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「視点 いのちの自覚としての短歌」

大津留 直 20200305 『現代短歌新聞』2020年3月号

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last update: 20200316


 今回第74回毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞グランプリ受賞したのは、伊勢真一監督の『えんとこの歌 寝たきり歌人・遠藤滋』であった。この遠藤滋氏は、光明養護学校以来の私の友人であり、共に脳性麻痺者でありながら、長年、あけび短歌会で歌の研鑽に励んできた仲である。
 ここで私がこの映画について言及するのは、この映画が「短歌と社会」という視点について幾つかの問題点と課題を提供していると思うからである。
 遠藤氏の「恐ろしき事件ならずや十九人元職員に刺殺さるとは」という歌が示しているように、この映画は、相模原市の「津久井やまゆり園」で2016年7月起きたあの障害者殺傷事件を一つの機縁として作られたものである。もちろん、その背景としては、われわれ障害者をはじめとした社会的弱者が、既に以前からこの日本の現代社会に感じてきたある生きづらさがある。それは、経済的価値を生み出す能力のない、あるいは、そのような能力が低い弱者を、社会からできるだけ隔離し、排除しようとする風潮である。この事件を起こした植松被告も、このような背景があることを知っているからこそ未だに自らが殺傷した障害者に対して謝罪しないのではないか。
 このような社会に対して、短歌は、あるいは、われわれ歌人は何が出来るのか。正直に言えば、何もできないどころではなく、われわれ自身もこの社会に生きている以上、障害年金などの公的援助を得ながらなんとか食いつないでゆくほかはない。では、植松被告が言うように、障害者は社会のお荷物であり、社会を不幸にするだけなのか。
 しかし、遠藤氏が例えば、「激しくもわが拠り所探りきて障害持つ身に「いのちにありがたう」」と詠うとき、そこには、おカネでは測り得ない、人間と社会の別の側面が自覚されているいるのであり、そこからこの格差が広がっている社会に対して、一つの決定的な問いが突き付けられていると感じるのは私だけであろうか。
(おおつる ただし あけび短歌会)


*作成:安田 智博
UP: 20200316 REV:
障害学 全文掲載
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