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渡辺一史さん岡本晃明さんと、書くことについて話す

遠離遭遇――人と時代を書く,主催:立命館大学生存学研究所,於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階

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last update:20211204

渡辺 一史
岡本 晃明
立岩 真也

◆渡辺一史・岡本晃明・立岩真也 20190602 「渡辺一史さん岡本晃明さんと、書くことについて話す」,遠離遭遇――人と時代を書く,主催:立命館大学生存学研究所,於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階
◆―――― 20190602 「渡辺一史さん岡本晃明さんと、書くことについて話す・2」,遠離遭遇――人と時代を書く,主催:立命館大学生存学研究所,於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階
◆―――― 20190602 「渡辺一史さん岡本晃明さんと、書くことについて話す・3」,遠離遭遇――人と時代を書く,主催:立命館大学生存学研究所,於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階

【6下06】20190602渡辺一史氏・岡本晃明氏1_60分
【6下07】20190602渡辺一史氏・岡本晃明氏2_109分

※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。

■■【6下06】20190602渡辺一史氏・岡本晃明氏1_60分

立岩 今が14時36分とかそういう時間だと思います。お知らせしてあるのは14時30分からということなんで、少し過ぎていますが。何かの用で、もう1人、3人来てくれるうちの1人の岡本さんが15分ほど遅れるということで、そういうことも込みで、ちょっとゆっくり目に始めようと思っています、ということなんですが。今日14時半からということですけれども、特に終わる時間は決めていません。そのあと何かが入るってことはないので。まあ2時間よりはかかり、3時間よりはかかんないかなっていうぐらいのつもりで考えています。
  で、今回何でこういうことになったかっていう話をつらつらしてると、そのうち岡本さんが入ってくるんじゃないかと思うので、いたします。実は、昨日今日と連続でいらしてる方も、来てくださってる方もいるんですが、6月1日、昨日ですけれども、兵庫県の西宮市のメインストリーム協会っていう自立生活センターの一つですけれども、そこの主催で一つ企画がありました※。今スクリーンで見てもらっているのは、生存学研究所という私たちが関係している研究所のホームページの、2種類あるんですけど、1つなんですが。昨日ちょっと作ってしまおうと思って作ったんですけど、「こくりょう(旧国立療養所)を&から」、これだけじゃちょっと意味不明なんで、そのうちタイトル変わるかもしれませんけれども。
※2019/06/01 筋ジスの自立生活とは?――筋ジス病棟から自立生活へ,主催:メインストリーム協会,於:西宮市
 https://www.youtube.com/channel/UC1k9T1vBePZYX4np4riHfCw
 あっ、来た。(笑) 岡本さん、上がってください。ちゃんと間に合いました。
 今日は、その話は昨日西宮でしてきたのでお話はしませんけれども。日本各地にある、昔「国立療養所」って言われた場所にですね、かなりの数、筋ジストロフィーの人たちっていうのが今でも暮らしていて。で、必ずしもそこでの生活の状況ってのがよくない。そこから出たくてもなかなか出にくいという状況にあるという。そこを何とかならないかっていうことで、今京都、例えば日本自立生活センター、JCILですね、それから西宮のメインストリーム協会、そうしたところが、色んないきさつがあり、偶然みたいなことも含めてなんですけれども、動き始めてるっていう状況にあると。ということがまず一つあって。
 これは今、京都、兵庫というだけではなくて、今月の末、仙台の方(ほう)で全国自立生活センター協議会という組織の総会があるんですけれども、そこでも一つのテーマになって、全国の自立生活センターがそうしたことに関与しようという動きが今、出てきています。そういう動きを少しお知らせしようと思って、この生存学っていうとこの、昨日とりあえず作った「こくりょうを」ってところから行くと、いくつかのイベント、それからその記録に辿れるようになっております。
 そういうことと、偶然って言えば偶然なんですけれども、僕が去年の末に2冊、赤い本と青い本を書いて、そのうちの1冊の方※でその国立療養所というところがどういうふうに推移していき、そこの中でどういうふうに筋ジストロフィーの人や、あるいは重心、重症心身障害児って言われてる人たちが収容され、収容されたこと自体も半ば忘れられるような形で長い時間が経ってしまったのかっていうようなこと書いた本が出た。そういうことをお知らせしたいということもあり。
※立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202
 それから今日真ん中に座っていただいている渡辺一史さんが、かつてもうずいぶんな前になりますけれども『こんな夜更けにバナナかよ』っていう本を書きました。で、これは例えば、ここだと「人」ってところから「わ」というところへ行って、渡辺さんは「一史」さんなので、こう行くと、出てきますね。で、渡辺さんは去年1冊本を、新しい本を書いたってこともあり、それから『こんな夜更けにバナナかよ』っていう、そのかつての本が映画化されて全国で公開されたっていうことが去年ありました。で、もちろんご存知の方多いと思いますけれども、そこに出てくる主人公っていうのは鹿野さんっていう筋ジストロフィーの人であったと。というようなことがいくつか重なって、昨日西宮の方で一つ企画があって私も喋らせていただき、それから渡辺さんにもお話しいただいたってことがありました。渡辺さんずっと、もともとは実は関西の方(かた)って言ってもいいんだと思いますけれども、なんですが、ずっと長いこと、33年?

渡辺 北海道、33年です。

立岩 だそうです。もうほとんど北海道民というか、北海道の方(かた)なんですけれども。せっかく今回こちらの方にいらしたということで、昨日1日西宮だけだともったいないということもあって。それからですね、昨日はもう本当に実践、これからどうしていこうと。国立療養所に暮らしてる人たち、これからどうなっていくかどうしていくかって、そうした問題意識のもとで行われた集会ですけれども。それは昨日と、それから今月の仙台の集会と、それに関わる諸々でこれから進んでいくと思いますけれども。それはそれとして今日はどっちかっていうとですね、渡辺さん、そうやって33年北海道に住まわれて、フリーライターっていうかノンフィクションのジャーナリストという形でものを書かれてきた。それから、今さっき間に合った岡本さんは、生まれも育ちも京都ですよね。

岡本 そうです。はい。

立岩 何年生きてるんですか?

岡本 え?

立岩 何年、生まれてから京都にいるんですか?

岡本 ほぼ半世紀。はい。

立岩 だそうです。ほぼ半世紀京都にいて、

渡辺 何年生まれです?

岡本 私、69年生まれです。

渡辺 じゃ、私、68年なんで。

★★ 立岩 60、68、69、だそうです。僕が一番年取ってる、だそうですが。大学出てからすぐ『京都新聞』ですよね?

岡本 はい、私は、

立岩 だから長いですよね?

岡本 長いです。はい。

立岩 はい。ということで、ずっと『京都新聞』で、取材してものを書いてきたっていう。で、それにまつわるなかなか大変なこととか愚痴の類とか、そういうことも僕は時々聞くことがあるんですね。ということで、フリーのライターと、それから新聞記者っていうか、それから僕はその大学っていうところで教えたりもしながらものを書いてるっていう。そういう三者三様でも、今社会で起こっていることをどういう形で書いてお伝えするかっていうことで困ったりもするし、時々は嬉しいこともあるというか、そんな感じだと思うんですよね。ということで今日は、昨日のことが本当にこれからっていう、どっちかっていうと前向きの…、まあ、今日も前向きなんですけれども(笑)。ものを調べたりものを書いたりするっていうことに関わって、三者三様喋ってみようと。それに関係することで、今いる方々からも質問やら何やら受けたいと思いますっていう。
 実は、本当のこと言うとあんまり考えてないです。今日これからどういうふうに展開して、どういうふうになるかってことについてそんなに、敢えてというか、考えないようにしてきたんですけれども。そんな感じで進めていきたいと思います。
  というわけで順番も何も決めていないのですが。そうだな。本はもう、読んでないかもしれないけど、読んだってことにしてね。『夜バナ』の中身は、あるいは、実は僕映画まだ観てないんだけれども、映画の話の中身は、それはそこそこにして。これまで例えば、あの映画が公開されるまで、昨日は実は、原作料はいくらだったとか(笑)、ノベライズ本っていうのは一体、元の著者は何ぼお金もらえるのかとかですね、そういう話を根掘り葉掘り、メインストリーム協会でビールを飲みながら聞いてたんですけれども。何だろう、どういうふうに取材ってものに入っていって『夜バナ』、2003年ですよね。2003年に出て、それからもずっと取材を続け。あの、無人駅の本は何年ですか?

渡辺 あれは2011です。それからでも、既に8年なんですね。

立岩 で、そういう意味での単著って2個だけですか?

渡辺 3冊です。だから18年で3冊です。平均1冊あたり…、

立岩 18年っていうのは、去年のやつですよね?

渡辺 ええ、去年の。

立岩 ですよね? で、3ですよね?

渡辺 だから、2003年に本を出したんですけど、それに3年間かかったので、2000年から2018年まで、18年間で、3冊本を出したということで。一応、とあるインタビュー、ネットのインタビューでは「この人は18年かかってまだ3冊しか本が出せない人だ。」っていう(笑)。平均1冊6年かかるという。

立岩 ある意味、ある意味っていうか、すごいことであるわけで。

渡辺 すごくはないですよ。

立岩 だってそれが商売で。「6年に1冊で、この人はどうやって生きてるんだろう?」みたいな、そういう、

渡辺 あの、メインストリーム協会の懇親会は、講演会というか、シンポジウムが終わったあとの懇親会で、最も何回も聞かれた質問が三つあって。一つは「安倍首相の、大泉さんと高畑充希さんを呼んだ食事会に渡辺さんは呼ばれたんですか?」っていう(笑)。で、もう一つは、

立岩 呼ばれなかったの?

渡辺 もちろんです。そんな、呼ばれることはないでしょう。「僕呼ぶならまず監督じゃないですか?」っていうようなことを言ったんですけど。まあ監督も呼ばれてないようですね。
 もう一つは、先ほど立岩さんがおっしゃった「映画の原作料いくらですか?」っていう(笑)。別に私は隠すことは何もないので。普段ノンフィクション書くうえで人の話を根掘り葉掘りインタビューする立場の人間がですね、人に何か聞かれて「いや、それはちょっと」っていうのはですね(笑)、ちょっと話がおかしいんで、私は何でも聞かれたことは答えるタイプなんですが。原作料は200万円です。どうですかね? 多いって思うか、少ないって思うか、まあ人それぞれだと思うんですけど。全国300館ロードショーっていう映画の規模としては一番最も大きい規模の映画で。まあでも、大体相場は200万から300万。まあ「300万もらえるかな。」と思ってたら200万ていう。

立岩 (笑)

渡辺 そっから、間に文藝春秋っていう会社がですね、まああの、版元ですね。『こんな夜更けにバナナかよ』を文庫化をした版元で。えー、ま、こんな内輪話…、

立岩 いや、いや、そういうのをやって。僕はそういうのを聞きたいと思って、今ここに座ってるんです。

渡辺 ああ(笑)。そうなんですね。もともとなんで映画化が実現したかっていうのは色々あるんですが。文藝春秋の…、2003年に北海道新聞社っていうところから出した本を、2013年に文春文庫っていう、文藝春秋っていう会社から文庫化したんですね。で、その時の担当者ともう一人その時の担当者の上司だった人が、すごくバナナの本を気に入ってくれたんですね。で、気に入ってくれて、初版2万部っていう割と力を入れた感じで、2万部の初版で出してくれたんですが、なかなかその売れゆきがいいという感じではなくて。そんな中、担当者とその担当者の上司だとか…、まあ担当者、山本くんっていう人と、で、その上司がきくちさんという、僕と同い年なんですけれど、この二人が、まあ何とかバナナをもうちょっと売ろうっていうことで頑張ってくれて。本当にあの、色んな、ことあるごとにメディアの関係者、テレビ関係者とか、映画のプロデューサーとかね、色んな映画会社のプロデューサーとか監督に、ことあるごとに「これ読んでみてください。」って渡してくださってたのが、たまたま松竹のプロデューサーとその映画を撮った前田哲監督っていう人に気に入ってもらって、それで映画が実現することになったんですね。
 まあそういう経緯もあって。別にその経緯がなくてもあれなんですが、原作料の1割はそうやって版元がもっていくことになってまして(笑)、

立岩 それ、知らなかったです。

渡辺 それを引くと180万。で…、これって、あれですよね、何か公開されたりしませんか? 昨日と違って。

立岩 しようかな思ってるんですけど、

渡辺 え、えっ?(笑)

立岩 するときには、ちゃんと承諾を得てしますので、

渡辺 あ、そうですか。ユーチューブで流れたりします?

立岩 それはないよ。大丈夫、大丈夫。

渡辺 昨日は…、

立岩 昨日はユーチューブでしたけど、今日は大丈夫です。それはないです。

渡辺 途中で知りましたからね(笑)。

立岩 実況中継はないです。

渡辺 それで、残り180万の中で…、鹿野さんっていう主人公のお母さんがまだお元気で、お父さんはお亡くなりになられたんですが、お母さんと。あと写真ね。あとで本をお見せするんですけど、鹿野さんのバナナの本見てるとすごくいい写真がいっぱいありますよね。その写真をずっと撮ってくれていた高橋雅之さんっていう人、その人は鹿野さんの介助者でもあったんですけど、その二人にまあ30万ずつごり押しで、という形で(笑)。一応私の取る部分はその残りをいただいたと。でもあの、本が非常に売れましたけどね。それは本当に助かりました。あともう一つ、その、昨日散々言われた質問は「渡辺さん普段どうやって食べてんの?」って言い方をされて(笑)、

立岩 僕も聞きました。

渡辺 はい、そうですね。その最後の質問にちょっと答えられるような話をしようかなというふうに思ってますけど。はい。

立岩 じゃそろそろ、まず渡辺さんにひとまとまりの話をしてもらいたいと思います。今、このコードを取っ替えて、渡辺さんのPCに繋ぐんですけども。今映ってるのは僕らのサイトの中の『夜バナ』のページになります。僕の記憶が正しければですね、渡辺さんの『夜バナ』っていうのが2003年の3月に出たんですよ。それを、どういう経緯だったか分かりませんけれども、結構すぐに私の手元に送っていただいたんです。で、ちょうど僕その時に医学書院の『看護教育』っていう雑誌で月一(つきいち)で本の紹介をしてたんですね。それで、何か別の本紹介するつもりだったんだけれども、着いて読んでみたらこれ面白くって、「これいいじゃん」と思って。
 で、もう原稿差し替えっていうか、2、3日で書いて、それでそのあと計2回。普通は1回で2冊ぐらいの本を紹介するっていうシリーズだったんですが、1冊の本を2回紹介させていただいて、それが、5月の『看護教育』に載ったっていうのは今でも、これご覧になれます※。僕は人生の中で自慢することってあんまりたくさんないんですけれども、渡辺さんの本をけっこう、出てすぐに、
※立岩真也 2003/05/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』」(医療と社会ブックガイド・27),『看護教育』44-05(2003-05):388-389(医学書院)
―――― 2003/06/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』・2」(医療と社会ブックガイド・28),『看護教育』44-06(2003-06):(医学書院)

渡辺 いやもう、一番最初でしたね。

立岩 紹介させていただけたっていうのは、ちょっと自慢していいことなのかなって。で、自慢してるわけです、実際今ね、ここでね。

渡辺 はい。いや、びびりましたね、本当に。

立岩 電話いただきましたよね? 確か。

渡辺 はい。だからお礼の電話をすぐして。でも、昨日電話が立岩さん苦手だというのを聞いてですね、申し訳ないことをしたと(笑)、

立岩 いえいえ。

渡辺 ここでお話ししたっきり、

立岩 そうですよね。一度もお会いしたことないですよね。

渡辺 一度もないです。

立岩 2003年に出て、今2019年だから、16年とか経ってる。お名前は何度も聞いて、誰かが渡辺さんに会ったとか、そういう話は時々聞いてたんです。

渡辺 関西の障害学研究会にお邪魔した時に、松波さんとか、倉本さんとか、その時にもうお知り合いになったんですけど。立岩さん、その時に来られてなかったんです。

立岩 あ、そうか。何か、はい、という次第なんですけれども。ということなんですが、まず、ひとさわりというか、渡辺さんの、人生じゃない、何だろう、何かそういうことについてお話しいただくということで。これ、じゃ、取っ替えますね。はい。(機材調整)

[00:18:48]
渡辺 まあ、あの、まあ、***(00:18:51)ノンフィクションの***(00:18:53)程度に、まあ色んなところでお話ししたことのあることも含めて、そもそも何で私がこういうフリーランスのライターっていう仕事に就いたのか、というところから、ちょっとお話ししたいと思いますが。どれくらいにまとめればいいですか? 時間的には。

立岩 お好きなようにやってください。

渡辺 ああ、そうですか(笑)。はい。話が延々としますけど。そうだな。そもそも何で、私がこう、文章書く仕事をする…、することになったのかっていうのは、直接なきっかけと間接的なきっかけと分けるようにしたら、まあ間接的なきっかけってのは、もともと中…、小学校から本が好きだったり、中学、高校、まあよくある文学青年っていうかですね、そういう感じで。何て言うのかな、まあ例えば、普段生活していても、人と話したり親と話したりしていても、「ああ、もっとこういう言い方をして言い返せばよかったな。」とか、自分の中でですね、こうもやもやした思いを、「もっとこういうふうにうまく言葉で表現すればよかったなあ。」とか、そういうもやもや感を常にこう、抱えているような子どもだったんですね。それでまあだから、何と言うか、何かもっとこう自分の思いとか考えていることっていうのは的確に表現できる言葉はないか、っていうようなことを常にこう、考えていて、それが本を読むことになった、本に向かうようになったきっかけだと思うんですが。
[00:20:31] まあそういう人、割と多いと思うんですけどね。それで、色んなものに、その時代その時代でこう、好きな作家とかできて。
 まあ、まあ、その、好きな作家だけじゃなくて、当時テレビなんかもすごくね。山田太一さんっていう人が僕は大好きなんですけど。山田太一さんとか、あと倉本聰さんのドラマとか、非常にその時代、いいテレビドラマ…、今見てないから分からないですけど、今もきっといいテレビドラマあるのかもしれないですけど。そういうものでですね、山田太一さんなんかまさにそうなんですけど、普段、普段、本当に普通に生きている私たちのこう、感情というか、そういう生活の***(00:21:23)何か、大げさな大文字の悩みとかではなくて、生活上の些細な些細な、非常に細やかな悩みとか、そういうものを非常にうまくこうドラマにしているなっていうんで、そういう山田太一さんのドラマをこう、すごく愛好して。出ている脚本集、全部買って読んでみたりとかですね。色々こう、本を読んでいるんですが。
 まああと、まあよくあるように太宰治とか、坂口安吾とか。あとは【深沢一夫】(00:21:56)って、まあいわゆるライターって言われるようなね、作家の人たちとか。あと何だろうな。あとまあ、北海道に行く直接的なきっかけになったのは、ムツゴロウさん、畑正憲さんとかね。彼は今北海道にはいませんけど。それから、あと北大入るきっかけは「獣医さんになりたかった」っていうのがあって。それはあの、動物小説。椋鳩十ってみなさん知ってます? 教科書に『大造じいさんとガン』とかって。(笑) 知らないかな。今、最近の教科書って、

岡本 大好きでした。

渡辺 ね、すごい小説ですよね。動物小説なんかで、動物をね、擬人化せずにちゃんと、動物を動物として、人間と動物の距離感をきっちり書くような作家なんですけど。
 ある意味、私、職業的にライターになったのは、吉村昭さんっていうね、作家の存在がやっぱり、非常にまあ大きいんですけど。吉村さんも動物をよく描きました。椋鳩十と吉村昭さんとの描き方というのは、割と僕の中では共通っていうか。
 まあそういうふうに、よく本を読むんですけどね。読みながらね、すごくその作家、作家というか、その作品にこう感動したり感銘を受けたりだとか、「こういう表現の仕方をすれば、こう、自分が日々抱えてる思いが表現できるんだ。」と思ったりするんですが。まあやっぱり所詮は人が書いたものなんですね。自分はちょっと、まあ山田太一さんと【比べてみても】(00:23:43)、「自分はちょっと、もうちょっと違うあたりかな。自分の状況はちょっとこういう感じではないんだな。」と、いうような思いも同時にほら、誘発されたりするでしょう。他人の本を読むことによって。まあそれで、やっぱり自分の思いとか自分の感情というのは自分で書いていくしかないんだな、っていうふうには思ったのが、そもそも自分で文章書いてみようかと思ったきっかけですね。それがまあ間接的なきっかけ。ライターっていうか、物書きになりたいっていう間接的なきっかけだとしたらですね。
 まあ、で、小説とか書いてみたんですけど、さっぱり、1ページで(笑)。作品を書き始めるんだけど、完成したためしがなく、ですね。でまあ、「自分はやっぱり才能ないのかな。」とか「自分は、あまりに私の、自分の人生が平凡すぎるから書けないのかな。」と、色々こう思ったりしてたんですが。まあその時にノンフィクションってものに出会うことになったんですが。
 それからちょっと、直接的なきっかけをお話ししますと。大学…、私、だから名古屋生まれで、それで小学校卒業するまで名古屋にいまして。で父がですね、転勤、仕事の転勤の都合で、大阪府豊中市に中学校から引っ越しをして。で中学を出て、高校も大阪の高校を出て。で浪人時代も大阪で過ごして、で北海道大学に入るために札幌に移り住んだと。で、それからまあ33年間【経つんですけど】(00:25:22)。
 で、北海道大学に入ってですね、キャンパス雑誌を作るんですね。『GOEMON』。で、鬼仏表っていう、分かりますかね? これはどういう雑誌かっていうとですね、鬼仏表っていいます。「鬼」「仏」。要するに、大学に入ると新入生が色々講義を選択しますよね。そん時に「この先生のこの講義は鬼。」とか「この講義は仏。」とかっていうのをですね、これまあちょっとページ***(00:25:53)ね。この「心理学の何々先生は仏。」とかね、「鬼」「超鬼」とか色々ある、「超仏」とか。あとですね、私当時、学生の時、塾の講師のアルバイトをしてたんですが、その塾の講師のバイトをしている学生5人ぐらいで講義を聴講して。で、話し方、構成、分かりやすさ、熱意、その他の***(00:26:23)、で総合評価。学生がですね、この講義を「優」とか「良」とかって評価する雑誌ですね。でまあこういう感じで。これ何かっていうとですね、「去年のレポート課題はこうでした。」とかね、「試験問題はこうでした。」っていうのをですね(笑)、雑誌にして売り出してたんです。著作権上大きな問題があるって***(00:26:51)思うんですけれど(笑)。あの、学生だから許されてたのかもしれないですけど。これはこういう感じの、これを雑誌にして、***(00:27:03)、生協の書店で売り出したところ、本当にあの、毎年春に新入生が入ってくると、レジの前に積まれたこの雑誌を買い求める学生でレジに長蛇の列ができ。長蛇の列ができるってことが本当に話題になって、3千部発行したのがあっという間に売り切れとかいう状態で。それでまあ、北海道ですから『北海道新聞』とか『朝日新聞』のね、全国版にもね、1回取り上げられたことがあって。あとそれからテレビ。ニュースがこう、「今北大で話題の」(笑)、…取材に来て。それでラジオにも出させてもらったりとか、そういうことで。で、そうこうしてるうちに広告代理店の人から、「ちょっとライターとして仕事をしてみないか。」っていうふうに声かけられたのが、この業界に入る一番直接的なきっかけですね。
だからそれまで本当に、何か自分なりにこう、何かこの文章を書いてみたいと思って小説を書いてみたりしたんだけど、どうも【最後の】(00:28:16)最後まで完結させられないっていうのは、自分は才能ないかな、と思ってたんだけど、こういう何かこう、こういう方向には向いてるかもしれない。雑誌を作ったりね、何かこう、記事を書いたりとか。で、あ、そうだ。これね、ウィキペディアに「鬼仏表」ってページがあるんですね※。ここにはですね、まあ色んな大学にこういうものがあるわけですね。で、東大もあるんですね。これは、時代錯誤社って、
https://ja.wikipedia.org/wiki/鬼仏表

立岩 僕、時代錯誤社に入ってました。

渡辺 え! そうなんですか?

立岩 はい。

渡辺 で、作ってました?

立岩 時代錯誤、あの、

渡辺 鬼仏表って言ってました?

立岩 鬼仏表って言葉は、普通名詞じゃないのかな? 違うのかな。それ、鬼仏表って言葉を作ったっていう記憶ってあるんです?

渡辺 あの、鬼仏表は僕が作ったんじゃなくて、代々、僕が入学した時から、色んな部活で、先輩から後輩に。何か、本当に表ですよね。

立岩 鬼、仏っていう、

渡辺 鬼仏表っていうのが、コピーされて、

立岩 そういう言葉はありましたっけ?

渡辺 ありました。

立岩 ありましたよね。

渡辺 で、出回っていたのを、で、これをちゃんとしたもの、雑誌にして売り込んでいくかって思って、僕はあの、パクったんです。

立岩 うん。僕はその時代錯誤社っていうサークルで、大学1年生のときと2年生の時、『恒河沙』っていう、学内サークルの、

渡辺 あ、『恒河沙』ってあります。

立岩 うん。その雑誌作ってました。

渡辺 え! そうなんですか?

立岩 うん。

渡辺 ああ、じゃ、

立岩 今でもあるよ。その雑誌今でもまだあるんだよね。恒河沙っていうのは、ガンジス河の砂っていう意味で、数の単位なんです。

渡辺 ああ。数の単位なんですね。

立岩 億、兆、何とかって言うでしょ、その億、兆、まああの…、ガンジス河の砂の数ほど多いっていう、数の単位らしいんですけど、その雑誌をやってました。へえ。ウィキペディアに「時代錯誤社」って出てくるんだ。びっくりした。

渡辺 (笑) で、北海道大学では、

立岩 そうですよね、北海道大学、

渡辺 今まあ、北大新聞部…、

立岩 あ、「渡辺一史」、出てきた、

渡辺 「ほぼ独力」…、これね、前あの、『読売新聞』に取材に受けたのを、あの、誰かが書いて、まとめて書いてくれたみたいで、こういうの一体誰が書いてくれるのか謎なんですけど。まあ、これが物書きになった直接的なきっかけですね。
 それで、北海道でこの雑誌編集にのめり込んで、人一倍授業に出ていたにも関わらず大学を中退するというですね、何かよく分からない状況になってですね。はい。ただ自分に必要な、卒業に必要な単位数は全然取っていなかったんだけど、まあ人一倍授業に出てですね、雑誌を作るために。それであの、先生の授業とか論文を批評するために、色んな先生の論文を読んだりしてですね(笑)、していたにも関わらず大学を中退してしまって。でまあフリーライター、フリーランスのライターになって。
 本当、色んな仕事をしたんですけど。とにかくどうやって食べていたかっていうのは、札幌ですから東京のように、東京とか関西のように雑誌メディアっていうのはあんまりないんですね。あるのは情報誌とか、あと企業のPR誌。例えばこういう、これはあの、あとで言いますけど、『北の無人駅から』っていう2冊目の本と直接関わってくるんですけど。JR北海道ではこういうPR誌を出していて、特急列車に乗るとこう、雑誌、座席のポケットに入ってますよね。JR東日本とか西日本はこういうのあると思うんですけど。こういうのをやったり。あと【最近よくやったのは】(00:31:58)、あの、各市町村のですね、観光ガイドブックとか、あと市町村勢要覧っていう、まあ要するに街を訪れた人に、この街はどういう街ですよっていうのを紹介するようなパンフレットを、昔はよく作ってたんです。で、最近もう不況になって、自治体っていうのはこういうパンフレットとか印刷物をまず作らなくなってしまって、大体はもうネットで済ます。しかも文章書いたり写真撮ったりするのは職員が何かちょちょちょっとやって、それでネットで、ホームページで公開して終わりみたいな。昔はちゃんとこうやって予算をかけて、こう、あの、いい本を、いい本を作ってて、「こういういい本作りましょう。」って企画をするんですね、企画を出して。企画を出してプレゼンして。で私だけでなく、私はライター、それから編集者がいて、それとカメラマンとデザイナー。で、大体4人でチームを組んでやるんですけど。まあこういう地方自治体の色んな仕事ですね。札幌でも「さっぽろ文庫」って、教育委員会が出している***(00:33:11)を書いたりとか。まあ例えばさっきの富良野市で言うと、倉本聰さんがいますが、インタビューしたりとか。まあ、こういう色んな仕事、とにかく種々雑多な。
 それでまあ、「どうやって食べてんですか?」って昨日立岩さんに聞かれた時にですね、おかげで、映画のおかげで昨年と今年は一応こういう仕事をせずに、あの食べていける収入をいただいたんですが。でも去年の始めぐらいまでですね、最近は、社史。社史、会社の歴史ね、会社の歴史。あの、例えば北海道の老舗企業で、去年やった仕事で言うと「丸彦渡辺建設」っていうすごい老舗の建設会社があるんですよ。それが創業100周年を迎えるっていうので、「100周年記念誌」みたいな立派なものを作るんですね。それを私が書いたんです(笑)。それはですね、創業が大正ですから、大体樺太時代から始まるんですよ。そういうのはね、なかなかね、並みのライターでは書けないんだけどね。一応北海道史を、まあちゃんと頭に入ってないとですね、なかなか(笑)。しかもその100年の歴史を2ヶ月で書いたりしますからね。100年を2ヶ月で書くって結構【すごいことなんですね】(00:34:38)(笑)。だからそういう仕事は割と、なかなかライターの中でもできる人は限られているので、そういうのが最近の食いぶちという感じですね。割とお金にもなるし。だから昨年、一昨年まではそういう感じで、まあ本当にライター業をやりながら、あと自分の好きなテーマを見つけてノンフィクションを書くと。
 で、バナナで言うとですね、えー、たまたま、えー、2000年、まあこういうふうに、こういう形でライターとして生活していた2000年のある日に、えーと、えーと、『北海道新聞』っていう北海道で一番シェアの高い新聞があるんですが、そこに鹿野さんとボランティアのことをですね、特集した記事が載ったんですね。【こういうふうに書いてある】(00:35:36)。これがバナナを書くことになったきっかけの記事がですね…、あ、これですね。これは1990年10月に、まあ「***」(00:36:08)っていう連載の中で、『京都新聞』もこういう記事よくやったりすると思うんですけど、この中で、まあ***(00:36:14)。これ鹿野さんですね、鹿野さんとボランティア。で、ボランティアを利用、募集して、こういう鹿野さんっていう身体障害、重度身体障害者が制度の未整備の中で自立生活をしていると。そのボランティアと鹿野さんの間には72冊のノート【があるんですね】(00:36:36)。介助ノートってのがあったってのは、ほとんどこれ、あの、本の企画そのものだったんですけど。そういう記事が載ったんですね。
で、『北海道新聞』には本を出す部署、今、北海道新聞社出版センターって言いますけど、当時は出版局って局があって、その後編集者と、まあ色々色んな仕事が、さっき言ったライターの仕事で面識があったもんですから、その編集者がこういう「この鹿野さんとボランティアのことをちょっと1冊の本にしてみないか。」っていうことで声かけてもらったのが、これが2000年。ま、この記事が出た直後ぐらいから。で実際に「じゃあやってみよう。」ってことで、2000年の4月から私は鹿野さんの家にこまめに取材に入って。で2000年の4月から、本が実際に形になったのは2003年の3月で、ほぼ丸3年間かかって本ができたってことですね。でその間に、まあ何と言うか悲しいことに、鹿野さん自身は2002年の8月にお亡くなりになってしまって、その完成した本は見ることができなかったという。そういうあれなんですけど。これがまあバナナを書いた経緯で。
で、バナナを書くことによって一応賞をいただいたり、そのまあ色々、まあ本自体も割と売れました。だから私今回映画化で収入がまた跳ね上がったんですけど。だから私の収入っていうのはね、300万、200万、200万、600万(笑)、400万、1,000万、そんな感じなんですね。であの、これもですね、単行本で5万5千部、今のところ売れてまして。だから1,800円でしょう、1冊。だから結構な額でしょう。それが1度目のバブル(笑)。人生1度目のバブル。
 で2度目のバブルが『北の無人駅から』っていう本で。これ1冊2,500円の本が、まあ1万3千部売れて。あとまあ賞を四ついただいたりしてですね。その賞金がまた一つの賞で200万とか。これが2度目のバブルで。
 あ、何か、品がないですね、こういう話。

立岩 そういう話をしてください。今日はそういう話を、

渡辺 そういう話を(笑)。今日はそういう話なのね。あの、何か、録音とかしないでくださいね。

立岩 僕、してます。

渡辺 (笑) はい。で、3度目のバブルが、ちょうど昨年の暮れの映画化っていうことですね。原作料含め…、文庫本が初版2万部で。ちょうどあの、えー、文庫化して、2013年に文庫化して、5年経って映画化【だけど】(00:39:43)。5年の間でようやく***(00:39:45)されるかなっていう感じの時に、捌けるかなって感じの時に映画化になって、何と7万部増刷ってことになったんで。7万部増刷したっていうと、いくらぐらいですかね。6、700万ぐらいですね。あとさっき言った、原作料とか。あとまあノベライズ本っていうのが10万部発行して、680円の本なんですが。それはまあ私の取り分は1パーセントですね。ノベライズ本ていうのは、映画の脚本を元に、さらにノベライズ専門の【ほりかわ(前川?)】(00:40:22)さんっていうもう超売れっ子の、朝ドラなどのノベライズ本を手がけていて、本当に順番…、あの、編集者が順番待ちしているようなノベライズ本専門のライターなんですね。そういう人がいるんですね、私も初めて知ったんですが。その人が脚本と映像…、映画の映像を見ながら、で、それを小説を読むように読める…、小説として読めるように本にしていく。要するにまあ私が原作者で、原作を元に映画用に脚本家の橋本裕志さんていう人が書いた脚本、それと映像を見ながら【ほりかわ(前川?)】(00:41:01)さんっていう人がノベライズ本を作って。で、***(00:41:04)3人で共作なんですけど、あとは映画の製作委員会っていうのも印税を持っていきますので、で私自身は1パーセントっていうことで(笑)。ま、それでもね、10万部なんで、70万…、6…、70万くらいかな。だから結構な収入で。ま、それが3度目のバブルなんですが。
 ま、こういう感じで。でもね、収入より、そう。いきなり儲かったりするとね、今年税金めちゃくちゃ大変なんですね(笑)。本当に。まあ本当にあの私、まあでも、曲がりなりにも社会保障とかそういうあの、ね、障害のこととか書いてますから、「税金が大変だ。」なんて口が裂けても言えないんですが(笑)。まあとにかく大変な税金なんですね。今年まだ来てないですね。所得税はもう終わりましたけど住民税とか、あと国民健康保険がね、札幌は異様に高いんで。これも100万ぐらい持っていかれるらしいですね。だから所得税100万ぐらい。(笑) 住民税が70万ぐらい。国民健康保険100万ぐらい。あと消費税もあるよね。すごいよね。400万ぐらい***(00:42:26)ですね。そういう感じですよ、だから。そうやって、まあ儲かったはいいけど、翌年また大変な思いをして。結局まあ、何というかまあ、本当にあの、日々、普段はまあ、赤貧洗うが如き生活を私はしております(笑)。
 それで、あとそうだな。もう一つだけ話すとすると、『北の無人駅から』という2冊目の本は何で、どういう経緯で出したかっていうのをですね。これもまた…、まあ言ってみれば、私はフリーランスのライター、まあさっき立岩さんが言いましたが、岡本さんは組織ジャーナリズムに属する人ですね。要するにその違いっていうの何なのかっていうのは、すごくね…。あ、こん中で、若い方で、将来ジャーナリストとかそういう方面、マスコミとかそういう方面目指したいって人います? あ、まあいても恥ずかしくて上げられないですよね。あの、やっぱ組織ジャーナリズムにできることもあれば、私みたいにフリーランスだからできることっていうのあるし。それがね、本当にあの、どっちがいいかとかどっちが悪いってわけでもないんですが、その違いはね、よく知っといた方がいいんじゃないかな、というふうに思います。
 さあそれで、『北の無人駅から』っていうのはどういう本かっていうと、えっと、こういう本で。これ読んだことある方いらっしゃいますか? ああ、一人だけ。これは800ページもありまして。バナナも相当分厚い本なんですが、バナナが薄く見えるほどに分厚いっていう、まあ何て言うか(笑)、***(00:44:26)。これ重量測ってくれる、何かネットに***(00:44:29)、このとてつもなくこの分厚い本を。***(00:44:34)、まあ1キロぐらいあるんですよね、これね。何かこう、女性のシェイプアップにいいぐらいのこう、***(00:44:40)ですが。
 でこの中で…、これはどういう本かというとですね、北海道内にある無人駅…、無人駅って、みなさんどうかな、地方出身の方って、北海道出身っていない? …は、いないんだ。東京、関東圏以外出身の方っていますか? …は、結構いますね。そうすると無人駅って割と身近じゃないですか? 関東圏の人ってあんまり、ね。無人駅って。
 私はなぜ無人駅に惹かれるようになったかっていうとですね、北海道にいました、さっき言ったムツゴロウさんとか、倉本聰さんの『北の国から』っていうドラマがあったんです。あ、ちょっと待ってください。
 それで、北海道の大学に入ってすぐバイクの免許を取ってですね、北海道中を旅して回るようになったんですね。ていうのは私が大学に入ったのは1987年なんですが、それはどういう時代だったかっていうとですね、【カニ】(00:46:13)、ミツバチ族っていうの、聞いたことありますかね? 要するに本州からバイクに大荷物を積んで、すごいこう、若者たちが続々と北海道にやって来て、北海道中をエンジン音を響かせながらブンブン走り回るっていう、そういう時代だったんですね。えー、あった。すみません。こうね。でこういうふうに、あの、もう本当にね、シーズン、春から秋にかけて北海道中、こういう大荷物積んだバイクがこう、走り回る。これが80年代のブームでした。これよりちょっと前になると、カニ族って言う…、言われる若者たちの時代で。それはあの、大きいリュックを背負って、北海道、まあ北海道だけじゃなくて日本全国こう、旅する若者たち。で、そういう若者たちのことをカニ族というか、まあ、リュックを背負った姿がカニのようだったので、カニ族って言われたんですが。でそのあと出現したのがミツバチ族で、私もこの一人としてですね、この、こういうので載ってますが。北海道中をこう、旅するんですね。で、ちょっとこれ恥ずかしいですけど、まあ当時の写真ですよね。こうやって、で旅するんですが。
 だから昨日メインストリーム協会が韓国で旅行した時に野宿して、駅で野宿して***(00:47:53)ですが、あれはまさに北海道、80年代の北海道でですね、駅前で、バイク乗り***(00:47:59)みんな寝袋をザーッと敷いて寝ているような、そういう光景がもう当たり前のようになってですね。私はどちらかというとちょっとあの、旭川とか稚内とか富良野とかそういう有名な駅からちょっと外れた、全然人気(ひとけ)のない無人駅、ね、こういう緋牛内駅、石北本線て駅ですけど、そういうところに寝袋を敷いて寝たりだとかね、そういうのが結構大好きだったんですが。そうすると、ちょっとするうちに駅っていうものの…、何かバイクで旅行しながらね、鉄道乗ってるわけじゃないんで、駅…、観光地、観光地っていうかその街に行くとまず駅に行って、っていうような、そういうあの、なぜか駅にこう惹かれるわけですよ。で「駅って何だろう?」っていうような、すごくね、あの、考えるようになったんですね。
 例えばこういう駅ですよ、筬島。これはあの、道北地方にある音威子府っていう、まあみなさんご存知ないと思いますけど、稚内と旭川の中間ぐらいかな。ですね。こういう無人駅ね。すごいでしょう。「何でこんなとこに駅があるの?」って思いません?(笑)
 だから北海道を旅してるとね、要するに「何でこんなとこに駅があるのか? そもそも」、そういう駅がいっぱいあるんですね。でそれを辿ってみて、やっぱり駅の魅力っていうのは、まず「駅は町の玄関口」とか「出会いと別れの舞台」とかってよく言ったりしますが。やっぱり「何でバイクで旅行してるのに、駅にみんな集まってくるのかな?」って、それはまあトイレ使えるだとか、あと水道。まあ今はJRちょっとなかなか厳しいから、トイレとか水道をそう簡単に使わせてくれないんですが(笑)。 この80年代当時っていうのは、結構やっぱり、まだ若者に優しい時代で。やっぱりその、機能的にも、駅に集まるのはトイレとか水道とか使えるっていうのもあるんだけれど、やっぱり何かその、駅っていう独特のこの空気感っていうのかな。そっから旅立って行く人とか、久しぶりにそこに帰ってきた、そこを故郷(ふるさと)にしている人たちとか、あるいは別れとか出会いのこう色んな人の、人間の感情がですね、本当に目に見えないんだけど集積しているような場所っていうか、そういう空間。その駅って空間そのものに惹かれるようなところがあったかなっていう。その、駅、「駅って、駅の魅力って何だろう?」って思って、ですね。すごくこう、感じたんですね。
 で、もう一つはさっき言ったように、「こんなところに何で駅があんの?」っていうようなことを辿っていくとですね、やっぱり駅、無人駅っていうのは、何かその集落とか地域の過疎化の象徴なんですね。なぜかというと昔から、国鉄時代はどの駅にも実は駅員さんがいて、その駅の前には商店街みたいなのがあって、あと丸通っていって今の日通の前身ですけど、その、要するに駅っていうのはその地域で暮らしている人たちの暮らしの息遣いがすごく身近な場所だったんだけど、時代とともにその、都市への一極集中とかね。あと北海道の場合、観光の衰退とか。漁業にしたってニシン漁っていう巨大なこう、産業がですね、一瞬のうちにニシンが全く途絶えてしまったりとかですね。あと林業もそうですね。林業なんか、本当に北海道を支える一大産業だったのがですね、外国、外材の方が安いっていうことでそっちの方に***(00:52:01)として、林業が産業として成り立たなくなってしまうという。そういう産業だとか、時代とともにこう地域が過疎化していくその象徴として、無人駅***(00:52:14)。で駅だけが残ってるけど、その周辺の集落そのものが全く消えてしまったっていうので、そういうようなことをだんだん調べていくと、【感じ入るようになったんですね】(00:52:28)。で、『北の無人駅から』で取り上げた駅っていうのは、本当に珍しい駅がたくさんあるんですが。まあそういうことを掘り下げた本です。だから要するに地域の、地域っていうかその無人駅っていうものを通して、日本というか北海道が辿ってきた近代化の道筋、それからそれは当然日本そのものが辿ってきた道筋だとも思うんですが。そういうものを無人駅を通して描けないだろうか、というようなことに挑戦した本ですね。実際に描けたかどうかっていうのは色々あの、本当にあの、割とまあ難しいテーマなんで、まだこれから。まあ私、福祉とか障害とかは本当に一生のテーマだと思うんですが、まあこの「地方って何だろう?」っていう。私も名古屋で生まれて大阪で育って、で札幌に今ずっと***(00:53:33)、札幌、北海道にいるんですけど。「なぜ自分は北海道っていうところに惹かれているんだろうか?」とかそういうことも含めて、もう一つの仕事として、やはりその「地方って何だろう?」ってことをですね、考えていきたいなっていうのがもう一つのテーマなんですね。
[00:53:49] ちょっとこの辺で、長いんで終わりにしたいと。これもあの、この本に出てくる奥白滝駅って、こういう…、これはもう駅でさえなくなって、取材してるうちに廃止されて、信号場という形になった駅ですが。駅前風景、これです。ね。「何でこんなとこに駅?」 これが調べてみると、実は昭和40年代まで旅館が、この駅前にですね旅館が1軒建ってて。(笑) ね。で、この旅館の女将さん、大庭(おおば)ちえこさんっていう人ですね。大庭さんっていうのは、今はちょっと、奥白滝駅っていうへんぴな【とこだけど】(00:54:31)、白滝、白滝っていう集落があった【市街地】(00:54:34)に、もうなくなった、一昨年なくなってしまったんですけど大庭家っていうのがあって、この辺の名士なんですが。ここに行くと白滝時代の色んな遺品が飾られていて。で、郷土史に詳しい方なんですね。奥白滝っていうそのさっき、もう駅前に何もなかった奥白滝駅の、一応人口がですね、昭和20年代、3万人か5万人、1日あたり100人前後が利用していたんですね。こういう話って何か、面白くないですか?(笑) 面白いでしょう? 何かこういうの、結構たい…。あのね、福祉のことを書くと、割と女性の人たちが講演するとよく来てくれるんですけど、『北の無人駅』関係の講演すると、大体のお客さんって高齢の男性が多いですね。(笑) すごい極端なんですよ。あの、何か興味ありません? こういうものって? あんまりないですか? こういう本なんですよね。
 まあちょっと、このへんでちょっと岡本さんに。すいません、はい。こういう形で、特に私はフリーなんで、自分の本当に興味関心に基づいてテーマを取っていく。まあそれと違って、やっぱり組織ジャーナリズムの中にいる岡本さんてのは、やっぱり社会的な責任っていうのをね、メディアとしての責任とか権力の監視とか、そういうのを背負って仕事されてると思うんですけど。まあその違いはこう、まず知っていただければ。すみません、長々と。


UP:20211204 REV:20220908
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