入学時は文学部は、今でいう総合コース的な感じで、入ってから決まる。2年のときに分かれていくんです。

立岩:2年で決めるんだ。

尾上:2年時で文学、哲学、歴史、教育、心理、社会を選択する仕組みでした。

立岩:尾上さんは2年のときどこいった?

尾上:けっきょく教育に行きました。もともとね哲学と思ったんですけど、ぼくのときの市大の哲学ってね、カントまでしかなくて、ヘーゲルもやってる人いなかったんですね。どちらかというと、関心でいうとやっぱり高校時代の読んでたやつからすればヘーゲル、マルクスあたりに関心があるから、それより前だしなっていうのもあって。それでちょうど養護学校義務化の中で、発達保障論って、全面発達の理論っていうのがあるんですね。それのもとになったのがソビエトの心理学っていうのがあって。人格論っていうのがあるんですけど。実はそのソビエトの中のいわゆる機能主義というか、近代主義的な理解の学派と、もうひとつはぼくの感覚でいえばヘーゲル以来の弁証法的決定論に立った人格論の学派と2つがあってあって。それでなんか発達保障論批判したくて教育学にいったみたいな。そんな。そんななんかわけのわからない人生ですよね。

立岩:でも文学部なんだよね。ぼくもそうだからさ。親とかなんか言われなかった?

尾上:言われますよ。大学いくのになんでわざわざ文学部と。いくんだったら法学部か経済か、市大だったら商学部が有名なので。やっぱり法経商やろうとかって言われました。

岸田:え、歴史とかやってはらへんかったんですか?

尾上:だから歴史も好きで、もともと文学が好きだったので、どちらかというと文学史というか、近代から現代にかけての文学史というか、歴史からみた文学みたいなのがやりたいみたいなんで、歴史、日本近代史か哲学にいこうというのが、一番、そんな話しましたっけ?

岸田:私なんかでね、斎藤さんの家で歴史とか聞いて、

尾上:いやぁ、こんな話、「ぼく一時、歴史も考えてたんですよ」なんて、もう何十年ぶり(笑)言われてそういうこともあったなと思って。

立岩:ぼくも文学部にしちゃって。

尾上:文学部で?もともと社会というよりは?

立岩:そうなんですよ。東大は2年まで決めなくていいんですよ。3年になるときに決めるんですよ。哲学やめて、社会学いったみたいな。そういう感じですね。でもそうなんだ。文学部かよ。おんなじだ。まぁいいや。戻すと本田実子。

尾上:楠さんとの出会いでしたね。その本田さんが電話かけてきて、「うちの」っていうか、ほんとに秘書ですからね。「うちの楠が1回、ちょっと尾上くんと話したいといってるの」というから、「いいですよ、楠さんはどこがいいですか?」と聞くと、彼は週4日ぐらい確か天王寺高校に勤務していて「ぼく、そこの近くに住んでるから」っていうので、その美章園の喫茶店で会ったんですね。それが郡山のインタビューの時で話したことなんですけど。
 たぶん楠さんからしたら、ちょうど78年当時って全障連の中でね、綱領論争っていうのがあって、青い芝、その当時全国青い芝のグループが青い芝の行動綱領に近いものを全障連の行動綱領として即時採択すべきだと。それが採択なければ健常者の健全者の引き回しが起きる、これを認めないと障害者主体の運動と認められないから青い芝は全障連脱退するみたいな、そういう動きがあった頃だったからだと思うんですけど。これはそのときはわからなくて、その後、大分経ってから聴いたことですが、本田さんは大将、大将って、楠さんのことを…[01:36:16]

岸田:あぁ大将っていってましたね。

尾上:「大将は、尾上くんこっち側にオルグせなあかんから、とにかく電話つなげとかいうので、うるさかったんよ」と。「え、なんで?」って、「いや、このままだったら、尾上は青い芝の方にいってしまうんじゃないか」みたいな感じで。実はそのあとね、全障連を全国青い芝の会が脱退するときに、大阪青い芝の会は全障連と共に闘うってことで残ったので、尾上が大阪青い芝にいてたら全障連からも離れるってそういう危惧はなかったんですけども。そういう微妙な時期っていうこともあって。そんなことは後で知ったんですけど、一度話したいぐらいの気持ちで、軽く受けとったんです。その裏にはあのまま青い芝のところに置いておくのはまずいから、こちらのほうにオルグしようというので、楠さんがじきじきに話をしにきたみたい。

岸田:面談しにきた。

尾上:たぶん今から思えば思想傾向を見ようというわけではないだろうけれど、どんな考えもってんのかっていうので、わざわざそんな質問をされたのだなって。「尾上くん、障害者解放ってどういうことだと思うか?」とかって。禅問答みたいなこと始めるんですよ。差別からの解放ということですけど、それと帝国主義とはどういう関係だとか、いろんな難しい質問をぶつけてくるので。入社試験じゃあるまいし、入社試験じゃそんなん聞かれへんか。
 それでその障害者問題とはなにかって、その障害者解放ってどういうイメージかっていうので、自分自身、施設にいてて、それこそ医療の実験台、それは子どもの頃にあそこにいてて、けっきょくどんどん歩けなくなっただけだしなみたいな。自分の中に消し去りたい歴史みたいになってましたからね。自分自身の経験からみたら差別が問題だと思うっていう。では、差別をなくすためにはどうしたらいいのかっていう話。それがさっきの帝国主義がどうのこうのっていう話で、今から思うとあれはひっかけ問題だったのかなと思うんやけど。「ところで尾上くん、マルクスの経哲草稿は読んだことあるか?」って。『経済・哲学草稿』っていう初期の論文集があるんですね、マルクスのね。たぶんそのとき、楠さんは障害者解放の原理的なものを探そうとしてたのかな。たぶん楠さん的には、経哲草稿にある、人間の本質は類的存在であると。ところが類的存在である人間が疎外された状態で差別がある。でも疎外がなくなれば全ての人が平等に生きられるっていう、そこに障害者解放があるみたいなことを言いたかったんだろうと思うんですね。その経哲草稿読んだことがあるかってことで。
 ちょうど立岩さんも同じ世代だからわかると思うんですけど、高校ぐらいにそういう哲学とかの本読んでる中には、廣松渉ってすごいブームだったんです。スターみたいな感じだった。それこそ「疎外論から物象化論へ」みたいな華々しいキャッチフレーズで本出したりしてて。そのてのものを読んで、決してよくわかったわけじゃない。今から思うと恥ずかしい話してるなぁとか、すごい背伸びした話をしてるんですよ。その経哲草稿って疎外論だな、その手の本を読んでたから、受け売りで、「経哲草稿よりも、人間っていうのは社会関係のアンサンブルっていってる、『ドイツ・イデオロギー』なんかの方が自分にはしっくりくるんですよね」とかって。なんかそんな話をほんま話してて赤面しますね。[01:40:23]

立岩:いいんです。恥ずかしいんです。だいたいその頃は。

尾上:恥ずかしい。(笑)

立岩:だけど、ぼくは駒場に入ったら、廣松がいたからね。廣松が駒場の教員だったから、廣松さんのゼミに出てみたり、単位じゃないですけど。現物がいたので、廣松さん。ぼく、学部のときは廣松イズムでしたよ。

尾上:ちょうど同じ文学になじんでたらわかると思うんですけど、どちらかといえば、実存主義的文学から、私たちの世代ってもう運動、大衆運動のリアリティがほぼほぼなくなっていく中で、実存主義的なその人と人との関係なり存在って、人間存在とはなにかみたいなとこらへんから、社会をみていくところがあるから。その実存主義からマルクス主義へ移るみたいな感じのところで、その廣松渉のハイデッガーの「世界内存在」をもじった、「歴史内存在」とかの言い回しにピーンとくる感じ。そういうなんか実存主義文学にかぶれた文学青年に、ビビッとくる言葉を、廣松渉は繰りだしてたのかと今にして思うんですね。

立岩:大学に入ったらそういうのがあったんで、それを読みだした。だからぼく大学入ってからなんだよ。高校のとき廣松なんて名前全く知らなくって、大学入ったらそういう人がいて、読んだらおもしろかったのでっていう、わかりやすい話だけど。尾上さん、ジャズ喫茶行って、ノートに「吉本」って書いてあったあたりまでわかるんだけど。高校のときにでも廣松、それはなに、どういう経路なんですか?

尾上:だからその手のものを読んでいくと、けっこうどちらかというと、共産党系的なマルクス主義じゃない関係の文献とかを自分で、

立岩:そっちにいきますよね。

尾上:そういう人たちが、ノートに書いてるわけですよ。その中でたぶんね、高校時代よくわからないんだけど、なんか、ほんとに不埒な言い方、ほんとになめた高校生だったと思うんですけど。なんとなくワーディングがかっこういいみたいな感じで廣松も三一新書に入っていたから読んでかっこういいと。それで、大学に入って読み進んで、「主客二項対立の近代主義の地平を越えて」とか。

立岩:風呂敷が大風呂敷に。

尾上:それが実存主義的な、世の中のなんか信じれない、モワーとした感じが自分の中にある、世界に対しての不確かさを感じてる人間にとってはキーンと入ってくる言葉だったという、そんな感じ。だから理論的にわかってたというよりは、ワーディングに騙された。(笑)

立岩:廣松さんもヘビースモーカーでさ、ゼミの教室の中でチェーンスモークなのよ。部屋が白く濁ってる的な感じで、だった。

尾上:今だったら生きていけないですね。

立岩:今だったら生きていけないと思う。だけどその当時はよかったんだもんね、それでも。でも、

尾上:ゼミのときももちろんタバコ吸いながらですか?

立岩:案の定、肺がんになって死んじゃったけどさ。

尾上:っていうのが、楠さんとの最初の出会いってのはそういう感じで、楠さんは青い芝から全障連にオルグ、全障連というか、楠さんからしたら障害者解放委員会なのか、彼からすれば楠一派にオルグしようと思ったんやね。ていうのでその面談があってというのが、楠さんと一対一で特に話をしたときの一番最初ですね。

岸田:えらい、強烈な出会いなんですね。

尾上:ただそういう今にして思えばそういう話したな、ということなんですが。そのとき会ってすぐのときはね、それこそ交渉とかでビシバシ仕切ってたというか。その当時、全障連の事務局長ですからね。いうなら全国の運動のトップっていうか、もう横塚さん亡くなったあとだったし。この人が楠さんかーみたいな感じで、別に後光があったわけではないですけど(笑)。ところで、その喫茶店でカレーを頼んだんですね。カレー頼んで、「尾上くん」「はい、なんですか?」「いや、福神漬け乗っているか?」って。「こっちの端にあります」「どけてくれるか」「楠さん、福神漬けだめなんですか?」「ぼくは漬物は全部だめなんだ」とかいって、楠さんさっきの帝国主義論がどうのとか、マルクスがどうのこうのとかっていう話よりも一番強烈に覚えてるのは、楠さんは福神漬けをはじめとした漬物はだめな人なんだという、それが第一印象。

岸田:それが一番インパクトが、[01:45:16]

尾上:インパクトがあった。

立岩:尾上さんと郡山で、「人間ってそういうことしか覚えてないよね」っていう話したよな。でもそうやね。ほんまにね。

尾上:でね、楠さんのもうひとつ、さっきのそれこそ交渉のときでも論理的にまとめるっていう部分、もちろん際立ってるんだけど、いっぽうで青い芝というか、差別にさらされてる中での理不尽さ、それに対する腹の底からの怒りっていうことの大切さも楠さんはよくわかってるというか。これはね、『障害と文学』っていう本を書いた荒井さんってご存知ですか?

立岩:荒井裕樹ね、二松学舎に今いる。

尾上:もともとハンセン病の人たちの文学やって、花田春兆さんたちの『しののめ』のことをまとめたり、『障害と文学』っていうので、

岸田:花田さん?

尾上:花田春兆さんね。今言ってるのは、荒井裕樹さん。その荒井さんから以前、対談したことがあって。彼はずっと文献史的に、すごくていねいに綱領論争っていうのを追いかけてるんですね。ひとつは青い芝の中で、東京青い芝対その当時の神奈川青い芝との間の行動綱領論争みたいなやつ。加えて、全障連の中で全障連の他のグループ対その当時の全国青い芝の対立みたいなことで。楠さんの『障害者解放とはなにか』に、その論文とか載ってるからそれを全部読んでおられて、楠さんって青い芝に対して、ものすごく厳格に批判されたましたよねっていう印象を話された。確かに、全障連の事務局長という立場で書く文章のときには、そういう部分はあるんだけども、楠さんとそういう形で、出会って42年目になりますからね。それですぐ横で見てて、楠さんほど実は青い芝運動の影響を受けた人はあまりいないぐらい…

岸田:それはそうみたいです。なんか私、学校の先生してた人から聞いたんですけどね、すっごく青い芝のことを言うてはったらしいんですわ。講演で、学校の。で、私らの前では、私ら、そんな難しい話をしてくれなかったけど、距離を置いてるような言い方してはったんですけど、思想的には非常に青い芝の思想にものすごく共感してはったところはあったんじゃないかなと思うんですけど。

尾上:思想というか、たぶんね、生き方ですね、生活スタイルというと軽すぎるんですけど。日常生活の風景の中で障害者としての自己主張とか、青い芝流にいえば、障害者であることに開き直れてるかどうかみたいなことを、楠さんは青い芝から一番感じとられたんだと思う。楠さんは確か、それこそ「狭山闘争」とから、部落差別から障害者解放運動に取り組みはじめるじゃないですか。でも青い芝の連中と出会うまでは、楠さん言ってたのはね、それまではカレーとか丼もんとか、その…

岸田:そうそう本に書いてました。

尾上:本にも書いてます、それ?視覚障害者にとって、なんていうの、食べるのがブサイクにならないというか、うまい言い方ができないんですけど、いろんなものが入ってる定食とかだったら、どこになになにとかっていうのがあったりするじゃないですか。視覚障害者として、食べやすい食べ物をやっぱり頼んでたと。

岸田:そうそう。私ね、やっぱりね、楠さん、視覚障害者、私あんまり知らないですけど。視覚障害者の運動って、運動の形態はともかくとして、江戸時代から座頭から始まって、明治時代、大正、昭和とけっこう組織化は進んでて、視覚障害のみの運動をしてはったというか、ちょっと私もその辺はね、私自身もちょっとついていけへんところあるんですけど、楠さんはね、大きなことは視覚障害以外の障害者との共闘というか、それをね、すごく強調した人、あの人が初めて違います。視覚障害者で他の障害者との関係を重視した人は、と思うんですけど。[01:50:15]

尾上:そうですね、確かに運動論、組織論の立場から他障害、DPI的にいえば「クロスディスアビリティ」っていうか、障害者種別を越えるってことをすごく意識したっていうのはその通りなんですが。特に青い芝運動から受けた影響っていうのは、もう少し、自分の…世の中に対する構えみたいなことになるのか、ちょっとうまい言い方ができないんですけど。いうなら、例えば食べてこぼしてとっちらかってても、それがなにが悪いんだって。みたいないわゆる健常者というか世の中のメインストリームの価値観ですね。恰好いいとか、美しいとか、その価値観そのものを無意味化していくみたいなとこに青い芝運動の意味があるみたいな、そこの肌感覚として、青い芝運動の影響を受けたっていうのでは、ぼくね、楠さん、理論的には青い芝の行動綱領の観念性とかを批判されるが、その青い芝運動がつくってきた、その障害者として、その当時の言い方でいうと障害者として開き直る。障害者、どんくさかったり、ぶっかこうでなにが悪いんだみたいな。既成の価値観に対する闘いみたいなとこらへんで、楠さんはすごく青い芝の影響を受けてるっていうのはぼくの見立てですね。

岸田:そう思うんですね。やっぱりそれがなかなか視覚障害、今若い人は別ですけどね。当時、楠さんと同い年の方とか、もっと上の方にはあまり理解されなかったというか。楠さんは本に、『障害者として生きることと解放運動』か、拓植書房かなんかの本に書いてましたけど、あるとき介助者がいなくて、脳性麻痺の人の介助者がいなくて自分が介助したと。トイレ介助したと。パッと脳性麻痺の人が、言語障害がきついんだけどね、「あんた自分の障害どう思ってるの?ぼくら脳性麻痺はね、もう自分の体で示していかなね、全然社会にアピールできないんだ」と。それを聞いて、楠さんがグッとものすごく感銘して、自分の運動はなんだったんだろうかと。そういうことを書いてはったんですけどね。残念ながら、これはまあ私の感じなんですけど、私の目には楠さんの同世代の方とか、もっと上の方はね、それが、やっぱりもちろん脳性麻痺の方とかに会う機会もないからなんですけど、あんまり理解されてなかった、受け入れられてなかったんじゃないかなという気がするんですけど。

尾上:あともうひとつあるとしたら、たぶん他の視覚障害者からしたら、楠さんがやってるのは視覚障害者の運動ではなくて、楠さん自身は視覚障害者ですけども、もう少し広い意味での障害者運動みたいなところで、別世界の話みたいな受け止め方のほうが強いのかもわからないなと思うんですけどね。



立岩:楠さんがその、今78年の話してるじゃないですか、その頃、76年全障連、天王寺高校の教員、全障連始まる、その78年。その4年間と5年間ぐらい、たぶん事務局回すの大変やったと思うんです。そういう仕事とか。それ以外の人間関係っていうかさ、そういうのってなんか想像つくとこってある?

尾上:ぼくはそこの人間関係まではちょっと。

立岩:78年まではわからないよね?少なくともね。78年で会ったんだもんね。

尾上:それ以前のこと、今存命の人で知るとなると、先ほどの本田さんでしょうね。たぶんその運動のいろんな舞台裏、どうやって養護学校義務化闘争闘い抜いたかとか含めて。76年から79年養護学校義務化阻止闘争、そのあと金井康治君の闘争もありますけど。ずっと楠さんの横で秘書みたいなことしてたのは彼女なので。もし生きてたら全障連事務局にいた◇大賀〔重太郎〕さんでしょうが、今だと本田さんじゃないですかね。

立岩:それ覚えといて、それは正しい。実子さんにお会いして、話を聞くっていうのは、それはぜひやってくださいよ。いいですか?それはマストですね。そうだよね。
 で、78年がそれで、そのあと長かったわけだけれども。楠さんとの付き合いは。[01:55:30]

尾上:そうですね。そのあと78年の12月に文部省闘争があって、1月にさらに2週間にわたる闘争があるんですけど、その直前に父親が亡くなってしまって。父親亡くなって翌週くらいに文部省に行こうと思って、さすがにそれは母親にものすごい怒られて、それで行けなかったんです。当時、私は学生だったので、私にとって楠さんは交渉とか集会で会うという人なんですね。そのあと1981年に大阪で豊中で全障連大会があり、学生実行委員会をやったりとかって。親しく、いろんな連絡とりはじめるのはもうちょっとしてからですね。ぼく自身がもうちょっとなんか、運動でいろんな経験を積むというか、みたいなとことで。
 どちらかというとね、その頃のぼくにとっての楠さんのごくごく私的な思い出という意味では、『障害者運動のバトンをつなぐ』にも書きましたけど、楠さんはよくね、夜の11時すぎぐらいに電話かかってくるんですよ。なにかというと楠さんが論文を書いてたときに、「これこれこれは何に載ってたかな?それは墨字で何ページか?」ってこと聞かれて。その頃、障害者解放とはなにかみたいなことで、障害者が解放される社会のイメージを彼は必死で考えていた時期があったみたいで。彼が探してたその引用の元っていうのは、「ゴータ綱領批判」なんですね。全ての人間が解放された、共産主義の社会があるとして、「能力に応じて働き必要に応じて得る」っていうのが共産主義だとする。社会主義っていうのは、「能力に応じて働き能力に応じて得る」という、みたいなことで。その低次の段階の社会と障害者解放はどうあるかみたいなことをたぶん書こうとしてて。そういった低次の社会て、何に書いてたって。それって「ゴータ綱領批判」ですっていうんで、「じゃあ、それは墨字の何ページか」と。たぶん彼は点字かリーディングかなんかで読んでるから、引用しようと思って、「それは全集のなんページに載ってるんだ?」というから、それで、その日の晩中に調べて、「なんページでした」って。そういう図書館の司書じゃないんだけど…みたいな。一応ぼく、そのてのものはよく読んでるっていうので、ときどき電話をもらったりしたのが、80年代前半の印象のイメージで。
 どちらかというと、そのあとDPIが1986年ぐらいから立ちあがっていくんですけれども。そのDPIの日本会議っていっても、今でもね、人的にもお金的にもまだまだ大変な状況の中でも、みんながんばってるような団体ではありますけれども。今以上にお金もない、人もいない、そういう状態の中でDPIをやっていくっていうことで、楠さんは、DPIの一番最初の準備会のときの事務局長かなにかやってるんですよ。意外な感じがするんですけど。楠さんは、1980年代のはじめに二日市さんなんかと対談でね、80年代は障害者解放同盟をどう作れるかっていうことを二日市さん達と対談をしてるんですね。たぶん、

岸田:あの本ですか?『障害者として生きることと解放運動』か、

尾上:現代書館で『障害者解放運動の現在』(しょうがいしゃかいほううんどうのいま)(02:00:35)っていう、全障連関西ブロック編集で出てた、今絶版でぼくも今、手元にないので、たぶんそれの中の座談会だったように記憶してるんですけど☆。
 ご存知のとおり楠さんもともと障害者解放委員会、関西障害者解放委員会じゃないですか。たぶん障害者解放委員会っていう名前は戦後の水平運動のあとの、戦後の部落解放委員会からたぶんヒントを得た名前だと思うんですね。部落解放委員会から、1955年だったかな。部落解放同盟に変わっていくっていうふうな、そういうたぶん部落解放運動の発展の横目に見て、いよいよその障害者解放委員会、全障連から、さらに障害者解放同盟みたいなことをどう作れるかっていうのが、彼なりの80年代構想みたいな。[02:00:48]
☆全国障害者解放運動連絡会議 編 1982.6.1 『障害者解放運動の現在――自立と共生の新たな世界』, 現代書館, 261p.

岸田:それが彼の頭の中には、描こうとしてたわけですか?

尾上:だからDPIにすごく熱心に関わってたからだろうなと。それこそ当時の他の全障連の人たちからすると、ただでさえ忙しいし、お金もない中で、なぜあんなに頻繁に東京に行ってるんだろう、しかも英語の先生だけど、英語も喋れないのに。(笑)あの時代の英語の先生やからね。そういうギャグをかまして。なのにインターナショナルなんて、みたいな。ちょっとみんな冷ややかに言ってる中でも楠さんはDPIのいろんな準備会合に出てて。
 たぶんね、楠さんのこれは、これもなんか講演かなんかで見たんですけどね。楠さん、障害者運動の四つの潮流論みたいな。これもご存知ですかね?
 第一の潮流は、これからはもう今の時代のなかで、いっぱひとからげ(十把一絡)にするとだめな部分もありますが…。半官半民の団体、それこそ傷痍軍人さんを中心にした日身連やなになに。二つ目の潮流は権利保障を掲げながらも、専門家中心のいわば全障研、発達保障の流れ。三つ目が車いす市民集会に代表される市民運動の流れとしたら、四つ目が全障連。たぶん楠さんからすれば、障害連なんかも車いす市民集会と全障連の間くらいの位置のイメージですね。そのグループと、一番左に自分たち全障連がいると。DPIっていうのは、この市民運動グループと、その自分たちのグループでブロックをどう形成するかっていうことで、障害者解放同盟になっていくっていう、そういう見立てをしてたんではないかなと思うんですね。
 だから1981年にシンガポールでDPIが結成されて、楠さんシンガポールには行ってないんですけど、そのあと、82年からDPI日本会議の準備会が開かれて、楠さんがずっと全障連から出ていました。86年の正式結成になって以降、年に2回ぐらいは大阪で常任をやったりしていました。総会をし、もう一回大きな会議をするみたいなことで、大阪で年に2回ぐらいはそのDPI関係の会議をやるんですね。でも全障連のグループがそのままDPIの事務局を手伝うわけでもないから、尾上に個別に電話もあって。一方、三澤さんとか、太田さんとかもぼくは青い芝運動のつながりの中で知り合ってるんですね。施設の費用徴収問題があって、そこで三澤さんや太田さんとは一方で別のルートで知ってて、どちらも知り合いっていうことの中で、DPIの運動にだんだん巻き込まれていって、楠さんと日常的によく接する、よく一緒に、週に1回は会議で会ってるみたいなそういう感じですかね。

岸田:週に1回も会うてはったら楠さんって、ちょっと別の面でもあの人の人柄っていうのは、なんか感じられます?

尾上:そうですね。うーんとね、人柄、それこそ、さっきの人柄の話のひとつが、そんなにたくさんの人がいてる場じゃなくって、自分自身がその障害者解放委員会とか、そういう障害者解放運動とかいいながら、自分自身が傍目にブサイクに見えないようにしなきゃいけないみたいな、そういうことから、青い芝運動と出会って、その価値観がいかに変えられたかみたいな話は、そういうときに話をしてくれましたね。一緒に昼ご飯を食べながら。そうそう、一緒に昼ご飯食べてるときに、「自分は昔は、それこそ学生時代はカレーとかそういうもんしか食べれなかったんだ」とかね、「なんでですか?」って、想像力もなかったから。「だって、カレー以外のもんだったら、いろんなものがどこにあるかわからないから、こぼしたりするでしょう」という話で。[02:05:15]

岸田:あの、86年ごろって、楠さん、個人的には大変だった時期違いますかね?子どもさん、亡くされたり。娘さん。

尾上:亡くなられたのは、86年ぐらいですかね。もうちょっとあとかな。交通事故で亡くされたんですよね。そうですね、もうちょっとあとじゃないかな。だって、そのときはヒューマインドに勤めておられたから。DPIの結成が86年でヒューマインドが確か国連障害者の10年の中間年とかっていうので、87年ぐらい、そのぐらいにできてしばらくだから、もうちょっとあとに亡くなられたんじゃないかな。

岸田:いろいろ家庭的にもややこしくなって。

尾上:わかります。

立岩:だから岸田さん、その手前でいうと、今の尾上さんの話でね、たぶん76年全障連の…あの辺、70年代後半ぐらいですよ。どういう形でね、自分の生活スタイルというか、自分そのものの見方を変えるみたいなところのきっかけというのが、どういう人たちとの付き合いっていうものを経て、今までとまたちょっと違うものを受けとったのかなと思うわけだとすると、その辺のこと本田さんがその年代、すでに楠さんと深くというか、身近に関わってるから、そこらへんはちょっと、その辺をちょっとポイントとしてかつての本田さんに話聞くっていうのはひとつありですよね。

尾上:時期的なキーワードとしたらね、それこそそれまではたぶん楠さん、マルクス主義的な立場の楠さん達の運動からすると、観念論の青い芝運動と接点はそれほどなかったのが、大阪で第八養護学校、今の藤井寺か寝屋川養護になるのかな。74年か75年ぐらい、それがあったから全障連が関西でできたと思うんですけど。第八養護建設阻止闘争っていうので、たぶん青い芝運動と頻繁に出会うようになっていくんじゃないかな。その第八養護の頃を知ってる人ということでいうと、
河野〔秀忠〕さんだったり、大賀さんだったりあと本田さんかな。

立岩:河野さんもいないし、

尾上:大賀さんもいない…早いわ。本田さんはまだまだ若いですけど。本田さんに早いうちに会われた方がいい。

立岩:ほんとそうですよ。第八養護学校って、ぼくらも、タイトルは知ってるけれども、中身は知らないからさ。やっぱりそのできごと、それは河野さんと一緒にやってた小林さん、その話はしてらした。その辺のことは聞くに値する、やっぱり全障連前史みたいなところもあるから、そこはちゃんと見ときたいですね。ひとつはね。70年代中盤、後半のところを本田さんをひとつ手がかりというか、あてにして。

岸田:確か楠さん、亡くなるときにも一緒に立ちあわはった。

尾上:それこそ、楠さんの右手中の右手というか、秘書というか。これも本田さんから聞いてもらった方がいいですけど。楠さんがあっちこっちでアピール文を送るでしょう。「楠さんの文章いつもいいですね」って言われる。あれは、ほとんど私が準備したと。

立岩:それは知らないけど、そういうことってようあるじゃないですか。

尾上:しかもね、なになに向けの集会アピール、いくつかひな形のバージョンがあるんですね。彼女がかってに作ったわけじゃなくて、それは楠さんと、どこどこ向けにはこれを強調する、どこどこ向けにはこれを強調するみたいな、いくつかそのパターンがあって、それで「なになに集会に結集された皆さん…」と、そういうふうにひとつの文章にまとめるのは私の役割だったと。そのぐらい本田さんが、手となり足となりってそういう人だったんです。

立岩:それはちょっとロングインタビューしないとね、まずそれは第一歩、ひとつで。あとDPIもおもしろくてね、やっぱりインターナショナルっていうとこよりは、国内の左派を二つ、共産党系はパスしつつ、わりと穏健な左派と自分たちみたいな全障連系のやつを一か所にっていう、そういうもくろみでしょうね、おそらく。[02:10:27]

尾上:楠さんからしても、それは明確にそうですね。確かにそのとき80年代のDPI、日本のDPIのスローガンって「草の根の当事者運動の結集」っていうのが、草の根っていうのは、世界的にもグラスルーツっていうことはいわれてたことに加えて、より強調されていたっていうか。「草の根」ということからは明らかにその半官半民ってのは外れるわけですよね。さらにいうなら、「当事者運動」ということで二つ目の共産党系のやつも外れる。イコール三つ目と四つ目のブロックが、「草の根による当事者運動の結集を」っていうのをスローガンにこめられてたというふうに思うんですけどね。

立岩:そこ狙いやったんやろうね。だからそんなに実利があるわけでもないDPIの会議によう出てたっていうのは。おそらくそうなんでしょうね。

尾上:それはだから彼からすると、二日市さんなんかとの話、対談なんかでは80年代いかにして障害者解放同盟を構想するかっていう、彼からすれば障害者解放委員会、解放委員会活動から解放同盟へとそういうことにDPIということに関わり託したんじゃないかなと思いますね。

岸田:楠さんもね、もうちょっと体がね、腎臓病か。透析がね、あれがなかったらもうちょっと、大阪府の議員のあれはやってもいいと思たとは言うてはったんですよ、私にも。

尾上:え?府議会に出るっていう?そんな話、それはぼくはさすがに聞いたことないわ。いつぐらいですか?

岸田:私がインタビュー行ってたとこでね。ずっと順番に時系列で順番に聞いていったときにね、私が「なんか噂で、楠さんって府会議員なんか出る予定やったんですか?」って聞いたら、「うん、そうい話はあった」って言うて。

尾上:年代でいうと、いつぐらいなんですかね?

岸田:あれね、

尾上:80年代、堀〔利和〕さんとかがね、やってた、89年とか。

岸田:90年前、89年、記憶があれなんですけど、間違ってるかもしれないですけど。

尾上:堀利和さんが出たのが86年で、1回目は負けて、89年の土井たか子ブームで、勝ってっていう、そのぐらいかもわからんですね。

岸田:でもね、その頃とにかくでも、その頃は楠さん、だんだん腎臓の具合がもう、超悪くなってきているから。透析をしないといけなくなったので。

尾上:何回か、ぼくヒューマインドで会っていて、気分悪くなってそのまま救急車というか、タクシー呼んで病院に運び込まれるとか、何度か見ましたね。

岸田:そうそう、だから体がね、もうちょっとだんだん、ずっと若い頃から腎臓悪かったんですよね。70年代の終わりぐらいから。

尾上:全然知らなくてっていうか、

岸田:でもなんか私、今日はすごく楠さんの別な面を、私ら、そういう難しい理論的なことは教えてくれへんかった。言うたってわからないっていうのもあるんですけど。彼のDPIに対する思いとか、やっぱり初期の本を読むと、彼の障害っていうことに対するね、差別という言葉知らなかったって言うてはったんですよ、盲学校にいる頃は。そんな言葉は全然知らなかったし、悔しいって思いはあったけど、差別っていうのはね、全然彼は、今もう言うてもいいと思うんですけど、札幌でアルバイトしてたときにひどい経験して、そのときも思わなかったって言うてはりました。大学に入って初めて差別っていうのは、定義っていうのが、それが自分の実感としてわかるようになってきたって。それまでは全然わからへんかったって。いうようなことを言ってたから。[02:19:54]

尾上:たぶんね、楠さんの世代になると、ぼくよりもっと上だからあれなんですけど、ぼくの世代においてすらっていうか、例えばさっき、いろんなものの本を読むときには部落差別に関する本も読むし、あるいは女性差別、今でいうフェミニズムの本なんかも読むわけですよ。そういった差別っていうのは知ってても、実は障害差別に関する本って70年代なかった。75〜6年って。一般の本屋で手に入るようなやつね。そうなんです。だから、ぼくも障害者差別、障害者を差別問題として捉えるってのは実はさっき言ったように、こじれた高校生だったわりには、そこはいきなり人間存在みたいなそういう抽象的な話になっちゃって、障害者差別っていう言葉として定義できない、自分の中で定義できないんですよね。
 それが1976年ぐらいだから、楠さん、それよりも14〜5年前だから、もちろんというかね、そうなんです。だから、障害者問題は差別、っていうか、もうちょっとあえていうならばね、1991年、2年に大阪府の「福祉のまちづくり条例」作ったときに。牧口さんが代表で、楠さんが副代表で尾上が事務局長、そういう三頭立てで「福祉のまちづくり条例制定運動府民の会」を作って、自分たちで条例案をつくり、前文に「障害があってもなくても差別されることなく自由に移動する権利が保障される」みたいなことを書いて。ぜひこの条例の中には、こういった前文を入れて欲しいというので、各会派周りをするんですね。その前文持って行ったときに、ぼくもまだその頃31、2で若かったからでしょうね。教え諭すように、「君ね、障害者問題にこんな差別されることなくとか、そういうこと書いちゃだめですよ」と。「え?なんでですか?だって実際に乗車拒否にあったり」とかって。それは「差別という問題じゃなくて、交通弱者の問題でしょう」と返ってきた。つまり交通弱者のためのちゃんとバリアフリーを進めるっていうことは進めなきゃいけないけど、それを障害のあるなしでの差別だとかいうと理解が広がりませんよというふうなことを、それこそ革新系の人がとうとうと言ったんですよね。それ、90年代ですよ。
 それはね、ちょっと楠さんがいう、そもそも障害者差別という言葉を知らないっていうこととはちょっと違って、ある意味で理論的なバックボーンというか、障害問題っていうのを発達保障すれば解決するという、理論的な問題なのかもわからないけど。でもほんとに障害者問題に差別っていうことをリンクさせるかどうかって、実はそれはそれで、すっごい大きな思想的なチェンジだとぼくは思うんですね。それが医学モデルから社会モデルっていうか、もう少し、それこそさっき楠さんがバイトで悔しい思いをしてもっていう話のときに、例えばさっき、今でこそ運動と出会って施設時代「こんなひどい目にあった」と言ってるけれども、施設の中にいてるときってね、ひとつは施設の職員と入居者、あと大人と子どもでしょう。これは違うと思っても、その施設の構造の中で言い返せないし、そっから出て、もう自分の中で忘れたい歴史で、封印してしまうんですね。
 つまりどう思ってるかっていうと、障害があるから割りを食ったというか、宿命っていうわけじゃないけど、障害があって嫌な思いをしたなって。障害があるからこういう風になると、直結した形での捉え方になってる。それは個人モデルや、医学モデルっていうことなんでしょうけれどもね。

岸田:楠敏雄をずっと貫いてたのは、やっぱり差別、差別の問題と、それからインクルーシブ教育の問題と、地域の中で生き抜くというか、それではなかったと思うんですけど、尾上さん、どうでしょう?[02:24:58]

尾上:楠さんの講演を聞いたのが、1978年養護学校義務化の問題のときとかいろいろあるんですけど。特に養護学校義務化のあとぐらいに、彼がよく障害者の自立と解放、全障連って自立と解放っていうことをスローガンに掲げているでしょう。自立と解放っていうことからいえること、三つの特徴っていうことよく言ってたんですね。
 なにかというと、一つは障害からの解放じゃなくて、差別からの解放。二つ目は障害者運動の主体は障害者主体。三つ目が施設や分離された学校ではなくて地域で教育を受け地域で自立をするという、その3点。差別からの解放、障害者主体、今でいえばインクルージョンみたいなことを、言い始めたのは養護学校義務化の前から言ってたんでしょうけど、それを障害者の自立と解放とはなにかみたいなことで整理して言ってたのを覚えてるので。もう一つの岸田さんからの質問に関係するんですけども、「障害者の権利条約や、差別解消など現在の障害者に関する法律や制度に楠さんの思想が大きな影響を与えていると思われますか?」っていう質問への回答ですが、「そう思います」と。なぜかというと、「障害の社会モデル」という言葉自体はなかったし、あるいは楠さん自身は積極的に使わなかったかもわからないけども、差別という言葉はあっても、それが障害者問題にリンクされる言葉とは世の中誰も見回していなかった時代にそれこそ差別からの解放ということを言い出したのは、楠さん達なので。そういう意味では社会モデルの先駆者かなと。
 ちょっと今日、メールで送った記事はPDFなので、岸田さんにアクセシビリティの問題があって、申し訳ないんですけど。楠さん、亡くなった2014年の2月に亡くなっり、その年の4月に朝日新聞に楠さんの追悼記事があるんですね。記者から尾上にコメントを求められました。その記事を読み上げますね。2014年4月19日朝日新聞夕刊なんですけれども。
 「障害者の生きにくさ変えた先駆者 DPI日本会議副議長 楠敏雄さん」というタイトルで、2歳のときに治療ミスから失明してうんぬんっていう。天王寺高校の非常勤講師になって、うんぬんということも書いてある。その次なんですけど、「自身の道を切り開いた突破力は障害者運動にも生かされた。障害者の生きにくさの根源は障害を受容しない社会にある。その視点から社会変革を目指した」。
 ここから尾上のコメントなんですが、「現在の障害学の考え方、社会モデルを目指した先駆者。長くともに歩んだNPO DPI日本会議事務局長の尾上浩二さんはいう」と。そういう意味では社会モデルの先駆者という言い方。この時もコメントしてますけれども。
 だから楠さん自身は、60年代のマルクス主義の洗礼を受けてるから、社会科学か社会学かみたいなところの論争にも関係するのかもわかりませんけど、社会モデルを否定してるという意味じゃなくて、社会モデルが何故にその社会がそういうふうに障害者を排除する構造をつくるのかとか、そういったところまで障害の社会モデルはもう少し突き詰める必要がある。それこそぼくと初めて会ったとき、帝国主義における独占資本がどうのこうのというそういう中で、社会的障壁というか障害者を排除する差別構造ができるかという、差別構造が何故にできるかみたいなところのなんか、もう少し掘り下げがいるというふうに彼は思っていたと思うんですけど。でもやっぱり社会モデルということに連なるっていうか、医学モデルや個人モデルとは違うものの世界を作ろうとした人だとぼくは思うんですね。

岸田:まぁだから楠さんが提起したのは、古くて新しい、今でもこの楠さんの提起したことっていうのは通ずるものがあるというか基礎になっているというか。[02:30:00]

尾上:はい。特に楠さんが提起をした中でいうとですね、楠さん、ぼく理論的にまとめてるわけじゃないんですけれども、やっぱり先ほど言った障害者解放運動の三つの特徴という、差別からの解放や障害者主体、地域での自立とかっていうのは、そのアクセントの置き方いろいろあったとしても、今のDPIのいろんな運動に共通して流れてる、あるいは、DPIだけじゃなくて自立生活センターやそういうところも含めての、広い意味でそこは影響を与えてるとぼくは思いますし。もう一つはね、楠さん自身が、たぶん1990年前後くらいから、どうもソ連あとの崩壊ということもある中で、ちょうどこれは障害者運動だけじゃなくて、市民運動とかあるいは当事者の参画、政策決定の参画ということがどの分野でも広くいわれてた時代っていうか、求められた時代があると思うんですけど。そういう時代変化に楠さんは非常に柔軟に対応してきたと思うんですね。
 それこそ「障害者解放とはなにか?」の時代はもう古いとかっていうんじゃないんですけど、障害者解放とはなにか、あの時代に書かれてる全障連の綱領をめぐる、綱領論争の文章からは、それこそ日本帝国主義が打倒されて、権力が変わって、そして社会が変わって障害者解放になるみたいな、その見立ての中で障害者解放運動をどうつくるかみたいなふうになるんだけど。でも、1980年代、先ほど言われた、たぶん一番大変な時期とも重なるんでしょうけれども、東大阪の地元でね、「つばさの家」という、佐藤賢一さん、もう亡くなった彼と一緒につくったりとか。そういう地域運動を一方で実践しながら、その自分たちの理論を鍛えあげていった部分がぼくはあるんではないかなというふうに思うんです。その楠さんの理論化というか、イデオローグっていうだけじゃなくて、その実際に当事者として、そして地域運動に関わる中でさらにこう自分の視点を鍛え上げていくみたいな、実践性を伴う理論化みたいなところに楠さんの力っていうのがあるんじゃないかなというふうにぼくは思いますね。

岸田:なかなかだんだん、私も楠さんもやりだして10年ぐらい、あんまりやってない。でもだんだんちょっと深みを感じますね。深まりというか。調べていけばいくほど。いつそしたら論文書くねんっていう。(笑)

尾上:確かね、久しぶりに思いだしたんですけど。さっきの透析が始まったのが1990年ぐらいかな?

岸田:えっとね、あれね、いろいろややこしい時代がありましたな、あの人。お子さんのこととか、家庭のこととか、あれが落ち着きだした頃違います?なんか80年代あの人ちょっと大変やったもんね、いろんな意味で。

尾上:たぶん90年代の最初くらいだったと記憶しているんですけど。その頃にだから、ノーマライゼーション研究かな。

岸田:なんかに書いてましたね。

尾上:もう自分がそれこそ透析もはじまって、余命どれぐらいあるかわからないけれどもみたいな、遺言じゃないんですけど。今改めて障害者解放とはなにかを理論的に考えるみたいな感じの論文を書いた時期が、

岸田:『ノーマライゼーション研究』ですね。

尾上:ですかね。ちょうどその頃にだからさっきの地域運動やその中でのいろんな大阪府のいろんな委員になったりとか、その施策決定、実際に参画していくっていう、

岸田:実際に自分でも関わって、うん。

尾上:っていう中での、たぶん80年代の後半ぐらい以降、ちょうど大阪府のいろんな施策が少しは障害者運動が70年代いってたことを少しずつ取り入れるようになってきた時代の中での変容というのはあるのかな。ちょっと楠さんっていうの60年代終わりぐらいから全然変化のない一塊りというよりも、そういう中で、この時期の楠さん、この時期の楠さんみたいな形で捉える方が横にいてて、ぴったりな感じがする。[02:35:08]
 あともうひとつは、そうですね、先ほど言われた質問の「楠さんのそばにいてて思ったことありますか」って、ことで、ぼくもこれは意外だったんですけど、2014年にぼく、内閣府、2015年から内閣府の障害者企画調査官ということで、障害者差別解消の準備に入ることになったんですね。実は2014年から入ることになって、2013年からその話が実は水面下であってですね、その頃実は三澤さんが2013年の9月に亡くなられて。もうすでにがんの手術を2回ほどやって、いよいよ危ないという状態だったこともあって。これ断ろうっていう話をしてたんですけど。でもせっかく制度改革推進会議作って、差別解消まで作ったのに、その施行まで少しでも影響力与えなければ、なんのためにこの何年間かがんばってきたんだみたいなことの議論もあるんですっていうことで、話をしようということになりました。2013年10月ぐらい。その頃、楠さんは何度かもう入院してるんですよね。

岸田:お腹が痛いとか言いだして、そうですよね、13年って。

尾上:で、来週から入院するという、その1週間前ぐらいにちょっと1回、入院される前にちょっと、電話ではなんなんでということで大阪に帰って、「どうしましょうかね?」みたいなことで、それこそぼく、どちらかというと楠さん、今DPI三澤さんが亡くなったあとだったのかな。そういう状態の中でDPI自身が大変な状況の時に「なにを言ってるんだ、尾上は」って怒られるかなと。ぼくは期待したわけでもないけど、どちらかというとそう思っていったら、楠さんは「これは受けるべきだ」と、全然迷うことなく。自分も「えっ?」ていう感じで。楠さんが全然迷うことなく「これは受けなきゃいかんよ、尾上くん」とかっていう感じで。普段の楠さんに対する尾上の印象からすれば、やっぱり当事者運動の主体っていうかな、それが強化されて初めて行政や権力へ多少なりとも影響力を与えるんであってっみたいなふうに、原則論でとうぜん言われると思ったんだけども。それこそさっきの障害者解放同盟みたいなことの話でも一緒なんでしょうけど、そういうんで、自分のビジョンとか構想っていうときには、すごくある意味で柔軟に判断するところはあるなという感じは、それは近くにいてての印象ですね。

岸田:まぁそやけど、私は悪いなとは、ちょっと精神的もちょっともう2013年あたりは弱っていったなっていう。

尾上:なるほど、適切な判断ができなかったんじゃないかと。(笑)

一同:(笑)

尾上:怒られるわ、ぼく、楠さんに。ぼくの中ではその言葉って遺言に近いんですよ。だって、そのあと10月に入院して、そのまま意識が混濁した状態、時々反応するみたいな感じ。

岸田:もう、私ね、安藤さんとね、箕面の安藤さんと何回か行ったんですけどね、初めはちょっとどっかで聞いた声やなみたいな感じのとこあったけど、もう最後、亡くなる10日前行ったら全然で、

尾上:ぼくも1月下旬行ったときは、うん。まぁはい。ちょっと2013年のときの意識の状態かどうかはちょっと置いといて、尾上なりには、なんかこう一応楠さんから受けとった言葉みたいな感じで、

立岩:確かに彼は、それなりにその時々、どういうふうに情勢読んで、それなりにその時々、現実どこまで少しでもって意識はずっとあった人ですよね。柔軟というかな、ただというか、それとその70年の人っていうか、やっぱり体制の転覆とかさ、そういう構え、体制とか、帝国主義とか、そういう構えが最後まであった人でもあって、そこがちょっとおもしろいよね。そういう体制とか理論とかっていうのを捨てたわけじゃなくって。でもなんかそのまんまでいかへんなとか、地域でいろいろ細かいこともやってると。その間の関係ってどないなってるのかなっていうの、整理せなあかんなぁと思いつつ、なんかできひんかなみたいなところにいた人っていうのがぼくの印象ですね。[02:40:16]

尾上:それがね、さっきちょっと社会学か社会科学かみたいなところにもなってくるのかもわかりません。別に楠さんから障害学批判とか社会モデル批判を聞いたことはないんだけれども、自分たちがいってたことが社会モデルだと言い方は、楠さんはあまりされなかったかなと。

立岩:ぼくが、ぼく、楠さんに直にお会いしたの1回だけなんですよ。「くすのき研」ってやってたじゃないですか。

尾上:小林さんが事務局やってる。

立岩:くすのき研に呼ばれてしゃべりに行ったんだ、私☆。そのときだけなんですよ。で、いや、ほんとにだめだなと。カレーの福神漬けのことしか覚えてないみたいな。ぼくもっとその症状が激しいんですよ。自分が喋った話、そこでなに喋ったのか覚えてなくて。だけど、ぼくはどっちかというと、実はその体制論的な構えでものを考える人なんですよね、ぼく自身はね。なんとなくそれは楠さんも感じになられていて、そういうことの問われたというか、かすかな記憶がある。やっぱりほんとに忘れるから。自分が喋ったことでも今は録音するようにしてて。なにをおっしゃってたかな。でもそういう気配、両方のことを考えてて、なんか関係あるはずやけど、どういうふうにつなげたらうまいこと言えるかなみたいなこと最後まで考えてたみたいな、そういう感じかな。
☆立岩 真也 2006/08/29「(なにか)」,くすのき研 於:大阪

尾上:もう今や、そんな社会全体が社会変革とか言っても仕方がないからこれをやるとかいう、そんな感じではないんですね。それはそうだと思います、ほんとに。

立岩:そんな感じの人やったかな。

岸田:今、コロナのね、この時期ね、もし楠さんがね、生きてたらどんなこと言ってはったやろう。社会がまた、コロナがまだ収束は難しいけれども、このコロナが、なんとか収束する方向になったときにどういう社会がやってきて、その中で障害をもつ我々市民はどういうようなことがあるのかなと。

尾上:たぶん、楠さん、今ちょうど立岩さん、すごくなるほどという言い方をしてくれた。今、目の前にあるこの現実をどう一歩でもっていうことと同時に、でもその背後にあるその社会構造や社会体制をなんとかしなきゃいけないと、その両方常に意識してたっていうのはその通りで。っていうことは、たぶん、なにをどういうかっていうのは、ほんとに聞いてみないとわからないけれど、物事の捉え方って、コロナ禍によって社会に矛盾がより一歩進んだ、社会を変えようと思う立場からすれば、捉えるわけですよね。このコロナ禍によって生まれた矛盾が次の新しい社会になにを課題として突きつけているのか、みたいなことで、たぶん問題提起をするんだろうな、楠さんとしたらね。

立岩:ずっと戻りますけど、それこそ綱領の問題のときに全障連、それは普通そうですよ。青い芝の綱領、組織の規約にはそりゃ普通使いませんよ。

尾上:荒井さんとの対談のときにいったのは、青い芝の行動綱領ってのは、ぼくにとったらね、どちらかというと、「障害者としてどういかに生きていくべきか」みたいな、思想的な構えみたいなもんだというふうに思っていうたら、「尾上さん、それは戦陣訓っていうことやろう」戦陣訓と言われればそうやけど、ほんとにそう。組織運営というか、組織としての目指すビジョンがあって、そのときにどういう社会、組織を作っていくかっていう意味での、組織の綱領ではないんですよね。

立岩:そのときに、そのことについて、尾上さん、そのあとじゃないですか。それで揉めてた渦中ともいえるけれども、ちょっとあとくらい。

尾上:しかも大阪青い芝の会でしたからね。

立岩:そのときに楠さんが綱領問題で具体的になんか言ってはったという記憶はない?

尾上:綱領問題は、だからぼくが入った78年、ちょうど論争の真っ最中で、楠さんとやっぱりいろんなそういう「この文章なに書いてるんだ?」とか言われるのは、79年、80年ぐらいですからね、さすがにね。もうさすがに論争終わったあとなので、直接その話は聞かなかったですね。[02:45:11]

立岩:わかりました。岸田さん、本田さんに聞くっていうのは、これは宿題やね、マストやね。今、どこにおられる?

尾上:本田さんとは連絡はつくんですかね?

立岩:あの人、今あそこにいてはるんちゃいます?ゆめ風。

尾上:ゆめ風にもおられたんだけど、今、関定協に連絡先置いてるのかな。関西定期物…

岸田:そしたら、ゆめ風はもう、卒業しはったんかな。

尾上:いや、もしかしたら、ゆめ風も関わりながらかもわかりませんけどね。ちょっとぼくも大阪をずっと離れてて、本田さんとはしばらく連絡とってなかったので。

岸田:私、しのぶ会ありましたよね、東大阪でない方の。

尾上:上本町でやった方?

岸田:そうそう、あんときは初めてお会いして、キン・ソンウォンっていうんはね、

尾上:そうですか、へぇー。

岸田:キンちゃんね。もう亡くなりましたけど、こないだ。キンちゃんがね、私に電話かけきて、「楠さん、そろそろ危ないからね、本田さんに会うといた方がええよ」って、言うてくれたんは覚えてるんですけど。実際に会えたのは、そのしのぶ会やった。

尾上:ぼくはただ、その全障連というか、楠さんからのオルグっていう線から入ってくる。むしろ楠さんと個別に会う前に、本田さんと一番なんか、いろいろ電話で話たりとかした。

立岩:1年半前に、富山で平井誠一さんにインタビューしたんですよ☆。そしたら久しぶりにその実子さんの名前を聞いて、「連絡先教えたろうか」って平井さん。「そうでしたね」って。ぼくはそれっきりなんですけど。岸田さんは必要ですよ。聞いてください。
☆平井 誠一 i2018 インタビュー 2018/01/29 聞き手:立岩真也 於:富山市・自立生活支援センター富山

岸田:そうですね。でもゆめ風でもちょっとだけ会うてたからね、あの人。ポロポロっと喋るぐらいですけど。私のことは知ってはくれてはいはると思うんです。

立岩:たくさん聞いてください。それは次にする仕事やろう。大阪にいるわけやから。できるじゃないですか。

尾上:ちょうど今の話で尾上の78年以降の前、それこそ関西障害が分裂して、全障連結成までどう至ったかっていうその時期に一番、楠さん必要じゃないかな。大原闘争とか、それをやり始めたときに本田さんと出会ったというから。

岸田:あぁ大原闘争のときですか?はははは。

立岩:一番いろいろ動いてるしね。やっぱり70年ぐらい、龍谷入って、学生運動入って、部落解放運動で差別って話になって、社会体制っていうところにいきつつ、それとはまた違う、青い芝、脳性麻痺系のどぼっとした、話が入ってきて、またちょっと加わったか変わったかしたんです、たぶん。それが70年代に起こってて。

尾上:実践的には、それがたぶん第八養護がひとつのメルクマークだと思うんです。

岸田:第八養護って、寝屋川ですよね?

尾上:寝屋川ですかね。

立岩:70年代はもうちょっと追わないとね。まだ聞けるわけだから。

尾上:特に楠さんの思想形成ということからしたら、ほんとにそこらへんの時期が一番ポイントな感じはするんですね。いうなら、一番最初の中核派時代からの影響というか、それを引きずった形の関西障害の時代の理論形成から、さっきの「障害者解放とは、差別からの解放、障害者主体、そして地域での自立性」その三つのスローガンにまとめ上げていくような、その間にはたぶん青い芝運動との出会いとか、そこらへんの74年、73年ぐらいから、77年ぐらいのそこの部分が彼の思想的な形成という意味ではすごく大事なポイントな感じがしますね。今にして思えば。そうやって理解は。

岸田:長い間、どうもありがとうございました。

立岩:ありがとうございました。3時間も付き合って、

岸田:ありがとうございました。お忙しいところ。

尾上:遠いところ…。伊東さんには、もちろんアテンダントでこられたから、別になんにも今日の話でよかったですか?

伊東:すごいおもしろかったです。私、普段はこういう感じでなく、こういう感じにした方がいい。日本の障害者運動じゃなくって、世界規模の団体の精神のことを調査しているので、なんか本とかで読んだこともあれば、全く知らないこともありで。すごいおもしろかったです。ありがとうございました。

尾上:サバイバーズ・ユニオンとか?

伊東:そうです。そういうとこです。でもね、

立岩:博論、書いたんですよ、こないだ。

尾上:論文出しているんですか?

立岩:博士論文を出して、

伊東:ついこないだ、はい。

尾上:また読めます?あれですか、立命館の紀要かなんかに?

立岩:博論自体は公開されるので、立命館のサイトに載るんですよ。

尾上:私、日本ではその手の論文というと、1990年に『福祉労働』がね、50号記念で、シンポジウムかな、マインドってグループ、イギリスのそのサバイバーズ・ユニオン、マインドってグループの人が来て、あとピープルファーストは、小西さんっていう女性のリーダーが来て、その2つのシンポジウム、ものすごく刺激的でしたね。

伊東:そうですね、その年に日本で世界の医療者の大きな会議があったときで、そこのときにいろんな人が来て、交流があった。

尾上:そのときって、そういう時期なんですね。

立岩:さて、今日、久しぶりにインタビュー再開の第1回が尾上さんだった。記念すべき。ほんとにしばらくできなかったじゃないですか。

尾上:オンラインばっかりというか。

立岩:オンラインでもやろうと思えばできるんですよね。ありがたかったです。

尾上:遠いところ、

伊東:ありがとうございます。

岸田:今日はなかなか、とても興奮するような話でしたね。

尾上:ぼくも特に高校時代の、いろいろ(笑)なんで、

立岩:恥ずかしいですけどね。

尾上:音楽の話までしてたからね。(笑)

立岩:その頃は恥ずかしいですけど、まぁしょうがない。恥ずかしいこともしないと。

岸田:ジャズ喫茶に通ってたとか知らんかった。

尾上:たぶんね、あの頃、天王寺はやっぱり市大の医学部もあったから。色々な人と昔話をすると、「尾上はだいたい5年ぐらい上の文化園に属してるよね」ってよく言われて。なんでかなって、確かにそうなんですよね。好きな音楽とか。高校時代に通ったジャズ喫茶のそのノートの存在とかも、大きかった。これも笑い話なんですけど。高橋和巳にハマったでしょう。ところがぼくの周りには残念ながら高橋和巳を読んでる友達誰もいなくて、「なに読んでるんだ?」って。「高橋和巳だ」とかいうたら、「プロ野球の選手か?」って。[02:55:10]

立岩:いたいた、巨人にいたよね。

尾上:そうそう、いたんですよ。

立岩:真上から投げるやつだよね。

尾上:ぼくにとってこんな世界があるんだと思って読んでいた高橋和巳、プロ野球のピッチャーかと言われたときはね、なんか悲しくなった。浮いてたんやね。文化的にはね。思い出しました。

立岩:高校のとき、ジャズ喫茶に通えばとこうなると。

尾上:今、ないですから。

立岩:そうみたいですね。東京もすごい減ったみたいですよ。

尾上:四谷の、

立岩:どうなのかな。ライブハウス的になって、「ピットイン」とかさ、そういうとこは残ってるけど。ほんとに皿回してっていうのは、なかなかね。そりゃそうだよね。お客さん居座って商売ならない。

尾上:ぼくも高校生で粘ったら、2時間、3時間4時間粘っても出て行けと言われないですからね。場所は、経営できないですよ。またコロナ禍落ち着いたら、ぜひいっぱいやりたいところです。

岸田:またお目にかかりたいです。

尾上:はい、また機会ありましたら。

立岩:オンライン飲み会はイマイチだなと思ってるんです。オンラインでPCの前に酒を置いて、楽しくはない。

尾上:やっぱりそれは違いますよ。

立岩:ほんとに長い時間どうもありがとうございます。

岸田:長い時間、ありがとうございました。

立岩:本田さん、インタビュー、マストね。来週やりなさい☆。(笑)鬼のような教員だ。[03:02:38]
☆2020/11/27(金)に実施される運びになりました。

(音声終了)


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尾上 浩二  ◇楠 敏雄  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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