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宍戸監督に聞く

宍戸 大裕・立岩 真也 2019/12/21 於:立命館大学 朱雀キャンパス 308号室

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◇宍戸 大裕・立岩 真也 2019/12/21 「宍戸監督に聞く」(対談),於:立命館大学朱雀キャンパス
宍戸 大裕 ◇立岩 真也

◇立岩 真也 2019/12/21 「宍戸監督に聞く」
◇文字起こし:ココペリ121
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
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立岩:やーいい映画でした。宍戸さんが撮ったもひとつ前の『風は生きよという』もよくて、ちょっと宣伝文みたいなのも書かせていた`だいてますけど、これはなおよいでした。ここにいる大学院生なんかは知ってますけど、私あまりほめない人なんですけど、よいものはよいですよ。どういうふうによいのかはこれからだんだと、ですが、その前にちょっと自慢させてもらいます。
 私たち『生存学』って雑誌を作ってたんですよ。今生存学研究所って言っているところが始まった時に、媒体を作ろうってなって。この創刊号、本屋さんでこの号は売れちゃってほぼ入手しにくくなってますけれども、それ以降の9号までは一般書店でけっこう入手できるんですけどね、その創刊号のこの表紙の絵、ちょっと〔スクリーンでは〕写り悪いですけど、これ岡部亮佑さんの絵なんですよ。
雑誌『生存学』創刊号表紙
 どういう経緯だったかよく覚えてないんですけれども、10年前、これ2009年に出てるんですけど、ちょうど10年前にこの雑誌を創刊しようということになって、ほんでもって表紙どうしようかねって話になって、それでたぶん亮佑さんのお父さんの耕典(こうすけ)さん経由だったとは思うんですけれども、彼に絵を描いてもらってそれの表紙にしようっていうことが10年前にあって。知ってるっちゃ知ってた。そういう、絵も描く人で、そしてなんかちょっと野蛮なやつらしいみたいな。
 そういうことは聞いてたんですけど、実物には僕は実は会ったことがなくて、今日画面でですけども拝見というかな、見るのは初めてでした。ちなみに岡部耕典はこれ〔岡部頁〕ですけれども、亮佑さんのお父さんですけれども、僕よか5つ上なのかな。大学の先輩でもあるんですが、ちょうど彼の卒業の後に僕が入学がしたりなんで、大学の時は実は会ったことなくて。そのあとずっとして、障害学会とかそんな学会を一緒にやることになってそれ以来の付き合いです。もう一つどうでもいいネタを言っとくとですね、僕は1985年から95年までの10年間、東京の三鷹っていう所にいたんですよ。亮佑さんも三鷹に住んでる?

宍戸:そうですね、住所でいうと武蔵野市というとこですね。

立岩:僕の記憶では岡部耕典さんは三鷹市上連雀4-2-1*ていう住所に住んでいて、僕は10年間三鷹市上連雀4-2-19というとこに住んでたんですよ。でも微妙にかぶってはいないんですけど、ごく近所で、井之頭病院っていう精神病院の横にあるとこなんですけれども、そこにいて妙に何かしら親しみがあるというか。でもなんか景色もさ、東京の武蔵野、三鷹あたりから概ね西のほう、でちょっと北のほうみたいなあのへんのエリアだよね。だからどうってことないけどちょっとうれしいね。

宍戸:西武池袋線とかちょっと地味な所ですね。中央線ではない。

立岩:中央線よりちょっと上ぐらいのとこですよね。

宍戸:そう、西の。



立岩:っていうんで少しひけらかしました。俺は知ってるんだぞみたいなことを言ってしまったんですけれども、そういうことです。その岡部亮佑も含めてというか、やっぱり役者だよね。

宍戸:そうですね、ひとりひとり。

立岩:登場人物が存在感あるっていうかありすぎるっていうか、役者としてただ映しても絵になるみたいな。

宍戸:そうです。

立岩:そういうことを思いながら撮ってるでしょ?

宍戸:そうですね。やっぱり最初に出会った時に撮影する前に自己紹介で会いに行くんですけど、カメラをこれから撮らしてくださいって言って1日目挨拶して次からはカメラ回すんですけど、最初の日に会った時のインパクトっていうのは強烈で。それはあのタイプの人たちから発せられるものっていうのがあるなと思って。僕は人工呼吸器を使ってる当事者の『風は生きよという』という作品作った時には、しょっぱなから「わっ、来た」みたいな人ってあんまりいないんですよ。

立岩:そうだよね。

宍戸:ええ、ええ。

立岩:ちょっと見普通だよね。

宍戸:そうですね(笑)。『道草』に出てくる人たちはしょっぱなからこうグイッとわしづかみにされるような野蛮さ、激しさがあって、なんかそこにいつも惹かれます。

立岩:そのベタな話を続けて聞いてきますけど、僕らそういうんで10年前から岡部亮佑を知ってはいたが、それもよくよく考えてみるとなんでだったけなって今になってよくわかなんなくなるんだけれども、今回宍戸さんが撮った4人のこういう人たちは、あれはどういうつかまえ方っていうかさ、知り合い方っていうか、したのですか?

宍戸:登場する順番に出会っていったんですけど、最初に岡部耕典さん、お父さんから、息子たちの暮らしっていうのは、重度訪問介護を使っての知的障害の当事者が一人暮らしをするっていうことをいろんなとこで講演とか特に親の会とかで話をするんだけども、写真を加えて話をして、1時間何分て話をしてもだいたい親が特に信じてくれないと。「こういう暮らし方できるんだよ」って言っても信じてくれないんだ。それは「亮佑くんて障害軽いんでしょ」って言われたり、「岡部さんお金持ってるんでしょ、きっと」って、「だからできることやってんじゃないの」みたいな。「それはもう公費としてできるんだよ、誰でもどの地域でもできるんだよ」って話をしても信じてくれないと言うので、これはもう映像で見せるしかないと言って僕に映像製作、この映画の製作を依頼されたんですけどね。

立岩:耕典さんが直にというか、宍戸さんに映画撮ってくれって頼みに来たみたいな、そういう話なんですか?

宍戸:そうです、始まりは。

立岩:ほんで?

宍戸:じゃあちょっと会いたいって言って、最初は映画っていうよりも講演会とかで話した時に紹介する映像を撮ってほしいって言われて、10分と20分作ってほしいって言われたんですね。5、6回撮影をして亮佑くんの暮らしというのを10分と20分で作ったんですね。それを岡部さんが実際に講演とかで使い始めたら、実に反応がよかったと。「これはわかりやすい」「こんな暮らしできるんだ」っていうのを反応を受けて、これはやっぱり映画にしたいという話に二人で盛り上がって、でグッドライフを紹介してもらって撮影を始めたっていうことですね。

立岩:じゃあその10分、20分バージョンもあるわけだ。

宍戸:はい、『亮佑』っていう作品があります。観たことないですか?

立岩:ない(笑)。そういやそういうものを作る作ったという話は聞いたことありますが観たことはないんです。けど、やっぱり観て初めてわかるっていう。身体の人の介助ってある程度言われりゃわかるっていうか、こういうことするんだろうなとか、こういう形で介助者が介在するんだろうなってある程度想像できるし、まあまあ想像どおりですよ。だけど、あれはわかんないね。わかんないし、観てわかるし、こんな感じでやってるんだなっていうのと、こういうのがあればやっていけるんだろうなっていうのと。その漫才みたいなやり取り、あれ、これ観て役に立たせましょうとかでなくて、ただぼーっと見てても普通に面白いよね。

宍戸:(笑)けっこう演じてるんですよ、みんな。

立岩:うん、なんかそういう気配感じる。ちょっと自意識がある。

宍戸:亮佑くんのブランコ、冬のブランコとかも、寒かったんですぐやめちゃったんですけどリクエストしたらもう一回全力でやってくれたりとか。

立岩:けっこう高く上がってましたね。ブランコ上手じゃん、みたいなね。

宍戸:スケボーも実は介助者が亮佑くんに教えてもらって始めたっていう始まりで、一緒にスケボーしてたなかたりょうすけさんっていう長年の介助者が、亮佑くんがスケボーするのを見て「亮佑、教えてよ」って言ってスケボー始めたとか、けっこう多彩なんです、ひとりひとり。

立岩:ああいうのがほんとに。いや、僕らは字書いててて、それでも一生懸命やってるんですけど毎日ね。だけどこれは字は勝てないなっていうか、勝てる勝てないじゃなくて字で表せる世界じゃないんだろうなっていうのは思ったし。それでも字を書いていきますけどね。でも明らかに映像でやってっていけるっていうか、面白くなるっていう世界は確実にあって、それがっていうの思いましたね。
 で、絵と字の話っていうか言葉の話ですけど、ナレーション使ってないじゃないですか。それは、僕、どっかに出てるインタビュー一つチラッと見させてもらったんですよ。意図的にそうしたということもおっしゃっていたし。あれ絶対ナレーションないほうがいいですよね。それは最初からそう思ってたっていうか。

宍戸:そうですね。最初に亮佑くんとか宙夢くんと会い始めた時に、これナレーションないほうがいいなと思ったのが、本人たちが自分のことを説明しないので、そこに説明的なものを入れるのはちょっと難しいなと思ったし、たぶんだいぶ外れていくだろうなと思ったんで、ナレーションは外そうと思ったんです。

立岩:なんか聞きたくないと思うんですよ、あの映画にナレーション入っちゃうと。ちょっと耳を塞(ふさ)ぎたくなるみたいな、僕だけかもしんないけど、いや、けっこうみんなそうだと思うんですよ。なんだろな、言葉が負けるっていうか、言葉付けるとつまんなくなるっていうか。最低限のテロップっていうかあれは入ってますけど、あれは誰が入れたの? あの字幕っていうか。

宍戸:すいません、僕なんです。

立岩:ちょっと解説して、このぐらいやんなきゃやっぱ伝わんないかな的な?

宍戸:そうですね…。最低限っていうとこだったつもりなんですけど、あれ要らなかったですか?

立岩:いや、それちょっと。でもあのぐらい要るのかな、どうなのかなと思いながら観てましたけど、遠慮しながらやってるなっていうのは伝わりました。
 それと、なんか楽しい、楽しいっていうか嬉しかったんですよね。どういうことかっていうと、あそこのなかに出てくる人たちって僕けっこう30年ぐらいから知ってる人とか、けっこう何人も出てきて、「ああ、年取ったな」とか思いながら観てたんですけど、自立生活企画の益留さんとかね、何人もあそこのなかに出てくる人たちって顔見たことあるとか、会ったことあるとか話したことあるっていう人たちで、この30年っていうものを思った時に「ああ、あの人たちずっとこういうことやってきて、それが今こういう生活っていうかこういう絵を作ってんだな」っていうふうに、それを傍観してきた者として妙に誇りを持つっていうか、なんか讃えたくなるっていうか、それはすごい思ったんですよ。これってそうそうどこでも実現してるってことではない、日本のなかでもね。ただ、僕は世界のことなんか何も知りませんけど、そんなの世界中でそんなにああいう変なっていうか。だいたい30、40のおじさんたちが知的障害の本人の後ろ付いてって、ああでもないこうでもないって言いながら1日を過ごす。それで飯食ってるっていう姿ってなんか、僕はこういう調べたり書いたりする仕事してるから少しは知ってるっちゃ知ってますけど、そんなに世の中世界中にあんまりないんじゃないかっていう気がしてね、それはすごい誇らしい。
 あのおじさんたちは頑張るともなく頑張ってて、あんなことでってなんですけどちゃんと飯食ってるぞっていうね、その飯が食える仕掛けっていうのを日本の運動っていうのが30年、40年かけてね作ってきて、作っているっていうのが、「いいぞ、おじさんいいぞ」って。だけどもう一つ聞きますけど、ほぼほぼあれですよね、二人目の方のお母さん、ちょっとかっこいいお母さん以外はなんか男ばっかりですよね、この映画。

宍戸:よく言われますね。

立岩:あれなんなんですか?

宍戸:男性だけにしようとしたのは映画撮り始めた序盤に思ったんですけど、女性の、それこそ今日話される京都の方も事前に取材をさせてもらったんです、1日だけですけど。そん時に女性同士のやり取りとかを当然同性介護なんで見るんですけど、女性同士のやり取り、そこに流れるものを、男性である僕が撮るのはちょっと難しいなと思ったんです。彼らは男性同士のやり取りっていうのはなんとなく、僕がいても違和感がなく、なんていうか脚色せずにやってくれる、ちょっと面白く脚色したりはしてくれるんですけど隠そうとせずにやってくれる。いきなり裸で卵のやり取りとかっていうのは、僕も撮影しながら、「これ、服着なくていいのかな」って正直思ったんです。お風呂のシーンとかもなんか別にカメラの前で全裸になって、「じゃあちょっと行ってきます」みたいな感じで、いやあ大丈夫なのかなとか、この人大丈夫かなとちょっと思ったりもしてたんですけど、でもこれ女性同士のそれは撮れないし、撮れない以上これ入れないほうがいいなと思って男性だけでまとめたっていう。

立岩:たぶんそういう諦めっていうかな、これは俺の番じゃないみたいな、ほか誰かやってくれっていう、そういう押しつけっていうか、自分はこっから逃げるぞみたいな、そういうことってたぶんけっこう大切で、それ頑張って撮るとなんかすごい中途半端なものとか、なんか苦しいっていうか、そういうものになっちゃうかもしんないから。あれはこの映画ほんとに男同士の映画ですよね。ちょっと気持ち悪いっていう気もしないでもないですけども、男のなんだろう、ねえ、やくざ映画って、なんかそういう男しか出てこない映画って昔いっぱいあったじゃないですか。高倉健さんとかさ、ああいう系列にちょっと。最後は二人で連れ添って殴り込みに行くじゃん。理不尽に耐えかね、二人行くわけですよ、高倉健と…、

宍戸:鶴田浩二と。

立岩:鶴田浩二と二人で、あるいは池部良と、こう行くわけですよ※。似てないですけどね。似てないですけど男二人が歩いてるっていうだけだったらそんな感じですよね。男同士の、男の友情の映画みたいなそんな感じもありますよね。
※eg.https://ja.wikipedia.org/wiki/昭和残侠伝シリーズ(1965〜1972)

宍戸:そうですね。あそこになんか、バランスを最初は考えてジェンダーバランスでやっぱ女性入れたほうがいいかなとうっすら頭をよぎったんですけど、たぶん変なことになるからやめようという。



立岩:それはこの映画に関しては賢明だったと思う。だからここいにいる誰か女性、女性じゃなくてもいいかもしんないけど、が今度はまた女の世界撮ればいいんだろうと思いますね。
 僕がチラッと予習っていうのでもないんだけど、このインタビューの前に見たそのインタビュー、もともと映像作家とかそういうのになりたかったわけじゃなくて、社会に何か伝えるっていうときに映像っていうのを使おうって、そういうので映像の世界に入ったっておっしゃってて、これは大変健全なことであると。映像作家を目指した映像作家なんてものにまあそんなろくなやつは、少なくとも数はいないので、そういう意味で言えば健全な人生を歩んで来られたんだなあと思って感心しているんですけれども。ちょっと私の前半みたいな、私の人生みたいな、半生みたいなのをちょっとやってもらえますかね。

宍戸:そうですね、僕、大学の時に、もともと環境問題が子どもの頃から言われてた頃で、地球温暖化がちょうど言われてた92年とか、リオデジャネイロで行われたサミットでしたかね、その頃に大人になってきた世代なので、動物のこととか環境のことを大学ではやりたいと思って政治家を目指したんですね。政治家になれば生き物の生息域を保護できるだろうと、今アマゾンが燃えてますけど、ああいうのを丸ごと守れるような政治家になりたいと思って大学入ったんですけど、どうも政治には向かないってことがすぐにわかってきて、性格的にも向かないし。

立岩:そういう学部に入ったんですか?

宍戸:学部は結局入れなくて、唯一入ったのが国文学だったんですよ。

立岩:そのへんからすでに挫折の人生が始まってる。

宍戸:そうなんです、その頃からすでに挫折してるんですけど。大学2年間ぐらいは全然行かなくて、最初の年は8単位ぐらいしか取れてなくてですね。でも大学っていうのは長く行くもんだっていうのを、親が全共闘の世代なので、みんなその当時の友人が家に集まると、7年いた、8年いたって言って。で、みんな出てないんですよね(笑)。中退してるっていう。それでもみんななんか偉そうしてて、そういうの見てたんで大学っていうのはとりあえず長く行くもんだと思って。3年目ぐらいにようやく国文学に関心持って勉強を始めたんですけど、けっこう楽しくて。今日〔の映画で〕もいろんな草とか花とかっていうのは、ちょっといろんな文学的な匂いもたぶん皆さん感じてもらえたと思うんですけど、そういう紆余曲折を。<br>
立岩:まあそうよね、鳥と花が出てきますよね。

宍戸:はい(笑)。

立岩:それ国文学の素養がなさせた業で。

宍戸:匂った。まあそれはいいんですけど。そんな学生時代だったんですけど、僕2006年、7年に卒業する頃にはもうすでに社会が経済っていうものを大事にする、けっこうしっかり大事にする時代になっていて。

立岩:82年生まれってさっき聞いたらおっしゃってましたよね。82年生まれで、今おっしゃってる時期が何年ぐらいだって?

宍戸:2007年ぐらいですね。

立岩:2007年…、25とか?

宍戸:そうですね。

立岩:そのぐらいですよね。

宍戸:大学の立て看とかも全部撤去されるような時期に重なっていて、僕もこれでも一応一般企業就職しようと思って、そこしか知らなかったのでいろいろ受けるんですけど、ことごとくもう一次で落とされるんですよ。ちょっと理由はわからないんですけど落とされて、これどうしようと、これじゃあ生きていけないな、この世界で居場所がないなって思ってた時に、2007年に参議院選挙があってキム・ジョンオクさん※て民主党から出馬された、車いすでDPI日本会議の職員をされていた方のお手伝いに僕は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/金政玉

立岩:キムさんこちらの研究所の客員研究員してくれてます。

宍戸:ああ、そうですか。

立岩:だからどうってことない、なんにもないんですけど。彼ずっと、兵庫の明石でしばらく勤めてたんだよね、ここ数年はね。そこも終わってまた次違う所に行って、この間そのお知らせのメールが来ましたけど。それでキムさん、

宍戸:キムさんの選挙のアルバイトを2ヶ月やったんですね。そこで初めて自立生活センター、運動と出会って、この人たち、全国の応援してくれる人をキムさんと回るんですけど、障害のある人たちが、この人たち働いてないのにご飯食べてるっていうことにけっこうびっくりして、働けない人はご飯食べていけないものだと僕は思ってたので。それ別に働いてないとご飯食べちゃいけないって意味じゃなくて、働かないと生きていけないと思ってたんですよ。そしたらみんな元気に運動をしながら、働いてないのに楽しそうだっていうのが衝撃で、ほっとしたんですね。この人たちが生きていけるんだから俺も生きていけるかもって。

立岩:就職試験で落ち続けてた、

宍戸:時に、

立岩:ぐらいの時にキム…、なんでキム・ジョンオクなんだ(笑)。どういうふうにそのキムさんのところからバイトしないか的な、話って…

宍戸:知り合いの市議会議員が多摩市にいてですね、キムさんのところでスタッフ募集してるっていうのを聞いて、「僕、なんかそれ楽しそうなんでやりたいです」って言って、その時応援してくれたのが3つ団体あって、自立生活センターと大韓民国民団、キムさん在日なので。もう一つは部落解放同盟だったんですよ。各地を回る時にいろんな差別とか抑圧受けている人たちが、自分の人生かけて訴えている姿にすごく共鳴して、こんなふうにみんな生きていけるんだなというか、ほんとに言いたいこと言っていいんだっていうのを教えてもらって、助けられたっていうか助かったっていう感じでしたね。

立岩:キムさん落ちちゃったけどね。票取れなかったよね、あれね。

宍戸:最下位でしたね。民主党がけっこう躍進した時で、参議院から20何人ぐらい当選したんですけど最下位。

立岩:なんとかなるんじゃないかなと、僕もちょっと甘い期待っていうか、

宍戸:入れてくれました?

立岩:そりゃあ、はい。

宍戸:ありがとうございます。

立岩:でもけっこう惨敗だったよね。こんなに難しいものなんだと思って。それからどうやったら勝てるのかな、みたいな。今年になって勝っちゃった人とか出てきましたけれども。何がその間起こったかっていうのありますけど、とにかく、それは全然初めて聞きました。やっぱ打ち合わせとかしないほうがいいですね。今初めて聞いて、ちょっと今びっくりしてるんですけど。映像作品を撮るのは…、2008年とかですよね、初めての作品って。

宍戸:そうですね。2007年に選挙があった時に、キムさんを撮影してる大阪のスタッフがいたんですね、ドキュメンタリーの監督なんですけど。僕もその頃いろんな環境活動とかを学生でやっててセミナーとか開くんですけど、なかなか人が集まらない。たくさん準備して何月何日って宣伝しても、その日雨降ったりすると人が来ないっていう状況だとすごく徒労感に襲われて、遠くの人まで長くに渡って伝えられる方法ってないかなと思った時に、ドキュメンタリーってそういえばDVDに作っちゃえば半永久的に使えるし、遠くの人まで送れるなと思ってドキュメンタリー作ってみようと思ったんですよ。

立岩:いや、いい心がけです。集会に人が来ない寂しさってさ、皆さんわかるかどうかわかりませんけど僕は非常にあって、ビラを渡そうとしてもビラを受け取ってもらえない寂しさ、メガホンとかで演説とかしても誰も聞いてない、教室に行ってビラまいても誰も取ってくんないみたいな、集会やっても誰も来ない、そういうのってほんとに寂しいよね。

宍戸:それを重ねてきましたね。なんかドキュメンタリー撮りたいなと思って、そのキムさん撮影している人に相談したら、「思いがあれば撮れるよ」って言われたんですよ。「ほんとですか」って僕けっこうすぐ信じちゃうんで、「ああ、じゃあやります」とか言ってカメラを知り合いから2万円ぐらいで古いやつを買ってですね、そっから撮影とかを始めて、東京の高尾山の自然開発の問題を撮影始めたっていうのが学生の頃の始まりですね。

立岩:おっきい工事をあそこでやるっていうのに反対している人たちっていうのがいて、その人たちのことを撮ったのが最初の作品ってことですよね。

宍戸:そうですね、はい。2年かけて撮影したんですけど、まあ作品はできて。上映活動せずに後輩たちに任せて、僕はまた宮城に帰って司法試験を2年受けて、弁護士になればいろんな運動に関われるなと。映像じゃ絶対飯は食っていけないと思って司法試験受けたんですけど、法律の素養など一つもなかったので、あえなく2年連続落ちて、そろそろ働かなきゃなと思ったのが20代後半ていう。

立岩:20代後半でだんだんなんか面白くなってきた。それで司法試験2回落ちて、

宍戸:もうどうしようかなと思って、その当時忌野清志郎も死んだりしてすごいショックが。

立岩:清志郎が死んだ年ぐらい?

宍戸:そうなんですよ。2009年じゃなかったですかね、5月に。いろんなショックが重なってどうしようと思った時に、でも働かなきゃと。気を取り直して東京で働こう、運動の仕事就こうと思って労働組合の専従とかを応募したり、あと平和運動の専従とかを応募したりしたんですけどことごとく落ちてですね、組合の人からは「あなた働いたことないですよね」って言われ、「働いたことない人に働く人の辛さとかたぶんわかんないと思うから」、

立岩:辛いこと言いますね。

宍戸:…ことで落ちて、でもどうしようかなと思った時に東京の福祉の仕事を調べられるサイトがあって、そこで皆さんご存知だと思いますけど山谷っていう日雇い労働者の街で、今福祉施設がけっこう大きくなっててですね、そこで半年間福祉の仕事に就くことになりました。

立岩:福祉の仕事ってどんなんですか?

宍戸:NPO法人ふるさとの会っていうんですけど、身寄りがなくなって、昔日雇い労働者だった人が行き場なくて、家族がいなくて、障害があったりして、そういう人たちがドヤを改装した場所で暮らしてるんですね。そこの十数人ぐらいの利用者さんの、僕は生活支援員ていう立場で訪問介護とか訪問看護とかの人が来た時に、「最近この人こんな感じですよ」って一緒に相談に乗るみたいな、家族の代わりみたいなことをする生活支援員ていう仕事をしてました。

立岩:それは清志郎が死んだ翌年ぐらいの、

宍戸:翌々年ぐらいでしたね。

立岩:だからどうってことはないんですけど、僕2010年に人間の条件』ていう本書いてて、その前書きには清志郎出てくるんです※。それから6年ぐらい頭おかしくてその入り口ぐらいで書いたんで変ですけど。
 それで生活支援員半年やってどうしたんですか?

※「簡単で別の世界、を歌えないなら、字を書く。
 二〇一〇年に二十歳になった子がいて、質問したら、RCサクセション・忌野清志郎といったあたりはあまり聞かないと言う。だから、中学生以上はどうぞ、というこのシリーズの本に書いてもだめかなとは思いつつ、書くのだが、この本を仕上げねばと仕事をしていた二〇一〇年の五月二日は清志郎(一九五一年生まれ)の一周忌の日で、FMで一日中彼の歌をやっていて、すくなくともそれから数日、はまってしまった。ユーチューブをそれまでほとんど使ったことのない私は、「スローバラード」(一九七六年)の各種ライブ版やらいくつかの種類のを、そして、それまで聞いたことのない曲やら含めて、ずっと聞きながら、この本の原稿をなんとか仕上げようとしてきたのだ。
 じつは彼のものをそう聞いてきたわけではない。むしろ「洋もの」を聞くことが多くて、それは原稿仕事をしながら音をかけているので、英語の歌詞だと頭に入らなくてよいという事情もあったように思う――おかげで、かどうなのか、英語を私は言語としてまるで認識できないようになってしまっている。そしてここ長くは「歌もの」を聞くことも少なかった。のだが、数日は「スローバラード」ばかり聞いていた。
 いくらあらためて感動したにしても、なんでこんなことをここに書いているかは、この本のVの4(95ページ〜)を読んでもらうと少しわかってもらえるかもしれない。この歌は、なにか新規なというよりは、ものすごく正統なコード進行とメロディーと、そしてものすごく短い歌詞の歌で、しかし、他の数あるまともな歌たちもまたそうであるように、あるいは歌でない様々なものたちもまたそうであるように、それだけでよいのだ、ほんとうは。
 でも私は字を書いている。なんで、そしてなにを書いてきたのか、書いているのか。この本では、他に書いてないこともいくらか混ぜながらそんなことを少し書いてみた。[…]」

宍戸:震災が起きたんですね、東日本大震災。

立岩:2011年。

宍戸:僕宮城県の仙台出身で地元は今名取市っていう所にあるんですけど、名取市、空港がある所で、最初にNHKが空港に波が来るところ空撮したんですけど、あそこ僕地元で。家は山沿いだったので被害なかったんですけど、とにかくショックでもう帰ろうと思って、その半年勤めた所を休職させてもらって、映像、またカメラを持って宮城に帰って。それからずっと映画を作る仕事を8年やってます。

立岩:そうか。もう司法試験だの、議員だの、そういうのは俺の道じゃないと。

宍戸:はい。



立岩:率直に聞きますけど、映像撮ってる人が暮らせてるってちょっとイメージが湧かないんですけど、ちゃんと飯は食えてるんですか?

宍戸:おかげさまで食べてます。

立岩:食べられるぐらい入るんですか?

宍戸:は、はい、入ります。でも立岩先生もけっこう本出してますけど、難しい本ばかりで、あれでも、

立岩:あれはだめです。それは生活の足しにはならないです。ほぼならないですね。

宍戸:今回立岩先生と対談だっていうんで、過去に読んだ本もう一度読み直してみようと思って、ちゃんと挫折せずにですね最後まで読んだんですよ。でもちょっと難しかったですね。『自閉症連続体の時代』とか、なんか読んだんですけどとても難しい。

立岩:すいません。ちょっと言葉がないです。…。
 …じゃあ今は映像1本で生きてるわけだ。

宍戸:はい。

立岩:すごいですね。

宍戸:時々介助をしたりしていて。

立岩:なんか海老原〔宏美〕さんの、

宍戸:そうですね、介助者。

立岩:それって、でも宮城県に住んでて、海老原さんってどういうことになってるんですか?

宍戸:海老原さんって『風は生きよという』って僕の前作に出てくれてる人なんですけど、東京に住んでいて、彼女は夜勤が時々いない時とかがあって、そういう時僕がたまたま東京にいれば。

立岩:夜勤のヘルパーの人がいない時に、たまたま宍戸さんが東京にいる時にみたいな?

宍戸:とかですね。

立岩:今でも、わりとどのぐらい?

宍戸:最近は少ないですけど、ここ2ヶ月は入ってないですけど、その前は月に2、3回は入ったりしてましたね。この話面白いですか?(笑) だんだん心配になってきたんですけど、静かになってきて。

立岩:僕は面白いんで。もう僕は勝手に今マイク持ってるので支配してますから。全然いいと思います。いや僕ね、だからその海老原さんのところで介助してるって言うから、そっちで飯食ってて、おまけで映像撮ってんのかと思ってね、ちょっと思ったんですけど、いやめでたいことにそれで食えてるなら何よりだと思いました。ほんでずっと映画を?

宍戸:そうですね、ずっと映画を。[00:29:59]

立岩:大まかに言うと、もともとの出発点、まあわかる気はするんですよ、80年代生まれの人で。僕60年なんですけど、60年生まれの奴は60年生まれなりの環境、公害とかね、そういうものが社会問題に関する出発点みたいに、僕だったら例えば水俣であるとかね、てのがあって。で宍戸さんの世代になると地球環境問題とかね、熱帯雨林とかね、そういう話になってきてって、それはその入り口はよくわかって。で一方でその高尾山か、山の話と環境問題系というかそっちの作品も続けられているのですか?

宍戸:そうですね。次はツキノワグマ撮りたいなと思ってます。

立岩:その話だけさっき〔インタビューの前の時間に〕したんですけど、うちの子どもが大学の時に熊研究会っていうサークルにずっといて部長みたいなのやってたんで、ツキノワグマの話は時々聞いたんですけど。それはどういう話?

宍戸:これも長くなるし熱くなるんですけど、でも皆さんあんまり関心ないんじゃないかなと思って。この話あんまりしないほうがいいんじゃないかな。

立岩:いや、したほうがいいと思う。

宍戸:したほうがいいですかね。立岩さんの本みたいに難しくなっちゃう。

立岩:簡単に言おう。

宍戸:簡単に。やっぱ子どもの頃に、15、6の時に、新聞に今と同じように熊が里に下りてきてしまって柿の木に登ってる写真が新聞に載ったんですよ。当時の河北新報、うち取ってるんですけど。そのキャプションに、里に下りてきた熊がこのあと射殺されたっていう簡単な一文があったんですけども、やっぱお腹を空かせて里に下りてきて、柿を取ろうとしていた時にそれで殺されてしまうっていうことにものすごい理不尽なものを感じて、今でも感じていてですね、なんかその、物言えぬだけに勝手に怖いとか危険とかされる存在って、今回の『道草』に出てくるような当事者もそうだと思うんですけどね。勝手に眼差しを向けられて危ない、排除しろっていうもの、そういうことに対するものすごい憤りとか、やり返してやるぞっていう思いがふつふつと沸いてくるんですね。だから僕はカメラ向ける時はいつも、言葉を奪われている側に立ってその人の言葉を巨大にしてやろうという思いでやってます。だから熊もこれから、今年5千頭以上殺されているみたいで、最近ではほんとに最も多い殺処分の年なんですけど。もうちょっとやり方があるだろうと。
 熊には熊の理由があるだろうって、亮佑には亮佑の理由があるだろうと思うんですよ。これ「今度熊撮ろうと思うんです」って亮佑くんのお母さん、聞いたら、「ああ、いいね。亮佑、熊だったんだ」。そのつながりがよくわかんないんですけど、でもたぶん直感でわかってくれた。

立岩:そうか、そうつなげましたか。なんだろうな、さっきも相模原のことチラッと出されましたけど、ああいうことがあって。ああいうことがあった時に、やっぱりもちろんやだな、もちろんていうかやだなと思った時何が言えるかというと、「決して私どもは、あるいは私どもの子どもたちは危ない人たちではございません」て言わなきゃいけないので言っちゃうわけじゃないですか。でも無茶苦茶危険だとは言いませんけど、やっぱりやばい時はやばい、やる時はやるっていうかそういう部分もあるじゃない。
 そうした時に、一方できれい、きれいっていうか大丈夫だって言い切っちゃうがために、なんかそれで止まっちゃうとかね。でもそんなの嘘だろうと思って、ある種の偽善だろみたいな話になって、やっぱりそういうものじゃないんだっていうとこで話が止まる。で、どっちも止まって終わりになるみたいな、終わりになるっていうか、そのまま話がつながんないっていうかな、そういう世界で僕らは生きている気がしてね。
 だけど、そういう時にそのリアルっていうか、明らかに悪いことをしそうだし、時々するし、迷惑だしめんどくさいし、なんか付き合ってらんねーよっていうか、そういう人たちの実相っていうかな、脚色も含み込みでしょうけど、それを撮るっていうことがね、実はそういうどん詰まりに行くんじゃなくて、実はそんなにハッピーじゃないけどまあいけるっていう、こうやってもいけるっていうのを実は伝えられるっていうことを伝えてるっていうとこが、なんだろ、いいなっていうかね、思ったわけで。
 なんだろ、僕はだいたいその、実際のとこ撮ると暗くなってそれで止まっちゃうって思ってしまうとこがあるんですよね。だけれども実際を撮るっていうことは実はそうじゃないっていうかな。ただ、そうじゃないにはいくつかの仕掛けがやっぱりあってね。
 あれが親と子の愛憎とかね、そういうものを撮る映画だとやっぱ絶対苦しくなっちゃうと思うんですよね。僕は観ませんね、そういうものは、辛くてっていうか。あれはおっちゃんたちが、もとは縁もゆかりもない人たちがいろんなつてで、自立生活企画やらグッドライフやらっていう。でもあの人たちも30年、それから練馬の派遣センター、あとで出てくる田中〔恵美子〕さんなんかもずっとそこに関わっている人ですけれども、そういう人たち、昔は若かった、今は完全におっちゃんになってるその人たちが作ってきた距離感みたいなもんですよね。で、この距離感でしかもこういう訳のわからないっていうか奴と付き合ってもそれで飯が食えるっていうね、かつかつ飯は食えていけるっていうことのなかで、なんていうかな、やばいことも起こるけどそれなりにやっていける場っていうか、時間っていうか、そういうものができてるっていうことなんだよね。
 だから偶然じゃないっていうか。仕立てられて、長年工夫してきて、その結果としてあれがあって、でもそれで問題が全て解決するかっていうとするわけじゃない。でもしないってことわかりながらやってるわけですよね。ぎりぎり、なんていうかな、やばいとこまで行かないぐらいのところで頑張っていろいろ工夫してみたりするっていうそういう立派さっていうかな、でもなんかちょっと美しいんですよね、て思いました、僕は。
 そういうものが撮れてる、だからある種の必然だと思うんですよ。あれが見てて苦しくならない、究極的にはね。時々バンバンバンってやったりして、映像に守られてるっていうのあると思うんだよね。あの3番目の人、中田祐一朗さんがこのへんにいてガンてやられたら、痛いし腹も立とうし、時々ほんとに命の危険みたいなも感じてしまうかもしれない。だからそういう意味で言えば映像に守られてる、スクリーンに遮断されてるっていうところはありつつ、でもそれだけじゃなくて、だから安全だってだけじゃなくて、そういう仕掛けができているものが見れるっていうある種の幸福さっていうかね。
 それで宍戸さん、あの映画どのぐらいの期間回してたっていうか。

宍戸:2年間。

立岩:どうでした? なかにはまあけっこうやばいとこも撮ってるけど、前チラッと見たインタビューではあんまりやばいとこはやっぱりそれ映像として残したり、上映したりしちゃいかんと思ってそこは取ったみたいなことおっしゃってると思うんだが、そういうことも含めてその彼らを、男たちですよね、男たちを撮ってた時の監督というか、カメラ回してる自分みたいなものってどうだったんですか?

宍戸:みんなタイプがそれぞれあるんですけど、亮佑くんと〔桑田〕宙夢くんはいつ行ってもだいたいなんか毎回面白いことを、新しいことが起きるっていう感じで。藤原さんって宙夢くんの介護者のター、ターって受けてた、あの人も劇団員だった人で30年のプロの劇団員だったので、その都度それなりに演出を加えながらいろんなこう見せてくれるんですよね。
 この二人だけでまとめたらちょっと本当らしくないなと思って、「今現在進行形のしんどい人を撮影させてほしいんだよな」っていうことを末永さんに相談したら、「一人います」ということで。で、紹介してもらったのが裕一朗くんだったんですね。裕一朗くんは最初僕が撮影に行く時に話を本人にして、「撮影したいんだけどいいですか?」つったら、小さい声で「いいです」とかって言って、で撮影始まったんですけど。とりうみさんっていう介助者といろんなとこに毎月1回ぐらい出かける時に撮影してたんですけど、何も起きないんですよ、別に。なんかトラブルとか全然なくて。「えっ、なんでこんなに練馬の人たちは恐れてるんだろう」みたいな、「何かをしでかすってほんとかな」っていうぐらいに、2回3回と撮影してて何も起きなくて、普通に帰ってきて。
 「これ、なんか警戒しすぎですよね」みたいな話してて、春に埼玉の芝桜を見に行った時にけっこうパニックになってですね、「あっ、こういうふうになるんだ」っていうのが驚いて、「帰らない」と言って壁とかを叩いてアピールしたりして、「おおっ」とびっくりしたんですね。その時に初めてなんかそういう行動でアピールする人と出会って。亮佑くんも宙夢くんもそういう姿は子どもの頃はあったらしいんですけど、今はほとんど僕の前では見ない、見せなくて。裕一朗くんのその姿を見た時に、ああ、こういうふうに調子崩れるんだなと思って。でも何度かこう暮らしのなかで撮影していくうちに、やっぱり付き合い続ければなんとかなるんじゃないかなっていうふうに思って。で、イメージとしては、練馬の人たちがグッドライフとか自立生活企画の支援を受け入れて、自分たちもやっぱり外に出て行こうみたいな動きになる。で、お互い学んでハッピーエンドになってくみたいなイメージで撮ってたんですけど、まあそうならなかったです。
 むしろ逆になってって、裕一朗くんは調子をどんどん崩していく、練馬の人たちもきつくなる。グッドライフ、自立生活企画が介助にどんどん入ってくるんですけど、そのなかでもスタッフが「ちょっと僕は無理です」っていう人が出てくるんですよ。で、どんどんどんどん裕一朗くんの状況はきつくなってきていて、一度入院をして、3ヶ月入院してまた戻ってきて、出かける時に初めての介助者の宮下さんっていう、グッドライフのなかでも最も危険な介護者と言われているそういう異名を持ってる人なんですけど、その人が初めての外出の時にガラス割っちゃうっていうシーンになるんですね。

立岩:取り合わせが初めてってこと?

宍戸:いや、僕も、

立岩:その宮下さんっていう介助者と彼の取り合わせは初めてで。

宍戸:初めて。

立岩:その介助者のあの人はどういうふうに危険なんですか?

宍戸:僕も聞いたんですよね、末永さんが最初にそれ言ったんで。ちょっとなんか苦笑いしながら、「宮下さんか」みたいな。「でもまあ彼ならなんとか」みたいな感じで言うんで、じゃあ撮影させてもらおうと思ったら、当日、あんなソフトな感じなんで何が危険なんだろうと思ったんですけど、だんだんわかってきたのが、とにかくなんでも本人がやるっていうことはやろうと。あの日もお花見に行く日だったんですね。まあちょっと4月だから花見しよう、弁当買って、「花見と言えば酒だな」って言って、「裕ちゃん、なんか飲む?」とかって言ってコンビニで、「はい、飲みます」って言ってコンビニのアサヒの、アサヒビール500のトール缶を指差して、「おう、いくねえ。じゃ俺もそれ」とか言ってビール飲んでたりしてね。

立岩:ああ。そこは出てこない、長いシーンですけど。

宍戸:ちょっとやばいなって思ったんでカットしてます。でもなんか飲んでるのに一人ぐらい気付いた人いますけどね、「あれビールですよね」みたいな。でもちゃんと見えないようにしてるんですよ、銘柄。あの日ビール飲んでた。ちょっとそれもあるんじゃないかなみたいなことは、あとで支援者の別の人から言われたんですけど。

立岩:それからその日、あとで割っちゃったんだ、ガラス。

宍戸:ええ。でもその時も宮下さんは平気で、「花見といったらビールだろう、酒だろう、ないなんておかしいだろう」みたいな。それがなんか確かにこの人は危険だって思っていたんですね。

立岩:それは聞かないとわかんないな、やっぱりな。

宍戸:そうですね。あの日ももっとすごく長い1日だったんですけど、ガラス割った後に通報されてパトカー4台来て、お巡りさん7人に囲まれて、埼玉県警の人が「どうしました?」って、けっこうガタイのいい人が駆けつけたんです。「障害があって」って言ったら、「あっ、わかりました」つって、すぐ「じゃあ示談にしましょう」っていう方向で、けっこう今度警察官が支援者のようになってくれて、「大丈夫だよ、裕一朗くん。ちょっと警察署で休んでいくか?」とか言って、「絶対やだ!」とか裕一朗くん叫んで、そういうやり取りおかしかったんですけど。そういうやり取りを経てあの日帰ってきたんですけど、お巡りさんも気遣って「ちょっと家まで送りましょうか?」って宮下さんに言ったんですよ。僕のその時「お願いします」って内心では言うと思ったんですけど、「大丈夫です」って言うんですよ、宮下さん。「自分たちで帰れますから、すぐ落ち着きますから」、全然落ち着かないんですよ。もう夕方4時ぐらいでしたけどね、帰ったの8時ぐらいで、特急電車でめっちゃ叫んでて、あの時乗せてもらえたらなって正直思ってたんですけど(笑)。危険だ、この人はほんとに危険だ。でもやっぱりグッドライフの支援者のなかでは、「裕一朗くんに誰が入ってるんですか?」ってお父さん聞かれる時に、「宮下さん、入ってるんです」って言ったら「じゃあ大丈夫ですね」って、「宮下さん入ってるなら大丈夫ですよ」って言われるらしいですけど(笑)。[00:45:16]

立岩:あの親父さんもなかなか面白いよね。

宍戸:そうなんですよ、シブいですよ、声も低くて。声がなかなか取れないんですよ。ピンマイク付けたほうがよかったかなってあとで思うぐらいに。新潟のお生まれの人です。

立岩:練馬で働くことになった、そのお父さん。

宍戸:そうですね。今、練馬辞めてグッドライフのほうに移籍されました。グッドライフって自立生活企画のほうかな。

立岩:うん、繰り返しっちゃ繰り返しだけど、そういうふうにいい歳のっていうか、途中でほかの仕事辞めたりとか。まああの世代だからやっぱ学生とか学生くずれっていうか運動くずれとかそういう連中も多いんですけど、その人たちが何十年やってきて、どれが一番いいっていうのはその都度その都度でしか決まらないけど、でも3つ4つがあってさ、1つだけだって立派っていうかすごいと思うけれども、いろんな歴史的経緯のあるところが、練馬じゃだめだから東久留米行ってグッドライフ行ったり、田無か、自立生活企画行ったりして、まあそれでなんとかなるようなならないようなっていう世界観っていうか世界みたいなのを作ってきたっていうこと、やっぱみんな単純に褒めようよって僕は思いました。最後出てきた尾野さん、やまゆり園のあれでしょ、家族会の会長さんみたいなのやってた親父さんだよね。

宍戸:はい。

立岩:たぶんあのやまゆり園の事件あった時に、家族がどうこうだからって家族会が責められるみたいに家族会は少なくとも思って、当初非常にこうそれに対する反発もあって硬かった部分もあるんだけど、お父さんの話僕どっかで聞いたことあるんだけど、だけどそのあといろいろあるなかでいろいろ考え変わってっていうそのプロセスみたいなものを伺うことができて、なるほどなるほどと思ったりしましたけれども。あのあと最後に出てくる家族たちっていうかは、あのあとどうなってるっていうか。

宍戸:今も自立生活を目指して、自立生活企画の介護者が週に一度一緒に両親と会いに行ってご飯食べたりしてます。このへんNHKのバリバラとかでも紹介されてるんですけど。その取り組みの先に、来年の春ぐらいをめどにアパート借りて自立生活しようということを目論んでますね。けっこう今神奈川県はそういうことに関してはお金をしっかり出すみたいで、ちゃんと担保してるということみたいですね。

立岩:あの時、やっぱりその施設、施設に入れる家族VSみたいなのになって、どっちも言い分あるわけじゃないですか。そこのなかでけっこう膠着してというか暗いっていうかそういうふうになって、これどうにもなんないのかなっていう気持ち…気分も周りで見てて知ったけど、でもああいう具体的な、うちの子どもがいろいろ話してたらああでこうでってなって生活が変わっていって、親父というか母親もそうですけど変わっていくみたいなことあったんだろうなっていうのも、そういうふうにして変わるっていうか動くっていうかそんなこと思いましたね。たぶんあの映像はあれでよくてっていうか、プラスなんか余計な。でも、それもそうだなあ、4時から8時の話をね、ほんとあるとね、番外編でもいいから観たかったですけどね。警察いっぱい出てきてみたいなね。いいなとは思いましたけど。
 一方で、そうやって話してもらって、撮ってもらったり。あえて話を戻しますけども、僕は誰も読まない字をなんで書いてるかっていうと、今何十年もやってきて今を作ってきた人たちっていうのが、どういう経緯でね、ああいう運動…、動きを立ち上げてきたのかっていう。最初身体の障害の人のほうがメインだったんでしょうけれども、それが知的の障害にも関わるようになってからずいぶん長いんですよ。というその動きっていうか流れっていうか背景っていうか、そういうものを一方では書いとく。それは読まないかもしんないけど、まあでもたまに読む人もいて、映像の方はいっぱいの人が観るから、普通にはそれだけ観てもらってればよくて。だけど根掘り葉掘りいうとねっていうか、その根っこにはこういうこともあんだよねっていうの、たまに学者が言うみたいな。そういうコラボレーションでなんかやっていけるといいのかなっていうふうに思いました。
 僕あんまり、そうなんですよ、褒めない、さっきも言いましたけど、みんな知ってると思いますけど。あの映像は監督がいいっていうだけじゃなくて、だけじゃなくってっていうか、いい。監督もいいんだよね、でもね、監督もいいわけですよね。いい作品だと思ってます。辛いとこもあるんだけど、まあなんとかなるときもあるみたいなね。ずっとまたそれがまた壊れるんだけれども、でも全面的にどよんっていうかどうしようもないんじゃない世界みたいなのが現にここにあるよみたいな。ここにあるっていうの、偶然とか奇跡とか立派なことってだけじゃなくて、やっぱ周到な仕掛けっていうかな、仕組みっていうか、そういうものがこうやって日本、ここの、日本ていう国のすくなくともある一地域でね、今回は関東でしたけれどもこれからまた京都なら京都の取り組みっていうかなあ、出てくると思いますけど、今ポツポツと、全面的にではないけれどもできてるっていうのは僕は心強いし、観てて美しいというか、嬉しい出来事であったように思いますっていうふうにまとめるとあと6分になり、誰かだよね、田中さんかな、ここにいる人を。でも宍戸さんなんか最後にちょっと宣伝も含めて。

宍戸:宣伝ですか、宣伝は特に別にないんですけど、そうですね、

立岩:料金システムを確認しよう。

宍戸:自主上映のですか。問い合わせはホームページを見てもらうことにして、そうですね。

立岩:何十人までが一人1,000円で、それ以上は500円になるように。

宍戸:そうそう、僕が、さっき尾野さんの話もしてくれたんですけど、尾野さんがこの暮らしに関心持ってくれたのって、きっかけは僕の前の作品『風は生きよという』っていう作品のチラシの表紙を見たことだったんですよ。そこに海老原さん写ってるんですけど、僕が喋ってた時に尾野さんからふと、「ところでこの人どうやって生活してるんですか?」って聞かれて、「行政からお金が出るヘルパーが来て、自分でこの人働いているので生活費は自分で出してるんですよ」って、その「ヘルパーってなんですか?」って。

立岩:親父さんがそれを、

宍戸:知らなかった。

立岩:知らなかった、へえー。

宍戸:権利条約とか差別解消法とかも、この事件以降いろんな人と出会うなかで知ったって言ってるんです。「ところでそれって知的障害のうちの息子みたいな人も使えるの?」って聞かれて、「使えますよ。それ、この間映像見たじゃないですか、あの亮佑くんの映像」って言ったら、「いや、亮佑くんだって障害軽いから」みたいな。全然信じてくれてなくて、「いやいや、あなたのお子さんよりは重いでしょ」みたいな、思ったんですけど。なんかそういうふうに初めてそこで知ったと。「じゃあうちの息子もやってみたい」って言ってくれたので、自立生活企画に訪ねるシーンになるんです。だから親が、施設に入れる親対地域みたいなぶつかり方ってすごくもったいなと思うことが多々あって、撮影とかしてたり。
 今回上映いろんな所でしてるんですけど、親の会の人たちがすごく上映してくれるんですけど、「介助者たち、すごい身なり、風体してますけど、あれ大丈夫なんですか?」みたいな。やっぱ親の会の人たちにとってはすごく新鮮な、「あの人たち、ちょっとうちの子には来てほしくないかも」みたいな。自立生活センター系の人にとっては別にあれ、ね、慣れてる人にとっては、

立岩:あの汚い感じがね。あれデフォルトですよね。

宍戸:(笑)落ち着きますよね。

立岩:落ち着くよね、ああいうTシャツ系がね。

宍戸:そこでこう異文化が今なんか混じり合ってて、親の会の人たちの文化も自立生活センターが受け止めながらなんか混じり合っていく感じが、今上映運動のなかで各地で起きていて、それはやっぱり中心になってるのは自立生活センターだったりするんですよね。各地で知らない所で、知的障害の重い人がこういう生活してますよって。この間も米子とか三重県の津とかで当事者のお母さんとかの話聞くと、最初に今一緒にやってるのは自立生活センターの人たちだっていうので、センターの人たちが各地で声をあげて一緒にこういう生活を親の会の人たち、昔は「親は敵だ」でしたけどだんだん仲間になっていっていて。ちょうど映画のなかでも末永さんが、尾野さんのお母さんが、「いや、私もみどり園ばっかり一生懸命やっていて、一矢(かずや)のことよく見てなかった」って言った時に、「いや、本人は本人で楽しんでたかもしれませんよ」ってひとこと言うじゃないですか。あのシーンいいなと思ったら、岡部さんがあとから「昔あんなこと言う人じゃなかったんだけど」って言ってて、「末永さんも丸くなったねー」とかって言ってたんですけど。

立岩:丸くなったなっていうのも思った。でもなんとなくそこを流れてる微妙な緊張感。母ちゃんちょっと浮いてるかもなって。そういうのはあって、まあ面白いし。大人ってまあいろいろなんでもやってると***(00:55:25)もできてしまうんですね。それはまあ、ありございます。はい。というような話をしてみました。じゃあ田中さんいいですか。

田中:はい。でももう時間になっちゃうのでいったん休憩しましょうか。じゃあ高さん、

高:今休憩入るんですか。

田中:うん。じゃあお願いします。

高:もっと聞きたいですけど今日は時間になりましたから、これから10分間の休憩に入りたいと思います。宍戸さんと立岩先生は今日終わるまではまだ会場にいらっしゃるので、また話す機会があると思います。はい、どうもありがとうございました。(拍手)[音声終了]


UP:20200105 REV:20200106
宍戸 大裕  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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