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往き還り繋ぐ

福島障害者運動史本刊行も機してアーカイヴィング公開シンポジウム第2回

廣野 俊輔・青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子
主催:科学研究費研究基盤B病者障害者運動史研究・立命館大学生存学研究所
2019年9月6日 14:30〜 会場:立命館大学朱雀キャンパス・ホール http://www.ritsumei.ac.jp/accessmap/suzaku/

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※以下、まったくとりあえずのものです。いま話してしてくださった方々に手をいれていただいています。本、どうぞお買い求めください。

往き還り繋ぐ――福島障害者運動史本刊行も機してアーカイヴィング公開シンポジウム第2回,於:立命館大学朱雀キャンパス
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

◆指定発言:廣野 俊輔/a>
青木 千帆子瀬山 紀子立岩 真也田中 恵美子
◆文字起こし:ココペリ121 【10上01】20190906福島本企画_151分
 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。

■cf.

◆立岩 真也 2019/09/06 「そろそろと始めていること・2」往き還り繋ぐ――福島障害者運動史本刊行も機してアーカイヴィング公開シンポジウム第2回,於:立命館大学朱雀キャンパス
◆立岩 真也 2019/09/10 「はじめに・いきさつ」,青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,pp.3-10
◆立岩 真也 2019/09/10 「もう一度、記すことについて」,青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,pp.391-396


立岩:ぼつぼつと始めます。そんなにちゃんと考えて始めたわけじゃないんですけれども。明日〔障害〕学会の大会★があって、会場の後ろのほうにいくつか本屋さんが本を並べています。生活書院とそれから明石書店がたくさん持って来てると思いますが、その一つ、生活書院★から度本を1冊出してもらいました。その話をしていくと、人のことを調べて記録に留めておくっていうことの意味とか意義とかっていうのにもそういうことは関連がするんじゃないかなと思って、「こういう本を書きました」っていうこと、それからそういった一つの結果としてそういう本を出していくっていうことと同時に、その前後、ものを調べて集めていくっていうことについて話ができるかなと思って、今日この本を書いてくれた人たちをお呼びしたわけです。みなさん障害学会の会員でもあるので、明日大会があるからっていうこともあって来ていただきました。
 5人で書いたんです。で、僕はそのうちの一人なんですけれども。今日は土屋葉さんが事情があって今回来れないっていうことですけども、4人います。それから、あと運動史…、今、実は文科省の科学研究費で◇「病者障害者運動史研究」っていうのを取っていて、この本はその成果の一つでもあるんですけれども。その科研費のメンバーでもある廣野〔俊輔〕さんに九州からわざわざ、もう今日中に帰んなきゃいけないんだそうですけれども来てもらって、少しお話ししてもらおうと思って。ですので5人、書いた5人の中の4人と、それから廣野さんと5人ここに上がっているわけです。会場にいる人とだいたい人数同じぐらいですけれども(笑)。
 さあどうしようかな。〔障害学会の理事会に出た後〕エレベーターで下がってくる間に考えたのは、書いた人が僕以外に3人はいるじゃないですか。で今回書いていて、あるいはもっと前から、人によってはもう20年とかだと思うんだけれども、そういう時間ていうものを過ごしてきて、しょうがないからたぶん書いたとこもあるとは思うんだけれども、でもそうやって時間が経つ中で書いてきたこの本って自分にとってどうだったのかとか。本はどうだっていいのかもしれないですよね。ここの中に出てくる人たちにどういうふうに、…のことどう思っていてとか、そういうことについて少し話せたらいいかなと思います。廣野さん、最初に喋ってもらってもいいんだけど、後でいい? 今がいい? どっちがいいですか?

廣野:どちらでもいいです。お任せします。

立岩:そこの3人いる中で、誰だろう、書いた分量は土屋さんが一番長いっちゃ長いのかな。だけれども、いいや、3人の…、ほっとくと50音順とかなっちゃうんだけれども。ちなみにこの〔壇上の〕5人の並びは50音順です。青木さんが最初…、

廣野:じゃあ先生、僕が、最初に何が面白かったか話します。

立岩:よし。いきましょう。めっちゃ内輪な感じですけれども、今日はそんな感じでやりましょう。

廣野:では、みなさん、よろしくお願いいたします。大分大学の廣野と申します。よろしくお願いします。
 実は、この本のことを立岩さんに聞きまして、「ちょっとコメントをしてもらえないか」と頼まれて、ゲラを送っていただきました。今日がお披露目ということで、明日からの障害学会に販売されると思います。「買って読んで下さい。」と言うだけでもいいのかもしれませんけれども、私なりにどこが面白かったのか…、そっか、読む前に何が面白かったかって普通は聞きたくないですよね(笑)。まあネタバレにならない程度に、「この辺が」というところをお話をしたいと思います。
 私は、最初にちょっと私の立ち位置というか、をお話しします。この会場に来る方がどんな方かちょっと分からなかったんですけど、青い芝の会という脳性まひ者の会ですね。あまりにも有名ですけども、それの歴史についてやってます。[00:05:01]
 大学の時にたぶん『生の技法』っていう立岩さんの本を読んで、何か初めて自分が1冊読み通した本のような気がします。で「すごく面白い。自分も調べたい」と思って、ずっと青い芝の会のことを調べてきました。
 ただし、もうみなさん先刻ご承知だと思うんですけど、青い芝の会は時代とか地域によってその主張が大きく違う団体であります。少し研究者らしくといいますか、やや気になる傾向というのは、青い芝の会はそれなりに色んな障害者福祉、障害者運動とかの分野で取り上げられるようになってきてから、例えば1957年にできた組織なんですけども、「57年にできました」、で、そのあと有名な出来事を、地域とかの説明を充分にせずに引きちぎって繋げてるような記述が多いんじゃないか、というふうに感じてます。つまり目を引く出来事、「70年代にここで何がありました」というふうにですね。そういう意味では、今日、この本にも東京のことかなり出てくるんですけど、1957年に大田区でできたこの組織ですね、ですので東京で1本歴史を書くってことは非常に重要じゃないかと思ってて。実は立岩さんの章※は、福島との兼ね合いでかなり東京のことを書かれているという章になっています。
 で、自分の立ち位置を話すんじゃないのか、ということですけど、僕はですね、調べようと思った時、行きがかりでもあるんですけど、東京で青い芝の会ができた時に3人の創始者がいます。高山久子金沢英児、../w/ya05.htm">山北厚という人です。そのうちの高山久子さんは〔調査の時〕ご存命で、山北さんはご存命だったんですけど既に老人ホームに入られているという状態でした。で、高山久子さんにお会いして、かなり初期の青い芝の会の会報を譲っていただいて、そこから調べることを開始した、いうことです。ちなみに高山さんは、僕は東京に行く度にお会いしてたんですけど、2年前に残念ながら亡くなってしまいました。その方に一番協力していただいてるので、どちらかと言うと初期の運動、おとなしいと言われる運動のことから調べ出している。で、高山さんの影響っていうのは、やっぱりたぶんに受けてるんだというふうに思っております。
 その中でですね、青い芝が地域によって違う、立命館大学の研究者の方々が、例えば定藤さんが関西のことをやる。それでだんだん本当にいろいろ分かってきた。ここに来て東北の運動がまとめられるっていう意義は本当に大きいと思っています。
 で、中身について少しずつ述べていくと、一つ目の面白さはやっぱり「無茶さ」だと思うんですね。青い芝のオルグの仕方も無茶苦茶やと思いますし。例えば白石さんていう一つの主要な人物ですけども、「秋田に行ってオルグしてこい。」みたいに言われて一人で行かされるみたいな。「滅茶苦茶や」みたいな。その無茶さは組織的じゃないとか貧弱だとも言えるのかもしれないですけど、何か読んでて面白いですね。無茶さっていうのが一つ挙げられるかなと。
 もう一つは、意外な人が意外なところで?がっている。例えば僕がよく調べてる東京っていうのは、ある時期から全国とすごく距離を置いて独自の活動をするんだけど、やっぱり、また離れていくんですけど、福島の障害者運動にやっぱ東京の人が大きく影響を与えてたりもする、というところがあります。意外な人が意外なところで?がっているだろうっていうのが、二つ目の面白さだと思います。

立岩:ちょっといいですか。廣野さんが東京の人たちを取材した時に、例えば、寺田〔純一〕さんとかが福島に行ったみたいな話っていうのは聞いたことありました?

廣野:僕は、北海道に高山さんが行ったっていうのは知ってたんですね。北海道の運動っていうのは割と東京に近いし、

立岩:あ、そうなんだ。

廣野:かなり遅くまで「コロニーみたいなのを作るんだ〔福祉村と呼ばれていた〕」ていうふうにやってたんです。

立岩:それ、いつ頃?

廣野:70年代の半ばぐらいまではけっこうその、「みんなで住むのがいい」みたいな路線で行ってたんですよね。先生、いきなり聞いてくるんですか。(笑)、
※HSK『北海道青い芝』第80号(1994年)が結成30年の特集として過去の北海道青い芝の会報の一部を再掲しています。これによると北海道青い芝の会は北海道行政と協力しながら1979年に福祉村構想を実現させています。所得保障の確立を訴える記事もあります。

立岩:いやいやいや。いじゃないですか。せっかく上がったんだから。

廣野:はい。寺田さんにも話聞いたことありますけど、福島に行ったって話は聞いたことなかったですね。

立岩:でも、そういうことが実はあったと。間に入らせてもらいましたけど。

廣野:ええ。それから、もう一つ面白いのは、やっぱり脳性まひ者というか、僕はあくまでも青い芝の側から語るんですけど、青い芝が脳性まひの人以外に与えたインパクトについてです。一つはですね、ものすごく、例えば白石さんが「生きていることが労働だ」って言ったことがすごく救いになったっていう女性、障害者の方のインタビューが掲載されてます。田中さんと瀬山さんの章はかなり現地の女性障害者にインタビューして作られたものなんですけども。その一方で脳性まひの人っていうのは、例えば養護学校でも非常に下に見られていたと。「近づいたらヤバい奴らや」というふうにも言われてたりする。そん中で彼らはインパクトを与えながら、また、しかし乗り込んでいく中で、その限界も感じていくというところですね。これも一つのポイントかと思います。
 立岩さんの章で、先ほども言われましたけども、述べられていることで、白石さんも東京青い芝にかなり影響を受けつつも、最終的には離れていくということですね。東京の青い芝っていうのは、就労による経済的な自立は否定する側面があるんですけども、例えば自分の生活を自分で管理するといった意味での自立には、非常に強くこだわるところがあったし。もう一つは、ケア付き住宅を推進してたんですけども、かなり大きいものまで求める。それから地域生活する上での所得保障としての基礎年金を推進するということで、立岩さんの章ではこれらの方向というのはかなり批判的に検討されています。というわけで四つ目のポイントになるかもしれませんが、まず「家族から離れたい」というのがあると。次に「施設も出たい」というのがあって。では「地域でどうやって生きるか」ってことを考えたときに、介助者との関係の作り方とかお金はどっから得るのかとかいったことで、微妙に考え方の違いがそこで出てくるっていうこと。これもポイントかな、というふうに思いました。
 第7章では青木さんがJDFの被災地の障害者の支援を取り上げながら、災害が起こった時の様子っていうのを非常に細かく書かれています。介護者の確保とか所得をどう保障するかっていう問題に加えて、例えばそれがいったん安定したように見えても、また災害で壊れてしまうと。その時には例えば有償だけじゃなくって無償の力も要るといったようなことが書かれております。この点も非常に面白かったです。
 最後に、立岩さんが最初と最後に「とにかく記録することが大事だ」っていうふうに書かれていて、「無いよりは有るほうがいい」というようなことを書かれています。僕も非常にそれはすごく共感するところがあって。まあただし、それをどう活かすかってことも一方でかなり考えて、書かれているんじゃないか、そんなふうに思いました。ひとまずこれぐらいでいいですか?

立岩:はい。

廣野:はい、すいません。お願いします。ありがとうございました。[00:15:03]

立岩:ありがとうございました。まあ、ぼつぼつやっていきます。今、廣野さん言ってくれたことに関してはまたお答えというか、反応というかしたいと思いますけど、ちょっと残しておいて。廣野さんていつ頃から研究っていうか…、何年生まれですか?

廣野:1983年。

立岩:83年生まれ。で、博士論文とか書いたのいつ?

廣野:2011。

立岩:そんなに昔ではないけども。で、青い芝のことやり出したの、大学院生のその頃でいいのかな?

廣野:えっと、研究、

立岩:修士課程でそれやった?

廣野:そうです。学部の時からのめり込んだ感じです。はい。

立岩:じゃあけっこう長いっちゃ長い。

廣野:はい。

立岩:ご存知だと思いますけれども、今、廣野さんいま九州にいますが〔大分大学の教員〕、もともとは同志社だよね?

廣野:はい。

立岩:同志社の大学院に行った人で。時々資料を立命館の書庫に借りに来てくれたりしたことも、かつてあったと思います。一時期、資料って…、まあ今日はちょっとその資料の話(はなし)したいんですね。何だかんだ言ってそっちの話に戻していくみたいなことをするつもりで来たんですけど。あんまり資料って、ないんですよ。そんなに、そこらじゅうにあるような資料ってのはないわけで、それを集めて非常にマニアックに、「これあるぜ」みたいな感じで、マニアの間だけで通じるみたいな感じで喜んでるわけですけれども。スッとそれがなくなるんですよね。どっか行ってなくなって、「あ、あれどこだろう?」って分かんなくなるんですよ。そんなに大きい部屋じゃないのにさ。そうすると、「こんなもの必要な研究者って誰と誰だろう?」って思うわけ。そうすると廣野くんぐらいしか思いつかなくて、「きっと犯人は廣野だろう」みたいなことになって。でもそう聞くわけにはいかないから、「これとこれがないんだけど、誰か知ってる人います?」とかって。でも最終的にはやっぱり廣野くんは潔白で、僕が変な所に資料隠した、じゃない、ちょっと別の事情あるんですけど、そんなことがあったりもしました。ちなみに僕は今日田中さんに、そうやって返さないと一生田中さんの元には戻らないだろう冊子を一つ返さなきゃいけなかったんですけれども、今日持って来ませんでした。そうやってあらゆるものはなくなっていったりするんですけども。
 今、廣野さんに歳のこと聞いたからさ、だからってわけじゃないけども、何だかんだ言って僕がこの中で一番年上なんですよ。何かいつの間にかそういうふうに人はなっていくもので、こう不思議感が我ながらあるんですが、その次はたぶん田中さんなんだよね。(笑) っていうわけで、今日は年長者からいってみます。田中さん、何か語って下さい。

■田中

田中:田中さん。歳の順で、はい。ご指名いただきました。ありがたく2番目に年上の、東京家政大学、田中恵美子です。
 そうですね、さっき立岩さんのおっしゃったことで言えば、本にも書きましたけれど、出会いはたぶん瀬山さんの方が先だと思いますけど。瀬山さんと土屋さんが最初に、私より1年前にインタビューに行かれていて、その時に立岩先生に「また行く」みたいな話をされてた時に便乗して行かせていただいた、というところからつながっていて、それが2001年。何かそんな感じなので、かれこれ約20年弱ぐらいのお付き合いを福島の方たちとさせていただいています。でもずっと繋がっているというよりは、何かあるときにワッと繋がる形で続いてきています。白石さんと橋本さんとお話をさせていただいたり、泊まらせてもらったりとか、そんな感じで。
 今回の本に関しては、もう少し広く私の場合は取り上げたかったので、もともと少し知っていた、先ほど言っていたように女性という意味で、安積遊歩さんとか、もうちょっと話ちゃんと聞きたいっていうことでお話を聞かせていただきました。あと鈴木絹江さんは瀬山さんからのご紹介を受けて、私自身も知ってたけど直接きちんとお話聞いたことがなかったので、この機会にお話を聞かせていただきました。
 あと桑名敦子さんにもお話を聞きました。彼女は障害者運動には、福島時代にはほぼコミットしておられないんですけども、そのあとアメリカで運動に関わって、そこでも中心ってほどでもないですけど、関わっておられたので、そういう視点でちょっとお話聞きたいなと思ってご連絡取ったりとか。
 あと殿村〔久子〕さんという、今、国立(くにたち)で自立生活センターの代表をされている女性にも、やっぱりご連絡してお話聞かせていただいたり、ていうことを通して、本当に福島という一つの県から、もっと本当はお話を聞きたい人もいたんですけれど、それぐらい活躍されている方がたくさん出てきていて、そのことにすごく驚嘆して、そのことをまとめさせていただきました。福島の中でなぜこんなにこういう人が繋がっていったのかなあっていうことをちょっと研究してみたり、とかです。ネタはこのくらいにしておきます。次の年上の方、自己申告してください。[00:21:16]

立岩:いや、と思うんですけど。田中さんもまあまあ長いことやってるよね。最初練馬とかですか? 田中さんって。関わりだしたのって。

田中:そうですね。私、あの、練馬…、介助に入ってたのは中野区の障害者の人たちですけど、中野区には自立生活センターになろうとしながらなれてない小さなグループがあって、私はそこのお手伝いをずっとしていて。でも論文を書くときは、もう少し歴史があって、あと、あまり取り上げられていないかなと思うところにお話を聞きたいと思って、練馬のところに、その中野区の障害者の方のご紹介でお話を聞きに行って始めたっていうのが最初ですけど。

立岩:その練馬の調査はそのあとどうかなったんですか? 博論は博論の流れだと思うけれども。

田中:どうかって?

立岩:東京だと、北★とか、練馬の在障会★っていうふうに、

田中:はいはいはい、在障会が一部、

立岩:70年代、始まるわけじゃないですか。そういうところの研究っていうのもけっこうないと思うんですよ。

田中:あの、深田さんが書いてる。

立岩:深田さんは新田さんのことを書いてるでしょ。それは大きい本になって※。今回荒木さん、
※深田 耕一郎 2013/10/13 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院,674p. ISBN-10: 486500016X ISBN-13: 978-4865000160 [amazon][kinokuniya]

田中:うん、そうそう荒木さんです、だから私。

立岩:ここにいる人たちは知ってるかもしれないけど、荒木さんっていう人が、もう彼も亡くなった…、16年、

田中:えっと2年前ぐらい。

立岩:ですよね。2016年に亡くなったんですけどね。彼が練馬を始めたって言っていいの? 練馬の在障会を始めたんだけれども、彼はなんと70年代に無免許運転をして商売をしていたと。で、無免許運転で商売をしていて、捕まって免許を取り上げられたのかな。取り上げられたっていうよりそもそも免許ないんだからね。なんだけれども、それに抗議して裁判っていうのをやって、「荒木裁判闘争」っていうのがあるわけですよ。これは、わけ分かんないっていうか、今どきだったらね。「そりゃ免許持ってなくて運転したらだめでしょ。終わり。」みたいな話になりそうなのに、それで裁判しちゃったっていうことがあったわけですよ。それようやく深田さんが、去年かな、『障害学研究』に論文書かれて、それで1本ようやくその練馬・北のその古い人たちが伝わったと※ 。まあ新田さんに関してはね、深田さんの博士論文があって、本になってますけれども。そういう流れってそんなに書かれていないですよね、実は意外とね。で、田中さんはそれは、その時随分調べたは調べたでしょ?

田中:修士論文で…。ただ私やっぱり、介助の仕組みとか生活のほうに目がいってたので。まあ無免許運転のことはもちろん知ってたんですけど、そっちのほうは全然調べてなくて。深田さんがそういうことをやりたいとおっしゃっていたのでご紹介して、お話を聞きに行ったりしておられて。論文ができ上がるかどうかぐらい、でき上がる前に亡くなっちゃったんですけど。

立岩:そうだよね。田中さんの博論※っていうのは、そういう運動の歴史自体がどうこうっていうような研究ではなかったから。あれはあれで価値あると思いますけれども。その時に集めた資料ってあったりするんですか?
※田中 恵美子 20090707 『障害者の「自立生活」と生活の資源――多様で個別なその世界』,生活書院,443p. ISBN-10: 4903690393 ISBN-13: 978-4903690391 \3570 [amazon][kinokuniya]

田中:あります。

立岩:ちょっともらいませんでしたっけ、田中さんに? 練馬の資料。違ったっけ?

田中:練馬の資料?

立岩:このぐらいのダンボールに★。

田中:ダンボールで送ったやつは違うかなあ。(笑)ごめんなさい。でも私の研究室にまだあると思います。「この辺のこの辺」みたいな感じまでは分かります。

立岩:たぶんね、今日ここで確認、共有したいのは、この「なくなり感」。あらゆるものがいつの間にかなくなっていく。

廣野:え。これ、呼ばれた人、容疑者?

田中:私、もしかしてここで尋問を受けるんでしょうか?(笑)

立岩:いやいや。あらゆるものがなくなっていく、あらゆるものが忘れられていく、そして「もしかすると自分は最初から何も知らないのではないか?」みたいな。そういうことが世の中にかくもしょっちゅう起こってるよっていうことを言いたいかなと思って。そんで聞いてるんですけど。まあいいや。田中さんの、かつての田中さんの話はまたにして。この隣にいる二人はどっちからしゃべります?[00:26:23]

田中:年齢わかりません(00:26:24)、自己申告してください。

■瀬山/『自立生活運動と障害者文化』

瀬山:私がじゃあ先に話させてもらいます。今日、東京から来ました、瀬山紀子です。この本に、昨年声を掛けていただいたことで、少しだけ関わらせていただきました。
 私自身は福島との関わりを思い返すと、JILの、全国自立生活センター協議会の、あの時10周年だったんですね。なのでまだ10年しか経ってなかったんだなって、逆に今になって思い返しましたけども。現代書館から出た『自立生活運動と障害文化』〔2001〕、その本を作るプロジェクトが立ち上がった時に、たぶん大学院生だった一人として、そこに土屋さんなどと共に一緒に関わったというのがスタートでした。その時、誰を運動史で取り上げるかというのをみんながブレーンストーミングという感じで話して、色々な人を出し合ったような記憶がありますけども、その時に私が、たぶん土屋さんとで「福島で何でこんなに面白い人たちが色々出ているんだろう?」っていうので、「ぜひ福島のチームに関わりたい」っていうことを言って、そしたら「じゃあ関わりたい人が関わってください」っていうようなことで関わらせてもらったのがスタートだったというふうに記憶しています。

立岩:あの本、『自立生活運動と障害者文化』か、あれ、すごい価値のある本だと今でも、最初からそう思ってるんですけど。あれって本のスタイルとしては基本、本人たちの名前で出てくるじゃないですか。「誰それの何」とか「誰それの何」とか出てくるじゃないですか。まあ例外がないことはなくて、あの時高橋修はもう死んでいたので、高橋さんの名前で高橋さんの章は書けなかったんです。なので、あの章だけ僕が高橋さんのことを書いたってスタイルになる★。それ以外は全員、新田さんにしても誰にしても「誰々さんの文章」になってる。その話とみなさんが取材に行ってっていう話っていうのは、どういう関係になってるのかっていうのを、その本の構成とか読みながら、「あれ、あの時どうだったのかな?」って思ったんだけど。つまり土屋さんなり瀬山さんが取材に行った後さ、最終的には一人一人運動家の本人の文章になってるっていうことの、その辺りの兼ね合いというのは、どうやって本作ったの? 僕、よく実は知らないんだよね。[00:29:33]

瀬山:よく知らないって、そうですか(笑)。そうですね、あの本は聞き取りをさせてもらって、それで原稿は全部、それぞれ担当した人が、少なくとも私自身が関わった部分に関しては、始めに本人の名前で書き起こしから文章を起こさせてもらって、それで文章を作りました。それをご本人に返して、そこで大幅に手を入れる方もいらしたし、「概ねこれでいいですよ」ということで出していただいた方もいたし、「こういうことになるなら初めから自分で書かせてほしかった」っていうような方もいたように記憶してますけれども。基本的には単に個々に頼むっていうよりは、資料の掘り起こしも兼ねてやりましょうっていうようなことがあったのかな、っていうふうには思います。実際にあの時、私たち福島に行かせてもらって、今回の本にもいくつかデータとして入れさせてもらったりしましたけれども、単に話を聞くだけではなくて、当時の資料がどれぐらい残ってるのかとか、その現物を見せてもらうというようなことをやって。
 で、福島に関しては、本当に当時のビラであるとか、色んな、過去みなさんが作った運動のチラシその他が非常にきれいな形で保存されていたので、「こういうものが残っているのであれば、ぜひちょっと、この現物を貸してほしい」っていうことで一時的にお借りしたりもしました。ただ、あの時の本の中には全然活かせなかったんですけども。だから翌年、非常に貴重な資料がともかくどっさりあったので、それを一旦もう一度、本は本としてまとまったんだけれども、見せてもらいたい、貸してもらいたいっていうことで再度話を聞きに行くと同時に資料を借りに行きました。それで、現物の資料を全部一旦借りてきて、それをともかく「今すぐにどうできるか分からないけれど」っていうことで、データ化した。スキャンして、かつスキャンしたそのビラの文字をテキストデータ化するという作業を、その時にずっとひと夏かけて、私と田中さんと土屋さんとでやったっていうことがありました。

立岩:あの本に関わったいわゆる研究者っていうのは、その3人以外にもいたの?

瀬山:いや、もっと、たぶんこちらにいらっしゃる方もいたんだと…、

立岩:どういう人か分かります? 例えば。

田中:あれは、JILで企画して、

立岩:だいたいあれは、誰が思いついたの?

田中:いや、たぶん…、そう、樋口〔恵子〕さん。そう、樋口恵子さんがJILのトップだった時、

立岩:ああ、樋口さんが代表やった時のJILか。はいはい。

田中:それで「きちんと記録を作りたい」っていうので、割とその頃(00:33:02)関わってた院生とかに声がかかって、「聞き取りに行って」って言われて。候補がいっぱい向こうから上がっていて、行きたい人が行くみたいな感じで。

立岩:大学院生とか?

田中:だいたいそうだったと私は記憶してる。

立岩:瀬山さんってその時、大学院生?

田中:院生だったよね?

瀬山:そうですね、はい。院生だったと思います。

立岩:土屋さんもそう?

瀬山:そうだと思います。はい。

田中:みんな院生で、たぶんJILのイベントとかで繋がって顔合わせしてたので。

立岩:JILになんか繋がりがあるような大学院生たちが、

田中:そうですね。

立岩:10人とかそれぐらい?

田中:いや、

立岩:もっといる?

田中:もっとかな(00:33:45)、いや分からない、ごめんなさい。

立岩:誰? 誰がいる?

田中:圓山〔里子〕さんとか知ってるかもしれない。

立岩:ああ、圓山さん、そこにいたの?

田中:あの時、でも土屋さんは、それこそ荒木さんを担当したんです。だからみんなやりたい人をって。私はその時に新田さんをやりたかったんですけど、新田さんは「俺は自分でやる」って言って、誰も寄せ付けないっていう感じだったので(笑)。

立岩:そういうのもありだったんだね。

田中:その時は新田さんには会えなかった(00:34:11)。

立岩:「俺は書くからいい」みたいな。「お前ら来なくてもいい」みたいな。

田中:そうそうそう。そういう人もいたんです。

立岩:たしかに新田さんそういう文章書いてる※。
※新田 勲 20010501 「障害者に生まれて幸福だったと自分を偽るな。本音で生きろ!」,全国自立生活センター協議会 編[2001]

田中:「僕は自分で書くからいい、誰も来なくていい」って。

立岩:そうやって作ったの?

田中:私は新田さんには後から別のルートでお会いした、っていうか知り合いになって(00:34:27)。

立岩:じゃあ樋口さんが発案して、JILで了承取って。キリンですかね?

田中:そうですね。

立岩:財団のお金を、助成を取って作った。そういう流れなんだね。あれ、でも本当に貴重なもので、ちょっと確認。流れ、中身さ、ほぼ、***(00:34:46)、

田中:立岩さん、もうちょっと葉ちゃんのほうが。

瀬山:私は、立岩さんがかなり関わっていたと思っていたのですけど。

立岩:ほんと? ほんと?

田中:(笑) でも、私はでも、樋口さんがすごく頑張ってやってるっていうイメージでした。だから樋口さんと奥平〔真砂子〕さんと、あの頃事務局に雨宮さん★という私の先輩がいて。

立岩:樋口、雨宮、奥平。[00:35:10]

田中:うん。その辺り。南館(00:35:05)さんもいたかな。辺りで(00:35:09)。まあとにかくその辺りの方たちがちょうど中核にいらした時で。

立岩:ああ。僕はそうすると何か関わったかもしれないけど、全く覚えてない。覚えてるのは「じゃあ高橋さんのところは僕がやるわ」って言って、そこは僕が書いたっていう記憶はある※。それ以外のことは何も覚えてないです。
※立岩 真也 2001/05/01 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編『自立生活運動と障害文化』,現代書館,pp.249-262

田中:決めるところにも、いたような気がする。

瀬山:絶対いましたよ。いました。

田中:俺が高橋さんをっていう話をして、他の人は誰がいい(00:35:31)とか。「私これ」、「私この人」、

瀬山:立岩さんが、どんな方を取り上げるか、というブレインストーミングをしたときのファシリテーターをしてたっていうのは記憶として残っています。JILのその当時の立川の事務所の中で、10周年の記念っていうことで、それで初めのミーティングの時に「あの人、この人」とか出し合ったりしたっていうのは覚えてます。

立岩:そこに僕はいたんですか?

瀬山:ええ。えっ、違いますかね。

立岩:ていうふうに、僕に特異なことかもしれないんだけれど、僕、あったこと自体忘れてるっていうか。ひどい話だよね。ああそうですか。そうだったんですか。知りませんでした。知りませんでしたったっていうか、本当に人の記憶とか当てになんないなと。人って僕のことですけどね。でも樋口さん…、そうかもしれないですね、中西さんっていう人はあまり歴史とかどうでもいい人なので。樋口さんの時に、樋口さんがそういうふうに思われて、樋口さんの知り合いがけっこう関わったっていうものなんかな。僕はそれ自体が今日聞きたかったんです。「あの本どうやってできたんだろう?」って(笑)。私関わっていたんですか。私、細部の記憶が全くなくなっていて、改めて今知りました。はい。で、何の話でしたっけ? はい。瀬山さんの続きです。

瀬山:そうですね。なので、その時にJILの運動史にまとめきれなかったっていうのと、その時に非常にたくさんの生(なま)の資料とであっていたので、それをスキャンし、テキストデータ化したのはいいのですけれど、「そのあとどうしましょう?」と言って、けっこうその後ちょっと時間が経ってしまっていたっていうのがあって。土屋さんがその後いくつか論文を書かれて★、福島の障害者運動史でまとめていただいたっていうのがあったんですけれども。改めてこの福島の、本当に非常にたくさんの人を生み出した運動についてまとめておけるといいな、という思いは持っていたので、今回こういう形でまとめることができたってのはよかったとは思っています。本当にまだまだっていうか、福島の現在もそうですし、原発事故があって、それの後も、やっぱり、それまでの福島の障害者運動があったことで、福島を拠点として被災地障害者センターの動きもできていったと思います。同時に、広域で避難した方も多かったわけで、そのこともとても気にかかっていました。今回、そうした、そうした中で、あらためて、2001年に集めた資料が日の目を見たというのは、よかったなと思っています。

立岩:この本を作る、最初2001年の時だっけな、土屋さんが調べに来て、それでスキャンして、そのディスクか何かもらった記憶があるんだよね。何か、それが勿体ないなと思ったのが始まりっちゃ始まりなんだけど。ただ瀬山さんも言ったけど、それからそうやって一旦スキャンしたんだけどそのままになって、時間って18年もすぐ経っちゃうんだよね。ていうことを本当思うんですよ。こういう資料って難しくて、どうやって集めるかっていうか保存していくのかっていうのが。今回本を書けた、僕の章が書けたのの一つは、東京青い芝っていう、廣野さんのほうがよっぽど詳しいんだけれども、そのところの機関誌の全てのPDFのデータがあったっていうことがあったと★。これはどうやって作ったか聞いたことあります? 寺田さんが作ったの?[00:40:45]

廣野:東京青い芝の人たち、特に寺田さんとか磯部さんっていう人は、行政とやり合う時に「自分たちの資料が一番詳しいんだ」っていうことで、それを極めてきちんと保存している人たちでした。機関誌はたぶん誰か手伝ってもらってPDF化したんじゃないかと思います。

立岩:東京青い芝の機関誌って全部PDFになってて、それを僕は阪〔悌雄〕さん★っていう障害基礎年金の成立過程について博士論文書かれて、今度本になるんですけれども、彼が東京青い芝、東京青い芝っていうのは障害基礎年金の成立に非常に貢献した組織なので、インタビューに行ったんですよ。その時に寺田さんからもらって、今回…今回じゃないその前に、この本を作るんだって言ってる前に、「これウェブサイトに載っけていいですか?」って言ったら、「いいです」っていう話が間接的なんですけども得られて、それでPDFを載っけたわけです。なおかつそれの目次とかそういったものを廣野さんが作ってあってHPに載っていて、それを見ていくと、「ああ、ここにこういうこと書いてあるんだ」みたいなとこが分かる。で、「あ、ここ、たぶん使える」と思って印刷すると、「えー、こんなこと書いてある」ってことがあったんですよね。
 ただね、機関誌っていうのはまだいいわけ。何がいいっつったって、番号が付いててね。「何年何月何日に出た第何号」って一応書いてあるわけ。けっこう嘘書いてるんだけど。おんなじもの二つあったりとか、番号が飛んでたりとか、そうミスってけっこうあるんですけども。そうとは言ってもまだ続きものなわけですよ。ところが厄介なのはビラとかなんだよね。それをスキャンした画像があったとしても、整理のしようがないっていうかさ、「どうしましょ?」っていうことなんですよ。
 で「どうしましょ」って思っている間に10年ぐらいすぐ経っちゃうわけ。実際そうだと思うんだよね。「これ勿体ないなあ」と思ったんだけど、何が難しいったって、この本に書きましたけど、ビラっていうのは何年に出たと書いてないわけ。それは当り前で、やっぱり同じこと書きましたけども★、「2019年9月何日に結集せよ」とかね、意味ないじゃないですか。9月っていうの、今年の9月に決まってるわけで。インパクトってビラって要るわけじゃないですか。って時にわざわざ「2019年」って書かないですよ。っていうふうにしてビラっていうのはできるわけ。そうすると、もう既に10年ぐらい経つと、この9月はいつの9月なのか分かんないっていうこともあって。そもそも僕らがファイルを集めて整理するときに一番単純なのは、出た順番に番号付けたりなんかして整理することが多いんですよ。ところがビラの類っていうのは、そこですぐ躓くんだよね。いつのものか分かんない。今回もそれ、結局ありましたよね。土屋さんの書いた章のとことかで、このビラ、福島青い芝のビラなんだけど、何年のものなのか不詳みたいなそういうのがありましたよね。最後まで分からない。いくつか手はあるんですよ。何をするかって言うと、何年何月何曜日、「木曜日」とか書いてあるから、6月7日が木曜日だとしたらっていうのが今ネットですぐ分かるので★、それで推測するっていう手もあるんですけど、それでも分かんないこともあるので。ていうふうにして、いつのビラかっていうのを割り出すだけでえらい長くかかるんです。「手間かかるなあ」と思うと萎えてくるんですけれども、そんなことしている間に10何年経っちゃいました。そういうことがありました。[00:44:48]
 だけど今回それでも本書いて、それでも今ここでやってるっていうのは、さっき廣野さん言ってもらったけど、「ないよりはいいものはいい」っていう、そう思わないとやってられないんだよね。ちゃんとした本作ろうと思ったら死んじゃうわけですよ。で死ぬ前に何かしとこうと思ったら、何かそういうふうに見切り発車で段取りしないとダメだって思いました。でもこれから本出して【集って】(00:45:19)ないで、やりたいと思ってます。
 何が残念ってね、やっぱさ、本の写真がちっちゃいのが残念だよね。瀬山さんとことか人の顔とかあるでしょ。で、顔の写真とかを、本当は大きいのが見つかる方がよかったりするわけですよ。だけどそうしたら絶対お金がかかって、どんどん果てしなくお金がかかってくるからできないわけじゃないですか。でもそういうのを集めるか。あとビラがね、今回っていうか本当に思ったのは、テキストファイルにするとすっごいつまんなくなるんだね、ビラってね。(笑) 短いし、文法おかしいし、何言ってるか分かんないし、みたいな。そういうビラっていっぱいあって、特に福島、青い芝の初期のビラって。でも何か妙に「汚いのがいい」みたいな、あるわけですよ。そういうこう手触りみたいなものが、テキストファイルにすると何かね、貧弱な100字ぐらいのテキストファイルになって。そういうことなんですよね。
 でもそれを例えば他のツールを、HTMLっていうホームページにして、それはそれで読める、検索もかけられるっていうふうにした上で、それに対応する画像もやっぱ載せる。そういうことを地道にっていうかやっていかないとたぶんダメで。この本はその中のたぶん、本当に全体のごく一部しか拾えてないんですけども、その裾野みたいなものも一緒に残していこうと考えているんです。それを、そういうことの全体でもって僕らはアーカイヴィングっていうやるつもりですけどね。ていうふうに、今日は一所懸命喋ってる時に途中からふったので、たくさん喋ってるんです。
 次、青木さんです。一番若い。

■青木

青木:青木と申します。よろしくお願いいたします。私は、田中さん、土屋さん、瀬山さんが取材に行って作られたJIL本には、当時は関わっていなくて、たんなるいち読者でした。で、労働をテーマに研究していたので、共同連★とかのメンバーについての記述とかを読んでいたっていうことは覚えています。ただ、私はそのアーカイブを、立岩先生や廣野さん的なオタク的な興味・関心を持って資料を読むというよりは、単に自分が考えるより先に、人がどこまで考えていたのかを知りたいという思いで、古い資料とかを読み漁ってきていたというところがあります。
 一方で福島のことは、自分の研究というよりは成り行きで関わることになったところがあって。それでちょっと自分の章だけ少しノリが違うものになってしまっているって言うか、研究対象として福島に関わっていなかったところがあります。ただ立岩先生が常々おっしゃられるように、記録しておかなきゃいけないという感覚は、当時地震の時に被災地に入る中で猛烈に感じていました。例えば、地震の直後に、阪神淡路の障害者団体の経験を参照したいって思うことってすごい多かったんですね。で、探したんですけど、見つからなかったっていうことがあります。それ以外にも、第7章とかには紹介させていただけたんですけども、事態が猛烈な勢いで変化していく中で、本当に「記録しなきゃ」と。当時立岩先生が「学者は後衛に付く」という文章※を、すごいインパクトの強い文章を書いたということもあって。それから、やっぱり白石さん、橋本さん。あと古井正代の介助者をしていたんですが、そこら辺の人たちに洗脳されたというか、取り込まれたところもあって、第7章で紹介している「2011年・2012年 ふくしまの活動報告書」という、「何月何日に何があった」みたいなことや、要望書とかをまとめたようなものを作りました。で、今回のお話いただいて、当時まとめた、とにかく「残さなきゃ」という思いだけで、何にする目的もなく取りまとめた報告書を人の目に触れるものにしたいという思いで、飛び入り参加させていただいたという次第でした。はい。[00:50:23]
※立岩 真也 2008/01/31 「学者は後衛に付く」,『京都新聞』2008-1-30夕刊:2 現代のことば

立岩:青木さんは2011年の地震が起こった時って、どういう任務っていうか?

青木:電子書籍のアクセシビリティの研究チームに、研究員として所属していました。

立岩:じゃあ衣笠の研究員か、

青木:R-GIRO★。

立岩:R-GIRO。はいはい。それで給料もらって。で、福島は何で行ったんですか?

青木:古井正代さん★が応援に行きたいって。介助者が誰かいないかと、瀬山さんと土屋さんに相談したんですかね? で、誰かいないかという話が回って来て、行くことになったんです、私が。

立岩:瀬山・土屋から直接に青木さんに連絡があった?

青木:(笑) 分からないです。土屋さんと電話で話をしたのは覚えてます。踏切で、電話したのを覚えてます。

立岩:たぶんその頃に、古井さん…、鎌谷さんから僕のほうにも連絡があったと思うんですよね。で、ここにいる人とか、ぱっと見何かそういうことみんな知ってるみたいな人多いんで、説明する必要ないかもしれませんけど。でも一つ言うと鎌谷正代っていうのがいて、今も元気ですけれども、それは、これ、でも何か面白いって言うかな、「おお」と思ったんだけれども、白石さん橋本さんたちと関西の鎌谷さんっていうのは、ずっと前に、一時期っちゃ一時期だけなんだけれど青い芝で一緒だったんですよね。で、運営委員会っていうのかな、そういうので一緒だったこともあって。それから数えたら、でも70年代なわけだから何年経ってるの? 40年? そうですね。70年から2010年だったら、40年ですか。40年経って2011年になって、たぶんその間も何やかんや、「でも言ってること全然違うぞ」みたいなのがあるんだけれども、でもそういう時に40年前の仲間の所に行く、「行く」っつって本当に行ったっていうのは、まあ、素朴に僕は感動ていうか、感激しました★。で、その時に、一人で行くっつったってあの人たちは脳性まひなので、介助者が要るわけですよね。介助者が要るって言うんで、僕のとこにも「誰かいない?」的な問い合わせあったように思います。そういうので、じゃあ青木さんはそういうこう、「一緒に行かない?」って言われて「じゃあ行くよ」っつって行った、それだけっちゃそれだけのことであったのですか?

青木:そうです。(笑)

立岩:(笑) だいぶ行ってたよね。長いことっていうか、何回…、どういう? 最初に行ったのは地震起こってからどのぐらい…?

青木:5月とかだったと思います。

立岩:何回ぐらい行った記憶あります?

青木:いや、分かんないです(笑)。

立岩:いつ頃まで行ってた?

青木:たぶん2014年、15年は私は仕事の関係で通えなくなって、その前までは個人的に、古井さんと一緒でも一緒じゃなくても行ってました。

立岩:行って。最初はほんとに介助者みたいな感じだったんですか?

青木:最初は介助者として行ってました。

立岩:それで、「ああなって、こうなって」ってちょっと言えます? 鎌谷っていうか古井の介助者で行った。古井の介助をした。それで、「ああ、ああ、こう」っていう、何て言うの、調べ出したらさ、介助者プラスアルファの部分っていうか、そういうところに入って行ったみたいな経緯はあったんですか?

青木:単純に、本当に巻き込まれてしまったと言うか、頭の中身を乗っ取られたというか、そういう感じですけど(笑)。

立岩:乗っ取られ感。その時に僕が覚えてるのは、あん時2011年でしょ。ここの今研究所って言ってる研究センターが何年目かで、それであの時にやっぱり大学も一応何かしないといけないみたいなことってあったじゃないですか。それで教職員に、「何か研究やるんだったら」みたいな感じで、40万とか50万とかそういうお金を申請すれば、当たったら出すみたいなの、大学が何回かやったんですよ。それに応募して当たったり外れたりしましたけども、当たった時はそのお金使って。たぶん青木さん調査プラス介助、何かそれゴチャゴチャになってますけども、そういうのに若干お金を出せるようになったっていうことはあったんでしょうね。
 そんで、阪神淡路の時のやつ、今さっき「調べたけど」っつったの? 全然ない?

青木:調べたんですけど(見つけられなかった)。後から冷静になって探したら、大賀重太郎さん〔1951〜2012〕の資料とかに辿り着けたはずだったのかもしれないんですけど。やっぱり被災状況で、福島で、当時、最初は福永さん★もいらしてっていう状況で。「このあと何があって、次どういう展開が予想されて、今何やんなきゃいけないのか」みたいな、そういうその、判断材料がなかったんですよね。

立岩:僕もちゃんと調べたことあるわけじゃないですけど、神戸大学に震災の資料室★っていうのがあるんです。そこ、今どんな感じでやってるか僕は全然分かりませんけども、そこの中に若干ありますよね。障害者関係の支援をしたセンターの機関誌であるとか、それの電子ファイルみたいなものがあって★、それはそれで貴重であると。
 で、青木さんの章っていうのを構成とか見ながら思ったのは、何て言うかな、始まりは勝手に始まって、つまり地震が起こってしまって勝手に始まって、そっからいっぱい大変なことが起こって。でもそれって、どっかで終点みたいなのあるわけでもないじゃないですか。終わりがあるわけでもないけど、でも、ずっと盛り上がってるかって、そんなことはなくて、だんだんしょぼくなってくるっていうか、なってくっていう。そういう歴史って難しいっていうかな。何かこうクライマックスがあって、「これやったら終わり」みたいな、「ジャンジャン」みたいなやつだと何かそういうもの書けるけど。ああいうのって、何だろな、だんだん厳しい中で、何とかなって復活、何て言うかな、再開してる人もいるけど、「でもね」みたいな。だんだんフェードアウトみたいな。フェードアウト的なものを書く難しさみたいなことって、何か感じたりしませんでした?

青木:それは本当にものすごく難しかった。土屋さんもまとめ方の部分でだいぶ苦しんでいる様子だったんですが、私もだいぶ苦しんで。立岩先生も最後に、終わりのところ書き直すように言ってきましたよね。あそこら辺は本当に何て言うか、「どうしろって言うんだ」と思いながら。先生はあそこをどういうふうにまとめてほしかったんですか?[00:59:09]

立岩:や単純にね、そのあとどうなったのかなって、もうちょっと知りたいなと思っただけなんですよ。何かこう、きれいにまとめられると思ってなかったし、誰にしたってね。だけど「このあとどうなったのかな」っていうことは、もうちょい知りたいなと思いました。例えば本当に、さっき「流動的で、先はどうなるか分かんない」とおっしゃったけれども、まさにそうで。僕はほとんど何も関わりませんでしたけど。例えばこれも不思議な話だけれども、福島から白石さんとか橋本さんが一時拠点にしてた相模原、そこには福島から移ってずっと相模原にいる栗城〔茂子〕さん★とかもいらっしゃるわけじゃないですか。そうするとそこに「くえびこ」っていう拠点があると。そうするとそこのアパート借りたりなんかして、ほんでそこに移って住めるようにするみたいな企画が一時期ありましたよね。で「あ、それいいじゃない」みたいなことを私は言ってたけども、じゃあそれうまくいったかって言うと、いかなかったんでしょ? 結局ね。ていう、「あ、いいアイデアだな。それもいいな」って思うけど、でもそうなる訳じゃない、みたいな。でも、そういうことだよね。僕は知ってるのは、そういうアイデアがあって、「それもいいんじゃないですか」って、「そういう情報だったら、もらえれば、そういう人いるかいないかみたいなことをサイトに載せるよ」みたいなことまでは言ったんだけど、じゃあ私は「それうまくいくのかな」っつったら、懸念はあったわけですよ。「難しいとこあるんだろうな」って。でも盛り上がんないんだけど、でもそういうふうに「うまくいきませんでした」っていうのも、ちょっと書いてもらおうね、みたいなことで。あれは結局、福島から移りたいっていう、まあ実際移った人もいたんだけれどさ、でもやっぱ、じゃあ諦めてっていうか、当座諦めて他に住むっていうのが難しかったってことなんですかね?

青木:うーん。難しかったということですね。白石さんのコメントを脚注のほうに入れてしまっているんですが★、白石さんも補足で、今まで住んできた場所、エネルギーを注いできた場所を離れて、新しい場所で生活を組み立てるっていうのは想像以上にエネルギーがいることなんだということを書いています。特に福島の場合は放射能の問題もあったんで、真っ直ぐに議論ができなくなるところもあるんですよね、どこに行っても。

立岩:ですよね。

青木:そういう中で「なぜ行くのか」とか、何かこう、みんなで腑に落ち感を出しながら合意形成していくことは、外から見てるよりも難しい側面があったと思います。そういう意味では、アーカイブ的な研究の難しさって、結局、とにかく記録を取る、それは本当にそうなんですけど、それをどうまとめるか、どう活かすか。なんていうか、暫定的な仮の答えしかないものをまとめるというところが〔難しい〕。とにかく書くことは大事だよねというのもそうなんですけど。すいません、言葉が見つからないまま言ってますけど。とにかく、必要とされるエネルギーに比べて出てくるものが小さいというか(笑)、しょぼいというか。それもあります。

立岩:青木さんの章の中で、白石さんに「もうやめて逃げたら」みたいなこと言ったら、白石さんが泣いて怒ったっていうさ、そんなエピソードが出てくるじゃないですか。あれは、誰でも読んだら忘れられないところだと思うんだけど。そうやって白石さんは福島に留まるわけだよね。郡山養護学校の時の仲間、一番遠くまで逃げたのは安積遊歩だったのかな? あの人はオーストラリアへ行ったんだっけ? また戻って来たみたいだけれども。鈴木絹江さんは京都とかですね。同じ、中でも、遠くへ行った人と留まった人ってのはいるわけじゃない? で、それがどうだったって今まとめたいわけじゃなくてさ、互いに知らないわけでもない何人かが違う道っていうか…、ことをやったことについて双方は何か思ってることあるの? 言ってる? 例えばね、安積さんなら「白石さん、逃げればいいのに。」みたいなことだったのか。その辺のあの人たちの間って何か、聞いたりしたことって、青木さんに限んないだけど、あります?

青木:鈴木絹江さんからは毎日「逃げて来い」って言われてたっていうのは、聞きました。みんなに言われていて。でも、ここに残るしか白石さんは選択肢がないと思ってたんですね、色んなことを聞いて。

立岩:白石さんね。

青木:はい。[01:04:54]

立岩:鈴木さんが鈴木さんで逃げたのも、白石さんに「逃げて来い」って言ったのも分かるけど、みたいな感じなのかな。でも俺は逃げられ…逃げなかった、みたいな感じなんですかね?

青木:脚注に書いてある白石さんの後から来たコメントでは、白石さん自身は逃げることを考えていた★。

立岩:うん。「でも」っていう話、

白石 でも、家族とか、周りの「あいえるの会」のメンバーのことを考えると、そういう訳にはいかない。

立岩:「一人だけだったら」だけども、周りとか、実際彼らもそういう仕事として関わってる部分もあるから、そうしたところで逃げられないっていうか。

青木:そう、ですね。

立岩:っていう話で。今日は本当に何も考えずに喋って…、いやちゃんと考えて喋ってるんですけど、震災のあとは、特に阪神淡路のあと、若干社会学者があそこに入ってそのあとのことについて調査して、何冊かの本は出てるんですよね。そこの中に、さっきちょっと名前が出ましたけれども、 大賀重太郎さんっていう、50何年の生まれだろう?〔1951〜2012〕、全障連とかそういったところの縁の下の力持ち、そういう人ですけども、それが出てくるんですよ。あれは東大の社会学の似田貝香門さんとかあの辺のグループがかなり長く神戸に入って調査して、行ったり来たりして、本も2冊ぐらい出てると思います。成果が出てるっちゃ成果が出てる数少ないものではあるんです※。ただその時に、例えば大賀さんたちのやってたこととか考えてたことが、その社会学者たちの書き物の中でちゃんと書けてるかって言うとそうでもないと僕は実は思っていて。大賀さんの書いたもの※のほうが「いいね」っていうか(笑)、そんな感じですよね。いつもそれは思うことで、まとめたら変になったとか面白くなくなったとかってけっこうあって。でもそれが仕事だっていうのは「僕たちはどんな仕事をしてるんだろう?」って思うわけです。
※◇似田貝 香門 編/柳田 邦男・黒田 裕子・大賀 重太郎・村井 雅清 20060331 『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』,関西看護出版,202p. ISBN-10: 9784906438785 ISBN-13: 978-4906438785 1680 [amazon][kinokuniya] ※ d10.
◇似田貝 香門 編 編 20080208 『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』,東信堂,342p. ISBN-10:4887137974 ISBN-13:9784887137974 3800 [amazon][kinokuniya]s ※ v05. d10.
◇佐藤 恵 20100910 『自立と支援の社会学――阪神大震災とボランティア』,東信堂,218+viiip. ISBN-10: 4887139497 ISBN-13: 978-4887139497 \3360 [amazon][kinokuniya] ※ s. v05. d10.
※◇大賀 重太郎 19960226 「震災から1年たっても なんでこんなに涙もろく なんでこんなに腹立たしい」,『障害者救援本部通信』第16号(1996.2.26)
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/serial/7-z27/eqb90_016.html#01
 最初のほうの話に戻るとね、今日もツイッターとかでちょっと書いたんですけど※、最初のやつは「いついつ何々なってその時誰がどうした」っていうのは、第一報っていうのは、もう本当にそういうものであっていいと。それを人は論文って呼ぶかどうか知らないけれども、そんなこと私は知らないと。論文って言ったっていいと僕は思うし、雑誌に載ったっていいと思うっていうことは、一つはそうです。ただそれがその、矛盾するよう…、矛盾しないですけれども、でもそれを、じゃあそのままにしておくのかといったらそうではない。そのままにしておくんだったら、本当にそのままの、本人が書いたもののほうがいいってこともけっこうあるよねってのはさっき話しましたけど、もう一つ、それをどう読むかってことはやはりある、と。どんなに読もうと思っても読み切れないみたいなストーリー、ストーリーっていうか出来事があるんだけれども、僕はその、ある読みができることがあるというふうに思っていて、僕が書いた第6章ってそういう話なんですよ。
※2019/09/06 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1169769945074241537
 「本日指定発言者の廣野俊輔さん→arsvi.com/w/hs13.htm とやりとり「私結局けっこうまじめに書きました。ただ調べて書きゃいいと院生には日ごろいってますが、ほんとはそうでもないんだよねといったところです。」→第6章「分かれた道を引き返し進む」→arsvi.com/b2010/1909ac.htm
 つまり白石さんっていう人が全国の青い芝の再建委員会の委員長になって、それはただ、たぶん2年も続かなくって辞めて福島に戻るんですけど、「何で辞めたのか?」っていうか。で東京青い芝の連中としばらくは付き合うっていうか関わるんだけれども、そこから撤退するっていう。そういうことって言ったら何なのかっていった時に、それはたんにその個人の矛盾で、日本の80年代っていうのが、あるいはその時期の障害者運動っていうのが何だったのかってことを僕が示すより、【思ってるんです。だからそういう意味じゃ、】(01:09:24)ある意味ひどく強引なストーリーを見込んでるんだけども、でも実は僕は自分自身は、強引だと思ってない、本当にそうだと思ってる、ぐらいの気持ちで書いてるんですよ。だからそういう意味で言うと非常に、「そのまんま、とってくればいいんだ」って一方で言いながら、そこの中でかなり強いストーリーを見出すっていうか、見出すのが自分の仕事だっていうふうに思ってるっていうのが私なんですけども。

■東京青い芝・久留米園・田中豊

立岩:で、その東京青い芝専門家の廣野さんにもう1回聞きますけどね、かなりはっきり書いてるでしょ、この本の僕の章って。最初から僕は強く行こうっていう本かな、東京青い芝的なものに関してわりと批判的で、批判的であることばっかり書いてるつもりなんですが、もちろんそれは非常に偏ったというか、特定の見方だってことは否定しない。で、今日、朝、廣野さんからきたメールに書いてたけど、廣野さんは、誰でもそうだと思うんだけど、やっぱり直に顔を見知っているとちょっと違うく見えるよね。ってこともあって、そういうことはあると思います。その時に、僕のほうは、割とはっきり、「あれダメだったんだ」っていう言い方になってるんですね。で、それはどうなのかっていうのは、ちょっと専門家から聞きたいなっていうのがあって。廣野さん。

廣野:はい。どうしよう。いらっしゃってる方はどれぐらいの話の、みなさん、その、青い芝間の違いとかがどれぐらい分か…、

立岩:しょうがないから、今日はある程度分かってることにしようよ。最初からやると大変なことになるじゃん。

廣野:そうですね。

立岩:そういう前提でやろ。しょうがない。

廣野:はい。東京はですね、70年代以降、全国の中で孤立、孤立と言うていいと思うんですけど、孤立していくんですが、にもかかわらず、彼ら自身は、初期の青い芝の活動をそれなりに評価していたのですね。その中でなぜ孤立していくのかですけど、ポイントはいくつかあります。例えば、横須賀俊司っていう県立広島の先生が全障連とか回ってた時に、「『あれは物取り運動や』というふうに言っているのを聞いた」と、いうふうにおっしゃっているんですね。で、東京青い芝は、ものすごい乱暴にまとめると、四つの運動とその他で成り立ってるんですね。
 年金、ケア付き住宅、それから電動車いすを始めとした移動の自由。障害等級の改善運動を加えてもいいのかもしれないです。じゃあその時主流の全国青い芝とどう違うかと言うと、全国青い芝のほうはものすごく反優生思想の告発に力を入れていました。東京もそれは反対してないんですが、例えば国際障害者年を全国青い芝はものすごく否定的、東京の青い芝はかなり肯定的に捉えているという違いがあります。なぜかと言うと、身体障害者の等級改定の時に、国際障害者年と一緒に入ってきた障害の団体論っていう捉え方が使えるんじゃないかと、いうふうに考えられてたんですね。今日この出る本で、立岩さんは東京青い芝のことを、僕の言葉でまとめると「健常者主流の社会の価値観に迎合してしまった」いうふうに書いているんですね。それはどういうとこかって言うと、彼らは就労を通して経済的に稼いで自分の生活を成り立たせるっていう自立という意味での自立には反対しているんだけれども、一方で例えばお金をちゃんと管理したりとか、物の値段がいくらか知ってたりとか、そういう意味での自立は、関係者の方いらっしゃったらすいません、意固地なぐらいこだわってるんですね。で、一つ面白かったのが、「ケア付き住宅ではそういうところを鍛えるんや」と、「そういう意味合いがあるんや」と。そしたら座長の福祉の専門家が「それは修道院みたい。ちょっとストイックすぎません?」というふうな発言をしてて、「いや、脳性まひ者は小さい頃から経験が奪われているから、これぐらい必要なんだ」。で、あ、すいません、冗長になって。

立岩:それ、どこ? 会議っていうか、

廣野:「ケア付き住宅ありかた検討会」の一節ですね※。…なんですが、僕はもっと大事かと思ってるのは、人がやっぱり自分の過去を比較的肯定的に捉える側面があって、例えば養護学校に反対した人たちは、やっぱり就学免除とか就学猶予をくらってる方が多いと。で、一方で青い芝の初期メンバーは、光明学校(現・東京都立光明特別支援学校)に行ってて、そこでのびのびさせてもらった。あるいは、俳句とか。以前東大にいて、今、別の大学にいますけど、誰や、あらいさん、荒井〔裕樹〕さんが書いている、短歌とか俳句を通してネットワークができていったと。非常に肯定的に捉えるんですね。花田春兆さんなんかは、必ずしも養護学校反対っていう立場…、
※無記名(1977)「大詰めを迎えたケア付き住宅検討会 第12回、13回の討議から」『とうきょう青い芝』23

立岩:光明学校よかったっていう本※書いてますよね。
※花田 春兆 20000615 『雲へのぼる坂道――車イスからみた昭和史』,中央法規出版,276p. ISBN-10:4805819367 [amazon][kinokuniya]

廣野:同じように、東京青い芝の主流は久留米園(現・くるめ園)という救護施設に入って、そこで田中豊という、当時の厚労省です、厚生省の専門家に、朝日訴訟の話とか憲法25条の話とか、そういうのを学んで、そこで自分たちも喧々諤々議論したと。で、ものすごくね、そのことを高く評価する。だから「自分たちは収容施設みたいなの肯定せえへん」と。「せやけど自分たちが、そうでなかったら、家の中でポツンと座敷牢みたいなとこに居させられるだけ。それに比べたら、集まって、議論して、勉強して」。寺田さんや磯部さんですね。そこに横塚さんも出入りしてたんですよ。

立岩:久留米園ってさ、前からちょっと気になってんねんけど、どんな施設やったん? 久留米やから久留米にあんの?

廣野:はい、東久留米です。ただし現在は小平に移転しています。1

立岩:制度度的にはいわゆる救護施設?

廣野:そうです。当時療護施設がなかったので、救護施設に身体障害者が入ってたんだけど。で、田中豊と、のちに社会党の議員をする田中〔寿美子〕…、田中…、恵美子さんしか出てこない(笑)、と夫婦ですね。

立岩:田中豊って救護施設にいたんですよ。しかし、だいたい田中豊ってあの…、

廣野:その前には厚生省で心理職の心理機能の判定やってた人なんですよ。

立岩:うん。そういう技官系っていうか、例えば手術するとかそっちの流れでしょう? そういう人が救護施設にいたってこと自体よく分かんないんだけど、何でいるの? 田中豊。

廣野:それちょっと、すいません※。
※田中豊/田中寿美子については,川村邦彦・石井司(2001)『シリーズ福祉に生きる45 田中豊/田中寿美子』大空社に詳しいです。〔20191027立岩注文〕

立岩:調べてよ。(笑) でも調べられるんですか? だいたい。

廣野:ええ、調べられると思います。で、ちょっと面白いのは、全障連の村田〔実〕さんかな、やっぱり久留米に入ってて批判的に書いてる人もいるんですよ※。ただ田中豊は外出とか自由に認めてた。で、議論してた。そのことを東京青い芝の人たちは、「あの経験なしには今の自分がないと思う」と言ってるんですね。だからケア付き住宅は、個室も必要やけど、それは、個室は結婚なんですよ、基本的にね。施設がガンガンできてきて、施設に入ると好きな人ができる。結婚したい。でも施設じゃ無理や、っていう話になるんで。「地域へ」っていう、一つの大きなモチベーションになってるんだと思うんですけど。だけど「あの施設にいた一時期がものすごい大事だ」って言ってるんですよ。はい。僕は徹底的にその側に立って言うと、「迎合」はちょっと言い過ぎじゃないかなと思うんですけど。つまり、小さい頃から「お前ら社会性ないぞ」と言われて育ってきた人たちでしょ。社会性がない。で、横塚さんも言うてるんですよ。「青い芝の【会計】(01:18:35)がね、何か会合に出て来なくなったなぁって言うてね、心配して家に見に行ったらひっくり返ってテレビ見てるような人らがいますよ」と。「これじゃ健常者から『社会性がない』と言われてもしょうがないでしょ」いうような文章を書いてるんですね。で、そう言われてきた人たちが、「就労が無理や」と。それは東京の文脈で言うと、金沢英児さんっていう創設者の一人が労働で無茶して。一つの特徴ですよね。二次障害になって絶望して自殺してしまわはった。で、それものすごい、
※村田実遺稿集編集委員会編(1999)『ある「超特Q」障害者の記録―村田実遺稿集』千書房
立岩:金沢英児って自殺したの?

廣野:自殺と言われてるんですね。海で打ち上げられて見つかってるんで、「恐らく自殺だろう」という。「あれは労働で無茶したからだ」と。「だから自分らはもう、労働の路線は無理なんだ」っていうのがあって、やっぱり自立の概念広げたいっていうのあったと思うんですよね。「就労してお金稼ぐだけじゃ自立じゃない」って。だけど残された部分の社会性というのは逆に強く求めてしまいすぎたんちゃうかな、っていう気がするんですよ。「できない」、「できないって」言われてる人ほど、それを強く求めちゃうみたいなことって、いくつもあると思うんですよね。[01:19:52]
※1976/1/26死去。『とうきょう青い芝』7-8では金沢の死をめぐって会員が所感を投稿している。金沢自身の遺稿として金沢智代編(1976)『遺稿 光をもとめて』ルック社.
※「社会性」の問題については、たとえば初期の青い芝の会の会報では、落合清彦(1958)『青い芝』3,3-4 タイトルは生存学ホームページで見ることができる。
※横塚が社会性に言及している文章として、横塚晃一(2010)『母よ!殺すな(第2版)』124-127に収録されている「我々の手で小さな施設を」がある。この中で脳性マヒ者が社会性や責任がないといわれるが、今の状況では無理のないことだとある。ちなみにこの文章には田中豊と横塚が交流していたことも書かれている。

立岩:あのさ、廣野さん、そういうの論文に書いてる? 書いた?

廣野:これから書きたいと思います(苦笑)。そう、先ほどの資料の兼ね合いとって言うと、立岩さんの言うことはそうだろうなっていう気もするんですけど、別に歴史が理屈通り動くわけじゃないじゃないですか。

立岩:そりゃそうだよ。そりゃそうですよ。

廣野:年金の件も、生活保護のケースワーカーに、会員が「クーラーをもう捨てちまえ」と言われたりして。で、磯部さんもね、あの…。あっ、先生、この自立連の『碍(がい)』という雑誌★が2冊しか出てないと書いてあるんですけど、あれ4冊出てるんですよ※。
※生活保護の問題点については、例えば、寺田純一(1975)「親がかり福祉の発想の転換を目指して」『青い芝』96,1-2.扶養義務者への照会も問題視している。

立岩:新しい事実ですね。ありがとうございます。

廣野:ものすごい些末なことです。その3冊目に仲村優一っていう社会福祉のえらーい先生…、何か、のばすといやらしいですね、偉い先生の記念講演か何かで磯部さんが発言してて、あっ、年金で協力関係にあったんですね、年金の関係で。その時に「自分は60年代半ばぐらいまで生活保護取って恥ずかしいことちゃうやん。」と、「やろう。」と、「地域生活しようよ。」と。で「生活保護で公営住宅住むみたいなことやってた」と。ただ、そういう「ケースワーカーが無茶苦茶やから、『こらあかんわ』ていうふうに思った」と。たぶん理屈で言ったら、「生活保護のほうがよくて、基礎年金はかえって家族への依存を強める」って立岩さん書いてるんですけど、「坊主・袈裟系」ていうか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってことも起こるじゃないですか、やっぱり人の中では、個人の中では。「もう、これ懲りた」みたいなふうになったんちゃうんかな、っていう気はする。
※磯部真教(1987)「閉会にあたって」『碍』3,64-65.
当時私は生活保護を受けていました。一生懸命働いても大したお金にならないので、考え方を変えて世の中のためになることをしようと福祉事務所のワーカーと大喧嘩やって保護をとったのが,昭和38年7月15日です、これを皮切りに青い芝の会の仲間たちにも,「いただくものをいただいて世の中のためになることをすればいい」と,オルグしてきました。少々やりすぎたから方向を変えなければと思っていた頃,東京久留米園の夜の集会で仲村先生に北欧のお話を聞きました。障碍者が老齢年金と同額の年金を受けて一人で独立した部屋で生きていると聞き,「日本でもこれをやらなければ」と思った。以来それ一筋に生きてきました(磯部1987:64-65)。

立岩:それは分かる。いや、もちろんそういう体験させられて、嫌と言うほど思い知らされ的なことが60年代あって、それはもう、とってもよく分かる。あると思うんですよ。それはそれで、まずね、まず「あなたさ、あなたさ」って言いますけど、論文書い…、いや、だって磯部さんのインタビューってしてるでしょ?

廣野:はい、1回。

立岩:それはどこにあるんですか?

廣野:ですから(笑)、書こうとしてるんですけど、なかなか…、

立岩:早う書いてください。

廣野:はい、すいません。

立岩:あのね、ちょっと言いますと、磯部さんっていうのは、これを今日ね、ここにいるわずかでも関心のある方々に言いたいですが、僕は86年か7年にインタビューしてるんだよ。だから30年前に磯部さんにお会いして、磯部さんにインタビューしてるんです。でも、何を聞いたか全く覚えてません。て言うか記録がないんですよ★。聞いたのは確かなんですけど、それの文字化された記録がないわけです。で、僕はその、20年後の研究プロジェクトに関わっていたらしいってことさえ忘れる人間ですから、最悪なんですけれども、86年、覚えてないです。で、そういうもんだと。少なくとも私に関してはそうだっていうのを、やっぱりこう痛切に感じたわけで。だからやっぱり人の頭なんか当てになんないから、外部装置に残しとかなきゃいけないっていう話が今日の話なんですよ。それだけ言えばいいと今日は思ってるんですけど、それなんですよね。だからね、あのさあ、廣野さん、考えて書くのもいいけど、それより磯部さんのインタビューとかって。磯部さんてまだ、ご健在なんですか?

廣野:2005年の修士論文を書くために八王子の自立ホームに行ったのは確かなのですが・・・・。

立岩:でしょ?

廣野:で、うん。そういう点では立岩さんと同様、その…。修士論文の公開指導みたいになってます(笑)。修士論文の時に話聞きに行ったんですけど、要するに書いてはること以上のことは言ってない。

立岩:いや、そりゃそうなんやけどさ、そうなんやけど。でも、いや今回本当に…、今ね思ってるのは、みんなインタビューするじゃないですか。そのインタビューの記録を下手に…、下手にとかって言ったらあかんけど、論文とかにする前に、それはそれとして、「磯部さんが喋ったこと」っていう感じで、残しておこうっていうのを今やっとかないとあかんのんちゃう?って思うと。それをしなかったってことが、僕が80年代に磯部さんに話聞いたけど何にも覚えてない、っていうことでもあるんですよね。
 だからそれを今、これはちょっと今現にいる人も数少ないですけど、ちょっと今録音してるので残して、それのキャンペーンをここ数年でやろうと思ってる。つまり、みんなインタビューに行って聞いた話を人にちょっと手入れるなり入れてもらって、それをそのままサイトに載っけるっていうのをやろうと思っています、のですよ。だから磯部さんに言って、磯部さん確か色々書いてるけども、そんなに長いもん書いてるわけじゃないし、そんな個人のこと書いてるわけでもないじゃないですか。やっぱり政策とかさ、そういう真面目な文章じゃないですか、だいたい。[01:25:28]

廣野:東京の青い芝じゃなくて、初期のほうの青い芝にはかなり色々書いてるんですよね。で、だから、ごめんなさい。何て言うか、「それがあればいいか」っていうことで、当時録音もしてなかったんです。フィールドワーク的に八王子に行ったので、だから今の先生の要望に残念ながら応えられないんですが。でももう一つ思うのは、立岩さんの論文読んでて「それもそうかな」と思うのが、寺田さんがね、これちょっと時間が過ぎて、2005年に自立支援法の色んなやり取りがあるじゃないですか。その前ぐらいに「応益負担賛成論」みたいなん言うてるんですね。

立岩:はい。

廣野:そこで、僕自身は「いわゆる金銭管理とかの自立にこだわること自体が、そういう環境的な剥奪から起こってるんだ」みたいなのが、一つ何か書くとしたら落としどころかなと思ってたんですけど。「人のせいにするんじゃない」みたいな。やっぱり脳性まひは、それはほんまに身に付けなあかんと。つまり物の値段がいくらで、ちゃんと赤字にならんようにお金を管理して…、僕自身は赤字だらけの男なんですけど、…そういうことをやっぱり、骨の髄までそう思ってるんかな、とも一方で思うんですよね。つまり、分かります? 僕自身はそれは、抑圧された人の過剰適応だと思うんですけど。その自立支援法で応益負担はオッケーで。何でか言うたら、使ったものに払って、そういういわゆる金銭管理とかの自立、いわゆる彼らの中での自立の意識を身に付けるんだっていうので、まあ言うてますね。はい。それは最近見つけたんですけど。
※寺田純一(2001)「自立と独立の谷間」『JDジャーナル』2001年5月号,8-9.寺田純一(2003)「脱施設論へのブーイング」『JDジャーナル』2003年3月号,181.

立岩:寺田純一ってあれでしょ、寺田寅彦の孫か何かなんでしょ?

廣野:それ言われるの、めっちゃ嫌がられます。

立岩:そりゃ嫌だろうね。「夏目漱石の孫の」とか言われるのと同じで。まあいいや、どうでもいいんですけどね。でも、そういうことあって。でも、東京青い芝のことは廣野さんぐらいしか調べてないのかな? もうちょっと…。いや、さっきの、僕はオチをつけたい人なんですよ。ちゃんと第6章はオチをつけたつもりですけれども。でもさ、そういうことをオチ狙いでやってると、時間が無駄になってしまうという面も半分あるので、まあ難しいですけどね。でもどっかで生(なま)のものをいっぺん出しとかないと、って思うんだけど。

廣野:この話(はなし)したら東北のことじゃなくなると思うんで。すいません、長い時間を取りました。



立岩:まあいいですよ。さて、一巡ぐらいしたんですけれども。どうしようかな。何も考えてないですが。あと今度の本…、うーん。今、「そのままって、いいじゃん」みたいなこと言ったけども、それに若干近いのは瀬山さんでしょう。…なんですよね。瀬山さんにとって、物書くっていうかな、今回であれば3人の女性の人に話を聞いて、それはそのまんまではないんですけども、割とこう喋ったとおりというか、まとめてくれてるんですけども。今後のことも含めて、瀬山さんの場合は文字のものだけじゃなくて、映像の記録と言うかな、そういうものもっていうことがあるんですけど、それは今、あるいはしばらくの間、これからについて、どんな仕事をしたい的なものってのはあるんですか? [01:29:47]

瀬山:あ、はい。あんまりそんなに系統だてて考えてということでもないのですが。今回の3人の方には、私が個人的に改めてお話を聞きたいなって思っていて、それを実現させてもらいました。震災後も福島に留まり続けて、今現在も福島県の田村市そして福島市で暮らしている方々に会いに行ってお話を聞いたというか、会いに行きました。今回それを収録させてもらってます。
 そもそもこの3人の方ってどういう人だったかっていうと、2001年頃に作られた『かがやく女たち』という映像、資料がありまして、これもみなさんにもぜひ機会があれば観てもらいたいなあと思うんですけども。鈴木絹江さんがそういう映像を作っていたんですね。なので、そこにこの3人の女性たちが登場するんですけれども。「その人たちがその後どうしているんだろうか?」っていうのがちょっと気になっていたというのがあって、今回のきっかけで会いに行ってまとめるということになったんです。
 その3人の話を柱にしながら、別の形で文章をまとめるというのも、やり方としてはできるのかなあって思ったんですけども、ただ色々な制約の問題っていうこともありましたけども。もともと私としては、彼女たちの言葉というか、それが残せればいいかな、っていう思いもあったんで、まあけっこうやり取りをしながら、それぞれの方の文章としてまとめていくことになりました。
 で、今回出会って改めて、そもそも鈴木絹江さんがこの3人に焦点を当てたっていうのは、「ああ、そういうことだったのかな」っていうのは、とてもよくわかる3人でした。二人はかなり古くから青い芝の運動に関わって、それがきっかけでその後もずっと福島で自立生活を繋げてきた人であったし。あとは、これもちょっと質問と全然重ならないんですけども、文集とかを出してた人たち。これももしかすると青い芝の花田春兆さんなんかとも系譜的にはあるのかなと思うんですけども。当時、施設や在宅など、色々なところで生活をしていた人たちが、自分たちの思いをつづった文章を同人誌のかたちでまとめていた。今回取り上げたのが『声』という同人誌。それをかなり長くかつ丁寧に続けていたっていうのも、改めて過去のものなんかも見させていただいたりしましたけども、見ることができて、けっこうやっぱり、そういう文集みたいなのを作って、自分たちの生活とか「今、ここに居る」っていうようなことをともかく発信していくっていうようなことを70年代、80年代っていう頃に既にやっていたっていうのが、本当に部分的にしか今回取り上げられてないですけども、非常に貴重な資料だな、と思いました。なのでそういう生(なま)の声のようなものが記録していけるっていうのは、面白い、いいんじゃないかなと思いました。

立岩:そういう記録を【つけてもらったんだけど】(01:34:06)、何だろう、安積さんについて、ずいぶん前から思ってんだけど、彼女、文章書けるじゃないですか。で、本も何冊も書いてるしね。それはそれで立派なことやと思うんだけど。しゃべってるときはやっぱちょっと違うよね。こう、語り方とかさ。でそれが福島弁って言ったら福島弁なのかも知んないんだけど、それだけじゃないと思って。じゃあその、しゃべった時に書いたらそれでいいのかって言ったらそうでもないかも知んないんだけど。でもしゃべりを活かすみたいなことも一方ではあるんだろうなと思って。そこの辺の、人のしゃべったものの残し方って工夫の仕様があるなって思うんですよね。[01:34:59]

瀬山:今回3人の方に集まってもらって、本当に限られた時間の中で、お三方がそれぞれお話をしたっていうのをまとめたのを文章にしました。なので、その3人がいたことによって記憶が思い起こされたりとか、やっぱり共通の話であるとか、お互いにその場で、長く関係があったにも関わらず、「あ、そうだったの?」みたいなことから出てくる話とか、そういうのもあったりして。なので、やっぱり一人の人にインタビューするというのと、運動史をみんなで思い起こしながら語ってもらうみたいな、そういうのが生み出す文章というのも、あると思っています。今回は、そうした、3人がそれぞれの話に耳を傾けながら、かなり濃い時間を過ごしてできた文章だったみたいなところがあります。

立岩:ああ、そうなんだ。僕はけっこう、白石さんと橋本さんってだいたい二人セットで出てきて、掛け合いみたいな。あの面白さはなかなか伝えにくいですけども、確実に面白くて。いやいや。(笑) その話の続きは今はなくて。そのうちするかもしれないですけども★。
 一つ、ちょっと的なこと言いますけど、僕はこの間(かん)、「え? そんなことはあったの、知らなかった。」ってのが何個かあったんです。一つは、白石さんが東京青い芝と関わられたときに、まあ一緒にやってたと。だけどだんだん離れた時の話を、2018年、去年ですね、郡山でシンポジウムがあって、「何かしゃべってくれ」って言われてしゃべりに行って、つまんないことしゃべる…、まあつまんなくないですけど、まあしゃべって、終わったあとに聞いた話っていうのが実は面白かったんです。それは、世田谷の横山さんとDPIの尾上さんの話なんですけど、それは今度の『現代思想』の来月号★に使ってますから、よろしかったら読んでください。それともう一つ、その前の晩、前の日に白石さんと橋本さんに聞いたんですよ。その時にね、「何で離れたのか?」って話で、磯部さんたちが八王子に自立ホームを作ったあとに「もっと大きいもの作ろう」って話をしたと。「八丈島に定員50だか60だかっていうのを作ればいいじゃないか」みたいなことを言いだしたと。それでちょっと白石さん、ちょっと嫌…、あの、そっから離れていったっていう話を、僕はこの稼業っていうか、ものを書いてもうずいぶんになるんですけども、聞いたことがなかったんですよね。で、初めてそれ去年聞いたんですけど、「え?」と思って。で、そうやって見ると、ないことはない。だけど、例えばね、その東京青い芝っていう、全てがPDFになっている、あの素晴らしいデータベースになってるものをそういう目で見てみると、その話が出る、自立ホームができ、そして障害基礎年金が成立する85年ぐらいまで、特に84年ぐらいです、ほとんど月刊で出るんですよ。それも30ページぐらいある非常に立派なものがほぼ月刊で出てる。これすごいエネルギーですよ。なんですよ。で、それが基礎年金ができた直後ぐらいから、パタっとその機関誌の発行自体が止まるんだよね。で、そのあとは年に1回ってふうになって、やがてこう消えてなくなるみたいな、そういうこう運命を、運命っていうか経過をたどるんですけど。その、語らなくなっていった時間っていうのは、機関誌を読んでも分かんないわけじゃないですか。機関誌は、機関誌に書いてある【しかわけだ】(01:39:15)から。実はその八丈島にケア付き住宅を作るって話っていうのは、僕が確認できてる限りでは東京青い芝の機関誌の中に全然出てこないんですよね。で、僕は80年代に、あるいはそれ以降に聞いた話の中にも出てこなかったんです。でもそれ去年聞いて、「えー、そうだったんだ」って思って、「へー」と思ったんで、この書に書いたんですけど。あのさ、廣野さんその話知ってた?

廣野:「もっと大きい構想したけど、頓挫した」っていうのは、どなたかから聞いたことあったと思うんですけど、それが八丈島っていうのは僕も初めて知りました。

立岩:そうなんですよね。まあだから、そうなんですよねっていうか(笑)。その話って土屋さんのインタビューに出てるんだっけ? 違ったっけ? 前の年だか次の年、もう1回しゃべってますよね?

田中:去年の11月に行った時に、

立岩:去年ですよね。だから、たぶん去年の3月に僕がその話を聞いて、たぶんその同じ年に、いやこれも失礼だなと思ったんですよね。同じ人に同じ話を聞いて同じ話をさせるっていうのもね、と思って、思ったんだが、でもたぶん、それってあんましゃべってないかもしれないですよね。他の白石さんが書いてる記録とかに出てきましたっけ? 還暦記念のやつ、あるじゃないですか。僕は今日田中さんに返すの忘れてうちに置いてきて、そのままになるかなって。

田中:(笑)

立岩:それに書いてないですよね? ていうのはね、そういうことが何十年か経ってポコッと出てきたりとか、そういうこともけっこうあったりして。それって歴史としては面白いのかなっていう、その話をしたいだけなんですけどもね。

田中:ちょっとだけいいですか? 自立ホームについては「1個できたから次を作ろう」っていうのはけっこうある(01:41:27)[01:41:28]

立岩:それは当然あると思うんですよ。それは当然あるんだけれども、あの、

田中:でもあれが成功したと思えない…、

立岩:それが、それは当然そうなんですよ。だって10人が【住めてまった】(01:41:41)ってどうってことないじゃないですか、そんなもん。世の中に何万人もいるわけだから。当然、「次に、次に、次に」、これは全く当然のことなんですよ。「だけれども」っていう話ですね。で、白石さんと話してて、「そりゃ島流しだと思ったよー。」って白石さんが言うわけね。ほんで、「ああ、僕、佐渡なんですけどー。」とか言って、そういう無駄な会話をしてたんですけど。何かそういうことって…、

田中:いやごめんなさい。私も立岩さんの書きおこしを読んだことを覚えてるのか(笑)、ちょっと、いっぱい何回も読んでるから、あの話は…。その、私たちがインタビューに行った時に、そうですね、【だいぶ前ですが】(01:42:20)そういう話は【出なかった】(01:42:21)気がするんです、たぶん、

立岩:まあとにかく、近年のやつで2回しゃべってるっていう、そっちね。でも、たぶん、その僕は80年代には全く知らなかったんですよね。で、90年代にも2000年代にも知らなかったです。そういうことが、何か出るんですよね、しゃべってるとね。
 で今回、その次の晩…、その白石さんと橋本さんのインタビューは真面目にやったんだ。ちゃんと2時間位ね、場所とって。で、その次の日は横山さんと尾上さんと酒飲みながらしゃべってて※。その時、でも、高橋修って人についての僕の知らなかったエピソードっていうのは、やっぱ20年ぶりぐらいに聞いて、「えーっ」って思ったりして。それはそれだけっちゃそれだけなんですけども。
※横山 晃久・尾上 浩二 i2018 インタビュー 2018/03/17 聞き手:立岩真也・岡部聡・田中恵美子 於:郡山市

 だから何だろう。長い時間かけて、やっとく。でも、その長い時間の後に分かることもあるんだけど、後に分かることが分かる時には前のこと忘れてるみたいな、そういうことがあるので、両方取っとかんとあかんのやなってこともありつつ。[01:43:27]
 さて、非常に三々五々、適当なことをしゃべってきましたけど。ただね、今日出た色んな話って、たぶん1個1個、非常に大切なんですよ。だからこういうのをよく思うんだけど、ただしゃべってると「大したことないことたらたらしゃべってるな」って言うんだけど、いっぺん文字にしてみて、ちゃんとすると、「1個1個、それなりに意味のあることを言ってるな」とかはあったりすんだよね。なので、これも今日の録音記録も文字化してもらおうと思ってるんですけどね。まあそんな感じでしゃべってみました。
 で、今僕が思ってるのは、そろそろ一旦まとめに入って、少しフロアっていうか、そこにいらっしゃる方にお話聞きたいと思うんですが。今思ってるのは、そういう、みんなが、研究者たちが何十年かの間にボチボチとやってきて取った記録っていうのを、少し組織的に、系統的じゃなくてもいいんですよね、ちゃんと集めて、なくならないうちに取っとくっていうことをまずはしておきたいと思います。北村さんがたぶん紹介してくれたと思うけれども、我々はこれまでね、割と文字の記録を集めるってことをやってきたんです。それはまあまあ、他に比べれば集められた部分もある。これからの部分もある。これから増えてくると思いますけれども、それはそれでやってきながら、もう一つはね、言葉っていうか声っていうか、そうしたものを集めてっていうのもあるし、既に集まっていたものを、でもいいんですよ。[01:45:13]  例えば、僕が2001年に高島修っていう人の、さっきから出ている『自立生活運動と障害文化』っていう本に書いた、その人にインタビューした。でそれは、実はその高橋さんっていう人はほとんど文章を書かない人で、800字…、あ、そんなことないか、もうちょっと長いのありますけども、ないんです。ただ、ここに今、会場にいるけれども、圓山里子さんが聞いたインタビューが1個。から、僕らが86年に聞いたインタビューが2個。それからもう一人、かつて安積さんと付き合っ…、まあいいや、暮らしていた石丸さん、だっけ? がやったのが1個。それから千葉大で僕、その奥村さんたちと社会調査実習っていうのをやったことがあって、千葉大の学生が聞いた時のやつが1個。五つあるんですよね。で、それがあるから、あの人がやったことを考えたことっていうのが書けるってのがあると。
 で、何が言いたいかというと、それで86年にやったインタビューは、磯部さんのやつは…、全然意図的じゃないですよ、記録はないんだけれども、高橋さんのやつは二つともあるんですよ、フルバージョンのがあるんですよ。1個40ページぐらいの長いやつです。ある。ところがですね、石丸さんが97年、だから亡くなる2年前に聞いたインタビューの記録を、僕は紙で確実に持ってたはずなんですよ。持ってたはずなのに、ないんですよ。どんなに探してもね。で、何をしたかっていうと、誰にお願いしたんだっけ? それ石丸さんに、…あ、そうか、田中さんにお願いしたんだ。したら、石丸さんがその時のカセットテープを持ってると。ね、カセットテープを持ってるって言うんで、そのカセットテープをもっていただいて、でそれを一旦ファイルにして、テープ起こしを最初からやり直してもらって。でそれを使ったりしたわけです。でまあ、もちろん無駄なんですけどね、そういうことがあります。
 で、今、媒体も変わってきてるわけじゃないですか。カセットテープっていや、もうとっくにステレオとかについてないですよ。ビデオテープだってそうですよ。そういうものをどうしようかっていうのを、さっきまで障害学会理事会を一緒にやってた頼尊さん★と今相談してて、そういうかつての画像をどういう形で保存するかっていうことを今ちょっと考え…。だから画像ね、それから声の記録ね、それ自体を残すっていうこと。ちょっと別のとこで褒めてますけど、NHKが、2015年かな? 色んな人に、それこそ【三井絹子】(01:47:58)さんなんかも出てきますし、そういう人たちに話聞いて。それ今ウェブでしゃべってるの見れますよね※。あるし、それは画像も見れる、しゃべってるのも聞こえるし、それを文字化したテキストファイルが横にあってそれも読めるっていう。僕らはそんなにお金もないですし、そんなにちゃんとしたことをやるつもりはないですけど、少なくとも一方で、声、あるいは画像、そうしたものを残しておくっていうのは一つです。でそれを、ちょっとお金かけてお仕事していただいて、それでそれを文字化する。でそれを文字化したものを、まあとりあえずはそのままとっとく。だけどもったいないですよね。で今思ってるのは、それを見ていただいて、ヤバい部分ですね、人の悪口とかすぐ酒飲むと人は言うので、そういうところはちょっとヤバいとあとで思ったら削ってもらって、でそれで承諾得たものを載せるっていうものを今ぼつぼつと始めてます。で、僕はそれちょっと今大切だなと思うし、面白いなと思ってて。去年、国立療養所に関わる筋ジストロフィーの人たちの話を書きましたけど、ここ八つぐらい、ふた月ぐらいの間に8人ぐらいの人に、その療養所での体験、それ以後の話を聞いて、それ今五つまでは我々のサイトに載っています★。で、それは読めます。[01:49:26]
三井 絹子 20151012 「私は人形じゃない」,NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」
 で、読んでそれをどう解釈するかという、研究者もしてもいい仕事ですけども、それは分かれるわけじゃないですか。分かれてもいいわけじゃないですか。そこに学問とか議論ってものが成立するわけだから。だからそのベースの、基のところは共有したいってことはあるんですよね。それを今まで、自分一人一人がその基は持ってて、でそのうちなくす。なくす、忘れる、捨てちゃう、死ぬ。死ぬとその家族が捨てる、みたいなことでしょ? で、それの中で、蓄積ってものがないわけですよね。で、かろうじでそれを何とかまとめた論文が二つ三つ残される。だけど基のほうが知りたい、記録を見たり、そういうことがけっこうあって、そういう仕事を、これから我々の研究所のアーカイブの仕事の一部としてやりたいって、いますので、そういうことでお仕事をお願いしてるところも今来ていただいてますし、そういうことに今まで関わった方々もここにいらっしゃるわけです。そういう気持ちで始めてますし、これから続けていきたいと思っていますので、もし心に気持ちに賛同できる部分があるのであれば、ご協力いただきたいなっていうのが、「今日こういう企画を」ってことの一つの気持ちでもあったんですよ。という宣伝をさせていただきました。
 ほいで、もう顔が見えて「みんな分かっているよ」みたいなそういう会場ですけれども、あと30分ぐらいでやめましょう。あ、もうやめてもいいかも。ですけれども、まあもうちょっとやって、それでメール、ツイートでもお知らせしてますけれども、京都タワーの地下のフードコートに行って餃子を食べるとか、そういう諸々ですね。タイの屋台風のものを食べるとか、そういうので、しゃべるのを続けたいと思いますけども。まあそれはそれとして。
 だけど本当に、酒の席の話って面白いときがありますね。僕は本にも書きましたけど、最初のとこに書いたかな、90何年だろう? 99年とかその辺かな、福島の船引に寄せてもらって講演てのをしたわけです。介護保険がどうたらいう話をしにわざわざしに行ったわけです。「やあ、山奥やなあ」とか思いながら行きましたけども※。でそこで話をして、でそのあと、まだ日が明るい、3時、4時頃だったと思うんですけど、その船引の、今は町の名前は変わってますけど、そこの呑み屋っていうかそういうところに行って、で前に鈴木絹江さんがいて、んでその連れ合いがいて、それでビール飲みながら話(はなし)したんですけど。それがすっごい面白くて。んで、そういうことです。(笑) だからたぶんそれと、土屋さんに、それも全く忘れてたんですけど、「福島面白いよ」って言ったのは、たぶんその話がきっかけだったのかも知れないですよね。でも本当にその話面白くって。どういうふうに、まあ亭主のほうですね、連れ合いのほうが、こういうまあ儲けにならない、でも面白い運動にかかずらわるようになったか。まあ、「またこれか」と思いましたけども、結局『さよならCP』の上映会に引き入れられたっていう。ほとんどそういう客引きっていうか、そういう世界の話から始まる話だったんですけども、聞いて、【ほんでまあ、思ったんですよね】(01:53:23)。
※立岩真也 1999/07/31 「障がいを持つ人の介助保障と介護保険」(講演),'99福祉セミナー「障がいを持つ人の介助保障と介護保険」 於:福島県船引町 主催:障がい者自立生活支援センター<福祉のまちづくりの会>
 で今回そういう意味で、時々途中から「実は今録音してるんですけど、いいですか?」とか言って、途中でOKをとったりするんですけども。こないだ、去年その郡山に行ったあの日に聞いた話も酒の席での話です。じゃあまあそれをそのまま公開できるかっていうと、それはまあできないわけですが、だけれどもまあ、そういうもの含めて色んな媒体で、色んな形で話されたものを残してっていうことを思っています★。
 そして今ね、もうこれで最後にしますけど、たぶん少なくとも今生きている人たちは話したがってますよ、明らかに。「自分たちが今まで生きてきて何をしてきたのかってことを、本当に今、話しとかないと嫌だ。」みたいな感じでいると思います。ですから、けっこう話してくださいます。僕は、30年間全くインタビュー調査ってやってない。僕がインタビュー調査をやめたのは87年なので、それから30年経ってるわけです。で、まあ偶然、一つはその科研費が当たって、運動史は前からやらなきゃいけないって思っていたので、やろうってことで、30年ぶりにインタビュー調査を再開して、いろんな話聞いてるんですけど、一人も「嫌だ」って言った人はいないですね。みんな「話したいです」って。それも話し出すと、もう4時間とか話してしまうという、そういうことがあって。
 あ、斉藤さん★いた。(笑) 斉藤さんと一緒に話聞いて、しゃべりだしたら「もう4時間」みたいなね、ありました。[01:55:19] 『月刊障害者問題』っていう、知ってるかい?、っていう、そういう個人誌を一人でやってきた本間さんという方にインタビューしたんです※。なんと小学校が同じだったっていう奇跡のようなことがあったりしてビックリしたんですけど。まあ1年間だけですけどね。まあそんなことがある。だから話っていうのは、本当に何か不思議なことは起こる、けっこうね。「実は」みたいなことが起こったりもするんです。ですから。僕は本当に「どうなるかわかんない、どうなるかわかんない」っていう気持ちと、「いずれそこの中にちゃんとした筋を見出すんだぜ」っていう気持ちと、両方持ちながら話を聞くってていうことの面白さ、っていうことと、まとめていくっていうことの苦労とか苦心とかっていうことで結局は成り立つんだが、それと共にベースになる基のものを置いとくっていう、作っていくっていうこと、保存してくっていうことを、思っているんです。
※本間 康二 i2017 インタビュー 2017/09/15 聞き手:立岩真也 於:東京蔵前・本間氏宅
 ていうようなことをしゃべりたくって、今日こんなおっきな所でぼそぼそってしゃべってますが。もうちょっとやったらやめますが、何かしゃべりたい人はしゃべって、

田中:あの、1個だけいいですか?

立岩:はい、田中さん、しゃべってください。

田中:いや、私はそんな長くないですけど。(笑) 今、これから白石さんたちは「ケア付き住宅をつくろう」っていうことをやろうとしてるんですね。それだけを聞くと、「え、何? 箱ものをつくるんだね」っていう、そういう考え方もいるかもしれないと思うんですけど、彼らがやろうとしてるケア付き住宅っていうのは、そこで体験して自立生活に持っていきたい。だから、「ケア付き住宅」って私たち聞いたときに、「あ、とうとう自分たちの入りたいところを作るのか」と思ったら、そうじゃないんです。「若い人に入ってもらうんだ。」と。

立岩:それはさ、それは30年前に、まさに白石さんがシャロームでやろうと思って、シャロームでやってきたことなんだよね。

田中:そうそうそう、だから、

立岩:それを何、福島でやろうとしてるの?

田中:そう。今もう土地をたぶん探し当てて、建物建てていると思うんだけど。だからそういう、それはそうで、さっきおっしゃってた応益負担のこともそうなんだけど、何か一つの現象に、あと作業所のこともそうなんですけど、それも私のとこで出てくるんですけど、白石さん…、じゃない、あれは橋本さんたちがうつみねの作業所を作った時とか。白石さんもけっこう作るけど、だからやっぱりそういうふうに見ると、「労働行動を評価するようになる」っていうふうに見ちゃう人たちがいるけど、そうじゃなくって、「場所を確保して、そこに集うことが重要で、別に働くことは重要じゃない」っていうことを言ってくれたことを、ちゃんと私たちがそれを書き記していかないと、現象だけ見ると、何か「今まで言ったことを逆行してるのか?」みたいに思ってしまうと思うんですよね。だから作業所っていう時も、それは鈴木絹江さんもちょっと誤解し…、誤解っていうか、「それ聞いたときには、『ああ何で、労働を否定してたのに、そういうふうに今こう考えた?』と思って、私はそこからあまり関わらない」、まあもちろん、自分たちの生活(01:58:32)が別の方向で忙しくなったということもあって関わらなくなった、とかって言ってましたけど。何かそういう誤解っていうか、一つの現象をちゃんとこう説明し合う機会がないと色々誤解が出てくるので、そういうところでこちらが聴き取ったお話で「実はこういう意味があった」っていうことを明らかにしていくことで、「あ、そうだったんだ」っていうお互いの理解が生まれていくといいかな、と私はちょっと思ったりしました。以上です、マル。

立岩:田中さんでした。はい。

廣野:あ、私も一言いいですか。

立岩:はい。廣野さんです。[01:59:12]
廣野:今、田中さんの話もそうですし、そう、僕も「東京青い芝は労働に懲りた」と言いましたけど、作業所をいっときだけやってたんですよね。そこも面白いと思います。要は集まる拠点になぜか「作業所」って名前を付ける。で、この「くえびこ」は、これもまた立岩さんに怒られるんですけど、どっかで尾上さんとしゃべって、尾上さんが、僕が「CILの名前が南部解放センターとか中部解放センターとか、おかしくないですか?」みたいな話をしたときに、「あれはくえびこを真似したんだよ」って言っていたんです。ただ、それいつ話したのか覚えてないし、なぜインタビューしたのにそれが文字にできてないのか、っていうとこもあるし。立岩さんも、もう全く記憶ない。僕も「それで歴史よく研究してんな」って怒られるかもしれないんですけど。よく、無茶苦茶ものなくしたり、無茶苦茶もの忘れたり、し倒してるんですけど、修士論文とか書いたときに思ったのが、ほとんど何か、聞いたら、やっぱり文字のほうが情報量が一見多いと思っちゃったんですよね。で、聞きに行っても、まあけっこう間違ってたり無意識に誇張してたりって、まあそういうこといつもあると思うんですけど。それで文字のほうを何か知らず知らず重視してきたんじゃないかと。で、そのことが結局当事者のことを、自分はそれを共感して研究してると言いながら、どっか軽視してきたんじゃないかなという。ただまあ、部屋にこもって読んでるほうが楽ってこともあったかもしれないんですけど、

立岩:たださ、そのいくつかの言葉ってね、場所によって質が違うと思うんだよ。それはすごい大切なことで。例えばこんなにスカスカですけど、今日なんか壇上でしゃべってんだよ、僕らね。こういう場でしゃべってることと、10人ぐらいの教室でしゃべる時のスタイル、しゃべり口みたいなものと、居酒屋でしゃべってる時と、全部違うでしょ、例えばね。例えばそういうことがあって、それはただしゃべる場のことなんだけれども、例えば人間しゃべる時に何をしゃべるかっていうと、やっぱりしゃべりたいことしゃべる。さっきもおっしゃった、そうで。なおかつ運動家たちっていうのは、そういうしゃべりたいことを決めて、そういうことをしゃべるうちに記憶そのものがそういうふうになってくるんだよね、明らかに。そうすっと3回ぐらい同じ人にインタビューしたらわかるけれども、ほぼ同じストーリーの同じ話をしますよ。それはたぶんね、それしか覚えてないんだと思う。正直、もう。で、人間ってやっぱりその、記録を語り続けることによって記憶するみたいなとこがあるから、語らない部分っていうのは全部抜けちゃうんだよね。そうすると、何か島みたいなのが幾つかできてきて、その島の続きみたいなものが彼の記憶そのものになってくるんだよね。まるで事実そのものになってくるわけよ。で、そういう、語りって必ずそういう性格持ってるんですよ。
 で、そういうものと、その時々に書いちゃったっていう書類って性格が違うんだよ。そこをちゃんと見とかないとだめで。だからある出来事があって、30年後に懐古して「30年前はこうだった」って話と、30年前に書いちゃった文章、それはもう書いちゃったらしょうがないから残ってんだよね、本人忘れてても。それは同じだったり、場合によったら違ったりするわけよ。そこが面白いんだよね。そういうその、文章として書かれたものと語ったもの、語ったものも、30年前にその時に語るものと30年前のことを今語るものと違う。それでその語りの、それはそれでオフィシャルのものもあればプライベートのものもあるでしょ。そういうその語りの質の違いみたいなものの中からどこまでのことが分かるかっていう、そういうのすごい大切だと思うんだよね。

廣野:そう、そうですね。僕も今、そういう、自分の話ですけど、2005年に八王子の自立ホーム行ったときのことが…、記憶があいまいですが、寺田さんとはお話ししました。磯部さんもいらっしゃったような気がします。増山さんとは何度かお会いしています。
立岩:少なくとも僕に関して言えば、自分の頭信じないっていうか。僕、大学院生たちに、「あなたは本当は存在しない」と。「あなたの実体はパソコンの中にしかなくて、ここにいるのは仮の姿だ」ってよく言われますけども。まあそうかもしれなくて、外部記憶装置に持っておかないと、まあ分かんない。でも、そういうことですね。だから今回、割と短期間に何十年か分のことを書けたのは、廣野さんとかが地道に集めてくれたデータのファイルがあって、で、それを私は、今日もうスクリーンに出なくなってますけど、自分が作ったやつ〔http://www.arsvi.com/〕を検索するんですよ。そうすると新たな発見があるんですよ。これ不思議なことだと思うかも知んないけど、けっこうあるんだよね。「あれ? うそ!」みたいな。「そんなこと昔、俺知ってたの?」みたいなことも含めてあるんですよ。検索して、分かる。「自分が記録したのに」っていうことがあったりします。
 というような話をして、あともうしばらくして、5時半にはやめて飲みに行こうと思いますが。何かしゃべってください、誰か。20年前に「本を作ろう」って言った圓山〔里子〕さんとか、何かしゃべることありますか?(笑) いや、ないですか。[02:04:54]

圓山:何をしゃべればいいんですか?

立岩:いやいや、しゃべりたくなかったらいいです。

圓山:はい。今日は怒られると思って来たんですけども、圓山と申します。20年前っていうか、具体的には10年前ですね。私は立川でちょろちょろしていて、ずっと高橋修さんの***(02:05:20)で、ちょっとお手伝いしてました。で、「まずいよね」っていう話で本当に思い出したけど、10年ぐらい前に「修さんの本を作りましょう」って、10年何もせずに止まったっていうところで、今日は怒られると思って来たんですけども。まあ一つは悪くなかったなと思ったのは、先ほど立岩さんがおっしゃってたような、JILのほうは、私立川に居たんですけども、たぶんその当時は八王子ヒューマンのほうでケアマネージメントのほうに巻き込まれていて、なかなか細かいことで、圓山どうも忙しそうだみたいな言われて声掛けられなかったという話があります。で、本出たときに、立岩さんが書いた高橋修さんのタイトル ★★ を見てもうぶったまげたもんで。(笑) その、何だっけ、「引いたらこれでおわりだ」みたいなセリフは私が聞いたヒアリングの中のを非常に立岩さんが気に入って採用したエピソードだったので、JILのほうがプロジェクト自体は関わってはいなかったんだけれども、出てからびっくりしたという感じだったんですね。それを、ちなみに立川の10周年史、じゃない、じゃなくって、高橋修さんの追悼文集は、あんま厚くない本なんだけれども、その最後に修士論文の時に聞いたヒアリングをほぼそのまま載せたんですね。で、あれ何か全盛期の話だから、たぶんファイルもフロッピー***(02:07:00)探さなきゃないような状況なんですけれども。あれがたぶん紙で残っていたから、立岩さんをはじめ色んな人に、ちょっとずつ記憶に残るというか印象に残っているものを残した***【たので】(02:07:15)、それはそれで悪くなかったんかなあと思っているところです。そんなことぐらいでしょうか。

立岩:はい。高橋さんのことは圓山さんが一番知ってる。

圓山:そうでもないです。

立岩:圓山さんがやりゃあいいんですけど、しょうがないから、今ちょっと『現代思想』に2回書いて、3回目が来月号に載って、で3回分をまとめて★。僕2000年に『弱くある自由へ』っていう本を書いてますけど、その「あとがき」で、その前の年、99年に亡くなった高橋さんのことをちょこっと書いてて。それも忘れてたんだけど、こないだ見たらそう書いてあって、「ああそう言えば、本当は圓山さんと本をつくるんだったよなあ」とか思いながら、「しょうがねえなあ」と思って、「じゃあ自分でちょっとやろうか」っつって『現代思想』に3回書いて。昨日書き終わったんですけど。それを『弱くある自由へ』ってのの第2版に収録しようと私は思っています。
 そんな感じなんですけど、他に、各自何かしゃべってください。しゃべることがあったら。ないか。(笑) これがね、小っちゃい場所だとあるんだよね、必ずね。斉藤さん、何か話しますか?

立岩:はい、OKです、じゃ。

斉藤:はい、あの、斉藤〔龍一郎〕です。今、聞くほうの話を色々聞いたんですけど。去年、去年なのかな? もう今年か。聞かれるっていう経験をしたんで、ちょっとその辺のことを少し。

立岩:ああ、あれ、論文…、

斉藤:それは『支援』の座談会★で、もう何のだったかちょっと忘れちゃったんだけど、『支援』の座談会に参加して。だから***(02:09:49)だったか、金井闘争の話を僕はしたんですね、僕と一緒に行った友だちと。そしたらその教育学部の大学院にいる指導教官誰だったか忘れたんだけど、東大教育学部の教育学研究科のグループで、今就学闘争の記録を作ってるっていうことで、聞かれました。[02:10:22]  で、資料集の1★っていうのが出てて、それはもらったんです。で金井さんとか八木下さんとしゃべって。で僕が、何か【公開する】***(02:10:40)で面白かったのは、当時1980年前後に、東大にいたんだと、金井闘争に関わった人間が、いうことだったんですね。でそういう背景にあたる部分っていうのを少しお話をして、ああ、そっか、そういう意味では全くやっぱこう、調べる側っていうか、【切れてるなと】(02:11:05)(笑)。てかまあ、その、大学院にいる人たちと、今大学院で、【まだ、まだ】***(02:11:12)かな、とにかく2016年か何年ぐらいからそうやって就学闘争について調べてる人にしてみれば、まあ直接運動やって、その、まあ金井闘争だと報告書だとか、報告書とかまとまった本が出てる、【金井の】(02:11:33)報告書も出てる、まあそういうタイプのものは見て。
 で、【個別の権威】(02:11:40)っていうか、まあその中に【目立った】(02:11:42)ような人っていうのは当然【聞いてると】(02:11:46)。でもその周辺、やっぱ就学闘争、色んな人が関わったんですね。で、そん中でも、ま、大学の中の動きと繋がって、まあ金井闘争に関わった人間がいたと。まあその辺のことは立岩さんも、あれですね、学生大会の議案で「養護学校義務化に賛成するのかしないのか」みたいなのが議案として出てきた時代だった、いうことを語ってる。確かに僕らの頃の学生の頃ってそういうことをまあ【処分して】(02:12:32)、まあそれを一つの分岐って言うのかな、学内で運動をやってるという中での一つの分岐としてあると。まあそういった話をしました。【それから】(02:12:49)、やっぱ伝える、聞いてもらうってところも必要だし。だから伝えるっていうか、そういう伝えるきっかけになるような形っていうの、どっかに示すってのも重要なんかなっていうのをすごく感じた【経験】(02:13:05)です。

立岩:斉藤さんが聞かれた立場になったっていう、それを基にして書かれた論文※は今サイトで全部読めますよね。僕この本の文献に、入れたつもりなんだけれども、また分かったらお知らせします。PDFで検索すると全文読めて、斉藤さん出てきます、そこの中に。「斉藤さんに話を聞いた」っていう形で謝辞と共に出てきたりしますので、具体的にどれかっていうのがすぐわかったらまたお知らせします。が、まあそれ見てる間に、もう一方(ひとかた)お話してくださるっていう方がいらっしゃいましたので、よろしくお願いします。[02:13:58]
※末岡 尚文 2018 「普通学校就学運動から見る障害児の意志――金井闘争に焦点を当てて」,『東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室研究室紀要』44:83-94
 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=49819&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

A:ああ、よろしくお願いします。初めまして。まあだいたいの病気が抜けて、結婚もしてて、今離婚の危機なんですけど(笑)、あんまり気にしてないでやらしてくれるのは、どうせまあ,
ちゃんと元鞘というか、彼がちゃんと自分を取り戻すというか、してもらうでしょうねっていうところなんですけれども。まあそんな中で私がやってる活動あちこちありまして。で、その中で文章に起こしていることは、その自分のリカバリーについて書いていたりとか、あとはその友だちで地元の子で引きこもっちゃっているし、福祉ももう受けたくないってなってる人の何か「家の手引き」みたいなのを何か書いてもいいすかっていう許可は下りてて。まあ何かあったときにまあ記録つけさせてもらったり、こっちは差し入れをしてみたりとかして、こう、パン屑を落とすようなことをしてます。
 でまあさっき何か、「家って大事だね」みたいなことを壇上でもお話しされていたし、何か、本当、「そこがあるなぁ」みたいなことは自分も色々引っ越しだとか、こういうとこ来たりとかして思ったので、何か、うん。私も東北なんです。仙台の出身で、で被災の経験もあるんですけども、まあそこに拘りぬいて住むということを止めちゃってからのほうが楽だった私もいるし、そこをずっと拠点にし続けるアイデンティティもあるんだなあみたいなことは、本当にあるので、家の話とか聞かせてもらえたら嬉しいです。以上です。

立岩:はい、ありがとうございました。あと、ここにいる人。たぶん違う仕事をしている東北繋がりで、長瀬さん、何か言いますか? 「おれは八戸だぜ」みたいな。関係ないか?
 いやだ? ならいいです。いかがでしょうか? 何だかんだ言って2時間ぐらいは経ったので、「まあいいかな」って思ってるんですけど。まあ私はそういうふうに今は思っていて、片手間と言えば片手間なんですけど、そんなことをもうしばらくやっていきたいなと思っているので、よろしくお願いします。
 他、誰か? 何かあったりするかしら? ありますか? 終わったらお知らせしますけど、最初はここの通り、千本通りって言うんですけど、ちょっと上がったとこに良い感じのカフェがあって、そこが良いっていう話があったんですけど、まあ閉店時間が普通は早いっていうのと、前々から決まってる企画があったっていうことで、そこはどうも使うってことは無理だとなった時に、ここの会場は実は2007年と2009年、それも何か今や10年前ってことになってしまうんですが、障害学会の大会っていうのをやったところで。その時はこの建物の一番上に「TAWAWA」っていうレストランっていうかがあって、そこで懇親会をやったんですが、それは今はもう撤退して、ないんですね。で、そこもないってなったときにってことで、JCILの…、あ、その話をして終えます。
 明日の障害学会の大会のシンポジウムは施設の話らしくて、それも特に知的障害の施設、脱施設っていうのはどういうふうに難しくって、どういうふうにやってんのかってそういう話になりますので、よろしかったらぜひ、ぜひどうぞなんですが。その知的障害の人の施設出てっていうことに熱心に関わってきて面白いことしてるっていうことで、日本自立生活センター、JCILの小泉浩子さんがお話に来てくださいます。しゃべっていただきます。
 で、明日お話しなさるのは、知的障害の人の施設の話がほぼ全てになると思うんですが、今その小泉さんたちとやってる企画があって、それは国立療養所っていうところに、今ちょっと名前変わってますけど、そこに長く居た人たちの脱施設っていうか脱病院っていうか、そういうこの動きについて、今JCILの人、京都の人、それから西宮ですね、メインストリーム協会の人たちが関わっていて、それにおまけみたいな感じで僕であるとか、障害学会の会員では深田さんであるとか、前田卓也さんとかが少し協力してくださるというような流れになってるんですけども。まあそういうことがあります※。
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
 で、先ほど少し紹介した、筋ジスの人に話を聞いて自分のことを言ってもらうっていうのはそれの一環でもあって、それが今五つ載っかってて、つい1週間前に聞いた三つがもうすぐ公開されると思います。そういうことをやりながら、実際に「じゃあどうするか?」っていうのがまだちょっと違う話なので、それをどういう形か組み合わせていくってことをやっているっていうことで。明日小泉さんは基本的には知的障害の人の話をすると思いますけれども、フロアなんかで「そういうことを聞いたけれども」って言ってくれれば、小泉さんも色々答えてくださると思います。
 で、そういう個人史もありながら、その個人史が制度の中っていうか、制度ってのは施設でもあるわけですね、Institutionっていうのは。そういう、枠であり、仕掛けであり、仕組みであり、そして施設でもあるわけです。そうしたもの、そういう物体、あるいはそのシステムと、人間っていうのがどういうふうに絡んで、何がどうなってああなって、っていうことを書くのは、学問であったり研究でもあると。別に研究者じゃなくていいんですけども。ていうことで、去年の『病者障害者の戦後』っていう本も書いたところがあるんです。それはもう本当に偶然で、今そういう動きが京都関西で起こっているっていうことと必然的な関係はないんですけれども。ただ「今起こってることは何で起こってるのか?」っていうことのために、あれは基本的にインタビューとかではなくて、文字資料だけで書いてしまった本ですけれども、そういうことをやってる。そういったものが…、でもそれで分かったことと、でもその時に国療に居た人たちがどういうふうに生きて死んだのかっていうのがほぼ分かんない。ないんですよね、記録がね。で、書いたもの本当にわずかで。その本当にわずかなものを二つ三つ使って1冊ぐらい本が書けちゃうんだけれども。でもその時に話さなくって死んだ人もいれば、今あの人たちも寿命が延びていますから、まだ生きている人もいっぱいいる。そういう人たちがどういうふうに話すかっていうことを組み合わせていくっていう。
 書いたものから分かることと、今話してもらうことと、どういうふうにこう関係してるのか。そこの中から制度、仕組み、仕掛け、そういうものと人がどういうふうに関係してくるのかっていうことが見えてくるっていう、そういうものができていけばいいなって思ってますけども。まあそれが上手くいったら「上手くいったね、良かったね」ってことであって、そんなに上手いことことが運ぶかどうかは分かんないだよ。でも「分かんない」とかって言ってる間に、どんどん指から砂がこぼれて落ちるように、こぼれ出てなくなってしまうから、上手い具合にできるかどうかは、まあできたときに「良かったね」ってぐらいのことにしといて、その手前のところをちょっと力を入れていかなきゃいけないんじゃないかって思いで、僕ら今、そういうアーカイビングっていう言葉、知識、まあそういう声ですね、そういうものを映像も含めて集めて残すっていうことをしてきてるつもりですので。これから、今はまだ準備段階みたいなもので、助走っていうようなもので、進めていきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします※。
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
 ということで、強引にですが、でもまあ、そこに座っている人たちがいるので、何か一言ずつぐらい言ってくださいよ、何か。寒かったね、ここね。はい。「寒い」とかでもいいんですけども。はい。

青木:そうですね。今回の機会に、JIL本という形で読んで憧れていた先輩たちと一緒に仕事をする機会ができたのは、個人的にはめちゃくちゃ勉強になりました。例えば瀬山さんの章のような生の声の使い方とか、参考にできた。その意味で、すごく面白い経験でした。ありがとうございました。[02:24:21]

瀬山:そうですね。やっぱり意識的に、多様な人たちの声の集合として、過去の運動を残していきたいと思っています。なので、やはり、障害者運動の歴史、というのを残していくときにも、どうしても、声が大きい人の声、よく聞かれている声に焦点があたりがちだと思うので。そうじゃない人、例えば女性の声もその一つですが、それが、意識しないと残っていかないと思っていて。今回、改めて、運動がこれだけ広がって、私が聞かせていただいた女性たちが、本当その沢山の中の一人っていう、そういう感じの存在感で出ていただけたので、同じようにこの運動に影響を受けて、すごく多くの人たちが「運動に出会わなければ今はなかった」っていう感じの生を今生きてるっていうのが、何か見えてきたのかなあと思っています。そういう、本当に多様な声として運動を残していくということが、今後も、していけるといいなと思っています。

田中:今回本当に色んな方にお話を聞きながら、やっぱり色んな角度から福島の運動というのを見せていただいたっていうことで、それを非常に短期間に一つにまとめていくっていう作業にも参加して、ちょっと息切れしながら(笑)、何とかついていけたっていう感じでご迷惑をかけながらやりましたけど。まあ一つの形になったっていうことが本当によかったなって思っています。白石さんとやっぱり橋本さんっていう二人と、それを取り巻くまたもっと色んな多様な人が居るっていう福島を、こういうふうにまとめられて良かったなというふうに思いました。

廣野:はい。本当に、この本の最初の読者にさせていただいて、ありがとうございました。今お三方がおっしゃったことと関係して、まあ生活書院で出さなきゃいけないわけじゃなかったんでしょうけど、やっぱり福島出身の生活書院の高橋さんの力の、すごくこの「声を残す」っていうことに、大きかったんじゃないかなと、今たぶんお店の準備をしてはると思いますけど、思います。ありがとうございました。

立岩:はい。これ実質ひと月ぐらいでやったんじゃないかっていう感じなんです。もう無謀な、とんでもないスケジュールを特に生活書院には課してしまって、非常にご迷惑をおかけした、ありがたかったです。で、これ、400ページぐらいあるの。400ページぐらいの本で2,500円っていうのは途方もなく安いんですよ、今どき。で、本日初売りの日ですので、さっき計算したんですよ。2,500円で今消費税入れて8%でしょ。2,700円なんですよ。2,700円の8掛けっていうのが、もう忘れましたけど、2,160円とかそのぐらいなんですよ、確か。なのでお金のある人は2,200円で買ってください。お金のない人は2,000円でもいいです。ので、今、後ろの方で売ってますので。ここまで付き合ってくれたのは、そりゃ買ってくれるだろうと僕は思ってますけれども。明日も売ってます。明日も障害学会で、生活書院の本、明石書店の本ですけども、色々売っているんで、本っていうのは買って、まあ別に…、買って読んでいただければっていうふうに思いますので、よろしくお願いします。とにかく、この分量ですごい安くしてもらいました。まあその代わり印税はないっていう、そういう本になりましたけど、別にそりゃいいんです、そんなことはいいんです。ということで、この本よろしくお願いします。これからも各種媒体でかなりしつこく宣伝をしていきますので。もうすでにやってますけれども、やっていきますので付き合ってください。よろしくお願いします。
 ということで、何だかよく分かんない数時間でございましたが、こういうのもいいんじゃないんでしょうか。いいことにしましょう。意外といいんです、実は、よくよく振り返ってみると。ということにして、今日は終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

会場:(拍手)

立岩:これから普通にJRに乗って京都駅行って、京都タワー、誰でも知ってると思いますけど、あの不思議な形の建物ですが、あれの地下が数年前に改装されてフードコートになって、いい感じなので、三々五々そっちに向かいます。場所知らないっていうか、分かんない人いないと思うので、特に隊列を組んで行ったりはしませんが、みんなぞろぞろと連れ立って行きましょう。それから全然あれなんですけど、今日僕サーフェスっていうパソコンを使ってるんですが、それのACアダプター忘れてきたんですけど、誰か持ってないかなぁ。そしたら本当に非常に嬉しいですが、ないか。はい、すみませんでした。ご迷惑おかけしました。[02:30:06]

青木:サーフェスのACアダプター持ってますよ。

立岩:あ、サーフェス。すごい、言ってみるもんだ。

C:これだけちょっと急ぎで。

立岩:はい。

[音声終了]


往き還り繋ぐ――福島障害者運動史本刊行も機してアーカイヴィング公開シンポジウム第2回,於:立命館大学朱雀キャンパス
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

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☆60→39→35(20191102)
UP:20191022 REV:20191023, 27, 31, 1101, 02
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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