近藤秀夫氏インタビュー、その1(2020年1月、全3回)
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近藤秀夫氏インタビュー、その1(2020年1月、全3回)


2020年1月22日 聞き手:聞き手A 話し手:近藤秀夫、女性C、女性D、女性E





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近藤秀夫氏インタビュー、その2(2020,全3回)
近藤秀夫氏インタビュー、その3(2020,全3回)

近藤秀夫
ひぐち 恵子・樋口 恵子
近藤氏・樋口氏インタビュー
NPO 法人 自立生活センター 土佐の太平洋高気圧 [外部リンク]

障害者運動|Disability Movement
全国自立生活センター協議会(JIL)
日本社会事業大学社会福祉学会
町田ヒューマン・ネットワーク (東京都町田市)

生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
◇文字起こし:おとおこし.com 72分

■本文


■■

聞き手A:ああ。

近藤:でも、僕の場合は、前の生活がひどかったでしょ。それがすごくがんと上がったわけだよな。だから、

聞き手A:食べられるようになって、

近藤:逆の現象が起きたのね。だから、すっごく明るい障がい者生活。

聞き手A:障がい受容とかそういう感じじゃないんだ。

近藤:そういうもんだよ。むしろ、障がいとは何かという、もっと根本的に障がいとはどうして、克服しないといけないっていうもんじゃないのよ。どう受け取るかというだけであって。だから、受け方によって、その人が障がい者になってからの人生が決まるんじゃないだろうかと。で、僕はすごくそういう意味では運がよかった。なぜなら、障がい者になってからの時間が長くって、障がい者になるまでが短いでしょ。その短い間が大変だと思うんで、

聞き手A:大変だったから、

近藤:障がい者になってからは、すごく環境からすべてが変わったからね。

聞き手A:それで、病院に入院したあと、福祉事務所の人に会って、次は施設、

近藤:施設。で、その施設へ入るときも、普通はその頃、施設に僕が入った頃は、全国の障がい者が施設に入りたい、施設に入りたいと、家から外に出るのが大変な時期だったから、施設のほうが広いからっていうんで、みんな施設を望んでた。

聞き手A:でも、入れないっていう時代ですよね。

近藤:入れない時代だったわけね。ところが、10年たって、パラリンピックがくるわけ(?)。そこまでで、その10年間に何が起こったかというと、施設は嫌だ。もっと自由な生活が欲しいというふうに、障がい者の意識が変わったのね。だから、施設はもう建てないで、普通の生活ができる場を欲しいというのが、障がい者の願いになった。10年間でそれだけ変わったの。で、僕にとってじゃあ障がい者、施設生活はどうだったかっていうと、むしろ元気なときの若い時代っていうのがないじゃない。だから、障がい者になってからの生活っていうのは、例えばその頃僕のような重度障がい者が入る施設っていうのは、日本に2カ所しかなかったの。大阪を境にして、大阪から北の人は、静岡県の伊東、

聞き手A:伊東の。

近藤:国立障害者センター。それから、南の人は、大分県の別府、両方とも温泉地でしょ。つまり、傷痍軍人の温泉治療ということで建てた療養所が、そう使われていったのね。

女性C:サナトリウムでしょ。***。

聞き手A:結核療養所ですか、そうした。

近藤:ではない。

聞き手A:じゃないけど、

近藤:結核じゃなくって、いわゆる戦争から帰ってきてもすぐ家に帰れない人、障がいを持っているから、その人を一応受け入れるところ、国立療養所っていわれたの。それが、年代とともに、傷痍軍人はそこに入ってたけども、だんだん恩給が、すごい金額でしょ、傷痍軍人。だから、どんどん出ていくわけね、慣れたら。それで、そこがだんだん空いてきたところを、障害者福祉法を改正して、一般障がい者もそこへ入れられるようになったの。そのまた変わる、チェンジのときが、ちょうど僕の時期だったわけ。だから、まだその頃は障がい者が使節に入りたい入りたいって思っても誰も入れないときに、僕は福祉法が変わったことと、それから自分が誰も、親がいないということで、引き取り手がないということで僕は入れた、優先的に。

聞き手A:そこで中村先生に会う?

近藤:ん?

聞き手A:中村先生に会ったの、そこですか。

近藤:ううん、だいぶあとね、もうちょっと。

聞き手A:じゃあ***、

近藤:だって、10年いて、10年目にパラリンピックがきたんだから。だから、そこの生活のときに、今では考えられない状況を僕たちが作り出したのは、何にもない、傷痍軍人は何にもしなかったのね。だから、何にも施策的(?)にはなくって、ただ食べさせて、風呂へ入れて、生活できるだけのもんだったの。ところが、僕たちはそれじゃあ物足りないじゃない?

聞き手A:はい。

近藤:だから、伊東も別府も山の中腹に療養所があるの。やっぱ人里離れたところっていうやつよ。障がい者の姿を人に見せたくないという意味で、山の中腹にある。だから、映画見に行こういったら、もう街まで下りていかないといけない。それを若いときに下りていくんですよ。

聞き手A:(笑)

近藤:下りていって、そして映画に行くと同時に、紳士服の店に行って、いついつ療養所に洋服を売りに来てくれと。で、それまでにズボンを5枚予約取るから、だから最低5枚のズボンは売れるから来てくれっていうようには言うわけ。そしたら、来てくれるわね。

聞き手A:そうですね。

近藤:そして、来るまでの日数に予約を取るわけ、皆から。その予約を、

聞き手A:営業もやったってことか(笑)。

近藤:そうそう。それも、どっこも出ていけないじゃない?山の中腹だし。だから、この5本が全部売れたら、阿蘇山にドライブへ連れていってくれと業者に要求するわけ。

聞き手A:すごい(笑)。

近藤:自分たちで遊びを作っちゃうわけ、今度。ほんで、どれも遊んでたよ(?)。そういう遊びとか、それから、年末になったら、どのくらいだろうね。今で言う、1000円は取らなかっただろうな。今で言うたら、700円やそんくらいかな、チケットを売るの。これを700円で買わないかと。で、何かというと、1年に一遍車椅子を全部ばらして、グリスから何から全部入れ替えてきれいにふいて、あなたに納品するぞと。

聞き手A:それは、近藤さんが自分で考え出した自分の仕事みたいな?

近藤:いや、僕、4人ぐらいのがき大将。

女性C:悪がき隊。

聞き手A:悪がき隊。

近藤:悪がき隊、4人組ぐらいでやるわけ。それは売れたのよ。ほんで、施設も喜んだの。

聞き手A:そうなんだ。

近藤:施設も、きれいになるじゃない、車椅子が。施設の職員が車椅子もふいたりしないから、そんなん仕事にならないから。で、売ると(?)障がい者はすっごい喜んでね。1年に一遍だからきれいにしたいから、あれいつ券、前売りを出すの?とかって言われるぐらい売れた。

聞き手A:で、障がい者の人たちは、お金はどうしたんですか、それは。恩給持ってる人はいるだろうけど、一般の障がい者の人、お金ない、生活保護とか?

近藤:いや、やっぱり家からの仕送りがあるのと、それから僕の場合は生活保護で入ってたから、生活費があるじゃない。小遣い銭が、わずかだったけど。でも、小遣い銭よりも稼ぎのほうがはるかに多かったからね。

聞き手A:でも、その稼ぎは収入認定はされなかったんですか。

近藤:されないされない(笑)。

聞き手A:それはよかった。

近藤:そのように、それとか、女の子を連れて遊びに出て、またコンちゃんいなくなったと思ったら、あの子と行ったんかっていうぐらい、よく女の子を連れ出して遊びに行く(?)。

聞き手A:その女の子は施設の人?

近藤:もちろん、施設の女の子。

聞き手A:(笑)。その人は車椅子?

近藤:車椅子の人とか、遊びに連れて行くのは車椅子が多かったし、それでなくても、遊びに行けなくてベッドにいる人は、部屋に行ってぎゃーぎゃー言わせる。

聞き手A:(笑)

近藤:(笑)。それから、女の子の病棟で、きゃーっていう声が聞こえたとこ行ったら近藤さんがいるっていうぐらい有名だった。

聞き手A:でも、車椅子の人と車椅子で出かけるのって、結構厳しくなかったですか、その頃。

近藤:そりゃ厳しいよ。

聞き手A:どうやって、

近藤:厳しいけれど。

聞き手A:行けるの?

近藤:もう障がい者同士になってしまえば、人がどう思うとそんなこと関係ないじゃん。

聞き手A:車椅子さえあれば出かけるっていう感じ?

近藤:うん、出かける。その代わり、今、言う、上に上がるか下に下がるかしか行けなかったのが最悪だったけどね。

聞き手A:すごい体力使いますもんね。

近藤:ものすごい体力よ。だから、

聞き手A:女の人、大変ですね。

近藤:その頃、外へ出る車椅子は、ここを回す車椅子。見たことある?

聞き手A:ない。

近藤:この辺で回すの。それで、チェーンがここへこうついていて、ここに歯車があって、で、こうやる。3輪、大きくって。このタイヤが三つついてるの。ここにも一つ。それで、ハンドルがここついてる。ハンドルこうついてるけど、こちらで回すから片手だけ。自転車のこういう***。これが、外へいく車椅子。外出用。室内はこれね。ところが、どうして街へ出るかいうと、女の子は外出用のこれで出るわけ。ブレーキも自転車と同じだから、安全で出やすいわけ。ところが、僕たちは、元気なのは、でもこれで出ちゃうわけ。それはもうものすごいスピードが出るのよ、これは。

聞き手A:(笑)。でも、帰りは厳しいですよね。

近藤:そう。帰り厳しいでしょ。だから、これは折りたためられるじゃない。これ、だから折りたたんでタクシーに入れて、それで女の子は帰っちゃうわけ、タクシーで。で、僕たちは、今度は女の子が乗ってきたこれに乗って、ふうこらふうこら帰るわけ。

聞き手A:うわ、大変。

近藤:ものすごい体力が要るの。それでも、やっぱり若いときは出るわけ。それでも。

聞き手A:出かけるのは、施設の人は特に怒らない?

近藤:いや、それはもう手続きして出るから。何時出ます、目的は遊びとか映画とか。

聞き手A:割とじゃあ自由に出られたんですね。

近藤:もちろん出る***。

聞き手A:よくほら、もうちょっとあとの時代かもしれないけど、障がい者の人たち、特に府中療育センターとか何かだと、保護者が迎えに来ないと出してもらえなかったとか、そういうのもありましたけど。

近藤:逆に地域の、東京の中の府中いったら、東京都の障がい者が入ってるじゃない?そしたら、その子どもが、その障がい者が外へ出て事故を起こしたら、管理責任が問われるわけ。しかし、僕たちのときには、だって、別府に入ったのが福岡からでしょ。もう県まで越えてくる。それはだって、国にそれだけしかないんだもん。だから、地域にあるようになって、地域に親がおり、その地域の施設に入ったり通ったりしだしたら、今度は責任が問われるようになった。僕たちの時代は責任どころじゃなかった。入れてくれ、入れてくれと、全部お任せしたいっていうときだから。そういうように、施設の在り方もどんどん変わってきたわけよ。入りたいという時代から、もう施設にはこれ以上作らないでいいから、住宅を地域に作ってくれとか、そういうように要求が10年間で大きく変わったね。で、大分県っていうのは、中村先生がいたということよりも、何があったかちょっとそこはわからないけど、全国で一番早く障害がい者スポーツが生まれたところ。だから、

聞き手A:私はそれ、中村先生なのかなと思いましたけど。

近藤:障がい者国体が、大分にはもうあったもん。

聞き手A:***ね。

近藤:だから、僕はスポーツが一番弱いのよ。何をしても、例えば将棋とか碁をしても、習うんならコンちゃん習えって言われたぐらいに、僕んとこへ来て教えてって来るの。教えてたら、すぐ相手のほうが強くなって、こんちゃんとしたら面白くないって言われて、もう遊んでくれない。

聞き手A:(笑)

近藤:碁でも何でもそう。っていうのは、僕としたら、何でっていったら、攻めることをせずに、守るばっかりだから面白くないって、僕は。卓球なんて一番弱くって(?)、守って守って、どんな球でも拾って、嫌気が差して打ったら、失敗して向こうが負けるという。

聞き手A:(笑)

近藤:だから、そういう僕は、銅以上のメダル取ったことない。卓球して、銅なら二つ、知ってるだけでも2回は銅メダル取った。で、施設で卓球大会やってもスポーツ大会やっても、面白くない。受けるばっかりで、こないから。こつこつ(?)なんです。

聞き手A:じゃあ、あんまり勝負を仕掛けるっていうことはしなかったんだ、そういうとこでは。

近藤:うん。勝負っていうんじゃないんだろうね、遊ぶというのがやっぱり。それと、手は短いし背は低いから、スポーツには向かない。で、その僕が、パラリンピックに出たわけじゃない?で、パラリンピックの状況っていうのは、いくつかの文には書いてあるから知ってるだろうけれども、中村先生のお膝元だったっていうことあって、アーチェリー(?)っていうのは、別府では見たことがなかったのよ。で、施設で傷痍軍人の人が和弓の、稽古の和弓、日本の弓しかやったことがなかった。

聞き手A:おお、弓のこと。

近藤:で、竹の弓と竹の矢で、ちょっと離れたときに打ち込むように、遊び時間があったらそれで遊んでたのよ、何人か、4、5人が。で、それ見て、こんなんができるんだ思って、遊びだしたわけ、僕が。はい、どうぞ。

女性C:ちょっと意見があるんですけど、施設論のところで、近藤さんは10年たったら施設は要らないっていうようになったっていうふうに言うんだけど、私はそれはちょっと違うというふうに思ってて、最近その発言はよくインタビューされたときに言うんだけど、

近藤:出すね(?)。

女性C:障がい持った本人が施設に入りたいって思うかどうかは別にして、施設の必要性ってすごく延々言われてて、それこそ横浜の子殺しとか、***の人殺したりとかそういう、

聞き手A:75年ぐらいでしたかね。10年ぐらい(?)。

女性C:ね。何かでも、やっぱり施設が足りないからとか、そういう意味合いで減刑嘆願運動とかされてたし、昭和24年、福祉法ができたの、ですよね。

聞き手A:はい、1940、そうです。

女性C:だから、それからあと、それで施設が傷痍軍人だけのためのものではいけないってGHQに言われて、ほんで障がい者全体に介護をするというふうに、別府と伊東がなったので、第1号としてお近藤さんが29年ぐらい?

近藤:1号じゃないけどね、まあ入った***。早い早い段階に(?)。

女性C:入って。だから、そのあと傷痍軍人って永遠(?)残ってたでしょ。

近藤:いや、それは、例えば100人の中のもう10人もいなかった。

女性C:そう?

近藤:うん。10人はいないな。

女性C:だって、みんな奥さんが通ってくるけど、迎え入れないって言って、

近藤:いや、そういう人も含めて。目の見えない人が2階の部屋でごそごそ夜音がするから言ってみたら、顔中マスクをかけて、桐下駄を磨いてる。桐下駄に砥の粉を塗って、それを磨くわけよ。で、つやを出して納める仕事が、内職のようなんであったの。ところが、目の見えない人っていうのは、

女性C:マサコさん、洗濯機の上にタオルとバスタオル***。

女性D:ありがとうございます。

近藤:目の見えない人っていうのは、朝昼(?)がないじゃない。

聞き手A:ないっちゃないですね。

近藤:だから、夜中でも、

聞き手A:仕事しちゃうの?

近藤:うん、しちゃうの。下から、ゆうべもやってたから、

女性C:その人も傷痍軍人なの?

近藤:うん、傷痍軍人。その人と、あと2人か3人いたぐらい。その人、それは僕が出るときには、もう早く出てしまってた。

女性C:ミゾエ(?)さんなんかもっとずっといたでしょ。

近藤:ミゾエ(?)さんっていうのは、傷痍軍人というよりも、軍人ではあったけどあの人の障がいは、リウマチ。だから、リウマチの人は全然違う、意味が。

女性C:それで、施設は要らないってなってきた時代っていうのは、10年後とかじゃなくって、私がそれこそIL運動を始めて、厚生省交渉とか、やったりしてるときにも、全障連の人たち?東京の。その人たちは、まだ施設を作れって、当事者が言ってて、

近藤:わかってるわかってる。

女性C:私はそれがすごくあきれたんだけど、何で施設が欲しいのかなって。

聞き手A:当事者の人たちがそうか。

近藤:それは全国だから、

女性C:それで、運動の中心の人。

近藤:僕、知ってるよ、***。そういう運動があったのを知ってる。

女性C:もちろん知ってると思うけど、

近藤:僕が、

女性C:時系列がちょっとずれてきてないかなと思って、

近藤:僕がいる時代で、もう10年、それこそパラリンピックがくるだいぶ前には、施設を出たい欲がかなり起こった。

聞き手A:それはじゃあ、施設の中にいた人たちが出たいっていうことですか。

近藤:いや、その人たちからも聞こえてきた。だから、施設を作らないのよ、国は。だから、法律の改正で傷痍軍人のためのところに一般障がい者を入れるというぐらいで、特に目の見えない人もそうだったし、新たにできた障がい者の施設っていうのは、ずっとあとになるのよ。

聞き手A:それはそうですね。

近藤:だから、施設が足りないの。施設がないの。

聞き手A:60年代の後半から、ようやく出てくるからね。

近藤:それはおわかってる。

女性C:わかってる?

近藤:うん。

女性C:何かずれてないかなと思って、

近藤:いや、

女性C:時間の流れっつうか。

近藤:だから、僕たちはもう出たいという意見を、もちろん早く出したし、チビヤマ(?)もそうだったし。

女性C:だけど、兄さんは、僕はこれで一生いられるって安心した、施設に移ったときね。そう言ってたじゃない。

近藤:そりゃそうだ。行くところはない、寝たっきりの障がい者を福祉が探して入れてくれたんでしょ。施設の職員か?言われたの。近藤さんはもう行かなくって、ここは一生あなたのいていいところだから言うから、すごい安定したわけよ、精神的に。ああ、よかったと思ったわけ。しかし、その時期は本当に短かかった。ほんで、ただやっぱり僕は若かったから、遊んだり、スポーツをしたりするようなことに、それから手仕事をしたりすることに、すごく熱中したからね。そしたら、行き詰まっちゃうのよ、出られないから。

女性D:これ以上やれることがないっていう感じ(?)。

近藤:技術を、だって言ったでしょ。先生の資格三つ持ってるって。そこまでいかなくても、技術を一つでも取ったら、親に言って家に帰って内職はできたりしてたら(?)、それが自立って言ってたの、その当時。店とか持たなくっても。そのために、家に帰っていったの。

聞き手A:そこがないんですもんね。

近藤:ところが、僕にとっては家がないじゃない。で、誰も来ないじゃない。来るといったら真ん中の兄貴が時々来て、字を教えてくれ言うて(?)来るぐらいだな。だから、僕にとって自立っていうのは、なかったのよ。だから、それで、パラリンピックに出ても、それが自立になるとは思ってもないわけ、先が見えないから、何にも。

女性C:情報がないんだもんね。

近藤:情報ない。だから、パラリンピック、ただ、出たら、考え方ががらっと変わっちゃったのよ。で、それまで僕たちが考える自立、僕たちに教えてくれた自立の考え方っていうのは、全部専門家といわれる、それで食っている施設の職員たち。で、僕たちは先生、先生言うような人たちじゃない?その人たちが、自立というのは手に職をつけて、機能(?)訓練してっていうパターンだったじゃん。ところが、パラリンピックに出てみたら、訓練がどうのこうのいうんじゃないわけ。

聞き手A:(笑)

近藤:とにかく聞いてみたら、みんな何かしてる***だろう(?)って言うんだよ。あの明るさは、本当に僕たちが専門家から、先生たちから聞いたことじゃないもんね、自分の目で見たら。それで、一時は専門家に批判的になったの、僕は。専門家の言うことは聞けないと。自分たちがお金を出してもらって研修に行ってるのに、私たちが必要なことは見てくれてないと。自分の目で、初めてパラリンピック見て、外国の選手に会ってみて、これはちょっと違うぞと思っちゃったわけよ。こんなこと聞いてないぞと、教えてくれてないじゃないかと。で、それから僕は再々言うようになったね。専門家っていうのは、自分たちにとっての研修であって、本当の障がい者が望んでる研修を受けに来てないと(?)。で、ちょっと先に飛ぶけども、その言葉が飛躍して、専門家と今までいわれたのは、福祉学科を卒業して、大学で、福祉事務所に入ったり何かした、施設の職員になったことで、専門家といわれてきたわけね。で、障がい者から先生と言われていたわけ。そうじゃなく、当事者も完全に専門性の一部であると***。これは今までの専門家という人たちが、身につけてこなかった専門性であると。だから、当事者の目っていうのは、やっぱり福祉の専門家とは全然違うということを、その後僕は市の職員になるでしょ、町田市に。もう全然違うんだもん。僕の本読んだことないね?

聞き手A:本、

近藤:『車椅子ケースワーカーの7600日』。

聞き手A:わかんないです、それは。いつ頃出されたんですか、それは。

近藤:どこかあるか見てあげる(?)。

聞き手A:ありがとうございます。

近藤:もうないとこないだ言われた。

聞き手A:絶版ですか。

近藤:絶版だって。僕たちは、専門家たちが、先生といわれる人たちが言うことだけが情報なのよ。あとないわけ。で、その人たちが聞いてきて見たりしたことを教えてもらって、そうなんだ、そうなんだ、と思ってたわけ。ところが、パラリンピックに出てみて、自分の目で見たら、そうかもしれないけども、だからこうじゃないのよ、これはこれでできあがってしまってるわけ、生活が。それはリハビリがどうのとか、何がどうのじゃなくて、とにかく彼たちは地域で生活してたわけよ。それで、何が必要かはわかんないよ。自立してたわけ。で、その自立っていうのは、日本の自立とおおよそ違う。だから、彼たちはあれほど明るく、あれだけ自信を持っているんだということを、直感的に見ちゃうのね、これは違うと。日本の教えてもらった自立の方向性ではないと決めちゃったね、選手村で会ったとき。それほど違うもんだったの。

聞き手A:それはやっぱり生活してる基盤が、おっしゃったみたいに仕事持って地域で暮らしてるっていう、そこの違い以上に何か違いがあったんですか。

近藤:そこから出てくるもんだと思うよ。しかし、あまりにも違ったんだね。あまりにも僕たちが会った外国の人たちの生活が、あまりにも専門家といわれた人たちが教えてくれたもんではなかった。その結果を見てしまったからなおさら。それはどんなに、彼たちの国の中でパラリンピック出るまでに苦労してるかもしれないよ。しかし、それが一つや二つの国じゃなく、来てる、全部日本人と比較して違うんだもん。だから、これは違うという気がしちゃうわけよ。それは文化が違うのか、何が違うのかわかんない。

聞き手A:でも、何か違って、しかもいきいきと、

近藤:そう。それが今の彼たちの姿だ。あんなになるんか、というようなね。ちょっと待てよ、今のを何をどう変えたからって、あんなにはならないというぐらい大きな差を感じるわけ。そこには長い時間の流れもあったかもしれないけども、何か全然違う社会の、世界を見た気がした。だから、それを、今度はその次の体験として、障がい者自身が自分の目で、アメリカに行ったりヨーロッパに行って見いだすわけ、障がい者が体験旅行として。で、ヒグチはそれをコーディネートしてくれた。樋口が自立生活体験旅行で自分の目で見てくれるわけ。それから、当事者性っていう言葉を、僕は使うようになったの。やっぱり当事者には専門家といわれる人が、これが必要だと思うのと、当事者が必要だと思うものが違うんだと。だから、そういう意味では、当事者というのも、その立場にならないとわからない専門性の一つなんだと。というようになった。だから、自分のやることに専門家とは違う、例えば1981なんか国際障障害者年がくるでしょ。僕は町田にいたじゃない?しかも町田のケースワーカーだったじゃない?そしたら、各省庁が東京にあるわけじゃない?あのとき国際障害者年の各省庁に、プロジェクトを全部作らしたのよ、国が。各省庁に一つずつ。そしたら、そこに当事者性という言葉が出てくるわけ。そしたら、近藤だってなっちゃう。同じ公務員だから安心しちゃうんでしょうね、民間ではなくて。それと、僕の動きは大きかったから、動きは大きかったからみんな***知っちゃったのね(?)。だから、あいつが呼んできて置いたら、自分たちと全然違うとこから見た意見を出してくれるっていうんで、各省庁のプロジェクトに全部入れられちゃったわけよ、僕は。で、町田の仕事ができないじゃないかって言ったら、市長が、それがおまえの仕事の一つでいいんだからって、いけっていかしてくれたわけよ。で、その代わり、勉強してみんな持ってきて、教えてくれた。

聞き手A:すごいですね、その何か、

近藤:市長がね。

聞き手A:うん。

近藤:だから、本当にいろんな勉強させられたの。だから、建築のけの字も知らなかったよ。だのに、福祉環境整備要綱を作っちゃったわけ。

聞き手A:それ割と入ってすぐですもんね。

近藤:そう、入った年。

聞き手A:でも、やっぱり自分が持ってる体で知ってる専門性があるから。

近藤:あるとき思ったの。僕は建築のけの字も知らないから、できないと思ったの。ところが、大きな体験を、大きな経験をするのは、ケースワーカーに入れられたときにも、ケースワーカーの位置に入れられちゃったわけ。つまり、ケースワーカーという言葉と同時に、ある言い回し方をすると、地区担当員ね。それは、あるエリアを任されるわけ。その任されたのは、福祉六法のうちの五法なの。生活保護法を除くすべて。だから、一つの家庭に行ったら、子どものことから老人のことから、すべてその家が持ってる問題にかかわる仕事をしてきた。

聞き手A:それこそ、わが子とまるごとの(?)(笑)、もともとそうですね。

近藤:そうよ、***は。だから、時代が違うわけよ。だから、いろんな問題を一つ、まるごと。生活保護法だけのけて、福祉五法全部任されるわけ。だから、いろんな仕事ができる。その代わり、自分が法律知らないとだめよね。

聞き手A:そうですね。五法もね。

近藤:それと同時に、僕は勉強してないじゃない?学校いってないから。だから、法律っていうなんも知らないわけよ。知らないことを知らないのに、福祉環境整備要綱を作られたとき(?)など、どうしたらいいんかという、自分で悩んだけど、その悩みの、本当に短い間で、そうだ、教えてもらったらいいんだいうことがわかるわけ。図面持ってきて、この図面を近藤さん、見てくださいって、僕にくるわけ。で、制度を作ったのが、建築家の窓口に家を建てたいいうて申請上げるじゃない?その窓口に行く前に、福祉の近藤の印がここにないと、相談が受けつけないという制度を作っちゃったわけ(笑)。

聞き手A:じゃあ全部チェックするのが、まず近藤さんで。

近藤:そう、最初、僕。その僕が、建築のけの字も図面も見方知らないじゃん。で、どうしたかというと、建築家が持ってきたら、ちょっと教えてよと言って、これはどこから入るの?って言うわけ(笑)。で、その前の道っていうのは、頭に地図あるじゃない?頭の中に。だから、この道はどこの道?って。で、これはどこから入り口?っていって。で、入り口と道路の段差は、これ、どこに差があると書いてあるの?とか言って見るわけ。そうやって、建築から(?)習ったの。

聞き手A:じゃあ、いわゆる体験的に持ってる障がいの知識っていうのはあって、それ以外のものは、必要に応じていろんなとこから入れながら、

近藤:そう。専門家から習うの。

聞き手A:でも、自分の専門性としては障がい持ってるから、応用しながら使ってくってことですよね。

近藤:そう。それと、一番基本は、市長が言った言葉には、要するに自分が不便と思うこと、近藤さんが不便と思うことは、改善しないとだめなんだよと。それはどんなことか、俺たちにはわからないと。あんたしかわからないから、あんたを雇ったんだから、あんた言いなさいって言うわけ。すごいでしょ(笑)。

聞き手A:やっぱり市長の何ていうか、

近藤:考え方?

聞き手A:うん。先見というか、そんな市長いないですよね、あんまり。

近藤:ああ、そうかと思うわけよ。それで、それをそのまま地で行くわけ。ほんで、その僕が一番最後に全部わかって、印を押さないと、建築の窓口がとおらないという制度を作っちゃったの。それは、皆が困ってた。困るけれども、小田急線とそれとJR、国鉄が交差して、駅がだいぶ離れてたのよ。これを再開発するのには、一つにまとめたいと。ほんで、それが町田市の中心になるだろうという構想して、すっごい大きな区画整理だったのね。その基本計画を作るところから、障がい当事者を入れないと、緑と車いすで歩けるまちづくりの基本はできないと。だから、市長がもう、緑と車いすで歩けるまちづくりという市政を打ち出したときに、もうちょっと専門家というのは障がい者のことを知ってるかと思ったと。ところが、あまりにも知らなさすぎると。あれでよくも専門家と言えるんだなっていうぐらい、市長も呆れるわけ。そりゃだって、建築の中に障がい者問題、ないんだもん。

聞き手A:特にその当時は、バリアフリーとか考えてないですもんね。

近藤:ないない。言葉がない。それで、僕たちは役所に入る前に運動を起こして、車椅子で使えるトイレを作ってくれと言い続けてきたのよ。それから、車道と歩道の段差をカットしてくれと。ところが、ずっととおらなかったのが、あるときからそれがとおるようになるわけ。そのちょうどとおる時期に、僕は登場するわけ。だから、自分が困ってることを言えばいいわけ。その代わり、調べないとだめよ。歩道と車道の段差が、車椅子はゼロがいいけど、目の見えない人は残してくれって言うでしょ。そのニーズを埋めていくわけ、話を。それで、2センチにしたわけ、東京都は。で、その2センチが、今度は国の基準になったわけ。そうやって、一番、国にも基準がないときに作り出したのが、町田だったわけ。で、町田もやらないといけないのにわからないから、僕を雇ったわけ。そういう時代だったの(笑)。

聞き手A:でも、これ、町田がやるって決めたのは、やっぱり大下市長の考えがあって、町田はやるんだってことですよね。

近藤:そう。大下市長が駅を二つを統合する、しないといけないという年に、みどりと車いすで歩けるまちづくりというのを、市政の中心に据えたわけ。

聞き手A:大下市長がそういうことを考えれたきっかけとか背景みたいなものは、近藤さんに話された?

近藤:大下さんっていう人は、社会党ができたときの、鈴木茂三郎さんっていう議員さん、社会党を作った。そのときの鈴木茂三郎さんの秘書だった人。

聞き手A:じゃあ、そういうベースは、そこから学んでる?

近藤:そうなの。だから、秘書上がりの市長だった。しかもそれは生粋の社会党の。

聞き手A:社会党か。でも、そういう視点って、社会党の中にはあったっていうことですか。

近藤:調べてみると、市政がひかれたのが、市政がひかれて、2人目の市長だったの。市政をひいた多摩地域だよね(?)。多摩の中の一部の町田市に、人口がどんどん増えてきて、そこに市政をかけた、ほんで、市になった2代目市長が、

聞き手A:大下さん。

近藤:うん。大下さんだったの。ところが、その大下さんはすごい人で、街に障がい者の子どもを乳母車に乗せてお母さんが行ってるでしょ。そしたら、おい、何々くん言うて、障がい者に呼びかける。おい、何々くんは重度障がい者で返事しなかったら、今度は、何々くんのお母さん、になるわけ。だから、お母さんに、誰々とかって言わない。何々くん元気かって言って、障がい者に呼びかけて、何々くんのお母さんもお元気ですか、になるわけ。だから、親から絶大な信用をもらうわけ。

聞き手A:そういう市長の感覚っていうのは、社会党にいたっていうこともあるんでしょうけど、何かね。

近藤:町田っていうところは市政がひかれたときに、

近藤:だから、どんどん町田に人口が増えると、障がいを持った人たちがなぜか集まって、親たちの運動が(?)盛んになったの。そのもとがどこにあるかっていうのが、僕にはわからない。

聞き手A:なるほど。で、近藤さんも呼ばれてきたわけですもんね。

近藤:で、市長の感覚っていうのが、ほかにない。例えば、年金をやるとか何とかの手当の制度を作るよりも、どこでも、公園があるじゃない。市内にはいくつも公園があるでしょ、駅前とか。そういうところは市が花を植えないといけないのよ、きれいに。それは、市が花壇を作るんだけど、親の会に任せるわけ。花の作り方から、職員が花の作り方を教えて、それで花をできたら、その花を今度は市が買って、駅前になら駅前に植えるわけ。そしたら、親の会にお金が落ちるでしょ、市が花を買うから。そういうように、設備投資にお金はかけても、親に何々手当のような、そんなやることじゃなく、まちづくりとかそういうことの中に親を入れていって、親と障がい者を入れていって、障がい者のできたものを買ってやるわけ。それは典型的な事例は、なんぼでも僕は知ってる。例えば、大島からリスを買ってきて、それでリス園を作って、作ったら、作るまでは市のお金でやるけども、作ったらそれを障がい者の親の会に任せる。そしたら、親の会が運動費くれ言わなくっても、そこをお客さんがいっぱい入るから、リス園っていう少動物公園になるから、それで運営していくわけよ。

聞き手A:すごい。さらに仕事をとおして働くっていう喜びみたいなものも得られますもんね、それだったら、お金だけもらうんじゃなくて。

近藤:それと、働くだけじゃなくて、そこの運営とかいろんなこと。だから、親たちが力をどんどんつけてったわけ、障がい児を抱える親たちが。それで、その人たちの意見も取り上げて、制度化するわけ。

聞き手A:すごい。

近藤:だから、僕はここへ来たとき、またちょっと話が飛ぶけども、ここへ来たときに、ここの市がどんな市かわからないじゃない?だから、市議会に行って、2年ぶんの市議会が取り上げた本を借りてきて、調べるわけよ。

聞き手A:(笑)

近藤:ここはどんな市か。そしたら、障がい者が問題がどのくらいで取り上げられたか。ほんで、問題とは何かってことが見えてくるわけ、市議会のつづりには。そしたら、2年間に2回障がい者問題が取り上げられていたわけ。

聞き手A:それは、

近藤:だって、町田市だと、一遍の議会に障がい者問題はどんどん出てきた***、親の意見が強いから。だのに、ここは2年間で2回よ。それで、僕はびっくりしちゃったわけ。え?本当か?そんなはずないだろうと思って取り上げたら、聞いてみたら、いや、福祉の問題話しましたよっていうのは、保育園の問題とか、そういう障がい者問題じゃない問題。障がい者問題は2年で2件でした、議会で取り上げられた。そうやって、ああ、こうはどういう市かっていうことを覚えていったわけよ。それと同じように、それは自分が町田市でそういう経験したからなのね。で、そういう意味で町田市は、障がい児の親の会というのが、どんどん独立していくわけ。で、それぞれがある仕事を任されて、そこからお金を生んでいくわけ。だから、作業所といわれるようなとこがどんどん出ていくけども、市が最初はお金をかけるけど、運用を任したらもう売り上げはそこの会になるから、月々やるのは完全ないの。リス園とか花の家とかね。手にやっても五つや六つは、すぐ今でも名前が出るぐらい、そういう作業所作りっていうのは。だから、全国から見に来た、モデルケースとして。で、その頃、福祉の町田というのが全国的に有名になった時期です。何で町田だけそんなにできるんだと。

聞き手A:70年代の半ばぐらいですかね。

近藤:うん。要するに、僕が福祉に入った頃です。

聞き手A:そうですね。74年に入ってらっしゃる。ちょっと遡っちゃうんですけど、福祉の人が来て、施設に行ってみようという話になって、別府に行って、じゃあしばらくしてから中村先生はイギリスから帰ってくる?

近藤:最初のほうは、中村先生はその施設には来なかった。

聞き手A:いなかった?

近藤:パラリンピックうんぬんが出てきたときが、中村先生が僕たちの前にばんと現れた。

聞き手A:で、チームを作ってバスケットに出るってことですか(?)。

近藤:それがパラリンピックの3年ぐらい前かな。僕は大きな床ずれ持ってたから、今度おまえ床ずれ治してからパラリンピックに出ようと言われたから。そんで、先生の病院に入院さしてもらって、先生が手術してくれて床ずれ治してくれたの。で、それは、先生は国立病院の医長なのよ。ところが、僕のは施設じゃない?だから、全然建物違うのよ、別府の中でも。

聞き手A:そうなんだ。

近藤:そう。だいぶ離れてる、何キロも。それでも、先生のところは障がい者といったも病人じゃない?まだ。退院してないんだから。その障がい者を抱えてる。しかし、僕たちがいたところは、そこを卒業して床ずれもなく、生活そのものをしてるところだから、そこにスポーツを持ってこないと、やる場がどこにも日本になかったのよ。

聞き手A:病院じゃまだ固定してないからね。

近藤:そうそう。

聞き手A:そういうことなんですね。

近藤:ところが、パラリンピックに本当に人がいなかったから、病院からまで(?)借りだしたの(?)。

聞き手A:61年とかそのくらいになって、出会うわけなんですね。

近藤:うん。施設にバスケットボール持ってきて、これで球遊びしといてくれと。

聞き手A:(笑)

近藤:あとからルールは持ってくるからって言われたけど、ルールがこなくてね。

聞き手A:(笑)

近藤:で、先生、まだですかって言ったら、英文できてるからまだ翻訳できてないんだよ、言われてから、本当にぎりぎりにきた。

聞き手A:(笑)。それまでスポーツなんてやってないからね。

近藤:いや、スポーツやってた。

聞き手A:やってたんですか。

近藤:県体があるじゃん。大分県の県体は日本で一番早いから。そこに中村先生、確かにいたけれども、中村先生が県体などに出てきてたかどうかっていうのは、意識のないぐらい、中村先生とのつき合いがなかった。

聞き手A:そうなんだ。

近藤:うん。だから、その施設に出てきた先生も、パラリンピックを持ってきた先生だったから。

聞き手A:で、パラリンピックで目が開けたというか、全く違う世界を経験して。

近藤:違う違う。こんなはずはないこんなはずはないと思いながら、産まれて初めて飛行機にも乗ったし。それから、車椅子も乗れるリュートバス(?)にも乗ったし、

聞き手A:夢見てるような感じですか。

近藤:そのバスに乗って、羽田から選手村まで首都高をパトカーがウーって鳴らして先導して突っ走っていったし。そんな体験っていうのは、田舎ではないじゃない。えー?ここは東京かよっていうようなもんじゃない(笑)。

聞き手A:(笑)

近藤:だから、本当にスポーツだけじゃなく、すべてのことに敏感になって、驚きの体験の塊だったね、ずっと。

聞き手A:で、パラリンピックが終わって戻ってきて、タッパーウェアに行くときは、

近藤:そのとき、僕の体験は、中村先生をとおしてパラリンピックを知ったでしょ。だから、もう僕たちはおやじ、おやじっていうような先生だったから。で、近藤、おまえどうするんだと言われたわけ、先生から。まだこの施設にいるはずじゃないだろうけど、どうしようと思ってるんだって言うけども、いくところがないじゃない、僕にとっては。だから、そう言われても全然いくところないんですよってなるわけ。先生、お願いしますよって、こうなるわけ。そしたら、自分のところにも、アメリカ系の企業の求人と、それから、自分も障がい者が主体的に運営する作業所、工場を作りたいと思って。

聞き手A:それが太陽の家なんですね。

近藤:そう。だから、そのどちらに来てもいいと。だから、どちらを選べるかって(?)言ったけど、経験がないじゃない、外で働くという。だから、先生にお任せするって言ったわけ。そしたら、俺んとこ帰ってくるのはいつでも帰ってきてもいいから、貴重な経験ができるだろうから、アメリカ系のそこの試験受けてみるかというので、試験を受けた。

聞き手A:それは、

近藤:タッパーウェア。

聞き手A:10人ぐらいっていうふうにね。

近藤:タッパーで雇われたのは10人だけども、僕たちの地域で5、6人じゃなかったかな。で、あとは横浜とかだっていたもん。横浜とか長野とか名古屋とかからも、10人の中入ってきてたからね。で、どこだったんだろうね。どっかの体育館で、どれだけスポーツができるかを、

聞き手A:(笑)

近藤:みんな集めてやったんですよ。いわゆる(?)、

聞き手A:スポーツテストみたいな感じですか。

近藤:ん?

聞き手A:スポーツテストっていうか、

近藤:そう。そんなんもやったの。そしたら、みんなやっぱりすごい優秀なのがいてね。いた。僕など、その中では雇われるほうじゃなかったの。10番目だなんて到底だめだったから。

聞き手A:何人ぐらい来てたんですか。

近藤:どのくらいだろうね。僕たちんところには、それこそ15、6人だろうと思う。ところが、ほかんとこでも、今言ったように、名古屋とか横浜とか長野とかいうようなところに行っても、求人募集かけてるから。

女性C:お兄さんは、それはどこで試験が会ったの?

近藤:施設のすぐに下にあった中学校の体育館。

女性C:そこへダートさんも来たの?

近藤:そのときはダートさん来なかったんです(?)。あとで寮の管理人になった、ナカヤマか何かいう、眼鏡をかけた背の高い人が采配を振るってたのを思い出した。ダートさんはそこに来ない。

女性C:だけど、コンちゃんを選んだのは、どうしてだって聞いたら、あれでしょ。

近藤:それはもっとあとのこと。

女性C:でも、面接の場にいないのに、面白いってわかったのか(?)。

近藤:中村先生が推してる(?)、中村先生が。だから、本当は中村先生が任されるようになってたって、あとから聞いたのね、人生は。で、ダートは社長だから、会うことはあっても、ダートと会うときには全部決まってたの。で、資料(?)がダートにもちろんいたらしい。で、そのときの話が、今、ケイ(?)ちゃんが言ったとおりだ。で、それだけ僕はほかの人と違ったのは、体力は抜群だったの。だって、手が短くって手が小さくって背が低いんだ、バスケットに合うはずじゃない、どっこも。だから、遊ばれたもん、みんなから。稽古するときには、リングあるでしょ。で、ここ線へ引くでしょ。その線より1メートル前にもう一つ線を引いて、その1メートルLラインが僕がいれるところ。みんなは普通のところ。それで、僕がみんなと勝負して買ったら、僕はチョコレート買ってもらえる。

聞き手A:(笑)

近藤:で、みんなが買ったら、たばこを買ってやる、というように、本当に遊ばれたの。

聞き手A:でも、選手として出たんですよね。

近藤:うん。選手として出たけども、選手としてよりも、タッパーウェアが僕を選んだ一番は、10人の中の調和というところで、僕は果たす役割が大きかったって言われた。それと、ここまでちびでも、やれば、こういうやり方を使ったら出番があるんだということを、みんなに知ってもらう。それは、みんな上の人間が出るじゃない?一番***もっと。そしたら、そのうちバスケットは体力使うから、落ちてくるじゃない。僕はみんなと一緒に出ても(?)落ちないのよ。だから、みんなの落ちるのと僕が落ちないのと***って、ここで交差しちゃうわけよ。これからは僕も皆と一緒やと、いいところいくわけよ。だから、卓球のようにばしんと打って1点っていうんじゃなくて、バスケットは長いじゃない、時間が。だから、体力は一番最後に物を言う。そこに僕のようなのは使い道があったんだって(笑)。

聞き手A:(笑)

近藤:そういうように、僕の役割っていうの、本当に最初から決められてたね。

聞き手A:(笑)

近藤:何で(?)、あれは中村先生としか思えないんだけど、タッパーウェアにもう入ってた。だから、寮に入ったときも、みんな2人部屋から3人部屋なの。だのに、僕だけ個室なのよ。

聞き手A:(笑)、何で?

近藤:ね。ほんで、それをどう取るかなのよ。そしたら、

女性C:***さん。

女性E:大丈夫です(?)。

近藤:みんなの、僕の仲間たち、コンちゃん1人でいいよねって言って、

聞き手A:1人でいいよね?

近藤:いいよね、ねって。ほんで、またダートさんとか***たちも全部、じゃあ近藤さんここねって言ったら終わった(?)。

聞き手A:(笑)

近藤:そういう。だから、変わった普通の社員ではない扱い方された。だから、最初からそういう、バスケットをやるんだけれども、バスケットに強いからみんなを集めたんじゃなくて、バスケットってのはチームプレイだから、だからみんなを、競う中には、マスコットもあっていいじゃないかと。で、それを本人がいじめられ役だと取るんなら、そんな考え方じゃだめだけども、喜んでその役を受けるのなら、それは大きな役割があるんだというのが、最初からだった。だから、待遇から何から、10人が一律ではなかった。でも、生活保護を受けてたのは僕だけ。

聞き手A:ほかの人はご家族がいて、

近藤:家族がいたり。だって、車を持ってたのがいたぐらいだから。スバル・360。

一同:(笑)

近藤:免許取ってあれを持ってきてたよ、横浜のウチダくんっていう。

女性E:それ金持ちだったわけ?

近藤:金持ちよ。ほんで、バスケットもセンスがいい。だから、その中に異色の僕が入っていったわけよ。

聞き手A:(笑)

近藤:だから、それは僕が自分で異色になろうとは思ってなかったけども、僕の中にあるものを見つけてやってくれたのね。だから、***作り(?)なら最も、誰もそんな事考えてないし。

聞き手A:(笑)

近藤:僕はその人たちにも、人にも言ったこともない。そういうことが進んでいくわけ。

聞き手A:で、その10人の人が、そうやって選べれてチーム作って練習してってやって、次のパラリンピックまでやろうとかいう話ではなかったんですね。

近藤:ならない。到底ならない。

聞き手A:何か強化チーム作ってね。

近藤:今の、だって全国にチームがないんだもん。

女性E:そうだよね。お金もないしね。

近藤:だから、タッパーウェアが終わったら、最初にできたのがスポーツ愛好クラブでしょ。

女性E:え?スポタイコウクラブ?

女性C:スポーツ愛好クラブ。

近藤:東京スポーツ愛好クラブという、車椅子のバスケットチームのクラブチームよ。それは、東京とそれから相模原、その辺の関東の障がい者が集まって、クラブチームを作って、スポーツ愛好クラブっていうのを作ったの。それが、最初のクラブチームです。

女性E:それができただけでもすごい。

聞き手A:こういうクラブチームみたいなのは、やっぱり運営してくお金とかっていうのは、寄付とかですか。

近藤:全然。それが、この前、そのとき僕たちのあれを見てびっくりしたって言った元気な人に会ったけど、僕たちは自分たちで自分たちのスポーツをやるのに、何でお金が要るんだっていうぐらい。だって、広げないと、今から作っていかないといけないのに、作る***いけないのに、どこでお金もらおうかじゃなく、自分たちで全部、弁当持ちから(?)。その代わり、体育館の貸してもらうところ探すのは大変だった。

聞き手A:そりゃそうでしょうね。

近藤:車椅子の跡がつくでしょ、コートに。で、どっこもなくって、川口の新しい体育館が貸していいよ、うちは段差もないしって言って、川口で僕たちはバスケット練習してた。で、そのうちに、いや、あんまり遠いから、やっぱり東京の中で探そうよ、コンちゃん探せよとか言われて、僕は探し役になるの。それで、都庁に行って交渉する中で、新宿なら使っていいよって言われたわけ、新宿の体育館。で、ありがとうございます言うて行ってみたら、入り口に2段か3段大きなコンクリートの段差があったわけ。で、今度はそれを取ってもらわないと使えないわけよ。だから、許可をくれるだけじゃだめなのよ。で、それまで、その頃の段差を取るっていうのは、ものすごく大きな抵抗があったのね。だから、東京都にかけ合って、取っていいか、取っていいかと、お金はかけるから取っていいという許可をくれ言うたら、そしたら(?)新宿区が逆に今度は、段差を取っていいという許可をくれなかったのね。で、そういうことをやってるうちに、僕はまちづくり運動をやっているというように取られていたのよ。つまり、段差解消でしょ。だから、近藤が障がい者のまちづくり運動をやってると。で、ちょうどその頃、まちづくりのことを国が取り上げて、福祉モデル都市第1号に仙台を挙げるわけよ。そしたら、朝日の厚生文化事業団が、全国で細々ながらまちづくりというものをやっている、エレベーターに乗してくれとか、バスに乗してくれとか、段差を取ってくれとかいうのを運動してるという障がい者を集めて、仙台に行こうという。

聞き手A:仙台に?

近藤:第一号の福祉モデル都市を見に行こうと。

聞き手A:まちづくり、

近藤:そこには、車椅子用トイレもあるし、だから、車道と歩道の段差の切り替えもできてる、それが日本で初めてだったから。それのモデル都市が仙台だったから、それを見に行こうというんで、朝日の厚生文化事業団が各地で運動している障がい者団体、当事者を集めて仙台に集めたんです。それが、車椅子市民集会の第1回で、それから15回っていうから、30年続くわけ。

聞き手A:すごい。

近藤:それは僕の中にある(?)。車椅子市民集会という組織。

聞き手A:仙台のね。

近藤:うん。それから、僕たちは車椅子市民集会を、朝日新聞は1回だけのつもりだったのよ。ところが、そこでけんけんがくがくやったもんだから、どうして、2回目からは僕たちは自分たちで運営して、自分たちで集まろうと言い出して。そしたら、朝日新聞、あとへ引けなくなっちゃったのね。

女性E:(笑)

聞き手A:(笑)

近藤:だから、じゃあ2回目も、わかったよって言ってお金出してくれた。***これから2年ごとにやろう言うて、15回続いて、30年になっちゃったわけ。それが、今度は自立生活運動にまたつながる(?)、歴史的に。

女性E:で、カドタさんたちが熱心にやり始めたんだよね、途中から。

聞き手A:そうなんだ。

近藤:そう。カドタさんたちが出てきたのは、市民集会のあとのほうね。

聞き手A:カドタさんは市民集会でつながってるの?

近藤:そう。

聞き手A:じゃあ、IL運動の前っていうか。

近藤:前。まだILの、

女性E:前っていうか、でもJILとかあったよ。

近藤:ない。

聞き手A:いや、

女性E:いや、最初はなかったのか。

聞き手A:今、話してた頃はないか。

近藤:じゃないよ(?)。僕の年代見たらわかる(?)。

女性E:でも、あったよね。

女性C:いやいや、メインストリームは、JILに加盟する団体になったのは、車椅子市民集会が西宮で開かれて、そのときに介助料を取って、介助サービスしますっていうのを始めて、それで彼らは組織化ができて、JILの会になったと思うよ。

女性E:それで、地震で、

女性C:その前はだから、なかったと思います。

女性E:JILはあった。

女性C:うん。

近藤:あれが出てないね。そしたら、僕のパソコンの中にあるから、1回がどこで15回がどこというのが全部書いたんがある。

聞き手A:すごい。

近藤:それを見たら、運動の流れがわかる。

聞き手A:わかりました。

近藤:沖縄でもやったかな。2年に1回やるのね、***。そしたら、***沖縄でやる言うたら、ここから沖縄に行くまでどれだけ公共交通機関に乗るのに危ない思いをしたか、怖いを思いをしたかということを、行った現場で皆が体験を発表するわけ(?)。だから、みんなが言えるわけね、体験してここまで来てるから。そうやって、当事者生活を拡大していくのよ。

聞き手A:当事者性っていうのは、やっぱりそうやって環境との中で育てていくというか。

近藤:そう。当事者性ね。

聞き手A:育っていくんですね。

近藤:それでないと、人が代弁ばっかりするわけよ、親がとか。代弁することによって、障がい者問題をそれまでやってきたわけ。で、障がい者の声っていうけど、それは親の声であったり、親の希望であったりするのが、障がい者の声になってるわけ。つまり、そうじゃなくて、そうやって作り上げた当事者の声こそ、生の声であって、親の声とは全然違う意見で生まれてくるのね。そんな話がまたのときに(?)流れてきます。

聞き手A:じゃあその、

近藤:だから、沖縄に行くときなんて飛行機しか行けないじゃない。

聞き手A:そうですよね。

近藤:ところが、飛行機は入り口、搭乗口のところに車椅子1台ずつの席は取るけども(?)、あとは乗れないっていうのに、八十何人、100人近い障がい者が行っちゃったわけよ。そしたら何て言う(?)(笑)?

聞き手A:船?

近藤:船は行かない。飛行機しか行けないって、だから。ほら、それを2年かけて、役所とも話し合い、国とも話し合って、障害者が2年後の何月何日には、このくらいの障がい者が沖縄に移動する。しかも、それは飛行機で移動するから、それを効率的に可能にしてくれという交渉から始めないと、できないわけよ(笑)。まちづくり言うても、そこまでやっちゃったわけよ。

聞き手A:すごいな。

近藤:すごいでしょ。

聞き手A:うん。80人、そうね(笑)。

近藤:しかも、障がい者が泊まるホテルが第一(?)ないじゃない。だから、2年のうちにどことどことどこのホテルをどう改造してもらって。ほんで、どうしても、それでもまだ余って足りないところは(?)、当事者のそこで生活している人たちの家族で受けようとかね(?)。でも、まちづくり運動だから、生活圏拡大運動って言ったの。生活圏を広げる。だから、道路の改善から、トイレの問題から、宿泊の問題から、交通費の問題から、仕事の問題から、皆かかって、その話を繰り返していくとき、女性障がい者問題までいっちゃたわけ、人権問題ね。で、その延長線上に、あるときに自立生活を、いわゆ本当に重度の障がい者なのよ、車椅子だから。みんなが。だから、いわゆるまちづくり言っても、車椅子で歩けるまちづくりじゃないといけないわけ、運動では。これは大変だよ。

女性E:もう11時です。

近藤:でも、すっごいやりがいがあって。

聞き手A:(笑)

近藤:それをずっと見てきてるから、朝日は手を引けなくなったの。

聞き手A:朝日ね。じゃあ(笑)、そうか。やっぱりお金ないわけじゃないですもんね、朝日新聞は。

近藤:明日、車椅子市民集会の何年に始まって何年がどこで、次がどこでどこで言うて、15回書いたのがあるから、それでやります。

聞き手A:ありがとうございます。ちょっと今日はこれで終わりにして。


(音声終了 01:11:14)


*作成:中井 良平
UP:20200411 REV:
近藤秀夫  ◇ひぐち 恵子・樋口 恵子  ◇障害者運動|Disability Movement  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO
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