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瀬野喜代氏インタビュー

20191219 聞き手:立岩真也 於:京都市北山・ブリアン

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last update: 20200904


◇瀬野 喜代 i2019 インタビュー(本頁) 2019/12/19 聞き手:立岩真也 於:於:京都市北山・ブリアン
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
病者障害者運動史研究  ◇猪野 千代子(1936〜1999)
◇文字起こし:ココペリ121 20191219瀬野喜代氏_112分
※まだ作成途上の頁です。リンクの作成など(★)はこれからしていきます。


立岩:荒川区議会議員。20年だから5期ってことですか?

瀬野:5期です。

立岩:連続5期荒川区議会議員。〔資料いただく。〕ありがとうございます。これ、いただけるんですか? お返ししたらいいですか?

瀬野:いいです、いいです。私が持っててもしょうがないので。これをね、埋もれさすのがもったいなくて気になってたんですよ。これとこれも私が作ったチラシとかが、この前のパンフレットなんですけど、こういうのを取ってたりしたのがあって。これを埋もれさしていいのかっていうのがあったものですから。

立岩:よくないですね。

瀬野:それで2冊っていってるの、もう1冊のほうは私、党派だったんで作った、赤ヘルの。

立岩:赤いほうですか?

瀬野:ちっちゃい赤ヘルの。そこの党派の人たちがこの猪野千代子さんを最後は抱え込んだわけですよ。要するに人がいないから。猪野さんに要求されて、お前らやれっていう感じで。その内部の会議のレジュメばっかりなので見せてもいいですけど、あとでなんか他の人たちからなんか言われたら嫌だなと思って持ってこなかった。

立岩:それはお任せします。あればあったで嬉しいですけれども★。

瀬野:そうですか、持ってきてもいいですけど内部資料です。この介護者会議も私、「ほりぐち」っていう名前で出てくるんです。みんな偽名でやってたから。革命的警戒心が必要だからって(笑)。

立岩:猪野さんからは1回だけファックスいただいたことはあったんですよね。いつだったかな。昔のファックスだから感光紙のやつでだんだん薄くなって消えちゃう、だからなくなって。

瀬野:これ〔ビラ〕は私泊まり込んだ時、東京都の交通局に。

立岩:これはいつの6月ですかね?

瀬野:ここに書いてないですか?

立岩:ビラって年の特定が難しくって。

瀬野:そうですね。それは私の夫が書いたチラシです。京大中退で彼は経済、私は薬学部で。これがね、これも私が作ったんです。今はね他の人は持ってないかもしれないから、貴重かもしれないと思って。

立岩:貴重です。パンフレットはこれ〔障害者の足を奪い返す会・1じ会1976『私の生きざま』,11p.〕★はありますね。それから

瀬野:これを書いた時は介護保険料の特別加算、生活保護の。

立岩:生活保護の他人介護の特別加算ですよね。

瀬野:そのことで、確か153号通達かなんかが打ち切りになったのかな。中身覚えてない、そういうので、打ち切りで、闘争が長引いて泊まっちゃったんですよ。私介助してたので、一緒に泊まっちゃったんです。私のチラシはよく似たのがあったんだけど、家へ置いてきちゃったかな。

立岩:そもそもその、

瀬野:こういうふうに介助スケジュールを全部管理してたんです、私が調整して。今の介護保険ができる前ですからね。

立岩:そうですよね。

瀬野:「障害者の足を奪い返す会」っていうのが彼女の会の名前です。

立岩:そうですよね。

瀬野:都電に交渉して、東京都の交通局の労働組合と。

立岩:そもそも瀬野さん、なんで知ったんですか?

瀬野:私の党派が「三里塚闘争を支援する労働者の会」っていうんですよ。「京大労研」ともいうんですけど、「京大労働者問題研究会」かな。そこがオルグも入って、私なんかもオルグされて一緒に東京都荒川区を中心に活動してた。そこにいた人が、隣が北区じゃないですか、猪野さんは。すでに介助に入ってた人がいて、

立岩:同じ党派?

瀬野:党派で。それで私は紹介されて「行って」っていうので、行かされた感じ。

立岩:そういう感じ?

瀬野:そうそう、初めはね。

立岩:赤いって、赤いのっていろいろある。

瀬野:詳しいことわかりません、私。そういうのめんどくさいほうなんで。

立岩:大雑把に言って、赤い人たち〔ブント・共産同〕★の仲間、1人だった。

瀬野:そうです。京大は基本的に赤いですね。

立岩:関西は赤ですよね★。

瀬野:で、当時の全学連、Iってボスでした、私の時。

立岩:そうですか。

瀬野:あと、Uくん。


立岩:ああ、一橋に行った。U、Iがボスだった。

瀬野:そういう時代です。竹本処分★とかいって、なんかわかんないけど竹本処分っていうのがあったの。助手の人かなんかが処分されたのに反対して、私も時計台に泊まり込んで。京大の時計台に。
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹本信弘

立岩:いつ頃?

瀬野:75年入学ですよ。

立岩:75年に入学で、3年いて78年ぐらい?

瀬野:そうそう。

立岩:78年ぐらいに、

瀬野:75年入学で、6年、7年、8年、9年かなんかの年明けだから。

立岩:どっちやろ?

瀬野:1月。

立岩:9年の1月? 79年、

瀬野:5年、6年、

立岩:6、7、8でこれで丸3年ですよね。78年で、

瀬野:9年の1月。



立岩:79年の1月に京大中退して、それもオルグっていうか地域で? 三里塚?

瀬野:いえいえ。

立岩:でもなくて?

瀬野:じゃなくて労働現場に入ったんです、町工場に。

立岩:工場で、

瀬野:学歴詐称して。奈良女子大学文学部附属中学っていうの書けないから。

立岩:労働者になった?

瀬野:労働者になった。

立岩:何、何屋さんっていうか。

瀬野:一番初めやったのは「太陽毛芯」っていう、ミシンの。それで私、手話をね、毎日、毎日、手話のろうあ者がいたんですよ、働いてたから。

立岩:職場に?

瀬野:職場に。で教えてもらった。だから少し手話が。

立岩:そうか、ミシンやってる人だから、普通は喋らなくてもいいわけだ。そうするとろうあの人がけっこう、

瀬野:5、6人いました。

立岩:それは多いですね。

瀬野:それで毎日、同い年ぐらいですから、年が変わんないぐらいなので、お友達になって手話教えてもらいました。だからすごいよかったですね。今、すごい役立ちますね。今度私、子どもの居場所作ってるんですけど、手話教えるんです、子どもに。

立岩:労働運動やろう、みたいなそういう話なんですか? そこに入ったのは?

瀬野:そうそう。

立岩:何ミシン?

瀬野:「太陽毛芯」っていう、

立岩:生地?

瀬野:紳士服の背広の芯地。背広を作る中にカチッとこうするの、何重かに縫うんですよ、縫い合わせるんです、生地を。その会社に入ったの。

立岩:けじんってどういう字だろう?

瀬野:毛織の毛、毛と芯。

立岩:毛、芯。毛芯。そこの組合?

瀬野:いや組合ないとこですよ、ちっちゃいとこ。そこにまず入って、次にイワヤっていう、両方とも足立区の会社なんですけど、それは創業100年になるからけっこう古い会社ですけど、別に組合作ろうと思っても作れないじゃないですか。それはわかってるから、作らないけど、でも私、中卒の人っていうのが周りにいないっていう現実をおかしいと思って。普通だったらいてもいいんですよ。でも私の周りにはいない、奈良女の付属なんか出ちゃうと中卒の人いないじゃないですか。

立岩:ちなみに両方とも奈良女の附属なんですか?



瀬野:奈良女の附属。それで格差ってことに気がついたわけですよ。それより薬学部に入って反薬害運動っていうのに関わったので、まず、

立岩:その頃の薬害ってなんだ?

瀬野:スモンです。スモン、クロロキン。大学もその、夜会うって言ってた縮小社会研究会っていうの、京大安全センターの流れなんですね。そこで中心だった松下さんって人が工学部の教授で、もう辞められて名誉教授ですけど、その安全センターに出入りしてる中で、京都大学で住民の人が毒物を垂れ流すっていうんで、糾弾闘争があったんですよ。

立岩:京大が毒物を流したっていう。

瀬野:それ何学部か私よく覚えてないんですけど、それで私は、せっかくね、勉強して入った大学なのに、勉強はろくにしなかったけど、せっかくの大学がそういうことしてたんかっていうので、徐々に社会的なことを考えていく。中学・高校。

立岩:奈良女って中・高とあるんですか?

瀬野:そうそう。中学の時に高校がバリ封してましたけど、制服なくしたんです。そういう、一部そういう意識がある人はいたけど、私ら全然関係なかった。

立岩:もう終わってた感じ? 奈良女だから女性だけ?

瀬野:いやいや、男もいる。

立岩:男もいるんですか?

瀬野:奈良女子大学は女だけでしょう。文学部附属なんですけど、小中高で男女共学です。

立岩:小中高とあるんだ。

同席者:幼稚園も。

瀬野:幼稚園もある。

立岩:幼稚園もあるんだ。奈良女自体は1回行ったことありますけど、附属ってよくわからない。

瀬野:別のとこにあるの。公園の向こう側。

立岩:奈良の人とか関西の人はみんな知ってるんでしょうけど、僕は知らなかった。ああそうですか。

瀬野:奈良女って言うとみんな、ださいって、奈良女には行きたくない、絶対嫌だ。

同席者:東大寺学園とか近くの、

立岩:進学校としては東大寺学園とかか。

同席者:滑り止めっていうの、東大寺受けて、

瀬野:男の子だったらね、東大寺と奈良女と両方いく、どっちかって、

立岩:そういうもんなんですか。

(瀬野氏と同席者、奈良女の話)[00:11:05]-[00:11:31]

立岩:それでその薬害に戻しますと、そのいやいやいや、全然いいですけど、そのなんだ、

瀬野:安全センターでその毒物垂れ流しとかいうのがあって、そこから反医学会総会★とかがあった時代なんですよ。

立岩:ありましたね。

瀬野:そこで仙台に誘われて初めてデモして、そんな繋がりもあったりして。そこで反医学会総会の仙台にデモがあったんです。そこに行った時にスモンの被害者の人がいて、「なんだお前京大なのか。京大には井上幸重★っていうとんでもないやつがいるんだ」って言うので。ウイルス説。

立岩:そうね、スモンで東大系と京大系が、話が、

瀬野:あ、そうなんですか。

立岩:対立があったんですよ。京大はウイルスだって言ったんで、伝染病だって言われて、えらいスモンの人が迷惑したんですよ。

瀬野:そう、100人死んだって。朝日新聞にでかでかと出て、その張本人がおまえの大学にいるんだって糾弾されまして。それで「井上ウイルスを追及する会」っていうのを作ったんです。大学時代に、私と医学部の3人で。薬学部のみんなに声かけたんだけど、そんなことする人は誰もいなくて私だけだった。

立岩:何年生だったか覚えてます?

瀬野:それは1年か2年ですね。だって初めの頃ですから。

立岩:1年か、2年。入ってわりとすぐ?

瀬野:2年生の時じゃないですか。1年生の時はせいぜいクラス入りして、Uくんとかがクラス入りするのを、なんだこのお兄さんたちはと思って。

立岩:Uが教室入ってくるわけ?

瀬野:そうそう。

立岩:オルグっていうか、宣伝するために。

瀬野:こんなに髪が長い人でね、薬学部は女の子が多いんですよ。だからUくんしょっちゅう来てて、たぶん女の子狙いだと思うけど(笑)。そうそう、そういう大学ですよ。

立岩:反医学会総会行って、仙台行ってスモンの人になんやかんや言われて、

瀬野:京大でそういう実行委員会作って活動するってことになって、それと同時にあれはね、薬学部に2浪した先輩がいて、名古屋のほうの女の子で。その子と仲良くなったもんだから、勉強会やってたんです。φ(ファイ)AE研っていって。薬学部φと農学部と、φAE、Aが農業でしょう、Eが経済。

立岩:φ、A、E

瀬野:φAE研っていうんでおんなじ学年で勉強会をやってて、そのグループで私とそのEのもう1人が三四郎っていうんですけど、その党派にオルグされてっていうのが、その。私たち一緒に行くわけじゃないんだけど、なんだかんだって三里塚にはよく行ってたんですね。

立岩:京都にいた時から、三里塚まで行ってみたいなことがあったんですか?

瀬野:せいぜい中島公会堂に戸村一作★っていう委員長が来た時に行って、行くか行かないかとか、学生の時から行ってました。それで三里塚に行って、三里塚で木の根団ていうところ行ったんだけど、そこで人生考えたんです、援農しながら。それでやめたの。

立岩:3年生終わってやめたんですか?

瀬野:3年生の1月でやめた。

立岩:その3年のさっき言った、

瀬野:3年生の時は、実験は一応1回やりましたけど、薬学部の実験。ほとんどレポートもろくに出さずに、もうその頃は活動のほうが主でしたね、3年生になった時は。

立岩:78年の1月か。もうやめちゃって、東京出てきて、さっきおっしゃったその2つの工場ですか? で働き、

瀬野:それで区議会議員に誘われて、なって。

立岩:じゃあその職場っていうのは、2つ目の職場も合わせたら20年そこに、

瀬野:20年、ほぼ20年ぐらいですね、両方。

立岩:1個目はわかったんだけど、2個目の会社って。

瀬野:イワヤっていうのはおもちゃを作る会社なんですよ。イワヤ株式会社っていって動物のおもちゃ、ぬいぐるみでバンバンバンバン、あれはもうイワヤですよ。

立岩:ありましたね。岩の谷ですか?

瀬野:カタカナでイワヤ。

立岩:なんか数十年ぶりにそういうのあったなって思い出しました。そういうことなんだ。

瀬野:1枚、私の手書きの持ってこようと思ったけど忘れてきたみたい。いやいやいや、華麗なる経歴ですけど(笑)。

立岩:なかなか華麗ですね。

瀬野:なかなかでしょう。なかなかでしょう。今時いないですよ。

同席者:瀬野さんが行方不明だったって、ね、言って。

瀬野:そうそう行方不明。

同席者:大学を出て

立岩:高校まで一緒だったけど、彼女がどこ行ったかわからない。そこまではわかってるけど、いなくなったけどどこ行ったんだかわからない。

同席者:そうなの。でもまあ。確かね、その彼が

瀬野:別に彼がっていうんじゃなくて私が主体的に行ったんだよ。二人ともいなくなったの。

立岩:その方は長続きしたんですか?

瀬野:先注文しよ(笑)。ランチがいいよね。いっぱい食べよ。

(注文など)[00:17:42]-[00:19:43]

立岩:そうすると工場20年、議員20年、

瀬野:そうですね、

立岩:猪野さんに最初にそうやって関わり出したのは、工場勤めの、

瀬野:勤めの頃ですね。

立岩:何年目とか覚えてます? だいたい。

瀬野:2、3年。入ってすぐ、向こうに行ってすぐだったと思うんですよ。

立岩:わりとすぐだった?

瀬野:わりとすぐ。で、やめたのが、15年間やってやめたのが…、例えば22から、22じゃないか、23からやって38ぐらいですよ。

立岩:そのぐらいまでやってた。

瀬野:それか24かもしれないし。だから向こうに行ってすぐ始める、1年ぐらいしたら始めて、15年ぐらいやって、猪野さんと喧嘩して。なんで喧嘩したかっていうと、私に要求が強すぎるんですよ。もっと入れ、もっと入れって言うわけ、介助に。

立岩:でも働いてるわけですよね。

瀬野:そうですよ。仕事して夜中介助してそのまま次の日会社行くんだから。それを若いうちはやれるけど、もうこれ以上は無理っていうので、私はもう「猪野さん、私はもうやれない」っていうので、「それだったらもういい」って。

立岩:この38が、何年ぐらい経ってるんですかね?

瀬野:今63だから…、99年に議員になったんですよ。その5年後。その4、5年前。

立岩:99年、94年とかそのぐらい。94、猪野さんって亡くなられたのが?〔1999年〕

瀬野:もうちょっとあとですね。最後の私がお渡ししたこのパンフレットは、私は関わってないです。喧嘩したあとだから。『きのみ通信』の編集とかも全部私だったので、ほぼ。わりと最近のほうは。この字書いたのとか私、これは印刷だけど。そこにあったな。1つぐらい。あんまり『きのみ通信』が残ってなくて、あれなんですけど。猪野さんの『きのみ通信』の編集は私なんですよ、ほぼ最近のは。一番初めは交通局の人たちがやってたので、私は初め知らないですけど、途中から。『きのみ通信』、ないね、全然。残念ながら。

立岩:交通局っておっしゃいませんでした?

瀬野:東京都の交通局。

立岩:東京都の交通局に勤めてる人たち?

瀬野:労働組合が猪野さんを全面的に応援してた。東京都の交通局闘争やったんです。そんなかで、労働者の組合の中で、猪野さんの話を聞いたほうがいいっていう人たちが介助も含め、そういう「奪い返す会(障害者の足を奪い返す会)」の活動を担ったんです。

立岩:それは特に党派とかは、

瀬野:おんなじ党派です。だからそれでその関係で入ったんだ。同じ京大の彼は何学部だったかな。もう亡くなったんですけど、こないだ。その人が交通局に入ったんですね。

立岩:京大の先輩?

瀬野:先輩が。こもりさんっていうんですけど、新潟の人。新潟市の人は妻だ。彼は静岡の人だった。こもりさんが入って、交通局に入って、それで猪野さんと出会ったんです。それで介助っていうことが、党派として取り組むようになったんですよね。

立岩:交通局の労働者が特にっていうんじゃなくて、彼がたまたまというか、

瀬野:それほど、西田、私ら、なんだ、木の根団結小屋って言ったからなんて言うんだろう、三四郎っていうグループ。他にもかもいさんっていう人は西田、西田派★ってあるじゃないですか、赤ヘルの中で、そのグループ。あと解放派の女性もいたんで、そういう新左翼系はみんな労働組合だから何人もいますよね。その人たちは猪野さんの介助やってましたね。だから新左翼がみんな介助担ってましたね。

立岩:交通局の中にいる、どれか一つっていうんじゃなくて、

瀬野:新左翼系。全党派。

立岩:何種類かの党派の人がそういうのに関わった。

瀬野:府中療育センター★から出た時の人たちってやっぱりかなりそういう学生運動とか、そういう活動家レベルが多かったと思いますね。それはやっぱり親和性があるというか、繋がってたんじゃないですか。リブの人とか、ね、みんなそうですよね。新田勲さんが、立派な本が出てますよね。どなたが書いたのか。ねえ。私あれ見て、「こんなんなんだ」って思って。なんか新田さんは女好きだって、猪野さんは嫌ってましたよ(笑)。

立岩:良し悪しは別として、好き嫌いは別として、それはまあそうですよ。

瀬野:私の介助者を全部取っちゃうくらいかっこよかった(笑)。

立岩:ちょっと人たらしのとこがあるよね、確かに。

瀬野:そうみたいですね。うん。私が入った時はもうそういうことなかったけど、もっと初期の頃、猪野さんと新田さんが入った頃は、直後はいろいろあったみたい。

立岩:交通の交渉始めたの、彼女自身のこう、

瀬野:病院に行くのに都電拒否されたんですよ。それが始まりだと思うんですよ、私は。病院かどっかに行くのに拒否されて、それで交通局交渉始めたんだと思いますね。八柳さんって、

立岩:八柳〔卓史〕さん★って全障連の?

瀬野:そうそう、あの人は話聞いてるからたぶん覚えてると思いますよ。矢内さん、

立岩:矢内★さんもいましたね。

瀬野:矢内さんなんかお元気なんですか? 私長くお会いしてないですけど。

立岩:だと思いますよ。

瀬野:今は八柳さん、なんかの活動なさってますよね。これもだ、はい、どうぞ。もう1枚私、これに似てるんだけど、よく似てるのがあったはずなんだけど持ってこなかったかな。また探してみます。

立岩:ありがとうございます。でも働いてるわけじゃないですか。フルタイムで働いてるわけですよね。なおかつどのぐらいの感じで介護入って?

瀬野:週に1回。それがその表があるんですけど。

立岩:ローテーション表みたいなのありましたね。

瀬野:ローテーション表。だから週に1回とあとお風呂。ひどい時は週に1回、プラスそれにお風呂に入って、人手がいない時は。

立岩:1回行くのと別に風呂の介助に行った?

瀬野:うん、そうそう。夜だけ。

立岩:近くにお住まいだったんですか?

瀬野:自転車で30分ぐらい。

立岩:そこそこあるじゃないですか。

瀬野:北区ですからね。私荒川区でしょ。だからそんなに近いわけじゃない。だから北区で猪野さんち泊まってそのまま職場っていう、足立区の職場っていう。

立岩:泊まり介助ですか?

瀬野:泊まり介助。

立岩:仕事が終わってから行って、朝までいて?

瀬野:そうそう、7、8回は寝返りしましたよ。寝られなかった。寝られなかったから、さすがに35過ぎるともうやってられないわって。

立岩:そうだね。夜ずっと寝られてるんだったらあれだけどね。

瀬野:あとトイレ、尿瓶でトイレ含めて7、8回は起こされるから、もう地獄ですよ。

立岩:それはつらいですね。

瀬野:地獄、地獄。

立岩:夜は誰か1人がそうやって側についてる?

瀬野:24時間なんで、だから夜6時頃交代して次の日の朝まで、来るまでっていうので。誰かは必ずいる体制。

立岩:介助者は基本的に女性?

瀬野:もう全て女性、全て女性、介助は。でも介助休暇が、ていうのは猪野さんの考えなんですけど、介助休暇っていうのがないとやっていけないっていうのが彼女の結論だった。専従は拒否されて。自分の生活を支配されるから、専従っていうのは認められない。ということは働いてる人とか学生にやってもらうしかないっていうので、そうすると労働者は休暇がないと続かないです。だから彼女の要求は介護休暇を、

立岩:ここ〔北山・ブリアン〕はね、パンが無限に出てくるので、食べ続けると腹いっぱいになる。

瀬野:じゃあ一番高いの食べてないや。そこはどんどん食べる、なるほど。魅力的なお店ですね。

立岩:コーヒーもおかわりが出てくるので、それも腹ジャブジャブになるんですよ。けっこう、ここはまあまあ使うんです。

瀬野:いいじゃないですか。

立岩:院生の面談とか、あとメディアの人とか、そういうので使うんですけど。わりと混むので、

瀬野:隣と離れてるからいいじゃないですか。

立岩:わりとゆったり。

瀬野:東京なんかもうすぐ隣がね。

立岩:1週間に1日、夜から朝まで7、8回起こされて。それ以外の介助者っていうのは、その学生と労働者と両方?

瀬野:両方います。大学にもビラ撒きに行ったし、労働者のほうも介助者が学生で初めて労働者になってっていう例もある。

立岩:あの辺の近くだと大学生ってどこだ?

瀬野:家政大と、公園のすぐ側にもう一個あるんですよ、なんだっけ。あとお茶の水とかああいうとこ、ぽんじょ(日本女子大学)。

立岩:女性だとそうか。猪野さんて子宮摘出とかされて。それはなんか、彼女自身が語ったりすることってあったんですか?

瀬野:聞きましたけど、利光〔恵子〕さんて私友達なんですよ、大学時代の。

立岩:そうなんですか。

瀬野:関西薬害問題研究会のメンバーなんです。3つ上なんですけど。薬害ゼミナールでお世話になったお姉さまなんです。

立岩:今度利光さんに聞いてみよう。利光さんはうちで博士取られて。

瀬野:そうですよね、びっくりしちゃった。

立岩:僕、その研究所のやってるんですけど、そこの客員研究員とかしてくださって。

瀬野:今、忙しいじゃないですか、裁判の。

立岩:ほんとに忙しいですよ。

瀬野:だから私、50なってから大学行ってるっていうのは知ってたんで、何してたのかっていう(笑)。

立岩:博論自体は受精卵診断っていうか出生前診断の話で博論書いて、それは本になってますけど★、今は優生手術のことで。

瀬野:生む、生まないは女が決めるっていう、あの運動の時からずっとそれを考えてきたんですね、彼女は。だから利光さん、夫も知ってるんです。星薬科大学の学生だったから。でも今は顔覚えてないけど。

立岩:そういう話は聞いたことないなあ。灯台下暗しだね。関係者に聞くっていうのもいいな。今度利光さんにインタビューしてみようかな。彼女はもちろん、大学院生になる前からお名前は存じ上げてて知ってました。ある意味業界っていうか、運動の領域では有名人だった。「優生思想を問うネットワーク」っていう、関西では。東京のほうだと「阻止連」って、優生保護法改悪阻止闘争以来のあるんです。彼女が2003年だったっけな、大学院入るっていって、入試の書類でみて、え、って。えらい人か入ってくるんだなって感じでしたよ。

瀬野:いや昔からね、おとなしそうでね、声がきれいなの彼女。見た目がすごいおとなしそうだからね、そんなきついことしそうに全然ない。得ですよね、あれ。絶対得だと思います。

立岩:おとなしい感じですよね。

瀬野:で、鋭いの。私、在韓被爆者問題やってる市場淳子さんていう人も同級生なんですよ。だからそういうなんか、お友達が…一番の友達が優秀な2人なので、その医学部の、その友人関係には恵まれてるなと。

立岩:猪野さんですけど、書かれたものがあるので、それ読んでないもの今日いただいたので拝見しますけれども。自分でその手術のこととか語っ…、そもそもけっこう重い障害ですよね、脳性麻痺で。喋って?

瀬野:喋りますよ。喋るのが一番得意。手もだんだん最後は自分で食べることもできなくなった。で、ずっと歩けるようになるって言って手術を何回も繰り返したって言ってましたね。

立岩:手術したんですか?

瀬野:でもやっぱりそれはできなかったっていうので、障害の自分のあるがままを受け入れようという思想に共鳴したようでした。

立岩:あの時代の人ってけっこう手術したんですね。

瀬野:そうそうそう。手術が、

立岩:たいがいそれでうまいこといかなくて。

瀬野:そうなんですよ。みんな裏切られて、結局医者の口車に乗って手術したけどうまくいかなかったっていう経験をみんな持ってるんですよね。で、猪野さんもやっぱり療育センターで自分の思うようにならなったっていう、ずっと家でいたんですよね、長女で。で、いろいろ編み物とかけっこうしてたんだと思うんですよ、家で編み物。

立岩:手が動いた?

瀬野:そうそう、食事することはできたので、多少のことはできた。足元はだめだけど。手術も受けたけど結局うまくいかなくて、療育センターに入れられる時に子宮を取られた、いうことを言ってましたね。

立岩:足は基本動かない、手はだんだん動かなくなったけど最初動いた。言語障害は?

瀬野:多少あるけど十分聞きとれる。全然聞きとれない、新田さんみたいに足文字、指文字を使うみたいなそういうんじゃなくて。

立岩:口で喋る人でも、けっこう言語障害重い人だと聞きとるのはたいへんですけど。

瀬野:初めて会った人でも聞きとれると思います、確か。

立岩:それぐらいの感じ。それは生涯あまり変わらなかった?

瀬野:そうですね。

立岩:しゃべるのは十分、わりと楽っていうか。

瀬野:そうそう。彼女はメモができないじゃないですか。会議を、メモを取れないから、気に入られたのが私だったの。メモ取るの早いから。全障連の会議の時で、書記はできるだけ私だった。全障連の時の介助をほりぐちさんと私が言われてましたけど、「あなたやって」っていつも言われて。

立岩:猪野さんが全障連のなんかに、その時の介助者が、

瀬野:私が多かった。何人かしかやっぱりね、そこは選んで。誰でもいい、どの介助者でもいいってわけではなくて。全障連の会議は巣鴨にあるんですよ。巣鴨の会議、いろいろあったので、そこに行く時は4人ぐらいかな、の中から選んで。

立岩:記録がとれたり一応話がわかるって、言葉がわかったりっていう、そういう人を選んで。

瀬野:そうそう、選んで。

立岩:会議ってなんか覚えてらっしゃることあります? どういう会議だったとか、いろいろ?

瀬野:メンバーは矢内さん、矢内さんは理論家でしょう。で八柳さんで。誰だったかな、その印象が強いですね、その2人。あと戸田〔二郎〕★さんとかね、あと誰かな。

立岩:イメージとしては何人ぐらい?

瀬野:10人もいないですね。でも介護者入れて10人になるぐらいかな。

立岩:わりとちっちゃい。

瀬野:ちっちゃい。中央メンバーの戸田さんが、なんか印象、あれはなんだったんだろう、戸田さんでも東京じゃないですよね。

立岩:じゃないと思います。

瀬野:東海、静岡、戸田さんがよく来てた。あと楠さんとか、大阪の楠さん★とか、あと国会議員になった目の悪い方、

立岩:堀〔利和〕さん?

瀬野:堀さんも、なんかもうよく会議出てきて。

立岩:主要メンバーですね。楠、堀、八柳、矢内、

瀬野:みんないましたね。

立岩:みんなそういう、そういうコアな人たちが

瀬野:いろいろ、月に1回集まってましたよ。

立岩:月に1ぐらい、巣鴨にそういう人たちが月1ぐらいで。

瀬野:月1ぐらいは集まってましたね。

立岩:女性障害者っていうのは猪野さんだけ?

瀬野:三井さんはほとんど来なかったですから、絹子さんは。あと女の人であまりいなかったような気がするな。あと金井康二くんの闘争をどうするかとかそういう話をしてましたね。大会があるじゃないですか、全障連大会。各分科会で猪野さんは交通担当とかいうんで、その報告しあったりとかですかね。

立岩:ここんところ50年代の人に話を聞いて回ってて、結果的に50年代になるんですけどね。50年代生まれ。こないだは55年生まれ、斎藤龍一郎っていう金井闘争に関わった。これは東大の先輩っちゃ先輩だけど、在学中は僕よく知らなくて、今ずっと長いこと一緒にっていうのに、金井闘争とか、その辺の、

瀬野:今、何なさってるんですか?

立岩:解放書店っていう、部落解放同盟系の本屋さんに長いこと勤めたあと、アフリカ日本協議会っていうNPOがあるんですね。NPO…、NGOになるんですけど、そこの事務局長を16年かやって。今ちょっと大きい病気になっちゃって闘病生活。彼は犬塚勝二★さんっていう、

瀬野:犬塚さん、覚えてます。彼の介助者?

立岩:あの辺と関係があった。

瀬野:犬塚さんいましたね。

立岩:彼は解放派で

瀬野:そうそう、解放派。

立岩:足洗ったみたいですけどね、何年か前に。

瀬野:元気なんですか? 犬塚さん。

立岩:元気だと思いますよ。

瀬野:えーすごい。

立岩:その斎藤さんもそうだし、あと東大で教えてる市野川★っていうのが僕の後輩なんですけどね、64年生まれ。そのあたりの、なぜか犬塚さんのところから抜けられなくてっていうか、長いことやってますね。それから斎藤さん55年で、けっこう52年、53年とか、その辺の生まれの人に話聞いています。

瀬野:やっぱりそういう年代ですよね。

立岩:それと、僕より若いけど66年生まれだから、青木さん★っていう、新潟市議会で議員を彼は7期やった。6期やって今7期目だ。

瀬野:ええー、すごい。

立岩:その人は全盲の人で、市議会議員で、その人に話聞きました。昨日今日ちょっと仕事して、その記録を今載っけてて面白い。

瀬野:それはでも全障連とは違うんですよね?

立岩:一応ね、全障連系っていうのとはちょっと違う。

瀬野:でも新潟にそういう方いらっしゃるんですか?

立岩:新潟で、私の親が去年死んだんです、父親が。それでこの間一周忌があって、そういうこともあったんで、新潟行くついでに行くならと思って、新潟の人に。篠田さん★っていう夫妻と、脳性麻痺の。その人も50年代生まれですけど、その人と青木さんに話聞いて。そういうことけっこうやってるんです。

瀬野:そういえば、もうちょっと上の人で、***(00:41:36)★★っていう人がいて、リブの系の人で。こないだ、今、利光さんたちがやってる、こっちで、集会が、私1日行ったんですよ、裁判闘争の。その時に久しぶりに会いましたよ、その猪野さんの介助者。私より10こは変わらないかもしれないけどね。

立岩:昔、

瀬野:昔、猪野さんの介助をやってた、リブ出身の人にこないだの裁判の報告会の時に会いましたよ。矢内さんの妻、魔女。

立岩:誰の?

瀬野:矢内さんの、矢内健二さんの妻のグループか、違うかな今は。猪野さんの古い介助者です。

立岩:それで疲れて、あまりに疲れてて、そっから出てって、そのあと議員になった? 

瀬野:なったの。

立岩:3、4年ぐらい? 議員は何、誰か議員になれ、なれっていうか。

瀬野:そうそう、党派の中でね。社民党の人が辞めたんですよ、うちの荒川区で。次に1人出たんですけど、男で落ちた。で、誰かを出そうっていうんで、ちょうど私がその時に子育てグループでいろいろ活動してたんですよ、区内で。「あんたがいいんじゃない。議員になれよ」って言うんで、それが、そういう意味じゃ三里塚闘争、学生運動のパワハラだっていうこと私、改めて今回気がついんたんですけど、8歳上の人、4歳上の人っていうのが「あんたやりなさい」っていう感じで言われて。私、自分も望んだんです、結局は自分が納得して。なんで私かって初めは思ったけど、いいよってことを結局はそうしたんですけど、今回は「瀬野喜代を応援する会」は分裂したんですよ。この4月に、1月ぐらいかな。で、結局私は信用できないっていう、鬱の人間は信用できないって彼女は立ち上がったわけです。だから三里塚闘争の仲間は分裂、縁切ったんです、私。

立岩:それは今年? わりと最近のことなんですか?

瀬野:私の「瀬野喜代を応援する会」の事務局長と元会長という主要メンバーが、元都議の人を、別の人を押したんですよ。

立岩:荒川で?

瀬野:荒川で。私は40歳の、障害児の親を私の後継者として選んだんですよ。

立岩:辞めるのは辞めると、もう辞めることにしてた?

瀬野:もう精神病だったから。

立岩:そうなんだ。

瀬野:介護鬱からだと思うんですけど始まって、結局今、障害者2級、手帳あるんですけど。双極性、双極性U型。で2級の手帳をこないだもらって。

同席者:今は鬱抜けしたとこです。

瀬野:そうそう。今、元気。

立岩:今、どっちかっていうと2極のほうのちょっと躁系?

瀬野:もともと私ね、鬱が一切なかった人なんですよ。介護になって、ちょっと鬱っぽくなって。

立岩:介護って親?

瀬野:親の介護。実母を奈良から連れてきたんですよ。

立岩:東京に?

瀬野:東京、認知症になったんで。兄と弟が関西にいたんですけど、その妻との関係がよくなかった。嫁姑関係があんまりいまいちだったので連れてきた。それで頑張っちゃって、あんまり頑張った気もないだけど。

立岩:真面目に鬱になった、鬱っていうか、落ちた?

瀬野:落ちて。だからその選挙の時にほんとに動けなくなったんですよ。で、これぐらいだったらできるかなと思ったんですけど、立候補したんだけど、するって表明したんだけど、リーフレットを作って、もうダウンしちゃった。自分のリーフレットを作ってダウンして、4年前、もう動けなくなって。で、もう辞めたいって言ったら、そんな後継者もいないのに辞めちゃだめだとか言われて。で、4年前はむりむり選挙やったんです。

立岩:そん時は当選して4年間やったと。

瀬野:4年間はやらざるを得なかった。

立岩:けっこう最後の4年っていうのは辛かったんじゃないですか?

瀬野:それなりに。でも躁になったら平気だから。

立岩:そりゃそうかもしんないけどさ、いつなるかわかんないじゃないですか。最初に選挙出たのは社民から出た?

瀬野:社民党と民主党の両方の推薦で出たんです、ちょうどその時期で。もともとは社民党でポスター作ったんですけど、連合ができた時で、夫が組合の専従だったんですよ。彼もその労働組合に入って、組合員として働く、現場労働で働く、ガラス屋さんだったんで。で、組合で、組合があったから連合の推薦だったんですよ。連合が社民党だけじゃ困るから、民主党も取ってくれっていうので、両方の推薦取って。

立岩:民主、社民、それはそれなりに強いですね。

瀬野:それは珍しい例ですよ。あの時代、聞かない。

立岩:珍しい。その亭主って方は京都から一緒に行った人?

瀬野:時期は違うんです、香川県から。一応別々に行ったんです。

立岩:別々に行ったけど、その人?

瀬野:そうそう、そうです。

立岩:亭主はずっと、

瀬野:夫ね、夫は。

立岩:同じ夫である。ちなみにさっき言った新潟市議会の青木さんっていうのも社民党なんですよ、いまどき。ずっと社民で。大変でしょう、今社民でやってくのは。

立岩:20年経ったらけっこういろいろ。

瀬野:うん、いろいろありましたよ、もう。

立岩:その辺になるとちょっとご存知なんですか?

瀬野:ほんとに最近ですよね、同窓会で戻ってくるのは。最近、連絡取りだしたの最近。

同席者:急に、フェイスブックで繋がった。

瀬野:そうそうそう、フェイスブック繋がりですね。

立岩:で、お友達にになった。

瀬野:小学校のお友達が、「ひょっとして耳成小学校の瀬野さんですか」ってフェイスブックで言ってきたんですよ。それYくんっていうんですけどね。それから、おんなじ塾なの、その子と。それ遊びに来て、ね。

立岩:フェイスブックってそういうことありますよね。

瀬野:そう、遊びだした、その時に。

同席者:それから奈良にけっこう来るように。

瀬野:親が、親の介護で来だしたんですよ。85になってから、親の所に毎月通ってた。

立岩:引きとる前ってこと? 呼ぶ前に奈良のほうに。

瀬野:歳とってるから、親の料理したりとかちょっと世話したりって、で、まだ元気なので私が遊びまわってたわけですよ。奈良行ったり、明日香村行ったりして。ほんで親のちょっと家事手伝って、遊んで帰るっていうか、毎月の行事としてやってた。

立岩:じゃあ2人が再度知りあった、去年ですか?

瀬野:そうそう。

同席者:2、3年前。

瀬野:2、3年前でもないんじゃない。認知症…、5年ぐらい前じゃない。だって母を引きとったのが8年前だから。

同席者:でもお墓参り行ったりしたから。あとはお父さんか。

立岩:どっちが先だと覚えてますか?

瀬野:8年前に母を引きとって、

立岩:お母さんが8年前?

瀬野:それはそのあとだよね、前じゃないよね、きっと。そうそう。5、6年前? フェイスブックもっとやってるもん、だって。

同席者:私もやってたけど、全然見つけてなかったから。

瀬野:で、塾繋がりの4人っていうのがいて、それでまたその塾のお姉ちゃんに会いに行くっていうのに、なんか待ち合わせしてやったりしたんだよね。

立岩:先生ってこと?

瀬野:先生、先生。家庭的な塾で。

同席者:地域がね。

瀬野:お兄ちゃん、お父さん、お母さん、先生が、姉、弟っていうこの4人で塾を経営してたんです。

立岩:一家で塾をやってたってこと? なるほど。

瀬野:それでそのお姉ちゃんに会いに行くとか、おばちゃんに会いに行くとか、それで盛り上がったんだよね。

立岩:それは確かに盛り上がりそう。私も不義理だから、同窓会っていうの学校出てからどこも1回も行ったことなくて。

瀬野:普通行かないですよ。私もずっと行かなかった。暇になったから。つい最近だよね、私、だから同窓会に行き出したのは。



立岩:あと、猪野さんのことがらみっていうか、覚えてらっしゃることってなんかないですか?

瀬野:猪野さんのところは緊張の連続でしたよ、私にとってみれば。

立岩:緊張する?

瀬野:やっぱり、家の中心は私だっていうのをすごい主張する人だったから。その家事手伝いに行って、ものを少しでも動かす時にそういうのも***(00:52:37)、いいかしら、これいけないのかしらって、いつもこう問われる、障害者の糾弾にどう答えるかっていつも問われた毎日でした。

立岩:けっこう細かいところもおありになった。

瀬野:細かったですよ。厳しい人でしたよ。

立岩:運動っていうか、への同意、同調というか、そういうものは求められる、関係なく?

瀬野:いや、当然介助者としてだから、それは猪野さんがやる運動を、猪野さんがどうやるかっていうのを手足となって、健常者手足論。

立岩:それはどういう場面?

同席者:うちの息子が頚損になったんです。それでけっこう今自立してるんです。車いす常用してるんですけど。その入院中とか、やっぱり親だから、これもできるとか先回りして。できないことだけを手伝ってくれたらいいですって、できる、

立岩:息子さんからそういうふうに言われた。

同席者:社会福祉専攻みたいなとこが担任の先生。

立岩:どっちが先? 事故ですよね、頚損だから。

同席者:事故ですよ。

立岩:何したんですか?

同席者:海で、飛び込んだとこが浅瀬で。

立岩:僕、そういう人★知ってる。宮崎の人ですけど、まさにそういう。海にみんなでバーっと行って。

同席者:それってたまたま宮崎の海でなったんです。ちょうど9年前の、

立岩:同じ場所だったり。そんなことないですけど。

同席者:青島のあたり。

立岩:昔、新婚旅行とか。今、めっちゃ寂れてますけど、昔、宮崎に新婚旅行に行くって、ちょっとハワイの前ぐらい。海水浴でゴキッとなって。

同席者:陸上部に入ってまして、合宿で砂浜ダッシュしたりとか、余暇の時にどんな状態か息子***(00:55:20)けど、ちょっと飛び込んじゃったみたいで。それでまあ。社会福祉専攻っていうとこに行ってたんですね。

立岩:その時に? 大学生ですか?

同席者:大学生の時です。大学2年生の時です。

立岩:陸上部?

同席者:陸上部。天理大学の。本人的にはそんなに福祉のことしたいってあれだけど、担任の先生がそういう専攻されている先生だったので、「お母さん、そういう手足論っていうのがあるんですよ」っていう感じで。

立岩:余計な口を出すなと。言われたことををやればいい。天理の2年生、陸上部だったんだ。何してたんですか?

同席者:400メートルハードルです。

立岩:ああ、大変。僕そういう器用なことできなかったんで、僕は長距離ランナーだったんです。陸上部、一応聞くんです。陸上、なんですかって。それがあって、それ7年前?

同席者:東日本大震災。

立岩:2011年か。学校は卒業された?

同席者:リハビリセンターってとこに半年いて、頸損の人ばっかりがいる別府重度障害者センターに、訓練みたいなので1年弱行ってまして、それで2年休学して、残りの2年復学して、そのあとは**に。

立岩:**職員?

同席者:職員です。[…]

立岩:去年の8月かな、奈良、講演っていうか、お話しに行きましたね★。暑かったな。

瀬野:奈良、暑いでしょう。盆地だから京都と一緒ですね。

立岩:奈良・京都、暑いですよね。

瀬野:だから猪野さんにはすごい気を使いました。すごい糾弾する人で怖かったです。

同席者:いくつぐらい上、年齢的に。

瀬野:昭和でいくと11年生まれ。20年、20歳違う。

立岩:なんだったけな、1回ファックスいただいたけど、なんかお叱りのファックスとかではなかったのは覚えてるんです。

瀬野:まめな方でしたよ、いろんなことで。

立岩:議員の時はもうけっこうまんべんなくいろんな、いろんな活動というか、

瀬野:それでも子育て、介護、環境ですよ。でもメインは関心のあるところはやっぱり福祉系ですよね。障害者のことももちろんそうですし。

立岩:次の内紛が今年の1月か、に。

瀬野:なんの内紛? ああ、うちの、はいはい。その候補者選びを巡って、瀬野喜代は信用できないって言われて、で、別れてもう付き合わない(笑)。社民党と新社会党と部落解放同盟に公開質問状出しましたよ。Hさんっていう元都議を、私より1つ上の人を出したわけですよ、彼女たちは。で、私の出そうとした人は「幸福の科学」だって言ってキャンペーンはったんですよ。で、私はもうやめたの。幸福の科学って言われるの、もうどこ行ったって「あの人、幸福の科学なんだって」って先回りして言ってたんで、もう嫌になってそれはやめて、私も選挙には関わらないっていうふうにしようと思ってたら、その、そうそう、突然躁になったのがね、選挙期間中の水曜日なんですよ。突然躁になったんですよ。宣伝カーの、あっという間に、今までもう選挙はやらないと寝こんでた人が突然良くなって、歌声サロン私やってるんですよ、お年寄り相手に。で、それで演奏しに行って、そしたら橋立けいこさんっていう人の、そこは社民党系の店主のサロンだったので、リーフレットが山積みになってたんですよ。何の気なしにもらってきて、で、金曜日の見てなかったんだけど、金曜日にそれ開けてみたら、20年前のチラシと私のチラシとほぼおんなじだったの。
 これは、こいつはもう、一言も言われてなかったから、こいつはもう議員にするべきじゃないって私が言い切ったんですよ。抗議しようと思って、いろいろ頭の中その抗議文ばっかりで、どうやったらあいつを蹴飛ばせるかって。それがやっぱり障害者、障害者っていえばそういう、そうなんですよね。よくほら、それこそ殴り込むとか、子どもにうるさいって言って親が殺したっていうのこないだありましたけど。私考えたのはね、保坂展人の手伝いに行ったんですよ、土曜日、木曜日の前に。それは保坂展人が私の応援に来てくれたから、1回目の時にね。その恩を返してなかったので、保坂展人の選挙を手伝いに行ったんですよ。その帰りに三越で焼身自殺したらニュースになるかなと、そういうこと考えてるんですよ。どうやってニュースにすれば彼女の悪、悪いことを訴えられるか、記者会見どうやってやろうかと。区役所に閉じこもろうかとか。あと、熊野前というところが荒川区の中にあるんですけど、駅がある、そこで包丁振り回そうかとか、そういうこと考える。

立岩:それが今年?

瀬野:今年。

立岩:今年になってから?

瀬野:それで全然無視されるわけですよ、向こうからは。それで7人っていうのがいるわけですよ、私の敵が。その7人の人に質問状を出したんです。「なんで鬱の人間に対して、鬱がまだ治りきってない時に、信用できないって言うのがね、どれだけ言葉の刃になるのかってあなたたちわかってないのか」とかね、合理的配慮をするべきだって、鬱の人間に対して。鬱は何もわかんなくなってるわけじゃないんだから、ちゃんと相談をどういうふうに保障するかっていうのを考えるべきじゃないのかって。そういうことをいろいろ書いて質問状出したんだけど彼女たちは無視する。だったので、橋立けいこさんっていう人を応援した、支援した社民党と新社会党と部落解放同盟の公開質問状をみんなメールで送ったんですよ。完全に無視されましたね。福島瑞穂なんか会ったから直訴したのよ、こういうことがありましてとか言って。無視されましたよ(笑)。

立岩:それはそれっきり? その出来事。

瀬野:出来事それっきりで、こないだは私、尾久初空襲って言いましてね、荒川区は真珠湾攻撃の4ヶ月後、1942年7月18日にアメリカのB 25がやって来て爆弾落としてるんです。だから荒川区の尾久っていう所が初めて空襲にあった場所なんです。本土初空襲。それで尾久初空襲っていって、私20年かけて掘り起こした。それまではほとんど知られてなくて、それが今やっと公開授業やったりとか、区のイベントで1000人が集まったりとか認知されてきたの。15年かかったんですけどね。それとあともう一つ、「尾久の原愛好会」っていう、都立公園の原っぱをビオトープにした、それは東京都で初めてのビオトープ公園なんですけど、その2つをきちんと、ちゃんとやってくれっていう要望が近所の人からあって、郷土誌、本何冊も書いてる人ですけど。それを受けて議員になったのでこれは20年やってきたんですよ。[01:05:17]

立岩:空襲のやつとビオトープのやつと。

瀬野:そうそう。ここにその人たちが来たわけ。ほんで私、顔を見ると具合悪くなるんですよ、その人たちが。で、あと介護予防のことも選挙だからって、要するに自分がお友達やりたいからって私いったん断ったのね。要するにパワハラだから。その人たちに来るなって言うので。それをまた蒸し返して出てくれみたいなこと言ってきたんで、それも断ったんです。そういうのがあったんですけど、介護予防はなんとでもなるけど、この2つだけは20年かけて私が作ってきたんだから。私にもう来るな、あなたたち来るなと言ったのに、こないだまた来たわけよ。で、また抗議したの。だからいまだに続いてるんです、その抗議が。

立岩:新たにそのご自身の意に沿わなかった人は、結局立候補した?

瀬野:しましたよ、落ちました。Hさんっていう人は私の世話人だったわけ。都議の経験者、土井たか子のときのマドンナブームで一期だけ都議をやった人なんです。ずっと私の世話人ではあったんです。

立岩:その人は出たけど、

瀬野:出たけど落ちた。

立岩:落ちちゃった。

瀬野:しかも私はその人に後継者だって言ったことないけど、関係を絶ってるのに、私が瀬野の後継者ですって言って回ったんですよ。嘘つきなんです、すごい。それで頭きちゃって、私。だから選挙のためならなんでもする人たちです、社民党っていうのは。

立岩:それでもなかなか勝てないね、社民党はとにかくね。

瀬野:私、もうね、基本は憲法九条を守る会っていうのやってるわけですよ、その人たちは、全員が7人がね。もうそれは信用しない。私もう左翼信用しません。やめた(笑)。というオチまでついて、40年間の結果。

立岩:そっちはもう、基本もう終わりで。

瀬野:そうです。だから私は好きな、

立岩:これから好きなように生きる。

瀬野:そうそう。で、私、「恕の会」ってやってるんです。恕(じょ)。

立岩:じょ?

瀬野:恕。孔子は弟子に、「人生で一番やるべきことは何か」と聞かれて「恕」だって言ってるんですよ。人に、自分の嫌なことは、やられて嫌なことは人にはするなっていう教えなんですけど。
 如くっていう字あるでしょう、の下に心。これが「恕」に寛恕の「恕」です。これが日本では全然広まって…、私初めて知りましたし、これを広めようという、「寛恕の会」ってやつ、「恕の会」っていうかね、政策集団、私にとっては。だから三里塚なんて嘘だって。でもその7人の中に猪野さんの介助をやってた人が2人いるわけですよ。そのパワハラの相手がそうなのね。一緒にやってたんだけど、全然だから障害者のこと考えてないということがわかった。

立岩:それはずっとやっておられたっていう、『きのみ通信』ってやつですか? これから拝見するんでまだ中身、

瀬野:中身はだからそこには書いてあるんですよね。だからその実物がない。

立岩:ほぼ執筆者って感じですか? 記事を自分で書いてたってこと?

瀬野:そうですね。編集して、集めて書いてっていうのは、私ずっとそれやってきましたね、考えてみたら。子育て仲間でフォーラム荒川っていうのを作ってたりね、あの保育園の父母の会でそれやってたりね、介護サービスのことでやってたりね。ずっと広報誌を作ってきたっていうのが私だったっていうのは思う。

立岩:ガリ版?

瀬野:それは昔ですよ、学生時代。

立岩:これ75、6年とか書いてある。関係しだした頃にその『きのみ通信』自体はもう始まってた? 初期のやつ。

瀬野:始まってましたね、おそらく。途中から私が責任者になった。

立岩:その頃はワープロ?

瀬野:ワープロはね、私ね、党派の指令で、東京に行った頃ワープロの学校行ったんだけど、ほとんど使わないで移行しましたよ。

立岩:そこにってこと? ワープロ専用機じゃなくて?

瀬野:ワープロはね、学校行って覚えたんだけど、使ったかどうか…、使い始めた頃にもう変わっちゃった。ワープロなんか使わなくなっちゃった時代ですね、そういう意味では。78年、79年ぐらいに、78年1月に向こう行ったんだから、そこで学校に行った、78年に行ったんですよ、ワープロの。一応覚えたんだけど、79年の頃、80年にはもうたぶんワープロ***(01:10:08)。[01:10:09]

立岩:80年の頃のワープロってめちゃくちゃ高くなかったですか?

瀬野:でもあれはなんだっけ、パソコン、えっとガチャガチャガッチャンってやるの、あれなんですか?

立岩:カナタイプとかではなくて?

瀬野:そういうの、それを習いに行ったんですよ、私。

立岩:カナタイプかな?

瀬野:カナタイプ…、タイプを習いに行ったのかな。

立岩:たぶんね、僕79年に大学入学して85年に修士論文書いたんですけど、その時はまだ手書きでしたよ、85年は。その次の年からワープロ使い始めました。

瀬野:だから手書きじゃないですよ。チラシ、『きのみ通信』も手書きですけど。

立岩:それは配ったんですか? 

瀬野:配りましたよ。

立岩:どういう範囲に配るような?

瀬野:発送しましたね。障害者の人とか猪野さんのお友達。

立岩:会員というかそういう、郵便で、

瀬野:八柳さんだったり、堀さんとか楠さんとか、何人か運動関係の人に配りましたね。そういう人だと思いますよ。で、その全障連のメンバーに配ったんです。4ページ仕立てか、この大きさの4ページ仕立てか8ページかそんなもんでしたよね、きっとね。ポッと2つ折にして。

立岩:今はあんまり使わないけどB5ってことだよね?

瀬野:B5で、そうそう。

立岩:B5で4ページとか8ページとか。そんなに厚いもんじゃないね。

瀬野:全然ないです。どっかにあったと思うけどな。なんで今日持って来てない…。

立岩:こういうのって集めなきゃなと思って。それだけなんです。

瀬野:この中に『きのみ通信』が第何号とかって書いてあるんで、それはその『きのみ通信』を転載したものなんです。これ、ごめんなさい、これ写真、私だから。

立岩:これ、付箋紙のところはそういうことなんですね。どれ?

瀬野:これが私。

立岩:これ? マイクもってる介助者としているわけね。

瀬野:猪野さんの介助者、そうそう。

立岩:これわかんないね、これじゃあね。

瀬野:私にはわかる。

立岩:若い感じはします。

瀬野:これはうちの息子なんです。

立岩:どれどれ? これ?

瀬野:このちびちゃん。産前産後の休暇を取って行ってるから、ずっと。それはおんなじ時ですけど。

立岩:これ? お子さんももう大きくなって。

瀬野:34、上が34歳。

立岩:うちは29とかだからまあ似たようなもんだな、というか同じぐらいの年齢差。

瀬野:弟が29。

立岩:そうですか。

同席者:うちの怪我した長男が29です。

瀬野:みんな29がいるわけだ。

立岩:1990年生まれ。わかりやすくていいですよね。その事故った方が上?

同席者:長男で、上に長女がいて。

立岩:女、男、男。

同席者:そうです。

立岩:27とか8とか9とかなったらもう勝手にどうぞって感じだな、子どもは。

瀬野:18からもう、私、18で離婚したんですよ。

立岩:そうなんですか。

瀬野:ええ。それまで、ずっと家庭内別居してたんですけど、下の子が18になるのを待って、一応。なんとなく18になるまではやっぱり離婚しちゃいけないかなと思って。

(ウェイトレスとの会話)[01:14:03]-[01:14:30]

立岩:こちらは女、男、男でしょ? その、

瀬野:私、男、男。

立岩:その下のが、下の子が18の時にっていう。

瀬野:やっとその子が広島でこのたび結婚する相手が見つかって。

立岩:その子は何年生まれぐらい?

瀬野:90年生まれですよ。

立岩:下が90年生まれ。

瀬野:京大受けて、落ちて、浪人が耐えられなくて、しばらく引きこもり、自転車で日本1周し、そのあと海外に、中国だのなんか知らないけど行って、オーストラリアで2年ほどワーキングホリデーをやり、アフリカでこの間は強盗に遭って帰ってきて(笑)。放浪人生なんです。それでやっと落ち着くということで。わかんないけどね、また、またどっか行くかもしれない、一応。オーストラリアに一緒に行った彼女とよりを戻して広島で2人で住むというのがこの1月の。

立岩:何して飯食ってるんですか、今。

瀬野:これからなんですよ。

立岩:じゃあ結婚してから考える。

瀬野:でもね、本人は親が挨拶に行くのに、仕事が決まってないのに結婚させてくださいとは言えないってそういうこと言ってたので、どうしたんでしょうね。彼女のほうは建築かなんかの仕事があるんですよ。

立岩:じゃあ広島で所帯持って。それが下?

瀬野:下。

立岩:上が、さっきの写真の子が、

瀬野:上の子。

立岩:それは何年生まれ?

瀬野:5年、85年生まれ。

立岩:じゃあもう大きくなってっていうか、

瀬野:それはまだ1人もんですけどね。サーちゃんとこって何人? みんな片付いたの?

同席者:長男だけがまだ。

立岩:ゆうゆうだけど、もうずっと荒川にいるつもりですか?

瀬野:それでね、私が京都に帰る、こんなね、荒川みたいな敵の多いとこ嫌だとか言ってね、お別れ会してたの、しばらく。そしたら京都の友達が、「京都の人はね、いけずやからやめといたほうがいいよ」って言うから、そりゃそうだよね。考えてみたら奈良も拠点があるので、京都と奈良と交互に行ったほうがいいなと思って。ちょっと趣旨替えしたんです。

立岩:基本は荒川で、敵のいる荒川で住んでて時々関西にっていう。

瀬野:月に1回息抜きに来る。ただ今度桜井で講演会だから。

立岩:講演会をするんですか?

瀬野:するんですよ、私が。女性議員を作ろうっていうんで、私講演会、三井マリ子さんっていうご存知かしら、元都議の。三井マリ子さんと私で、彼女をメインで女性議員を増やそうっていうイベントやったりしてるんですよ、同級生連れてね(笑)。それが縁で、桜井が女性議員ゼロなんですよ、市のくせして。それがあって、隣の市だからなんとかなるんじゃないのって思って、私もちょっと、それこそオルグに入ってた、勝手に。そうすると意気投合するおばちゃんたちがいて、なんか呼んでくれるのでしょっちゅう行くようになって。だからよかったですよ、奈良・京都、なんか地理的に頭の中入ってるから。

立岩:そうですね。なんで土地勘があるんだろうと思いましたけど、大学3年間でもいればね。

瀬野:そうなんですよ。私、真如堂ってあるじゃないですか、真如堂ってお寺がありますけど、吉田山のすぐ裏に住んでて。それで1年住んだのかな。それで熊野寮に入ったのか。

立岩:薬学のその大学の時に薬害やらなんやらあって、それがその辺の繋がりっていうのは、その時点でだいたいなくなったってことですか? 関東に来た時に。

瀬野:だからそのIさんていう、彼女は結局薬剤師の資格はあるんだけど、韓国語の教師をしてるんですよ。

立岩:韓国語?

瀬野:だから外語大とか行って、非常勤講師として通訳と本の翻訳なんかをやってて、在韓被爆者問題をずっとやってるっていう。夫が京大のケニア大、ケニアが専門の松田〔基二〕★くんなんですけど。松田…、

立岩:社会学の松田でしょう? 知ってます。

瀬野:よく知ってる? 背が高いの、松田くん、広島の。広島のあの2人が、広島の附属の1年違いだった。だから彼のお母さんが被曝者なんですよ、確か。

立岩:そうなんですか。

瀬野:それでずっと在韓被爆者っていうのをやってて。いちの盟友なんです、そのIさんていう人は。松田くんの連れ合いが。

立岩:松田さん京大で、なんだろうな、なにしに行ったんだろう、呼ばれて行って、なんか酒飲んだことあるけどな。さすがにそういう話は。

瀬野:そうです。だから大学、その闘争仲間で、IEもそうだし、松田さんも教授になってるし、あとMくん★。

立岩:おんなじ学科?

瀬野:Mくんは何かな。わかんないけど、水野くんも熊野寮だったし、Uくんも熊野寮だったし、けっこう教授になってるんですよね、みんなね。当時のことをね、知らんふりして(笑)。

立岩:知ってるわけでもないのに、初対面ぐらいでけっこうそういうえぐい話を酒飲みながらけっこう長々してさ、松田濃いなと思って。

瀬野:で、Nさんの娘が松田くんの教え子なんだって。NKっていうね、ちょっと日本史のほうでは古代史では有名な94歳で亡くなった方が、100歳だっけ? その娘が同級生なんですよ。共産党なんだけど、民青派だったんだけど。私、彼女と下宿も一緒だったから。

立岩:いつ頃の下宿?

瀬野:だから真如堂。

立岩:真如堂あたりにあった下宿に住んでた。

瀬野:今もあるんですよ。

立岩:その下宿が?

瀬野:うん、確かめたことないね、行って。そして開けたら、もう下宿はしなくて買い取ったっておっしゃってましたけど、昔の古い家がそのまま。

立岩:建物自体はあった?

瀬野:もう崩れかけてた。

立岩:その辺り、そうか、時期的にはそういうことになりますよね。

瀬野:そうです、そうです。やっぱり親和性があるじゃないですか、障害者の介助の運動とその新左翼の運動は。けっこう被ってますよね。

立岩:そうなんですよ。それを、

瀬野:それしかやりきれなかった。みんな障害者で囲い込まれて、西田派なんかよくやってましたよ。

立岩:西田ってなんだろう?

瀬野:西田派って言いません? 赤ヘルでいるんですけど。

立岩:さっきおっしゃってた。僕、なんかね、そうやって関東と関西でやっぱり違うんですよね。関西、ブントが強いんですよ。

瀬野:そうですよ、そりゃそうだ、誇り高くって。

立岩:関西ブントって言いますでしょう。

瀬野:関東はブントないんですか?

立岩:関東あるけど、中央〔大学〕とか、アカですけどね。

瀬野:うちの元区長で、収賄で捕まったのがいるんですけど、それがね、慶應のブントだっていうんですよ。

立岩:ポツポツいますよ。

瀬野:だってあれですよ、右翼みたいな自民党ですよ。寝返っちゃう。解放派。猪野千代子さんの一番古い、信頼するSさんは、東京都交通局の職員で解放派なんです。で、Kさんっていうのも交通局の職員で、それが西田っていう赤ヘル。

立岩:赤ヘルが西田派ってことか。それは猪野さん自身は特にっていう、

瀬野:猪野さんは無党派ですね、いろんなとこと付き合ったけど。

立岩:いろんな党派の人が、

瀬野:出入りしてた。

立岩:僕らぐらいまでなんですよ。新左翼系の学生運動と障害者とか、障害者運動とかが繋がってたっていうのを体感的にわかる人たちって。それから5年ぐらい経つとその辺よくわかんないみたい、ピンとこないみたいで。その研究とかしてる人もみんなやってるってこと。わかったからどうかなって気もしないでもないんだが、だけど一応そういうこともありましたと、昔はこんな感じでしたっていうのは一応押さえといたほうがいいのかなと思って。

瀬野:時代はそうでしたよね。木村さん★、今度国会議員になった。木村さんが事務局長の会は三井絹子さんじゃないですか。

立岩:そうです。

瀬野:ねえ、あれは新田勲さんがずっとやってきた会ですから。そういう意味じゃね、今も連綿と続くなんかそういう、重度障害者の介助者の中にけっこう新左翼がいたっていうのは、新田さんとこもそうでしょうし、よくある話ですよね。

立岩:要求者組合★っていうのを長いことやってるところですけど、新田さん亡くなったあと、

瀬野:今もニュース送られてきますよ。で、見たら、

立岩:まだ来ますか?

瀬野:来ます。

立岩:まだ来ますかって。

瀬野:代表が三井絹子さんになってて、で、うちの事務局長が、

立岩:国会議員なりましたってね。

瀬野:そうそう、書いてありましたよ。えーって思って。

立岩:さっき言った宮崎で、海岸で頸損になったっていう、それは宮崎の人なんですけど。それがいろいろあった上に東京で何年か暮らすんですけど、その時に世話になったのが今度国会議員になった木村、昔は赤窄(あかさこ)英子って言ってたんですけどね。で、その話を聞いてびっくりして、そういうような話を書いてたら、そういう話がちょろっと出てくる本★も書き終える頃に開票速報みたいなのあって、「あれー、木村さん当たっちゃったよ」みたいな。

瀬野:あれは驚きましたね。だからあれは選挙制度を知ってる人が誰か組んだんですか?

立岩:堀さんあたりでいったん止まるんですよね、障害者の国会議員って。それは要するに比例代表の名簿で上のほうにいかないっていうか。ただ今回政党のほうでできるっていう、あれ自民党がやったらしいですけど。

瀬野:そうそう、特別枠ね。自分の国会議員を減らすのを、なんか鳥取とか新潟とかが選挙区、数が…人口が減ったからっていうのでその辺の人、特別枠とかした、それを使ったのよね。ウルトラCですよ。

立岩:それに乗ったんですよね、山本太郎が。他の野党は基本、自民党がその党利のためにやった。その通りなんですけど、そうなんで反対したんだけれども。山本さんは別に制度自体に反対だったかもしんないけどもうできちゃった。それで利用しようと。

瀬野:それ山本太郎さんが思いついたの?

立岩:そのポスト利用しようとするっていうのは山本さんが思いついたんじゃない? で、誰をするのかっていうときにいろいろあったんですけど。木村英子の、それこそ組合で1回山本さんを勉強会みたいのに呼んだことがあって、それ以来ちょっと関係があったっていうことと、それから僕の関係者でもあるんだけれども、雨宮処凛★ってわかる?

瀬野:はいはい、わかります。

立岩:あの辺がけっこうブレーンっていうか。で、その系の経路で、僕は今回もう1人ALSの人なってましたよね。あの人も舩後さん★っていうんだけど知ってて。知り合いが2人、知り合いっていっても木村さんはほんとに30年前にこうやってインタビューしただけですけど、ちょっとびっくりですけど。もう一つ二つ来るかもしれないですよ。ちょっと今、まだ言えませんけど。こないだ山本太郎来てもらったんですよ、大学に。1時間半ほど★

瀬野:あの人は話うまいよね。

立岩:そうだね。

瀬野:アジテーターですよね、すごい。

立岩:アジテーターだね。

瀬野:なんかね、田中角栄に例えられるの。

立岩:田中角栄、ああ。

瀬野:田中角栄に例えてるみたい、保守の人は。「田中角栄を思い出すよ」って言ってました。で、「山本太郎さんの隣で万歳してるの、これ私よ」って言って、Yっていう武蔵野市議会議員がいるんですけど、熊野寮で一緒だった人。だからIEのもとで赤ヘルかぶってた、文学部だから彼女は。

立岩:その人は今何してるの?

瀬野:武蔵野市議会議員、5期目。

立岩:武蔵野市の市議会議員。それが何さん?

瀬野:Y。熊野寮の50年誌って出たんですよ。そこにY、U、瀬野喜代と並んで出てる(笑)。今回、熊野寮明日行くんですよ、私。シン・ゴリラってほら、タテカン問題でね、シン・ゴリラってグループご存知ですか?★

立岩:あるのぐらいしか知りませんけど。

瀬野:その子たちとこないだ、京大の学園祭でぐるっと歩いた時に、タテカンの、私はトロ文字って言うんですけどね。なんだっけ、何文字って言ったっけ? 要するにタテカンの、

立岩:ゲバ字とかいろいろ、よくね。

瀬野:ゲバ字、ゲバ字。私はトロ文字って言うんですけど、それが書ける人が少なくなったとか言って、そういう話をしてた二十歳の男の子がいたのね。で、「そんなのいくらでもいるよ」とか言って話をして。そしたら面白いことに、山崎なんとかっていう京大生で安保闘争で死んじゃった人がいるんですよ★。68年かな、それぐらい。

立岩:その安保ね。60年じゃなくて、70年安保の、

瀬野:なんかそれぐらいの時、追手門高校かなんだから京大に入って、デモで亡くなった人なんですけど、その同級生たちの高校の時の友達かなんかが追悼っていうのをやってたんですよ。そんで私面白いなと思ったんですけど、男がやるとね、すぐ側なのに繋がらないのね。すぐ側で私トイレに行って見つけたんだから。そんなに近いところで、ちょっと親和性があるじゃないですか。タテカンと戸村一作の三里塚の、戸村一作のポスターとか貼ってあるわけでしょう。その人たちとか全然お互いに知らないって言うんだもん。そんな男の世界っていうのは難しいなと感心しちゃった。パンフレット見たら、あ、山崎くんのあるんだって思いますよ、普通。で、タテカンのなんか、デモンストレーションがあるんだって普通思うじゃないですか。

立岩:トロ字ってね、確かにある種の美の世界ですよね。

瀬野:さっきのこのチラシも一応トロ文字から来てるの。私たちはトロ文字ですよ。そんなこんなで、その時にいろいろ遊んで、メールして。そしたら熊野寮に来てくださいとか言われて。二十歳の男の子。

立岩:いいと思いますよ。京大の中でもそういう方向に元気な連中が今でもやってるから。そりゃ大先輩だし、いいですよ。

瀬野:この間の、この選挙で分裂したことで思ったんですけど、私が出そうとした人は障害児を抱えて、ドーマン法、ドーマン法をやり、そん中で知り合った池川明っていう胎内記憶の日本親学研究会(→親学推進協会)とかいう右翼なんですって、それ。私今回それ知らなかったんですけど、池川明が右翼だっていうの。そこと繋がってたわけですよ。それをもって、彼女は右翼だ、イコール幸福の科学だってなっちゃったみたいなんです。で、彼女の話を聞いたら、障害児差別にすごい、彼女自身も今まで全く障害者と付き合ってなかったのに、障害児を生むっていうことになって、すごい迷いの中でいろいろあってそっちの世界に入った、スピリチュアル。あれはほら、胎内記憶は、「お母さん、障害児を育てる能力のあるあなただから僕は生まれてきたんですよ」っていうことを言わせる宗教なので、すごい落ち着くんですって。なんか自分が救われたような。だから順天堂大で、出産の時に、「あなたは要するにできそこないの子を生むんですよ」って産婦人科に言われたの。

立岩:それはほんとに言われたわけね?

瀬野:言われたんですって。それで結局出産して、1ヶ月後に来なさいってほったらかしなんですよ。彼女は、

立岩:その子は脳性麻痺なの?

瀬野:いや、右と左の間を繋ぐ何かがおかしくて、知的もあるし、身体的には歩くのもちょっと不自由みたいな。

立岩:なるほど、そういうことか。そっちがスピリチュアルに行くのはよくよくわかるんだけど、でもちょっとじゃなくてだいぶ危ないっていう。

瀬野:そうそう、危ないですよ。

立岩:ドーマン法も

瀬野:だいぶ危ないですけど。で、まさに16年前、官房長官、菅なんとかが、国会で自分、彼もなんか知的障害の親の会と関係があったみたいで、NHKでドーマン法を評価したようなテレビがあったらしいんですよ。

立岩:ありました★。僕らそれ抗議しました★。

瀬野:男の子に、指文字でなんか書かせるっていうの、母親が読み取る。でもほんとは、それは親が勝手にやってたっていう。

立岩:こうやってやるんですけど、どう見たって親が動かしてるんですよ(笑)。

瀬野:それを同じようなことやってたんです、彼女が。それで、もうそれはやめたほうがいいっていうので言って。池川明の教えを広げるようなことは、スピリチュアルのようなことは区議会議員としてはやらないっていう約束でやろう、私そこで、彼女がそうやって行ったのは障害者差別の結果だと思うんですよ。その時にもっとちゃんと保健師とかそういうちゃんとした人たちが、障害を生んだお母さんのところに行って、将来のこととかね、寄り添っていたらそうはならなかった***(01:34:45)。そういうサービスがないから、結果としてそっち行っちゃったわけでね。それは福祉の貧困ですよ。それを彼女のせいにはできないと私は思うので。言ったんだけど、彼女・彼らはそういうことはわからない、理解しようとしない。だから鬱ということについて病状について理解しない、障害者の親がそういうスピリチュアルな方向に行こうとすることについて理解しないっていう、そういう無知があると思うんですよね。今時の新しい問題だと思います。いまだにドーマン法って荒川区の他にもいるんですよ、やってる人は。社会福祉協議会はそのボランティアを探すわけですよ、斡旋して。

立岩:もっといいもんならいいんだけどね。さっきもおっしゃったけど、猪野さんもそうなのかな。切ったり手術していいことなかったって。やっぱり52年、53年生まれとかそういう人に九州とかインタビューして回ってるんですよ。去年とかもそういう話聞いて★。やっぱりそういうことも、一方で手術してもだめだったって話は忘れられると。で、ドーマン法みたいなあれ、お金になりますからね、結局。そういうのって今でも絶えてないというか生き延びてるので、それはバランスよくないんだよね。

瀬野:親が美学になっちゃう。自分の子のためにこんなにやってるっていうんで。

立岩:そうなりますよね。

瀬野:そういうなんて言うんだろう、ナルシシズムみたいな。あれお金もかかるんですけどね。すごい努力なわけよ。何分間隔でね、息を、こういうのを、マスクをさせるとか訓練するんだけど、それも量をはかるわけ。無茶苦茶な生活だと私は思うんですけど、親は酔っちゃうんですよね。

立岩:そうなんでしょうね。それをやってるってこと自体がね。

瀬野:こんなに親は自分が努力してるんだっていうことで酔っちゃうんですよ。それだけね、でもそういう意味じゃ身の回りににこやかに生活してる障害者がいないってことだと思うんですよ。重い障害があっても、ああいうふうに楽しくやってるよっていうのがあれば、あんなことしないと思いますよ。無茶苦茶なことだもんね。

立岩:今回聞いて回ってることの一つは、そういう自分の手術とかリハビリとかそういう体験みたいなものを、さっきのあれですよ、別府の温泉病院っていうか、そういう所けっこう小学校の時、親と一緒にとかあるいは実家から離れた時にずいぶんいたとかね、なぜか宮崎と別府が繋がるっていう不思議な。だからなんだってことはないですけど。

同席者:伊東と別府があって、

立岩:そうなんです。

同席者:伊東がなくなった。所沢と統合されて。

瀬野:温泉がなんかやっぱりいいのかしら。

立岩:別府はそうみたいですね。伊東は国立のあれもあって歴史は長いですけど。

瀬野:アメリカなんかは障害児が生まれたら親子のとこ行って、「お母さんはどういう生活をしたいの?」って、「この子をどう育てたいの?」「あなたはどんな生活をしたいの?」っていうので寄り添うっていう。これは文京区議になったなんとかさんっていう人が、アメリカで子育て、障害児を産んで育ててます。全然そういうシステムが日本にはないっていうので訴えてましたね。でもやっとこの間、少子化のせいもあるんですけど、子どもを産んだら保健師をまず派遣するっていうふうになったんですね。ちょっと変わったんですよ。

立岩:院生で京都市の市役所の職員なんですけどね、娘さんかな、けっこう重い障害持ってて、どうやって暮らしていくのかってそういう研究してて。それが博士論文にもうすぐなるんですけど★。なんやかんやでそういう関係者はいっぱいいる。れいわ新撰組のからみでもなんかあるかもしれません。

瀬野:それは世の中変わるからいいですよ。でもなんでれいわ新撰組なんていう名前つけたんですか?

立岩:ねえ。あの名前はね。

瀬野:名前で私信用できないと思ったんですけど、だけど大衆受けするから逆に、そういう戦略なんでしょうね。

立岩:そうなんでしょうね。左翼みたいに格好つけてらんないよっていうか、大衆に受けるんだっていうある種の覚悟なのかもね。

瀬野:荒川区民は大学教授嫌いなんですよ。選挙で大学教授立ててもうまくいかない。

立岩:インテリ嫌いなんだ。

瀬野:インテリ嫌い。私が正しいのよっていうそういう雰囲気をたぎらしてるの、あれが嫌いなんですよね。だから猪野さんは偉大な方でした。

立岩:最期どういうふうにっていうのは聞かれていますか? 亡くなった時のことというのは。そっからもう介護とか離れてらっしゃったんけれども全然わからない?

瀬野:その時私全然関わってないので、病院で亡くなった。

立岩:亡くなったっていうこと聞いたぐらい。すいません、なんか突然あそこに入ってきたので名刺も差しあげず。1枚だけあったので、申し訳ない、2枚あれば2枚だったんですが。

瀬野:すいません。私も名刺から離れたので、名刺を持たない生活をしてるんです。私ね、だから立岩さんの名前は、裁判の応援に行った時に、車いすの方何人いましたっけ、女性で。この優生審判のやってる人。

立岩:東京?

瀬野:東京でリブの運動からやってる、

立岩:米津〔知子〕さん?

瀬野:そう、米津さんに、猪野千代子さんの資料があるんだけど、どういうふうにしたらいいだろうかって聞いたら、立命館の先生でやってる人がいるわよっていうのを聞いて、それで、そういう人がいるんだっていうので。

立岩:じゃあそれ米津さんには感謝申し上げなければ。米津さんもね、ずっと変わらぬ上品さというか。

瀬野:格好いいですよ、あの人。

立岩:ね、キリッとしてて。なんとも。

瀬野:なんとも尊敬すべき。

立岩:あの人もぱっと見じゃわかんないですよね。モナリザスプレー事件★って昔あってね。

瀬野:なんですか、それ?

立岩:米津さんですよ。

瀬野:米津さんがやったの?

立岩:米津さんが、そのモナリザに行こうとした、あん時か、日本で最初。それで車いす入れてもらえなかった。

瀬野:そうなんだ。

立岩:それで米津さん自身がスプレーかけたかどうか知りませんけれども、かけようとしたっていうか、それで捕まったっていうモナリザスプレー事件っていうのがあったんですよ。

瀬野:ほんとですか。

立岩:それ米津さんですよ。

瀬野:ええー、すごい。強いなあ。

立岩:米津さんはあれですよね、阻止連、阻止連系、リブ。1回阻止連で、ずっと前ですけど20年ぐらい前かもしれない、呼んでいただいたことがあって★。

瀬野:阻止連っていうグループでまだやってるんですか?

立岩:昔漢字で「阻止連」だった。今なんかアルファベットで「SO…」。まだやってて、何年か前になんとかっていうフェミ関係の賞をみたいなのもらったりとか、細々っちゃ細々ですけど、まあ。

瀬野:えらいですよね、長く、長く。

立岩:あそこでずっとやってた人がその組織をしょってるってわけじゃないでしょうけれども、それと今回の優生保護法の裁判であるとか、そういうことに関わってらっしゃいますよね。一応なんだろうな、そういうことも押さえっていうか、ことで。

瀬野:それをずっと障害者とか、

立岩:文章書かれる方もいるけれども、猪野さん自身も含めてね、それなりにみんな字書いて文章、長い文章書いたわけじゃないから。そうやって本人なり関係者なりにお話を伺わないと、やっぱりいろいろわからないことっていうのが出てくる。今なんとか研究費も取れたりするので。

瀬野:猪野さんの詳しいことだったら、元その組織の人ですけど、葛飾区の尾沢邦子さんっていう人が私を猪野さんに紹介してくれたんですよ。

立岩:おざわくにこ。

瀬野:邦子さん。彼女はもうちょっと古い時代を知ってる、私よりも。

立岩:尾沢邦子、知ってるようで知らない。

瀬野:日韓関係の運動をやってますよ、ずっと。だからおんなじ三四郎の仲間なんですけどね。彼女も薬科大学だった、違うかな。大学どこだっけ、忘れちゃった。

立岩:ありがとうございました。大変勉強になりました。

瀬野:いえいえ、とんでもございません。いろいろ大変。でもいい勉強になりましたので。私、古賀照男★さんっていうスモンの会じゃ、最高裁まで、

立岩:なんていう?

瀬野:古賀照男さんっていう、

立岩:古賀さんって京都で亡くなられた、

瀬野:亡くなった、伏見の病院で。もともとは横浜の方なんだけど、蕎麦屋の店員で、下痢止めのためにスモンを飲んで、それでスモン病になって、最後最高裁まで争ったんだけど負けたんですけど。私を、おまえのとこに井上っていう教授がいるんだ、助教授がいるんだっていうので言ってくれた、糾弾された人なんですけど。その古賀照男さんと猪野千代子さんっていうのが、私が師と仰ぐ人。[01:45:00]

立岩:古賀さんのこともね、調べると出てくるんですけど。やっぱり彼も書かない人で、やっぱりエピソードを周囲の、

瀬野:古賀さんのパンフレット★ありますよ。

立岩:もしよろしかったら。そうなんですよ。割れていくでしょう。みんな和解に応じていく中で彼が1人最後まで闘って、

瀬野:そうですよ、頑張ったんですよ。

立岩:1人になっても和解をはねてっていうそういう伝説の人ですもんね。

瀬野:だから見せしめで負けたんですよ、あれ。京大に来てくれましたよ、井上幸重を追求するために。

立岩:古賀さんのことも知りたいなと前から思っていて。

瀬野:前に、あそこの診療所ありますよね、最後に関係者集まったんですよ。古賀さんを追悼する集いに。

立岩:古賀さんが亡くなられたあと?

瀬野:亡くなったあと。その時静岡大の人なんかが中心になって***(01:45:47)、古賀さんを応援してて。伏見の病院もそういう支援者が彼を応援して入れてくれました。私、一度だけお見舞いに行きましたけどね。関内の都営住宅かなんかに住んでて、連れ合いを亡くして、古賀さんからミシンもらったから。その連れ合いを亡くされて支援者とともに行動されてましたよね。面白いおじさんだった。

立岩:なんかそうみたいですね、知ってる人に聞くとね。

瀬野:伝説上の人物。猪野千代子さんも古賀さんも怖かった。

立岩:古賀さんも言葉はぞんざいっていうか、乱暴っていうか、怖いっていうか。だけど憎めないっていうふうな人でもあったっていうようなことは、

瀬野:人格的にはほんと優しいところがあるけどはっきりしてます。それだけ主張しなければ生きてこれなかったっていうのあるんですよね。そりゃ凄まじい主張する。自分が1人じゃ文字も書けないから、コンプレックスがあるじゃないですか。それを介護者で埋めようとする部分、期待がある。

立岩:それは猪野さんの?

瀬野:猪野さんが。だからちゃんと自分がちょっと忘れたことがあった時にメモを繰るわけですよ。何月何日にそこにメモを取ってあるはずなのに書いてなかったら怒るわけ。私わりと書くほうだったので、信頼されてた。

立岩:彼女は不就学というか未就学というか学校行ってないから、いうたら端的には字が書けないっていう、そういうことだったんですね。

瀬野:書けない、字を書く手じゃないっていうのもあると思うんですよ。でも記憶力はいい人だし、頭がとてもいい人だったんですけど、メモを書きおかないと怒ってます。「なんで書いてないの」って怒ります。

立岩:彼女の文章って言われてるものっていうのは、基本的に口述筆記だったり、そういう感じなんですかね?

瀬野:そうじゃないですか。自分で書くって、「養護学校あかんです」っていうチラシがありますけど、あれ猪野さんの字かもしれない。ああいう感じです、猪野さんが書くとしても。猪野さん自身のパンフレットに猪野さんの字がありますよ、たぶん。ああいう感じです。ちょっとのたりくったようなあれぐらいの字しか書けなかったと思う。スラスラと文章書くような人じゃありません。

立岩:今日はこれからどうなさるんですか?

瀬野:今何時? もうちょっと行くのやめようね。〔立命館大学〕平和ミュージアムに行こうかと思ってたけど、もうちょっとあったかい時にしよう。

立岩:ミュージアムはいつでも行けます。来年の7月に、今、僕ののところ大学院生だった人★で、瀬戸内海に愛生園っていうハンセン病の療養所、

瀬野:こないだ行きましたよ、私。

立岩:行ったんですか?

瀬野:行きました。市場さんのお姉さんが市場恵子さんっていってジェンダーの先生なんですよ、どっかの大学のね。彼女の案内で行きましたよ、愛生園。

立岩:そこを取材してきた院生もいて。あそこは今、ほぼ、あと10年足らずで誰もいなくなる的な状況なんですよ。もう90代とか。その時に、国は悪いことやったってこともあるんで、最後まで1人まで面倒みようっていうぐらいのことは。そのあと、ほぼそのまま。東京にあるとこ〔全生園〕1つ残して、あとは全面閉じちゃう的な流れなんです。その歴史の記憶を残すっていう意味では、

瀬野:その違いを思うんですけどね、ハンセン病についてはそれなりに認めてお金もそれなりに出した。けども今回の優生手術については、ちょっと国の対応がね、ハンセン病に比べてずいぶんひどいんじゃないかなって思うんですよね。なんか全然対応悪いなと、私思ってますね。

立岩:悪いですよね。

瀬野:裁判も全然なんか、なにその判決っていう感じの判決文だったじゃないですか。

立岩:署名はなんか、それでちょっと始まったんですけど。愛生園のほうはほっとくとそういうんで完全になくなって忘却の彼方になる。全部残せとは僕は思いませんけど、ある形で残すというか。そういうので、そういう愛生園の学芸員の方も危機感を持ってらして。それで、それこそ平和ミュージアムの展示を、場所使って、来年の7月になると思いますけど3週間ぐらい展示をやり、たぶん誰か関係者と私なりと話をするみたいな企画を。

瀬野:じゃあそれ聞きに行かなきゃ(笑)。

立岩:暑いですけどね、7月。京都は7月暑いですけど。

瀬野:暑いですね。

立岩:暑くなる前かな、祇園祭終わる頃とか。祇園祭の時は暑い時は暑いですよ。暑い時は暑いですね。

瀬野:そうですか。私も愛生園へ行ったり、なんか似たようなところを。びっくり。

立岩:愛生園、そうなんです。録れました。

瀬野:はい、どうもありがとうございました。


UP:2020 REV:20200904
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也 
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