HOME
>
全文掲載
>
中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第10回]」を読んで
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
) 20190909−
Tweet
last update: 20191001
◆中村佑子 20190906 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第10回]」
『すばる』41-10(2019-10)
: 304-323
人間が本来もつ無条件の「母性」を基軸にしたケアのありかた、というのは、これまで様々に構想されてきただけでなく、周知の通り、(十分に)資本に活用されてきたし、されているし、されていくだろう。また、そうしたケアのありかたを、「母性」の「当事者」が進んで市場化/商品化してしまうケースもある(そしてそれは多方面から奨励されたりもする)。中村さんはもちろん、そのこと(=懸案/危うさ)をふまえて提言している。では、これをどう言っていけばよいのか。
まずは、ケアの脱市場化/脱資本主義化という単純なもの言いとなり、それは一般的にはケアの
「社会化」
という言葉でまとめられる。ただこの言葉は実に厄介で、かつ曖昧で、そして面白みのない言葉ではある。おそらく中村さんが言おうとしていることは、「社会化」という言葉で言い表すべきではない。連載の過去の回で、中村さんは、社会化・政治化できない/されたくない(私的)領域に対する執着を表明していた。それは単なる感情的なレベルの問題ではなく、フェミニズムにおける切実な力学の顕在化であり、ここの争点は重視すべきである。
次に、ケアの民主化という言い方がある(cf.
“Democratizing Care”
)。こちらは、福祉国家を超えるという明確な意図がある点で社会化よりも一歩先を見ているとはいえるが、しかしこれも基本的には制度(の再編によるジェンダー平等達成の展望)の話で、親密性や身体性といったリアリティに踏み込むものではない。そして、現在の日本において「民主化」という日本語が喚起する独特な・まったくもって微妙なニュアンスを鑑みれば、この表現を打ち出すことはあまり適切とは思えない。
要は、ヴァルネラブルで、マージナライズされた存在による、同様の存在のための、親密的・身体的なケアを、(国家)権力・資本に対する対抗的な実践として位置づけ・価値づけ・定義するということだ。そしてそこに、「母性」を普遍的要素として組み込むということだ。その条件を全部満たした表現として、私の頭にいちばん最初に浮かんだのは、「レヴォリューショナリー・マザリング[Revolutionary Mothering]」(cf. →
★
)という言葉だった。
「ケア+母性」の答えを最も簡潔に指し示せるのがマザリングという言葉で、そしてそれ自体がラディカルな+対抗的な=革命的な実践である(革命的な潜在力を有している)という表現として、このフレーズはある。ここではこの概念についての解説はしない(cf. →
★
)。また、別に中村さんがこの言葉を用いる必要もない。ただ、現時点で、私にはこのような指摘が可能かな、と思ったところまで展開した。ひとまずは以上。【2019/09/17】
■中村さんからの応答
◇中村佑子 Yuko Nakamura(@yukonakamura108)
・2019年9月18日15:10
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174203989380030465
・2019年9月18日15:11
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174204177557393408
・2019年9月18日15:12
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174204558513512448
・2019年9月18日15:13
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174204837258567680
・2019年9月18日15:14
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174205145456041984
・2019年9月18日15:18
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174205978667114497
・2019年9月18日15:20
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1174206441252708352
■言及
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
私の2013年の論文「女の領地戦――始原の資源を取り戻す」*が、中村佑子さん(@yukonakamura108)の連載「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第10回]」(『すばる』2019年10月号)で引用されました。
*『生存学 Vol.6』(http://arsvi.com/m/sz006.htm)《特集2=都市》所収
https://twitter.com/subaru_henshubu/status/1170591105332596736
[2019年9月8日21:05
https://twitter.com/travelinswallow/status/1170669437432692736
]
◆立命館大学産業社会学部2019年度秋学期科目《比較家族論(S)》(担当:村上潔)
「マザリング[Mothering]の現在――をめぐる議論と実践の動向」
:第1回(2019/09/27)
■引用
いつでも生殖にまつわることは、女の負担が大きい。なぜ女性ばかりこんなに痛い想い〔ママ〕をするのだろうか。痛い身体を抱えて生きていかなければならないのだろうか。ホルモンバランスの変化をつぶさに被る、「ホルモンの乗り物」のような身体をもつ女性は、上がり下がりする身体に必死でつかまって、「私」をなんとか維持している。そんな想いが、「中性」や「両性具有」という夢を私に見させたのだと思う。┃(p.305)
私たちはとても不自由な身体をもっている。ヘテロな男女という対概念に生殖が縛られているがゆえ、性欲や恋愛までもがこのシステムに規定されてしまっている。固定化した対概念から自由になろうとすることが、フロイト批判をしたドゥルーズらポストモダニストの試みだったと思うが、そこで語られる中性・両性具有への希求は、つとに個人主義、「砂粒のように漂流する個人」に重きを置いていた。しかしここで立ち止まって思う。人は死ぬまでずっと、透明な輪郭を保った「個人」でいられるのだろうかと。┃(p.306)
フェミニズムの本を開けば、母親がどんなに旧来の家族規範に縛られて過酷かが説かれ、育児も家事もアウトソーシングすればいい、母親も一人の人間として自分を貫けばいい、という威勢の良い言葉ばかりが目に入った。そこで感じたのは、母性の呪縛からの解放を叫ぶだけでは、泣き続ける子どもや、病気で苦しむ人、絶望して自ら死のうとしている人間を、苦痛から救い出すことはできないだろうということだった。「母性」のもつ献身性は否定されるべきものではないと、そのころの私は直感していた。┃(p.306)
母親や介護人は、自分の欲望を滅し、弱き人々から放たれる絶対の依存△306/307▽を全身で受け入れざるを得ない。その関係は、被傷性をおびており、徹底的に受動的である。しかしそうしたケアする人間の弱き身体への服従こそが、人間を死から救い、生命を維持する力となるのだと私は思う。┃(pp.306-307)
人は脆弱な身体をもつとき、親密な関係を必要とする。それを金井〔淑子〕は「ヴァルネラビリティ=脆弱性」と呼び、「ヴァルネラビリティ」は「親密圏」を求めるとする。しかしその役割は、歴史的にこれまでは「家族」が担い、一方で家庭は支配と従属関係を誘引し、暴力の温床ともなってきた。この「親密圏」をいかに脱暴力化するか、ということに金井は心をくだいていた。┃(p.307)
抑圧を生み出してしまう性規範から解放されながらも、他者と寄りかかりあう親密な関係を守ることができないか┃(p.307)
「不可避の依存関係」のなかで生命を癒す、繭のような場所┃(p.307)
男女の性概念から自由である、中性・両性具有の夢を見ながら、他者に依存できる関係を築くことはできないだろうか。そのヒントになるのが、私にとっては霞む空から降りてきた「母性」という言葉だったのだと思う。┃(p.307)
ケアを行うすべての人の手の尊さを、私は「母性」と呼びたかった。弱き他者の依存を全身で受け入れざるを得ない「母性」を意志的に、理性的に選びとることもまたできる。┃(p.307)
大原女や桂女と呼ばれた、女性の行商人たちは、頭に炭や薪、魚などを載せ、手ぬぐいの被り物をして、美しい声を出して村々を練り歩いていた。彼女たちは巫女や祈祷〔祷:旧字体〕者、はたまた助産師としても生き、[…]身分も国境も職業も超えながら、つねに境界を浮遊していた。┃(p.308)
網野〔善彦〕は、女性が本来もっている「性」の質が「無縁」を要請するのだと考える。
「女性の「性」そのものの「無縁性」、「聖」的な特質を考えることによって、ある解答を導き出すことが可能になるのではなかろうか」┃(p.308)
月経とは、他者としての子を宿すふかふかのベッドが用意されながら、受胎しなかったことで、生命を育む保護膜を外に排出する現象だ。それはただの血ではない。〈他者の生〉を用意する時間とその死を、毎月女性は目撃している。自己の身体を侵食してくる〈他者〉へと開かれた場所を、女性の身体は毎月用意し続けている。女性は自らのなかに、生と死、自己と他者という境界をつねに孕んでいるのだ。どこか一つの場所=一つに閉じた自己の生に属し、定住する者ではないのだと。△308/309▽
しかし、月経は生を育む聖なる循環であるはずなのに、社会は長らく穢れた血の流れ続ける者として、生理中の女性を禁秘として公の場から排除してきた。社会は女性の無縁の身体を、ときに神として迎え入れたり拒否したり、時と場合によって都合良く扱ってきた。┃(pp.308-309)
人々が定住し、属する者の世界になるにしたがい、境界を横断する人々は消え、そして、女性は世界史的に敗北した。
私たちは、桂女や大原女を失っただけでなく、自己のなかの境界横断性をも敗北させてしまったのだ。┃(p.309)
私の目の前には、またもや白く揺れる四人の女性たちが見えてきて、寺尾〔紗穂〕さんのエネルギーに娘たちが感応するところがあるような気がした。でもそれこそが「シスターフッド」というか、女性たちの触れるような、ささやくような、応答の仕方なのだとも思う。共に感じ、その場の空気を共振させることで、理解に近づく、そういう相手に触れるような対話である。┃(p.314)
かろうじて、生まれてから数年のあいだだけ、人は無数の音、すべての記憶、なにもかもがつながりあった世界の残像を感じている。母親は生まれたての存在としばらく身を添わせ、この世界の際限なさに身を漂わせる。そのことの奇跡を、どれだけの人が感じるだろう。┃(p.315)
自然から遠く離れ、文明世界を作った私たちはこの世界のなかで、何を回復するのか、それは、自分も自然の一部であるということへの気づきなのかもしれない。その気づきは、なぜ女性たちの身体に、より早く訪れるのだろうか。┃(p.319)
オルタナティブなマイノリティの身体から必然的に噴出してきた、環境破壊への敏感な感性。
日本にも、傷ついた身体から、この文明を見通した人として思い出す特別な人がいる。
石牟礼道子
だ。不知火の海の人々とともに、
水俣病
訴訟に付き添い、東京のチッソ本社で座り込みを行った彼女が身体から絞りだすように放った言葉たち。┃(p.320)
私たちはやわらかい傷つきやすい身体を都市に横たえる。毒にすぐやられてしまうような弱い身体を晒す。私たちは本来みなこのやわらかい身体をもっているはずなのに、鋼鉄の都市の中で、身体の内部から心をも鋼鉄化させてゆく。┃(p.320)
水俣病の患者たちの声をとおして永野〔三智〕もまた痛みのなかから世界を感受していた。
「みな、やっとの思いで」
相談センターへの坂を登ってくる、そうした弱い身体が発する声を、鋼鉄の都市は捉えきれないまま、あるいは聞く耳さえ失ったまま、前に進みつづける。┃(p.321)
生命を支配しようとする「男性文明」の犠牲者は、男性自身でもあるのだ。生命の声を聞かないできた文明は、生命の声を聞きとる耳もなくしている。しかし、女たちはどうか。その身体で、肌で、生命の声を聞いてきたのではないか。そこに希望を見ることはできないのだろうか。┃(p.322)
こうした現代文明の中での女たちと環境との関わりを、社会学者の
村上潔
は、女たちの「領地戦」と名づけている。
「近代社会は、男のみならず、女を都市へと引き出した。女△322/323▽は大地を、海を、失った」(
「女の領地戦」
)
日本では高度経済成長期の主婦たちが、丘を切り崩し、川を埋めて作った郊外の土地に子どもを育てるために住み始めた。そして「大地を、海を、失った」母親たちにとっては、失った自然を取り戻すことは、子どもや老人たちへのケアという形でやってきたのだと。┃(pp.322-323)
労働市場で有能でいようとすればするほど、わが身体は抽象的なものとなっていった。しかし、妊娠、出産を機に、私は、私の身体に圧倒的に戻ってきたと感じた。そして、自己の輪郭は他者である赤ちゃんとともに溶けだし、私の近代的自我は崩壊した。┃(p.323)
すべて理性に回収されるような近代的自我と、すべて数字に回収されるような資本主義社会は、生命を疎外している。┃(p.323)
■本連載に関するページ
◆20181001−
「中村佑子「[連載]私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読んで【集約】」
*作成:
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
)
UP: 20190909 REV: 20190913, 17, 18, 1001
◇
全文掲載
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇