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杉本ひとみさん2014年記録

杉本ひとみさんへの2014年聞き取り.

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last update: 20210705


■私の生い立ちについて

 私は1958年7月15日生まれの現在56歳です。
 奈良県吉野郡野迫川村で生まれました。
 これまでの生い立ちについて書いていこうと思います。

 私は生まれて1ヶ月たってから、高熱を出してしまいました。その時の発熱が原因で脳性麻痺になり障害者となりました。私の家は、田舎だったから昔は障害児が生まれたら、あそこの家には方端がおると周りから言われていました。だから、両親は私を隠そうとしました。それからいっとき病院に検査の為、入院させられていました。色々な検査の後、五ヶ月後に退院しました。退院してからは色んな病院にかかりました。
 5歳くらいまで病院通いが続きました。その後私の兄弟が生まれました。

 7歳の時、小学校へ行きたかったけど、行かせてもらえませんでした。
 やがて、私の兄弟が学校へ入学しました。
 私は両親に何故私だけ学校に行けないのと言ったことがあります。両親からは、病気でみんなに迷惑がかかり恥ずかしいからと、行かせてもらえませんでした。
 暗い部屋で毎日生活していました。両親がよく私の事で喧嘩をしていました。
 母親が私を殺そうとしたこともあります。親子心中しようとしたことも何度かありました。
 私の家に児童相談所の人が来られて、親と私で話し合いをしました。
 私から、もう家にはいたくない、施設に入りたいと言いました。もうちょっと待っていたら新しい施設ができるから、施設の見学に行くようにしましょうかと言われました。お願いします。と言いました。
 家にいたら殺されるから、早く出たかったです。まだ施設がどんな所か知らなかったので、半分嬉しいような、悲しいような気持ちでした。
 そんななか、施設ができあがり、見学に行く事になりました。
 見学に行ってみると、まだベッドががら空きでした。
 その後、施設に入る為に、色々な手続きをしました。
 入る前に施設から言われた事があります。女の子だから、手術をして生理がこないようにしておいて下さいと言われました。経済的に厳しかったし、まだ年齢的に早かったので、手術はしませんでした。
 三ヶ月後、入所しました。一ヶ月間、中々馴染めませんでした。いつも家に帰りたいと、職員に言ってました。よく怒られていました。
 その後、新しい職員が入ってきました。その職員は優しくて、色々教えてくれたり、話を聞いてくれたりしました。
 三年後、施設の保母さんから勉強を教わっていたけど、中々覚えないので、暴力をふるわれていました。頭をスプーンでおもいきり叩かれたりもしました。
 それが、とても嫌で嫌でしかたありませんでした。食事介助では、ご飯の中に全てのおかずや薬を混ぜられ、口へいっぱい詰め込まれました。そして、お茶で流し込まれました。全然美味しくなかったです。食事の量は、体重が増えないように、少ししか食べさせてもらえませんでした。夜中にお腹が空いて空腹で眠れない日も度々ありました。それから、お茶もおトイレが近くなるからと、あまり飲ませてもらえませんでした。おやつは、毎日リンゴばかりでした。微熱がある時も、水分を摂らせてもらえず、体がだるかったです。そこの施設では部屋は男女混合で、ベッドはいろんな種類があり、私は子供だったので牢屋みたいなベッドがある事にビックリしました。髪型は、いつも刈り上げみたいな形にさせられました。着るものは、ジャージかスエットで下着はおばさんが履くようなものばかりでした。それと、お風呂も混合でした。それから、寝たっきりの子供が移動する時、タイヤの上に板を打ち付けて、その上に寝かせ、紐で引っぱっていました。オムツ交換も何も隠さずしていました。お客さんが来ても、平気で交換していました。私は何かおかしい事に気付きはじめました。
 その後、私と同じくらいの年の看護師が看護学校からアルバイトに来ました。色々話をしたり、一緒に歌を歌ったりしました。 
 やがて私が二十歳になり、本当は施設を出て行かなくてはならない年齢になりました。保護者が施設の職員に呼び出されました。継続しますか?他の大人の施設に行きますか?と聞かれました。今だったら空いてる施設がありますよと言われました。
 一度、見学と面接に行かれたらどうですか?と言われました。考えさせて下さいと言いました。施設の職員からあなたはここには合わないから、なるべく出て行くように言われました。そう言われたから、私なりに一ヶ月くらい悩みました。その後、見学と面接に行きました。年齢が様々で幅広くいろんな人達がいました。私はビックリしました。どうして、おじいちゃん、おばちゃんから若い人まで同じ施設に入っているのか分かりませんでした。
 私は断ろうかなと一ヶ月くらい迷いました。本当は家に帰りたかったけれど、家に帰ったら親から殺されると思い、よく考えました。
 結局、施設に入る事に決めました。
 新しい施設では、女性の障害者では私が一番若い障害者だと言われました。あんた、よくこんな施設に入って来たねと入所者の人に言われました。私が二十歳の終わり頃、好きな人ができました。でも、施設では恋愛とか結婚はできませんでした。今でもそうです。私は、それはおかしいと思います。
 結局、彼氏は施設から、追い出されました。私は、悲しかったです。暫く落ち込みました。その時、施設に学生ボランティアの松浦さん達が二ヶ月くらい泊まり込みで来ていました。それから私の考え方が少しずつ変わってきました。
 その後、新しい職員が入ってきた時、ビックリしました。
 前に学生ボランティアに来た松浦さんでした。なんかやろうと思ってる人だと私は感じました。毎日同じ生活が嫌になってきました。なんか問題をおこしてみたいなーと思うようになりました。その時、松浦さんから施設の中でなんかやらないかと声を掛けられました。施設の問題を演劇でやらないかとのことでした。15人位集まって意見を出し合い、話し合いをしました。その結果、演劇をやる事に決まりました。みんなで考えて台本を作りました。五ヶ月位かかりました。それから、一年位練習をしてクリスマス会や奈良の市民会館で披露しました。職員からは、大反発を受けました。
 昔の職員は、利用者から先生と呼ばれていました。先生と呼ばれると、とても嬉しそうにしていました。私は、おかしいと思っていました。ある女性職員から、おトイレ介助の時、私に向かって、ひとみさんは、結婚も出来ないし、子供も生む事が出来ないから、生理があっても迷惑と思わないですかと言われました。私はあなたも結婚して出産し、同じように生理があるじゃないのと思いました。私は隠れて一人で泣きました。それから、もうこんな施設には一生おりたくないと思うようになりました。松浦さんに相談に乗ってもらいました。一回どこかに遊びに行きたいと話をしました。昔は、外出する時、保護者か、兄弟か、親戚の付き添いが必要でした。嘘をついて、親戚と言って外出届けを出していました。私の最初の外出は大阪でした。友達に介護者を紹介してもらい、初めてバスや電車に乗りました。大阪の難波へ行きデパートの高島屋に初めて行きました。いろんな物が売ってあり驚きました。いろいろ買い物をしました。食べ物もいろいろある事を知りました。何を食べたら良いか分からなかったです。美味しそうな食べ物が沢山ありました。迷ってしまいました。何を食べたか覚えていませんがとても美味しかったです。あまりにも楽しくて一日があっという間に過ぎていきました。そこからは、問題を頻繁に起こすようになりました。
 施設の友達に奈良青い芝の会の松川さんがよく面会に来ていて、私にもよく声を掛けてくれました。松川さんから一度私の家に遊びに来ないかと言われました。それで、行ってみる事にしました。初めて人の家に行きました。私は松川さんが家族と暮らしていると思っていました。ところが松川さんは自立生活をしていました。私よりも重度な障害者だったから、ビックリしました。それでも一生懸命介護者を探して生きていく事を私に教えてくれました。
 いろんな人に出会い、私はこのままで良いのか悩むようになりました。少しずつ施設のあり方に疑問を感じていきました。外泊や外出が多くなり、施設の職員と喧嘩をする事が増えました。門限を破る事も多くなりました。怒られる事も増えてきました。そして、私の施設仲間からも、頻繁に外泊、外出の相談を受けるようになりました。外泊、外出の経験がある私は、その人達に介護者を紹介したり、アドバイスをしたりしました。その事で、私は園長から呼び出され、余計な事を他の利用者に教えないで下さい。迷惑です。と言われました。私は、ああ、そうですか。と、どうでもいいような返答をしました。その後、自分の施設に一生いるべきか、それとも社会に出てもまれるべきか、どちらか選ばなきゃならない時がきました。自立することに保護者はすごく反対していました。なんでこの子がこんな風に変わってしまったのか分からないと言って私は両親から怒られました。お願いだからおとなしく施設におりなさいと言われました。でも、自分の人生は自分で決めることだから、何も反対して欲しくないと私は言いました。しかし、両親は許してくれませんでした。私も諦めませんでした。最終的には、施設の指導員が、ここは、ひとみさんには向いてないから出て行って欲しいと両親に話をしました。
 両親がこんな風に育てた覚えはないとぼやいていました。とりあえず、三ヶ月間外泊っていう形で施設を出ました。その間にアパートを25件探しましたがなかなか難しいことでした。障害者は危ないからと断られる所がほとんどでした。二ヶ月かかってやっと住む所が決まりました。介護者が兄弟と嘘をついてくれて、一緒に住むという事にしてくれたので、借りることができました。敷金や家賃もその介護者が貸してくれました。生活用品を揃える為に介護者とお店に行きました。何を買ったらよいのかいまいち分からず、松川さんとか色んな人に聞きながら買い物をしました。あっという間に三ヶ月が過ぎ、もう一度家族と施設の人と私で話し合いをしました。家族からはお願いだから大人しく施設にいてと言われました。やっぱりなと私は思いました。もうアパートも契約してるのに、三ヶ月たてば施設にはいられません。家族が施設の人に頭を下げてお願いだから何とかできないですかと尋ねました。施設の人はもう本人が
 アパートを借りている事を両親が知らなかったとは思っていませんでした。ビックリしていました。飽きれて、嫌々ながら施設を出る手続きをして、出て行きました。その時、父親は怒った顔をしていました。それからすぐ、施設からアパートに引っ越しをしました。引っ越しをしてから、色々手続きとか、生活保護課との交渉に三ヶ月かかりました。お金を持っていたら、保護費がでなかったから、誰かの名前で口座を作って、手元のお金が百円しかないようにしました。家族にも調査が入りました。家族は、知りませんと答えていました。兄弟も同じように答えました。
 その後、四ヶ月かかって、やっと生活保護がおりました。
 そして、青い芝の活動や、介護者探し、大学に講演に行ったりとか、在宅訪問、施設訪問等をして色んな人と出会いました。自立生活をする中で、一番困ったのは、人間関係でした。介護に入る約束をしてたのに突然キャンセルされる事もあり、本当に困りました。一日中、介護者が来ない日もありました。一ヶ月に五回位、そんな日があり、その時は、一日、飲まず、食わずで、おトイレは、おまるを横に置いて、自分でしていました。慣れない生活で体調が崩れ、お腹の手術もしました。それでも、施設には戻りませんでした。病院に入院してる時、家族が来て、お願いだから施設に入って欲しいと言われて、私は頭にきて、もう帰って、来なくていいから、やかましいと両親に言いました。
 その後、退院して一時松川さんの家にお世話になっていました。一ヶ月ぐらいしてから自分のアパートに戻りました。やっと、体調が戻ってまた色んな活動を始めました。介護者と旅行にも行きました。きついこともあるけれど、楽しい事も沢山ありました。
 そんな自立生活の中で、私はある男性に恋をしました。その人は、健常者であり、介護者でした。私は、思いを告白しました。返事は、友達としてしか思えないという答えでした。この男性には健常者の彼女がいて、きっと私が障害者だから、一人の女性として見てもらえなかったんだと思います。男性からは、僕は一人息子なので、将来、両親を見なくてはならないと言われ、障害のある私には、それが出来ないと言われているのが伝わってきました。その事で、私は、ひどく傷つき落ち込みました。思い悩んで、駅のホームから車椅子ごと線路内に飛び込んでしまいました。その時の介護者は、その男性の彼女でした。顔は傷だらけになり、救急車で運ばれ、数日入院しました。顔を二カ所縫う大怪我でした。みんなビックリしていました。周りの人達は、理由が分からず本当に驚いていました。
 退院して、少しずつ元気を取り戻していきました。その後、元気になって、また、活動をやるようになってきました。私は初めて青い芝の全国大会に行きました。初めて色んな人に出会って、みんなから、色々学びました。もっと、自分の事を出さなきゃいけないなと思いました。考えさせられました。そして、奈良の青い芝の会の会長を引き受けてみようと思いました。他県の青い芝の人達からは、まだ早いと反発を受けました。よく分かってないから、ダメだと言われました。松川さんに相談をしました。松川さんは、じゃあ、もうちょっとしてからやって欲しいとの事でした。その代わり、夏のサマーキャンプを手伝って欲しいと頼まれました。
 初めは松川さんと一緒にキャンプのカンパ集めに回りました。キャンプの場所を下見にも行きました。私に出来るかなあと思いました。何も分からなかったから、きつかったです。一時、悩んで落ち込みました。キャンプは何とか成功しましたが、終わってから、暫く青い芝の活動をお休みしました。私の中で考えたいことが沢山あったからです。考える中で、私は、青い芝の会をやめようと思いました。それは、考え方が合わなかったからです。松川さんに相談しました。いっとき休んでいいから、ゆっくり考えて欲しいと言われました。半年ぐらい休みました。その後、悩んだ結果、復活する事にしました。あっちこっち活動に出かけました。青い芝の全国大会にも行きました。二回目は、だいぶみんなと話せるようになりました。やっと、奈良の青い芝の会の役員を引き受ける事になりました。あちこち行ったり、会議に参加したり、色んな県を回りました。松川さんから、青い芝の会のことを色々学びました。
 そんな中、松川さんから、この頃、福岡へ行く回数が増えてませんか?と聞かれました。そんな事無いです。と私は言いました。まだ時期が早かったから、本当の事が言えませんでしたが、実は、その頃、私には付き合っている人がいて、遠距離恋愛をしていました。三ヶ月間、色々、悩みました。もう、いよいよ、奈良青い芝の会の人達に隠せなくなりました。一度、みんなに集まって欲しいです。とお願いしました。みんなが集まる前に、松川さんだけに、話をしました。松川さんは、困った顔をしていました。付き合ってもかまわないけど、あと一年半はいてほしい、もう一度、ゆっくり考えてほしい、そして、まだ、みんなを集めるのは早いと言われました。遠距離恋愛は経済的にもきつく、考え悩むようになりました。六ヶ月間くらい悩み続けました。もう私もそんなに若くなかったので、このまま、独身でいるべきか、結婚をするべきか悩みました。でも、松川さんを裏切ることが出来なかったです。私は、松浦さんに相談しました。今まで色々あったから、自分で決めた方がいい、たとえみんなから反発を受けても、乗り越えるか、乗り越えないかは、自分次第ですと言われました。やはり、みんなから、大反発を受ける事となりました。みんな、とても怖かったです。
 私は、覚悟を決めました。色々言われても、自分で決めた事を貫く事にしました。周りから反対されましたが、本人同士の事だから、自分達で決めていかなきゃいけないと思いました。家族からも結婚を反対されました。相手の兄弟の義理のお兄さんの奥さんから、子供を作ったらダメとか、子供が出来たら歪んだ子に育つとか言われ、私の家族の事も調べられました。部落出身の人だから、籍には入れられないとも言われました。その為、八年間、籍を入れませんでした。それが、差別です。
 やっと、九年目になってから自分たちで籍を入れました。久留米に来てから、久留米弁を理解するのが難しかったです。それから、友達もできず寂しかったです。隠れて泣いた事もありました。奈良に帰りたいと思った事も何度もありました。やっと、慣れてきて、友達もできました。学生の介護者も増えてきました。十五年間、学生達が関わってきてくれましたが、最近の学生はあんまり来てくれなくなりました。障害者の意識も考え方も変わってきました。昔は、きつくても施設から自立をする人が多かったけれど、今は、きついことをやりたくない障害者が増えてきています。いくら施設が奇麗になっても、ずっと生温い生活のままでいいのかは、私は分かりません。施設で生活していたら、制限される事も多く限られた事しか出来ませんでした。だから、私は、施設を出たかったです。今まで施設から自立していった人は、今、施設で暮らす障害者を自立させる為に一回集まって話し合いをした方がいいと思います。




*作成:岩ア 弘泰
UP: 20210705 REV:
脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy) 青い芝の会 杉本 ひとみ 全文掲載
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