山田真氏インタビュー
2019/05/03 聞き手:立岩真也 於:東京・山田氏宅
◇山田 真(1941/06/22〜,小児科医)
◇文字起こし:ココペリ121 2019/05/03 235分 聞き手:立岩 真也
◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
※2007年のインタビュー
◇山田 真・立岩 真也(聞き手) 2007/12/23 「山田真に聞く」,於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜 主催:生存学創成拠点
山田 それでね、たまたまなんかJICAの関係でモンゴルの脳性麻痺の子どもたちなんかの、その療育みたいなことを教えに行くっていうグループがあって、それの***(00:00:20)するのが、私の大学の同級生だったんだよ。で、中島っていってね、北療育センターってあそこの副院長、最後は副院長かな、だった奴なんだけど、整形外科の。彼が何て言うか、ボイタを始めた一人なんだけども。彼がリーダーみたいなことで、いろんなパラメディカルの人でグループを組んで向こう行ってたんだ。というようなこともあって、で、まぁ何て言うか、もう脳性麻痺の子だってほとんど放っとかれてるっていう状態だから、それ以外の知的障害だとか、なんかの子どもって全く何にもされてないっていう状態で。それでなんか梅村もそっちのほうで、それもJICAの中に「ニンジン」っていうグループがあって、で、結局今は、なんか、JICAの企画としては今年で終わりっていうんだけど、また別のグループを作って向こうと関わるっていうことになってるんで、その1年の後だいたい、年に3回、ひと月ずつ2?3回行ってるのかな。
立岩 ひと月ずつ2〜3回も。全然知らなかった。
山田 (笑)そんなこと、そんなことをしておる。そしたら「障害児を普通学校へ全国連絡会」なんかも、そのなんかモンゴルとの交流みたいなのがあったりして、それで全国連絡会の人たちも一緒になって、なんか新しいグループ作って向こうとやれっていうことだけど。まぁ何て言うかな、いわゆる、だいたい、梅村が行く前の私の同級生たちがやってたのは、早期発見、早期療育体制だから。なんかそういうのって、もうああいう地域だと、なんか言われた通りにやるっていう感じなんだよね。進んでる日本が、そうやってるんだったらっていう感じで。それがいいことか悪いことか、ちょっとよくわかんないようなところがあって。その辺で内部では意見対立なんかもあったっけど、今度は新しいグループで行くから、だいたい考え方が似てるんで、まぁいいんだろうと思うんだけどね。
立岩 2011年の時はもう行ってらして、最初に行ったのが?
山田 だから2011年に、2010年から、10年の4月…6月かな、6月だね。
立岩 そんときはもうウランバートル大学だったんですか?
山田 ウランバートル大学だった。それで大学は1年で、あとはだから日本へ帰ってきて、なんか外語大のね、あれ何なんだ、聴講生、学生だって言ってたけど(笑)、学生証持ってんだけど、外語大の、外語大のモンゴル語か。
立岩 モンゴル語を学ぶみたいな?
山田 うん。だけど、何て言うか、モンゴルから交代で教授が来てんのね、モンゴル人の教授が。で、それが4?5年で交代するのかな。で、その人のなんか医療コンサルタントみたいになっちゃった(笑)、私たちが。娘さんがアトピーだとかなんかっていうのでお薬出したり。それからやっぱりね、向こう遅れてるから、例えばガンになったとか、なんかって言うと、日本の病院で診てもらいたいとか言って、向こうから来るんだよね。そういう人の斡旋をするとか、なんかっていうこと、やるようになったから。それで、だからここへも何人か泊まりに来たりしたし。非常に親しくなるっていうか。教授って言ってもね、まだ40ぐらいの人だから、だから、梅村なんか自分の母親みたいなもんだから。うん。どっちがなんか相談してるかよくわかんないけれども。なんかずっと行っていいみたいで、頑張って行ってるよ(笑)。[00:05:30]
立岩 まだ?
山田 行ってる。木曜日ごとに行ってる。
立岩 よくわかんない。何だろう?
山田 モンゴル語の勉強してる。
立岩 何ていう資格っていうか、
山田 何なんだろうね、あれ?
立岩 単位履修、何だろう? 何だろう? 研究生? 何だろう?
山田 かな?
立岩 入試を受けたわけじゃないんでしょう? だって、今更ね。
山田 そうそう。
立岩 そんなもの受けないですよね。でも出入りできてるんだ。
山田 出入りできてる。うん。
立岩 それは何? 311、戻って来て、
山田 戻って来て、だから、翌年から行き出したのかな。3年、3、うん、2012年から行ってるんじゃないかな。
立岩 めっちゃ元気ですね。明日帰っていらっしゃる?
山田 明日帰ってくる。
■
立岩 山田さんは行ったことあるんですか?
山田 行かない。
立岩 全然?
山田 全然行かない(笑)。
立岩 全く?
山田 だいたいね、だから、海外行ってない。
立岩 全く?
山田 アメリカ、3泊4日で行った。
立岩 3泊4日で観光旅行? それ以外はこっちにいる、いる人なんですね。
山田 とにかくね、何て言うか、言葉が喋れないコンプレックだって言われてるところもあるんだけど、結局は休みがとれない人で、長期間の休みは取れない。だから今回もね、困っちゃってさ、こんな10連休とかいうと。患者さんにどう言うんだっていうのがあって。結局もう職員は休みたいって言うし、妥協して火曜日だけやったんだけど。火曜日はやった。今は休んでる。今は休んでるけど、なんかすごい申し訳ないなぁと思いながら休んでるんで。だからすごいこれ困るんだよね。俺、あのだから、ほんとポックリ死にたいっていう、別にピンコロ好きじゃないけど、だいたいその全部来てる人を、まぁだから長い人ってほんとに、50年近く通ってる人いるからね、俺50年になるから。八王子で始めて。
立岩 最初っからっていうか、八王子の診療所の時からずっとおんなじ人?
山田 今だから最高齢の人って97で通って来てるけど(笑)、だからこれを全部、辞める時にどっかの病院へ紹介しなきゃいけないわけだよ。そうすると泣かれるっていうか、だからこの頃は、ほんとに何て言うか、「私よりに先に死なないでね」とか(笑)、言われる歳になって、だからできなくなって紹介状書くっていったらすごい大変だから。ここはね、だいたい梅村が子どもやって、私は水曜と木曜に大人を診るっていう。
立岩 水曜、木曜?
山田 …にしてたんだよ。だから子どもはね、大丈夫なんだわ、だいたい。慢性病がないから。急性病だから、他へ変われるんだ。でもね、やっぱりこう50年うちへ来て血圧の治療続けてきた人って、やっぱり今更ね他行けって言われても行けないっていう。だから、俺のほうのどうするんだって言って。結局だから、今思うと、こっから八王子まで通ってくる人が10人ぐらいいるんだけど、行く所ないから。八王子まで行きますって言って(笑)。
立岩 血圧の管理っていうか、そういうような治療…、
山田 まぁそうだね。血圧だとか、心臓が悪いとかね。
立岩 慢性の体ので通うとすれば、山田さんに来る。断れないからずっとやってる。[00:09:51]
山田 運転手さんでね、糖尿病の人がいて、タクシーの運転手なんだけど、時々そのタクシー乗ると、「ほんとに先生とこがなくて困ったよ」って言って。とにかくね、私だいたい薬も最小限だし、検査も最小限にしてるから安いんだけど、あまりずっと通ってきてる人はそれが当たり前だと思ってるから、安いっていうのわかんないんだけど、こっから他へ変わったら、なんか3倍ぐらいかかるって、お金が。うん。それでとてもあれじゃあ行けないっていう、先生のとこだったら良かったのになっていう。
立岩 その人も変わっちゃったけど、変わった結果がそうだったと。そういうこともあるって。
山田 うん、そうそう(笑)。乗る出会うたんびに言われるから、ほんと、ほんと切ないっていう。
立岩 ある種そうですね、辞められない職業ですね。
山田 辞められない職業だね。辞めるのって大変っていうか。
立岩 私はどうなるんだろうな。大学院生が来るかぎりみたいな。それでもね、僕、彼らが博士論文書けば、一応お仕事は終わりだから。
山田 そうだよね、そんなに長い付き合いってね。うん。
立岩 いやいやいや。でも今日はありがとうございます。どうもどうも。ではお手紙を、
山田 カレー持ってくるわ。
立岩 そのカレーが謎で。何ですか、カレーって。
山田 いや、これだから、あの、だいたいその水曜と木曜日は私、家事当番だから、だから子どもの弁当も作ってたし、ということでやってるやん。で、自分でも作らなきゃいけないから、だから(笑)。
立岩 カレーありがとうございます。
山田 カレー嫌いっていう人あまりいないから、カレー好きだよね?
立岩 好きです。
(カレーの準備)[00:15:55]
■
山田 昨日1日だけ、ちょっと日帰りで岐阜まで行ってきたんだけど、そしたら近所の人が、
立岩 でも岐阜のご実家っていうのは、どうなってるんですか?
山田 あのね、スマホで行くと出てくるけど、山田家住宅というのになってて。で、20年無料で貸すっていうことにして市に。だいたいあの辺の家はもう長いうなぎの寝床式の家で、こっちの道からこっちの道までずっと1軒っていう家なんだけど。で、裏のほうは、ちょっと泊まれるようにして、で、表のほうだけちょっと改造して。で、今は何て言うか、灯りアートっていうか、和紙で作ったいろんなアートの展示場みたいにしてる。昨日は無料休憩所かなんかになってたけど。
立岩 市に無償で貸してるっていうか。
山田 市長が1年上でよく知ってる人でね、だったもんだから。
立岩 岐阜の岐阜なんですか?
山田 岐阜県美濃市。
立岩 美濃市か。
山田 うん。昔はね、もうちょっとアクセスが良かったんだけど、今はアクセスが悪くなってね。ちょっと行くのも大変で。
(カレーの準備)[00:19:33]
立岩 すごい、すごい。
山田 あれ、皿持ってこなかったっけ? (少し席を外す)じゃ自分でつけて。
立岩 はい。山田さんちでカレーをいただくとは、思ってませんでした。ありがとうございます。
山田 いつだったかな、まつださんたちも一度、
立岩 まつださん? (少し間が空く)[00:21:54]
立岩 いただきます。(カレーをよばれる)美味しいです。結構ちゃんと作って、
山田 自分の好きな味っていうか、だいたいだから、やっぱりこういう、ほんとに何て言うか、人間はお袋の味に勝てないっていうか、母親に味覚を作られてるっていうふうに言われてて。お嫁さんは結局、お母さんに勝てないという(笑)、言われてるんだけど。だいたいお袋の味だなぁと。
立岩 その美濃には親戚の方たちなんかがいらっしゃるんですか?
山田 そう。親戚の人に家の管理をしてもらってるっていうか、お掃除をしてもらったり、なんかして。ただもうその管理をしてもらってるおばさんも85ぐらいなので、あとどうするかってことが。まぁ今、娘の婿が、うちも面白いんだよ。うちの娘の婿はだいたい中学もほとんど行ってないのかな。で、高校は定時制の夜間を受けて、2日ぐらい行ったって言ってたかな(笑)。あとは、なんか池袋の辺りではちょっと有名な暴走族のサブリーダーみたいなのだった奴なんだけど。その後自分でカナダ行って、カナダ人の嫁さんもらって。で、向こうでいろいろ仕事して帰ってきて、今はそのウェブクルーっていう不動産屋のでかいのみたいな、総合総社みたいな、それの子会社の一応社長になってるんだけど、婿が。そいつがなんか、美濃が気に入って、このゴールデンウィークも5日ぐらい友達連れたりして10人ぐらいで行って、うち泊まってて。彼が好いててくれるから、何とか始末してくれるだろうと思うんだけど。[00:25:33]
立岩 その商家というか、どういう?
山田 いや、うちね、医者だから。
立岩 お医者さんなんだ。代々なんですか?
山田 代々医者。えっとね、だから先祖がわかってるのは16代。
立岩 え、なにそれ。
山田 16代で(笑)、医者が10代。医者10代っていうのは結構珍しいみたい。
立岩 10代すごいね。
山田 それで私で切れたっていうか、俺ひとりっ子で。子どもが3人ともうち、大学へも行かなかったからね。ここで終わり。
立岩 真さんが最後っていうか。
山田 うん。やっぱりね、重荷で。なんかうちの親父もおじいさんも兄弟いるんだけど、みんな女で、男1人だったもんだから、だから継がなきゃいけなくて。で、おじいさんなんかは医者になりたくなくて、家出をして、岐阜の市内で車引いてたんだけど、そのお父さんってのが、そのうち車引くのは飽くだろうから、それまで待ってろって言ってたら、ほんとに車引くのに飽いて、ほいで戻ってきて。で、医者になったっていう。親父も本当は医者よりも、なんか学校の歴史の先生かなんかになりたいっていうのがあれだったんだけど、継がなきゃならなくて。で、親父ね、二・二六の時は近衛だったんだよ、あれ。卒業してすぐ入って、で、志願で入ると、徴兵されたんじゃないとすぐ偉くなるんだよね。だから兵隊の位なしっていうか、最初がもう准尉かなんかで。だからやっぱり戦争の時は楽だったっていう(笑)。結構終わり頃大変だったんだけどね。21年に引き揚げてきてチフスにかかってて、俺、あの…、
立岩 21年、46年に戻って、大陸からですか?
山田 向こうから戻ってきて。それでもね、だからノモンハンの時は、あの辺にいたんだよね。
立岩 ノモンハンの辺りにいた?
山田 うん、ノモンハンの辺りにいたの。で、
立岩 軍医として行った?
山田 軍医として。だからそこに731だっけか。記事になってて、あの辺だから、それはもう関係がないってやってたし。それから当時看護婦さんだった人が、その頃の思い出みたいなものを書いて送ってくれたんだけど、親父は大尉だったんだけど、山田大尉はすごい優しい人で、て書いてあったんで、少し安心したんだけどね。
立岩 731〔部隊〕は京大系の人たちが結構関係したって言われてますよね。
山田 そうだよね。
立岩 その戦争行ったりっていう以外はずっと、その岐阜の美濃のお医者さんを10代やってたってことですか? 山田家は。
山田 だから10代、そこで。で、親父は継いでもらいたかったんだろうと思うんだよね。俺と一緒にやりたかったんだと思うんで。だからまぁ何て言うかな、ほんとに偶然で、その高校もさ、私が入る年に…高校へ入る年に、岐阜大学区制になって岐阜まで行けるようになったんだけど。そうじゃなければ、町内にある武義高っていう高校行くことなって。だいたい町内に旧町内は、合併する前の旧町内は、小学校が1つ、中学校が1つに高校が1つっていう所で、これが並んでててね。で、運動場共有してるようなとこだったから。だからもうその高校行くことに決まってたんで。そうするとね、たかだか名大へ行けるかどうかっていう学校だったから。で、お袋は東大病だったので。それでお袋の父親っていう私のおじいさんにあたる人が、静岡の人なんだけど、すごく頭がいいんだけれども、うちが貧しくてそれで上行けないっていうので。で、あの頃は面白いね、そのお金持ちのうちへ婿へ入って、で、そこでお金出してもらって、で、磐田市の農学校へ行かしてもらったのね。で、そしたら特待生かなんかで、すごい勉強ができるっていうので、それで高等師範になんか推薦みたいな形っていうか特待生だから、で行けたんだけど、高等師範の上に文理大があったわけだよね。で、高等師範っていうのは、なんだ今の教養みたいなもんかな、にあたるのかな。うん。で、文理大までは行けないっていうか、お金がなくて。それで高等師範で終わったんだよね。その後師範の校長になって転々としてて、それで秋田だとか福島だとか群馬だとか、最終任地が岐阜師範の校長で。で、その時にお袋と親父がお見合いすることになって一緒になってるんだけど。そのおじいさんが、すごいやっぱり文理大へ行けなかったっていうのが悔しいっていうか、結局力があるのに学歴で負けてるっていうね。うん。だから、わりあい田舎の師範の校長だったわけで、うん。それでやっぱり何て言うか、息子は東大へ入れるっていうのになって。4人子どもがいたんだけど、3人女で、1人だけ男だったんで、それをガンガンやって教育パパになってたんだよね。それは私の叔父貴にあたるんだけど、彼は、彼グレちゃって(笑)。結局東大落ちて、中央の法科へ行ったんだけど、それでも爺さんが、中央の法科なんて目じゃないっていう感じで。それで今度は孫の代っていう話になって、私が初孫だったんで。うちの母親が、おじいさんの希望を果たすっていうことが、自分の仕事みたいになっちゃったんだよね。
立岩 その4人兄弟の一番上だったんですか? お母さんは。
山田 叔父貴がその、中央行っちゃった叔父貴が一番上で、
立岩 上で、男、女、女、女?
山田 女、女、女なんだけど、お姉さんいたけど、お姉さんは若くて結核で死んでるんで。
立岩 じゃあその、その上から3番目っていうか、そんな、
山田 私はもうなんかね、そういうのって、わりあいちいちゃい時からそういうふうにされてたっていうか、うん。でもそれがね面白いんだけど。とにかく東大にはやりたいんだけど、将来医者になるとしたら、京都に松田道雄さんっていう人がいて、東京に【内藤よさぶろう】(内藤寿七郎と思われる)(00:34:41)さんっていう愛育病院の院長だった人だけど、内藤よさぶろうさんっていう人がいて。
立岩 ***ですよね(00:34:47)、お母さん、その2人の下でっていう、えぇー、みたいな。[00:34:50]
■東京
山田 というふうに言ってたんだよね。だからあんまりそういう意味では大学の教授になれとか、病院長になれとかいう感じではなかったというか、町医者が好きだったんだろうと思うんだけど。それで、でもう親父はだからそういうのがあんまりなくて、東京に出しちゃうと帰ってこないと(笑)。だいたいまぁ東京の大学へ行くっていうのがすごく珍しいことで。東女行った人とか、うちのその市長だった人は1年上だけど、明治だったけどね。もうなんか東京の大学へ行くっていったらすごいことで。で、そういうのは、もう帰ってこないと。だから名古屋にしてほしいと親父は思ってたみたいだけど、とにかくお袋が強くて、うん。お袋はとにかく、あれだからすごくよくわかったよね。俺、東大の入学式の時って、あれ、お袋の入学式だなと思った(笑)。そいでね、それがまたいろいろ複雑でね、やっぱり何て言うかな、行くんだけど、きっとその、例えば父親が東大で母親がお茶の水とか、そういう人たちばっかりだろうと。で、こんな田舎で、自分はやっぱり高女で終わってるから、前橋高女の出身だから、その学歴もないと、田舎者だと。だからなんか行くのも恥ずかしいっていうか、どういうふうにしていいかわかんないみたいな話だったんだけど。そしたらちゃんとね、愛媛の今治のね、漁師の息子がいたんだよ、木原っていう(笑)、同級生で。そのお母さんとずっと話してたっていうから、ちゃんと見つけるもんだなぁと思って。
立岩 入学式の日に、同じ階級の人と知り合ってっていう話か。
山田 そう。だからその辺はね、何て言うか、親父、日大だし、で、おふくろ高女だしっていう。そういうのってやっぱり、なんかこうコンプレックスになってたね。
立岩 岐阜に戻るっていうことは、もう、考え、
山田 私? 東京好きですって(笑)。
立岩 居ちゃったら?
山田 もうとにかく、もうほんと駿台行ってる間なんか行って、東京に居られるということで。俺、今もそうだもん、銀座あたり歩いてると、
立岩 東京好きなんだ、僕も好きですけど。
山田 ここにずっと住んでられるという。だけど梅村好きじゃないから(笑)。
立岩 当時の駿台ってどこにあったんですか?
山田 駿台はお茶の水。日仏学院から入った医師会の建物の前。今、何号館っていうんだ? 1号館ってあそこじゃないんだね?
立岩 そうなんですか? 僕は駿台あんまりよくわかんないんで。でもあったんだよね、その頃ね。
山田 そうだよ、駿台古いよ。駿台100年、100年よりもっとかな? 120年って書いてあったかな。ものすごく古いよ。で、あの頃はあれだよね、でも、だいたい俺あの、なんか田舎だからね。岐阜、岐阜高なんて、だいたい理科U類を受けるっていう人はいなかったんだよね。私理科U類の最後だけど、V類になる前。
立岩 まだUとVに分かれない1年前みたいな、そういうこと?
山田 うん。受ける人いないから、先生もわかんないっていうか、あの頃偏差値だとかなんかってのもまだない時代だったから、旺文社の模試で何番みたいなのが。
立岩 旺文社の模試はあったわけだ。
山田 旺文社の模試と、東大コンクールっていうのがあったね。だから落ちた時も補欠なら入れるぐらいだと思ってたね(笑)。落ちて一番だと思ってた。で、駿台も入試があって、100人ぐらいのクラスかな? 成績順にクラス編成になるんだよね。[00:40:12]
立岩 駿台が?
山田 うん。100番までがAかな?
立岩 うん、そういうことね。
山田 200番までがBみたいになってたんだけど。最初Bだったからね、俺、驚いてね(笑)。
立岩 あ、ダメじゃんって。
山田 そんなことあるかって。
立岩 1番じゃないのかって。
山田 高校行った時もそうだったけどね。田舎入って、で、***(00:40:36)。だけどあれだよな、岐阜より両津の方が、
立岩 もっと田舎だよ。
山田 もっと田舎だもんね。どうして東大に行けたっていうか(笑)。
立岩 うん、一応、
山田 だから先生もあんまり指導が、
立岩 うん、学校の勉強じゃないよね。自分で、自習っていうか。
山田 自分でやんのね。そうだね。
立岩 入試ぐらいだったら何とかなるもんですよ、それは。
山田 増進会は入ってた?
立岩 Z会ってやつですか?
山田 Z会、うん、
立岩 入ってたことあったかな? 数学とか、ちょっとやってたかもしれない。
山田 大学への数学。大学への数学と増進会。うん。
◆
立岩 一つね、理Uと理Vって最初から分かれてない体制の時の東大の医学部生って、ちょっと違う気がしてるんですよ。
山田 うん、違う。
立岩 何て言うのかな。今、ほんとに理Vって大変じゃないですか。て言うか、理Vになってからは。やっぱり勉強しかできないっていうか、そういう人ばっかなっちゃって。それ、前の東大の人、医学部の人たちってそれなりに社会派っていうかさ、いたような気がするんですよね。結構その試験の、入試の体制が変えたんじゃないかな。
山田 あの何て言うか、あの頃は、数学がうんとできる奴は東工大へ行ってね、要するに偏ってる奴っていうか、文化系ができなくて数学や物理ができる奴は東工大で、数学が全くダメな奴は一橋で、一橋か外語大で、オールラウンドが東大だったんだよね。うん。それが、昭和で言うと、56、7年ぐらいみたいだね、境が。数学がものすごく難しくなったっていう、数学の問題が。だから結局そうすると、我々の頃はオールラウンドだから、浪人すれば知識が増えるからね、だから数学できなくても他のが伸びるからあれだけど。今は、理Vなんか数学ができなきゃしょうがないわけだけど、それは浪人して何とかなるもんじゃないよね。
立岩 そういうとこもありますよね、確かに。
山田 いろんな問題知ってるとかなんかっていうぐらいだけど、ちょっとそれとレベルが少し違うから。だから、なんかやっぱり、人種が違うっていう感じだね。えれぇ金持ってるっていうのが、我々がだから4年の時か、4年ぐらいの時に。で、うちはそういう入り浸りだったから、麻雀やってても新入生の理Vがつったら金持ってるんだよね。で、だから全然やっぱり金持ちしか来れないっていう。だからほとんど、やっぱりあんなふうに高校まで田舎の公立で、で、突然浪人してもいいんだけど、1年ぐらい頑張って入れるなんていうことっていうの、もう今ないよね。今の理Vは、もうほんとに半分くらいが5つぐらいの高校だよね。だから灘が20人ぐらい入ってるね、100人のうち。開成が、開成も20人近く入って、で、桜蔭が10人ぐらい入ってっていうのだから、だから公立が入り込む余地がもうないんで。そうするとちいちゃい時から。だから、東大の首都圏の学生の率がものすごく上がってるって話だよね。うん。いわゆる首都圏っていう感じだから、だから昔だと駿台ぐらいの予備校行けば、今からでも何とかなるっていうふうに思ってたのが、もうダメだよね。だから小学校ぐらいから生え抜きでっていうのじゃないと。通用しないと思う、今の人たち。[00:45:37]
立岩 そうか、山田さんが最後の年か。
山田 最後の年。で、おかしかったんだよ、その頃は。理Uから、理Uに入って、それで医学部以外は好きなとこ行けるけど、医学部は入学試験があったの。
立岩 何年生の時に?
山田 2年生が終わって、教養終わって。で、そこで落ちると、いっぺん退学になるの。学生、
立岩 他のとこに行くんじゃなくて、退学になるんですか?
山田 学生じゃなくなるわけ。だいたい浪人するんだけど。で、翌年受けるっていうか。他の大学へ行くっていうのもほとんどなくて。やっぱりせっかく東大来たんだから、東大の医学部行くって。
立岩 医学部受けて、え? 退学? そうか、でももう1回受けられるのか?
山田 何回でも受けられる。
立岩 受けれる資格はあるわけだ。医学部を受けるわけだ。そういう仕組みだったんだね。
山田 教養卒業で、それで、うん。
立岩 そうするとあそこは医学部以外にどこいくの? あの理科U類って。
山田 理科U類、いろいろ行ってた。だから、だいたい農学部と薬学部が多かった。
立岩 農、薬、まぁそんなもんでしょう。
山田 それ以外に、工学部なんかも何人かは行ってたけど、
立岩 工学部行った人もいる?
山田 でも工学部も、なんかあそこも格差があるんだよね(笑)、いいのとあれと。で、だから私の同級生なんかの理Uのあれは、土木とか、そうだね、なんかとにかくわりあいマイナーなほうへ。
立岩 先端的じゃない、
山田 (笑)されるっていう感じで。それから理学部なんか行ったのもいた。うん。だから結構行けるけど、うん。それで、そうだから、400取ってたからね。400人取ってたから。400人取って医学部行くのが100で、それ以外の学部が300だからね。
立岩 でも400のうちの100っていうのは、何? 100しか行けないとも言えるわけじゃないですか。
山田 そいで、そう。
立岩 それは2年生までの成績とか、なんか、
山田 成績があって試験があって。成績はね、成績でXYZって3つに分けられてね、それでXは優先的っていうか、だいたい優先的に入れる。で、Yは医学部へ入れなかったら、どこへも行けないっていうのがYで。
立岩 それはさっき言った、浪人しなきゃいけないっていうのはそれで。
山田 Zっていうのは、落ちたら他の学部へ行くっていう。浪人できないみたいな(笑)。
立岩 そういうランクづけを、2年生の段階で成績に応じてされるって。
山田 ランクづけを2年までの成績で。
立岩 詳しいことは知らなかったからさ。でもほんとに何だろう、いろんな医学部卒という社会運動家的な人ってまあまあいるじゃないですか。その山田さん境ぐらいにほぼいなくなるっていう印象があって。
山田 ほぼいなくなったね。
立岩 まぁいろんな人いるけど、さっきの、今日は白木さんとか、まぁ先生たちっていうか、の話っていうのはあるけど、そのここんなかで、自分たちの闘争を指導というか、先輩格の何さんって?
山田 斎藤さんかな?
立岩 それは斎藤さん?[00:50:01]
山田 「ゆきぐに大和」の院長になった人ね。
立岩 「ゆきぐに大和」の斎藤〔芳雄〕さんでいいの?
山田 1年上ね。1年上だったけど…2年上だったんだんけど、わざと留年して1科目落として、1年遊んで、来た。
立岩 ここに出てくる人は斎藤さんなんですね。
山田 うん。
立岩 結構その、青医連の縦の繋がりっていうか、毎年、区切りになり、47***(00:50:36)とかなってくるじゃないですか。その上下というか、繋がりというか結構強かったんですか?
山田 上下の繋がりってそんなに強くはないね。だから結局ストライキが始まって、活動している部分では繋がりが強くなったっていうことがあるけど、普段は、
立岩 もう一つ一つ、
山田 あれのあれはあんまりない。
立岩 独自にやってたっていう感じ。
山田 うん、なかった。それでね、だから要するに斎藤さんなんかが、要するに60年のブントが潜って、それで、で、まぁ島さんなんかはあんまり、何もやってなかったんだろうと思うんだけれども。で、彼がやっぱり次の用意してたというか、60年の残党みたいなのはね。だから斎藤さんなんかが、きっと残党の一番、一番若いのだと思うんだよね。だから、
立岩 60年ブントの若いほう。
山田 だから、この繋がりっていうのがずっとあって。それであとはだから、我々のクラスだとか、上のクラスはね、ブントはあんまりいなかったんじゃないかな。あ、いたか。いたな。獨協大学の学長になった寺野とかね何人かいたけども。やっぱりそういう何人かは、60年の人たちが育てたブントがいた。で、我々のクラスはそういう、その何て言うか、そこからは、だから私の1年上ぐらいまではあったけれども。私ら、私らがストライキを始めてから一本釣りされて、ブントのほうへ行った奴はいるけれども。で、そこを、まぁだから、もう何て言うか、ブントもいなくなっちゃうっていう状態で、それで70年が近くなってきて、もう1回安保決戦やろうと思ってたんだと思うんだけれども。で、そこでなんか仕掛けなきゃいけないというので、で、斎藤さんがその使命を担って降りてきたんだと思う。うん。そいで我々は彼にアジられて、で、ただ、もうだから、これはその1年前に我々の1年上が、ストライキをやりかけたんだけれども、それはなんか、それはね…。持って来なかったっけ。
立岩 この山本俊…
山田 うん、〔山本〕俊一さんの。
立岩 それはあの、持ってます。
山田 持ってるよね?
立岩 いい本ですよね。
山田 うん。だから俊一さんが、どこら辺だったかがよくわかんないだけども、まぁそれで、うん、そうだね、そういうことだね。だから我々の世代から後は、そうやって目つけたのを勧誘してっていうか。私もその1年上の2人に呼ばれて、「ちゃんとブントへ入れ」って言われたことがあるんだけれど。
立岩 やだよって言ったの?
山田 うん(笑)。俺あの、もともと私はだから医学部へ入ってからすぐに、しばらくで民青へ入った。[00:55:03]
立岩 入ったんだ。
山田 うん。で結局ね、3年、3年生ぐらいまではずっと民青だったね。民青嫌で、(笑)民青嫌でね。
立岩 3年までやってれば、結構長くやってるってことじゃないですか?
山田 それでね、だけど3年の時に、その共産党のちょっとえらいのが来て、ちゃんと党員になれって言われて、
立岩 それも言われた?
山田 党員になったら「必ず代議士にする」って言われた。うん。要するに国会議員に、代議士にするっていうので釣ってた。で、あの頃は代議士ってもう少し格が上だったからね。で、ちょうどやっぱり何て言うか時代が変わって、不破だとか上田だとかっていうのが出てきた時で、それがそのミヤケン(宮本顕治)の路線で、なんかその文化人の党になったっていう、労働者の党から文化人の党に変わったんだよね。で、そういう時期だから確かに小池諦めるようになってたんだろうと思うよ(笑)、入れば。だいたいもう何て言うか、労働者出身を国会議員にするなんていうことはなくて、医者とか弁護士とか。
立岩 そうだよね、不破とかなんか、そういう顔してるもんね。
★★ここまで軽く見た。
山田 そういう顔だよね(笑)。この頃はなんか、美しい女性とかなんかっていう路線までやってきたっていうか、ものすごい堕落したと思うけども。やっぱり労働者出身っていうか、昔は組合から組合の出身者だっていうのが、社会党にしても共産党にしても多かったと思うし。あるいはバリバリの党員っていうか、っていうんだったと思うんだけど。で、だからだいたいその民青入っても、だいたい、ここが遊べないんだよね、民青とか。あの遊ぶっていったら、赤旗祭りとかしか(笑)。で、麻雀なんかやってるとなんか言うしさ、うん。
立岩 その感じはわからんでもないです。
山田 それで、なんかこう読むものは学習文献しか読まないわけだよ。でも全然その肌に合わないっていう感じで。
立岩 そういう合わなさね。どっちかって言ったら。
山田 ただね、だからこれは、どっかにも書いてるけど、とにかくすごい奴がいてね、あらいっていう日比谷の出身の奴は。あれはほんとはノーベル賞級だって言われてたんだけど、何にも取れないで終わってしまった。『資本論』を高校時代にドイツ語の原著でほとんど読んじゃったっていう奴で。だから何て言うか、クラス会で論争なんかしてて、『資本論』ちょっとかじった奴が、マルクスがこういうふうに言ってるって言うと、あらいが「いや、原著ではそういうふうには言ってない」っていうか。
立岩 そのあらいさんっていうのは医学部?
山田 翻訳の間違いでっていう。
立岩 医学部生なんだけど、高校の時に日比谷に『資本論』みんな読んじゃったって、ドイツ語で読んじゃったって人が、それが民青?
山田 それが民青だったから、俺もものすごく尊敬して(笑)、これはもうあらいに付いて行かなきゃという感じだったんで。それで
立岩 あらいさんのことは尊敬してた。だけど民青になったら堅苦しくて嫌だな、みたいなものもあった?
山田 何て言うか、組織として嫌だというか体質が合わないっていう。そうね、だから大変だったよ、ストライキ始まった頃は、スパイじゃないかって(笑)。
立岩 民青のスパイじゃないかって、
山田 クラスで言われたりしてたけど。あの頃は時々、そこらを学内歩いてると、捕まって連れて行かれてリンチされるっていうことがあったんだけど、私ともう1人森っていう、民青から抜けた奴がいたんだけど、「お前捕まると大変だぞ、殺されるぞ」って言ってて(笑)。やっぱり秘密事項をみんなバラしちゃうわけだから。
[01:00:18]
立岩 民青にってこと? 民青にやられるぞっていう話ね。
山田 うん、だから、
立岩 抜けちゃって、民青のこと知ってるから、
山田 文学部、文学部じゃないや、教育学部の前通るとか、怖かったよ。生協行けないとかね。
立岩 教育学部、民青強い?
山田 教育学部はもう、丸ごとあれだったからね。今もうほとんどいなくなっちゃったんだってね。
立岩 民青?
山田 うん、教育も。
立岩 まぁそうでしょうけどね。
山田 いなくなったんだね。
立岩 嫌だったって、何、その上意下達的なものが嫌だった? 何が嫌だったんですかね?
山田 何て言うか、うん。要するに何て言うか、すごい狭い世界っていうかさ、うん。で、なんかやっぱりあの頃からおんなじことを言わなきゃいけないっていうか、おんなじ考え方を持って、おんなじことを言ってっていう。学習文献みたいなものって、まぁやっぱりその学習するって、だからほんとに宗教とおんなじだったっていう。で、うん。
立岩 その学生さんたちはそんな配置だったと。中には民青もいると。ブントの残った奴もいて、そそのかしてっていうか、そういうのもある。学生さんはそんな感じだったんだけれども、今度手紙いただいて、その脳研?
山田 それでね、
立岩 その辺、
山田 これ、これがあれなんだけどね。あの、要するに、以前はね伝研、今の医科研だよね。伝研っていう所が、要するに共産党員の教官がたくさんいる所だったみたい。で、野島さんっていう、野島徳吉っていう、我々の間では伝説的な人がいてね、やっぱりすごい、なんか有能な活動家だったみたいなんだけれども。だから中井久夫なんかも一時、伝研。最初は伝研だったんだよね、あの人も。で、なんか行く所なくて、なんか精神科でも顔出してみたらっていうのが精神科になったんだけど。元々はだから、内科医であり感染症のあれでありっていう人だったんだけど。だから中井さんなんか、きっとあそこの伝研の空気だっただろうと思うんだけど。で、ただ何て言うか、恐らくその伝研の野島さんたちの体質っていうのは、ブント的な体質だったんだろうと思うっていうか、その共産党の色が抜けたんだろうと思うんだけど、その辺はちょっとよくわかんないけど。そういう時期があって、で、東大の中はこれね、その小児科のね、小児科の教授の高津忠夫っていうのが天王だったっていう、高津さんっていうのがね、医局長の五十嵐さんっていうのが反乱してね、それで。五十嵐さんって面白い人だったんだけど、その五十嵐さんが、高津にある日呼ばれてね、それで、「君は赤軍か?」って言われたから、「いや違います」って言って、「共産党か?」って言うから、「それとも違います」って言ったら、「良かったぁ」って言われて。で、(笑)要するに赤軍と共産党しか怖いもんはないと思ってたみたいで。その時に話したら、その高津っていうのもね、変な人だったんだけれども、で、その要するに赤軍はわかりやすくていいと。見たら赤軍だってわかるっていうか、高津、だいたい。[01:05:05]共産党はわかんないんで、それで教授会なんかにもいるはずだけれども、わかんないと。すごいそれは怖いっていうか、いずれ東大病院に赤い旗が立つようなことがあるんじゃないかと思って、すごい心配なんだっていう話をしたみたいなんだよね。それで、当時どのくらいだから、だったかわかんないだけれども、ただね、臺(うてな)がね、東大へ来たのは、彼はもうバリバリの共産党で、それで群馬大学で学部長かなんかやって、あそこでなんかストライキみたいなものがあったのかな。なんかその群馬大の自治会を潰したっていうか、鎮圧したっていうので有名になってたみたいなんだよね。それで東大の教授会が、なんかこう、そういうなんか鎮圧力を持ってるのがいないということになって、結局その何て言うか、ちょうど我々が60日ストライキやって、全員戒告っていう形になったけれども、すごい不祥事だったわけだよね。それでその時ね、60日の解決について、我々はなんか裏交渉があったんじゃないかって言ってたんだけど、ついつい最近、その当時我々のクラスの委員長だったおさだっていう奴に聞いたらそれはなかったと。なかったけど、斎藤さん辺りがなんかやったかもしれないけど、それは我々でもわかんないんだっていうふうに言ってた。
立岩 自分たちの学年ていうか、そこの中ではそれはなかった。だけど1つ上の「ゆきぐに大和」へ行った斎藤さんが、やった可能性はわからないと、かもしれないの感じ。
山田 だからあの山本俊一の見ても、当時はもう1日ストライキやっても退学っていうふうになってたみたいだからね、東大って。だから60日もやって、それで全員戒告っていう、ほとんどないみたいな処分にするっていうのは、だから、二度とやらせないっていうことで、取り引きがされたんじゃないかと思うんだけども。で、それが取り引きをしたから、だいたい要するにブント系の奴はみんな引いちゃったんだよね。ヤバいっていうので引いちゃって、それでその時に、でもあんまり闘争委員じゃないけど、委員をやる奴がいなくなったと。で、その例の私の友人の本田が権力を取りたいと、今みんな引いちゃったから、今までずっと反主流で辛い目に遭ってきて、俺、長という名がつくものになったことがないけど、長という名前がつくものになりたいと。だけど、だいたいまぁクラスで選挙やって、一番得票の多い奴が委員長になるっていう感じになってるから、俺はそれほど取れないので、それで、山田が出てくれたら、山田が取れるから、山田が委員長になって、俺を書記長にしてくれみたいな話をするから(笑)。
立岩 なんとなく、本田さんぽいね。
山田 それでうかうか乗って(笑)。それで、スト破りを追い出すみたいなことやってたわけで、それで処分が出ることになったんだけど。それで、だからその60日のストが終わった後に、精神科の教授が定年になるんで、次の教授を誰って話になっていて。
立岩 秋元は、その時点で、
山田 秋元だよね。
立岩 波照夫?
山田 うん、秋元の後だよね。それでね、あれはわかんないけど、噂ではね、なんだかその医科歯科に島崎敏樹がいたのかな。だから何人か候補がいたみたいなんだけれども、突然なんか臺が呼ばれてきたということになって。結局だから、東大の教授の中では収集能力のあるのがいないと。で、学生何やるかわかんないから、その鎮圧しなきゃいけないのでっていうことで、臺が来たみたいだよね。それでその時に、だから、臺がその白木だとか、なんかと通じてるっていうのは、我々は言ってたんだけども。で、結局だからこの民青が動けなかったっていうか、全共闘と一緒にはやれなかった一つは、やっぱりその自分たちは、教授会の中やなんかに何人か置いて、いずれは共産党の権力を取るみたいなあれだから、教授、責めたりしちゃいけないんだよね。責めてやめさせたりしちゃいけないわけだし、彼ら責められないわけだよ。ということだと思うんだけどね。で、だから実際私たちが60日ストをやった時も、その時はストやめたいという奴が何人かいて、それが金澤一郎って知ってる? 学術会議の議長になったり、天皇の侍医になったりした奴。
立岩 金澤一郎知ってます。神経内科医ですよね。
山田 うん。金澤一郎はね、彼はもう学生の時に彼は教授になるっていうふうに言われてたんだけども。叔父さんが札幌医大の教授で、これが沖中内科の三羽烏って言われた人でね、有名な人だったの。それが叔父さんだもんだから、それで金澤は、結婚式の仲人が沖中だったんだよ。沖中、大ボスだからね、沖中が仲人やるんじゃ、彼はもういずれ教授だっていうふうに言われてたんだよ。それで、沖中のその教え子が、中尾っていう教授がいてね、それで、その何て言うか、スト破りをするんだけれども、スト破りをした後、クラスから抜けると、どっかで保護してもらわないといけないわけだよね。その保護してもらうってのを教授に頼まなきゃいけないんだけど、それを金澤にやってもらおうということに、そのスト破りしたい奴が思って、金澤を頭に据えたんだよ、その連絡役みたいな。
立岩 ちょっと待って。その時金澤さんは、学生?
山田 うん、4年生。それで、4年生の卒業間際に60日やることになって、それでやめたいという奴が、あの自分がやめても行き所がなくて、それで教授にコネをつけるっていうことで、金澤にお願いしますって。金澤って奴がそういうのを引き受けたがる奴で、それで、そこへ民青が乗ったんだよ。民青もやめさせようというふうに思ってたので。それ、まだ記録があるんだよね。すごいあの、これは、
立岩 それ、その年の手帳?
[01:14:18]
山田 そう、手帳なんだけどね。これ、最初卒業試験の日程表から始まってるんだけどね、そのストライキやった年。これはなんか大学と交渉してるので、団交の方針だとか書いてあるんだけど。これもね、医局オルグだとか何かと書いてあって。これは、医局の中で誰となら話ができるかっていうので、一覧が出てるんだけど。このあとね、ここら辺からかな。これはあれか。これはクラス会の発言か。これはあまり面白くないな。これはあの「緑亭」って書いてあるの、東大のね、ちょっと湯島の方へ向かって、ところに、緑亭っていうね、
立岩 緑の亭主の亭。
山田 あれは連れ込みじゃないと思うんだけど、なんか旅館があった。そこへ金澤連れてって、金澤がおかしいっていうので、連れ込んで尋問して吐かせた記録なんだけど(笑)。
立岩 金澤さんは、なんつったんですか?
山田 これはだから、金澤が吐いた内容だから。いろいろね、もうあの頃は電話でやり取りするしかないので、あちこち電話が飛び交ってるんだけれども。結局何て言うか、金澤だとかなんかは、その民青が困るっていうか、だから民青と一緒にやったら確かに力にはなるけれども、でも自分たちは民青にやられちゃうじゃないかと、その後。民青に乗っ取られちゃうというか、そういうふうになっちゃうんじゃないかっていうので、で、すごい怖くてどう動いていいかわかんないっていう。で、そんなことやってるうちに、我々はすごかったから尾行したりしたからね。怪しい、怪しい奴一人ひとり尾行したりなんかして、それで、それでどうも金澤がおかしいっていうんで。で、それで金澤は結局降りることになって、
立岩 連絡役みたいなものをってことですか?
山田 金澤を頭にしてっていうのを降りて、それで、それでその金澤の友人たちも一緒に降りて、で6人だけ残って、そいつらだけがスト破りをしたっていう。それはだから、すごいそのスト破りした奴は、それぞれまぁ気の毒な人間といえば、気の毒な人間になってて、大学としても結局引き受けられないので、それでなんか地方の大学へ飛ばされたりなんかして、いい目は見なかったね、そいつらも。
立岩 大学のほうに渡りをつけようということだったんだが、金澤なんかが民青も怖いしっていうんでその役を降りて、すると大学とのパイプがなくなるから、大学も動けずというか動かずで。そういう話ですか?
[01:18:43]
山田 ということになった。それで結局だから、やっぱりこう何て言うかな、やっぱり民青はすごく動きにくかったっていうか、もう段々エスカレートしていって、大学解体みたいな話になって、そういうふうにするつもりは全然ないわけだし、自分たちの仲間の教授もいるわけだしね。そいでね、でもだから臺がそういう形で入っていて、それでだから、私が、私と本田が処分を受けた時は、その頃は処分する前に、事情聴取をするっていうことになって、で、2人呼ばれて行ったのが、臺の部屋に行って、臺に事情聴取をされた。それで、もうすぐスト破りは追い出すっていう、スローガンみたいなものを下ろすか下ろさないかって言われて、おろさないって言って。それでまぁ処分になったわけだけど、その時はだから臺が担当だった。で、というだから、教授会自身がすごい無能でというか、山本さんの見ててもわかるけれども、山本さんのだとふじむらっていう教授が気の毒なことしたって言ってるけど。なんかわりあいその正論を吐くような人たちっていうのが辛い目にあって、共産党系は黙ってたんじゃないかと思うんだよね。ヤバいと思って。それで山本さんだったか、ふじむらさんみたいな人が動いたんだと思うけれども。山本さんもまぁあれだよね、元々はだから共産党、何て言うか共産党しかなかったわけだから、共産党好きな人だったと思うんだよね。で、セツルメントなんかに【板にしてる】(01:20:56)人だから、すごい優しい人だったけど、でも結局仲介役みたいなものだから、責められてすごい大変だったね。で、共産党やっぱりそこへはあんまり手を触れないようにしていたんだと思う。それで最終局面に、もうその東大闘争の終わりに、もう教授会がほとんど崩壊状態になって収拾できる人がいなくなって、その時に助教授が3人動いたって言われて。1人が小児科の後で教授になったこばやしっていうのだったんだけれども、それと島津とね、もう1人が思い出せないんだけれども、とにかく3人。もう教授はダメで、で、助教授クラスで、なんかわりあい才能ある人が収拾に当たったんだというふうに言われてた。で、その時にやっぱり何て言うか、脳研なんていうのは、脳研とか、医科研とかいうのは、もう外様で、あんまり発言権ない所だったんだけれども、もう本院のほうがもう教授会崩壊状態で、誰もちゃんとやれる人がいなくなっちゃったっていうところで、どうも脳研が動いただろうと。で、島津が代表で出てきたんだろうというふうに言われてたね。
立岩 脳研に共産党系がっていうのは、なんか事情があったんですか? 多かったってなんか事情があるんですか?
山田 何だろうね、だから何て言うかな、まぁやっぱりこう、何て言うか、集まっていくじゃない(笑)。例えばね、あの東大の分院っていうのがね、分院が雑司が谷にあったんだけど、あれは戦後の医戦のあとなんだよね。で、分院は変な所で、あそこね、講座があるのに教授がいなかったりね、なんかして。それからその、東大っていろんなことやる所だから。例えば、我々がこの東大闘争の時に一番問題になったの、上田内科っていうところの春見医局長っていうのが、きっかけだったんだけど、この上田英雄っていうのの同期で【小林たちお】(01:23:49)っていう人がいて、両方とも循環器でおんなじ医局にいて、それで2人できる奴がいると。だけどいろいろコネだとかなんかがそういう時働くんで、それで上田を教授にしたけれども、その小林をおんなじようにできるっていうか、おんなじようっていうか、それより上かもしれないのに、が、その教授にならないということだと、やっぱりおかしいというので、それで分院にやって、分院もともと教授がいなかった、助教授しかいなかったんだけど、小林の時に小林を教授にしたっていう。うん。そういうことをやるんだよね。島薗進さん知ってる?[01:24:42]
立岩 はい、よく知ってます。
山田 島薗さんって、面白いんだけど、あれ、あの島薗一族という有名な医学部の家系なんだよね。
立岩 なんかチラッとその話聞いたことあるかな。
山田 島薗順次郎っていう内科の教授がいてね、それで、それの息子が島薗順雄。順序の順って書いてよしおかな。っていうのが我々の頃の生化学の教授だったんだけれども。それから、その弟が、医科歯科の精神科の教授とかなんかっていう一族なんだよね。それで、この島薗が、島薗も同期に吉川っていうすごいできる人がいて。吉川のほうが実際にできる人なんだけれども、島薗は島薗一族なもんだから、島薗が生化学の教授になったんだよね。それで吉川を教授にしないのはおかしいっていうので、新たに栄養学っていう講座を作って、それでそこの教授にしたわけ。ほいで吉川が、授業の時にもしょっちゅう言ってて、吉川はね、テーマはタンパク質なんだよね。でね、島薗がね、何だっけ、もっとマイナーなものだった。そいで、だから本来はあいつが栄養学で、俺が生化学なんだけど、いろんなことがあって、あれがそういうふうになってるっていう話だったんだけど。
立岩 それを授業中ぼやいてるって?
山田 (笑)学生に訴えるの。で、そういうなんか、で、栄養学なんて科を勝手に作っちゃってさ、どこにもないようなものを作っちゃってね。それで、なんかこう、それで金取ってくるとか、おかしいんじゃないかっていう話なんだけどね、東大なんてそういうことやる所なの。そいでその島薗進さんは、あれ医学部入ったんだよね、だから最初。医学部へ入って、それでその私らのその生化学の教授の叔父さんのうちへ下宿してたんだって。だけど、ほんとに嫌な奴で(笑)、その叔父さんが。叔父さんが***(01:27:20)やってた。医者ってこんなふうになるんだと思って、医者嫌になって宗教学へ移ったんだって。
立岩 それが進さんなんだ。へぇ。
山田 それでだから、すごく医学詳しいんだよね。今回放射能の問題やってもそうだったけど、すごい詳しいの医学系に。それで生命の倫理をやったり、なんかいろいろしてるそうです。だからそういう変なあれもあるんだけど。それで、とにかく分院って所がそういうちょっと。だから、あそこはもうなんか、分院の中での出世しかないっていうか。だから本院より格がもう下でっていう、そういう所だったんだけど。でもね、すごい自由な所で、だいたい普通はもう教授がこのテーマで、やれって言ったらそれしかやれないっていうようなあれなんだけど、分院っていうのは、もう自分たちで勝手にバラバラにやってるとか。それから学外者を受け入れるってことがあって。で、私なんかも行くなら分院だなと思ってたんだけど、分院のその東大出身の医者たちは、何て言うか分院人気なくて来ないもんだから、学生が実習に行くとすごい優しくしてくれて、それでなんかおごってくれたりなんかして、ぜひうちの医局に来るようにっていう勧誘活動やなんかも多かったんだけれども。で、だからわりあい出世はしなくていい、いいっていうか、自由にできるんなら、それがいいっていう人が集まるような所で、分院っていうのは。それでだから東大闘争中も、分院はちょっと、他大学から来た中核が踏ん張って、分院の闘争みたいなのがあったんだけどね。だからそういう何て言うか、やっぱり伝研とかなんかってきっと、そこに種まいた人がいて、で、なんとなくその、
立岩 人が溜まってっていうか、
山田 外様だからできるっていうので、溜まったんだろうと思う。
[01:29:48]
立岩 そういう動きな話ね。僕は全然知らないからあれだけど、僕なんかは臺にしても誰にしても書いたものしか知らないわけですよ。それでいいんですけどね。秋元もそうですし、白木もそうですし、臺もそうですし、知らないわけですよ。で、書いてることはそれなりにっていうか、もっともなっていうか、ことも書いてもいるわけ。どういう、なんか誰でもいいんですけど、この人はこうだったとかっていうなんか、****(01:30:27)的なものはありますか?
山田 それはもう、岡田さんしかいないよね(笑)。
立岩 岡田さんか。精神科のほうならそうだよね、岡田さんですけどね。
山田 岡田さんなんか、立岩は嘘が多いって(笑)とか言ってたよ。
立岩 知らないんだもん、しょうがないです。自分でやってくださいよって、岡田さんに言ったんだと思うんですけど、岡田さんも書くとか書かないとか言って、ちっともその新しいこと書かないからさ、困るんだけど。
山田 もうだけど、80の半ばだからね。
立岩 そうなんだよね。いや、
山田 だから結局ね、何て言うかな、自分に都合の悪いことは書かない、誰も。それからやっぱりね、これはほんとに党もそうだし学生運動やってた部分もそうだと思うけれども、やっぱり反省しない。負けたって言わない。この反省しないのっていうのがね、どうにもならないっていうか、だから共産党もね、やっぱりこう、あれ反省すれば、反省すればあれだと思うんだけれども。やっぱり絶対自分たちが正しいっていうところが超えられないっていうか。そこはなんかやっぱり、本来の近代批判っていうのは、自分も含めて振り返ってみて、反省すべきところは反省するっていうことでしか成立しないはずなのに、やっぱり自分は正しいとしか言わないし。で、どうして日本の党派だとかなんかも、あんなに硬直してしまったのかと思うけれども、やっぱり学生運動の時にそうだったからだね。だからやっぱり精神科なんかも、そういう意味での総括というか、やっぱり触れないことってあるしね。患者さんが焼身自殺した話とかあるじゃないね。よくわかんないんだよ、あれ、何だったかっていうのが。結局何て言うか、権力の側に抗議して死んだんだとか、なんかみたいな話になってるけれども、そう言えるのかっていうふうに思うし。そう、それでさ、俺ね、富士学園も関わってたんだよね。
立岩 山田さんが? え、そうですか?
山田 うん、俺、池田智恵子は、もうほんとに市会議員ダメになるっていうか、最後の時はひどかったけど、俺、応援に行った時は。選挙の前に、決起集会みたいな集会だったんだけど、人が7?8人くらいしか来てなくて(笑)。
立岩 そんなんなったんですか? 最後は。
山田 そんなんなっちゃったんだけどね。帰ってきたかな?(家族帰宅)水曜と土曜、うちへ帰ってきて寝るんです、うちで。
[01:35:16]
立岩 こんにちは。お邪魔してます。
涼 怖い、怖い、怖い、嫌だ。
立岩 怖くはないよ。
涼 やだ、おばけ?
山田 まぁおいで。
立岩 ずっと前に1回会ったよ。
山田 いっぺん会ったって。
立岩 四国で、松山。
涼 今一人暮らしをしてるの。
立岩 なんかそういうことは聞いてました。
涼 何、これ?
山田 これ? これ天ぷら。
涼 知らなかった、お父さん。
立岩 昨日、岐阜でもらってきたんだって。富士学園、なんで富士学園?
山田 富士学園ね、あの時ね、池田さんだけじゃなかったと思うんだよね。職員がいた。女性の職員がいたのね。
立岩 私が行った時は、池田さんだったんじゃないかな。ボランティアみたいな感じで、何人かの人がかわるがわるって配慮はしてたんですよね。
山田 ボランティアだけじゃなくて職員でいたの。うん。それも、それと結婚したボランティアの男性がいてね、あきやまっていう。
立岩 それがあきやまさんっていう男性ですか?
山田 それがね、うちの…私の所へ患者で来ててね。で、富士がこういうことになって、で、やっぱり医者に時々見に来てもらわないといけないからって言うんで。俺、忙しくて行けないからって言って、で、当時私のところへ石井保男っていう精神科医が来てたので、石井さんに行ってもらったっていうか。
涼 え! 何これ(笑)。白い。
山田 これ?
涼 ***(01:37:38)のご飯。
山田 ご飯食べたんだよ、カレーを。
涼 一緒に食べてったの?
山田 食べたの。
涼 びっくりした。びっくり。
山田 ほいで、石井保男っていうのはさ、また、
立岩 石井保男知ってるな。何で知ってるんだろう?
山田 知ってるだろう。石井暎禧と石井保男といてね、石井保男はね、島さんの友達っていうか。で、島さんに言わせると、石井はうるさいから、遠くへやっちゃおうと思ってチェコへ行かせたんだって言うけれども。当時の島さんたちのグループで、それで国際学連の人。
立岩 わかった、わかった。前に山田さんにインタビューした時に、その話出てきたんですよ。で、その後彼帰ってきて、なんか本書く、あるでしょ、わが青春のなんかっていうの、それ読んだんですよね。その石井さんだ。それと何? その石井さんが、
山田 行っててくれたの。
立岩 あぁ、このあきやまさん、
山田 うん、週にいっぺんぐらいずつなんか行ってた。それでね、彼らはね、だからあきやまとあきやまの連れ合いの女性とは、池田さんと…池田さんのやり方に問題があると言って、問題にしてた。だから何て言うかな、やっぱりね、こう抱え込んじゃったというか、池田さん自身が、うん。
立岩 そういうとこあったでしょうね。
山田 と、いうふうにはしたみたいだよね。ああいうのって難しいんだけど。それでね、国立第一病院でさ、障害者のさ、最初の闘争があったって話は、
[01:40:18]
立岩 国立第一病院ってどこにあるんですか?
山田 東京第一、今の国際医療センターじゃない、国際じゃなくて、医療センター。戸山にある。
立岩 新宿の戸山ね。
山田 あそこが日本の障害者運動の始まりだって言われてるんだけど、あそこに和田博夫という整形外科の医者がいて。
立岩 手術した人でしょう? 脳性麻痺の手術して、それが中止というかやめさせられて、それに反対、二日市さんなんかが反対してっていうそういう話ですよね。それはちょっとは聞いたことあります。それも詳しいことよくわかんないですけどね。ただ二日市さんのたいまつ新書っていうのに出てきますね、その話はね。
山田 そう。それで、これはね、私、梅村が東京へ出てきたんだけれど、就職する所がなくてね、仕事したくても。これはもうやっぱり女性であるっていうのと、それからだいたい大学からの紹介状みたいなのがあったりするんだよね。で、そういうものもないとか、なんかっていうので、就職する先がなくて、それでその新宿の病院で、そこならいいっていうふうに言われて行った所が、この和田さんがいたとこだったんだよ(笑)。
立岩 梅村さんが、最初にというか、勤務した病院が。
山田 そこでは仕事がないからここへって言われて、で、この隣の保谷、西武柳沢にひふみ学園っていう、ひふみ学園っていう施設があってね。
涼 施設があるの。
立岩 どういう字を書くんですか?
山田 ひふみって平仮名で。ひふみ学園。これはね、当時としてはもうほんとに画期的な、駅から歩いて、ここより近いぐらいかな。だからほんとに5分。
立岩 保谷の駅からですか?
山田 保谷の、いや西武柳沢ってこの1つ先の西武線の。西武柳沢から歩いて3分ぐらいの所のアパートを1軒借りて、街の中の施設にしちゃったわけ。で、だいたいそのかなり重度の人たちで、だいたい重複障害の人たちだったんだけど。そこの園長がすごいおばあさんの園長で、人がいいっていうか、和田さんがその施設を作るっていうことになって、それで嘱託医が必要なもんだから、それで老人ホームを回って歩いて医者の免許を持ってる人で(笑)、
涼 お父さん持って来ればよかったね、ひふみの本を持って来ればよかった。
山田 老人ホームにいる人はいないかっていうんで探して歩いたら、おばあちゃんがいて。で、私はずっとここにいたいって言うのを拝み倒して(笑)、連れて来て、それでなんか施設の裏の所にプレハブみたいなのを作って、そこにいてもらって。あんまり診察なんかもしなくていいからっていうか、もう白内障で目がよく見えないっていうおばあちゃんで。で、だからもう何て言うかな、しょっちゅう子どもが死ぬっていうふうに言われてるとこだったんだよね、医療管理できてなくて。で、そこへなんか梅村行くことになりまして。結構これ長いこと行ってたんだけれども。そこにね、そこはだから、すぎはらさんっていう女性の園長がいて、その人はもうなんか和田さんのことを何かで知って、山口から、大学を卒業すると同時に出てきて、それでその何て言うか、もうほんとに障害児に奉仕するっていう感じで。今もう80いくつになって。
涼 今、こうちゃんが、こうちゃんがいないから、
[01:45:40]
山田 彼女なんかもね、ものすごくよくやる人で、ほんとにその何て言うか、職員が交代で当直するんだけれども、やっぱりすぎはらさんって毎晩一緒に泊まってて、それで、夜見回りをするっていうような人でね。ただやっぱり何て言うか、全員就学になったりしたときに、やっぱり就学に反対のね、こういう子たちを学校へ行かしてどうするんだ、みたいな話だったりして。だからやっぱり何て言うかな、いい人なんだけどすごいやっぱり抱え込んじゃうというか。みんな自分の子どもみたいになっちゃってね。
立岩 池田さんも確かに、もう当時僕が行ってたのは1年ぐらいですけど。行った時は、もういる人は3人。わりと小学校終わり、中学校初めぐらいの女性と脳性麻痺の男性とかなり重い知的障害のある人3人で。その3人だけ。で、家族っていうか、そういう感じでやってて。結局その一番重い男の人が、中央線の電車に当たって死んじゃったんですよね。それでもうどうにもなんなくなって、で、ようやく池田さんも、その残り2人の受け入れ先があって、それで、それで終わりっていう、そういう終末でしたよね。その後、ゆきぐにになるんでしたっけ? 池田さん。2期ぐらいやったんですか?
山田 もっとやったと思うけどね。
立岩 僕はほんとたまたま、ほんとのたまたまであれは。僕が大学、駒場にいた時にやってた雑誌、雑誌サークルみたいなのがあって、そこの出入りした奴が、それの富士学園の闘争とかに関係してる大学生だったんだよね。
山田 あの雑誌はなんて読むの、あれ?
立岩 こうかしゃ(恒河沙)って読むんですよ。ガンジス川の砂っていう意味らしくて。数の単位なんですよね。
山田 無量大数の上か。
立岩 そういうの。だからガンジス川の砂ほど多いっていうことらしいんですけど。まだやってるみたいですけどね。それで、
山田 まだやってる?
立岩 うん。でも全然性格は変わった感じ。今はキャンパスのタウン誌みたいな感じですけど。まぁそれで来ました。で、それは何、それは覚えてるんだけど、その何、さっきの話いくつか戻ると、その二日市さんなんか関わったやつはその、リハとか手術ですよね。手術をやめるのに反対したっていう。
山田 あの、だから、そう、手術やめるのに反対したんだね。
立岩 あの辺のことも、結構知りたいと思ってて。要するに、脳性麻痺をいろんなふうに治すっていうのが、結構60年代、70年代あったはず、あったんですよね。その大概はうまくいかなかったですけど、そういうことってどうだったのかっていうのはあって。その一部にね、そういう手術でっていうのがあったんだと思うんですよね。
山田 それがね、春山満、春山満ね。
立岩 知ってるんですか?
山田 これがね、この和田さんと一緒にやってたと思うんだよね。
立岩 そうなんですか?
山田 うん。
立岩 それは調べればわかるかな?
山田 だと思うんだ。
立岩 春の山の満足の、
山田 うん。だと思うんだな。
立岩 それはじゃこっちで調べてみましょうか。なんか出てくるかもしれない。
[01:50:01]
山田 それでね、だからやっぱりこう、何て言うかな、そのひふみのような所が、今もうだから、南多摩整形外科かなんかっていう病院になって。で、これは鎌田實が名誉顧問になったりしてるけど、病院になって。町田でやってるんだけれども。
涼 2階が、2階が、
山田 普通の病院になっちゃったから。それでやっぱりね、ああいう街中にあって、しかも開放的だったと思うんだけれども。あの、田無なんかにも、この街の中に、
涼 わかった。ひふみが上になって、で、病院が下になったんだ。
山田 そうなんだね。だからその、ダウン症のお父さんとお母さんとで、ほとんど自分のために、自分の子のために作ったんだって言われるんだけど、施設が。わりあいこっから近いとこにあったりするんだけど。やっぱりすごく閉鎖的なんだよね。ほとんど子どもが外へ出て来るの見たことがないようなことになっちゃってて。それは精神科の病院なんかもそうなんだけれども。だからひふみってね、やっぱり画期的な所だったって今見ても思うんだけど。やっぱりそういうものが忘れられていくっていうか。なんかグループホーム、グループホームよりも良かったと思うんだよね。やっぱりこう、グループホームと共同保育みたいな所なんか、中間みたいなもんだったから。ああいう所っていうのが忘れられていくというか。和田さん自身はそりゃまぁ、統合教育にも反対だったし、それからやたらと手術好きな人で。でも、ごめん、一個だけお見せしたくてしょうがないっていう(笑)、和田先生ってもう覚えてないだろうな。
涼 へ、和田さん? もう忘れちゃったよ。
立岩 和田さんって人と、田中さんっていう人がいて、それで2人の間にいろいろあって云々とかいう。で、1人、埼玉のほうに来て、そういう話はあるみたいです。
山田 田中さんね、うん。田中さんってそうだね。その孫が我々の共同保育に来てたりしてたのに。
立岩 1つはその、手術も含めた治す話。今度の本にも書いたんですけど、どういうことがあったのかっていうのは気にはなってて。で、こないだ読んでくれた天田さんとの対談の前日、熊谷晋一郎さんって脳性麻痺の、今度ジャパンマシニスト社っていう、あれでお世話に、お世話どっちがお世話か、まぁそういう話を。彼とも対談して、ちょうどその話も出たんだけどね。それはそれで一個やっときたいなってのは思ってるんですよ。で、ちょっと戻すとね、その一つ確認というか、白木さんがその府中療育センターの所長になると。で、それが、その府中の闘争が70年に起こるっていう。で、まぁいろんな支援、セクトも含めてですけど入ってきて、糾弾というかそういう運動をするっていうことと、白木が東大辞めてというかそっちに入ってくるってのは、なんか関係があるのかないのか。
山田 それは関係がないだろうね。
立岩 ないのかな。
[01:54:44]
山田 うん。だからその何て言うかな、結局、本院の教授っていうのは天下り先があるっていうか。だから、これも今だいぶ変わってきたけれども、例えば虎ノ門の院長なんていうのは、東大の教授の中のボスみたいなのが必ず行くということになっていて。あそこはだから私の同級生の山口っていうのが、今の前の院長だけれども、彼は東邦大の教授だったのに虎ノ門の院長になったので。これはまた同級生の中ではいろいろ言われて、山口ってうめぇからなぁとか言われるんだけど(笑)。昔はやっぱり、もうそれは決まってたよね。だから東大の主にメインのあれっていうのは、だいたいそういう院長だけれども、精神科だとかなんかっていうのは困るっていうか、やっぱりその総合病院に精神科がなかったり、全然マイナーだったりするので、総合病院の院長とかなれないんだよね。そうすると、だから臺なんてあれだよね。調布の山田病院の一介の医師だったんだもんね、あの人。あれはあれですごいと思うけどさ、天下りしてないわけだよね。で、だから何て言うかな、清瀬のアレだとか。精神科的な所でも精神科の教授がなるっていうより、小児科の教授がなっちゃったり、なんかすることもあったりして。だから天下り先がなかったんだと思うんだよね。
立岩 臺さんはそうですね、確かにね。白木の場合は、結局あの時に美濃部都政、美濃部が都知事でかなりそこと?がってたって、そういうことがあって、まぁそっちに行ったっていうことなんですけど。で、その話はその話で一応あるんですよ。で、その府中の闘争の記録っていうのも一定あるんですけど。それに白木、白木も院長として糾弾の対象にはなってるんだけど、どうもこう姿が見えないというか、なんかよくわかんないですよね、その頃のことがね。誰か何か知ってるかなと思って、で、今お伺いしたんですけどね。
山田 もうどうなんだろうね。
立岩 結構あの時期の神経病院とか、そういう辺りの今、難病と言われているような所に関係する所っていうのは、ある種の白木もなんだかんだ言ってそういうことだと思いますけれども。その日教、どこまで日教と言えるかどうかわかんないですけど、それこそ、患者組織では日患同盟であるとか、そういう流れの人たちが結構あの辺に関わっていて、で、それと府中のセンター闘争と闘争している部分っていうのは無関係っていうか、
山田 だろうね。
立岩 感じなんですよね。もうこっちはこっちで別の世界、医者と看護師たちの世界を作ってて、っていうそういう感じなんですよね。そういう話なんかなと思ったよね。
山田 だから、やっぱりこう何て言うか、実際あそこにいる在園生たちが処遇に関して、その声をあげたっていうのと、それから支援者たちが見つけたっていう白木の問題っていうのは、うん。そういうことで、何て言うか糾弾のネタとして見つけたっていうことはあるけども、本来の在園生のアレとは別だったんだろうね。
立岩 それはその医学部闘争っていうか、東大闘争継いだ部分が、その白木に目をつけてたみたいな、その目は…その線ってのはないんですかね? なけりゃないで別にどうってことないですけど。
山田 あったんだろうけどなぁ。
立岩 出てくるかなぁ。
山田 誰が言い出したんだろうね、あれ。誰が見つけたんだろう。
立岩 とか、その臺さんなら臺さんというか、臺って実際そうやって呼び出しくって、会いに行った時ってどんな感じの人だったんですか? なんか覚えてらっしゃいます?
[02:00:24]
山田 臺ね、臺ジェントルマンだったね(笑)、うん。だから有能な人ではなかったと思うし、うん。だから何て言うかな、我々行った時はね、やっぱり困ってる感じだったよね。自分が、自分がそういう役をやらせれるということについて困ってる感じだったけれども、みんなおんぶしてたっていう状態だから。だからみんながやりたくないことをやらされてる人という感んじだったよね。
立岩 そんなに、その群馬の時代に、こう一つ片付けてきたっていうそういう敏腕な感じはなかった?
山田 そういう印象はなかったね。
立岩 多分書いたもの読む限りでは、私もそういう印象なんですよね。そんなに、何て言うかな、頭がクルクルよく回ってっていうイメージじゃないですよね。
山田 回る人じゃないよね、うん。なんかだから、やっぱりあそこら辺から、あれ不思議なんだけれど、やっぱり秋元だとか、臺とかいうレベルっていうのが、反精神医学みたいなもの、それに賛同するかどうかは別として、なんか理解してなかったっていうか。
立岩 それはそうだと思いますよ、明らかに。どう考えても秋元のほうが悪い奴なんですよ、普通に。偉くもなるし、世渡りが上手というかさ、そういう感じですよね。臺はそういう感じはあんまりしないかなぁ。
山田 そうだよね。なんか秋元に操られてたというか、操られてたわけでもないのかな。秋元黒幕だよね(笑)。
立岩 いや…、いろいろ出てくるけど、うん。でもあの人もだいたい結構長生きして、で、だからあと、まだ、上田敏ってリハビリの医者がいるじゃないですか。あの人も長いこといろいろと***(02:03:12)を渡ってきたんだけど、ああいう人たちのその当時なりその後の動き、場所が違うからわかんないですか? リハ医たちっていうのは。上田さんは知ってはいた?
山田 上田さんは知ってはいる。知ってはいるし、だからあれだよね、鶴見和子と対談してるのなんかを読むと、まぁいいよね。まぁいいよねっていう感じだけれども。やっぱり何て言うか、例えばリハビリを否定する人たちっていうのが、どういうことで言ってるのかっていうのがわからない人でね。
立岩 そうだと思うんですよ。なんかいろいろ、でも、ああいう人も秋元もそうだけれど、ある種の学会、業界のドンになっていくわけじゃないですか。あるいは大きい全国組織の相談役みたいなのになっていくから、
涼 お父さん、やってるよ、いろいろ。やってるよ。
山田 リハビリを。
立岩 理解してるって、社会モデルなら、社会モデルみたいな。わかるっていうふうに、こうポジションをだんだんそっちにいくんだけど、でも結局、結局わかってないんだろうなっていう感じですね、僕はね。例えば上田は、70何年かな、やっぱり最首悟なんかに…最首の書いたものに、ものすごい反論っていうか批判してるんですけど、それはやっぱり結局、あの人たちの立ち位置がここにあるからだなっていう感じなんですよね。でも今日の話何かって言うと、結局そうやって批判された側、秋元にしても、上田にしても、白木にしても、ある種そのゴリゴリのっていうか、純粋に社会のことはわかりませんっていうタイプの医者ではなくて、むしろその右か左かって言ったら左っていうような類の人たちっていうのをどう扱うかっていう、まぁちょっと私の関心にはちょっとあって。それで、今度の本の一部で取り上げてみたってことはあるんですけどね。だからそういう意味で言うと、僕は、これ前も言ったことあるかもしれないけれど、やっぱり間を取りながら、基本的に自分のポジション守って世を渡っていくっていうそういう人たちと、やっぱりその後の山田さんたちの流れっていうか、はやっぱり違う。社会をってことは両方言いながらも違うっていう印象を僕は持ってますけどね。
[02:06:17]
山田 だけど何て言うか、例えば、最首さんの言うことを、その秋元じゃなくて、一緒に最首さんと時代を一緒にして、一緒に戦ってきた部分のどれぐらいがわかったかっていうと、ほとんどそういう意味では、あっち側、こっち側って分け方よくないとして、こっち側だってわかんなかった。
立岩 そうだと思いますね。なんか、やっぱあの頃暗いですよね。孤立感っていうかさ、
山田 暗いというか、やっぱりその何て言うかな、
立岩 ひとりぼっちな感じがするんですよね。
山田 俺はなんか、その何て言うか、やっぱりそれは科学的じゃないとか言うとさ、最首さんがさ、「そこで言う科学は何ですか」っていうさ、「科学的じゃないといけないんですか」って言うんだけど。で、そう言われると、そうだなと思うんだけどね。やっぱりこっちもそういう使い方で、おんなじこと言っちゃってるじゃないかっていうふうに思うんだけど。そういうふうには思わないだろうなっていう、大半の人は。やっぱり科学的で何ですかって、何がいけないっていうか、ていうふうにしか受け取らないと思うんで。そういう意味ではだから何て言うか、精神科なんかの運動の中でも、どっちもどっちみたいなところは。
立岩 まぁそうなんですけどね。でも、はい、春山のことはちょっと、ちょっと見てみるかもしれません。
山田 掛貝淳子もちょっと出てくるけど、
立岩 掛貝淳子って何で…。知ってるの?
山田 掛貝淳子、西東京にいたの。西東京から国立へ移ったの。
立岩 前、国立の前は西東京?
山田 西東京にいたの。だから、涼の高校へ行くというので、田無高校で集会やった時には、
涼 あそこの田無高校、行ってて、
山田 掛貝さん、いた。
涼 先に、涼が、うん、田無高校0点に、番号で見てたら、「0点なった」って言って自分で泣いちゃったのね。それで番号見ててたら、
山田 番号なかったのね。
立岩 合格の人の番号が書いてあるそういうのに、自分の番号がなかったんで、
涼 番号がなかったのよ。それで、目で見てたらなかったのよ、もう。それで狛江高校に移動しちゃったの。
立岩 田無高校の時に、合格のところに書いてなかった。狛江には行ったの?
山田 狛江行ったんだよな。はい。もう発作なってるから上行って寝よ。
涼 こっちにいる、こっちにいる。
山田 そこにいるの。
涼 大丈夫だよ。
立岩 その時に掛貝さんは、
山田 掛貝さん、その頃ここにいたの。田無に住んでた。実家が田無なのね。うちにいてもあんまりいいことないから***(02:10:06)言ってたの、その頃は。
[02:10:07]
立岩 僕は1回インタビューはしたことはあるんですよ。
山田 すごい頭のいい子だよね。
立岩 ちゃきちゃきっていうか、ちゃきちゃきしたっていうか。よく言葉をたくさん、
涼 それで、それで狛江高校を、狛江高校を、1年生4回、2年生1回、3年生1回なの。6年行ったから。
立岩 じゃ5年?
山田 6年。
涼 6年。
山田 6年行っても、新記録じゃないもんね。伊部朝子が7行ったからな。
立岩 いられるんだね、高校って。いようと思えば。6年も、7年も。
山田 いられる。
涼 それで、一人暮らししたんですよ。
山田 あれね、それはね、だからこの人2留した時にわかったんだけど、退学って、悪いことしないと、成績だとか出席日数では、
立岩 退学にはできない。
山田 あれは処分だから。処罰だから。
立岩 そうか、悪いことしないと処分はできない。そうだね。成績が悪いのは、そうだね。
山田 だから退学にできないの。それで、進路変更ってのをするわけ。で学校が、進路変更届けっていうのを持たせて。
涼 お手紙持っていったの、お母さんが。
山田 それにハンコを押して。要するにもうこれ以上いても見込みはないので、進路変更を希望しますって、本人が言ったことにするの。
立岩 進路っていうのは、何、もう学校辞めてって、
山田 学校辞めるってことなんだけど。
立岩 そういうことだよね。
山田 そうなの。それをハンコ押さないと、
立岩 それにハンコつく…つかなければいつまでもいられるっていうか。
山田 学校は何もできないの。で、そう、法的にそういうことだって意味わかって。で、だから北村小夜なんかは、「これはもう10年でも20年でもいたら」とかいう話になって言うけど、結構大変だよ。やっぱりだから何て言うか、学校のほうが辞めさせられないってことがわかって、それでいつまでいるかわかんないってことになって、そいで諦めたみたいだけどね、最終的には。もう卒業させないとしょうがない。
涼 卒業してって。
山田 だから、もう今では、うちらの連絡協議会に入ってて、それで、一応全員合格します。
涼 高校運動を頑張って、ずっと、
山田 進級も卒業もするの。
涼 次の人を応援して、
山田 すごいんだよ、今年も工芸高校行ってた子が、2が3つぐらいで、あと全部1だったんだけど、ちょっと我々が都教委に文句言ったら校長が呼び出されて、全部2に変わったの(笑)。
立岩 なんかわかるような、わかんないような。
山田 そんな、そういうこと。だから自分らでもおかしいと思うんだけれども、そんな、評価に、
立岩 その全国連絡会、そっちはまだ続けてらっしゃるんですか?
山田 連絡協、連絡協27年目かな、今年。
涼 だって伊部さんが先に、伊部さんが、伊部さんと村田さんとうちのお父さんでしょ?
山田 ずっとやってるよ。村田さんって知らない?
涼 知らない?
山田 金井康治の、
立岩 村田さんって名前は知ってるよ。
山田 運動の時の参謀だったんだよね。
立岩 北村小夜さんって、あの方おいくつ?
山田 93かな。
立岩 そっか、すごいっすね。
山田 すごいね、あれ(笑)。ちょっと迷惑してるところがあるけどね(笑)。
涼 今も頑張ってやってんだよ、高校の運動。
立岩 北村さんって前からおばあさんみたいだったじゃないですか。
山田 そうね、全部おんなじ、
立岩 おんなじですよね。
山田 おんなじでやってる。
立岩 50年ぐらいおんなじ感じ。なんかいつ見てもおんなじって。ある意味歳とらないっていうか、最初から取り切っちゃってるっていうか。なんか不思議な人ですよね。
[02:15:02]
山田 やっぱりね、何て言うか、組合主義だよね。
立岩 組合主義なの?
山田 やっぱり組合可愛いっていうか。それはねほんと、そういうところがなかなかね、やっぱり、あんな日教組でも日教組可愛いしね、ところがあってね。
立岩 そうなんだ。わりとそういうところが。
山田 毎年ね、その教研集会の時に、1日目か2日目の夜に自主教研っていうのをやってるのね。出たことある?
立岩 ない。
山田 ないか。
立岩 記録とかそんなんはちょっと見たことある。
山田 【君が代】(02:15:47)の、あの、日の丸・君が代の交流会みたいなことになってて、一番最初は伝習館の運動について交流するっていうことで始まったんだけど、今はだいたいもう「日の君」の交流集会みたいになってるんだけど。それで、毎年、会場探しをするんだけど、北村さんがだいたいその、もう各地の活動家を知ってるもんだから、だから今年例えば大分でやるっていうと、大分で北村さんが知ってるのを呼んで、「会場用意しな」って言うと、そうすっと「はい」って感じで会場が用意されるのね。これ、これがすごいんだけども。そして、で、それでやってきたんだけれども、もう活動家があちこちにいなくなっちゃったっていうか、もうみんな定年になりまして。
立岩 そりゃそうでしょう。
山田 北村さん、声かけられる人がいなくなってきて、それで4年ぐらい前かな、山梨でやる時に。で、山梨もともとね、北村派みたいなのがあんまりいないのね。あそこは輿石派と言う(笑)、輿石東って、輿石っていう一応立憲民主ということになってるけど、元の社会党の嫌な奴なんだけど、すごいボスが頑張ってる所で。だから北村さん、声かけられる人がいなくて。ただ佐野くんっていう、もう退職したけれども、もともと日教組から抜けて、独立教組、あそこで作った人がいて。今、全国連絡会の運営委員なんかもやってる人なんだけど。それで、だから、北村さんが場所がないって言ってるって、その自主教研を主催してる先生から、私のところへ電話かかってきて、で、「北村さんが見つからないから、山田さんのコネがあったら探してくれないかって言われてるんだけど」って言うから、「さのさんいるじゃん」って言ったら、「いや、さのさんはダメだって北村さんが言うんですよね」って言うから、「どうして」って言ったら、やっぱり日教組から抜けた人はダメっていう、
立岩 そういうふうに話がつながるわけね。なるほどね。意外とじゃないのか。
山田 はあ〜、と思ってね。
立岩 北村さん、そうか。
山田 うん、やっぱりあの生き方だと、独立教組みたいな運動が好きかと思ったんだけれども、そうじゃなかったっていう。それでね、それでふくおかさんていう退職した先生で、音楽の先生で、『君が代』のピアノ伴奏拒否して処分された人がいるんだけど。彼女が退職して山梨に、実家のほうへ戻ってるっていうことで。で、北村さん、彼女に頼んで、彼女に会場探してもらったんだけど。そしたら甲府じゃなくて、韮崎になっちゃって。で、その韮崎の会場へ私が向かう途中でさのさんが来て、さのさんが「どうして甲府でやらないでこんな韮崎なんて不便な所でやるんでしょうかね」って言うから、「そりゃね、さのさんにお願いしようと思ったんだけど、さのさんダメだって言ってたと思うんだけど」って言ったら、「あー、そうなんですね」ってさのさん言ってたんだけど。なんかね、だから、それぞれのやりにくさっていうのがあるの。
立岩 そうなんだろうね。それってやっぱり外からあんまり見えないよね。中に入ってああだ、こうだやらないとね。
[02:20:00]
山田 そうなんだよね。
涼 あ、結婚してるんだ。
立岩 うん、そうだよ。一応ね。
山田 顔は立てないと。
涼 ああ、指輪して、してるんだもん。
山田 あと、なんか俺書いてたかな。
立岩 あとえっとね、
山田 掛貝さんのそういう感じ。だからやっぱりこう、何て言うかな、共産党がなぜダメなのかっていうことだよね。だから障害者の運動で、例えば障害者の運動で、その、だからこうやって青い芝だとかなんかは、陽をあててくれる人がいるんだけど。例えば私、障害連はわかんないんだよね、うん。障害連って何が、どこがいけないのかよくわかんないんだけれども。で、二日市さんなんかは、やっぱり障害連と全国連絡会を一緒にやりたいというふうに思ってたことがあって。で、その、障害連へのこだわりみたいなものがあったんだけど。だから、どこが違うかっていう。それからやっぱりその、青い芝だとか全障連だとか含めて、やっぱり知的障害の人についての理解がないっていう、うん。だから、就学の問題では、金井康治は全障連に呼ばれて、「お前、学校なんか行ってどうするんだ」つって責められたことがあったよね。で、学校なんか要らないと、うん。で、そんなものは行かなくたって、じゅうぶん障害者は自立していけるというようなことを言われて。っていうようなことがあって。だからやっぱり、その、何て言うか知的障害の子が他に場所がなくて、うん、やっぱり他の人と付き合えるのは学校しかない、学校みたいな場しかないっていう思いとは違うんだなっていうふうに思ってたんだけど。ただその就学闘争もね、だからあの当時の八木下、村田実、岩楯恵美子の就学闘争ってのはあんまりどこにも出てこないんだよね。
立岩 うん、そうですね。うん、今、うちのところに大学院生に、もう年は45ほどになってるんですけど。その一人、埼玉の運動のことで研究したいっていうのが来て。まぁ八木下さんともよく知ってて。で、八木下さんのこととか、それが一人。それから、藤原っつったかな、それはもっと若いんですけど、修士課程とか出たぐらいので、千葉かな、辺りのこととか。だからいないことはないんですけど、少なくとも今まではあんまなかったんですよ、書きものがね。で、関西、枚方とか、豊中か、あっちのほうについての本は一冊、去年出たかなぁ。だから、まぁゼロではないんですよ。ゼロではないんだけどまだ少ないですね。まだとか言ってる間に誰もいなくなっちゃう可能性もあるんで、うん。ほんともう、今、八木下さんに話聞くって難しいらしいですし。
山田 そうみたいだね、うん。
立岩 ていうようなこともいろいろあるから。でまぁ、村田さんみたいにとっくの昔にって方もいらっしゃるし。
山田 岩楯恵美子は喋れるよ。
立岩 まだ大丈夫ですか。あ、すげぇ。
山田 喋りたくてしょうがないみたいだよ。
立岩 あ、ほんと? 岩楯さんってどこにいらっしゃる?
山田 国立にいる。
立岩 国立でいいんですか。国立、へぇー。じゃ、国立のここから回せば話、聞くことできるんだ。
山田 うん。「だいたい私は別に学校ならどこでもいいっていうふうに思ってたんだけど、養護学校でも普通学級でもよかったんだけど、市が普通学級じゃなきゃダメだっていうから、普通学級にこだわってたんだ」って言った(笑)。
立岩 正直なことを言っていた。
山田 それはそうだろうなと思うんですね(笑)、うん。
立岩 岩楯は立岩、まぁ関係ないですけど、そういうこともあって覚えてるし。だから府中のことももし覚えてらっしゃるんだったら、ちょっと聞いときたいなっていうのはあるんですよね。三井さん、新田さんの懐古はあるんですよ。それ以外の、
涼 お父さん、携帯持ってる?
山田 携帯は持ってるけど。
[02:25:17]
立岩 そういうのがなく…、岩楯さんいいなぁ。
山田 岩楯さん、ぜひね、もう。あれもやっぱり年だからね。
立岩 今日はどこに行ってきたんですか?
涼 一人暮らししててたの。
立岩 一人暮らしのとこからここに来たの?
涼 はい。
立岩 どこで一人暮らししてるんですか?
涼 今、うちのお母さんがモンゴルに行ってるのね。
立岩 そうだって聞きました、聞いた、うん。明日帰ってくるんだって?
涼 それで、明日帰ってくるから、もう、今日からはドキドキしてもうドキドキして。
立岩 早く帰って来ないかみたいな? そういうこと?
涼 わかんない、まだ、まだわかんないのよ。あぁ、うちのお母さんはえっと、えっと、モンゴルの、モンゴルの障害? の車いすとか、車いすとかないから、寄付してあげてるのね、結構。トイレとかないから、土とかないから、それで、トイレで。で、トイレもないし、だから、もう大変なの、結構(笑)。今度、今度、7月、7月また涼ちゃん、7、7月にモンゴルに行っちゃうの。
立岩 え? 明日帰って来るけど、また、また7月に行くの? っていうこと? お母さんは。明日帰って来るんでしょ。で、また行くんだ? またモンゴルに行くんだ。
山田 7月にね。
立岩 すごいね。梅村さんってそもそもいつ、ていうかどういう知り合いだったんですか。
山田 あのね、俺最初に会ったのがね、九大でね、その、集会をやってたのかな。なんかね、決起集会みたいなものがあって、そこへまぁ、何て言うか応援に行くというか、オルグに行くというか、応援とオルグを兼ねてたんだよね。それで、行ったのがちょうどあの、よど号が(笑)、ハイジャックの日でね。
立岩 ハイジャックの日に、九大に行ってたんですか。
山田 その日にね。俺はあの、九大に行くのに、タクシーに乗ったらね。そしたらタクシーの運ちゃんがね、「今、空港で大変なことになってますよ」って。
立岩 じゃあタクシーで聞いたんだ。
山田 うん、それがハイジャックだったんだけどね。で…、
立岩 じゃああれ何年だ? まぁいいや、後で見てみよう。
山田 で、何となくね、その時に小西が乗ってるんじゃないかって思ったんだよね(笑)。そしたら、そしたらほんとに小西が乗ってたわけ。その日にね、九大の4年生のクラスへオルグということで行ったら、そこでクラス会の司会をしてたのが梅村だった。で、ああ、いいなと思っていて(笑)。で、そしたら、その後ね、結局こう森永の運動を始めて、で、東京は私と黒部って二人で始めて。で、九州地区は梅村が中心になってやってたんで。で、何て言うか、お互いになんか連絡をするみたいなことで何回か電話をしたんだよね。で、その後水俣に行くことがあって、水俣の帰りにちょっと寄ってみようかと思って。で、当時、国立小倉病院に勤めてたんで。
[02:30:24]
立岩 もう、最初に会った時は4年生で、その水俣の帰りに会った時はもう勤めてた。小倉病院?
山田 うん、九大を追い出されたというか。あの、あれはまたすごいんだよね。何て言うか時代のある、梅村ね、ファントムの破片って持ってるよ(笑)。九大にファントムが落っこちた時。
立岩 時のやつを。
山田 うん(笑)。
立岩 破片拾ったんだ。
山田 持ってるんだけど。結局その小児科で反乱して。それであそこはね、青医連の部屋…プレハブの部屋を建ててたんだけど。いきなり朝なんかブルドーザーが(笑)来て、で、ガシャッて壊されて、で、行く所なくなって。で、まぁ大学を出るということになったんだけども。すごいんだね、あの、九大を追い出されたりすると、福岡の市内はもうどこも就職できないっていうふうになっちゃって。で、北九州はね、人手不足だったの、全然。やっぱり九大のが行かないっていうか、まぁ、あの頃は北九州って不便だったし。ほとんどわりあい、その何て言うか、炭鉱病院みたいな感じの所が多くて、それで人手不足で困ってたのね。だから、どんなんでも来てくれりゃあいいっていう、大歓迎みたいな話だったんで。それでね、だから北九州はいろんな科で追い出されたのが、みんな北九州に集まっちゃったっていうか。うん、だから北九州は当時はその、なんかちょっとした、
涼 それじゃ子ども死んじゃう、ここ、ここ。
山田 それはまた後。
涼 やってないの。
山田 拠点に、拠点みたいになってた。
立岩 北九州がね。
山田 北九州が、うん。
立岩 あぁ、なるほど。なんかそれはわかる気がします。いますよね、北…、うんうん。それでそこでお勤めになって、勤めていて、
山田 そう、それで、「東京に出てこないか」って言って。
立岩 「東京に出てこないか」って山田さん言って、***(02:32:45)になったんですか?
山田 だから、九州へ来いって言われたりして。で、強引にこっちへって言って。
立岩 で、いらして。その後どうなってどうやってこうなったんです? ここの診療所っていうか。
山田 だから、まあ結局それで就職するんだけれども就職先がなくて、そのひふみって所にずっといて。うん、そいで、
立岩 そこに、ひふみの所に長いこといた。
山田 長いこといてね、うん。それでまぁ開業しようかって話になって、開業して20年やったという。
立岩 その後が開業か。で、20年っていう。で今日に至るみたいな、そういうことですね。
山田 そうね、だから途中でね、1年はその言語の言語指導をやるというので、それであの、戸山のセンター、障害者センターへ1年行って。医者はね、だから1年で養成できるっていうか、その資格が取れるっていう話になって、言語療法ね。
立岩 あぁ、それが新宿戸山のあのセンターの所で、そこに、もう前っていうか段階。和田か、和田がいてっていうそういう話ですか?
山田 いや、そこはそれはまた別、うん(笑)。それよりずっと後。
立岩 あ、そっか、あぁはい。それでそういうことか。
山田 ということです。
[02:34:41]
立岩 前、最後に近いんですけど、こないだっていうかずっと前ですけど、お話伺った時に、スモンの話はされていて、少しそれは本の一部にはなってるんですけど。ああいうやつの、僕はこれからまとまったものを書くことはないと思うんですけど。でもその運動、やっぱりあれも見方によるわけじゃないですか、***(02:35:11)っていうのかな、そういうのの本流にいた人たちから見える歴史みたいなものと、…から見たら頑張って闘ってこういうものが得られましたっていう、そういう歴史になっちゃうじゃないですか。でも他から見たら違う見え方になりますよね。ていうようなことは、やっぱり一定、別の見方っていうか、別の流れっていうのは押さえておくのは大切だなぁってことは、まぁスモンに限らないですけどね。
山田 そうだね、だからその患者運動自体がね、やっぱりその、ほとんどやっぱり共産党がやってきたっていうのがあって。
立岩 大きいですよね。
山田 うん。それであの、俺、いろんな個人のね医療裁判みたいなもの見てわかったんだけれども、医療被害を受けた人たちだとかなんかっていうのは、そのお金が欲しいわけじゃないんで。やっぱり謝ってほしいっていう、基本的にはね。だからその、裁判っていうのはもう限界があると思うんだけれども、だいたいほとんどその加害者とも会うことができないっていうか、代理人同士でやってっていうね。それで最終的には和解かなんかになっちゃって。結局こう謝るっていうことも取れないまんまに、終わりになっちゃうっていうことがあるわけだよね。やっぱり水俣みたいに直接交渉でやったら、ああやって社長が出てきて、「お前、飲んでみろ」っていうふうに対でやって、それである意味何て言うか怨みを晴らすことができるんだけれども。で、裁判、ほとんどだから、例えば医療裁判だと、医者と弁護士のレベルで終わっちゃって、当事者は何にも口も出せないっていうか、もうここらで手の打ち時ですよっていうふうに言われて終わっちゃうっていうね。だからあの、やっぱり共産党っていうのはそういうやり方っていうか当事者主義じゃないから、全部周りの弁護士やなんかで決めてしまうっていう。だからよく言うんだけれども、例えば水俣病でも、共産党系の人たちの運動の中で、患者さんで有名な人いるかっていうと、患者さんで有名な人いないと。だいたい弁護士が喋っちゃうっていうので。で、今回の福島も私があれなのは、やっぱり当事者の声がほとんど聞こえてこないっていうか、支援者がいろいろ言ってるだけみたいなものになって。やっぱりその、当事者の、東電に一言謝ってもらいたいみたいなものが取れないっていうね、ことが一番ネックだと思うんだけれども。だからそうすると、なんとなくこう、運動を利用しているという感じがぬぐえないっていうか、当事者抜きだとね。共産党はやっぱりそこら辺があれで。水俣なんかの場合は、こっち側は川本を始め患者さんで有名な人いるけど、弁護士だとかなんかほとんど知られてないっていうね。かつては後藤【孝典】(02:38:30)だったし、今は山口さんって一人でやってるような状態だけれども。やっぱりその黒子…支援者は黒子でいるっていうことが、やっぱり日本ではなかなかできにくいという。で、患者運動もやっぱりほとんど当事者じゃなくてっていう。だからその、一人で闘ったスモンの古賀照男みたいな存在っていうのが、他の患者運動の中では出てこなかったというね。だから川田龍平なんかはやっぱり嫌になっちゃったっていうか、その、共産党と一緒にやってて。
立岩 あぁ、そうなんですか。
山田 うん、あれはだからやっぱりいろいろあれだけれども、お母さんのほうは抜けきってなかったかもしれないけど、結局、共産党が全面支援した運動で。だから、小林よしのりが嫌になってああいうふうになったのも、やっぱりあれ、共産党の運動見たからだと思うんだよね。小林よしのり関わってたんだよね、最初。で、あれで、やっぱりこう運動やってる奴らっていうのが。
立岩 あぁ、そういう話なんだ。
[02:38:48]
山田 ひどい、ひどいというので、あんなんなっちゃったわけだけど。あれ、櫻井よしこだとか、小林よりのりだとか、最初関わってたんだよね。
立岩 そうだよね。
山田 関わってたんだよね。だからやっぱりその共産党の運動っていうのが、そういうところを持ってるっていうか、うん。で、その点のことって言うかな、だからやっぱり森永なんかもそうだけれども、ただ、あれ裁判だったからね、裁判終わりまで行けば負けてたとは思うんだけれども。でもやっぱり、途中で示談みたいな形になったっていう、取引をしたわけだよね。森永の問題、一番大きな問題っていうのは、あれあの、生きてる人に対する医療保障だけだから。死者に対しては一銭も保障してないよね。で、それはねだから、森永としては大儲けしただろうって言われてるんだけど。やっぱりあの年齢で、あの年齢でね、その逸失利益みたいなもので言えばものすごい額だから。だから今森永が払ってるのってね、年間だいたい3億円ぐらいを毎年拠出してるっていう、そういう状態。
立岩 なんとか基金とか、なんかそういうやつですよね。
山田 ひかり協会っていうね。出してる状態だから。だからそれはもう、絶対、森永は得をしたっていう。でも、その生涯の医療保障が取れたっていうようなことでは、勝ったって言ってるけれども、一方で死者に対しては何もされてないっていう、ほんとに葬式代だけだよね。ていうだから、そういうことで岡山の能瀬さんだとかなんかっていうのは、今でもひかり協会告発して『むすぶ』にずっと書いたりしてたし。それからその、一番最初に岡山の中心だった岡崎さんというのは除名されたわけだよね、ひかり協会から。で、最初はだから、岡山で始まった時は岡山の社会党系の人たちがやってたんだけれども、主に京都、京都だよね、京都の共産党系のに負けちゃった。
立岩 結構京都はそういう、あるんですよね。
山田 京都とね、それからその、やっぱりあれ、最初にその14年目の訪問っていうので、反対の丸山さんていうのが、実際はあの養護教諭が、養護学校へ来てる子で見つけたわけだよね。で、あの養護教諭もそうだし、丸山さんもそうだし、やっぱり共産党系の人だから。だからほとんどその共産党系の医者だとかなんかがついちゃったわけね。民医連が全面支援したわけ。それであの、だから、ひかり協会になった時に救済対策委員っていうのが各地に作られて、それで、それぞれ***(02:43:21)に救済対策委員長がいるわけだけど。委員長で共産党じゃないのは私だけだったっていう。私、今もやってるんだけど東京は。
涼 今、やってるよ。
山田 東京は、東京はいろいろ本部から潰そうとしたけれども、潰せないっていうか。もともと、私と黒部と二人で見つけ出して、それで集めて作ったっていうことがあるから。ちょっとやっぱりその、東京は別なんだけれども。そういう何て言うかな、だからあの、やっぱり取引をするんだよね。で、共産党なんかだと、やっぱりこう、あれはやっぱりほんとにひどいことだと思うけれども、水俣なんかでもそうだけれども、たくさん診断書を書いて…たくさん診断書を書けば、数打ちゃ当たるで何人かは患者って認定されると。そうすると認定されたときに11%かなんかをカンパするようになってんだよね、共産党に。で、川本さんはすごい羨ましくてね。駅前に共産党が診療所作ったら、もうものすごい流行って。で、なんかどんどん大きくなってね。
涼 早く帰んないとね。
[02:44:57]
山田 作りたいって言うから、我々は作ってもああいうふうに儲けることができないから(笑)、やめたほうがいいよと私は反対して。それでできなかったんで、川本さんはずっとなんか恨んでたみたいだけど、それを。でもやっぱり、共産党ってほんと、その党のためにっていうことである意味食い物にできるわけだよね。そうすると、やっぱり何て言うか、裁判終わりまでいって負けて一銭にもならないっていうのは困るから。だから途中である程度取れるところで、手を打っちゃうっていうのを。
立岩 その、例えば森永に関して、その手打ちっていうか、ていうのはその、確かめ得る事実なんですかね?
山田 まぁ、確かめ得るというか、手打ちというかそれはまぁだけど、うん。
立岩 表にはなかなか出てこないことではあるんですか?
山田 いや、別にいいんだろうね。裏取引をしたわけじゃなくて、正式にだから、厚生省が間に入って和解したっていうことだから。
立岩 和解したっていうことだから、それはそういうことだということになるわけですか?
山田 そうだよね。それでその、ただ、だから、それであの恒久救済案っていう生涯医療保障をするっていうのは、まぁ岡大の青山さんていう公衆衛生の教授で、我々の側の人だったんだけど、彼が作った案でやったっていうことだけど。でも、それは死者に対して保障はしないということではなかった。で、そんなことは書いて…その中には書いてないわけで。それで、最初の頃の森永の関係者の座談会みたいなのの記録を読んでみると、死者の問題っていうのはやっぱりまだ残ってる問題だから、これはいずれ何とかしなきゃいけないですよね、みたいな話をしてるんだよね。でもそれも立ち消えになっちゃったっていう、ことだから。
涼 どうしてモンゴル行っちゃったんだっけ、お母さん。
山田 それからその、何て言うか、だからある意味過去は問わないと。こっから先の医療保障をということなんで。例えばね、当時、森永の場合はね、当時重症だった子が軽症になって、軽症だった子が重症になったっていうケースがあるわけ。で、それはあの、パムっていう解毒剤があって、重症の子にパムを使ってる、それで解毒してる。だから重症の子でパム使ったおかげですごい良くなっちゃった子っているわけ。で、パムの量が足らなかったんで、重症の子にしか使えなかったから。それから中等症ぐらいの子でパム使わなかったもんだから、その後ずっと大変な思いをしてる子もいるわけ。そうすると、ずっと大変な思いをしてる子は一応その医療保障があるんだけど、当時重症で良くなっちゃった子については、もう良くなっちゃってるもんだから、だからそこの保障は何もないわけ。そこら辺もやっぱり納得がいかないっていうか、親としてはね。過去は切り捨てちゃうっていうことで。で、だからその辺のことっていうのは、別に裏取引ではない。その恒久対策案をのむということだから。だからその、そういう患者運動のほとんどがやっぱりこう、共産党で主導されてやっぱり当事者性を失ってるっていうことと、それからやっぱり、だからほんとに何て言うかな、最近の若者は怒らなくなったとか言われるけれども、やっぱり直接交渉しなくなったっていうのが。で、これはね、今回、今、川崎で呼吸器つけた子の裁判が始まってるけれども、もうなんかずっと運動してきた部分は「何で裁判なんか」っていう。で、就学運動の裁判っていうのは、裁判って時間がかかるもんだから、日本のは。だからなんかその、時間かかるともう終わっちゃうっていうか(笑)。6年かかったらもう小学校終わっちゃったりするわけだよね。
立岩 子ども、大人になっちゃいますよね。
[02:49:52]
山田 それで、川崎なんかは実際に呼吸器つけて学校行ってる子がいるわけで、普通学級行ってる子がいるから。だから川崎の運動してる人たちは、自分らに言ってくれれば直接交渉して絶対取れるって言ってるんだけど。なんかねぇ、大谷恭子なんかは裁判好きなもんだから(笑)。で、なんか親との間で勝手に決めちゃって裁判を始めるっていうことになって、応援してくれっていうのが、川崎で運動してる人たちのほうへ初めて入ってくるっていう状態だったんだよね。で、今、やっぱり直接交渉もやらなきゃダメじゃないかっていう声があって言うんだけど、教育委員会側としては裁判中はできないと。で、裁判中ってできないんだよね、直接交渉は。
立岩 かえってね。
涼 前のはね。前はね、毛布を持っててね。毛布を持ってって(笑)、警察の前で寝てたの。
山田 警察の前で寝ない、都庁座り込んだ時の話だね。
涼 そうそう。大変だったの。もう大変だったの。警察、警察呼びますなんて言って。
山田 だからその、何て言うか直接交渉の時代だったっていうか。やっぱりその頃はもう何て言うか、関西の人たちに東京はダメだって言われてて。で、関西はなんかこう、行政がこんなひどいこと言ったっていう誰かが言うと、そうするとそれがすぐ広がって「なら行くべ」って押しかけてって。それで1日に何十通も確認書を書かせて、口で言ってるだけじゃダメだから書けっつって書かせてっていうのをやってきたっていうか。それはなんか解放同盟がやってきたあの、糾弾闘争の名残みたいなもんでやってたんだよね。で、東京はダメだって言われて。東京ってなんかこう、行く前に作戦会議をやると、なんか絶望的な気分かなんかになって(笑)、それでやらなくなっちゃうと。で、考えないで行けっていうふうに言われてたんだけど。やっぱりある意味そういう何て言うか、とにかく論理じゃなくて、怒りをそのままぶつけに行くっていうことをしなくなったよね、あらゆるところで。で、この前、その予防接種のワクチントークみたいなもので、昔あの、予防接種問題で厚労省に交渉に行った時のを映画に撮られてて、みんなで見たんだけど。昔はこういうのやってたんだよなって。
立岩 うん、なるほどね。でも若い人ほどというか、なんかやっぱり楽しいほうがいいっていうのがあるじゃないですか。裁判って楽しくないですよね、おっしゃるように、全然。なんか暗くなるし。それよりガーッて行って勝つか負けるかわかんないけど、ガーッて行ったほうが楽しいよっていうことを伝えることはできる。
山田 そうだね、見せないといけないのかもしれないけど。
立岩 そっちのほうが面白いよっていう感じで、うん。それはまぁわかってもらえるんじゃないかと僕は思うことにしてるんですけどね。今度、本の第二版みたいなの、何を出そうかなと思って。前、あの、高橋さん、高橋修さんの話をちょっと一章加えようと思って。まぁちょっと書き出してるんですけどね。彼なんか、完全に直接行動武闘派だったから、そういう人もいたぜってちょっと書こうかなと思って。
山田 そうだよね。だからあの、養護学校義務化の闘争だとかなんか、ほんとに何て言うか、都の職員たちをもう部屋から出さないみたいな感じになってて(笑)、いつ手が出るかみたいな感じのあれだったけど。あんなことしょっちゅうやってたんだよね。結局高校なんかもね、だからその点、一応東京は定員割れしたら0点でも入れるということにしてるんだけど。
涼 0点でも入れるから。
[02:54:42]
山田 で、最初の頃は、やっぱり入試の発表の日に、定員割れしてるのに落とした学校があるっていうと、するとだいたい伊部さんの所へ話が行って、伊部さんが仕事途中で放り出してその学校へ行って。それで、それを聞いたのがあちこちへ電話をかけて、「伊部さんがこの学校行ってるから見たらすごい」って言って。それでもう、それこそ徹夜のつもりで、二次試験もやって必ず入れるっていうことを向こうが言うまでやめないっていう(笑)…のでやって、一つ一つ取ってたんだよね。それでもうやっぱり学校が嫌になって、もう落とすとああいうことになるから、めんどくさいから入れちゃえみたいな話になって。それを追認する形で、東京都が定員割れして落とすっていうのはおかしいから、定員割れしたら必ず入れるっていう通達を毎年出すようになったんだよね。だからやっぱりそれはもうほんとに、どっちが嫌になるかっていう、こんなんじゃ大変っていうね。だからこの人が小学校入る時なんて、やっぱり足立のおかげっていうのがあって。ここの市会議員をやってるやまざきさんというおばさんがいてね、で、教育委員会の連中がね、「今度、山さんところの娘が小学校入る年だけどね、あれを入れないって言うと足立みたいになるだろうか」って言うから、やまざきさんが「それは絶対なるよ」っていうふうに言ったら、「じゃあ、入れなきゃしょうがないですねって言ったよ」って言って。
立岩 えっと、何年に小学校に入ってたんだ?
山田 だから、80…、89年。違う、89年じゃない。だから、73年生まれだから、
立岩 73年生まれね。
山田 だから79年?
立岩 73、79、そんなとこですね。
山田 うん、うん。
立岩 に、小学校入った?
涼 向台小学校。
立岩 向台小学校。
涼 向台小学校から四中に行って。
立岩 79、そっか。僕が大学っていう所に来るために東京に来た年だ。で、お名前が、どういう字を書く? どういう?
涼 梅、梅村涼です。
立岩 「りょう」はどういう字でしたっけ?
山田 涼しい。
涼 涼しい。
立岩 涼しいね、さんずいのね。梅村涼さんは、73年生まれ、79年小学校。
山田 えーっと、79年じゃなくて80年かな。
立岩 80年か。
山田 だね。
立岩 そうだね。80、はい。じゃ、そっか。もうかなり、闘争がまだホットだったっていうか、ホットな。そうか、金井さんはその後だったんですよね。
山田 そう。だからそういう、そういうやっぱりね、ものすごくおっきな影響っていうか、僕が嫌になったっていう(笑)。
涼 だって康治くん、康治くん、えびさん、で、で、世田谷区のりっちゃん、で、最後に涼だから。
山田 だからそろそろ、もう何て言うか年代が変わって、そういう過去の痛い目に遭ったのを知らない教師たちが、今年進級させないみたいなことを言ったんで。で、うちの村田さんが、都教委に、なんかこう、「あそこ進級しないと大変なことになるよ」って言ったら、すぐ校長が呼び出されて、それで(笑)、「進級させろ」って言われたみたいで(笑)。
立岩 そうか。
山田 まだそういう。
立岩 直接行動の積み重ねだから、時々それやっとかないとダメなんだね。記憶は薄れちゃって、効果がなくなったりするんだな。
山田 だからねやっぱり、我々の頃に、ここの運動始めた頃に、あの頃はだから定時制の教師たちがたくさん関わってくれて。で、主に南葛だったんだけどね。
立岩 ん?
[02:59:50]
山田 南葛飾、うん、南葛だったんだけれども。やっぱり南葛の運動もやっぱりその、解放運動をやってきて、都の人権の担当の奴らとやり合ってきたのがあって。もうなんかこう、下手なことやると大変なことになるっていうのが、都の職員のほうもわかってる時期だったから。だからある程度やれたんだよね。で、あの頃は定時制の先生ってね、昼間まるごと空いてたから、なんかいろんな所に出てこれたんで。今はもう定時制の先生もあれだもんね、ちゃんと昼から居ろっていうふうにされてるし。それからその、南葛なんかは、要するに何て言うか、昼間へ移されるっていうか(笑)。昼間へ移しちゃえばもう運動できなくなるわけだから、昼間の学校に移動させるって。夜間からね、定時制から昼間へ移るってのは栄転だからね(笑)。表面上はあれだけど。で、そういうふうにバラバラにされちゃったんで、うん。
涼 それで旗持ってて。持ってったんだよね、田無高校に。
山田 そう、田無高校に自主登校したのね(笑)。
立岩 え?
山田 自主登校と…。
涼 この旗を持っててたの(笑)。
山田 「梅村涼、学校へ行きたい」っていう。
立岩 高校は1回だから落っこちたんでしょ?
山田 高校は3回落ちた。
立岩 3回落ちた。3回…。
山田 3回落ちた。2年目に自主登校1年やったの。
立岩 2年目に自主登校。それは田無?
山田 田無高校。
涼 それで、それで、ビラまきを…8時半にビラまきを全員で(笑)。もう大変なビラまき、呼んで…。
山田 あれもだから…、佐野雄介が6年も自主登校したからっていうこともあったんだと思うだけれども。やっぱりなんか、うん、浪人したら自主登校みたいな話になってたからね、うん。で、やっぱりね、だから何て言うかな、自主登校なんて親だけではできないから、やっぱりちゃんとこう毎日ボランティア的に入ってくれる人がいたっていうね。それからその狛江行き始めた頃なんかも、今はここに自立生活企画ができて、で、派遣してくれるからあれなんだけど。
涼 佐野さんがいるの、自立生活の。
立岩 この辺なんだ、近いんですか?
涼 はいはい。
山田 自立生活はあの、益留くんが。
立岩 益留さんとこね、知ってます、知ってます。
山田 で、益留はね、益留のお兄さんとか知ってる?(笑)
立岩 知らない、知らない。
山田 益留のね、お兄さんがね、ポリオでね、左手が利かない人でね。
涼 こっちの。
山田 で、この人が宮崎から東京へ出て来てね、それで郵便局員になってね。
涼 郵便局(笑)。
立岩 それいつ頃の話?
山田 それで、だから、私が最初に会ったのはその義務化の闘争で都庁で会ったんだけど。すごいの、なんか都庁の職員に「やい、お前は何やってんだ」っていう感じでやってた人だったんだよ。それで、それでまぁ、だから義務化のあれで知り合って。
立岩 それはお兄さんなの?
山田 お兄さん。そしたらある日、弟が高校でラグビーで脊損になって、実家に今いるんだけど。あれ、家にいたらダメになるから、東京へ連れて来るから、それでどっかリハビリやなんかができる病院を教えてくれって言って。で、その時、関東労災に私の知ってる脳外科医がいたりしたんで、それでじゃあ東京に出てきなって言って。それで彼が呼んで、来た。それで、だからそこからの付き合いで。だから、一応学校事故なんで、かなりの補償金が出たもんだから、それで何かをやるっていう話になって。で、それ、最初はだけど、でも自立を作った時はもうそのお金はなかったのかもしれない。
涼 まだなかったよ、お金なかった。
山田 最初、喫茶店やってたしね(笑)。
[03:05:05]
立岩 僕はそれは知らなかったな。宮崎で、家が農家で養豚? っていうかまぁそういうあれで。それで鉄棒か? で事故ってっていうのは知ってた、いや知ってる。
山田 高校だよあれ。高校で、鉄棒じゃなくて、うん、ラグビーかなんかだよ。
立岩 ラグビーか。鉄棒は別の人か。ってなって、で聞いてて。一回僕、清瀬の社事大で非常勤やってたことがあって、その時に益留さんに一コマ来てもらって喋ってもらったりしたことはあるんですよ。
涼 えーっ!
立岩 だけどそのお兄さんがっていう、そのエピソードっていうのは、その経緯は全然知らなかった。その時多分聞かなかったと思う。お兄さんが先に東京へ来てたんだ。
山田 お兄さんがすごかったの。それで我々がここでその、「にんじん」っていう共同保育を始めて、それで…。
涼 にんじん保育園。
山田 それで郵便局員辞めて、そこのホームに入って来たんだけれども。それで、その子どもを連れて田無駅の辺りを歩いてたら、そしたら警官に「おい益留、お前その子どもらはなんだ?」とか言われて(笑)。で、***(03:06:24)から移って来たばっかりなのに、「俺、なんで名前を知られてるんだ」って。「ずっと目つけられて、その動向が注意されてるんだよ」って言ってたんだけど。
立岩 まだお兄さんもこちらにいる?
山田 お兄さん帰った。宮崎に帰った。
涼 帰っちゃったの。
立岩 宮崎もね、今結構面白い、「YAH!DO(ヤッド)」っていうんだけど、あの自立生活センターがあって。
山田 あぁ、そう。
立岩 なかなか面白いですよ。
涼 電話するといいよ。
立岩 去年の秋に行って来たの、宮崎に。
山田 だから、益留はだからお兄さんがそうで、お姉さんは介護の仕事しててっていうね。
涼 で、ひとみちゃんも…。
山田 ひとみちゃんはパートナーね。
立岩 あぁ、益留の、益留の連れ合いがひとみさんっていうんですか?
涼 俊樹の…が、ひとみちゃんっていう。
山田 益留、イケメンだからね(笑)。
立岩 あぁ、まぁそうだね。でも、益留さんも随分長いよな、なんだかんだ言って。みんな長くなったよ、その頃から言ったら20年とかもう経っちゃってるもの。だいたい90年代とかでしょう、ああいうセンターとかできていくのは。だからそれから言ったら、90年からだって19年だもんね、随分なもんですよね。
涼 今もいますよ(笑)。元気よ。
立岩 うん、元気、それは知ってる。たまにあの、2、3年に1回とかは会う、彼に。
涼 会ってるの?
立岩 うん、会う時もある。今年も多分6月にJILのやつが仙台であるっていうから。今ね、筋ジスの人をあの、去年赤い本と青い本出したんですけど、赤い本のほうの話は国療の話なんですよ、基本はね。そりゃ白木とかも出てくるけど、あれはおまけみたいなもんで。国療の話で、国療…、
山田 『現代思想』は全部読んでますよ。
立岩 国療の筋ジスの人たちをなんとかしようっていうプロジェクトっていうか、始まっていて。それの、それを全国でちょっとやろうって言って、JILとかも力出してもらってっていうんで今やっているんです。
山田 俺、石川左門さんも何回かは会ったけど。
立岩 あぁ、ほんとに。
山田 うーん、話が合わなかったね、なんかやっぱり。
立岩 うーん、あのね、やっぱりね、左門さんは賢い人ではあったと思うんだけど、あの運動論でやっぱり難しかったと思いますよ。実際、途中で止まっちゃったっていうか、街づくりのところに行ってっていうんで。具体的にそれは病院にいる人とか、施設にいる人とかどうこうなったっていう気はしないんですよね、あの方法論っていうか、運動論というか。それはそう思いますね。そういうこともちょっと考えたいなと思ってね、うん、書いたんですけどね。だからある意味、もっと早く始まっててよかったんだけど、まぁ随分時間が経って。で、僕今度、で、一昨年秋出た人がいたんですけど、医王病院って金沢にある。そこの、いた古込さんっていうのが、47で、つい3月の24日かな、亡くなっちゃって。とかいうこともあって、そんなにゆっくりもやってられないなと思って、今、ちょっとそういうことをやってるんです。また6月に西宮で集会やって、あ、5月、6月の1日やって、仙台でJILの時やってっていう、ちょっとその辺のことをやってます。結構残ってるんですよね、かなりの数の人たちが。昔と違って生きていられる時間は、寿命は延びたので。
[03:10:31]
涼 大丈夫、雨が。雨がざらざら…、傘、持って来てる?
立岩 大丈夫、大丈夫。ピューって行くから。
山田 (笑)傘あるよ。岩楯さん、あの、住所。
立岩 わかります? これね、僕は行けないかもしれないけど、岩楯さんにちょっと連絡取って、うちの今、さっき言った共同研究の人に。
山田 やっぱりね、だから何て言うかな、もう介護の人たちといってももう若い人たちで(笑)。
立岩 そうですよね。
山田 話をしてもわかる人がいないだろうから。やっぱり…。
立岩 中村っていうのは、こちらの姓はあるんですか? この…。
山田 あの、中村っていうふうに表札を書いてるっていうか。中村雅俊という人を(笑)、中村雅俊という人となんか…。
立岩 これ高木? 高木町?
山田 高木町2−1−14高木ハウス101か。1階だったね、わかりやすい所だったよね。
涼 お父さん間違えて行ってたらしい。
立岩 岩楯さんのパンフレットは確かこっちにあるんだけど、ずっと昔の。学校になんだっけ、入るだっけ?
山田 「学校に行きたい」じゃない?
立岩 「行きたい」か、そうですね、わかりました。
山田 「岩楯恵美子学校へ行く会」(→「岩楯恵美子学校へ入る会」)だったと思う。
立岩 はい。54ですね、これ、4454ですね。これはちょっと誰かに調べてもらって。そうなんですよ、就学運動のことはもうちょっと調べたらいいんですよね。
山田 私もあの(笑)、立岩さんの本でびっくりした。現代書館の小林りっちゃんって横田さんの介護してた人なんだね。
立岩 そうなんですよ。
山田 そうなんだね、あれ(笑)。
立岩 それが、今に至るっていうことらしいですよ。それがきっかけで、現代書館であの【島と】(03:13:07)。その彼女も今年で退社。退社というわけで、なかなか移ろっていくものなんですなぁ。あの人も北村さんとまた別の意味で年取らないっていうか。
山田 そうだよね(笑)。
立岩 不思議感のある人だよね(笑)。
山田 そうなんだよ。だけどまぁ、よく現代書館っていうか、現代書館もいろいろ(笑)。
立岩 どうなんだろう。まぁ若い人一人入れて、これが後継者だってこないだ連れて来てました。どうなることやら。
山田 菊地氏はいい加減***(03:13:48)(笑)
立岩 菊地さんって社長さん?
山田 うん。
立岩 はいはいはい。
山田 でまぁ、私はあれでは広河隆一問題は、ちょっと大変で被ったので。『DAYS JAPAN』だとかなんか、ひどかったっていうのがわかるから、やっぱりああいう出版社だとかなんかっていうのも、結構いろいろパワハラみたいなことあったろうなと思うんだけどね。
立岩 うん、あの、僕は時々、明石書店とかね、うん。
山田 明石書店もなんか…。
立岩 明石書店の石井だっけ、社長さんもなかなか…。
山田 みたいだね、ひどい目に遭ったという人。
立岩 親父らしいよ。結構あると思いますよ、そういうことは世の中いろいろと。出版といえば、あれ、『はやい・おそい』、あれは今かなり関わって、どうなり…。こないだ熊谷さんとちょっと話した時に、やんなきゃいけないことになってるんだって言ってたけど。
山田 でも、彼、せっかく引き受けてもらったけれども、続けていけるかどうかわかんないね。
立岩 なかなか大変そうですよね。
山田 ものすごく大変。
立岩 ものすごく大変? そんな気がしてね、ちょっと、そうですか。あの、椿忠雄ってもう一人出てくる人ですけど、なんか覚えてる? っていうと何だけど、なんかあります? コメントか何か。
[03:15:35]
山田 椿忠雄はね…。だからあの、僕らは椿さんに習ったんだけれども、やっぱり椿さん、それはね、教師としては良かったっていうか。で、ただ、教授が…豊倉っていう教授が、嫌な奴というか。結局、椿さんって教授候補だったのに豊倉に抜かれたんだよね、という感じで。だから本来は椿さんのほうが上なのに、豊倉がなっちゃったおかげで椿さん居る所なくなって。それでまぁ新潟行かされ、
立岩 それで新潟行った、うんうん。
山田 新潟行かされたんだよね。で、まぁあれもなんかこう、かわいそうだけど、代わりにその脳研みたいなもの作ってあげるからみたいな話があったとかいう話もあるんだけど、うん。で、だからああいうふうになるというか、だいたいもう一定、何て言うかな、左遷みたいな形でもそこで一定の権力が作れてしまうと、やっぱりそれを失わないために、なんかこう…、姿勢が変わってしまうっていうか。だから鹿児島の井形だとかね、なんかみたいなものもそういうところがあると思うんだけど。あれ、やっぱり東大から鹿児島なんか行かされるっていうのはもう大左遷なんだけれども。
立岩 そういうもんなんですか。
山田 だけどやっぱり鹿児島へ東大から来るっていうと、それは一つの権威になっちゃうだろうと思うんだよね、うん。来たほうから見れば、うん。結構有名な人だったわけだから。
立岩 学長やら何やらやるわけですよね、井形さんはね。
山田 そうだよね、うん。で、そうするとやっぱりなんかこう、そういう立場でものを言うようになっちゃうと思うので。
立岩 特に井形は、いろんな国の審議会やら何やらかんやらで、ある種偉くなっちゃうわけですよね。
涼 なんか心配になってきた。
山田 ああいうのってね、この頃阪大の祖父江ってのがね、いろんな所へ出てくるんだよね。で、阪大の祖父江ってね、名古屋大に祖父江っていうのがいて、これが水俣なんかでは悪いほうの発言をする奴なんだけど、それの息子があの…。
立岩 それの息子なんですか?
山田 うん、阪大にいるの。
立岩 阪大にいるんだ(笑)。
山田 で、阪大の公衆衛生なんだけど。これが、例えば今度この福島で、検診が問題になって検診を続けるかどうかみたいな話の時に祖父江が出てきて、検診にはプラスもマイナスもあって、過剰診断になって本人に不安を与えたりすることもあるので、やたらにやらないほうがいいみたいなことを突然言って。で、今までがん検診だとかなんかはちゃんとやれって言ってた奴なんだけど、急にそんなことを言いだしたりしてすごい困った奴なんだけど。これはこないだ私、日本社会学会っていうのがあって、そこで呼ばれてランチョンセミナーでお話することになったんだけど。それは獨協の公衆衛生の教授をやってる小橋さんていうのが、奥さんが私のところの患者さんで、なんか私のファンだとか言って、でその関係で私呼ばれて行って話をしたんだけど。で、その小橋さんと聞いたら、祖父江さんていう人は、要するに人が嫌がってやらないことを何でも引き受けてやる人なんだよ(笑)。
立岩 それ息子のほう?
[03:20:08]
山田 そういう人なんだって(笑)。だから何て言うか、うん、そういう役をやる奴ってね、いるんだね。だから、福島なんかもそういう点では、例えばその、あんな表面でいろいろ言われた山下なんていうのはやっぱりそういう役割をさせられた人で。黒幕は長崎大にいて、あそこから動かない、うん。あれの先輩みたいな、やっぱり東大から行った奴なんで。長瀧じゃない、なんだっけ名前、で、いるわけだよね。だから、そこら辺ではほんとに何かこう、そういうことを、ピエロみたいなことを喜んでやる人っていうのはいるんだよな、きっと。
立岩 まぁそうだね、そういうのはいるよね。
山田 だからね、あそこら辺はやっぱりね、高橋晄正さんでさえね、息子のさとみさんが困ってて、親父がなんか銅像作ってほしいみたいなこと言って(笑)。
立岩 その話聞いたんで。山田さんからその話聞いて吹いちゃったんだけど(笑)。えぇー、みたいな、うん。
山田 だから結局あの人は、もう信念であんなことやればもう教授やなんかになれないってのわかってるから、もう栄転の道を諦めたのかと思ってたんだけど、そうじゃなかったっていうか。だからなんかほんと、こう、思いがけない人がなんか勲章もらって喜んだりする(笑)ていうか。勲章もらって何だよと思うけど、うん。
涼 玄関見てこようか。
立岩 大丈夫、大丈夫。
涼 雨。
山田 大丈夫だ。
立岩 でもほんとに、井形にしても椿にしても何と言うかな、あることだけ知ってる人から見れば神様みたいな人でね、みたいな。そういう人っていっぱいいるじゃないですか。それじゃダメで、やっぱりね。悪人だって決めつける気はないけれども、両方、両面があって、それが大切。一方でいい顔してる人がなんで他方じゃこういうこと言っちゃったのかとか、その逆とかね。そういうとこまで見てかないとやっぱり、物事は見えていかないんだろうなと思って、いろいろ聞いて回ったり書いたりしてるんですけどね。井形も、そうか、井形、椿、みんないないっちゃいないか。まぁ、生きてる間に行っときたかったって、ありますけどね。
山田 結局だから、言うべき人が言わないというか。やっぱり何て言うかな、白とか黒とかいうふうにこう、ハッキリは言えないんだと思ってる人はやっぱり言えないし、書かないし、ということがあるんだよね。
立岩 そうなんでしょうけどね。そうなんでしょうけど…。
山田 だから、僕なんかも例えばその、精神科なんかでいうと私の同級生の佐々木さんっていう、女性がいるんだけれども。彼女と、彼女がやっぱり最後まで赤レンガに残った人ではあるみたいだし。彼女は誠実に精神医療やってたようだから、彼女あたりが喋ったり書いたりしてくれるといいと思うんだけれども。
立岩 そうですね。僕は佐々木さんの演説っていうか、まだ赤レンガ、岡田くんの時やってたので。で、赤煉瓦からだと、佐々木さんがメガホン持って現状報告みたいなのしてくれたの覚えてるんですよ。だから佐々木さんは存じ上げてるんですけど。そうかもしれないですね。現場に残った人っていうか。
山田 そうなんだよね。だからきっと、彼女なんかがいろんな苦労をしたり、何かして、縁の下の力持ちで支えてたんだろうと思うけど。ほんっとに書いたり喋ったりすることをしない人だからね。
立岩 そうですね。え? 同級生?
山田 同級生、うん。
立岩 そういうお年でしたっけ?
山田 そう。
涼 え? お父さん、一緒なの?
立岩 今はじゃあもうとっくに定年とかそういうんですよね。どっかに今いらっしゃるのかな?
山田 あの、どこだっけな、浦和神経かな? やってるのかもしれない、うん。
立岩 多分、レンガにいた人まだ何人か間接的に知っている人もいるので、聞こうと思えば聞けるんですけどね。まぁ、それもキリがないんで、誰かいたらって感じですけれども。じゃあ岩楯さんか誰かに…。
[03:25:21]
山田 富田とは話した?
立岩 三樹生さん? はい、あの人たちがやっている、地域…なんだっけ?
山田 うん、やってるね。
立岩 学会があって、そこで何度かお会いした。何度かじゃないな、もう1、2度ですね。お話は伺ったことありますけど。そこの下の中島さんっていう、わりと若い医者がわりとバランスが取れてるし、でも言うべきことはハッキリ言うしっていうんで。今日、最初に東大の医学部もなかなかいないよねって言いましたけど、彼なんかはかなり、そういうその、システムが変わった以降の理Vの人だけれども、よくやってますね。いるにはいるんですけどね。
山田 だからやっぱり何て言うかな、精神科行くっていうことは、他の科に行くのとは違うところがあるので。
立岩 それはちょっとあるでしょうね。
山田 我々の頃は一つは運動ばかりやってて、勉強やってない奴は精神科行くのがいいんだっていうふうに言って、っていうところもあったんだけどね、その運動家のたまり場みたいな。だから精神科だと、その割合、救急が少ないっていうか、命に関わるっていうようなことっていうのは割合少ないし、その場で診断しなくってもいいっていうか。あれは、仮の診断でいいわけだよね、精神科医っていうのは。それからいろいろ診断進めていく中で、確定診断って言ってもまた精神科の診断は少し違うけれども。だから、今やっぱり精神科行こうっていうのは、それなりに何て言うか、いわゆる社会学的なものを求めて行く奴だろうから。
山田 全体の集団の中ではそういう傾向は確かにあるでしょう。
山田 それとやっぱりその、何て言うかな、患者さんに鍛えられるっていうのが大きいと思うね。やっぱり、とにかくそれこそ他の科がみんななんかパソコン診療になって、顔も見ないでパソコンだけ見てるとかなんか言われるなかで、精神科はパソコン診療ができないからね。患者さんの顔も見ないような医者に、患者さんが何か打ち明けるとは思えない。
涼 涼もやってるよ。
山田 何? パソコン?
涼 うん。
立岩 お父さんより、いいじゃん。
涼 お父さんできません。
立岩 お父さんしないでしょ?
山田 しないね(笑)。
涼 お父さん、これ、字だから、字だから。
立岩 字だから。でもね、今どき手紙なんかもらえないから、いいよ。びっくり、手紙だよ、手紙。
涼 住所、ひばり、ひばり、か、火水行ってんの。
立岩 ん? 火水?
山田 ひばり保育園。
立岩 ひばり保育園? 今?
山田 うん、お仕事してるの。
立岩 涼さんが?
涼 はい、はい。
立岩 それはどこにあるんですか?
山田 ひばりが丘のほう。
立岩 ひばりが丘にある。
涼 で、で、あと、なんか木曜日、木曜日行って、で、金曜日行って、で、終わり。
立岩 どういう仕事なの? 火曜と水曜日は。
涼 子どもの、の、時間を記録をして、して、で、でなんか、隣で介護士さんが見ててたら、なんか(笑)、涼ちゃん、涼ちゃん、できるからねってって言ってるのに、登録って言ってるのに、自分でこうやって、こうやって見てるし、なんか、なんか、日記書いてるし(笑)、見てるし。何に来てるかわからないし(笑)、わかんないの、もう、わからん。なんかねぇ、ほんと(笑)。涼が、仕事に来てるだからって言ってるうちに、なんか介護さんが日記書いてるし。わたなべさんはなんか、あ、介護さんで、ゲームか、メールするか、わからない。何に来てるのかわかんない。
[03:30:53]
立岩 それはそこで働いてる人? その人たちは。
涼 あ、涼の介護に来てる人なのね。
立岩 介護に来てる人?
涼 うん、昼と、昼と夜に交代、交代で来てるの(笑)。
立岩 住んでる所に?
涼 うん、涼のほうにね。だからほら、涼ちゃんがてんかん、発作とか、あ、途中で転んだら危ないからってて見に、見に来てるんだからって言ってて、何に来てるのかわかんないの。メールしてるから。何に来てるのかわかんないの(笑)。
立岩 ああ、朝から。
山田 いいんだよ、やる事ないんだから、メールしてても(笑)。
立岩 やる事がない時はね。そりゃそうじゃん。ま、いっか。どうも長い時間、いろんな話を伺いました。カレーをご馳走になるとは思いませんでした。何かお土産持ってくれば良かったんですけど、仕事に来たまんまで来てしまったので。はい、どうもありがとうございました。じゃあお母さん明日、帰ってきて、しばらくいるんだな。
涼 はい。
立岩 でも、また二月ぐらいするとまたモンゴルに行ってしまうわけですか。
涼 で、最後だからね、お父さん。あ、あ、一緒にいるのがね。ね?
山田 何が? 今晩?
涼 今晩ね、ね(笑)。
山田 あと、お母さんいるからね、まぁ、うん。
立岩 モンゴルか。僕の何だっけな、西宮だっけな、それも、の人で結構モンゴル行く、車いす乗ってる人で。そっちで仕事、仕事っていうか活動で、モンゴルに何度も行ってるって人がいたな、そういえば。その人は豊中、あ、そうだ、豊中の教組って結構熱心なんですかね? それが、毎日新聞の記者の人でわりと熱心な人がいて、それと豊中市の教組と毎年一回なんかシンポジウムみたいなのをやるんです、やるんですって、やってきたんですって。それに2年ぐらい前に呼んでいただいて、そこで知り合った、名前なんて言ったかな。何だろ、障害は何だったっけな、車いす乗ってる人なんですけど、わりとそのモンゴルとの交流みたいものを熱心にやってるって人いましたね。
山田 それが今度のあれなんかもしれないな。あの、豊中の山口正和というあの、まぁ古くからやってる。あれ実は、もう、山口さん知ってる? 知ってるよな。
涼 山口さん知ってるよ。
山田 知ってるよね。山口さん、私の岐阜の家へ泊まりにも来たし(笑)。豊中は、私どのぐらい行ってるかな、10回ぐらいは行ってるだろうね。
立岩 ああ、そうですか。
涼 で、ヤギが好きなのね(笑)。
立岩 え?
涼 ヤギ(笑)。
立岩 ヤギの何が好きなの?
涼 首を、先に、首を切って、肝臓を洗って、それで…。
山田 ヤギの肉食べるのね(笑)。
涼 ぐつぐつ、ぐつぐつ(笑)。
立岩 誰が?
山田 誕生日祝いにね、ヤギ一頭もらったりしたの(笑)。
涼 (笑)
立岩 誰から?
山田 向こうの現地の、モンゴルの人たちから(笑)。
立岩 ああ。
涼 友だちがいるの。
立岩 それはモンゴルで?
山田 うん、モンゴルで。
立岩 日本じゃなかなか難しいからね。
涼 モンゴルの人が…。
立岩 びっくりした、何が起こったのかと思った。
涼 向こうの人が、友だちがいるから、それで、ヤギの乗るところで、なんかトランク、トラックの中で鳴いて、ミィミィミィミィうるさいのね。後ろで、うるさいの、ヤギが(笑)。
[03:35:36]
立岩 ローリング・ストーンズにさ、『山羊の頭のスープ』っていうアルバムがあるんです。そいで、肉食べたの?
涼 食べた。
立岩 焼いて食べるの? 焼いて食べるんですか?
涼 はい。
立岩 美味しい?
涼 はい。
立岩 いいなぁ。
涼 耳のところとこも、カリカリ、カリカリカリ食べちゃう。
立岩 え、耳も焼いて食べるの?
涼 はい。
立岩 そうすっとカリカリになるんですか?
涼 ぐじゅぐじゅ、夜中まで、夜中までぐじゅぐじゅ、ぐじゅぐじゅ(笑)。
立岩 煮込むわけ?
涼 そう。いや、はい。
立岩 へぇ、じゃあ一緒に行ったわけ? お父さんがあんまり…。
涼 お父さん行かないから。
立岩 外国へ行かない人だって最初に聞いた。3泊4日でアメリカ行っただけ。
涼 はい、お父さん行きませーん。
立岩 それは二人で、お母さんと二人で行って、
涼 で、あと、介護さんと一緒に。一緒に。
立岩 ああ、介護の人と一緒に行って。
涼 で、車いすも一緒に、キスして、牛乳パックとか持っててって。それであと、なんか、なんか…。
山田 こっちであの、使い終わった車いすを持って行くとかね。だからその牛乳パックかなんか、牛乳パックを集めて椅子みたいなものを組み立てて作るとかね。
立岩 牛乳パックで椅子作るの?
涼 大変なの、それが。
山田 (笑)よくわからない。
涼 こうやって(笑)。こうやって、こうやって、してて、どんどん、どんどん、どんどんして。ちっちゃい子どもが座れるように。
山田 貧富の差がものすごいみたいなのね。朝青龍のようなすごいお金持ちの人とか(笑)。
立岩 朝青龍の家は金持ちっぽいよね。
涼 トイレが、外が、外が、土なのよ。
立岩 土?
涼 土なのよ、掘ってやんないと。
山田 マンホールチルドレンが。
涼 だから落ちちゃうからね。だっていっぺん落ちたから(笑)。
立岩 落ちる?
涼 トイレがないから。落ちました、1回(笑)。お母さんと、掘って、一緒に。お母さんと、もう、大変だった。ほんとに。
立岩 梅村さんは何歳か下?
山田 あれは4つ下、うん。
立岩 4つ下。そうか、でも嬉しいは嬉しいわけだ、やっぱお母さん帰ってくると。さっきそう言ってたもんね。
山田 ほんとは、今回も行きたかったんだけどね、モンゴルへね(笑)。
涼 え? 何?
山田 モンゴルへ行けなかったんだもんね、行けなかったから泣いてたんだよな(笑)。
立岩 あ、そうなんだ。
涼 そうだよ。
立岩 何? 体のことで? お金がなくて?
山田 いや、いや、それはなんか、お母さんが自分のやりたいことがある時は一緒には行かないみたいなこと。
涼 あと、孝本先生のおばあちゃんが肺炎で死んじゃったのね。それでお通夜も行かないと、大変だったんだよ、もう。
立岩 それは、涼さんが行ったの?
涼 涼が行ったの。
山田 それはまた全然…。狛江高校に行った時の、最後の3年を持ってくれた担任の先生と、えー…。
涼 ずーっと電話して。
山田 今でも毎日のように電話をかける。
涼 「はい、もしもし」なんて。
立岩 電話をするわけ?
涼 する。
立岩 元の先生に。
涼 携帯に、携帯でね(笑)。
山田 その先生がまたね、目覚めたというか、生まれて初めて障害者に会って。それで、どうしてこの人はこんなに学校の中でいじめられるようになってるんだろうっていうので。それまでの職員会議だとかなんとか、議事録みたいなのを全部見て。これは、これは酷いという(笑)話になって。それがまたすごいんだよ。その時のね、職員会議の議事録って、その先生が持ち出しちゃって家にある(笑)。
[03:40:33]
立岩 そりゃすごい。それはいいな、家にある。
山田 すごいことになってるんだけど。それで…。
立岩 その先生とお通夜はどう関係があるの? 関係ない?
山田 その先生のお母さんが、
涼 お母さんが。
山田 お母さんがやっぱり96かな。
立岩 亡くなられて。
山田 で、こないだ亡くなったんだけど。その、元気でいられる頃から、なんかこう、毎日電話をして、「おばあちゃん元気ですか」つって、おばあちゃん「ハイハイ」って感じで(笑)。
涼 「ああ、お休み」って言って。
立岩 それは涼さんが電話したんですか? おばあさんに、その先生のお母さんに。
山田 先生に電話をして、おばあちゃんに出てもらって。
涼 はい、チーンってやって、それで、それで。
立岩 あぁそういうことか。先生に電話をする時に、ついでにお母さんにも出てもらって。そのお母さんが亡くなられて、お葬式、お通夜に行った。
涼 で、9月に、9月にえっと、孝本先生のお父さんが亡くなって。
立岩 こう、こう?
山田 孝本先生っていうの。
立岩 こうもとってどんな字だ?
山田 えっと、親孝行の孝の字でね。に、日本の本ね。孝本。
涼 で、9月に、9月にお父さんが亡くなって、で、おばあちゃんが急に亡くなった。
山田 9月はもうずっと前、ずっと前それ。
涼 ああ、ずっと前だね。
山田 旦那さんが亡くなったのは。
立岩 お父さんが亡くなったのはずっと前で、そのお母さんが亡くなったのはこの前。
山田 そういう一途な人が入れ込むという話で。
涼 ずーっと。
山田 あの、「こないだあの、解放教育研究集会へ行って来ました」とか言うから、そんな所まで***(03:42:33)(笑)。なんか、「とにかく私は社会科の教師を何十年もやってきたのに、何にも知らなかったっていうことがわかりました」つって。
立岩 突然、人生の転機だ。
山田 で、高校の中にインクルーシブ研究会っていうのを作って、そんなね来る教師もいないんだけど。その、東京地区の教研集会かなんかの中に、インクルーシブ分科会みたいなのも作ったりして、すごい精力的に頑張っておられて。
山田 なんか、その先生に会うためになんかこう、長年行ったのではないかと思うような出会いっていう。
立岩 そんなことあるんだね。
山田 人を変えることができる。
立岩 そんなことあるんだねぇ。
山田 でもね、すごい純粋な人だからあの…、心配。
涼 はい、いいよ。(カメラのシャッター音)
山田 住んでるの杉並区って大変な所でね(笑)。杉並って…。
立岩 ああ、杉並に、その先生は杉並。狛江に転勤したってこと?
山田 転勤したんじゃなくて、もうずっと杉並区から狛江へ通ってたわけだけど。
立岩 そうか。
山田 で、杉並ってあの、今度新しく中核の女性が区議になったのね。
立岩 あそこ、あの、ずっと一人ぐらいいるよね?
山田 いや、それがね、もともと長谷川英憲って言う都議がいて、一人だけ中核で都議だったでしょ。で、彼のあとは、えっと北島邦彦っていうのと、北島、結柴(けしば)、新庄っていう女性と3人議員がいたの、一時期。3人もいた。それがあの、関西派と関東派と分裂したっていうふうに言われるんだけど、分裂して、それでその、結柴、新庄っていう二人は中核じゃない別のほうへ行って。で、北島が一人残ってたんだけど、これが選挙で落選して。だから中核ゼロになってたの。
立岩 ああ、なるほどね。
[03:45:20]
山田 そしたら今度、あの、洞口さんっていうあの、法政を卒業したばっかりの女性が当選したんで。で、中核から抜けちゃった二人っていうのはなんかもう、割合中国にべったりみたいになっちゃって。で、孝本先生が、新しくその小中一貫校を作るっていうので、だいたい小中一貫校はおかしいつってなんか反対運動を始めて。で、全然受けないつって、それであの(笑)、そしたらまたこれがね、特別支援学級がもちろんあるわけだけど。で、特別支援学級だけがね、一番教室の端っこのほうに置かれて、しかもその、1年生とおんなじスペースで、そこへ6年間通い続けるっていう、上がっていかないのね。普通は2年生になったら2階、3年生っていって。
立岩 おんなじ場所、最初から最後までおんなじ場所ってことですか?
山田 うん、おんなじ場所っていう、すごい隔離された構造になってて。で、それにまた文句をつけてるんだけど、全然誰も賛同者がいないって言って(笑)。だから、そういうのへ、その洞口さんだとかなんかが一緒にやりますってきっと来るから(笑)。
立岩 そうか、その当選した若い中核派が。
山田 「先生、気をつけないといけない」(笑)って言うんだけど。
立岩 それはありそうな話ですね。
山田 一途な人は危ない。もうほんとにねやっぱり、ほんとに日本の党派はダメだと思うんだけど。
立岩 中核ね。その割れたっていうのは最近のことなんですか? 何年か前になるんですか。
山田 3年ぐらい、3、4年前。
立岩 全然知らない。
山田 (笑)
涼 1年生行けなかったの、
山田 でも、京大揉めてるよね。あの、中核派がいろいろやってるよね。
立岩 どうなってるんだろ。寮のこととか何やかや、今でもやってるし。僕の関係もちょっと噛んでるのがいます、いるにはいますけどね。
山田 立命館は、立命館なんか状況であの、なんかこうやりあってるというか。なんかその、安斎育郎みたいなのがいるっていうので、立命館はおかしいんじゃないかみたいな。何て言うかその、共産党系の先生がいるからおかしいんだみたいな話をしてて(笑)、それに個々で反論してる人は別にその何て言うか、どういう先生がいるからっていうんで、その大学ダメっていうレッテルはおかしいじゃないかという、ありましたけど。
立岩 もう、なんかそれはよく把握してないですけど。もともとはねぇ、その全障研系のさ、あの牙城っていうか、【さなだ】(03:48:46)とかそういうのがいたとこですけど。私が見るにはやっぱ、
山田 いつからあれが変わっていった?
立岩 だんだんだと思いますね。
山田 だんだん変わっていってる。
立岩 ずるずるとっていうか。今でもあの、共産党系の組合もそうだし、強いは強いですよ。だけど、まぁでも、特に産業社会学部っていう福祉系の所はもう、そういうのは非常に強かったみたいですけれども。でもまぁ交互して教員を入れ替えてけば、自然とだんんだん薄まっていくじゃないですか。
山田 やっぱ共産党弱くなってるよね、そういう意味では。
立岩 そういう意味ではね。
山田 発達保障のをやってる人っているのかしら?
立岩 あんまりゴリッとは、誰も言えないっていうか、言わないっていうか、じゃないのかな。
山田 もういなくなっちゃった。
立岩 と、思いますけどね。
山田 だろうね。
立岩 頑固な人、極端に頑固な人は。だから、法学部とか、そういう社会福とか、今でもそうだとは思うけれども、勢力は弱まってると思う。
山田 浅野健一問題はどう?
立岩 全然僕、了承、了解しておりませんが。それこそ教えてください。どういうことなんですか?
山田 (笑)いや、わかんないんだけど。
立岩 浅野健一って何だっけ?
山田 あの、うん、なんかこう冤罪だとかなんかを告発したりしてる人。
立岩 浅野さんって同志社の人、違う?
山田 あ、同志社か。あれ同志社だね。そっか。[03:50:23]
立岩 ジャーナリズムやってる人。なんかちょっと方々から聞こえてくる話が違ったりする。
涼 だってお父さん、最初は携帯もわかんなかったんだよ。
山田 携帯わかんなかった(笑)。
涼 ぜんっぜんわかんなかったんだよ。
立岩 僕もね、人のこと言えなくて、ほぼわかんない。最近使い始めて、だから時々間違ったところを押しちゃったりして、電話が切れちゃったりとかする。
山田 これ、あの、昨日メッセージ送ったんだけど。
立岩 それ多分、なんかで見てないんですよ。
山田 見てないよね(笑)。
立岩 すいません、だから…、
山田 電話かけても出なかったから。
立岩 ごめん、ありがとうございます。そうか、そのショートメールってやつをほとんど使い…、多分帰りの電車で見ます、すいません。今度もっと慣れてきます。ほんと慣れてないんですよ。電話かける時ドキドキしちゃう。
涼 最初、あきちゃんから教えてくれたんだよね。
山田 まあね、若い人できるよね。
立岩 そのちっちゃいので大丈夫ですか、見えますか?
山田 あ、見えるね、うん。
立岩 目は悪くない?
山田 目は、うん、あの、老眼だけど。
立岩 老眼だけど、そのサイズでも見れる。
山田 うん、これは見える。
立岩 そうか、僕はもう付けないと、おっきいやつ。
山田 うん。やっぱり、そう、あの…。
涼 だって眼鏡いっぱい持ってるんだよ。
山田 地図と時刻表ぐらいですね、ダメなのは。
立岩 眼鏡が要るのが。
山田 うん、うん。
立岩 ああ、すごい。
涼 それ、お父さん眼鏡いっぱい持ってるんだよ。
山田 眼鏡いっぱい持ってるね。1000円台の20個ぐらい持ってる(笑)。
涼 (笑)
立岩 僕ね、100円のやつ使ってる。100円のやつ売ってるよ。
山田 100円良くなったね。
立岩 100円ストアに行くと100円の老眼鏡売ってる。
山田 昔はすぐクニャッっとなっちゃうようなのだったけど、この頃しっかりしたよね、うん、かなり100円でも。
立岩 ちょっと、もうちょっと高いの今度買おうかなと思っていますけど。
涼 ***(03:52:26)。介護さんの***(03:52:33)いっせんに、いっせんにぼっきーんって、いる人でいるからね、怖いんだよね。
立岩 どうもありがとうございました。
山田 いやいや、どうも(笑)。わざわざ。
立岩 いえいえ。ご自宅というか、上がれるとは。
涼 おっきいバッグで来たねぇ。
立岩 もっとおっきいのもあるよ。もっとおっきいのもあるんだけれども、今日はこれで足りました。
涼 自立生活の【せのさん】(03:53:16)と同じだ、バッグが。
立岩 バッグが同じ? そうかな、ほんとかな?
涼 同じ、ほんと。切んないと危ないんだよね。
立岩 そうか、昨日からバッテリーがうまいこと作動しなかったというのがあるのかもしれない。どうもバタバタして。
涼 バタバタ、バタバタ。
立岩 カレー、カレー。カレー何回も、いっぺん作ったら***(03:54:03)食べる。でも、道はいっぺん覚えると覚えられますね、ここ。
山田 あ、ここね。そう、直線だからね、うん。
立岩 わかりやすいですよね。
山田 ここの、ここの入り口だけがちょっと。
[03:54:26]音声終了