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尾上浩二氏インタビュー

20200807 聞き手:立岩真也 於:(NPO)ちゅうぶ

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尾上浩二 i2020 インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ
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脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 20200807尾上浩二_183分
cf.
◇尾上浩二 i2020b インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也・岸田典子 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ
 (0807インタビュー後半になります。以下、この頁は前半になります。)


立岩:じゃなし崩しに、はじめさせていただいてよろしいですか?

尾上:遠いところをどうも。お疲れさまでした。

立岩:でも便利やね、ここ。駅からすごい近いですね。

尾上:今川まで行ってもらったら、もう2〜3分でこれたはずなんですよね。

立岩:大阪の土地勘がぜんぜんないので。

尾上:梅田からすると、まだ2〜30分かかる距離ですからね。

岸田:尾上さん、私ね、この近鉄沿線の河内松原ってありますでしょう。私そこでね、学生というか、ほんまの学生のときにアルバイト行ってた。

尾上:じゃこの近鉄南大阪線は昔乗ったことがあられるわけですね。それならじゃよかった。

立岩:藤井寺って、野球場があったよね?藤井寺球場ってなかった?

尾上:昔ありましたよね。近鉄のたしかホームグラウンドで、近鉄が身売りして…

立岩:楠さんの話を先にと思ったんだけれども、話の順番で人生前半からというか、前半3分の1ぐらいの話をちょっとうかがってる間に、楠さんもお話の中に登場すると思ったので、ぼつぼつと。話のその施設でどういうことがっていうのは文章の中にだいぶでてて、わかったんですけど。具体的なことというか、だいたい尾上さん60年生まれ?

尾上:1960年生まれ3月。

立岩:私と同じ。

尾上:3月は、学年で1年上なんです。

立岩:だから1年ずれるんです。

尾上:学部に入ったのは1978年なんですよ。

立岩:ぼく、79年。1年ずつずれてるわけなんですよね。

尾上:なので早い、高校時代から障害者運動やってたわけでは残念ながらないですね。

立岩:3月は何日?

尾上:3月2日。

立岩:それで第一の小さい謎が解けました。

尾上:なんで1年ずれるのかなって。

立岩:中学校入ったのが73年で、小学校5〜6年だと、71、72とかかなと。

尾上:なんで72年に中学校に行ってるのかと、さば読んでいるのかと。

立岩:そういうこっちゃない。これ、大阪だと「おおてまえ」っていうの?

尾上:大手前ですね、大手前整肢学園です。ちょうど大阪府庁の近くにあったので。大手前高校っていう高校もあるんですけど、それとはぜんぜん関係ありません。その府庁の近くのエリアっていうことで、大手前整肢学園って名前なんですね。

立岩:だいたい尾上さんって生まれは、大阪は大阪なんでしょう?

尾上:もう大阪も大阪、この天王寺の界隈なんです。この近くの寺田町という、大阪教育大学の天王寺キャンパスのすぐ近くで生まれましたね。

立岩:最初の学校っていうのは、ほんと土地勘がなくて申し訳ないけど、距離的には小学校1年生から4年生まで行ってた?

尾上:大阪府立堺養護学校っていう、大阪府の南の方なんですけども。その私の住んでたところからすると、今日通ってきていただいた天王寺までまず電車で1駅いって、天王寺からスクールバスが出るんですね。スクールバスでだいたい片道30〜40分、家から全部都合を考えると1時間ちょっとぐらいの距離。[00:05:24]

立岩:下がるわけやね。

尾上:そうです。南の方。大仙公園ってわかりますか?いわゆる仁徳天皇陵とかある、あのあたりにある。

立岩:堺の養護学校って、いわゆる医療的ケアって、あとでいわれるような、病児教育みたいな、そうでもない?

尾上:今はなってると思うんですけど、私たちの時代はね、どちらかというと基本、肢体不自由が多かったかな。私たちの世代だと、脳性麻痺の子どもすごく多かったですけど、私の世代ってちょうどポリオの一番最後ぐらいなんですね。そのポリオの最後くらいの世代の連中、そして脳性麻痺の私たちと、あと一部ちょっと二分脊椎の子、歩けるくらいの二分脊椎の子がいたかなっていうぐらいで。ちょうど私の通ってた頃っていうのは養護学校に入るのに、入学試験があったんですね、小学校でも。不思議でしょう。いわゆるIQテストであったり、ADL自立とかをみて、その試験に通った子が、堺養護学校に行くみたいな。まだその当時ってね、東京では光明養護と、大阪では堺養護という、各県に肢体不自由でいうと一つずつくらいしかなかった。私たちの時代っていうのは、例えばトイレ介護が必要な子どもとかは、親がずっと同伴で学校について、登下校するっていうのが条件になってたのでね。親もずっと学校に来ている。親同士けっこうネットワークができるんですね。その当時インターネットとかないから唯一の口コミというか。それで親同士の中でよく、とにかく遠いところわざわざ堺養護まで連れて行くっていう大変さを自ら鼓舞する意味もあったんでしょうね。「障害者の東大=光明養護、障害者の阪大=堺養護」と言っていました。いかにも大阪のおばちゃんやなと思うんだけど。そういうふうにいって、「うちの子は障害者の阪大行ってるんや」って親戚には。

立岩:けっこう大阪ではブランドなんだ。

尾上:みたいな感じ。「障害者の…」と自分で言ってて恥ずかしくなりますけど。親同士ではそれこそ教育権をなんとかみたいな時代の中でそういうにしてがんばったという感じなんですかね。

立岩:世田谷の横山〔晃久〕横山さんがわざわざ光明入るために、世田谷まで。そういう…。

尾上:全国からいくっていう感じだったよね。

立岩:じゃ尾上さんのお母さんかな、も天王寺からバス乗って毎日?

尾上:そうですね。私の場合は小学校2年の途中まで、小学校2年の途中から松葉杖で歩けるようになったので、そっから親はいなくなったんですけど。1年、2年の途中までは親が付き添って。でも私の場合は室の移動とかで介護が必要だったので2年の途中までは親が付き添ってくれてたんですね。そうだ、そうだ、思い出しました。

立岩:その養護学校のバスが通ってるんですか?

尾上:スクールバスが、大阪市内でいうと天王寺から出てたり、梅田から出てたりとか、住吉車庫っていうところから出てたりと。すごく仲の良かった友達の脳性麻痺の子ですけども、その彼女とかは高槻から梅田まで出て、梅田からスクールバス乗って来てましたね。高槻から堺養護まで百舌まで行ってましたね。

立岩:高槻、堺やったら距離ありますね。

尾上:もう片道1時間半、2時間弱いってたんじゃないですかね、その彼女。

立岩:そこに4年いらっしゃるじゃないですか。まず最初の質問というのは、5年生、6年生にあたるところに大手前整肢学園か、その経緯というか?

尾上:なぜ入所することになったか。これもほんとに笑ってしまうような話なんですけど。ちょうど私たちの時代って親がそういう形で学校まで付き添ったり、私たちが授業受けてる間、保護者の待合室みたいなところでずっと待機してるわけですね。そうすると親同士いろいろ話をしたり、あるいは私の親とか、もともと手先器用じゃない人間なんですけど、その養護学校に行ってるときだけ手芸を覚えて、他の親から学んで手芸を覚えるぐらい、そういう親同士のネットワークみたいなのが否が応でもできるんですね。
 ちょうど小学校4年のときに大手前整肢学園っていうのは日赤が経営してる、医療系なので、園長が医者なんですね、整形外科医。その大手前整肢学園の園長しているお医者さんが、アメリカで修行してきた、留学をして帰ってきた。今ですと留学って珍しくないでしょうけど、1970年代くらいってアメリカに研修って一つのブランドだったんでしょうね。そのアメリカ帰りのその先生に手術をしてもらったら歩けるようになるらしいと。(笑)でもそういう話がわっと伝わって。親はそれを真に受けちゃったんでしょうね。だからそれで、私知らない間に、その入所申し込みをされていて。

立岩:たぶんね、それけっこう親の間の集まりとか、そのネットワークの中で、そういう話があって。たぶんけっこういろいろなとこでおんなじことが起こった。

尾上:その当時、それこそ今みたいに相談支援機関もなければインターネットもないですからね、親同士のそういった口コミが唯一の情報みたいな。ほんとに都市伝説のようにして広がって、それで行動に駆り立てられるんですよね。それで、ちょうど5年にあがったときの春休みに、大阪市の区役所から電話がかかってきて、1週間後にベッドが空いたので、入所が決まったという連絡が親に入ったみたいで。「来週から大手前整肢学園行くからね」って、「え?!聞いてなかったな」というか、確かに1回だけね、見学に行ったことはあるんですよ。見学というか、たぶん医者に診察をしてもらわないと入所判定ができなかったからかな。なぜか知らないけど、今から思えば大手前整肢学園に入所する半年前くらいに1回いったな。でもそれでまさか入所まで申し込んでるなんて、こっちは知らないから。1週間前に聞かされて、「聞いてなかったやないか」とか思いながら。
 私のいた頃の大手前は、だからそんな感じで、親が施設に預ければなんとか機能障害が軽くなるんじゃないかみたいな、そういう夢や幻想みたいなものを託して入所が決まる子どもがけっこう多かったんじゃないかなと思いますね。おっしゃるとおり。

立岩:今なんか、なんで尾上さんに聞いたかというと、一昨年ぼく、福岡、宮崎あたりでわりと長いこと、全国青い芝やってた、中山善人さんって、インタビューしたんですよ☆。
☆中山 善人 i2018 インタビュー 2019/08/25 聞き手:立岩真也 於:福岡県久留米市・久留米市役所内

尾上:中山義人さん、今年の春に亡くなられた。

立岩:ほんまですか?

尾上:そうなんです。

立岩:彼が本書いてるっていうか、その本、原稿くださいって、なんか考えるからっていって、あ、そうですか。そんときはお元気だったけどな。

尾上:急な知らせだったので、びっくりしました。

立岩:事故というか、

尾上:なんかちょっと。

立岩:彼がね、53年生まれなんです。そのあと宮崎に行って、宮崎の「yah!do」の永山〔昌彦〕さん、次の日にインタビューして☆みたいな、ここのところ、
☆永山 昌彦 i2018 インタビュー 2018/09/28 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所 ※

尾上:脳性麻痺の振り返りの旅ですね(笑)

立岩:50年代生まれ脳性麻痺者の。自分で書く気はないですけど、脳性麻痺の人の手術とかリハとか、そういうことを調べなあかんって。20年ぐらいいってるんですよ。でも誰も調べてくれなくて。痺れを切らして。

尾上:嬉しいですね。[00:15:04]

立岩:聞いて回ろうと思って。

尾上:JDF(日本障害フォーラム)の事前質問事項のパラレルレポートの17条のところで、脳性麻痺児等に対してかつて行われた、はっきり言えば、実験的な整形外科手術について、なにひとつ総括もされてないっていう、あの文章の元書いたの、私だったりするんです。
 実は熊谷〔晋一郎〕さんに、1960年代後半から70年代ギリギリ80年代の初めぐらいに私が受けたような整形外科手術についての批判的な研究論文がないか調べてもらったんです。「関節の延長手術」というのがバンバンされる時代があり、その後、されなくなっていくっていうのは、明らかに実験をして意味がないということが分かって、やられなくなっていったということで。は明らかに実験台にされてきた子どもたちが沢山いるということが、私個人だけでなく、自分の周りの子どもの様子からも分かるわけです。青い芝の大会とかやると、年代によってね、身体の変形の仕方が違うんですよ。私とか、私より5年ぐらい上の世代ぐらいまでは、私が受けたような関節延長手術という、腰とか膝とかアキレス腱とか、脳性麻痺って緊張のために伸びきらないやつを切って伸ばすんですんね。伸びるんだけど今度曲がらなくなるっていうようなことがよくあるんですけど。そういう変形に出る世代もあれば、私より5歳以上、上くらいの世代なんかもっと全身えびぞり状態みたいな。私も不自然な形になっていますが、もっと不自然な緊張に出てる世代があって。それは大脳基底核手術という手術が私たちより上の世代がやられていました。その手術を受けると、全身えびぞり状態になって、座ることもできなくなることがある。彼はそういう全身えびぞり状態だからぼくより5〜6歳くらい上だな、ぼくと同じような形で変な変形してるから、ぼくと同じぐらいの世代だなとかの推測ができる。もうちょっと下だったらぼくみたいな手術は受けなかったなって明らかに10年周期ぐらいで、そのどういう整形外科手術をされたか、されなかったかっていうことで、ある意味で明らかに有意の差が出てくるっていうのが実感なんだけど、それがぜんぜんそういう医療の論文とか、そういうものになにも載ってない。

立岩:そうなんですよ。その50年代のね、中山さん、ほんとに今、びっくりしたわ。中山さんは、実は順天堂大学の教授だった人が目黒区に病院を建てて、そこで脳手術をやってたと。

尾上:あぁ、なるほど。

立岩:それでね、だけど、親たち3組で、田畠売って、東京に行こうとして行ったんだ。行ったんだけど、自分はけっきょく受けなかった。リスクというか、危なそうだったから。

尾上:拒否した?

立岩:親が。たぶん最終的な判断として。で戻ってきて。3人のうち1人はやったと。けっきょくよくなるよりは悪くなって、今も施設にいるみたいな話が中山さんしてて。そのときに、50年代の初めぐらい、それで、じっさいに調べれば出てきたんですよ。一昨日かなんか。その順天堂大学元教授だったって人が全国でやってたって。多少の学会の報告みたいなの、近いものはあったりするんですよ。それはこれから調べてもらいますけど、そういう時代があって、全障連か、今あるとかないとかわからない、全障連九州ブロックでなんかやってる人、いうのもそういう手術をって。50年代でまず脳手術っていうのが、どういうことであったのかっていうのは調べることがあって。でもまだよくわからないですけど、たぶん調べられると思うんです。

尾上:たぶん生まれて、何歳で受けたかにもよりますけど。体感的には私より5歳上くらいまでの世代、つまり1950年代から55年生まれぐらいはその大脳基底核手術、バンバンやられてた世代かな。それで大脳基底核手術して、全身えびぞり状態とか、かえって不自然な緊張が出るねと。その大脳基底核手術は確かね、私が直接聞いた話じゃないですけども、私の友人が受けて、その大脳基底核手術は特にアテトーゼ型の緊張を抑制することができるんだみたいな。それで手術をして、アテトーゼは収まっても全身えびぞり状態になるとかっていうので、私たちの世代は、緊張のでてる部位、間接部位を延長手術してみたらどうかとなったのだろうと。大手前整肢学園で、私は両方のアキレス腱と腰と、膝は両方の筋肉、だから合計8ヶ所を手術する感じでした。[00:20:49]

立岩:それは一回一回1個ずつやったみたいな感じ?

尾上:手術の回数でいうと3回になるんですけど。1回ずつで、左右のアキレス腱で2ヶ所、腰2ヶ所、左右の膝後ろの筋肉は両側にあるから4ヶ所と。のべ3回8ヶ所になるわけです。

立岩:60年生まれじゃないですか。それも去年かな。仙台行ったときに及川☆さんって坊主の脳性麻痺のお兄ちゃん知らないですか?「たすけっと」で、あの人。

尾上:あの障害者レスリングをやっている…

立岩:そう。顔もちょっとそういう顔のね。プロレスラーみたいな。ジェイソン・ステイサムって映画俳優に似てるって彼に言ったんだけど。ちょっと彼、彼ね、それはインタビューじゃなくて、ただ飲み屋で飲んで。

尾上:彼はもっと若いですよね。

立岩:78年生まれなんですよ。かなり違うでしょう。だけど彼も膝を伸ばす手術をした。

尾上:やってたんですか!へえー!

立岩:膝は伸びてるんですけど、おんなじことなんですよ。伸びたまんまやからぶらーんとなっちゃって、それこそ飲み屋で座ったりとか、そういうときにめっちゃ不便やって話をてした。

尾上:畳の部屋がぜんぜんアウトなんですよ。私も車いすに座ってるからこうやって安定してるけど、畳の部屋に行くと横になって寝転ぶしかないんですね。でもその手術をする前は、脳性麻痺の子どものよく典型的なトンビ座りというか、正座とは違うんですけど、足を崩した状態で、膝を曲げて座るという感じの。それが、それでずっと和式の生活してた子どもが手術をしたら、今度伸び切って、特に膝とか伸び切って曲がらなくなるから、畳の部屋で座りようがないんですね。で、しかも立岩さんと同じ時代ですから、1970年代って家には和式のトイレしかないっていうか、洋式のトイレってもうちょっとあとでしょう?曲がらない膝でね、和式のトイレってなかなかできないんですよ。

立岩:そりゃしんどいというか、できないですよね。

尾上:だからしばらくオマル必要でしたね。

立岩:じゃ70年代、その及川さんの話、仙台行って。

尾上:そうか。ぼくが手術したのが、1970年〜71年年の経験なんだけど、78年生まれのさらにプラス何歳だとしても80年以降、80年代でもそんな手術してたんですね。

立岩:そんときは、飲みながら聞いてただけやから、彼の奥さんというのが、立命館の大学でて、しばらくJCILで働いてて、結婚してついでにというか一緒に仙台に住んでますけど。その夫妻というか、仙台で飲んでて、その話を聞いて、えーとか。若いのにな。

尾上:世代超えて繋がったわ、今。

立岩:だからいずれにせよね、50年代生まれの人、60年代の人、それがいつまで続いたのか、みたいなことは、ぼくはようできないけれども、誰かやってもらおうかなと思ってるんですよ。

尾上:もしそれやってもらえたら、パラレルレポートに加えて、条約の審査のときに追加資料ということで、私たちから追加を出したいと思う。オーラルヒストリー的にはいくらでも、青い芝の仲間連中で「あいつはあれやからな。ぼくらよりも何年ぐらい上やな」とか、そんな話いくらでもゴロゴロしてるのに、ぜんぜん論文という形では残ってないっていうのが、熊谷さんにね、3〜4ヶ月かけて調べてもらったのかな。でも出てこなかった。

立岩:去年ぼく本出したときに、熊谷さん、東京の本屋さんで対談したんやけど、その話を聞いて☆、やっぱり調べがなかなかつかないって話はそのときに出ました。
☆立岩 真也・熊谷 晋一郎 2019/07/01 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」(対談),『現代思想』47-09(2019-07):221-229

尾上:それでけっきょくね、立岩さんの青いほうか赤いほうの本に三井絹子さんの発言で、「私たちは医療の実験台で…」と引用されている、ということを熊谷さんから教えてもらいました。これについては府中医療センター闘争などを取り上げた『頭脳支配』☆の中でもたしか書かれていたなと。かつての『頭脳支配』だったり立岩さんでの本であったり、私たちの知り合いからのそういう記録は残ってるのだけれど、いわゆる学術的な論文、べつに立岩さんのが学術的ではないというのではないですけれど、医療系の総括としてのね、論文がなにもないんですよ。少なくとも精神の場合だったらロボトミーとかは少なくとも学会で自己批判したわけでしょう。[00:25:31]
高杉 晋吾 19710615 『頭脳支配――おそるべき精神医療の実態』,三一書房,241p. ISBN-10: 4380710076 ISBN-13: 978-4380710070  \350 [amazon] m

立岩:調べれば出てくると思うんです、医学論文。順天堂の人が書いたものっていうのも彼はどうやら調べるとパーキンソンの方が専門だとか、ウィペディアとか出てるんですよ。ような人らしいんですけど。とにかく名前がわかって病院の名前、最近わかって、ほんと5日前くらい前。1週間くらい前。そやから誰かうち、これやるっていうてるのもあるのでっていうこと。

尾上:ぼくの感覚からすれば精神のロボトミーと同じような体験をずっとさせられてきてるのに、それに対してなにひとつ医学会からの自己批判や総括がないんだろうとか。

立岩:精神の場合はそれこそ70年ぐらいに騒いだ奴らがいるので、そのときにあるていど明らかになったかっていうか☆。例えばあれがなければ、それもそのままで、いつの間にか下火なってっていう、
☆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

尾上:いつの間にかやめてるというように。

立岩:たぶん脳性麻痺の場合はそういう造反派というか、そこまで、石川憲彦さんみたいな、まれな人なんですけれども。ちょっとこれから調べなあかんな。

尾上:ほんとに自分の中でもやもやしてた問題意識のところドンピシャだったので、すごく大事な研究だと思いますね。中山さんのとこのその話、ちょうど私、世代的に思ってた中山さんぐらいの世代だったら大脳基底核手術とかだなとというのと、符合しますもん。

立岩:大阪の場合は、お母ちゃんたちが、大阪のお母ちゃんたちが養護学校の待合室というか、編み物しながらみたいな。

尾上:編み物しながら、「知ってる?あそこの大手前整肢学園の先生、アメリカで修行して帰ってきたらしい。あの先生に切ってもらったら歩けるようになるらしいよ」とかって言って、それで入所が決まったというそういう経過ですね。

立岩:整肢学園っていうのも、あれも誰か調べたらいいと思ってるんですけど。やっぱり脳性麻痺の治療とかリハビリテーションの成果というか、そういう形のものであって、それがどういうふうに、それがたぶん東京が最初なんですよね。あれね。

尾上:高木憲次ていう医者。

立岩:横塚晃一ってのは、東京の方の製肢療護園にいたことがあるとかね。調べると出てくるんですけども。施設施設によってけっこう違う感じだったりとか、それもわからないんですよ。だけどその大阪の場合は、アメリカ帰りの先生っていうのが、

尾上:大阪の場合はね、私たちの時代だと大きくいって二つあって、一番古い、中津整肢学園という、梅田のちょっと北のほうにある、中津整肢学園、そちらの方が古くて大脳基底核手術はそちらの方が主にやっておられた感じがします。もし、そういう経験者でインタビューする予定あるんでしたら、古い知り合いですけど、大脳基底核手術受けて、先ほど言った全身えびぞり状態になった友人もいるので紹介すること、もちろんできますけれども。

立岩:大手前?

尾上:で、そのあと私は大手前で、大手前の方がちょっと開所があとなんですね。たぶんだから大脳基底核手術を受けてた世代よりちょっとあとで、私たちが受けた間接延長手術っていうんですけど、それを主にしたところが大手前だったのかなと今にして思うんですけど。

立岩:それはアメリカ帰りの先生っていうのが、そういうものを持ってきたのかな?そういう話ではないのかな。

尾上:そのアメリカでの留学帰りということと、その彼がやってた手術っていうのがどこまでリンクしているのかがちょっとわからないですけど、でもやっぱりアメリカでもそういう手術があったのかどうかですよね。

立岩:調べたら出てくるのかどうか。でもお母さんのそういう口コミっていうか、そういうので行って。そのどのくらいのサイズの施設なんですか?

尾上:人数がですか?

立岩:施設内に学校がある?

尾上:1階が私たちが住んでた、寄宿舎というか病院みたいなもんですね。2階が堺養護学校・大手前分校という名前の施設内学級でした。3階が看護師さんや准看護師の寮だったかな。全体のキャパが80名くらいだったと思いますね。重度と軽度にわかれていて、重度棟が、子どもの施設なんで「ひまわり病棟」で、私が居たところは「ばら病棟」。「ひまわり」と「ばら」。それぞれが30、男の子15、女の子15、の4で、15、15でそれで60なりますよね。あと幼児が10ぐらいいてたんかな。全部で70か80ぐらいの規模だったと思います。[00:30:50]

立岩:30、30っていうのは、学年的なもの?

尾上:学年でいうと小学校1年から中学校3年、さらに卒業した子も含めてっていうことになります。クラスでいうと1学年1クラスで、クラスによって1クラス5人ぐらいのクラスもいれば3人くらいのクラスもいればっていう感じでした。

立岩:わりと年齢の幅はまぁまぁあるというか。

尾上:そうですね。さらに、中学校を卒業してその後、NHKラジオの通信高校に行ったり、あるいは高校も行かず過ごして、いわゆる加齢児という18から19、20歳まで入っていた連中も何人かいてたので、年代的にはけっこうバラバラでしたかね。
ただ私たちの時代は、1回入ると長く入所するのが基本でした。私の場合は、手術が失敗したから親がビビって、なんとかここから抜け出さなきゃと思って、地域の学校に行ったようなものです。手術成功してたらね、たぶん中学校も大手前に行ってて。で、私の家ってね、父親がアルコール依存だったんですね、今でいう多重複合問題。今頃、新しく出てきた問題のように言われますが、なにを言ってるのかなという感じが私の中にあって。昔からそんなもん、いくらでもあったがなとか思うんですけど。そういう家庭だったので、2年プラスさらに3年、5年間も施設にいると実家に帰る場所がなくなってた可能性があるんです。要は、1回入ったらなにかきっかけがない限りはなかなか退所することがないんですね。
 お送りした資料の中に買い物の日って書いてる文章があるんですけど。週1回買い物の日っていうのがあって、なんでそんなことやってるのか子どものころにわからなかったんですけど。先ほどにも言ったように大阪府庁のすぐ横にある、ほんとに大阪のど真ん中ですよ。ど真ん中だからいくらでも街中に出ればいいものをそうじゃなくって、買い物の日っていうのは、その施設の中にプレイルームみたいなものがあるんでけど。そのプレイルームのところにワゴンがあって、昼、毎週月曜日だったと思いますけど、昼休みに100円をもらって、そのプレイルームに3時なったら買い物に行く。その買い物の店番は看護師か年長の子供がやってるみたいな、ままごとみたいな感じのね。なんでそれをやってたかというと、それこそ6歳くらいから18までずっと施設に居てるから、お金を使うということをしない、する機会がないんですね。だからお金っていうことを忘れちゃいけないと思って、そういうのに人工的に買い物の日を作るというか、そうしないといけないくらい隔離されてたっていうか。
 そのことをすごく思い出すのは、私小学校5年から整肢学園大手前に入ったんでしょ。そうするとね、二分脊椎の障害のある男の子だったんですけど、今そのあと高校から彼は、地域の学校に行って。今ね、大阪府下のある自治体の公務員で働いている彼なんですけど、その彼が小学校5年、初めてぼくが入所して、初対面あったときに「尾上くん、信号ってどんなもんか知ってるか?」って。「信号って赤と青と黄色、こんなやつやないか」「いやいや、それどんなんや?」っていうから、絵に描いているんですけど。「いや、だからそれどんなんや?」ってまた聞いてくるんで、「こいつ新入やと思って、からかっとるんや、嫌なやつやな」と思って、それでプイって「もうええわ」って無視しました。大人になって同窓会で会って「初めて会ったとき、そうやってからかわれたな」と言って、昔の思い出話したら、「違う違う」と。彼は小学校入学前、5歳のときから入所していて、私と会ったときは10歳で5年間ずっと施設にいてて、私のいた頃ってお盆とお正月と春休み、年3回4〜5日家に帰れるだけで、24時間全く施設の中で生活する。だから、信号を絵本で見たことある、親が運転する車から見たことはある。その頃って車いすで電車に乗れるって、運動している障害者以外、誰もそういうふうに思っていなかったですからね。だいたい養護学校に行く、あるいは施設に送り迎えする、その度のだいたい母親が運転免許取って運転するっていうのが多いんですよ。これも、お母ちゃんが子どもに障害があるのが分かって運転免許をとり始めたっていう人、すごい多いです。それで親が運転する車で年何回かの外泊、家に帰る、その車の中から信号機見たことあるんですけど、横断歩道を渡った経験がないから、その機能がわからない。「だから養護学校からきた尾上やったら信号ってわかるんじゃないかと思って聞いたんや」と。「あぁ10何年ぶりの和解やな」と言ったんですけど。それぐらい隔離されて、彼の場合は高校から地域の学校に行きましたから、5歳から15歳まで、10年間、入所していたわけですね。6年から10年くらい入所が多かったんじゃないですかね。[00:36:48]

立岩:じゃそこの、分校でっていうのも、全寮制というか、そこに住んでる人たち。

尾上:そうです、そうです。もうだから、エレベーターでチーンと2階に上がれば登下校終わり。

立岩:1階と2階の間で生活完了する?

尾上:そうです、そうです。

立岩:ぼくが本に書いた国立療養所って建物が2つあってその間に渡り廊下があって。その渡り廊下をこっち行ってって。

尾上:そうですね。だから水平に左右いくか、垂直に行くかの違いくらいですね。

立岩:そこは通院っていうか、そういう機能みたいなのはあるんですか?

尾上:はい。通園、外来ですね。外来の機能はあることはありますね。入所してた人間の退所後のっていうんもあるんですけど、基本どちらかというと、私たちの世代、もうここの医療こりごりやみたいなのがあって、正直あんまり行かないんですね。やっぱり私の親みたいに、ここに入れて医療、リハを受ければ、なんとかなるんじゃないかっていう、いわば入所予備軍みたいな感じで外来があったんだとぼくは思ってるんですけどね。

立岩:そこは学校の話は今日は置きますけど。医療体制っていうか、医者とPTみたいな人がいて?

尾上:医者とPT、OTとあと私たち日常的に接するのは看護師でした。特に准看が多かった。7割くらい准看、7割8割准看だったのではないかな。正看はせいぜい看護師長、副師長4〜5人くらいしかいなくて、残りは准看でしたね。准看で私たちの施設で働きながら夜間の学校に行って、正看の資格をとるっていう感じでした。やっぱり大阪なので、九州から一人で出てきて働きながら正看を目指してるって、私が10歳ぐらいだったら、その准看護師自身が、それこそまだ17〜8歳なのかな。すごく若い。

立岩:いましたよね、中学校出て。昔っていうか。

尾上:そんな感じですかね。

立岩:じゃお医者さんは診察に来て、木曜日に手術して?

尾上:はい、医療体制は、お医者さんで、PT、OT、看護師。毎週木曜日がオペ日というか、子ども心にもオペ日という名前で覚えてるんですけど。”Operation”のオペで。私のいたときは、手術台が2つあったので、毎週2人手術ができるんですね。毎週木曜日が手術日で、その前の週の水曜日に回診日というのがありました。ぜひ、これからのインタビューで、そういう障害児施設に入った経験者に回診日ってあったかって聞いてくれたらいいですね。ぜったいみんな一番嫌な時間っていうので回診日を覚えていると思います。ぼくも嫌な時間として覚えている。水曜日の午前中が回診日でみんなベッドの上で、男の子場合だと上半身裸の状態でずっとベッドの上で待機してるんですよ。園長=お医者さん以下、看護師長、PT、OTがずらずらずらと大名行列のように回って来て、そのワゴンがピタッと止まったら、だいたい次の週に手術台送りなんですよ。それがすごく嫌だった。そのときに、子どもになにができるかというと、「自分のベッドの前で、ワゴンが止まらないでくれ」と祈るしかないんですよ。[00:40:37]

立岩:その回診、普通1つのベッドに、1人ずつ、ちょっとずつ「お前大丈夫か?どうだ?」的なものをイメージするんだけど。そういうのとは違う?

尾上:訓練の時間はは週3回学校の中にありました。たぶん地域の学校だと体育の時間が全部機能訓練の時間で、そこで訓練受けたり、身体の動作を確認したりしてて。回診日でガーっとワゴンがきて、そのときに膝がどれくらいまで曲がるとか測ったりとか、そういうちょっと動作確認をして、そこで「次の週手術ね」っていう、そんな感じです。

立岩:全員をチェックするっていうよりは、あてがついてるというか。

尾上:という感じでした。

立岩:来週やるやつのところに行って、チェックというか。

尾上:もちろんね、風邪とか熱があったりとか、通常の状態とは違う子どものところには、あったのかもわかりませんけど。手術が予定されている子どものところには、必ず来ましたね。

立岩:来週の手術に備えての、そういうものだった?

尾上:はい、そういうことのためだった。

立岩:だからいっぺんに1チーム何人くらいくるんですか?

尾上:7〜8人はきてたと思いますね。

立岩:ちなみにこの伊東さんはOTの資格は持ってる。

伊東:内緒ですけど。

尾上:今の私が言ってる風景ってイメージできます?

伊東:ぜんぜんできないです。全くできないですね。働いたことはないんですよ。

立岩:この人はOTの実習のときに精神病院にいって。OTになるの嫌になって。大学院にきちゃったっていう人。

伊東:ぜんぜん想像つかないですね。今おっしゃってたような風景。

尾上:そういう感じで、手術が決まる。子どもだったということもあるけれども、私たちに1回1回、こういう手術をして、こういう効果があって、もしかしたらこういう不都合が起きるかもわからないとか、今でいうインフォームドコンセントとかもぜんぜんなかった。親に対しても1回1回の手術するっていう説明は、なにもなかったんですよ。入所するときに、入所期間中における、医療その他の行為、一切の責任を問いませんというのを書いて確か入所した。

立岩:一括契約みたいなってるんですね。一括同意というか。

尾上:念書というのを最初に書いて。親からすると、手術したあとは全身麻酔をするので、2日ほど泊まり込みで身の回りの世話をしなきゃいけないんですね。だから,「来週手術するから来てください」っていうふうに呼ばれた。私が回診日で伝えられるのと同じくらいに親にも伝えられてるんです。

立岩:手術することを決めてから、そういう手術後のケアっていうのがあるから親に通知する。

尾上:だったと思います。

立岩:3回、それをそういうブームというか、そういうものの、尾上さんの場合は2年しかいなかったから、そういう前後関係というか、わかりようがないと思うんですけど。ああなって、こうなって的なことって、風の便りというか、そういうことも含めて聞いたことあります?

尾上:いや、どちらかというと、あの世界からやっと逃れたみたいな感じで封印している、先ほども言った通り普通だったら退所して時々その外科に通って、みたいなあるんでしょうけど。外来に行くってあるんでしょうけど、そういうのもなんにもなかったです。風の便りもないというか、ですね。

立岩:でもだいたい感じわかりました。ぼく自身はあれですけど、調べて。[00:45:00]

尾上:ただその大手前整肢学園、今から思えばけっこう変わったスタッフがいてて。もう今なくなったですけど、大東市っていうところで地域リハビリテーションというシステムを作った山本和儀っていうPTがいてるんですね。山本和儀さんは今から思えば彼も弱視だったんじゃないかな。楠さん、なぜか知ってたんですね。名前聞かれたことあります?もしかして盲会つながりで。

立岩:平和の「和」に正義の「義」ですか?

尾上:正義の「義」じゃなくてにんべんに「義」です。その彼がずっと私たちの時代のPTでもあったんですけど。彼が、「中学校から地域の学校にいった方がええぞ」っていう感じで強く勧めてくれて。できるだけ戻せる子は地域に戻そうっていうのが彼の方針だった。そのあとぶつかったのかなんか知らないですけど、大手前整肢学園を飛び出して、大東市でPTをやり始めた。今でいう療育というか、その脳性麻痺の子どもは保育所に行くんじゃなくて療育センターや、そういったところへ来てくれっていう話になりがちだったんですね。そうじゃなくて、子どもを集めるんじゃなくて、その障害のある子どものところにいわゆる専門家っていわれるスタッフがいけばいい話なんだ。自分たちこそが出前すべきだという、地域リハというのを1970年代後半ぐらいから始めた。たぶん彼にとっては大手前時代のが反面教師としてあったのかなとか思ったりするんですけど。
 そういうふうないろんな人間がいてましたね。「おもちゃライブラリー」運動っていうのを、その後やり始めた人間がちょうど私の生活指導員だったりとかで。医療系の経験、特に整形外科手術ははとんでもないっていう感覚と、一方で、そういえばあのPTが担当だったから中学校から地域の学校に行くことになったなとか。その経験的に自分の中でどの側面が大手前整肢学園かみたいな、ないまぜになっている感じ。本質はやっぱり医者が園長で、医療リハというか、医療の実験台ということでしょうが。

立岩:ちなみにそのアメリカ帰りでも誰でもいいんですけど。医者、お医者さんの施設長でもいいんですけど、名前とか覚えてらっしゃいますか?

尾上:私のときは村上っていう名前でしたね。下の名前は、覚えていませんね。

立岩:うん、いいです。だんだんたぶん調べていけばそのうち出てくると思うので★。
★尾上さんが調べてくれた。
村上白士
1958(昭和33) 京都大学医学部卒業
1986(昭和61) 京都大学大学院卒業 京都大学医学博士
1963(昭和38) カナダ、アルバータ大学整形外科
1966(昭和41) アメリカ、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所
1967(昭和42) 大阪赤十字病院付属大手前整肢学園医務部長
1973(昭和48) 村上整形外科開業
医療法人村上整形外科院長
https://www.murakamiseikei.com/staff

尾上:たぶんね、二分脊椎とかですごく有名らしいんですよ。人伝にそういうの聞いたことあるんですね。

立岩:ありがとうございます。で、深夜ラジオを聞いていて、ロックにはまりみたいなことは書いてあったので。(笑)それ小学校の終わり?そこで?

尾上:小学校5年6年そこで過ごして、6年のときに養護学校の担任の教師と先ほどの山本っていう担当のPT、どちらもが、家の近くに中学校から家の近くの学校いった方がいいと勧めて。親は先ほど言ったような家庭の状況なので、そんなに熱心に情報は集めたりとか制度とか勉強するとか、そんな余裕もないですからね。この先生が言うんだったらっていうことで、言われて、しかも親からすれば半年にいっぺん、年3〜4回、3回か。年3回帰ってくるたんびに体はどんどん、体の形が変わって障害が重度になっていくでしょう。親からすればその先ほどの施設に入るときにも言われたのが、「これから生活離れ離れで、いろいろ辛いことがあるかもわからないけれども、頑張ったら歩いて帰れるようになるから、頑張りや」っていうのが、親の送り出す言葉だった。「頑張ったら、歩いて帰ってこれるから」で、でもところがどんどんどんどん、歩けなくなっていくわけですよね。親からしたら、特にやっぱり膝の後ろの手術して、畳の部屋だとぜんぜん座ることもできなくなったというのが、やっぱりかなりショックだったみたいで。ちょっと大げさに聞こえるかもわかりませんが、このままいてると、最悪の事態になるかもわからない。ちょっと怖くなったみたいね。それでなんとかここから、抜け出す術みたいなとこが、ちょうど中学校の進学の時期と重なったのがちょうどよかったのかなというか。[00:50:48]

■文の里中学

立岩:中学校はそのわりと近いところ?

尾上:そうです。この近くでね、私の住んでたところのすぐ近くで、文の里中学校って公立の中学校。

立岩:文の里。

尾上:公立中学なんですけどね。立岩さんのところだと、あんまりわからないかも。大阪だと越境入学っていうのが、昔はあったんですね。

立岩:ぼくらは越境のしようがないから。海に落ちてしまって。(笑)ありますよ。ありましたよ。

尾上:被差別部落のある地域を避けて、小学校、中学校選ぶっていう。一時ね、大阪市内で一番越境入学が多い学校で、一番多い時で6割が越境入学。

立岩:越境してくるって?

尾上:くる子が多い。

立岩:なにの里?

尾上:文の里中学。

立岩:文の里ってどういう字?

尾上:文学の「文」に「の」は平仮名の「の」、あと里は古里の「里」。大阪で有名な進学校で天王寺高校って。そうか、楠さんの働いてた学校が天王寺高校なんですけど。天王寺高校の向かいにあるのが、文の里中学なんですよ。
それで、私天王寺高校のすぐ近くに住んでたので、地域の学校で文の里中学校に行くっていうことになったんですけど。それこそ私の入った頃で、6割からそれが3割ぐらいになったのかな、越境入学が。越境入学は問題ですと、法律違反ですっていうのを大阪市、いろいろ指導しだして、それでも2割3割やっぱりいてた感じの時代に入ったっていうこともあってなんですけど。
でもすんなり入学が認められたわけじゃないです。大阪っていうと、どちらかというと、共に学び育ち教育のメッカみたいなイメージがあるんですけど。それはどちらかというと豊中、高槻、枚方とかで、一方、大阪市内は私の中学校時代はぜんぜんそうじゃなかったですね。なので、入学するときに念書を取られて、なんとか認められたというか。

立岩:どの類の、どういう念書?

尾上:小学校6年の2月に文の里中学に呼ばれて、私と母親、それと養護学校の担任の先生が応援についてきてくれて。いっぺん話し合いを持ったんですけども。平行線でぜんぜん話進まずで、もう1回2週間後、2月の終わりぐらいにもう1回話もった。2回目の話のとき、主には教頭先生、教頭が応対したんですけど、その頃ってね、実はバリアフリー条例ができるまでは、学校にはエレベーターどころか、階段の手すりもなかったんですね。昔なかったですね。そういう記憶あったでしょう?

岸田:あったと思いますね。

尾上:なぜかというと、あれ実は福祉の街づくり条例で解釈を変えて、階段の幅は140センチ以上学校の場合なければならないですけど、140センチギリギリにだいたいどこでも作ってるんですね。そこに手すりをつけてしまうと、その幅を確保できないということで、だからつけれない。「手すりは除く」というふうに解釈を変えて、1990年代以降やっとつくようになったんですけど。
 私が入学した1970年代ってのは、そんなものがないから階段の手すりもなくて、なんとか壁に体を擦り付けるようにして、上がり下りして。「なんとか上がり下りできるんですね」と言われた後、すぐに「お母さん、念書書いてください」と。「今まで通ってた養護学校と違って、これからは普通学校です」と。「歩けないからといって、特別扱いしませんよ」という話。特別扱いしないということは合理的配慮しないという意味やねね、今で言うと。念書には3項目あって、「その1階段の手すりなど設備は求めません」「その2先生の手は借りません」「その3周りの生徒の手は借りません」でした。この3つを約束するんだったら入れてあげましょうということで、念書を書いて、なんとか入学が認められたというのが2月の終わりといった顛末での入学でしたね。[00:55:13]

立岩:その学校の、例えば同学年には尾上さんみたいなのはいないの?だいたいそのぐらいのサイズの、大きそうな感じがするんだけど。クラスいくつあった?

尾上:外見でね、わかる、明らかに松葉杖とか、片杖程度ではあっても、子どももいなかったですね。もしかしたら心臓であったり、腎臓であったり、内部障害とかね、そういう子どもはいたかもわからない。

立岩:わかる感じの人はいないと。

尾上:なぜそう思うかと言いますとね、実は中学校3年のときに修学旅行を私は連れて行ってもらえなかったんですね。
 その頃大阪の公立中学はだいたい2泊3日で、大阪から長野まで修学旅行、行ってたんですね。中学校1年からその修学旅行の積み立てをしてて、中学校3年になって、担任に呼ばれて、「尾上、今度6月に修学旅行あるけれども、おまえは連れて行かれへんからな。その信州は山道だ。松葉杖で歩いてて、もしなにかあったらあかんから、連れていけないから、この修学旅行の積立金返すから」って、封筒に入ったやつを返してもらった。「こんなんうれしないわ」と思って。それだけじゃなくて、「ええか尾上、修学旅行っていうのは学業の一環、勉強や。だから修学旅行いってる3日間は学校に来て自習せなあかんぞ」って。ほんとに自習に行ったんですよ。その頃から本読んだりするの好きだったから、別に自習っていっても教科書、自分の好きな本ばっかり読んでて、「好きな本読めるしいいわ」と強がってたんですけど。その修学旅行は、生徒だけじゃなくて、学年の先生も全部いなく、一緒に行くんですね。だから3年のフロア誰一人いない中、一人っきりで、確か、あのとき一人しかいないから、もし他に障害のある子がいてたら、もう一人、二人残ってておかしくないんだけど。一人しか残ってないから、

立岩:一人やったんやね。

尾上:だったんですね。たぶん。

立岩:長野のどこ行ったんやろう?その他全ては?この人、

伊東:実家が松本。

立岩:長野って、長野から善光寺とか行くんですかね。中学生。

尾上:今から思えば、別にエベレスト級の山に登るわけでもなんでもないし、全てのコースに行けるかは分からないけど、そのころは松葉杖ついて、友達とよく心斎橋とかいってレコード買いに行ったりとかよくしてましたからね。電車に乗ったりすることが、できないわけじゃなくて、それこそ断崖絶壁を行くような感じで拒否されたという話でしたね、今から思えばね。

■〜阿倍野高校〜

立岩:そうか、それが中学。これ、人生長いんですよ。ほんとにね、聞きたいのね。前半戦であれですけど、高校はどこ行かれたんですか?

尾上:高校はそのあと歩いていけるところ、一番近くは天王寺高校だったんですけど、実は私たちの世代ってちょうど内申書重視とか言われ。私、内申書、重視の時代になって、体育とか実技系が1とか3とか、10点満点の、1とか3とかで。だいたい文の里中学で、ぼくだいたい、学年でいうと20番から30番ぐらいで、文の里中学ってだいたい4?50番ぐらいだったら天王寺高校いけるって言われてたので、たぶん5教科だけだったらいけてたんですけど。実技教科で足切りというか、それでされちゃうとアウトだなというので。その次に歩いていける学校で阿倍野高校ってところに行きました。

立岩:その文の里中学校ってどのくらいの規模の学校なんですか?

尾上:私がいた頃、入ったときで1学年500人の1500人。3学年で。

立岩:1学年500人ね。そうすると10いくつクラスがあるみたいな。

尾上:47人の11クラスでしたね。私より3年上ぐらいは全部で2700人、2000何百人かいてたんです。だから越境入学の子らがいなくなってきたら、1500人。それでも越境入学の子、今から思えば「実はおれ、おじいちゃんの家から通ってるんねん」って子、友達いました。

立岩:そういう形でね。じゃけっこうでかい、東京とかだとさ、麹町中とか、なんかその

尾上:日比谷、

立岩:そうそう、その有名高校に入る公立中学校みたいなのが、あったりするじゃないですか。大阪ってそうでもない?

尾上:大阪は今は、たぶん私学の方が優位なのかもわかりませんけど。その頃は大阪はやっぱり公立が中心だったかなと思うんです。私学に行く子は兵庫の例えば灘とか、あるいは奈良の東大寺であったりとか、他の県の方へ寮生みたいな感じでいく子がいたかなと思うんですけど。
 基本地元で、って子は、公立中学、公立高校で大阪でいうとその進学校っていうのは、南の方は天王寺高校なんです。天王寺高校にリンクしてるのが文の里中学で、さらに常盤小学校と。常盤、文中、それで天王寺高校。そのあと京大っていうのが、よくこれは中学校の校長先生の朝礼の挨拶の度に、「君たちは栄えある文の里中学、このあと天王寺で、京大へ行くのがこの地域のエリートなんだ」とか言われる。そんな雰囲気の学校でした。他にも大手前高校っていうのが、真ん中か。大手前高校、そこは東中学っていうところがやっぱりエリートの進路となっていた。[01:01:21]

立岩:なってんだね。やっぱりそういうの知らんから、そりゃローカルな地元に人に聞かんとわからん。
 それで高校はいろいろと話せばそこも長いと思うんですけど。一個だけそもそもの、78年入学の人がようやくだんだん楠的な話になってくるんだけど。障害者運動の接触っていうか、っていうのはいつなにがあったということなんですか?

尾上:障害者運動との接触自身は大阪市大(いちだい)、大阪市立大学に1978年に入ってすぐに大阪青い芝の会の連中と出会ったのが直接のきっかけですね。昨日送っていただいた質問に、「尾上はなぜ運動の関わりが早いのか」というのがありました。一つは立岩さんと同じ年に生まれたんだけど、私が3月生まれで学年的に1年早かったというのが、一番大きいんですけど。あともう一つは大学に入ってすぐに障害者運動に飛び込んだっていうのも、たぶん高校時代にこじれた高校生だったというのが大きかったのかな。ちょっとうまい言い方が見つからないんですけど、高校ぐらいになるまでっていうのが、私たちの世代って例えば私でいえば歩けなくても勉強がんばって認められれば、障害を超える努力をするみたいなことをずっと言われ続けるわけ。今から思えば知的障害に対する差別的な言い方かなと思うんですけど。親戚が「歩かれへんねんから頭で勝負せなあかんよ」とかいって、頭で勝負しろと言われる。周りの大人は「勉強がんばれ、がんばれ」みたいな感じでずっと言うじゃないですか。で、中学校ぐらいまで、なんか学校の中で成績が取れればなんとなくなりそうな幻想をもつんですけど、高校ぐらいになると「それ嘘やな」って思うんですね。
 なぜ思ったかと言うと、ぼくは音楽が好きだったので、友達がバンドとかをやり始めると、バンドのための楽器とかアンプってけっこうお金がかかるんですよ。ある友達は高1の夏に喫茶店のウェイターをやった、ある友達は大阪の下町なので親戚がやってる鉄工所の手伝いをしてお金を貯めた。あれ、おれは松葉杖ついてウェイターやったらほとんど水こばすし、鉄工所の手伝いできひんな。あれ、おれなにができるんやろうみたいな、そんな感じで。今から思えば障害者として社会の中でどう生きるかっていうことの不安なんだっていうふうに言語化はできるんですけど、高校1年のときってほんとに、中学校もそうですけど、周りにぜんぜん障害者いないでしょう。今みたいにそういうピアカウンセラーとかがいてるわけじゃないから、すごくなんか、今まで勉強がんばればなんとかなると言ってきた大人、周りの大人たちは嘘ついてたという感覚に襲われるんですね。大きな言葉でいえば、世界に対する信頼感みたいなことになるんでしょうけど。その高校ぐらいのときの言葉でいうと「周りの大人は嘘つきばっかりやな、こいつら」みたいなふうに思って、学校の勉強するのあほらしくなったんですね。それで途中から、もともと音楽が好きで、前、立岩さんと話したとき、尾上の読んでる本とか、それって、どう見ても、もうちょっと上の世代だよねって、年齢サバ読んでる、みたいな(笑)。サバ読んでるわけじゃなくって、その頃だから、ぼくにとったら音楽がいわゆる文化的なものの唯一の繋がりで、それで音楽友達とかもできたんですけど。それでだんだん高校時代こじれていったときに、学校行っててもおもしろくないから、途中でふけて、どうするかというと、その頃大阪市内だとジャズ喫茶があるんですね。[01:05:39]

立岩:わかります。検索しました。店の名前で。2〜3軒出てきました。

尾上:あったでしょう。天王寺に「ムゲン」と「マントヒヒ」とね、「四分休符」と3つあったんですけど。そこにだいたい学校が終わったらすぐ行って、4時ぐらいから7時半ぐらいまで3時間ぐらいずっと、コーヒー1杯でねばるんです。今から思えば75、6年ぐらいのときなので、たぶん学生運動崩れの連中がジャズ喫茶にたむろしてて。大学ノートに吉本隆明論とか大江健三郎がどうのこうのとか、そんなん書いて。普通ねそんなもんって自分たちの周りで読んでる人間いないから、異世界なんですね。「なんやこれ?」って思って、最初、なにから読んだのかな。大江健三郎読んで、サルトル読んで、カミュ読んで、けっきょく高橋和巳〔〜19710503〕がなんかすごく自分の中にハマったんですね。『邪宗門』の最後ミイラになるまで滅びの美学みたいなところにはまっちゃって。

立岩:わかる。わかるわ、それ。

尾上:すごくその世界に周りに対する信頼がない、こいつら嘘つきばっかりだって思ってるじゃないですか。そのときにね、高橋和巳ってハマるんですね。

立岩:わかります。ぼくは尾上さんとかと違って、高校のとき、社会科学系とかぜんぜん読んでないんですよ。知らないんですよ。だけど小説は読んでたな。

尾上:そういう感覚で『わが解体』★とか、なんとなく学生運動の残り香みたいなものにもふれる。
★ 高橋 和巳 19710305 『わが解体』,河出書房新社,208p. 
立岩:そうだよね。高橋和巳はそうですよね。それで大学辞めたとかそういう人ですから。

尾上:別に学生運動に憧れて大学に入ったとかそんなんじゃないですよ。でもなんとなくそういうふうな文化圏は知ってる状態で青い芝と出会うから、あっというまに、(笑)なじむわけなんですよね。

立岩:ちょっとありえるよね。そのマイナー路線というかさ。反抗路線みたいな。ジャズ喫茶でちょっと慣れてたみたいな。最初、最後まで高校生活も最後まで健全だとすぐには、そういったわけには。

尾上:こじれてたからこそ、すぐに。

立岩:ロックとジャズと並行して聞いてたんですか?ロック少年がジャズ少年になったんですか?

尾上: 最初、ロックで、それこそ、文学にやっぱり関心持ちはじめたのって、ロックの中でプログレッシブロックという、ちょっと実存主義的な歌詞とかのその手のものが、すごく好きで。

立岩:ぼくも最初に買ったLP、ピンク・フロイドでした。

尾上:おんなじかもわからへん。それこそ日本名で『狂気』って『ダークサイド・オブ・ザ・ムーン』とかね。それこそ月の裏側に…とか。そのなんか歌詞の幻想性みたいなのにすごく、その手のものを読みはじめると大江健三郎とか、その文学のかおりと重なる。

立岩:親和性あるよね。プログレとああいう、あの時代の小説とか。そういう感じか。

尾上:それが最初ロック。ぼくにとってのロックというのは、文学への入り口を作ってくれたというのがあるんですけど。さらに途中からね、実はロックの源流たどろうと思って、ブルースというか、R&B、今でいうソウルですね。ソウルに関心をもって。関西はその頃上田正樹とか、関西ロックというのがあったんですよ。どんどん趣味の話で、横路にそれますが。「8.8ロックディ」って8月にね、万博公園でアマチュアのグループが集まってコンサートやる。そこのいつも8月なったら、万博公園に行ってたりとかっていうので、そこでブルースとかソウルおもしろいなと思って。じゃそうするとジャズにいったと、そんな感じなんですね。ロック、実はロックからいきなりジャズじゃなくて、途中にソウルとブルースが、関西ブルースがあったという、そんな感じです。(笑)なんかここでこんな音楽の話するとは。

立岩:わかるわかる。

尾上:このインタビューなんやねんっていう。

立岩:でもぜったい関係ありますよ。やっぱりブルースとかさ、R&B聞いてると、反抗的になる。それはたぶん下地として、ぼくだってそういうとこあるもん、やっぱり小説読んで、音楽聴いて中高やってたから、こういう人間になっちゃった。[01:10:09]

尾上:ちょっと救われました。なんで、ここで音楽の話をしてんのかと。(続く)


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尾上浩二  ◇脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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