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中西竜也氏インタビュー

20200122 聞き手:立岩真也 於:京都・日本自立生活センター(JCIL)事務所

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中西 竜也 i2020 インタビュー(本頁) 2020/01/22 聞き手:立岩 真也 於:京都市・日本自立生活センター事務所
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
病者障害者運動史研究
◇文字起こし:ココペリ121 20200122 中西竜也氏_68分
 ※中西さんに点検していただき許可を得たものを掲載しています。


立岩:中西さん、下のお名前は?

中西:たつやです。中西:たつは簡単な竜に、なり、何円也の也ですね。

立岩:何年生まれ?

中西:昭和49年。

立岩:昭和49。1974年ですよね。ってことは、今45?

中西:45です、はい。

立岩:ちなみに月日は? 誕生の。

中西:11月5日です。

立岩:11月の5日。1974年の11月5日の生まれ。今日はどうせ1時から会議が、1時半か、会議が始まるので、それぐらいまでの時間は大丈夫ですか?

中西:はい、大丈夫です。

立岩:そうですか。お生まれの場所は?

中西:私は兵庫県の西宮市。

立岩:西宮。

中西:はい。

立岩:今も西宮?

中西:はい、西宮。SMA〔脊髄性筋萎縮症〕っていう。

立岩:SMAか。じゃあわりと発症ってのは早かったんですか?

中西:えっと、わかったのが1歳半です。

立岩:それは、親が病院に連れてったとか。

中西:親が、発達、成長が遅かったので、おかしいので医者に連れて行ってわかったんです。

立岩:それからしばらくというかどないして暮らしてはったんですか?

中西:えっと、6歳まで自宅で暮らして、で、あの、まあその間、幼稚園って一般の幼稚園ではなくて障害のある子どもが行く「わかば園」っていう所に、そこに通所してました。

立岩:それは障害のある子どものためのなんか施設っていうか通園施設みたいなやつかな? 

中西:通園施設です、はい。

立岩:それはSMAの人もいるかもしれないけど、いろんな身体の障害の人ですか?

中西:はい、います。脳性麻痺とか。重心の人も。こうやって会話、コミュニケーションとれる人が僕以外にもう一人いるぐらい。

立岩:ああ、じゃあけっこう多くの人は知的の障害もあるような子どもが通ってる、それも西宮にある?

中西:はい、そうです。

立岩:それは親が連れて通園というか送り迎え。そこに6歳ぐらいまで。

中西:そうですね、まあ1年か1年半かぐらいです。短期間でしたね。通ってたらしいです。僕もなんとなくしか記憶ないんですけど。

立岩:ああ、そうですよね。私も小学校上がるまえのこととかよく覚えてない。じゃあ6歳までの間のそんなに長い期間じゃなくて1年半とか2年とか。

中西:そうですね、らしいですね。

立岩:そんで、そのあとどういうことに?

中西:えっと、昭和56年の1月に、

立岩:81年、はいはい。7歳ぐらいか。

■兵庫中央病院

中西:ですね。で、兵庫中央病院に入院しました。

立岩:それからが長かったということになるんですか?

中西:はい。それからが退院まで29年と9ヶ月。

立岩:長いですね。ほぼ30年。その入った時の経緯みたいなものことは、ご自身じゃない、親だと思いますが、なんか覚えてるなり言われてることっていうのは、

中西:病弱だったんで、よく市内の病院を入退院を繰り返してて、病弱やった。

立岩:どこの病院?

中西:えっと主にあの県立西宮病院。で、その入院の理由は風邪をひいて肺炎を起こして、で、しょっちゅう救急車に運ばれて生死をさまようことが2回ぐらいあって、ほんで親の知り合いの人に、そういう学校も通えて、まあその健康管理もしてもらえる病院、療養型のとこがあるっていうのを聞いて、それでまあ親も家におってもずっと風邪ひいて、そういう状態がずっと、長いときはもう半年ぐらい入院してたらしい。で、まあ医者にももうこのままじゃあぶないとか、そういうことを言われて、そのまま家におってもたぶん亡くなってた可能性もあるっていうことで、ほんで兵庫中央病院に入院させたっていうことで。

立岩:その頃になると、そろそろ自分の記憶もあるみたいな感じですかね。なんか入った時なり入った前後というか、後というかなんか覚えてらっしゃることっていうのは。

中西:入った時は小学校前やったんで、3ヵ月前。その4月からちょうど小学校1年生。

立岩:そうか、4月から1年生の3ヵ月手前か。

中西:そうですね。療育指導室っていって、そこに保育士がいるので、そこで3ヵ月間ちょっと教育とかやってもらって、お絵描きとかもあって。

立岩:そこに学校上がる前の3ヶ月、ならしみたいなのがあったんですかね。

中西:同じ院内に、そもそも院内に、

立岩:院内にあるやつですよね。そういう部屋があるんですね。

中西:病棟と同じとこ。

立岩:建物は同じになる?

中西:はい同じです。廊下みたいな。

立岩:それで入った年の4月にその付属というか隣接の養護学校に入るみたいな。

中西:当時は上野ヶ原養護学校っていう、兵庫県立。

立岩:で、その上野ヶ原養護学校に通いながら、そこに病院で暮らすという。何人部屋でした?

中西:当時は6人部屋です。

立岩:うん。この間、私、ずいぶん、まあまあの数の人に聞いてるんですけど、なんか途中で6人部屋が4人部屋になった人って多いですよね。

中西:はい、4人部屋になりました。

立岩:なりました? やっぱり。全国的にそういうことがあったんですかね。

中西:はい。6人部屋を4人部屋にして使う。

立岩:ああそういうことか。部屋は同じでベッドの数を減らして、で、4人にすると。

中西:それは暮らしというか、そこにいる自分の限界っていうか、なんでそうなったんかって言うと、人口呼吸器を使う人が増えてきましたんで、で、人工呼吸器をやっぱり横に置いてスペースなんか必要になってくる。そうなると、やっぱりベッドを6つ入れると車いすもあるし大変になる。あとまあ6人部屋にしたら狭かったんで、四隅のベッドは壁にピタッとつけた状態で使ってたので、片側からの介助しかできない。4人部屋やったら両側から、

立岩:両側から介助ができる。

中西:べッドを壁から離して介助してた。それはあると思う。

立岩:そういうふうに部屋の仕様が変わったん、何年生ぐらいとか何年ぐらいやったとか覚えてますかね。

中西:高校卒業してからぐらい。

立岩:高校? わりとだいぶあとですね。

中西:そうですね、震災ぐらい、震災前後ぐらい。震災前ぐらいか。

立岩:ああ。74に生まれ、81で入り、で、震災は95ですよね。だから、

中西:もっと前かな。前、あー、前、あそうか震災の時、6人部屋でした。だからその後ですね、震災後ですわ。

立岩:震災のあとやった。それはじゃあだいぶ先の話やね。

中西:そうです。

立岩:じゃあ入ってその小学部というか、小中高と行ったんですか?

中西:はい、そうですね。

立岩:その小中高の学校ていうか、のほうの話でもいいし、部屋で暮らした話でもいいし、もう当時のことを覚えてないですか、どんな暮らしでした?

中西:1日のタイムテーブルで言うと6時起床なんです。7時が朝食で、で、それまでにはトイレ行って、で、終わったらごはん食べて終わって、テレビが真ん中に置いてあってあったので学校行くまで見て、学校が1限目が始まるのが8時40分か、それまでテレビ見て。机があったんで、机を各自一つずつ。それで学校行って、で12時5分まで。それ終わったらお昼ごはん食べて、バイタルチェックをして、それが終わったら体操っていうのがあって、上肢だけ自分でなんかみんなでこう胸のほうに、かなりの人が集まって、そこでえっと体操をやったり、でそのあとリハビリ。リハビリも病室、あーっと当時はそうですね、別の部屋で、だからマット敷いてそこにみんな寝転がってリハビリすると。で、午後2時半からまた午後の学校へ行って、

立岩:2時半から午後の部っていうか。

中西:はい。時間割で言うと1限目から5限、えー、4。1から4か5で、

立岩:4が午前ですよね。

中西:面白いのが5限がなくて、6、7が午後。

立岩:おお、そういうふうに並んでたの?

中西:そういうふうに時間割組んでて。

立岩:1、2、3、4、6、7か。

中西:はい。

立岩:で、その一応5にあたるのは、そういう体操であるとかそういう時間なの?

中西:そうですね。

立岩:だんだん聞きますけど、記憶では筋ジスの人は多かったんですか?

中西:多かった。ほぼほぼ筋ジス。

立岩:いわゆる筋ジス病棟っていうか、何床ぐらい。

中西:40床から45床。二病棟あったんですよ。

立岩:うんうん、二つ、

中西:で、そこにそれぞれにだから、計80床ぐらいです。

立岩:筋ジス、40ぐらいのやつが2つあるってことか。なるほど。

中西:それと別に重心の

立岩:それと別に。筋ジスの病棟が40、45ぐらいが二つ棟があり、それ以外重心の人の棟があり、で、この間聞いてきた話では、だいたいその病院があると、で、渡り廊下…屋根付きの渡り廊下みたいなんがあって養護学校に往復するみたいな、そういう話が多くて、だいたいそんな感じですか?

中西:そうですね。

立岩:そこは共通性はある程度あるんですね。。そうか、学校の同級生なり同室の人も概ね、デュシェンヌですか?

中西:デュシェンヌ、それから僕の記憶ではベッカーとあと福山型ですね。

立岩:そうするとやっぱりデュシェンヌやったら男の子の場合が多い。

中西:はい、多いです。ほぼ男です。

立岩:それ、クラスっていうか学級っていうか、どのぐらいの規模なんですか?

中西:だいたい、少なかったら4人ぐらいで多かったら8人です。

立岩:4から8。それが1学年。それは二つの棟から来てる、筋ジスの、主に筋ジスの子どものクラスいう感じですか?

中西:一つの棟が子どもで、もう一つの棟は成人。そういうふうに分けてました。

立岩:じゃあ学校に通うような子は一つの病棟で、それ以外の子はもう学校終わった人。

中西:そうです。

立岩:学校のほうでも、あるいは病室といいますか、教室といいますか、どっちのほうでも覚えてるっていうか、あるいはその間での変化というか、なんか記憶にありますか?

中西:学校はクラスは1クラスで授業があって、行事があって、それをまあ毎日繰り返して。で、昼は病棟に帰って、夜また戻って、それをほとんど繰り返しっていう感じ。学校に通うのも、朝、先生が迎えに来て、帰りは病院の職員が迎えに来て、そういう連携を取ってました。

■外出

立岩:学校に連れて行くのは先生で、戻るのは施設の職員。それで淡々と毎日が過ぎていくという。外出であるとかそういうのはどんな仕組みなんですか?

中西:外出はえっと、外出したいときに外出届っていう申請用紙があって、それをまあ1週間ぐらい前に提出して、病棟の師長と、その上の施設の長とか了解を得てはんこを全部もらって、外出OK出たら外出していいですよっていう。

立岩:それは誰と一緒にとか言わないかんとか、誰に限るとかそういうことはあったんですか?

中西:そういう当時はそういう決まりは特になかったです。まあだいたいの人たちは親と出かけてたから。外出、外泊は家族と出るっていうのが当たり前っていうか。もちろんボランティアとか友達と出かけてた人もいましたけど。僕は入って、そうですね、中学ぐらいまではそこまで言わない、うるさく言う感じではなかったです、特に。すごい自由な感じはありましたね。

立岩:じゃあそこでとやかく細かいこといろいろ言われたりっていうようなことはなかった?

中西:はい、なかったです。

立岩:中西さん自身は、例えばその、土地勘が僕全然ないんでわかんないんですけど、西宮のお生まれでご実家も西宮にあり、病院との距離といいますか。

中西:距離は車で1時間ぐらい。

立岩:ああ、じゃあ、まあまああるっちゃまあまああるんですね。

中西:はい。

立岩:その時に時々は親あたりが、こう。

中西:基本的には週1回日曜日に面会に、朝10時ぐらいに来てくれて夕方6時ぐらいまでいてくれて。で、面会時間っていうのも一応病院としての面会時間はあったんですけど、言うたら、筋ジス病棟に関してはそこまで職員も細かく言うこともなく。だからもっと一緒やったらもう消灯までいてる親御さんもいてはったですよね、消灯9時やったんですけど。

立岩:その頃、けっこう施設によって違ってて、親は来れる人はどこでもいいみたいですけど、ボランティアっていうか、あるいはその学生さんであるとか、そういう人がわりと来てた施設とそうでもない所あるみたいなんですけど、兵庫はどんな感じでした?

中西:ああ、ボランティアも来てましたね。大学生は、えーっと、当時は武庫川女子大、武庫川違うわ、ああ武庫川もか、湊川、湊川女子短期大学ていうのが昔あって。

立岩:湊川女子短期大学。

中西:はい。今名前変わってるみたいなんですけど、そこの人がボランティアで来てましたね。で、夏になったら、そうか、武庫川の大学生も来てたね。夏になったらそのなんかイベントを慰問的な感じでやってくれてた、ちょっと夜店みたいな感じを、その病棟とは別の活動室みたいなのがあるんですけど、そこで。

立岩:施設の敷地っていうかそういう所で夜店っていうか夏祭り的な。

中西:そうそうそう。

立岩:そういうのの設営であるとか売り子さんであるとか、そういうのを女子大の学生であるとか。

中西:はい。ちょうど夏休み期間だったんで、その期間にやってくれてましたね。

立岩:じゃあボランティアっていうのはそういうイベント手伝ってくれたりとか。

中西:そうですね。

立岩:日常的には、さっき、外出とかそういうのは行ったことあったんですか?

中西:外出は特になかったかな。主に親が多かったですね。そこまで知識もたぶん、みんな、そういう選択肢がまず浮かばなかったっていうのがあるかもしれない。

立岩:学生に頼んで「一緒にどっか行こう」みたいなことは思い浮かばないっていうか。

中西:一部の人がなんか友達付き合いみたいになって、それをきっかけにカラオケ行ったりとかしてましたけど。

立岩:ああ、なるほどね。僕、全然土地勘がなくてわかんないですけど、病院っていうのは、街っていうかどういうロケーションっていうかな、立地っていうか。

中西:ロケーション、立地はあの、ゴルフ場が向かいにあって、ゴルフ場を道挟んでその向かいに病院がありますね。で、田舎なんですけど、で、その田舎、三田市っていうとこにあるんですけど、まあ雪が、当時雪が積もるぐらい。で、そのもうひとつ何百メートルも上がる山の上に建ってる病院っていうイメージです。駅が、三田駅に駅があって、そっからバスに乗って10分ぐらいずーっと山を上がっていく感じです、上に。

立岩:三田の駅からね、10分バスで上がるぐらいの。そんな感じのとこやったんや。

中西:上がっていく感じ。そう、駅からも歩いてもなかなかちょっと難しいですね。車がないと生活がしにくい街並みっていうか、バスに乗らないと病院にはなかなか行けない。

立岩:じゃあ例えば親と外出とかっていうことは。

中西:ああもう全部車ですね。

立岩:車でね。車だと街の中まで、

中西:はい、行けますね。

立岩:行ってなんか食べたりってことはできる。そんな暮らしで。学校は4人から8ぐらい。もうそれの時は小学校行って、終わったら中学校行って、終わったら高校行くもんだというか、そういうことだろうなという。

中西:そうですね、そのへんは感覚的には学校、健常者が学校通う感覚ですね。

立岩:それは変わらへん。

中西:変わらないです。一応高校も入試があって、入試受けて、同じ学校ではあるけど、高等部って言い方するんですけど、高等部へ行ってましたね。

立岩:この間ね、何人かの人が中学部、中学校ぐらいまでは在宅で、高校〔高等部〕に入った時に高校に行くついでにというか、病院に、寄宿生活みたいな、そういう人もおるんですよ。そういう方もいらっしゃったんですか?

中西:いましたね。寄宿というか身体の状態もあんまりちょっとあって来たっていうのもあると思うんですけど、僕の同級生も一人そういう子がいて、高校から一緒になりましたね。で、逆の人もいました。中学まで一緒にいて、高校からは他の養護学校っていうか学校、進学をした子もいるし。なんか僕のクラスはけっこう女4人男4人やったんですよ。

立岩:あ、そうなの。じゃあけっこう女性が多いクラス。

中西:はい、バランスも取れてて。で、けっこうまあ、そうですね、当時はやっぱりいろんな患者も多かったし、そうですね、活気があったっていうか。

立岩:わりと活発というか。

中西:そうですね。外出もけっこう自由、外泊も自由やったんで。ここに30年間入院してましたけど旅行も行ったし、北は北海道、南は沖縄まで。

立岩:それ修学旅行みたいなもの?

中西:それは個人的に。

立岩:個人ね、自分で。

中西:はい。その友達、同じ病院内で友達いるじゃないですか。親同士も当然仲良くなって。

立岩:病院の友達と友達の親と自分の親とグループ旅行っていうか。そんなんで、北海道と?

中西:沖縄も行きました。あとまあ記憶では島根も行きましたね。

立岩:島根。宍道湖とかそういう?

中西:はい。

立岩:ちなみに身体の状態っていうのは、特にデュシェンヌ型の人なんかだとわりと着実にというか動かんようになって進行していく人が多いと思いますけど、中西さんの場合はどんな?

中西:僕も歩行経験がなくて、で、車いすも小学校1年生の時にちょっとだけ手動乗ってたんですけど、僕の障害、持久力がないんです。ちょっとこいだらもう疲れて。だからすぐ電動車いすになって、そこからまあ、今より全然状態は良かったんで。で、まあ食事も自分で食べれたし、当時は。字も書けてたし。学校行ってる間ずっと食事もあって。でも高校ぐらいからちょっと落ちてきたなっていう感覚ですかね。で、呼吸器着けだしたのは24歳からで、それまではなしで。



立岩:それまでは電動車いすは最初から使ってた。でも手をちょっと動かして字書いたりだの、食べたりっていうのは10代ずっとやってた。で、それで18とかで、18で高等部終わりでいいんですか?

中西:はい、終わりです。

立岩:終わりますよね。ほんで、その次のことっていうか、そういうのは何をその時考えておられた?

中西:まあたぶん気持ちとしては就職したかったんですけど、やっぱり風邪が、病院入院したって言いつつも、病院でまた子どもの時の肺炎になったりとか。

立岩:病院の中で。

中西:はい。やっぱ風邪ひいて、よく風邪ひきやすい体質やったんで。二十歳ぐらいまでやっぱりずっともう24時間点滴繋がれっぱなしでっていうこともまああったんで。だから退院するっていう、在宅に戻るっていう選択肢は僕の中にはなくて、で、病院で療養生活を送るっていうことになるんですけど。病院内で兵庫県が講座を開いてくれる事業っていうか、県の教育員会が学級、兵庫中央病院内には「たけのこ学級」っていう名前の学級があって、それは何をするかっていうと講座を受講するんですよね。講座っていうのは例えば七宝焼きであったりとか、アレンジフラワーであったりとか、あと、陶芸はなかったか、レザークラフトとか、あと何やってたかな、将棋とか。なんせいくつか10個ぐらいあるんですけど、それをそれぞれ年度初めは6月で、年度終わりは3月なんですわ。開講式と閉講式もちゃんとあって、で、県の教育委員会から来て、それぞれ式やって、だいたい月に1回か2回ペースで講座が開かれて、で、それをまあそれぞれやりたいことを受講するっていう。

立岩:それは場所は、建物の中っていうか。

中西:はい、中にね、作業棟っていう活動室があったんですよ。スペースでいうたらこの〔JCILの〕事務所の3倍ぐらいかな。

立岩:この事務の…、まあ広いですね。

中西:はい、広いです。そこで当時はなんか雑誌を、病院が買ってくれるから雑誌が置いてあって、新聞とか、あと、当時はパソコンはなかったんで、テレビはありました。テレビとビデオがあってそれ見て。あと、さっき言った講座がないときはサークル活動っていうのがあったんで、サークルでその七宝焼き、僕は七宝焼きやってたんですけど。

立岩:七宝焼きやってた?

中西:はい。七宝焼き作ってました。

立岩:それは県のほうで学校が終わった人を主な対象というか利用者として、

中西:そうですね、入所者ですね。病棟でいる人全員が対象者ですね。

立岩:ああ、そうですか。それはあんまり他で聞いたことないような気がするな。言うたらその先生というのは出張というか訪れてくるわけですね?

中西:講師の先生が来てくれて、で、まあ2時間ぐらいのもんですけどね、時間的にいうたら。だいたい午後が多かったですね。リハビリとか終わって、で、昼の2時ぐらいから夕方4時ぐらいまで。

立岩:そんなんが週に、

中西:月に1、2回ですね。

立岩:月に1、2回っていう感じで6月に始まり、

中西:3月まで、はい。

立岩:そんなんをけっこう何年もやってはった?

中西:ああ、そうですね。18で卒業してから退院するまで。

立岩:それはずっと続けておられた?

中西:はい。でも七宝焼きは退院する何年か前にやめました。それはなんでかというと手が動かなくなったんで。あと病棟が移転したっていうのもあります。新しく建てたんですね、新築して。その兼ね合いもあってですね。

■変化

立岩:その間。18で学校終わって、ほんで病院を最終的に出られたのがいくつということになるんですか?

中西:えーっと35かな、34ですね、まだ誕生日来てなかったから。35になる年ですか。ちょうど10年前です。

立岩:35になる年、10…。そうすると16年とか、18足す16、そうですね、だいたいそのぐらいでよすね。学校終わってから16年っていうのは長いっちゃ長い。一つは病棟時代っていうのはその間どんな変化があったのかっていうのと、それから中西さんご自身がその時間の中でどんなことを思ったりであるとか、あるいは生活の心地っていうんですか、住み心地っていうんですか、そんなのどこから始めてもらってもいいんですけど。

中西:まず病棟としてはだんだん自由がなくなってきたっていうイメージ。外出外泊とまず時間制限が急に厳しくなってきたっていうことと、あと病棟で親が持ってきた持ち込みの食べ物を最初は自由に食べれたので。というのは病院食ばっかりやから、やっぱり変わったものが食べたいっていうのもあって、それを親が持ってきてくれたものを食べたりしてたのが、できてたのができなくなってきたりとか。だんだんそういう意味での自由がなくなってきたっていうことですね。で、まあ病院側の言うこととしてはまずその食べ物に関してはO-157が出たでしょ、それからですね、急に厳しくなって全部持ち込みはだめとか。

立岩:O-157が流行ったっていうかありましたよね〔1996〜〕。

中西:昔、もうだいぶ、二十何年前ですね。

立岩:それがきっかけか。

中西:はい。それぐらいからと、あと人工呼吸器を使うようになる患者さんが増えるにつれ当然仕事量も増えてくると。で、状態が悪いから、悪いっていうか進んでるから、常食を食べてた人たちがだんだん刻み食になったりとかペーストになったりとか、最後は胃ろうになるとか。で、そういう理由で食事を制限されるっていう患者さんが増えてきて。やっぱり誤嚥するとか喉に詰まるっていうリスクがあるから、まあそれを防ぐためやと思うんですけど「やめてくれ」ということ。だんだん制約されるようになってきたということが生活してて、で、その、

立岩:基本だめって。

中西:はい、だめです、だめですね。

立岩:原則全部だめ。

中西:厳密にいうと常食食べてる人は大丈夫みたいです。とか、あとO-157に関してはだめでしたね。

立岩:O-157の時は全面的にあかんという。

中西:はい、だめでしたね。

立岩:食べ物の制約がそういう健康上というか、そういう身体的なというかそういう理由で制限が厳しくなるのが一つと。あとは外出っていうのは帰宅時間、帰宅というか戻ってくる時間が、

中西:が、夕方4時までしか外出してはだめですということになって。

立岩:4時までに戻ってこいと。

中西:はい。その理由としては夜は夜勤になるから、16時、夕方4時以降は、夜勤になると人がいないから、もし緊急で誰か体調悪くなって帰ってきた時に対応できないっていう理由でした。

立岩:夜勤の体制になると。

中西:3人なんで、夜は。人がいなくなるから。

立岩:それより前に帰ってきてもらわんと、

中西:対応ができない。

立岩:体調が変わっても対応できない、そういう理屈っていうか理由か。16時はちょっとつらいですね。

中西:そうなんですよ、だからあんまり遠出はできない。だから近場でしか。

立岩:そういうふうにだんだんきつうなったっていうのはわりと他の病院でも聞く話なんだが、そういうその言い分というかね、言ってくる理由はそういうことやと思うんですけど、そこになんでこうだんだんきつうなるんやろうっていうようなことで、その当時といいますか、中西さんお考えになってたようなことっていうのは。

中西:僕は感じたのはやっぱりリスク管理、責任問題、ほぼそれしかないなっていう。で、みんなよくぼやいてましたね。だから、そういうことが何かにつけてもうそうなってくる。だから、あとちょっと言い忘れてましたけど、着替え、昔は僕が小学校の時は夜はパジャマに着替えさせてくれて、昼間は服、洋服ですね、更衣をさせてくれてたんです。それが、僕が中学ぐらい、高校ぐらいからか、学校行ってる子は更衣するけど、ずっと病棟にいる人はもう更衣はなし。下着は換えてくれるねん。それはなんでかと言うと、更衣するには時間がかかるでしょ。時間が、時間が限られてるから、それでやっぱり重度化してくると、これはもう手が回らへんから必然的に仕事を減らすしかないからっていうことです。

立岩:同じ人員なら人員の中で重度化してたら、仕事はこれまでと一緒だったら増えてくはずやから、どっか減らしてせんとしょうがないっていう。そういうことは露骨にっていうか、そういうこと言う、施設側はそういうことを言うもんなんですか。

中西:そうしますっていうふうにちゃんと公の場っていうか。で、一応それは月に一回病棟の師長と患者の各部屋の部屋長っていう人がいて話し合いを持つ機会があるんです。日頃なんか困ってることとか、1ヶ月の予定とか、そうか、もう一人指導室か、指導室っていうその病棟と別に日中活動を過ごす、講座を開く場所で、指導員さんと保育士さんがいてはって、当時は保母さん、保母さん言ってましたけど。その保母さんが入って、一人患者と師長と三者で、各部屋が当時、1、2、3、4、5…、8部屋ぐらいあったんで8人ぐらい患者が来て、まあ1時間ぐらい話し合い。そういう場で例えば「来月からもうこういうのなくなりますから」、で、そういう理由を言われながら。

立岩:こういう理由なんでそれは仕方がないんで、仕方がないからこうしますっていう。

中西:で、僕らも当然反発するから、こうやこうやって言っても、ああ言えばこう言うですよ、だから。

立岩:一応だから反発はするわけだ、それは困ると。

中西:はい、しますね。

立岩:そういうことは言うんやけれども、向こうはこうこうで仕方がないんですと。ていうことでだんだんと。

中西:そうですね。結局病院ペースになっていくんで。

立岩:外出でしょ、外出、それから食べ物、それから着替えか。やっぱり10年、20年、その間にやっぱり周りの者たちが、特に筋ジスの人たちが重くなってくっていう現実がやっぱりありました?

中西:ありますね。呼吸器になって、車いすの生活の人がもう呼吸器になったらベッド上生活になるんで、車いすに乗れなくなるので、ベッドの上にずっと。

立岩:それはその、ベッドにいる人が、例えば外出っていうんじゃなくて園内でもね、車いすに移乗して電動で動けたっていう病院と、それももうあかんくて、移乗の介助の手がなくて、結局ベッドで1日っていう所と、それも分かれるみたいな。

中西:呼吸器になったらもうイコール、ベッド上ですね。例えばちょっと最初のほうは、ああ、そや、呼吸器、24時間呼吸器なったらもうベッド上でしたね。それとも夜だけ呼吸器、僕は24から呼吸器着けてるんですけど、日中は着けてなかったんです、夜間だけ。だから昼間は起こしてもらってて、で、朝9時か10時ぐらいに乗せてもらって、それで日中活動してましたね。

立岩:呼吸器着けると、もうベッドから離れられへんっていうのは、今だったらっていうか中西さん今もそうやってるけれども、電動車いすにくくりつけたベンチレーターで、とか思いますけど、どういう理由でベンチレーターっていうか呼吸器着けたらベッドから動けへんっていうのは、人工呼吸器の機械の問題なんですかね?

中西:えーっと、まずまあ病院側はそれを理由にしないですけど、まず時間ですね、時間かかるっていうのと、それと当時はバッテリーで乗せれて、車いすに乗せて動けるような呼吸器がなかったんで、だから、あってもそのおっきなものだからそれを車いすに乗せるっていう発想がなかったんだろうと。まずリスク管理ですね。乗せて移乗して、例えば目が離れるじゃないですか、アテンダントみたいにマンツーマンじゃないから。だからもしなんかあって倒れたりとかして、呼吸器外れたりとかしたら危ないっていうのもあるし。

立岩:他の所ってあんまり直接に園というか県というかそことやりとりしてっていうの、そんなにはここんとこ聞いてないんですけど、兵庫ではそういうやりとりがあったっていうことですけど、その時に病院の側はいざとなったら責任取らなあかんのはこっちやから、そういうことは病院としては認められへんみたいなことをわりと言うものなんですか?

中西:あのね、いや、もう本人もそうですけど、あんまり車いす乗りたいっていう感じにはもうならない雰囲気ですね。ていうのは、もう呼吸器になったからもう自分はもう車いすは乗れないんや、もう動き回れることができないんやっていうこと、イコールそう、もう呼吸器着けたらそうなるっていう感じでしたね。諦めるっていうかそういうもんやっていう。

立岩:それはもう、食事も全部含めてベッド上でっていうこと?

中西:そうそう。24時間なったら。だからベッドサイドに食事を持ってきてくれて食事介助、寝ながら食べてましたね。

立岩:そういう人は例えば過半数というか、「そういう人は多いわ」っていう感じになったのはその30年おった途中から?

中西:そうです、途中ですね。

立岩:二十歳、どのぐらいからそういうこう、まあどっちでもいいですわ。車いす、ずっとベッドにいる人のほうが多いような感じになってきたっていうあたりでもいいし、いろいろと決まりがだんだんきつくなってきたっていうのも、いつからっていうんじゃなくだんだんちょっとずつそうなってきたっていう感じですかね?

中西:そうですね、だんだん。だから決まりを意識しだしたんが僕が中学3年か高校入ったぐらいからちょっとずつ違和感を感じてきて。で、呼吸器を着ける人がだいたい半分ぐらいになってきたのは僕が着けだした頃ですね。25とかぐらいですね。その時にこのポータブルの呼吸器が僕のおった病院で当時10台ぐらい仕入れて、僕はそれまでは壁から配管を取るタイプの呼吸器使ってたんですよ。

立岩:ああ、壁のとこに管つけてっていう。

中西:圧縮と酸素の配管へ差すんですけど。そのタイプからポータブルの電源だけ差せば、ちゃんと設定すれば使えるっていう。全員呼吸器を使い始めたんが25ぐらいから。あ、違うわ、30ぐらいか、30ぐらいですね。



立岩:30ぐらい。そうした変化といいますかそういうことの中で、学校出てからでも16年ですけど、いつ頃からちょっと別の生活といいますか、そういうことの兆しというかきっかけというか、それはなんだったんですか?

中西:えっとね、まず大きかったのは僕より先に地域生活をしてた人が3、4人いたんですよね。で、その中の1人、僕、同級生で田中正洋(まさひろ)っていう奴がおって、もうそいつも亡くなったんですけど〔2009年1月〕。そいつが2007年かな、自立して、そいつの存在が大きいですかね。

立岩:その田中さんっていうのはちなみに、

中西:筋ジスです。

立岩:どこでどういう暮らしをしたかっていうのを知ったんですか?

中西:西宮で。メインストリーム〔協会〕で同じように。

立岩:メインストリームの世話になって、西宮で。それは筋ジスの人で?

中西:筋ジスのデュシェンヌです。

立岩:で、その2007年か、そして彼が出ていったっていう。その出ていったあとも付き合いはあったんですか?

中西:ありました。仲良かったんで。

立岩:彼がやって来たりもしたことがあるんですか?

中西:あります、2回ぐらい来ました。で、僕にも「自立せい、自立せい」って。

立岩:ああ、田中さんに言われた?

中西:言われてました。だからそれもあって、でも最初は全然他人事やなと思ってたんです。そこまでまあ、病院の暮らし確かに窮屈さを感じてましたけど、そこまで、自立してまで、なんか正直面倒くさいなっていうのもあって。今もちょっと言いましたけど旅行とか外出とか、行きたいとこ行けてたし、やりたいこともやってたんで。で、僕、ラジコンが趣味でずーっと、ラジコンも25まで、4までか。ラジコンやってたんです。

立岩:ラジコン。

中西:はい、大人の。

立岩:何を動かしてたんですか。

中西:車ですね。ヘリコプターもやりましたけど。

立岩:ヘリコプターもやった。

中西:はい。それで大会とか出たりしてたんで。

立岩:ヘリコプターって難しいですよね。

中西:はい、難しいです。そういう趣味もあったんで。まさかそれが25、呼吸器着けるまではそれが生きがいでした。だから自立はそこまで、外出もまあできているしと思ってたんですけど、やっぱりその冷静になって、田中から言われてたのもあるし、ちょっとまあその病棟の暮らしがやっぱり嫌になってきて、で、ずっと寝ながらベッドの上で考えた時期もあって。で、まだ体も体力的にも寝たきりでもないから、モチベーションがあるうちにやっぱり何か行動を起こす…、ずいぶん悩みましたけどね。でも肚決めて、で、2008年の12月か、もう自分の中で決めて、で、一応両親にも話して、田中にもメール、メールしてたんで、彼はもう自立してたから、病院から。

立岩:ん?

中西:彼はもう自立してたんで、僕が病院からメールを送ったりして。で、メール送って、それからもうすぐに彼は亡くなりまして、ちょうど僕と入れ違いぐらいですかね。

立岩:田中さんが2007年で中西さんが。

中西:9年、自立は。2009年9月に自立してるから。

立岩:9月、9年の9月。いずれにしてもその間でも2年ぐらいしか。そんなに長い間じゃないんですね。

中西:はい、そうですね。

立岩:じゃあ田中さんは最初、彼が出る頃から「お前も出ろよ」って言ったりとか、

中西:それはなかったです。出てからですね。

立岩:そのあとですか?

中西:あとです。出て、自分が経験して。

立岩:出たあと一回やって来て、「お前もやったら」みたいなこと言われて。

中西:出る前に僕も行ってたんですね、遊びに。田中の家に行って。

立岩:田中さんがもう出られたあとにお家に。

中西:家に遊びに。実家と近かったんで。

立岩:実家自体が、実家同士が?

中西:いや、僕の実家と田中が住んでた家が近かったから。

立岩:ああそういうことか。田中さんが病院を出られたあとの家と中西さんの実家が近い。

中西:はい。だから僕が外泊した時に夕方とか昼からとか車いすでばーっと行って、で、1時間ぐらい喋ってみたいな、ですね。

立岩:じゃあけっこうその3、4人いたその中の特に1人は同級で。同級っていうのは何? 同じ部屋に暮らしたこともあるんですか?

中西:ありますよ。高校から一緒になったんです。その彼が高校から一緒で、

立岩:彼は高校の時に病院に来た人なの?

中西:はい、そうです。

立岩:ああ、なるほどね。で、高校の時から早速一緒で、学校も一緒だし、部屋も一緒だったしっていう。

中西:はい、部屋も一緒でした、たまたま。

立岩:それでその時に病院によってはわりとそれに積極的っていうか好意的な所もあれば、「出さん」みたいな主治医がいたりとかっていう所もあるし。家族がやっぱり、どうだったかでもだいぶ違うんですけど、中西さんの場合、まず病院のほうはどういう感じで出ますよっていうようなことを受け止めたっていうか、反応だったんですか?

中西:まず第一の反応は「中西くんやったらやると思ってた」って言われた。

立岩:「中西くんだったらやると思ってた」っていうふうに誰が言わはったんですか?

中西:え? 誰が。

立岩:看護師さんなのか主治医なのか。

中西:ああ、それ言ったの? えっと、婦長です、師長というか。

立岩:師長、看護師長っていうか。

中西:病棟の師長です。と、あと自立を伝えたのが、伝える時に両親と、時間取ってもらったんですよ、両親と、あとドクターと、あと病棟の師長と。で、僕ちょっと話があるから時間を取ってくださいっていうことで設定してもらって、その場で初めて言ったんです。

立岩:じゃあ親も一堂に会したみたいなことになるわけですか? その部屋に。

中西:そうです。

立岩:スタッフが3人? 2人?

中西:スタッフは2人ですね、ドクターと、

立岩:スタッフが2人、親が2人?

中西:と、僕と。

立岩:5人。5人の部屋で、それまでは自分以外の4人はなんの話か、

中西:うち、親は知ってましたね。親はもう僕が出る9ヵ月前に伝えてるんで。準備がいるから準備を手伝ってもらわなあかんし。

立岩:それで病院は知らんかったと。でもそういう予感というかなんか、中西さんやったらしそうかなみたいな。

中西:予感とかはたぶんなかった、僕、水面下で進めてたんで、言わずに。あんまりこう言ってしまうと病棟にいづらくなるし、あまり、やっぱ聞かれるじゃないですか、「え? どうなん」みたいな。とかやっぱそういう雰囲気が嫌やったんで。

立岩:もう準備して決めてしてしまってから言ったほうが面倒くさくないという。

中西:はい、そうですね。

立岩:そういうことかって言って、でもそれは「じゃあどうぞ」みたいな感じですか?

中西:はいはい。別に反対はされませんでした。

立岩:なるほど。その9ヵ月前のご両親ですけど、ご両親は、ちなみに今もご健在ですか?

中西:はい、二人とも元気です。

立岩:その時、2008年、9年か、そのあたりっていうのは、親はどうだったんですか?

中西:田中の存在をうち両親とも知ってたんですよ。そういう事例っていうか実際障害者が地域で暮らしてるの知ってたし、情報としては事前にあったんで。うち親父ももうなんかざっくばらんな感じなので、話の端々で「お前もせえへんのか、自立」って言ってくれてたんですよ。で、僕は「ええわ、ええわ」って言ってて。で、ある時に真面目な話で「ちょっと自立したい」と。で、親父と母親に言ったら、「お前の人生やからお前が好きなようにやったら」と。まあ親としては先ほども話しましたが、風邪をひきやすい、肺炎なるから、そこだけが心配やと。ただそこだけが心配やからそれ以外何も言うことはない、ただ自分の思うように生きたらいいって言ってくれましたので。

立岩:じゃあ理解というか最初っから、それはほとんど何も波風立たずに「やりたいようにやれ」って言うてくれた。ちなみにもし聞いてよければですけど、どういうようなお仕事というか。

中西:親父ですか? 親父は大工です。

立岩:大工さん。

中西:家建ててる。

立岩:お母さんは大工さんの奥さんみたいな、そういう。

中西:はい、そうです。専業主婦で。パートは行ってますけど。

立岩:ああ、なるほど。大工さんいいですよね。私、今、家を改築してて大工さんに毎日来てもらってるんですけど、大工っていう仕事はいい仕事やなと思って見てるんですけどね。ああ、そうでしたか。ほんで2009年、そうか。その後もうまあまあ長くなって。

中西:もう10年経ってます。11年目に入りました。

立岩:で、ずっとあれですか、関わっているのはメインストリームなんですか?

中西:そうですね、ずっと最初からメインストリームです。

立岩:その介助なら介助の部分っていうのはメインストリームだけで足りてるんですか?

中西:えーっと今は足りてます。最初は、でも元々もっと早く出たかったんです。自立決めてメインストリームに話してから9ヵ月後に自立が実現したんですけど、ほんとはもっと早くにしたかったんですけど、「介助者がいないから今はすぐできない」って言われて。で、一応まあいろんな事業所掛け持ちしてもいいから出たいっていうことを伝えたら、「いや、できたらメインストリームだけでやってほしい」って言われたんです。

立岩:じゃあむしろ最初のほうが複数事業所が入ってたんだ。

中西:いや、入ってないです。だから、

立岩:「一つの事業所でいけるよ」となって出たということか。じゃあ基本はそうですね。これまでの10年間で介助のほうは基本メインストリーム?

中西:はい、もうずっとメインストリーム。

立岩:ずっとメインストリームか。ちなみに今、制度っていうか重度訪問介護、それをどのぐらい使えてる?

中西:今ですか? 今はフルですね、24時間。

立岩:それは2009年、最初から取れたっていうか、取ったっていうか、それはどうだったんですか?

中西:全然取れてないですね。最初はもうあの、1日で日中の時間が2時間。2時間。

立岩:2時間、日中2時間。

中西:で、それは誰もいない状態で、家でこう。で、僕は呼吸器も、まあその時も夜間だけでしたけど、やっぱり姿勢が僕倒れたら自分で起こせないんで、やっぱり不安じゃないですか。

立岩:そりゃそうですね。

中西:はい、だからそれをずっと交渉してました。で、交渉して3年目ぐらいに、もっとあとか、4年目ぐらいかな、2時間分を出して、ああ、出なかったわ。生活介護が始まって、「生活介護を使ってくれ」って言われて。で、生活介護を週に1回だけ行くようにしてそれを、結局重度訪問で出せないから、生活介護あるから生活介護で、なんて言うかな、メインストリーム行ってその時間を補うみたいな形で生活してました。

立岩:その昼間2時間っていうのんは夜は?

中西:夜は一応制度上は4.5時間しか出なかったんですけど、メインストリームが結局4.5時間プラスあと1時間を事務所が出してくれてて、で、あとの1.5はもう介助者も夜中寝てるから、そこはまあサービスですね、言ったら。だから「寝てるやろ」いうことで。

立岩:じゃあ、4時間、4時間、1時間みたいな、なんか足すと一晩みたいな。

中西:えーっと、そうですね。制度でいうたら、8時間枠って23時から7時までが8時間。で、その間に一応泊まりを4.5時間使って、1.5は事務所が介助者に払って。けど実際は介助者はいるんですよ、ずーっといるんですけど。だからまあ物理的には、制度的には出てないけど、物理的には夜の介助者はいました、ずーっと。まあ昼間がいなかったんで。

立岩:昼間の2時間が、

中西:…が出なかった。

立岩:ずーっと繋がるようにまあそれはだんだんでしょうけども、一応その24までいったのがいつ頃やったか覚えてます?

中西:その泊まりの分含めて2年前ですね。

立岩:けっこう長い道のりだったですね。

中西:はい。2、3年前。

立岩:じゃあけっこう中西さん自身も交渉というか。

中西:はい、行きました。だからメインストリームの、今DPIの事務局長してる佐藤〔聡〕さんがメインストリームにいてたんですけど、佐藤さんと一緒に市役所行って。

立岩:佐藤さんと、西宮と交渉って感じですか?

中西:はい、西宮市と交渉でした。

立岩:それがだんだんと。まあでもけっこうかかったんじゃ。

中西:そうですね。あと、あ、そうですね、それと自宅で支援会議っていうのがあって、訪問看護とか在宅医とか薬剤師とか、年に何回か集まる場を作って、その場で介助の必要性とか僕の普段の生活とかいうのを話し合いする場を作ってもらって、そこでまあ訴えたりとか。当然市役所の障害福祉課の人、当時は障害福祉課だけでしたね、来てもらって話し合いをして、そういうのもちょっとした、まあ交渉まではいかないけど、そういう、やっぱり生活実態がわからないと向こうもやっぱり出してくれないからっていうのもあって、ですね。

立岩:それで、だんだん〔部屋が〕騒がしくなってきたんであれですけど、その10年のうちは大変だったと思うんですよ、やっぱり。それはそうだとして、今、どんな感じやっていう、そんなこと言われても、ことかもしれないけど。あるいは今後のことでもいいですけど、どうしようみたいな、今年は何しようとかそれはどうですか?

中西:今、だからこのプロジェクトに関わらせてもらって、このプロジェクト、この今日の集まりもありますけど。だからこれを自分も関わらしてもらって、筋ジス病棟の患者さんで出たい人がいたら自分も何か力に、自分の経験をもとに何か自分ができることをやりたいなと思ってます。

立岩:わかりました。ちなみにご両親は今、ご健在ですか?

中西:はいはい。元気です。

立岩:大工さんをやられてるんですか?

中西:やってます、現役でね。仕事量はピーク時よりかは全然ないですけど。ちょこちょこ身体慣らす程度ですけど。

立岩:勤め人よりあれですよね。いい面ありますよね、そういう職人さんっていうのはね。

中西:それは全然あります。だから、自分は賃貸で住んでるんですけど、スロープとか全部親父に作ってもらって。スロープとかそういう家系のことは全部親父がやってくれてます。

立岩:親父さんにスロープ作ってもらったり。今は普通のアパートっていうか、

中西:ハイツですね。

立岩:民間のというか。

中西:はい民間の、はい、そうです。

立岩:わかりました。それじゃあ、もうだんだん賑やかになってきたのでいったん。記録、早速文字にしてもらって、あとお送りしますわ。足すなら、足すのはいくらでも、削るのももちろん構いませんのでやっていただいて。よろしくお願いします。

中西:いえ、こちらこそ今後とも。

立岩:ばたばた突然お願いして、ありがとうございました。

中西:いやいや全然全然。こんなんでよかったですか?

立岩:はい。こんなんで十分です。ありがとうございました。またなんかあったら、またお聞きするなりしますので。

中西:全然、言うてもらったら。はい、答えられる範囲で全然答えますんで。

立岩:はい。ありがとうございました。

中西:いえ、こちらこそありがとうございました。

立岩:じゃあ、いったんこれで切ります。ありがとうございました。


UP:20200221 REV:20200225
中西 竜也  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇脊髄性筋萎縮症(SMA)  ◇田中 正洋
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也 
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