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杉浦良氏インタビュー

20191108 聞き手:立岩真也 於:徳島市・阿波観光ホテル

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杉浦 良 i2019 インタビュー 2019/11/08 聞き手:立岩真也 於:徳島市・阿波観光ホテル
◇文字起こし:ココペリ121 20191108杉浦良氏_146分
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす 
 ※杉浦さんに点検していただき許可を得たのち公開ということにいたします。その点ご了承ください。
 ※点検していただきました。公開いたします。(2020.1.13)


立岩:その〔共同連の大会の〕時の2日目かな、斉藤さんであるとか白杉さんであるとか、そういう人たちに公開インタビューして、それは記録をとってあるので、それは今、うちのウェブサイトで。共同連の最初の頃というか、成り立ちあたりからずっと堀さんも含めて話してるのが持ってます。
◇2017/09/03 「共同連はどうたたかってきたのか」(公開インタビュー),第34回 共同連全国大会滋賀大会,於:立命館大学びわこくさつキャンパス

同席者:そうですか。なるほど。

杉浦:松場さんってご存知ですかね? 松場作治さん。

立岩:「マツサク」っていう?

杉浦:はい。彼なんかが、車いすですけどね、メンバー連れて毎年ね、4月の初めぐらいに僕らの所までちょっと寄って、それで那賀町ってとこの桜祭り、あすなろ作業所なんかがやってる所に行かれますよ。だから意外と近しいというか、なんか匂いが似ているっていうか。

立岩:杉浦さんでよろしいですか?

杉浦:そうです、杉浦です。

立岩:これ、「りょう」と読むんですか?

杉浦:はい、そうです。

立岩:どっちが上、いつ頃のお生まれなんですか?

杉浦:僕は1953年です。12月ですけども。立岩さん1960年?

立岩:僕は60ですね。

杉浦:だからちょうどたまたまそういうことがあって。メッセンジャーが来た時に、立岩さんの名前があったもんで、1回ちょっとこれはお会いしとかないといけないなと思いまして。

立岩:京都に、大学生でおられた?

杉浦:そうです。ちょうど私、同志社だったもんですから、最初は工学部で、電子工学専攻してたんですよ。ただ10代の後半、最初の時にたまたま変な所に引っ張られ、京都の白川学園っていって、日本で2番目に古い知的障害の子どもの入所施設ですね。そこのボランティアに関わるようになって。それは神学部の学生なんかが始めて50年ぐらいやってた、そういうボランティアサークルだったんですね。白川学園は、明治の終わりに脇田良吉が作りましたけども、クリスチャンですけどね。次の脇田悦三さんの時に関わらせてもらった。そして社会福祉のほうに転部をしたもんですから、それで人生がこんなふうになってしまった。

立岩:工学部に入ったけど、社会福祉で出たっていうか。そういう人いるんですよね。この頃どっかに行くついでにインタビューしたりとかすること多くて。去年かな、去年、金沢に行って、金沢工業大学って、やっぱり工学部に52年か3年生まれの田中さんって人ですけど、ほぼそんな感じですね。工学部に入ったんだけど、今、看護師の資格持ってて、ずっと障害者の支援のことやってる。53年生まれだったかな。けっこうそういう理系に入りで、出たとこ違うみたいな人、けっこういますよね。

杉浦:そうですか。ただ僕らの時代っていうのは、まだその社会福祉学科というのがなくて、社会福祉専攻なんですよ。文学部の社会学科の。

立岩:文学部の中の

杉浦:ええ。文学部の社会学科の中の社会福祉専攻で。

立岩:社会学科社会福祉専攻。

杉浦:今はもう社会福祉学科になりましたけど。だからほとんどそこ出ても、福祉現場に入る人はほとんど…まったくいないぐらいだし、そういうような所だったですね。

立岩:福祉専攻でも現場ではない? どこへ

杉浦:一般企業だとか、それからあとはそうですね、中には公務員やるぐらいで。だから僕なんかが入ったのは非常に毛色が変わっていて。転部っていうのも、僕も4年生になってどうしようかなと思った時にしたもんですから、僕7年大学に行ったんです。

立岩:4年生になった時に転部した?

杉浦:どうしようかと思って。ただ転部試験受けるためには、平均点が何点でね、それからあと面接とかあるんですよ。そのために1年ちょっと、しょうがないから一生懸命、点数上げるために勉強したみたいな。

立岩:工学部に3年いて、転部するために1年やって、それでそうすると同志社の場合、その文学部に転部する時は何年生で入るんですか?

杉浦:3年次ですね。

立岩:3足す1足す2だと

杉浦:いやいや違う、4年ですからね、だから4足す1年ね。その1年間をしないと転部ができないんですよ。誰でもできるわけじゃなくて、

立岩:工学部に5年長くいた

杉浦:語学とかいうのはもう取っちゃってるんですけども、語学の平均点が何点、それからあと総合の平均点が何点とかいう足枷があったものですから、しょうがないからなるべく点数が取れる科目を取って。

立岩:平均点上げて。社会福祉に入ったのは、3年生で入った?

杉浦:そうです。

立岩:2年やって

杉浦:だから1年は別に大学に行くとかいうことじゃなくて、もっぱら点数を上げるためです。大学に行きますけどね。

立岩:53年、

杉浦:ですから入った時には全然わからなかったもんですから、行ったら全然その別世界のようでして。皆さん、社会福祉専攻するんだったら、将来なんかそういうことやるかなと思ったら、もうそういう方が1人もいないんですよ。中にはね、研究者を目指してっていう人はいますけれども。

立岩:そうですか。私関西はよくわかんないですけど、同志社ってわりと社会福祉とか社会事業とか、そういうところでわりと老舗というか、そういうイメージあるんですよね。だけどそうか、学生はそっちのほうに必ずしもというか行かないんだ。行かない時期があったんだね。今、そうでもないと思いますよね、たぶん。けっこう専門職というか。

杉浦:どうなんでしょう。専門職っていうよりね、当時はなにが悲しくて社会福祉をやるんだっていうような時代で、面接を受けた時に「それじゃ食っていけないよ」みたいな、雰囲気だったですね。だからそのまま卒業したらよかったじゃないのって言われるような時代でしたね。

同席者:文学部にあったんですね。立命はたぶん産業社会あたりに

杉浦:立命はね、社会福祉はなかったですよ。

立岩:立命はそうなんですよね。

同席者:産社ぐらいがどっちかというと近いかなみたいな。

立岩:今はもう産業社会学部の中の社会学系が半分、社会福祉系が半分ぐらい、そういう感じですね。

杉浦:昔は神学部にあって。だから社会福祉が学問として成立するというのは、日本はほんと短いですよね。歴史的にはほんとに短い。神学部の社会事業専攻っていうような形でやられ、文化学科更生学専攻になって、戦前ですけどね。それで戦後になってようやく社会学科の中に社会福祉専攻。社会学専攻だとか新聞学専攻とか産業関係学専攻とか、4つぐらい専攻がありましたけど。

同席者:杉浦さんと京都で一緒の時代を過ごしたんだ、僕。そんだけ長くいたから、僕61年生まれなんだけど。

立岩:両方とも京都にいらした?

同席者:僕立命ですから。文学ですから。

立岩:文学部ですか。その頃はたぶん学費安かったんだと思いますけど、今、立命高いですよ。

同席者:そう、安いから行ったんです。

立岩:立命高いですよ、今は。

杉浦:そうですね、その頃僕らまだ、文系が年間15万で、理系が20万。それで入学金が文学部が5万ぐらいだったかな、5万もいかんかったぐらいの。

同席者:僕のころから上がってくるというスライド制になっちゃったんです、立命が。

同席者:立命、国公立並とかって言ってました、僕の入試の時。

立岩:そうだと思います。80年代とかそのへんはそうだと思います。お金がない、僕の同級生とかもそうです。

杉浦:当時、だから文系だと15万が学費で、その頃京大とかなんか36,000円ぐらい。そのぐらいですね。うちの兄貴がそうだったですからね。

同席者:私の時は36,000円でした。

杉浦:ええ、そうです。36,000円。

同席者:うちの先輩18,000円でしたね(笑)。

同席者:12,000円の時も。

杉浦:だからほんとに今は全然別世界。だから当然長くいても意外とアルバイトで学費は稼げて、別に仕送りなくてもやってた人たちがいるんですけども、今は絶対無理ですね。

立岩:今、理系だと200万ぐらいかかりますからね、年間。私学、大変ですよ。

杉浦:そうですね、大変な時代ですね。

同席者:大変ですね、生活費もいるしね。

杉浦:そうです。だからいろいろ長い方だとね、7年ぐらいいたりとか、8年ぐらいいてても別に・・。

同席者:だから先輩が羨ましかったですよ。僕の年から学費毎年上がっていったんだけど、先輩は据置なんですよね、上の人たちはね。だから留年してなんか楽しんでるみたいな。

杉浦:そうです、そうです。だから休学してどっか行くとか、いろいろしたりとか。そういうなんか緩さがあったんですけど、今はもうなかなか。

立岩:ちょっと上とか、同じぐらいだと、7年、8年平気でいるような、そのうちなんかよくわからない、どこに行ったのかわからないみたいな。今はあんまりないですよね。

杉浦:そうです。おっしゃる通りです。ほんとに。そういう時代にちょっといろいろ京都だとか、それから滋賀の第二びわこ学園★だとか滋賀のいわゆる無認可の作業所を立ち上げようっていう運動なんかの、ああいう最前線をちょっと見させてもらったもんですから。滝乃川学園★とそれから島田療育園★みたいなのが関東にあれば、白川学園★とか第二びわこだとかそういうのが関西にボーンとあってですね。そういう意味では、その時代の、たまたまそういうのを見させてもらったっていうのが、私の中ではすごく大きかったですね。だから、白川なんかもね、ほんと今はだいぶ変わりましたけども。京都府下の中で、どこの施設も受け入れないっていう、非常に厳しい環境の子どもたちを優先的に入れたもんですから、毎日戦場みたいな感じで。10畳ぐらいの所に二段ベッドがあって、5本ぐらい並んで、それで10人ぐらいね。だから子どもたちと一緒に二段ベッドで、よく寝させてもらったりとかありましたね。

立岩:それが70年代ですかね?

杉浦:そうですね。

立岩:最初の頃は?

杉浦:73年ぐらいですね、73年。だから73年とか74年とか。

立岩:53年のお生まれ、二十歳、大学の2年、3年、そのぐらいですかね。

杉浦:そう。

同席者:私は75年…74年に大学に入ったんですけども。その時にだいたいボランティアで重症心身障害児施設行ってたんですよ。

立岩:どこらあたり?

同席者:国立療養所、愛媛だったんですが。

立岩:愛媛の国立療養所。

同席者:国立療養所でボランティアしよったんだけども、そういう状況ではなかったですね。だからあの当時、公立療養所っていうのは、やっぱり環境っていうのは、けっこうよかったんでしょうかね。重症心身障害児の子どもさんが入ってましたけども、いわゆる病院みたいな形でしたけどもね。

杉浦:ただ白川学園はちょっと特別っていうこともあったんですね。とにかく京都で一番古いし、全国で2番目ですから、全国で2番目に明治45年ぐらいですかね、脇田良吉が。だから滝乃川学園★のあとやってますので、脇田家がずっとやってきたっていうのもありますけれども。私がボランティアに行ってたのは、脇田悦三、2代目の方で。ちょうど学齢前の通所を作られて、京都でたぶん初めてだと思いますよね。学齢前の通所と入所施設があって。そこの園長と副園長してるのが近藤孝一さんっていって、その方もけっこう変わってるんですよ。新村出(しんむら いずる)の弟子だったんですね、文学者で広辞苑を作ってるね、だから文学者がどういうわけか、そういう方向に入っていった。手拭い1本で、いつもなんかステテコみたいなのを着られて、朝からビールでも飲んでしまうような風体の方が副園長だったりとか。なんていうんでしょう、なんかこう専門性がどうのこうのっていう前に、こういう子どもたちの存在をどうやって受け入れるのかみたいなね、そういうことが多かったですね。

立岩:そうですね、たぶん施設によってだいぶ雰囲気というか、お金の回り具合も含めてですけど、違っていて。例えば重心の施設だとやっぱり島田とびわこっていうのが並べられられますけど。去年僕も、びわこに勤めててた人と話をしましたけど、だいぶ雰囲気がやっぱり違う。びわこのほうが緩いっていうか、ゴチャゴチャしてるっていうか。意外といろんな人がいて、必ずしも政治的に一色ではないというか。その島田の方はずっと官制というか、それに近い感じみたいですね。そこでその入所者を、出るのを手引きしたっていうんで、誘拐みたいなことを言われたて、解雇されたっていう人に去年話聞いたんですけどね。その人もやっぱ53年とかそのぐらいじゃないかな。けっこう偶然っていえば偶然ですけど、そんなに偶然でもなくて、50年代の前半生まれの人に、この頃お話を伺うことが多いですね。

同席者:70年代ってそういう時代

立岩:団塊の世代のちょっと後ぐらいですよね。

杉浦:そうですね。

立岩:何年か後っていう感じ。

杉浦:先輩には学生運動バリバリにやってた活動家の人がおられたりとか、英字新聞の新聞記者を辞めて、そいでそこに入ってきたりとか。中には牛乳配達を高校からずっとやってて入られたとか。それから立命なんかも夜学で哲学を専攻してるような方が職員で入ったりとか。普通に社会福祉をやったりしたとか、1人も私当時は知らなかったですね。

同席者:杉浦先生がいらっしゃった時っていうのは、民青系とかそういうふうな学生運動がまだ、まだちょっと残ってるぐらいの?

杉浦:そうですね、ただ、同志社はどっちかというと、赤ヘル系、ノンセクトが強かったもんですから、だからどっちかいうと、民青系の方は居心地が悪かったかもしれませんね。

同席者:うちは民青です。

同席者:うちの大学も民青です。

立岩:どちらにいらしたんですか?

同席者:愛媛。

立岩:愛媛大学のほうに?

同席者:はい。民青の名残りがいました。

立岩:何年のお生まれの何年の入学ぐらいですか?

同席者:僕は1955年の生まれ。

立岩:55年、はいはい。

同席者:僕は実は県に入って3年目で障害福祉課勤務になりまして。その時に杉浦さんが「太陽と緑の会」でうちの課に来られて、この時は髭をはやされて若々しい精悍な(笑)。

杉浦:年をとって髭が真っ白になってですね、女房にもう剃れとか言われて。女房に言われて、なかなか頭が上がらない。

同席者:ちょうどその時、筋ジスの徳島療養所の方々が自立運動したいっていうことで、施設を出て、いわゆる公営住宅とか、そういうふうなC I Lですかね、の流れを受けて、そういう動きをされた時代だったんですね。県庁では団体交渉みたいな、公営住宅をどないかしろみたいな形で。

立岩:そうですか。

同席者:わりと筋ジスの方が多く、結局四国の中では徳島の療養所★が筋ジスの唯一の施設。

立岩:受け入れ先、受入元になったんですね。

同席者:けっこうやっぱりそういうふうな権利の運動っていう形で来られてましたけどね。

同席者:関西圏からも来てますよね、和歌山★とかもそうですし。

杉浦:そうですね。筋ジスの施設ね。

同席者:彼ら、電動車いすを連ねて、キャンピングカーみたいにわーって行ってたり。だけど、そこから出るのがなかなかね。出るって大変だよね。

立岩:京都だと宇多野病院★っていう、拠点みたいな形で筋ジスの人けっこういて。国立療養所って、80年代ぐらいにひと山あったんですけど、そのあとすっかり静かになってしまっていたところが少し、今動きつつあっていうようなことで、ここ1〜2年ですか、僕も少しだけ関わらせてもらっていて、まあボチボチと。でも筋ジスの人、前から比べたら長生きできるようになったから、40代とかね、そのぐらいで出られたりとか。そんなことが関西、僕は神戸の団体とそれから京都の所と、今はそのへんがわりと熱心に関わっていて。そういう付き合いがありますけどね。メインストリーム協会★っていうわりと大きい組織があって、そこの人たちとかですね、あと京都だと日本自立生活センター★とかありますけど。そこの人たちが今、かなり熱心に動いていて。それが全国に波及というかしてて。明日も実は午前中に徳島のその筋ジスの女性の方〔内田由佳さん〕にちょっと話を伺ってみようと思っていて。
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
◇内田 由佳 i2019 インタビュー 2019/11/09 聞き手:立岩真也 於:徳島 ※

同席者:自立生活されてる方?

立岩:どういうふうに暮らしているのかとか明日うかがおうと。内田さんとおっしゃる方なんですが。

同席者:フェイスブックで出てますね。

立岩:そうですか。

同席者:明日もきますしね。

立岩:そんなことおっしゃってました。

同席者:僕が、80年代ぐらいの前半に障害福祉課におったんですけど、その時にモデルになったのが東京の八王子だったんですね。あそこで、結局東京都が中心になって、筋ジスの方と重度の方がいわゆる公営住宅に住んで、公営住宅はバリアフリーで、そのいらっしゃる人には全部生活保護かけてたんやね。生活保護をかけて、自分たちで結局生活保護費で自分に必要なケアとかそういうのを買うみたいな形で、だから決して自分たちはいわゆる受益者じゃないと。で、結局運動で、八王子はエレベーターがなかった、八王子の駅に。それで大挙して行って当時国鉄とあれをして、エレベーター付けたんね。で、エレベーター付けて行った先が厚生労働省の霞ヶ関駅で、そこで上がって行って厚生労働省に団体交渉して。そういうことをずっとその当時してたんですね。行ったら、すごい所だなあっていうふうに思いましたよ。それも東京都とうまくリンクさせながら、行政のほうとリンクさせながら、自分たちの生存権っていうのか、そういうのを保障してくれるような運動をされていたんですね。あれはすごくインパクトがあったんですが、徳島と全然、徳島まだ、どちらかというとね、はい。施設にしても国立療養所系が多い、東徳島病院★とかね。

近藤文雄(1916〜1998)

杉浦:立岩さん、仙台の「ありのまま舎」★の山田富也さん★とかはご存知ないですかね?

立岩:直接の面識はまったくなくて。名前は存じ上げていて、知っていたんですけど。80年代は大学院生でお金もなかったし、もうやっぱりその今おっしゃったような八王子とか立川とか、東京の西の方の人たちとの関わりが、ちょうどおっしゃった、その頃じゃないかと思いますね。85、6、7、85年ぐらいから90年ぐらいにかけて、そういう人たちとの付き合いというかがあって、それで90年に本出すんですけど。そういう人たちの、八王子で会ったような人たちっていうのは今でも、それから30年経つわけですけどまだ付き合いがあって。だから結局、その90年に本書いたっていうのも、電車で200円で行ける範囲。中央線で、JR中央線ってあるんですけど、それに行って戻ってこれるぐらいの範囲を調べて書いたので、関西とかね、雑誌とかそういうので、四国は四国で九州は九州でいろいろあるっていうのは小耳に挟んでましたけど。やっぱり実際に行って、例えば仙台行って、その山田富也さんっていうようなことはまったくできなくてですね、という感じで。去年、一昨年、遅ればせながらというか、でもそれも人に会ったわけじゃなくて、文献でとりあえず調べられる所は調べて、だけどそれと並行して、少し話が聞けるということ、その気にもなったので、30年ぶりぐらいに話を聞き回ってると、ほんとに52、3年、4年、5年、生まれの方に出会うことが多くて、そういう話をそういう方々の話をよく聞きます。
◇立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※

杉浦:ちょうど山田富也兄弟3人が筋ジスになって、たまたま仙台の国立西多賀病院の病院長だった近藤文雄★が、治療できませんからって、お断りして帰したが、後に厚生省に内緒で入れたという、あのくだりなんですね。

立岩:そうみたいですね。制度的にはないけれども、もう受け入れちゃう。病院長の権限ということですかね。そういうことみたいですね。

杉浦:でもずいぶん近藤文雄は悩んで。ただ、いったんは治せない、世界中どこ行っても治せませんっていうことを言うしかなくって、ただ制度も何もないところで、3人とも進行性のデュシャンヌ型だっていうのがわかると、お父さんは働かなくっちゃいけないし、3人抱えるっていうのが、一家心中を強要するようなそういう重みがあるので、それでいったんは帰したけども悩んで、それで内緒で入れた。全国から130人もの子どもたちが入ると、入ったら入ったで、それが当り前になってくると、山田3兄弟のうちの2人は亡くなりましたけど、山田富也のほうはやっぱり自立、なぜ病院でしかおられないのかっていう思いが出て、ありのまま舎を建てた。三笠宮さん★が、もう亡くなりましたけど、三笠宮さんが総裁でいましたので、それでずいぶん全国展開したという。今は彬子女王だったかな、がいて、前ちょっと呼ばれて行こうかと思ってたんですけど、ちょっと都合がつかなくて行けなかったんですけど。白江さん★は繋がりがあるので、近藤文雄が亡くなって、白江さんがこっちに来て、一回墓参りをしようとかといって来られた時から。

立岩:そうですか。

立岩:西多賀が、受け入れたその近藤さんがっていうの、60年じゃないですかね。厚生省が政策として受け入れるっていうのは65年だと思うんですよね。だからその前、だから制度化以前ですよね。西多賀が日本で一番最初にっていう、そういう流れですよね。

杉浦:そうですね、おっしゃる通りです。

立岩:近藤さんっていうのは、そういう意味で書いたものしか僕はわからなくて、そうなんですけど。実際に御存知だった方としては、どういう方であったかっていう記憶がありますか?

杉浦:近藤文雄は、徳島県人なんですよ。入田町(にゅうたちょう)出身なんです。お父さんがけっこう赤ひげっぽいお医者さんで、苦労されて医者になったっていう。本人曰く、自分は3度死にかけたって言ってましたから。九州帝大の医学部出て、それですぐ戦争が始まったので、もう強制的に主任教授から整形外科をやれということで、すぐ南方に送られて。その当時は日本が一番領土が広かった時期なんですけども、それからずっと転進、転進、後退するわけですね。結局退却をして。たまたま輸送船でまた転進して次の所に行く時に、1日前に本部から1日早く来いと言われて行ったところ、その輸送船はアメリカの潜水艦に撃沈されて、たぶんあの時に出て行ってたら死んでた。九死に一生を得て、東大の医学部に行かれて、もう一回整形外科を勉強されて仙台の国立療養所に所長で入るわけですね。玉浦療養所っていうのがありまして、そこの所長として入って、あと西多賀療養所っていうのがあって、それが合併して国立西多賀病院っていう大きな病院になったんですけど。そういう経緯ですね。それで15年ぐらいいましたけれども、その山田3兄弟が西多賀病院に行くわけですね。そしたらそういう情報がわっと流れて集まった。結局は最終的にリハビリぐらいしかやることがない。小学校低学年ぐらいから入って、高学年になっちゃうともう歩行が困難になって、中学校になったら寝たきりになっていくっていうような状態。当時は十五歳と二十歳ぐらいが死のピークだね。

立岩:そうですね。その頃そんな感じだったようです。

杉浦:その時どうするかっていったときに、勉強がしたいというのが多かったもんですから、たぶん日本で最初にベッドスクールっていう形の組織を立ち上げた所ですね。ただそれの裏にはですね、けっこう面白い話があって。近藤文雄のほうが所長として入るわけですけれども、脊椎カリエスの子どもだったりとか、それから教師で脊椎カリエスになったとか、そういう方もおられるわけですね。入院した子どもを、ボランティアで、入院した学校の先生が、家庭教師みたいに教えてた背景があったようですね。六郷光子さんっていうね婦長が西多賀病院におられて、薬剤師さんだとか、いろんな関係者がそういう子どもたちに勉強を教えてたんですね。ただそれが院長にわかりますと、それは厚生省としてはですね、病院は、病気の治療のために来てるのに、教えるっていうのは何事かっていうことで、これはもう絶対禁止なわけですね。ですからそれを内緒で、婦長さんたちが、皆さんがやってたという、そういうことですね。たまたま筋ジスの子どもたちがガバーっとたくさん130人も来ちゃったんで、どうしようかといった時に、これはやっぱり教育が必要だっていうふうに近藤文雄が言ったんですね。そうすると、そういうことは内緒でやってましたって話になって、それでお墨付きが付いたっていうことですね。そのあと特殊教育なんかの重鎮の人たちを集めて、養護学校を設立したっていうのもその頃ですね。ずいぶん、治療ができない子どもを病院に入れる、それから病院で勉強をさせるっていうね、タブーを2つも破って。でも最終的にはそれで問題は解決しないもんですから。命を助けるということで病院に入れたのはいいけれども、そのあと、じゃあそんななかで、病院で死ぬのかっていうような、そこで地域の中で死にたいっていうような要求があった時にはですね、近藤文雄曰く、病気が遺伝子の問題だっていうのがわかってましたから、研究所を設立して、世界にですね、日本が貢献ができるんじゃないかと。数は少ないけれども、そういう野望を持って、それでされたんですけども。厚生省も役所ですから、なかなかそういうことやると、御法度というか非常に厳しい。で、まあ辞められて、徳島に来て、生活のために開業医をして、それで「太陽と緑の会」ってのを作ったっていうことですね。

立岩:それなんかいろんなエピソードあるみたいで、近藤さんが本の中書かれている話っていうのは、ちょうど70、だから田中角栄の時代、田中角栄の所に直接陳情に行ったら、角栄が「よっしゃ」って言ったそうで、そうなんだけれども、そのあと、

杉浦:そのあと三木さんですね、ロッキード事件。

立岩:それで辞めざるを得なくて三木さんになって。三木さんは冷たくって、それで話が頓挫したっていう話であるとか、戦後政治史のある種関わりもあるんですよね。それから秋元 波留夫〔1906〜2007〕っていう精神医学とかリハビリ医療とか、いろんな意味でボスですね、東大医学部のボスですけれども。近藤さんは筋ジストロフィーの研究所を作りたかった。

杉浦:そうです。

立岩:そういうことをやったんだけれども、秋元っていうのは基本的には精神科医ですから、神経っていうことで、それでもっとずっと広い範囲の研究所っていう話になって、そっちの方にシフトしていって、それでその研究所ができると、近藤さんはそういうふうに話を持っていかれたってことで、かなりお怒りになってというか、憤慨されておったようですね。

杉浦:近藤文雄の発想としては、予算を細かく分けて研究してもなんの成果もないと。いろんな分野の方が筋ジスっていう、進行性筋萎縮症の研究にいろんな角度から取り組むと解決ができるけれども、それをいくつかの部門にわけてしまうと、なんら成果は出ないっていうのが近藤文雄の理念なもんですから。実際最初の神経センターができた時に、3つぐらいはね、筋ジスの研究ですけども、あとは神経、脳神経の研究に割り当てられちゃったので。最終的に1つに特化するとすごいことが日本でできたのに、なんっていうことをずいぶん言ってられましたね。分散してしまうとなんの成果もないっていうね。ずいぶんそれを嘆いてましたね。

立岩:秋元さん、ほんとにボス、そういう業界学会のボスだから、厚労省と強い何かがあって、そっちのほうに話が流れていったんだろうと思いますけどね。
 近藤さん、そのキャラクターっていうかその人格っていうか性格っていうか、どんな感じの人だったんですか?

杉浦:パッと見るとそこらへんのね、頭の薄くなった爺さんみたいな感じ。ちょっと言い方悪いですけど。そんな感じですね。でも一番ね、印象的な言葉はね、柳澤〔壽男、1916〜1999〕監督が国立西多賀病院に、『夜明け前の子どもたち』っていうのを仙台で上映活動をやった時に、たまたま面白い医者がいるからっていうことで会いにいった時に、庭でですね、草取りをしてる用務員の人がいた。アポは取ってないけども、院長先生に会いたいんだって言って行ったら、「まあ来なさい」って言って、バーッと3階まで上がってって、中に入ったら院長はいなくて「失礼しました、私が近藤です」っていう、そういう、お尻に手拭いをたらして、病院長らしくないね。近藤先生はあの時は花の手入れをしてて、「草取りはしてなかったけどな」とか言ってましたけど、そういう方ですね。ですからそういう意味でパッと見ると、なんていうんでしょうかね、悪く言う方は、あの人はやっぱり馬鹿じゃないのかっていうような言い方をされる方がいますね。でもそんなことは近藤先生、あんまり関係ないもんですから、損得感情だとか、そういうことはもう全然。ただ何が自分にとっていいのかっていうようなことを、自分は一回死んだ身だから、もうリセットができてる人だろうと思いますね。例えば、普通国立病院の特に東北6県の中心的な病院ですから、その病院長やってるっていうのは医者の中のエリートをずっとやってた人ですよね。それをパッとですね、院長になる人はたくさんいる、いっぱいいるけれども、研究所設立なんていうのをやる人は自分しかいないから、「自分は徳島に行くよ」と言って、私なんかそういう地位と名誉と権力は全然ないんで関係ないですが、そういうのを持ちながらすっと捨てちゃうんですね。

立岩:彼は徳島県人で徳島市内の出身で?

杉浦:そうですね、入田(にゅうた)っていってね、徳島市の郊外。

同席者:旧は郡部やね、名西(みょうざい)郡。旧郡部だから、ほんとに田舎的な感覚だったかもしれない。

立岩:その徳島に戻られて、何をなされて、仕事としては。この会に関わったっていうのはわかるんですけど。

杉浦:4階建ての、正確にいうと5階ですけど、個人病院を建てて。4階にですね、建てた病院の4階にいわゆる会議室を作るんですよ。それは何かといったら、筋ジスの研究所設立運動をするための「太陽と緑の会」の事務所をね。病院の中に入れて作ったんです。だから自分は、もう医学はあんまり興味がなくなったっていうような言い方、もう医学にはあんまり興味がないっていうか、限界を感じてた。だからそういう展開を。ただ、当たり前ですけど生活ができないですから、開業医をやっていかないといけないっていう。そういうようなスタンスですね。

立岩:医院を経営されて、それは何、なんだろう。

杉浦:整形外科です。それでことあるごとに、『ぼくのなかの夜と朝』の映画上映会をやったりとか、それからキャラバンやったり…九州キャラバンやったりとか。それから当時、国会請願の署名活動ですね、25万人ぐらい集めましたから、そういうのを全国展開したわけですね。その間に、鴨島町(現吉野川市)にあります国立療養所だとか、そういう所にも出入りをしながら筋ジスの人たちがいますから。そんなことを展開されたんですね。あと、徳島県心身障害者福祉会といって、当時7つぐらいの施設があった、その理事長をやったりとか、そんなこともされて。とにかくずっと、寝る以外はずっといろんなことされてましたね。ものすごいエネルギッシュで。ですから、60、確かね、7、8ぐらいの時に、心筋梗塞で3本のうちの2本が詰まって、もう危ういと言われてたんですけれども、また奇跡的に復活してっていう。とにかくなんていうんでしょうね、努力の人とっていうか、それから発想がユニーク。「太陽と緑の会」は、次に人も物も活かされるみたいなニュータイプの活動に、障害を持ったメンバーと一緒にやっていくみたいなそういう展開がありました。あとは、城満寺復興っていってですね、海部(かいふ)、徳島県の四国最古の禅寺があるんです。それは曹洞宗のお寺で、瑩山(けいざん)禅師っていって、曹洞宗は道元が開祖ですけども、その道元っていうのはすごい先駆者なんですが、それをいわゆるプロデュースして全国的に広めたのが瑩山禅師なんですね。瑩山禅師が開いたのが、徳島県の海部っていう所にある城満寺っていうとこなんです。これが四国で一番古い禅寺なんですね。だから当時は徳島の中で結局一番栄えてたのが海部なんですね。陸路がないもんですから海路でもってダイレクトに大阪だとかそれからあと江戸だとか、そういうところと取引して、いわゆる材木を供給して。それからあと砂鉄を使ってですね、海部刀って刀を作ったりとかですね。ちょうど1200年ぐらいでしょうから、作ったのがですね。その当時は、いわゆる徳島の中心的な港兼財力があったっていうね。ですからそこに城満寺を作って。ただそれが焼けてしまって。

同席者:ほんでそれを大槻禅師が托鉢でずっと、全部回って行って。

杉浦:そうです。そうです。大正ぐらいになってですね、復興活動があって、2人ぐらい有名なお坊さんが来たんですけどもうまくいかなくて。3人目が大槻和尚っていう、大槻哲哉っていう、それが全国の曹洞宗のお寺を、24000ぐらいある、実際は16000ぐらいだって言ってましたけど。それを2回廻って1億とか集めて。それを基金に總持寺からのお金ももらい、本殿を建てたんですね。それをする時に近藤文雄なんかが、その城満寺復興みたいな形で、会長は森下元晴さんっていって、元厚生大臣をされてた県南の代議士ですけども。で、その事務局長なんかをやって。それで禅寺の城満寺復興っていうような運動をずっとされてました。これは檀家を持たずにいわゆる座禅道場っていうか、日本のね、いいスピチュアルな世界をキープするんだみたいな、そういう。

同席者:今も活動やってます、住職。

同席者:今ハンサムな住職、東大卒の。

杉浦:田村航也っていってですね、東大の哲学かなんかを出た、

立岩:そうですか。海部っていうのは徳島市からいうと、どっちに行くんですか?

杉浦:ずっと南。高知の境界線よりちょっと上ぐらい。

同席者:車で2時間半、2時間から2時間半ぐらい。

立岩:じゃあこう下がって、高知のほうに行くっていうあたり。

杉浦:で、本堂ができて座禅堂もできて、当時は何もなくて、何もない所に、そのぼろの庵があって、そこでずっと生活されて。

同席者:今、きれいですね。

杉浦:今、きれいですよ。

同席者:大槻禅師の時はなんもなかった。本部から行けと言われて。行ったらなんもないって。やけど全国回って行った、托鉢で、お金集めて。

杉浦:そういうことを実は近藤文雄が関わるんですよ。何でかっていうと、スピチュアルな彼の仏教哲学みたいな部分ですね。だから、道元禅師の本の勉強会やったりとか、はい。

立岩:この本★はそういう感じの本ですか?
◇いただいたこの本の頁、これから作ります。

杉浦:そうですね、西田幾多郎の現象学と、それから仏教の哲学のそういう中で、自分がどういうふうな位置づけをするかっていうような感じですね。

立岩:その方はおいくつまで生きておられた?

杉浦:1998年に81で亡くなりましたから。

立岩:98年に81歳でお亡くなりに。



杉浦:ですから大正生まれなんですが、ちょうど柳澤監督がその1年3ヶ月ぐらいに83ぐらいで亡くなって。だから年代的には近藤文雄のほうが1つ年下なんですけども、ちょうど大正末期というかそのぐらいでしょうね。だからよく、柳澤監督が大正リベラリストだし、近藤文雄は大正ロマンチストだなとかいうような言い方をしてた時がありましたね。柳澤壽男もどちらかというと、戦前、松竹の助監督をして、戦後は岩波の映画だとか、日本映画社の監督をずっとやってて、それである時に、こんな映画作ってもしかたがないって言って、全部捨てて、それでびわこ学園の『夜明け前の子どもたち』をね、撮るような形になりましたからね。何で撮るようになったか、そこは模索の中でずいぶん苦しんだようですね、柳澤監督。

立岩:何年か前に柳澤さんについてのわりと大きな本が出てるんですよね。

杉浦:そうです。『そっちやない、こっちや』っていうタイトルで。それを作った小林だとか、そのへんは友達なもんですから。
◇岡田 秀則・浦辻 宏昌 編 20180210 『そっちやない、こっちや――映画監督・柳澤壽男の世界』,新宿書房,416p. ISBN-10: 4880084735 ISBN-13: 978-4880084732 3800+ [amazon][kinokuniya] ※

立岩:杉浦さん、どういうふうにして、その柳澤さんと知り合ってというか、関わりというか。

杉浦:私ですか?たまたま京都で白川学園のボランティア団体のゆりの会っていう所にいたもんですから。当時『ぼくのなかの夜と朝』とそれから『甘えることは許されない』っていうのを京都の勤労会館でやったんですね。それのチケットをいろいろこう販売してくれっていうことで。ほんで見に行ったのが最初ですね。その時にはどっちかというと、『ぼくのなかの夜と朝』とか『甘えることは許されない』とか、立岩さんもご覧になったかもしれませんけども、『甘えることは許されない』っていうのは、西多賀のワークキャンパスの、その中の入所してる身体障害の方が、一生懸命、こういう施設が欲しいていうのがどんでん返しになって、結局はそういう希望がひとつも叶えられなくなって。エンディングは、服を着るだけで1時間もかかる方の、そういうのをロングショットで、カットせずにずっと撮ってる、しんどい映画なんですよね。なかなかね、もう見ててだんだん陰鬱になってきてねえ。『ぼくのなかの夜と朝』もそんなに元気がもらえる映画ではないですから、最後、山田富也がピュッと唾なんか吐いて、カメラマンにね、そういうようなのがあって。「いや、大変だな」っていうことしかなくて。こんな映画撮ってる監督、嫌だななんて思って、行ってたら、意外とそうではなかった。

立岩:行ってっていうのは、どこに行ったんですか?

杉浦:柳澤監督がたまたま京都に、奥さんが京都にいましたから。

立岩:奥さん、京都の方?

杉浦:そうです。宮川町っていってね、御存知だと思いますけど。宮川町のお茶屋街のちょうど宮川町の歌舞練場っていうね、あの近くなんです。だからあそこに行くとですね、美味しいコーヒーが飲めて、学生ですけれどもね。夜になると舞妓さんなんかが出てね。だからって舞妓さんにお酌をしてもらったことはないですけども。

立岩:その監督の奥さんがその歌舞練場のあたりにおうちがあって?

杉浦:そうです。

立岩:その監督も時々そちらにいらしてたってことですか?

杉浦:そうですね、そこにずっとね。そういうドキュメンタリーの映画を撮っていくとですね、御存知だろうと思いますけども、飯が食えないんですよね、いくら有名になっても。

立岩:金はかかるけれども儲からないって。

杉浦:そうですね、飯が食えない。ですから生活をどうするかっていうことで、たまたま奥さんが女優さんだったもんですから、そこで歌舞練場なんかのアナウンサーをやったりとか、あと、民宿なんかやって、そこでね、お茶屋さんの佇まいなので。そこでそういう生活をしながら、奥さんがサポートをしながら、監督は監督でそういう福祉映画を5本撮ってるわけですね。そんなことをずっと続けてきた。例の新宿書房が4,000円プラス消費税の『そっちやない こっちや』を作りましたけど。『私的所有論』の6,000円には負けますけども。

立岩:今安い。今、第2版1,800円です。

杉浦:そうですか(笑)。

立岩:3分の1になっちゃった。

杉浦:そうですか(笑)。『私的所有論』の6,000円プラス税金から比べたらずいぶん、まだ4,000円なので。あそこに集約されてて、すごい凝縮した、いい本。

立岩:それって、その最初はそのチケットを販売するところから入って、その監督の奥さんが宮川町にいらしたってこともあって、同志社の学生として、そちらのお宅のほうに伺ったりとか、そういうことがあったっていうのが何年ぐらいですか? 何年生ぐらい?

杉浦:たぶん3回生とか4回生ぐらいじゃないですかね。そんなにすぐではなかったですけども、最初売る時には1回生の終わりとかね、2回生ぐらいの時にそういうのが来たんだろうと思いますけどね。

立岩:それでその柳澤、その徳島に? もともとはその徳島にご縁があったわけではないわけでしょう?

杉浦:ないです、ないです。たまたまですから、監督のとこに出入りしてて、このままどうしようかなんて言って、「杉ちゃん、その、松下かなんか入ってね、マネーヘルプしてちょうだいよ」とか、よう言われましたけども。マネーヘルプじゃなくて、僕がそのミイラとりがミイラになってしまって。そいで、一応社会福祉を…専攻を卒業して、福祉は嫌だなと思って、やめたと思ってたんですが。就職をしなくちゃいけないので、たまたまその大阪に岬町という所があって、淡輪学園っていうのがあって、そこの杉崎園長っていうのが面白いからなんていって、そこに入る予定だったんですよ。ただその1週間後ぐらいに柳澤監督が、「ちょっと知多に行ってくれんか」とか言って。愛知県の知多市。『そっちやない、こっちや――コミュニティケアへの道』っていうドキュメンタリーを撮ってた現場なんですね。名古屋の「さわらび園」っていう所がですね、社会福祉法人の子どもの通所施設ですけども、そのへんが中心になってて。NHKのアナウンサーだったかな、そういう方もされたりとかいろいろしてますけど。愛知県の知多市で、養護学校もなくて、それから施設もなかなかなくて。そういう状況の中で、子どもたちをですね、当時は就学猶予で家におるしかないっていう状況になったんですね。そういう子どもたちを、ある重度障害の子どもを抱えたお母さんが、「さわらび園」や児童相談所なんかがやってる講習に行って、地域の中で、地域の障害持ってる人たちを集めてね、それで内職やったりとか、集まる機会を作りなさいよっていうような運動をやったんですね。その活動のドキュメンタリーを作ろうという運動があって、そこで柳澤監督が入ったんですね。クランクインしてずっと撮ってたんですけども、このままじゃなかなかうまいこといかないからって、「杉ちゃんちょっと来てよ」って、淡輪学園を断って行った。卒業してすぐだったから80年、81年、そのぐらいですね。

立岩:大阪やめて、名古屋。元々が愛知、名古屋のほう?

杉浦:愛知県の西三河のちょうど安城市っていう所が私の出身で。上に豊田市があって隣が岡崎、そういう所で。

立岩:呼ばれて、

杉浦:たまたま知多に、

立岩:知多に来たと。その映画のお手伝いみたいなことしたってことですか?

杉浦:違うんですよ。そこの職員をやって、

立岩:撮るほうじゃなくて?

杉浦:そうです。ですから私が被写体になったわけです。公民館が狭いっていうよりも毎日使うようになってくると、やっぱり地域から浮いてしまうんですよね。公民館の機能として他の人がなかなか使いにくい。そうすると自分たちの作業所が欲しいということで、作業所を作ろうという運動をちょっと私なんかが展開した。それをずっと撮った映画が『そっちやない、こっちや』っていう映画なんです。それを柳澤監督が撮ったんですね。ただ残念ながら、当時知多市は中部電力の火力発電所だとかですね、浜を埋め立てて石川島播磨だとか、出光興産だとか、日清製粉とか、大企業を誘致しまして。中部電力の火力発電所の第2号機が入ることで、知多市は当時で20億ぐらいのお金が落ちたんですね。そうすると1億ぐらいの施設は簡単に作れるって市長さんと約束したんですね。ただ、うまいこといかないもんですから、とりあえずそういう作業所作りをして、「ポパイの家」っていうのを作ったんですが、それを壊して施設を作るっていう展開になったんです。映画はできたんですけども、その2年後ぐらいに壊した。そのあと、何年ぐらいですかね、ずいぶん経って、知多市の人たちがもう一度、『そっちやない、こっちや』を知多市の体育館で上映をして、その後マイクロバスで、徳島まで来て、太陽と緑の会を見学に来られたんですよ。実際蓋を開けてみると、その後施設を作って、今は、就労継続のB型かなんかですが、中身としてはね、全然つまらないものになってしまって。あのまま「ポパイの家」を存続したら、お金も安くて、そこにグループホームでも作って展開したほうがどれだけよかったかみたいな、ことを言われたんですけど。それはそれで、もうね、歴史を振り返ってもしょうがないですから。『そっちやない、こっちや』に出てくる、療育グループ「ポパイの家」のメンバーのうち、3分の1ぐらい、上映会に来られましたね。そういうことがありました。

同席者:知多ってそういう土壌があるんですね、ずっと昔からね。

立岩:そこには何年おられたんですか?

杉浦:僕は、丸2年です。そこはもう閉鎖して公立公営の施設を建てましょうっていう話だった。でも公立公営の施設を建てるっていうのはもう時代遅れですよと、むしろ社会福祉法人にしてやるのが筋ですよっていうことが、そうじゃなかったですね。愛知県コロニーはご存知ですかね? ちょうど愛知県コロニーなんかができて、そこに入所待ちの人がいっぱいできてっていうような時代だったですけども。コロニー批判もずいぶんあったし、やっぱり地域の中でどうするかっていう問題を『そっちやない、こっちや−コミュニティケアへの道』というのが暗示をしてるんですけれども。いったんお金がボーンと落ちるとなかなかそういうふうにはいかないですね。だからハングリーなほうがよかったかもしれないっていうことなんです、結果的に言っちゃうと。

同席者:徳島県って全国で一番知的障害者の施設が多いですよね、人口当たり。

同席者:知的だけじゃない、高齢も。

同席者:その当時ね。昭和50年代のね、全国1位になってるのかな? そんなんも全部影響しとんかな。

■愛知→大阪→徳島

立岩:2年でしょ、そのあと徳島なんですか?

杉浦:そのあと僕は、もう福祉は嫌だと言って大阪に行ったんですよ。大阪の西淀川区っていう所に行って、ある養護学校の先生がおられて。職業適用っていって、当時2年間は補助金としてお金を出すんですね。ただ2年経ってお金が切れると、最低賃金以上の働きがない人はクビになってしまうんですよ。その人たちが滞留して、そのあとどうするかっていう問題を、やってた人がいまして。その、くず屋さんの親方みたいな所に入って、そこに、養護学校を卒業して就職をしたんだけども、一般就労ができなかった人たちをなんとかならんかって言って。そういうちょっと面白いとこあったもんですから、ちょっとそこに。
 私はそこで4.25トンの大きなトラックを運転して、廃バッテリーを積むとかいうようなね、そんなことをやってたんですけど。そこで、連中と一緒に1年7ヶ月ぐらいかな、いましたね。ただ大阪の西淀川区の公害が日本で一番酷かったいう所だったもんですから。そこっていうのは、被差別部落の方だとか、それから在日韓国朝鮮の方だとか、それからあと貧困、障害の方だとか、そういう方のるつぼなんですよ。僕はそこに行かしてもらって、ずいぶん価値観が変わりました。ウエストバッグに100万ぐらい持ってですね、廃バッテリーを買い付けたりとか(笑)。潰れたアルミの鍋釜を買い付けたとか、そんなことをやるんですけども。その大将っていうのが面白い方で、中学校出て、滋賀の方なんですけど、そういう非鉄金属の仕事やってられるんですけど。太っ腹の方で、障害を持った人もいいよとか言って、やってくれる所でしたね。そうすると障害を持った、これは自閉症の方だなとか、いろんな人たちが来るわけですね。そういうるつぼの中で、腹の底が読まれちゃうっていうか、表面的な頭でっかちっていうのはすぐ読まれちゃうんですね。だから根っ子の部分でどうなのかみたいなことを。だから言葉だとかよりも、その人の匂いだとか、その人の価値観みたいなものを、ノンバーバルなところを嗅覚で感じ取る、差別されてた人たちっていうのは、そういうことをどれだけ先鋭化してるかっていうのがよくわかりましたね。ですからそこでね、勉強させてもらって。素性は明かさないですけども、そういうのって明かさなくてもすっと見られちゃいますから。同じことして、汗水垂らして、やっていくわけですけど。

立岩:その4トントラックっていうのは、そういう非鉄金属の、右から左へみたいな。そういう仕事をしてたってことですか?

杉浦:そうです。くず屋さんの親方みたいな所に、アルミ缶をね、500キロだとか、それからあと、湯沸かし器の解体した銅の部分を300キロとかって買い付けっていうようなね。そこにそのメンバーを乗せて行くってような。私も、最初は2トントラックで行ったんですけどね。でもすごい原体験というか、ちょっと27周年記念誌の最初にそういうこと書いてますけども、そこに精神障害の方だったりとか、ほんとにぐちゃぐちゃになった方だとか、いろんな方がおられたから、勉強になったというか。今でもね、そこの大将とお付き合いしてますけど、徳島でこういうことをやることになっても、あそこをもし経験してなかったらたぶん途中で頓挫して、もうギブアップして徳島を適当なところでやめてたかもしれませんね。

立岩:徳島にっていうのは、誰からどういう引きというか。

杉浦:それは柳澤監督と近藤文雄から。筋ジスの研究所設立運動が、とりあえず立岩先生も御存知のとおり、予算が三木武夫になって10分の1になって、武蔵野神経センターができた。その後徳島で筋ジス全国大会っていうのをやった。僕は全然知らないですけども、それ終わって、センターができちゃったもんですから、「太陽と緑の会」はその後はずっとボランティアみたいな形の位置付けに。自分たちの活動のベースがなくなっちゃって、そのあとどうするかっていう問題で、監督がちょっと杉浦行かすから、なんかやりませんかみたいな話を、近藤文雄と柳澤監督がしてたようですね。

立岩:いろいろやったけどある種頓挫というか、夢というか、実現しなくなって、その次何しよう、どうしようっていうそういう話の中でお呼びというか。そういうことだったん?

杉浦:ボランティアだとかボランティアスクールだとか、そういうのやってたんですよ。ただなんていうか現場を持ってないもんですから、なかなかそのリアリティの中でこう、それを維持していくっていうのが難しいですよね。だから私としては「ポパイの家」の後をどうするかみたいな、落とし前じゃないですけど、そういうのも考えたりしないといけないっていうのがあって。1年7ヶ月ぐらい西淀川でやってきたことで、ちょっとやれるかもしれないなっていうことで、徳島に来て始めたっていうことです。ちょうど近藤文雄の実家のある入田に、使われなくなった豚小屋があって、そこでスタートをするっていう話なんです。すみません、私の話ばっかりで。

(立岩氏中座)

同席者:行ったんですよ、近藤整形外科へ。心身障害者福祉協会の関係があるので、施設関係ずっとされているので、病院のほうお邪魔したんですけど。印象がね、なんかすごいおじいさんがおるみたいな印象だけしか残ってないんですよね。

杉浦:そうですよ。パッと見たらね、白衣も着てませんしね。

同席者:でもあとで聞いたらすごいですね。その当時もすごいっていうお話は聞いとったんですが、全然理解不足。まったく理解できてなかったですね。

杉浦:まあパッと見ちゃうとね、この人、失礼ですけどちょっと変わった人や、あぶない人ではないんですよ。

同席者:あれだけ施設経営されてたんですから。

杉浦:だからすごい、超越してるっていうか、ほんまになんか、

同席者:県庁のすぐ近くやったんですね、近藤整形っていうのが。

(立岩氏戻る)

杉浦:近藤先生、世間体全然関係ないですもんね。だから白衣は着ないし、縮(ちぢみ)のシャツみたいなので。だから、新しい患者さんが来られて、近藤先生がいて、その患者さんが「私は院長先生に診ていただきたいんですけども」って言って、「いや実は私が院長です」っていう(笑)。奥さんが縮のシャツを藍染にしてちょっと色を付けたという、とにかく変わった方ですよね。人がどうかとか、どういうふうに映るかとかね、あんまりそういうことはたいしたことないっていうか。普通だったら、世間体だとかいろんなとこがあるんですけども。本来はあったんだと思いますけどね。

同席者:その研究所の運動の時とかの話、全然聞かなかった。私は一番若かったからね。25、6ぐらいの年齢だったかな。近藤先生はその時にお目にかかったけど全然。

杉浦:そんなことを偉ぶって言われる方では全然なかったですから。なんかこの人アホちゃうかみたいな言い方をね、でもそういう方が徳島県人にいて、すごいと思いますよ。

同席者:先生の本読んで初めて知って。タイトル見といたから出てたんでね、繋がったというか、今の話聞いて。

杉浦:立岩さんの話なんかも、もう解散しましたけど、日本青年奉仕協会っていう、海外青年協力隊の日本版があったんですけども、そこから1年間派遣された西村っていうのが、山口県立大卒業してこっちへ来たんですよ。彼が立岩さんの信奉者で。立岩さんの本、これすごいって言って。それがあの『私的所有論』。

同席者:第2版を買いましたよ、安いほうを。

杉浦:そうですか。初版を持ってて、それで信奉してました。私もその時にはあまり知らなくて、ただ、共同連の関連でこういうこと書かれてる方っていうことで、3冊ぐらい買わせてもらって、なるほどなって感じはしましたけどね。ほんとに『私的所有論』、すごいね、独特の。

同席者:文章の書き回しとかね。

杉浦:独特の文章の書き方なので、パッと見るとなかなかとっつきにくい感じはするんですが。実はこれなかなか、この方はすごいな、なんていうことをちょっと思いましたね。ああいうことをずっと掘り下げて。

同席者:自己決定いいますけど、自己決定のとこあんまりないですよね。

杉浦:そうですね。自己決定自体を疑って、もう一回こうしっかりひとつひとつ考えていこうっていうような、いったんこう、これはこういうもんだって信じちゃってるやつをもう一回ひとつひとつ言葉で考えて、考えるのが特色っていうね。

同席者:なんか思い出す、僕らかて全部ひっくり返ったというか。なんかすごい、衝撃でしたね。

杉浦:最初はね、言葉に拘って読んでると、立岩さんの、なんか言ってることが、あんまり分からへんなって。言ってる言葉に目が行っちゃうと、なかなか本質に近づけないんで。全体の流れ見てるとああなるほどなっていうのが、ああこういう人がいたっていうふうに。

立岩:たまにそういう変な人、ポツポツとそこらにいます。確かにそっちのほうが本業は本業なんですけど、理屈をこねるっていうのが。たださっき申し上げましたように、80年代の半ばから後半以降っていうのが、いろんな人に話、聞いたりとか一緒に仕事したりとかっていうのがあって。そこがもう書いたものっていうより、直に付き合ってわかった部分もあるんですけど。例えば筋ジストロフィーの話であるとか、近藤さんの話であるとかっていうのは、ほんとにアマゾンのマーケットプレイスとかね、そういうので仕入れた、わりと安直な仕入れ方した知識を繋げて書いてる、それで全体がわかるとはもちろん思ってなくて、やっぱりお話聞いたりとかそういうことが必要だなと思っていて。つい、実は昨日、文科省に出す、ちょっと大きい研究費の書類◇をなんとか出して、それが昨日だったんですけど。それはほんとに、字が書ける人、書けるっていうか書いて本にしたりする人のほうが全然少ないわけで、裾野にこう、今お伺いしたようにいろんな話があるわけじゃないですか。そういうのをちゃんと聞いたり、集めたりしとかないと、やっぱりわからないことっていうのがそのまま残って、そのままわからないままになってしまうからっていうことで。そういうことをちゃんと調べるから金くれっていう、昨日書類書いたんですけどね。当たりはずれは別として、そういう仕事、それはもう考えるのは一人でできますけど、こうやって全国調べに回るっていうのは体一つじゃ当然無理なんで、同業者っていうか、後輩とか、教えてる大学院生とかそういう人たちと一緒にちょっと時間かけて聞いて回って、それを記録にしてっていうようなことを、これから、ここ数年始めてるんですけどね。それをやっとこうというのが、今思ってること、ある部分ですかね。面白いですよ。でも話聞くと、今日も全然知らないこといっぱいありましたけど。やっぱりその土地土地に行くと。つい2日前は新潟にいて新潟の人に話聞いて◇、とか。それもやっぱ50何年だっけな、1年だったかな2年だったかな、そのぐらいの生まれの人であったりして面白かったですね。
◇立岩 真也 2019/11/07 「生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築」,科学研究費基盤A申請書
◇青木 学 i2019 インタビュー 2009/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市総合福祉会館 ※

杉浦:フィールドをやると、すごいなあとか思う時がありますね。やっぱり地道でいろんなことやってられる方がポツポツおられるな、ということはちょっと思います。

立岩:そういう人たちは大概、まとまった文章書くっていう欲もないし、だってそんなこと書いたって別にいいことないじゃないですか。そっちが自分の本業じゃないから、ものを書くとかそっちじゃないですよね。ただ聞けばいろいろ教えてくれたり語ってくれたりしますので、そんなことですね。書ける、書く人っていうのはもう非常に例外的でしょう、むしろ自伝だのなんだの。近藤さん、それでも2冊、市販の本書いてて、こういった、今日初めて知りましたけど。そういう方のほうが珍しいですよね。それにしたって、こういうものに書く話と、こういうシャツ着ていたとか、庭師に間違えられたとか、そういうことは書かないのでね。やっぱり両方ないと。そういうことは思いますね。

杉浦:そうですね。戦争中の話はね、ほとんど私なんか長いことお付き合いしましたけども聞いたことがなくて。当然帝大の医学部卒業したらそのまま少尉で入ってますから、いわゆる士官で、すごく安全な所に行くわけですよね。でもたぶん、中佐ぐらいまでいってるんじゃないですかね、あの方は。普通だとたぶんそれなりのポジションだと思いますけれども。「先生、どうだったんですかね」とかって言ったら、「いやあ」とか言ってですね、チラッと、「軍隊はね、お酒を作る、いわゆる職人さん、麹を仕入れたりとか仕込んだり、そういう人まで全部連れて行くんだよ、すっごい数の。だから戦う人だけじゃなくて酒を作る人、それからいろいろ作る人、そういう調味料とかも作る人、全部連れて行くんだ」って言ってね。例えば軍の本部があると、それぞれの部隊、中隊とか小隊とか分かれますよね。小隊から、その最前線でやってる人たちが本部に報告に来るわけですね。そうすると大隊のほうはよく来たって言って、一応お酒をね、ねぎらうわけですね。そうすると、本部は毎日毎日酒盛りばっかりやるわけですよ。そうしちゃうと、なにもその、本人、酒盛りがしたいわけじゃないんだけども、だんだんその毎日毎日酒盛りやる形になると、すごい人でもだんだんだめになるんだよって。そんなことをチラッと言ってましたね。その小隊で来る人は確かに、ほんとに何ヶ月に1回、ほんとに生き死にをかけてやってるところで来て、報告に来て、そうするとねぎらって、また向こう行くわけですよね。なんていうか、そこにいるのは、だんだんだんだん中身が腐っていくっていうね。現場から離れちゃうと、人間はなかなか自分を保てないよっていうようなことを、言いたかったかもしれないですけども、僕なんかそういうような解釈をしてましたけどね。なかなかああいう話って聞けないですから、ああそうですかとか言って。だからごちそうで出迎えるわけですね。料理人から、板前さんも呼んでくる、美味しいもん食べるわけですね。接待っていうかね、ご苦労さんって言ってねぎらうわけですから。でもその大隊にいる場合は毎日毎日美味しいもん食べてるわけですから、そこの感覚がやっぱりよっぽどの人でも鈍ってくる。旧制の徳島中学出身なんですよ。自転車買ってもらって、入田から、今の県庁の所まで、徳島旧制中学があったもんですから。入田春日橋のあたりからここまで…県庁まで通うとすると1時間はかかりますよね。

立岩:「にゅうた」ってどういう字書くんですか?

杉浦:入る田んぼって書く。

立岩:入る田んぼで入田。そこから旧制通われてた?

杉浦:当時はだから名西郡でしょうね。そこから今の県庁まで自転車で通って、下駄で通ったって言ってましたね。それから旧制高校がどこなんでしょうね、その時にボート部に入って、お尻の皮が剥けるぐらいね、ボートやって「あの苦しさから比べたらまあたいしたことないよ」。そんなこと言っておられましたね。
 それから筋ジスなんかで、15とか20歳ぐらいでどんどん死んでいくわけですよね。そうすると、昨日まで元気だったのが、亡くなって、前とは別物になっていく。そういうのをね、山ほど見ると、人間っていったいなんだろうかみたいな。そういうことは戦争も含めてあったようですね。筋ジスは整形外科の中でもたぶん非常に特殊なエリアだったと思いますね。15ぐらいで死ぬとか、20歳で死ぬとか、それが日常茶飯事。西多賀病院でどんどんやせ細って亡くなっていくわけですけどね。人間の最後、毎日見てるわけです。そうすると価値観っていうか、治せないもの、それは『私の人生観』の中に少しありますけども、どうやったら人間が救われるのかみたいな、非常に哲学的な方向に。「なんで西田幾多郎なんですか?」って聞いた時に、旧制中学…旧制高校ぐらいの時には当時は西田幾多郎を読まなかったら恥ずかしかったからな、とか言いながら。ただそれをもう一回取り出したっていうのは、そういう意味があったんだろうと思いますね。『私の人生観』なかなか難しいです。だから、なかなか立岩先生のも難しいですが、これもね、哲学用語をいっぱい散りばめてるのでなかなか大変なんです。

同席者:あれ読みたいなと思って。あれ買えますか?

杉浦:販売してなくて。立岩先生にはとりあえず持参しましたが。

立岩:ありがとうございます。西多賀病院の60年代から70年代ぐらいにかけてのことを書いたものって、たぶんそこそこあるはず、あったはずなんですよね、その印刷物っていうのは。それがなかなか入手できなくてね。

杉浦:ずいぶん昔、火事で僕らの所やられちゃったもんですから。

立岩:そんなことがあったんですか。

杉浦:ええ。西多賀の関係のときのも多少は残ったのありますね。

立岩:そういう資料、国会図書館だのなんだのっていうような、普通のとこにはないようなものを集めて並べてっていうようなこともやっていて。そういうことも続けていかないと、ってことは思ってます。実際やっぱり30年代、40年代にお生まれになった方々っていうのが亡くなられていって。それでその時に手放されたりとか、その前にいただいたものとか、そうしたものがずいぶんの数にのぼってまして。それ整理するだけでも大変は大変なんですけど、他にそういうものがないですから、僕らのとこぐらいそれやんないと、と思って、研究所でそういう仕事をボツボツとやってるってことですかね。

同席者:やっぱり国会図書館、表現は悪いけど体制寄りというか、しか残ってない?

立岩:それはもちろんなんでも受け入れるんです。ただISBNって普通の本屋さんで売ってるものって自動的に入る。それ以外のこういう自主刊行物も送れば全部受け入れてちゃんと目録に載るわけですけど、そんな気が利いたというか、めんどくさいというか、そういうことしないとこも当然あるわけですよね。そうしたものっていうのは、国会図書館であろうとなんだろうとないと、そういうことですね。送れば、あるんでしょうけど、ないものはないっていう。

杉浦:規定では出版したら国会図書館に出さないといけない、だから東京と大阪ですかね、送らないといけないというのが法律であるんですよ。だから一応近藤文雄のほうから聞いてて、「これちゃんと出さないといけないんだよ」とかって言って。

同席者:ちゃんと出したんですか?

杉浦:27周年記念とか送った。それはそういうことですね。でも送ってないところがほとんど。

立岩:そんな、国会図書館に送るなんてこと、考えつかないですよね、普通ね、普通の人は。だからそのままになってるもののほうが多くて。そういうものがけっこうありますよ。

同席者:役所で作った本って送ってないんかな?

杉浦:どうでしょうね。私も知らなかったですよ。

立岩:どうだろう? なんだかんだいって、まだうちの大学院生で共同連の関係のこと調べたりとかポツポツいたりして。

同席者:その時期を逸したけど、ほんとは先生のとこ行きたかったけど、5年いなきゃいけない。

立岩:大学院ですか?

同席者:そうそう。だからちょっと時期を逸して。今からでも遅くはないかもしれないけど。

杉浦:そうですよね。

立岩:来年、高校の先生、定年退職でっていう人〔栗川治さん〕とかいますよ。今うまいことやると、文科省から2年とか3年とか限りはありますけど、月25か30、そのぐらいお金が出る制度っていうのがある、それを当てると。で、新潟の高校の先生なんですけど、彼はその前期課程、5年のうちの2年を教諭やりながら済ませて、3年時からその文科省の研究員のを当てて、それでお金もらいながら研究するっていう、そういう人もいたりします。大学院高いんですけど、額面通り見ると高いですけど、けっこう学費免除があったり奨学金があったり、うまい具合に当てたりしてると悪くないです。でもほんとに歳はいろいろで、去年博論出した人…、78だったかな。地方公務員を退職して、彼の場合そのあと大学に入り直して、ほんで大学院来て。滋賀県の難病連絡会ってあるんですよね。それの事務局長、その方が、その自分の体験というか経験というかまとめるということで、もうそれだけっちゃそれだけの、ケレン味も何もないっていうか、そういう淡々とした記録ですけど。それでも博士とって、それを本にして、そういう方いらっしゃいます。葛城〔貞三〕さんっていうんですけど。学位とった時は78だからもう80か、みたいな人ですね。後期高齢者多いですよ、けっこう。多いってことはないですけど、そこそこいます。

杉浦:でも78でってすごいエネルギーですね。

立岩:その方はね、たまたま、たまたまっていうか、すごいお元気で、いい感じで元気ですよ。

同席者:津止(つどめ)先生との繋がり、津止さんてもう定年退職されて特任教員になってる方なんですけど。来いよ、来いよと言われていながら、先生が辞めちゃったんで、特任になったんで、どうしようと思ってはずっといる。

立岩:自分しか知らないことを持ってると、それだけで強いっていいますかね。

同席者:そのテーマ性ですよね。

立岩:やっぱりそれは最大の、現場やってきた人の強みっていうか、

同席者:臨床がすごくね、楽しいからずっとやってきて。そこを最終的に、

立岩:さっき言った新潟の高校の先生っていうのは僕の一つ上なんですけど、今60とかかな、来年定年なんですけど。最初からじゃないんですけど全盲の人で、教師で視覚障害持ってる教師たちってのがいて。やっぱり途中でなったりすると、干されたりとかいろいろあるわけですよね。そこの中で地位保全であるとか、そんなこといろいろ、あるいは仕事に対するサポートしてくれっていうことでいろいろやってくる。そういうその教師たちの集団、集団っていうか組織があって、それをずっともう何十年やってきた人なんですよ。やっぱね、それは聞いてて面白い。何を言ってきたんですかっていうことであるとか。それはほんとにもちろん理屈でこういうこともあるよ、こういうこともあるって言えるけれども、でも実際何を言ってきたのかってまた別の全然話ですから。それはほんとに想像できないっていう部分も含めて、やっぱり中にいないとわからないじゃないですか。そういうので今書いてて、定年で雇用延長せずに、臨時講師とかしないで、大学院生にですね。一昨日3日前かな、新潟で会って、彼に教えてもらった人に2日前にやっぱり50年代、52、3年生まれの人に1人はそうか、もう1人はもっと若い。新潟県の新潟市の市議会議員やってる、全盲の議員がいるんですけど、その人はまあまあ若いですけど、60年代生まれですけど。でも面白いですね。政治家としての報告みたいなのは全部ウェブに載ってたりとか、ブログにあったりするじゃないですか。でもそもそも「なんで?」みたいなっていう、二十歳前後のああなってこうなってっていう話はやっぱり知らないわけで。へぇーっていうようなことがあって。その人たちも、10年、僕が新潟で共同連の大会でお会いした時に、あとの飲み会で会って、やった人たちで。そん時はそん時で飲んだだけだけど。やっぱりその古い話っていうのは、じゃあこれから聞きますよって言って聞かせていただけるわけじゃないですか。へぇーっていうようなことがあって面白かったですね。そういうものを持ってる方、人たちっていうのは、理論的ななんとかとか、学問的な素地であるとか、あまりそういうのは関係ないですよ、正直。素材というか、持ってるものがあればね。だいたいそういう感じで僕らは人、来てもらってますし、書いてもらってる。それのお手伝いが仕事ですね。その特任になった先生っていうのはどちらに勤められた? 今もう定年で特任になったっていう。どこの学校に勤めてた?

同席者:今、フリーですね。今だから、元京都府社協の職員で、職員あがり、あがりじゃなくて途中から教員になって、立命で長く、

立岩:立命?

同席者:うん。学部は産業…産社で。院でも教えておられて。男性介護者支援ネットワークの事務局長やってる。

立岩:ああ、その方ですか。はいはいはい。わかりました。男性介護のはいはいはい。いらっしゃいますね。

同席者:男性介護を私も一緒にやってて。

杉浦:しかし、立岩さんは社会学ですよね。その今、立命のポジションからすると、立命にも社会福祉ってあるんですか?

立岩:産業社会学部の中の、半分かどうかは知りませんけど、かなりの割合は社会福祉系。教員もそういう人が。今はそうです。

同席者:僕らの頃にはなかったね。

杉浦:なかったですね。

立岩:仕事としてまあまあ成り立つっていうのもあるので。

杉浦:ということは産業社会学部の中に社会福祉?

立岩:そうですね。僕はそれと違う系列というか、大学院しかない大学院で。学部っていうのがない大学院なんですよ。だから産業社会学部からも独立。かつては思想的にも若干毛色が違うといいますか、そういう感じなんですよ。ただだんだんと産業社会学部の特に若い教員たちとは知り合いになったりしますけど、もともとはちょっと。

同席者:建物は、どこに?

立岩:正門入って、ちょっと行って右のほうなんですけど。前はグラウンドがあったあたりなんです。今グラウンドがきれいに何もなくなっていて、そこに新しい建物が建って。僕、立命館に就職っていうか、転職する10年ぐらい前かな、あそこの学生に講演かなんかで呼ばれたことがあった。その時はまだグラウンドがありました。だから砂埃が舞ってるみたいな、ありましたけど、次に行った時はもうきれいになって、建物建って。そういう所で今暮らしてるっていうか仕事してます。

杉浦:確か、なんかね、立岩さんの文章の中で、学生の論文指導だとか、学生…それとは切れてるから今は、とか書いてあったから。

立岩:学部の授業やる年のほうが少ないというか。

杉浦:そうですね。なるほど。

立岩:今年は珍しくやりましたけど、あんまりやらない。だからけっこう若い人のほうが少ないっていうか。

杉浦:なるほどね。

杉浦:じゃあ学部生で卒業して、その大学院で立岩さんとこに入ってくるっていう学生もいるわけですね?

立岩:そういう人もいます。だから22、3っていうほんとに若い子もいるし、50、60、70っていう人もいるし。でも両方いたほうがいいな。若いのだけだとそれもつまんないし、両方いたほうが。そういうことは思います。たぶんいいことなんですよ。

杉浦:そうですね。わかります。ちょうど私も30回、立教大でね、その共同連の全国大会で。その分科会でちょっとね、話をしないかみたいな話で行かしてもらったことがあったですね。ですからあれもおんなじように、今の話を聞くと、立命でやった時とおんなじように、おんなじような形でしたんでしょうね、たぶんね。

立岩:大学使ってね、

杉浦:大学使ってね。はい。

立岩:大会って書くとそれは違うからと言われてて、共同連には「大会って言わないでおいてね」って一応言ってあったんですけど。当日会場行ったらデカデカと(笑)垂れ幕みたいな第何十回共同連大会って、まあいいやって。

杉浦:今年はなんだったかな。今年は名古屋大でもやってたね。たまたま堀さんが立教の講師かなんかやってられるので。

立岩:そうなんですか?

杉浦:そうなんですよ。全盲でね、あとからなるほどなあと思って。だから草津なんかはそうだと。今からなかなか舵取りが難しいから、皆さん大変。舵取りが難しいからね。皆さん、苦労されてますよね。

立岩:誰が?

杉浦:共同連もね。

立岩:難しいと思いますね。やっぱり第一世代っていうか、50年代の頭ぐらい生まれの人たちがけっこうベテランになって、その次どうすんのって。難しいとこはいっぱいありますよ。

杉浦:受け継いでいく人がどうなのかみたいな問題があって、どこでもそうですよ。

立岩:どこ行ってもみんなそう言いますよね。ただ、ちょっと見てると、そういうことなんだかんだ言いながらとか、言われながら、20代、30代とかそのぐらいの人たちも、まあ仕方ないからじゃあやるかみたいな感じで動いてる部分もあるので、そんなに僕自身は悲観しないというか。だいたい僕らも20代の時は上の人たちに「なんじゃ」みたいなこと言われてて、「お前はふにゃふにゃしてて、だろ」みたいなこと言われてたけど、それでもやっぱりそれから30年ぐらい経つと、それなりにまあまあやってるかなと思って。昔から若い人っていうのは、年寄りたちから、「なんじゃお前たちは」みたいに言われる役割なんだ。あんまり、ほんとは大丈夫なんじゃないかって思わなきゃやっていけない部分はあるので、思うようにしてますけど。

同席者:県の社会福祉課でもそうですよ。

杉浦:けっこう現場でやっておられる方がリアリティがあって。でもその現場を、現場だけで終わっちゃうとなかなか発信ができないので、さっき立岩さん言われたような、それをもうちょっとなんか集めて繋げていったり、ストーリー化していくみたいな展開をしてないと、なかなか広がっていかないし繋げていけないっていうのは確かにあるなっていうのは、改めて思いますね。

立岩:現場忙しいから、毎日、毎日をね、こなしていくっていうか、転がしていくっていうか、それで精一杯じゃないですか。だからそれじゃもったいないので、そういうのを後ろから歩いて拾ってみたいなことをお手伝いするっていうのが、大学とか研究機関の大きな仕事なんだろうなと思ってますけどね。

杉浦:ほんとにそこがね、すごく思います。だんだんこの年になってくると、やっぱり現場の大事なところっていうのは、文章で表せない部分の大変さがいっぱいあって、あるんですけれども。ただ、どうやって残していくかっていったら、最終的になんか映像で残していくか、それとも言葉で残していくか、たぶんその二つしか方法がないので。なかなかそのリアリティを持ってどうやってこう次に伝えていくかみたいなことっていうのが、なかなか難しいなってことを、いつも思ってますよね。

立岩:そうですよね。僕なんか字を書くのが商売だから、それがだめだとか言われたらしょうがないっていうか、それが仕事なんでやりますけど。大概の人はやっぱり字を書くの億劫ですから、いざ書こうつったってそんな書く気にもならないだろうし、ていうことじゃないですか。そうした時に、やっぱり、僕はここ数年思ってるのは、でも話してはくださるんですよね。それでいいじゃないかと思ってますね。

杉浦:それをきちっとキャッチができる聞き手がいて、それを文章化する人がいればいい。

立岩:聞き手は多少ありますよね。なんにも知らないよりは、その時代の雰囲気であるとか、なんかをちょっとは知ってるみたいな。それはそのほうがいいんでしょうけど。これからは若い人に行かして、両方ですよね。けっこう三者面談みたいな感じでその若い人と僕と2人で行って、ある方にお話を伺うみたいなそんなこと、機会がたまたま都合がつけばですね、そんなことしたりとかしてますけど。

杉浦:それなかなかいいですね。

立岩:特に若い人にとっては話を聞く、何を聞くかみたいなことに慣れるっていうか、それは大切なことなので、いいと思います。

杉浦:非常によくわかります。私もほんと20代の時にね、宮川町行って、それで柳澤監督に話を聞いたりとか、もう長い時は10時間ぐらいコーヒー飲んで、それで話をずっとしてっていうようなことやってましたから。なんかそういう意味では、いったんクランクインすると何ヶ月も入ったりとかしますけれども、暇な時はずっと暇ですから。なんかそのメリハリの中でね、ああやってこう若い連中に、今こういうことを撮ってて、こういう問題があってこういうところが、っていうのは、たぶんそれなりの人に聞いてもらうよりは、あんまり何も知らない若造に話をしたほうが、たぶん整理がしやすいんですね。

立岩:そういうことありますね。

杉浦:最近になって、「あ、なるほどな」と思いました。

立岩:聞くのって二通りぐらいは少なくともあって、ちょっとこっちが事情がわかってる人が、「あの時はこうだったでしょ」みたいな根掘り葉掘り聞くっていうのと、「私なんにも知らないんで教えてください」みたいな感じで聞くのと両方あって、どっちもいいんですよ。例えば外国人の方が聞いて、知らないじゃないですか、その時代背景何もかも。そうするとやっぱり話す側は教えてあげなきゃいけない。そうするとコンテクストというか、そういうことも含めて易しくっていうか語るから、それはそれで意味があるんですよね。とかね、その聞き方もいろいろあって。でもいろんな立場っていうか、素地のある人、あるいはない人のほうがかえっていいとかね。いろんなことありますよね、話聞くってね。

杉浦:そうですね。映画のこと全然知らない人間…学生にそういう話をして、昔はこうだった、こうだったというね、それのほうがストレスがないですよね。なんか細かいこと突っ込まれて「それは違うんじゃないですか」って言うことないですから。

立岩:両方いいと思いますね。「おじさんが教えてあげるよ」みたいなね、それもいいわけですよ。そういうのもね。

杉浦:でもそういうの、今なかなか少なくなったんじゃないですか。そんなことないですかね。

立岩:どうですかね。いや、

杉浦:多いですか? まだ。

立岩:ただ、そうやって言われてみれば「そういうこと大切だよね」ってことは誰でも言うんですけど、それをどれだけほんとにやれてるかっていったときに、やっぱり全然、学者、研究者がやってる仕事のスピードっていうか、だめだなっていう感じがします。端的にいえば、人が亡くなっていくスピードに、その調査とかが追いついてないわけですよ。だからそこはもっとスピードアップっていうか、人の数もお金も含めて手当てして、ちょっと今のうちにいろいろやっとかないとって、もう遅い部分もありますけどね。ここもう10年ぐらいの間にも、重要な方たくさん亡くなられてますし。ですけどそんなこと言ってもしょうがないので、今これからでもやれることはやろうっていうことは思ってるんですけどね。それを文科省に昨日、書類をずいぶん手間かけて書いて、わかってもらえるかどうかわかりませんけど。

杉浦:助成金もなかなかおりてこないですもんね。

立岩:お金取るの大変ですよ。

杉浦:大変ですよね。皆さん苦労されます。

立岩:お金取る文章が一番嫌ですよ。ここ2週間ぐらい憂鬱だったわ。

杉浦:やっぱしね、そう思いますよ。

立岩:今日も明日も書かなきゃいけないってわかってるんだけど、嫌なんですよね。お金をくださいっていう文章ね。論文とかそういうやつのほうが楽っていうか。やれやれ。でも昨日それが終わって、ああって(笑)。

杉浦:なんかわかりますわ。でも憂鬱に思っておられる方のほうが、なんか私は、学者としては僕はいいと思いますけどね。

同席者:そうですね。そうですね。

杉浦:別に御用学者になるわけじゃないですからね。

同席者:そうですね、確かに。そこが立岩真也なんですよね。

杉浦:そうです、そうです、おっしゃる通りですね。

同席者:そこいってほしいですね、ずっと、これからも。

杉浦:なかなかね。

立岩:あれだけ暗くなって、なんか、何週間もかけたやつがペケだと落ちこむなあ(笑)。悲しいだろうな。腹立ちますよ、この野郎って。

杉浦:でもフィールドに目がいってる人ってだんだん少なくなったねえ。なかなかね、ほんとに。

同席者:文化系削って理系のほうにお金回してますからね。理系系にお金回すんですよね。

立岩:それは圧倒的にそうですよ。それはそうです。それはまあいいんです、しょうがない。でももうちょっと頂戴っていうのありますよね。理系のほうが多いのはそれはね、機械買うにしても何するにしてもそれはお金かかるのはよくわかるんで。それはそれでわかった上で、もうちょい。

杉浦:なるほど。

立岩:それはもう桁が違う世界で、いいですけど。お金だけもらってもしょうがないんで。これからしばらく10年とか時間かけてそういう集めるっていう、聞いて回るでしょう。

杉浦:そうするとまた、例えばまた本を書くんですか?

立岩:それは書くことはなんぼでもあるんですけど、追いつかないですよね。結局それは1人がどんなに、僕はたぶん他の人に比べればたくさん書くほうですけれども、そういうんじゃもう全然追いつかないっていうか、ことなんで。それはもう組織的にというか、ある程度やらないとたまらないというか、残せないというか、そんな感じだと思いますね。愚痴っててもっていうか、でも聞けば聞くだけ出てきますから、全然悪い話じゃなくて。

杉浦:でも今出版業界ってなかなか大変ですよね。

立岩:めちゃくちゃ大変ですよ。超斜陽産業ですよ。

杉浦:だからなかなか売れなきゃいけないし、共著、できたらね、3人とか4人とか共著だと、まだ出版社も動いてくれるけども、単独でなかなか動いてくれないっていうのはずいぶん言ってますね。「なんでですか?」って聞いたら、共著だったら、学生に買わしてね、授業でね、ある程度例えば何千部っていうのがキープができるけども、例えば1万部だとかそういうのを売ろうと思うと、なかなか今買ってくれないですよ。だから苦労してるっていうようなことをね。でも共著だとね、なかなか色がわからないし、なかなか難しいですよね。

立岩:今、学術書、ほんとに千切る、何百部とかありますよ。今、学術だと1500から2000初刷りで、それが全部売れることのほうが少ないぐらいの、ほんとにそれスモールビジネスですよ。ほんとにちっちゃい商売。ただ逆にいうと、そのサイズで今業界動いてるので、もう割り切って腹括って自分で買い取るとか自分でお金出すってなると、もうちっちゃい商売、出版社、大概の出版社、そういうちっちゃい商売してるんで、それに乗るんですよね。例えば著者が50万なり100万なり出すからって言うと、もう両方カツカツですけど、そういうもんなんですよね。だからどうにもなんないわけじゃない。だからもうほんとにそれは儲けるとか、最初からそれはなしでっていうことであれば出せるっていうのが今の業界ですかね。うちの院生とかでも、やっぱり大学院生ってそりゃ知名度も何もないじゃないですか。売れるほうが不思議っていうようなもんですよね。個人でっていう人もいますし、今大学院はうちでも募集して、大学院生が博士論文を出版したいって、さっき言ったその78の人もそうでしたけど、50万とか100万とか大学が出すんですよ。そうすると、今、その斜陽産業、斜陽っていうか超不景気出版業としては、50、100っていうのが嬉しいんですよね。それだけあれば出すのトントンでいけるっていう計算が成り立つので、出してくれるんですよ。だからそういう形で、今その学術書というか、うちの大学、僕、今30冊ぐらい面倒見てますけども、博士論文を本にしたの。みんなそうやって売れるってわけじゃないけど、やっぱり自分にとって一番ずっと今までやってきたことをまとめた本って大切じゃないですか。したら、お金がある程度あるんであれば、自分で出す人もいれば、大学のやつに応募して。そういう人そんなに数いるわけじゃないんで、けっこう大学出すんですよ。競争率があるわけじゃないので。けっこう私が関係したのはみんなほぼ取れてて。50とか100とか大学から助成金もらって本出して、あとは自分で売り歩いたり、配ったり、なんやかんやしてっていう感じですよね。それでも国会図書館に残り、主要な図書館にポツポツとは入っていくということであれば、まあ。

杉浦:それ残ってきますよね、ずっとね。

立岩:何もどこにもないってことはない。いっぺんその出版社から出した以上は大丈夫ですから。そういうので、今年も。

杉浦:そうですか。立岩さんはなんか、たぶん『私的所有論』が一番売れたっていっても、たぶんね、6,000円だからそんな***(02:13:08)。『弱くある自由へ』ですかね、あれが売れたんですか?

立岩:一番部数が売れたのはその6,000円の本なんですよ。

杉浦:そうでしょうね、たぶんね。

立岩:信じられないですよ。出版社も全然想定外で。

杉浦:勁草書房が喜んだって。

立岩:喜んだっていうか、最初はほんとにあれでした、払ってました。1冊売れると1,000円払うみたいな。なんじゃこりゃって。そういうので、初刷りはそうなんですよ、売れるたびに1,000円払うみたいな。そういうことやってたんですけど、まあなんとか、それはだいぶ増刷重ねてありがたいことになんとかなりましたけど。

杉浦:そうですか。じゃああれが一番、

同席者;あれは1冊持っておきたいですね、辞書がわりに。

杉浦:そうですね。このぐらいですよね。

立岩:今、文庫本で1000ページ。

杉浦:そうですか。

同席者:文庫本のほう、こんなやつなんですよ。こんな分厚い文庫本のほう。

杉浦:文庫本ですか。

立岩:弁当箱みたいな。2分冊だと思って増補したら、これ1冊になるよとかって、こんな。

同席者:辞書みたいな。

杉浦:でもなんか老眼が入って、なんか小さい字が、

立岩:そうなんです。それはちょっと課題で。僕も今、2冊目の本も第2版を作ろうと思って。最初文庫本で揃うかなと思ったんですけど、自分自身が考えて、やっぱり文庫本の字って読めない(笑)。

杉浦:そうですね、ものすごい疲れて。

立岩:メガネかけても、ページが、ページの右と左見て、67ページとかあるじゃないですか。あれメガネかけても見えないんで(笑)。

同席者:こんなん初めて見ましたよ、こんな分厚い文庫本。[02:15:00]

杉浦:三国志とか水滸伝みたいな。

立岩:楽しければいいですけどね、八犬伝みたいにね。ほんとに。売れるしね、そしたらね。

杉浦:でもあれはなかなか。

同席者:いや、ぽいですよ。

杉浦:ねえ、なかなか面白いです。

立岩:2冊目の本も、今、第2版も準備してて、それが今年いっぱいは無理かな、来年になるかなってそんな感じ。でも書かせていただくだけありがたいことで。

杉浦:失礼だけどね、なんか立岩さんのやつ読んでね、文体に慣れるまでにね、けっこう時間かかった。

同席者:でもね、読みよったら自分がそういう文体になってしまうんです。

杉浦:最初は大江健三郎みたいにね、読んだ時にこれは読みにくい、嫌だなとか言っていたけど、なんか読んでると、みたいな感じ。

同席者:ちょっとなったつもりで。

杉浦:そうですか、立岩さんになったつもり。いや、いいね、面白いね、それ。若手がはまるっていうのはいいけど、私みたいにね、高齢者がはまってもしょうがない。

杉浦:すみません、私ばっかり話して。ここは皆さん話してくださいね。せっかくですからね。***(02:16:56) 私は、こういうことだったんだ、こうやって、こうやって、なんかちょっと発見があったんでよかったですけど。

同席者:近藤文雄さんのことが知れて、すごい。

杉浦:けっこう面白い方が、やっぱよく見ると、おられるんですよね。

同席者:6年前の話ですけど、ほんとに鮮やかに蘇ってきました。ありがとうございました。

杉浦:私もすごいこういう機会をね、和泉さんに声かけていただかなかったらたぶんね、一度も会わずに、立岩さんと会わずに死んでいくんじゃないかと(笑)。あの世に行くんじゃないかと。

同席者:かわら版の中でも立岩真也さんのこと、何回か聞いたことある箇所があったんですけど。べてるの家かなんか書いてる時に、立岩真也さん、研究してて、自分もこういうことしてますよって、べてるの家のこと、まさに近いような支援をしてるっていうか。

杉浦:べてるの家ね、

同席者:どっかで見たことあるんですけど、あ、本書いてるわって。

杉浦:べてるの家はね、確か、べてるの家の本は向谷地さんですかね。一回見たことありますが、でも行ったこともないし、あの本だけですよ。でもよかったです、立岩さんにこうやってね、会えて。

同席者:かわら版に最初の創刊時ぐらいに大槻禅師のコメントがあったみたいなんで、その話を聞けたのでね、禅師さんの話がこれもよかった。

立岩:全然その想定外というか、確かに近藤さん、徳島の方で、徳島に戻られたっていうのは確かに本に書いてますし、それは知ってた、知ったって何年か前ですよ。その本書くために資料にあたったらそういうことがあって、へぇーとか思ってホームページ見たらこれが出てきて。ああ、まだやっておられるんだなっていうとこまではわかりましたけど。でも今日徳島に来る時に、そういうことに関わりのある方が来られるとか、まったく想定というか予想してませんでした。びっくりしました。

杉浦:皆さんのおかげで、ね。普通はあんな本をね、細かいところまで読む方はなかなかおられない。

同席者:絶対読まなあかんですよ。

立岩:読んでないと思います。

杉浦:(笑)すごいですね。

同席者:最近のやつ全部買うて読みましたよ。

杉浦:そうですか。

立岩:それもなんか奇特という以外は

同席者:ファン。[…]

杉浦:明日、皆さん大変ですから。

立岩:明日ですけど、それ、11時からっていうと、駅の上の所でインタビューするんですけど、1時間前じゃなくても大丈夫ですよね。

同席者:全然大丈夫です。大丈夫です。

立岩:たぶん、講演会とかシンポジウムのだいたい1時間前とかにみんな来るじゃないですか。なんかすることないですよね。茶飲んで、だらだらって。そういう感じじゃないですか。ちょっと遅れるかな。わかりませんけど、ちょっと遅れるかもしれないぐらいのつもりで、必ず参りますから。

同席者:大丈夫です。間を持たしときます。

立岩:明日のっていうことは大丈夫なんで。1日ね、こないだのもよかったですよ。前の日に来てよかったですよ。1日あとに来たらえらいことです。やれやれ。駅からは地図見たんで、だいたい場所わかります。タクシーで乗るのがいいですか? わかりました、タクシーで。タクシーで10分ぐらい。わかりました、はい。じゃあそれでお伺いうかがいさせていただきます。

杉浦:私もね、ほんとは行きたいんですけど、明日、すみません。全然申し込んでないもんですから。

立岩:いえいえいえ、とんでもないです。そんなたいした話はしない。

杉浦:明日はですね、土曜日でね、ちょっと私「太陽と緑の会」の代表理事もやってるんですけども、月の宮作業所のね、所長も兼任で、土曜日は月の宮のほう行かんといかんもんですからね。今日ぐらいだったらね、抜けてピッと立岩さんの話を聞こうかと思ったんですけど、なかなかいかん。ごめんなさい。

同席者:現場を大事にしてほしいですよ、杉浦さんにも。

杉浦:いやいや、ほんとにすみません。

立岩:こんなもらえると思わんかった。

杉浦:とんでもないです。

同席者:ええおみやげが。一番のおみやげですよ。

杉浦:ありがとうございました。すみません。

立岩:こんなの集めるのが趣味、じゃないですけど、仕事なんですけど。

杉浦:ほんとによかった。でもよかったですわ。

同席者:記念に写真とか写していただけますか、写真写させていただいてよろしいですか? 一緒に。

杉浦:ミーハーなもので。

(写真撮影)[02:22:35]- [02:25:29]

一同:ありがとうございました。


UP:20191227 REV:
杉浦 良 i2019 インタビュー 2019/11/08 聞き手:立岩真也 於:徳島市・阿波観光ホテル ※
自立生活/自立生活運動  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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