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優生手術問題:活路と展望(6)――6.30 東京地裁判決に結集しよう!

山本 勝美 20200613

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「東京優生保護法訴訟第12回期日のご案内」

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last update:20201218


■趣旨

「優生手術問題」を2年にわたって各地、各分野のご報告に努めて参りましたが、今回は東京地裁での取り組みについて、特に原告北さんの法廷での陳述や集会アピール等を再度振り返り、私達の支援の姿勢を確かなものにしていきたいと思います。
また同時に、これまで充分に情報提供を果たし得なかった事を反省し、6/30判決公判にむけて広くPRに努めたいと思います。

■東京地裁をめぐる運動経過と北さんの文集一覧



■北さんの文(1)「裁判に至った思い」――18.05.17.旧優生保護法による不妊手術を考える集会


私には、最愛の妻を骨髄性白血病で失う直前まで40年以上もの間,妻に打ち明けることができずにいた秘密がありました。それは,昭和32年(1957年)に優生手術を受けて子どもを作ることができない身体になっていたことです。
手術を受けた当時,私は中学生でした。妻が亡くなる数日前,私は病室の中で初めて手術について打ち明け,心から謝罪しました。妻は周囲から「まだ子どもはできないのか」と言われ続け,どれほどつらい思いをしてきたかわかりません。
その妻は,ただ頷きながら私の話に耳を傾け、ひととおり聞き終わると、手術については触れる事なく、「私がいなくなってもしっかりとご飯を食べるのよ」と優しい言葉をかけてくれました。
今年1月、優生手術を受けた女性が仙台で訴訟を起こしたという報道を目にしました。この報道を見て、これまで自分一人の心の中にしまい込んできた苦しく切ないも以が溢れ出していました。優生手術によって苦しめられ続けてきた私の人生を返してほしい,それが無理ならせめて事実を明らかにして,間違った手術だった事を認めてほしい------ そう思うようになりました。
その後、周りの方々に支えられて、手術記録の開示を求めるなどの努力をしてきましたが,残念なことに、私の手術を示す記録はまだ見つかっていません。
私と同じように、優生保護法により強制的に不妊手術を受けさせられた人は全国に沢山いますが,国にはごく一部の記録鹿起こされていないそうです。
「記録が残されていないから」、「手術に同意した親族を傷つけたくないから」、「手術を受けた事実を知られたくないから」など、様々な理由で、今なお、優生手術を受けた事実を打ち明ける事ができず、声を上げる事なく一人で傷ついている人が大勢います。
私は、その方々の思いも含めて,この裁判を進めていきたいと思っています。この訴訟をきっかけにして、優生手術により傷つけられた人々,優生手術に関わったご家族や医師、施設職員の方が次々と名乗り出て真実を語ってくださり、当時の実態が明らかとなり、傷を少しでも埋める対応がとられる事を心から望みます。


■北さんの文(2)「会結成にちなんで」――18.12.04.当事者 - 家族の会結成の日


本日このような場を設けて頂き、ありがとうございます。優生手術の被害者の一人です。
私がここに来た理由などについてお話します。
私は宮城県仙台に生まれました。母親は私が生まれて8ヶ月で亡くなり、姉と二人祖母に育てられました。父に反発したからか、中学1年の頃向山に会った修養学園と言う施設に入れられました。中学2年になってまもなく、14歳の時に施設の先生に愛宕産婦人科病院に連れて行かれ、手術、手術を受けさせられました。何のための手術なのか説明は全くなく、医者に聞くと悪い所を取ると言われただけでした。
後から学園を卒業する先輩が、子供ができないような手術をしていると話してくれました。
自分の手術もそうだったと知りました。
私いがいにも三人ほど手術を受けており、女性の方もおりました。
私は一生独身でいようと考えていましたが、紹介してくれる方があり、結婚しました。しかし、手術の事は言えませんでした。
どうして子供ができないのかと妻の親戚から何度も言われて辛い思いをしました。妻が友人の赤ちゃんをうれしそうにあやす姿を見てもうしわけなく思いました。
その後、妻が重い病いにかかり、妻が亡くなる数日前に実は子供が出来ない手術をされたんだと、子供が出来ないと分かっていて、結婚して悪かったと打ち明けました。
妻はうなずき、私がいなくなっても、食事だけはちゃんととってね、と言った岳で、まもなく亡くなりました。
その後も手術のことは誰にもいわずにいたのですが、去年1月30日、優生保護法によって強制不妊手術をされた女性が国に対して裁判を起こしたというニュースを見ました。
障がい者に強制不妊手術をした事が許せないと思うとともに、私の手術も同じように国の方針として行われたのではないかと思いました。
私は思い切って仙台の電話相談に電話しました。電話に出てくれた女性の弁護士さんに励まされ、私の手術について調査することを決意しました。そして仙台にいた3歳年上の姉に電話して、自分の手術の事を弁護士さんに相談していることを姉さんに伝えました。姉は手術のことを当時祖母からきいていたことを打ち明けてくれました。
私は長い間苦しんできました。
優生手術が自分の人生をくるわせた。国に対して私の人生を返してほしい。それが無理ならせめて事実を明らかにしてほしいと思っています。一人でも多くの人達が被害を訴えることが必要だと思う。全国の被害者に勇気を出して名乗り上げてほしいと思います。
全国で1万5千の被害者がおりますが、ごくわずかな人数しか名乗上げておりません。亡くなっている方もいるのではないか。病気で伏せているのではないか。又いいだせないで一人で苦しんで人達もいるのではないかと思い、優生手術者家族の会を設立することにしました。
代表はこの私と飯塚さん共同代表として全国に広めて行きます。一人でも多く勇気を持って名乗り上げて下さるように、それがいいたくて来ました。
優生手術に私は幾年月、苦しみ悲しみのりこえてここまで来ました。国は合法だの、請求除却求め争う姿勢、又は20年で時こうであるとまさにせきにんのがれをしております。
強制不妊手術され、人権を侵害された。
私は命のかぎり国に対して謝罪を求めていきたいと思います。
優生被害者- 家族の共同代表として多くの被害者の人達が勇気をもって名乗りでてほしい。その言葉に私、回り道をして来ました。正面からぶつかっておりませんでした。一人でも多く名乗り上げてもらうには「正面」からぶつかっていかなければと思い、新聞に顔を出しました。
国は責任あいまいなことばに私は正面からぶつかっていきます。
このままでは死んでも死にきれません。残された人生を被害者の人達といっしょに謝罪を求めていきたいと思います。
けっしてあきらめてはならない強い意志をもって頑強でいきます。国は自ら優生手術の間違いを認め謝罪をして下さる事を願っております。昔の事だからではなく、きちんと謝ってほしい。国は私達の気持ちを、私達が納得できる法律を作って下さい。
優生被害者- 家族の会共同代表として全国に広めて行きます。
この場をもうけていただき、ありがとうございます。
これまで頑張ってこられた皆さんとともに私も頑張って行きます。


■北さんの文(3)「仙台地裁判決に対して」――19.05.28.仙台地裁判決後集会


この1年間、仙台の裁判でうったえてきたことが、除斥期間が20年経つと、損害賠償を請求する権利が消滅下と裁判長が判決を出しました。
ようやっと第一歩の開かずの扉を明けてきたのに、62年間の苦しみ、悲しみがこみ上げてきました。
こんなことであきらめる事は出来ません。
私には人生の楽園など一つもなかった6年前に、妻にも先立たれ、今でも優生手術の消えないキズが残っております。
国が私の人生を奪ったのです、私はそんな事では諦めません。これからが本当の闘いの始まりです。
一歩一歩と頑張って行きます。長くかかるかも分かりませんが、力つきる迄弁護士さんとたたかっていきます。
6月2日迄に全国で一時金ん請求件数が3百21件相談件数、千4百76件もありました。
私達は声を出してよかったと思います。又、全国に広げてくれました。
カメラマンの皆さん、記者の皆さん、応援してくださっている弁護士さんのおかげです。
今日迄来ましたが、全国で2万5千人の人達がかけがえのない体に子供持つ事さえ出来ない体にされ、人生をうばわれ、長年苦しみ、悲しみをせおってきたのに、今、現在、半分の人数にも満たない。そのためにも、私はひとりでも多くの人たちに名乗りを上げて下さる事をねがいます。
優生被害者家族の会共同代表として声を出し、顔を出して皆様の応援とともに、これからも頑張っていきます。 又いろんな報告集会講演にも参加していきます。
7月2日に星陵会館永田町に参加しました。ハンセン病家族判決報告集会でした。


■北さんの文(4)「こんな事であきらめる事はできません。」――19.10.25.第8回期日後の集会で


こんにちは、北三郎です。
優生被害者のひとりです。
私は宮城県仙台市に生まれました。裁判の行方をお話します。
今年5月28日、仙台の裁判判決で、20年で除斥期間が過ぎると、損害賠償を請求する権利が消滅したと裁判長が判決をだしました。
不当な判決にうつむき、国の厚い扉を開ける事は出来ませんでした。被害者の飯塚さん、佐藤さんも納得がいかないとうつむいたまま、無言でした。
このままでは終わらないと新里弁護士先生が高等裁判所に控訴しました。「私は60年間も苦しんできたのに,こんな事であきらめることはできません。「妻にも6年前に先だたれ、子供にも恵まれず、孤独の日々を送っています。飯塚さんが仙台地裁に国賠訴訟提訴しました。去年1月30日、新聞に大きくでておりました。私は何気なく新聞を読みました。私も小さい時に子供をもつ事もできない体にされ、生まれ故郷仙台ホットラインに電話しました。
弁護士さんに電話しました。弁護士さんに相談していると姉さんに伝えました。姉さんは当時、祖母から聞いていた事をうちあけてくれました。
その後私の調査が始まりました。手術したキズ痕と姉さんの証言,今までなかった事が出てきてとまどいました。
優生被害者- 家族の会共同代表としてマスコミにも顔を出し、新聞にも大きく顔が写っておりました。
川崎にいる義理の姉さん、義理の妹にも優生手術去れた事をうちあけました。妹から、もっと早く言ってくれなかったの、とせめられ、今さら言い訳でもないけれど、妻の七回忌が5月に終わり、ようやっと心の目を開く事が出来ました。
集会,公演にも参加しております。
障害者の方、精神病の方、ハンセン病の方、2万5千人の人達が優生手術されております。その人達の為にも私は顔を出して正面からたたかっております。
東京都で5百人の人達が居ると聞いております。一人でも多く名乗り上げて下さればと思ております。私達の人生を返し下さい」「元の体に返して」と国に言いたいです。
残りわずかな人生です。国とたたかっていきます。
判決に向かっていい夢見たいと思っております。
応援をして下さる皆様ありがとうございます。


■北さんの文(5)「旧修養学園を訪問して」――19.12.18.


こんにちは、北三郎です。
このような場を設けていただき、ありがとうございます。
62年ぶりに修養学園の施設に足を入れました。ふくざつな気持ちでした。坂を上った時、修養学園の施設があと形もなくなっておりました。
桜の並木もすっかりかわりはてて、むかしのおもかげが消えてなくなっておりました。
弁護士先生から今この辺あたりと言いながら、施設の中を回り、その奥の方に亀宇園の施設があったのに、そこもきれいに「整地」されて、何事もなかったようにかわりはてて、時の流れとともに消えておりました。
施設のおもかげが消えても、私の体のキズは未だにおぼえてのこっております。
最後に優生手術愛宕産婦人科病院に回り、そこも駐車所になって、昔の愛宕産婦人科もなくなっておりました。
優生手術されてから、私の人生が苦しみと悲しみが始まりました。しんらいしていた先生にも、うらぎられ、その時の気持は未だに忘れる事はできません。
修養学園と親が私の体に子供を持つ事ができない体にしたと長年にわたり私は思っておりました。
園が私の体にメスをいれたのです。かけがえのない体に国はなぜと思いながら飯塚さんのお陰で私も国に対して裁判をおこしました。
私も国に対して裁判を起こしました。国は合法だ,その起訴を却下してあらそうかまえと言っておりました。二十年で時こうであるとまさに責任のがれをしております。
責任逃れをしております。仙台の裁判の判決で20年で除斥期間すぎると損害賠償する権利が消滅したと不当な判決でした。
私はあきらめません。
私は命のかぎり国に対して謝罪を求めて行きたいと思います。国がこんなひどい事をするとは思っておりませんでした。
私は親と施設が子供を持つ事が出来ない手術をしたと長年うらんでおりました。かけがえのない体に長年恨んでおりました。かけがえのない体に国はメスを入れたのです。私の人生を返して下さい。元の体に戻して下さい。優生被害者- 家族の会-共同代表として多くの被害者の人達が勇気を持って名乗り出てほしいと思います。
私もようやっと心の目を開くことができました。皆様のおかげです。
全国で2万5千人の被害者の人達がおります。亡くなっている方もいると思います。又いきとどいてない方もいるのではないかと思い、一人でも多く思いを届く事を願っております。
全国に広げてくれましたカメラマンの皆さん、記者の皆さん、応援してくださっている皆様、ありがとうとうございます。


■北さんの文(6)「やまゆり園事件裁判について」――20.01.08.植松被告の初公判傍聴券を求めて


私は植松被告の初公判傍聴券を求めて並びました。雨のふる中、19名の命をうばった植松被告の顔を見たいと思い、どんな思いで正当化するのだろうか、19人の中に優生被害者がいるかも知れないと思い、私は傍聴券を求めて約2,000人の列に並びました。
でもダメでした。障害者は価値がないと動機を語っている。衆議院議長への手紙には日本国?世界のため書いていた。それは不良な子孫の出生を防ぐため公益上必要であると認めるときに不妊手術を強制できると法文に明記した旧法の思想と同じだった。今、国を動かす人が同じ考えだったら。そう思うと背筋がぞっとします。
植村被告は、高校、大学出て卒業迄して仲の良い友達いなかったのだろうか。
心からの話し合えるともだちはいなかったのだろうか。
私には話し合える本当の友達がいました。
苦しいときこまった時に支えてくれる友達がいたから道を間違わずに人生を歩む事が出来ました。
植松被告は道を間違い、親からもらった大事な体に入れ墨まで入れてあまりに身勝手すぎると思います、高校、大学まで行ってなにを学んだのだろうか。
高校、大学まで出て本当にうらやましいと思います。
どう裁くかと書いていてありました。どんな人にも命の尊さを思います。私は、植松被告は、罪の大きさを考えてほしい。罰の重さをうけて、いのちをもってつぐなってほしいと思います。


■北さんの文(7)「原告としての発言、証人としての証言」――20.01.16.第10回期日:原告‐証人。証言‐尋問

2.尋問期日

この日は,傍聴券の配布が遅れたということで,14時をだいぶ過ぎてからのスタート。しかも,法廷が始まる前に2分間撮影があるということで,裁判官も弁護士や傍聴人もみんな身じろぎせず(別にしてもいいはずなのですが)2分間を過ごしました。
まず,原告は,第7準備書面を陳述し,証拠も何点か提出して取調べがありました。
その後,原告の北さん,北さんのお姉さん,市野川教授の3人が揃って宣誓し,証人尋問が始まりました。

(1)原告尋問(北さん)

最初は北さんの尋問です。緊張されていたのか,時々質問と答えが噛み合っていない場面もありましたが,全体を通して大きな声ではきはきと答えられていました。以前修養学園があった場所の写真などもディスプレイに表示されました。
 国側からの反対尋問では,修養学園への入園年の確認と,北さんには身体障害・知的障害・精神障害はないんですね,という確認と,先輩から何を口止めされたのかについての確認がありました。
 裁判所からの補充質問はありませんでした。

(2)北さんのお姉さんの証人尋問

次は,北さんのお姉さんの証人尋問です。
お姉さんが高校3年生のころ,お姉さんは,北さんが子供ができなくなる手術を受けたことを祖母から聞きましたが,祖母から聞いた手術の話を誰にも話していない,誰にも言っちゃいけないと祖母から言われていたから,ずっと心の中に留めておいた,と言いました。また,「北さん夫婦はとっても仲良しで,子供好きだった。自分の子供2人と遊んでくれている時,北さんはうれしそうで,それを見て,自分の子供がほしそうだと思った。それを見て,子供ができないということを,絶対言っちゃいけないと思った。」とお話しされながら,涙をぬぐっていました。北さんが,仙台訴訟の報道を見て「自分も相談してみる」とお姉さんに連絡した時,お姉さんは,「 もういつ話せるかわからないから話そうと思っていた。ずっと話さなきゃと思ってた。 」と言っていました。家族にも言えない秘密を60年抱えて生きるということは,どんなに辛いことでしょうか。想像することもできないほどの苦しみだったと思います。「国には謝罪してもらいたいと思う。訴訟を起こしている弟には,国から謝罪してもらって楽しく生活できるようにしてもらえたらと思う。弟は,巻き添えにして申し訳ない,と言っていたが,できるだけ弟のことを応援したいと思う。」と話して,尋問を締めくくりました。
 国からの反対尋問,裁判官からの補充質問はありませんでした。

(3)市野川教授の証人尋問

最後は,市野川教授の証人尋問です。普段から話をする職業のせいか,聞き取りやすく,わかりやすいお話をされていました。証人尋問というよりは,講演を聞いているような気持になりました。
市野川先生の話は,「1933年制定のナチ断種法と48年制定の日本の優生保護法は,強制的に不妊手術を行えるということでは変わりない。ドイツでは1980年代に補償が始まっていた。日本では1994年段階でまだその法律がまだそのままだということは問題。この法律が廃止されたら,補償の問題が出てくると思っていた。日本がドイツと同じように人権を保障する国であるならば,ですが。」と,痛烈な皮肉から始まりました。
「謝罪を求める会が結成され,ドイツやスウェーデンと同じようにまずは実態解明のために調査をしてほしい,という要望書を厚労省に提出したが,厚労省の対応は, 時としては合法的なものであったので,実態調査も謝罪もすることは考えていない,日本の優生保護法に基づく優生手術は,再審査・不服申し立ても定められているので,強制的に実施するものではなかったはずだ,と回答したと聞いている。」「被害者の話を聞くことが重要だと考え, 1997年11月と1999年1月 にホットラインを実施した。被害件数が少なくとも1万6千件はあるはずだが,ホットラインに連絡があったのは1回目 電話7件手紙が2通 ,2回目は電話10件に過ぎなかった。」
相談件数が少なかった理由として,市野川教授は3点をあげました。
「理由の1つめは,被害者自身が優生保護法に基づく手術だと認識していないこと。1953年に出された通知で,厚生省が審査を要件とする手術は強制の方法をとっても差し支えない,身体拘束,麻酔薬,欺罔をやってもいいとされている。本人にわからないように手術してもいい,という指導をしていた。
 第2の理由は,認識していたとしても,優生保護法1条は「不良な子孫の出生を」とある。誰が自分が不良な子孫だと進んで名乗り出るだろうか。
 第3の理由は,家族にも不良な子孫というスティグマが及ぶので,家族も進んで公表しようとはしないだろう。
こういう理由で被害者と繋がれなかったのだろうと思っている。 北さんのお姉さんの尋問を聞いて,この3つの理由(仮説)は正しかったと思う。 」

その後も,謝罪を求める会が要望書を提出したり,国連の人権規約委員会からの勧告があったりしましたが,厚労省の対応は変わらなかったそうです。

市野川教授は,「1933年のナチの断種法には,遺伝病患者という言葉があるが,それが劣っているとか不良であるという価値観を示す言葉は一切ない。しかし,日本では,『不良な子孫の出生を防止する』と書かれている。不良なものは生まれてくるべきではないし,子供を持つべきではない,という価値判断が法律に書いてあること自体が問題。これが,被害者にどのぐらい大きなスティグマを負わせたかということを考えるべき。 ハンセン病では,隔離政策という辛い状況の反面,被害者がつながることができた。しかし,優生手術については被害者が孤立している。21世紀に至るまで被害者同士がつながることができなかったという点において,ハンセン病とは被害の性質が異なる。」 とも述べました。
また,「法律が廃止されてなお不良な子孫という価値観がはびこっている理由は?」と問われて,市野川教授は,「去年の4月一時金支給法で一定の前進はあったが,どういうことがなされたかという実態解明や,国連勧告を踏まえて何をしなければならないかがはっきりしていない。向き合ってこなかった。今ちょうど相模原事件の裁判が横浜地裁でなされているが,向き合うことをしてこなかったことが,相模原事件の被告が言っているような考えを助長しているのではないか。」と述べました。
反対尋問では,ホットラインへの相談件数の確認と,立法府への働きかけの一つの結果として2004年の 坂口大臣のやりとりがあったということかという確認,H29.6に H29.6に日弁連に人権救済を申し立ててそれが国賠につながったということだがそれまで司法からのアプローチは第一には考えてこなかったのか,という確認などがされました。
裁判所からの補充質問はありませんでした。

3.次回期日

次回期日は3月17日14時 ,本日の尋問を踏まえて原告・被告はそれぞれ最終準備書面を次回期日の1週間前までに提出することになりました。


■北さんの文(8)「集会でのアピール文」――20.01.16.20年1月16日の尋問のあとの集会にて


こんにちは、北三郎です。
このような場を設けて頂きありがとうございます。
優生手術被害者の一員です。

私は宮城県仙台市に生れました。昭和18年、現在76歳です。
生まれた当時,戦争中でした。東北6県で一番ひどく,焼け野原だったと聞いております。
私の母は8ヶ月で亡くなり、母親の顔さえ知りません。
姉さんからたった一枚の写真をもらいました。これが母さんだと姉さんが言ってくれて,だいじにするのよと一枚の写真をよこしてくれました。
私が3歳のとき父親が、戦争が終わって帰って来ました。
私は知らないおじさんがいたので、「おじさん、おじさん」と甘えルように近づき,「お前のおやじだ」と殴られ,始めてわた士の親だったことがわかりました。
私の親は魚屋を営んでおります。住んでいる所とは別でした。私と姉さんは祖父祖母育てられました。

私が小学2年の時,祖父が亡くなり、その後父親が再婚して弟がうまれました。
その頃から私は弟に店をつぐのは弟だと思い,小学6年生の秋頃から、もう勉強しておりました。
高校に行かせる金はないと,中学終わったら店で働けと言われ,父親に高校だけはでたいと父親に何度もせがみました。でもだめでした。
そのころから反抗期になり、居場所もなくなり、荒れていたため、修養学園と言う施設にいく事になりました。
修養学園のとなり、亀亭園と言う施設がありました。その施設は,障害の子供達の施設です。
その施設からパイプカット、優生手術が行われていたのです。
男子が7、8人、女子が7、8人と、施設の障害者が教えてくれました。俺も手術したと言っておりました。
何の説明もなく、なんのために手術したのか、子供が作れない手術だとはわからないまま受けていたのです。
修養学園の施設は五つの寮があります。光寮,泉寮,睦寮、栄寮、女子寮、一つの寮に10人か12人ぐらいおりました。
約50人ぐらいおりました。とくに目立つのは栄え寮でした。栄寮には、2つの監禁室がありました。言う事を聞かなかったり、暴れたり、悪い事をしたりすると、監禁室に入れられたりします。
修養学園の施設は障害者ではありません。親がいない子、親が育てられない子、非行少年がいる施設です。

 私が14歳、昭和32年の春、親が2人できました。いままできたこともなかったので、よくおぼえています。何のため二北のかもわかりません。私をつれもどしにきたのかと思っておりました。
一ヶ月後何の説明もなく施設の担任の先生と愛宕産婦人科病院につれてかれ、待合室に知らない人と先生ははなしをしておりました。看護婦さんに呼ばれ手術されました。下の睾丸の所脱脂綿でおおわれて歩ける事はできませんでした。
先生といっしょにタクシーで施設に帰りました。私の他に3人手術され、女子一人手術されました。手術して10日ほどいたかった。光寮から泉寮にうつり、先輩から手術の事をおしえてもらいました。
それまでパイプカットなどしりませんでした。
光寮にいた2人に話をしました。先生にうらぎられた。3人でしばらくなきくづれました。先輩から口止めされていルノで、抗議する事はできませんでした。手術されてから、まもなく祖母が亡くなり、同じ傷を持った二人が私をなぐさめてくれました。

学園を卒業する迄話し合える友達でした。
その後18歳で東京に上京して、日本水道の下請け水道のしごとをしておりました。
働いている奥さんに結婚を勧められ、何度もことわっておりました。

妻の奥さん、働いている奥さん、どうしできめてしまい、昭和47年1月に結婚しました。私は子供を持つこともできない体になっているので、妻となる人を苦しみを与えてしまうから、結婚だけはしないつもりでした。
修養学園の施設に入った事、施設でパイプカットした事は誰にも言えませんでした。結婚式には親は呼べなかったのです。
25年5月に妻が重い病気にかかり亡くなる2日前にはなしをしました。妻はうつむいて手術した事にふれず、私がいなくなっても、食事だけはちゃんとたべるのよといってまもなく亡くなりました。

今年1月16日、私の尋問でした。いつもとちがってからだがふるえ思うようにいきませんでした。
私の姉さんまで巻き込んで申し訳ないと思い、目がしらがあつくなりました。何もかも私のせいで苦しみあたえてしまってすまない気持ちでいっぱいです。姉さんは当時祖母から昭和32年,聞いていてかわいそうにと言って尋問にこたえてくれました。
私が悪いわけではない、国が悪いのだから。
私は国に対して間違いを認めて謝罪して欲しいと思います。62年間、国は何もしてこなかった事にいかりがたちます。
私以上に苦しみ、悲しんでいる人達がおります。
国は一人一人にどんな生き方をしてきたか、被害者の人達に向き合ってほしいと裁判長に訴えました。
私の人生は苦しみ、悲しみかかえてきました。のこりの人生、被害者戸ともにたたかい勝利する事を願います。応援してくださる皆様、よろしくお願いします。
私も頑張っていきます。


■北さんの文(9)「意見陳述」――20.03.17.第11回期日:結審


原告  北 三郎(仮名)

私は62年間優生被害者として苦しみ悲しみをのりこえてきました。
苦しみをのりこえ幸せを築こうと思い,結婚だけはするつもりはありませんでしたが、結婚をしたばかりに苦しみだけがおそいかかって幸せな人生ではありませんでした。妻にも先だたれ、生きるのぞみもなくなってしまい、どうすることもできません。優生手術を受けていなかったら他の人とおなじように、孫にもかこまれて幸せな家庭を築けていたのだろうと思います。

親が私の体にこんなむごいやり方をしたのだと親をうらんできました。そのため一度も親の墓参りしてきませんでした。裁判を起こした後、姉さんと親の墓参りを一緒にしたとき、姉さんから、親が私を憎くて手術をしたのではないと教えてもらいました。親をうらんできたのは誤解だったと思い,国がなぜこんな手術をしたのか、と思うようになりました。

うむ、うまないは本人の自由なのに、なぜ国がメスを入れるのか分かりません。法律には,不良な子孫の出生を防ぐために手術をすると書いてあります。手術を受けた人は,夢も希望もなくなり,ただ苦しんで生きて行かなければならないのではないかと思います。
障害のある人や,子どもがうまれてこない方がいい、国の負担だと思う人を狙って,国がメスを入れることは間違ったことだと思います。
とても悔しい気持ちです。
裁判を起こしてから,被害者が大勢いると知りました。私一人だけが悩んでいるんじゃない,大勢悩んでいる人がいると知りました。私一人だけが悩んでいるんじゃない,大勢悩んでいる人我いるんだから,その人たちに声をかけてできるだけ名乗りを上げてほしいという気持ちで,顔を出しました。応援して下さっている人たちがいるから、勇気を出すことができました。
裁判を起こした人はまだ20人くらいです。ぼちぼちですが名乗りを上げる人が出て来てくれたと思いますが、声を上げにくい問題だと思います。白い目で見られるからと思う人も多いと思います。でもその人たちは何も悪くありません。もっと多くの人に声を上げてもらうために活動をして行かなければ行けないと思っています。
一人一人悩みは違うと思うけれども、国には被害者としっかり向き合って、どんな苦しい生き方をしたか、話を聞いてほしいです。そして、謝ってほしいです。

国はこの裁判で,20年たったら権利がなくなると言っていますが、国がそういうことを言うのは、あまりにも残酷ではないかと思います。
子どもが生まれなくなる手術をしたということは,妻にも家族にも知られたくない手術でした。知られたら離婚と言われるのではないかと思ってました。その結果,妻や家族を苦しめることになりました。それでも言えませんでした。今ようやく訴えていることも全く知りませんでした。
今ようやく訴えていることに対して,そのようなことを国から言われると,何も言えなくなります。立場がありません。

裁判で、姉(ねえ)さんに話をしてもらいました。
ねえさんも巻き込んでしまって、申し訳ないという思いです。
60何年間、胸の中にしまっていたと聞いて、姉さんもかなり苦しんでいたんだと思います。私が姉さんのところに遊びに行ったときにも言えなかったと聞いて、姉さんを苦しめていたんだなと思っています。

裁判を起こしてから二年の年月がたちます。
こんなに大勢の人たちが応援してくださって,本当に心強いです。
最近手話を始めました。
裁判や集会に、毎回手話の先生たちが来て下さっています。
聞こえない人たちに少しでも話ができればと思い,地域の手話サークルに通い始めました。
支えられながら続けてこられた裁判です。いよいよ判決です。

大勢の人が苦しんでいることに対して,裁判官が少しでも私たちの味方になってくれれば良いなと思っています。

どうか正義と公平な判断をお願いします。    以上




■関連ファイル



*作成:安田 智博
UP: 20200618 REV: 0627, 0722, 1218
山本 勝美  ◇優生学・優生思想  ◇不妊手術/断種  ◇優生:2020(日本)  ◇病者障害者運動史研究  ◇全文掲載

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