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「『ドキュメンタリー映画『寛解の連続』を鑑賞して」
駒澤 真由美 2020
映画『寛解の連続』
公式サイト:
https://kankai-movie.com/
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last update: 20200224
■「『ドキュメンタリー映画『寛解の連続』を鑑賞して」
近親者の死や不治の病、障害など、予期せぬ人生の危機に陥ったとき、人はどうやって生きていくのだろうか。ニーマイヤーは、『喪失と悲嘆の心理療法――構成主義による意味の探求』(金剛出版)のなかで、危機に陥った自己の物語を他者に語ることを通して、ばらばらに見える自身の経験を一貫した意味をなす物語に統合しなければならないと説く。
ドキュメンタリー映画『寛解の連続』は、躁うつ病を体験した一人の男性が絶望を希望に変えていく実存の物語である。物語には、語られたもの、語りうるもの、語り得ないものが存在する。この映画の主人公は、語りうるものを惜しげなく放出し、自然体で自分を解放していく。そして、語り得ぬものは宙吊りにしたまま、沈黙し、祈る(題目を唱える)ことで「自分」を保つ。
2019年12月8日、『寛解の連続』というタイトルに惹かれて、私は京都にあるお寺「海宝寺」に向かった。この日上映会があることを知ったのはふとしたことがきっかけだった。私は、精神障害を抱えた当事者の「リカバリー」と「就労」に関する研究をしている。『あたらしい狂気の歴史――精神病理の哲学』(青土社)の著者で立命館大学の小泉義之教授が、「今、『寛解の連続』っていう映画、京都でやってるよね。それでしょ、これ」と私の論文を読まれて言われたのだ。上映会当日、寒空の下、寺の前でふたりの男性が出迎えてくれた。私からも「ご苦労さまです」と一言返す。あとになって、ふたりがこの映画の光永惇監督と主人公の小林勝行氏だと知る。(知らなかったのです、ラッパー小林勝行を。)そして普段は映画を鑑賞してから気に入ればCDを買うのだが、なぜかこの日は上映前に、聴いてもいない2ndアルバム『かっつん』を手に取り、購入した。この予感は見事に的中する。
「寛解」という言葉には、どういう思いが込められているのだろう。日本大百科全書には「寛解(かんかい)とは、病気の症状や徴候の一部またはすべてが軽快した状態、あるいは見かけ上、消滅して正常な機能にもどった状態。」とある。これは、失われたものを取り戻すという意味で使われる「リカバリー」とは、どこが同じでどこが違うのだろう。精神保健医療福祉の分野では「リカバリー」という言葉には、個人の夢や希望、人生の意味や目的などを重視する「パーソナル・リカバリー」と、症状の消失や軽減、機能の回復などを示す「臨床的リカバリー」の2つの側面があると言われている。後者の「臨床的リカバリー」と「寛解」を同じ意味に捉えることもできそうだが、この映画でいわんとしている「寛解」とは、どのようなものなのだろうか。精神科医が言い放った「この病い(躁うつ病)は、一生完治することはないです」という言葉。「次回利用きた時に じゅきゅうしゃ書」(原文ママ)とメモ書きされた紙に、主人公が墨で綴った「寛解の連続」という無言の抵抗。たいていの医者は、「寛解」という言葉をたやすく口にすることはない。「薬がなくなる頃に、また来てください」と言うはずだ。再発を防ぐために薬物療法の継続と定期的な通院を患者に促す。通院しなくなった者は「治療中断者」となる。医者から「完治しない」と言われたからには、いつ再発するかわからない(と言われた)恐怖におののきながら、症状の落ち着いた状態が「永遠に続きますように」と、日々ただ祈るしかない。
一方で、「パーソナル・リカバリー」がいうところの自身の夢や希望、人生の意味や目的を見つけだすこともまた容易ではない。「自分らしく生きる」とはどういうことか。自分自身が「納得のいく人生」とはどういうものか。自分は誰のために、何のために、生きているのか。デイヴィスが『死別体験――研究と介入の最前線』(誠信書房)のなかで喪失後の「トラウマ後成長」モデルを次のように批判している。喪失の意味づけに成功せず、おそらくその結果として肯定的変化や成長を感じとることができず、否定的変化や粉砕された世界観だけを報告した人たちがいる。その片方で、トラウマ後の成長を査定する項目で肯定的変化を記したものの、粉砕された自己観や世界観、意味の探求、人生史の書き換えといった過程を通り抜けたという感覚を持たず、個人的資質やアイデンティティや人生の目標の変化ではなく、態度や価値観の変化を強調した人たちがいるというのである。もしかすると、私自身も「人生の意味と目的を追求し続ける」ループから抜けだすことができれば、少しは楽に生きることができるのかもしれない。
上映後に、当日飛び入り参加の小林勝行氏(かっつん)の生ライブも聴けた。光永監督とかっつんのふたりを囲んでの懇親会では、煮込みうどんを食べながら「真面目な話しようゼ」と光永監督を囲んだ四角いテーブルと、トランプをして「遊ぼうゼ」とかっつんを囲んだ丸いテーブルに分かれたのも面白い光景だった。私の開口一番の感想は「曲づくりでふたり真剣な話をしているときに、かっつんが似顔絵を描いていたシーンが可笑しかった〜」というもの。切ないなかにあるユーモアに心癒される。丸いテーブルに移動して挨拶しようとすると、かっつんがトランプを片手に、座椅子の座布団をトントン叩いた。無言で「まあ、ここに座り〜や」と言ってくれたような気がした。名刺は差し出さず、御礼だけを述べた。
その夜は、購入した2ndアルバムを聴きながら、床についた。かっつんの優しく語りかけるようなラップが、私の疲れた魂をなでてくれた。「もぉ ええから ここでちょっと間 休んだらええ」で、ふっと肩の力が抜け、涙が頬をつたった。「楽しもぉな」というフレーズが耳に残った。かっつん、ありがとう。どうか光が永遠に続きますように。
*作成:
安田 智博
UP: 20200212 REV: 20200221, 0224
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