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小林敏昭氏インタビュー

20191029 聞き手:末岡 尚文 於:りぼん社 144分

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last update:20211026


小林 敏昭 

■インタビュー


※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

[音声開始]

末岡:あ、これ、

小林:うん、これ知ってますか? たぶん立命館で、

末岡:はい、コピーを見させてもらって、

小林:これ差し上げようと思って。

末岡:あ、よろしいんですか? 貴重な、

小林:いやいや、いいです。これも見てるよね?

末岡:はい。0(ゼロ)号、特集で書いてるやつですよね。

小林:これ非常に、残り部数がほとんどなくて貴重なんですけど、せっかく来てくれたから。持ってないでしょ?

末岡:持ってないです。よろしいですか? コピーさえ取らせてもらえれば、

小林:いやいや、まあせっかく来られたから、記念に持ってってください。

末岡:ああ、じゃあ大切に保管させていただきます。  そうですね、『そよ風のように』は44号より後ろのほうは東京の国会図書館にあるんですけど、前半部がどこにもなくて。大阪のほうの図書館にはいくつか入ってるところがあるとは思うんですけど。

小林:大阪もあまり入ってないんですよね。

末岡:そうですか。大阪はなんか、

小林:立岩さんは持ってなかったですか?

末岡:あ、もう立岩先生は全部、なんか0号からきっちり持ってるんで、それまあちょっと今日はコピーさせてもらう時間なかったんですけど、今度時間あるときにでもまた行こうと思って。じゃあ、ありがとうございます。

小林:はい。もともと私のことを知ったのは何をきっかけで、あれですかね? 僕のことは。

末岡:いや、実は恥ずかしながら、あまり存じ上げてなくて。

小林:そうでしょ。***(00:01:10)知らないと思うんだよ。

末岡:立岩先生から紹介していただいて。「青い芝の会の論文を書いているかたでもあって、で、梅谷さんのところに今でも通ってる人がいるよ」っていう。それで、すみません、なんかほんとに全然何もわかってなくて。

小林:いやいや。そういう立場なので、よくわかったなあと思って。そうですか。じゃあ立岩さんなんかとはずっと交流が?

末岡:いや、先日障害学会が京都…、立命館大学で、あれが先月末だっけ? あったんですけど。そのときに初めて行って、急に何のアポもなしに「東大で教育学部で障害児教育の歴史やってる末岡というものです」っていうふうにいきなり挨拶したら、あれこれ教えていただいて。ほんとになんか全然、この前会ったばっかりなのに、すごいなんかたくさんお世話になってる。

小林:なるほど、はいはい。わかりました。じゃあ、どんどん質問するんですかね?

末岡:はい。そうですね、まずはでも、小林さまご自身のことからちょっと。当時の自分とか、当時の学生が置かれていた社会的状況とか、そういうとこからお話ししてもらったほうがお話ししやすいのかなと。

小林:ああ、そうですね。僕は島根の生まれなんですよね。高校が松江北高校っていうところで。で、1970年に阪大の法学部に入ったんですけどね。当時はだから70年代、70年ってのは安保闘争の年でもあって、まあ60年安保ほどではないけれども、学生運動の中でもね、そういう比較的まだ運動が継続していた時期なんですよね。僕は大学入って寮に入るんですけどね。最初に、左翼政党とつながりのある学生が自治会を握っていた寮に入ったんですね。で、まあ一緒に学習会を寮内でやったり、法律の勉強ね、学習会をやったり、あと街頭でデモをやったりとかね、そういうことがきっかけになって、私もまあそんなバリバリやるような活動家タイプじゃないんだけれど、端っこのほうでそういう学生運動に関わってね。ただもちろんノンセクトでね、セクトとは関わりを持たずに、まあ個人で参加をするみたいなかたちでね、最初はあったんですけれども。  それからだんだんその、民青の人たちの考え方とかやり方ってのが、うーん、やや不満があったというかね、けっこう統制的なんですよね。上意下達的というのか、あまり個々の学生の自由な雰囲気っていうのは感じられなくって。で、まあ考え方にしても、やはりまあ旧来の、何て言うかな、左翼運動の上にあるような感じがしたので、まあ少し不満がある中で、だからノンセクトで活動するようになったと。まあそういう時代風景、背景っていうかな、そういうのがあったんですよね。  ただ当時、だから70年がそれで、あさま山荘が72年かな。あさま山荘事件。連合赤軍事件とかね、あさま山荘事件。[00:05:21]

末岡:歴史的にしか知りませんけど、

小林:72年だったですよね。それを報道で知って。集団リンチで何人も亡くなっているということがわかって、かなり大きなショックを受けて。それまでもいわゆる学生運動っていうのが、まあかなり、何て言うかな、普通の人たちからかなり浮いている活動っていうのかな、生活、一人ひとりの生活と密接につながらないところでね、主義主張だけがこう前のめりになっていくみたいな、そういうところには疑問があったんだけど。うん。それが、その事件のことがきっかけで、もう「これはもう学生運動には将来がない」っていうかな。まあもともと中心的にやってるわけじゃなくて、どちらかと言うと文学青年だったんでね。大学入って、非常に孤独な時期は昼夜逆転して、ほとんど本ばっかり、小説ばっかり読んでいるようなね、そういう時期もあったので。で、まあそれ、もともとそういう政治的にはそれほど活発な活動はしてなかったんだけど、まあ一種の、何て言うかな、自分の支えとしての学生運動みたいなものに見切りをつけた、みたいなとこあったんですよね。

末岡:それは何か、当時の仲間というか、たとえば寮の中で一緒に仲良くやってた人とかからは、どういう反応?

小林:寮はね、半年で出るんですよ。

末岡:最初だけなんですね?

小林:うん。だからその、寮の自治会の人たちのやり方がね、「これはいかん」ということで出て、もう一人暮らしを始める。

末岡:早めに、もう70年の半年で。

小林:そうそう。で、下宿生活始めるんですけど、今言ったような昼夜逆転もあったりして、大学へなかなか行けない時期もあったりして。ここに書いてるけど、8年間いて、中退というようなかたちになるんだけどね。その最初のつまづきがその昼夜逆転ですよね。で、まあ方向性がなかなか見えない中で、いろいろアルバイトしたりしながら学生生活を送るんですけどね。ほとんどもう大学にはいかない時期があったんですね。

末岡:そういうのがあって、72年に決定的な事件っていうか。

小林:そうですね。それが僕には一番影響大きくて。まあ内ゲバなんかもずっとあったしね。だから、まあかなり距離を置いて見てたんだけれど、それ決定的なあれになったのかな、きっかけになったのかと思う。  ほんでまあそうした中で、かなり「これからどうやって生きていこうか」ってことで悩んでいる時期に青い芝の会と出会うんですよね。

末岡:ちょうどこれと前後するくらい?

小林:ええ、73年ぐらいかな。

末岡:73年の1月にグループ・ゴリラができて、4月に大阪青い芝、ってなったと、

小林:はいはい。だからその前なんですよね。青い芝の会ができる前は、自立障害者集団グループ・リボンってのがあって。

末岡:あ、リボンですね。

小林:リボンね。当時なんかラジオの番組で「リボンとゴリラ」か「ゴリラとリボン」とかいうのがなんかあったらしくて、それちょっと僕は確認できないんですけど。で、そのグループ・リボンの介護者っていうか、健全者部分、組織っていうのがゴリラになったっていうことですね。それ73年の1月ですか?

末岡:ゴリラができたのが1月で、リボンができたのが…、ちょっと、ああ、メモってないですね。すいません。

小林:いやいやいや。ほぼ同時にできてるはずですよね。

末岡:72年の終わりとかそのくらいですかね。

小林:その直後から関わってるんですよね。

末岡:青い芝の会としてはすごい最初期から?

小林:そうですね。ただ、グループ・ゴリラがもうすでにできていて、その中心部分ってのは高校を出た人たち。出て、まあ就職した人とか、高校生のときにこの『さようならCP』の上映運動と出会って、卒業するとすぐに専従者になるとかね、そういう人たちとか、高校で反戦活動やってた人たち、そういう人たちがグループ・ゴリラを最初に作るんですよ。で、その人たちの活動がまあ一気にこう、結成されて加速していく途中で僕なんかは入っていくわけですね。僕の友人も一人一緒に入るんだけど、その当初からのメンバー、高校生から関わりを持っていたメンバーからは、僕らはまあどっちかと言うと「学生運動くずれ」みたいに見られていたんですね。[00:10:20]

末岡:大学で、さっきのそういうあさま山荘事件、

小林:うん。で、僕らのように頭というか理屈から入っていく部分と最初からのメンバーとは若干ずれがあったんですよね。中心と、まあそうではない、みたいな。そこらへんでまあいろんな批判もあったし、まああの、何かな、一定の溝みたいなものもあったんですけど、それはまあ徐々に解消されていくんですけどね。最初は「どうせ大学を卒業したら来なくなるだろう」みたいな見方をされてた。「学生ども」みたいなね。ところが一番最後まで残ったのが僕だった(笑)。僕とかまあ他にもいるんですけど、学生の人たちが残って。まあそういうかたちで。うん。  何で出会ったかというと、えーとね、大阪市立盲学校っていうのがこの近くにある。今はもう名称変わってますけどね、特別支援学校にね。大阪市立盲学校っていうのが大阪の東淀川区内にあって、そこにバイトで、警備員のバイトで行ってたんですよ。警備員といっても夜泊まる、夜間の警備員ですね。警備ってほとんどしなくて、門を閉めたらあとは何をしててもいいと。夜は別に見回りをね、まあ一回ぐらいすればいい。で、朝は誰よりも早く門を開けると。それぐらいで、楽な警備員のバイトだったんですけど、けっこうお盆とか正月ってのは人がいなくて、僕らみたいな学生は重宝されてて。で、けっこうバイト料も高かったんだよね。どれぐらいかな。当時のお金で7、8千円かな。ちょっと覚えてないんだけど。  だからそこでバイトをしてたんだけど、一緒にそのバイトをやってた友人が「盲学校ってのは視覚障害の人たちばかりが集まって勉強してる。何かおかしいんじゃないか?」と、「これは隔離じゃないんかな」というような疑問を彼が持って、「一度そういう問題をやってるところへ行ってみないか? …みようか」ってな話を彼がしてくれたんですね。で、大阪ボランティア協会って、これは今もあるんですけど、まあそこに彼が行って、そういう障害者の問題、差別のことも含めてね、やってるようなところを紹介してくれないかっていうことで、で、グループ・ゴリラを紹介されたんですよね。それがきっかけなんですね。

末岡:そのご友人のかたっていうのは、大阪大学の一緒のかた?

小林:そうそう、学部は違うんだけどね、同期の。まああまり名前は出さないほうがいいと思うけど。

末岡:で、ゴリラに入ったんですね?

小林:そうですね、最初ゴリラに入って。うーん、あ、グループ・リボンが後になってるな、結成が。5月になってるね。

末岡:これはでも、なんか連合会が結成とかで。なんか姫路と…、別々の団体がくっついた。

小林:ああ、そうかそうか。そうでしょうね。たぶん同時結成だったと思うんだよね。

末岡:リボンも同時結成。じゃあこの『さようならCP』の上映運動とかやってたときには、まだ小林さんは関わってない?

小林:まだ関わってないですね。それを中心的にやったのが、Kですね。

末岡:Kさんとはいつ頃からお知り合いに?

小林:だから僕入ったらすぐ。

末岡:ここから? ここで?

小林:そうですね。

末岡:だから、このゴリラに入ったら、

小林:ゴリラに関わったら、すぐ。彼がまあほとんど中心的な存在でしたからね、すぐ会いましたけどね。

末岡:じゃあもう、そこからはずっとKさんと一緒に活動されて、リボン社とかまあそういう、[00:14:53]

小林:そうですね。一緒にというか、まあ彼は重鎮ですからね、会の中心。で、その取り巻き。取り巻きって言ったらまた言葉悪いな。健全者部分ですね。健全者部分としてはグループ・ゴリラのたたき上げ部分っていうのがまあ、まあそのあとに僕ら入ったもんだから、一緒にって言ってももちろん、最初はまあいろんな、とにかく「現場で介護活動をする」というのが中心だったけどね。  それまではだから、「世の中ってのは資本家と労働者でできてる」ってばっかり思ったのが、「そうじゃない」と。「世の中っていうのは障害者と健全者でできてるんだ」っていうふうなことを言われてね、最初はちんぷんかんぷんだったんだけど、まあそういう中でいろいろ障害者の人たちと話をしていくと、やはりみんな相当ひどい生活を強いられてるっていうかね、生い立ちをもってるわけですよね。で、在宅障害者訪問活動っていうのがあって、在訪活動。だから介護とその在宅障害者訪問というのがほぼ二本立てだったかな、まあそのゴリラにとってはね。

末岡:なんか本で読んだことは…。なんかあちこち訪ねて回ったけど、「いや、うちにはそんな子いません」みたいに追い返されたとかって、なんかで聞いたことがあります。そうやって世間から隠されていたんですよね。

小林:当時はだから、施設か、在宅か、殺されるかっていうね、まあそういう厳しい時代で。特に重度の障害者はね。まあ脳性麻痺ですから、全身性の障害の場合はね、言語障害もきついし、そういう人たちの場合はやっぱりそういう生活を強いられていたので。それをやっぱり在宅訪問とか青い芝の人たちから、まあ教えられていくっていうかね、住んでいるところを知っていくわけですよね。  当時、だから「自己否定」っていう言葉が学生運動の中でもね、つまり自分たちのエリート主義を対象化をして、それを克服していかなきゃいけないっていうね、自分たちが受けてきた教育、自分の中に入りこんでいる価値観っていうのを見つめ直して、それを否定して乗り越えていくっていうね、そういうのが流行ってたわけですけどね、学生運動の中で。

末岡:まあ大阪大学もそうだし、東大でもまあ、やっぱりエリートって呼ばれる人は結局…、なんだけど、そういう自分、

小林:だからそれが結局、学生運動の中では僕はそれがきちんとできてるとは思わなかったんですよ。やっぱり「大衆とは違う」っていうね、やっぱり前衛、大衆をひっぱっていくような思想、堅固な理論武装をした人たちみたいなね、そういう臭いがぷんぷんしてきてたわけなんだけど、障害者と出会ったときに、その自己否定ってことの意味をさ、改めて問われるわけですよね。いわゆる健全者としてこれまで生きてきた中でね、そのこと自体がやっぱり障害者をはじきとばしているんだね。そのうえで、そういう自分の教育をやったり生活があったりしたんだ、っていうことをやっぱり気づいていくわけですよね。で、これはやっぱりすごく説得力があった。学生運動など足もとにもおよばないぐらい。つまり生活まるごとが、そのことを彼らが訴えてるわけだから、存在全体としてね。だから言葉はそんなに達者じゃないし、僕らよりボキャブラリーもはるかに少ないし、で、学校教育もほとんど受けてない人もいるからね。公教育を免除されてる人もいるわけだから、小学校すら行ってない人もいるわけだよね。そういう人たちがしゃべる数少ない言葉の中でね、やっぱり告発というのがやっぱり非常に大きな影響を、僕なんかは影響を受けたわけですよね。  で、まあ一番の友だちが、その青い芝の会の中ではMっていうんですけど。知ってます?

末岡:名前だけは。[00:19:38]

小林:彼は完全寝たきりで、まあずっと在宅生活を送ってたんだけど、そこに在宅訪問で出会って行くわけなんですよね。彼は、だから就学免除でまったく学校に行ってないんだけれど、言葉をよく知ってるし、漢字も読めるし。で、友だちと文通してたんだよね。どうやって文通してたのかな? 親が代筆してたのかな? ちょっとわからないけど、文通して友だちもいるし。で、何で文字を覚えたのかというと、大相撲中継ね、NHKの(笑)。あれで漢字とかを覚えたっていう。で、まあずーっと家にいて、そうやってテレビがね、友だちだったっていうことなんだけど。でもね、非常に、何て言うのかな、人間の、相手の気持ちを理解することであるとかね、まあ思いやりとかそういうことがけっこう彼の中にはきちんとあってね。「全然学校に行かなくて、こんだけの人いるんやな」というのも、まあ感動したわけですよね。まあそういう出会いがいくつかあって、自分が変えられていくという経験をする。  だから在宅訪問、さっきおっしゃったけど、最初行っても「うちにそんな子はいない」って言われるし、二度目三度目行くとやっと玄関から入れてくれるけど、本人には会わせないとかね。で、やっと会わせてくれても、外に一緒に出ることは絶対に許さないとかね、まあそういういくつも壁があるんだけど。その青い芝の人の養護学校時代の友人とか、そのまた友人とかいうふうに、つてをたどって訪問活動するんだけどね。まあなかなかうまくいかない中で、まあなんとか一緒に外に出ることができたらもう、その障害者自身も激変するわけですよ。

末岡:本人が?

小林:本人が。だからそれを目の当たりに僕らも見るわけなんだけど。まあそれが目的で、「そよ風のように街に出よう」っていうスローガンで一緒に外に出るわけですけどね。まあいろんな、それまで自分が押さえ込んでいた欲望とか、まあ欲望が…、そういう意識があったらいいんだけど、まずその欲望そのものがない。ないというか見えない。自分で気がつかない。だから親はそういう欲望を持たせないために、もう何十年も家の中に閉じ込めたりね、いろんな刺激物から本人を遠ざけたりしてきたところに、僕らのような若い、いわば欲望のかたまりのような人間が外の風を持ってくるわけだよね。で、なかなか会わさないっていうのは結局そういうことですよね。親はそれを恐れていたと。自分の子どもが健常児と同じような欲望を、健常者と同じような欲望を持ったら大変なことになると、それはやっぱり感じるわけですよね。だから、そのことが怖くてやっぱり親は抵抗したのかなというふうに、あとで気がつくんですけどね。

末岡:それはいわばただ、いわゆる自立生活運動ともすごい結びついていることだと思うんですけど。実際にそうやって連れ出して、連れ出したあと家に帰さないというか? 帰さないという言い方はちょっとあれなんですけど。

小林:(笑) 家に帰さないってことはないです。

末岡:すいません。今のはちょっと言葉がおかしかったです。

小林:一緒にどっか遊びに行ったりして、また帰ってくる。それを何度か繰り返しているうちに、まあ青い芝の会の運動がだんだん広がっていって、その会議に参加をしたり、いろんな学習会をしたりっていう積み重ねがあると思うんですよね。まあその中でどんどん変わっていくし。まあ彼ら彼女らにしてみたら、それまではもうまったく自分の知らなかった世界がね、あって、で、自分たちのやり方次第によっては自分もそこに参加できるということに気がつくわけですよね。それをやっぱり拒んでいるのは、やっぱり今の社会のあり方やっていうことで、青い芝運動の中心メンバーにだんだんなってくわけですね、そういう人たちが。

末岡:それはその、社会に出るっていうことについては大変イメージしやすいんですけど、学校への就学を求める運動ってのにはどう結びつくんですか? 青い芝の会って全国にあるけど、特に関西は就学運動が早期から強かった、みたいなのを何かで読んだことがあるんですけど。[00:24:50]

小林:ああ。関西ではですね、何て言うのかな、全障研ね、全障研、共産党系の組織ありますよね。まあ全障研は全面発達論ですから、

末岡:養護学校、

小林:特別なそうした教育ですね、それを中心に全面発達を保障するという。で、それに対してはやっぱり政党間の対立、いわゆる社会党系ね、社会党系と対立していく中で、大阪っていうのはそういう社会党系の教職員組合がけっこう強かったんですよね。15教組っていうふうな言い方をしてたけど、大阪府下にいくつあったのかな。25ぐらいあるのかな、自治体が。ちょっとはっきりした数字はわからないけれど、当時ね。

末岡:15教組ってたぶん聞いたことがある。

小林:そうそう、その15教組が社会党系の人たちが握っていて、共産党とのやっぱり対抗軸みたいなかたちで「地域校区の学校で」っていう保障をね、活動をやって。

末岡:豊中とかが有名なやつですよね。

小林:そうですね、豊教組とかね、北摂がまあけっこう中心になってたけど。それがだから就学運動で全国的にも大阪が知られる背景だったと思うんですよね。

末岡:じゃあ青い芝としては、そういう15教組とかとなんか交流があったんですか?

小林:うん。最初からあったわけではなくて、最初はやっぱり大人の障害者の自立運動。「生活」っていうのはあとで入ってくるんだけどね。自立生活運動ってのはやっぱりあれですよね、国障年以降アメリカから入ってくるCIL(シーアイエル)運動を自立生活運動っていうんだけど、僕らは当時「生活」とは入れてなくて、「自立運動」みたいなかたちで言ってたんだけどね。

末岡:別物。

小林:うんうん。で、それが中心だったので。で、ただそうやって、さっき言ったMさんのケースのように就学か…、公教育からも閉め出されていた大人の障害者たちが教育権を求めてね、青い芝の会として就学闘争をするみたいなのはあったんです。それいくつかあったんです。

末岡:じゃあ最初は成人障害者の就学。

小林:そうですそうです。そういうのは、ただそんなに何人もいたわけじゃなくて、1人2人ぐらいかな。そういう青い芝の就学運動があったのはあったんですね。  ただそうやってまあ活動が広がるにつれて、やっぱり教育の問題もね、きちんと考えていかないと。障害者に対する差別っていうのは非常に重いので、それに少しでも風穴をあけていくためには、やっぱり子どもの頃からね、共に学んでいくっていうそういうシステムが必要だってことで、そういう15教組の人たちと一緒に活動をするっていうかな、集会を開いたり学習会を開いたりすると。  で、全障連が1976年かな。それあたりからやっぱりきちんとした障害者運動の一つの柱としてね、「地域校区の学校で」っていうのをまあスローガンとして出していくわけですけどね。

末岡:なるほど。じゃあ今回お話聞きたい梅谷さんのも、そういう流れの中の一つだったということで。

小林:そうですね。まあその歴史については、たぶん僕よりしっかり頭の中に入ってると思うんですけど。全障連の結成大会のときに、お父さん参加したんだよね?

末岡:ああ、はい、そう書いてた。***【人々のただ中に】(00:29:04)。

小林:分科会の中で、お父さんが自分たちの生活が今どんな状況かっていうことを語るわけですね。みんな唖然としてそれを聞くんですけど。それまではどちらかと言うと、障害者運動っていうのはやっぱり身体障害の人たちを中心として、青い芝なんか脳性麻痺ってことだけど、重複の人たちってのはほとんど入ってないですからね。身体だけの脳性麻痺の人たち。そういう人たちが中心となって、運動を展開するというかたちで来てますから、

末岡:大きい衝撃。[00:30:00]

小林:うん、大きい衝撃ですね。で、「もう生活そのものがもう破綻する寸前である」ということを彼はね、切実に訴えて、「なんとか手を貸してほしい」っていうことで訴えるわけですよね。  で、まあ僕らもそれを、初めてそういう状況を知って、「何ができるか?」っていうときに、もう介護ぐらいしかないわけですよ。家に行って尚司くんと一緒に過ごして、彼が飛び出したら一緒について回る、走り回るとかね、「そういうことをまずやるしかない」ということで、交代で、グループ・ゴリラの中で。当時は奈良にも青い芝の会もあるし、グループ・ゴリラもあったので、奈良の人たちが中心だけど。ただ、まだメンバー、ゴリラのメンバーも少ないし。だからまあ関西レベルでそういう介護体制を組んで。一番大阪が多かったので、僕ら、僕とか、それから当時関西グループ、グループ・ゴリラの関西連合会の代表、会長をやってたHっていうのがいるんだけど、彼なんかが、

末岡:Hさん。存じ上げないですけど。

小林:どっかに出てるかな。彼は最近運動の現場から遠ざかってるんで、あまり出ないですけど。まあそういう人たちで介護体制を組んでいくわけですよね。  奈良の富雄団地っていうところに行って、部屋の中に入ってったら、もうびっくりするっていうか。ドアを開けたらね。ふすまは破れ(笑)、いろんな電気製品は壊れ、うーん、まあ大変な状況があったわけですね。

末岡:それはやっぱり小林さんとしても、いわゆる知的な障害をもった人と会うっていうのは、やっぱり初めてですか?

小林:初めてですよね。うん、初めてですね。

末岡:それで会って、介助体制を作って、最初からずっと携わり続けてたっていう。どうなんですか? 尚司さんについてもうちょっと詳しく、なんか印象とか、「これからどういう関係を作っていくべきか?」とか何か考えたこととか。

小林:だからね、そういう先があんまり読めなかったというか、正直なところね。「まずとにかくこの状況を何とかせないかん」と。つまり家族だけに彼の、尚司くんの問題をね、背負わすっていうのはもう限界にあるってのはもう見えてるから、自分たちでできることっていうことを考えて、もうとにかく介護に入ると。で、少しでも親のそういうね、厳しい状況を緩和するっていうのか、手助けするっていうのかね、それぐらいしか見えてなかったんですね。ただ、その中でやっぱり二人の親、両親の離婚とか、まあよく知ってると思いますけど、そういうこともあったりして。尚司くんの母親ね、明子さんの思いっていうのはものすごく強いわけです。それは息子に対する愛情もすごく強いし。で、やっぱり息子を、えーと、施設に一時入れるんです、松籟荘っていう名前だったかな? 入れて、面会に行ったら、その面会室にふらふらの状態で彼が登場するみたいなことがあってね。これはもう相当の量の薬を飲まされてる。で、職員からもやはり「監禁状態にすることもある」っていうようなことを聞かされる。そういう中で、「これは施設も病院も置いてはおけない」という思い、ものすごく強い思いがあって。で、お父さんの思いと若干やっぱりずれていくわけですよね。そうした中でやっぱり離婚があって。

末岡:やっぱそれで、最初っからじゃあ「施設も養護学校もだめだ」ってことに気づいて、だから「普通学校に何とか入れよう」みたいな話になったっていうことなんですかね?

小林:そうですね。で、彼女は自分の息子の、尚司くんの友だちがまったくいないと。で、僕らはもうね、20代の大人であるし、そういう人たちばっかりがまああそこへ出入りするわけですね。

末岡:大人との、[00:34:50]

小林:うん、関わり。で、同世代の友だちがまったくいないというのはね、やっぱり尚司くん本人にとっても非常に、何て言うか、よくない状況だってことを気がついていって、「何とか普通学校に入れたい」と。団地の子どもがね、通っている学校へ行かせたい、という思いがすごく強かったんですよね。で、僕らも最初は「そんなことが可能なのか?」っていうね、思いもあったけれども、やっぱりそのお母さんと尚司くんの気持ちを大事にしようということで、まあ就学闘争が始まっていくんですね。始まったのは何年ぐらいかな? 考える会が77年。

末岡:5月とかいって。すいません、なんか読んだ限り、きっちりとは書いてないですけど、このへんから仲間ができたみたいなのがこの10月、前の年からの10月からまあこのへんっていうことで、このへんからたぶん開始したんだろうなっていうのはわかるんですけど、詳しくはなんか書いてなかった。

小林:そうですよね、僕も(笑)。そのへんでしょうね、たぶん。これもあれだったかな、年表が。あ、それにも入ってたかな。  1976年の5月に障解研ができるんですね。奈良県「障害者(児)」解放研究会ね。この前あたりからでしょうね。

末岡:障解研っていうのは、青い芝とかゴリラとかとは別の団体?

小林:そうですね。もちろん入ってるんだけど。奈良の青い芝の会とかゴリラってのはここに入ってたと思います。ただ奈良ってのは部落解放同盟のね、発祥の地でもあるんですよ。水平社宣言とか出した人たちも奈良の出身だしね、部落解放運動ってのはけっこう盛んなんです。他の運動ってのはあんまり強くなかったんだけど。だからその解放同盟の人たちもここに入っている。で、同和教育もけっこう盛んだから、教師たちもここに入っていくみたいなね、そういうかたちでその障解研ってのは、うん。だから大阪、関西の運動ってのは、やっぱり解放運動、部落解放運動っていうのが影響がけっこう大きいんですよね。だから差別っていうことについてもやっぱり敏感な人たちがけっこういたわけでね、そういう人たちがやっぱり初期の障害者運動、障害者解放運動にはかなり積極的に参加してくっていう、いたなあということですよね。

末岡:恥ずかしながら部落っていうか、そういう部落差別の問題についてあんまり詳しくは当たれてないんですけど。やっぱりでも運動としては互いに密接にくっついていた?

小林:そうですね。被差別共闘会議っていうものを作ったりして。部落の…、部落はまあ解放同盟が中心だけど、あと在日のね、障害者、あるいは在日の朝鮮人の人たちね、とか、女性、当時のウーマンリブの人たちとか、まあ障害者運動。そういう被差別共闘みたいなのも関西では【できてた】(00:39:00)とかね、まあそういう下地はあったわけですね。部落解放運動の影響をとにかく大きく受けてますよね。

末岡:小林さんなんかは、実際に学校に対して「尚司くんを富雄中学に入れろ」っていうふうに言ったときに、実際にそうやってその交渉というか言いに行くときっていうのも、そういうかたとか小林さんとかも一緒に行ってたんですか?

小林:僕も行ってましたけど、それほど記憶がないんでね、交渉に行ってどういう話をしたか?って。だからそんなに僕は、回数はたくさん行ってないと思いますね。やっぱり地元の人たちが中心で、市教委とか県教委と交渉を重ねていくみたいなね。ハンストもやったりしたもんね。ハンストだったかな? 市役所の前でお母さんがね、座り込みをやって。ハンストではないな。座り込み闘争とかやったり。そういうときは支援で行くんですけどね。

末岡:さっきの被差別共闘会議ってのは関西連合レベル?

小林:そうですね、関西レベルですね。

末岡:…のまあそういう団体と、奈良ってのはやっぱりもっと地元のというかもっと近い立場からやってた人の、2種類があった? [00:39:58]

小林:そうですね。奈良の地元はこの、障解研という。これ障害者解放っていうのはまあ旗印ですけどね。被差別共闘っていうのは、まあいろんな被差別者が共通の問題としてね、差別の問題と闘う。だからちょっとレベルが違うんですけどね。

末岡:小林さんとしてはやっぱりその、一応最初は青い芝とかゴリラとかから入ったけど、部落の問題とかさっきの在日の問題とか、そういったところにも運動の幅をご自身では広げていったんでしょうか?

小林:そうですね、だから在日の場合はね、まあこれもやっぱり関西中心ですよね、一番数が多いから。大阪の生野にはそういうね、タウン、コリアンタウンがあるし、在日の人たちの運動の歴史も長い。で、当然そこには障害者も生まれる。だから、イムジンガンの会やったかなあ? ちょっと名称は、ちょっともう思い出せない。つまり在日朝鮮人の障害者の部会。青い芝の中にね、そういうグループもできたりしたんで、必然的に在日の問題も、青い芝運動の中でも明確化されていくというかね、認識されていくんですよね。だからあの、そしてまあ部落の運動なんかは僕は直接一緒にやった経験はないけれども、そうやって被差別共闘とかの中でね、教えられていくみたいなね、ことがあって。うん。  で、さっき15教組の、障害者の「地域校区で」っていう取り組みも、やっぱり部落解放同盟の影響はやっぱり受けていたはずなんですよね。学校の中でも、やっぱり部落出身の子どもたちとそうでない子どもたちが分けられたりね。で、必然的にこう、何て言うのかな、やっぱり貧しい子どもたちと部落の子どもたちが重なっていくみたいなね、学校の中でね。そういう意味での部落問題っていうのがやっぱりその前からずっと取り組まれてたから、まあそういう影響も受けてると思います。

末岡:そっちのほうが歴史古い、

小林:うん、古いですね。

末岡:では、すみません、もうちょっと就学闘争を始めて以降のことについてお聞きしたいんですけど。それはやっぱり介護…、介助? 介護する毎日の中の一部としてそういう、市教組に行った? 学校に行った?

小林:えーとね、奈良市の教育委員会ですね、主にね。市教委の人たちとわれわれとが対峙するみたいなね、そういうことはあったんですけど。

末岡:そういうとき、やっぱり矢面というか中心になったのは、お母さまの明子さま?

小林:そうですね。明子さんと、この障解研の人が主(しゅ)ですね。

末岡:どうなんですかね、何かそういうときって尚司さんご本人は一緒に行ったんですか? それとも家で待機とかだったんですか?

小林:交渉の席に同席してたかどうかは覚えてませんね。さっき言った座り込みとかね、街頭でのいろんな行動、情宣活動とか、そういうときにはもちろん参加してましたけどね。

末岡:なるほど。それはどうなんですか、やっぱり「自分の子どもを入れたい」ってのと、尚司さんご自身が「自分が行きたい」っていうのとでは大きな違いがあるのではないかと思うんですけど。やっぱり最初はでも、お母さまの意思が強かったけど、徐々に本人もなんか「自分も行きたいし、みんなも行きたいって言うから一緒になって」みたいな感じなんですかね?

小林:だからはっきりと言葉としては言わないよね。言わないけれど、えーと、いくつかその、まあ就学が認められる前に体験的に学校行ったりしてますよね。そういうときは周りの子どもたちとも楽しそうにしているとか、そういう積み重ねはあったと思うんですよね。

末岡:じゃあ、学校ってのがいいとこだってのは知ってたんですね。

小林:だんだんこうね、同年代の子どもたちとそうやって付き合う中で、まあ彼自身が喜びみたいなのを知っていくみたいなね、ことがあったと思います。ただ、まあこれは僕の主観的な見方ですけど、やっぱりお母さんの思いが僕はそういう状況を作ったと思うし、あれが彼女でなければやっぱり施設とか病院にね、入れる方向を取ったんじゃないかなとは思うんですけどね。[00:45:20]

末岡:だって、これ聞いていいのかわからないですけど、明子さん自身はそんな、尚司さんが生まれるまでは、別にそういう差別の問題とかに積極的に関わってたかたってわけでもなかった?

小林:ではないですよね。

末岡:やはり、自分の息子が尚司さんだった、で、さっきのように施設に入れたらすごいことが起きてしまった、みたいな体験を自分の中で引き取る中で、そういう何かパワフルさというか、エネルギーが生まれていった?

小林:そうですね。それと青い芝の会との出会いも、けっこう彼女にとっては大きかったのかな。

末岡:影響を与えていった。

小林:うん。「『親は敵だ』と言われて相当なショックを受けた」ってことは今でも言いますからね。やっぱりそのときハッとさせられて、やっぱり施設へ放り込むのも、子どもの首を絞めるのもね、やっぱり親だと。「そういう親には自分はもうなりたくないんだ」という思いもけっこう強かったと思いますね。

末岡:逆にその、まあ明子さんとか尚司さんと接する中で、青い芝のほうでも影響を受けてたこととか、あるいは小林さんご本人の中で、尚司さんと付き合い始めてから何か大きな影響を受けたとか、そういうことって何か? あまり言語化はしにくいものなんでしょうけど。

小林:まあ先ほども言いましたけど、運動の中にある能力主義とかね、障害者の中にある差別。身体障害者の人たちはやっぱり知的障害者の人たち、特に尚司くんのような重度のね、まあ今は自閉症というか、当時は多動性情緒障害児というものものしい呼び方をされてたけど、そういう人たちに対する差別は現にあったんじゃないかと思いますね。

末岡:それは、「現に」っていうのは?

小林:現にっていうのは、だから「自分たちは自分でものを考えて…」。だから自立生活っていうのは、自分でお金を稼いで自立するっていうのが自立生活じゃないと。その生活を自分でコントロールする、自己決定する、それが自立生活だという言い方をしますよね。一生懸命差別と闘って、で、いろんな人たちにその問題を訴えて、人を集め。当時は介護制度ってのはほとんどないから、介護者はボランティアか、僕らのような専従者、グループ・ゴリラの中の専従者。だからそういう人たちを、ボランティアの人たちを集めるっていうのはものすごい大事な、大変なことなんですよ。エネルギーがないとできないし。で、障害者の中でもそうやって自立を始めるでしょ、何人か。そういう力のある障害者のところには介護者が集まるわけですよ。で、そういう力の弱い人にはなかなか介護者が集まらない、みたいなね、そういうことが現に起きたわけですよね。ですから青い芝の運動ってのは、当時の状況が厳しかったということもあるけど、まあ知的障害とか精神障害の人たちが運動の核にはなりにくい、当時はね。今は違うと思いますけど。

末岡:まあ今はピープルファーストとかがだいぶ有名にはなって、やっぱり知的障害であっても、「であっても」って言い方はおかしいですけど、「どんな人間でも決定することはできるっていうのが前提で、やっぱり運動をしていかなきゃいけない」みたいな。

小林:もちろんじっくり丁寧に本人の意思を確かめることは大事だし、いい加減なところで分かったつもりになるのはいけないけど、ただ、現に自己主張しにくい人はいるわけだよね。だから現にしにくい人の中でも、尚司くんなどは非常に厳しいと思うんです。やっぱり「どっか行きたい」っていう思いが止められないから、すぐ飛び出しちゃうとかね。当時のシーンで、お母さんの車のボンネットの上でぴょんぴょん彼が跳びはねてるっていうのが、非常に断片的な記憶やけど、そういうシーンもあったんですね。で、家の中はそんな大変な状態だし。[00:50:03]  で、「彼が自立するってどういうことなのかな?」っていうのは、まあ今でもその難しさってのはね、引きずってますけど、それはやっぱり考え続けていく。で、今までの障害者運動とか、これは市民運動全体にもそうやけど、労働者運動でもそうなんだけど、やっぱり能力主義ってのがね、どうしても入ってくる。で、そのことはやっぱりすごい問われたよね、尚司くんと付き合う中でね。

末岡:何かそれは小林さんなりの答えとかは?

小林:だから今、障害者の人たちは社会モデルを言いますよね、個人モデルじゃなくて社会モデルっていうことをね。これはものすごい重要な、僕はキーワードやと思っていて。ただ、今、世の中全体を見ていくと、「自己責任」とかね、いわゆる個人個人の分断みたいなのどんどん進んでいくっていう流れの中でね、障害者運動が社会モデルってことを今、一生懸命言ってる。そのこと、僕、ものすごく意味があって、それは障害者だけじゃなくてね、他にしんどい思いをしている人たち、若者たちに向けて、僕はそういうメッセージをもっと障害者たちは発してほしいと思うんだけれど。その社会モデルっていうのを、僕は一つの重要な主張やと思ってますね。  もう一つはやっぱり多様性ですね、多様性の承認。この多様性ということの、僕は、その具体化。僕にとっては彼のところへ行ってるってのは、自分がどれだけ多様性を受け入れることができるかという、何かね、そのために行ってる、みたいなところはあるんですよ。まあもちろん長いから、まあ尚司くんと付き合う中でやっぱり、まあ僕自身がそう思ってるだけかもわからないけれど、何か一定のこう関係性っていうかな、つながりみたいなものができてきた。それ、だからもう「ほっとけない」みたいなね、そういう気持ちももちろんあるけれど、それだけじゃなくて、今言ったその多様性みたいなところをね、「どこまで僕自身はそれを受け入れることができるんや?」みたいなところを問われてるみたいなね、という思いはありますよね。だからそれが周りもみんな、お母さんもたぶんそうやって変えられていく。そしたら自分の子どものことだけじゃなくて、そりゃやっぱり社会的な視点にね、影響してくる。社会を見る視点、まあ人間を見る視点が影響されてくる、と思うんですよね。  まあそういう部分と、なかなかその言葉化できない部分ってのは、さっき言った尚司くんとの個人としての思いみたいなものね。やっぱり僕が今いなくなったら彼は悲しむかと言えば、たぶん悲しまないと思うんだよね(笑)。うん。ただ、一緒にいたら時々いい笑顔を見せたり、なごやかな感じがする時もあるしね。たまに介護者を叩いたりすることもあるけどね。

末岡:それは現在も?

小林:少なくとも僕にはそういうことをしないと、今はね。ただそれは、そう思ってるのは僕だけで、実はたまたまってこともあるんですよ。たまたまその時の彼の気持ち次第でね、そういうこと、手を上げることもあるだろうけれど、まあそうではない、何て言うのかな、もう少し長い関係性の中でできあがったものがあるんかなあ、というものはあるんですけどね。ただ、これははっきりしない。

末岡:今現在その尚司さんのところに通ってる介助者っていうのは、当時からずっと変わらない?

小林:いや、全然変わってますね。当時から行ってるメンバーで今残ってるのは、さっき話が出たHさんと僕と、あと大阪と奈良の地元の人が4,5人ぐらい。だから全部で7人ぐらいかな。

末岡:まあそれとは別に、運動が終わったあととかに新しく増えて入った人、

小林:そう。今はだから介護制度があるからね。

末岡:まあそうですよね。そっちのほうがむしろ多い。

小林:今はだから、人数的には圧倒的に多いですよね。

末岡:その場合、やっぱり昔からの付き合いがある小林さんやHさんとかと、新しく介助に入ってきた人だと、なんか尚司さんに対する接し方とかも違うって感じ? [00:55:11]

小林:違うでしょうね。あまり他の人の介護を僕が見てないから、まあお母さんを介して話を聞くとかね、そういうことぐらいしかできないけど。まあ僕なんかやっぱり長い付き合いの友人みたいなさ、そういう気安さもあるし。だから今、介護者が利用者を「くん付け」で読んだりしたら大問題なんだよね(笑)、「利用者さま」ですからね。そういう教育を受けて介護に入っている人たちもいるわけだよね。それはやっぱりだいぶ違うと思うわね、接し方もね。ただよくわからなくて。まあそういう若い介護者の中にも、彼とうまくいってる人と、やっぱりトラブルが多い人と、やっぱりいるんだよね。まあそれはどういう接し方の違いなのか、あるいはちょっとした尚司くんの好き嫌いの反映なのか、あるいはそれすらもなくて偶然なのか、ちょっとよくわからないんで、あんまり決めつけちゃいけない。彼のことを理解した気になって勝手に判断しちゃいけないっていう気持ちは今でもありますね。いきなり現在に飛んじゃった。

末岡:ああ、すいません。じゃあ時系列に沿って。  別にじゃあ、富雄中学に入れてほしいっていう運動を始めたとき、K先生の本を読むと、なんか当時の養護学校の先生がむしろ僕らに協力してくれた、みたいな書き方してたんですけど。

小林:ああ、そうですね。西の京養護学校に行ってたんで、尚司くんとの関係…、あれ何年間か行ってんのかな? 小学校、

末岡:そうですね、西の京養護学校、最初は小学校入る年齢になったときに入って、4年間結局通ってて。

小林:だから、そん中でつながりができたから。だから普通学校の教師はほとんど知らないわけですね。障害者を知らない、障害児を知らない。特に尚司くんのような動き回る、で、相手がメガネをかけてたらメガネを取ってすぐ壊しちゃうとかね、そういう障害の子どもなんかほとんど知らないわけで、もう率直に言って。「こういう人たちが来たら授業なんかできない」という思いがあったんでしょうね。だから反発はやっぱり、普通学校の教師たちの一部から反発が出るわけですね。

末岡:普通学校の先生の一部から反対を受けたっていうのはわかるんですけど、西の京養護学校の先生方が積極的に手伝ってくれたっていうのはどういうことなんですか?

小林:そうですね、やっぱりお母さんの思いがあれ、影響したのかな。まあ養護学校の教師たちの中にも疑問を持ってる教師たちはけっこういますからね。

末岡:今の養護学校のあり方に?

小林:うん。やっぱり本来は、やっぱり障害のあるなしに関わらずね、一緒に教育を受けたほうが、障害を持ってる子にとっても持ってない子にとってもね、重要なんじゃないかっていう、そういうことを考えてる教師ってのは養護学校の中にもいましたからね。そういう人たちが関わったんじゃないかと思いますね。

末岡:そういうかたは、小林さんとか青い芝とかゴリラとかから来てる人とは何か意見の対立とかってのは?

小林:そういう経験はないですね。

末岡:明子さん、

小林:そう、特にお母さんとか、その障解研の人たちの中でね、たぶんいろんな話があったんだろうとは思うけれど、僕はそれは知らないんですよね。

末岡:じゃあなんかうまく一緒になって、就学っていう目的のために一緒に闘ってた、みたいな感じなんでしょうかね?

小林:どこまで一緒に彼らがやってたのかっていうのも僕も知らないし。まあたぶん職場の中で孤立するだろうと思うんですよね、養護学校のね。だから、ある程度の規制も自分でしなきゃいけなかった部分もあるだろうかな、と思うんですけどね。

末岡:当時の奈良県の教育委員会的にはどうだったんでしょうか? そういう運動してる人がいる。奈良県っていうか、奈良市は交渉相手だったと思うんですけど、奈良県とかはやっぱり「けしからん」みたいな立場だったんでしょうか?

小林:「それは親のエゴ」という言い方をされましたよね。「子どもを犠牲にしてる」と。本人のためを考えたらね、養護学校とかね施設に入れるべきだっていう、もう頑強でしたよね。[01:00:04]

末岡:まあ「その養護学校の先生が反対してるんですけど」みたいな(笑)。

小林:そうそうそう。ごく一部だけどね、養護学校のね、教師の中でも。

末岡:養護学校のたとえば校長とか、上にいる人は、

小林:は、それこそ変わらないし。

末岡:はい。そっか。ちょっとこれが一番不思議だなと思ってたんですけど。

小林:ああ。僕は当時、尚司くんの就学をめぐって学校の教師たちと議論をしたっていう経験はないんですよね。

末岡:いたってのはご存知、

小林:いたっていうのは知ってますけど、ほとんど話をしてないかな。うん。そこはやっぱりよく、一番知りたいところ?

末岡:いや、まあ。

小林:お母さんなんかにね、やっぱり話を聞くのがやっぱり一番だろうけど。うん。あまり…、だからまあ地元のそういう交渉の場であるとか、そういうふうにはなかなか参加しない、あえて参加しないみたいなところがあったんでね。

末岡:距離をあえて自分でとってた?

小林:うーん。

末岡:それは何か小林さんなりのポリシーがあったんですか?

小林:いや、というかまあ、そのグループ・ゴリラの中でもやっぱり日々の活動ってのがもちろんあるわけで。僕らはやっぱり大阪のグループで、日々もう大阪の人たちの介護活動でフル回転してるわけですよね。ですから地元のことはできるだけ地元に任せるみたいなね、そうしないといけない。で、まあゴリラや青い芝だけじゃなくて、そうやって障解研っていうね、広がりのある組織もできたから、地元に、基本的には地元に任せるっていうね、ところはありましたね。

末岡:それ以降、まあ毎日の介助体制にはいたけど、運動にはちょっと距離を置いたということで。

小林:そうですね。うん。まあやっぱり地元が中心でやらなきゃいけない。尚司くんの今後のことも考えればね、そういう運動基盤をきちんと作っていかないといけないっていうのはありましたよね。

末岡:すいません、ちょっとまた話が前後するんですけど、りぼん社っていうのができるのが、それと前後した頃ですよね? たぶん。73年にできてる。それ以降はりぼん社として活動するってなると、そういう青い芝の会の専従者として活動する、ゴリラとして活動するみたいなのは、何かちがう意味を持ってたんですか?

小林:そうですね、基本的にはグループ・ゴリラの専従者部分がりぼん社に入るという、そんなかたちが基本でしたね。だから僕も最初はグループ・ゴリラだったんですよね。で結成されて、73年、そうですね、最初はだから僕はりぼん社ではないんですよ、最初はね。  で、豊中でエーゼット福祉工場設立運動、設立委員会ってのを作って、障害者の働く場をね、

末岡:カタカナで「エーゼット」、見たことがある気がします。

小林:はいはい。僕はそれの事務局長をやって、豊中行くわけですね。で、それのときから専従というかたちになるわけです。で、りぼん社、必然的にりぼん社にも入ると。

末岡:じゃありぼん社って団体っていうか、できあがったときにはいなかった?

小林:そうですね。もちろん存在するのは知ってるけど、グループ・ゴリラのメンバーで、りぼん社ではない。だから、初期のグループ・ゴリラを作った人たちってのが、このりぼん社を作るわけね。

末岡:すみません、ありがとうございます。  またちょっと話飛びますけど、やっぱその当時、70年代後半になると、青い芝の会とかはやっぱり緊急アピール問題とかでだいぶ揺れ動いてた時期だと思うんですけど、ちょっとそのへん詳しくお聞き…、

小林:だから僕はエーゼットのその活動をして、豊中にいるんですね。りぼん社ってのはこの近く、東淀川区の大広荘という、

末岡:こことは別の場所?

小林:うん、別のとこで活動してて、だから距離も離れてたんですね。だからりぼん社のメンバーではあるけれど、その中心部分とは距離があったりっていうのはね、物理的にも距離があったし、最初に説明した、中でもいくつかの階層があるっていうね、そういう距離感もあったわけですよ。だから学生で頭から入った人間という、まあカテゴリーがあったので、そういうことも影響してるし、若干中心とは距離があったんですね。だから緊急アピールが出たときはね、出た後で知ったんですよ。いきなりそれを読んで、「何だこれは?」っていう。だからそれまでに、[01:05:20]

末岡:77年10月にはまだ豊中にいらっしゃった?

小林:そうですね。

末岡:それをじゃあ、まあ出てから知って、衝撃をやっぱり受けた?

小林:当時はだからエーゼットの運動をやってたのが、まあ豊中の地元の市議会議員とか、親の会の会長とかね、を役員にすえて。で、僕が事務局長をやってたんだけど。で、いきなりその文章を見せられてびっくりして、「こりゃ何や?!」っていう話で、まあ巻き込まれていくっていうのか、この混乱の中に入っていくんですけどね。  当時はだからKさんとかHさんとか、で、青い芝の関西連合会のFさん、その3人あたりが中心で、いろいろ議論をして。とにかく今、障害者もたくさん増えて、専従者も増えたと。専従者を養うのは、みんな生活保護を取って、その中の他人介護料を積み立てるみたいなね。で、それでは足りないから、街頭カンパ活動を毎週梅地下街でやるとかね、そういうかたちで専従者の給料を出すわけですけど。それで専従者も増えてくる中で、まあいろんな現場で障害者をばかにしたりね、障害者の言うこと聞かなかったりとかそういう専従者が増えてきたと。っていうんで障害者から訴えがあって、それを議論して。その議論の場には、だから僕は参加してないんですね。で、緊急アピール出したっていうことで。

末岡:出した半年後くらいには、関西ゴリラも、関西青い芝連合会も解散してしまったっていうふうに、

小林:そうですね。

末岡:それ以降は、じゃあまあゴリラがなくなってしまった?

小林:うん。あのね、大阪は残るんですよ。関西連合会は解散になって、で、大阪以外の兵庫とか京都とかはね、健全者組織を解散させると。

末岡:大阪ゴリラだけは残った。

小林:残った。大阪青い芝が残って。大阪の青い芝は違う方針でね、「絶対、健全者組織は必要だ」と。だからゴリラも残るんですよね。だからゴリラの活動はずっとそのあとも、しばらくは続いていったと思いますね。  大阪青い芝は重度の人が多かったんですよ。さっき言ったMさんが会長をやってたり。重度の寝たきりでね、寝返りも自分でうてないから、夜の介護ってのは非常にきつくてね、1時間ごとに寝返りの介護をしなきゃいけない。まあそういう障害持ってる人がいたから、健全者の組織がなくなったら自分の生活が崩壊するっていうのもあったんで、大阪だけはそういう方針をとったんですよね。

末岡:むしろ他の地区だったら、なくしちゃってもそんなに困ら…、困らないことはないと思いますけど。

小林:まあ重度の人はいたんだけどね。いたんで、実際困ったんだろうと思うけどね。うーん。だから個人的に介護に入るみたいなかたちで、何とかもたせたところはあったんです。

末岡:ありがとうございます。でもそれ大阪と奈良だと、やっぱり距離があったんですね? 奈良のお話はあんまり聞いてない。

小林:そうですね。介護活動はずっと続けてますよ、尚司くんとこはね。ただ、だから、えーと、Kさんなんかは梅谷さんといろいろ相談しながら、相談を受けながらね、「今後どうしていくのか」って。特に「中学校1年間しか行けなかったけれど、そのあとどうするのか」ってことをね、相談を受けたりしてましたね。で、僕はそういう関係性は、梅谷さんとはまだ当時は持ててなかったので。[01:10:20]  で、芸術系の高校、三重かどっかにあるね、何高校やったかな? そこに行ったらどうかという話があって。それは出てないんかなあ、どこにも。そのあとのあれはないか。これは79年なんだな。うーんと、どこやったかな? まあ体験入学みたいなのをしたんじゃないかと思うんですよ。で、やっぱりこれは無理だと。

末岡:無理ってのは?

小林:まあ高校側から言われたのか、お母さんがそう判断したのか、ちょっと僕は詳しいことはわからないけれど、まあ実際尚司くん自身がそこで全然落ち着けないっちゅうかね、状況で。結局数か月でやめたんじゃないかなと思うんですよね。で、考える…、あの、最初は「就学を考える会」だったかな、が、「生活」って名前を変えるんですよね。

末岡:はい。「みんなで教育を考える会」から、「尚司くんの未来を切り拓きみんなで生活を考える会」、

小林:に変わっていくわけですね。で、ただもう団地での生活は限界だったので。とにかく毎日外出るしね。一度だけ「彼が前の日から家を出ていなくなっちゃったんだ」って、お母さんから電話がかかってきて、りぼん社へ。で、「もし見かけたら確保してくれ」と(笑)。

末岡:大阪に。

小林:うん、大阪に行くことが多かったんでね。どうやって乗るんか知らないけど、近鉄と地下鉄とかね、阪急とか乗り継いで。まあよく大阪の福島警察署に迎えに行ったことありますね。いなくなったら、たいがい同じパターンで警察に保護されて、警察から連絡が来るわけ。福島警察に迎えに行ったら、本人はなんか応接間みたいなとこのソファーでこうやってふんぞり返ってて。で、僕らが来るのを待ってたみたいなね、そういうことは何回かありましたね。だからまあ大阪に行くことが多かったので。

末岡:それは、何ですか? やっぱ小林さんに会いたかったとか?

小林:いや、そんなことないですよ。まありぼん社ってのはけっこうまあ彼がよく立ち寄る場所ではあったけど。そうですね、当時、富中に入れない状況の中で、大阪の市立大学に通ってたんですよね。あそこに障解研があって。

末岡:それはまだ就学闘争中の?

小林:就学闘争中ですね。大阪市立大学のね…、ないかな? それは。この写真もそうなんだよね。

末岡:大阪市立大学に一時期通ってた?

小林:これこれ。これは、Sさんってゴリラの活動をしてた人ですけど。

末岡:週に一度大学に通って、

小林:これがたぶん79年、「そよ風のように街にでよう」の雑誌を創刊した頃の、だと思うんですよね。

末岡:まあ少なくともそれよりは前ですよね。

小林:だからけっこう大阪にはよく通ってたんで、なんかそういう、いなくなったときも「大阪に行ってる可能性が強いから」っていうんで連絡が来て。で、そのあくる日、知り合いから「尚司くんを見たぞ」という電話が入ってきて(笑)。この近くの駅で、西中島南方っていう地下鉄の駅があるんですよ。「そこの近くの中華料理屋さんで見た」という連絡が入って。で、たまたまりぼん社に僕一人しかいなかったんで、車でダーッと行って。ちょっと地下みたいなところに店があったんですけど、一人座って、皿が五つぐらい並んでて(笑)。よほどお腹が空いていたんでしょうね。店員もおかしいと思わなかったのかなと思うんだけど、ちゃんと注文をして、ちゃんと料理が並べられて、一所懸命食べてましたね。で、「尚司帰るぞ」って言ったら、いきなり僕のメガネをバーッて取って折っちゃったんで、殴り合いみたいになって、つかみ合いになって。そしたらお店の人が「中ではやめてくれ。外でやってくれ」って言われて、路上に出てまた。僕は尚司を車になんとか乗りこませようとするし、尚司はなんとか逃げようとするしでね、つかみ合いになって。で、噛まれたんですよね、ここ。もう今は傷はないかな。ずーっと傷が残ってたんですけどね。[01:15:24]  で、それを見ていたおじさんが、普通…、あ、そのとき尚司くんは学生服を着てて。だから、もう富中へ通ってるときですね。学生服がほこりで白ーくなってたから、たぶんどっかで夜寝転がって、どろどろになってるような状態で。で、その中学生と大人とがけんかしてたら、たいがい中学生の肩をもつよね、通行人は。だけど僕の肩をもってくれた通行人がいて(笑)、で、二人で一緒に車に押し込んで、で、りぼん社まで連れて帰って。で、ここで、「尚司そこでじっとしとけ!」って言って命令して、お母さんに電話をして連れて帰ってもらったみたいなね、そういうこともあったんですね。  だからもうとてもじゃないけど、その団地の生活が厳しいということで、たまたまお父さんが土地を、あの、何て言うか、分譲地みたいなとこがあって、その一角を購入してたんですよ、伊賀上野で。

末岡:お父さまってのは、あの、離婚、

小林:離婚したお父さんね。当時はもう離婚してたんだけど。そのお父さん名義の土地があるから、そこにプレハブを建ててね、そこでしばらく暮らしたらどうかということで、伊賀上野で、どれぐらいだろ? 1年とか、そんなにいってるかな?

末岡:82年の6月に、とりあえず引っ越ししたらしいんですけど。

小林:ああ、そっか。

末岡:84年3月に、大柳生牧場、

小林:うん、大柳生(おおやぎゅう)ですね。そこに移る前に1年半ぐらいかな。伊賀上野に僕らも通いましたね、車で。奈良よりまたいっそう遠くなったから、大変だったんですよ、通うこと自体がね。

末岡:これは奈良の、まあ、どうなんでしょう、山奥という…、どういう場所なんでしょう?

小林:そうですね、山奥というほどじゃないけど、西名阪という高速、自動車道から10分ぐらいかな。うん。ほんとに丘陵で、なだらかな坂になってて、そこに家がぽつんぽつんと建って、まだ。まだ分譲して間がないみたいな、そういうとこでしたね。

末岡:結局その、伊賀上野のほうは合わなかったんですかね? 本人的には。

小林:そうですねえ。

末岡:それとはまた別に、大柳生に土地を、

小林:うん。何でだめになったんだろなあ。うーん、ちょっと記憶が(笑)。まあすごい狭いプレハブだったし、外へ、どっかへ出て行くといっても、全然そういう場所じゃないしね。やっぱり周りに何もないようなところだったから。

末岡:今はその大柳生のほうで、まあ35年間暮らしてるっていうことなんですけど、それはやっぱ、大柳生の土地にいるけど、外に出ることってのはあるんですか? 今も。

小林:最初はね、年に何度かは、温泉旅行でみんなで行ったりね、してたんですよ。「梅が咲いたよ」って言ったら、梅林に梅を観に行ったりとかね。ところが梅林に行っても彼は走って、うわーっと走って一周して、すぐ帰りたがるわけですよ。まあ大柳生はとても好きなんでね、今、自分の生活してる。あまり外に行きたくないっていうのがあって。で、温泉行っても、まあ一泊で、楽しそうにしてるんだけど、やっぱり二日目になるともう機嫌が悪くなって、

末岡:帰りたい。

小林:帰りたい。そのうちに、みんなで車に、温泉に行くっていうんで車に乗ろうとすると、もうすぐ、それまでは服を着てたのが全部自分で服を破ったりね、靴を壊したりとか、「行きたくない」っていう抵抗ですよね。そういうことが始まったので、「いやなんだったら行くのはやめよう」ということで、それはなくなったんですよね。最初の10年ぐらいは行ってたかな。

末岡:なんか今その、立岩先生がたのインタビューだと、ちょっと梅谷さんのお話出たときに小林さんは「あそこは地域じゃないっていう人もいるんだよね」みたいなことを言って。で、「実際に行ってみないか」みたいなこと立岩先生も言ってたと思うんですけども。やっぱそういう、地域とは言いがたいでしょうか? こういうなんか、

小林:うーん、難しいよね。まあ「地域って何か?」っていう、[01:20:01]

末岡:人との出会い?

小林:そうですねえ。

末岡:そこにもともと住んでる人とかとの関係性とかってのがあんまりない、とかっていう意味でしょうか?

小林:まあまず地理的には、かなり山間。山の間(あいだ)って書いて山間地。僕なんか行くときは、昔は車で行ってたんですけど、今は車を手放したんで、電車とバスで行くんですね。JRの奈良駅まで行って、そこから最終のバスが夜の7時過ぎに出るんですよ。その前が5時何分かな。

末岡:ああ、2時間に1本ですね。

小林:ぐらいしかない。で、その7時過ぎのバスに乗って、だいたい40分45分ぐらい揺られて、最寄りのバス停に着くんですよね。で、そこまでお母さんが車で迎えに来てくれるんです。で、車ではすぐ5分ぐらいなんでね、という場所なんですよね。

末岡:そのあたりってのは、梅谷さん親子以外に住んでいるかたっていうのは、いないわけではないんですか?

小林:あのね、説明すんのは難しいんだけど。最後、そうやってバス停から車で行くでしょ。で、ざーっと田んぼの間を通っていって、最後ガーッと急坂を上るんです。で、その上ったところに家があるんですね。その坂の途中に一軒あるんですね、ご近所が。で、その坂を下りて、そのバス停まで行くあいだにはまあ十軒以上家はあるんですけど、近くにあるのはその一軒だけなんですね。 まあこれから話しますけど、尚司くんは元気なときは、盛んにその坂、坂の途中にあるんでね、そこへ盛んに下りていっては、その家の周辺のね、彼にとってはその落ち葉ってのが非常に気になるんですよ。山の中で落ち葉が気になるから、始終拾いに出るわけですよ、落ち葉を拾いに。その、自分の家の周辺も落ち葉いっぱい落ちてるのに、そのかたのお宅の落ち葉が気になって仕方がなくって、毎日何度も下りていっては落ち葉を拾い、その人の家の庭のね。で、ついその途中で見つけたバケツを持って帰るとかね、そういうことが頻繁にあったんですけど。

末岡:客観的に見れば、やっぱトラブルを起こしてるようにも。

小林:うん、そうそうそう。

末岡:そのかたは、でも梅谷さんがたがそもそも引っ越してくるとかそういう話が起きたときに、何か反応とかは?

小林:いや、その当時は、大柳生牧場作るといったときにはなかったんだよね。あ、彼女はいたのかな? そのときに。

末岡:先に梅谷さん方がおられた?

小林:うーん。ちょっとその前後関係よくわからない。そういう反対はなかったと思う。だから、近所と言えばその人たちぐらいしかないわけで。あとはもちろん自治会みたいなものはあるんですよね。

末岡:そんなに、ほんとに何もない山奥ってわけではない。[01:24:44]

小林:ではない。けれどまあ尚司くんにとっては、なかなか外へ行きにくい状況。そうやって家の周りは自然がいっぱいで、まあけっこう彼は落ち葉拾いでね、楽しんでるところはあるけれども、それ以上の環境はないんやね。だからそういう意味では確かに街の中ではないけれど、でもまあ歩いてどっか行こう思ったら、まあその急な坂を下りて延々と歩いていったら奈良の市街地に行けるわけです、2時間ぐらい歩けば。で、それをやろうとすればできるんだけど、それをしないし。まあそれは体力的な問題も、だんだん落ちてきてるから、今56だからね、あるけれど。まあそういう意味では僕は地域だというふうには思ってるわけですね。出ようと思えば出れる。で、まあ少ないとは言え、そうやって周りとの関係もいろいろあって。  で、まあお母さんが一番思ってるのはあれですよね、「施設とか病院に入れちゃうと自分でコントロールできない」って言うわけですよ。

末岡:自分でっていうのは?

小林:たとえば食事のコントロールとか、薬のこととか、全部専門家がそれを握ってしまうと、それは安心できないところがあると(01:25:50)。だから今の生活ってのは非常に、まあもちろん限られた限定された生活だけど、自分でちゃんと尚司とつき合って、尚司のことを考えながら生活を組み立てていける。それはやっぱり彼女にとっては一番大切なことで。そういう意味での僕は地域、地域での生活と言えるかなと。少なくとも病院や施設には入れてないというね、ことは、僕はすごい大事なことではないかなというふうには思ってるんだけどね。ただ批判する人はいますね。今はそんなに直接の声は聞かないけど、まあ当時はね。

末岡:ちょっと僕も、実際行ってみて見ないとイメージはしがたいところはあるんですけど。

小林:大変だよ、行ったら。行くのは。

末岡:まあでも、ちょっとできれば行きたいなとは思ってますね。

小林:だから、行くほうも大変だし、向こうもね、なかなか時間が取れないっていうのがあるんですよ。始終なんかまあ尚司くんがトラブルを起こしたり。てんかん発作も持ってるんでね、発作も起こしたりしてるし。

末岡:じゃああんまり「話聞かせて」とか気軽には言いにくい。

小林:なかなか。そうそう。一応お母さんには言ったよ、「こういう人がりぼん社に来るんで」って。で、そのお母さんがくれたんですよ、「そしたらこのパンフレット渡して」って。

末岡:ああ、すいません。

小林:もう一つあの、『匂うがごとく』っていう、それ知ってますか?

末岡:あ、はい、Kさんが書いた。現物は持ってないですけど、向こうの図書館においてあったとか何とかで。

小林:僕も今ね、探してみたけどないんで、まああれだけど。それはもう本自体がないんだけど、それはまだたくさん残ってるから。

末岡:ありがとうございます。いや実は立命館大学さっきまで行ってたんですけど、あっちにあるはずだけど、どこ探してもない本ってのもいくつかあって、それ持ってないかなあ、ってちょっと期待は。

小林:どんな本?

末岡:あ、すみません。ちょっと携帯失礼します。一つは、この「尚司くんの未来を切り拓きみんなで生活を考える会」っていうのができたあとに出された資料で、その、豊中? 豊中じゃない。えっと何おかだ? 『富中から…』、いや、すみません、『牧場建設を目指す障害者と仲間たち』っていう。 一つはその、これ、『牧場建設』が、だからこれ83年の本なんですけど、牧場建設に向けていろいろ話し合ってるときとかに出たパンフレットってのが、なんか立命館にあるらしいです。

小林:うーん、そういえば見たような気がするなあ。立命館にあるって?

末岡:らしいけど。あ、でも、これはあるのかな? ちょっとなんか立岩先生のほうで探してくださってるみたいなことを言って。

小林:うん。彼は回収癖があるから(笑)、たぶん持ってるんでしょ。

末岡:いっぱい持ってるけど、ちょっとどこかしまったか、みたいな。もう一つはその、81年に出された本で、この『運動パンフレットNo.1(ナンバーいち)』っていう、これがなんかどうも…、さっきの本は、存在は確認できたんですけど、こっちの本がどこ探してもなくって。でももしかしたら運動当時の大事なこと書いてある本なのかな、っていって探してるんですよ。[01:30:05]

小林:これも、これは見て…、記憶がないなあ。うーん、まあお母さんにまた聞いてみますね。

末岡:すみません。まあそのパンフレットが欲しいっていうのは私個人の、すごい個人的な考えなんで、いいんですけど。実際に明子さんに「こういうことやってる人いる」ってのはお話ししてくださった?

小林:そうですね。

末岡:すいません、なんかありがとうございます。

小林:いえいえ。で、「ひょっとしたら来るかもわからないよ」っていうのは言っといたのよ。まあ彼女もまあ歳だしね。もう80、今年80だからね。

末岡:まあでも話っていうか、聞きたいなとは思うんですけど。

小林:ねえ。やっぱり当時の生々しい話ってのは、やっぱり彼女じゃないとね、語れないってところがあるのでね。ただ非常に生活が、毎日が厳しい状態だからね。それなりの覚悟を持って行かなきゃいけないでしょうね、行くとしたらね。  もともとこういうことを研究しようと思ったのは、何かきっかけはあるんですか?

末岡:もともとは金井闘争っていう金井康治さんの運動を、学部4年生のときの卒業論文で書きまして。

小林:ほう。それは何でそういう?

末岡:それはその、なんか私、なんか自分語りになっちゃうんですけど。

小林:うんうん、いいよ。

末岡:大学入ったときに、教育学部は入りたいけど、学校の先生になりたいわけではないし、なんか大人の立場から「いい教育」とか「いい学校」って語るより、もっと子どもの目線から学校っていうのを見たいなっていう思いがありまして。私自身がちょっと高校時代、若干不登校ぎみになって、やっぱりその受験とか…。私、進学校にいたんですけど、やっぱり受験とかテストに追われるだけじゃなくて、学校というのはほんとはもっと別の楽しい場所なんじゃないか、みたいなことを考えて。でもそれがうまく言語化できないんで、ちょっと大人の立場からじゃなくて、子どもの立場から学校っていうのをとらえ直したいっていうふうに、大学入ったとき思ってたんですけど。そのときに、東大には障害当事者のかたが先生として何人かいらっしゃるんですけど、その先生がたに会ったときに、障害者…、それこそ社会モデルの話とか最初たまたま聞いたら、自分なんか「子どもの立場から」とかって言ってたけど、自分が想像してた子どもとか学校とかって、ほんとに健常者だけの場所を想像してたなっていうことに気づいて、なんかそれがショックだったというか、ほんとに全然その、障害者のことを全然何も考えずに学校とか考えてたかな。

小林:それは具体的にいうと、どういう人? 熊谷さんとかか。

末岡:そうですね、熊谷先生…。東大入ると1年目2年目は教養学部っていっていろんな授業を受けなきゃいけないんですけど、そん中でオムニバス方式で週1回で熊谷先生とか、あとどなただっけ? なんか週…、とにかく日替わりでいろんな先生がいらっしゃったんですよね。星加良司先生とかもそのときいたかな? そのあといたかな? 

小林:ああ、なるほど。

末岡:で、そうですね、いろんな先生が来て、なんかほんとに自分の想像してなかった存在に出会った。っていうか、すいません、自分が想像してなかったってことがすごいショックだったんです。それで、なんかもともと持ってた「教育を子どもの目線からとらえる」っていうのと、そういう障害者の問題を併せて考えたいなと思って教育学部に進学して。で、なんかほんとにたまたま、障害者の普通学校就学運動について、私が今指導してもらってる小国喜弘先生っていう先生が、たまたまなんかそういうのに関する歴史研究を始めてた頃だったので、ちょうどそこに噛ませてもらって。で「金井康治っていうのをちょっとゼミで取り上げるから読んでみて」みたいなになって、それでなんかいろいろ、

小林:じゃあ康治くんのお母さんとかには会って?

末岡:はい、会って、インタビューも、今までインタビューさせてもらって。そこでもやっぱりその、康治さん本人…。康治さんは身体障害者だし、文字盤使ってかなりいろんな文字記録を残している。それが支援者を通じて、今日(こんにち)も記録として本人の声が残っているっていうことで。すごいそれはその、なんかやっぱり「周囲の支援者がどう思ってたか」とかと、「本人がどう思ってたか」ってのは別もんなんじゃないか、っていうふうに思いまして。今もその、まあどっちも大事だと思うんですけど、できればその本人がどう思ってたのか。それは、とくに梅谷さんとかは文字として残ってるわけではないと思うんですけど、本人の意思の表れとか、学校をどう見てたのかとか、そういうのをいろんな事例をとらえながら、もうちょっと詳しく見ていきたいなっていうことで、この研究を今してるところなんですけど。

小林:ゆくゆくはだからそういうあれ、大学でそういうことを教えていきたいっていう?

末岡:まあそうですね。すいません、なんかうまくまだ言葉にまとまってないですけど。

小林:うん、いやいや、うん。僕なんかの最初の機会とよく似てるところもあるかなっていう。まあショックを受けるからね、最初はね。[01:35:00]

末岡:そうです。ただ私のほうはやっぱり、でもそんなリアリティーがなんかない感じがあって。私自身はやっぱり当時の学生運動とかも、なんか自分のことには引き取って考えれないし。今の学生はほんとにまあ「毎日楽しく、自分のことだけ」みたいな感じなんで、なんとなくそういうエネルギーとかを持ってないのは自分でもわかるんですけど。ただ、そうですね、自分がでもこうやって研究者としての道を一応今、大学院まで進んでいる以上、やっぱり将来的にはこういうことで、当時いろんな思いを語っていた人がいたんだっていうのを、まあ10年後になるかわかんないですけど、教壇に立つなり本を出すなりしてやっぱり社会に訴えていきたいなとは思ってます。

小林:それで、やっぱり就学闘争ってのはやっぱりそういう教師の影響を受けて、つまり障害者の場合はやっぱり別学体制っていうのがまあずーっとあるわけだけど、それに対してはどういう考え方を持ってるの?

末岡:そうですね、やっぱり一番おっきいのは、「本人がどう思ってるか」ってのはなしに語るのが一番よくないんじゃないかな。まあ本人の当事者性みたいな、本人が「僕は養護学校行きたいんだ」って言えば、それを尊重するのがまあいいのかなっていうのは。

小林:「本人が」って言うときに、たとえば具体的に言うと、小学校入るときは6歳だよね。で、「自分で決めるのは困難で」ってことになると、当然「保護者の思い」みたいなところかな?

末岡:そこはやっぱり、自分の中でもすごいジレンマなんですけど、やっぱり保護者の意図と子どもの意図ってのは違うと思いたいですけど、でも子どもの思いなんて保護者とかいろんな人の影響受けながらでしか作られないものだから、切り離して考えるのは、まずそれはそれでできないことだと思ってて。うん。だからそうですね、保護者の意図…、

小林:まあ本来は、子ども自身のそういう思いみたいなものをきちんと汲み取って、その思いに沿ってやりたい、っていうことやな。それがなかなか難しくって。だから青い芝が「親は敵だ」って言ったとこが、そこなんだよね。障害者問題っていうのは他の差別と違うところがまあいくつかあるんだけど、一つはやっぱり、何て言うのかな、世代間の伝達が、伝承ができないよね。つまり部落だったら、親も部落民、子どもも部落民。で、子どももまあ基本的には部落の人。在日の場合もそうだし。そういう意味では障害者、障害児っていうのは、健全者、健常者の社会の中に突然生まれる。で、やっぱり親は健常者ってケースはほとんどだよね。まあ中には遺伝性の障害を持ってる親子もいるけど、基本的には親は健常者。で、そこでやっぱりどうしても親が持ってる価値観はね、やっぱり社会的な価値観を背負ってるわけだから、そこに差別が生じるっていうね。それを「親は敵だ」って言うわけだから。まあその学校に入るときの、子どもの思いと親の思いってのは難しいよね。当然子どももそういう親の影響を受けるわけだよね。

末岡:あとまあ、そもそも学校入るまでは学校のことを知らないわけですから。

小林:選択肢がね、「養護学校か普通学校か」と言われたら、

末岡:本人がイメージできない状態で選択肢を突きつけてっていうと、じゃあ「親の判断のほうが大事だよね」みたいな。それはそれで何か理があるなという、

小林:現実的にはそうなる。で、その親がまあ差別的なね、社会の中で、自分の価値観を形成してきてるわけだからね、そこでどうしてもやっぱりぶつかり合いがね。というか、青い芝の人たちが告発したことは僕は正しいと思ってんだよね。ただ、そういう、「親は敵だ」って決めつけるってことは、「親に変わってほしい」という、まあ願いでもあるわけだよね。それを受けとめた一人が、この梅谷明子さんではあるのかなと思うんだけどね。

末岡:だからまあ普通は、そうですね、なかなか親の意思と子どもの意思っていうのを分けれないし、まあ分けると、たぶんそれはそれで「分けたから、よし」ではないという問題ではあるし。あとまあ現実的にそういうふうに入るときに、子どもがどれだけわかってるか、みたいな問題もあるし。で、ちょっとその、ただ、たとえば小学校はそうだけど、たとえば小学校で6年間いる間に、まあ途中で意識が変わることだって。それは、養護学校いたけど、「ほんとは普通学校へ行きたいな」と思い始めるのもあれば、逆もあるだろうし。だから、すいません、「最初の一回、6歳のときですべてが決まる」みたいなのは一番よろしくないとは思ってるんですけど。[01:40:07]

小林:まあいくつかのね、やっぱり選択肢を選ぶってことは、非常に大事なことだと思うんだよね。まあ僕なんかは、基本的に別学は反対なんだよね。入所施設の問題も、相模原でああいう事件が起きたっていうこともあるけど。入所施設もやっぱり本来はなくしていくべきだっていうふうに思ってね、今まで活動してきたんですよね。

末岡:いや、まあそういうのにもだいぶ傾いて。そもそも選択肢云々より、選択肢は作らないっていうか、分けることを選択肢の一つに入れてることがまず間違えなんじゃ…、

小林:もっと違った選択肢がね、たくさんあればね、いいんだけど。その「分ける分けない」っていうところで言うと、やっぱり基本的に僕は「分ける」っていう方向はね、その、やっぱり先のことを考えていくと、絶対よくないっていうように思ってますよね。ただ今だんだん増えてるでしょ、特別支援学校。

末岡:はい。だんだんっていうか、ずっとずっと、ここ15年、20年ぐらい延々と増えてる。データとしても。

小林:結局なんか拾い出していくっていう。それまでは普通学校でね、「ちょっと変わった子」で済んでたのが、拾い出されてそうやってね、別の学校に行かされるみたいなね。よくないなと思ったんだけどね。

末岡:だけどそういうのを考えれば、実は大事なのは最初にどっちを選ぶかってだけじゃなくて、入った学校がどう変わっていくかっていうか、教育権を訴えるみたいなときに、選ぶだけじゃなくて、入ったあと、その学校が一人一人を大事にする学校でなければ結局意味がないので。入ったけど、途中でそうやって追い出される、みたいな未来がやっぱり…、未来っていうか現実が今ある、強まってるから、選ぶだけでは不十分。もっと何か根本的なところまにで切り込んでいく、そういう姿勢とか思想が必要なのかなっていうふうにも個人的には考えてますけど。

小林:そうだよね。

末岡:だから今のインクルーシブ教育とかも、まあこれは文部省が何かだいぶこねくり回してる概念なんですけど、一応ただ入れるだけだったら、統合教育の時代と変わらない。そうじゃなくて、「分ける分けないってのを前提にしないで、みんなが一緒に共にっていうのがインクルージョンだ」みたいなふうに一応、理念上は言われてるわけですよね。それはその、これまでの学校教育のあり方そのものを変えることが前提ってことで、今その、まあ国際的にも推進されてるはずなんですけど、日本ではちょっとよくわかってない、

小林:なんかごまかしが多いよね。

末岡:ごまかしされてる感じ。

小林:「インクルーシブ教育を推進するために特別支援教育もやって」ってね、おかしいよなと思うんだけど、

末岡:そう、そういう話になってるんですけど、理念の上ではやっぱりその、学校のあり方みたいなのを根本的に問い直す必要があるっていうとこからは始まっているので。

小林:そうですね、インクルーシブ教育そのものはね、僕はやっぱり推進すべきだと思うんだけど、やっぱりああいう文科省みたいな言い方が許されてるみたいなところにね。うーん。だからまあ保護者自身がやっぱりそれを望んでいるところもあるので、そこはやっぱりきちんと指摘していかなきゃいけないなとは思うんですね。

末岡:だから現実として、まあ「保護者が望んで」っていうか、「本人が望んでないわけではない」みたいなのも一つの現実としてあるわけで、「だからこそ特別支援学校が大事なんだ」という主張がされてるんで。だからたぶん本人の意思を僕は大事にしたいと思うんだけど、でもそれだけだと不十分だってのは自分でもわかってるけど、そっから先どうすればいいのかわかってない状態で、すごい迷ってるんですけど。

小林:まあ自己決定っていうのは常に今、言われてるけどもね。ほんとの「自分だけで決める」なんてことはありえないわけだよね、社会生活の中で。そこらへんを見ていくってのはものすごく大事なことで、社会モデルってのはもちろんね、そういうところなんですけど。  そうですか。はい。他、何か聞きたいことがあれば。

末岡:すみません。そうですね、今のも私個人の悩みなんですけど、私の話、

小林:いやいや、そういう話をほんとはね、ちゃんとしなきゃいけないのに。

末岡:梅谷さんの就学運動は、結局その81年に3年生に入学ってことで、一応決着を見たわけですね?

小林:そうですね。

末岡:それは何があって受け入れられたんでしょうかね? 向こうが折れたんですか? 3年間で…、4年か。[01:44:51]

小林:折れたんですね、結局は。やっぱり闘争がだんだんだんだんこう拡がっていって、社会的にもね、新聞で取り上げられたりするようになって、「これはもう、これ以上だめだろう」ってことで妥協したんでしょうね。最初はかなり強硬な拒否でしたからね。

末岡:ですよね。結局まあ折れる、折れたっていうか、向こうの価値観が変わったわけではないんですね。

小林:ではないですね。「認めざるをえない」っていうところまでね、いったのかな。

末岡:でも、どうなんですか、実際に入るとやっぱりその、友人関係とか教師との関係ってのはできるわけですし、まあ1年間だけだったけど、その1年間はまあ意味があったという?

小林:うん。というふうに思いますね。やっぱり、うーん、お母さんからのまあ目線だけれど、修学旅行なんかも一緒に行くんだよね。で、あれで、見送ったときの周りの子どもたちの様子とね、迎えに行ったときの子どもたちの様子が全然違ってたと。見送りに行ったときは、みんな尚司の周りは先生が取り囲んで、子どもたちはちょっと離れてそっちを見ないようにしてるようなね、そういう雰囲気の中で旅行に出発したけど、帰ってくるときはもうワイワイガヤガヤね、尚司くんの周りに子どもらが集まって。で、お母さんにも声かけたりしてくれたって。

末岡:それはなんか修学旅行で行った先で、やっぱり何かあったんですね。

小林:そう。やっぱりいろんな付き合いってのはね、どれだけ現実的な関わりってのがどれだけ大事かっていうことをね、まあお母さんはそのとき感じたと。  ただそのあと結局は、まあ今のような生活しか送ることができなかった。大柳生牧場、あそこはしばらく作業所があったんですよ。で、他の子どもたち、障害者たちも3人ぐらい来てたのかな。来てたけど、結局はやっぱりまあ地理的にも非常に遠いとこっていうこともあるし、やっぱり尚司くんの個性と周りの人たちとの個性がうまくかみ合わなかったってのがあって、まあ閉じちゃうんですね、作業所は。もう4、5年になるんです。4、5年前に。大柳生牧場作業所っていうのがあったんだけど、それがなくなって。

末岡:なんか今もネットで検索したら「作業所」って名義で出てはくるんですけど、今ではないんですね。

小林:ああ、もう今は作業所ないんです。だからほんとに尚司くん一人で、まあ僕らが行ったり来たりしているっていう状況なんでね、そのことはやっぱりお母さんは非常に悔いてるんですね。やっぱり学校、もうほんとに小学校から一緒にね、地域の学校行ってれば、こんなことはなかったんじゃないかと。周りもだけど、尚司くんも変わってたんじゃないかなと。だから学校ってものがどれだけ大事か、みたいなものはね。1年しかやれなかったってのはやっぱり自分らの責任やったな、と今でも言いますよね。

末岡:まあ1年…、やっぱり卒業したあと、友だちとかが遊びに来るみたいなことはない?

小林:私が知ってる範囲ではなかったと思いますね。

末岡:まあみんな高校に進学していった。「高校に行こう」みたいなのはやっぱり思いもしなかった?

小林:いや、だからその、ちょっとだけ通った、体験入学したってのはそうですね。芸術系の、ちょっと名前は思い出せないんだけれど。えーと、全寮制やったかなあ、まあそういう高校があったんで、そこは見学に行って、しばらく通ったと思うんですよね。でもそこでうまく生活できればずっと行き続けたと思うんだけど、はっきり僕はその理由を知らないんだけど、数か月でやめてきてしまいましたからね。まあ行かせようという気はあったんだけどね。

末岡:学校に通ったっていうのがじゃあ、まあ「もし小学校から通ってれば」みたいな話ですけど、実際に1年間通って、その1年間ってのは今の尚司さんにとってどういう意味を持つんですかね? 

小林:うーん。

末岡:結局その、運動までして、明子さんが中心になってたけど、尚司さんも「行きたい」っていうふうに声を上げて、で、ようやく入って。修学旅行とかも行って、で、1年後には卒業式をやった。それがやっぱ、学校行ったけど結局何にもならなかったんだとすごい悲しい話になっちゃうんですけど、何かが、今にもつながる何かが残ってるとしたら、

小林:尚司くんの中に?

末岡:はい。[01:49:58]

小林:まあ周りは全然変わったよね。つまり「地域の学校に入れたい」ということで活動があったおかげで、まあ今の彼の生活を支える基盤ができたというね。それは「施設にも病院にもやらない」っていうそのお母さんの意思、尚司くんの思いみたいなものを汲み取ってね、1年間でも行けたってことはやっぱすごく大きかった、周りにとってはね。  尚司くんにとってどうだったのか、っていうのは難しいね。つまりそれ以外の選択を経験できないからなあ(笑)。そういう、「もし行ってなかったらどうなってんのか?」 うーん、まあ全然変わってないような気もするし(笑)。ただ、それで意味がなかったのか、というふうにも言えないしね。それは、お母さんの目からしたらまた違った見方するかもわからないけど、僕からははっきり、うん、その1年間の意味みたいなものを…、尚司にとっての意味っていうのは難しいよね。

末岡:いや、すいません、答えにくいことを聞いてしまって。

小林:ただまあ、いろんな新しい人が今来てるわけね、事業所から。介護派遣の事業所が今、二つほどあそこに、彼のところへ介護者を派遣している。で、初対面の人ともなんとかうまく付き合っていけるみたいなね、そういう経験ってのは、まあもちろん学校、その1年の経験だけでそうなったわけじゃないけど、やっぱりけっこう受け入れるんだよね、初対面の人でもね。

末岡:昔とは尚司さんが変わった?

小林:うん、変わってる部分もあるのかなあ、というふうに思ったり。まあそれは学校だけじゃなくて、いろんな人とのね、今の関係ができたからこそとも言えるけれど、1年間の経験ってのは大きかったのかもわからないね。

末岡:学校に通ってる前と、通った後と、まあ卒業した後みたいなので、周りの介助体制とかは変わったんですかね? それこそ修学旅行とかって別に誰かついていったわけではない?

小林:ていうわけではないですね。介護体制ってあんまり変わらなかったような気がするね。

末岡:最初からみんなでなんか予定を組んで、かわりばんこに、

小林:行ってるっていうのかな。大柳生牧場ができても、介護体制が、自立支援法…、ねえ、支援費制度とかそういうのがないときやから、同じようにやっぱり介護をしてますね。じゅんぐりで行ってたし。

末岡:ほんとに、その周囲の関わり方みたいなのは大きく変わったわけではないけど、その学校に通って、何か本人に大きな意味があったのかどうかも、まあ本人に聞かなきゃわからないみたいな?

小林:今でも、だから、「Rちゃん」とか「Tくん」って彼がときおり口に出すんだけど、その友だちとはね、養護学校時代のやっぱり友だちで同級生なんですよ。

末岡:ああ、養護学校の頃の友だちの名前は今でも、

小林:うん、出てくるけど、普通学校ではやっぱり友だちの名前言う…、まあ僕が知ってる限りは言わないけどね。まあ他ではいろいろしゃべってるかわからん、お母さんに言ってるかわからんけど、僕としゃべるときは、うん。  まあ尚司くんにとってどうだったのか。1年ってのはあまりにも短いよね、そういう意味でね。お母さんもだから1年しか地域の学校に行かせられなかったってことは反省してるね、今でもね。

末岡:まあ、あと、すみません、ちょっとそれは【聞きにくい…】(01:53:40)。  あとなんか、やっぱり梅谷さんの運動っていうのは、さっき言った金井闘争と並んで「西と東」みたいなふうに、その全国的なシンボル的な感じに盛り上がったと思うんですけど、それはなんでそういう状態になったんですか? なんか数ある運動のうちの一つではなくなってた?

小林:そうね、シンボルでしたね。

末岡:それは、まあこれは青い芝っていうか全障連の話になっちゃうのかもしれないですけど、それはどういうことなんでしょう? やっぱ全国的なシンボルになるってのは、すごい何か意味があったんだと思うんですけど。[01:54:35]

小林:だから今までの教育体制とかね、いわゆる別学体制に対して真っ向から挑んだという意味では、まあ金井康治と梅谷尚司の戦いっていうのはやっぱり特異であったのかなと。いろんな就学運動あるけれど、まあ結局妥協していって学校側の要求を呑み込んで、たとえば親が付き添うとかね、学校の中でも、まあそういうかたちで入る。あるいは…、うん、そういうかたちのものはけっこうあったのかな、当時ね。そうではない、やっぱり「今の別学教育がおかしいんだ」ってことをさ、正面きって言ったのは、他それほどなかったんだよね、当時。それで、さっき言った15教組とかいわゆる教師側がそれをね、進めていこうとかそういうのはあったけれど、親自身がね、子どもと一緒にそれを闘ったっていうのは、そういうケースってたぶんなかったと思いますね。

末岡:なんかそういう意味で、やっぱり特徴的な運動になった。梅谷さんの運動は、義務化反対運動とは直接に結びついていたわけではない?

小林:まあ途中で重なりますよね。全障連が養護学校義務化反対っていうのをやってて、で全障連のメンバーも、だから梅谷闘争に関わっていくっていうかたちがあったから、当然義務化反対とつながっていきますよね。

末岡:でもあれですよね、「義務化になるから尚司さんも養護学校に入りなさい」みたいなふうに、市教委とかからはそういうふうな文脈で言われるんですかね? そういうわけではない?

小林:うーん、いや、それ、以前の状態じゃとても…、まあ「普通学校での就学は不可能である」と、「梅谷尚司の障害特性では」ね、というのはもうボーンと言ってるからね。

末岡:ああ、もう義務化とか云々よりも…。ただまあ運動する中で、やっぱりそういう義務化反対の流れとも一致して、やっぱり就学ってのが目指された?

小林:最初はだから、普通学校への就学運動を始めると、現場から反対の声が起きるわけです。さっき言った全障研系の人たちですね。まあ反対の声を上げる。「学校全体の学力が低下する」ってことを言うわけですね。で、「養護学校に入れ」と。うーん、最初は養護学校も拒否してたんじゃなかったかなあ。ちょっと詳しく覚えてないけど。

末岡:最初ってのはその、施設から出てきて、学校、就学運動、養護学校の義務化の矛盾の一つとして、

小林:最初、えーと、どの場面だったかな、養護学校拒否をしたんだけれど、普通学校就学ってことを言いだしたら今度は普通学校が拒否をして「養護学校に入れ」と、いうふうなふうに変わっていったような気がするんだけど。ちょっとこれ記憶がはっきりしない。そういうことも書いてないかな。

末岡:で、普通学校のほうに行ったら、普通学校も拒否されたと。

小林:普通学校は「養護学校行け」と。

末岡:まあそうですけど、養護学校じたいを拒否したっていうのは、その梅谷さん側の?

小林:それはなかったかな。記憶違いかな。どこにも書いてないか。

末岡:そうですね、「施設にはもう入れておけない」って言って、無理やり退園させた、みたいなのがあって、

小林:あ、そうそう、ここやな、最初奈良県、県教委やね、養護学校。養護学校への入学は拒んでるでしょ。で、病院をたらい回しにしたと。

末岡:「教育の対象ではない」と、

小林:うん、そういうことやね。ところが普通学校就学を要求すると、「養護学校へ行け」っていうふうになってくるわけで。

末岡:それはどっちも、言ったのは県教委が言ったんです? 普通学校の先生が言った?

小林:じゃないですね。

末岡:先生がまあ言ったと思うんですけど、それとは別に、県教委の言ってることはころころ変わった? まあちょっと県教委側の資料とかも調べるには調べようと思うんですけど、奈良に行って。

小林:はい。まあだいたいそんなとこかな。他、何かありますか?

末岡:やっぱり一つは、就学して1年間通ったあと、牧場建設っていった何かその、当時の資料を見ると、運動としてやっぱりこれからも障害者運動を引っぱってってほしい、みたいなことを言ってたっていうか、思ってた人も一部いたみたいなんですけど。結局その、まあ大柳生に行くっていうのは、そういうのと距離を取って生活したってことになるんですかね?

小林:その後の社会全体の流れも、市民運動もそうだけど、だんだん状況が厳しくなっていくんですよね。勢いが削がれていく。そういう流れが一方ではあって。もう一つは、やっぱりお母さんの思いとしては、尚司との生活をなんとかきちんと作っていきたいという思いがあって。ただ、一人孤立するのは問題だから作業所を作ろうという、大柳生牧場作業所を作ろうっていう。ところがその作業所が、さっきも言ったような顛末で続けていくことができない、みたいなことがあったんでね。まあそういういろんな要素が絡んで、うん、今の生活があるのかなとは思うんですけどね。

末岡:生活する場とか、生きていく場みたいなのを求めつづけたってところで、一貫して、

小林:それお母さん、うん、…の思いとしては一貫してて。

末岡:学校も「今生活していくために学校があるべきだ」って考え方で就学を求めてたし、まあその後の作業所作りも、この場合生活というのはやっぱり「他者と一緒に」っていうのが思いとしてはあったけど、まあ実際には、

小林:そうそうそう。まあだから尚司くんが、近くに駅があるとすぐに飛び出しちゃって、どこにでも行っちゃう。そういう環境はやっぱりよくないわけでね。だからそれがやっぱりしにくい場所で、しかもいろんな人たちとできるだけ付き合えるような。だからある意味で妥協をしてるんですよね、今の場所、場所ってのはね。ほんとはもっと街なかで暮らしたかったんだけどね。それがだから富雄の団地の中で、ああいう大変な状況になってしまったっていうようなことがあったからね。だから、せめぎあいの中の中間点、生きていくためのギリギリの場所みたいなところで今の場所があるのかなと、僕はそういうふうに解釈してますね。

末岡:いや、なんかそういうことなんですね。正直、資料を見る限りでは、ちょっと明子さんが結局何を目指してたのかがいまいちわかりにくかったんで。でもそういう事情っていうか、まあ、

小林:そうそうそう。一貫してましたからね。

末岡:現実的な選択の中で、一貫したものを持ってた。

小林:だから本来は、普通の学校へ行って同年代の友だちを作らないと生きていけない、「施設か病院か」という選択肢しかなくなると、それはなんとか阻止。それだけはもう拒みたいっていう。それはもう彼女の大前提だからね、だからそれは一貫してるわけだね。  ただ毎日の生活を、できるだけまあ尚司がゆったりと生きていける、そういう環境をだから作りたいと。だけど街の中ではそれは無理だと。

末岡:まあ実際に尚司さんが、今もその場所を気に入ってるっていうのは確か。

小林:気に入ってる。気に入ってるのは確かや、外行きたくないから。行こうとしたらすごい抵抗するからね。で、まあ何て言うんかな、お母さんの気持ちとしては、専門家にゆだねるってのは非常に怖いわけですよね。医療の対象とかね、監禁。[02:04:48]

末岡:専門家っていうのに対してすごいなんかこう、

小林:不信感あると思いますね、僕もそうだけど。それはやっぱり小さい頃から、障害児が生まれるといろんな専門家と関わりを持たざるをえないからね、その中でいろいろ痛い思いをしてきてるから。

末岡:でも、なんかさっき「医者にかかって」みたいな話だったけど、今、尚司さんって体調とかは?

小林:ああ、そう、その話をしようと思って忘れてた。去年の8月にね、彼は死にかかったんですね。

末岡:それは何か病気とか?

小林:あのね、原因がはっきりしなくて。医者は「マムシか何かに噛まれたんじゃないかな」というふうに言うんだけど。ぶわーっと右手が腫れて、で、首の周りもわーっと腫れて、で、背中に内出血で青ーくなってね、で、緊急で病院に担ぎ込まれて。で、そのときに医者はそういうふうに言うんだけど、その噛まれた痕とかそういうのはないんだよね。なくて、だから原因ははっきりしないんだけど。もう僕らはすぐ飛んでいったんだけど、「こりゃもうだめだ」と思ってね。もう腎臓がほとんど働いてないと。

末岡:それは、死にかける事件とかよりも、以前から調子が悪かった?

小林:いや、じゃなくて何かのせいで。ヘビに噛まれたのかハチなのか、何なのかちょっとわからないけれど、急性の、何て言うかな、中毒のね、感じになってしまって。で、医者も「腎臓がほとんどもう機能してない状態だ」っていうことで。

末岡:それまでは元気だったのに、

小林:元気だったんです。で、それもね、何年か前にも同じような、右手が腫れたりすることがあったんだけど、4、5日したらひいていってたんですよ。だから同じように思ってたんだけど、だんだんだんだん広がって、もう意識朦朧の状態。それ去年の8月の下旬かな。で、もう医者は「もう好きなものを食べさせてくれ」って。ほんとは腎臓が障害したら制限をしなきゃいけないんだけど、だからもう医者も半分諦めてたんじゃないかな。で、もしこういう障害じゃなかったら、もう人工透析をしなきゃいけない。ただ人工透析をするには24時間麻酔を打たなきゃいけない、本人にね。しかも透析を受けてるのは週のうちに2日とか3日やけど、それ以外の日も、中になんか器具を入れますよね、シャントか、何て言うのかな。それを外すと死んじゃうから、それ以外も24時間麻酔をしなきゃいけないと(笑)。つまり「一生麻酔をしないと人工透析ができないんだ」っていうふうに言われて、そんなんできるわけないし、そんなん絶対死んでしまうしね、それで。ってことがあって、もう様子を見るしかない。で、クレアチニン値っていう、あれは尿…、血中のね、クレアチニンの値を検査するんで、それがまあ腎機能がどれくらい働いてるかをみる。普通1.0未満くらい、まあ1ミリリットルあたりの数値がまあ1.0前後なんだよね。それがね、8.いくらだとか9.いくらになって。

末岡:8倍。

小林:もう8ぐらいになったら人工透析の対象って言われてる。で、もうこれはみんなで「これはだめだな」って思ってたのが回復したんですよ、徐々に。ただ、今、1前後まではいってなくて、2前後。

末岡:じゃあ今も腎臓は悪い?

小林:悪い。分類でいくと、重度の腎不全。だから一時危ないって言われたときは、もう末期の腎不全。5段階ぐらいあるのかな。末期の腎不全。今だから一つ段階よくなってるけど、でも腎不全状態。

末岡:それは普段生活していくうえで、

小林:だから徐々に元気になってるからね(笑)。さっき言ったように、叩いたりね、するようになったしね。一時はもうやっぱりかなりしんどくて、寝てることが多かったし。だんだんそういうふうになって、戻っていってる。人間の回復力っていうのはすごいなと思って。

末岡:入院とかってしたんですか? [02:10:00]

小林:したんですよ。だからそのとき2週間ぐらい入ったかな。ハイケアユニット、HCU(エイチシーユー)という病室。看護師さんがいろんなケアをするところに2週間いたのかな。だからまあ短期で入るところだから。

末岡:今はじゃあ一応、家で治療をしながら?

小林:だから月1回お医者さんが来て、で、週1回看護師さんが来て、で、検査をしたりね。検査も、だから血液なんか採るときにも、両腕から採らないじゃない? 右手からだけだと、「こっち!」って。だからそういうシンメトリーっていうのか、血圧測るのも両方からで測らないと彼は納得しないんですよ。あのこだわりというか、彼の特性というか。

末岡:じゃあどうなんですかね、なんかわりと大変な時期なのか、

小林:うん、もうまあだいぶ落ち着いてきているけど、まあ。で、病院だと服を着るでしょ、あの浴衣みたいなのね。それまで服着てなかったんですよ。もうこの10年以上、シーツを腰に巻いたの一枚だけね。紐をつけて腰巻きで。真冬寒いんだけど、でもそれ一枚。それで外へ出ていって、落ち葉拾いをすると(笑)。それがね、入院して退院したあとはね、上だけだけど、作務衣みたいな浴衣の上だけみたいなやつ、今着てるんです。

末岡:それは何で?

小林:それが不思議なんだよ。だから病院に入ってるときの習慣が、彼のそれまでの習慣を変えた。

末岡:なんですかね、「病院入ったら体が良くなった」とかが、なんか覚えてるんですかね?

小林:うん。服を着てたのが心地よかったのか。だからそういう経験をね、もっと子どもの頃から積んでるとね、違ってたのかなあと。

末岡:本人にとってはたぶんすごい意味あったんですね。  すいません。なんか今日はけっこうもう2時間くらい話してもらったんで、

小林:うん。はいはい。これぐらいでいいですか?

末岡:お忙しいところ。

小林:いえいえ。

末岡:できればやっぱり、もしお時間取れるようだったら、やっぱり実際に奈良に行って梅谷さんのお母さまにお話を聞きたいなという気持ちもあるんですけど。

小林:そうですね。立岩さんなんかと一緒に行ったらどうですか? 立岩さんも会ってないんちゃうかな? なんか集会で会うんかな。

末岡:ああそうか、梅谷さんのほうが来て。「大柳生じたいには行ったことない」とおっしゃってたと思うんですけど。

小林:一回誘って行ってきたらどうですか? まあそういう厳しい状態であるからってことは一応念頭に入れて、できるだけそういう生活をじゃましないというか、配慮しなきゃいけないってことです。はい。まあ何か聞き漏らしたことがあれば、メール送ってくれたらまた返事をしますので。ちょっと今回は返事が遅れて申し訳ない。

末岡:いえいえ、それは全然よろしいんですけど。

小林:先週いっぱい、なんかね、ばたばたしてて。じゃあ、

末岡:一応その、梅谷さんの連絡先とかって聞いてもいいですか?

小林:あ、はいはい。えーとね、どっか書いてないかな。それはもうずいぶん古いと思うんです。えーっと、

末岡:大丈夫ですかね。なんか「小林さんから聞いたんですけど」っていうふうに、

小林:うん、それで十分伝わりますよ。

末岡:ああ、すいません。梅谷さんはメールとかは使われるかた?

小林:うん、よく見てます。

末岡:あ、じゃあメール…、ってことはメールのほうがいいのかな。いや、なんか今回は立岩先生のほうから連絡先うかがったので、メールで小林さんに連絡させてもらってたんですけど。ちゃんと考えるなら、手紙を送るのが一番、礼儀としてはいいのかとか、いろいろ思うんですね。[02:15:10]

小林:ああ、でもついついね、やっぱりメールのほうが便利だもんね。

末岡:まあメールをやってるんだったら、メールに「小林さんに紹介していただきました」っていう、

小林:じゃあ送っといたら、そっちで見れるね。

末岡:はい、今の私の携帯とかで、とりあえずなんとか。すいません、なんかもう3時、あ、もう4時になっちゃう。大丈夫ですか?

小林:ああ、もういいですよ。

末岡:今あれなんですよ、『障害学研究』に修論を出そうと思ってて、ちょっとあと2週間くらいは忙しくなってしまうんですけど、それが終わって11月後半か12月。

小林:寒いね。

末岡:寒いんですけど、ただあんまり遅くなると、年末年始に行きたいっていうのもすごいあれですし。

小林:11月後半、11月の17に、あ、焼き芋のイベントをね、大柳生でやるんですよ。17やったかな、日曜日。

末岡:イベントってどういう?

小林:だから昔からの関係者とかね、で、今入ってる介護者とかが集まって、まあ尚司くんと一緒に焼き芋を食べるという。

末岡:小林さんも行かれる?

小林:ああ、行くんですよ。

末岡:それは外部のかたも…、やっぱ仲間内で?

小林:いや、あのね、関西テレビっていうところがドキュメンタリーを、あの、『そよ風』のその雑誌が終わるときにドキュメンタリーを作って、で、その中に尚司くんも登場するんだよね。そのスタッフも最近来たりしてるんだよね。

末岡:あ、『そよ風』の話、今日は全然聞けなかった。

小林:別に誰が来てもいいんだ。

末岡:その日何も予定はないな。

小林:[メールを打って] じゃあ本文も何もなしで。

末岡:ああ、それはいいです。

小林:届いてない?

末岡:ちょっと今更新します。ああ、はい、届きました。じゃあこちらに連絡を入れさせてもらって。ちょっと、でも早めにやっといたほうがいいと思うんで、いつ頃になるとか。なんか梅谷さん側で忙しい時期とかってあるんでしょうか?

小林:時期というのはそれほどないけどね。

末岡:じゃあまあ常識の範囲内で。

小林:うん。まあ夜ってのはけっこう忙しい。時間帯で言えばね、昼間のほうが。

末岡:ああ、まあそれはそうですね。ほんとになんか30分でも1時間でも時間が取れれば嬉しいですけど。まあそれはもちろん向うの事情のほうに合わせるべきですから。  すいません、ありがとうございます。

小林:いえいえ。

末岡:梅谷さん、長谷川律子さんとは付き合いとかって今でもあるんですか?

小林:僕ですか?

末岡:ああ、いやいや、梅谷さん。

小林:ああ、梅谷さん。たまーに、だから電話をしたりはしてます。もうほとんど外へ出ることはないからね、奈良からね。昔はね、しょっちゅういろんな集会に顔を出してね。長谷川さん元気みたいね。

末岡:そうですね。今もいろいろ【意見聞きます】(02:19:09)。

小林:康治くんもいろいろあったんでしょうけど。

末岡:そうですね、そちらも一応、今いろんなかたにお話聞いてるとこなんですけど。まあなんか康治さん自身は、運動終わってから亡くなるまでの間に介助したかたに話を聞くと、やっぱりなんかすごい運動とか、晩年になると運動とかに携わるのがすごい嫌になったみたいで、それでまあ一人暮らしを始めたみたいな。なんかそうですね、運動でやっぱり周囲に振り回される一面ってのは、すごい本人感じてた。

小林:シンボル、シンボル化されて振り回されてね、大変だったと思うわね。[02:20:00]

末岡:そうですね。シンボルになるってのは、どうなんですか、いいってこともあるけど、やっぱりなんか本人の思いとかから離れた場所で話が盛り上がるみたいな、あんのかな? と。

小林:そうそうそう。それはあるね。そういう、何て言うのかな、偶像みたいなものを作ってしまうからね、支援者が。

末岡:うん、まあ旗印に、

小林:うん、「それに合わせなきゃいけない」みたいなプレッシャーあるし。そうそう。それは大変なんだと思うんだよね。で、結局お酒を相当飲むようになったんだよね。

末岡:そうですね。なんかお酒と薬で、結局それが、

小林:これ持ってってください。

末岡:あ、すいません。なんか今日は、改めましてほんとにありがとうございました。

小林:ああ、こちらこそ、つたない話で申し訳ない。また何かあれば、いつでも遠慮なく言ってください。

末岡:これも貴重な資料ですね、今となっては。

小林:はい。もうほんと数冊しかない。

末岡:すいません。

小林:今日はもうまっすぐ帰っちゃうんですか?

末岡:いや、実はその、せっかく来たからリバティーおおさかと、大阪市内の、大阪圏内の図書館とか回ろうかなと思って、明日まで一応いるつもりです。今日はなんか新今宮の安い宿にとりあえず泊まって。1,500円で泊まれるんですよ(笑)。泊まって明日、そうですね、リバティーおおさかって、行き方、

小林:リバティーおおさか、橋下徹さんになってからかなりひどい状況になって。補助金をカットしたり、「借地料を払え」とか言われて裁判になったりしてね。あそこはあれだね、芦原橋か、環状線のね。何度も行ったことはあるけど。

末岡:これなんか大阪人権博物館が作った、この中に梅谷さんの話とか、りぼん社寄贈のあれこれとか。

小林:はいはい。ありますね。今、だけどこれそのものは置いてないんじゃないかな。どっかへ移管したんじゃないかな。保存してあるのかな。

末岡:東京の国会図書館でコピーしてきた【本なんですけど】(02:21:52)。やっぱ当時の資料とか、まあ博物館って図書館ではないから、どっちがあるのかなとか思うんですけど、ちょっと見てみようと思って。明日までとりあえず大阪にいます。

小林:わかりました。まあがんばってください。学生ってやっぱり生活も大変だしね。

末岡:なかなかそう何べんも来れないんで、来たときに一ぺんに回ろうというのがあって。

小林:そっか。まあがんばってください。

末岡:今日はじゃあ、ほんとにありがとうございました。

小林:いえいえ。じゃあまあ気をつけて。

末岡:はい。あ、これ大したもんじゃないんですけど。

小林:いやいや、そんな気づかいいらない。いらない、ほんと。

末岡:買っちゃったんで。

小林:ああ、すいません、じゃあいただきます。ありがたくいただきます。そんなお金を使うことないのに。

末岡:せっかく、ほんとに急に頼んで、急に時間取ってもらったので、ちょっとでも。

小林:いえいえ。そしたら今、修論?

末岡:私、今修論出して、修論出したのをもう一回学会とかに投稿しようと思って、それを短くまとめて、

小林:ああ、直してるわけね。なるほど。

末岡:それはあの、止揚学園ってご存知ですか?

小林:ああ、知ってます。福井達雨さん。

末岡:そう。その義務化反対運動と、その前にあった就学運動で何か書けないかなということで、今まとめて、

小林:それを修論にしたわけ?

末岡:修論にして。それも、やっぱり実際に止揚学園、今もあるんで、そこに聴き取り調査とか行って、当時の資料とか見せてもらいながら書いたんですけど。

小林:ああ、なるほどね。福井達雨さんとは会った?

末岡:いや、それは直接会えなくて。今は福井生(いくる)さんが園長となったんで。

小林:だいぶお歳やから、もう今、表には出ないんやね。

末岡:そうですね。なんか直接には会ったことないんですけど。

小林:僕はあの、野田事件って知りません? 知的障害の、あの人、

末岡:今、いろんなとこに書かれてますよね。

小林:いや、もう彼が亡くなった…、


[音声終了 02:23:56]



UP:20211008 REV: 20211026(岩ア 弘泰)
小林 敏昭  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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