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伊藤 時男 20191124 於:DPI政策論「権利擁護分科会」 精神障害者と社会的入院――仲間を迎えに、どんどん精神病院へ行こう

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◇伊藤 時男 i2019 シンポジウム発言 2019/11/24 於:DPI政策論「権利擁護分科会」報告 精神障害者と社会的入院――仲間を迎えに、どんどん精神病院へ行こう

◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 27分


伊藤:[…]二番目のおふくろには馴染めなかったので、家出なんかをして、結局は病院に入る結果になったんです。家出を数回しました。福島から東京に2回も家出をして、それから、そのころから放浪癖が出始めました。そして最後の家出をしたときは、ヤクザふうの男にだまされて、土方までさせられ、給料を全部取り上げられ、そのとき私は仕事の隙間をぬい、隙を狙ってその男から逃げました。そして東京で職務質問にあい、上野の拘置所まで行きました。父の弟が迎えに来てくれました。それからはその叔父の働いているレストランで食事をしたあと、父が福島から駆けつけてくれたんです。それからしばらくして、私は叔父のレストランで働くようになりました。
 私は高校を中退して16歳になっていました。飽きっぽい私は長続きしませんでした。まだ放浪癖が残っていて、店を半年ぐらいで飛び出て何日か帰ってこなかったです。あまり私が家出をするので、埼玉県の羽生の店で働いていましたが、その店をやめて、父と電車に乗ったとき、父親が、「時男、ここで飛び降りて死のうか」と私に言いました。私は冗談半分で言ったのかと思ったら、父は本気でした。その父は私に、そのときの心情を何度も言ったのを今は懐かしく思ってます。その父はもう病気で亡くなり、そのあと私が精神病院に入院したときも、家族の中で病院に来てくれるのは父親たった一人だけでした。小さいときから私はいつも父と一緒だった、一緒でした。病院に父親が来たときはどんなにうれしかったことです。涙が出るくらいうれしかったです。
 ところで私が病気になったきっかけは、レストランで仕事が終わり、飲食店でビールを飲み、酔っぱらって帰ってきて、マスターに果物ナイフを買ってきて見せびらかして、「俺は上野で店を出す」という気持ちがこみ上げ、なぜか気持ちがたかぶっていました。そのころ妄想が起きたんです。そして妄想がこみ上げて、落ち着きがなくなっていました。そしたらマスターが叔父を呼び、叔父はすぐに私の父親を呼びました。そして福島から父が来て、父は私を病院に連れて行きました。病院で医者に「今、どんな気分ですか?」と聞かれました。「いやあ、酒に酔っぱらったようないい気分だ」と言いました。そしたらアル中の病名がつけられました。確か、アル中の依存症か何か、アル中の病名をつけられたと思います。あとで聞いたんですが、福島の病院の主治医は、「時男さんは、東京の病院に入院したときはアル中の病名をつけられたみたいだよ」なんて言われて、「ええ、そうか」ってびっくりしました。たったあの、「酒に酔っぱらっているような気分だ」って言っただけで、アル中の病名をつけられたんで、ほんとにびっくりしました。
 それから入院となり、東京の病院に2回入院し、最初は2年半、2回目は1年半入院しました。東京の病院は古くて、木造の小さな病院でした。しかし私は病院が嫌になり、脱走をくわだてました。新宿まで行って、前に働いていた店が忘れられなくて、その店に行ったら、叔父にまた病院に入れられました。それが最初の脱走でした。その後病院を転院して、福島の病院に転院しました。
 しかし、そして、しかし私は福島の病院に転院して、転院して誓いました。東京の病院にいたとき、家出した直後に父親が面会にきて、帰っていく姿が、ものすごく背が、背中が小さく見えて、とてもふびんに思いました。それで私は心で誓いました。「今度福島の病院に行ったら絶対迷惑はかけない。脱走なんか絶対しない。嫌なことがあっても絶対逃げたりしない」、そう誓って、今度は福島に行ったら模範の患者になろうと思って、絶対退院…、あ、脱走だけはしないと心に誓いました。
 ところが、福島の病院で院外作業、院外作業は養鶏場なんですけど、養鶏場は1日働いて800円。1日で800円だけど、それからまた引かれて、患者に渡される金は350円。半分ぐらい引かれます。手数料とか、病院の手数料とか、あと年に1回の旅行代なんかが引かれて、手元に残るのは1日350円です。月7千円ぐらいにしかなりません。それでもまじめに10年ぐらい働きました。10年ぐらい働いても、退院の話は出ません。
 その仕事なんですけど、養鶏場の仕事は鶏糞出しとか、ケージ作りとか、鶏の引越しとか、そういう仕事があります。特に鶏糞出しが毎日のようにありました。鶏糞出しっていうのは鶏の糞出しです。鶏が糞をして、それでその鶏糞を肥料にするため農家の人が買いに来ます。それで、その鶏糞を販売するために、鶏糞をネコ〔台車〕に積んで、ネコからトラックに、トラックの荷台に捨てる作業を毎日のようにしました。梅雨の時なんか大変なんです。梅雨時は雨が降るもんだから鶏糞がとろとろで、ネコで鶏糞をトラックの荷台に捨てると、鶏糞がピシッとはねて、口や鼻にひっかかります。そんなひどい目にあいました。それからもっとひどいのは、鶏引越しのとき。ひよこから成鳥になるまでケージで増やすんですけど、鶏が成長するごとに大きくなるもので、それでケージへ入れるのは、小さいケージから大きいケージに移り替えます。その引越し、鶏引越しの仕事をするんですけど。鶏を集めるとき、もう何百羽っていますから、鶏が騒いで、鶏の毛が、ものすごくあの、羽が舞って、粉塵が散らばって鼻や口に入ります。それでも我慢して養鶏場勤めました。それでもなかなか退院できなかったです。10年働いても、15年近く働いても退院の話が出ないので、とうとう辞めました。
 そしたら、そして、しばらく辞めて、いたんだけど、じっとしてるのが嫌だった私は、また働きたいという欲望があって、今度は院外作業の、あの、電気部品の、あ、プラスチック工場のカセットの簡単な部品作りをやりました。それを1年半ぐらいやりました。それでも退院の話はなかなか出ないんです。その病院はいくら働いても退院させないんです。
 退院する人は早い…、私よりあとから入院した人が次から次にと退院しました。つまり退院…、働いてる人のほうが、退院させないような感じなんですね。「なんか矛盾してるな」と思って、「じゃあ、こんなんだったら辞めたほうがいいな」と思って、プラスチック工場もやめました。それでも働きたいという虫がわいて、今度は院内作業をやりました。院内作業っていうのは、病院の給食作業です。給食の作業をして、給食の作業、炊事の手伝いをしたんですけど、病院の患者のあの、配膳の手伝いとかいろいろやって。糖尿食の、糖尿食、特食の盛り付けなんかやったりなんかして手伝ってましたけど。給食作業、けっこう長くやりました。15、6年ぐらいやりました。それでもなかなか退院の話が出ません。


 「なんだ?」って、「こんな病院ないなあ」と思って、「おかしいな」と思って。そしたらあるとき、ふらふらっと揺れました。東日本大震災が起きたんです。そのとき、病院の天井から配管が落ちて、水がバーッと吹き出して、病棟の床に40センチぐらいの水が溜まりました。とても住める状態じゃありませんでした。そして次の日、茨城交通のバスが迎えに来て、私が入院していた双葉病院というところの患者全員はバスに乗って移動して、あちこちの病院に、めいめい別々の病院に転院しました。そしてまあ間引きされたように次から次と病院に移って、最後に私が行った病院は茨城の石岡市の豊後荘病院というとこで、そこに入院しました。そこに入院したときは、ちょっとあの、情緒が不安定になって、被害妄想みたいなのがあって、「柱で話(はなし)してる人がいる」と、「なんか俺の悪口言ってんじゃないかな」って、そう、被害妄想が湧き出て、しばらく状態は悪かったです。
 そうしてるうちにだんだん落ち着いてきて、あるとき状態が良くなって、今まで閉鎖病棟にいてたんですけど、「開放病棟に行かないか?」と主治医に言われました。開放病棟がその病院には2つあったんですけど、「普通の開放病棟がいっぱいだから、老人の開放病棟に行かないか?」と言われて、私は老人の開放病棟に移りました。その老人の開放病棟には、知的障害者の女の患者もいました。その女の患者はときどき、老人の女の患者ともめて暴れて、テーブルをひっくり返したりなんかします。それを私は止めました。そんなことが2、3回続いて、いて、けっこう私のやったことがよかったんだか何だか知らないけど、あるとき主治医に言われて、「きみ、グループホームに行く気ありませんか?」って言われて、退院の話が持ち上がりました。それで私は、「いやあ、私は退院なんかできないよ。免許もないし、全然やっていく自信がないです」、主治医に言いましたが、「いや、伊藤さんならできるんじゃないか」って。あと、前いた双葉病院で知り合った、作家の織田淳太郎さんっていう人に出会って、「時男さんはなんで退院できないんだ? あんたらみたいな何もないような人が39年も入院してるなんておかしいじゃないか」、そう言って、「時男さんなんか退院できるんだから、退院する気にならなきゃだめだ」と、そんなこと言われて。
 だけど、その当時は退院する気は全然なかったんですけど、豊後荘の病院に来て、年金も、福島の病院に地震がある前にもらえるようになって、経済的にもゆとりが出てきて、「じゃ、退院しようかなあ」と考えました。それで、退院しようと思っていたんですけど、まだ不安な気持ちがあって、どうしようか迷ってました。そうしたら退院の日にちが迫ってきて、結局退院する気になって、退院する日にちになって、どういうわけか風邪ひいたんですよね。風邪ひいて、「ああまた、前の病院にいてたときも退院を逃して、2回ぐらい退院を逃してるから、また俺はどっちみち退院できないんだな」と思ってました。そしたら風邪ひいて熱出して、体のことが気になって、うーん、「ごはんだけは食べなきゃだめだな」と思って、無理してごはんを全部食べました。そしたら熱が下がっちゃって、退院直前になって、2、3日前になって熱が下がって、それで退院の運びになって、太田市の、群馬県の太田市のグループホームに試行外泊に3泊4日しました。3泊4日して、あの、グループホームの人たちといろいろ話(はなし)して、なじんできて、そのうち退院のけ…、あ、グループホームに入居するようになって、結局退院しました。そしてグループホームで生活することになったんです。
 だけどグループホームの人たちはみんな、前いた双葉病院の患者みたいに、施設に慣れていて、「病院のほうがいい」って、まあグループホームも、「グループホームがいい」っていうふうに考えていて、なかなかひとり立ちしようとする人がいませんでした。それで私は「ああ、これではだめだなあ。じゃあ、なんとかしよう」と思って、太田市の「ふらっと」っていう地域事業支援センター(地域活動支援センター)の事務所に行って、職員と話(はなし)して、職員にパソコンを、パソコンで一軒家を探してもらって、太田市の熊野町に一軒家で家賃3万5千円のところがあるっていうわけで、「あそこがいい」っていうわけで、そこに行くことになりました。そしてグループホームでは2年ぐらい住んでいましたが、グループホームを離れて、今、一軒家の、熊野町のアパートに5年近くは住んでいます。
 それから、地域事業支援センターで女の人がなんか仕事やってるような感じで一緒に話(はなし)してるので、「何してるんですか?」って聞いたら、「ピアサポートっていう仕事をしてるんだ」っつって。「ピアサポートってどんな仕事なんだ?」って聞いてたら、「精神病院の患者さんをサポートする仕事なんだ」って聞いて、「あ、じゃあ私も、精神病院に入院しててまじめにやってる人を助けられたらいいな」と思って、ピアサポートをやるようになりました。それからピアサポートを7年ぐらいやってます。この前もあの、医療センターで講演みたいなのをやりました。赤田卓志朗っていう、あの、あそこは、伊勢崎の医療センターの院長と対談しました。そんな仕事とか、あと病院訪問で患者さんと交流する仕事をしています。
 そして時間もわずかになってきましたけど。あと、私はいろいろ今まで経験しましたが、やっぱり退院は諦めてましたけど、やっぱり夢だけは持ったほうがいいと思います。夢は絶対、叶わなくても、いつかは叶うんだという気構えでいれば、必ず夢は叶います。そんなことが、私は感じました。
 それから私は、今ピアサポートの仕事をしてますけど、少しでも精神障害者の役に立つように、毎日いろいろ、いろんな精神病の本なんかを読んだりなんかして、ためになるような本を読んで、やってます。そして私がこういう病院に打ち勝ったのは、趣味があったからです。趣味が、多趣味だったです、私は。絵を描くこととかそういうのが好きで。今年、去年だったかな? 去年の12月ごろ絵の個展を開きました、太田市で。塗り絵の、塗り絵と絵の個展です。カメラマンの人と二人で二人展っていうのをやりました。それからこの前あの、相模原で絵を展示しながら、長すぎた入院の映像を流し、そのあと講演をしました。いろいろ活動している昨今の私です。これからもよろしくお願いします。

会場:(拍手)

司会:たいへんあの…、なんか言葉になりませんけれど、「青春を取り戻す」ということでね、生きてらっしゃる伊藤さんの姿を見て、みんなが勇気をもらっているって思います。どうもありがとうございました。
 みなさん資料集の96をご覧ください。毎日新聞の記事を載せてあります。これはですね、115もある、東京に115あるそうですけれども、その中のどの精神病院を使うのさ、っていうふうに考える手立てというのは、ここのところ基本的にないです。たった一つ道しるべとしてあるのが、630(ろくさんまる)調査の結果を自分たちで情報公開で手に入れて、そしてそれを読み取っていくっていう活動をですね。東京ならば、「東京精神医療人権センター」というところがやってくれていました。ところが、この毎日新聞の記事がですね、2018年の8月に載っていると思います、この記事によると、なんと「50年以上の入院をされているかたが全国に1,773名おられる」という記事が載りました。そうしましたらば、この記事はいろんなことを教えていて、一つには、日本のその実態のひどさ、すさまじさということをあからさまにしたのと、なんと考え違いをした日本精神病院協会さんがですね、「もう630調査は情報公開するな」と、「なぜならばそれは個人情報を明らかにしてしまうからだ」というふうに言い出して、630調査を各自治体がですね、情報公開しないようになっています。
 そして、もう一つは、みなさん普通に計算してみてください、今、たとえば私65なんですけれど、65歳の人間が50年以上入院していたっていうと、まあ65なら差し引き、単純に15歳、中学生ですけれども、中にはですね、どう計算しても4歳ぐらいから入院していたっていう計算の人が出てくるんですよ。いかにこういう調査がですね、いい加減に行われているか、ということも露見をさせることになりました。そういうことも含めて、何十年もNPO「大阪精神医療人権センター」は宇都宮病院事件の以降すぐに開設されて、いろんな活動をしていておられます。そこの活動を踏まえて、竹端さんに報告をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。

竹端:こんにちは、竹端ともうします。よろしくお願いします。
[音声終了 00:26:19]


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声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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