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梶山紘平氏インタビュー

梶山 紘平 2019/08/25 聞き手:立岩 真也
於:東京都武蔵野市・梶原氏宅

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◇文字起こし:ココペリ121 20190825 梶山紘平氏_136分 ◇梶山 紘平 i2019 インタビュー 2019/08/25 聞き手:立岩真也 於:東京都武蔵野市・梶山氏自宅
 http://www.arsvi.com/2010/20190825kk.htm(本頁)
◇2019/08/25 インタビュー 於:東京・調布市〜府中市〜武蔵野市
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
病者障害者運動史研究

※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、  聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。 ※2341→2198
立岩 皆さん、そうしていただいているんですけど、基本的には録音させていただいて、あとで不都合なとことか間違ってるところとか直してもらったり削除してもらったり、それは色々やっていただいて、それでその上で承諾を得たものについてはウェブサイトに載っけるっていう、そういう感じで考えています。

梶山 はい、了解です。

立岩 今日、一人目は、下志津にそう長いことではないんだけれども、いたっていう人〔長山弘さん〕だったんですが。

梶山 はい、そうですね。僕は全く入所経験なくて。行ったことないです。主に東埼玉病院が…。

立岩 慈恵医科大。生まれって、

梶山 葛飾。

立岩 葛飾区に生まれてるから、東京に生まれて、それで、

梶山 はい。その後野田に。、

立岩 千葉の野田か。

梶山 そうですね。

立岩 これ、2歳ぐらいってことですか?

梶山 はい、2歳の時に。

立岩 じゃあ、葛飾のことはほぼ覚えてないですか?

梶山 ほぼ、わかんないですね。

立岩 ですよね。

梶山 はい、そうですね。

立岩 じゃあずっと野田、野田が長い。

梶山 野田がもう20何年。

立岩 2010年まで埼玉?

梶山 はい、そうですね。そこで一人暮らしを始めてっていうか。

立岩 梶山さん、それで、筋ジストロフィーは、筋ジストロフィーでいいんですよね。

梶山 はい、デュシェンヌです。

立岩 デュシェンヌ型っていうことは、小学校上がるくらいとか、そういうあたりに…、

梶山 もう、歩けなくなったから。変な歩き方になってますけど。

立岩 学校上がるあたり?

梶山 はい、そうですね。

立岩 それで、病院に行った?

梶山 はい、そこで。はい。

立岩 それは、どこで診断がついたん?

梶山 慈恵医大でつきました。

立岩 慈恵医大に行って、結構一発で?

梶山 そのあと、東埼玉病院に、紹介されて行った感じ。

立岩 診断確定っていうか、診断ついたのが東埼玉病院のほうなんですか?

梶山 どっちですかね。多分慈恵のほうでついたと思う。

立岩 ふーん。でもまあ小っちゃい頃…、

梶山 筋生検を受けたんで。

立岩 筋生検受けたのはどっちだかわかる?

梶山 それは慈恵医大です。

立岩 じゃあ、わりとすぐというか、確定診断というか。

梶山 はい、そうですね、早かったですね。

立岩 それで、小学校は近所の小学校って感じなんですか?

梶山 はい。ずっとそうですね。

立岩 中学校も?

梶山 中学まで。

立岩 その時は、どう…、

梶山 小学校の時はちょっと学級崩壊してたんで。違う学区に行ったんです。学校を変えて。

立岩 ああ、そうか。

梶山 遠いところまで行ってた。

立岩 学級が崩壊していたので、

梶山 はい。

立岩 それが小学校? 中学校?

梶山 小学校6年生の時。クラスが結構酷くて。いじめの対象になりやすかった。

立岩 で、別の学校に。

梶山 はい。とりあえず逃げたというか。

立岩 小学校の最後の年に逃げてった。

梶山 はい、そうですね。

立岩 今日も、ちょっとその、小学校時代の話とかも聞いた人もいるんだけど、結構、歩けなくはなかったけどとかね、その、階段の登り降りが大変だったとかさ、色んな人がいたんですけども。どんな感じでした? 小学校、中学校って。

梶山 まあ、移動教室は主に担任が背負ってましたね。おんぶして。

立岩 担任の先生がおんぶして、階段を上がるとか。

梶山 はい、そうですね。

立岩 上がり下がりがおんぶっていう感じだったんですか?

梶山 はい、そうですね。

立岩 水平移動は? というか廊下、

梶山 それは一人でやったましたけど。

立岩 廊下歩いたりっていうのは、やってた?[00:04:59]

梶山 ただ昼休みに、終わってすぐ帰れなくて。ちゃんと授業出れなかったりとかって、まあ結構ありましたね。

立岩 え? それ、どういう? 授業出れないって。

梶山 移動が遅くて、授業に間に合わない。

立岩 教室に着かない、みたいな。時間通りに。

梶山 休憩時間でいっぱいいっぱいになって。ほとんど休憩がないみたいな感じ。

立岩 あ、そうか。行くと戻れないみたいな、そういう話か。

梶山 そうですね。

立岩 それは、学校の中での移動は、小学校の時は担任の先生がしていた?

梶山 はい、基本的にはそうですね。

立岩 他に何かその、何かケアっていうかそういうものが必要だったりっていうことは小学校の時はなかったんですか?

梶山 トイレ介助ですか。それもやってもらわなきゃいけなかったんで。

立岩 それは担任の先生が?

梶山 それも担任がやったりとか、用務員の先生がやってくれた。

立岩 用務員の人も。用務員の人、いたんだ。

梶山 いました。はい。

立岩 それって、わりとよくあることなのかな?

梶山 はい。あるみたいですけど。

立岩 あまり聞いたことないような。

梶山 まあ今は介助員付くので。そういう時代じゃなかったんで、学校通うの大変でした。

立岩 通学とかはどうしてたの?

梶山 通学は親が迎えにきて。

立岩 送り迎え?

梶山 送り迎えでしたね。

立岩 それは何、車?

梶山 ほぼだいたい車です。

立岩 車で校門ていうか、

梶山 千葉は車しか行けない。

立岩 まあ、千葉はそういうとこだよね。

梶山 もう車社会なんで。

立岩 野田って行ったことないけど、醤油の野田でしょ?

梶山 はい、そうですね。

立岩 はいはいはい。結構、そういう、車でしか移動できないような、

梶山 工場が多いし。そんな、ごちゃごちゃしてるところだった。

立岩 そうなんだ。

梶山 交通の便は悪くて。

立岩 じゃあ、小学校はそうやって、親が学校の建物まで送って、そこの中は担任の教員であったり用務の人であったりていうのが。

梶山 はい、そうですね。

立岩 で、小学校はそれで、学級崩壊等ありながらまあ終わり、それで中学校。



梶山 そうですね。中学校の時のほうが、ちょっと、教育委員会がうるさかったです。

立岩 何を言います? 教育委員会…、

梶山 養護学校へ。

立岩 中学校に行く時ですか?

梶山 はい、そうですね。養護学校に入れって。

立岩 強く言われた。それは親に、

梶山 それに反発して、学区を変えて、まあ行ったって感じですかね。結構校長とも何度もやり取りして。

立岩 それは何? 本来、学区の中学校が言ってきたわけ? 直接は。ここじゃなくて養護学校に行ったほうがいい、みたいな。

梶山 はい、そうですね。

立岩 それで、交渉というかそれは何、親…、

梶山 はい、3ヶ月かかって。親が呼び出されて。両親共に。

立岩 本人は、自分は行ったんですか?

梶山 行けなかったです。

立岩 ああ。じゃあ親が色々言われて。で、3ヶ月すったもんだあって。

梶山 そうですね。

立岩 で、結局どうにもなんなくて、学区を変えたってことになるんですか?

梶山 はい。自分、学区を変えて。入学したいってことで。

立岩 でも、野田市立っていうのは、野田市立だったわけですか?

梶山 はい。市立は市立です。

立岩 普通だったら行くはずだったところはだめで、だけど別の市立はよかった、っていうそういう話なんですか?

梶山 そうですね。

立岩 うん? そういうことって…、

梶山 結構特色が違ってたんで。

立岩 その学校の?

梶山 その、在校生で一人、もともと筋ジスの方が入学した所だったので。

立岩 川間(かわま)中学校っていう学校は、

梶山 筋ジスは1回受け入れたことが。

立岩 受け入れたことが、そういう経験があったんだ。

梶山 あったらしくて。それ、すごくツイてたんです。

立岩 わりと理解があったというか、その気があったっていうところで。

梶山 はい、そうですね。

立岩 そうか。そういうもんなんだ。学校の校長っていうか、学校が受け入れるっていったら、同じ市立でも受け入れない所と受け入れる所があるっていうのは、少なくともその時の判断…。

梶山 校長の裁量権が強いんで。だいたい校長の権限で。

立岩 それで中学校の時はどうでした?

梶山 中学校のほうが移動教室が多くて、すごい大変でしたね、やっぱり。

立岩 科目ごとに教室が違う的な、そういう話?[00:10:01]

梶山 そうですね。移動も大変だし、授業時間も長いんで。すごく長いから。ちょうどその時に、土曜日が休みになったんで。

立岩 ああ、そうか。ちょうど学校が週休二日になる際(きわ)ぐらいのところにいたってことですか?

梶山 はい、そうですね。その時期にすごい忙しくなったっていうか。やっぱりゆとり教育が始まってというか。

立岩 あ、そうか。半日詰めた分を、他の日に詰めるみたいなことをやったんですね。

梶山 はい、そうですね。

立岩 じゃあ、何てったっけ、図工じゃないや技術か、そういうので別の教室行かなきゃいけないとか、そういうこと?

梶山 そうですね、はい。

立岩 理科とかも?

梶山 理科も移動しますね。

立岩 ああ。その時の移動は中学校の間どうしてたんですか?

梶山 階段昇降機が付いてたんで。

立岩 それは、それ以前に、その筋ジスの人が入ったっていうことがあって、昇降機を付けたのが使えたっていうか、そういうことですか?

梶山 そうですね。

立岩 で、上下はそうやって昇降機が。その時はもう車椅子?

梶山 電動でした。

立岩 電動使ってて。

梶山 はい。簡易電動使って。

立岩 ああ。あんまり重たくないタイプの電動で、水平動いて、上下は階段の昇降機で。

梶山 はい、そうです。

立岩 それで、3年間は何とかしてたっていう。

梶山 何とか終わったというか。

立岩 何とかもった?



梶山 その時、体力なくなっちゃって。その時に養護学校に行こうということで、養護学校へ行きましたけどね。

立岩 疲れるっていう感じなんですかね?

梶山 はい。先輩たち、東埼玉病院でも先輩たちはみんな大学まで行くんです。普通の大学まで行くんですけど、そのあとなんか燃え尽きて、家に閉じこもっちゃうんですよね。その姿を見てて、大学まで行くのって、もったいないなっていう感じで見てた。

立岩 東埼玉病院の先輩って言ったけど、そういうこう、つながりというか付き合いというか、その、知人が東埼玉病院にいるっていうのは、どういういきさつというか。

梶山 筋ジス協会です。

立岩 筋ジス協会の千葉支部的な?

梶山 いや、埼玉です。

立岩 あ、そうか。

梶山 野田は埼玉に近いんで。隣が春日部なんで。

立岩 そういうのはありなんだ? ありっていうか、千葉県民なんだけれども、

梶山 本当は下志津なんですけど、下志津まで3時間かかるんで。東埼玉は30分、40分で行ける距離だったんで。

立岩 そうすると、筋ジス協会に入っている埼玉の人、そこの中には、東埼玉病院に入院している人もいる。そういう人たちとの、

梶山 そうですね。

立岩 その、ちょっといまいちイメージしにくい、

梶山 黒浜訓練センターというのがあって。そこで主に何だろう…、活動してるんですけど。まあ将棋やったりとか、電動車いすサッカーやったりとか。

立岩 それは、そっか、在宅ではあるのだが、そういう、病院の付属施設っていうか中にあるような施設なんですね。

梶山 はい、そうですね、あります。敷地内にありますね。

立岩 そこに訓練みたいなことで行くわけだ。

梶山 はい、行きますね。

立岩 そうすると、そこにその、同病者というか筋ジス仲間がいるっていう、そういうシチュエーション?

梶山 筋ジスだけじゃなくて、例えば上野〔美佐穂〕さんとか。

立岩 ん?

梶山 くれぱすの上野さんとか。

立岩 くれぱす? はいはい。

梶山 くれぱすの人たちも、そこから出た人が多いんで。くれぱす以外にもありますけど。虹の会だったりとか。

立岩 じゃあ虹の会にも知ってる人はいる?

梶山 代表が筋ジスだったので。

立岩 とどろきさんという人だったっけ?

梶山 そうですね。

立岩 じゃあ、とどろきさん知ってるんですか?

梶山 直接は知らないですけど。

立岩 そういう人がいるっていう、

梶山 まあ、いたんだよみたいな、なんか。

立岩 ああそうか、彼もかつてはっていうか、そこにいたことがあるよっていうのを、

梶山 そっから出るんです、だいたい。つまんなくて(笑)。

立岩 それは、何? 通うわけか。

梶山 はい。

立岩 通って、数時間いて、戻るっていうか。

梶山 はい、そうですね。

立岩 訓練的なものっていうのはやるんですか? 基本は遊び?

梶山 遊んでますね。子どもなんで遊んでますね。

立岩 じゃあそれは、学校行くのと平行してっていうか。

梶山 はい。平行して土日とか。

立岩 土日に、親の車に乗って。30分っておっしゃったっけ? その病院の中のところで遊んで。[00:15:33]

梶山 ていうか親のたまり場なんで。

立岩 ああ、そうなんだよね。

梶山 親の悪口言って(笑)。

梶山 子ども遊ばせてる間に親がなんとなく、なんかそんなような雰囲気の所に。

梶山 はい、そうですね。

立岩 小学校ぐらい、それは何、小学校ぐらいから?

梶山 もうほんと、それは転院した時からですね。慈恵医大で診断を受けて、紹介状を書いてもらって、その病院に行ったんですけど。

立岩 慈恵医大で診断を受けて東埼玉病院にってことになって、で、そのあと、そういう形で、

梶山 河端静子さんがいたんで。河端静子って、筋ジス協会でいるじゃないですか。会長だった人。

立岩 はい。すごい長いこと会長やってた、そういう人ですよね。

梶山 はい、そうです。その人に相談して。親がようやく救いの場を見つけた、みたいな感じで。僕を入れてください、みたいな感じで。

立岩 梶山さんは、元会長というか、河端さんに直に会ったことあるんですか?

梶山 はい。しょっちゅう会ってましたよ。

立岩 どんな人? っていうのは変なんですが。

梶山 どんな人…、豪快なおばさんみたいな。すごく笑う人で。怒る時はすごい怒るけど。

立岩 ああ、そんな感じのね。

梶山 はい、そうですね。激しいです。

立岩 豪傑タイプの。

梶山 結構、激しいですよ。まあ、晩年はあれでしたけどね。もう亡くなっちゃったんですけど、晩年は弱くなってましたけど。かなり弱々しくなってたんで。

立岩 でも、最盛期というか、その頃は元気なおばさんみたいな。

梶山 いや、もうなんか、後継者がいないってことで結構悩んでましたね。でも、貝谷さんがやってたけど。

立岩 そんなことを、梶山さんにも言うわけ

梶山 はい。そういうのは伝わってくるっていうか、なんかこう。話のなかで、はい

立岩 ぼやいてる、みたいな話を、例えば親経由で聞いたりするわけですか?

梶山 はい、そうです。

立岩 なるほどね。その遊び場というかそこには、病院に入院してる人もいて。

梶山 はい。

立岩 で、その人たちの行く末というか、どういう人生、みたいなことを横で見てて、っていうのがさっきの話ですよね。

梶山 大抵どんどん亡くなっていくんですよ。「あれ、もういないの?」みたいな感じで、なんか。行くたび行くたび誰か死んでるっていう感じでしたかね。

立岩 東埼玉病院にいて大学に行くっていうのは、付属の、付設の養護学校っていうんですか?

梶山 はい、隣に養護学校、

立岩 たいがいみんなそうみたいですね。

梶山 蓮田養護学校があって。そこに通ってるって感じです。

立岩 じゃあ、そこで結構勉強する子もいるってことですかね?

梶山 はい、そうです。そこから勉強できる学校に行って。僕はそこ行かなかったですけど。

立岩 で、その人たちは、勉強して大学行くけど、行ったからどうってことでもないと。

梶山 就職できなくて、結局家でグズグズしてるっていうか。

立岩 で、梶山さんはそういうの見てて、

梶山 はい。「やだな」って。

立岩 見てて「やだな」って思って、それで、どうすることにしたっていう話なんですか?

梶山 地元の養護学校に。野田の養護学校。



立岩 この野田養護学校っていうのは、そうか、野田だから野田にあるのか。

梶山 はい、そうですね。失敗でしたけどね。

立岩 東埼玉病院の隣っていうか、横にくっついてる養護学校に行くっていうことは、すなわち、

梶山 はい、入所になっちゃいます。

立岩 入院して、そこから通うっていう。

梶山 なっちゃいますよね。

立岩 そういうことか。そういう、まあ言ったら進学のためにというか、

梶山 ああ、そういう人いっぱいいますよ。

立岩 病院に泊まるというか、病院を生活の場にするっていうの、結構あったってこと? あるってことですか?

梶山 それ、多いです。なんか、山奥に連れて行かれるみたいな。姨捨山みたいな感じ。[00:20:11]

立岩 八雲にいた岡本さんも、3年間だけ八雲にいたのは、高校に行くついでって言ってましたよね。で、彼は3年経ったら出る。親…お兄さんがそういう人で、そういうことがあって、3年で出たよ、って言って。

梶山 はい、そうですね。

立岩 じゃあ、もしか、それを、

梶山 その決断を、僕はしなかったという感じです。

立岩 で、その、自分の生活の戦略としては、地元の養護学校にして、それは?

梶山 スクールバスがあるから。親が共働きだったんで、日中見る人がいないって言って。スクールバスで連れてってくれるから、とりあえず行けるっていうか。

立岩 スクールバスで連れてって、で、養護学校にいれば、とりあえずいる間は、

梶山 まあデイサービスみたいな。

立岩 暮らせるというか。

梶山 生活介護みたいな感じ。

立岩 デイサービス…、機関として。

梶山 うん(笑)。

立岩 養護学校高等部を使う、みたいな。

梶山 はい、そうですね。ほとんどの親そうでしたけどね。なんか幼稚園みたいな感じですけどね。

立岩 要はその、東埼玉病院付属のとことは違って、そこはそんなに勉強するっていうか、そういう、

梶山 はい、知的障害が多かった。自閉症ばっかりでって感じ。

立岩 今、たいがいそうなのかな。で、それは、その3年間はどうでした?

梶山 3年間は暇でしたね。やることないですよね。授業も何もないんで。なんか走らされたりとか、夏はプールだとか。リハビリが多かったですね。ほとんどリハビリが多かった。

立岩 リハビリ、ちょっとこの間(かん)、まあ世代にもよるんだろうな、年というか時代にもよるんだろうけど、なんかリハビリで結構痛かったというか、辛かったりっていう話は聞くんだけど、梶山さんの場合は、どんなもんだったんですか?

梶山 いや、僕は快適でしたけど。筋ジスは体を動かさないとどんどん拘縮していくんで。

立岩 固まっちゃうからっていう。だから動かそうっていう。

梶山 はい、そうですね。

立岩 それは梶山さん的には、結構よかったってことですか? 気持ち悪いとか痛いとかそういうんじゃなくて。

梶山 はい。普通学校行ってる人は、それを全然やってないんで、身体がボロボロになっていくんですよ。それですぐ死んじゃう、みたいな。

立岩 ああ。

梶山 大学出てすぐ死んじゃうとか。肺炎になってすぐ死んじゃうとか。そういうのが多かったです、当時。

立岩 じゃあ、そういうのやって、特になんか勉強するとかじゃないけど、身体をこう適切に動かして、その、柔軟…、

梶山 その点はよかったかなっていうか。

立岩 柔軟性っていうのかな、そういうのを保てて。あんまり身体を酷使というか、せずにすむというか。

梶山 はい、そうですね。

立岩 それでこう、わりとゆっくり、まあよく言えばゆっくり3年間過ごしました、っていう話か。

梶山 はい。だから、僕なんかは、古込さんよりも結構身体頑丈なんでね。多分40になっても、デュシェンヌのわりにはベッカーに近い形でいけるんじゃないかなという感じです。

立岩 うん。それは、何なんだろうね。それも、もしかすると、その時期にそういう体動かしたのも功を奏しているのかもしれないっていうことですか?

梶山 はい、そうですね。個人差もあるんだろうけど。

立岩 うん。高等部にいた時に、「これから出たあとどうなるんだろう」みたいなことは、考えたりしてたんですか?

梶山 いや、もう絶望してました。

立岩 どうにもなんないぜ。

梶山 もう何にもないですね。就職の道もないな、みたいな。

立岩 展望っていうようなものはない?



梶山 いや、そこに、『こんな夜更けにバナナかよ』が来たんです。父親が買ってきたんです。これを読め、みたいな感じで。で、展望が、なんかちょっと見つかった。ちょっと見えた感じで。「ああ、僕もこれやりたい」みたいな。[00:25:17]

立岩 じゃあ、そうか、養護学校入院したのが2000年、で、3年経つと2003年ですよね。

梶山 はい、そうですね。

立岩 あの本が出たのが2003年ですよ。在学中に読んだ感じですか? 高校出たてぐらいに読んだ、っていう記憶ですか?

梶山 出たてです。

立岩 お父さん、買ってきた?

梶山 はい、そうですね。

立岩 ちなみに、その共働きのお父さんお母さんは何をなさっているんですか?

梶山 父親は工場の勤務ですけど。肉体労働系の感じで。母親は看護師なんで。看護師っていうことで結構、医療的な面も知識としてはあったみたい。それはよかったかなって感じです。

立岩 お父さん、だけど、何で、どこで見つけてきたんだろうね、『夜バナ』。

梶山 多分、新聞か何かで。筋ジスっていう感じって。

立岩 ん? どこで何?

梶山 新聞見て、広告に書いてあったんです。

立岩 ああ広告か、そうか。

梶山 はい、筋ジス云々って。

立岩 ああ、そういう本が出たって、新聞の広告なんかで見て、それで買って、で、「お前、読む?」みたいな感じで?

梶山 はい。「こんなようなのがいるよ」って。

立岩 持ってきて。読んだ?

梶山 はい、読みましたね。

立岩 終わりまで読んで。

梶山 はい。

立岩 それで、何、ちょっと、展望ていうの、何?

梶山 はい、そうですね。

立岩 俺もどっかで、その、

梶山 で、ちょうどその時に重度訪問介護というか、支援費制度が何年だっけ?

立岩 ちょうど同じだと思いますよ、2003年だから。

梶山 ちょうど2003年。「あ、これは」って言って。ボランティアじゃなくていいんだって。

立岩 支援費制度のことなんかもさ、どうやって? 『夜バナ』はお父さんがそうやって広告見て知った、と。で、例えば「支援費制度って使えるみたいよ」っていうような情報は、どこからやって来るんですか?

梶山 それは大野さんのホームページ見て。

立岩 あらま。

梶山 (笑)

立岩 え、それ、大野さんとこのやつってさ、

梶山 そこに相談して、

立岩 それは検索して見つけたの? どうやって見つけたの?

梶山 介護云々って、とか。

立岩 介護とか、なんか制度とか、

梶山 支援費制度云々って。

立岩 なんかで検索したら、協議会のホームページにたどり着い…、

梶山 多分さくら会とか。そのへんの情報も出てきたりとかして。

立岩 ああ、そうだよね。ちょうど、うん、始まりかけの。僕ね、協議会のやつの、初期…90年代は、僕がテキストファイルでもらったやつをペタペタ貼って、ホームページに載せたりしてましたね。そのうち協議会のほうでやってくれるようになったんで、そういうことはしなくなりました。

梶山 はい。でもあの、自薦ヘルパーでつなぐ、自分で雇うとか何とかってそれは無理だ、みたいな感じで。その時はやめたんですよ、一人暮らしするのっていうの。一回あきらめて、

立岩 2003年にそういう情報入ってきて、制度もまああるにはある、と。それからまあ、そういう実例みたいなものも、『夜バナ』、鹿野さんいる、と。だけど、っていう話ですか。

梶山 そうですね。

立岩 だけど、俺、ちょっと人を雇ってまで、どうこうっていうのは、

梶山 できないよっていう感じ。とりあえず実家で、ヘルパー、とりあえず使いたいな、と思って。

立岩 あ、自分ちで。

梶山 コムスンにお願いしたんです。

立岩 コムスン、来ました?

梶山 はい。その時もうなんか、すごい売り上げて。介護保険のほうですごい勢いづいてたんですよ。介護保険が2000年じゃないですか。

立岩 そうですね。

梶山 3年の間にぼろ儲けして。

立岩 コムスンはね。

梶山 大きくなってて、もう田舎にいっぱいあるんですよ。地域に一個づつあるみたいな感じ。すごい広がりだったんですけど。まずはそこに電話をかけてみようかって。

立岩 どうなの? そのコムスンって、2003年頃って、在宅として制度は使えるようにな…、どのくらい入ってたっていう記憶がありますか?[00:30:06]

梶山 もう、親がいない間なんで、8時間とか10時間。

立岩 じゃあ、日中っていうか、親が働きに行ってはる…、

梶山 いや、その時はあの、***(00:30:19)身体介護の単価だったんで、コムスンも入ってたんですけど。

立岩 あ、そうか。

梶山 そのあとに自立支援法に変わって、身体介護が一気に変わって、すごい嫌な顔されたんです。

立岩 嫌な顔されて、撤退された? それとも、しばらく続け…、

梶山 はい、しばらくいてもらったですけど。特例を認めてもらって。身体介護も使って、重訪も使うみたいな感じ、特別措置みたいな感じ。で、その時にコムスン以外の事業所も入ってたんですけど、他はもう撤退して。

立岩 コムスンより他が撤退した?

梶山 はい。

立岩 ふーん。コムスンはまあ比較的残った?

梶山 はい、残った。だけになったって感じ。

立岩 その制度の特例を、みたいな話っていうのは、普通はっていうか、交渉しないと出てこないじゃないですか。それはどうしたんです?

梶山 いや、勝手にやってくれて。

立岩 それは、えっと何、コムスンのほう、

梶山 ケースワーカーがすごい僕の味方になってくれて。

立岩 ああ、ケースワーカーがね。

梶山 そうしないと生活成り立たないから。「はいはい、やりますよ」みたいな感じで。

立岩 それで、動いてくれて。お金のほうも、まあちょっと特例で、まあそのコムスンが仕事を続けられるような単価というか、まあそういうふうにして、在宅で暮らしたのが、2003年に、

梶山 はい、2003年まで。卒業して2003年***(00:32:14)。デイサービス行ってたんで。通所施設が近くにあって。卒業生がみんな行くんですけど。

立岩 うんうん。この通所施設あおい空っていうのを、

梶山 はい、そうですね。まあ市立のところ。市立のところはいっぱいあって。知的障害のとこもあったんですけど。

立岩 野田市立と書いてあるよね。

梶山 作業所とかもあって。福祉都市みたいな沿革はあったんです。

立岩 野田ってそうなんですか? 野田の街のなかに。

梶山 養護学校もあるし。そこで人生完結するみたいな感じなんですよ、ここ(笑)。

立岩 各種福祉施設が集まってる的な。

梶山 集まってて。たいがいそこから出れないみたいな。死ぬまでそこにいるみたいな。

立岩 なるほどね。その通所、中じゃ何してんの? その、あおい空っていう、

梶山 重心の人が多いから。みんな重心なんで、テレビ観てるだけみたいな。

立岩 梶山さん自身は、その、

梶山 耐えられなかった。

立岩 耐えられず何をしてたんですか? でもじっとしてたんですか。何をして、

梶山 他に方法ないんで。実際ヘルパー使うったって。人を雇えないと思って。まあなんとなく過ごして。

立岩 あおい空で、まあとにかく、そこにいりゃあ、とりあえず何とかなるから、

梶山 何とかなるだけで。

立岩 そこで、こう…、

梶山 悶々といて、

立岩 悶々…、時間を潰すっていうか。

梶山 はい、そうですね。

立岩 そんな感じで。え、それが待てよ、それが2003年でしょ?

梶山 はい、それまでが。

立岩 養護学校出た後のあおい空でしょ? でも、そうか、そこ2年間しかいないのか。

梶山 養護学校、何年だっけな。そのあとに、『こんな夜更けにバナナ』が出てきたんで。

立岩 あ、そうか。そのあとが、そうか。2005年からヘルパー使うっていう、

梶山 それは革命だったんですよ。「え、こんな人いるの?」みたいな。田舎の人にとっては。

立岩 この2005年っていうのが、その、コムスンが来たっていうやつですか?

梶山 はい、そうですね。

立岩 その話ね、さっきの話は。だから、2003から2005の間ちょっといったん飛ばして、2005からさっき言ったような形で、ヘルパーが入るようになったと。

梶山 はい、そうですね。

立岩 あ、そうか。2003年で『夜バナ』見たけど、読んだけど、ちょっと知ったけど、すぐに無理だなと思ってあおい空に入ったが、「ちょっと、これはたまらんぞ」ということになり、で、自分ちでヘルパーを使うっていうそういう流れ、ですね?[00:35:09]

梶山 そうですね、はい。コムスンは宣伝いっぱいやってたんで。宣伝がすごかったんで、これは強かったですよ。

立岩 コムスンが全国制覇を目指していた頃というか、そういう感じだったんでしょうね。

梶山 はい。で、しばらく使ってたら、不正事件があって。

立岩 ありましたね。

梶山 ヘルパー辞めちゃったんですよ。ほとんどヘルパー撤退。家族介護になっちゃった。

立岩 うん。あれはあれで、少なくとも全国津々浦々を目指していたから、

梶山 はい、そうです。

立岩 まあ、悪いことも色々あったんでしょうけれども、でもあれないと困ったよね、っていう、

梶山 はい。あれがなくなって、

立岩 困った人たちはいたよね、実際ね。

梶山 ちょっと、国恨んだけど。不正で、ね、撤退することになっちゃって。家族介護になっちゃった。

立岩 それのとばっちりは、梶山さん自身も受けるんですか。

梶山 はい、受けますね。

立岩 「コムスンいなくなって、来る人いなくなったよ」みたいなことがあった?

梶山 で、家族介護。

立岩 …に戻るというか。

梶山 父親辞めて、仕事辞めて、僕の介護に専念するって感じになって。

立岩 それっていつ頃だい? 2005年にヘルパー利用始めるでしょ?

梶山 はいはい。

立岩 だけど、コムスンのあの事件はいつだったのかな。ありましたよね。それで、まあ撤退というか。

梶山 そうですね。

立岩 で、それで、お父さんが会社辞められるのが何年ぐらいか覚えてませんか?

梶山 ちょうど撤退した、ああ、そこに書いてある…、書いてないのか。

立岩 それは埼玉に転居する前?

梶山 する前ですね。

■埼玉/呼吸器

立岩 で、途中からそれでお父さん会社辞めて介護する。で、この、野田から埼玉にっていうのは何だったんですか?

梶山 それ、くれぱすのでっていうか。くれぱすもだんだん大きくなってきて。自立生活者もいっぱい増えてきたんで。「あ、自分もできるかも」って、くれぱすに相談に。

立岩 じゃあ、くれぱすを頼ってというか。

梶山 その時CILに入って、出会ったとかですかね。

立岩 ん? その時の転居って一人? 自分だけ?

梶山 はい。

立岩 親から離れて。離れて、一人で埼玉に。

梶山 はい、そうですね。

立岩 ああ、そうか。昔、くれぱすで一回…、あれは安楽死の話だったかな。くれぱすに呼ばれて、喋りに行ったことがあったな※。で、そのくれぱす頼って埼玉に行って、どうなったんですか?
※2007/03/03 尊厳死と医療を考えるシンポジウム「尊厳死、ってなに?」 於:埼玉,


梶山 K市に、Kっていう人がいて。ウェルドニッヒ・ホフマン病の人なんですけど。気管切開してるんですけど、その人がロールモデルになってって感じで。それで。

立岩 その人はくれぱすの人?

梶山 はい。くれぱすの利用者ですけど。スタッフじゃなくて。介護派遣事業の利用者さん。

立岩 くれぱすの利用者さん。それは、どういう、何の手本なんですか?

梶山 やっぱり気管切開して過ごされてる方だったんで。ああ、こんなふうにもできるんだって。

立岩 ちなみに呼吸系っていうかさ、さっき、体、足がだんだんとかいう話聞いたけど、呼吸器は、ああなってどうなってっていうのは、どういう経緯なんですか?

梶山 20歳ぐらいの時に気管支炎かなんかになって、一回入院したんです。その時に気管切開するかっていうのがあって、お話があって。

立岩 するか? みたいな、しますか? っていうようなことですか?

梶山 当時、バイパップとかもまだ主流じゃなかったんで。地元の病院は気管切開することぐらいしか知らないんですよね。[00:40:03]

立岩 ああ。バイパップ自体、あまり知られてないっていうか、選択肢にないみたいな。

梶山 はい、もう気管切開しかない、みたいな。

立岩 それは、もう、呼吸がこうこうだから、するかしないかだけ…、その、「バイパップもあるよ」的な話はなかった?

梶山 ないんですよね。

立岩 ああ、本当。「気管切開しますか」って言われて、

梶山 その時は奇跡的に回復したので、呼吸器は使わなかったんですけど。

立岩 その20歳の時にね。

梶山 で、一回、下志津のほうの、病院のほうに、就労支援をやってるところあったんで、「下志津に入ろうか」みたいな話があったんですよね。

立岩 国療の下志津病院の中に、就労支援やってるところがあるから、じゃあ下志津に、

梶山 行こうかな、と思って。そこで色々検査を受けたら、「バイパップってものがあるよ」ってことに。その時初めて知ったんですけど。東埼玉病院でも、全然勧めてくれなかったんですよ。下志津は、「すぐ使おう」みたいな考えの病院だったんですけど。東埼玉病院は、リハビリ頑張ってる所なんで、「なるべく使わないで」みたいな方向性なんだよね。

立岩 下志津はバイパップに積極的?

梶山 そうですね。

立岩 東埼玉はそうではない?

梶山 そうではないって感じ。

立岩 …みたいな違いがあった。

梶山 やっぱり全然違いますね。

立岩 で、その2000年の時は、状態が一時悪くなって、「気切、する?」ってなったけど、状態がよくなったんで、しなかった。そのあとどうなったんですか?

梶山 そのあと? 下志津で検査を受けて、早急に着けなきゃいけないってことで、東埼玉病院のほうに情報を送ってくれたんです。で、東埼玉病院で検査入院して着けた、みたいな。セカンドオピニオンみたいな感じですかね。

立岩 じゃあ、血中濃度とかそういうの計って、「このままだとちょっとやばい、まずいよ」ということになり、で、「気切しますか」という話になり、「はい」って言ったっていう、そういう話ですか?

梶山 いや、「気切するより、死んだほうがええ」みたいなことを言ってましたね。その時は。

立岩 それは東埼玉病院で?

梶山 いやいや、気管切開勧められたのは、野田の普通の病院ですね。

立岩 それは20歳の時の話?

梶山 そうです。拒否した。

立岩 その時は拒否した?

梶山 「気管切開、嫌だ」っていうふうに。

立岩 その時は嫌だって言ったんですか。ああ。

梶山 勘弁して、みたいな。

立岩 その時は、着けずに済んだわけじゃないですか。たまたまってことはないですけど、体調が戻ったので。ほんで、それで?

梶山 下志津に行ったら、「こういうのがあるんだよ」みたいな感じで。「これなら声出せるし、気切よりはましだよ」っていうか。

立岩 ってことを、

梶山 説明した。

立岩 下志津では言われますよね。

梶山 そう。

立岩 そのデータなり何なりを、東埼玉に送りますよね。

梶山 はい。そのあと着けたりとかね。

立岩 で、その、東埼玉では何、「気切だよ」って言われたってことですか?

梶山 はい。言われてなかったですけどね。「じゃあ鼻マスクしましょうか?」みたいな感じで。こっちから「お願いします」っていう。

立岩 え? ちょっと待って。さっき、東埼玉病院では、梶山さんは、えっと何?

梶山 気管切開、嫌だけど、

立岩 気管切開嫌だけど、バイパップならいいよ、

梶山 ならいいよ、みたいな感じ。

立岩 …のことを言った。で、どうなったんですか?

梶山 で、夜間だけ着けることになった。

立岩 夜間、バイパップ着けることになった。

梶山 はやくって、で、その3〜4年後には、ちょっと、鼻マスクなしではもう生活できなくなってきました。

立岩 最初は夜だけだったけど、昼間もマスク着けるように。[00:45:04]

梶山 その期間が短かったです。夜間だけで、なんか、すごい長くいける人いるんですよね。

立岩 そうですよね。夜間だけ…、

梶山 最近いるんですよね。

立岩 いますよね。でも、梶山さん自身はそうではなかった?

梶山 早かった。

立岩 で、昼間もバイパップ着けてたんですか?

梶山 はい、そうです。とりあえず着けっぱなしみたいな感じ。

立岩 うん。それが、その、気切にっていう…、何が何で、どうなってこうなったんですか?

梶山 『カニューレはピアス』っていう本※があって。
※ベンチレーター使用者ネットワーク 編 20040310 『カニューレはピアス――花田貴博さんの計画的気管切開』,ベンチレーター使用者ネットワーク(『アナザボイス』55・春号)
 ベンチレーター使用者ネットワーク→http://www.arsvi.com/o/jvun.htm

立岩 はいはい。ありますよね。

梶山 それに影響を受けて。「こっちのほうがいいんじゃない?」みたいな感じで。その時に、落合さん、その落合さんも計画的に気管切開をその本見てやってたんですよね。落合さんも。落合勇平さん※。小平の。そん時呼ネット※が立ち上がったんですよ。
※落合 勇平(おちあい ゆうへい)
 http://www.cilkodaira.net/staff.html
 1981/05/12〜2013/03/19(享年31歳) 出身地:青森県 障害名:筋ジストロフィー 交通アクセス/ピアカン・ILP/相談担当
 追悼特集号 http://www.cilkodaira.net/img/column/UYL_2013_ochiai.pdf
※呼ネット→http://www.arsvi.com/o/conet.htm

立岩 あ、そうか。

梶山 ちょうど一人暮らし始めた時、呼ネットが立ち上がって。

立岩 その、呼ネットの最初期ぐらいのってことか、

梶山 はいはい。

立岩 じゃあ、何、意外と気切でもいけるって。バイパップは辛かったんですか?

梶山 はい、辛いですね。

立岩 何が辛いんですかね。

梶山 お腹張るんで。なんかご飯食べられなくなってくる。お腹張ってくると。

立岩 空気をこう、まあ言うたら入れてるわけだから、それが、

梶山 はい、入れてるから。食欲が落ちてくる。体重がどんどん下がってきて。20キロ代までいっちゃって。今40キロあるんですけど。

立岩 20キロはつらいですね。食欲がなくなる、あ、そうなんですか。

梶山 気持ち悪くなるんで。40代まで鼻マスクって、ちょっとしんどいと思うんですよね。よくみんな我慢してるなと思って。

立岩 そんな感じで、『ピアス』読んで、まあ「気切でも結構いけるんじゃないか」っていうようなことを、あれを見て思った?。

梶山 はい、そうそう。ただ、落合さんが「絶対やんないほうがいいよ」って、後悔してたんですよ。

立岩 落合さんが、やった後に後悔したってことですか?

梶山 はい。すごい後悔してて。僕に連絡来たんです。「梶山さん、気管切開考えてんだっけ?」って。「絶対やめたほうがいいよ」って電話してきたんで、すごく。そのあと亡くなっちゃいましたけどね。

立岩 落合さんにとって、何がそう落ち込む要因だったんですかね。

梶山 体調が悪くなったってところで。

立岩 …て、おっしゃってました?

梶山 前の生活が戻…生活には戻れなくなった、ってこと言って。あと活動範囲が減った、って。狭くなったっていう。

立岩 気切したことによって、ってことですか。

梶山 はい。

立岩 それは声の問題もあったんでしょう?

梶山 うん、声もあって。落合さん、あの、カフを抜くしゃべり方あるじゃないですか。あれをずっとやってて、無気肺になっちゃったんですよね。肺に空気入んなくなっちゃって。その時に「怖いな」と思って。カフを抜いてしゃべるのは、まあ、鹿野さんの本には書いてありますけど、結構危ないですよね、あれってね。

立岩 うん。ていうようなことが周りにあり、

梶山 だけれども、「やってみたらよくなるんじゃないか」みたいな希望はあったんで、僕は【やりたかった】(00:49:34)。

立岩 それは何、落合さんからは「やめとけよ」って言われたけど、でも今よりいいんじゃないかってことを梶山さん自身が思われて、それで切った。

梶山 そう。

立岩 穴開けたのがいつなんですか? いつ頃ですかね?

梶山 いつ頃だろう(笑)。多分くれぱすに…、自立したのが25歳の時だから、[00:50:03]

立岩 そうですよね。2010年だから25歳ですよね。その後? 前?

梶山 そのあと2年後ぐらいに、気管切開して。

立岩 ああ。埼玉に移ってから2年後ぐらいに気切をした。

梶山 はい、そうですね。結構、排痰とか難しくなってきて。

立岩 何が?

梶山 痰を出すのが難しくなってきて。

立岩 もうその時に。だったら、

梶山 もう気管切開かも、って。周りからは「何でやるの?」みたいな。「まだいいじゃん」みたいな。

立岩 言われたけど、自分的にはお腹も膨らんで、食べるもの食べられないし、それから、

梶山 うん、やっちゃった。やったほうがいいって。まあ、やってよかったですけどね、結局。

立岩 やった結果としては、自分的にはよかったって、結構最初からそう、

梶山 でも、最初の2年間は、「落合さんの言うことを聞いとけばよかった」って。きつくて。

立岩 最初2年間は辛かったってことですか?

梶山 やっぱり、すごい大変だったんですよ。

立岩 気切のあとの大変さっていうのは何なんですかね?

梶山 酸素が…酸素濃度が一定に保てないっていうのがあって。あと、喀痰吸引等研修、ちょうどその時制度化されて。事業所もやりたくないみたいな。研修がめんどくさいからみたいな感じで。その時にくれぱすでちょっと揉めたんですよね。ALSの人たちは、これまでそういう資格を取らないでやってきたんだから、やってくんないの? みたいな感じで。なんか制度になっちゃったから、事業所としてできないみたいな。

立岩 制度の前は、まあ事実上やってたと。でも、制度ができたので、

梶山 黒だ、って。

立岩 うーん。そしたら、

梶山 白黒はっきりしてたんで。

立岩 だから、くれぱすとしてはできないと言わざるをえないっていうか、言われ、

梶山 うん、できない。でも訪問看護、胃ろうの時は訪問看護使ってくださいっていう感じになっちゃって。で、入退院を繰り返して。まあ入院中はヘルパーが使えないんでね、ちょっと。

立岩 じゃあその、その時期、最初の2年つったらいいのかなぁ、っていうのは、

梶山 ちょうど、さくら会が頑張ってた頃です。

立岩 吸引を、在宅って、てか、ヘルパーやってくれない?

梶山 はい。

立岩 ので、病院に行かざるをえないみたいな、そういう話ですか?

梶山 はい。そういう感じになってってっていうか。

立岩 それが最初の2年のしんどさの一部、

梶山 それで、もうくれぱすが対応できなくて、全部撤退しちゃたんです。で、病院に残されてって。その時、日赤なんですけど。日赤、救急だから、すごい嫌がられましたけど。「まだいるの?」みたいな感じ。

立岩 結構それは長期入院になったんですか?

梶山 はい。

立岩 どのぐらいいた記憶があります?

梶山 1年ぐらいは。

立岩 1年はずっといた?

梶山 日赤に。

立岩 吸引、くれぱす、そういうので、制度がある意味明確になっちゃったので、できないって言われ、

梶山 っていうのと、入院介助。

立岩 ん?

梶山 入院介助もないし。その時はなかったんで。

立岩 入院介助なかったんですよね。そしたら、結局病院の看護師の、っていうだけってことですよね?

梶山 そうですね。

立岩 それがやっぱり、最初、気切、あと辛かったことの大きい部分ってことですか?

梶山 この自立生活がね、そこで終わっちゃったわけだから。***(00:54:28)。

立岩 なるほど。ああ、そういう流れなんだ。それで、1年日赤つったよね。

■日赤に入院〜退院/広域協会

梶山 はい。で、その間に広域協会とやり取りして、自薦を使わせてくれっていう感じで。それで外出た感じ。

立岩 使えるよっていう話に持って行ったというか、なった。[00:54:58]

梶山 はい。まあ大野さんとかは「吸引研修やってないから、それはしょうがないんで、やっちゃっていいよ」みたいな感じで。「違法性阻却もあるから、それで吸引はいいんじゃないの?」みたいな感じで。

立岩 って言ったのは誰だって?

梶山 それは大野さんが言ってくれた。「みんなALSは、地方のALSはそうやってるから、それでいいんじゃないの?」みたいな。まあ、くれぱすは全然なんか…。くれぱすも推進系なんですけど、なぜそう違うんだろうって。

立岩 その時はそう思った?

梶山 はい、そうですね(笑)。

立岩 くれぱすの方針に、まあ、あったんで、仕方なく日赤入って、まあ…。どうですかやっぱり、1年、介助がない看護師だけっていうなかで病院で暮らすっていうのは、やっぱしんどいもんですか?

梶山 うん、やっぱり普通の病院なんで。筋ジス病棟とは違った苦しみはありますね。

立岩 それは何、ナースコール押す、

梶山 日赤ってなんか、看護師たちストライキがあるんですよ。なんかその、1時間とかやんないです、最低限のことしか。吸引はやってくれますけどね。すごい嫌な感じですけど。なんか職場の労働問題に巻き込まれてる感じですけど。

立岩 よく、「ナースコール押しても来ない」とかさ、「ナースコール、どかされる」とかさ、

梶山 はい(笑)。うん、来ないですね。

立岩 そういう話聞きますけど、その時はどうでした?

梶山 日赤だったんで、ナースコール普通なんですよ。

立岩 普通って?

梶山 普通のナースコールなんで、ナースコールすら持てない状況で。ナースコールなし。

立岩 ああ、事実上ナースコール使えない、

梶山 なしでやってました。

立岩 全く使えない?

梶山 はい、使えない状況で。

立岩 うーん。それはしんどい。

梶山 (笑)だから時間に、

立岩 時間になると、

梶山 来てくれますけど。

立岩 来るっていう、それだけで、

梶山 サーチレーションが悪くなってくると来てくれます。酸素濃度落ちてくると。

立岩 それは、何、データ見てる?

梶山 モニターが見えてるから。音も鳴るし。

立岩 それで来る?

梶山 そう。

立岩 求めに応じてっていうよりは、時間どおり、時間おきにっていうのと、数値が悪くなるのがモニターでわかるから、それはやって来て。

梶山 はい、そうですね。だから、体交も何もないという。時間でやりますけど。

立岩 ああ、指示して体交とかいうようなのはなくて。そういうのって、1日何回って決まってるんですか? 体位交換。

梶山 ほぼ3時間に1回とか。来ますけどね。

立岩 その1年間というものは、身体的に辛かったんですかね?

梶山 はい、そうですね。もうやること何にもない。でも、逆に出てやろうっていう気持ちにはなりますけどね。こんな変わるんだっていうか。

立岩 ああ、入って。

梶山 今まで自立生活して、ヘルパー付けて自由にやってたけど、いきなり自由が奪われるみたいな。まあ、そうですね。

立岩 こういう形で病院入っちゃったら、こうなってしまうんだっていうことが、リアルにというか、もうほんとに体感というか、したんですよね。

梶山 はい、そうですね。

立岩 ほんで、そうか、協議会と再度接触し、大野さんが、まあそんなにリジッドに考えなくても大丈夫みたいなこと言われて、それで何とかなると思って、もう1回、

梶山 外泊しながら。看護ボランティア。

立岩 看護のボランティアってのは看護師なんですか?

梶山 看護師じゃないですけど。学生ですけどね。たまたまつながりがあったんで。

立岩 その学生は…、え、待てよ、病院にいますよね、まだね。

梶山 その人をキーパーソンにして、色々手配をしてもらったっていうか。[01:00:07]

立岩 それはどういうつながりとかで、その学生がやったんですか?

梶山 もともと、看護学校、ちょっと、講演依頼とかされて行ってたりしたんで、そのつながりですかね。

立岩 じゃあその、講演に行った先の看護学校の学生みたいな?

梶山 はい、そうですね。

立岩 そういう人が、いわば退院移行っていうか、その支援の手筈というか、そういうのを手伝ってくれたっていう。

梶山 そうですね。外泊しながらずっと。家帰ってヘルパーの面接したりとか、介護研修やったりとか。

立岩 それはもう退院しちゃってから?

梶山 いや、違います。外泊しながら。

立岩 病院にいて、外泊で。そうか。その時に、

梶山 で、その時外泊介助を…、ちょっと、何だろう、★地域生活支援事業のほうで埼玉市がお金出してくれたんで。重訪じゃなくて。

立岩 ああ、埼玉独自にっていうことですか?

梶山 移動支援で。

立岩 じゃあ、その移行のところのお金は埼玉市が出した。で、その学生さんは、そのお金を使ってたんですか?

梶山 まあ一応それで雇ったりとか。

立岩 ほんで、そうか、外泊の時に人を面接したりだの、

梶山 一人なんか、今もやってるヘルパーがすごく成長してくれたんで。その人に研修手伝ってもらったりして。一気に態勢整えて、1ヶ月ぐらい。

立岩 じゃあ外泊を繰り返しながら。1ヶ月ぐらい?

梶山 1ヶ月で出ましたね。

立岩 1年なんぼいた時の、最後のひと月?

梶山 はい、そうですね。はい。

立岩 ひと月外泊を繰り返し、

梶山 はいはい。

立岩 結構、何回も外泊、そのための外泊ってしたんですか?

梶山 はい。毎週のようにやってましたけど。最初1泊で帰ったりとか、徐々に増やして3泊とか、【インテリアとかね】(01:02:45)。

立岩 ああ。それについては、特段、その、日赤なりは問題というか、

梶山 まあノータッチでしたね。まあ出てくれるんだったら。日赤は出てほしいみたい。回転が悪いから。

立岩 一般病院だったら、そうか、回転悪いから。

梶山 外泊出てもいいけど。

立岩 まあ、出ていく話につながるぶんにはいいと。

梶山 ただ、その時に★国療に入ることも考えてたんですけど、

立岩 その1年の間に?

梶山 空きがないんですよ。どこも入れない。

立岩 1年、ここはちょっと、一般病院、日赤、ちょっとこれ悪すぎるぞ、みたいなところで、じゃあどうしようかって時に、国療のほうがまだいいだろう、みたいなことだったんですね。

梶山 まだましでしょ、みたいな。他に筋ジスいるし、ITもできるし。ネットもつながってるし。国療のほうがいいなって。

立岩 ああ。結構その真面目に考えた?

梶山 そう。結構真面目に考えました。

立岩 それは申し込んだりするもんなんですか? したんですか?

梶山 はい、してました。

立岩 もう実際にした。

梶山 だけど、「他の患者さんが優先です」って。「家族介護で大変。筋ジス他にいるから」って。「そっちが優先です」みたいな感じで。「2年待ち」って言われてた(笑)。

立岩 入れたら、その時入っちゃったかもしれないんだね? じゃあ。

梶山 入っちゃってましたね。

立岩 じゃあ、まあ、たまたまというか何というか、空きがなかったがためということもあって、国療にっていうのはなくなり、それでもう1回、か。

梶山 まあ、自薦かなあというか。もう自薦しかなかった感じ。

立岩 それで、もう1回埼玉市内で暮らすのを再開、

梶山 区は変えましたけど。大宮区に。

立岩 これはどういう絡みで中央区から大宮区?

梶山 うーん、日赤が大宮区にあるので、何かあった時はそこに行くと。

立岩 って思ったわけ。それで日赤出て埼玉で暮らしてた時期っていうのは、もうその時はくれぱすとは、いったん切れてる、っていう感じ?

梶山 もう切れてますね。[01:05:45]

立岩 その時の介助は?

梶山 自薦。全部、自薦で。当時自薦使って、虐待問題とかやってたんで。色々あったんですよ(笑)。

立岩 虐待されたってことですか?

梶山 はい、自薦ヘルパーに。なんか、やまゆり園事件があって。その時になんかこう、容疑者になびくような、被告と同じようなことを言い出す人がいたんです。

立岩 そうか。というか、12年から17年のあれだから、この間にやまゆり園事件起こってますね。16年だもんね、あれ。

梶山 よく2チャンネルとか結構見てる人で、その人が。それに感化されて、すごい敵対するような感じになっちゃったヘルパーがいたんで。で、その人辞めさせたりとか。

立岩 それは辞めさせた?

梶山 …たりとかで、結構、大野さんにも相談したりとか。何とか辞めてもらうのに。

立岩 それは、無事に辞めさせられたんですか?

梶山 まあ、揉めましたけどね。まあ、訴えられなかったからよかったけど。

立岩 ふーん。なんで辞めさせられるんだ的な、

梶山 …ことは言ってましたね。

立岩 そういうことは言われたの、普通に? でもまあ、そうか、その訴えられるとかではなくって、まあ辞めてもらった。

梶山 はい、何とか(笑)

立岩 ていうのが、12年から17年の間、16年に起こる。でも結構、

梶山 その時期は辛かった。自薦って1対1なんで、そこだけの世界になっちゃう。怖いですよ、やっぱり。

立岩 1対1で、その1対1の1が良けりゃいいけど、悪いとえらいことになるぞ、っていう。そういう話ですか。

梶山 まあ自薦に、ちょっともう無理なんじゃないか、みたいな。勇気がいりましたね。

立岩 それと、ここの武蔵野にっていうのは関係ある?

梶山 まあ、その中へ入りたかったっていう感じ。埼玉で悶々としててもっていう。東京へ来たほうがいいかなっていう。まあ、福田〔暁子〕さんとか 天畠〔大輔〕さんとか、その時に知り合って。ああ、いいなあっていう感じで。もうCILとか全然関係ない人たちの自由さがいいな、みたいな。なんかね。で、まあその自薦ですけど、CIL系とはなんか全然違うんで。なんかね。CIL以外の人の刺激が欲しいな、みたいな感じ。東京に来てからすごい。

立岩 そういうのが、こっちに来る時にはあったんだ?

梶山 まあ、そうですね。

立岩 まあ確かに、天畠んところの事業所はちょっと雰囲気違うよね。

梶山 (笑)福田さんとこも違う。

立岩 うん。

梶山 武蔵野市はCILがないんで、若干変わってるみたいですよ。

立岩 うん。何でだろう、別にそれはいいんですけど。

梶山 まあ自立支援協議会が発展してるからだと思うんですけど。向こうは発展してないけど。

立岩 あ、そっか。それで、埼玉に来たのが一昨年か。で、19年、今年ですよね、葛飾、行くんですか?

梶山 行こうと思ったけどやめたんです。やっぱCILをやっていきたいなと思ったんですけど、体力的に無理だなって。[01:10:21]

立岩 葛飾行って、葛飾でCILやろうみたいなそういう、

梶山 ことも考えてたんですけど。まあそれで1回、自薦ヘルパーが二人になってた時期があって。その時にケアサポートモモに助けてもらったんです。

立岩 一時期、ほんとに全てが二人っていう時があったっていうこと?

梶山 はい、自薦がもう。

立岩 全部で二人?

梶山 はい、そうですね。

立岩 それは確かに辛いっちゃ辛いね。

梶山 それだとまずいんでっていう感じ。で、川口さんところにお願いしたって感じ。

立岩 それは今でも続いてるんですか?

梶山 もう切り替えちゃいました。新しく雇ったヘルパー、ケアサポートモモの所属にしてもらって。

立岩 今はじゃあ何、モモがもっぱらなんですか? 今。

梶山 はい、そうですね。自薦…、広域の役割をモモが持ってるみたいな感じ。

立岩 ああ、そういうイメージね。

梶山 はい。やっぱりモモのほうが特定事業者加算とか色々付いてるんで、待遇よくできるんです。

立岩 そうだね。あそこは確かに、もともとっていうか重度の人が多いから、そういうので積極的に加算取ってきたっていう経緯があるから。

梶山 そうですね。広域で取ってないんで。

立岩 それに乗っかれるみたいな。

梶山 広域は取ってないんで。それにどんどんどんどん、保険料上がってきてるんで、普通のところじゃ無理なんですよ。重度の人を抱えるにはちょっと、CIL系の単価じゃ正直厳しいかなというか。消費税も上がってくる。

立岩 保険料払う…、みたいなことをちゃんとやれてるっていったら、なるほどね。で、そうか、加算がついてる重度、

梶山 ケアサポートモモ、

立岩 重いところをやってるところに、っていうことか。そういうことに伴って、今しばらくというか、ここで暮らそうっていうことなんですか? 今。

梶山 そうですね、今のところ。あと、筋ジスプロジェクトとかも、関われることがあればやりたいなと思ってるところなんです。

立岩 これから色々出てくると思いますよ。

梶山 今はまあちょっとCILから離れてるんで、特にやることもなく、座ってる感じですけど。

立岩 武蔵境ってこんな感じだったんですね。昔はもっとなんか小っちゃい駅だったけど、なんか、えらい、

梶山 大きくなりましたね。

立岩 立派になって、びっくりしました。

梶山 (笑)

立岩 僕ね、三鷹に10年住んでたんですよ。

梶山 あ、そうなんですか。

立岩 ええ。だから、武蔵境、隣駅じゃないですか。だからまあこの辺はだいたいわかってたつもりなんですけど、こっち側ってやっぱりあんまり来たことないなって思いました。

梶山 変わってきました。

立岩 でもなんか、落ち着いた住宅街でもあり、若干田舎っぽくもあり。まあ、いい感じなんでしょうね。玉川上水もあり。住環境としてはいいでしょうね、ここね。

梶山 いいです。あとは今後はあれですね。古込さんみたいな、重度化した時に、どうやって地域で生きていくかっていうか、課題になってきますね、きっと。

立岩 うん、うん。今、ここの武蔵野にいる時の医療っていうか、それはなんか既にあるんですか?

梶山 ああ、武蔵野はないね、ちょっと。最悪ですね(笑)。

立岩 武蔵野、よくないの?

梶山 よくないんですよ。

立岩 なんか考えてるんですか?

梶山 国療への道はないと思うんですよ、きっと。都内の人って、国療入れない人いっぱいいるんですよ。[01:15:11]

立岩 そうすると、都内で信頼できるというか、医療機関を見つけるみたいな、そういう話ですか?



梶山 だからほんとは訪問看護があって、ほんと重度の人がシェアして住んだほうが、ヘルパーの目もあるし、いいのかなと思ったけど。単独で暮らすのはヘルパーも協力できないんで。一人だけでやるっていうのはちょっと、やっぱり怖いと思うんです。なんかあった時に、シェアルームで住んでれば、そこのヘルパーと相談して動きが取れるかなって。

立岩 そういうことは今、考えていると。

梶山 はい、考えていますね。筋ジスプロジェクトで、人によってはうまく自立できるタイプの人もいるけど、厳しい人もいるだろうと思ってて。もう、自分の病状を考えると、実際に厳しいなって。

立岩 梶山さん自身は、今、年金?

梶山 そうですね、年金ですね。

立岩 生保は取ってないの?

梶山 はい。東京都、手当いっぱい出るんで。18万ぐらい出る。

立岩 手当色々合わせるとそのぐらいなる。

梶山 あと、ケアサポートモモが社会活動のための費用をちょっと出してくれているので。生活保護なしで。

立岩 ああ、それだったらやっていける感じがしますね。

梶山 はい。

立岩 ここ、いい部屋ですもんね。

梶山 はい、そうですね(笑)。

立岩 ちょうどいい感じで。広さも。

梶山 はい。あの、ほんとに、都内で自立生活するってなると、結構厳しいんだろうなっていう。だいたい生活保護物件ってすごい狭いんで。

立岩 そうですよね。住宅扶助のマックスでも、そんなに、そうですよね。

梶山 そうですね、6万とか。

立岩 厳しいですよね。

梶山 東京で6万円の家っていったら、相当なもんですよ。

立岩 うん。そうですよね。今は、精神・神経医療研究センター、多摩総合医療センター、武蔵野陽和会。陽和会、確かにあるなあ。それは今かかってるんですか?

梶山 はい、そうですね。

立岩 それがあまりよろしくないっていう話なの? そうではない?

梶山 筋ジス向けではないっていう。やっぱり祝日とか正月は動けないので。緊急になったら、もう入院するしかないんで。入院しちゃうと、ちょっと、在宅の継続が中断しちゃうんで、すごい厳しいかな。ずーっと入院してると、単価が下がるんで。入院中はやっぱり他人介護ができないから。入院が長くなると、実際の態勢がね、崩壊するなあというのは。

立岩 今はどうなんですか、体の具合っていうのは。

梶山 やっぱり、自薦ヘルパーの教育に体力がだいぶ持っていかれますね。一から全部やんなきゃいけないから。

立岩 今、 何人? 最初の時は二人だとおっしゃってたけども。

梶山 今、5人になりました。

立岩 さっきの彼も、その一人っていうこと?

梶山 はい、そうですね。

立岩 わりと若い人が多いですか?[01:20:12]

梶山 はい。やっぱり自薦で使ってると、色々不便はありますね。古込さんは、デュシェンヌ型でも、唯一自薦使ってたので、まあそれで少しは希望が持ててたんですけど。亡くなったのは残念だなっていうか。僕の希望でもあったんで。デュシェンヌで、他に自薦使ってる人っていうのが仲間にいなかったんで、すごく変わってるなぁって言ってたんですけど。亡くなってしまって、ショックかなって。

立岩 多分、体の調子が悪くなんなければ、それなりに続けられたんだとは思うんですよね。私も実際ヘルパーやってるところに伺ったのは1回だけでしたけど、まあまあ、それなりに回ってるような気はしました。どこまで…、まあ色々あったのかもしれないけど、まあそれはね。亡くなった頃には良くはなかったんだろうな。なるほど。じゃあ、そっか、医療機関はどうしようかなぁと思いつつ、当面はここは悪くないと思い、

梶山 はい、そうですね。

立岩 ただ将来考えた時に、ずっと一人が一人ずつっていうのは難しいかもしれないとすれば、部屋をシェアするとか、

梶山 新しい態勢考えないと。

立岩 そういうのもありうる、あるっていうことですかね。

梶山 それかもう、キャンピングカーに住んで、好きに生きれるようにやったほうがいいのかなって。そういうのも考えたんですけど(笑)。

立岩 キャンピングカーに寝て暮らして、体悪くなったらキャンピングカーで病院の前に乗り付けるとか、そういう感じですかね。

梶山 はい、そうですね(笑)。

立岩 それはいいかもしれない。アメリカとか行ったら、ほんとにあるじゃないですか、キャンピングカーに住んでる人ってさ。

梶山 はい、いますね(笑)。

立岩 日本ってやれるんですかね?

梶山 なんか、やれるらしいですよ。

立岩 やれるらしい。

梶山 駐車場に住民票。

立岩 駐車場に住民票置く。

梶山 置けば(笑)。

立岩 置けばいいのか。そうか。

梶山 わかんないですけど(笑)。

立岩 そういうのが…。85年生まれでしょ。古込さんが72。

梶山 はい。落合さんも亡くなっちゃったし、デュシェンヌほとんどいなくなってきた。都内にいなくなってきてて。

立岩 うん。今が34? 7月生まれだから。34になったんですよね、この間ね。

梶山 そうですね。

立岩 でも、まあ確かにさっきもおっしゃったけど、からだの様子は、僕は完全に素人ですけど、素人目に見て、わりとこう維持されてるというか。

梶山 はい、そうですね。

立岩 その感じは確かに。ぱっと見ですけど。

梶山 はい。多分、母が看護師だったので、ちゃんとリハビリやってきたのと、そういうの影響してんでしょうね、きっと。病院は放っとかれちゃうから。病院にいればいるほど、筋ジスはまずいです。国療とか悲惨だから。放っとかれちゃうから。

立岩 うん。それでも待ちがでるっていう状態ではあるわけですよね。

梶山 まあ一応生きるっていうところでは、国療がいいのかもしれないですけど。

立岩 東京なんかだと、希望した場合には、埼玉か千葉かみたいな話になるんですか?

梶山 いや、その前にやっぱりあれです、相談支援員が入ってきて。何とか在宅でやろう、みたいな話になるんですよね。国療に入れないんで、基本的に。[01:25:11]

立岩 そうか。今日最初に聞いた長山弘さんは、下志津、「わりとすんなり入れちゃったよ」っておっしゃってたけど、10年ぐらい違うってことなのかな。

梶山 10年違うと、もうあの、国療の考え方も、在宅への移行みたいな考えになってるんですよね。

立岩 概ね、そういうふうには言ってますよね。

梶山 もともと外にいる人なんて、基本的に入れない感じですから。中にいる人は出れないみたいな。外にいる人は困っても入れないみたいな。そういうとこにいる人のほうが、結構生命的にやばい時あります。よくわかんない病院連れて行かれて、専門じゃない病院で色々いじくり回されると、進行する場合があるんで。

立岩 特にね、救急ってもうちょっと何とかならないんですかね。

梶山 ひどいですね。

立岩 どこに連れて行かれるかわかんないもんね。

梶山 わかんないんで。だいたい国療と関係悪くなる人が多いんで。

立岩 ん?

梶山 関係悪くなる人が多いんですよ。国療から出ると、

立岩 国療から出ると、国療とってことですか?

梶山 はい、そうですね。出たんだから勝手に。

立岩 そういう話は他でも聞きますね。もう出たんだからつって、冷たいっていうか、面倒見てくれないよっていう。まあ、古込さんもそれは心配していて。

梶山 うん。言ってましたね。

立岩 色々交渉したりして、「まあ、出てからも面倒は見るよ」っていうふうに、一応そういう関係にした上で出たっていうのは、彼の場合はそういうことですよね。

梶山 はい。地域医療がひどすぎて話になんないです。

立岩 救急車一緒に乗ったりした時、「えぇ?」みたいな。「動かないよ、この救急車」みたいなのあったからね。

梶山 (笑)ありますね。

立岩 救急車、動かないのは困りますよね。発車しないって。

梶山 はい、そうですね。

立岩 受け入れ先決まらないから、発車しないっていう。

梶山 死んじゃうって。そういうのが多いんで。自薦ヘルパーも、医療知識を身に付けて、やってもらうしかない気がするんです。

立岩 その、どうなの、自薦ヘルパーの医療知識っていうかね、そういう、具体的にはどういう知識を得て、どういう対応ができるようなヘルパーに仕立てようみたいなってあるんですか?

梶山 日本の看護師っていうのが、訪問看護師のレベルっていうと高くないんで、基本的に。家でやれることって、病院の10分の1しかないんですよね。例えば、「誤嚥しました」って時に、「詰まりました」って時に、内視鏡で取ったほうがすぐ取れるんですよ。看護師、吸引で取ろうとしても詰まったまま取れないんで、病院で内視鏡でファイバーで見ながら取ったほうがすぐ取れるんですよ。そういうシステムがないんで、救急車で運んで「内視鏡で取ってください」って。病院は嫌がるんですよね。「え、これだけのために救急車呼んだの?」みたいな感じに(笑)。

立岩 それって、どうしたらいいの? いやあの、嫌がられてもっていうか、それは仕方がない、病院にっていうことで押していくしかないのか。

梶山 そうですね。[01:30:03]

立岩 さっきの話はその、今、介助に来てくれるヘルパーも、その知識とか技術とかっていう話だったじゃないですか。で、まあそれで、でもまあ内視鏡は無理か。

梶山 はい。内視鏡は無理ですけど。

立岩 それは、だけどっていうのは、でも、介助者、ヘルパーの技を高め、

梶山 やっぱりカニューレ交換とか。ね。いざという時は、ヘルパーがやれたほうがいいと思うんですよ。その度に医者呼んで、何にもできない状況だと、ヘルパーも怖いんで。知識を持つことで怖がっちゃう時もありますけどね。

立岩 まあ、それはそうですけどね。

梶山 そっちのほうが強いっていうか。できることは増やしといたほうがいいのかなと思いますけど。まあ、今のところ喀痰吸引と胃ろう止まりですけど、その範囲を広げていいのかなとかって、考えだけで言うと。それがもう、CILの考え方とはちょっとは異なってくるけど、グループホームみたいな感じで、共同生活のほうが。そうすると時代的になんか逆戻りな感じがしますけどね、ていうか。

立岩 うーん。やりようではあると思うんですよね。二人、三人ってのはあるかもね。

梶山 新田勲さんなんか住んでたようなグループホームっていうか。グループホームと違いますけど、ちょっと。

立岩 うん、グループホームとは違うわな。うん。

梶山 ああいう態勢もいいのかなと思って。

立岩 複数の人が出入りっていうのかな、そういうのは僕はありうると思いますよ。二人とか三人とかね、どういうふうに居住の空間自体をどうするかっていうのもありますけども。うん、ありうるとは思いますね。

梶山 そうですね。シェアハウスって、ほとんど、最近若い人のなかでも流行ってる気配。そういう生活スタイルもありかなって。30年前とはもう、生活スタイル変わってきてると思う。CILはどっちかつうと、アパート暮らしっていうのが、すごい大事にしてるとこだけど。

立岩 個室プラス共用スペースみたいなのがね、あると思っていて。いや、ちょっと、もうインタビューじゃない部分なんですけど、私、京都なんですけどね、まあ、とある事情があって、今、家を改築していて。エレベーター付けて、で、

梶山 いいですね。

立岩 ええ。それで、あの、今おっしゃったような形にちょっと近い、その、みんないられる場所と、自分の場所を、まあエレベーターでつないでっていうのを、ちょっと今、画策中でして。それはまあ、京都に住む人とか京都に来る人とかっていうの考えてますけどね。

梶山 それはやったほうがいいと思います。やっぱり医療的な必要性が多いですよね。一人でいると、すごいリスクが急激に高まって、まあ怖いですね、それは。

立岩 その辺り、救急…。まあそれにしても、そうだなあ。普通の救急がもうちょっとましになってくれれば、まあ。

梶山 まあ自分たちで民間の救急やっちゃえば、ですけど。

立岩 それもありえますよね。救急になったらもう、このコースをこう行って、ここにポンみたいな(笑)。そういう仕掛けをあらかじめ作っとけば、怖さは減りますよね。今の救急はほんとに、どこ連れていかれるかわかんないし、っていう。

梶山 ああ、怖いですよね。[01:35:07]

立岩 それは多分やりようによっちゃあ可能ですよね、恐らくね。

梶山 まあ多分宇多野病院みたいな感じで、協力的な病院さえあれば、なんかあった時にここに行くみたいな。ルートさえできてれば。みたいな、アリですよね。

立岩 そうですよね。そうすれば基本一致で、いざっていうのはもう時間かけずにパッと行って。

梶山 国療みたいな機関がなくなるの怖いんですよ。もうほんと普通の病院になっちゃうんで。専門家いなくなっちゃうから。そういう機関は残してほしいですよね。あったほうがいいかも、って。入院と退院が簡単にこうできるような感じに。まあ、個人的には病院から好きに出れちゃえばいいんですけどね。好きな時に出れるみたいな感じ、環境であればいいんですけど。

立岩 病院にいながら病院外のサービスを使えるとか、人が出入りできて、使えて、っていう。それは、病院の持出しさえなければ病院にとっても、そう悪い話じゃないような気がするんですよ。

梶山 はい、そうですね。

立岩 そこんところはいいよねっていうふうにしていくと、病院の中で暮らす人の状況は、やっぱり、もう一人ずつ全部出すっていうのはさすがに大変な時間もかかるだろうし、その間にってこともあるから、差し当たってできることは、まあこの間そういう方向には来てるわけじゃないですか。入院中の人にヘルパーが付けるようになったとか。だからそういう方角は一応向いているので、それを広げていくっていうのは、現実的ではあると思いますね。病院のよく仕方としてはね。

梶山 あとはヘルパーの養成機関ていうか、ちゃんと育ててくれるようなところ、CILが担うとか、さくら会が担うとか。「養成機関がないんです」とか、「自分で育てなさい」っていうのが基本なんですね。

立岩 自分でできるところは、まああるでしょうけれども。まあ、うーん。

梶山 モモさんはできると思ってるみたいですけどね。誰でも実践は鍛えればできるって。

立岩 うーん。

梶山 ちょっと根性論的な(笑)。

立岩 そこからその、細かい技っていうかな、指示とかそういうことは疎いので、まあ何とも判断、僕自身はできないと思いますけど。うん、そうかもしれないですね。

梶山 大野さん、結構厳しいから(笑)。

立岩 大野さんね、言うこと結構きついこと言いますよね。ニヤニヤ笑いながらね。

梶山 そうですね。筋ジスは、特にろくな教育受けてないんで、筋ジストロフィーって(笑)。頚損の人とかALSの人はね、ちゃんと一般教養身に付けてる。

立岩 ああ、そういう話か。

梶山 でしょ?(笑)

立岩 そうかなあ、そうかもしんないけれども、うーん。でも、昨日もちょっとその話になったんだけど、舩後さん、「やっぱりただのおじさんじゃん」みたいな話もあって(笑)。社会経験を身に付けると、ただのおじさんになるっていう話もあるんでね。

梶山 なっちゃう(笑)。

立岩 うーん。やっぱり、ね、筋ジスはそれなりにやっぱり小っちゃい時から、ってあるから、やっぱり、それなりに経験というかあるから、僕はそんなにALSのおじさんたちより、だめっつうか…とは思ってないんですよね、っていう。

梶山 ああ、そうですか(笑)。[01:39:57]

立岩 結構、逆に言うと、その、若いうちから、ね、人の使い方であったり、まあ色んなこと考えるっていうのはあるんじゃないかな。頸損とか、頸損もいつ頸損になるかにもよりますけれど、結構ね、やっぱり。ALSの方は50、60はあたり前だから、そういった時に、

梶山 それはそうですね。

立岩 うん。そんなにこう、

梶山 まあ筋ジスの人は、結構前頭葉のほうが萎縮するんで、考えるのが苦手になってくるんです。

立岩 病気の進行として前頭葉にくるっていうのは、その、言われてる結構確かな話なんですか? へえー。

梶山 僕も今はね、ちょっと萎縮しかかってる。そういう環境下にいると、どんどん萎縮するらしいですよ、なんか。ストレスが溜まる環境というか。

立岩 ストレス溜まると萎縮するって話なの?

梶山 らしいです(笑)。何が影響してるのか知らないですけど。国療にいると、どんどんどんどん知的レベルが下がるっていう、らしいですけど。

立岩 まあ、じっとしてるしかないって辛いですよね。でも、辛いのやり過ごしたら、結局ぼーっとしてるみたいなことになって。

梶山 はい、自律神経とか。

立岩 結果として、色んな所が動かなくなるみたいなことはあるのかもしれないですね。

梶山 はい、そうですね。国療にいる人は、なんかイメージ的には身体が弱い人が多いなって。多い感じがする。

立岩 国療に、ですか。

梶山 はい。統計とかって、筋ジスって何も残ってないらしくて。筋ジスの介護方法もエビデンスがないんですね。

立岩 そうなんですか。

梶山 だから病院によって変わってきちゃうんですよ。エビデンスさえあれば、その通りにどの病院でもやるようになると思うんですけど、全くないらしいんで。看護師の知り合いが言ってたんですけど。データが何もないって。

立岩 うーん? そうなんですか。

梶山 はい。

立岩 看護学っていうか、看護の人なんかは、そういうのは商売というか自分の本職なんだから、もうちょっとやりゃあいい、もしほんとにそうだとしたらやればいいのになと思いますけどね。

梶山 ほんと、ヨーロッパとか行くと、筋ジスのデータがなくて、呼吸器を着けないみたいなことを書かれているみたいです。

立岩 海外で着けない、え、今の話ってどういう話?

梶山 何にも医学的なデータが何にもなくて。

立岩 それは日本にないっていう話? 世界中にないっていう?

梶山 日本にもないですけど。

立岩 日本にない。うん。

梶山 日本にもないらしいんですよ。海外にもないみたいです。ALSのほうがあれですけどね、研究されてますけど。

立岩 うーん、どうなんだろう。まあ医学的研究っていう意味ではどっちもやってるはずですけど、でもまあ正直50年60年やってるけれども、そんなに画期的な、ね、何が出たってことはないですよね。どうなのかなあ。そうですか。

梶山 だいたいあの、心機能のテストして、薬の分量変えたりとか、それぐらいですね、やってることって。色々見てきたけど。それこそなんか、循環器レベルのデータベースがあるわけでもないし。[01:45:17]

立岩 うん。多分、何だろうなあ、結局、原因を解明するとか何とか、そういうことで一生懸命やってるけど、そっちは成果出ない。まあ多分、梶山さんおっしゃったのは、多分その、悪い意味じゃなくての対症療法っていうのかな、そこのところの経験っていうのがきちんと蓄積されてない、整理されてないってことなんじゃないですかね。対症療法ってさ、根治より低く見られるけど、でも根治はないわけだから、今のところは。やっぱりきちんと対症療法というか対症的な処置を洗練させるしかないじゃないですか。そこのところを、お医者さんもそういうところルーズだし、そういうとこはほんとは看護師が、看護がやんなきゃいけないのかな。まあ、とにかくそれはほんとにそうだと思いますね。一人、ひとつひとつの症状というか状態に対する適切なというか。

梶山 筋ジス協会も、やっぱり治験とかそういう遺伝子レベルのところ、ちょっと、お金を出しがちなんで。

立岩 まあ、そうですよね。日本もそうだけど外国もほんとにそういう感じで。まあそれでうまいこといきゃあいいんでしょうけど、いかない時間が少なくとも50年、60年は経っていて。そもそも筋ジスの人は国療に移されるの60年代半ばですけど、その時に、もうそういう話だったわけですよね。集めて研究したら、わかっていくっていう話だったんだけど、それが65年だから。

梶山 未だにわかんないですもんね。

立岩 あれから55年経ってるわけですよ。何にもなっちゃいないわけだから。むしろその間の資源というか知恵というか、っていうのを、もう別の用に使ったほうが、もっとみんな生きられたのかなと思うことがありますね。それはおっしゃるとおりだと思います。

梶山 本当ですよ。もっとデータ集めて、かき集めたほうがいいのかなと思って。データが何もないんで。今回のデータ集めって、大藪さんたちがやってる、ああいうの画期的かなと思うんですけど。55年やってこなかったっていうか。

立岩 ナースコールどれだけ待たされますかとかね、それはそれで非常に大切なので、やっていく必要があると思いますね。

梶山 一般の病院はナースコールないんで。呼びようがないじゃない、って感じですかね。来ないから(笑)。

立岩 あの、多分時々は東京来たり、多分秋にはDPIっていうところが、

梶山 ああ、DPI。

立岩 やっぱりこの企画を、この間はJILでやったんですけど、やったりしますんで、その時にまた話したり、話聞いたりっていうようなことがあると思います。そういうとこなのか、また別なとこなのか。

梶山 鈴鹿病院とか友だちがいるんで、お見舞いに行こうかなと思って。

立岩 この間、やっぱり、非常に病院の間の差が大きいっていうのは、まあみんな言ってきたことですけど、ほんとにそうだなと思って。その辺のことはアンケートでも、まあ僕がこうやってちょこちょこ聞いてる話には出てくるし。それからまあ、同じ病棟の中でも、重い人とそうでもない人の生活ってずいぶん違うなっていうのも思いますね。

梶山 結構在宅で生活続けるのも、耐えられなくて国療に入る人は結構いますね。知り合いにもいますけども。高齢化してきてもう病院入る、みたいな。

立岩 そうですよね。[01:50:01]

梶山 結局くれぱすで見れなくなってきたわけだから。うん、結構大きいとこでしたけど。なんで見れなくなっちゃったのかってところ、考えたほうがいいのかなっていう感じです。まあ、重訪ベースでやってるところは難しいのかもって思うんですけど。

立岩 うーん。まあまあ難しいですよね。聞きますけれど。

梶山 長期入院になってる時にヘルパーをどうするかみたいな、感じの話になっちゃうんです。

立岩 まあ、それもあるでしょうね。じゃあ、ここに書いてある話は、その最後の行は若干計画変更中という感じで。

梶山 はい、そうですね。

立岩 しばらくは武蔵野、か。

梶山 6月、7月はかなり具合悪くなっちゃって。

立岩 今年の?

梶山 そうです。今年は悪かったですね。風邪が長引いて、痰が取れなくて大変でしたけど。そういう時期にCIL作るのはちょっと大変だなと思います。相談支援やってる時、具合悪くなっちゃったらそこで自立支援がストップしちゃうから。

立岩 葛飾行って、やろうかなと思ったけど、やっぱ、からだの調子が悪くなると、それ、やっぱ難しい、正直難しいっていう意味で、今はそこはちょっとペンディングというかストップというか、そんな感じだってことですね。

梶山 はい、そうですね。まあ僕ら、元気な障害者がいればいいんですけど。

立岩 やっぱ一人じゃ難しいですよね。

梶山 はい、そうですね。

立岩 結構この業界、ピンでっていうか、一人でっていう人もいますけど、おっしゃるように、ほんとにその一人の人の体が調子悪くなったら、その間ストップ的なことになるよね。正直ね。

梶山 内田さんとか山口くんは一人でやってるけど、どこまでやれるんだろうかって、まあみんな思ってるんで。

立岩 僕が知ってるので、わりと呑気にまあ明るくやれてるのって、結構二人でっていうのが多いんですよね。二人がデコボコでなんとなく補い合いながらやってるっていうパターンはいいって僕は思っていて。この間、去年は宮崎に、YAH!DO(ヤッド)っていう所にお邪魔してたんですけど。

梶山 はい、山之内さんとこ。

立岩 そう、山之内さんと永山さんという二人が、絶妙の感じでやっていて。

梶山 てくてくもそんな感じですけど川アくんと吐合さんか。その二人が。

立岩 そうですか。

梶山 強いですね。

立岩 もうあと1週間…10日ぐらいで、僕ら福島の障害者運動なんかについての本を出すんですけど、それも橋本さんという人と白石さんていう男二人が、まあ長年連れ合って、もう40年やってきて、それをなんか、うん。それからあとは、筋ジスに関係なくはない、立川。もう一人の高橋さんていう方は、99年だからもう20年前に亡くなりましたけど、その90年代っていうのは高橋さんと筋ジスの野口さんていうのが、うまい具合の形でやれて、その時は勢いもあったし、…もいますね。だからまあ、そうは問屋が卸さないでしょうけども、東京にいる間に、なんかこう一緒にというか、ねえ。

梶山 もう、東京に障害者多すぎて。重訪の時間、出ないんで。待ちの人が全然出ないって言ってる。18時間とかあるから。

立岩 何、それ、今の話の続きって、だったら東京から移っちゃおうかっていうのがありだっていう話なんですか? そういうことではないんですか?

梶山 自薦ヘルパーどうするかって、今雇ってる人をどうするかって。例えば京都行っちゃったらね、ここで雇ってもね、どうしましょうっていう話になっちゃう。[01:55:11]

立岩 そうですよね。自薦の難しいとこは、そういうのありますよね。利用者がいなくなったり移ってしまったら、それで食ってた人たちはどうなるんだい? っていうのは正直ありますよね。

梶山 はい、そうですよね。

立岩 そこは、うん、うまい具合に考えないと。

梶山 モモで使って、みたいな(笑)

立岩 なんか、そういう同一組織じゃなくても、これがこうなったら、この人は地域に行けるっていうような手立てを作っとかないと、

梶山 そのほうがいいですけど。

立岩 やっぱり不安ですよ、不安定ですよね。

梶山 気持ちとしては、京都でシェアをやるなら行ってもいいかなっていう。

立岩 ん? 何?

梶山 京都でそういう住宅があるなら、行ってもいいのかなっていうのをちょっと。そういうの、めっちゃやりたかったんで。今まで生活してきて、独居はきついなって。今まで1対1になって、特に田舎はそうだと思うんですけど、そこだけの世界になっちゃって。もう窮屈で窮屈で。結婚生活よりもひどいなって。何人相手にしたかって。4人の個性がありますから、やっぱり180時間とか、月、関わるわけだから、お互いに息詰まっちゃいます。

立岩 それはわりと私も思っていて、そういう個室みたいなものと、なんかそっからこう…。でも個室も完全な一人じゃないじゃないですか。必ず介助者がいるっていう、その、こう閉じた感じをちょっとこう開けるというか、そういう空間も両方ないとなかなか確かにしんどい部分あると思うんですよね。

梶山 あと、仕事となんか職員が優先みたいな対立構造じゃないですけど、それも必ず出てくるんですよ。対等じゃないんですよ、やっぱり。そういう関係性が【あったから】(01:57:37)。例えばそういうシェアルームでヘルパーも住んでるみたいな感じ。新田勲さんみたいな関係性になっちゃったほうが、楽な場合もあるんですよね。【もう合わないと辞めていく】と思うんですよ。新田さんはもう、完全に自分の生活の中にヘルパーを取り込んでいる人だったから、そういうのすごいなと思いますけど。

立岩 うん。そういうのが好きで、そういうのがやれて、で、両方がいいなと思ってるかぎりは、全然それはそれでいいと思う、私は思うんですよ。だから、別にその、いわゆる何だろうな、自立生活センターのドクトリンっていうか教義っていうのは、ある意味狭いというか。もっとレンジが広くて全然一向に構わないし、今のシステム、有償介助でっていう形を維持しながら色んなバリエーションはあると思ってますね。

梶山 「ほんとに24時間ずっと要るのか」と言われると、そんなにヘルパー必要ないです。

立岩 うんうん。そういう人もいると思いますね。

梶山 出かける時は部分的に二人がいるとかって、ですけど、24時間介護って結構疲れるもんだなって。精神的にもですけど。普通、他人を家に入れるってことは、普通はありえないことですから。それは一度***(01:59:30)、カンヅメちょっと怖いなと思った。

立岩 それは私も今、今というかしばらく、そういう【可能性】(01:59:48)というかなぁ、ありますね。

梶山 ヘルパーになると、関係性変わっちゃうみたいなこと、落合さんも言ってましたけど、確かに変わりますね。[02:00:06]

立岩 変わるっていうのは?

梶山 友だちに、ヘルパーにはできないなっていうの、わかりますね。介助ってほんと即物的な面があって、人間性が通ってないほうがいい時もあるんですよ。でもそれだとなんか、完全に気持ちが伝わってないってところがありますね。

立岩 そこんところは、梶山さんはどういう、こう。ちょっと難しいじゃないですか。一方で、おっしゃてたのは、いちいち(1対1)で指示され指示っていうのでずっとやってるのもしんどいと。で、なんかこう、共住ていうか…みたいな、役割がこう、ね、少し流動的な感じとかそっちのほうがいいよっていう、それは一つもっともだと思うんですけど、もう一方で、今、その、「即物的な部分もあるよね」って「友だちとは違うよね」っていう話で、なんかこううまい具合に辻褄が合うようにできるもんなんですか?

梶山 いやぁ、そこはね。まあ即物的な介助はできるならロボットがいいかなと思って。そうなってくると、なんかロボットみたいにこう、単純作業をヘルパーがずーっとやらされてるっていうと、人間性が無くなってくるって。そこに感情がなくなってくるっていうのが。

立岩 うん。それはわかるところですが、だとして、だとして、じゃあ次、それでその次はどうなんですか。どうしたらいいっていう話になるんですかね?

梶山 まあそこには、ほんとにヘルパーとか、そういう関係性作る前に、もっと普通に人間として付き合ってから介助員になってもいいのかなと思う。

立岩 人間として付き合っ…、うーん。

梶山 いきなり仕事じゃ、面接して、「はい、今から仕事して」って、からスタートするんですよね。よくわからない人っていうか。だからある程度見極める期間が欲しいというか、一緒に生活してみないとわかんない部分ってあるじゃないですか。お見合い結婚してるようなもんですよね。「はい、今日からお願いします」みたいな感じ。そこでいきなりあの、下の世話とかになってくると「何それ?」みたいな(笑)

立岩 じゃあ何、それはその、友人関係みたいなものを、

梶山 先に作ったら、この人大丈夫だよ、相性合うからあなたお願いします。

立岩 先に作ったら、その機械的なというか、そのルーティンみたいなものを、その人間関係のなかでやれちゃうんじゃないかっていう話なんですかね? 今の話は。

梶山 はい、そうですね。生活の流れでやるっていうか。だって一緒に暮らしたこともないのに、いきなり部屋に入ってこられて。恋人関係ってそんなことないじゃないですか。

立岩 それはわかるんだけど、わかるけどさ。だけど、じゃあどうすんだろうね、それ、そこ、具体的にさ。

梶山 (笑)。シェアルームだったらできると思うんですよ。色んな人のこと見るなかで。一人入れて、何々さんはこの人に合うんだって。「何々さんはこの人に性格的に合うね」ってことで、専属にしてあげるみたいな。最初はグループホームみたいに数人見る形で、徐々に専属にしてくって。

立岩 ああ。

梶山 関係性が深まった時点で、専属にするみたいな。普通、なんか、マッチング。ヘルパーもあるじゃないですか。

立岩 わからんではないが。

梶山 「この利用者、嫌だな」みたいな。

立岩 うーん、そうやっていけるかな…。[02:05:04]

梶山 こんな利用者でも、嫌な利用者だけど、仕事だから嫌々みたいにやって、ちょっとかわいそうな気がするんですよ。

立岩 そうなんですけどね。

梶山 (笑)

立岩 うーん。もうちょっと考えてみましょう、梶山さん。

梶山 これ、答え出ないですよ。鹿野さんみたいな感じのキャラクターだとあるかもですけど。

立岩 うーん。たまたまというかね。でもたまたまの確率が高くなるような仕掛けっていうのを作ることは可能だと思うんですけど。確実にそういうものができるかつったら、できないって言ってもいいと思うんですよ。だけど、できやすいような仕組みっていうのは、ありうると思うんですよね。それは物理的な空間、空間の仕切り方であったりっていうことも含めて、工夫のしようっていうのはあるかなと思いますね。

梶山 自薦やってて、やっぱりそういう考え的な、すごい対立があったんで。1回そういう、ヘルパーとのね。やまゆり園みたいな、ああいう考え方が来ちゃうと、対処は難しいですよ。存在価値云々ってところ。

立岩 存在価値?

梶山 …云々を言う人がいて。その人が差別的な思想の持ち主とは知らなかったんで。そこが面接で見抜けないというか。

立岩 まあ、そりゃそうですよね。

梶山 (笑)ほんと優生思想じゃないですけど、そういう考え方っていうか、紛れ込んでくるんで。それが一人で、1対1でやってる時、どうにかなっちゃわないかっていう不安は常にありますね。でも、やまゆり園以降ちょっと、ヘルパーとの関係、怖いなというところは感じてますね。

立岩 うーん。それはそうですけど、それ…、うん…。結局、今までの答えってわりと単純な答えですよ。「そうやって試しでやってみて、だめだったら切るしかないよね。で、代わりを探すしかないよね」って、僕はそれは正解ではあると思うんですけど、「それだけかよ」っていう話もありますよね。じゃあ、それだけじゃなくてじゃあ何があるのかっていうことを考えた時に、さっきおっしゃったような、最初は人間から入る、人間関係から入る、

梶山 こじれる時もあるんですけど。

立岩 なんか何人かが集まって住むみたいなとこから入る。それはいけるかな。うーん。でも、そういう形が今よりは楽に作れるっていう方角に持っていくことはできるかもしれないね。

梶山 はい、そうですね。切っちゃうと、それはそれでもったいないですよね。こんな介護不足って言ってるヘルパー不足の時代に、合わなければ切ればいいみたいな感じだと、絶対破綻するんですよ。だから合わなくてもうまくやる、みたいな。

立岩 合わなくてもうまくやるんだったら、合うんだってことですけど(笑)。いや、言いたいことはでもわかるんですよ。で、それは何か手があるとお思いなんですか、梶山さんは。「そういう人とどうやってやっていくの?」っていうのは何かあるの? 考えてることっていうのはおありなんですか?

梶山 多分最初から、シェアハウスとかに若者たちを連れてきて、見てもらう。制度以外の介助。だから鹿野さんの時代、鹿野さんの時代でしょうか、うらやましさを感じるんですよ。[02:10:17]

立岩 うん、なるほど。古込さんは逆のこと言ってたね。「いやー、あれ、俺も読んだけど、あんなんじゃやってらんないと思って、それでしばらくちょっと考えるのやめたんだ」って言ってたね。まあ両方いてもおかしくないと思うんです。「そういうのはもう面倒くさいから、もう淡々と着々と」っていうふうに思うのも、全然正しいというか、正しいか正しくないかは別としてあると思うし、そうでもないっていう人もいる。

梶山 もう淡々で、僕も古込さんの考えで長らくいたんですけど、どうにも違うなと思ったんで。10年ぐらいやってみて、どうやらそれだと自分、息苦しさがなくならないってこと、最近気づいてきたっていうか。もう5人もほんとに仕事一徹の人が入ってくると。

立岩 どうなんですか、でも。確かにね、常時一人がいて、それが×5、みたいなので24時間が過ぎるって、まあ確かに。でも、今はどうなの、梶山さん自身は、日中というか外に出るっていうのは結構ある?

梶山 相当出てますね、外に。今日はたまたま一人なんで出かけられないですけど。

立岩 で、そういう過ごし方によって、これも前から言われてることではあるけれどさ、人間関係的な部分ていうのを、そういうところで別の場所で充足して、

梶山 作れる人は作れるけど、作れない人もいる。

立岩 でも、それが、作れる作れないで言った時に、じゃあここで、だったら作れるんですかねぇ

梶山 (笑)まあ今の環境だったら、多分変えようがないと思うんですよね。そういう住環境を変える以外に、今のところ方法がないかなと思ってる。

立岩 なるほど。

梶山 だから住んでる場所。色んなCILの人みんなに言うんですけど、精神疾患のある人とか、重複してる障害者とか、普通の障害者の人と、1対1でいるのがもう耐えられないっていう人も結構いたんですよね、ヘルパーで。大概のヘルパー、精神的に問題が出てくるっていう。

立岩 ちょっと似たこと、私もわりと長い期間ちょっと考えてるところがあって、っていうのは一方ではある。で、他方、今度の本※に書きますけど、結局その、日本の80年代にグループホーム色々できた時に、結局それって規模を大きくしてって人を減らしていってみたいな流れのなかで、飲み込まれていった部分ていうのもあって。それをどうやって回避しながら、でも「一人部屋に一人っていうパターンだけじゃないよね」っていうのを、どういう形で、やりやすくしていくかっていうのは、これから課題としてあるんだろうなって思いますよ。
※青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

梶山 家で一人暮らしたって誰も言わないんですよね。何を求めてるんだろうって。

立岩 うん。ありがとうございました。また、そのうちに。

梶山 そうですね。僕も整理して、答え…、どうすれば快適なのか。

立岩 多分100パーの正解は多分ないんです、それはもう論理的にないような気がしてね。ただ、もう今日はほんとに繰り返しになってしまってますけど、もう少しうまくいく確率を高められるような仕組みっていうのかな、それは工夫のしようがあるような気がします。ということで、2時間以上時間取っていただきましたけど、ありがとうございます。

梶山 僕もあまり…、僕も喋るのが下手なので。

立岩 いやいやいや。

梶山 あまり言わないでください(笑)。〔岡本〕直樹さんとかうまいですか喋るのが。

立岩 ええ。それは色々…。はい。じゃあいったん切らせてもらいます。

[01:15:50]音声終了


UP:20190920 REV:
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす病者障害者運動史研究 
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