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「介助保障と障害者運動」

横山 晃久 2019/08/11

病者障害者運動史研究

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last update: 20200308


■介助保障と障害者運動

私は介助保障運動を約45年やってきました。私が18の時に東京都介護人派遣制度ができ、1ヶ月の内13日は東京都が保障しますという、当時としては画期的な行政保障でした。月12回までで1回7時間、時給に関しては当時の公務員の非常勤の単価でした。当時から私は24時間、他人介助を入れて生活をしていました。24時間で制度の時間数を割る単価は時給わずか46円でした。そこで、私はボランティアではなく「介助労働」という位置づけで、行政に保障を目指して行かなければ重度障害者の地域生活での保障がなくなり、ますます施設に行かざるを得なくなるということを感じていました。障害者運動はどれもこれも必要だと思います。例えば、交通権の問題や教育権の問題や労働権の問題や差別の問題などがあります。しかし重度障害者には、介助の補償問題が1番大事なのです。エレベーター化が進み一見バリアフリー化が進んでいるように見えますが、重度障害者からしてみれば、家から一歩も出ることができないのです。親以外の介助者がいなければ外にも出れないし、電車にも乗ることができません。そして、その親が亡くなれば遠くの施設や地域から隔離されたところに行かざるを得なくなるのです。しかし「介助労働」という言葉は、施設の中でしかないのです。同じような仕事をやってても、施設の中では身分保障もあり、ボーナスもあり休暇も取れます。一方で地域では、相変わらずボランティアということが先行し、「介助労働」という言葉とは程遠いのが現状です。介助保障には2つの取り組みがあったと思います。金銭的保障と人的保障の2つが必要だと思っています。日本では要求者組合を中心とした行政交渉の中で、人的保障はあまり論議がされていなかったと思います。当時の自立した障害者はそれなりに頭がきれ、大声も出せる、すなわち行政から見れば怖い障害者で、行政も要求を聞きました。自己主張ができる障害者はビラを作り、大学を回り、駅前で介助者を獲得できたのです。だからこそ今から思うと、人的保障が先だったのかもしれません。でも今から思うと、人的保障をやっていれば少しは今の障害者運動が変わっていたかもしれないと、気がつき始めました。「家庭奉仕員派遣制度」は画期的な制度だったのです。1954年にこの制度は国の制度として、公務員を週2回派遣しますという制度でした。

当時の流れは日本は戦争に行って、いわゆる傷痍軍人さんが増えてきました。傷痍軍人さんの暮らしを軽減するためにこの制度はできました。しかし障害者は対象となっていませんでした。私たちはこの制度を使って障害者の地域生活での保障を求めていくことを闘いのキーポイントに置きました。年に4回の厚労省交渉や都交渉を約20年に渡り活動を続け、今のヘルパー制度になってきています。私は今の介助保障の問題を両方の側面が必要だったということを結論づけています。そして、民間委託にさせたことが大きな誤りだというふうに思っています。ヘルパー事業所ができる前は本当に自己主張が強い障害者が介助者を獲得できて、自己主張が弱い障害者は介助者が獲得できませんでした。そうした中で、民間でのヘルパー事業所があちこちにできました。そして一番の問題はヘルパー資格制度だと思います。元々介助者は資格は必要ないと考えています。20年前に不安だったことは、資格制度になったおかげで資格を取らなければ介助者になれないと思い、その資格を取るためにはお金がかかります。ヘルパーという言葉は行政うけしている言葉だと思っています。私は今でも介助者だと思っています。日本には紛らわしい言葉があるのです。「介護者」、「看護者」、「介助者」、でも私たちは「介護者」とか「看護者」とか、いらないと思っています。「介護」とか「看護」とかは護という言葉に非常にこだわります。養護するとか保護するとかいう守っていくのに使うのが護だと考えています。私たちは別に、守られて生きていくのは嫌です。1個の人格を持って、同じ目線で生きていく、そういう人たちを「介助者」と呼んでいます。「介護者」とか「看護師」とか、上から目線が強く同じ目線で戦うヘルパーとは思えません。私は生まれつきの脳性マヒです。小さい時から他人に迷惑をかけるんじゃないとか、大人しく生きていきなさいとか、常に感謝の気持ちを持って生きなさいとか、怒っちゃダメとか、言われて育ってきました。その言葉を耳にタコができるほど感じてきました。でも私は、迷惑をかけるんじゃない、この言葉に35年も縛られてきました。でも迷惑という言葉はなんと抽象的な言葉だということに気が付きました。例えば10人いれば10人とも迷惑度が違います。私は特にこの抽象的な言葉に騙され、操られていたと感じでいっぱいです。それと、ボランティアに任せなさいとか、ボランティアでいいんだという言葉がよく私たちにぶつけられます。ボランティアでいくと、介護保障には辿り着けません。だから私は「迷惑」「ボランティア」この2つの言葉にこだわっています。健常者も1人では生きていけません。なんで私たちだけに「迷惑」という言葉を押し付けるのでしょうか。みんな、お金を出して眼鏡や洋服など買います。お金を媒介にすれば「迷惑」という言葉は無くなるのでしょうか。「ボランティア」ではなく、「介助労働」という労働の中にきちんと介助を位置付けて、公務員にするべきだと思っています。障害者をきちんと消費者として位置付け、障害者に年金や手当を増額していけば障害者から介助者を集めて、それが内需拡大に繋がると思っています。障害者自ら好んで施設に入る人はいません。地域で重度障害者がきちんと生きられることを目標にしていくことが障害者運動のやることだと思っています。優生思想の問題や出生前診断の問題や障害者が生まれてこないような傾向が増えてきています。私の個人的な思いとして、重度障害者は「鎮め石」的な存在だと思っています。今、健康に働いている健常者もいつ事故にあって障害者になるかもしれません。障害者と出会い、どんな重度の障害者でも地域で生きていける存在を見せつけ、障害者の介助を通していつ自分たちが障害者になっても立派に生きていけるような社会を目指していくことが必要だと思っていますので、障害者との関りが一番重要だと思っています。それが共に生きるという形になると考えています。

90年以降、障害者団体は運動の面での総括を出していないです。私的に総括と言えば、やはり介助保障は行政責任で保障すべきだと思っています。自分で選べる制度を作るべきだと思っています。個人介助者を登録でき、セルフマネージメントができる障害者には個人介助者制度を復活させるべきだと思っています。セルフマネージメントができない人には、事業所が派遣して、事業所がヘルパーさんを育てるという、2つの選択肢を作るべきだと思っています。これが今まで私が介助運動を先駆的にやってきた1つの運動の視点から見た総括です。



*作成:小井戸 恵子小川 浩史
UP: 20200307 REV: 20200308
横山 晃久  ◇脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)  ◇自立生活センターHANDS世田谷  ◇小井戸 恵子  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇全文掲載
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