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長見有人氏インタビュー

20191009 聞き手:立岩真也 於:コモンズ紫野(旧杉江邸)

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長見 有人 i2019 インタビュー(本頁) 2019/10/09 聞き手:立岩 真也 於:コモンズ紫野(旧杉江邸)
◇文字起こし:ココペリ121 100分
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
ALS京都  ◇病者障害者運動史研究

□言及
◇立岩 真也 2020 『(本・1)』,岩波新書

長見:吸引とかできる事業者はないんだと。だからとりあえずスタートするとして、ココペリがどれだけ人、出せますかみたいなことでね。

立岩:志賀〔玲子〕さん★から直接に、甲谷〔匡賛〕さん、ココペリさんにお願いしますって?

長見:とりあえず最初は横浜のね※、単発で一緒に行って。
※2006/11/23〜12/03 甲谷匡賛作品展「A−LSD!」ALSの病床におけるHIGHな出来事 於:横浜
 http://www.livingroom.ne.jp/n/kotani0611.htm

立岩:まず初仕事というか試しというか。

長見:そうですね。

立岩:だから付いてったというか。京都から横浜往復というか。で、あそこの横浜の介助って、胃ろうとかお手伝い。それは長見さん自身がやられたんですか?

長見:いや、西川〔勝〕さん★とか、志賀さんみんな一緒にチーム組んでやった。

立岩:で、ココペリからは?

長見:ココペリからは私一人だったと思いますけどね。この記事知ってますね、この。

立岩:これは『作業療法ジャーナル』の2013年の10月号※。
※河本 のぞみ 20131015 「路地裏で試みられていること――甲谷匡賛さんの周辺」(当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち・4),『作業療法ジャーナル』47-11(2013-10):1254-1262

長見:この人は浜松のOTの女の人なんですけど。

立岩:河本のぞみ。さんずいの河本のひらがなののぞみさんで、作業療法士で、甲谷さんの話をなさっているということですね。

長見:取材をけっこうしっかりね、1週間か2週間かな。何回か浜松から来てくれて、かなり正確にきちんとまとめてくれてるんですよ。

立岩:けっこう長いですね、これ長いね。いいですね。13年だからまあまあひと段落というか、経ってからまとめられた記事ですね。それであの時横浜行かれて、もう最初っからというか甲谷さんの介助にココペリとしては2005年からでいいんですか?

長見:そうなりますかね。ココペリというかまあまあボランティアですけども、私を含め。

立岩:まだ制度が取れてない、制度化以前。

長見:そうですね、要するにずっと入院中ですから甲谷さん。で、2006年かな。2006年の夏に、一人暮らしっていうか、このすぐ横ですね、そこで始められるんですが。どこになるのかな。

立岩:西陣の職工さん、その織ってる人の家。大改装してそこに住むようになったんですよ。それは阪田〔弘〕さんって、その建築のほうの研究者というか大学の教員がいて、彼が設計してくれて、僕もちょっと出入りして。なんか壁塗ったりするの、ちょこっとだけ、

長見:(笑)そうですね。なんかやりましたよね。ここがね、もうボロボロだったんですよ。それで今、もうちょっと離れた鞍馬口のほうにね、そこもまあボロボロなんだけど、みんなでね。

立岩:ボロボロの家をけっこうきれいなリフォームをしてガラッと変えてっていうのが、あれが2006年ぐらいか?

長見:2007年でしょうね、たぶんね。2006年にまずこっちへ住みだしてと思うんですけどね。ああでもこれだと2006年の11月に横浜美術館アートギャラリーって書いてありますね。それから2007年かな、そしたら。2007年でしょうね※。
※2007/08 甲谷、独居開始(河本[2013:1259])

同席者:京都のほうがこういう介助のやりやすいちょっと広めの民家みたいなんが多いんですかね? 大阪やったら、

立岩:そうでもないんですけど、うん、ここはそこの今曲がってくる所に、ちょっとこっちに酒屋さんがあるんですけど、その酒屋さんの持ち物の家で、ご好意でというかずっとかなり安く含めて貸してくれてるっていう物件らしいですよ。向こうは西陣のほうのほんとに狭いっちゃ狭い。ほんとそこで織物を織ってた、織機があってっていうような家を大改造して。だから一軒家ですけど、そんなに広いわけではない、建坪としてはね。っていうようなそういうものはまあまああるんじゃないですか。京都でそういう自宅兼仕事場みたいなそういう所をなんだろうな、たまたまというか、見つけてということだったのか。それもちょっと記憶にないんですけどね。それが一方あって、それから甲谷さん単身だったので、とにかく、その志賀さん、志賀さんもさっき立ち話した時説明した、いったら踊りのほうの体のほうの関係の友達でっていう。友達の友達で最初ボランティアベースで入ったりとかっていうことだったんですよ。
 それが、これじゃあ立ち行かないというかそういうことで、それもはっきりしないんですけど、2007年なのかな。京都市にね、制度で賄えと、時間出せという交渉をしに行ったんです。僕もしばらく前まで忘れてたんだけど、僕も行ったんですわ。10人ぐらい行ったかもしんないですね。介助者もいたし、本人もいたし、僕も後ろのほうにいたし、それから京都新聞の記者もいたしっていうんで行って。言ってみれば現物見せてっていうか、これこうですよと、どうにもならんでしょと。いうことで、障害福祉課長かな、にこう言って。けっこう詰問というか、はっきり言って驚くほどというか、生活保護の他人介護加算にしても知らんのですよ。そこはちょっとこう揚げ足じゃないですよね、ほんとに本筋ですけれども、「そんなことも知らんのか」というようなことを、僕もだんだん言われて思い出したんですけど、かなり後半のほうで僕もかなり声を荒げるというか、「そんなんじゃ、それでお前役人やってるのか」みたいなことをたぶん言ったん(笑)。
 それで、そういうことがあって、甲谷さんがまあいったら24時間介護が取れる、公的介助が取れる第1号になってっていう、そういう経緯なんですよね。それが一方にあって。阪田さん、その建築のほうが建ててくれて、で制度取って、それで甲谷さんの知り合いだった、ダンサーってそんなに儲かるわけでもないしさ、けっこう昼間暇だったり、夜暇だったりするじゃないですか。そうするとアルバイトで来て、そっちのほうで稼いで、その舞踏なら舞踏でそんなにお金になるわけではない、そっちのほうで頑張るみたいな、そういうちょっと都合のいいというか組み合わせが実現して、それが第1号で。で、そういう友達たちもいたんだろうけれども、そういう今長見さんおっしゃったように、ある種のだんだん状態が進んでって、吸引だのなんだのなった時にはやっぱりそういうテクニックというかできる人も要るし。で、やっぱりけっこうずっと最初から24時間みたいな感じだったんですかね?

長見:そうです、最初からですね。

立岩:だから時間数がいっぱいいるじゃないですか。それはやっぱりどうなんでしょう、ココペリさんけっこう最初期から長い時間入ってたんですかね?

長見:そうですね、ただもう志賀さんたちがほとんどですから、僕ら大阪からの応援部隊は補助的なもんだったんで。

立岩:でも頼まれて、そのココペリ、京都で調達できないっていうか、確保できない時間とかそういうのをココペリが。あれ、あん時は京都外はもうココペリだけですよね? そんなことない?

長見:そうですね。

立岩:そうですよね。あん時はほんとに大阪にいる人が京都まで来たんですか?

長見:そうですね。だから全然事務所もなかったんで、ほんとに4、5人、大阪から通わしましたけどね。

立岩:大阪在住のココペリの職員を京都まで通わして。

長見:だけどほとんど志賀さん、それから由良部さん★、他にもその直接のですから実際にヘルパーみたいな感じで、ほとんどは志賀さんたちのグループで回せてたんですけどね。

立岩:志賀さんっていうの志賀玲子さんっていって、亭主がやっぱ踊り手、踊り手というかけっこう有名な人らしいんですけど。で、彼女自身もそういうプロデュースとか、そんなことをやっている人で、彼女が実質全体の統括というかそういう役回りをされていて。由良部さんっていうのは、やっぱけっこうその筋では有名な、なんて言うの、昔だと暗黒舞踏とかさ、そういう流れですよ。そういう踊り手で。彼もたぶん付き合い長かったんだと思うんですけど、かなり入れ込んでというか今もそうですけど、ずっと長く関わってくれた。

同席者:そういう分野の人とコラボしたっていうのめっちゃおもろいですね。

立岩:うん、あそこは面白いですよ。そういう踊る人もいるし、けっこう複数いるし。あと東京でディスクジョッキーやってた人とかね。今でも時々お皿回してやってますよ。それも僕は知らないんだけど、知ってる人はみんな知ってる。80年代の伝説のディスクジョッキーみたいな人らしいです。ちょっと甲谷さんところは、ちょっと文化系っていうか、そんな感じだよね。今は甲谷さんとこはずっと入ってるの?

長見:ていうか、結局志賀さんたちのもう甲谷さんにだけ入る人たちでほとんど今は回してるんですわ。たまにこっちから入りますけど。

立岩:臨時っていうか。

長見:ええ。要するに事業所として請求しないといけないので、そういう形でココペリは名前だけっていうか、そういう受け皿としてね、やってるだけで。実質的な介護者のローテーションは完全に志賀さんたちで回してるんです。

立岩:登録先というか、そういう形でココペリに雇用というか、そういう人たちがいるっていうそういう感じなんですか?

長見:それで社会保険とかうちに入ってもらって、いろんなことをしてますけどね。

同席者:京都でそもそもALSでそうやって自立生活してる人って、何人ぐらい関わらはったんですか?

立岩:たぶん自立生活の、それこそ定義ですけど、一人でっていうのはほんとに甲谷さんが最初だったんですか?

長見:最初だと思いますよ、ほんと。その次ぐらいが杉江杉江〔眞人〕さんになるんだろうと思うんですけどね。

立岩:そうですよね。

長見:次の年ですからね、杉江さんはね。だから、

立岩:そうか。1年しか間空いてないのか。

長見:間空いてないです。2007年の8月に甲谷さんが病院出てこっちで始められてね。で2008年のやっぱり7月ぐらいだったと思うんです、杉江さんは。

立岩:その2008年の7月っていうのが杉江さんが、それも調べりゃすぐわかることだけれども、病院行って戻ってきてこの場所を借りてっていう一連の流れがあったじゃないですか。

長見:最初はあっちの梅津のほうにね、もともとの自分の家で何ヶ月かやって、そっからこっちへ引っ越して来られた。それでちょうど5年間ここでね、住んでおられて。ちょうど6年前の今日、亡くなられたんですわ。

立岩:今日が10月の9日か、10月の9日が命日?

長見:そうなんです。

立岩:2008年か。

長見:2008年で5年で2013年に亡くなられて。

立岩:甲谷さんの時の経緯は先ほど言った、西川、志賀っていうそういう経路だとして、杉江さん時は、ココペリさんが…長見さんたちが関わるっていうのはどういう経緯だったんですか?

長見:それは西田美紀さんが志賀さんたちに、新聞記事でけっこう見ますね、京都新聞とか出てるから、甲谷さんのことは。それでALSで一人暮らししてるっていうんで、西田さんはそん時は梁山会診療所の看護師さんだったかな。それでもちろん立命館の大学院にも行っていたんだと思うんですけど。それで宇多野病院に来てくださいっていうことで僕行って、杉江さんに会ったんですよ。

立岩:じゃ西田さんが長見さんに連絡してきた?

長見:そうですね。

立岩:西田さんは長見さんをどうやって知ったんですか?

長見:その新聞記事見てまず志賀さんに、

立岩:西田さんが志賀さんに連絡した。志賀さんが長見さんの連絡先を教えた。そういう感じね。西田さんっていうのは看護師さんで、大学の助教か講師かな、やってる人なんですけど。うちの大学院生でもあって、彼女は梁山会か、っていうその所のデイケア、

(来客)

来客:こんにちは。長見さんすみません。時間がわからなくて。すみません。

長見:一応今、レコ中ですから。

来客:ごめんなさい。

立岩:全然、全然、全然構わないですよ。そいで、そこのデイケアの所でアルバイトで、看護師としてそこで入ってたんですよ。そしたらそのデイケアの場所の隅のほうで、暗い男性が一人いて、聞いたらALSだと。だけど今、単身で、京大病院行ったけど、端的に言えば「呼吸器なんか着けないで早く死んじゃえ」みたいな、そういう流れの話になってて。けっこう先行きなんにも見えず、暗いと。西田さんが、それでなんか、なんかしようがあるのかってたぶん思ったんですね。で、そういうことで、先例というかそういうものとして。甲谷さん、たぶんその時にはすでに僕らは彼女のこと、お付き合いもあったしっていうことで、それで長見さんとこか。そういう話なんだよね、たぶんね。

長見:それでやっぱり、そうなると甲谷さんのところはもう甲谷さんだけで精一杯ですから、この杉江さんのところは他の事業所と一緒に入ったんですけどね、やっぱ他の事業者は時間通りしかやらないんで、全然時間数足りないですから。それとどんどんやっぱり進行が早くて、そいで確か先生が、もう立命のほうの学生とかがいるからこっちへ引っ越したほうがいいよって言って、それで10月ぐらいですかね、なんか引っ越したんですよ。3ヶ月だけ梅津だったと思いますね。

立岩:ここの家探してきたの誰だろう?

長見:長谷川唯ちゃんと〔山本〕晋輔くんか。

立岩:山本くんね。

長見:山本晋輔くん。だから阪田先生のコネじゃないかなと思うんですけどね。こういう古民家を改造するとかっていうルートで。ここ4万5千円ですからね、すごい安いんですよ、ほんとにね。ほんとにね、すっごいいい大家さんですよ。

立岩:阪田さんってそういう、古民家じゃないけど、町屋とかそういうの直して面白くするみたいな。だから普通の物件じゃないわけですよね。普通の不動産屋に出てる物件っていう感じじゃないのを、やっぱそういう伝手でっていうか、その自分の活動、経過の中で知ってるっていうことなんだろうね。それで笑っちゃったのは、僕、今、自分の北山の家を改築してて、今もやってるんですけど。それで大改築なので住むとこなくて、家のすぐ近所のアパート、月4万3千円なんですけどそこを仮住まい、といっても1年以上そこに住んでたんですが。それをこないだ、長谷川、今名前出た長谷川唯っていうのも、山本晋輔っていうのも僕のところの大学院生で、2人とも博士号取ってもう終了してるんですけど、その連中もずっと最初から杉江さん関わって。で、長谷川に聞いたら、僕が今住んでるアパートを候補として検討したことがあって、下手すると、下手するとっていうか杉江さん、僕が改築の時に住んでたアパートの隣人だったかもしれないっていう話があったっていう。

長見:ああ、そうですか(笑)。

立岩:別にそれはたいした話じゃないですけど、そんなことがあって。でも杉江さん大変でしたよねえ。

同席者:それはキャラクター的に大変やった?

立岩:うん、キャラクター的にも大変。もう一番目の甲谷さん時に制度はかなり前例として取れてたんで、いってみればその杉江さんに関してはそれを踏襲というか、状態ほぼ同じで単身でって、だったら文句はないですよねっていう、役所だから一例目に出しちゃえば、二例目もっていう。そういう、そこはわりとすんなり僕の了解ではすんなりいったんだが、しかし、まあ。結局杉江さんここで何年暮らされてたんですか?

長見:ですから5年。

立岩:ちょうど5年?

長見:ちょうど5年なんですよ、ほんとに。10月に越してきて、10月9日に亡くなられて。

同席者:看取りまでここでやらはったんですか?

長見:そうなんですよ。

立岩:がんでしたよね、最期はね。

同席者:最期がんですか。

長見:がんだったんですよ。胃がんがもう転移しちゃってて、もうちょっと再手術はできないっていう感じで言ってましたけどね。最後はもう天井に白い紙貼って、プロジェクターでいろいろ映画見たりして(笑)。[00:20:02]

立岩:DVDいっぱいあったよね。映画はいっぱいあった。

長見:レーザーディスクとかあるんですけどね。最後は『崖の上のポニョ』だっけな、あれをけっこう見てはって。今日は『雨に唄えば』って、19時からやるんですけどね。それはわりとミュージカルとかね、宝塚とかね、ハリウッドもそういう、好きなんですよ。

立岩:そっち系が好きだったんだ。だけど2007年か、違うか、8年、9年。

長見:8年が杉江さん。7年が甲谷さんのスタートです。

立岩:たぶんいろいろ思い出したり、彼らが書いた論文とか、引っ張り出せば順番がわかると思うんだけど。とにかく結局そういう成り行きでその西田、今度は西田さんっていう看護師、女性の看護師さんが中心というか、成り行きでその志賀さんみたいなことを担うことになるんだけれども。善し悪し別として、甲谷さんはわりと早く喋れなくなるんですよ。で、喋れないってことは要するに文句も言えないっていうか、言わないっていうか、そういうこともあったりして。甲谷さんも大変な時期が何年かあったんですけど、ある意味落ち着くっていうか、なんだけれども。杉江さんの場合はすごい困難だけれども発話できるっていう中で、ほんとに細かい姿勢であったり、なんやかんや、

同席者:指示が多かった?

立岩:指示が多くて、そこの中にはやっぱ介助してる側にとってみれば理不尽というか、としか思われないというか、そういうようなこともあって。僕の大学院生であったり、関係者であったりしたのが何人もここに来てましたけれども、そのうちの何人かは、まあ、喧嘩して別れるというか、離れるというか。そういうようなことも立て続けてあって、じゃみんなでどうするみたいな、暗ーい中会議とか、飲み屋とかでやったりとか。西田さんは今でもまだ治ってないんだけど円形脱毛症ができちゃって、この辺に2つ。なんかけっこう大きいのができたりして、今でもあるんだよ、この前も見せてもらいましたけど(笑)。ほんと、何年だったかな、新入生歓迎会みたいなね、大学院生であるんだけど、西田さん来てもすっごい暗くって、いや、ほんとに、普通に大変でした。普通にっていうか、大変に大変でしたね。



同席者:長見さんに前からね、聞きたかって、今日こういう機会やから聞きたいのは、長見さんはもともとは重度の脳性麻痺の人とかの施設にいてはって、で、大阪では脳性麻痺の人の活動がけっこう活発なんで、そっちの方面の活動、いろいろ障害者と関わってはったのが、介護保険が立ち上がった時に、介護保険の権利擁護のことやらはって、ホスピスに向かって行って、ほんでALSに行ったじゃないですか? その辺の繋がりとかどういうことなんやろう。

長見:ああ、ホスピスはね、あれはね、全然関係ないんですよ。西川さんが、その在宅ホスピス…、なんやったっけな、もう一つ、なんせそういう市民と学者さんっていうか、医者とかが一緒にやるそういう在宅ケアか、在宅ケアホスピスってやつですね。研究会っていうのが、全国で持ち回りでやるやつ。それで大阪大会ってちょうど2002年ぐらいにあったんですね。そん時は障害者の性的介助のやつで、横須賀〔俊司〕さんとかいっぱい来てもらったんですよ。

立岩:そんなことあったんだ。

長見:三島〔亜紀子〕さんとかそういう人たちが。あん時は国際会議場だったんですね、大阪の中之島のね。だからそのホスピス自体は僕はそんなに興味はなかったんですけど、

同席者:そうなんだ。

長見:そうそう、ほんとに。ALSはね、僕らの施設はやっぱり医療的ケア、看護師も1人しかいないし、結局脊損の二分脊椎の子をちょっとやったぐらいで、ほとんど医療的ケアの必要な人はもうお断りしてたっていうかね。

立岩:どういう施設っていうか、どこにある、どういう名前の?

長見:枚方ですね。

立岩:枚方。

長見:これには載ってないか。枚方にある「わらしべ園」っていう所ですね。最初は、78年の頃は、

立岩:わらしべは、

長見:ひらがなです。

立岩:ひらがなでわらしべ。

長見:わらしべ学園って脳性麻痺の3歳ぐらいの子どもを中心にやってたんですね。それが78年ぐらいで。僕はその最初に子どもと一緒にハンガリーに半年留学っていうかね、それで行ったことがあるんですけど、その後また入り直して4年制のあっちの大学を出て、で、戻ってきた時はもう大人の施設になってて、わらしべ学園じゃなくてわらしべ園になってて、児童はほんの一部ていうか。認可がおりなかったのね、児童のほうはね。

立岩:その大学に行かれる前に、そこの施設にどういう形で関わられておられたっていう話なんですか?

長見:その僕の友達を紹介して、そのハンガリーのやり方でやってる脳性麻痺のための施設があるっていうんでね。で最初はその友達の紹介して、それから僕の友達の姪っ子さんがね、ちょうど脳性麻痺の女の子で入ってたんで、その子と一緒に半年ハンガリーに留学すると。それで人がいないからっていうか、

立岩:ハンガリー? ハンガリーにその子どもさんと行った?

長見:5人のね、3歳児と一緒に行ったんですよ。あんまり詳しくは書いてないと思うんですけど、ペトゥーさんっていうね、ハンガリーのペトゥー法とかって言われてますけどね。そっちにあの、

立岩:その5人っていうのはそのわらしべ園っていう所にいた子どもたちで、その子どもたち5人と長見さんがハンガリーにそのやり方っていうのを勉強しにってことですか? 行った?

長見:スタッフは8人ぐらいいたかな。

立岩:8人っていうのは向こうの?

長見:いやいや、こっちの。

立岩:日本側からスタッフが8人、子どもが5人、団体でっていうか行って。それはどうだったんですか?

長見:まあ(笑)。

立岩:どういうもんなんですか? だいたい。ちょっと想像できないっていうかピンと来ないっていうか。

長見:なんていうか、グループ療法みたいな感じですね。だからグループで一緒に体操するような感じでプログラムが組まれてて。それと普通向こうは幼稚園とか小学校の授業も普通にやるんです。同じコンダクターっていうんですけど、コンダクターが授業も教えるし、そういう日常生活のいろんなことも教えるし、それから体を動かすプログラムもやるというやり方なんですよね。

立岩:尾川〔知〕くんが翻訳してるっていうのは、それ、その、

長見:ああ、あれね、ちょっと関係ありますけど、あれはもう、あれはグループっていうよりもそのお母さんを教えるっていうか、お母さんに。0歳児の話なんだ、あれは。

立岩:そういうことか。

長見:ハンガリーだったら母子通園っていうかね、

立岩:そのハンガリーのその療法っていうのかな、それは長見さんがどっかで仕入れてきた?

長見:違うんですよ。わらしべ学園のその村井正直(まさなお)先生っていうそういうドクターが、あちこちから聞いて、イギリスでもやってたんです。そのイギリスのほうに、ボバース法っていうの勉強に行ってて、ほとんどマンツーマンのPTがやるやり方なんだけども。ロンドンでやってる人は、ハンガリー行って、そういうグループ療法みたいな、ロンドンでもやってたんですよ。そっちに村井先生が最初行って、

立岩:わらしべ園にその情報がもたらされ。

長見:わらしべ学園はそれから作るわけです。村井医院っていう普通の開業医だったんです。

立岩:開業医だったものが、そういう勉強してきて帰ってきて、そういうことやろうと話になって、スタッフがおり子どもたちが入りっていうふうにしてでてきた、

長見:できたばっかりです、1978年。

立岩:それはなにかしらの公的な位置付けっていうのがあったような施設なんですか?

長見:村井医院っていうそういう開業して普通の、医院に付属した施設っていう形なんで、特に認可施設ではないですね。

立岩:じゃなくて。その5人っていうのもそこにいる人みんなみたいな感じ?

長見:最初はね。ですから帰ってきたら今度はたくさん増えたんで、50人とかになるんですけど。

立岩:いっちゃん最初は、もう最初に入ってきた子たち5人と、そこの時にその時点でいたスタッフと、みんなでハンガリー行った。お金もかかったでしょうね。それはお医者さん、村井さんがお金出して、

長見:ご夫婦で医者やってたんで、だから東大阪の布施のほうに、奥さんのほうは陽子先生ですね、村井陽子先生が開業して、それで枚方のほうは村井正直先生が開業してると。その2つの医院の、

立岩:お金持って。どうでした? そのハンガリー半年って。ハンガリーってこれからも僕は行くことはないだろうけど(笑)、なんかでもいい国なのかなとか思いますね。

長見:いい国だと僕は思いますよ。たまたまですけど、最近ね、『サタンタンゴ』っていうね映画がね、7時間18分か。これは2003年にシネ・ヌーヴォでやったチラシなんですけど。今再びその4Kデジタルリマスター版とかっていうんで、かなりお客さん入ってますよ。こっちもね、京都シネマや出町座でも今やってるとこですわ、京都市内のほうね。だから1日ががりです、みんな。

立岩:どういう映画、7時間。でもハンガリー行って、それなりにその半年間は長見さん的にはどうだったんですか? なんか得るものがあって帰ってきたぞって感じだったのか、

長見:そうですね、得るものはあって帰ってきたんだけど、ちょっとね、よくなかったですね。ついついこうなんかそれで偉そうになってしまってね。しかもだからもう一回、今度は一人でそこの大学に入り直すんですけどね。

立岩:そこっていうのはどこ?

長見:ペトゥー研究所にそういう4年制の大学があるんですよ、コンダクターの養成大学。

立岩:ハンガリー?

長見:ブタペストですね。

立岩:長見さん、ハンガリーの大学入っちゃったってことですか?

長見:施設に最初入って、そっからちゃんとライセンスを取りに行けってことで。

立岩:何年、大学に入っ…、

長見:4年。

立岩:いや1900で言うと。

長見:1979年ですよ。ですから半年だけ子どもらと一緒に。

立岩:半年ハンガリーにいて、その子たちは帰ったけど、長見さんはハンガリーの大学へ入っちゃった。

長見:だから一緒に帰ってきましたよ。それでまた、すごく人数の多い子と一緒に半年やって、それから、

立岩:半年やって、半年戻ってきて、その後ハンガリーの大学に、大学生になったって、ハンガリーの大学の大学生になったってことですか?

長見:ペトゥー研究所の中にあるコンダクター養成大学ってやつですから、これ結局ね、みんなハンガリーの学生は給料もらえるんですよ。

立岩:そこで勤めながら的なやつ? でもさ、ハンガリーの大学ってハンガリー語とかできなきゃだめなんじゃないですか?

長見:そうですね。

立岩:長見さんハンガリー語できるんだ。

長見:あの頃はね。あの頃はこの映画見てほとんど聞き取れたからね。俺もまだ捨てたもんじゃないなとか思うけど、もう20年以上喋ってませんよ、全然。

立岩:すごい、ハンガリー語できちゃうんだ。長見さんって何年生まれですか?



長見:1952年ですね。

立岩:52年。この頃、52年、3年の人が多くって。まとめて52年、3年なんですよ。そうやってだんだん遡ると果てしなく、現在に戻ってこれなくなるんですけど、そのうち最近の話も聞く機会はいくらでもあるだろうからあえて聞きますけど。52年でしょう、52年で、で、その最初のそこに行く前って何? 学校は高校?

長見:高校は札幌ですね。元々はだから3つまで出町柳の近くで生まれて、

立岩:元は京都なんだ。

長見:母方がミシン屋なんで、今でもあるんですけどね。

立岩:出町の辺りの?

長見:河原町今出川にある「大平ミシン店」って、シンガーミシンって書いてある。いとこがやってますけどね、今ね。そっから北海道の千歳行って、父親が米軍の通訳やってたんで。それで小・中は千歳で。高校は汽車通でね、汽車通で札幌北高校ってとこ行って。そうしてたらいろいろね、大学闘争が北大なんかこうね、バリケード張って、僕らの部屋もあったりして(笑)。

立岩:なんかほとんど同じ話を僕、金沢で聞いて※。やっぱ出身が札幌で、札幌その頃ってまだ高校にそういう、あったって、そういう。
※田中 啓一 i2018 インタビュー 2018/01/31 聞き手:立岩真也 於:金沢市・田中さん自宅

長見:そうですね、高校の、

立岩:全共闘運動を引き継ぐような運動が高校に、高校もだから南高校、

長見:一番あれですね、優秀なとこですけど。僕は北高校ですね。

立岩:でも北と南ってあれでしょう、けっこう札幌というか北海道ではブランドなんでしょう?

長見:まあね、知りませんけどね。

立岩:なんかそうみたいですよ。そいで北海道って全道からその札幌の高校に来れるシステムなんですか? そんなこと聞いたような気がする。

長見:どうだったかな。そういや公立高校でも別に、僕、千歳から通ってたわけだしね。

立岩:そうだよね。そうでしょう。

長見:千歳高校ってまた別にあるんだから学区はそうですね、わりと自由だったかもしれないですね。

立岩:高校でそんな感じの雰囲気のまだそういう全共闘運動のなんか動きがまだ残存というか、するような所で高校生活を送り、それでどうなったんですか?



長見:それで東京教育大学ってとこに一応入るんですけどね。

立岩:まだ教育大学だった時の教育大学。それ何年ですか? 何年入学?

長見:71年です。僕らの一つ下の学年までで終わりなんですよ、教育大はね。

立岩:一つ下まで、その後筑波になるわけだね。

長見:6年って最初から6年以内に卒業となってて、僕は4年でとても単位取れなかったからもう退学しましたけど。

立岩:4年でもう退学しちゃった? 6年も7年もいたわけじゃなくて、

長見:だって6年までしか居れないのに、

立岩:居れないのに4年経っても単位が取れてないから。その頃のキャンパスって?

長見:茗荷谷と駒場です。僕、駒場の農学部があってその中に駒場寮ってあってね、僕は理学部だったから、

立岩:何学部?

長見:理学部だから茗荷谷なんですけども、住んでたとこは最初1年半ぐらい駒場寮に住んでたんですよ。

立岩:理学部? 何になろうとしてたんですか?

長見:小さい時は南極行きたくて、そいで地質鉱物で。もうほとんどもう受験の時はね、たいした情熱はなかったですけどね。でもとにかく授業料安いし、親から早く自立したかったから。

立岩:南極観測隊ってなんかちょっと、なんか夢だった時期があったよね、確かにね。なんか、そういう世代っていうか、時代っていうか。しらせ隊員、それはずっと前だ。理学部だったんだ。けっこうそういう人も多くて、実は理系だったみたいな人って。金沢で聞いた人も工学部だったかな、札幌出身で。変なとこ似てる。4年間で単位取れなかったってことは何してたってことですか?

長見:やっぱりそういう運動をやってたんで、捕まって起訴されたこともあるし、あとアルバイトですね。アルバイトでしっかりやらなきゃいけないし。そんなんですね。だいたい朝がね、朝の語学が取れなかった(笑)。

立岩:71年に入って、その頃っていろんな、今でもないことはないですけど党派があったりとか、あったじゃない、そういうことじゃないですか。その教育大って、どっか勢力があったとか?

長見:わりと緑のヘルメットの共学同っていって、そのあとプロ学同とかになってくんですけど、そこの勢力が強かったですね。フロントとかもう一つ共学同…、なんかあったんですけどね。そのあとプロ学同とかになるんですけど。僕はそのシンパみたいなのかな、ノンセクトなんだけども、デモとか一緒にやるのはその人たちとわりと行ったし、三里塚とかも…。

立岩:その頃だと三里塚、あとは何?

長見:沖縄闘争ですね。

立岩:沖縄、70、そうか71年で、72年が返還ですから。

長見:僕、捕まったのね。東大の駒場寮で捕まったんです。

立岩:駒場寮で捕まった? 駒場寮まで警察来たってこと?

長見:そうそう入ってきました。

立岩:だめじゃん(笑)。

長見:だからね、中核派が先に渋谷暴動っていってガーッと交番焼いたりなんかして、その2日後ぐらいにその他のアオカイ(社青同解放派)とかみんなで、非中核はみんな。ところが全然組織がバラバラだしね、とにかく東大にまだ駒場寮、駒場に集まって、そっから無届けデモで渋谷に向かって行くんですけど、圧倒的にもう機動隊に、

立岩:中核がやった後、中核じゃない部分もなんか俺たちもやんなきゃみたいな話なのかな?

長見:だったような気がするね。あんまりいい加減なもんだったと思うよ。

立岩:それで非中核のなんか統率が取れてないような輩が集まって渋谷に繰り出したが、多勢に無勢というか、

長見:で押し返されて、それで結局駒場寮に逃げ込んだんだけど、駒場寮の奴はさ、もう民青多いですから絶対入れてくれないの。

立岩:建物に入れなかったの?

長見:入れなかったです。逆になんかいろいろ物投げられましたよ。

立岩:あの頃駒場は民青だったか。それで入れないまま、警察がそのキャンパスの中入ってきて、

長見:もうバッカバッカ、みんなもう全員逮捕ですよ。

立岩:いっぺんに? 連れられて?

長見:だから71年の11月19日。批准阻止、沖縄返還(協定)批准阻止っていうことだったんですね。あの時は渋谷の中核のやつは14日だったかな。14日と19日でもうとにかくどこの留置場もみんないっぱい。何千人捕まえたのかな。

同席者:捕まえんでええやんね。そんな入られへんのに。

立岩:そこにまあまあ、どのぐらい滞在してた記憶があります?

長見:僕、町田署にね、23日いたのかな。それで起訴されて、そして今度は中野刑務所の中にある留置場に独房に入れられてね、全部で35日です。

立岩:いっぱいだから、町田まで連れて行かれたってことか。たぶんそうですよね。駒場じゃ、目黒署じゃ足りなかった。

長見:もう県外まで行ってたんじゃないかな、都外まで。

立岩:町田まで連れて行かれて。その逮捕劇は結局どうなったんですか?

長見:起訴されたんだけど、ちょうどね少年法のおかげで二十歳になるちょっと前やったんです、19歳やったんですよ。完全黙秘だったから、起訴された時点で弁護士さんが「もう名前言っていいですよ」と。年齢言ったら「出られますよ」って。出られると思ったらすぐ出られなくてね。起訴猶予かなんか、家庭裁判所かなんかに送られるんです、次ね。

立岩:二十歳過ぎだったらもっと正規のルートでということになったはずだが19だった。

長見:実刑かなんか受けたんでしょうね。

立岩:それは何、容疑は? 何したってことなの?

長見:凶器準備集合罪、公務執行妨害かな。だから火炎瓶みんな持って行くんですけど、僕は絶対機動隊に当たらないようにしようと思って違うとこ投げてましたけどね。やっぱりね、三里塚ですごい悲惨なことがあったんで、機動隊でもやっぱり人間だし、命ね、関わってるから。

立岩:三里塚で機動隊がやられた時。

長見:3人亡くなられた時の東峰十字路か。あれなんかほんとにね、うまいこと逃げて帰ってこれたけど、相当リンチ受けたんじゃないかなと、捕まった奴はね、思うけど。

立岩:それが71年って、1年生、2年生の時?

長見:1年生です。

立岩:19歳だったんでってことで、そん時はそれで。家庭裁判所か、送られたけど実刑だのなんだのって話にはなんなくて、戻ってきて、それが1年生ですよね。でも4年間やっぱり学校行かないでいろいろやってた?

長見:そうですね。主にね、やっぱりいろんな闘争、地域闘争とか個別闘争にって分かれるんですね。やっぱり島田療育園とかあっちの障害者運動のほうを支援してる奴もいましたよ。

立岩:その時点でいた?

長見:ええ。教育大も特殊教育っていう学科があって、そこの学生なんかが青い芝のほう支援してましたね。

立岩:そんな人もいたんだ。

長見:僕はそれであとチッソのそういう本社前の座り込みとかああいうやつとか手伝ったりしたけど、一番多いのは光文社っていう光る文の、

立岩:カッパ。

長見:カッパですね。あそこの労働争議の支援ですね、あれが一番長かったです、2年ぐらいやってました。

立岩:ありましたね。なんだったんだろう。

長見:三労組っていってね、いろいろあるんですけど、記者労組と非常勤のほうとそれから正社員のとあるんですけど。けっこう正社員なんかすごい、100万円のボーナスなんかもらってる奴は労働者じゃないとかみんな言われたけど、だけど労働者ですよ。ほんとみんな必死にこうアルバイトやり。暴力団とやりあってね。だからもう暴力団にだいぶやられたんです、僕も蹴られたり、殴られたり。

立岩:今ね、そういう研究、その警備業の…暴力団出身的警備業がスト破りっていうか、ストやってる人弾圧というか鎮圧というかするじゃないですか。警備業の人たちが、ていうか業界がどういうふうにって研究してる奴がいてね、面白いっちゃ面白いですけど。そういう奴にボコボコにされたり、した。それ三里塚でしょう、光文社でしょう。チッソにもちょっと、

長見:川本さんって人が座り込みやってるやつと、やっぱり、

立岩:川本輝夫か。

長見:手薄になるとそれこそ暴力団来るので、ローテーションで行って、ある程度4、5人は居るようにしようみたいな感じで支援やってましたけどね。それはそんなに長くないですよ、川本さんのやつはね。

立岩:そんなことやってたら4年が経ち、卒業できる見込みもなく退学しちゃい。で、それが71だと75年ぐらい?

長見:そうですね、75年。ちょうどベトナム戦争がね、終わるのが5月ですわ。そのちょっと前に退学届出したと思うんだけどね。

立岩:75でしょう。75年退学した、で、どうしたんですか?

■退学後

長見:そん時にね、もうこんな話するとね、ほんとキリがないですけど、バカみたいな話なんだけど、ブラジルに行かないかって話があって。で、その友達、農学部のなんかあるんです、その木材関係のやつとかね、林業か農業、そっちのやつがおじさんがブラジルで合板の会社やってて、

立岩:合板?

長見:ヘリコプターでこう見て、あの木使える、この木使えるって、それだけでいいんだとかって言われてね、こういうバカなことを信じてね。ただし、その行きの飛行機代は自分で出さなきゃだめだと。そしたらちょっと向こうで、こんなんだいたい怪しげな話だし手に職つけとかなあかんなと思って、配管工になろうとした。だから冷暖房のこう。それで親方一人弟子一人みたいな感じでね、最初のとこは2ヶ月不払いね。

立岩:その配管工の資格かなんか取られた?

長見:資格は関係なかったと思うね。みんな勝手にやってましたよ。

立岩:その配管の会社に雇われ、

長見:会社っていうか、個人ですけどね。

立岩:個人営業みたいな、事業主みたいなのに雇われたけど2ヶ月給料出なかった。ほんでどうしたの?

長見:そしたらその分をまた肩代わりしてくれる別の親方がいて、それを2ヶ月分払ってやるし、うち来ないかって言われて。今度はそいつはね、若いくせにね、よう殴るんですよ、ポンポン。おまえ23にもなってそんなにトロかったらだめだろう、パーンパーンってね、随分殴られたね、俺もね。なんかね。

立岩:東京?

長見:東京ですよ。

立岩:東京どこら辺?

長見:中野ですよ。

立岩:中野。中野の配管工の親父に殴られ。

長見:いよいよね、僕もバカバカしくなってね、やっぱり1年ちょっとやったかな。それぐらいで、

立岩:2ヶ月ぐらいやって給料未払いで、別の所行って殴られながら1年ぐらい働いた。

長見:1年も行かなかったかもしんないけどやりました、とにかく。76年に入ってようやくもうブラジルは諦めようと。

立岩:結局ブラジルはやめた?

長見:お金ないですからね。

立岩:行く時の自分のあれがないと行けないから。でもそれで配管工やっても、そのお金が貯まるわけでもなかったと。なのでブラジルはやめた。やめて76年。

長見:それでバイトニュース見て、そしたらインターナショナルタイムズとかってね、そのダイレクトメールの会社なんですけど。ビートルズの写真集とかね、ダイレクトメールでやってるとこで。あとタイムライフの下請けもやってたんですすね。だからそこで要するにカードの住所録、あれを整理したりやってたら、うじゃうじゃとそのアーティスト系がみんな集まって来るわけだ、演劇の卵であるとか、漫画家の卵だとか、

立岩:その会社に?

長見:そうそう、バイトですよ、みんな。

立岩:バイトの人がね。バイトの人がそういうそっち系の人たちが、

長見:そいでバイト仲間が労働組合みたいになっちゃってね。僕はなんか、「よし、俺が頑張ろう」ってやってたんですよ(笑)。そうしたらやっぱり内輪揉めとかいろいろあってね、上のほうとね。そしたらやっぱり、そのカタログね、ロッカーにびっしりあった住所のカードのやつを夜中トラックに積んで、部長クラスの奴と手を組んで。要するに偽装倒産みたいなの仕掛けてたんですよ、社長がね。で、倒産されたら困るし、絶対あれが財産だからつってさ。

立岩:一番上はもう偽装倒産を計ってた。それで、

長見:「お前らみんな食えなくなるから、俺もそうだし」つって、その部長の奴がね、

立岩:部長がその偽装倒産させようとしてた社長に歯向かったというか。

長見:反旗を翻して、その夜中のうちにガバッとこう、差し押さえみたいなもんですね。

立岩:それでどうなったんですか?

長見:それで立派にあれですよ。普通にタイムライフも部長のほう信用して仕事くれるし、ちゃんとバイト続けられた。

立岩:社長はどうなったの?

長見:社長はどうだったかな?

立岩:とにかく会社は続いたと。会社は続いて倒産はしなかったが、そこはしばらくいたんですか?

長見:うん、しばらくいたけど、タイムライフのほうから直接、タイムライフっていったって本社じゃないですけど、そっちのほうも韓国系の社長が目つけてくれて、あなた正社員で入らんかとかって言われてね。で、埼玉の朝霞のほうですけど工場があって、それでフォークリフトでこんな…、やったり、4トン半のトラック乗って板橋までパッケージのタイムライフの、よくあるでしょ、シリーズの本ね、ああいうやつを。

立岩:タイムライフの日本の支社みたいなかな?

長見:下請けですね。

立岩:それの下請けみたいな。その雑誌とかを運んだりとかそういうこと? そういう仕事?

長見:そうです。雑誌っていうか、ダイレクトメールで要するにシリーズの本があるじゃないですか、なんて言うか歴史の本とか美術の本とかの、そういったやつの毎月配本っていうか発送するわけですね。梱包して、積んで。

立岩:それを配達というか、そういう会社の社員になった? それはだいぶやったんですか?

長見:1年半ぐらいやったんじゃないかな、76年。ほんで、そのバイト仲間とはずっと仲良かったから、そのうちモダンタイムズっていうね、会社っていうのかな、要するに雑居ビルを建てようと。その中に映画館とジャズ喫茶とギャラリーがあるというね、そういう。

立岩:アート、アルバイターたちがそういうものを画策したというか。

長見:そうなんですよ。それでみんな場がないし、だいたいマイナーだからなかなかギャラリーなんかもね、現代アートの奴なんか全然、個展とかする場所に苦労してたんですよ。で、映画もね、僕らはけっこうマイナーな映画好きやったから自分らの好きな映画をやりたいと。あとジャズ喫茶はね、僕の友達でソロのピアノやってる奴がいて、フリージャズだったからこいつも全然売れなくてね。

立岩:それやばいですね。フリージャズ金にならないですよね。

長見:だけど一緒にくっついて僕、けっこうデッキ持って録音はだいぶ手伝ったんですよ。彼、デモテープは僕が録音したやつでやってたけどね。

立岩:そういう場所を作ろうっていう話がそのアルバイトやってた、持ち上がり、ほんで、

長見:ほんで僕は金稼ごうと思ったら今の会社じゃだめだから、ダスキンの、この方もダスキン。ルートセールスっていってね、マットを変えるんだけどね。自分の車持ち込みでやるとかなりね、35万ぐらいになったんですよ、月。その当時。

立岩:それはずいぶんですね。

長見:1977年ぐらい35万っていうのはね。

立岩:それはいい稼ぎですね。

長見:だいたいその、新宿、渋谷、池袋、この辺りをね、3ルートぐらいですからね。ただこうお試しとかっていうの置くだけでなんとなく、せっかくあれだから契約しますかっていうことになってどんどん。

立岩:すると月々っていうか、交換に回ってっていうそういう商売?

長見:それでね、ほんとこのままいったらほんとにビル建つんじゃないかなって思ってたの。思ってたんだけど、まず年末にみんなで打ち上げやって、納会やって、その時に僕の相方の奴がね、お前の友達のフリージャズの奴は面白くないって、そんな面白くないジャズなんかうちのライブやらせないとか言い出してね。なに言ってるんだ、こういうマイナーな奴のために建てようって話だったじゃないかって、大げんかになって、それで結局モダンタイムズは決裂するんですけどね。

立岩:モダンタイムズっていうのはなんかグループの名前なの?

長見:いや、有限会社とかって勝手に言ったけど、別に登記もしてなかった。

立岩:会社にはならなかった。でもモダンタイムズっていうそういうものを、

長見:僕は必死にそうやってダスキンで稼いで、その相方の杉なんとかさんって、彼は、

立岩:相方っていうのは、そのモダンタイムズを一緒にやろうっていう相方だったの?

長見:そうそう。そいつはトルコ石のこんなアクセサリーとかね、ジーパンとかね、けっこうハッシシとかね、一緒にやったりしてましたね。

立岩:そっち系の。その相方がそのフリージャズ、

長見:そうそう、面白くないとかって言うの。「面白くないってそんなこと言うなよ」って言って、

立岩:その相方と喧嘩別れになるわけ? それで(笑)、



長見:そんで、しゃあないなっていう時にそうやってわらしべ学園の話が来てね。

立岩:来てって、誰から来たんですか?

長見:それはまただいぶ戻って、その理学部の時の友達で物理の奴でなかざわくんっていうのがいて、その彼の姪っ子がその脳性麻痺だったんですよ。それでなかざわくんから、なんかそういう大阪でやってる先生がいて、ハンガリーに子ども連れてくとかって言ってるけど、誰か知り合いいないかとかってね、最初教育大関係だから、教育大だったらそういうのいるんじゃないかとか言ったんだよ。誰もうちの大学ではいなかったね。で、僕が高校の時の友達が北大にいたので彼は乗ってくれて、先に彼が入って、先に単身で彼一人でブダペスト行ってたんです。後から後続部隊みたいな感じで、僕らは子ども連れて行くほうに入ったんですけどね。

同席者:長見さん、そのわらしべ入ったっていうのは、その時まで障害者っていうことは全然知らなかったっていうことですか?

長見:ほとんど知らなかったですね。ただ青い芝のことは知ってましたよ。そいで、そこもね、ハンガリーはインテグレーションだっていうんです、だからちゃんと統合教育をやろうとしてるとこだっていうんで、一緒に行った人たちも堀智晴★先生とかその大阪市大の、

立岩:堀智晴さんも行ったんですか?

長見:一緒に2ヶ月ぐらい同行してくれたんですよ。そんなんで最初はね、みんなどっちかいうとそういう統合教育を本場みたいな感じで行ってたから、僕はそんなね、ただ施設は施設だからやっぱり障害者食い物にするんだなという覚悟はあったけどね。帰ってきたら、全然みんな養護学校入れられてるし、とにかく(笑)、

立岩:帰ってきてっていうのは、その半年の帰ってきて?

長見:違う違う…、

立岩:大学出てから?

長見:4年、

立岩:4年間ハンガリーで、今度はちゃんと学士を取るまで勉強してたんですか?

長見:一応真面目にやってましたよ。全部ちゃんと取りましたよ。取りましたよ、ちゃんと単位。

立岩:ブダペストで単位取って、すっげー。ブダペストの大学卒業しちゃった? ほんで帰ってきたらそういうこと、そんな感じだった?

長見:そうですね、もう変わってたね。いろんなことが浦島太郎だったですね。

立岩:ブダペスト楽しかったですか?

長見:楽しかったですよ。もう60過ぎたらまたここへ戻ってくるってずっと思ってたですね。ブダペストっていうかハンガリーの田舎のほうはね、ペーチとかね。いいとこですよ、ほんとに、ワインも美味しいし。向こうの文化っていうのは、文学にしても映画にしても歴史にしても面白んですよ。めちゃくちゃ面白い。だからかなりね、本買ったりいろいろしたし。

立岩:帰ってきて、帰ってくる時は、そのブダペストから帰ってくる時は、これから俺は何をしようと思って帰ってこられたんですか? やっぱりその仕事続けようというつもりで、

長見:そうそう、それはそうですね。

立岩:戻ってきた。帰ってきたらいろいろ変わっていて、子どもたちは養護学校に行き。ブダペストから帰ってきたのが何年てことになるんですか?



長見:83年ですね。

立岩:83。はい。

同席者:わらしべに何年間かいてはったんですよね、その後。

長見:そうそうその後10年ぐらいいますよね。

立岩:その後も10年はわらしべっていう所の職員を。83からだったら93?

長見:94年まで。

立岩:じゃあけっこう長かったんだ。そこはどういうようなお仕事をなさってたんですか?

長見:どっちかというと大人になった脳性麻痺の人たちのそういう訓練というかな、もうだいぶ忘れちゃったね、療護施設ってのは終生住めるとこなんだけどそこは中間施設で、なんて言ったっけな(笑)。

同席者:更生…、

長見:重度更生(*援護)施設だったっけ。

立岩:療護ではなくて、一応その更生っていう。

長見:基本的に、5年で基本的には出てもらうっていう設定になってたんだけど、もうだいたい高等部出た、かなり重度な人が多くてね。その中の1人が河野さん★って、会ったことないかもしれないけど、

立岩:JCILの? あの上向いて笑ってるあのあんちゃん?

長見:そうそう、あんちゃん。河野さんがいたんですよ、帰ってきたら。

立岩:あそこにいたの?

長見:彼はそういう最初のわらしべの、高等部出たっばっかりのフレッシュな、ほんとね、重度だけどものすごくみんな明るかったしパワーがあったしね、面白かったですけどね。まさかこういう形で、

立岩:また再会するとは、京都で再会するとは思わなかった。

長見:思わなかったんですけどね。

立岩:河野さん、そういう前歴があったんだ。

長見:彼はほんとに5年でちゃんと出ましたよ。出てしばらく、在宅でいってて、それでやっぱりあそこ入っちゃったんだよね。知らなかったけど、そのなんだっけ? あの施設(*桂川療護園)。

立岩:そこから出るのが大変だったっていう話なんだよね、確か。後見がついちゃったとか、そういう話ですよね。

長見:そうなんです、お姉さんが後見人になったことで出られなくなった。



立岩:そういう仕事を10年ぐらいやってた。94年ぐらい? 94年って何してたかな? まあその頃だ。その退職といいますか、やられたのはどういう?

長見:いろいろあるんですけどね。僕としては父親の死っていうのが一番大きかったですね。父親の死の時に、ハンガリーに接待出張みたいなのあってね、僕は断ったんだけどどうしても行けってことになって、それが一番あれだったね。もうほんとにあともって1、2週間って言われてる時にね、そんな出張なんかしますか?

立岩:お父様はその時どこにお住まいだった?

長見:千歳です。

立岩:千歳に。ご実家はずっと北海道にあって、本人は東京に長くおり、その後大阪? 

長見:ええ。

立岩:その間にハンガリーが入り、大阪に戻って仕事してた。お父さんご病気だった?

長見:がんです。

立岩:いうたら死に目に会えなかったとか、そういうことですか?

長見:そういうことですね。だからそんなのは、普通の社会人だったらみんなあることだって姉とか言われますけどね。僕はすごく辛くってね、とにかくなんかだいぶ精神的におかしくなっちゃったですね、それでね。

同席者:フリーで介護人というか、制度もあんまりない頃に、あっちこっちの施設から障害者の人連れてきて一人住まいさせてっていうのやってはったんですけど、あの時ってどうやって生活してはったんですか?

長見:だから退職金ですよ。

同席者:退職金やろね、そやね、お金ほぼ出ない。

長見:共済会のあれを。もちろん全身性でお金は入ってきますよ。だけどほんとに微々たるもんだけども。だから全身性使って95年からはそうやって、もともとわらしべにいた人をまず引っ張り出して(笑)。

立岩:94年、直接的なほんとのきっかけというのは、きっかけはお父さんのことが。お父さん、ちなみに何年に亡くなられたの?

長見:94年のね、4月21日やったかな。

立岩:それで精神的にも落ちたりして、辞められて。退職金があり当座は食える中で、そんなにお金にはならないけど、全身性の介護を実際に自分がそういう仕事をして、それでっていうか稼ぎみたいな、そういうことですか? 大阪で? それでそれからココペリへの道っていうのはどのぐらい、こう?

■ココペリ

長見:ココペリは2001年ですけどね。

立岩:2001年、5〜6年。その間そんな形でずっと働いておられたんですか?

長見:ええ。だから99年まではフリーの介護人でやってて、途中でね、労働組合作ろうとしたり、いろいろあったんですけど。全くそういうフリーの介護人の受け皿がなかったから、けっこうみんなお互い仕事紹介したりして。あと、ピア大阪のアテンダントサークルとかね、あそこの代表もやってたんですけど、そんなんで。

立岩:そうなんだ。私、ピア大阪は1回だけですけど取材っていうか行きましたね。始まりたての時でしたけど※。そうか、ピンでっていうか独立でやってる介護労働者の組合みたいなのを作ろうとしたけど、そん時はできなかったの?
※立岩 真也 1995/03/25 「大阪市立自立生活センター?「ピア大阪」――自立生活運動の現在・12」,『季刊福祉労働』66:145-150 20枚

長見:作ったんですけどね、松場作治★っていう奴がケチつけてきて、ほんで。もう憎くてしょうがないです、今でも。地域の合同労組で、ひごろユニオンだったかな、そんなかの分会で、

立岩:何ユニオン?

長見:ひごろユニオンだった、「ひごろ」だったと思いますけどね。

立岩:それでいったん作ったけど、まっさくがなんか言ってきた? 何を言ってきたんですか?

長見:言ってきて。「いやいやそんな、介助者が労働ストライキなんかされたら困るから、そんなの認めない」って言って。その上部団体と「ひごろ」のね、なんか、その分会としてはちょっと認めないっていうふうにころっと1ヶ月かなんかでね、ガラッと変わっちゃって、そんで消滅ですよ。ただね、だから単独でも別にユニオン名乗って構わなかった。交渉相手がないわけですよ。だから「ひごろ」だったら、その大阪市の市職労と繋がりがあったし、市職労の人も僕らとちゃんと話しして、そんで要するに僕ら非正規雇用だと。大阪市の非正規雇用だってことで、交渉権欲しかったからその「ひごろ」に入ったんですけどね。結局「ひごろ」のほうがビビっちゃったっていうか、その障害者団体からクレーム来たから。

立岩:「ひごろ」って何? ひらがな?

長見:ひらがなだったと思います。

同席者:ひらがなでしたね。

立岩:そこの中には入れず。それでその労働組合運動というか、それはいったん頓挫するみたいな。

長見:そうですね、頓挫するんだけど、やっぱりどっちみちもう介護保険やいろんな介護制度が整ってくると、そういう法人格とかね、事業所っていう形じゃないと、もうフリーはやってけないっていうのわかってたから、どうしようかって話でね。なんかね、ただなんかそんなに一気に事業所っていうとこまではいかなかったですね。どっちかというと、映画をね、『えんとこ』っていう映画を自主上映するっていう、それ『えんとこ』だけじゃないんですけど、いろんなしょうもない鍋大会とかそれとくっつけて、岸さんって訴訟にも関係するんですけど、親子の扶養義務と夫婦別姓についてとかってそういうディスカッションとかいっぱい作って應典院とかで、よく毎年ピアじゃなくてコモンズフェスタってあってね、そこに何コマか出して、異性介助についてとか、性的介助についてとかいろいろやりましたよ。だからそういう流れの中で、一回映画やりたいっていうのはあってね。だからなんでもよかったです。別に『えんとこ』じゃなくてもよかったんですけどね。たまたま面白そうだぜって言ってくれた人がいたんで、それで神戸で先にやったんですよ。で、見に行って。そしたら介助者がいっぱい出てくんだよね。他の映画ってさ、障害者のことばっかり撮るんだけど、介助者撮ってくれないんだよね。こんだけやってるんだったら、やって全然いいじゃないかって感じで、99年にそうやって大阪で初めてやるんですよ。そん時に喜びすぎて、その後自転車でね、ボンとぶつけて膝のお皿を割ってしまって(笑)。それで介護ができなくなる。しかも治りかけた時にまたもう一回ばかみたいに同じようにガクッといって、もう一回くっつきかけてるやつがガッと外れて、だから全治6ヶ月ぐらいやったんか。その間、だから介護することもないし、ただやっぱり健康保険とかね、国民健康保険だったから何も休業補償ってないしね。

立岩:自転車事故って、自分じゃ介護の仕事…介助の仕事ができなくなっちゃった。

長見:だからちょっと、そしたらボランティア協会とかの知り合いでね、もともと生野が僕、本拠地みたいなのがあったんで、そっちのほうのコリアボランティア協会っていうのがあって、そこの女の人が介護保険市民オンブズマン機構っていうのが今度できるから、そこの準備会手伝ったらどうだって言ってくれてね。岡本祐三★とかそういう人たちがやるやつなんですけど。

立岩:大阪ボランティア協会、そうですよね。

長見:ちょうど2000年の4月オープンの前にオンブズマンを制度化しようと。それで、そこの事務局に入って、講師として岡本さん呼んだりしてたん(笑)。

立岩:それは給料もらってやってた仕事?

長見:給料はね、ほんのちょっとですね。10万だったかな。10万以上はくれなかった、1日中働いてたけど。

立岩:それがちょうど介護保険が始まる今から19年前、2000年辺りの出来事で。10万円しかくれなかったけど、毎日働いて、

長見:それでまた喧嘩するんですよ、その岡本祐三★と。すごかったですよ、岡本祐三ね。「お前なんてこと言うんだ、第二作れ、第二」って言われて。すっごい汚らしい言い方するな、このおっちゃん、元青医連だっけ、青年医師連合だったらしいですけどね。それまではソフトな紳士的な人だったんですけど、要するに結局委託取れなかったけどそのオンブズマンをね、そういう行政からの委託でやろうとしたんですよ。

立岩:岡本祐三たちが?

長見:僕ら、最初話と違うじゃないか。要するに公平性を守るためには少なくとも最初の1年か2年はね、委託を受けずに民間で寄付をもらったり、高齢者施設と契約してっていうそういうデザインちゃんとやってたじゃないかと。なんで突然その委託が取れそうだってなったら喜んでさ、そっちへ。結局ね、さわやか福祉だって、堀田さんの★ほうに取られたんですよ。だから岡本祐三取れなかったんですね。

立岩:そういうことがあったんですか。

長見:そういうことなんです。

立岩:岡本と堀田は競り合った、堀田が勝ったみたいな。そんなこと知らなかったな。

長見:面白いです、あの頃。ほんとね、小悪党ばっかりです、みんな。僕に言わせると、もうほんとに。偉い先生だと思ってたらとんでもない(笑)。それで結局ね、

立岩:岡本さんとはその件で喧嘩し、で、そこも出ちゃう?

長見:で、辞めちゃって。その頃はだいぶね、膝もましになってたから、また、

立岩:一時はもう動かないぐらいの感じだったの?

長見:ギブスしてますからね、ギブスしながらね、片足ギブスしながら介護はできませんよ、やっぱりね。できないことはないんだろうけど、片手失ったらほとんど僕は介護ヘルパーの…、まあいいですけど。

立岩:岡本と喧嘩する時期には、ちょっと体、足は良くなりつつあった? それで別れて辞めて、

長見:また元のフリーの介護人に戻るわけです。そいでまた仲間集めて、今度はほんまに介護保険も始まってるし、介護保険使ってる障害者の人もいるので、とりあえずは最初基準該当だったかな、なんかですわ。法人格取れるまで。

同席者:法人格なくてもそういうね、介護報酬が下りる組織ができたんですよね、当時は。

立岩:それで介護保険始まって、介護保険のお金で動かせる組織を作った? それは最初からココペリだったの? なんていう名前だったの?

長見:ココペリって名前で2001年の4月に総会やって、8月に認証されて。

立岩:何に認証されたの? 何法人って。

長見:NPO法人。特定非営利活動法人として認証が出てたですね。

立岩:ココペリなんだっけ?

長見:121、ワンツーワンです。ワンツーワンはね、人から人にって、ワンパーソントゥワンパーソンって。

同席者:初めて知った(笑)。

長見:ああ、そう? これはね、京都外大のフリーの介護人いたんですよ、2人ね。そのうちの1人がワンツーワン、いいよって言ってくれて。ココペリっていうのは、浜村ってやつが、彼がアリゾナのほう行った時に、土産にインディアングッズであったからココペリしようかとかって。

立岩:インディアンのグッズでココペリっていうグッズがあったんですか?

長見:キャラクターですよ。

立岩:インディアンのキャラクター? 人?

長見:コブ付きバッタですね。背中にコブがある、

立岩:背中にコブがあるバッタ。なんかアリゾナのネイティブの人たちの間では何かしらのなんかなの?

長見:壁画に残ってたり、いろんな妖精ですね。妖精の1つなんですけど。

同席者:これです。ナバホ族ではない?

長見:ホピ族が一番、もう2つ3つ他の部族もなんか。要するに背中に種をしょって来ると。種、トウモロコシの種とかね。ここにやったらバーッと出るぞとか言って、笛を吹いて春になるとこの豊穣をね、ガーッとやると。ただ同時にこうやっぱり子どもを孕ませて帰っていくっていうか。

立岩:豊穣の神様系というか、そういうキャラクター?

長見:そうそう。トリックスターか。

立岩:で、ココペリ。さっき言ったコマイナーズの誰って言った?

長見:浜村くん。

立岩:浜村さんがそれがいいってなって、NPO法人を2001年に始め。それから2007年、6年だったらそんなに距離ないですね、5年ぐらいですよね。その最初は介護保険プラス?

長見:プラス2003年は支援費。

立岩:で、そん時はほぼ大阪?

長見:大阪ですね。

立岩:今も基本は大阪ですよね?

長見:そうだね、3対2ぐらいで京都多いんじゃないかな。

立岩:京都進出の直接のきっかけはさっき、最初におっしゃったような、甲谷さんの時のやつで、誘われてというか頼まれて、それ以来っていう話なんですか?

長見:ええ。



立岩:今日の話の始めのところにくっつくと。くっついた。これ準備とかはどうなの? ここ、映画。

ココペリスタッフ:今からやります。

長見:17時開始だよな。

ココペリスタッフ:そうですね。

同席者:長見さんに対する見方が変わりました。前半生あまり知らなかったし。

長見:どの辺のとこ? やっぱりあれでしょう、モダンタイムズでしょう、ね。ほんと奇妙なことにね、つい一昨日、一緒に野間秀樹★って言語学者なんですけど、彼が一緒に飯食ったりなんかしてて、その頃の懐かしい話をしててね、そのギャラリーのほうは彼のために作りたかったんですよ。

立岩:野間秀樹さんっていうのは何者なの?

長見:ハングルの誕生とかね、韓国語の権威みたいになってるんですけど。最近『言語存在論』ってちょっと大著を出したりしてね。そこそこ面白いことやってますけどね。

立岩:それ、いつからのどういう知り合いなの?

長見:それは教育大の時の知り合いなんです。だから学部が違うけども、

立岩:大学の時の同期というか、同級生みたいなものなの?

長見:要するに左翼系はセクト違ってても、チョロチョロチョロチョロこうお互いに出入りしてたんで。

立岩:それはわかります。そういうもんですよ。そんなに頭数も沢山いないわけだしね。だから、

長見:自然とこうね、お互いが知り合うようになるし話しますよ。革マルとだけ仲悪かったけどね。

立岩:それはみんな共通してそうかもしんない。だからどうってことじゃない。僕らもそうだね、大学入った時に、だんだんその学部違うけど、今は小松美彦とかさ、あれからだいぶ上ですけど、そんなんだんだん知り合って、てことですか。で、その人が、さっきの流れの話だと?

長見:だからその、彼は現代美術やってたんですよ、言語学者じゃなくて。言語学のほうはもう同じように僕も一緒に中退したほうで、東京外大に入り直すんですね、彼はちゃんと真面目に。入り直して、それで教授になるんですよ、韓国語のほうのね。それも今になってからは、けっこういろんな本出してるし。それで今度朝日カルチャー京都教室でね、講座をやってもらうので、なんていうかマネージャーみたいなことをやって、昔の友達の。だからよかったら、僕は随分古い作品だけど、彼の個展をやってあげたいなと思ったんですけどね。

立岩:その映画、今日やったりっていうのは、

長見:そん時のだから、

立岩:お話になったようないろいろがあった中で続けてるっていうか。[01:24:22]

(映画の準備)(長見さん席を外す)[01:24:23]-[01:30:02]

■加藤泰監督『ざ・鬼太鼓座』上映の前に

https://www.shochiku.co.jp/zaondekoza/
◇「加藤泰監督デジタルリマスター版 海外メディア絶賛! 林英哲氏、本作への想いを語る」
 https://www.cinemaclassics.jp/news/839/
◇加藤泰監督生誕100年/映画『ざ・鬼太鼓座』予告編
 https://www.youtube.com/watch?v=CkU-M5oA7ro

https://www.kodo.or.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/鼓童
https://ja.wikipedia.org/wiki/鬼太鼓座

立岩:今日は長見さんにお誘いいただいてこちらに参りました、立岩と申します。 私、京都に住んで17年なんだけど、2006、7年ぐらいから、今日もその件でインタビューしてたんですけど、長見さんとはお付き合いさせていただいてます。すぐ近くのこっから歩いて10分ぐらいの立命館大学に勤めている、社会学をやっているんですけども。
 私1960年生まれなんですけども、佐渡に生まれてから18まで高校出るまでおりました。立ち話で、さっき少しお話した方もいるんですが、私の生涯における唯一の自慢、誇れることっていうのはですね、「鬼太鼓座(おんでこざ)」にスカウトされたことがあるっていう話で。小学校6年、たぶん72年とか、小学校出て中学校入るぐらいにはもう鬼太鼓座ってあるってことはなんか知ってて、地元のホールみたいな所で聞いたりもしたことがあって。その時、最初に聞いた時から「すげえ」っていうか「かっこいい」みたいなことは思ってました。今日たぶん出ると思うんですけど、今はそれほどでもないと思うんですが、その当時70年代の鬼太鼓座っていうのは、体を鍛えることに異様なほど熱心なところでありまして、それで太鼓が上手くなるかどうかほんとは疑問なんだけれども、とにかくひたすら走るみたいなことをやっとったんです。たぶん出てくると思うんですけど、フルマラソンみんなで走って、走ってゴールに着いたらみんなで太鼓叩くみたいな、根性!、みたいな、そういう団体だったんですよ。僕は中学校入って、長距離ランナーになった時期があって。高校になってちょっと足痛めてそれは途中で止まるんですけど。けっこう速かった、ほんとは。島で一番ってどれくらい意味があるのかよくわかんないですけど、まあ速かった。県大会ぐらいのレベルですけどね。それで、その音楽の才能とかそういうことじゃ全然なくて、そういう肉体的なことで、うちの中学校、中2か中3ですから73年か74年とかそのぐらいだと思いますけれども、うちの中学校にスカウトに来たっていう話を聞いています。だからどうっていうことじゃなくて、その後僕は鬼太鼓座に入ったかって、もちろん、もちろんじゃない、入らなかったわけ。それ以降の人生はそうやって続くわけですけれども、そんなことがあって。ただ、そういうどうでもいいエピソードはともかくとして、鬼太鼓座は最初からけっこうすごいなと思ってました。
 さっき名前が出ましたけど、田耕(でん たがやす)っていう芸名っていうか、本名じゃないと思いますけど、田んぼを耕すと書いて田耕という人が始めたんですね、鬼太鼓座って。じゃあ佐渡と関係あるかっていったらあんまり実はないんです。田耕って人も佐渡の人ではなくて、どっから流れ着いてきて、最初、初期のメンバーも佐渡の人じゃないんですよ。だから全国からいろんな経緯で集まってきた人を集めて、太鼓の集団を作った。鬼太鼓っていうのは鬼太鼓と書いて「おんでこ」っていうふうに確かに読むんです。そういうのはある、郷土芸能はあるし、僕もそれはやったことがある。地元の祭りとかで。それはすごいリズムとかも単純で、しばらくやれば誰でも打てるようになるぐらいの太鼓なんですけれども。鬼太鼓座が70年代からやってるって、それとは郷土芸能としての鬼太鼓とはあまり関係がないというか。そういうものなんですよね。
 で、僕が知ってる、当時、たぶん僕が中学校ぐらいの時から、石井眞木っていう現代音楽の有名な作曲家がいますけれども、彼の曲で『モノクローム』っていう曲がすごくかっこいいですけど、そういうのを委嘱したのかな、なんかで現代音楽の作曲家にしてもらったりとかそういうことをやって。1年のうちのかなりの部分を海外遠征みたいなことをやって。そこの中で今日出る、見たら林英哲なんかはこの映画に出てくるけれども、たぶん田耕っていう奴はけっこうアクの強い奴だったと思います、わかりませんけど。なんかそんなこともあったんだと思うし、それからとにかく走れみたいな、そういうのについてけなかったかもしれませんけれども、林英哲は鬼太鼓座から出て、独立してピンの打楽器奏者になっていくわけですけど。そんなこともあって、それから鬼太鼓座っていう名前は、その後「鼓童(こどう)」、太鼓の鼓に童って書く、鼓童っていう、になっているという、そういうのです。
 ずっと今年もいろんな所で公演してますし、相変わらず活発にやっています。佐渡では時々やってますけど、7月、8月の終わりぐらい、お盆のちょっと後ぐらいに「アース・セレブレーション」っていうフェスティバルを、だいたい3日間ですね。小木っていう、佐渡の島の大陸のほうに向いてる側の、ほんとにちっちゃな村というか町ですけれども、そこの公園っていうか、そういう所でやっていて。去年はね、奄美の音楽の人たちが、元ちとせとかが来ましたけれども。だからその年は国外じゃなかったんですけども、わりと外国の打楽器とは限らないか、そういう人たちを呼んでコラボレーションするっていうフェスティバルやってて。その時はなんか、だいたい小木にいる人の7割ぐらいは外国人みたいな感じで、それをめがけてやってくるみたいな3日間ってのがあって。屋台も出るし、なかなか楽しい、島の人も来てるしっていう感じです。たぶんケルト音楽って今けっこうワールドミュージック、メジャーになってますけど、僕が聞いてる限りではケルトの人たちを実際日本に呼んでやったっていうのは、そのフェスティバルが最初だって話は聞いたことがあります。僕はそれに、毎年やってるけど2回、去年1回行った。それ以前にだいぶ前ですけど、インドの音楽家が来て、それと鬼太鼓座の人がやったっていうのがあって、それは非常に素晴らしい。

宮田:インド打楽器シタールか?

立岩:あれ、こういうまあるい。

宮田:タブラ、タブラですか。サビール・カーンとか、

立岩:タブラです。タブラってすごいです。ありえない感じなんです。シタールもすごいですけど、タブラの、

宮田:タブラ、太鼓、鼓童、それは見たいし聞きたいし。

立岩:それはちょっと、僕は、すごいよかったです。とかそんなこともやって。ずっと元気にやってます。昔ほどそういう根性っていう感じではなく、ちょっとスマートな音楽集団になってると思いますけど。やっぱり経営的なこともあると思うんですけど、やっぱりその何十人って人を養わなきゃいけないから、わりとこうウケるようにっていうか、そういうとこあって。前のほうが格好よかったかなって思うとこもないではないのだが、でも元気にやってるっていう。そういう、私が知ってる限りではそれで。ファンクラブっていうか、去年その久しぶりに十何年か空いて見たのきっかけに、メールマガジン、鼓童メールマガジン※を見てると元気にやってるんだなってことが分かったりする。あとはあれだ、まあいいいや。
https://www.kodo.or.jp/mail_magazine

宮田:どうもありがとうございます。

立岩:ここにいる人、皆映画好きだと思うんで、加藤泰のことは御存知だと思います。

宮田:そうですね、加藤泰はヤクザ映画にしろ、時代ものにしろ。わりと有名なんが『羅生門』、黒澤明の『羅生門』予告編作った人だったり、古くさいのにこの鬼太鼓座なんで撮ったんだろうと僕も今日楽しみでしょうがないです。

立岩:『緋牡丹博徒』いいですよ。

宮田:『緋牡丹博徒』ですね。では、いきます。[01:38:49]

(映画上映)[01:38:50]-[03:24:57]

宮田:お疲れさまです。(拍手)

長見:どうですか、懐かしい風景ですか?

立岩:まあ、なんていうか。

宮田:終わりです。[音声終了]


UP:20200305 REV:20200308, 10
長見 有人  ◇ALS京都  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
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