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小林勝氏インタビュー

2019/06/25 聞き手:立岩真也
於:仙台市中小企業活性化センター(第28回全国自立生活センター協議会協議員総会・全国セミナー2日めの会場)
文字起こし:ココペリ121

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こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす

20190625小林勝*氏_47分(19-26→18-11)
*自立生活センターびんご cf.http://hitorigurashi.jp/2017/05/02/1543/

※20190730:了承をいただき公開することになりました。


立岩 どういう関わりというか。

小林 筋ジスの方があの、山口くん☆、長崎の山口くん。
☆山口雅俊 ながさき自立生活センターこころ:https://www.facebook.com/ncilkokoro/

立岩 はい、昨日、はい、一緒にいました。

小林 気切をして、入院中にですね、これからどうしていこうかなと思った時に、山口くんの番組☆を見たそうです。
☆20171202 TBS報道特集「和さんの一人暮らし」https://www.dailymotion.com/video/x6axy22

立岩 山口さんがテレビとかに出られたんですか、

小林 じゃ、俺も、自分も、ああいうふうに生活できるんだ。万歳するような気持ちになったそうです、彼が。で、山口くんにメールをして、そして近くですから、尾道の山奥の世羅っていうところなんですけどね。

立岩 世羅、はい。

小林 そこで暮らしてるっていうのを聞いて、で、僕があの、まぁ一人暮らし。

立岩 番組観た、で、彼はそれで感動っていうか、した。ほんで?

小林 して、山口くんに連絡した。

立岩 あぁ、山口くんに彼が連絡した。

小林 僕も自立したいと。だったら、「いい人がいるよ、尾道に」って、あの。

立岩 山口さんがご存知で、はいはいはい。

小林 僕を紹介してくれた。

立岩 そういうつながりですね。それいつ頃だったか覚えてます?

小林 うーんとね、4月、3月ぐらい。今年の3月です。

立岩 今年のね。わりと最近のことですね。

小林 ええ。そうそう。

立岩 山口さんに、話してくれますかって、昨日夕飯一緒だったんですよ。それで昨日帰り際にちょっと伺ったら「いいよ」って言ってくださったんで、ちょっと聞いてみますわ。

小林 僕、山口くんと今晩飲みます。

立岩 そうですか。僕は夕方出ちゃうんで、あれですけど。山口さんにもなんぼかでも話は。それで、とにかくそういうふうに繋がって、で今度は本人から小林さんのほうに連絡あって。

小林 僕も連絡して、「一緒に、よかったらやっていきませんか」って。

立岩 その方は、どういう病院にいたんですか。

小林 四国の病院ですね。筋ジスの、旧国立療養所。

立岩 旧国療の。[00:03:09]

小林 あそこの宮崎先生っていう方に、気切をしてもらって。

立岩 気切して筋ジスと。お名前は何て言うんですか。

小林 きょうらくかずし。

立岩 きょうらくっていうのは。

同席者 京都の京に、楽しい。

立岩 すっげー名前ですね。

小林 京楽地区ってあるんです。あの、お住いに。周りが京楽地区。

立岩 その京楽っていう名字の人、何十代ぐらい?

小林 33歳。

立岩 33歳。で、四国の旧国療にいて、そこで気切をした。で、その後、何?

小林 その後、入院ずっとしとかなきゃいけなかったんですけど、もう帰ると。入院中すごいしんどいことがあって、もうこんなところじゃ死んでしまうって。世羅だからもう帰りたいって言って。

立岩 世羅に帰りたい、はい。

小林 帰って、そして、世羅病院ってあるんですけどね、公立の。そこでまた入院しても入院中に、とてもなんかしんどいことがあって。入院してたんじゃ、これ、ちょっと具合悪いなっていうんで、家に帰ってね、お母さんにずっと面倒みてもらってたんですね。

立岩 公立の世羅病院。四国の病院で気切して、でもそこもかなり状態、環境っていうか悪くって。で、世羅の、地元の世羅病院に行ったけど、そこも良くなくてという。何があったんですか。

小林 そこはね、一般の、あの、言語の障害がちょっとあって。舌がおっきくなるタイプの、あの、舌が大きくなるタイプの筋ジスなんですけれども。だから、会話するのになかなか時間がかかって、看護師さんが相手にしないんです。それでね、病院にいたんじゃ自分の思いも伝えられないし、で家に帰って。それから暮らしてたところにそういう話が、山口くんとかね。まぁ大野さんもね、このグループのメーリンググリストみたいなの作ってやってたんですね。[00:06:25]

立岩 それで世羅の病院退院して、世羅の親元というか、に暮らしてたけど。ほんで、テレビ観て、で連絡ついて。それがまだ2カ月前とか。それでどうなったんですか。

小林 5月から支援が始まったんですね。で、僕たちは呼吸器の方の支援をしたことがないんです。だから3号研修、そういった目下、支援の勉強中なんですけど。だから今度、外出をしようかなと。で、外出をする時も、頭がこうグラグラするので、一人が頭を固定して、両手でね。で、そうして尾道から、世羅から広島までね、ちょっと目的があって外出するんですけどね。初めての外出なんですね、長距離の。

立岩 それはこれからですか。

小林 今月の28日。

立岩 もう数日後ってことですよね。

小林 そう、そうそう。

立岩 みんなに言われてると思うけど、尾道はいいとこやっていうのは言われてますけど(笑)。その、尾道、世羅、その、広島、位置関係っていうか距離とか分かってないんですけど。世羅から広島ってどのぐらいかかる?

小林 高速で、1時間40分で。まぁ順調に行けば行きますかね。

立岩 高速でそれ、結構あるわけですよね。で、初めての外出みたいな。

小林 あの、自宅から世羅病院まで行ったことはあるんですよね。すぐそこですから、10分ぐらいですからね。[00:09:05]

立岩 それ以外にそういう遠出というか、そういうことの経験は。その方だいたい、その四国の病院の前っていうのは何? どういう人生だったんですかね。

小林 鼻マスクをして、三原、隣町のなんか作業所みたいなところに通ってたみたいです。

立岩 地元の? 鼻マスクして地元の作業所やら通ってて、それで状態が悪くなったのかな? それで四国の病院に渡って気切して、でもそこにも居られなくなって。地元に戻って病院に入院して、でもそこもって話で親元帰ったけど、っていうそういう人生か。それを今、支援に入ってふた月か。

小林 ふた月ですね。

立岩 その呼吸器着けた人のその身体的なケアそのもののスキルっていうかさ、コツみたいな、そういう話が一方にあるじゃない? で、それ以外に例えば介助者をどうするだとか、お金のことどうするかとか、そういうのもありますよ。で、それはどういう、いろいろやってみてってことだと思いますけど。

小林 ええ。まずは介助者のスキルアップですね。あの、一人暮らしをしようとして家を出たとしても、介助者のスキルがないとちょっと難しい。

立岩 彼は一人で暮らそう的なこう、意志が?

小林 あぁ、大いにある、大いに。

立岩 それは、その場合にその、地元の世羅ですか、に住み続けたいんか、例えば広島まで、いやあるいは尾道に出るとか。

小林 世羅で。

立岩 世羅と尾道、全然分かんないんですけど(笑)、どういう位置関係ですか。

小林 いや、まぁ山奥ですわ。あの、もう北に上がっていく、島根県の方。

立岩 うん、うん、ずっとこう上がっていくわけですか。

同席者 車で30分ぐらい。

立岩 30分?

小林 でも30分といっても、山あり谷ありで、寒いし、冬は凍結するし。坂道の途中にある、あの、お家なんですね。

立岩 その場合にその尾道のセンターが関係するとしても、ヘルパー自体は世羅のこう地元民っていうか、の人ができるようにするっていうそういう道筋なんですかね。

小林 尾道の、

立岩 派遣とかできます? やろう思ったらできる?

小林 そうですね。今、やってるんですね。だいたい1時間ぐらいです。尾道の介助者が、

[00:12:03]立岩 世羅まで行って、介助始めるその、交通がそのぐらいかかる、かかってるけどやってる。それは今はその親御さんの住んでる、同居してるところにヘルパーが行って、介助して帰って来るみたいな。それをゆくゆくは同じ地元の世羅で、1人で暮らす。ちなみにその親御さんっていうのは、両方揃ってるって感じ?

小林 はい。

立岩 あぁ。すると、そのお子さんっていうその本人と両親が住んでるんですか。

小林 あの、おばあちゃん住んでます。

立岩 おばあちゃん、3世代というか。その近所に1人で住もうっていう話ですか。

小林 近所、うん、そうです。

立岩 近所というか同じ街というか。

小林 同じ街で。第一希望は、そうですね、地元で暮らしたいって言ってます。

立岩 そうするとセンターとしては、これからそうか、スキルアップか。それ例えば、どういうふうに。その研修でとりあえずできるようにするっていうのは、3号研修にしても、僕らも京都でやってますけど、それはできると思うんですけど。それはそれとして、実用というか、現場でっていうのはどういうふうにしようとか、何かお考え?

小林 まず、介助者が今、7人ぐらい。

立岩 その人に関わる?

小林 関わる…、これから関わろうとしている、で、スキルアップして誰でもあの、その方に入れるようにしたい。

立岩 いまその尾道、「びんご」か、自立センターびんごに登録というか、そこで働いてるそのヘルパーっていうのは何人ぐらいいるんですか。

小林 今何人?

同席者 6人です。

小林 6、今度、8月ぐらいで入りますけど。

立岩 じゃ、6が7になるぐらいの規模というか、感じで始めてるという感じで。その人たちが彼に対応できるようにするっていうのが、センターの課題ってことですか。

小林 まぁ、当面の課題ですね。

立岩 当面のね。具体的にはどういうふうにやってこうっていう、お考えあるんですか。

小林 まぁ、お母さんが喀痰吸引できるから、お母さんにまずは教えてもらったりね。看護の方が教えるっていうことを、教えてくれるっていう話がもうちゃんとできあがっているので。で、訪問看護師とか、お母さんとか、そういう方に習って。[00:15:18]

立岩 その、一方でそういうこう技術的なことを習得していくと。それは恐らくそれはそんなに時間かからなくて、1年とかかかるわけじゃなくて。そこそこのというか、安全なというレベルには達すると思うんです。その段階は多分クリアできると思うんですよね。そうすると、次というか、プラスというか、課題っていうか、どういう。次に何するかっていうのは、いよいよ場所を探すみたいな話になるんですか。

小林 そうですね。

立岩 山奥ってなんかよう分かりませんけど、ふつう街中やったらアパート借りるとかそんな感じじゃないですか、一人暮らしいうたら。そういうこう、どうなんですか?(笑)

小林 アパートあるっけ?

同席者 (笑)不動産屋の人間ですね。あるにはあると思います。

小林 周りにはないけれど、ちょっと町、世羅町って町内にはあるかもしれないですよね。

立岩 場所探してそこで住み始めるっていうことか。その人、経済的にはどうしてはるというか、どうするつもりなんですか?

小林 まぁ生活保護。

立岩 今は取ってない。それで別居したら、家計というか世帯分離で生活保護とって、か。
介護のほうは制度的には、その世羅ないしその、広島というかあの辺てどんな感じなんですか。

小林 まぁ24時間はあの、取れます。【軽く】(00:17:04)取れる。

立岩 ああ、そうですか。

小林 で、行政に行ったんですね。世羅町の役場ですから。で、京楽さんは移動するために2人必要っていうのは理解できて、24時間の介助が必要というのも理解しています。

立岩 じゃあそこの難関は、前提としてすでに実現というか、可能であるっていう話ですよね。技術をみんなが共有し、場所を探し、制度的にはオッケーやから、その制度、お金使ってヘルパー。それはどうなんですか、将来的にはというか、1時間かけてということだけでもなくて、世羅の地元でっていうのも考えておられるんですか。

小林 そうですね。でも、

立岩 そんな簡単でもない?[00:18:09]

小林 世羅、あの、狭い街ですからね。介助者を募るっていうのは、やはり尾道ですよね。

立岩 あぁ、それは結構…。僕もほんまの田舎の出なんで分かりますけど、やっぱり近所の人ってかえってなかなか難しいっていうか、人入れるっていうか、はい。難しいっていう話は聞きますよ。じゃあ尾道か、尾道から。

小林 尾道って向島とか、島がたくさんあるんですよ。そこの島の出身とか、介助者がいるわけですよ。で、島から橋をわたって尾道に来て、それから上がって行くんで。そうなると結構な通勤で。

立岩 海渡って山登ってみたいな。そういう通勤になる。

小林 で、夏はいいけど、冬は凍結するとかね。

立岩 それはこれからですかね。でもなんか、すぐには難しいと思うけど、地元で冬だけでもとかね、冬だけってのも変か。地元的にね、人が1人でも2人でも入ると楽っちゃ楽。そういう意味で言うたら、そんなにこう、今まで、今聞く限りの話はですよ、まぁ、昨日ちょっとお話僕はしませんでしたけど、前の2人。それはその、古込さんとかの場合だとさ、金沢は重度訪問それ自体がなくて、24時間どころじゃなくて、まぁ0時間だったわけですよ。だからそこから事態を動かすのってほんま大変で、手間もかかりましたけど。今の話の限りで言うたら、制度はいけると。ヘルパーもこれからちょっと技は磨くけれども、おらんことはないと。で、一人暮らしの意志はありっていうことであると、いけるんちゃうかなって、聞いてる限りでは思うんですけど、それはいかがですか。

小林 あの、時間はかかったとしても、僕はいけると思いますね。で、世羅町に重度訪問を、こう制度を利用した人が1人も。

立岩 これまでいらっしゃらない、うん。

小林 いないので、行政がそれ知らないんですね、うん。

立岩 でも対応するというふうには言うてるということですね。やったことはないけれどもということですね、あぁ、なるほどね。

小林 あの、尾道はやってるので、

立岩 尾道市はやってるんだ。

小林 やってるんです。

立岩 これはまぁ同じことすればええやろ、ぐらいの話なんですかね。[00:21:05]

小林 尾道行って、尾道やってるから尾道に行ってくださいと。行政同士ね。だから尾道行けばすぐ分かりますって。尾道は尾道で、僕が行って、世羅でこういう人がいるから。

立岩 あぁ、教えてあげれ、みたいなこと言えば、なんとかなる、そうか。

小林 実際にそういうふうに言ってるので。

立岩 せやったら、その人に関して言えば、いけるんちゃうかなと聞いて思いますけどね。難しいことはないに越したことはないので(笑)、なんかあの。まぁ1人でも2人でも。

小林 僕が経験したのが1月に同じ筋ジスの方、鼻マスクをしてて、事故で亡くなったんです。

立岩 事故?

小林 呼吸器が外れて。

立岩 外れた。バイパップがポコッと外れたってことですか。

小林 根元が。

立岩 根元がね。

小林 それで警察は入るし、司法解剖するし。たったこないだまで、パソコンは没収、持って帰られて。

立岩 それは尾道の方なんですか。

小林 いや、呉なんです。

立岩 呉、ほぉ。

小林 呉なんですけど、そういう経験があって。

立岩 それはそのセンターとの関わりがあった方なんですか。

小林 はい、一緒に活動しようとしてる方だったんですね。ちょっと場所離れてるけど、活動はいっしょにしようよって。で、とてもね、意欲的な方だったんですね。その方が突然そういうことがあって。結構ショックでしたね。

立岩 それは結局、事故ってことになったんですか? 

小林 事故、はい。

立岩 外れちゃって。

小林 えぇ。そういうのね、頸椎損傷の呼吸器の方でもそういうことがあったっていうのを、こないだの集まりで聞いたんですけど。呼吸器ってやはり外れるもんだっていうことを頭に入れとかないと。絶対安全とかね、そういうことでもないなと。

立岩 ありますね。それで亡くなった、亡くなりかけたってのはありますよね、聞きますよね。[00:24:04]

小林 そういうことはね、もう絶対にないように、そうするにはどうすればいいか、みんなが共有して、こうすればいいんだとか、こうしたらいけないとか。カニューレが外れた場合どうするかとかね。対処方法というかね、教えてもらう、訪看さんに。今、そういうことをやってますね。

立岩 そういうのって近所の訪看であるとか、そういうのでだいたいいけそうですか?

小林 それは、それは。ずいぶん協力的なんですけど、制限つけられますね。「もう大雨が降った時には外出ちゃだめよ」とか。

□小林さん

立岩 あぁ。ちなみにその、小林さん自身はお年を聞いてもいいですか。何コ?

小林 僕はね64で、9月で今度65。

立岩 意外といってるんだ。ちょっと分かんなかったですね、それは。

小林 1972年にあの、頸椎損傷になりました。

立岩 事故?

小林 鉄棒の練習中。

立岩 鉄棒、鉄棒系ですか。

小林 鉄棒なんです。あの、中京大学の体育館で怪我しました。

立岩 鉄棒の人、プールの人(笑)、交通事故の人。で、その鉄棒の人、あぁ。72年、ちょっと待てよ、64で、65になる。そうすると生年が1950、

小林 4年。

立岩 54年。54年で72年だから、その年が18ぐらい?

小林 17。18にあと半年ぐらいで。

立岩 高校生やったんですか? 事故った時は。

小林 高校生。

立岩 中京大って、高校生の時はどこにおったんですか。

小林 尾道高校。で、僕3年間寮暮らしでね、寮に住んでて。もう毎日合宿みたいな。

立岩 体操の選手?

小林 ええ。

立岩 ほんまにあの、ちゃんとした体操の選手やったんですね(笑)

小林 (笑)それはどうか。

立岩 体操はあかんかったわ。あんなことできる人今でも信じられない。鉄棒とかもうあかんかったわ。まぁいいわ、そんなことはどうでもいいんですけど。でも技があったっていうことですよね、ちゃんとしたというか、体操の選手で。高校3年間やり通して、で、3年の終わりぐらい?[00:27:20]

小林 大学、あの、勧誘がね、いくつも来てて。

立岩 あぁ、あのスポーツ推薦的な。

小林 インターハイ個人総合2位。

立岩 2位? インターハイって、あのね、全国大会。

小林 えぇ。

立岩 えっ?! ちょっとすごいじゃないですか。だってその頃の日本の体操ってすごい時期でしょ。

小林 もうすごい。ダントツ1位です。

立岩 ですよね。あらま(笑)

同席者 オリンピック候補?

立岩 だよね。全国2位なら、そりゃオリンピックですよね、やばい。えぇー。

同席者 強化合宿だったんですかね。中京大学ってのはね。強化合宿みたいなんで、

小林 試合が東京であって、ちょっとその途中に中京大学に寄って。寄り道して、練習していこうかという。

立岩 へぇー。それで、それからの人生がちょっと長すぎて、(笑)ちょっとここでは聞けませんけど。ざっくり言ったらどういう感じなんですか。

小林 まぁ寝たきりの生活。25年ぐらいはね、家から一歩も出なかった。

立岩 家におった?

小林 家に。

立岩 それは尾道の?

小林 尾道。

立岩 親御さんとですか。

小林 そうですね。まぁ20、少なくとも25年は家から出なかったですね。で、髪が伸びるでしょ、散髪しようと。で、短めに切って次、散髪行く時は季節が変わってました。

立岩 その散髪は外に行ってした?

小林 まぁ。

立岩 それはした、けど、それぐらいの間がっていう感じ。それは何、出られなかったって感じですか。もう出るのがもう嫌やったっていうか、両方ですかね。

小林 両方ですね。で、その当時ヘルパーさんっていなくってですね、

立岩 ですよね。で、介護は基本、親御さん。

小林 親は、車が持ってないので、遠くには行けないし。弟がいたんですけどね、弟はまだちっちゃくて、車の免許取らない。で、18になったら取れるって。で、18ぐらいになると、僕は広島が出身なので、広島よくドライブに行けてたんですね。[00:30:16]

立岩 弟さんが運転して。床屋さん行く時はどうしたんですか。

小林 車いす。

立岩 手押しの?

小林 いえいえ、もう押してもらわないと。

立岩 はいはい、手押しっていうのは人が押すということですね、そういう、手動のね。それでか。それで20、ざっくり25年飛ばすと(笑)。18の25足したら、43、そのぐらい?

小林 43、44ぐらい。頚損ネットワークっていうのが、広島で立ち上がったんですね。それを新聞記事を見て、すぐに頚損。頚損の人って入院、退院をするとこう、つながりがないんですよ、その当時。で、ネットもないし。だからね、頚損の人どうしてるのかなとかね、ま、途中で亡くなる人もいるし、うん。で、まぁ集まりでね、みんな楽しく暮らしてきたのを知ることができたんですね。

立岩 それは広島県内の…

小林 県内の。

立岩 県内のそういうネットワークができましたっていうのを、25年経って、ある日新聞で見て、それに連絡して、そのネットワークに。出かけた?

小林 うん、出かけた、そうですね。広島市でこう集まりがあって、まぁ広島まで行きましたね。で、行った格好がね(笑)、家のスリッパとジャージと。

立岩 もう家着のまんまでってことですか。

小林 そう。だから、今ね、笑い話になってるんですよ。小林君が初めて来て、来た時は家のスリッパと、ジャージだったよね、みたいな(笑)

立岩 今でも言われるっていう、あぁ。それで言うたらその、同じ境遇というかそういう仲間というかに、付き合いというかができると。それが40代半ばぐらいやと。それからでも、それからでも20年ぐらい経ってるじゃないですか、その20年はなんやった?

小林 広島頚損ネットワークっていう人たちが、ヘルパーを連れて、あの、集まりに来る人はほとんどいなかったんです。全部、家族、お母さん。だから、「ま、これが本当なんかな」と思ってたのが、介助者を伴って、今は介助者【つゆざきはるみさんって】(00:33:20)。で、介助者と一緒に一人暮らしっていう発想がね、それからね10年ぐらい経たないと。僕だいたい55ぐらいで一人暮らししてました。[00:33:37]

立岩 で、そうか、それから10年後っていうことですよね。で、それは最初、親だけれども、その10年の間にそのヘルパーっていうか、他人介護っていうふうになったその流れっていうか、変化っていうのは何やったんですか。

小林 一人暮らしはね、親がだんだん年老いてくる。で、将来ね、どうしようかっていうね、現実的になったんですよ。

立岩 そうですよね、45だったら、親も70…。

小林 70近く、70過ぎるようになった。で、なかなかね、難しくなって、「さて、これからどうすっかな」と思った時に、施設のパンフレット集めたことありますよ。

立岩 あぁ、入所施設の。

小林 うんうんうん、「それしかないかな」とかね。で、いろんなことを考えるとね、あの、僕膀胱炎によくなるんです。膀胱炎って、点滴打たないと治らない。で、イメージができるんですよね。一人暮らしで、狭いアパートでね、来る日も来る日も点滴かよ、みたいな。じゃったら、どうなんかな、それ一人暮らしって言える?って頭の中…。

立岩 これいやですよね。

小林 そうそう。いろいろこう調べて、まずは自己導尿していたんですね。それを止めて、膀胱瘻。それと活動したいっていう意欲ができてきた。あの、排便をすると、その排便した後、極端に血圧下がるんですけど、60ぐらい。それが嫌で、まぁストマにしました。ストマと膀胱瘻と、今はすごく健康的。

立岩 じゃ、出る方の技術、調整して、楽になった、楽になるようにまずしたと。それ、でも大切ですよね。やっぱ出る工夫っていうか、出す工夫っていうか、大切ですよね。

小林 うん、それが例えば思い切ってね、自分こうじゃないと暮らしていけないっていうのが分かったら。[00:36:41]

井上氏 一人いるんですけど、紹介だけしておく。連れてくる?

立岩 ちょっと後で行きます。しばらくここにおられるかな。ご飯食べに行ったりするかな。

井上氏 いるし。あ、この流れで。いやだいたい5時ぐらいまでいるっていう話はしたんですけど。誰か、この人って言うだけ。

立岩 ちょっと、ちょっとあの、挨拶だけしときます、はい。

井上氏 金城くん、沖縄の南十字センターかな、合ってた? 違うか、南十字星だよね、の代表で。あの、沖縄の国療にいて今、自立支援の。

立岩 そうですか。私、立岩と申します。で、今日は夕方までいられるんですけど。で、もし話を聞かせていただけるんであればと思いまして。今、実は、広島の尾道のほうで、筋ジスの人の支援してる頚損の人と今しゃべってるんですけど、多分もうしばらくで終わると思うんですが。お昼とかどんな感じになりそうです?

金城氏 ごはんこっちで食べようかなと。

立岩 じゃあ、ここら辺にいはります?

金城氏 います。

立岩 そうですか。じゃあちょっと一段落着いたら、またこっちに戻って来ていいですか?ありがとうございます。じゃ、ちょっとまた、ありがとうございます。[00:38:58]はい、どうもどうも、中座しました。その排せつ関係をある程度解決して、それで親もそろそろっていう話になって、ヘルパー、その制度はあったっていうか制度を作らせていくみたいな、そういうことですかね。

小林 最初、制度、270時間でスタートしたんです。

立岩 270がスタートだった。

小林 はい、だから夜10時になると介助者帰っちゃうんですよね。翌朝の8時ぐらい。

立岩 それぐらいが、始まり。それが10年ぐらい経ってか。

小林 東北の震災があった年に、。

立岩 2011年ですね。8年前か。

小林 で、その年ぐらいに、24時間。

立岩 最初270とかだったのが、

小林 ちょっとずつ、

立岩 ちょっとずつ増やしていって、2011年にそのぐらい、そのレベルに達した。尾道で。

小林 尾道で。

立岩 それは11年。その時に、今ちょっと活動停止気味のその、なんだっけ、自立生活センターに、その頃はもうすでに関わっておられた? それは、そこから離脱する前の何年間ぐらい関わっておられたんですか。

小林 8年間ぐらい。

立岩 8年ぐらい。じゃ、ちょうどそうか、24時間取れたぐらいの時にと。

小林 まぁ、あっこは働いてるって感じですね。働いてる間は制度が取れないので。だから、まぁ夜間介助はね、っていう***(00:41:19)

立岩 なるほど。そこで働いたけれど、まぁいろいろ、その健常者の代表と。[00:41:33]

小林 自分のやりたいことっていうのは、やはり自立支援なんですね。だから、ここにいたんじゃ自立支援はちょっと難しいなって思うようになって。

立岩 で新たに。この「びんご」っていうのは、つまりその尾道だけではなくてっていうか、備後一帯を平定するじゃないけど、そういう感じなんだろうね。そうなんでしょうね。
だから世羅もやるしって。

小林 市内だけではなく、どこでも行くよっていう。

立岩 ってことでやってて。で、その今、今その利用者さんというか、さっき今日、お話の方、京楽さんは、今、利用者の一人っていう感じなんですか。今、その7人のヘルパー、職員っていうか、体制でどのぐらいの人、ご自身も含めてっていうことだと思いますけど、どんな感じで仕事しはってるんですか。何人ぐらいの利用者さん?

小林 京楽さん一人で、7人で回してる。

立岩 で、そのセンターとその「びんご」としては、今その対象というか、提供の相手っていうのは何人かいらっしゃるんですか。

小林 また、これ、一緒に活動してた、あの、亡くなった、呉のね、もう一人筋ジスの方がいらっしゃってね。いらっしゃるんだけど、もう遠くだから、ILとかいろいろちょっと難しいんですよね、うん。

立岩 じゃあ今は結構、このところ関わりあってる京楽さんの支援、ある意味専念というか、できるっていう感じなんですね。

小林 はい。まずはその方を。

立岩 そうですね。でもなんか、僕がいろいろ聞く中では、ほんとにあれですよ。私も新潟のほうなので、新潟のその佐渡っていう島がありますけど、もとはそういうところの出身なんで。やっぱり、新潟、石川、富山、やっぱ厳しいですよね。で、そういうところに、やっぱり国療は国療で、昨日医王の話でてましたけど。それと、よりは、その初期、デフォルトっていうか、初期値が上っていうか、なんで、まぁいけるんちゃうかな、いけるに越したことはないので。だからここのところ、その、京都、それから西宮、どっちかって言ったら新幹線で通れるような場所でボツボツと始まっているので、その連絡なりさせていただいて、様子、時々聞かせていただいたりして。何と言うか、瀬戸内というか(笑)、関西というか、近畿というか、ね、が、うまいこといくようになるといいですよね。

小林 つながって、はい。[00:44:45]

立岩 そういう芽はあると思うんですよ。今回また、秋は徳島でちょっとセミナーありますし、四国も含めて。京都から大阪、兵庫通って、岡山、広島、で、四国みたいな、そういうところがうまくやってくれていると思います。

小林 四国はね、友だちが、仲間がいるんですよ。内田さん※、ご存知ですか。

立岩 ああ、名前は。そうですか。

小林 内田さんと一緒に行って、一緒にやろうよと。

立岩 僕もその徳島の企画※にはちょっと出ると思いますし、また別の機会で徳島に※。まぁこれからボチボチ。なにより、京都、西宮の本人たちと支援者が、わりと本気になってるんで、動くものが動くんじゃないかと思っています。これからちょっとその、沖縄の。今日はねこれから沖縄の方、それから薩摩、南九州病院って鹿児島の病院から出てきた人が作ったって言っていいのかな、「てくてく」っていう鹿児島のCILの若い二人とかが次。。さっきちょっと話、これが10時からのやつが始まる前にちょっと話聞き始めたんですけど、その方と。ずぼらで、ほんとは一つずつその地方に回ればいいんでしょうけど、こういう人が集まるところを使わせてもらって、お話を伺うっていう楽なことをしてるもんですから。ちょっとこれからその、沖縄の金城さんっていう方に話聞きに行きますけど。またよろしくお願いします。

小林 よろしくお願いします。

立岩 どうもありがとうございます。[00:46:45]音声終了


UP:20190729 REV:20190730
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