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斉藤龍一郎氏インタビュー

20191102 +イヴァンカさん 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

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斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所
 文字起こし:ココペリ121
※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。
 【11中03】20191102斉藤龍一郎氏1_115分+
 この日、Ivanka Guillaume(イヴァンカ・ギローム)さんも話に加わりました。イヴァンカとのやりとりの部分は別に採録しました。

◆Ivanka Guillaume(イヴァンカ・ギョーム) 20191102 日本での調査について 於:御徒町・焼肉明月苑→アフリカ日本協議会事務所

東大闘争:1970'〜  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 

立岩:斉藤さんちょっと耳が聞こえにくいから大きい声で喋ったほうが。

斉藤:補聴器は大丈夫だから。

立岩:大丈夫?

斉藤:うん。

立岩:えっと、ちょっと待って。

斉藤:食べ物を頼む。

立岩:僕はビビンバ定食。

店員:***(00:00:54)定食とビビンバと、

立岩:こちらはどうしましょう。

イヴァンカ:ビビンバ。

店員:ん? ビビンバ?

立岩:を二つ。

斉藤:しっかり録音。ICレコーダー。

立岩:この頃、酒飲みながらとか録音するんだよ。それのほうがよかったりするんだよ。

斉藤:人によっちゃあねぇ。

立岩:人によっちゃあそうですよ。

斉藤:ここんとこ僕はとりあえず来週はこないだ切ったとこのことがあるから、もう1週間ぐらいお休みするようにってことで。

立岩:斉藤さんは何年生まれだっけ? 55年だよね。僕は1960年生まれなんです。で、彼は55年生まれで大学の先輩。

斉藤:まあ、あんまり関係ないけど。

立岩:大学ではたぶん会ったことはないんだよ。5つ上で、それで、アフリカ日本協議会っていう、英語で言うとあれなんて言うの?

斉藤:Africa Japan Forum

立岩:AJFっていう、

斉藤:Forum Afrique Japon

イヴァンカ:あ、フランス語では合ってる。

立岩:そういうNGOがこの辺の近くに事務所があって、そこの事務局長を長いことして、今は別の人に代わってもらってんだけど。あれ、何年から何年まで事務局長やったの?

斉藤:2000年から2016年。

立岩:3年前まで16年間、けっこう長かった?

斉藤:長かった。

立岩:事務局長やっていたので、アフリカのことにはたぶん、たぶんじゃなくて詳しいです。

斉藤:そうだね、僕がやったことで一番重要だったのは、稲場〔雅紀〕っていうのがスタッフがいて、その稲葉っていうのと林〔達雄〕っていうのがいて、この二人がアフリカのHIVの問題のときに、医療アプローチじゃなくて、本人たちの取り組みっていうのをなんとか繋がろう、そういう人間を引き合わせて、こういう人〔立岩〕とかに首に縄をかけて。そういう言い方をするんだよね、首縄をかけて「やることはあるんですよ」と(笑)。※
※以下、他
◇アフリカ日本協議会+立岩 真也 編 2005.6 『貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ――アフリカ諸国でのPLWHAの当事者運動、エイズ治療薬の特許権をめぐる国際的な論争』,<分配と支援の未来>刊行委員会,62p. 500円+送料
◇アフリカ日本協議会+三浦藍 編 2005.09 『貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ――アフリカ諸国でのPLWHAの当事者運動、エイズ治療薬の特許権をめぐる国際的な論争 第2部 先進国・途上国をつなぐPLWHA自身の声と活動』,<分配と支援の未来>刊行委員会,66p. 500円+送料
◇アフリカ日本協議会+三浦藍 編 2005.09 『貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ――アフリカ諸国でのPLWHAの当事者運動、エイズ治療薬の特許権をめぐる国際的な論争 第3部』,<分配と支援の未来>刊行委員会,p. 1000円+送料 ◇立岩真也・アフリカ日本協議会 編 2007/12/31 『運動と国境――2005年前後のエイズ/南アフリカ+国家と越境を巡る覚書 第2版』Kyoto Books,100p. MS Word:800円
◇稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,
新山 智基 2011/12/01 『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』,生活書院,216p. ISBN-10:4903690857 ISBN-13:978-4903690858 3150 [amazon]

イヴァンカ:どんな活動をやってる?

斉藤:具体的には資料紹介とアフリカ、稲葉はアフリカのHIVオフィシャルの会合とかにけっこう行って、今もずっと繋がりがある。で、グローバルファンドって聞いたことないですか。そのグローバルファンドを通して、お金がアフリカのエイズ対策、特に本人たちをサポートするような取り組みにいくような働きかけをしようっていうんでね、そのためのネットワークにずっと参加してきた。今も参加してる。なんかちっちゃい団体なのにね、やってることだけでかい。

 ◆イヴァンカさんとの話→

斉藤:1960年の生まれで3軒続きで同じ歳の長男がいて、3人、とにかく僕、隣、その隣って3人とも同じ歳だったのね。で、弟がいるんだけど、うちにも弟がいるんだ、隣にも弟がいる、その隣にも弟がいる。で、隣の子のはダウン症の子で、で、一番奥の隣の子はポリオの後遺症でずっと。だから彼ぐらいがポリオの最後ぐらいなんじゃないかな、60、59年生まれかなんか。[00:45:16]

立岩:うんうんうん。日本でポリオが最後に大流行したのが50年代の末で、そのあとポリオは日本でなくなったの。

斉藤:で、そういうのっていうのは僕らの世代だとわりと普通にあった。で、小学校で、

立岩:それは小学校の話? 今のお話、その隣、

斉藤:ほんとになんかね、家が3軒続きだからさ、だからなんていうの、ちっちゃい頃から知ってるわけだよね。で、小学校の時にだからまあいろんな子がいたわけだね。で、学校に来る、だから特段意識して入りはしなかったね。肢体不自由の子はやっぱり難しかったんだけどね。で、僕が中学校に入った年に、1年下、2年下の子かな? あ、1年下かな? 1年歳下の知ってる同じ小学校の生徒の親が教師をやってて、その人が頑張って今でいう特別支援学級、当時の特殊学級を作っちゃった。

立岩:中学校?

斉藤:小学校。1年下の子のために作っちゃって、中学にも作っちゃって、本人だから親が中学に移動してきたっていうんだね。

立岩:それは何、熊本市でいいんだっけ?

斉藤:熊本の隣の町。

立岩:なんていう町だ?

斉藤:今は合志市っていうんだけど、当時は菊池郡合志町っていう。

立岩:こうしっていうのは?

斉藤:志を合わせるって書いて。合わせる志、けっこう古いとこなんだけどね。

立岩:それが斉藤さんの郷里でいいんだよね?

斉藤:うん。だから振り返るとなんか、けっこうやっぱ間近にあるんだねえと思ってね。ポリオの人、ポリオってのはそうか、彼らの世代が最後ぐらいなんだなとかね。

立岩:うちだと、大谷いづってさ、僕らの同僚が、あれが59年生まれだね。

斉藤:ああ、じゃあほとんど。

立岩:同じようなもんですよ。斉藤さん僕より5つ上でしょ。だから小学校でだいたい60年代の終わりとか、僕は70年代の初めとかって、障害がある子どもがいたっていう記憶と、でも車いす乗ってる人、子どもはいなかったなっていうぐらいの感じが多いかもしんないね。

イヴァンカ:学校だったら光明、東京光明、身体障害者を、

斉藤:ああ、あの、世田谷のな。

イヴァンカ:そう、世田谷の。

立岩:あ、光明養護学校ね。

イヴァンカ:光明学校、そう。この学校、日本の初めの身体障害者向けの。

立岩:そうそうそう。あそこも面白いって言えば面白いかな。けど、斉藤さんの話なんかにも出てくるけれども、今日聞いてた、僕、今日朝6時に起きて、もっと前、早く起きて、6時ぐらいから8時ぐらいまで斉藤さんの2017年の2時間ぐらい喋ってるんだけど、そのインタビュー聞きながら荷物詰めたりしてたんだけど。そこにも出てくるけど、光明学校って最初にできたから、一番最初は日本に1個しかなかったんだけど、ね。そうするとちょっとお金があって引っ越しぐらいできる人っていうのが、わざわざ世田谷に引っ越してくる。で、子どもを通わせたとかっていうこともあったわけよ。

斉藤:勝又※さんちもそういう感じだけどね。

立岩:あ、勝又って僕の知り合いのやっぱり56年生まれかな、の人がいるんだけれども、彼もやっぱり旭硝子だったっけな、なんか父親が一流企業でサラリーいっぱいもらってて、

斉藤:けっこういいお家でスカイラインに乗ってたのを覚えてる(笑)。

立岩:斉藤さんそれ思ったんだけど、すごい覚えてるね、昔のことね。いや僕ね、

斉藤:あの頃っていうのはやっぱり転機だからね。[00:49:55]

立岩:いやあ、俺はほんとなんにも覚えてないや。金井さんっていう日本ではシンボリックな意味を持つ就学闘争に斉藤さん関わって、2017年のインタビューのメインはそこなんだ。そうすると、その金井君っていう脳性麻痺の男の子のお父さんが持ってた車がブルーバードっていう日産の車だったとかさ、そんなこと覚えてんだよね。俺ね、そのあと5年後ぐらいに学校に入るんだけど、大学の時のことほんと覚えてないと思ってさ。っていう話を、そこの話をちょこっとだけ補足して聞いて、今日はね斉藤さんに関しては、聞いて。あと、大学とか出て、大学の中でいろいろやった話は2017年のインタビューでけっこう喋ってるじゃないですか。そこはちょっとそれでそれに任せて。そんなことはありながら、解放書店だっけ、に行って、そのあとアフリカ日本協議会に入ってっていうそのへんのことざっくり聞けば俺はもうそれでいいやって。けど、ちょっと斉藤パートに移りますから、〔イヴァンカさんは〕ボーっとしててもいいですし、ってことです。

斉藤:今度、来週、末岡君連れて千田さんっていうか志子田さんっていうか会うんだけどね。千田さんっていうのは僕よかいくつ上だろうな、東北大、あの人もポリオだな。東北大でエレベータ―設置運動やったあたりがとか言ってたけど、もっと子どもの頃のことちょこちょこっとなんかで見た覚えはあるんだけどね。

立岩:千田さんって名前知ってるな、なんで知ってるんだろ。

斉藤:金井闘争の時に出てくる。今、志子田って、まあもともと志子田だから。

立岩:志子田?

斉藤:で、仙台の出身なんで仙台に今ちょこちょこ通って、自立支援センターていうのを作るための取り組みをやってるから。住んでんのは横浜なんだけど。

■高橋 ◇東大闘争:1970'〜

立岩:僕はそのインタビューで思い出したっていうか、それはさすがに名前っていうか姿形も覚えてるけど、高橋しゅうねんっていうね、僕ら「しゅうねん、しゅうねん」って言ってましたけど、秀年(ひでとし)だよね、あれね。優秀の秀に年、年月の年で「しゅうねん」だよね。あれは確かに僕と同級生で、その4年後か? 山中湖でボートで溺れちゃって。

斉藤:うん、84年。

立岩:84か。で、そうなんだけどさ、俺、大学1年生の時にしゅうねんとは知り合いになって、それからしばらく一緒にやったんだけど、なんで、しゅうねんとどうやって知り合ったのか覚えてないんだよね。

斉藤:いや、『恒河沙』とかじゃないの。

立岩:たぶんそうだと思ったのね。『恒河沙』っていう雑誌やってるところがあって、

斉藤:ミニコミをやってた。

立岩:ミニコミ、ちっちゃい、東大で今でも作ってるんだけど、そういう学生が作る50ページとか100、そういう雑誌を作ってたのね。で、雑誌は別に障害者とはあんま関係ないんだけど、それに関係してるそういうの…雑誌を作ってた人たちってのがいてね、その人たちとその高橋さんっていう僕と同じ、歳も僕と同じだったと思うけど、その彼がたぶん高校の時の知り合いだな、しゅうねんって筑駒なのかな?

斉藤:筑波。今の教育大付属大塚のほう。

立岩:大塚のほうか。誰だろ、合原ってのがいたんだけど。

斉藤:ああ、そうだろうね、合原もそうだろうな。

立岩:あのへんだね。青木健というのも。

斉藤:僕はなんかそのへんは知らないな。合原君っていうのはちょっと間接的に、あのへん界隈でけっこう知ってて、よく名前を聞いてる。本人に会ったことはない。

立岩:ああ、そうか。合原はいっぱい浪人して3浪ぐらいで入ってるから、歳はけっこう上なんだけど、その雑誌でずっと仲間で。彼は川崎製鉄かなんかに就職したんだが、大学出てね。で、そこを辞めて、今、長野県の上田に住んでて。そこで、ガリレオっていうね、学会の運営をサポートしてそれでお金もらってっていう会社、日本社会学会なんか契約してるんだけど、そこの会社の社長になってて、会社を作ってやってるんだ。障害学会、今年からそこにお願いすることになって、妙な縁なんだけども。たぶん高校の時の付き合いだったのかな。それで、合原と青木健っていう、青木は同じ歳、同じ年に大学に入った同じ歳で、そのあと彼は都市工学のほうに行って、その建築関係の日経BPとかいう日本経済新聞社系の建築関係の雑誌の編集に関わって。で、そいつが一番仲良かったかな。それがね、でもね、2010、今から8年前かな、進行のすごい早い癌になっちゃって、ここか、咽頭癌っていうのかな。で、2009年の正月に年賀状が来てさ、「今年は厳しい年になりそうです」みたいなことちょろっと書いてるわけ。「何が厳しいだろう」ってわかんないじゃん。で、俺ってあんまり人情がない人なのねっていうか、そういうのわかんなかったしね。結局会いもしないまま、欲年の1月に亡くなって、それで葬式があって、それでその葬式の時に久しぶりに『恒河沙』っていう雑誌で一緒にやってた連中4、5人にも20年ぶりとかに会ったけどね。青木っていうのは子どもがまだ小学生とかでさ。でね、これも不思議なことに青木健っていう健康の健って書く奴なんだけど、青木のその妻、奥さんっていうのが東洋大学の障害者のバリアフリーっていうかさ、そっちの高橋儀平さんってのがいるんだけど、そのチームのボスみたいな人、有名な人ですよ。70年代、80年代ぐらいからずーっとその建築関係のバリアフリーのことをずーっとやってる人。

斉藤:ふんふん、川口のね。こないだ定年で辞めたんだな。

立岩:うん。そこのチームっていうかその研究室にいる研究者なのね。その人、それを初めてその葬式の時に知ったけどさ。たぶん青木と高橋しゅうねんは同学年で同じ高校でそれで知ってて、それでそういう繋がりで僕は青木とか合原とかのサークルに入ったんで、それでしゅうねん知り合ったのかな、たぶんそうだと思う。で、富士学園もその年に行って、ってことだと、それが大学1年だったのか2年だったのか、そりゃ調べりゃわかると思うんだけど。斉藤さんがそのしゅうねんのことでなんか覚えてる、それからもう一つは、その時に聞いたのは、しゅうねん、なんで高校の時からいわゆる政治闘争っていうか、に、けっこう入ってるわけじゃない。東京の進学校ってさ、わりとそういうところがあった学校もあったじゃない。そういうこともあったんだろうけども、一つ僕が聞いてたのは高橋の父親っていうのが公安のなんか偉いさんだって話聞いたことない?

斉藤:いやいやいや、違うよ。彼の父親はスポーツ新聞の記者で。

立岩:じゃあ全然違う、そこは僕間違えてる。誰かそういう人いなかった?

斉藤:そうそう、しゅうねんのその頃付き合ってた彼女の親が検察なのね。

立岩:付き合ってた彼女のか。彼女の親が検察の偉いさんみたいな。

斉藤:うんまあけっこう偉いさんでね。

立岩:ああ、そういう。そのへんをなんか僕は記憶をどっかでごっちゃにしてたんだよね。ああそういうことか。

斉藤:高校の頃のことはチラッチラッとしか聞いたことないけど、確かに横断的な、だから教育大大塚だけじゃなくて高校生の連絡グループがやっぱあったみたいね。今も、なんて言うんだろう、今というかあんまり動けないから、こないだから食欲がなかったって、今食欲あるんだけど、ないないって騒いでたらポトフ作ってくれる友達ってのはその頃しゅうねんと一緒に高校で活動してたっていう。で、そのへんから、だから金井闘争の一番、僕自身は大学でたまたまね、誘われたからだけど。で、高橋しゅうねんなんかは高校の頃から接点があったみたいだね。

立岩:そうだと思う。そういうふうに確か聞いたことあると思う。斉藤さんも田舎だけどさ、僕はもっと田舎だ。まあどっこいどっこいぐらいの田舎。で、そういうのって高校の時はほぼわかんないじゃん、大学入ってからじゃないとわかんない。で、やっぱ東京のある種の連中っていうのは、高校の時からそういう活動に入ってたりしてた奴とかいる。

斉藤:まあそうだね、なんか、だからもうちょっと下だっけ、こやなぎとか。

立岩:こやなぎ、わからないな。

斉藤:その上で、もう名前忘れちゃったけど、80年代の半ば、さっきの山中湖のあとぐらいかな、に入った連中の中に浪人共闘とかあったっていうのが。そういうのやってたの。

立岩:何?

斉藤:浪人共闘とかいって。

立岩:ろうにん? ろうにんは浪人だよね。

斉藤:浪人だよ。

立岩:きょうは何?

斉藤:共闘ってあれ、だから。

立岩:きょうとうね、全共闘の共闘ね。浪人共闘ね、はいはいはい。

斉藤:なんかそういうのでやってたのがいて、これが駒場に来て文理研に顔出したら、ちょうど、

立岩:文理研も久しぶりに思い出した。

斉藤:だから文理研体制ってのがちょうどもうかっちりしてた頃だね、森〔泰一郎〕が中心になって。

立岩:そうか、森、あのへんでいたか。そうか、そのあとの文理研ね。

斉藤:そうそう。森はだから80年代半ばから終わりぐらいまでは文理研を方向づけたっていうかね。だからその前の文理研はもうちょっとぐちゃぐちゃ。

立岩:ああそうね、ラフな感じだった。

斉藤:やっぱ文理研に出入りするからには、「君行くんだ。今日ちょっと介護に行って」、そういうのが83、4年ぐらいからじゃないかな。

立岩:森さんって精神障害でさ、彼が亡くなる2年ぐらい前かな、俺、有楽町かなんかで会ったことはあって、その時も調子悪そうだったな。僕ら79、80ぐらいの文理研だからさ、いいかげんなとこでしたよ、汚くてね。僕はそれで、だから、もう斉藤さんとかいなくなった駒場だから、『恒河沙』って別に政治的なとこではなかったけれど、でもまあ個人個人としてはコミットしてる人がいて、その人たちとか。あとはあれですよ、最近まで小松〔美彦〕が東大に移ったって知らなかったんだけど、小松は最初っからあんな〔威厳?ある〕感じだったな。

斉藤:反原理共闘って。で、とにかく原理のことになるとあいつ真っ先に出てきてたから。

立岩:統一教会って知ってる?

イヴァンカ:とういうきょうかい、

立岩:知らない?

イヴァンカ:知らない。

立岩:韓国発祥のなんか不思議な新興宗教みたいなので、

斉藤:カルトって言われてるやつ。

立岩:カルトでね。それで、僕らが学生の時に熱心に活動してて、それでけっこう被害に遭った学生とかたくさんいたりとか。あとやっぱり僕らは結局なんだかんだ言って左派なわけですよ、レフトなわけですよ。だから反、右のほうだった統一教会っていうのは。そうするとやっぱり大学の中でも統一教会の人たちと僕らは喧嘩してるわけ。

斉藤:勝共連合って名前で街頭活動やってたの。

立岩:しょうきょうっていうのは、共産主義コミュニズムに勝つって書いて、勝、共。勝つ負けるの勝って、で、共産主義の共って書いて。そんなこと覚えてなくたっていいんだよ、全然。全然覚えなくたっていいんだよ。

斉藤:じゃあちょっと移りますか。ミカンは1個ずつもらってって。持ってって食べて、すぐだから。少し場を変えて。やあ久しぶりに食べてよかった。

立岩:やっぱり入院中ってどうなの?[01:04:59]

斉藤:夏に飲み始めた薬がお腹にくる薬で、下痢はするわ、食欲はなくなるわだったの。今、副作用があんまりあちこち出てきたんでお休み中なの。

立岩:俺、今年実はあんまり人に言ってないんだけど3月だったかな、11泊の入院っていうの初めてしました。入院生活。

斉藤:なんかね、同じ歳かな、高橋基樹って。

立岩:高橋基樹っていたよね。

斉藤:今、京大に、アジア・アフリカ地域研究科にいるんだけど。彼は一昨年学会で会ったら「いやー、半年入院してたんだよ」とかなんか、1年ぐらい見ないとそういうのがあるんだなあと思ってね。60近くになるとそういう話がやっぱどんどん出てくるわね。その前、1年までは半年まではなかったんだ、でもけっこう長いこと入院してたとかって言ってね、げそっとしてたもん。で、その前の年は1歳ぐらい違うのかな、平野さんっていってジェトロの理事をずっとやってた人がいて、この平野さんもこっちは心筋梗塞が絡んだから長かったんだな。いや、捕まえられる間に捕まえ、いや、違う違う、さっきのインタビュー話、重要よ。ある日突然パタなんて人がいるからさ。もう歳が歳だとさ。

イヴァンカ:最後のチャンス。

斉藤:ついこないだまで調子よく喋れてたのにっていう人いるからね。後回しにしないで聞けるところにはどんどん聞くと。すごく重要。

(お会計、閉店についての会話)[01:07:10]-[01:09:02]

立岩:斉藤さん、あの荷物斉藤さんのじゃない?

斉藤:なんか隣に置いてあった

立岩:じゃあいいんだね。隣の方、はいはい。

 ■焼肉屋からアフリカ日本協議会事務所へ ◇東大闘争:1970'〜 
 ◆イヴァンカさんとの話→

立岩:やれやれ、どうもどうもです。しゅうねん。僕らは駒場だったから、駒場の教養学部の民青じゃないほうの関係、さっき名前出した小松とかさ、そういう人たちが、駒場に学館ってあったじゃない、学生会館か、あのあたりにたむろしているようななんか留年を繰り返してる年齢不詳みたいな人とか、そういう人の集まりみたいので駒場の時は活動してて。
 で文学部に上がって、で、それが81年だから、その時に斉藤さんも関わった文学部の事件。僕は東京大学なんだけど、東京大学がちょうどできてから100年ていう年の頃だったんですよ。僕らは東大の学生であるにもかかわらず、「東大の100年をお祝いするな」っていう、「祝うな」っていうね、そういう変なことを。というのは、やっぱりずっと歴史的に東京帝国大学っていう大学だから、帝国の一部として機能してた。植民地とか、医療とかも含めてですけど、だからそんな祝うようなことじゃないということでそういう運動をやってたわけ。で、そこの中のそういうことをやってた人が、一人警察に捕まって裁判になったり、それを僕らもあとのことに関係したりしてましたけど。斉藤さんはその…、今道さんっていう、全然知らなくていいよ、そんなこと(笑)。今道さんっていう、美学だよね、あの人。

斉藤:美学。

立岩:今道友信っていう美学の教授がいてね、そいつが文学部長だったのね。そいつがけっこうレフトの運動家たちを敵視してて。なんだあれ? 押し倒す? 何だったんだ? 危害を加えられた的なこと言って警察に突き出したんだっけ?

斉藤:そうそうそう。

立岩:で、警察捕まえちゃったんで裁判になってっていう。そういうことの支援とか、あとそれに抗議して、僕の先輩みたいのが文学部長室っていう所を占拠して、

イヴァンカ:斉藤さんも参加したその時、

斉藤:順番から言うと、77年が100年だった、東大100年っていうことだったんですね、1977年。で、今、彼が言ったように、そんなの、

横田:これ〔本〕じゃなくて? ちょうど今日着いた。

立岩:あ、ありがとうございます。[01:19:40]

斉藤:一つはやっぱり1945年大日本帝国っていうのが敗北して憲法だって変わったわけだし、で、学生っていうか学校の制度が変わったわけですね。その時にいろんな仕組みが変わったはずなのにっていうのが一つ、さっきのだから帝国大学からどう変わるのかって。もう一つはもうちょっと近場で、わりと中心で反100年闘争やってた中心にはやっぱり東大闘争の支援っていうか、1967年から69年ぐらいにかけて「5月のパリ」に繋がるような取り組みが、動きが日本でもあったわけですね。で、その一つの象徴が東大安田講堂っていう今は使われてるんだけど、その安田講堂攻防戦っていうのが、ほんとになんていうか(笑)。

立岩:見たことある? 安田講堂ってこういう塔みたいなのがあって、そこの中に学生が屋上みたいなとこに立てこもって、旗こう振って、そしたら、

斉藤:それを上から放水車が、ヘリコプターがびよーんと水かけるとか。

立岩:水かけられたりして。っていう、シンボリックな68、9年の闘争があって。実はその70年の青い芝の運動とか直接に関係あるかっていったら直接ではないんだけど、でもその70年以降の障害者の運動に協力したりとか関係した人たちのかなり多くが、その68、9年の学生運動の流れを汲む人たちなんですよ。だからすごく関係はあるんですよね。

斉藤:僕もさっきの三井さん、三井絹子さんの「私は人形じゃない」※っていうのがまだ手書き、ガリ版刷り、ガリ版ってわかる? 手書きガリ版刷りのこう、ほんとにわら半紙印刷ってやつね。で、東大の精神科病棟のどっかの部屋にあったのを「ああ、あれじゃん」と思って読んだのが最初で、それが78年だか9年だかなんだよね。だからやっぱり今の話じゃないけどけっこう接点があって、だからそういうとこに行くとそんなもんがあったり。あと、もう一つすごく印象に残ってるのが永山則夫っていう、もう20何年か前に死刑にされちゃった19歳の死刑囚っていうのがいて。死んだ時はもう20…、やがて30かな。永山則夫の私設夜間中学、私設ってわたくしでつくる、まあ支援者が。永山則夫は4人射殺して逮捕されて死刑判決受けると。監獄の中で小説を書いたりしてけっこう評価されるのね。で、彼は、やっぱりこう自分は、言ってしまえば獄中で学んで思ってること書くようになったって。やっぱ書いたり読んだりするっていうのはすごく大事なんだって。だから学びの場をっていうかな、「言葉なき民に言葉を」みたいなことをやっぱ訴えたわけね。で、それに反応した人たちがいて、そん中の1人でこっからもあんまり遠くないんだが荒川区っていうのがあって、に夜間中学って。
※三井絹子 19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」,『朝日ジャーナル』1972.11.17
 ただ、ここで斉藤が言っているのはガリ版刷りのものだからこの記事ではなくこのころに作られたパンフレットではないか。

イヴァンカ:荒川区わかる。

斉藤:荒川九中の卒業生で高野さんっていう、まだお元気なのかな? もう89。その高野さんが中心になってやってたのが、その「永山則夫の私設夜間中学」っていうの。で、そこで高野さんの活動記録とかをまとめた【ちゃりぷ】(01:24:06)ってのも僕はレンガで見たんだね。だから赤レンガはなかなか僕にとって学びの場なんだよね。

立岩:僕はね、一つだけ覚えてんのはレンガでビラを印刷したことだ。輪転機っていうか、こうやってこういうやつでやったのは覚えている。それは覚えてるなあ。それしか覚えてないかもしんない。でもそれ78年に三井さんのビラ※を見たってことは、あのビラはたぶん71年とか2年とかに最初の版があった、最初っていうかそもそも出たもんだから、それがずっとレンガに残ってたってことだよね。[01:24:51]

斉藤:そうですね。だからやっぱこないだ深田君が『福祉と贈与』※で新田さんの話をまとめたと。で、読んでて、あんまり細かくは書いてないんだけど印象的だったのは、「私たちが遊びに出るときのリーダーよ」みたいな、女性が中心になって声かけて、けっこうあっちに行って遊びに行ったり、こっちに遊びに行ったりしたっていう話がすごく一番よかったなと。あと、新田さん、結核で入院したことがあって、「結核療養所でいろいろ教わったんだ」って。これはなんか患者運動の中でもけっこう大きいことみたいね、1回社会生活した人たちの集まりで、「タバコを吸わせろ」とか。

イヴァンカ:それは主張の、

斉藤:やっぱりなんかね、結核療養所ってそういう要求から人の運動が始まるんでね、「外出させろ」とか「酒飲ませろ」とか。

立岩:僕が去年書いた『病者障害者の戦後』っていう本の中には、結核療養所っていうのに空きがでてきたとき、空きがでてくるわけだね。結核っていう、結核はわかるかな?

イヴァンカ:うん、結核。

立岩:結核で、日本、戦争に負けた時、みんな栄養状態、食べるものなかったりとか衛生状態悪かったから、みんな結核になったり結核になって治らなかったり悪くなったりした人がいっぱいでてきて、そういう人たちをみんな国立の療養所に入れた。で、何十万人といたわけね。それがだんだん減ってって、体の状態っていうか栄養状態とかよくなっていくから。そうすると空くでしょ、建物が。で、空いたときに建物壊せばよかったかもしんないんだけど、そういうことにはなんなくて、空いた所に、ベッドに、例えばその子どもたち、障害を持ってる子どもたちを入れたりしたのね。そうするとそこに子どもが入ってきて、結核の人はだいたい大人じゃないですか、そこん中に子どもが入ってきていろんなことがあったっていう話の一部なのかな。そうなんですよね。で、さっきちょっと戻すとね、77年がそうか、100年だったのか。一つはね、その時に、例えば僕はその青い本に一部書いたのも、その68、9年の東大闘争の発端が医学部だったってこともあるんですけれども、医学部の中での精神病院とか精神障害者の扱いであるとかね、それから「人体実験じゃないか」とかね、そういうことをかなり言った連中がいて、それが僕らの先輩みたいなもんなんだけど。そういう70年代の反100年闘争の中で、けっこう障害とかあるいは医学部とか、あのへんていうのはけっこうな割合を占めてたのかな?

斉藤:いやあ、医学部自治会自体はまだあったけど、医学連が解体しちゃった後だし、1回解体して。でも医学連委員長ってのはいたよね。ただ人体実験っていうかバイオキシ問題があって。まあ医学部自治会最後はあれだね、白木〔博次〕糾弾で1年白木が休校して逃亡して、最後は医学部長室半年座り込んで医学部団交、教授会の前に「みなさんと会います」っていちおうそういうかたちで団交をやって。で、依願免職、いわば辞表が出てたんだけど突き返して懲戒にするんだっていうふうな話になったっていうのは、僕はそれは新聞で読んだんだ。75年の2月か3月の当時叔母の家にいたから、叔母の家で取ってた新聞、だから朝日新聞。

立岩:それが75年か。白木っていうのは今度僕の本にもちょっと出てきますけど、東京大学の医学部長だった人なんですよね。それと全共闘っていう障害者運動にもそのうち関わっていくような人たちっていうのがかなりぶつかって、で、白木は辞めるわけなんですよ。

斉藤:でもまあ白木一番最後はやっぱり大きかったのは府中センターだよね。東京都府中センターのセンター長になって。で、入所条件で裸の写真撮るのと最後に解剖許可を、

立岩:「死んだときには解剖します」っていう誓約書みたいなものにサインしないと入れないっていうようなことです。

斉藤:それをやったのが白木の時にね。

立岩:その時に医学部での白木糾弾のなかに、府中療育センターの話ってのはかなり入ってたのかな?

斉藤:まあやっぱそこらへんでいろんなことが出たはずだから、ちょっとそこは僕は詳しくは知らないけれど、話の流れとしては、やっぱその、なんで白木そこまでやるのかっていったときに3千枚のプレパラートって言ったっけな、脳のプレパラート3千枚集めた、どうやって集めたんだって。その集め方のあれがさっきの解剖問題とかね、出てくるわけでね。

立岩:でね、それも今日の朝思ったんだけどさ、日本だと68、9年っていうのは派手だったわけさ。塔の上に学生が登って、ヘルメットみんな被って、石投げたりとかして、それで警察が水放水したりとか催涙ガス撒いたりとか、なんていうかな、ビジュアルに見栄えがするわけよ。そういうこともあって、けっこう映画とかそれから本とかそういうのいっぱい出てるんですよ。僕あんまり読まないんだけど。だけど僕が思うのは、75年とかね、77年、反100年とか、70年超えた80年の学生運動っていうのかな、あれって意外と誰もちゃんと書いてないんだよなと思って。それは、いや僕らもね、そこの中にいて、そんなに大したことしたっていう気持ちはないけれども、とは言ってもまあなんかしてたわけだよね。

斉藤:やっぱさっきの白木問題なんかは典型だけど、あとやっぱりバイオプシー、これはもう僕が教育学部行ってからかなあ、バイオプシーって、生検っていうか肝臓生検をいわば研修医に練習で出しちゃうわけだね。で、それを東大病院の入院患者さんにバイオプシーをやったって。で、それをやった医者を患者さんの娘さんが「なんのためにやるんですか?」って聞いたら、つまっちゃったわけだよ。

立岩:生検を、直接に患者の利益になるわけでもない生検を、東大病院でじゃんじゃんやってたと。

斉藤:一角が漏れて出たわけだね。それまあ辿れば学用患者問題とかにも繋がるよね。

立岩:学用患者っていうのは学、学術の、用事、用のための患者ってことで、お金払わなくていいから、でも医者の、医学者の好きなようにさせろっていう。

斉藤:新薬試験の対象になったり、新しい治療法をやらせろだったり、そういういわば実験材料だよね。

イヴァンカ:うん、実験材料。でも人間。

斉藤:うん、で、それをまあ、言葉をいろいろ飾るのかもしんないけど、とにかく学用患者っていうのはインフォームドコンセントっていう考えが出る前の時代の、それでもなおかつ、なんていうか治験者を集める手段の一つだったっていう。だからまあ対象になるのは医療費払えないような人たちだからねえ。そういう歴史をやっぱずっと引きずってたってことよね。

立岩:それは戦前からね、ずっとあったやり方で。だからその今言ってるのは、そういうことが68年、9年ってのは医学部から始まりますから、あったわけだ。で、だけどそのあといろんなことがあって、そういう闘争がずーっと下火になっていくわけね。それはよく言われるのは、新左翼のニューレフトのセクトがみんな互いに喧嘩して殺し合いみたいなこともあったりして、それでこう萎んでいくっていうか弱くなっていくっていうことでっていうのが通説、よく言われる話なんですけど、それはある程度当たってると思うけれども。でもじゃあ何もなくなったかっていうと、今、斉藤さんが言ったみたいなことで、75年、77年、そのあとずっと80年超えていろいろあって。で、その中ではけっこう病人とか障害者とかそういうものの、[01:35:11]

イヴァンカ:お金がない人も。

立岩:うん、お金のない人に実験材料にするとか。そういうことも僕のあまりはっきりしてない記憶の中では、反東大100年とか、とにかくその大学の中で学生たちの運動のまあまあある部分を占めてたっていうことは記憶にあるんですよ。ただ、そういうことの記録とか記憶とかが、68、9年の運動が派手で、そういうものを思い出すような本っていっぱいあるんだけど、70数年、2年とか3年とかまあ悲惨なね事件とかもあって、そのあとの学生たちとかそういう運動っていうのをまとめたものっていうのは、考えてみたらないなと思ってね。

■地震研闘争

斉藤:地震研闘争って聞いたことあったっけ?

立岩:それはインタビューの中で、17年の斉藤さんのインタビューの中に出てきたわ。それはまあまあ喋ってるよね、斉藤さんね。

斉藤:あれはやっぱすごく印象に残ってるのね。しょっぱながあの人もポリオだしね。地震研究所って所がたくさんアルバイト入れて、データ、当時は人間が検査機に紙をかけたり、それを回収したりしてたわけね。今だと、

立岩:今だとコンピュータ使ってオートでだろうけと、前は地震計って、地震起こるとこう針がこうビーってなって、それを紙にこう、こういう、

斉藤:今の心電図みたいな、あれの大きいやつを取っ換えたりするそういうのでアルバイト、で、あとやっぱ数字にしなきゃいけないからね、そういうアルバイトをたくさん入れてたわけね。そん中に東京理科大の二部の学生でポリオの人がいて、このまんま地震研究所で仕事ができないかなって、アルバイトじゃなくて仕事ができないかなっていうふうにそのチームっていうか、雇用してる研究チームのなんていうか実務を仕切ってる助教授のところにお願いしに行ったら、柔道二段だか三段とかの助教授が「ばかやろー」とか言って投げて、「明日から来なくていい」みたいなこと言ったってわけね。

立岩:投げ飛ばしたっていうのは、その2017年のインタビューでは言ってなかった。

斉藤:いやまあなんか、っていうふうには聞いたけど。でも暴力をふるわれたってその助教授は言うわけ。だから「お前来るな」って言うわけだね。

立岩:あ、そうか、先生のほうは「自分がふるわれた」つって。

斉藤:そうそう。でもそれはもう逆なんだな。だからそこまで言うからにはやっぱ逆なんだよ。で、本人はしょうがないから翌日から一人で地震研究所の入り口に座り込んでたら、「何してんの?」って職員とかあるいはなんかそういう噂を聞いた、まだあっちこっちにいた、なんていうか変な連中がやってきて、で、地震研究所で「おかしいじゃないか」って闘争やって、2年間赤旗が立ってたって。で、最後は解決するために雇用したわけだね。だからなかなか大した闘争だよね。

立岩:今だったらただの、ただのっつったらなんだけどアルバイトじゃない。そのアルバイトを職員にしろっていう要求だからさ、あまり今だと思いつかないよね。もう諦めるっていうか。だけどそういう事故があって暴言があったり、そういうのをきっかけにして、当時やっぱり臨時職員っていうのはやっぱり、今もそう、今はもっとそうかもしんないけど、地位とか待遇が悪いじゃない。それを「臨時職員の待遇を上げろ」とか、「正規の職員にしろ」とか、そういう運動が70年代、僕らなんかもいくつか関わった少数、組合も共産党系じゃない少数派の組合だよね。えっと演習林か。

斉藤:演習林と、演習林職組もあったし、病院がなんてったっけね?

立岩:演習林ってね、林、国が持ってるっていうか、国立大学が持っている農学部が研究したりするための林、森林、フォレスト。

斉藤:それ、そうそう。けっこう広い。千葉と、東京大学は千葉と北海道に、あと秩父にけっこう広いフォレスト持ってんだよ。で、その演習林闘争は、だからたぶん最後は視覚障害になった人が。なんかとにかく視力、組合員の中で視力失って、このままじゃあ今までの仕事はできない、でも雇用継続するためなんかできないかっていうんで、職組が呼びかけて取り組み、そこまでは僕もちょっとだけ関わったっていうかな。それが81、2年ぐらいかなあ。

立岩:そっか、それ記憶にないな。演習林の組合が集会とかでいろいろ状況を説明したり、それに「おー」とか言ったのは覚えてるけど、視覚障害の人がいてっていうのは覚えてないな。

斉藤:いやまあ、それまではどちらかというと、演習林職組は、場所的にも大学はそこにある、この坂の上にある。でも千葉県とか秩父とか埼玉県とか北海道とかにあるわけだから、大学の本部には事務系の人間が二人とかぐらいしかいない。だから活動拠点はみんな現場なわけね。だからあんまり大学のなかの他の組合とは接点がなかった、あんまりはなかったんだね。でも一つのきっかけは中核〔派〕が関係してたんで、動労千葉支援ていうのが一つ、もう一つは今の視覚障害、とにかく組合員の雇用確保のためにみんなで頑張ろうっていうんで、積極的に学内で動けるとこで動くようになったっていうふうに聞いた。

立岩:そうか、動労千葉、やってたよね。なんだろうな、あんまり盛り上がらなくなった日本の学生たちの運動っていうのが、その70年代から80年代にかけて何してたのかっていうの、俺はやんないけど誰かね、もうちょっとまとめてほしいなって今日思ったのよ。で、僕らはたぶん共通に知ってるのって、僕より歳上の、狩野っていたんですよ。

斉藤:はいはい、狩野ね。

立岩:心理学科にいた奴。あのへんな、彼なんか生きてれば覚えてて、彼らが一番文学部では熱心にやってたから、学部によって自治会も違うわけよ。で、教養学部っていうのは東大の場合は1・2年生はみんな教養学部っていう同じとこに行って、で、3年生になる時にいろんな学部に学科に分かれていくわけだ。で、僕は文学部だったんだけど、斉藤さんは教育学部だけど、僕の記憶では僕らの学部生の時は文学部と医学部あたりが、あと駒場の大学院の小松とかがいた科学史、科学哲学とかそういうのがあるとこ。

斉藤:基礎科ね。

立岩:基礎科あたりが、これも説明は今日はしませんけど、日本っていう国は変な国で、フランスもちょっとそういうとこあるけどね、共産党に対抗する左翼っていうのがいる国なわけですよ。

イヴァンカ:うん、いる。

立岩:ね、そういう人たちがいる国ってあんまりなくて、フランスはちょっとそうですけど、まあドイツもちょっとそういうとこある、そういうとこが一時期あった。今でもまあ、ちょっと緑の党とかちょっとそういうことに関係なくはないですよね。で、日本もそうで、で、そういう意味で大学の中で共産党系の学生たちと、そうじゃないレフトっていうか人たちっていうのがだいたい喧嘩してるわけ。

イヴァンカ:レフトと、

立岩:レフトとレフトが喧嘩してる。内輪揉めって、内輪だとは思ってないんだけど、してて。教養学部は共産党系が強かった、僕が学生の時はね。僕らは負けてた。で、文学部はその全共闘っていう過激派だな、の流れ。過激派っていうかセクトっていう党派ではないんだ。さっき言ったのは中核派っていうね、白いヘルメット被ったちょっと野蛮な、今でもちょっといますけど、かなり野蛮なやつらが、には別に牛耳らせないんだけど、そういう党派ではないんだけど、ノンセクトって僕ら言ってましたけど、そういう人たちが主導権持ってる自治会が文学部と医学部もそうだったと思うね。で、僕らは文学部で反100年の闘争の続きみたいな。で、そこの中に養護学校義務化のこともあったし、けっこうそこの中に医療・障害系のテーマっていうのがかなり入ってた記憶は、例えば精神障害の関係でいうと保安処分反対とかね、そういうのが入ってて。僕はその、そうだ、学友会、文学部の場合は文学部自治会とは言わなくて学友会、学ぶ友の会って書くんだけど、学友会って所で僕は社会学科だったんだけど、社会学科の場合、そこのなか二人ぐらい委員が出るわけね、学友会のね。で、それの委員っていうのをやったり、それから大会の議長という、チェアマンやったりとかそんなことはしてたんですけど、そこまでは言えるんだけど、どういうふうにその時々に誰がどういう主張で何を論点だったのかって具体的にあんまり覚えてなくて、僕ほんと頭悪いっていうか記憶力ないっていう、そういう話だよね。その文学部のずっと長いこと、僕らの上にいて僕なんかよりずっと一生懸命やってたのが、狩野さんっていう男の人だったんだよ。で、たぶん彼なんかはまだちゃんと生きてれば、彼に聞けばいろいろ教えてくれたかもしんないけど。彼は心理学科出たあと、医者を批判するためには医者になんなきゃいけないみたいなことを思ったんだろうね。

斉藤:先に陽和病院に9年ぐらい仕事をしてんだ。

立岩:陽和病院っていう精神病院があって、それは反体制派の共産党系ではない人たちが、の医者たちが関わってた病院が、太陽の陽に平和の和か。そういう病院があってそこに関わってた。

斉藤:病院の近くにこう、なんていうんだろう、ケアハウスみたいな感じで出れるような。

立岩:退院した人がね。

斉藤:だから病院の敷地外に、とにかく病院から遠くなくって住むスペースを、あれは病院で用意したんだな。だからそういう感じで地域へ戻るってそういうことをやってたんだな。△

イヴァンカ:ごめんなさい、

立岩:うん、帰りましょう。

イヴァンカ:そろそろ行かなきゃ。

立岩:これから、ここからちゃんと駅まで行けます?

イヴァンカ:うーん、GPS使う。

立岩:うん、そうだよね。そんな距離ないよね。どっちのがいいの? 上野がいいの?

斉藤:この目の前の通りをずっと左っていうか、出て左に行って大きな通りに出て右側見るともう交差点があって、その向こうに線路が見える。その線路の下がさっきの駅よ。

立岩:御徒町? 御徒町ね。

斉藤:1回曲がるだけ。

立岩:じゃあイヴァンカさん、さっきの話で、瀬山さん教える、それから僕が書いたもののリンクを教える。あとは、たぶんそこからだんだん広がったり繋がったりしていくと思うから。で、さっきの話を復習すると、なんかね、年取った人から聞いたほうがいいかもしんない、こうなったら。まだまだっていう人はちょっとあとでもいい。安積とか元気だから後回しでもいいから。っていうようなことで少し日本にいる間、これから1年半いるんだったらだいぶ時間がありますから、調べられると思います。

イヴァンカ:ありがとうございました。

立岩:はい、どうもどうも。ご苦労様でした。頭ぐるぐる?

イヴァンカ:そう、ぐるぐる。

立岩:今日、名刺あげたっけ? 日本人は名刺を渡すっていう名刺ですけど。

イヴァンカ:今、名刺のコレクションしてます。

立岩:ちょっと待ってね。で、狩野は、だからそこで医学部の三年生ぐらいだったのかな、そん時に。

斉藤:そうですね。大阪市大医学部。[01:50:03]

立岩:大阪市大の医学部の学生だった時に、くも膜下出血だったよね。

イヴァンカ:大好きな名刺、天畠さんの名刺。

立岩:おお、はいはい。大丈夫? 

事務所スタッフ?:よろしいですか? 

立岩:大丈夫? 入るね。斉藤さんってどういうのだったっけ? 僕、たぶん、たぶんじゃなくて知ってる、よく。天畠は去年うちので博士号取ったので、その時にみんな、リヨン大学の彼も通訳で来て。

イヴァンカ:そうくれた、黒田さん。

立岩:あの時天畠さんの通訳が二人、それからレフェリー、外部審査員、審査員の一人が福島さんって東大の先端研って所があるんだ。福島智っていう、盲聾ってわかりますか? 目が見えない、聞こえない両方の人を盲聾っていう。で、福島智さんに審査してもらったから、福島さんの通訳が二人っていうんで、一部屋に通訳が4人もいる論文審査をしました。たぶん世界で初めてだった。

イヴァンカ:そう。私の先生に紹介をされた時はすごいと言われたんだ。

立岩:それじゃあまた、まあそのうちどっかでお会いすることもあるかもしれない。関西来るときに言ってください。そしたら資料とか。

イヴァンカ;私の知り合い、同じ大学で通った友達、すえまつふみ〔末松文?〕って言います。日本人だけどフランス語で全部【書いた】(01:51:23)。

立岩:すえまつ?

イヴァンカ:すえまつふみは、立岩先生に、岸先生に、よろしくと伝えたいと。

立岩:岸さんも知ってる?

イヴァンカ:そう。

立岩:なんだ、聞いたことあるような、わかんない。また教えてください。とにかく関西に来るときに寄ってってください。たぶん他にない資料もありますから。それから、僕ん所がもうできてもよかったんだけど、まだできてないんですけど、エレベーターつけて車椅子のユーザーも泊まれるっていうか仕様にしつつあるので、もし、まあちょっと間に合いそうもないけど、間に合うのであればそこで泊まったり、お泊めすることもできますから言ってください。あとだいぶかかると思うんで、あと1年ぐらいかかるかもしれない。

イヴァンカ:でも、あっという間に留学が終わるから。

立岩:そうだね。じゃあもう年内にインタビューを始めるぐらいがいいな、いいと僕は思います。

イヴァン:うん。例えば2月のあたりに。

斉藤:2月までに間に合わせて、ちゃんと起こしてもらうと。

立岩:そうそうそう、それだったらほんとにこっちでお金が出せるから。たぶんね、お金払うと3万円とか4万円とか、時間がかかるから文字にするのって、そのぐらいかかるんですよ。で、研究費持ってる人はそこで使えばいいけど、当然学生、今そういうポストにいないからそれは無理だから。で、僕らがお金がある間はお金出せるので、それはまた教えてください。僕もそれは歓迎です。僕らが聞けない人に聞いてくれるわけだから。

イヴァンカ:今日はありがとうございました。

立岩:いえいえ。

イヴァンカ:失礼します。

斉藤:じゃあ。

立岩:それじゃあまた。[音声終了]

■ ◇東大闘争

立岩:外国の人とかさ、やっぱり知らないっていうこと前提でこっちが喋んなきゃいけないから、たぶんこれテープ起こしとかしてくれる人も若い人だったら全然何も知らないでしょ。だからそういうことも含めて、解説しながら語るっていうのはいいね。

斉藤:こういうのがね、あとはたぶん一番の学ぶ機会の提供っていうんだろう。

立岩:例えば白木とかさ、僕はほんとにそういう資料全く使わずに去年の本とかも書いたんですけど。もちろん誰か調べられるんだったら調べたほうがいいと思う。なんかどっかにまとまって、誰か資料持ってないかね? 70年代半ば、

斉藤:あるとすれば昔の精医連の人間のとこってことになるだろうね。森山〔公夫〕さんなんてどうなったんだろう。

立岩:ああ、森山さんってわりとそういう意味じゃアバウトな感じだから。

斉藤:そうそうそう。だから、

▽立岩:精医連はね、あるんだよな。精医連の関係の資料はそれとして、精医連はそれなりに続いてきたので探せばある。それはなんとかなる。

斉藤:だからそれの中に触れてると思うんだよね。そういう意味ではもうなんていうか、全部そういうのが来るわけじゃん、レンガに。で、ちょうど僕らが、あれが78年か、海部調査団ていうのが来たし。当時まだ自民党の議員だった海部が東大正常化とか言って。

立岩:サンケイがキャンペーンをはって、本作ってって。

斉藤:それで向坊の、

立岩:国会で問題になって的な出来事なんですよね。

斉藤:うん。それを当時のなんかの議事録かを基に誰だったか、向坊が国会に呼ばれたんだな。向坊隆が呼ばれて。

立岩:向坊が学長だった時にか。向坊が呼ばれて。

斉藤:うん、呼ばれて、「学内で鋭意努力中なんです」と。だからあまり余計なことしてくれるなみたいなニュアンスで。

立岩:ああ、うちでやるから何とかするから

斉藤:まあそれなりの経緯があってのことなんだからっていうようなことを。

立岩:あ、それは読んだな。国会の議事録までは今全部とれるんだよね、ウェブで。だから、俺はやんないけど、そこ、桐原とかかな。△

斉藤:やっぱこういうお題はね、やっぱ宿題あちこち振るっていうのは重要だしね。

立岩:到底一人じゃやりきれないし。

斉藤:そりゃ当然。だから昔の「これをやれば君も学者になれる10のお題」というのと同じで、今の10のお題とかね。

立岩:僕が出すお題は、みんなそれやれば学者になれるんだったらいいけどなれないからね。でも一応、大切だと思うんですよ。「こういうテーマがあるよ」とか「これは調べたらいいよ」っていうのを少なくとも提案するっていうのはすごい大切なことで、出来事があったことさえ知らないわけだから、やっぱり知らせたほうがいいっていうのはある。ちょっとそれ、あんまり思ってなかったんだけど、やっぱり70年代中盤から80年代の学生、大学がらみの出来事っていうのを。赤レンガはまだ調べられるんだ、国会で問題になったりしてるからさ。俺もでもビラとか捨ててはいないんだよ、学生時代の自分たちが作ったやつは。だからほじくりだしゃ出てくるけどなあ。俺はやだなあ。

斉藤:(笑)。まあその辿ればっていうかね、60年代やっぱこう気にして当時の人間はこんなもん、これはこんなもんだって納得じゃないけどあえて言葉にはしないけど知ってたようなことを、やっぱりこう一つはやっぱ内部的な叩くべき相手にぶつける、「なんだこれは」っていうふうにぶつけていく。もう一つはそれが単に内輪問題じゃなくて、住民闘争っていうか特に反公害運動なんかとの関わりの中で、「ここで出て来て喋ってるあいつはこういう奴なんだ」っていうね、そういうかたちでやっぱり表へ出て行くっていう積み重ねがあってのことだろうね。[00:05:07]

立岩:そう、去年本書いて思ったのは、白木、ほんと完全に忘れてた、名前自体を。ていうかちょっと前だったから。僕が大学入るちょっと前だったんで、もういなくなっちゃてたから。でも斉藤さんから名前聞くまで、でもほら調べてくと出てくるわけさ、重症心身、府中療育センターの初代の所長として出てくるわけだ。で、藤原書店の本なんかは白木様々なわけよ。もうなんか奉ってるっていうか、そのあとの社会的言論っていうかな、立ち位置みたいな主張みたいなことで立派な人だったって話になってんだ。「え? そういう話じゃなかったような気がするよな」みたいな。そういうところでちょっと調べていくと、なんかありそうだと思って。僕はその、70年代に彼が『世界』とかさ、そういうところに公式に書いたものの中になんかやっぱいいと思って書いてるよね。だって僕らの世代っていうか学生運動って、基本的に「こいつこんな悪いことした」っていうの探してきて、台(うてな)が人体実験やったとかさ、それはそれでその通りなんでやるべきだったけれども、そうじゃない側面、だから本人もいいと思って書いてるし、他からもいい人っていうか革新的な人っていうふうになってる話から、でもその話のおかしなところをいってみるみたいな。

斉藤:まあそれはそうだね。

■篠田さん・高柳さん

立岩:今回はそれで書いたんだけど、でも同時に白木っていう人が70何年の時にその学生なり大学、学生たちとの、あるいはレンガ、精医連とかも、どういうごちゃごちゃがあったのかっていうのは、それはまたそれとして同時に書かれるべきでさ、それをこの頃やっぱちょっと思うな。で、それで狩野は死んじゃったでしょう。なんかその精医連系のやつはあると思うんですよ、資料が。精医連、まめな人たぶんいるから。そっちはたぶんこれから探せば出てくると思うんだけど、そういう反100年とかさ、ああいうあたりのものを後生大事に持ってるような奴って誰かいないかな?

斉藤:ああ。どうだろうなあ。4年ぐらい前に、最初に学友会と78年のストやって、で、選挙やって勝って、それで委員長になった篠田っていうのが死んだんだけど。その時30人ぐらい東京でも偲ぶ会で集まって。まめそうなのは高柳。法政の国際文化学部で朝鮮史かなんかやってる。まめそうっていえばそうだな、あいつが一番まめそうだな。昔けっこう熱心にかき集めてた佐藤じゅんいちっていうのがいるんだけど、これは今テレビマンユニオンのけっこう偉いさんになったみたいで、会っても、顔はちょっと、久しぶりに顔見たけどけっこうバタバタして。

立岩:たぶん俺の同級生はあまりあてになんないんだよ。あてになんないっていうか時期的にもちょうどの時じゃないから、ちょっとあとだから。

■鈴木さん・川俣さん

斉藤:で、そういう意味でなんだかんだ言っても、どのぐらいものをどうして残ってるかはともかく、やっぱ鈴木は大きいよね。

立岩:鈴木って誰?

斉藤:えーっと、下の名前が…。

立岩:何年入学ぐらいの人?

斉藤:えーっとね、鈴木は入学は73なのかな。78年の時に1回週刊新潮が文学部のことを追っかけた時の焦点が鈴木に当てられてて。

立岩:新潮が何を追っかけたって?

斉藤:あれは火事のことが中心だな。

立岩:文学部の

斉藤:鈴木は73年なのか4年なのかちょっとわかんないんだけど、僕よか2つか3つか上で、歳はね。仙台かなんかの高専の、高等専門学校3年修了か5年修了かはよくわかんないが、で、文Vに入ったって。それで、東大闘争被告団支援をやってたわけ。まあが言い出しっぺみたいな感じ、本郷では鈴木…文学部では鈴木が中心になって、鈴木、と川俣っていうのが僕の駒場のクラスメートで、これは僕の3つ上で。

立岩:またのまたはどのまた?

斉藤:にんべんに口書いて。

立岩:にんべんの口のほうね。

斉藤:で、川俣は長野の上田高校出てなんだけど、上田の高校の3年の時に1年休学して半年北海道、半年寿町とか。で、やっぱり高校生の18、19でできることなんてしれてるからって大学行こうっていうんで入って。で、僕が100年闘争に関わると川俣とたまたま井の頭寮で久しぶりに会って。

立岩:え? ちょっと待てよ、鈴木さんってのは73年入学ぐらいだったの?

斉藤:そうそうそう。

立岩:川俣さんっていうのが?

斉藤:川俣も73年か4年かな。駒場で、でも語学のクラスで一緒になったんで、4年でも不思議はないんだが。

立岩:でもまあ同級ではないってこと?

斉藤:鈴木と川俣はね。僕は川俣と同級生で、駒場の。

立岩:あ、待てよ。あ、そうか、同級っていうか入学年齢。

斉藤:ではなくクラスが一緒だった、語学クラスが。

立岩:あ、だけどさ、えっとね、5組って言ったよね。

斉藤:違う、違う。僕はS2の。

立岩:あ、そうか、そうだよね。理Uにいたんだよね。そうかそうか、しゅうねんとかがLV3〔文V〕の5とかで、しゅうねんと、のちの市野川が5組で5組繋がりか。でも僕79でしょ、で、しゅうねんも79だよね。だと、その鈴木さんっていう方が73ぐらいだと。で、斉藤さんが75?

斉藤:4。

立岩:74ね。じゃあ川俣さんっていうのも74らしい、じゃないかと。

斉藤:うん、4だと思うね。

立岩:で、それで寿町やらなんやらでなんかこうこうあって、でも大学に入ることにはして、入って、文学部に来たんですか?

斉藤:まあ理U、理Uだけど文学部。

立岩:理Uから文学部に行った人なんだ、その人は。

斉藤:そんで、まあ【文】(00:13:40)で顔合したんだな、鈴木。寮だったのか学部なのかわかんないけど。だから当時鈴木も川俣も僕も井の頭寮に住んだわけね。で、井の頭寮で顔合わしたら、「100年祭糾弾実行委員っていうのをやんだけどお前もやんないか?」みたいな感じで。

立岩:鈴木さんが「やんないか」って言ったの?

斉藤:いやいや川俣に。

立岩:川俣さんが言った。

斉藤:川俣に声かけられたの。「鈴木と一緒にやるんだけど君もどうだ」みたいな。

立岩:それが70、

斉藤:6年、6年のことだな。

立岩:6年か。

斉藤:発端の鈴木…、それと並行して駒場で篠田だとか和久田だとか。和久田っていうのは今弁護士になってるけど。

立岩:しのだってあれだよね。しのって、

斉藤:竹かんむりの、

立岩:竹書くようなしのだよね。篠田、わくだ?

斉藤:和久田修。平和の和に久しい、田んぼの田。おさむ、おさめる。修学、

立岩:修学の修か。和久田修、弁護士やってる和久田修。[00:15:06]

斉藤:和久田は僕と同じ歳だね。

立岩:74。

斉藤:74、篠田も同じ歳だ。

立岩:篠田も74。じゃあその4人ぐらいはほぼ同じ学年ってことか。同じ入学ってこと?

斉藤:まあそうだね。

立岩:そのへんが74に入るでしょ。で、76年ぐらいに「そういうのやんないか」っていう話が、

斉藤:と、僕に声かかる前に彼らを。だから一つのきっかけはさっきの鈴木の被告団っていうか、東大闘争被告団、獄中被告支援。

立岩:被告支援を鈴木さんすでにやっていた、その時にね。

斉藤:で、そういうね、有象無象っていうか、まあまあ直接ねどのぐらい動くかは別にして、声かけられて知ってるとか。あと寮に…、なんだかんだって言っても寮にはそういう連中が集まる部屋がやっぱあったわけだな、文理研の前にも。なんか2つ3つぐらいあって、なんかそういう、だからやっぱ駒寮繋がりっていうのも大きいだろうね。クラスルームみたいなのからサークル部屋みたいなの。ちょっとそのへんのことはわかんないけどね。で、川俣は最後が、最後はちゅうか81年に伊豆大島で溺れて死んじゃったんだけど。で、これが金井康治も参加した障害児、だからあれはどういうグループで行ったんだろうな。けっこうやっぱ金井闘争繋がりで声かけ合って伊豆大島キャンプみたいなのやったのに川俣も参加したんだな。別に僕は自分で僕は声かけた覚えはないから、そういうのは声かかるような枠組みは当時あったってことだね。見てると見えるっていうか。

立岩:その人も溺れちゃったんだ。

斉藤:うん。で、川俣は当時、その直前かなんかに会った時、「これでしばらく会う機会がないからな」って言うから何かと思ったら、アメリカへ行くと。スターダンサーズっていうんで。ダンサーになるってわけ。

立岩:え? どういうダンスなの? なんだ、それは。

斉藤:普通にミュージカルのダンサーで。100年闘争の時も、76年、7年ぐらいまではけっこう顔見せてたけど、そのあとはもっぱらこう、はまったんだねダンスに。

立岩:そうなんだ。どこの学科にいた人なの?

斉藤:えーとね、あいつはなんだっけな。あいつ美術史かな。まあちょっとよく…。

立岩:俺ね、大学出てから大学の同期だった奴とかと同窓会みたいなの1回もやったことないんだよ。ほとんどほぼ誰にも会ったことない。

斉藤:まあ普通だよな。さっきの篠田の偲ぶ会だって集まってみたら、いやあ30何年ぶりっていうのばっかだし。でも聞いたら一人はクラスに、あれがね、あの人たちは78か、78かなんかのL3の何組か。山田昌弘。学芸大のアダルトチャイルドがなんとかとか。

立岩:あの山田? 中央大に行った山田ってこと?

斉藤:ああ、ああ。

立岩:学芸から中央に行った。

斉藤:あの山田がいたクラスはけっこうなんか女子学生がいるからか、けっこうまめにクラス会やってんのよ、みたいなこと言ってたけど。

立岩:あ、なるほど、そういうことか、そういうことか。78ね、僕79でしょ。その時に文学部、学友会やった奴らって、一人はわたなべまさゆきつって朝日に行ったんだよね、朝日新聞に行って、それで論説委員ぐらいになったんだけど、なんか、なんかあったんだな。で、今ちょっと埼玉支局とかなんかそんなとこ行ってるのが、そいつはまめだけど、どうだろうな。それとかあとNHKでディレクターやってて、けっこういい番組作ってる塩田っていう。それなりにみんな頑張ってはいる。持ち場、持ち場でね。だけど、その当時の大学の動きなんかをまめに持ってるとはあんまり思えないんだよね。まあもしなんか斉藤さん、そのうちどっかでそんなようなことでなんか持ってる人とか、

斉藤:そうだね、気が付いたら、

立岩:たまたま会ったら教えてください。

斉藤:はいはい。

立岩:誰かいるかなあ。文学部。僕は学友会の委員長になりかけて、いろいろあって、で、渡辺っていう、一緒に社会学科の委員やってたのに押し付けてっていうか、やってもらって、で、僕は議長かなんかでお茶を濁してっていうか。そんなのが文学部の3、4年の時でな。なんかまめにビラとかは作ってた記憶はある。で、それでそのさっきの話だけど、ビラ作るので、

斉藤:はいはい、印刷機ね。

立岩:赤レンガの印刷機借りてビラ撒いてっていうのは憶えている。でも元気だったのは僕の1年上か2年上ぐらいの人たち

斉藤:狩野とか平田もそうだよね。

立岩:ああ、平田さんっていましたね。あの人は何してんだろう。

斉藤:鹿児島に帰って教員やってるけど。

立岩:あ、そうなの。平田さんっていたね。あと、大学の教員やってるのだと、徳永〔哲也〕って。哲学でさ、長野大学の教員やってる。

斉藤:はいはいはい。なんか、顔見たなどっかで。なんかの機会に会った。

立岩:こないだ、そう学会、なんかで会った、学会かな。なんかの集会だ。なんか集会で喋ったら徳永さん来てくれたことあって。でも徳永さんも昔のものは、

斉藤:やっぱちょっとね、もう70年代の終わり、80年代になると集めるっていったって、もうその頃誰か聞いてれば別だけどって話になっちゃうよな。だからそういうのより、わりあい縦系統っていうか話を積み重ねていくような繋がり自体はなかったっていうか弱かったっていうかね。一番あるのがなんだかんだ言っても駒場文理研みたいな感じになっちゃう、そういうとこだからまあないわな。ないわな。

立岩:だいたいああいう部屋とかに、紙の類ってたまってるじゃないですか。

斉藤:うん、そうそう。そういう形でしか、

立岩:あれってさ、ほんとに駒寮なくなる時にそれと共になくなったのか。例えば森〔泰一郎〕さんってわりとまめそうな感じしない?

斉藤:森が集めた本はなんか渋沢の繋がりで、渋沢記念なんとかっていう群馬の大学の図書室にひと揃え引き取ってもらったそうでよかったんだけどね。

立岩:ああほんとに。森さんの何?

斉藤:集めた本。

立岩:何大学ですか?

斉藤:わりと新設の群馬の大学だったっていうのだけしか覚えてないんだけど。でも渋沢の名前がどっかにつくとか言ってたね。でもそれは、

立岩:本なの。本だったらな、俺も同じ本持ってるとかそういう話だもん。

斉藤:うん。だからそれ以上のものになるとやっぱちょっと、ひょっとすると、森の部屋はそのまんま江戸川の前進友の会が引き継いでるんで、引き継いだんだよね。

立岩:そうなんですか。

斉藤:うん、あの当時はね。そっからあれ自体はあいつの持ち物だから維持費っていうか別に家賃が必要なわけじゃないから。

立岩:あ、そうなんだ。借りてる場所っていうんじゃなくて、森さんの持ち物の部屋だってことね。

斉藤:うん、そうそうそう。あいつはたまたまだけど、親はけっこう金残して、

立岩:そうなんだ。

斉藤:うん、で、一回調布にけっこうなマンション買ったらでかすぎて維持しきれなくて、で、江戸川に移ってもうちょっと安いものにしたって。

立岩:それを前進が使ってるってこと?

斉藤:そうそう、そこに、で、けっこうだから地域の集まりっていうかそういう前進友の会、

立岩:前進友の会ってまだ生きてるっていうか。

斉藤:いや、森が死んだ時に「そういう話になったよ」っていうのまでしか聞いていない。

立岩:そこまでか。前進の人たちの動きもなかなかな。俺、別に前進友の会のこと悪いことって1回も言ったことないと思うんだけどなんとなくこう、京都の前進の友の会の誰それさんがなんか俺のこと嫌みたいだし、難しいなと思って。

斉藤:おっとっとっと、もうすぐ4時だよね。



立岩:はいはい、もうだんだん。ありがとうございました。[…]新潟でちょっと聞き取りとかもしたいと思ってて。体、このぐらいの時間のほうが大丈夫なんですか? やっぱ疲れ…、

斉藤:まあなんかだからこう、あんま他のことやってないからくたびれたら寝てる。で、代わりに夜中に、けっこう今とにかくむくみ取らなきゃいけないんで、利尿剤飲んでると。1時間半ぐらいに1回は必ず目が開くから、もう目が開いたついでに。すっと寝そうなら寝る、目が開いたらちょっと本読んだりしてる。で、やっとこさこないだ学生に書かせたエッセーを一通り見終わって、なかなか疲れたなと。

立岩:むくみはそうだね。

斉藤:中身は問わないけど、日本語の文章としてちゃんと書いてもらいたいと。

立岩:え、それはどういう、何のレポートなんですか?

斉藤:レポートじゃなくて、だから月に1回エッセーを書かしてんだ。その場で書く。

立岩:どういうところで?

斉藤:授業中に。

立岩:どこの授業で?

斉藤:明治学院で授業持ってんだよ。週1回ね。タイトルはNGO論なんだけど。

立岩:それは何、勝俣さん繋がり的な?

斉藤:そうそう。

立岩:非常勤講師ってこと?

斉藤:もうずっと。でも12年やってると…。まあこういう機会ってね、ありがたいのはありがたいよね、やっぱこうさっきの説明すると云々じゃないけど。

立岩:なるほど。それで学生に作文させて、それを直したりとか、そういうことして。

斉藤:あんまり来てもいないけど、まあ来てないのはいいんだけど、来るんだったらせめてもうちょっと前に寄ってほしいなと思うが、なんかこう後ろにばらーっとしょうがないから、寄って寄って、で、喋ってくれりゃあいいんだけど喋らないから、じゃあ書いてもらいましょうかねと。法学部政治学科なんて今ちょっとすごく曖昧な学部じゃん。

立岩:ああ、そうね、そうだよね。

斉藤:プロになるならともかく。

立岩:法学部つったって法曹界に行くわけじゃないしね。

斉藤:うん、ただまあけっこう実用向きなんだけどね。たんなる法学やるよりわりと実用向きなんだけど、なんかそういう感覚がないんだな。まあそりゃそうだと思うんだけど、そりゃそうだと思うんだけど。なんでないのかっていうとやっぱこう、なんとなくあれだね、言われたことしかやってこなかったって感じだな。

立岩:明学ってキャンパスは一つだったっけ? 白金か。

斉藤:えっと戸塚にもあるから。だから向こうに教養ってコース、過程。1、2年生は基本戸塚に行って。

立岩:そうなんだ。で、こっちはていうか、白金台なんだ。

斉藤:白金で、国際学部はずっと戸塚で。で、白金に明学のメインの社会学部っていうか社会福祉学科とかそういうのがあると。

立岩:加藤秀一さんとか稲葉振一郎さんとかあれは社会学系、

斉藤:みんな白金にいるはずだよ。

立岩:あそこ社会福祉があるから社会福祉系の教員もいる。だけど、みんな俺より若いっしょ。あれだともっと違ってくるからやっぱり僕の上ぐらいのね、年代っていうか時代、時期の。ああそう、教員が書いたやつで、折原さんのなんか東大なんとかっていう定年になってから書いた本が出ててまだ中身は見てないんだけど、あれに多少はその火事の話とかさ、

斉藤:ああ、まあそうね。

立岩:多少ある。まあ火事とか占拠の話、詳しく調べたからどうってこともないだろうから、それはそれでいいんだけれどさ。ありがとうございました、ほんとに。

斉藤:はいはい。

立岩:しばらくこっちに、どっかこのへんにいるわけですよね?

斉藤:もうなんていうかとにかく今病院通いが増えちゃったからさ、今むくんでるのもあってちょっと4週間刻み…、同じ病院に、

立岩:今どこ通ってるって言ったっけ?

斉藤:日大板橋。最寄りは東上線大山か中板橋からだと歩いて10分はかかんない。池袋からバスが出てる。うちは西新井から池袋までバスが1本で通るんで、交通の便はそんな悪くないんだね。

立岩:通院ってどのぐらい行ってんの?

斉藤:基本、癌のほうが4週に1回。これが消化器外科。で、一昨年まではこれが3ヶ月に1度だったの。それが薬に変えたんで4週間に一度チェックしぃしぃ薬をどうする、だから今休んでんだけどそういう、薬ってやっぱコントロールがね必要だから。それとここのステントの入ってるほうがこれも肝臓内科で。同じ病院で火曜日に消化器外科、木曜日に肝臓内科、これに4週ごとに通うっていうんで。

立岩:ステント換える所とその4週に1回とは違う所だから。

斉藤:うんまあ基本だから月に2回は行くと。こないだはでも、この間は副作用の問題で。いやあ肝臓内科で検査してもらったら、腎臓が、おしっこが出づらいなと思ってたら腎臓のちょっと数値が悪いっていうんで4日点滴に行って。まあ4日点滴ぐらいで済んだからよかったけどね、4日ぐらいで「まあこれなら大丈夫ですね」って。あれでもうちょっと酷いとね、「はい入院」って感じだったんだが、そこまではなくて。

立岩;まあ養生しつつだよね。

斉藤:そうそう、しょうがないなと思って。

立岩:しょうがないよね。

斉藤:それ以外はほんと明学に週に1回行くのが、そういう意味合いじゃある種楽しみだよな、まだ。

立岩:ぶっちゃけ聞きますけど、斉藤支援の輪っていうかさ、そういう企画がありつつあるじゃないですか。あれって、斉藤さん自身としてはどの範囲だったら知らせていいか。

斉藤:いやいや、だから基本それは呼びかけ人っての立ててくれたんで、そっから先は呼びかけ人が声かけてる範囲っていう以上は僕は知らない。こないだも中間報告みたいなの聞いたら、いやあ、こないだAJF繋がりで顔合わせてた人からも何人かけっこう来てるし、小松なんぞも久しぶりに顔見たら、「おー、こんなに用意してきてくれんのか」という感じで。まあなんか呼びかけ人に名前を出してないけど、宮っていうのがいて、

立岩:ああ、なんかいたな。大学だよね。

斉藤:80(はちまる)か、あいつは。

立岩:ああ、そうか、下か、いたよね。

斉藤:歳は同じ歳だと思うんだよね。TBSにいて、こないだからTBSの関係の子会社でメンテナンスの会社のほうの役員になって。宮がけっこう声かけてくれたんで、なんていうか僕よかだから5、6歳下の連中がけっこう出してくれてんだよ。まるっきり同期のくらいのは今度は世話人になってる奴がいないから、呼びかけ人がいないからさ、まあそんなもんかなって感じ。[00:35:10]

立岩:ああ、個人の責任においてってことね。知らせたりなんかするのは。

斉藤:とにかく中心で声かけてくれてる佐藤さんっていうのは、えみちゃんっていうのは金井闘争以来の仲っていって、一番中心はみんなそれ。

立岩:ちょっと研究所のほうもどうやって延命していくかっていうこと。それで今日もさっき僕がぼやいてた書類書いたりなんやかんやしてて、努力はしてるし、していくし。あとまあちょっとね、人事っていうかその大学の上のほうの人変わって、さっき言ったけど松原さん、副学長になったり。最悪のことにはならないと思います。それはそうだと思うけど、で、じゃあどこまで、その斉藤さんことも含めて、どこまで取れるかなっていう。あと1年はあるんだよね。その次からがないの、制度的には。そこのところをどういうふうにっていうのは今事務方にもいろいろ、他はどうしてんのか調べてもらってるんだけど、これから来年度にかけて取れるところまでは取るけど、何がどうなるかはわかんない。

斉藤:よろしくお願いします。

立岩:ありがとうございます。でもまあそういうつもりにしよう。あれどうなの、アフリカのファイル作るのぐらいとかは体力的にどうなんですか?

斉藤:いやまああれもある種の楽しみのうちだからな、積み重ねてるとこう。ああいうのってやっぱり積もらないと面白くないし、積もるとねやってるほうもそうだし使い道っていうか、そろそろ使い道が出てきそうなもんだなって感じる。

立岩:石の上にもって言うけどさ、そういうのはあって、やっぱ10年20年やってると歴史的価値を帯びてくるわけですよ、地道にやってるとさ。ほんとにこの頃そう思ってね。俺もなんだかんだ言って20年ぐらいやってるじゃない、ホームページさ。そしたらやっぱり、

斉藤:それはちょっとね、メンテが追いつかなくたって他にないんだもん。で、やっぱ入り口とか参照とかあれだけ当たるっていうのも当然のことだなと思って。

立岩:だからそういうことを一生懸命宣伝して、来年からどうなるか。

斉藤:うん、もうちょっとね。だから一緒にやる奴も募りたくもあるが、今のところこう直接声かける範囲がね、限られてるのがね。

立岩:でもまあ、

斉藤:こういうのってやっぱりね、興味がないとまたおっぱじめてもつまんないだろうし、そこらへんは良し悪しで。もりさんがずっとアフリカ、途上国の障害者のニュースをね、ジャイカのプロジェクトの一環で、メールで流してたのを今ツイッターで流してる。で、ツイッターのほうが追っかけづらいんだね、やっぱり。けっこうまめに見てないとね。メールだとなんだかんだ言っても累積、フォルダー分けしときゃ積もるって感じで。だから、そっちのほうが今ちょっとある時期から止まってる。AJFの会員でそれをファイル化するっていうのやってた人がけっこう本人も忙しくなったり、やる気はあるみたいだけどそのまんま止まっちゃってるんで、こういうのも投げる相手がねいればいいなと。で、追っかけるとやっぱりいろいろ出てくると思うんだよね。さっきのグアドループ関係の報告なんていうのは、たぶん日本で誰もまとめてないわけだし。

立岩:ほんとに今僕が20年やってるやつは、ものによってはもう何年か分もうすきすきっていうかすかすかっていうか、それもあんだけど、それでもまあないよりいいかなっていうのもあるし、なんか僕は到底もうやれないから誰か続きをやってくれるっていうのもあるし。あとね、今、ちょっといいのはずっとバイトでやってくれてる、その人は別に関心があってやってるわけではなくて技術的に熟練、そういう人がぼつぼつ出てきてるんで、

斉藤:そうね、そこも累積の力だな。[00:40:00]

立岩:昔は俺、朝起きるとホームページやってたんで、何時間かかけて。それはちょっともうそういう生活できないから、それはアルバイトで熟練した人にやってもらってって思ってます。
 あと僕はどうやって帰ればいいんだ?

斉藤:そこさっき出たとこ。

立岩:そこ出るんだっけ。

斉藤:そうそう。前を、その道路突き当たったら4号線だし。

立岩:突き当たって4号線になったらどこ、どうですか?

斉藤:左へ行って、そうすっとさっきの銀行とか、多慶屋(たけや)っていうか交差点がある。で、右見ると駅が見える。

立岩:こう行ってこう行ってこのへんにあるってこと?

斉藤:そうそうそう。まあこう行ってこうでもいいし、こう行ってこうでも。とにかくその、

立岩:おんなじね、あっちね。どうもどうも、ありがとうございました。はーい、また。

斉藤:はいはい、お疲れ様、じゃあまた。

立岩:どうもどうも。[音声終了]


UP:20191216 REV:20220919
斉藤 龍一郎  ◇東大闘争  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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