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入所施設と自分(その2)

津久井やまゆり園事件の裁判結果を受けて
山本 勝美 202008 『臨床心理学研究』58-1:11-18.
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「入所施設と自分(その1)」

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last update:20201108


■目次


■<第1部>やまゆり園事件を追及する

<第1節> 10 余年前の思い出

 もう10年ほど前になるかな、ぼくはある大学の社会福祉学の教員をしていた。その授業のなかには、福祉現場の経験を身につけるために、2週間ほど現場の施設で実習をする授業がある。
 その時期には、ぼくは、各施設の巡回をして回っていた。その一つに「津久井やまゆり園」という知的障害者の入所施設があった。沢山の施設を回ったが、名称が可愛いので印象に残っていたが、駅からバスで30分程もかかり、結構遠方にあるなということも記憶に残った。
 こうして、やまゆり園には2回ほど訪問したように思う。その第1回目だったと思うが、施設はわりと清潔で、職員も活発に動く、そして地域との関係も、盆踊りなどがあり、交流につとめているとのおはなしだった。それゆえ、入所施設もこの程度迄改革されつつある、という印象を抱いた。40〜50分も居ただろうか、そのあと立ち去ろうと思ったとき、ぼくは「あれっ」と立ち止まった。重度・重症の障害者が見当たらない!言い換えれば、軽度、中度の知的障害者のみなのだ。
 そこで「指導格」の職員さんに、「あの、重度の人はどこにいますか?」と質問した。すると「重度はここにはいません」という回答が返ってきた。(やっぱりそうか!)その回答にぼくの、この施設に対する印象がガラリと変わってしまった。その時の正直な気持ちは、「なあんだ、そうなのか」とがっかりしたのだ。それならできる、しかも良い実践、改革と言うのは、表面だけの見せかけなのだと興ざめした。
 そこで更に実習に来ている女子学生さんに、「あなたは重度、重症者のいる部屋に入ったことがありますか?」と尋ねた。するとその学生さんが小さい声で「はい、一度だけですけど見せて頂きました。」。学生さんも普段の実習時間には他の入所者の部屋と同じようには自由に入れないということに、はにかむ様子がうかがえた。この学生さんの感性にうなずきながら、やまゆり園を出た。
 その日から10年ほど後のある日、私は「やまゆり園」という名を目耳にして、驚いた。もうほとんど忘れかけていたこの固有名詞が、日を追うにつれて、かつてその現場で感じたその日の体験とともに、まざまざとよみがえってきたのだ。やがて「そうだったのか!」と、自分の「あれっ」という意外感が次第にリアルな実感をともなって再生し、施設の表向きの装丁とその奥にかくされていた別棟の、いま露呈している恐ろしい惨状とが頭に、そして体を巡って行く------やがて鳥肌が立つのを禁じ得なかった。

<第2節>「安楽死」こそが解決策だと結論づけ

植松青年は、やまゆり園では、当初、まじめな職員との評価を受けていたが、年月を経る中で、重度?重症者の棟での勤務中に体験した入所者の状態像、障害者に対する職員の生気に欠けた瞳、親の疲れ切った表情、我が子に対する冷たい態度等から、やがて「安楽死」しか解決策はないと結論づけた。
 彼は、自分が社会に最良の解決法を提起すると確信した。そしてついに衆議院議長公邸へ行き、入り口で議長宛て文書を届けた。そのあと、文書は警察に、相模原市精神保健課そして措置入院13日で退院。ある深夜に犯行に移った。一部の人たちは彼の言動を英雄視したが、別の立場の人たちは彼を英雄主義と呼んでいる。何よりも19名もの知的重度・重症の人々の生命に対する優生思想、そしてその根底にある、社会を変革するのだという独善観、具体的には、自分の視野の独隘性を振り返るだけの人間観と知見の広さ、そして自己制御力がそなわっていなかったという批判に立っての、私の見解である。
 それでは、やまゆり園事件に象徴される、重度・重症者の隔離?抹殺からの解放にむけた本来的な解決方法は、果たして存在するのだろうか?
 それには、これまで実態を放置してきた国の福祉政策中枢の責任者と、実地の施策に当たる担当者の責任は重い(県知事はすでに事件前にやまゆり園を見学していた事がその後明らかになった)。またそれらの無策を許してきた我々の責任でもある。

<第3節>やまゆり園におけるさまざまな動き

 私は、やまゆり園問題については門外漢に近いが、でもこれだけの年月が過ぎ、地域での関係者の動向を知って、学んだことがいろいろある。以下に、可能な限りそれらをご紹介してみよう。
 まず、園に直接関係する立場として、園内の組織「家族会」の方々の言動がある。その中で、事件に先だって、すでに単独でお子さんの施設から地域への自立生活を進めてきた方がおられる。

1)平野泰史さん親子の取り組みをご紹介しよう。
平野さんは、掘利和さん(本誌執筆者。「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」代表)と共にやまゆり園のこれまでと今後について、ともにかかわっておられる方である。

 現在、和己さんは、心身両面ですっかり成長しておられる。いま就労中だが、両手で荷物を運んでいる場面の写真を拝見したが、下記のような、かつての様子とは比較にならない。
 植松青年は、おそらく心身が不調になっていた入所者の実態を見て、大変な衰えと感じただろうと述べておられる。
 なお、平野さんは、現在、かつてのやまゆり園入所中の施設生活の実態を園の資料から公開しておられる。
 たとえば、和己さんの個別プログラムの中に記されている「ドライブ」と称する時間。車に数名の入所者を乗せ、毎日1時間半、外を回る時間。そのドライブ時間数の多いこと!園生はその時間は静かにしている。そのあとは、特別なプログラムが何もないに等しい状態。
 また和己さんの入所中の日常生活を非公然に録画しておられた。彼が広いホール(リビング)の中をあてどなく右往左往している様子を公開。入所者の、典型的な無目的な徘徊状態。
 また、年配の入所者は、ただソファにすわっているか、あるいはよりかかっているのみ。
 平野さん:「先ほどのリビングの写真にあるような光景、それを植松は見ていたわけで、彼にはこの人たちが本当に死んだように見えたのだと思います。私がもし、ここで毎日介助に入っていたら、生きていてもしょうがないんじゃないかと感じたでしょう。施設の中のそういう光景を見続けているうちに、彼は変わって行ったのではないかと思っています。」と語っておられた。
 説明を伺っているうちに、「まだこれからいろいろ公開します」と仰っている。

2)尾野剛志さん、前家族会会長
 尾野さんは当初、「会員の方々は事件前のやまゆり園をそのまま復興することを叫んでおられる」と力説しておられたが、昨年あたりから、息子さん一矢さんは地域での自立生活を始めた。そういう意味で、事件後、最も大きな変化、成長を示す親の方です。
 尾野さんは、事件の夜、園にかけつけたところ、一矢さんは植松に刺されていた。そして医師から「今夜もてば生きる見込みがある」旨告げられた。とたんに頭が真っ白になり、深夜に帰宅されたのだが、そのとき、どのようにして家迄たどり着いたか全く覚えていないと、あとで語っておられた。
 しかし夜明けに医師から連絡があり、奇跡的に回復された。その時の父親としての心境を語っておられたが、私自身にもかつての類似した体験が思い出され、親としてこんなにまで相通じるものか、と深く共感した。

3)退所後に始まる新しい生活
 NHK「おはようニッポンを見て」(石井美寿輝さん報告)(注)松田智子さん(39)は、やまゆり園の元入所者である。
彼女は重度知的障害があるが、園に事件が生じて以降、4人の仲間とグループホームで暮らしている。入所中、足に負傷をして以降、車いす利用の生活を続けていたが、PT(理学療法士)によれば、身体に硬直が見られたので、生活行動面での工夫がなされた。やがて、改善されたのでグループホームに入所したという。その後次第に生き生きした表情になり、それ以降、日々楽しい散歩をかかさず、すごしているとのことである。
なお、この放映ののち、県は彼女を車いすに固定した生活を強いていた(虐待)として、管理責任のある共同会を上部団体から退去させている。

(注)引用文献:「私たちは津久井やまゆり園事件の「何」を裁くべきか」P162(堀利和編著、社会評論社、2020年)
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<第4節>津久井やまゆり園とその歴史的背景

 やまゆり園問題を理解するには、園の歴史的背景をふり返ってみる必要がある。
やまゆり園は1954年に入所定員100名の神奈川県立知的障害援護施設として津久井相模町に設置された。これは国内の入所施設の中では開設が極めて早く、唯一の国立入所施設、「秩父学園」(埼玉県所沢市に1958年設立)より4年早い。
 さらにまた、国の政策として全国的に大きな知的障害者入所施設の設立が打ち出された「コロニー構想」(1965年)と比較しても一層早い。1970年、群馬県高崎市の山中に国立コロニー「のぞみの園」が設立されている。そのあとに舟形(宮城)、嵐山(埼玉)などのコロニーが続く。
 やまゆり園がこのように早期に設立された事のニーズの一つに、やまゆり園の職員は、当初、全員が地域住民であった。農業以外に産業がない地域では、県の職員として雇用される事により、地域全体の生活安定に大きな援助対策になったと思われる。現在もなお、職員は相対的に近距離地域から雇用されているようだ。そのため今も園職員の募集に難点があるとの事である。
 一方、これとつながるが、やまゆり園と地域住民との共催が今なお続いているようだ。
 さらに、このように長い歴史から、施設として望まれる新しい対策や改革が伝統の古さによって遮られてきたということがあるのではないか。グループホーム、自立生活センター等の進展。また、重度、重複などのケアは、改革を遮ぎられてきたことはなかったか。平野さんが、繰り返し「ドライブ」から「生きたプログラム」への転換を要望しても、「予算がないから」との理由で拒否されてきた事実。知事がかつて現場を訪問したのに、全く改革がなされていない、また家族会から「共同会」に寄付がなされている、これらの不審な経緯は上部組織の人事固定化が左右していないか?
 歴史をふり返ることで最もおおきな特色は、以上の歴史をこうして少し振り返っただけでも、いくつかの特色がうかがえることだ。

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◎園の事件以降1年目に「家族会」で「園の再建について」出された総意とされる意見の内容は以下のようなものだった。
○全面的な立て替え以外に選択肢はない(元の場所に同じ規模の施設を)。
○大規模施設は医療面でも充実。何よりも安心でき、心強い。
○施設の中の事は我々が一番よく分かっている。外からとやかく言わないでほしい。
○利用者はこの施設が一番だと思っている。みんな満足している。津久井やまゆり園は楽しいところだ。
○入所を希望し待機している人が大勢いる。
(以下略)

 以上のような総意をまとめて、県に提出された。
 その後、さまざまな動きがあったのち、昨年12月5日に、神奈川県議会で黒岩祐治知事の発言があった。「指定管理者となっているかながわ共同会への指定を短縮・見直しをし、2021年度からの指定管理は公募する」
 この発言に対し、浅野史郎さん(元宮城県知事)は次のように感想を語っておられる。「やまゆり園再建計画というのはやまゆり園の建物をなおすだけじゃなくて、やまゆり園をあの反省を込めて運営を変えなくちゃいけない。目標を持たなくちゃいけない」
(注)引用文献:同上書(社会評論社、2020 年)P296

■<第2部>「入所施設と自分」を再確認して

(はじめに)

 私は、本誌第55巻第1号に「入所施設と自分」と題する一文を掲載した。その内容は、「入所施設問題」は、人類に取って永遠の、そして最も深刻な課題であるという趣旨を、自分の半生を振り返りながら記した。
 その視野は今も変わっていない。ただ、この4年間にやまゆり園事件をめぐり、様々な変化が見られた。それ故、これらの変化について、この著作で触れる必要を感じた。そこで、<第1部>では、やまゆり園について、それなりに見えてきた建設的な面について触れた。
 ただし、これから<第2部>において、「入所施設」に関する自分の基本的視野自体とそれの拠り所となる事実関係については、なお明確に再確認すべきであると考え、以下に然るべき内容を記していこうと思う。

個人史を振り返りながら
 津久井やまゆり園の障害者多数虐殺事件から早や4年が過ぎた。被告植松聖には死刑宣告が下された。その翌日から、この裁判に関して、メディアの報道は全く見られなくなった。世間では、彼とその殺害事件は、早くも忘れ去られようとしている。ただ、私自身としては、この事件が勃発する迄は入所施設という存在の意味するものについて、これほど迄には考えられず、論じられずに過ごしてきた社会の実情に、かえって問題の深刻さを感じないではいられない。それは単に過去の事実としてではなく、今後とも末永く引きずって行く宿命に近いものという冷めた見方をしてしまう。言い換えれば、教育も福祉も、保育も医療も、総じて市民社会そのものが、入所施設という制度とその実態を不問にし、それでいて必要悪として闇の中に存立させてきたという冷厳な事実を、今振り返ってみなければならないと考える。
 元より、そういう私自身もその問題指摘を例外者として回避することは決してできないが、施設と一般社会との間の、一見、隔絶した関係、その反面で闇に隠れた密着状態、その暗黒の流通の深みについては、本来考えるべきテーマである事が突きつけられた瞬間、それが4年前の事件だったと受け止めている。そして再び闇に葬られてゆくかも知れないという危機を認識すべきだと思う。施設という闇の世界については、これから不透明な長い年月をかけて、行きつ戻りつの模索を繰り返してゆくテーマとなるだろう。

今後の持続的な作業の再出発点として
 さて、この小論では、私の全活動と人生を振り返り、市民社会に住む立場の一方で、施設と市民社会の間を出入りし続けてきたその全体像を、自分の諸体験を振り返る中で、今後の持続的な作業の再出発としていこうと思う。その息の長い作業により、市民社会と入所施設との生々しい矛盾関係―相克関係を少しずつでも浮きぼりに出来ればと思う。

(1)アメリカ留学中の体験から

 (第1年前半)知的障害児の入所訓練施設で(1965年夏、26歳時にNJ臨床心理インターンのプログラムに参加。軽度〜中度の18歳未満の知的障害児の教育ー訓練施設で心理判定業務に就く。将来地域に戻れるかの指導訓練。)
 (第1年後半)巨大州立精神病院、収容5千人の巨大病院で、心理業務に従事。時折、医師のオーダーでテストを行う。その他、インターンのセミナー・プログラム。年度末に、病院の一日、入院中の患者さんの病床生活を見学。
 薬漬け。凄まじい病床生活。アメリカ社会の最も人権無視の末端世界。
 (第2年)1年間ミズーリー州カンサス市のCommunity-Mental-Health-Centerで訓練プログラムに参加。 最も進んだ現代社会の地域精神保健活動に参加。
 1)Community Center で地域住民とグループ・セッション
 2)外来クリニック
 3)Day Care Center で週5日の一日プログラム
 4)短期入院病棟(1〜2ヶ月入院)。週3回グループ・セッション。心理とDr.は共同のスタッフ。

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 帰国後、保健所で乳幼児心理。連れ合いの職場、知的障害児者入所施設の中で家族と暮らす。その生活から体験で学んだ事が多い。以下に記す。

(2)帰国後、知的障害者入所施設にて家族と居住して

 私がなぜ入所施設を問題視するのかについては、それなりの大きな理由があった。私の連れ合いは、ある重度の知的障害のある子どもの入所施設に勤めていた。そして私たち家族はこの施設の敷地内にある職員住宅に20年近く住んでいた。その長い期間に施設の実情については日々直接に見聞きすることができた。
 入所施設は、管理が厳しくて処遇が非人間的だ。勿論、施設によって差異はある。でも、入所者が家族から引き離される事、限られた一定の空間内に四六時中、数十名、ないし数百名で集団生活を続けること、そして自由に外出する個人的な行動の自由がない、などの点ではほぼ例外がない。食事やおふろも画一的なスケジュールで行なわれている。勿論性行為も結婚も認められていない。
 連れ合いの施設は、いろんな面で恵まれた条件にある方だ。武蔵野の面陰を宿す木々、その自然環境に包まれた広い敷地、そして入所児童の居住する建物は開放棟、つまり鍵をかけてない。だからいつでも棟の外へ出られる。施設の周囲にも鍵はなく、日中は開いて居る。もっとも施設から外へ出た場合はつれもどされるが、閉鎖的な設備に厳しく包囲されているのといないのとでは心理的に違う。だからしばしば遠い自宅に一人で帰ってしまう。すると家族か職員が連れ戻す。
 ここの敷地に住み続けながら感じたのは、それでも矢張り施設生活の潤いのなさだ。居住する棟の建物など昔と比べると余程改善されている。けれども、ではお前がそこに住めるかと聞かれれば、我慢してみてもせいぜい三日間もてば良い方だろうと思う。一般の住宅とは作りが違う。二、三人の相部屋が並んでいる。
 この施設に住み始めた頃だった。夏の夜、外から子どもが大声で泣くのが聞こえてくる。しかも何時間経ってもやまない。敷地の林の中を徘徊しているらしく、泣き声が木々にこだましていた。仕事から帰ってきた連れ合いに尋ねると、今、入所児は夏休みに入ったので、親が家へ一時引き取る期間にあたる。いま泣いているのは、その子の親がむかえに来なかったからだ、ということだった。
 このことから、深く考えさせられてしまった。重度の知的障害のある子も、親が迎えにこなかったという事が、当然ながら認識できるし、それを悔しがって泣くという心情においては全く同じなのだ、ということを初めて知らされた。と同時に、矢張り何よりも自分の家に帰りたがっているのだ、ということがわかった。
 またある年、同じ季節の頃、一人の知的障害でしかも聴覚障害の子と施設のグラウンドで会った。すると彼は、私に向かってニコニコしながら手まねで、しきりに電話をかけるゼスチュアーをしてみせた。連れ合いの説明で、まもなく家族が迎えに来るという電話がかかって来る事を伝えているのだと分かった。この子からも、家族の迎えをどれほど喜んでいるかという気持ちがひしと伝わってきた。

 入所施設は、国公立よりも民間、大都市圏よりも地方となる程、施設―設備も処遇内容もお粗末になる。先日も熊本県にある民間の知的障害児施設の実態について聞かされたが、その惨状には改めて胸の痛む思いがした。建物は老朽化し、その狭い建物の中にギッシリと子どもたちが詰め込まれている。外へ散歩に出るといったケアが全くない。内部は悪臭に満ち、畳、テーブル、いすなどの設備も古く、汚れている。こんな施設が旧態依然として全国には存在し続けている。

(3)施設から自立した村田さんのこと

 村田さんと初めて出会ったのは1975年、ある集会での事だった。私は集会室の大きな机をはさんで反対側にいた彼を見た時の第一印象をこうしるした(拙著『共生へーー障害を持つ仲間との30年』第2章。岩波書店1999年)。「いい年をした“おじさん”が小学校に入りたいと動き出した、という話は既に聞いていた。でも、ぼくのどこかに、どこ迄本気なんだろう。四十近い大人が小学校に入りたいとは?という半信半疑の気持ちがあった。ところが本人を目の当たりにした時には何とも言えぬ神々しさが感じられて感動した。
 「ふーん、この人か。就学免除をされた人が、大人になって小学校に入りたいっていう気になるものなんだ。本気で動いているんだ」村田さんは、1歳半の頃、日本脳炎にかかり、全身麻痺になった。その後就学免除になり、ほとんど家の中ですごした。
 1959年、18歳の時、緑成会病院という外科の病院に入院し、脳性麻痺の体を手術し尽くしたが、その効果なく、ついに1961年、20歳の時、東京東久留米園に入所した。この施設は、園長の方針で、日々施設の出入りは自由、関係者の出入りも自由、在所者の自治会を認めるなど、破格的な処遇ぶりで進められた。
 ところが、彼にとってはそれでも施設生活に様々な不満を感じていた。毎日の3食時の食器が大きな器、つまり食事の介助の手を抜くためだ。また入浴が週に2回、これらの事も施設の中でおとなしくしていれば何とか事は済む、という具合に定められていた。でも彼は、どれも施設生活のせいだとしてこだわり始めていた。
 さて、就学したいというニーズがはっきりしてからというもの、人の手を借りて教育委員会に要望書を出し、交渉を重ねた。やがて支援の幅がひろがっていった。そして教育委員会や集会のため毎日のように施設から外出した。2、3年を経たが、学校の方は解決しなかった。
 彼には地域に出て住みたいという気持ちが強くなり、とうとう6畳一間の薄暗い部屋を貸してくれる家主と出会った。昔、自分の障害のある子をなくしたそうだ。そこで、みんながカンパして維持した。やがて福祉事務所に生活保護申請をして、完全に自立した。ホームヘルパーさんも派遣された。一間がやがて一軒の家になり、更にマンションに住み込んだ。
 すでにマンションに住み込んでいた障害者夫妻が援助してくれた。仲違いになっていた家族の支えもなく、こうして無一文で立派なマンション生活が実現した。
 そうなると、全国各地から集会の講師に呼びかけがあり、また、障害者の全国集会の司会を任せられた。新幹線で列島を縦断した。それでも当時はまだボランティアが介護の主力で1か月に40人ほどのボランティアで支えられていた。私も月1回程度だったが、最長18年間関わった。そしてやがて介護制度が確立する日が来た。もう生活はそれ専門の介護者で支えるまでになった。それでも村田さんは、食事に二度と丼を使用しなかった。入浴も毎日こだわった。
 が、1992年3月18日、草津温泉にて不慮の転倒事故で1週間の後に死去。私が葬儀委員長になり、ご家族を招き100名を超える出席者が集った。それにしても、どのようにして長期間にわたりこれだけのボランティアがかかわってきたのだろうか。彼の個人的魅力、彼の生活の質(QOL)、自己実現のニーズがそれを実現するエネルギーを求めてきた?それは奇跡という一言に尽きる。
(注)参考文献@「ある『超特Q』障害者の記録:村田実遺稿集」村田実遺稿集編集委員会編、千書房、1999年)A「共生へ(再掲)第2、3章」(拙著、1999年)

(おわりに)やまゆり園の思い出から

 本原稿のはじめに、私は10余年前に、やまゆり園を学生の実習指導で訪れたことについて触れた。一見、改善された様子の入所施設だったが、立ち去る直前になって、ふと立ち止まり、「重度者はどこにいますか?」と質問した。すると「重度はここにはいません」という回答が返ってきて、この施設に対する私の印象はがらりと変わった、とお伝えした。軽度から重度に至るまで、障害程度の異なる知的障害者が混合で入所している筈の施設に、重度者が見当たらないという光景に、不審感、いや不信感を覚えるのは当然のことだ。障害程度、特に重度者・重症者に限って別棟に選別されている事には、それなりの恣意的な理由があっての事と考えられる。その中でも、一部の処遇困難なケースはさらに独房に隔離される。
 ちなみに、精神医療施設にも独房がある。私が見た独房には、自傷他害を起こさないようにと、最低限の設備のみがある。つまりコンクリートの壁と床のほか、床にトイレの穴ひとつあるのみ。
総じて、施設の管理体制によっては背後にさまざまな隔離体制のある事が一般には認識されていない。50年前に決起した都立府中療育センターの脳性マヒ者達による移転阻止闘争がこれらの事実を明らかにしている。でもこの告発はその後充分に伝えられずに、忘れられようとしている。



*作成:安田 智博
UP: 20201108 REV:
山本 勝美  ◇優生学・優生思想  ◇優生:2020(日本)  ◇病者障害者運動史研究  ◇全文掲載

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