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川崎良太氏インタビュー

2019/06/25 聞き手:立岩真也
於:仙台市中小企業活性化センター(第28回全国自立生活センター協議会協議員総会・全国セミナー2日めの会場)
文字起こし:ココペリ121

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川崎良太氏インタビュー 2019/06/25 聞き手:立岩真也
於:仙台市中小企業活性化センター(第28回全国自立生活センター協議会協議員総会・全国セミナー2日めの会場)
文字起こし:ココペリ121
+吐合氏

川崎 良太:1987、鹿児島県曽於市
※自立生活センターてくてく:https://tekukago.jimdo.com/
スタッフ紹介:https://tekukago.jimdo.com/%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95-1/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95%E7%B4%B9%E4%BB%8B/

こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
cf.http://www.arsvi.com/ts/20190624.htm

20190625川崎良太氏_40分

※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。
☆は立岩がとりあえず付したものであるだけです。

川崎良太:1987年生。

立岩 川崎さん、多分若いですよね。

川崎 31です。

立岩 31、31って何年生まれ?

川崎 87年ですね。1900、はい。

立岩 それで、個人的なこと聞くとそれもたくさんあるんでしょうけど、南九州病院にいたってことでいいんですか?

川崎 入院してました、3年間。

立岩 それはいつからいつまで?

川崎 高校の時の3年間、高1から高3までいました。

立岩 筋ジスでいいんですか?

川崎 SMA。

立岩 SMA。それで、それまでは【どちらっていうか】(00:00:45)

川崎 それまでは、地元のほうにいて、中学まではその親の付き添いで中学校、普通中学校に、

立岩 地元っていうか、ちなみにお生まれは?

川崎 大隅の方面ですね。

立岩 鹿児島県、何市?

川崎 曽於市です。曽於市の***(00:01:13)

立岩 それで高校3年間の時に南九州病院にっていうのは、どういうこう経緯っていうか、事情っていうか。

川崎 一つは通える高校が近くになかったということと、ずっと親の付き添いがあったので、もう親元を離れたいなという気持ちがあって、その加治木養護学校っていうところに通うために、南九州病院に、

立岩 ☆南九州病院に、国立療養みんなそうですけれども、療養所に隣接する養護学校がある。そのパターンですね。

川崎 はい、そのとおりです。

立岩 そうか、川崎さんの場合、むしろその高等部にというか、入るにあたって、

川崎 ためにっていう感じですね。

立岩 その居住場所っていうか、みたいなもん。

川崎 実家からその1時間ちょっとぐらいかかるので、やっぱり入院しないといけないなぁという。

立岩 じゃあどっちかというと、寮っていうか、そういうものとして、

川崎 そうですね。はい。

立岩 そういう方は他にもいらしたんですか?

川崎 僕の年代ではわりといましたね。だけどまぁそのまま入院する人も多かったので。

立岩 川崎さんにとっての3年間ってのは、どのような?

川崎 学校は楽しかったんですけど。で、その病棟も同じ障害を持った人とかに、あまり出会うこともなかったので、

立岩 それまでね。

川崎 ですね。なので、そういう意味では仲間が増えたっていうことは、ひとつ大きなやっぱり自立生活センターともそこで出会ったので。良かったんですけど。

立岩 そこは、ちなみに何人部屋みたいな?

川崎 最初は6人部屋でした。

立岩 3年間いて、最初6人部屋で、ほんでどうした?

川崎 次は病棟が新しく作り変えられて、で、4人部屋になりました。

立岩 それは筋ジス系っていうか、筋ジス***(00:03:14)とかが多い病室?

川崎 ですね、そん時はほとんど筋ジスと神経難病の人。でも筋ジスが多かったですね、当時は。はい。

[00:03:24]
立岩 今あの、僕らというか、僕はほんとにほとんど何もやってないんだけど、旧国療の様子をいろいろ調べたりしているので、中にはけっこう、けっこうというか、かなりというか、すごいなってとこもあるんですけど、南九州はどうでした?

川崎 えっと、入院してる中で、うーん。そうですね、やっぱお風呂とか、入浴の時とか、見た時はけっこう、衝撃を受けたというか、みんなこう並べて洗われて、あのでっかい浴槽、浴槽というか、お風呂場に。お風呂日が週に2回だったんですけど、火曜日と金曜日だったかな。入れて、看護師さんたちが一気にこう、洗っていくみたいな、様を見た時は最初嫌でした。

立岩 1人ずつじゃなくていっぺんに。何人ぐらいいっぺんに洗われるっていうか。

川崎 多分6人?7人ぐらい一気に洗う感じでしたね。

立岩 それは、そうか、けっこう、少なくとも最初はびっくり。

川崎 そうですね。

立岩 日常生活、例えば昨日の話でも、例えばナースコール押してもとか、なかなかとか。車いすの移乗できないとか。それが嫌という話があるとこはあるんです。そんなんはどうでした?

川崎 ☆ですね、ナースコールを押して、来ないっていうのは、まぁ結局は来るんですけど、なかなか来ないっていうのは日常茶飯事でよくあるって言ってました。部屋の誰かが、夜中の体位交換とか、する時に、誰かが押したら、部屋の中の誰かが押したら、ついでで頼むみたいな。あの作戦は多分病棟に入院してる人はほとんどしてると思うんですけど。

立岩 そういうふうにしないと、来たついでに、ちょっと寄ってもらうようにしないと、

川崎 ですね。何回も押すと、

立岩 普通に呼んでも、

川崎 怒られるので。はい。

立岩 そうなんでしょうね。☆そのさっきおっしゃった、その自立生活センターとの出会いというか、***(00:05:34)だったいうのはどういうことなんですか?

川崎 高校3年生の時に、(00:05:42)センターができて、鹿児島にセンターができて、5年ぐらいだったんですかね、まだ。

※自立生活センターてくてく:https://tekukago.jimdo.com/

立岩 その頃が?

川崎 はい、けっこうまだ新しいので。で、南九州病院出身の者たちが、自力で自立をして、その後センター、東京にこういうのがあるっていうのを聞いて、センターを立ち上げたっていう経緯があるので。

立岩 そもそも最初に作った時にっていう話ですか? その5年前っていうか。

川崎 そうです。南九州病院出身の先輩たちが、先に自立っていうか、していて、センターと出会った、センターのこと知ってセンターを立ち上げて、で、入院してた僕に、まぁちょっと繋がりがあったんで、こういうのがあるよって教えてもらって、で、宿泊体験とかをしたっていう感じですね。

[00:06:31]
立岩 それは高校の時に、病院にいながら、なんか昨日ちらっと聞いた話だと病院のかなり近くに、一時的に宿泊できたりするような場所を借りたことがあるようなこと誰か言ってたんですけど、そんな感じなんですか。

川崎 あぁ、多分そのセンターを立ち上げた、吐合姉妹がいるんですけど、が多分近くにその病院併設っていうか、薬局があってそこで仕事をしながら、退院して仕事をして、そのすぐ近くの家を借りて、そこで生活しててっていうのがあったので、でもセンターは全く離れた鹿児島市内に。

立岩 センター自体は。

川崎 はい。

立岩 南九州病院って、あの土地勘とか全くないんですけど、どういうロケーションというか。

川崎 ☆加治木町ってとこにあるんですけど、まぁ海が近くて、鹿児島市内まで車で40分。けっこう栄えてるというか、わりと開かれたところに病院も真ん中にドーンとあって、はい。その病棟が新しく作り変わるまでは、多分ほんとに戦後にできた病棟のままだったので、もうめっちゃ古くて、廊下をカニが歩いて、サワガニが歩いてるとかそういったことも。マムシとかもよくいて。

立岩 鉄筋ではあった?

川崎 え?

立岩 いや、昔のやつってほんとに木造だったりするんですけど、それはどう?

川崎 鉄筋ではあったと思います。

立岩 鉄筋ではあった。でもほんとに古いやつで、

川崎 ですね。

立岩 ちょうどそれが建て替わる時に、そこへ移動して。

川崎 僕はその古いところに1年ぐらいいましたね。

立岩 それが6人で、建て替えがあった時に4人になってって感じなんですか?

川崎 はい。

立岩 で、それで、3年間いらして、その後どうしてたんですか?

川崎 ☆その後は、やっぱり養護学校って就職させることがひとつの成果だったりするので、僕は高齢者施設に、ディサービスだったんですけど。そこで働くことが決まって、で、退院したっていう、なりますね。

立岩 どういう職種というか。

川崎 ディサービスなので、高齢者の人が日中過ごす場で、朝、みんな、健常者はその車で迎えに行って、僕はその部屋で事務をして、みんなが来るの待って、で、来られたらその午前中は話し相手っていうか見守りをして、昼からはレクレーションの担当をして、夕方は事務をしてっていう感じで。

立岩 それが何歳、卒業をして、就職したとして…。普通に勘定すればいいんだよね。18というか、

川崎 そうです、そうです。はいはいはい。

立岩 そうですよね。それでそうか。だってそれをほんと今日の何て言うかな、事前の勉強もしてこなくって来ちゃったんですけど。その、てくてくに関わり、そこにまず就職して、その後、今の活動に至るっていうのはどうなったんですか、どうなってるんですか。

川崎 就職して、やっぱりヘルパーの時間がすっごい少なくなったんですよ。その社会福祉法人みたいなところの高齢者施設の1室を借りて、部屋、あの暮らしていて。朝ヘルパーさんが8時30分に来て。

立岩 施設の中に住んでたんですか?

川崎 はい、なんかケアハウスみたいな部屋があって、自立してる高齢者が住むところがあるんですけど、そこに部屋を借りて。

立岩 あぁ、職員なんだけれども、

川崎 そうです、そうです。

立岩 居住者が、本来住むようなスペースっていうか、居室に住まわれていた。

川崎 住んで、そこでヘルパーを受けて。で、朝30分、夕方お風呂の1時間、夜寝る前の、10時ぐらいですかね、30分。で、真夜中の2時とか、2時半とかに、体位交換を1回来てもらうっていう契約というか、それにしてて。だけど、主婦ヘルパーさんだったので、当時は。夜中来たら、次の日仕事やらないって言われて、はい。あのそれで夜中はダメになって。

立岩 最初はそうやるって言ったんだけど、そう言われて、なくなっちゃったってこと?

川崎 ですね。同じその事業所のヘルパーさんだったので、その法人の。

立岩 その法人が雇ってる。

川崎 そうです。

立岩 川崎さんもそこのスタッフだけれども、それを介助する人もそこのスタッフっていう。

川崎 はい。まぁその訪問介護事業、その。なんでみんな来てくれる人は先輩っていうか、そういう立ち位置なので。で、夜中キャンセルというか、ダメになるかわりに、ナースコールを押したら、今度は特別養護老人ホームの夜勤の人が、あの体位交換に来てあげるからって言われたんですね。

立岩 別の建物から来る。

川崎 同じ建物なんだけどすごい離れてる。

立岩 同じ建物、離れてるけど。うん、なるほど。

[00:12:02]
川崎 ですね。だけどやっぱり来てくれる人はその、先輩というか、同僚だし先輩だしみたいな、それもすごい気を遣って。で、なかなか頼めずに。まぁ若かったのでちょっと何とかなったんですけど、でも☆そういう生活が続いて2年経ったので、ちょっと体も限界かなってことで、辞めることになって。で、自立生活…、先輩、まぁ高校の時に体験してたので、これは頼るしかないなと思って、声をかけて相談乗ってもらったということですね。

立岩 それはそこで働かせてくれ的な話ですか?

川崎 てくてくでですか?

立岩 うん。

川崎 あぁ、では全くなくって。

立岩 じゃなくて。

川崎 ただ、「自立生活ってどうやってするんですか」みたいな。

立岩 みたいな相談を持ちかけたと、2年経って。

川崎 はい。☆高校時代の時宿泊体験したら、養護学校の人に怒られたんですよ、先生に。就職が決まってるのに、余計なことをするなみたいな。

立岩 なるほど。それで相談、またその2年を隔てて行って、そいで、

川崎 どっちにしろ、その準備期間が必要だってことで、実家に1年間帰って、そこで完全に親の介護だけ受けて、やっぱり親とも喧嘩するし、大変なこともいろいろあって、自立しないといけないとほんとにそこで思って。で、その鹿児島市内に通う、ILPで時たま通って、スカイプでしてっていう感じで、☆1年後に自立生活したっていう。

立岩 鹿児島の市内?

川崎 いえ、国分っていう、市内から1時間半ぐらい離れたところに住みました。それはいろんな、鹿児島市に障害者が増えすぎたから、いきなり、あの、そういった方面の関係で、はい、住んで。つい今年の2月まで、その国分というところに住んでました。

立岩 それはどのくらい、何年間っていうか。

川崎 8年、

立岩 じゃけっこう、けっこう長く。

川崎 9年ですかね、はい。

立岩 けっこう長く。国分にいた時は何したかったというか、生活は生活そこでしてるわけですね。

川崎 はい、センターに通って、

立岩 センターに通って、センターの仕事はその2年やるじゃないですか。で、ちょっとこれはあかんなっていうんで、センターに通いだして、センターのこう、まぁ言うたら、スタッフというか、それはいつからなんですか?

川崎 それは自立して2年後ぐらいだったと思うので、ですね。スタッフって正式にその枠組みがあったわけじゃなくて、何となく毎日やることがあるかなっていう。

立岩 そこに行って、

川崎 そうですね。

[00:15:12]
立岩 まぁ、あのお答えいただければですけど、生計というか、

川崎 生計は、当初は生活保護と年金、***(00:15:22)ですね。出張とかの旅費は出してくれるみたいな。

立岩 あぁなるほどね。今は、そこのてくてくの、

川崎 代表をしていて、

立岩 代表で、

川崎 そこで働いて、

立岩 そこの給料で食ってるっていう。で、てくてくの全般的なお話も伺いたいんですが、時間的にはちょっと厳しいので、僕は今それで国療の様子をっていう話を、し始めてるわけだけれども、その自分自身はその時にいたことがあるけれども、今、そのどういう状況だっていうふうに把握してるかとか、あるいはそのてくてくのほうで、どういう関わり方をしているとか、あるいはする可能性があるとか、その辺のことはいかがですか?
川崎 ALSの人とか、それ以外の神経難病の人とかも入ってたりするので、あんまりこう病院のコミュニティとしての機能が、自治会? あゆみ会とか、子ども会とか、病棟にはよくあるんですけど。


[00:18:23]
立岩 『風は生きよという』は断られたって言ったけど、それ以外っていうかな、例えばその川崎さんたちが、その病棟に入っていくっていうこと自体はオッケーなんですか?

そうですね。で、なんかそのやっぱり移動が大変だと。1か所に集めることが大変だからって。どんどん重度化してるので、

立岩 そんな話はよく聞きますね。
立岩 自治会は南九州はまだ機能してるんですか?

川崎 今、多分ほぼ機能してないと思います。中堅、30代、40代が入るみのり会とかあったりとか、あと、前はそのOS会、ちょっと正式に覚えてないですけど、患者と看護師とドクターと三者面談みたいなので、いろんな話をしあったりっていうか。僕がいた頃はしたんですけど、それで嫌なこととか伝えることはできたりとか、聞いてくれる場は川崎 それは全く。冬は厳しいですけど、インフルエンザが流行する時は。

立岩 あぁそういう理由でね、うん。

あることにはあったので。今でもほんと重度化が進んでて、ほぼベッドサイドなんで、降りてこう…、僕の感覚からすると、僕ぐらいの中途半端な障害が車いすに降ろされて病棟生活すると、自分で飲み物も飲めないし、なんもできないので、病棟をウロウロ散歩することしかできない。けっこうそれもそれで苦痛だったんですけど。寝て、寝っ転がってるほうが、いろいろしてもらえるんじゃないかなみたいな。ていうこととかもあったりもしましたけど。

br> 川崎 ですね、☆てくてくはその国療、南九州病院から出てきた人がほとんど7割、8割占めていて、そういった流れというか、つい12月にも、その初めて気管切開したSMAの人なんですけど、もう20年入院してた、20何年か入院してた人が退院して、今後輩にいるんですけど、そういう流れはできてて、病院とも繋がりも特別なんかあるわけじゃないですけど、良好かなと思ってて。でも『風は生きよという』の上映会は断られたりとか、たまにそういう変なことはあるんですよ。なんか完全にそういうのは、なんか見せる、

川崎 でもそれ以外はふらっと入って、話したりとか、ってこともできますし。

立岩 それはもう玄関から入って、誰に断らず?

川崎 断らず入れますね。

立岩 それは何? 顔パスみたいなもんなんですか? もう川崎だからみたいな。

川崎 いや、そんなことないですね。

立岩 誰でもいいんですか?

川崎 制限はないですね、そこまで。

立岩 じゃ入ってって、話聞いたりとか、そういうこと自体が妨げられるってことは、南九州に関してはないと。その例えば、そうやって出てきた人たちが、てくてく作ってるってわけだけれども、それに関して、病院の体制というか姿勢というか、そうしたものはどうなんですか?

川崎 もともとその病院長がすごく理解のある人だったんです。今院長変わってるんですけど。

立岩 福永さんですか?

川崎 あぁそうです。***(00:19:38)の先生なので、そのけっこう放任というか、好きにすればいいんじゃないかって言ってくれる先生で。『死亡退院』っていう、けっこう、有名なその、有名じゃないけど、本があるんですけど。『死亡退院』、誰が書いたのかな。国療の入院してる人の話なんですけど、とか。

※福永 秀敏→http://www.arsvi.com/w/fh02.htm

立岩 川崎さんのおられた時も、福永さんが院長だった?

川崎 院長です、はい。

立岩 僕、彼の本、彼はけっこう何冊も本書いてらっしゃる、3、4冊、もっとかな、書いてて、僕もそれ読みましたけど。なんか気さくなというか、そういう方ではあるんだろうなっていうのがあるんですけど、そういうこともあったんですか。わりとそういう一貫して、わりと開放的っていうことではあるんですか?

川崎 はい。僕このプロジェクトに関わりはじめて、ヘルパーの小泉さんとかが、こう涙ながらにこう話されてるところを見て、病棟のあの世界に僕入院してたので、慣れてるっていうか、確かにあそこまでひどいことはなかったですけど、なんかこう、感情が今になってちょっと揺れ動かされるというか。多分昨日のシンポジウムもこの中で、一般の人だともっと響くと思うんですけど、逆に僕らは、

立岩 俺はああいうとこ毎日暮らしてたぜみたいな(笑)。

川崎 (笑)多分会場の様子見てても、なんかあそこまで響いてないなっていうか、みんなそんなやっぱり、自立生活センターの人たちって、自立させるって言うとおこがましいですけど、その大変さも同時に分かってるから、なんか多分そことの温度差っていうか、なんかちょっと僕はあそこで感じてて。

[00:21:38]
立岩 もうちょっと言うと何、川崎さんはそれなりにその、そんなにきつくない、ひどくはないけれどそのワールドっていう***(00:21:45)に住んでたわけですよ。そういう川崎さんから見ると、どういう話でしたっけ? そうじゃないその在宅から自立っていう人たちの受け止め方が、どう違うとおっしゃったんだっけ?

川崎 というよりその筋ジス病棟に対する、あの悪のイメージというか、が、やっぱり入院してた者からすると、そこまでこう強く出ない。こないだあのつぶやきにも書いたんですけど、なんかこう、ほんとに多分たまたま、すごい古込さんとか、斎藤さんとか、個人の意思が強くってっていう、偶然の出会いというか、ほんとそうじゃない人たちはなんかこう、もうほんとにこう、何て言うか、そういう世界を1ミリも知らない人たちがいて、多分そこからこう、まずそういう意思を持ってもらわないといけないじゃないですか、自立するにしても、例えば病棟が介護できない理由にしても。そこに至るまでのっていうか、ほんとその子どもの頃から入院してて、説明難しいですけど、そこのもっとほんとにこう何て言うか、もっと病棟のことをっていうか、入院してる人たちのどういう感じなのかっていうのは自分でももっと知っていかないと、確かに自立した***(00:23:32)はたまたま出会って、僕も病棟から***(00:23:36)した時はなんかこう、なんかしら意思があって、ていう人が***(00:23:39)たんですけど、それ以外の人のどうコミュニケーションとったらいいのかってほんとに難しいし、そこでこう、やっぱ難しさを自立生活センターの人たちって感じてて、自立しに来る人ってほとんどやっぱり車いすに座れる人ばっか、軽度の人が圧倒的に多いと思うんですよね。そこのこのプロジェクトのその、みんな本気になって、こう取り組めるようにはどう持っていったらいいのかなって、昨日聞きながらちょっと。確かに歴史がそうさせてたっていう部分もあるし、あの、たいしてこうほんとに流れのまま、先生がおっしゃってた、なんとなくこういうのが続いてきてしまっているっていうのは、すごい分かったんですけど。どうそのほんと30年、40年入院してて、あの、アイデンティティがない、ないって言ったら失礼ですけどほんと、外部と触れてこなかった、ほんと患者なんですよね。障害者っていうよりは患者のほうが強くて。そこどう働きかけていけばいいのかなっていうのは多分みんな同時に感じてたことかなって僕は感じてて。
[00:25:15]
あの、僕も自立する前に亡くなった後輩がいるんですけど、その子もその、尿取りパッドとかしてて、まだ20歳そこそこ。もちろん【尿器でする用意】(00:25:28)はあるんですけど、「なんでそんなパッドしてんの?」って言ったら、「めんどくさいから」みたいな、これの方が楽っていう。そういう部分を変えていく、羞恥心の部分とか、に触れたことがあって、「あ、これはちょっと、どうしたらいいんだろう」みたいな。トイレはその、やっぱりトイレでするものっていうか、尿器でもいいですけど。とか、じゃなくて、なんかこれの方が楽だからとか、確かにいろんな人に頼み辛いとかっていう意見もあっての結果なんでしょうけど。

立岩 そうか、それは川崎さんがそこにおられた時にもう亡くなられた、

川崎 ***(00:26:10)で自立生活をしてから。

立岩 してからか。あの、例えば、今その、特に待遇が悪いとかっていうこととはちょっと別に、その体の状態がこれこれで、リスクがあると、だから、その外出であるとか、あるいは退院であるとか、っていうことに慎重であらざるを得ないっていう話ってまぁなかなか、それもある意味一理あることなのでっていう辺りで話がこう膠着状態っていうか、止まってしまうっていうか、すったもんだがある、押し問答みたいになることってほうぼうであるわけですけど。その川崎さんが見聞きしたというか、南九州とか、てくてくとか、周辺ていうか、では、そういうその医療っていうか、医者とのそういうこう外出とか、外泊とか、あるいはその退所とかってこと巡るその、ていうのあったんですか。

川崎 あります。ずいぶんドクターによって、主治医で変わることがかなりあるって。すんなり行く人もいれば、あの***(00:27:27)した人は、ずっと反対されてて。

立岩 主治医に?

川崎 はい。☆主治医が全く話が通じない人だったので。「その制度を使うことで税金使ったらダメだ」みたいな。医療と違う謎の切り口、持ってる人だったので、これはもう多分、根本的に話がずれてるなと思って。

立岩 そういう人に話通じさせるの大変だね。税金使うとダメだっていうのはね。それはそうですね、それは説得はちょっと無理な感じですね。

[00:28:02]
川崎 はい、ですよね。ずっと何年もやりとり続けながら埒があかなかったので、ドクターって強いので、そのドクターの機嫌を伺いながらみんな自立を応援しつつも、ドクターに歯向かえる職員っていないので、安定を***(00:28:17)方は。なので、そういうことで、で☆本人が院長に手紙を出して。本人が思いついたんですよ。

立岩 手紙を出すっていうことを?

川崎 院長に出してみようかなって。「これちょっと、いいじゃない」って、

井上 もう一人の吐合さん。〔吐合さん登場〕

立岩 こんにちは。

川崎 ということで、で(手紙)出したらトップダウンで、一気にそれから半年ぐらいですんだって感じだったんですよ。

立岩 あぁその院長が。じゃあ南九州ってそれなりにトップダウンがきくっていうか、そういう病院なんですかね。要するにもう主治医が絶対で、その人がダメって言ったら、ダメ、終わりみたいな、そういう話も聞きますよね。

川崎 どうですか? 福永先生の時もトップダウンが、きくといいんでしたっけ。

吐合 福永院長がいる時は***(00:29:24)。はい。それで通してました。

立岩 今は変わってるわけですよね?

病者障害者運動史研究   今、院長変わってます。

立岩 それは院長に直訴して、で、院長がいいだろうっていう話で、その12月に出たっていう人は、話が進んだというか。

川崎 そうですね、一気に流れ的には進んで。

立岩 全般にはやっぱり主治医、主治医の見解というか、がけっこう絶対的というか、そこをなかなか破るのは難しい?

川崎 破るのは難しいですね。まぁ、ですね。いろいろその親身になって、心配してくれる方だったらいいんですけど、いろいろこっちもその準備っていうか、こういうのありますっていう提案とか、話し合いとか持てるんですけど。話聞かない人だったら、話ができないので、本人が何て言っても取り合ってくれないというか、はい。

立岩 もうそれで、止まっちゃうか、そうか。

川崎 ヘルパーとの外出も、まぁ吸引もできるヘルパーだったんですけど、親がいないとダメだって。

立岩 ダメだった?

川崎 結局ずっと3人で、せっかくヘルパーがいるのに、親と本人とヘルパーとっていう。

立岩 最後まで、その…。南九州の場合ってそういう立場にいる筋ジストロフィーであるとかSMAを診る、担当する医師っていうのは何人もいるんですか?

吐合 本来だいたい3人。

立岩 3人ぐらい。だいたいその筋疾患系というか、その南九州ってどのぐらいの人数の人がいるような病院なんですか?

川崎 病棟が2つありまして、1つの病棟に、

吐合 1つの病棟が40床満床なので、まぁ満床だったら80人。

立岩 40かけ2っていうことですか。

吐合 それとあと、一般病棟にその神経難病の病棟が。筋ジス外の。

[00:31:29]
立岩 で、そういうもの、そういうものっていうか、担当できるような医師は3人で、3人ぐらいで、それで、例えばAさんが難攻不落というか、そのダメだって言ってもやっぱり、じゃあAさんダメだからBさんっていうことにも、なんない? よね。

川崎 あぁ、主治医の変更はそうですね。一応話にもあったんですけど、理由づけがその難しくて、はい。なかなか、こうにはこう考えつつも全く手は出せなかったですね。主治医を変更するっていうことに対しては。

立岩 その、そういうもの、だって今、もう、まぁ京都でもそうだったし、まぁ医王でもあったんですけど。川崎さんが思われるには、その辺のこう何て言うのかな、止まってしまうところをどうやったらこう抜けられるっていうか、ちっとはマシにできるかっていうか、そういうこと何かお考え。

川崎 そうですね、でもそんな特効薬はやっぱりないかな。

立岩 ないですよね。

川崎 その方でいうとでも、あの親御さんも最初はやっぱり反対だったんですけど、外出とか。でも重訪が使えるようになったっていうのはほんとに、病棟内でも移動で使えるようになったっていうのは、

立岩 病棟で使えるようになったのを、その医師は理解はしなかったけれども、使うようにはしたわけですね。実際に使ったわけですね。

川崎 はい。親とだったら外出していいよってことで、だんだんその親御さんも最初はやっぱり不安だったんですけど、ヘルパーさんと一緒に外出を重ねたりとか、することによって少しずつ理解してくれて。

立岩 親のほうの理解は進んだっていうか。

川崎 まずお母さんが味方にならないと。その主治医が直接お母さんに電話して「ダメよ」とかって言う、あれだったので。けっこうそこは主治医の人もまぁ手を回すのが早いというか、なんでそんな反対するんだろうっていう、ですね。院長に言われたらもうなんも言わなかったですけど。なので、その主治医どうこうっていうよりは、やっぱりその主治医以外はみんなほとんど味方だったので、最終的には。

立岩 あぁ、親も味方につけたしっていう形で。

川崎 はい、そこに至るまでは良かったかなと思うんですけど。でも主治医を、意見を変えるっていうのは無理だったので、そこに対するなんか特効薬みたいなのは、

立岩 特効薬はないでしょうね。そうか。

吐合 その主治医の反対理由っていうのは、その患者の病状に対して、病状がどうのこうのだから、ちょっと無理ですとかっていう、そういうのではなかったんで。だからそういう面で言えばそこを法的なことも使って、でも攻めていくってことはあったと思うんですけど。

[00:34:39]
立岩 彼もそうか、彼の場合医療的にこうこうだからっていう理由とは違う理由で、さっき川崎さんおっしゃったけど、何、その税金使うからダメだ的なことをほんとにその口に出すような人だったんですか?

川崎 自立するんだったらその自分の実家に帰りなさいと。親の介護を受けてっていう、

吐合 意味分かんない。

立岩 なかなか今どきすごい奴ですね。

川崎 今考えても頭痛がしてくる(笑)

立岩 普通の年齢の、年齢のっていうか、普通の?

吐合 成人してる人に対しての、ものではなかったので。

立岩 神経内科医ってこれですか?

川崎 はい。

吐合 今、今は違う。その人は本当の神経内科医、本当のって変な言い方ですね。まぁリハビリテーション科の方のドクターではありますけど。

立岩 あぁ、リハ医ていうか、そういう専攻というか専門の。南九州って、どうなんですか? 鹿児島大のそのお医者さんが多いとか、そういうことは聞いたことあります?

吐合 鹿大から来てます。

立岩 鹿大って言うんだ。鹿児島の人、鹿大って。やっぱそうですか。あそこはなんか僕今度、重たいんで皆さん帰ってから鹿児島に本発送しますけど(笑)。あの福永さんの本は知っていて、いい人なんだろうなと思いつつ、ちょっと皮肉なこと書いてるですけども。まぁその福永さんの師匠って井形さんっていう、鹿児島大の学長かな、やられた方ですよ。偉い人です。もう亡くなられましたけど、尊厳死協会の会長というか理事長でもあって、

※井形 昭弘→http://www.arsvi.com/w/ia04.htm

吐合 はい、そうなんですよね。介護保険のほうでも***(00:36:19)。

立岩 そうそう、介護保険そうですね、できる時の座長かな会長かな、なさった人で。僕は2004年かな、尊厳死法、作る作んないって時に、彼と議論したこともあるんで、井形さんとは若干その因縁があるんですよ(笑)。鹿児島のお医者さんってやっぱり、その井形さん偉いからさ、その福永さんもこう、ね、先生じゃないですか。ていうことも含めてなかなかこう、うん、鹿児島、まぁその話とさっきの話とつながるかというとあんまり関係ないかもしれないんだけど、でもそれなりに、そのお医者さんの世界の系列っていうか、ね。でも今回はあれか、その院長さんがボスとして、決定したらそのお医者さんも、それは従わざるを得なかった的なことだったんですかね?

川崎 やっぱりその発言内容とか、が、ここのところ差別事案になるんじゃないかっていうようなことを本人がたくさん言われてたので、その主治医からですね、自立することに対してのそのいろんなこととか話を聞いてくれないこととかっていうのはあったので、多分それを、

[00:37:35]
立岩 それをそのご本人が院長に、そういう手紙で書いたみたいな話ですよね。

川崎 そうです、そうです。なので多分院長としては、分かんないですけど、「これはまずいな」っていうことがあったんだろうと。

立岩 理由としてね。単にボス、俺のほうが上だからじゃなくて、この医者の言うことをそのまま認めてたらちょっと組織的にまずいぞみたいな。それは推測ではあるけれども、そういうような判断があったんではないかみたいな。あぁ、なるほどね。

川崎 あの時院長、別に自立に理解があるとか、どうこうってのは、まだその時点では全然分かんないですけど、やっぱりその問題を放っておいてはいけないだろうってことで動いてくださったんではないか。

立岩 問題が、ちょっと問題が問題だと。そのお医者さんの師匠がそれは普通にまずいやろうっていう話だったんですかねぇ。なるほど。今が、そのお名前が?

□吐合(はきあい)さん

吐合 すみません。吐合と申します。

立岩 昨日聞いて、えーっ。そういう名前、そういうっていうか、鹿児島にある名前なんですか?

吐合 はい。

立岩 けっこうある?

吐合 いえ、地元が、ロケット基地がある内之浦っていう小さな街なんですけど。

立岩 あぁ、あの

吐合 種子島ではないほうです。

立岩 種子島じゃないほうか。

吐合 JAXAのあの、はやぶさの、

立岩 JAXA、はい。

吐合 イプシロン。

立岩 見ました。そこの出身で?

吐合 そこの出身で、そこにはちょっと何軒かはあるんですけど。

立岩 吐合。

吐合 はい。鹿児島の中でも珍しいです。

立岩 ね。あのそう昨日聞いて、「えっ」て思ったんですけど。この前後関係っていうか、もう始まってはいるのですよ。大丈夫っていうか。あのもう。僕は今日この辺におりますので、もしよろしければですけど、もうちょっと続きをいっぺん入られてっていうんでも、僕は全然、僕はほんとに、今日はブラブラしているので、構わないですけど。すみません。無理なお願いしてしまいまして。

川崎 ありがとうございます。

立岩 じゃ〔会場に〕お入りになりますか? はい、どうもどうも、またはい。どうも呼び止めてしまいまして。

川崎 ありがとうございます。

立岩 仕事、邪魔してすみません。ありがとうございます。じゃまたはい、はい、またありがとうございます。

川崎 ありがとうございます。[00:40:08]音声終了

■幾人かから話をうかがった後、また

【6下04】20190625川崎良太氏2_9分

※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。

[00:00:00]
立岩 広島の人に話聞いて、沖縄の人に話聞いて、頭が詰まってるので、その前の話が飛んでるんですけど、何の話やったっけ? 彼女に聞いた方がいいのかもしれないけど。そのてくてく、がそういう形で病院から出て暮らす、出て暮らすっていうリレーというか、そういうのが、他と比べてというか、うまいこといってるって実際私もそう思うんですけど、それは一体何なんやろなっていうか(00:00:41)

川崎 ☆繋がり、繋がりでもけっこう単発なんですよね。先ほどお話しした12月の方の前に3年ぐらい前に自立した人がいて、24時間鼻マスクを着けてるんですけど。その人も僕ら養護学校時代のちょっと離れた先輩で、ちょこちょこ話とかしたり。出たいって希望があって、【不慣れ】(00:01:05)ながらILPしながらだったんで。まぁでもよく病棟をやっぱり、僕も最初自立した時に、今、事務局長してる者が病棟をずっと付き人を連れてウロウロしてると思ってて、もう15年ぐらい前の話ですけど。この人は偉い人だから、付き人がいるんだろうなって思ったんですよ。そしたらよく聞いてみると、介助者がって話があったりとかして、やっぱりその介助者を連れて一緒に病棟内を回ったりとか、そういうことがひとつ刺激にはなってるのかなっていう気はするんですけど。

立岩 さっきも聞いたけど、基本フリーパスというか、全く問題なし?

川崎 ですね。入らないでくださいと言われたことは一度もないですし、病棟にも部屋のほうにもぷらっと入って話してみたいなことはできる感じですね、はい。

立岩 沖縄病院の話さっき聞いてて、沖縄病院も比較的今は、少なくとも今はその地域移行的なことに積極的で、実際出れてる人もいるって言ってたけど。金城さんかな、彼が最初に出た頃は、でも外出がなかなか難しくてって言ってたな。そういうのの制限的なことっていうのはどうなんですか?

川崎 外出はですね、子どもの時は、18までの学童と言われる人たちは、自分一人で出たらダメっていうのがその一つの病棟のルールだったんですよ。でももう一つのほうの病棟は成人と一緒だったら出ていいよっていうルールだったんですね、子どもも。

立岩 子どもでも?

川崎 例えば電動車いす同士の成人と子どもがいたとしても、二人一緒だったら、その近隣の買い物とかだったら出ていいよっていう。

立岩 それは病棟が、子どもの病棟が二つある?

川崎 いえ、大人と子どもが混ざった病棟が二つ。さっき40床の病棟が二つあって、一つの病棟は、

立岩 子どもだけはあかん。

川崎 子ども、大人と行こうが子どもと行こうがダメで、もう片方は大人と子どもだったら出ていいですよっていう。なんでそこの経緯は多分吐合に聞いたほうがいいかもしれないですけど、多分自治会とうまくそういうのがなって、そういうルールが作られてたんじゃないかなって思います。

立岩 病棟によってそれが違いがあったって。

[00:03:40]
川崎 あと多分障害が軽度だったのが、その許されてるほうの病棟はわりと子どもが多くて、軽度な人がみんな電動車いすとか手動車いすで行ったり来たりする人たちが多かったっていう、ですね。で、昔は多分その野球できるぐらいの筋ジスの人たちが多かったんですよね、その今から30年とか40年前は。そういうすごい軽い、今となってはその福祉に触れないぐらいの軽度な人も病棟にいたんで、そういうのがいろいろ活発で、外出とかも制限がなかったんだと思います。

立岩 その大人? 大人の場合ってさ、そのさっきの金城さんの話っていうのは、20歳になって酒が飲めるようになって、彼の場合は沖縄だから琉球大学の学生と飲みに行ったんやけど、それはほんとはダメで、行くたびに叱られてみたいなことだけど。大人のその外出、外泊的なことに関して言えば、その当時の、あるいは現在の南九州っていうのはどんな感じですか。

川崎 まぁ外出許可書を出して、それに主治医がオッケーを出せば、もう出れるという形ですね。

立岩 やっぱり主治医、さっきの話じゃないけど結局主治医がけっこう大きいっていうか。

川崎 権限を持ってるっていう感じです。

立岩 主治医が大丈夫やったら何事もすんなりいくけど、そこでさっきのお医者さんみたいな、不思議なっていうかそういう人がいると、もう途端に話がめんどくさいことに、できなくなるっていうそういう状況だってことですね。

川崎 そうです、はい。でも退院してても、やっぱ主治医ってダメって言ってくる人もいると。僕、そのアメリカ行った時も、一昨年行ったんですけど、多分主治医には黙って行ったんじゃないかなっていう。

立岩 言うとなんか言われる?

川崎 言うとやっぱ言われてしまって。そういう意味ではけっこう主治医の意見っていうのを聞いて、影響してくると思います。

立岩 今だったらセカンドオピニオンって話も昔からありますけど、まぁ折り合いが合わなかったら主治医を変え、主治医っていうか担当医を変えるって話はあるじゃないですか。やっぱその入院しててっていうのは事実上そういう話は難しいんですかね。「代わってくれ」みたいなこと言えないですから。

川崎 言えないと思いますね。「代わってくれ」って言うことができても、果たして代わってくれる人が、いい先生かどうかっていうのは分かんないですし。はい。

[00:06:14]
立岩 それもそうですね。「代わってくれ」って言って、「はい、代わります」っていう話には組織的にも難しいんだろうな。AさんとBさんしかいない病院で、Aさん嫌だからBさんにしてって言っても、BさんAさんの配慮というか、気にしたらとかっていうこともあるでしょうかね。

川崎 そうですね。

立岩 多分もうこれから始まると思うので、もうやめますけど、これから、ボツボツといってもそんなに5年も10年もかかってたらみんな死んじゃうんで、それよりはかかんないように、みなさんこれから動くと思うんですけど。「これはできるぞ」っていうかね、あるいは自分がでもいいんですけど、あるいはみんなが、なんかそういうので、なんか一言あれば。

川崎 (笑)そうですね、自立してる筋ジスの人の声を、僕SMAなんですけど、やっぱり筋ジスと結構違うんですよね。SMAって病状が安定してるんで、筋ジスの人の気持ちが分かるかっていったら、あの正直言うとあんまり分かんないですね。そのお腹が痛くなると、そのガスが出ないとか出るとかって。僕ら結構SMAは丈夫なんで、分かんない部分があるので、やっぱり筋ジスで24時間で自立してる人たちの声をもうちょっと集めて、結構体が大変な人がやっぱり多いので。

立岩 そうですね。言われてみれば確かにSMAの人って丈夫っていう、そんな感じはしますね(笑)

川崎 はい。日々日常的に困難はあんまりない人が多いので、そこ結構差があると思います。はい、だから実際にここにも筋ジスで活動してる人ってほとんどいないですし、はい。

立岩 身体がしんどいとね、やっぱりありますよね。

川崎 体がきついと、そういうことに目が向かいないっていうのもあるので、どこでも各センターでできるのは、介助者の質をどう保っていくかっていうことが、筋ジスとか、僕ら神経難病の人はその、弱いっていうか、健常者だった時代もないですし、あの健常者と対等に渡り合えるかっていうといったらたぶん難しい部分が出てくるので、そこをほんと自立生活進めていく側の責任としては、出てもちゃんと病棟じゃないような暮らしができるように、整えとくっていうか、本人が頑張る部分でもあるんですけど、一定のレベルはずっと保っとかないと、安心して出ておいでっていうようなことは言えないので、そこはかなり気を使うところかなと思います。

立岩 ありがとうございます。

川崎 ありがとうございます。

立岩 時間通りに、はい、映画見てください。

川崎 見てきます。ありがとうございます。[00:08:58]音声終了


UP:20190724 REV:
川崎 良太  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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