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桑名敦子氏インタビュー

桑名 敦子 20191112 聞き手:立岩真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫

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桑名 敦子 i2019 インタビュー 2019/11/12 聞き手:立岩 真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫

生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
病者障害者運動史研究
◇文字起こし:ココペリ121 122分

※最初はただお会いしてくださるということでお会いし、録音も、また公開の希望もお伝えてしないなかでうかがったお話です。公開を許可してくださった桑名さんにお礼申し上げます。
※★等についてリンク他はこれから。後日掲載いたします。→少ししましたが少しです。これからまた(20200129)。


立岩:いつもはアメリカに住んでるんですか?

桑名:ハワイに住んでいます。

立岩:海に潜っているというか、あの〔新聞に載った〕写真★も地元で泳いでるっていうか。
★Atsuko Kuwana: Jumping in at the deep end BY LOUISE GEORGE KITTAKA The Japan Times AUG 24, 2019 https://www.japantimes.co.jp/life/2019/08/24/people/atsuko-kuwana-jumping-deep-end/?fbclid=IwAR0QvBKPAvnuP2enOjLBvBUbo0KT7oGcbYRxZ1nh7V6m2eDM1fioIHeak4U#.XWs-wij7TD7

桑名;そうですね、そういうこともありますね、はい(笑)。

立岩:ああ、そうなんですか。

桑名:はい。4年ぐらい前にハワイに引っ越して、それまではワシントンD.C.のほうに20年ぐらいいたんですね。その前は10年ぐらいバークレーにいて。

立岩:はいはい。もしかしたらそっち方面に今もいらっしゃるのかなって、なんとなく。いや、何も考えてなかったんですけど。

桑名:いやいやいやいや、これ、ですから、ハワイのベタなお土産で。

立岩:ハワイといえば〔マカデミアナッツ〕。ありがとうございます。

桑名:いいえ。すみません、お忙しいところ。

立岩:いえいえ。

桑名:全然お会いしたことがなくってね。

立岩:そうなんですよね。

桑名:はい。本★出て、インタビューしていただいて★。ありがとうございます。ぜひ、ですからお目にかかりたいなと思って、お忙しいところお邪魔いたしました。
★青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]
★桑名 敦子 i2018 インタビュー 2018/10/09 聞き手:田中恵美子 於:東京
桑名 敦子 i2018 インタビュー 2018/12/02 聞き手:田中恵美子 於:東京


立岩:今回日本にどのくらい滞在?

桑名:1週間前に来て、あと1週間弱いますね。

立岩:2週間ぐらい?

桑名:そうですね、今回ちょっと長い、いつもは1週間ぐらいなんですね。

立岩:日本にいるときは、京都はしょうがないから宿に泊まるんでしょうけど。宿に泊まるっていうか。

桑名:まあ、そうですね。もう実家がない、母は生きてるんですけど、実家は福島県郡山市なんですけども、そちらにはもう家はなくて。母も東京のほうに引っ越してきて。で、もうそれは小さいとこなんでね。で、もうあとはやっぱり、こう、バリアフリーでっていうのは一番いいのは、常宿は東横インですね。

立岩:ああ、はいはい。

桑名:東横インはほぼ間違いなく。

立岩:みんな東横インはいいって言いますね。

桑名:うん、大好きです。安いし。

立岩:一度おおきく問題にされて★、よくなりましたね。

桑名:そうですね、どなたかがなんかで問題になったから。

立岩:そうそう。

桑名:やっぱ問題になるといいですね。問題にならないと、ほんといろんな今も。ほぼだから日本に来て、ほぼ毎日、毎日ではないですけども、毎日のように今朝もありましたけど、なんて言ったらいいのかな、いろいろありますね(笑)、面白いことがね。

立岩:そうですか。ニュースとかあまり見てないから。

桑名:いえいえ、私個人でね。個人的に、そういうそのアクセスの面とかで。来年パラリンピックでね、おもてなしとか言って、全然おもてなしのない国だなっていうのが日々わかって(笑)。でも、あの、いろいろいろいろ注意するのが面白くてっていうか、あれ注意しないのかな、みんな。なんかこう、私あんまり、ここに住んでてもたぶん注意すると思うけども。言うとみんなほんとにそうするかどうかわからないけど、少なくとも言ったほうがね、言ったもの勝ちと言うか、言ったらなんかこう気が付く。けっこう気が付かないんですね、たぶん皆さん。

立岩:そういうところもありますよね。

桑名:今日も、お友達が市の観光バスで、出てるんですよね、市がやってるっていうか。

立岩:うんうん。

桑名:で、当然ないと思ったから、私は別に行く必要もないし、お友達だけを見送ってからと思って。ちょっと聞いたら、「そこではありません」と言われて、「あ、そうですか」って。で今度は試しにと思って検索したら、あるって書いてあるのね、今度はね、バリアフリーがね★。で、「え? 今ないって言われたのに、どうしてこれ、どういうこと?」って思って、「これどう言う意味ですか?」、別に責めるわけではなくねほんとに、「これどういう意味なんですか?」って、これ、こんなふうに書いてあったんですよ。

立岩:うん。

桑名:これ読んだら車いすも大丈夫的なことと思いません? 普通は。

立岩:書いてありますね。

桑名:書いてあるでしょ? だからそこに行って「これどういう意味ですか?」って聞いたら、「あ、これは、車いすがバスの下の荷物を入れる所あるじゃないですか、トランクとか。あそこに入るという意味です」って言われて、「じゃあこれ間違いですよね? これバリアフリーじゃないって書いたほうが親切ですよ」って言ったら、「そうですね」とか言われて。

立岩:うん、これは普通に可って書いてあるよね。

桑名:可って、でバリアフリー情報とかね。だから、これ、そもそも乗る気はなかったんですけども、「バリアフリー情報ありませんって書いたほうが親切じゃないですか?」って言ったら、その人が、「あ、そうですね」って。そうですねって、いや、子どもだってわかるでしょ。

立岩:運転手さん?

桑名:その方は、元々運転手だったのが、「いや、僕もね障害者なんですよ」とか見せられて。また始まったと思ったけど、「これで僕はクビになって今はここで仕事しています」とかって。元々運転手だった人が案内してるんですって。だから、あの、「お客さんの言ってることはよくわかります。だから言っときます」とか言ってましたけど。

立岩:ふうん。それ不思議。

桑名:こういう不思議なところがいっぱいあるんですよ。あと、今はタクシー乗って来たんですね。外国人とか、障害者とか、高齢者とか、妊婦さんとかを乗せるっていう。で、その運転手さんすごいいい方で、息子さんがここに通ってるって言ってたかな。まあでも、その車はバリアフリーなんですって。車はそもそも出せるんですって。スロープな、下にこう。だけど京都駅では場所がないんですって、出せる場所が。だから車はあっても、そのスロープが使えない?[00:05:20]

立岩:ああ。京都駅、なんとかなるような気するけどな。だめだって?

桑名:乗せられない、出せないんですって、場所的に。だから、「せっかくあるんだけど使えないんです」って言うわけですね、運転手さんは。んで、その運転手さんにも、だから、一昨日かなんかも郡山でレストランに行って、けっこう新しくて。で、二つ入口が両側にあって、両方とも階段なんですよ。まあそんなもんだろうなと思って、家族と行ったから。で、降りてきたら、目の前に車いす用の駐車場があるんですね。そこに車いすって。これ、車いすの駐車場がある、でもここはバリアフリーじゃない、これどういうこと? っていうか。だから、すごいなんか皆さんが勘違いしてらっしゃるようで、これがあれば大丈夫、だからその全て繋がってるじゃないですか、あらゆるものが。ここはいいんだけど、ここからはだめですよ、みたいな。だから何も、なんの利用価値もないですよね、それね。「それバリアフリーって言わないから、それ」と思うんだけど。そういうような、なんか日本にいると、ここはいいんだけどそこに行くまでは行けませんよ、みたいなね(笑)。なんかそういう全体に考えてないというか、非常に言葉だけは一人歩きしてるけども、それがうまく機能していないというか。たぶん一般の人はわからないか、わかる必要がないと思っているだろうと思うし、どうなんでしょうね。

立岩:そうですか。どうしてんだろうな? ここ、これまで、全部で何人ぐらいかな? この大学院ってそんなに昔からあるわけじゃないんですよ。2003年からつってもだから16年にはなりますけどね。今現役で車いすに乗ってるのが、4、5人かな。

桑名:皆さんどうやって通学はしてらっしゃるんですかね?

立岩:えっとね、ごく近くに住んでるってのもいます。電動で自分で来れるっていう。学生はそうかな。ここらへん…立命館って便利じゃないんですよ、大学そのものが。誰にとっても。

桑名:そうですよね、そうですよね、地図見てもね。

立岩:昔はもっと街の中にあったらしいんですけどね、御所のこっち側にあったらしいんですけどだいぶ前に移転して、金閣寺が近いから観光にはいいのかもしれないけど、住むには地下鉄からも距離あるし、バスだと時間かかるしっていうんで。便利なとこじゃないですよ。

桑名:バスは50分ぐらいとかですか?

立岩:かかりますね。

桑名:だから、でもそれはバスもね、もう時間がなかったらタクシーで来た。私ほんとはそもそもタクシーなんて滅多に乗らないんですね。東京なんか乗らなくて全然済みますから。だからタクシーなんて10年ぶりぐらいに乗ってしまった感じで。まずお金もかかるしね。あとは、

立岩:今日、どこから? 宿のあたりからっていうこと?

桑名:今日、京都駅。

立岩:けっこうかかるでしょ、金。

桑名:うん、3,100円ぐらいだった。だから4,000円出して、500円お釣り下さいってお釣りもらったかな。だから3,500円っていう感じで「おお、こんなかかった」と思って。帰りは時間があるんでバスに乗って。で来る時に、立命館行きというバスを見たんですよね、ノンステップとか書いてあって。バスの案内の人に聞いたら、「大丈夫ですよ、ただ時間50分です」って言うから、「ああ、じゃ行けません。帰る時に、こちらから京都戻る時に乗りますよ」と言ってきて、それは乗ろうかなと思ってるんですけども。どんな感じかなあと思って。観光がてら、いろんな所通ると思うし。

立岩:近所はそんな感じなので、アクセスは。けっこう学会とか大きい催しやったりするときは、京都にもう一つキャンパスがあって、そこを使ったりしないと、車いすじゃなくても、誰だってあんまり便利な所じゃない。

桑名:これ京都のはずれっていうとこなんですか?

立岩:まあ、そうですね(笑)。西北か、北西。北に行って西のほうに行くっていうそういう感じのとこです。

桑名:定期バスで50分っていってもけっこうありますよね。

立岩:あります。京都駅は南のほうなので、四条とか街のど真ん中からだったらもう少しは短いですけど。でもかかりますね。僕の家からも直通のバスはないです。

桑名:丹波口という駅がJRにあるんですね。

立岩:あります、はい。

桑名:東横インはあそこから10分ぐらいなんですよ。だけど、それがちょっとわからないというか、昨日は地下鉄行っちゃったんですよね。地下鉄で五条で降りて、西のほうにずーっと行ったのかな、だから20分ぐらい…けっこうかかって。普通東横インってけっこう駅の近くとかにあるのになんか不便なとこだなと思ったけど、丹波口に行けば、丹波口だったら10分ぐらいだから、JR使えばいいかなと思って、夜はそれで帰ろうかなと思ってるんですけども。

立岩:そう、東横インは今あらゆる駅の近くにあるから便利は便利ですよね。

桑名:そうです、すごい便利です。ただやっぱりあそこも、ハートフルムールっていう、AとBというのがあって。今私お友達と一緒だからB、二つベッド。あとは京都は四つぐらいしかないですよね? 東横イン。四つか五つぐらいしか。

立岩:そんなもんか。

桑名:そんなもんでした。で、その半分は、そのベッドが一つっていうやつだから、一人しか泊まれない。

立岩: 1個の宿に1個しかないってパターンが多いですよね。

桑名:ですよね、それもやっぱりおかしいですよね。

立岩:それでね、だからいっぺんに5人とか6人とか車いすのお客さんっていうか、訪問者があることがあるじゃないですか

桑名:はい、もちろん。

立岩:そうすると面倒なんですよ。

桑名:ですよね。

立岩:こちらで予約して差し上げるっていうか、そういうときに、送迎もだから一つの宿に一人だからさ、五つ出さなきゃいけないみたいな話になるじゃないですか。不便なんですよね。だから、東京がこれからオリンピックだなんだっていうんで、ちょっと違うようにするつもりなのかな? ていうのは聞きましたけどどうなのかな。今から間に合う気はしないんですけどね。

桑名:いや間に合わないでしょ。だから、パラリンピックどうするのかな皆さん。しかも、あんな外国人の障害者なんか言うこと聞かない(笑)、言うこと聞かないって、ありとあらゆることしちゃうから大丈夫なのかな? 日本人みたいに、ハイハイとか聞いてないと思うから。勝手にあっち行ったりこっち行ったりしますよ、あれ絶対。少なくともアメリカ人のパラリンピックの選手はそうだと思いますよ、私(笑)。

立岩:僕らはもう、オリンピックやパラリンピックの時は東京に近づかない。

桑名:ねえ、私もそうですね。もう行かない、絶対行かないし、まず8月にそもそもあるなんてみんな死ぬって(笑)、見てる人も選手も死ぬっていって。

立岩:いや、ほんとに。まあいいや、どうでもいいってことはないんでしょうけど勝手にすればって。

桑名:そうですね。私そもそもオリンピックやってる場合じゃないんじゃないですかって。福島県やっぱり今ね、大変な状況なんで、なぜに今なんだろうというか。うーん…、そもそもパラリンピック、オリンピック、どうでもいいんですけど、私もどうでもいいんですけど(笑)。

立岩:ソウルがオリンピック・パラリンピックやった時は、韓国の障害者運動が反対したんだよね。そんなことに金使うんだったら私にくれって。ごもっともだと思いました。

桑名:ですよね、その通りですね。

■ハワイ

立岩:話突然変わりますけども、ハワイで、ハワイって行ったことないですけど、いいとこだってみんな言いますけど。

桑名:はい。確かにお天気はいいです。体にはいいと思いますよ、暖かいしね。どんなにどんなにみんな、地元の人、「寒い凍え死ぬ!」って言って25℃ですからね、「25℃で死にませんから大丈夫ですよ」って皆さんに言ってますけど(笑)。

立岩:そんなに暑くもないでしょ?

桑名:うん、でもね、やっぱりね、温暖化が来てて、

立岩:暑い?

桑名:あのね、湿気。

立岩:湿気?

桑名:うん。地元の人は昔はエアコンなくて全然住めましたと、風通しがね、よかったんで。でも今は、最近はエアコンがないと、風がぱたっとなくなると、やっぱり。

立岩:じわっとくる?

桑名:うん、じわっとくるし。今年なんかは、普通はだから私4年いて、4年いても感じますよね。今年はこのじわっがずーっといつまでも続いてるなっていうか。来て3年ぐらいは10月になったらもうエアコンは使わなくても風だけで生活できますけども、今年はなんか、1日中使いませんけどもちょこっと1、2時間使ったりしてますかね、エアコンね。

立岩:京都暑いですよ。京都半端じゃないですよ。

桑名:ですよね。福島県もそうですから。福島市盆地でしょ。福島市ももうなんか。

立岩:ハワイはいい所だからって越したんですか?

桑名:うーんとですね、いろいろ理由がありまして。6年前に夫★が亡くなったんですよね。それで、そもそも私ワシントンD.C.にいたくなかったんですね。バークレーは大好きだったので、カルフォルニア、バークレーは。
Winter, Michael〜2013/07/11

立岩:やっぱりそのお仕事というか、亡くなった…、

桑名:そうですね、夫の仕事がやはり。夫のことはご存知ですよね?

立岩:はい。直接会ったことはないですけど、お名前と。

桑名:やはり夫は、やっぱり世の中変えるにはもちろんNPOなんかでやるのもね、市民の運動としてやるのもいいけど、やっぱり法律を変えないと、中央を変えないと下までいけないっていう感じが彼の中にあって。それにはワシントンに行かないと、そういったポリシーとかね、そういうとこに。要するにそのシステムに障害者が入っていかないと、やっぱりだめだということで。そもそもやっぱり政治ばかだったんです。すごい政治が大好きで民主党のバリバリの党員だったんですね。だから私が結婚したのが1984年ですからもうずいぶん。その時から、もう結婚した時から、いずれはD.C.に行って仕事したいと言ってたんですけども、最初の10年くらいはずっと共和党だったんですよ。レーガンで、

立岩:政権?

桑名:うん、政権がね、レーガンで、次がブッシュで。次にやっとクリントンになって、やっと民主党が日の目を見るみたいなね。そうすると、アメリカの政府のシステムというか、政治のシステムというか、大統領が変わるたびに全部変わりますでしょ。公務員は変わらないけども。その中にやっぱり彼は入りたかったんですね。で、クリントンで入ったんですね。それがだから90年初頭ぐらいですよね。92、3年だったのかな。

立岩:クリントン政権の開始の年〔1992年に当選、1993年就任〕と考えていいんですか?

桑名:1年後ですね、1年後に。うちはそんなに高くないので。ジュディ・ヒューマン〔Heumann, Judith E.〕なんかはすぐ入れたんですけども、うちはもっと下だったので1年ぐらいかかって、1年後ぐらいにやっと電話が来て。もちろんそこにはインタビューされに何度も行ったりとかね、面接があって自動的に入れるわけではない。やっぱりアプライして、で、いろいろやって。彼はやっぱり交通のほうでやりかたった。交通をまずは、アクセスをしたいというのが。そもそも地元でも、バークレー周辺、オークランド周辺のエーシートランジットっていうバス会社があるんですけども、それは地域の人が理事、選挙で理事を選んで、その理事がいろいろ決めるっていうバス会社だったんですね。そのバス会社っていうのは民間と公とが一緒になっているようなバスだったのかな、でも少なくとも理事は選挙で選ばれる。

立岩:そういう会社って多いんですか? そんなにそこらじゅうにあるとはあんまり思えませんけど。

桑名:どうなんでしょうね。そこはそこでした。

立岩:そこっていうのはバスが?

桑名:オークランドと、バークレーとかオークランドとかベイエリアのあのへんを走ってる、いわゆる市バスみたいなものですよね。そこにこう、まずは実際に。はじめはバークレーの市議会員を狙って候補したんですけど落ちてしまって。とにかくだから彼はやっぱり政治の中で、政治にまず入って、自分がシステムの中に入って何か変えるには、利用者側からももちろん大事だけども、やっぱり中に入ってやらないことにはいろんなことに決定権がないということに気がついたのかどうか、まあそれをしたかった。あとはもちろん政治が好きだった、ケネディ大統領を師と仰いで。そういう時代の人ですからね。

立岩:ああ、そういう感じの、そういう時代の。でもわかりますよね。

桑名:ケネディ大統領が亡くなった時が中学生ぐらいだったのかな。なんかそれでもう。今でこそケネディはあまり聞かないですけど、その当時はやっぱりいろんな、ケネディがね、いろんなね、ありとあらゆるところで、ね。やっとキャロライン・ケネディがちょこっとこの間日本に。でも今ほとんどケネディなんて聞かないけど、ちょうどケネディが。

立岩:長いこと、アメリカのリベラル派の旗印というか、象徴みたいな人でしたよね。

桑名:そうですね。

立岩:バークレーで、市議会員の選挙には落ちて、そのバス会社の理事っていうか、

桑名:選挙には当選したんですね。

立岩:選挙するんだ。

桑名:はい、選挙でした。当選して、その傍ら民主党員としてボランティアをしたりとか、いろんな民主党の党大会に出たりとかしてて。そういうやっぱり実績をたてないと、政権が変わった時にふっと入れない。いくら民主党ですって言ったって何も実績がなかったら入れないですね。だからそれを徐々に、いつかはと思ってたんでしょうね、徐々に積んでいって。それが上手くいったんですね。

立岩:D.C.に行ったのは、指名というか、採用というかされたので、バークレーいいとこだったんだけど、西海岸いいとこだったんだけどワシントンD.C.に行って政治に参与しようという。 

桑名:まあそうですね、政治というか、政権の中のちょっとした部分ですけども、やっぱりポリシーに関わるにはということで、その中の運輸省に入ったんですよね。そもそも彼はもう、例えばなんだろうな、アメリカの障害者って専門があるのかわからない、うちは交通のほうでっていう、やってたの。だから例えばジュディなんかは教育だったのかな、教育に入りましたね、特殊教育のね、スペシャルアドバイザーみたいなね、もっと上か。特殊教育のトップですね、ジュディはね。クリントン政権の中のね。

立岩:日本はわりとかちっとさ、省庁の上から下まで順番決まってるじゃないですか。そこの中に中途から入るってあんまり考えにくいっていうか、そういうシステムで日本はできてますけど。アメリカのシステムはよくわからないんだけど、ジュディ・ヒューマンなんかはなんとかアドバイザーみたいな、そういうような役職とか肩書きで入っていくんですか?

桑名:そうですね、うちもアドバイザーだったんですね、運輸省の中のね。一番下のほうのアドバイザーね。でもジュディは、教育庁の中のスペシャルエデュケーションのトップだったんだと思います。

立岩:トップのアドバイザーっていうか。

桑名:うん。そういう人たちはみんな、ジュディもそうだしうちもそうだったけども、ポリティカル・アポインティなので、要するに政権が変わればみんないなくなっちゃうという、そういうあやふやな。あやふやだけども、そこに就いてると割がいい仕事っていうか、みんなからおおって言われるような。

立岩:一定の権限というか、影響力があるわけでしょう?

桑名:あったと思いますよ。

立岩:あるから行ったわけですよね?

桑名:もちろんあったと思います。

立岩:けっこう政権の中に入って。

桑名:で、2期目の時にはシビルライツ。その運輸省の中のシビルライツに入ったんですね、うちの夫は。で、そこでいろいろやりすぎちゃって。

立岩:そうなんですか。

桑名:やりすぎたんですね、ちょっとね。それで政権が変わったから、今度はブッシュになったじゃないですか。ゴアが落ちてしまったので、ブッシュの息子のほうになってしまって★。

立岩:ジュニアのほうになった、そうか。クリントンの時の後半でやりすぎたっていうのは何をやりすぎたんですか?

桑名:あ、クリントンの時は大丈夫でした、ごめんなさい、クリントンの時は大丈夫でした。だけどブッシュになった時に今度は、ポリティカル・アポインティじゃなくって公務員として入って。

立岩:そういうこともできることはできるんだ。

桑名:まあいろいろなコネを使いながらね(笑)。その時にシビルライツのトップになったんですね、公務員として。

立岩:運輸省の中のシビルライツのところのトップになった。

桑名:そこでやりすぎたんです。ブッシュの下だったから。周りはみんな共和党なわけですよ。彼はもう公務員としてね、共和党も民主党もないけど、でももう知ってるじゃないですか、みんな、この人今までポルティカル・アポインティ入って、そこにすっと入って。で、今度上は、周りは全部共和党で固められているわけですよ、ポルティカル・アポインティは。彼は、ポルティカル・アポインティではなくって、一般の、いわゆる日本でいったら公務員という中のシビルライツの上でやったんだけども、そこでやりすぎたから目をつけられてしまって、ある日突然仕事場に行ったら自分のオフィスの机も何もなくなっていたと。だけど、公務員だからクビにはさせられないから、なんか全然関係のないような、名前だけはインターナショナルなんとかいって、でも全然彼には全く。結局だから窓際に行かされちゃったってことですね、結局ね。

立岩:クビにはできないけど、配置転換で閑職に追いやるっていうやつですか?

桑名:そうです、そのとおりでした。だから彼は政府を相手に裁判をおこそうとしたんですね、不当な扱いを受けたということで。

立岩:それはブッシュの何年目ぐらい? ブッシュの年? ブッシュ政権の年ぐらい?

桑名:いやいや初めじゃないですね、2、3年経ってたかな?

立岩:2、3年はそういうんでやった結果がそういうことですか?

桑名:2年ぐらいやって、それでいろいろやりすぎちゃったから、目つけられちゃって。こいつがいるとうるさいっちゅうことですよね。

立岩:なるほど。

桑名:やっぱり声あげるじゃないですか、当たり前だけど彼のことだからそんな静かにしてないですよ。そのシビルライツっていうのは、そこの中の職員のシビルライツも入ってるわけですよね。要するに、運輸省、運輸に関係するお客様だから、バス会社だとか、航空会社、そこの乗客乗務員もちろんだけども、運輸省の中の働いている人のシビルライツに関してもやる仕事、自分たちのね。そうすると、その中の彼はやっぱり、運輸省の中で働いている障害者とかLGBTとかね、いわゆるマイノリティの人たちの権利を、職員としての権利をなんとか、ただ雇われているだけではなくていろんな意味でってこうやってたんですね。それがやっぱりよくなかった。よくなかったっていうか(笑)。

立岩:目つけられちゃって。

桑名:そもそもブッシュ共和党って、シビルライツのオフィスは要らなかったんじゃないのかな。あってもそんなに。そりゃ失くせはしないけども、やっぱり共和党ってそんなにね、そこに力なんか入れたくないでしょう、きっと。それなのに、あんな目つけられることやっちゃったから、配置転換させられて。でもクビじゃないから仕事は一応あるし、本来の仕事じゃないけどね。だからお給料だって別に悪くはないし、だから私妻としてはオッケーなんですよ、全然。だけど彼は、クビにさせられたとかならあれだけど、クビにさせられない、今と同じようなその、家庭の中ではなんら一つ変わりがないとこに、なんでそれであえて政府なんかに、絶対負けるんだから。政府を相手どって訴えるなんかできるはずがないんだから。で、それで一度言ったことがあったんですわ、「なんでそんなことするの? そういう無駄なことを」って。その時に、「これは僕のprinciple」、ね、根本にある。とにかく勝つとか負けるとかそういう問題じゃないと、とにかくやらせてくれと。ここで泣き寝入りはできない、勝つとか負けるとかでなんかやってる、これでお前らが悪いんだっていうことを証明したい、というか彼の中でね。まあ、それはわかりますよ、私は。「わかりました。じゃあご自由におやりください」。で、弁護士を雇うとお金かかるじゃないですか。だから弁護士はポイント、ポイントで雇って、自分で今までの証拠集めをいろいろして。弁護士に頼めばお金もかかるから、たぶんお金も使ったと思いますよ、いろいろ。でもそれも、「私にはお金の使ったことは言わないでください」。お金使ったっていうと私もカッとなるから、ご自由に、ご自由にってね。「気持ちが済むまで、お金も使ってもいいけどもそれは言わないでやってください」って言ったら、やってたんじゃないのかな。でも、やってる最中に亡くなってしまったので。

立岩:最中だったんですか?

桑名:ていうか最中っていうか、そもそもあれやっててもずーっとだと思いますよ。もし生きてたら未だにやってたかもしれない。

立岩:裁判は始まって?

桑名:始まらない、全然始まらない、そこまでもいかない。そこにいかない。

立岩:準備段階みたいなそういうところで、

桑名:そういうところ。

立岩:ああ、そういうことだったんですか。

桑名:もう裁判をしようと思ったけど、そこまでいくなんて、まずいかないと思うの、私はたぶん。時間的にもお金的にも。

立岩:そんなことなさってる途中で。

桑名:はい。

立岩:亡くなられた、

桑名:原因はやはりあれですよね、骨形成不全だったんですけども、骨形成不全って骨の病気なんですけど、最終的にはやっぱりこの…。私実際日本の骨形成不全の方、「あら、マイケルとそっくり」とかいう人、なんか呼吸がね、だんだん難しくなって。だからそういうのもなんかあるのかなあ、その、なんか。いません? そういう人。

立岩:ここ京都ですけど、JCILって日本自立生活センターっていうところの代表矢吹〔文敏〕さん★って、矢吹さん骨形成不全じゃなかったかなあ。こういう、鼻に呼吸のやつ付けてますね。

桑名:夫も、それになる前に亡くなってしまったの。それに、亡くなる1ヶ月前にある日突然酸素の量がガガッと低くなってしまって、倒れてしまったんですよね。で、これから以後はこれを付けないとだめですよと言われてたんですよ。言われてて、でも彼はやっぱり、それをやるとやっぱり、彼はガンガン行くタイプだから、障害者のくせして、これ以上障害者になりたくなかったのかな(笑)。まあとにかく、その1カ月後に、基本的には体がもう言うこときかなくなったっていうか、まあ心臓麻痺ってことですよね、いわゆるね。だってほんとにある日突然。体はほんとに1ヶ月前に倒れた時から、なかなかうまく良くなっていなかったんですよね。でもそんなに寝たきりでもない。なんとなくいい日もあれば悪い日もあるみたいななんか不安定な。
 で、その日の朝も、だから6月に倒れて、7月の、亡くなったのが13日だから、7月の4日がJuly 4thで独立記念日で、その時も普通だったら独立記念日なんか花火とか元気に見に行くような人だったのが、「今年はもう行かない」とかって。やっぱなんかおかしいなと思って、「お医者さんに一度行ってみたら?」って言ってて。そしたら、その日の7月13日の朝に行ったら、気管支炎だって言われたって言うんですよね。でも気管支炎じゃなかった、だって気管支炎だったら咳とかするのに、咳もしてなかったし。で、気管支炎だって言われたって言われて家に帰ってきてお昼一緒に食べて、薬出されたからって、抗生物質をね、薬取りに行くって言って。「じゃあ私は仕事があるけど休んで家にいましょうか?」って言ったら、彼が、「いや、行ってくれ」と。「自分のために残ってもらう必要はないから」って言って。「じゃあ、わかりました」って言って、ほんの2時間ぐらいですけど、2時半ぐらい行って、5時に仕事終わって5時ちょっと過ぎぐらいに帰ってきたらば、家の中がなんか静かだし、「あれ、薬取りに行ったのかな?」と思ったら、おトイレの目の前で車いすがあって、あれ、と思ったら、車椅子の向こう側にバタッと倒れてて。で、それも、1ヶ月前に倒れてるから、「あ、またなったんだ。また呼吸があれなんだ」と思って、で救急車をすぐに呼んだけども既にもう。

立岩:呼んだ時には既に心肺停止というか。

桑名:うん、そうですね、だから病院にも連れて行かなかった。

立岩:病院には行かなかった?

桑名:行かなかった。もうそこで死亡が診断書が出て。担当の人が主治医とかに電話して、電話でやりとりしながら、もう、はい。だから、そこからはもうすぐに葬儀場っていうんですか、霊安所みたいな所に直接行きましたから。突然といえば突然ですよね。

立岩:そっか。呼吸に来たか。そうなんでしょうかね、そうなのかもしれない。僕が知ってる人確かにそういう人いるわ。

桑名:うん、だから日本、亡くなってからこっち来て、けっこうなんかこう、そういう骨形成不全でなおかつ呼吸がっていう人何人か見たことがあるんで、そういうパターンっていうか、そういうなんかあるのかなあっていうか、二次的障害っていうか、出てくるのかな。たぶん、障害者の年齢もどんどんどんどん寿命が長くなったじゃないですか。だからたぶん今まではそこにいく前に亡くなってた? じゃないかな。

立岩:そうですよね。そうなんでしょうね。

桑名:たぶんね。それが、どんどん年齢は、寿命は長くはなってるんだけども、その代わり二次的三次的なものがこう出てきてるっていう状況、素人考えですけどね。

立岩:ありうると思いますね。脳性麻痺なんかそうですよね、60、70になって。白石さん★なんかもそうでした。手術したりして。

桑名:そうでしょう。私は脊損ですけども、脊損とかとは、頚損だって、脊損・頚損で亡くなるわけではなくって、そこからくる例えば腎盂炎とかね、そういう腎臓関係とか、それに、そこから体にばい菌が入って抵抗力が弱くなってとか、そういうなんかこういう、障害そのものでは亡くならないけども、障害から付随してくる病状で体が弱って亡くなるっていうパターンじゃないのかな、と思うんですね。障害者っていうのはね。

立岩:脊損、損傷だとやっぱり腎臓系でしょうかね。

桑名:系でしょ、きっとね、そういうことだと思いますよ。

立岩:そういうことだったんですか。その時はでもワシントンD.C.ですよね?



桑名:そうですね。だからその時はもちろんワシントンにいて。

立岩:そこでお葬式もなさって。

桑名:もちろん、もちろん、はい。それで、私は夫が亡くなったのはもちろん悲しいし、今だって悲しいですけども、そもそも私はワシントンD.C.に私の本意で行ったわけではないので。バークレーは私の本意で行ったので、やっぱりこう自分が気持ちが行ってないっていうかね、夫の仕事について行ったっていうことですから、あまりこう、なんでしょうね、住めば都と言うんですけども、20年いましたけど。あとはやはり半年は冬なんですね、ワシントンD.C.っていうのは。それそこ今ぐらい、11月から次の年の4月、5月ぐらいまで半年ぐらいは。[00:35:04]やっぱり障害者って、あと雪も降る、それもうね、雪降っちゃったらアウトですよね障害者、車いすなんか。とにかく、だから夫が亡くなった時に、「あ、これでなんか私、自分で好きなとこ行けるんだわ」みたいな、すごいそこでパッと明るい光が、夫には申し訳ないですけど、まあでも亡くなっちゃってるんですからね、もうね。だけど、これで私はバークレーに帰れるんだわっていうか、とにかく私はバークレーに戻りたかったんです、ずーっとずっと、今だってその気持ちあるんですよ。実際自分の持ち家もバークレー周辺にありますから、いつだってバークレーに帰りたいと思えば帰れるんですよ。で、バークレーは事情も知ってるし、アメリカの中でベイエリアってのは、やっぱり障害者にとってはベストですよね、いろんな意味で。障害者だけにかかわらず、そういったいろんな意味でのマイノリティーの人たちに対する意識が非常に高くって、一般市民の人の意識もものすごい高い。ほんとに知的レベルの高い人が住んでるんで、話が持っていきやすい、わかりやすい。
 だからその亡くなった時に、自分の好きな所どこでも行けると思った時に3つあったんですね。バークレーに帰ろうか、あとは日本も、毎年来てたんですけども、この数十年の間にいろんな意味で、今、日本だめねと言いながらも、私が80年の初めに日本出た時に比べたらば、いろんな意味でどんどんすごいスピードである意味進んでますよね。だから、そういう意味で、「あ、日本にも住んでみるのもいいのかな」なんて、ちょっとだけ、ちょっとだけ思ったんですよ。あとは、なぜか、なぜかっていうかやっぱハワイ。ハワイはこれもやっぱり夫に関係あるの、夫が私と会う直前に、まだ20代の終わりぐらいの時に、ハワイのCILを立ち上げたんですよね、彼がね。彼は立ち上げたっていうだけで、あとは地元の人に任せて1年半か2年ぐらいしか彼はハワイにいなかったんですけどもね。だけどハワイのことをすごくよく言ってたんですよ、私に。ハワイのいいことしか言ってなかった。ハワイにもいろんな悪いところもあるんだけど、いいことしか言われてなくって。やはりあの時すごく、なんかそれがすごくあって、ああ、マイケルがそう言えばハワイがすごく、まあ彼がCILを立ち上げたっていうのもあるし、そのハワイに、「自分が全然ハワイのことなんかなんも知らないのが行ったのに、すごいハワイの周りの人が助けてくれてすごくよかった」っていうのが、私に年がら年中言ってたので、「ああ、ハワイってどういう所なのかな」って。もちろん観光では行きましたけど実際に住んだことはなかったのでね。
 で、あとはやはり、20年ワシントンにいて、自分でもあんまり思ってなかったんですけども、アジアとか日本に対する想いがものすごくあったんですね、ホームシックというか。食べ物を始め、いろんな人間関係とか、白人と黒人社会に対してもう、やっぱり自分はだめだと。あとやっぱり夫がいたことによって、夫が白人だから、夫がいたことによって自分が日本人なのに、やはり白人社会の中で上手くいってたのは、夫が白人だったからだっていうことに気がついたんですよ。なぜならば、ほんとに、例えばそういう、これはあんたの思い過ごしだよって言われればそれまでなんですけども、例えば毎年、ILの大きなアメリカの1年にいっぺんの大会がワシントンであるんですね。日本からも自立生活関係の人が来たりしてますけども。その時なんかにも、夫が亡くなってから行った時にすごく感じたのは、なんて言うのかな、夫がいた時はすごいやっぱり夫は目立つし発言力もあるからワーッと来てたのが、もちろん私だから行っても誰も来ないし、するーっとスルーされて、まるで私の存在が透明人間のようなね。その時に初めて、「あ、これは、マイケルを通して私はこの社会で、この白人黒人社会の中で生きていたんだ」と。やはりアジア人であるということが、人種差別ってあからさまな差別はしませんよね、アメリカ人だって今は。でもやっぱりこう、今の差別こういうことなんだ、無視されるってことも差別なんだなっていうか、明らかにこれ使っちゃいけないとか、ここ座っちゃいけないなんて誰も言わないけども、スルーされるというか、話を聞いてくれるとか、私に興味を持ってくれるとか、そういうことがない、なんかこう。もちろん私もガンガンいけばいいんでしょうけども、そういうことでもしない限りは、そもそもアジア人とかっていうのはよっぽど発言力をしないと、必要以上にエネルギーを使わないと。
 今ほんとにハワイに住んでてよく思うのが、ハワイにはやっぱり私みたいなのがいっぱいいるんで、ちょこっと言っても聞くんですよね、みんながね。だけどその言う度合いがやっぱり白人社会の度合いと、アジア系の言い方の発言の力が、ここがもし100だとしたらここでは20ぐらい言ったら聞くんですよね。ここは100言ったって聞かないかもしれない。やっぱり白人の中の声の出し方と、アジア系の中の声出し方、あと聞く耳ね、それをいかに聞くか。言うってことは聞く側がいるわけですから、それがものすごく感じて。ここで私が生きていったら、やはりいろいろ、だから非常に複雑なわけですよね、私の中に女性の部分と、障害者の部分と、日本人とアジア人というか。まあそういったいろんな、一つの人間なんだけども心がこう分かれてるじゃないですか。そうすると、いったい何が一番大切なのか。全部大切なんですけどね。やはり私、すごく自分が人種っていうのが私の中では高い位置にあるんですね。もちろん障害もなんですけども障害は…、私の中ではやっぱり人種かな、人種がすごく大切なことっていうか。

立岩:そっか。なるほどね。でハワイか。

桑名:うん。あとは季節がいいってことと、あとやはりカルフォルニア、D.C.はもういいんです、私の中ではD.C.はもう終わってるっていうか、なんの意味もないっていうか、行く気もさらっさらないし、もちろん距離的に遠いっていうのもあるし、恋しいっていう気持ちが全くないんですよね。逆に恋しいといったらバークレーのほうがよっぽど恋しいぐらい。バークレー出たのはもう20数年前なのに。で、あとは、だからハワイはカルフォルニアと日本の中間地点。さっき言った、日本はちょっと行きたいなと思ったんですけども、その気持ちがすぐに萎えてしまったのは、やはりこう、いろんな意味で難しいじゃないですか、頭にくる度合いがものすごくあるっていうかいろんなところで(笑)。今はちょこっと来てるだけから、「いいですよー、これ直して下さいねー」なんて笑いながら言えるけど、もしここに住んだら、私笑いながら言えないと思うんですね、こうガンガン言って。

立岩:仮に日本に帰ってくるとしたらですよ、どこに住むっていうのは考えました? 福島に、

桑名:いや、福島に行かない、絶対行かない、絶対行かない。まあ東京でしょうね。だから関西ももちろんいろいろわかればね、今私関西のこと全く無知なので。関西、私からしたら外国なんですね(笑)、カルフォルニアより外国なんですね、関西は。やっとちょっと敷居が、関西、奈良県に親友がいて、昨日も電話で話して。半年前に5月に来た時に彼女が大阪いろいろ連れてってくれて、なんかちょっと敷居がね。「あ、関西も大丈夫なんだ、行けるんだ」みたいな、ちょっとあったんですけど。だからたぶん関西のこともいろいろわかれば、たぶん関西も行けるかもしれない。でも今はまだわからないんで。東京のほうは毎回行って、東京のほうはね。

立岩:東京は知ってる、福島はそのつもりはない。

桑名:東京は、あとは妹と母が柴又に、葛飾区にいるんですね。そうすると、あそこは都会じゃないんで田舎だから、人情に溢れてるっていうか、寅さんの町だし。だけど交通の便とかすごくいいから。銀座とかに30分で行けますよね。私はああいう下町とか好きだから、あそこだったらなんとかなるかなみたいな気持ちかな。

立岩:なるほど。そういう気もなくはなかったけど、行っちゃったらほんとに怒っちゃうかもしんないし、大変そうだっていうか、もっと楽なところがいいよっていうの。それで、アメリカと日本の間の島、天気、気候がよくて。

桑名:うん。あとはそういう私みたいな同じような顔の人がいーっぱいいて。

立岩:アジアの人がたくさんいて。

桑名:アジアの人がいて、実際行ってみたらほんとに日本人ってすっごいなんかこう、ここほんとにアメリカですか、私にとって日本ですよね、あそこは。もうなんかね、日系人がたくさんいるじゃないですか。

立岩:まず住んでる人の中に日系の人が多いですよね?

桑名:もうそんなんばっかりですね、顔見たら。

立岩:そうですか(笑)。行ったことないからわかんないんだけどさ。

桑名:日系じゃなくたって、中国系、韓国…、とにかくアジア系がいっぱいいるから、白い人はどこにいるんですか? みたいな感じですよね。白い人黒い人はどこにいますかって感じで。もう完全にアジア圏、アジアそのもの、というふうに私は。

立岩:うちの院生にもね、日本からハワイに移民した人たちの研究とかをやってるのがいてね、話聞くといろいろ面白いんですよね、もう3世4世なってるでしょ。

桑名:面白いんですよ、ハワイは。ハワイは面白い。ほんとそういう意味では面白い。

立岩:話聞くと面白そうなんですけどね、

桑名:障害者関係はとんでもないですよ、田舎ですから。まず意識も低い。ほんとマイケル生きてたら聞きたいんですけど、なぜにあそこでインディペンデントリビング、IL、自立生活の、まず自立なんてないですからね。やっぱり障害者は隠されてるんですって。やっぱ昔の日本みたいなものですよ、今から50年前の。家族に障害がいたら家族で守りましょうっていうような意識がすごくあるところで。社会の世話とかにはならない、声は出さない。

立岩:なるほど。でもずっと前にハワイに自立生活センター作ったんだよね?

桑名:うん、でも今はないですよ。あるんだけど用をなしてない。

立岩:あるけど機能してないみたいな?

桑名:機能してない、動いてない。

立岩:形というか組織自体はある?

桑名:あるけども、何やってんのかなって感じかな。日本の自立生活関係の人が、「ハワイに障害者関係のことを勉強しに行きたいです」って言ったら、私はお金無駄だから止めますね。「来ないでください、逆にハワイの人が日本に来て勉強したほうがいいくらいですよ」って私だったら言いたい。

立岩:高嶺豊さん、今沖縄にいらっしゃる方が初期のハワイに関わってるんですよね。

桑名:そうそう、だから高嶺さんとマイケルが一緒になって、マイケルが高嶺さんを雇ったんですよね。高嶺さんはあの時ハワイ大学の院生かなんかだったのかな。

立岩:そうだと思います。

桑名:それでマイケルが雇って自立生活を一緒にやって、だからマイケルの片腕みたいな。だから高嶺さんのことはすっごく信頼してましたね。で、彼は沖縄じゃないですか。ハワイの日系っていうか、日系じゃない、オキナワン。絶対にあの人は「私は日系です」って言いませんからね。“I am Okinawan.”“I'm Japanese American”じゃなくて“I'm Okinawan”って絶対100%。

立岩:うちの院生もそういうこと言ってた。

桑名:オキナワンというのがものすごい力を持ってて、団結力もすごいし。だからたぶん高嶺さんは、ある意味だから、自立生活センターの中の、マイケルがなんであんなにしてできたかっていうのは、高嶺さんがいたからできたと私は思う。じゃなかったらあんな白人、とにかくハワイの中で白人なんか虐げられてますからね、ほんとに。白人なんか何もできないとこですからね。なぜにマイケルが、自立生活センターがうまく地域の人をまとめてできたかってのは高嶺さんがいて、しかも高嶺さんがただの日本人ではなくて、沖縄人、沖縄から来たということが非常に私は大きかったと思う。私は絶対それはあると思う。高嶺さんに聞きたいぐらいですけども、高嶺さんああいう方ですからね、「そうです」なんて絶対言わないと思いますよ。「いやそんなことないですよ」って絶対ね。でも私は彼が沖縄っていうのが、絶対大きかったと思う。今の知事だって沖縄系ですからね。イゲ(伊藝)さんっていうんですけども。とにかく沖縄県、オキナワンの力はものすごいです、ハワイは。今から百何年前に日系人が来た時に沖縄からも来ました、日系人からも虐げられてたからね、沖縄から来た人は。だから日系人の人と沖縄から来た人は結婚もできなかったんですって、差別されて。もちろん今はそんなことないですけどね。で、名前でわかるじゃないですか、だいたい、シマブクロさんとかさ。で、“Japanese American?”って聞くと、必ず“I'm Okinawan.”だから、自分のおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん、ひいおじいちゃんが沖縄から来たんだってことをすっごい誇りに思ってんじゃないかな。で、成功してる人もたっくさんいるし。

立岩:それで、未練のないワシントンD.C.を捨てて、ハワイに来て3年が経った?

桑名:ちょうど4年経ちました。

立岩:ワシントンの時もそうですけど、今はどういう暮らしっていうかな、悠々自適的暮らしなんですか?

桑名:そうですね(笑)。だからほんとマイケルありがとうございますって感じなんですけども、やっぱり一応公務員だったから年金とかね、付くんですね、いろいろね。あとはマイケルが生きてる時からね、毎週末ね、コンピューターに向かってなんかやってたんですよ。で、ある時ね、「何してるの?」って聞いたら、「これは自分が死んだ時にお前が生きていけるように経済的なね、いろいろやりくりをしてる」とか言って。「いやそんな私のほうが先に死ぬんだから何言ってんの」とか言ってたら、ほんとにちゃんとしてくださってて(笑)。今私がこんなふうにして日本に年に2回来たりとか、こんな遊んでられるのはマイケルのおかげなんですね。

立岩:まとまったお金を残されて(笑)。

桑名:んー、まあ、まあ、はいはい。もちろん何億じゃないですよ、大金持ちじゃないです。だけどもこういうことはできる生活ですね。

立岩:そうやって海外旅行を年に2回ぐらいできるぐらいのお金は残されて。

桑名:そうですね。あとは、持ち家はカルフォルニアにあるんですけどね、今は賃貸で。

立岩:貸しに出してて。

桑名:そうですね。今のところは日本円で言ったら20万ちょっとぐらいのアパートですよね。ていうかそもそもハワイは高いんです。当たり前なの、20万ぐらいなんてのはもうザラなんですね。普通の所にっていうか危険じゃないような、便利のいい所に住もうと思ったら、日本円でいったら20万円ぐらいは払わないと、それなりのワンベッドルームだけど普通に生活ができる。引っ越したばっかりの頃は一人だから、日本でいうワンルームマンションみたいなものを借りてたんですよ。それだって15、6万しましたから。ちょっと上乗せすればもうちょっと広いとこ、と思ったらそのとおり、今はそういう生活なんですけどね。やっぱワンルームってのは、確かにきついって言ったらきついですね、いくら一人でも。

立岩:だよね。移動っていうか、部屋の中をぐるぐるっていうか、考えてもね。

桑名:ちょっと窮屈な感じになって。

立岩:窮屈ですよね。

桑名:最初は、もう私日本人だから、寝る所と食べる所と憩う所が同じでもと思ってましたけど、だんだん精神的にきつくなるもんですね。きつくっていうか、なんかやっぱりちょっと違う、メリハリがないっていうか、全部同じ。

立岩:じゃあ居住っていうかなんやかんやしてる場所とベッドルームが別みたいな、に今暮らされてる?

桑名:今はそうですね。

立岩:お一人で?

桑名:そうですね、今はそうですね。

立岩:そうですか。ワシントンにいた時、亭主はというか彼はお役人というか、毎日お役所っていうか行って。その時はどういう暮らしだった?

桑名:まず、子どもが小さい時は子育てしたけど、大きくなって私、今でもそうなんですけども、日本語を教えてるんですよね、アメリカ人…外国人に。でもワシントンにいた頃は、ようするにワシントンなので、いろんな省庁があるじゃないですか、国務省だとか、農務省だとか。そこの人たちが要するに大使館に派遣されるわけですよね。そうすると、その人たちは必ず外国語を学ばなくちゃいけない、あの人たちは、そういう国際関係の仕事をしていて派遣される人は。それはもう国が決めたことなので。だからワシントン周辺には語学学校がたくさんあって、そういう政府の役人とか、あとは軍人のけっこう上のほうの人たちね、そういう人たちをトレーニングするっていう。もちろん国で持ってるのもあるんですけども、それだけでは足りないんで、地域に語学学校がたくさんあるんですよね。そこと契約を結んで、そこに生徒さんを派遣して、私のような契約されたインストラクターが教えるっていう仕事が。で、それで私はずっと10年ぐらい日本語を教えてたんですね、そこでね。

立岩:それはその人たちが通うお金を政府が出す?

桑名:うん、そうです。日本語だと難しいんで、語学によって半年の語学とか、1年の語学とか、1年半の語学とかあるんですよね、研修期間あって、その方たちのね。で、日本語がだいたい1年なんですよ。まあ中には1年半っていうのもあるんだけど。その間はお給料も普通にもらいながらオフィスには行かなくて、語学学校に通うのがあの人たちの仕事。

立岩:1年間語学学校だけ、給料もらいながら行くっていう。

桑名:それが仕事、勉強するのが仕事。っていうのがアメリカのやり方。

立岩:それはそれで大変そうだな。でもできるようになるもんなの? 1年、

桑名:人によりますね、やっぱりね。日本語は難しいです。日本語は、書きは今はしないけどやっぱり読むのが難しいですよね。漢字なんかも音読み訓読みたくさんあるし。だからやはり日本語は難しいほうですよね。

立岩:でもそうか、ワシントンだとそういう公的なというか需要があって、コンスタントにそういう語学学校の先生の仕事がある。

桑名:だから、その人たちはそれこそそれが仕事だから、月から金まで毎日勉強に来て、こうやって1対1で、1日に4、5時間。それ以上やっても無意味だから、それ以上やったら全然入ってこない。4、5時間までがピークかな、ピークっていうか3時間でピークでだんだん落ちてくる。毎日こういうパターンですよね。

立岩:猛特訓ですね。

桑名:月曜から金曜だったら、月曜はこんな感じで、水曜はこういう感じで、これを1年間続けていくみたいな(笑)。

立岩:ハードですね。僕何語もできないけど、いやあハードだな。そしたらちょっとはマシになんのかな、私のような人でも。やっぱり日本のECCとかさ、ベルリッツとか、そういう週1回1時間とかそういうのとは全然違うね。

桑名:うーん、それじゃ。私、今はそういう仕事してるんですよ。週1回とかね。

立岩:ハワイで?

桑名:ハワイにそんな仕事はないんで。でももちろん仕事を、しなくてもいいわけではないけども、したりすればお給料もらえるわけだから。だからちょっとしてるんですね。ほんとにほんとにちょっとなんですけども。っていうか、そもそもそんな仕事はない、それで食べていけるなんてことはできないから、そんな仕事はないから。

立岩:そうだよね、役人だの軍人だのってね。

桑名:はい、ないからね。

立岩:それは何? どういうお客さんなの? 日本語を勉強したい米語母語の人に日本語教えてる?

桑名:ハワイの? 今ですか? 今はもちろんアメリカ人ね。みんなアメリカ人で、もちろん日系人とかいますよ。日系人が多いですね。

立岩:日系人だけども完全にもうあれでしょ?

桑名:全然何も喋れない。

立岩:英語で生まれ育ってますよね。

桑名:そうそう、おじいちゃん、おばあちゃんが話してたからちょこっとわかる。だから白人に教えるよりは教えやすい。

立岩:ああ、なるほど、おじいちゃん、おばあちゃん、

桑名:から聞いてたから、「便所」とか言うしね。「便所言いません」とかね。あとはなんだっけ、その言葉は今使わないみたいなね。

立岩:古い日本語?

桑名:古い日本語を言っちゃったりしますよね。だから、あの人たち日本がすっごく好きだから、ほんとに好きなんですよ日本が。どんだけあなたたち日本好きなのってぐらい好きですからね。日本人が思っている以上に日系人は日本が好き。

立岩:そういうモチベーションで日本語を学ぶ。

桑名:日本に憧れて。あと観光に。最初にする観光は日本旅行みたいなね。海外旅行は日本旅行みたいな。

立岩:なるほど。でも楽しげにっていうか、やる気があって勉強してるんだったらいいかもしれないね、そういう人に教えるのは。

桑名:今最高年齢で教えている人は、クラスがあって、今も実際教えてる、この2週間お休みだから、他の人に教えてもらってるんですけども、今12、3人、一つのクラス。一番最高は70歳の方。で、一番若い、でも若いっていったってもう30代とか。だから夜の仕事、夜ね。もうあの人たちは3世とか4世とか。

立岩:70から30代までの12、3人とおっしゃった?

桑名:まあそうですね、だいたいね。

立岩:そういうクラスを週にどのぐらいやってるんですか?

桑名:週に2回。しかも1回1時間の週3時間ぐらいのを。

立岩:それぐらい教えて、あとは悠々?

桑名:悠々っていうか、あとはボランティアをやったりとか。

立岩:なるほど、そういう生活なんですか。

桑名:あとちょっと翻訳も、朝早く起きて。日経新聞があるんです、日本のね。それが地元のアメリカの新聞社と契約を結んでるから、アメリカの、ハワイの、地元のニュースをピックアップして、「昨日どこどこで溺れて誰が亡くなりました」とかさ、そういう三面記事みたいなのを翻訳して、そして日本語て次の日に1日遅れで出して。日本人もたくさんいますから。

立岩:日本語新聞みたいな?

桑名:日本語新聞、そうそう。半分日本語、半分英語がちょこっとあるのかな、でも日本語。

立岩:そういう仕事を、在宅ワークっていうか。

桑名:まあ朝、私はね朝5時に起きて、締切が8時半ぐらいなので。

立岩:へえ、そういう生活ですか。ちなみにさっきおっしゃってたお子さんていうのはどういうお子さん?

桑名:今28で。

立岩:うちが今29だから似たようなもんだな。

[…]

立岩:そういうハワイの生活を少なくとも当面は続けそうな感じですか?

桑名:私ですか、息子ですか? 私?

立岩:うん。

桑名:そうですね、だから、ハワイもほんとにいろんなものが高くって。あとアメリカ、ハワイも一応アメリカですから、アメリカの中で老後っていうのはお金がないとほんと大変なとこですよね、いろんな意味でね、社会福祉的な面で。特に今この政権ね、とにかく弱者をどんどん切り捨てるっていうか、元々アメリカってそういうとこですよね。生産性があってナンボみたいな、ですから。

立岩:僕はアメリカ行ったことがないんですって言おうと思って間違えて、一昨年か、2017年のこの季節、ボストンに行ったんですよ、1週間ぐらい。で、その時、ALSっていうちょっと変わったっていうか、筋萎縮性側索硬化症っていう体の自由が動かなくなる障害。それの世界、まあ基本的にはお医者さんがメインなんですけど、世界会議みたいな。

桑名:じゃあ学会ですね。

立岩:それで、京都に住んでるALSの増田さんっていう人と一緒に付いて行ったような。それで初めてアメリカという国に私は行ったんでした。雪もちょっとありましたね、ボストン。で、その時に、日本人の女性で、アメリカ人と日本で結婚、まあ軍人だったんだね、で、日本で結婚して、アメリカに移って、シカゴのあたりって言ってたかな、軍人だった旦那さんがALSにかかちゃって。まあ軍人なんで、わりと政府からのお金は出る。お金はちゃんと出てて、お金そのものには困らないんだけど、ケアであるとか、そういったものがちゃんとあるわけでもない、という話でね。去年だったっけな、ボストンでも少しその人と話したりして。去年、京都にその夫妻がお見えになって、しばらく京都の人たちと交流したりなんかして、ゆくゆくは日本で暮らす、介助サービスとかやってるとこあるんで。

桑名:奥さんは日本人?

立岩:奥さん日本人。

桑名:ご主人はアメリカ人?

立岩:アメリカ人。

桑名:それで日本に戻る、ご主人も一緒に?

立岩:っていう。わかんない、どうなるかはわからない。

桑名:でもそうことね、そういう福祉の面でね、やっぱりね。

立岩:そうそう。という話がありまして、そう言えば。

桑名:だから、んー、私もちょっと考えてますよね、そういうところでは。ハワイにずっといるのか、それともカルフォルニアに帰るのか。でも、私の周りでも、障害者じゃなくてもね、歳をとれば必ず障害者になるじゃないですか、みんな。そうすると、ハワイにいて、高齢者の施設なんか入ったらものすごいお金かかるから。だったら日本、そもそも日本人なわけだから、日本に来て、そういった日本のほうが、特に高齢者はね、手厚くいろいろやってくれるから、行政なんかもね。あとはいろんなものがそんなにバカ高くなくて、普通の平均的な生活がその老人ホームにしたってできるんで、日本に帰るっていう人も徐々に出てきてはいるのは確かですね。

立岩:ああ、そうなんですか。その、アメリカのさ、マイケルさん亡くなられてから、CILの会議の時にちょっと冷たい雰囲気がしたって言ってたけど、アメリカのそういうこう、障害運動絡みの人とか、あるいは日本の福祉も含めてですけど、そのへんとの今現在のというか付き合いっていうのはどんな感じですか?

桑名:ないですね、私はほんとにね。

立岩:アメリカのほうではないと。

桑名:ハワイにはないし、ハワイにはそもそもないし。ハワイにあればね、何かしたいけども、ハワイにはないですね、正直ね。ハワイにあるのはどっちかっていったらもうちょっとレクリエーション的な、そういうサーフィンとかっていう、そういうのは、障害者のね、繋がりがあるところには自分も実際入っているけども、あの人たちが政治的なことをやってるとは思えない。全くない。

立岩:みんなでサーフィンしようみたいな?

桑名:そうそう。なんか楽しくやろうじゃないか、イエーイみたいな感じで。社会の中の意識で、そこをなんとか変えようとかってそういう話は聞いたこともないし、障害者の運動的なものはハワイにはないと思います、私は。いわゆるこう、アメリカ本土にあるようなね、感じのものはないと思う。

立岩:そっかそっか。アメリカは今障害者運動って、すごいざっくりした聞き方ですけど、どんな感じっていう、どういうふうに受け止めておられます?

桑名:今のですか? 障害者の?

立岩:まあここ10年でもいいですけどね。

桑名:私個人としてですか?

立岩:全く個人として。

桑名:個人として。うーん、やっぱりADAというのは大きいですよね。ADAがある、法律がある、ということで、ハワイにいるとあんまり大したこと聞かないんだけど、要するに、ハワイの文化として、権利どーのこーのってやるじゃないですからね。だけどやはり、うーん、私の中では、やっぱりハワイ、ハワイは置いといて、なぜに私はアメリカが好きなのかっていうと、やはりその、権利。障害者だけではなくて、いろんなものの権利、意識が根本にあって、そこでいろんなものができ上がってて、もちろんだから法律があってね。で、やっぱり法律があるということ、法律を守ってない側に対して守って下さいっていうことをキチッと言って、守らなかったら出るとこ出ましょうって言うこともできるしね。やっぱりそれがこう、ハワイにいるとそれがほんとないから、ハワイは置いといても、やはりアメリカってのはそういうふうなシステムがある、法律が確立されてるっていうことで、そこをなんかこう、なんて言うのかなあ、精神論とかじゃなくって、カチッとしたね、紙に書かれてあることで言える。だから今日本で、心のバリアフリーとかね。私ほんと心のバリアフリーってなんですかちゅうか、ほんと嫌なんですよ、私。ほんと心のバリアフリーって要らない。心のバリアフリーなんてあってもなくても私の生活には全く何ひとつも変わりはありません。物質的なバリアフリーはありますよ。でも心のバリアフリーなんか私は全然求めてないし、で、そこに話をすり替えるところが、この日本が私の嫌なところっていうか。そういうところがないアメリカがすごく好きなんですよ。

立岩:それは大変よくわかります。仰せのとおりだと思います。

桑名:そういうものをいっさい排除して、ここに書いてあるんですよね、ここに書いてある、好きとか嫌いとかじゃないです、書いてあることに沿ってやりましょうねっていうことがはっきり言えるし、言ったら相手もわかるし、そこのことを心でうやむやにしない、っていうのが私アメリカのキチッとしたの、その冷たさが好きと言うのかな、冷たいとか暖かいとかそういうもんじゃなくてね。だから暖かさ私求めてないんですよ、全然、これっぽっちも。親切じゃなく意地悪でいいんです、ただやってもらえれば(笑)、っていうとこですね。

立岩:そのおっしゃる感じはほんとによくわかります。

桑名:(笑)たぶんね、日本で嫌なところは、心で言われちゃうところが、精神論で言われちゃうところが、すごく私は嫌かなあ。気持ちはいいですよ。だから京都来て、さっきも朝来て、「すいません、駅どこですか」ってね、ちゃんと止まってね、こうですこうですって、行ってらっしゃいとか言われて暖かいな、そういうのは私だって好きですよ、そのレベルは。でも日々の生活の中で、例えばトイレに入れないとか、レストランに入れない、バスに乗れないっていうのは心の問題じゃないですから、これは全く。そのへんが、日本人はなんかわからないのかなあっていうか。すごい簡単なことだと思うんです、私は。どうですか、先生のお考え(笑)。

立岩:私に言われても困ります。あまり代表的な日本人でもないし。

桑名:でも私が言ってることはわかります?

立岩:いや、おっしゃるとおりだと思いますよ、ほんとに。

桑名:一番嫌なの、それ私もうほんとに。たぶん書いたり言ってる人もわかんないと思うんだけど。わかってんのかな?

立岩:いや、わかってるって言ってるわけじゃなくて、わかんないようにする言葉として使ってるわけですよ。

桑名:ですよね。だからすっごくごまかされてる感が私あって。

立岩:そういうもんなんですよ、わかんなくするために使ってるんですよ。



桑名:そういうね、だからほんとにこういうふうに言われると、そういうふうにガンガン言われると困っちゃうって言われることもあるんですけど、私にとってはAかBなんですよ。AとかBの間なんかないんですね、もう白か黒。アメリカってけっこうそういうね、アメリカ本土はね、ハワイじゃないですよ、はAかBか、白か黒かっていうその区分けがハッキリしてるのがすごく私はわかりやすくて生活しやすいなっていうね。で、私のほうが聞きたいんですけども、先生たちが研究なさっている福島県、大変光栄に思っているんですけども。その研究した結果としてなぜに福島県だったかっていう。なぜに福島からこんなに。

立岩:なんで福島なのかは、皆さんっていうのは最終的にはよくわかんないですよね。結局わかんなかったですね。郡山養護学校の謎、みたいな(笑)。

桑名:(笑)でもそこに、やっぱり、

立岩:でもね、でもある程度のことは言えて。ある狭い場所に、何年か分人が集まるってこと自体が何かを生み出すんですよね。たぶんそういう出来事が、60年代後半とかの郡山に起こっちゃったんですよね。

桑名:あったんですか? 他の地域ではなかったんですか?

立岩:えっとね、そういう意味で言えば、郡山がなぜっていうような問いはまだ解かれてないんだけど、でもやっぱり一人じゃできないってことありますよ。一人そこに白石さんでもなんでもいいんだけど、一人そこにポツンといて、どんなに彼が才能があってね、力があったとしてもやっぱりできない。でもそれが、4人、5人と、なんかキャラが違う、だけどキャラがたってるみたいな人が集まると、やっぱりその1+1+1っていうよりは、なんかそれの何乗みたいなパワーが出るってことはありえて。その何人かがたまたまその時にいたっていうの偶然だったかもしれないです。だけど、それがその時にいたってことによって、何年かの狭い空間、ある程度の決まった時間の中に集まってたってことによって、その力っていうのが、通常出ない力が出た。組織としても一定のことができ、で、それは組織としてってだけじゃなくて、一人一人の生きる力みたいな、ものを言う力みたいなものになって拡散していくっていうかな、そういうプロセスがあったと。それはある程度説明、説明の一部分だと思うんですよね。なんであの時にっていうのは最終的にはわかんないんだけど、いるってことによって、たぶんそういうことって、郡山はかなり変わってはいるかもしれないけど、でも、やっぱり運動って一人じゃ難しい。3人とか4人とか5人とかそのぐらいいると、神奈川でもそうですし、東京の西のほうも、ヒューマンケアとかああいうとこも、僕はあれは立ち会った記憶がありますけど、ちょうどあの時。あれは理由があって、東京の西のほうに制度がそこそこあって、大学生がいて、大学生のボランティアも含めて介助を頼めるとか、そういう中で全国から人が集まってきたんですよね、やる気があるっていうか、世の中に怒ってるみたいな。で、それによって相乗効果みたいなものが生まれて、東京だったら西のほうがある種、少なくとも80年代の運動の核みたいになるじゃないですか。たぶんそういう出来事は福島にあったんでしょうね。それはそうだと思いますよ。
 で、ここの大学院なんかもそうなんですけど、だんだんこう、最初の大学院、大学院を作ったのは2003年ですけど作った時って、なんか、そこらへんに溜まってた連中がワッて来るんですよ。けっこう熱いっていうか、濃いっていうか、そういう熱度を持ったみたいな人間がやっぱ何人か集まるんですよね。そうするとそこからまた熱がさらに出てくるみたいな。それがだからだんだん時間が経って、養護学校行くにしても大学院行くにしても、そこらへんじゅう当たり前のことになったりして。そうすると濃度みたいな、密度みたいなのが低くなってって、そうするすると普通の、大学院にしても普通の組織になり、普通の人は普通の人のまんまみたいな、そういう確率が高くなるというのがあんのかな。だから大学院にしてもここ、最初作った年しばらく何年かのほうが熱かったし、そこの中から一本立ちっていうかな、一人一人っていうのが出てきたって感じが一つはしますね。もちろんそれだけで説明はできないですけど、一つあると思いますね。
 だから今回土屋さんなんかはわりと初期の頃、この人は何年生でみたいなね、あ、そっか、同学年か、とかさ、いろいろ調べてくれたけれども面白かった、それはそれで面白かったと思いますね。福島の人とかとは、たまに会ったりすることはある?

桑名:まあ、それは機会があればね。今回は2週間といってもあちこち行ってますから。やっぱりさっき言ったように実家がないですから、行っても1日とか2日なんですよね。だからまあ橋本さん★とか白石さんとか、あとそこにいる障害は持ってないけど岡部さんとかね、フェイスブックで繋がってたりとか、そんな感じかな、ぐらいかな。

立岩:あの、今僕家の一部がシェアハウスみたいなことになってて、そこに居住している人が安積遊歩★を知ってて。安積さんが自分でやりたいとかやってるって言ってたかな? シェアハウス的な。そんなんで、「ちょっと見に行っていい?」みたいなことを一月前ぐらいにメールかなんかが来て、結局それはいったん流れたんだけど、「明日、12 とか13とかそっち行って泊まっていい?」みたいな話にいったんなりかけたりしたので、彼女は時々来たりしますよ。それから鈴木絹江さん★が原発のことがあったんで、僕は行ったことないんですけど、京都に住んでるとか。

桑名:どっかにいるんですね。

立岩:だから福島の人が必ずしも福島ではなくて、京都いたりとか東京いたりとか。

桑名:今、遊歩さんは北海道なんですか?

立岩:なのかな? あの人どこにいるのかよくわかんない。確かなんかそんなこと、今はそうだと思います。しばらくオーストラリアだっけ?

桑名:なんか行ってましたね。

立岩:10年ぐらい前に京都でやった集会みたいなので久しぶりに会いましたけどね★。あとはそうだな、去年郡山でシンポジウムがあって、呼んでいただいて★。その時にほんとに久しぶりに皆さんにお会いしたり。僕はそのぐらいですけど。鈴木さんには船引町か、あそこで講演かなんかで20年くらい前ですね、呼んでいただいて★っていうのが最後という感ですね。私はそんな感じなんですけど。
◆自立生活センター・アークスペクトラム主催シンポジウム「自立活センターの歩み――これまでの記録と記憶。これからの希望。」
 於:ハートピア京都 鼎談:安積遊歩・岡田健司・立岩真也 2009/10/24
◆2018/03/17 「青い芝の会の思想と出会って」(いただいた題),平成29年度自立生活支援セミナー,主催:特定非営利活動法人あいえるの会,於:郡山市労働福祉会館
◆1999/07/31 「障がいを持つ人の介助保障と介護保険」(講演),'99福祉セミナー「障がいを持つ人の介助保障と介護保険」 主催:障がい者自立生活支援センター<福祉のまちづくりの会>,於:福島県船引町
 でも今、けっこう50年代生まれぐらいの人、先週の金土と徳島行ってたんですけど、呼ばれて。で、徳島に行ったら、そこの徳島の人で、僕のほうに関係者が出てくるとかいって話してきてくれた人がいて、その人がやっぱ53年生まれとか。白石さんとかたぶん50年生まれだと思うんですけど、あのへんの今だいたい60代前半みたいな、半ばにそろそろみたいな人たちのいろんな話を、これまでのことを聞いてっていうのがけっこうこの頃ありますね。徳島でしょ、その前に新潟、新潟はうちの親父が去年死んで、それの一周忌みたいな法事のついでみたいなところもあったんですけど。そんなんで、東京、新潟、徳島っていう感じで。僕は基本的に歴史的なことをやる人間ではないんですけど、どっちかというと理屈をたてるみたいな仕事がメインだとは思ってるんですけど。でもあまりみんなやってくれないんで、この頃は、みんなどうやって生きてきたの的な。そういう意味で今日もほとんど話聞いちゃったっていうか。いや、でも普通に謎なわけですよ。アメリカに長いこと住んでて、夫がうんぬんって、そこまでは知ってますよ、そこまでは知ってるしわかるけど、それ以上っていうか、具体的にどうやって家族で暮らしてたんだろうかとかさ、やっぱり聞かなきゃわからないじゃないですか。だから聞けてほんとによかった。

桑名:いえいえ。あの、恵美子さん、田中恵美子さんにも「どうして福島だと思いますか?」とその時も。いや、福島ってほんとにいろんな意味で保守的というか、速度がすごく遅いというか。だから、やっぱりこう、虐げられたっていうか、そういうとこにいるとしぼんじゃう人もいるけど、逆にそこをなんとか這いずり上がってみたいなね、そういう人もいるでしょ。だから、たまたまそれだけ福島県っていろんな意味で遅れてたりとか、なんかそういうとこで、じゃあ自分たちがなんとかしようかと思ったか思わないか。少なくとも今のこの状況は本意じゃないと思ってたね。私もそうだけども、たぶん白石さんだって橋本さんだって遊歩さんだってたぶん絶対思ってたと思うんですよね。で、そこで出てきたのかな。だから、まあ、うん。

立岩:ただ50年代の人たちっていう、やっぱりそれも理由があってね。虐げられるとかいろいろ迷惑っていうか、自分たちがコノヤローと思ってたって思うわけですよ。コノヤローって不満はあるわけじゃない? 不満とか、そういうのはけっこうある社会の中に大きくあるけれど、その不満を言って、それは変えるべきだとか、変わるべきだってしゃーしゃーとというか、言ってもいいんだみたいなことって、やっぱり僕の感じだと70年代なんですよね。70年ぐらいから出てきて、映画が作られて、みたいな。『さようならCP』とかあるじゃないですか。そうすると、あれが72年とかですから。そうすると、50年に生まれた人が22、3で、一番怒ってるっていうか、怒る時期っていうか、パワーがあるじゃないですか。

桑名:ある時期ですよね。

立岩:それが白石さんたちで。白石さん50年生まれだと。そうなって、それのちょっと1年2年3年後輩たちがその熱気っていうか、「あの人怒ってる」みたいな、でもそれがある種のモデルになる。「あ、怒ったっていいんだ」みたいな。それはたぶん福島だけじゃなくて全国にあったんだけど、福島の中でそういう文句を言いたい気分というのは、僕も田舎の出なんで、そらわかりますよ。腹立つというか、そういう鬱屈みたいなもの。でも鬱屈だけじゃ運動動かないですよね。鬱屈をポジティブなパワーっていうか、あるいは抗議するとか、何か作るとか、そういう力にしていいんだっていうのがないと力になんない。それが日本だと70年代の前半とかに出てきて、それに50年代生まれの人が乗る、若者として乗る。それの連鎖反応みたいなものが福島の場合だと郡山養護とか、ある種狭い空間、時間の中で凝縮っていうか、圧縮っていうか、連鎖反応的な部分っていうのあったんじゃないかな、と僕は思ってますけどね。じゃあ、今どうすんだ? とかね、話は尽きないわけですけどさ、また状況も変わってるけれども。

桑名:あとはやっぱり年代からいったら、80年に入ったら今度はアメリカからIL運動がちょうど入ったきた頃じゃないですか。だからその年代の人たちがもうちょっと大人というかね、もうちょっと丸くなった。それまでこう悪者ですからね。ほんとに私はインタビューにも答えましたし、青い芝の会なんてほんとにこうなんて言うか言っちゃいけない。私はね、59年ですから、あの人たちの流れの中の一番端っこに、やっとこう入ったかな、入らないかなぐらいで。しかもアメリカとか行っちゃったから、そこでね。行かなかったらそのまま普通に。しかもアメリカで会った人が、アメリカのラディカルなね、障害者の中のジュディとか、エド・ロバーツ〔Roberts, Edward V.(-1995)〕とかマイケル・ウィンターとか、その界隈ですよね。だから、そんでもってこっちもちょっと柔らかくなりました、青い芝の会がね。そこにアメリカの自立支援センターの障害者、そこにやっぱりこのミスタードーナツね。これもね、やっぱりね、

立岩:大きいですよ。

桑名:大きいですよね。自分で言うのもなんなんですけども。やっぱだってそれがなかったら私は今こうしていられないというのもありますし、あそこから出てきた人たちがたくさんいるじゃないですか。遊歩さんだってそこに入って。

立岩:二桁ですもんね。

桑名:絹江さんだってあそこでねえ、絹江さんは住んではいないけども短いプログラムの中に入ってるし。結局あの中でいろんな意味で恩恵を受けてというかね、いるわけですよね。それで、でもってなおかつ、アメリカの自立生活センターがバッとそこで繋がったんですよね、80年代のね。

立岩:そうですね、70年代のパワーみたいなもの。でも現実に社会の中で運営していかなきゃいけないわけじゃないですか。そうした時のある種の仕掛けとかシステムみたいなものは、やっぱりアメリカのIL運動っていうものがある程度提供したわけだし、それに乗ったっていう部分が大きいですよ。

桑名:そうそう、だから日本ってね、日本人が言っても聞かない、日本の国はね、日本人が言っても聞かないのが、ほんとのIL運動見てて私は一緒に見てたけども、腹立ちながらも、まあまあ、アメリカ人を使えばいいんだっていうかね、アメリカ人の話は日本人は聞くんですよ。

立岩:そうなんですよ(笑)。

桑名:ほんとに腹立つんですよ。ほんとに腹立つんですけども、でもだから日本人は、あれ使った

立岩:使ったんですよ。

桑名:使ったんですよ、使ってよかったんですよ、ほんと使ってくださいみたいな。

立岩:特に国際障害者年、あの時81年だよね、あのあたりにアメリカの人いっぱい来たでしょ。ああいう時に、ほんと僕も腹立ちましたけど、腹立ちますけど、70年代の青い芝の話は聞かないけど、80年代から黒船に乗ってきた人たちの話は聞くわけじゃないですか。

桑名:そうですよ。同じこと言ってるんですよ。

立岩:そういうのは現にありましたよね。

桑名:うん。なおかつ、やっぱり私が思ったのは、障害にしたって青い芝の会っていうのは基本的にはCP、CPっていうのは特に言語障害があって。で、どんなに知的に高くても言語障害があるってことは、それがなかなか思いの丈が表に出ていかない。そうすると障害者の中でもヒエラルキーがあって、障害者のトップの中では私の中では脊損が、自分で言うのもなんですけども、なぜかっていうと口が達者ですからね、頭だって悪いわけじゃない。体もそれなりになんとか頑張れば行けちゃうんですよ。その中の一番底辺がCPなんですよね。ところがアメリカの障害者は、結局だからそうすると頭がどんなに良くたっても知的レベルという、学歴ね、学歴にしたってもやっぱりCPの人、その当時は学歴も。で、しかも養護学校に行ったか行かないかみたいなね、そういう義務化の前とかなんかだと。

立岩:そうですね。

桑名:でも逆にこっちへ来ると、アメリカ人ていうのの、ジュディみたって、マイケルみたって、ロバートみたってみんな大学とか大学院とか普通に行けちゃって。とにかくアメリカの中であと白人、白人ていうのは強いね、これね。アジア人じゃなかった、黒人でもなかった、ヒスパニックでもなかった、白人。でもって口はとにかく達者。これはね、やっぱりね、うーん…、これですわ。これですわって、頭に来んだけども。特にアメリカって口が達者でなんぼですからね。内容なんかどうでもいいんですよ。口でガンガンガンガン言って。だってジュディなんか涙まで出せますからね、本当に。そんで、私なんかほんとに、「え、涙も出しちゃって」、周りのアメリカ人にしたら「また始まった」みたいなね。ほんと使い分けた、ほんとジュディはそういう意味では役者っちゅうかね。

立岩:うん、なるほど。

桑名:はい。

立岩:一回ロンドンで、一回だけお会いしたなあ。

桑名:口も達者だし、うーん。それが、まあそういう人たちが。自立生活運動のトップの中にはCPはいない、口は達者、学歴も高いっていう人たちがやって。で、そういう人たちが日本に来ても、日本でもガンガン言った。で、しかもアメリカ人だから上は聞くみたいなね。腹は立つんだけども、まあ、うん、それは強く、それは、

立岩:いや、そうだっただろうと思います。確実にそういうことだったと思います。それを使ったっちゃ使った、日本の80年代はね。

桑名:うん。

立岩:そこん中に呼んだっていうこともあるけれども、行ったっていうね。ミスタードーナツのやつって、あれ研究してもいいことだと思ってて、もう何十年も経ってるじゃないですか、ずーっとやってるわけじゃないですか。

桑名:そうですよね。

立岩:どういう人がどういうシステムで派遣されて、その人たちのその後の人生ってどうだったのかみたいな。これってけっこう面白い本とかね、論文とか書けそうと思ってて。僕だと奥平〔真砂子〕さんて、

桑名:はいはい、真砂子さんね

立岩:真砂子さんに。彼女大学京都だったんですけど、その後高島屋に勤めてみたいな。そういう話聞いてると面白いですよ。

桑名:そうですね、そうそう。同期だったんですよ。第1期のね、同じとこに住んで。

立岩:それがアメリカ行って、ああなって、こうなってったって話★をさ、前、聞いて。やっぱりすごい面白かったですよ。だから、そういう人っていっぱいいるわけじゃないですか。時々ね、うちの院生とかにもさ、そういうこと言ってんだけどね。まだそういう研究出てないですけど、僕はやったほうがいいと思うんですよ。だからその友達、ドーナツの。

桑名:ドーナツね、ドーナツは、ほんとに。

立岩:全部じゃなくてもいいですよ。最初の10年とかでもいいと思うんです。そこん中の人はかなりもう、

桑名:しかも、やっぱりドーナツっていうのは、障害っていっても様々な障害じゃないですか。その、身体障害、身体障害の中でも様々だし。あと盲人、ろうあ者、まあ知的だってね入ってるわけだし、てんかんの人もいたし。だから様々な障害、やっぱりそういうのも非常にその当時は珍しいっていうか、障害を別にね、障害を別に区分けされたりしてたのが、あの中ではみんな、だから私だってこう、私第1期生でして。だけど身体障害っていうのはもちろん養護学校で入ったけども、盲人とかろうあ者とか、そういった内部障害の人は同じ障害ていったって初めて会いましたとか、初めて接しましたみたいな、全くわからない。うん。そういう感じでしたもんね。同じ第1期生とかいっても様々な障害者がいて、様々な地域から来て、年齢も様々だったし。

立岩:一回、その、各年のね、その同窓生たちがいるじゃないですか。あれをまずリストアップしてね、っていう。この第1期生とこの人っていうのをいっぺん作ろうっていうかね★、それは途中で止まってんだけど。でも改めてね、もう誰か今のうちにっていうかそのへんのこと調べて、あれが何だった、何だったってかね、終わってるわけじゃないですけど。特に初めの頃っていうか1期生から10期ぐらいまででもいいや、うん。それは改めて今日、しばらくちょっと忘れてましたけど、それをちょっとそれを呼びかけてみようかなと思います。もしそういうやつが現れたら、またそのへんの、その当時の話を伺ったりするかもしれませんね。

桑名:だから、あれによって、私はもちろんだけども、真砂子さんにしたってそうだし、やっぱり多くの人はドーナツで人生を変えられたというか。あたしなんかは目を覚めさせられてしまったというかね。あれがなかったら、たぶん普通にというか、まあ悶々とはしてたけども、そのまんま郡山の中で、なんかうん、おとなしくしてたかもしれないけども、バークレーみたいなあんなとこにボーンって行かされて、別に自分が行きたいって言ったわけでもないのに行かされたら、バークレーで、ね、なんかすごいこう、とんでもないもの見せられたり、聞かされたりして。

立岩:バークレーの時の知人とかってもうあんまりいない?

桑名:アメリカ人? 日本人?

立岩:どっちでも。

桑名:ああ、いますよ。うん。真砂子さんなんかそうですよね、真砂子さんは。

立岩:やはりそのバークレーの時のっていうは、あ、そう、真砂子さん。

桑名:同期生でした。真砂子さん、同期生。はい。

立岩:真砂子さん、去年かな、やっぱりその頃のインタビューとかさしてもらって。今、うちの院生でその真砂子さんに一緒に聞いたのが権藤★っていう院生なんですけど、それは日本が今、アジアとかそういうところで、協力っていう国際協力的なことやってるじゃないですか。

桑名:はいはい。

立岩:そういうことの研究したいっていう話になって。で、奥平さん、今そういうとこのリーダーやってるじゃないですか。

桑名:そうですよね。

立岩:なんで話を伺ったりとか、そういうのはしてるんですよね。だから日本が今、アジアとかとどういう連帯っていうかしようとしている、してきたのかっていうのも一つ。だけど日本人がアメリカ行ってとかっていうのも、それはそれでまとめとかなきゃいけないことなんだろうなって思っていますね。やれればな、うん。

桑名:あとはちょうどあの頃って、日本人の、1ヶ月とか、夏休みとか冬休みとか行って、みたいな。そういう、学生が海外に行くチャンスが出てきた時代でもあったんですよね。

立岩:そうかもしれないですね。

桑名:で、そこに障害者も入ったみたいな感じで。だから海外がすごくこう、急に身近になったっていうか、自分が行ける。

立岩:ああ、そうだよね。

桑名:それまでは行けなかった。それまでは行けなかった。

立岩:60年代とかだったら、まあとにかくドルが高くて、

桑名:うん、経済的に行けなかったでしょ。

立岩:お金的に無理っていう、端的にお金的に無理って時代からそれが変わったっていうのありますよね。

桑名:80年代ぐらいになって、海外に行きやすくなった。

立岩:そうですよね。それはあったんだろうな。たぶんバークレーだとね、去年の1月だったかな。UCバークレーのカレン・ナカムラ★っていう、

桑名:はいはい、知ってますよ。

立岩:が、ここの集中講義に来てくれたんですよ。で、あそこも今、僕らそういう運動とか運動の歴史とかそういうのここで集めてるんですけど、UCBも…UCバークレーもやっぱりそういう社会運動っていうか、反戦運動とか障害者運動とかいろいろ盛んであってきた。だから、けっこう運動のアーカイブっていうのをUCB自体がかなり持ってるっていうことらしくて。ここも今そういう、遅ればせながらというか、日本のそういうアーカイブの仕事をこれからやっていきたいと思うんで。だから、カレン・ナカムラなんかとは一緒にできる部分をやっていきたいなと思ってるんですけどね。とは言っても僕はバークレー行ったことないんですけれども。まあ、僕の同僚だった天田★っていう、今中央大にいる社会学者が、UCBに1年こないだいて、そういう情報を仕入れてきて。なんで、ちょっとそのへんで、これからぼつぼつと思ってますね。面白いです。

桑名:当時のその人たちもどんどん亡くなったりとかね、やっぱり高齢になってますから。バークレーの周辺のね、元運動家たちっちゅうかね。

立岩:そうなんですよね。そりゃそうですよね。

桑名:そりゃそうですよ。

立岩:70年に反戦運動やった時から50年経ってるわけだから。

桑名:そうそう。だから障害者早いとこやらないと、障害者なんか早死にするんだから(笑)、早死にするんだからって。うん、ほんとにそんな感じなんですよね。

立岩:いや日本でもそうですよ。

桑名:でしょう。やっぱりだから、この間もシカゴのマーカ・ブリストっていってね、あの方も亡くなってしまったし。アメリカの障害者のリーダーもどんどんどんどんいなくなってきているから。

立岩:そういう危機感というかな、もあるので、福島の本もその一冊ですけれども、全国いろんな人に聞いて回るっていうのをもうちょっと。1人でやっててもこれ埒があかないっていうかキリのない話なので、ちょっと幅広げてっていうことを今画策してて。先週のちょうど火曜日か、1週間前ですけど、「お金ちょうだい」っていう書類★を文科省に出して。今年はどうなるかわかんないけど、何年かの間には当てて、これは続けていきたいと思ってますね。

桑名:はい。もし何か協力できることがあったら、ぜひ。

立岩:日米のね、間のことっていうのはさ、僕も間接的にはいろいろ聞くけれども、いろんな通訳であるとか、そういうことも含めていろんな現場に立ち会われてきたわけですから、そのあたりの、80年代あたりですよね、の話を、また日本においでの際にでもお伺いできればね、いいと思いますね。今日が京都にお泊りなんでしたっけ?

桑名:今日も明日も泊まりますよ。明日泊まって明後日の夕方東京に帰る。

立岩:同じ宿で?

桑名:そうですね、3日間ね。

立岩:広島に行くって言ってたっけ?

桑名:明日、そうですね。

立岩:広島に観光というか。

桑名:そうですね。広島。そのお友達がやっぱり広島ね、あの、ぜひ広島の原爆記念館。やっぱり、うん。

立岩:に行こうと?

桑名:行こうと。

立岩:じゃあ京都から広島行って、

桑名:広島から戻ってきて、明日京都に泊まって、明後日は夕方の新幹線なんで、午前中ぐらいはふらふらっと京都の周辺とか行けるかなあと思って。

立岩:そうですね。そんなに便利ってわけでもないけど、平らな所ではあるので、京都は。大まかにはね。

桑名:そうですね。うんうん。でも、今朝もなんか、京都ってこんな狭い、こんな狭いね、なんか面白いですよね、こんな狭い所に車なんか入ってくる、こんなとこ入ってきたら誰も通れないだろうみたいなね、そういう所いっぱいあるじゃないですか。

立岩:いっぱいある。

桑名:私はああいう所が、ああいうのが好き。だから今日も、別にどっか行くとかね、大きなお寺見るとか、お友達は初めてだから行かせましたけど、私的には別にそういうとこじゃなくって街の中っていうか、こんな造りなんだ…、みたいな。あ、古い街だ、こんな狭いとこまだあるんだみたいな、そういうのすごくなんか面白いですね。

立岩:すれ違えないもんね、京都の道なんかね。

桑名:ねえ。新しい家ももちろんあるけど、なんか古い、あれ町家って言うんですか? ああいうの。古家のことを町家って言うんですか?

立岩:いやいや、それだけじゃないんですけどね。

桑名:あるんでしょ、やっぱり。

立岩:造りが、だいたいこういう造りで、幅が狭くて奥が長くてっていうような。典型的にはね、そういうのなんですけど。僕も好きですよ、そういう特に観光地ってわけじゃない所ブラブラしたりするのは。

桑名:一緒に来たお友達もそういうとこが基本好きなんですよ。だからそういうとこをウロウロして。

立岩:僕たぶんずっと京都にいるので、今改築していて、エレベーター建てようと思ってて、家に。

桑名:おお。

立岩:それができれば、それこそバリアフリー。心のほうじゃなくて(笑)。

桑名:心はいらない(笑)。

立岩:物理的なバリアフリーになるはずなので、それがもうあと1年ぐらいかかりそうなんですけど。もしそんなことになったら。安積さんもそれでね、実はそう言って、垂直移動が容易になったら、のほうがいいかなっつったら、そうだっていうんで今回は見送りになりました。

桑名:社会学なんですね、専門。

立岩:そうです、はい。

桑名:社会学っていったらソシオロジー?

立岩:そうです、ソシオロジーです。

桑名:そうですね、ソシオロジーですね。ソシオロジーってのはすごい幅が広いですよね。全てがソシオロジーみたいなね。

立岩:幅が広いっていうか境がないっていうか、そういうものなので。いや、便利なんですよ、何やっても。

桑名:障害学ではないですね?

立岩:障害学も…、

桑名:入ってるんですね? ソシオロジーの中にね?

立岩:中に入ってるわけじゃないんですけど、障害学会というのは別にはあって、今も僕も障害学会、

桑名:入ってるんですね。

立岩:僕の前の会長がちょっと体の調子が悪くって、今ピンチヒッターみたいな感じで僕が会長やってるんですけど。それはそれで学会もあり、人もいるんです。障害学会にも入ってるし、社会学会にも入ってる、そういう。でも人類学やって障害学会に入ってるって人もいるとかね、心理学でって人もいる、そういう感じね。択一じゃなくてかぶってるっていうか、そんな感じです。

桑名:なんかお忙しいところ、いろんなお話くださっていただいて。

立岩:いえいえ、すいません。もうちょっと時間がたっぷりあればいいんですけど、1時からちょっと教授会があってしまうので。

桑名:いえいえいえ。もうそういう時間ですね。

立岩:出るとき出られますか?

桑名:どうやって。そこでもいいんでしょ?

立岩:どうもありがとうございます。

桑名:ほんとありがとうございました、お忙しいところ。

立岩:じゃあまたお会いしましょう。

桑名:はい。これからもまたよろしくお願いします。

立岩:よろしくお願いします。

桑名:失礼します。[02:00:58]

UP:202001 REV:0200129
桑名 敦子  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也 
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