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鈴木絹江さんインタビュー

2019年2月22日午後 聞き手:田中・土屋 同席者(ヘルパー):鈴木匡 於:鈴木絹江さん宅

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鈴木 絹江 i2019 インタビュー(本頁) 2019/02/22 聞き手:田中 恵美子・土屋 葉 +:鈴木匡 於:京都・鈴木絹江氏宅
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
病者障害者運動史研究 
※このインタビューは次の本に生かされています。読んでいただければ幸いです。
◇青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

■(1)2019年2月22日午前

田中 すいません、私、ご本の存在を知らなくて、

土屋 すいません(笑)。

田中 だから、

鈴木 いえいえ。

田中 下準備が足りない(笑)。

鈴木 いえいえいえ。

田中 すいません。

土屋 それで、お誕生日は書かれていたんですけど、白石さんよりも一つ下ということは、

鈴木 年齢は下なんですけど、学年は上なんです。白石くんが1年遅れてるし、私は早生まれだから、多分彼が普通のとおりに、

土屋 いったら、

鈴木 学校に上がってれば、

田中 同じ学年、

土屋 同じ学年、

鈴木 同級になんのかな。

土屋 じゃあ、

鈴木 橋本くんと一緒なんです、私は。

土屋 じゃあ、絹江さん、51年生まれですか。

鈴木 そうです。

土屋 51年生まれ。1951年生まれです?

鈴木 51年、2月26日の、ニ・ニ六事件の。

土屋 ああ、本当ですね。

鈴木 ねえ。

田中 安積さんも2月ですよね。

鈴木 そうそう、安積さんも2月。

田中 16日かな。

鈴木 そうそう。樋口恵子さんも2月。

土屋 いや、そうなんだ(笑)。

田中 樋口さんも、そうなんですか。

鈴木 そう。美人と才女は2月だよねって、

田中 2月なんですね。

鈴木 勝手なことを言っております。

田中 (笑)

鈴木 (笑)

土屋 何かご縁があるんですね、きっとね。

鈴木 寒いときに生まれて縮こまってたんだばい。(笑)。

一同 (笑)

鈴木 ちっちゃいのばっかり(笑)。

一同 (笑)

田中 うちの母も2月16日で、2月16日っていったら金正恩(金正日?)も一緒で、そのことを言われました、安積さんには。関係ない話ですいません。

鈴木 (笑)

土屋 で、お生まれが小名浜?

鈴木 福島県いわき市小名浜下町っていうところで、母一人子一人で生まれてというとこですね。

土屋 学校が、だからずっと小学校まで、

鈴木 地域の学校、小学校ね。母親11人きょうだいの4番目で、11人きょうだいいる中で、たった1人だけ障がいを持って生まれた。でも、私はよく本当なのかどうかなのか確認してないんですけど、おばあちゃんも、もしかしたら足が曲がってたって言ってたから、父方のおばあちゃんなんで、親なんでしょうけど、もしかしたら、その遺伝的なものはあったのかもしれないね。まあ確認してないから、これはあまり出さないでいるんですけど、でも母親は障がい、私より、でも一回りおっきかったかな。

土屋 じゃあ、歩けてらっしゃった?

鈴木 うん、歩けてたしね。足はO脚で曲がってはいたけど、手術も何もしない。しなかった。ただ、ちっちゃい頃から体は弱くて、心臓が弱かった感じかな。病気の問屋さんみたいな人だったかな。

土屋 絹江さんも、小さいときは手術とかされました?

鈴木 うちの母親のお姉さんっていうのが、きょうだいの中のドンみたいな人で養女に迎えるみたいなことも話があって、まあ、おばさんは愛人だったんですね、おっきな旅館の人の愛人で、養子に私を迎えるみたい、子どもが欲しいっておばさんが言ってて、養女に迎えるために足を治さんなんねべっていって、平の療護園、整肢療護園っていったんですけど、昔、その療護園に5歳のときに入れられて、手術をすれば治ってくるみたいな感じで言われて1年間、1年生に上がるまでそこにいたんですね。でも、足が真っすぐになるだけで、別に障がいは治らない。だから、おばは、そのあと子どもを産むんですけど、7、8年過ぎてからね。その養子縁組の話はなくなったみたいな。だから、5歳のときに手術をしたっていうのが一番最初かな。何で親から離されるのかなって、すごく思ってましたけど。そいで戻ってきて、つまり足がO脚、ここを輪切りにして、骨をひっくり返してこういう足にして、外から見れば真っすぐに見えるようにしたから、すごく歩きにくくなったというか、歩けなくなったというか。でも、それで、だから小学校2年生ぐらいまでは、3番目のおばさんが飲み屋さんをやっていて、結構ほかの下のほうのきょうだいがお手伝いで来てた、そのおじさん、おばさん、私からすればね、おじさん、おばさんにおぶさって学校に通ってたっていうのが1、2年生のときですね。その学校が、またでかいんだ。一クラス50人から55人ぐらい。10クラスまであって、6年生まであると全校生徒3000人っていう、すごいわよ(笑)。

土屋 すごいですね。

鈴木 ねえ。信じられない、今からみたらね。

田中 本当ですね、***から。

鈴木 田村市なんか行ったら、隣町の全人口が3000人とかで。

土屋 (笑)

鈴木 うえーみたいな。ちょっとびっくりしたぐらいなんですけどね。

土屋 当時、だから小名浜が結構栄えていて、子どももたくさんいた感じで。

鈴木 いわき平から泉、小名浜って汽車もありましたからね。石炭を運んでたんだと思う、石炭とか石油。やっぱり港だったのでね、小名浜はね。それが、だからちっちゃい頃から外国人、黒人なんかを見たりとかしましたね、怖かったけどね。何が怖いっつうのも、わかんねえんだけんど。

田中 (笑)

鈴木 怖いって。

土屋 で、地域の小学校いくときは、特に問題なくというか。

鈴木 ていうか、もうあの頃はまだ養護学校できてないから、結局地域の学校に。だからクラスの中にも、CPの人がいたりとか、あとは、どこかの学年、ポリオのがいたりとか、あと知的障がいとか。私よくいじめられたのは、学校の2階か何かの教室から落っこって頭、脳挫傷して脳障がいになってしまった知的障がいを持ってしまった子なんかもいたりして、そういう子もみんな普通の一般教室にいましたね。ただ、学校の中のクラスに、学校の中には特殊学級っていうのはありました。だから、一般的の教育についていけない子。だから私はよく、あんたは特殊学級の子かって言われて、「違います」とか(笑)、言ってたのを記憶しますね。

土屋 じゃあ、もう特殊学級にも入らずに、

鈴木 入らずに、地域の学校に。

土屋 普通学級で。

鈴木 やっぱり通うっていうのが大変だったのと、体育はいつも見学。まあペーパーテストですね。で、ペーパーテストでも点数よく取れば3ぐらい取れるので、2とか3ぐらいだった。うちのいとこは、健康で体育に出んのに、何でおめえは絹江が3なのに、

田中 (笑)

鈴木 おめえが1なんだよとかって、いつもいとこが怒られてて(笑)、笑ったことがあるんだけど、ペーパーテストと、あと大変なのは運動会のときとか行進とか、笛持って鼓笛隊とかあった、そういうのが大変なのと、あとは避難訓練のときには、いつも一番最後になってました。でも、クラスの体格のいい子がおぶってくれたり避難したりしてたんですけど、それが一般の。あ、勉強したというよりも、毎日行き帰りがいつも大変で、背中にびっしょり汗かいて、もうシャツをこうやったら水が出るんじゃないかっていうぐらいに汗びっしょりかいて行って、そして、だからいつも年中、風邪引いてました。シャツを取り替えることもできないから、もうぐしょぐしょの背中汗かいたやつで授業を受けているわけですから。っていうのが学校の記憶かな。勉強したっていう記憶はあんまり。だから、いっつもみんな3、3、3、3。

土屋 (笑)

鈴木 たまに4とか5とかあんのは、国語と音楽ぐらいか。

土屋 音楽よかったんですね(笑)。

鈴木 (笑)。昔は、クラスの中の何人が5の割合とか、

土屋 あ、決まってるんですね。

鈴木 そういう割合だったでしょう。だから、それはそれで大変ではあったんですけど、50人もいるからね。1割、5をもらえんのは5人ぐらいしかいないわけですから、それはそれで。でも、自分が勉強できるなんては全く思ってなかった(笑)。もう通うのが大変だったっていう記憶しかない。そして小学校6年の3学期に、養護学校ができたから入らないかって、多分年内、その前の年の12月ぐらいに役所の人が来て、うちのお母さんが生活保護をもらって暮らしてたので、子どもさんのためにみたいな。中学校に上がるので通えないべとか、中学校は大変だぞとかいろいろ脅されて、そいで、こういう子どものために施設ができたんだから、そこに入れるのがいいんじゃないかとかいうふうな。でも、私にしてみれば、小学校の裏側が中学校なんですよ。だから、通えないことはない。

田中 (笑)

鈴木 もう隣だからね。確かに教科はいろいろ違ってくんだろうけど、通うっていうことに関しては違わないんじゃないかなっていうことと、養護学校にきてから、1人500万かかったって、この施設を作るためにね。50人ぐらいしか最初、自分で自分のことができる人だけしか入れなかった養護学校ですから、昔はね。で、50人ぐらいで500万ぐらいかかったっつう。昔は私らがちっちゃい頃、百万長者っていったから、今の長者は一億ですが。

田中 (笑)

土屋 100万あればね。

鈴木 昔はね。百万長者だって、100万あったらすっごい裕福な人っていうイメージだった。それが500万っていったから、ああ、その金私にくれれば、私、毎日タクシーで中学校に通えたのになと思って、何も養護学校にこなくてもあれなのに。だから、面接のときに、自分でおしっこができますか、自分で食事ができますか、着替えができますかとか聞かれたのが、すっごく屈辱的だったのを覚えてるね。私の中で当たり前にできたことだったので、ましてや、おしっこできますかなんていうことを他人に聞かれるなんて思ってなかったから、すごい顔が真っ赤になったのを記憶してるかな。

土屋 その面接したのは、学校?

鈴木 養護学校にいったかな。

土屋 じゃあ学校の先生か何かですか。

鈴木 そうですね。先生に聞かれてる。

土屋 役所の人は、何で絹江さんのことは知ってたんですかね。

鈴木 生活保護取ってるから、やっぱりチェックされてはいるでしょうね。あそこは親子で障がい者だっていうのはね。小名浜からもう1人、脱臼の子が入って、同じクラスに、小学校のときもおんなじクラスだったし、養護学校にいってからも同じクラスになって、ちょっとびっこを引くだけぐらいの股関節脱臼、何でこの人が養護学校に入んねばなんねんだべなんて(笑)、養護学校に入るのは、本当に本人も大変で家族も大変でっていう、すごい重度の人が入るもんだって勝手に思ってたから、その人たちが入れないで、何で自分で自分のことできる人が入るのかなっていうのが、すごい疑問でしたね。

土屋 でも、役所の人も来てお母さんに話して、

鈴木 そうだね。母親は嫌だって思ってたけど、福祉の人に言われて、いいえとは言えない立場にいたというか、母親はいつもそうだったかな。手放したくはないって思ってたけど、役所の人に言われれば、ノーとは言わないというか言えないというか。だから、そういう母親の、すごいそのときには何もあんまり考えてなかったけど、あとから考えれば、子どもの力になれない母親に対しての失望感っていうのは、多分私の中のどっかで芽生えたかもしれないよね。力にならないような親にはなんねべって思ったことはあるかもしれない。やっぱ言えなかったっていうのは、すごく母親はあったね。

土屋 それは、絹江さんは、いきたくないっていうのは言われたんですか。

鈴木 もう母親にそういうふうに言われて、役所の人が来て、あんたのために、あんたたちのために建てられた立派な学校なんだよって言われたら、いきたくないっていうふうには言えなかったね。もうその日、歩くことだけが大変で、それ以外のことに自分の気持ちを考えるっていうのは、あんまりなかったかもね。だから母親の苦労とか父親のいない苦労とかいうのは、振り返ってみればいろいろあるけれど幼かったんだべね。嫌だっては、ノーっては言えなかったわね。

土屋 一番嫌だったのは、中学校そのままいけると思ってたのにっていう。

鈴木 そうだね。中学、同級生に置いていかれるっていうか。だって、みんなが今度は英語を習ったり、算数じゃなくて数学になったりとか、教科が変わっていくわけじゃないですか。そんで、みんな高校を目指すわけですよね。でも、私は、養護学校に入ってったらクラス12人ぐらい、初めて学校にきましたっていう人たちが多かったわけだよ、クラスの中で。知的障がいを持ってたりとか。で、名前書けるかい?みたいなレベルからいくわけよ。ほいで、えー?みたいな(笑)。教科書は進まないの?みたいのと、普通の教科書をやれたのは私1人だけだったの、6年間通ってたのは。あとは、みんな初めて学校にいって、名前ぐらい書けるよとか言ったりとか。で、いつも豆テストを最後に、一日終わる最後にやるんだけど、豆テストだって一桁のたし算とか、一桁だからね。だから私、小学校のレベルで養護学校の高校まで卒業しちゃったみたいな、何の勉強もしない(笑)、努力しなかったという。まあ怠け者で勉強好きじゃないんだろうけど、

土屋 いやいや。

鈴木 もうそんな感じよ。養護の一桁の計算、豆テストだもん、いつも100点だわよね。

土屋 (笑)

鈴木 だって、私たちもう6年生のとき、xとか入るわけでしょう、わり算とかね。小数点の話とかxもyも出てくるのに、xyなんか飛んでちゃって一桁の計算だからね。でも、初めて学校に入学したほかの人にとってみれば大変だったと思う。だから中学になったときに、英語がすっごく楽しみにしてたんだけど、絹江さん、自習ねみたいに言われて、え?最初は一人でThis is a penで、Jack and Bettyだったんですけどね。

土屋 (笑)

鈴木 This is a penでいいけど、そのうち詰まるわよね。

土屋 そうですね(笑)。

田中 (笑)

鈴木 一人では誰も相手してくれないよね。結局だから何にもわからずに、英語を勉強できなかったっていうのが、すっごく残念な思いで学校を卒業して、もう私、60過ぎたら必ず大学いくぞって思っていた一つには、それがあるのかもしんないよね。英語を勉強したいって。で、地域の学校の同級生は、みんなどんどん数学やってたり何かして英語を勉強してんだろうなって思ったら、置いてかれるっていうか、すごい焦りを感じんだけど、目の前にないから忘れちゃうわね、そのうちね(笑)。それが、すごく寂しかったつうか嫌だったというか、置いてかれるっていう。だから養護学校にいった途端に、今度、通信簿が4と5しかなくなっちゃう。

土屋 3もないんですね。

鈴木 3もないのね。えー?で、ん?みたいな。でも、これは結局、普通の中の上げ底式なんだろうなっていうふうに、どっか自分の心の中で屈折した思いみたいなのあって、養護学校があって、寄宿舎があって、療育園っていう手術をするところがあったのね。こっちは出たり入ったりする子がいたわけさ。ある小学生が、やっぱり養護学校にきた途端に4と5をいっぱいもらったんじゃない?そしたら、うれしくて電話をかけて、お母さん、僕4と5なんだよとかって。親に、だから、「あら、よかったわね」とか言われたんじゃない?うん、でも養護学校の4と5だから、多分ワンランク下かなみたいな、

土屋 (笑)

鈴木 3と4かなみたいな感じで言って、おっとー、

一同 (笑)

鈴木 聞いてて、やっぱり彼もそう思うんだとか思って、喜んではいらんねえんだなっていうのを、すごく屈折した思いで感じていたわね。で、その子は地域に戻っていく子だから、普通のレベルで入ってくるんだわ。そうすると、突然ライバルになる。私は一人でいっつものんきに自習だから、私のライバルは先生ぐらいしかいないわけだよ、自分より上の人はね。で、時々こっちに療育センターから入ってきた一般の子は、突然片方はxだかのシグマだの、何とかとかやってんのに、養護学校に入ったらばかけ算、わり算、二桁、三桁みたいな感じになって。こうやって見ると、私と違うレベルのを(笑)、やってるなみたいなのを、ちょっとそういうときにライバル心を燃やすだけで、その人がいなくなると、また忘れるみたいな。そういう、だから中学を卒業したら、私は就職するって思ってたんですよ。で、生活保護世帯だから、高校には上がれないって、その時代は言われてたので。だから、私は就職するって思ってたんですけど、あの頃、金の卵なんかいわれて、就職がなかなかないだろうけれども、そう思ってたら就職する1週間前に、「絹江ちゃん、手術をすればスカートがはけるぞ」と、

土屋 (笑)

鈴木 いうふうに先生に言われて、足が真っすぐになってからスカートがはけるぞって。で、手術しないかと。手術をすれば療育センターに入院して、そうすれば、高校にもこのまま通えると、養護学校の。っていうふうに言われて、うーん、スカートがはけるのかみたいな、女心をくすぐられたみたいな感じで。それと、社会に出ることに対して不安、怖いなって。自分が甘ちゃんだっていうか温室、まあ好きできた温室ではないけど、温室育ちだっていうのは感じてたから、そこのところで甘ちゃんだっていうか、社会に出てどんなふうに生きてったらいいのかなっていうのは、ちょっと不安があったので、まあ高校にいかしてくれるっていうならいいか。でも、高校で入試あんだかんな。

土屋 (笑)

鈴木 ちゃんとテストに受かんだぞとかって、えー?って、1週間前だよ。

一同 (笑)

鈴木 それから参考書開いたって、そりゃ遅いわよね。

土屋 (笑)

鈴木 (笑)。一応でも受けて、そのときに外からも何人か障がいを持った人が受けて、一般の高校入試じゃ全くレベルの違うものをやって、外からきた彼女なんか、もう満点に近いような。そんで私はひどかったんだな、多分。ある先生に、「絹江、

土屋 (笑)

鈴木 「おまえは養護学校生の模範になるんだぞ」なんて(笑)、「ひどいんでねえ?あの点数は」とか言われて、あ、そうですか。

一同 (笑)

鈴木 じゃあ、どんな点数だったんだべ(?)。だから、本当に上げ底で、おまえが入んなければ誰も生徒いねえべみたいな感じになっていたから、入れてもらえたみたいな感じで高校に上がりました(笑)。

土屋 高等部って前からあったんですか、絹江さんがいく、

鈴木 いやいや、私たちのときから。

土屋 のときにできた。

鈴木 だから、私たちの1級上もいるんですけど、その人たちは入れなかったのね。だから、その人たちは一般の大学にいったりとか高校にいったりとか、あとは高校にいきたかったのにいけなかった人は自宅で1年いて、私たちと同級になった人も1人いたりして、私たちのときに第1期生になの。第1期生なんだから、ちゃんといい点数取れよ、おまえ。1期生、2期生、3期生ぐらいまでは見られんだからな、点数とか通信簿とか、えー?とか。そんな1週間前に言われてもみたいなね。

土屋 じゃあ先生としては絹江さんに、

鈴木 すごい、

土屋 期待をかけて(笑)。

鈴木 期待をかけてたっていうのはあるんだろうね。でも、ひどかったから、

土屋 (笑)

鈴木 ほかの人のほうがすごい点数よくて、ひどかったんだな。

土屋 じゃあ高校いかない人も、もちろんいたんですね、

鈴木 そうですね。

土屋 同級生でも。

鈴木 知的障がいを持っていた人は中学校ときに一緒だった子で、自宅が、でも床屋さんで、お母さんの手伝いをするとかいうことで自宅に戻ったり、あとは施設に入ったりとかでしたね。そこの高等部になってから、ぐっとまた外から入ってきた。中学校の1、2年ぐらいになったときに、重度の人を入れていこうっていう体制に変わってきたので、そこのときに白石くんとか橋本くんとかがきたわけですよね。自分で自分のことができないみたいな、お尻もふけないみたいな、そういう人たちが入ってきて、すごい重度の人が入ってきたんで、でも、その必要性があるっていうふうに養護学校に日が当たってきたというか、ぐっと入所も100人ぐらいに増えたし、先生も増えたという時期でしたね。でも重度の人、えー?みたいに、白石くんたちなんか。白石くんなんか手すり磨きだもんね。もう本当に歩くの大変で、手すりをいっつも磨いてつかまって歩いてたっていう感じだったね。橋本くんは車椅子だったか、最初からね。橋本くんは私らと同級だったからね。

土屋 じゃあ最初、白石さんとか橋本とかと、そんなに話しない?

鈴木 最初はしないですね。

土屋 クラスも別だった?

鈴木 いや、クラスはだから、

土屋 橋本さんは一緒で、

鈴木 橋本くんは一緒で、白石くんは1級下でっていうふうな感じで、ほんで橋本くんは科学クラブで、私も科学クラブでいたんだけど、2人で卒業するときに初めて、え?あんたも科学クラブだったの?

一同 (笑)

鈴木 なんてわかるぐらいにお話しもしなかったというか。やっぱり彼らは落ちこぼれだね、ある意味ね。養護学校の中でのCPっつうのは、本当に、

土屋 あ、CPはね。

鈴木 落ちこぼれだね。男は男たちの縄張りというか、いろいろあるんでしょうけどね。それよりは、私たちは勉強で一般社会についていくとか、一般社会の中に就職していくとか、そっちを目指した、養護学校の中でのエリートまではいかないにしても、そっちの一般社会にぶら下がろうと頑張ってた人たちで、あの人たちは最初からぶら下がりもできないという、本当にレベルっつうか世界が違うくらいに白石くんとか橋本くんと、こんなに養護学校にいたときに詳しくしゃべって、橋本くんは同級生だから冗談言い合ったりして、面白いな、頑張ってるんだなみたいな、

一同 (笑)

鈴木 頑張ってるんだな、君もねみたいな、そういう関係性。

土屋 ちょっと自分のほうが上みたいな(笑)。

鈴木 そうそう。自分とは違う、あの人たちとは違うっていうものが、多分私の中にもあったんだと。私は自分のことで精いっぱいで、そこまであらわには、差別的なことでいじめるとか、そんなことはしないんですけど、ちょっと彼らとは違うんですけど、私はっていう思いはどこかにあったかと思いますね。

土屋 じゃあ絹江さんは絹江さんで、また別のグループというか、仲のいいお友達とか。

鈴木 軽度の障がい者の女性と勉強なりリーダーシップなり、あと卒業のときの答辞とか送辞とか、そういうのを読んで、あと学級委員とか生徒会とか、そういうのに顔出していたから、何かグループがあれば、必ず長に選ばれるというか責任を持たされるというか、そういう立場にいたよね。だから、でも、っていうのは、そういう人たちって軽度の人たちがすごく多くて、私はそこの中では重度の障がい者なんだなっていうのは思い知らされたことが多々あったんですけど、そこは負けないで口で頑張るみたいな、そういう(笑)、生意気なあれだったんだと思いますよね。

田中 そういう軽度の中でも重度っていうのは、軽度の人っていうのは、本当にさっきおっしゃってたように脱臼みたいな、ほぼほぼ何にも障がいがないみたいな。

鈴木 ポリオだったら、ほんのちょっと足首が内反足であるとか、そのぐらいの人だったら走れるし、運動会に出たって1等賞すぐ取るし、クラスだって学校だって、普通の勉強にずっとついてきてた人たちだから。

田中 そういう点では、歩くのはちょっと大変だったしっていうので。

鈴木 大変だったし、運動会ではいつもびりだし、

田中 (笑)

鈴木 まあ、せいぜい運動会で活躍できんのは放送部だね。

一同 (笑)

鈴木 アナウンスで3番行きまーすとか言ってね。

田中 (笑)、すごーい。

鈴木 そういうところで、役回りをしていたという感じかね。

土屋 でも、養護学校に入って寄宿舎に入ったから、すごく学校近いっていうか、別に一生懸命歩かなくても済むっていうのは。

鈴木 でも、広いだよ、私にしてみれば。白石くんにとっても大変だったと思うよ、私、今思えばね。私に、でも、まだ若いからもっと歩けてたし、必ずトイレ行くにも歩かなきゃなんないし、食堂もそうだし、学校も遠かったっていうのは、私なりに、それなりにちょっと大変で、あと足が痛かったんですよ、いつもね。骨折変形を繰り返してたっていう。で、毎月レントゲンをたくさん撮られて、そのときには、すごく学校休めっからいいなみたいな、授業休めっからいいなぐらいだったけど、今考えてみれば、かなりの被ばくをしていたかなっては。安積遊歩もおんなじね。安積遊歩のレントゲンなんかは、撮りすぎて棚が壊れたとかっていうくらいでしょう。私のも同じぐらいの枚数をね。で、薬飲まされてっていうふうな。薬は飲みたくないので、私は捨ててて怒られて、実験に全然、研究材料になんなかったみたいな、怒られたんですけど。

田中 (笑)。そういうのは、体が嫌がったっていうか。

鈴木 そうなんだろね。眠くなって倦怠感があってだるくなって、授業をさぼりたくなるんで(笑)、

土屋 (笑)

鈴木 1回ぐらい押入れに入って寝てたみたいな。その話をずっと卒業して医者にしゃべったら、合わなかったんだな、じゃあそれは絹江ちゃんにな。飲まないでよかったなみたいな感じに言われて、

土屋 (笑)

田中 そんなふうに言ってくれる人がいるんですね。

鈴木 うんうん。

土屋 いや、でも寄宿舎に入ったからっていって、楽になったっていう感じではないですね。

鈴木 感じではない。私、今思えば(笑)、よく寄宿舎に入って、最初に寝たとき一人で寝るっていう、小学校6年生まで、私それまで母親と一緒に寝てたんだわね。まあ、ちっちゃな家だった、貧乏だったので、ちっちゃな、

鈴木匡 準備しましょうか。

鈴木 ああ、ああ。私らのぶんが(?)、

鈴木匡 私らのしか作ってない。

鈴木 みんな(笑)、すんません。

土屋 もう全然、もちろん。

田中 もちろんです。

鈴木 もう15分くらいまでちょっと待ってください。

鈴木匡 え?

鈴木 だめですか。

田中 あ、本当だ12時だ。

土屋 あ、もう12時***。

田中 すごい、あっという間に1時間が過ぎちゃった(笑)。

鈴木 (笑)。で、ん?どこまでしゃべったんだ?

田中 寄宿舎。

土屋 寄宿舎に入って、そんなに楽ではなかった。あ、一人でだから寝るっていう。

田中 寝なくちゃいけなくて(?)。

鈴木 初めて寝たと。私は母親のおっぱいをさわって寝てたんだって、小学校6年まで(笑)。と気がついて、初めておっぱいをさわらないで寝る日が、養護学校いったときにあったんだね。もうそのうち、私らがだんだん上になってきて下の子もいるわけだから、そのうち本当にちっちゃいやけどの子で、ももった(太ももの意)から足のない子がいたりして、身長が半分ですよね、だから腰から下がない。腰から下っつうか、ももった(?)から下がないから。その子なんかは、母親がいなくて寂しくて布団に潜ってきたりとかして、あ、自分はお姉さんなのか。私一人っ子だから、きょうだいいないから、あんまり人、妹を面倒見るとかってあんま感覚なかったんだけど、部屋の中ではお姉ちゃんになっていくから、早く起こして着るように。手伝うことまではできないでも、早くやるんだよとか、お姉ちゃんの役割を言われたみたいな時期がありましたよね。

土屋 寄宿舎って何人部屋とかなんですか。

鈴木 部屋が6人部屋と8人部屋とか、押し入れが八つかな。だから上の段、下の段っていうふうに取れるように大きい人が確保しちゃうと、下しか使えない。障がい者とに分けて6人から8人ぐらいの部屋割りだったかな。で、大抵私は一番大きい子の一番奥の部屋を充てがわれるんですけどね。

田中 奥の部屋ってことは、非常に一番時間がかかる。

鈴木 そうそう。

田中 大変ですね。

鈴木 平らだから、車もないから危なくないっていえば養護学校は危なくない。普通の一般学校のときに、私いじめられたりとか、歩くの大変だったから、すごく通学に苦労したのでね。そのときに、歩いていってると、ああ、あの子、あそこのタカちゃんちの娘で、足悪いんだわとかって近所の人があれしたりとか、親子で私を見て、子どもがこうやって目で私を追って(?)、で、電信柱にがんってぶつけたりとか、そんな1回、2回じゃないですよ。で、ざまみろって私なんか、

田中 (笑)

鈴木 すっごく思ってて、でも、そういう気持ちになるっていうのはよぐねえなというふうに、すごい自己嫌悪に陥ったりするんですけど。で、がーんってぶつけると、親が、真っすぐ前向いて歩きなさいって言ったでしょ、悪いことすっと、ああいうふうになんだかんねって言われた記憶がすごく、いま60才にもうなってからも思い出すんだから、すっごく悪いことなんかしてないのに、悪いことすっとああいうふうになるんだって言われたのは、すごく傷ついた記憶としてあるのかなっては思うね。交通事故だって何件もあるよ。だから私のことを車の人こうやって見てて、おーって、がんって。

土屋 えー?

鈴木 2、3件はありますよ。危ないって本当に思って。だから、それだけ障がい者が街の中歩くっていうのが珍しかったっつうのと、むき出しの好奇心っていうかね。悪意だべな。悪意なんだか(?)どうだか、まあ、むき出しの好奇心なんだろうね。そうやって、だけど私、地域の学校に通うの1時間かかったの、1時間半ぐらいかかってたのかな、歩いていくので。で、途中で疲れちゃって、そんで昔はリヤカーで野菜を売ってるおばちゃんとかいっぱいいたのよ、焼き芋屋とかね。そのおばちゃんたちのところに、いや、最初は、いじめっ子にいじめられるから裏道を通ってたの。ところが、追いかけてくるの。で、突き飛ばしたりするから、最初は裏道を通って隠れてたんだけど、そのうち裏道では誰も助けてもらえないってわかって、表道を歩くようにして、リンゴや野菜のおばちゃんのところに行って、その野菜のおばちゃんたちは、もう好奇心丸出して、どこの娘なの?普通の学校の特殊学級にいるのかとか、名前は何つうんだとか、何歳だとか。で、最初すっごく嫌なんだけど、最初それ全部正直にしゃべると2回目からは聞かないから、

田中 (笑)

鈴木 もうそっちの道を選んだの。裏道を逃げるよりも、1回そうやって。で、そうやってまた次の、リンゴ屋の、焼き芋屋のおっちゃんが来たりすっと、どこの娘だや(?)。

土屋 (笑)

鈴木 何とかさんの何だとなんて、おじちゃん、おばちゃんがしゃべってくるから、

一同 (笑)

鈴木 何とかさんなんです、はい、特殊学級ではございませんとか言って、

一同 (笑)

鈴木 そのほうが楽になっちゃって。ところが私、今思えば吉展ちゃん事件だったと思うんですけど、小学6年のときに吉展ちゃん事件があって、

土屋 誘拐の?

鈴木 うん、誘拐で。知らない人に声かけられても、決してついていかないように。車に乗っちゃだめですよとかって校長先生のお話があったの。ところが、その日に限って、絹江ちゃん、車に乗ってかねかって、

一同 (笑)

鈴木 タクシーの運ちゃんが声かけてくれたの。で、いいですって(笑)。だって絹江ちゃんだべ?あそこの何とかさんの娘だべ。

土屋 (笑)

鈴木 近くのタクシーのおじちゃん知らねか。あんたのうちの隣(?)、隣の隣がタクシー屋だったのね、おばさんの近くにいたんだけど。大丈夫だぞと言われて、大丈夫です、歩いていきますとか言って夢中になって帰ってって、お母さん、今日、タクシーの運ちゃんに、校長先生にこういうふうに言われたのに、こうやって声かけられたんだよったら、大丈夫だ、絹江。おまえんことは、吉展ちゃんみたいにさらわねえから。さらってもお金もらえねえから、乗せてもらえればよかったのにとか言われ、何だー、

一同 (笑)

鈴木 歩いてくんの大変だったのに、乗せてもらってよかったのかとかあとから思って、それって何だったんだろうって、あとから振り返ったときに吉展ちゃん事件だったんだね。あの時期だったんだね、私ね。

土屋 ちょうど。

鈴木 うん、ちょうどね。で、いじめられる子もあまりひどい、私、母親には言ったことがないんですよ、やっぱ母親が悲しむと思ったから。でも、ちょっとけがしてきたりとかしてきて、母親が校長先生に手紙書いたんだな。そしたら、校長先生が朝礼で、小野寺絹江ちゃんは校長先生の子どもだと思って、いじめちゃだめとかって言ってくれたんだわな。で、私、父親いなかったので、クソまじめに受け止めて、私って校長先生の子どもだったんだって、

一同 (笑)

鈴木 本気で思ってしまいました。ほいでうちに帰って、お母さん、私のお父さんって校長先生なの?って聞いたら、そうだよとか、

一同 (笑)

鈴木 また言うんだわ。そいで、ああそう、私、校長先生の娘だったんだとかって、その割には寂しいんだけどみたいな、貧乏なんだけどみたいな、

一同 (笑)

鈴木 今思えば、ばかばかしい笑い話なんだけど、本気でそう思ってたんだ、小学校卒業するまで。またこれ、ずーっと過ぎてからなんだけど、実はうちの父親、代用教員やってたんだって。

土屋 先生だったんだ。

鈴木 一緒になるか、なった頃かね。父親って、おじいちゃんは校長先生だったんだと。

土屋 じゃあ、

田中 当たってるんだ。

鈴木 当たってるの。

田中 (笑)

鈴木 それも北海道の小学校の校長先生で、北海道で吹雪のときに子どもが行方不明になって、それを探しに行って亡くなって殉死(?)したみたいな、そういう校長先生だったらしい。それは、でも話の話だから、確かめることまではできなかったんですけど、でも、おー(?)、学校の先生なんだみたいな。だから、うちの父親も13人きょうだいだからね。の末っ子であれなんですけど、その話までいくと大変だから、

土屋 (笑)

鈴木 そこまではいかねで、そこまでで終わって、校長先生の子どもだと思ってたんです。

土屋 でも、校長先生はそうやって守ってくれる感じで。

鈴木 そうですね。私、校長先生と養護教員と自分のクラスの先生しか知らない。100人ぐらいいたから。3000人の学校だからね。もう先生わかんないの。自分の先生、担任とその隣に、ぷるんぷるんっていう峰不二子みたいな、

一同 (笑)

鈴木 先生がいたんです。もうお色気ぷんぷんみたいな、あっちの先生もこっちの先生も、みんなちょっかい出すような先生がいる。その先生とは何となく、ヨシナガ先生って、多分いたと(?)、覚えてるんですけど。自分の先生ぐらいしか知らなかった。3人ぐらいしか知らない。

土屋 クラスすごく大人数で、いじめる男の子もいて、仲いい女の子とか友達とか。

鈴木 私が小学校に多分上がるときに、うちの母親は洋裁店やってたおばのところに、尋常小学校卒業してすぐに弟子入りするんだね。そこで洋裁を覚えて、そのおばあちゃんが本当に鬼瓦つぶしたみたいな顔して器量の悪いおばあちゃんなんだけど、気持ちもあんまりよさそうではない。

土屋 (笑)

鈴木 (直系の)おばあちゃんじゃない、まあ子どもだからあんまよく覚えてないんですけど、そこの2階で私は生まれたんですけど、そのおばあちゃんのいとこに、ニンニクじっじ(じいじの意)って、毎日ニンニクを食べてぷんぷんさせてるおじいちゃんがいて、そのおじいちゃんとこに、あるとき連れていかれたの。何かなと思ったら、そこの孫に私と同級の子がいて、そいで今度、絹江が行くから、学校の帰り道に面倒見てくれないかみたいなことを、どうも頼んだみたいなの。私はよくわかんないよ。ただ、今日もニンニクぷんぷんで、

土屋 (笑)

鈴木 絹江、食ってみろっちって食べさせられたのを記憶してるぐらいで、そんなことを頼んだなんつうのはわかんないんだけど、その松本聡子(仮名)ちゃんっていうんだけど、その子が、それから学校の帰りを、私のことをいつもかばんを持ってくれたりとかして通って帰りにあれして、彼女は小学校3年生ぐらいからなんですけど、それはね、6年生までそれをずっとやってくれたので、全校生徒賞をもらったのよ、彼女は。で、何で彼女が全校生徒をもらう。私も、もらってもいいんだけどみたいな。何で私にはくれないの?っていうのが、すごく私の中では。私を面倒見たから彼女はもらえて、だって私だって彼女が最後に必ず豆テストとかあるじゃん、九九算をやんなきゃなんないと。そうすると(?)、彼女あんまり勉強できる人じゃなかったから、いつも待ってなきゃなんない。

土屋 (笑)

鈴木 待ってなきゃなんないのね。そいで待ってたり答えを教えたり、

一同 (笑)

鈴木 私も努力してたんですけどみたいなね。なんで私には、

田中 持ちつ持たれつだったのにね。

鈴木 そうそう、持ちつ持たれつだったのに、何で私には全校生徒賞こないの?っていうのが、すごく自分の中の変な思い。障がい者を面倒見ると、片方は立派な人になって、片方は面倒見られる人みたいな、そこに対してのもやもやした思いっていうのは、そのときに覚えてるね。で、彼女とはずっと仲よしで、結婚、まあ年賀状ぐらいやり取りしてたんだけど、彼女はちょっと引きこもりになったり、いろいろしたのかな。私はもうその頃、千葉の会社に行ったりとかしてたから、音信が不通になって会ってないんだよね。もう今は音信不通なんだよね。そんでも仲がよかったというか、一生懸命面倒見のいい。で、クラスの中でいじめるっていうことはなかった。違う学年で知的障がいを持ってたりすると、いじめられたっていうのはあったし。だから女の子と仲いいっていうの、どちらかというと優しかったのは、あまり勉強できない子たちのほう。勉強できる子たちは近寄んなかったね。むしろそうじゃない人たちのほうが、絹江ちゃん、一緒に帰るかなんつって、おぶってくぞみたいな感じで、おぶってってくれたりとか、かばん持ってくれたりとか、そうやって帰ってきた感じかな。

田中 知的障がいがある人が違う、でも違う学年だと、いじめてきたってこと。

鈴木 いじめて。まあ脳挫傷の人だな、あの落っこった人、落っこって。もともとあそこは頭いい人だったんだよ、彼氏はっていうふうに言われたことはあんだけど、私にしてみりゃ、いっつも見たら突き飛ばされたりとかいじめられたから、あんまりいい印象は。だから、知的障がい者は怖いっていうのが、養護学校に入ってからもありましたね。

田中 何か入っちゃってんですかね、そういうのに。

鈴木 思っててね(?)。もうかかわらないって。で、CPが怖いのがある。何つうの?びくーん、びくーんって、アテトーゼがあるでしょ、諸刃の(?)じゃないけど、緊張があるので、とーんって突然手が飛んできたりするでしょ?だから、CPの人には3メール以内には近づかないとかね。

土屋 怖いですよね(笑)。

鈴木 怖いからね。もう白石くんなんか顔真っ赤にして追いかけてくると、全然進んではいないんだけど、でも、すっごく怖いっていうイメージが。声はおっきいし、橋本くんだって、おーっと(?)追いかけて、で、全然進んではいないんだけど、

田中 (笑)

鈴木 だけど、やっぱり怖いっていう、もうCPには近寄らないみたいな思いがずっとあったね。こっちは転んだら骨折する、ぶつかったら骨折するっていう恐怖がすごくあったからね。そろそろあれだね。

田中 そろそろご飯です。

鈴木 お昼にね。

土屋 すいません。

鈴木 どうする?コンビニがあるし、持って(?)買ってきてくれてもいいし、そこのナカムラケン(?)、***、

■(2)2019年2月22日午後

田中 じゃあ後半、私が。遊歩さんとか学校の中で出会ってると思うんですけど、どんなふうに出会って、割と仲よしになっていたん、どんな、

鈴木 年が離れてるから、仲良しということはなかったね。彼女は最初から療育園に入ってきてて、手術とか多かったんじゃないのかな。

田中 5年生ぐらいだったと思う。

鈴木 だと思うんですね。私は高校2年のときに手術のために、1年の頃か、高校1年後半?

田中 あんまり手術されてないですもんね、中で。

鈴木 中では2回くらいか、そのあと卒業してから20歳のときにまたやってるから、3回ぐらいはやっているんですけど。療育園入院は高校へ上がるための口実でもあったわけで、だから高校1年のときだったからね、高校1年っていうか、

田中 中学3年?高校なるとき?

鈴木 高校なってからだね。

田中 なってからなんですね。

鈴木 うん。15、

田中 さっきおっしゃってた足真っすぐにしたらスカート履けるよ的な、

鈴木 そうそう。

田中 話のとき(?)、

鈴木 15歳ぐらいか、14か15でしょ。で、五つ離れてっから純子は10歳で彼女は6年生4年生5年生ぐらい。で、最初は同じ部屋にもなってなかったし、純子たちのいたとこの部屋のリーダーシップ執ってた女の子が、いや、今度来た子すっごく生意気なのよと。朝ご飯がきたのかな、そしたら、目玉焼きが出たのかな、その目玉焼きがとろとろって柔らかいっていうの、100人近い人の朝ご飯作るから大変で、柔らかったのね、たぶん。遊歩が、純子って言ってたんだけど、純子が、私は卵は玉子焼きでしか食べないから目玉焼きじゃなくて玉子焼きにしてってごく当たり前のように言ったんでね、遊歩してみれば自分のうちに言ってんのと同じぐらいの感覚で言ったんだろうけど、そんなわがまま聞けるわけないじゃないみたいな感じに、生意気な子が来たっていうふうな感じで、その女の子が言いに来て。ほんで、どんな子だべって思って見に行ったという、

田中 見に行った(笑)

鈴木 そう、遊歩を(笑)。

田中 新しい子来たから。

鈴木 まあ、あんまり、だから接触はあんまない、隣の部屋もちょっと離れてるところだったしね、年も離れてると、だから彼女はあと自分の同級生に同じCPの子がいたのかな、で、その子はわってやるとびく!って、モロ−反応みたいになる子いるじゃない、その子をいじめてたみたい。すぐに「わ!」ってやる。

田中 それは何かでも自分でも覚えておられた、

鈴木 そうでしょうね。

田中 はい。お話聞いたんですけど、

鈴木 ビックリするのが面白いらしい、

田中 言ってました。

鈴木 面白いくらいにやってたって、いや、そんな意地悪したんだとか思ったので、びっくりしたけどね。彼女のことはそういう子がいるっていうふうなことを聞いたぐらいで、ほとんどしゃべったりとか何とかっていうふうなのはあんまり記憶にないぐらいかな。そこにいたリーダー的な子がいんだけど、その子がちょっとすっごく立ち回りがうまいというか、看護婦さんたちとか寮母さんたちにごますりが上手で、何でも手伝いますっていって包帯巻き(洗濯した包帯)だの何かの仕事を引き受けて、ほんで部屋の人たちや私らにやらせるみたいな、私より1級下の子だったんだけど、そういうふうにやって、ごますりがうまいというか立ち回りがうまい、世渡りがうまい子だったんだけど、今思えばね。その子に気に入られるかどうかっつのは、その部屋の中でちょっと大変だったんではないかなと思います。彼女は私よりも1級下だから別にぶつかることも何もあんまりないけど。養護学校から私は療育園に来てからが1年生のときは手術で、2年3年ってベッドの上だったからね、ほとんど動けない状態だったから、あまり自分の部屋の中での接触のあった人はいるけれど、それ以外にはね。

田中 でも、そのあと青い芝誘ったりとか、

鈴木 そうそう。

田中 仲よかったのかなと思ったけど。

鈴木 それは卒業してからね。卒業してから私は会社に勤めて、で、会社で挫折して帰ってきて、で、そのときにある、やっぱ遊歩たちがいた部屋にもう一人、松山(仮名)さんっていう賢い頭の、きれいな美人の、その人は福島の人で、モモ農家の娘だったのかな。で、彼女は私と年が近かったので、彼女の家に訪ねていこうと思って卒業したあとに一回訪ねて行ったときに、福島駅で白石くんとか橋本くんと、角野さんとかがみんな、カンパお願いしまーすって、こじきの格好をしていたわけですよ。汚い格好、

田中 遭遇しちゃったんですね。

鈴木 遭遇しちゃったのね。で、すっごい汚い格好。ほんで白石くんなんか地べたに字書いてたりとか、橋本くんも車椅子から下りてバケツを前に、

田中 パフォーマンスですね。

鈴木 バケツを前に置いて、もう本当に汚い、いつ洗ったっとよみたいなジャンバー着てね、カンパ活動やってたんです。で、私は遠くから見て駅から彼女の家に行くバスか何かに乗ろうと思って多分通ったところなんだろうと思う、やだなって、やだな見たくないなって、汚いこじきみたいなとすごく思って、嫌だなって思ったんだけど、何でやだなって思ったのかなっていうのが、その前を通りながら、知らんぷりしてちょっと後ろのほうから後ろから行って、あんまり顔合わせないようにしてちょっと避けて通っていって、でも、そこで立ち止まって、何で彼らをやだなって思ったのかなと、養護学校で一緒だったのにね。ほんで、社会から障がい者、私たちだって私だって差別されてヤダなっていうふうに思われてる、思うように、私は彼らに向けたわけですよね。自分の差別性みたいなのすごく何でなんだっていうふうに自問自答して、彼らを避けるっていうのは一般の人が私を避けるのと同じような構図なんじゃないかと。それでいいのかっていうふうにすごく自分の中で葛藤と自問自答して、やっぱそれじゃない、彼らは彼らの何かがあってああやってやってるんだから、こんにちはぐらいの挨拶ぐらいはしようかなって思って、ヤクルトを買って、で、彼らんところに戻って、で、こんにちはっつって。いや、頑張ってるね、みたいな感じでさ(笑)、

田中 久しぶりって感じで。

鈴木 久しぶりって感じでねヤクルトを配って。そしたら白石くんが、ありがとな、ありがとな、ありがとなって、

田中 うわー、似てる。

鈴木 あんな感じで(?)、ありがとな、ありがとってこうやったわけさ、白石くんがね。

土屋 すごい似てる(笑)。

鈴木 そっくりだべ(笑)。

一同 (笑)

鈴木 絹江ちゃんな、今度行くからな、な、な、な、ななななー、ってこういう感じで(笑)。別にこなくていいんだけどね(笑)。うん、いいよーみたいな感じで、ちょっといい大人ぶりをしながらヤクルト配って、またなーって言いながら別れたの。で、松山さんのうちに行って、その前後かな帰りかな、別の日かな、ちょっと忘れたんだけど、やっぱり福島には遊歩がいて、で、来たら?っつうことで家に遊びに行って。で、お嬢様よ、こちらは。もう家の中、本だらけみたいな。本とインコ(先日聞きましたらインコでした)だらけ。インコいっぱい何百羽、100羽以上飼ってるぐらいじゃないの?表にもいるし家ん中にもいて、手こんな、なんてやってね、で、お嬢様で、真冬なのにブラウス1枚で過ごしてて、で、足が痛い、暑いって、こうやってお母さんにうちわであおらせて、どこのお姫様だみたいな。私なんか、へえー、お母さんに足仰がせてるーみたいな、すごいびっくり。で、読んでる本なんかはすごいいいわけだよね、お父さん本屋さんで、岩波書店だかの部長だか課長だかあれなんでしょ。だから本は読み放題だったんじゃないの?すごい本をいっぱい読んでんだけど、彼女はそのときに言ってたのは、小学校んときに出てきたこっちに、中学校になったらもちろん地元の中学校にいけると思ってたのに、校長先生がだめって言われていけなかったっていうことの悔しさの話をちょろっとしてた。私、多分、だからその頃、少しもう青い芝にかかわり始めたか耳にしてたかだな、遊歩に会ったときは多分、青い芝にかかわってからなんだわね。白石くんたちがうちに訪ねてきてからだったかな。で、遊歩をお嬢様でね、冬にブラウス1枚で過ごすようなそんなことでなくて、もっと社会に出てこねとだめだべっていうふうなことで彼女の家に行って、で、そんな話するんだら、彼女はその中学校にいけなかったっていうのをすごく悔しがって、でも、通信教育かなんか受けたり高校はして、独学で、まあ頭のいい子ではあるからあれなんだろうけど。で、福島でも事務所ね、青い芝の事務所があんだからそこに行ってみたら?っていうふうに言ったら、そこに来ていた大学生のボランティアに会いに来ていたね。私の伝えた青い芝の理論ではなくて、いかすボーイにくらっときて、

田中 そっちいっちゃった(笑)。

鈴木 たというふうな、そっから彼女の男性遍歴が始まったんですよね。片手で足りなそうだから、私も手も使う?みたいなぐらいに(笑)。好きな人、

田中 じゃあ、あんまりつながりはなかったけど、松山さんをとおして知ってたみたいな感じ、

鈴木 とおしてっていうか、いや、養護学校、療育センターにいたから知ってはいたし、頭のいい子だってのも知ってたし、運動にかかわるっていうふうなところでは彼女とか、松山さんはその頃、結婚を考えてた人がいたみたいな感じだから、多分、彼女は運動みたいなのには、

田中 そういうのには入らないと。

鈴木 うん。入らないだろうな。彼女はすごい頭のいい切れ者だったんだけど、再婚の人と一緒になったんだよね、バツイチの人と。で、何でかって、まあ彼女はすごいもてたってか頭のいい人だったから、もっと違う人と結婚するのかなって、養護学校にいたときだってあれなのに、再婚でバツイチ、バツイチだから悪いってことではないんですけど、何かすごくちょっとイメージと違ったみたいなことで。

田中 親にすすめられてとかかな。

鈴木 いや、彼女はお見合いではないと思うんだ。何かそれだとは思うんだけど。ただ、彼女は早く死んでしまうんで、

田中 何かそうみたいですよね。

鈴木 うん。だから私は松山さんとこに毎年ぐらい遊びに行こうかなと思っとったときに亡くなっちゃたので、遊歩が表に出てきて、ほんで一生懸命やってんだかっつって、おおっ、とか思ってたらば、誰々くんのこと好きみたいな、そっちかいみたいな感じで。でも、出るきっかけになったからいいかみたいな。で、やっぱりいわきと福島っちゅうの遠いから、交通の便も悪いし。でも、月に一回カンパ活動をやって郡山で集まって、みんなで打ち上げというかいろんな話をしたっていうのがすごくやっぱ、あそこが私のアイデンティティ、自分の居場所を見つけた場所だったのかなと。みんな本音でぶつかってたというか。着飾らなくてもいいというかね、本音で本当に社会を変えようってみんな思ってたからね。私は松山さんのところに行ってヤクルト配って帰ってきて、で、そのときにやっぱ私は会社ですごい体を壊して挫折して帰ってきてた時期で、24くらいまでに何か大きな出会いがあって、その出会いに乗るか反るかが私にとって大きな運命の別れ道になるだろうなって思ってたのでね。で、そのときにきたのが白馬の王子様ではなくて車椅子に乗ってきた(笑)、障がい者だったわけだね。

田中 でも、もう一人王子様が(笑)。

鈴木 あとからね。

田中 あとからなんですね。

鈴木 うん。まあ、青い芝に出会って、じゃあ福島とか郡山で映画会を、『さようならCP』だか何だかをやるからそれに来ないかっつって行って、何しゃべってっか全然わかんないような映画で、それを、

田中 (笑)

鈴木 何しゃべってっかわかんないよね、あれわかったらすごいよね。本人だってわかってないと思うよ、私。言語障がいの人よく自分のビデオ見ると、こんな何しゃべってっかわかんねって、よくみんな言うもん。

土屋 そうなんだ(笑)。

鈴木 うん。本当に言う。何であんた自分でわかんねえの?わかんねえ(笑)。わかんねえのかい、みたいな。それなのに健常者(?)のこと怒るわけ(?)、だめだ差別者なんてね、しゃべったこともあるけど。本当にそんな感じの映画。で、それをいわきでも映画をやっつって、で、私が手伝って。で、チラシ配りをいわき駅でやってたら、そんときに彼が高校生でそのチラシを受け取って、ほんで植田の人だったので、いわきの子、南のほうで植田のほうでやったときに来てくれて、んで、感想、カニは横に歩くだったんかな、感想を聞いたら、カニは横にしか歩けないんだなっていうことがわかりました。そんなこと言ってたかな、変わった感想を述べる人だなって。そんなこと全然言ってないんだよ。でも、そういう思いのタイトルではあったんだろうけど。CPはCPとしてしか生きられない、カニは横にしか歩けないんだっていう、そこのところに焦点、だけど(?)映画の中でサワダくんだっけな(?)、裸か何かで歩道か何かを、連絡帯の、何つうのあれ、高架橋?高架橋を渡って下りるみたいな映画だったんだよね。何か言ってんだけど何言ってんかちっとも、何で裸でそこの階段のわざわざ上るのよみたいな映画。提供してるほうもわかんないのに、見ている(?)ほうは余計わかんないんでね(?)って思いながら。でも、そこでそんなふうに彼が言って、で、面白い感想、ちょっと変わってるなと思って、帰りに、すんませんけど明日も平でやるんだけどお手伝いに来てくれませんか、何か忙しい?っつったら、いや、明日だったら空いてますとかって言ってたので、ほんで次の日に来て、んで、その次の日にも来て、また今度は手伝いやって、じゃあそしていろいろ聞いたら、私の借りてるアパートのすぐ近くを通った高校だったのね、平工業高校っていってね。近いじゃいのよって話をして、じゃあ今度チラシ作んなくちゃならないんだけどお手伝いに来てくれない?学校の帰りっつったら、いいですよってなって、ほいで次に来て、だから17才で出会ったんだけど、1週間目には今度は映画する側になっちゃった。ボランティアをやる(笑)。一緒にやって、チラシ、映画会やりますんで来てくださいのほうになっちゃったみたいな、そういう出会いなの。

田中 すごいですね。

鈴木 ね。ボランティアのかがみ。そのままずーっと。

田中 でも、それが恋愛になるのはどういうふうな。

鈴木 だからね、そこがわかんないとこなの。

田中 わかんないんだ?

鈴木 そこがわからない(笑)。そこなんだけどね。出会ったのは17才ぐらいで、そのとき大阪のほうではゴリラとか友人グループとかってなったでしょ、それの、その辺もゴリラっていうか健常者グループがあって、その中の高校生グループがその頃で始まって、その中に磐高(?)の中にアトム(?)っていうのもいたんだよね、鉄腕アトムのアトムって名前。その子とか、匡とか、何人か高校生が福島にもいたり、で、その高校生グループのゴリラができ始まっていたときに、本当に珍しい子たちばっかりだけど、で、その高校生グループみたいなの作って高校生も誘い、それまでは労働者ばっかりだからね。あとは、

田中 学生とか。

鈴木 ちょうど(?)学生運動とか、あとは労働者運動をやってた人とかがかかわって高校生グループができて、で、その中で彼が一人、社会問題研究会なんか高校の中で立ち上げて、誰もいない一人もんで(?)、で、クラブだか部活だかになるのには先生が、顧問がつかないとだめだとか言われ、で、共産党ばりばりの先生のとこにいったらば、んじゃあやってやっかみたいな感じで、その代わり爆弾は作んなよみたいなこと言われたとかいって(笑)。

田中 でも、共産党ばりばりってよくわかりましたね、高校生で。この人ならいけるって思ったのか。

鈴木 うん。この人だったんじゃないの。先生のほうが声かけたのか、うちの人が声かけたのか。

田中 もう出かけちゃったんですか。

鈴木 そう。出かけちゃったんですけど。人の話だから私も半分ぐらいしか受けて(?)ないけどね(笑)。そういうふうな感じで何か一人で社会問題研究会を立ち上げて。そしたら同じ同級にクラスで一番やっぱできる子がいて、匡、何だおまえ、突然、社会、目覚めちまったのかみたいな、じゃあおめえやんなら俺もやっぞみたいな、一緒にやってます。あ、ありました。

土屋 すいません。

鈴木 っていうふうな子もできて。で、その子も今度その高校生グループに入ったり。その子とは時々、年賀状やり取りしててっていうふうな。だから、そんなことをやる人に見えなかったんじゃないの、クラスの中では。でも、それなのに社会のところからはずれていって、障がい者にかかわって。匡にしてみれば、母親が看護師さんだったので、親が匡が気持ちが優しいっつうのは見てたから、OTかPTにでもなったらいいんじゃないかって、リハビリの先生目指してっていうふうなことを言って、そういう仕事もあるのかと。大学にいけって言われてたんだけど、俺は勉強嫌いだからやだって言ってて、ほんでPTにいくっていうふうな道もあるのかって思ったときに私からチラシを受けて、いずれ僕はこういう人たちとおつき合いするなら今からおつき合いしててもいいのかなって思ったのが、自分としてはきっかけだったって言ってましたね。かわいそうな人たちの手を差し伸べなければっていうふうに最初は思ったなんじゃないの(笑)。

田中 何かどっかで読みましたね、私。

鈴木 でも、そうしているうちに、まあ青い芝なんかの五大綱領読んだり、五大綱領の中に安易な問題解決はしないとか、愛と正義を否定するとかいわれちゃって、がーんってなって、障がいは治さなくていいんだって、治さなくていいのかって、リハビリの先生要らない?みたいな感じに、素直に受け止めてそんなふうになっちゃったわけだよね、彼なんかは。んで、治さないで、友人グループって言ってたんだ、友人、友達になることのほうが大事なんだっていうふうに彼はすっとそっちにシフトを変えて、だから高校卒業するときは就職も進学もしないっていう、この高校始まって以来だぞって、その顧問の先生とか担任の先生に怒られたらしいんだけど。で、卒業式にも出ないで卒業証書ももらわないで、 匡の漢字にすべて直してください)先生これ持ってったって証明だから取りにこいって卒業式終わってから言われて、何だか360CCの車で、ドテラ(綿入れ半纏)着て貰いに行ってきたんだなんて(笑)。教頭室呼ばれて、先生が持っといてもしょうがないから君にあげますとか言われ(笑)。そんな感じで何か卒業して。私なんかもそのときにはアパート暮らしをしてたんだけど、やっぱ在宅訪問だよね、昔の青い芝は。友達を、障がい者を見つけるっていうあれをやってたときに、目の前が海なのに、そのときでいくつだ、私と同じ年だから30才近くなってたのかな、まだ25、6才か、目の前が海なのに海に一度も入ったことないっていうCPの人がいて、じゃあ僕が連れていくかい?っていって、高校生だったんだけど、で、いいのかなっつって一生懸命、で、膝立ち、膝で歩けるので、砂浜をあちあち言いながら膝で歩いて、ほんで海に連れてって、子どもみたいに、水がきたーって喜び、水がいなくなったっつ喜びみたいなその姿を見て、すごいショックだった。目の前もう毎日に海鳴りは聞いてたんだろうに、二十何年間、一度も海に入ったことがないって何でなんだろうって、この違いは何だろうっていうふうなのがすごくやっぱ彼の中ではショックだった。だからリハビリの先生ではなくて、歩けるようになったから行けるじゃなくて、友達がいれば行けるんだっていうふうなのもそういうのでつながったりもしたのかな。やっぱりそんなこんなとこで学校、高校終わったあと、就職はしなかったけどアルバイトはやってて、お掃除夫みたいなね。生活するのはぎりぎりだけど、親には怒られて、そんな就職も進学もしないなら出てけーみたいな感じで追い出されたので、で、時給の安いそのお掃除夫なんかやって、ものすごい今だったら違法な安いアパート共同便所の共同炊事(?)みたいな一部屋3000円だか5000円だかぐらいのすっごい安いところを、また私のアパートの近くにあったんだかね、そこ借りてそこから通って、ほんで空いてるときに私らの介助の、私らのっつうか、男の障がい者も何人かいたんでね、それの介助者を。でも、こうやってあんまりブレーキ踏みすぎたらば底が抜けそうな安い3万円の車買って、おじさんに見つけてもらって、その車でぱっぱらぱっぱらぱっぱっぱぱーなんていいながら、来て手伝って本当にぎりぎりの生活をしてたっていう感じだったんだかね。で、何で一緒になったのかっていうところでは、もう何でなのかが。まあ、これもまたずーっとあとになって、ここに引っ越してきてから言ったことなんだけど、私があんまりそういうふうにいろんな障がい者の運動とかことをやってるのに、何か幸せそうじゃなく見えたんだって。

田中 大変そうだったみたい(?)。

鈴木 大変そうだったのかな。

田中 自分ではそうは思わないんですね(笑)。

鈴木 自分ではそう思わないのね。こういう道しか残されてないっていうか、私、いろんな選択肢があるなんてあんまり思えない、自分に与えられた道を歩くしかないって思ってたのかな。何か幸せそうじゃないなって見えたんだって。この人は原石としてはいい原石なのに、磨けばいい原石なのに、誰か磨いてくれる人いないのかなって思っていたんだと。思っていたんだっていうふうに言ったのね、えー。で、磨くの俺かな?って思っちゃったんだよね、生意気にもねって。19才ときそう思ったんだって。で、あんた錬金術師だったの?じゃあ、みたいな。こないだわかったんです。そう思ったんだって。

田中 じゃあ、匡さんから、

鈴木 そうなんです。

田中 結婚したいって。

鈴木 うん。一緒になろうかっていうふうに言って、えーっ、みたいな(笑)。

田中 全然そういう存在と見てなかったんですか。

鈴木 最初はだって17才だもんね。17才とか19才ではね。

まあ、その頃は百姓やりたいって匡が言い始めてて土地を探したり何かしているふうで。で、匡 は、だからそんな覚悟を持って私を磨かなくちゃって、幸せにしなくちゃって思った時期でもあったんだろうね。でも、私、一緒になってから、その前に一緒になるためには多分ハードルがいくつかあって、特に親に挨拶が、私を親に紹介するっていうことがまず大きな一つだと思って、そのときにどういうふうな態度に出るかによって決まるだろうなって思っていたので。だからそれをクリアしたんだよな、彼が。親んところに行ったときに、親に、今度この人と一緒になるからっていう報告するっていって、親が、相談ではなくて報告かと言われて、報告ですっていうふうに言ったっていうのが、まず一つの大きなハードルを超えた、ああ、いいの(?)みたいな(笑)。私も初めて聞きましたみたいな感じ(笑)。

田中 すごい覚悟を持って紹介したんですね。

鈴木 ですね(?)。

田中 で、親御さんも報告で一応許してくれたって感じ?

鈴木 許すも許さないも、だからお義母さんたちが偉いのは、やっぱり匡の人生は匡が決めるものだって、

田中 そこはすごいです。

鈴木 いうふうに、親がどうこう言ったからっていうふうな、もちろん反対ではあったんだと思うよ、お義母さんなんか会う度にやせてったから。

田中 あら(笑)。

鈴木 うん。何キロもやせてって、いまだにそのことは愚痴る愚痴る、匡には必ず、おまえには苦労させられたっていうのが今の愚痴話の最終ステージ。

田中 (笑)

鈴木 それ終わんないと夜眠れないのかもな(笑)。

田中 ひと通りルーティンで話さないといけない、そこは。

鈴木 そう。ルーティンで話さなくちゃ。ひげは生やすし髪の毛は伸ばすし、で、私と一緒になったってまでは言わないにしても、おまえには苦労をかけられたっていう。それが原因で夫とだって別れたっていうぐらいに思ってるんじゃないのかな。本当は夫婦の問題なんだけど、やっぱり、

田中 離婚されてるんですか。

鈴木 離婚したんだね、随分、19年(?)、私が一緒になってからだからね。20年ぐらい、

田中 でも、お子さんが大きくなってからですもんね。

鈴木 そうそう。別れるどうのこうののときも匡が、もう別れたらいいんじゃねえの、そんな夫婦しててあれでしょうがねえんだからっつって、匡が別れさせたというか、何かしたみたいだったけどね。

土屋 19歳にしてはものすごく、

田中 世の中わかってる、

土屋 大人っていうか、

田中 っていうかね。

土屋 達観してるっていうか。

鈴木 だから親とは全く違う生き方、反面教師にして来てた人かもしれないね。

土屋 絹江さんはそういう匡さんに、ああ、匡さんがいいかな的な。

鈴木 あんまり。こんな顔の長い人と一緒になるって、あんま(笑)。

田中 顔の長さはあまり関係(笑)。

鈴木 だけど、

田中 あるの?

鈴木 まあ、肩幅が広い人と一緒になりたいなっていう、

田中 形からいきます?

鈴木 そう。形から(笑)。でも、こんなに顔が長い人と一緒になるとは思わなかったなっていうのが、時々出るのね。私、人のこと言える体じゃないけれどね、顔かい、みたいな。でも私、うちの母に連れてってね、今度この人と一緒になるからって、やっぱり言ったときに、母親がけらけらって笑って、酒井さんっていう拝み屋がよく来て、うちの母親は宗教と病院のおつき合いしかない人だから、宗教の人か病院のつき合い。で、その宗教の人たちのところでは、結構、昔は繁盛してたっつったらおかしいんですけど、そんなとこで拝み屋とかいろいろ、因縁(?)払うとか、何かそういう拝み屋さんみたいな人がうちをお茶飲み休憩所みたいに来ていたのね。うちの母はいつもいる人だから、基本ね。

田中 おうちでやってるから。

鈴木 おうちで。具合の悪い人だからいつも私は編み物やって、私たち親子はいつもいるから、何かトイレに行くのに困ったとかお茶飲みたいなとかいうときには、必ずうちに寄るわけだ、みんな。で、その拝み屋さんが私が20歳のときに来たことがあって、で、そのときに言ったんだって、私は結婚できんだべかっていったら、その拝み屋さんができるよって言ったのね。えー、どんな人と一緒になんのって、そのあとは全然覚えてないんだけど、それを聞いたっつうのは覚えてんだけど、その答えは全然、

田中 その答え知らないの?忘れちゃった?

鈴木 忘れちゃったの。うちの母が、色の白い背の高い男と一緒になるってあのとき酒井さん言った、その男そっくりだわな、タダシはな。匡なのに、最後までタダシはな。で、こうやって背を、背の高い、見たのを記憶してて、へえー、これは運命的な出会いだね、だから前世から決まってたんです(笑)。

土屋 すごい。

鈴木 色の白い背の高い男と一緒に。確かに色の白い背の高い、

田中 背の高い男ですね。

鈴木 うん。男ですね。

田中 この頃はひげがこうとかなかったけど(笑)。

鈴木 なかったしね。顔の長さは言ってなかったですけど(笑)。

鈴木 でも匡と一緒になろうと思った時の心情は、昨日と同じ明日ではなく、どうなるか分からない明日にかけたということはありましたね。

土屋 でも、絹江さん、何かあの本の中に、自分は結婚すると思ってなかったって書いてらっしゃったん、

鈴木 そうそう。

土屋 ですよね(?)。

鈴木 結婚するって思ってなかった。だって、やっぱ母親は多分、優生保護法のことをちらっと耳に聞いてたんじゃないかなと思う、私を産んだあとにでも。昭和25、6年だばい(でしょう。の意)、あのやつが出た頃のね。で、多分、言われたんだと思う。だから障がいを持った子が結婚してまた同じような子どもを産んじゃだめだと、それなのに産んじまってみたいなことを多分うちの母は言われて、それを私にも言っておいたんだと、私、小学校のときそれ言われて、絹江は結婚できないんだからなって。

土屋 小学生のときに。

鈴木 うん。多分そんなふうに言われた記憶。だから結婚はできないんだって。っていうふうなのをちらっと私は言われて、私は結婚できないんだ。まあ、人を好きになって恋愛はあったとしても結婚はできないんだっていうふうにずっと思ってたんだろうね。

田中 でも、何か別に手術したりとかってわけじゃないけど、それは国としていけないものっていうふうに、

鈴木 そうそう。そういうふうなのと、やっぱり、

田中 イメージ、

鈴木 自分の子の優先思想だよね、私はやっぱ恋愛の対象になるとは思わなかったっていう、女性としての魅力があるわけでも何でもないっていう、そういうふうな、まあ優先思想だよ、要は。健康な人いっぱいいるのに何も私を選ばなくたっていいだろっていうふうな。普通の一般的の考え方を私も持ってたわけで。だから自分が恋愛の対象になるとか、結婚の対象になるとかとは思ってなかった。ただ、それは青い芝に出会ってひっくり返って、ガラガラポンになったから、自分も人を好きになったり一緒になったりとかっていうふうなことがあるのかもしれないっていうふうに思い始めて、まあ一緒にはなったけれども、一緒になっても、何カ月もつんだべ?っていうのはやっぱりね、19才だからね。遊歩なんか3カ月もてばいいほうだわとか、私に言ったぐらいにして。で、匡にも遊歩は迫ってさ、どうしても絹江ちゃんでなきゃだめけ(ダメなの?)と。それは自分を売り込んでんのか?みたいな(笑)。誰にでも手を出すというかね(笑)。だから彼氏10本の指で足りなくなってっつう話になっちゃうわけよね。そういうふうに匡には言ってたね。ただ、私たちが長もちしたのは、貧しかったからだと思う。んで、2人で百姓やろうと思ったときに決めた家が、電気がなかったから。だからもうその日暮らしが大変だったわけよね、薪を作んなきゃなんないし、水くんでこなきゃなんないし、それは匡なんだけど(笑)。ほいで私はランプつけて、ストーブつけて、ほんでご飯炊いて、少ない水で洗い物をやり繰りしてという、とにかくその日食べることに精いっぱい、生きることに精いっぱい。夜いつまでも起きてたって、くたびれて寝てしまうみたいな。私ら貧しかったから、だから日一日として生きることに精いっぱいで、余計なことを考えてる暇がなかったといえば、というふうな感じだったのかな。でも、匡の姿を見てると、すっごくうれしそうで生き生きしてたよね、やりたい百姓やってるし、好きな人と一緒にいるわけだしね。で、動物はいっぱいいたし、畑は、でも、私たちいろんなことがあって、一緒になるって思った時点で川のすぐ近くに行て、洪水にあったんだ。床上1メートルの洪水にあったり、ボートに乗って助けに来られたりとか。で、山に入って電気のないところで暮らして、畑も少ししか借りられなかったから、匡が一生懸命開墾してて、で、山で木くずを燃やしたら火事起こして、山火事起こしてんのよ、私たち。大変でした。ほいでそのときの年の夏、雷いっぱいのときには目の前1メートルぐらいのとこ雷落っこってるしね。もう天災にも恵まれてたんです(笑)。

田中 そういうの一緒に乗り越えてるから、やっぱりね、

鈴木 そうね。

田中 きずなは強くなるのかな。

鈴木 そうね。まあ、火事起こしたときには、一生これから借金で借金地獄だって、山の木がどのぐらいの金額すんのか全然私らわかんないから、で、私たちが火事になったときに隣近所の人わーって来たり、議員が来たりして、で、議員と警察が、これ自衛隊呼んだほうがいいんじゃない?自衛隊呼んでヘリで、

田中 ああ、消してもらったほうが。

鈴木 で、その1カ月前に、川内村でものすごく大きな山火事があった。そのときもやっぱ自衛隊のヘリが出て、それで消したんですよ。で、すごい火事だっていうことでテレビ報道、全国版に出たぐらいの火事があったのね。それと同じようなことになっちゃって、ほんで自衛隊のヘリ呼んだほうがいいんじゃねえかなと。えー、そんな、もうこっちは真っ青みたいな。匡は一生懸命なって火を消しに行ってたんだけど、顔真っ赤っ赤になって、で、うちに水がない、水道もないところで、下からくんでたから。で、消防車が入れない、道路の狭さで。消防署の人がホースを担いで走ってくんの。ところが坂道で、標高600mぐらいのとこにいたから、走ってくっと途中から歩いてんだよ。

田中 疲れちゃう。

鈴木 疲れちゃって。で、私たちが頑張ってください、もう少しですからと言った。ところが、へえー、へえー、って消防団の人がやるぐらいで。ほんで手押しポンプみたいな、消毒(?)やるみたいな、ああいうふうで消し、

田中 じゃあ消えないですよね、そんなのじゃ。

鈴木 で、隣の山にいってしまうと。で、隣の山燃えたら隣の家が危ないから、隣の何とかさんの家に回って早くそれを言えとか、もうこっちは真っ青。がーん、こら一生大変なことになってしまった。4月にそこに引っ越し、3月の末だか4月に入って、5月の連休前だかその頃に火事起こしてるからね。もうすみません、みんながおにぎり持ってきてね、で、乾燥していて燃えやすかったので、そんなところにスギッパ(杉の枝を落としたもの)黙って置いとくから、笹本さん(仮名)が悪いんだとかって怒られて、いや、私らは一生懸命、頭低くしてごめんなさいごめんなさいって謝り、鈴木さんたちは謝っぷりがいいっていうことで有名になって、

土屋 (笑)

鈴木 ほんで、謝っぷりがいい、あの奥さんなんか本当にね、あのちっちゃい体で、一生懸命、ほんでまたちっちゃくなって謝ってたと。だんなさんも謝ってて、もう本当に一生懸命、で、終わってから本当だったら山の持主にお酒でも持って行くように、警察に言われたのよ、何とかさんが被害届出さないでくれたから、ぼやで済んだ。火事というふうな事件にしなかった、ぼやにしてくれたんだから、あんたたちはとにかく礼を尽くして何ぞ持ってってお礼した方がいいとか言われて、これはお酒でも2升ぐらいずつね、本当だったらみんなの家に回って歩くとか、ところがお金がない、何せ19歳だから。で、私だって生活保護だったしね、お金なんかないので、洗剤だか何だかを二つぐらい買って、で、隣組10軒あって、その隣組と木の持ち主の人に謝りに行って、ほんでその謝りっぷりが鈴木さんたちは立派だっていうことで、村八分じゃなくてこれから村の仲間に入れっぺっていうふうに言われて、

田中 災い転じて福となすっていう感じで(笑)。

鈴木 そう。で、それまで私たちのほうが、災いというよりも、村の人とそんなにつき合うって思ってなかった、むしろこちらの、真ん中に、真ん中っつうか端っこのほうにあって、隣組に行くのには一山どっちも越えなきゃなんない、だから全然隣がないような、もう本当に自分たちだけの理想の世界を作ろうというふうなぐらいに思って、生意気にも思ってたから。ところがその火事のときに、いやあ、鈴木さんたちは謝りっぷりがいいね、あんたたちだけだ、火事で名前上げたのはなんて言われて(笑)。喜んでいいんだか、悲しんでいいんだか。それから、これからは村八分にしねえで、ちゃんと葬式んときにも呼ぶからねとか言われて、呼ばなくてもいいんだけどみたいな。ほんで、それまでうちの人も、村の人とはつき合わなくていいよ、隣組なんかやんなくてみたいに言ってたんだけど、助けてもらったからやっぱ村に貢献しようっていうことで、ほんであるときお葬式に呼ばれて、で、どこどこのタンギャマ(高い山の)の〇〇で〜で(じいじ)が亡くなったからお葬式に来てくんなんしょとかって、2人で知らせってのがきて、で、こうやって、お辞儀して、はいわかりましたっつって、うちの人が喪服に着替えて、行って、あんたどこのうちの人だかわかんの?って、わかんねえって。どこの家なの?わかんねえって。どうすんの、誰か下に行けば喪服着てる人いっぺから、その人にくっついて行けばいいんでねえかっていって(笑)。そうやってお葬式を何軒かあれしたことがあって。何だか全く『北の国から』だよ。あの頃やってたんだよ、そういった話を。1980年代、私たちが船引に行ったのが81年だから。国際障害者年の年だから。ほんで、それから山に1年後ぐらいに入ったから本当にあの時代なんだけど、うち電気がなかったから、あのテレビ見てないのよ。

土屋 そっか(笑)。

鈴木 終わってから、あとからビデオで借りて読んだっていうか。本当にまるっきりあれと同じように、電気、ランプを北海道から取り寄せて、今もランプ、玄関のとこにあるんですけど。っていうふうな感じ。だからその頃にちょっと、あんたが何で私と一緒になったのっていうふうなことを時々聞いたりして、何でだかなとかって本気で悩んだような顔して言うから(笑)、信じて大丈夫なん?とか思いながらいたけど、でも、まあ貧しいからそんなこと言ってる暇ないの。とにかく食べなきゃなんないし、今日ご飯作んなきゃなんないし、今日のご飯作るためには何か乾かさなんないしっていう、そういう生活をするのに大変でけんかしてる暇がなかった。そうやって何年か暮らして。で、外の情報も全く入らないから。隣組の情報だって入んないし、郡山の白石くんたちの。ただ、白石くんが帰ってきたって、神奈川からね、帰ってきたっていうので、帰ってきてほんで俺はもう障がい者運動やめんだみたいなこと言ってたけど、帰ってきてみたら郡山が何年も前に自分が出てったときと大して変わりないっていうことがわかって、郡山でぼちぼち動き始まったときに勉強会やってっていうことで、ほんで私も、その頃、娘が生まれて、1カ月に1回だけど、まだ娘がおむつやってるぐらいのときから顔出し、1カ月に1回ぐらいの集まりに参加したっていうふうなのが。でも、娘が生まれる頃にはもう電気が通っている頃になったんです、電気法が変わって。最初は電柱建てるのに100万かかるっていわれて、そのうちの自己負担が60万だか50万だか何だかかかるって。で、うちの人と一緒になったとき、あんたいくら持ってんのかねっつったら、大丈夫だ、しばらくは暮らせるって。おお、いくら持ってんだ、7万円。7万。ゼロ一つ足んねえんでねえかみたいな(笑)。ほんでも19才だからね。でも、彼にとったら7万円っていうのはものすごく、だってものすごい3000円か5000円ぐらいのところで暮らしてて、一日食べたのは卵と納豆ぐらいで、時にはラーメンを倍に伸ばしてそこにご飯入れて食ってたとか、そういう生活だから(笑)。

田中 若いのに。

鈴木 そう。2万か3万、

土屋 若いから(笑)、

田中 おなかすいちゃうんじゃない?

鈴木 だからラーメンふやかしてた。で、ご飯入れてふやかして。

土屋 量が増えるから(笑)。

鈴木 うん。

田中 しのげれば(?)いいのかな。

鈴木 ほんで2万か3万ぐらいで暮らしてたんじゃない?でも、そこの中で7万円貯金があるっていうの、分厚い広辞苑の辞典に挟んでたらしいんですけど、じゃあ一緒になるときね、何か記念になるの欲しいかって言われたから、じゃあ私、玄米食べてるから圧力鍋欲しいなって、圧力鍋が欲しい。匡も買ってあげようっつう、うちのお母さんにも買ってあげたいんだけどいい?っつったら、釜の一つや二つっつって買いに行ったら、一つ3万5000円したの。

田中 終わっちゃった。

鈴木 ほいで(笑)、圧力鍋二つ買ったら終わってびっくりぽん(笑)。そんなに鍋が3万5000円もすると思わなかった(笑)。

田中 でも、その頃から玄米とか、結構じゃあ、

鈴木 私は玄米、もう20代の頃から食べて、40年以上食べてるんでね(?)。何で知り得たの(?)、ミルフォード・グレイブスっていうジャズドラマーがいて、その人が何かの本、だから前の彼がそれに関心を持って、そんな玄米のその本を読んで、じゃあ玄米食べようかっつって食べて、鍋はなかったので普通のジャーで炊いてたんですけど、固いので。で、圧力釜買って食べようかって。で、その頃やっぱ東京から福島県に土地を借りて無農薬の野菜作ったりとか、そういうふうな獏原人村とか知ってる?獏の人たちとかいたりしてたので、そういうつながりもあって玄米。で、橋本ちあきさん、宙八(ちゅうや)さんたち、って知ってますか。

田中 ハシモトチュウヤさん?

鈴木 うん。マクロビアン。

田中 何か有名な。

鈴木 有名なね。あの人たちも京都へ避難してきてるんですよ。で、まあみんなそういう人たちは玄米食べてたんだよね。玄米食べていました。ただ、私たちは玄米食べてたからっつってちゃんとした感じではなく、ちあきさんたちはちゃんとして勉強してやってたけど、私たちは玄米食べたり肉食べたり魚食べたり(笑)、っていうふうな感じで、玄米は完全食だから玄米だけ食べてれば栄養不足になんねえんだなんて、金がない貧乏人はみんなそんな感じでね。

田中 自給自足みたいな生活の仕方、

鈴木 そうそう。そうですね。

田中 買い物したりとかそういうことはあまりしなくても、もう暮らせる、

鈴木 いや、でも、やっぱり田んぼは借りられなかったな。最後の頃にちょっとだけだった。畑で最初はレタスしかなかった。レタスの種が安かったのかな、春だからこれからまけるのがレタス。レタスばっか(?)、レタスのおひたし、レタスのみそ汁、レタスのチャーハン、レタスの、

田中 自給自足ってレタスで生きてるみたいな(笑)。

鈴木 そう。最初、ほんで隣近所に、これは何だいって、レタスで、レタス?おら百姓長年やってっけど、レタスっつうのはスーパーで買うもんだと思ってたって。レタスなんか作ったことがないって。やっぱり街から来た人はハイカラだなとか言われて、ほんであげますかなんて間引きしたやつをあげたの。で、いやあ、鈴木さん、あのレタスすごいね、こんなに丸まったぞ(?)なんて持ってきてくれて、うちでは食べるものないから丸まる前にみんななくなっちゃって(笑)。丸まらないうちに全部レタス終わっちゃったの。やっぱり百姓のプロは違う、こんな売ってるレタスにこんなんなって、鈴木さん家のレタス苗はすごいとかいって。やっぱ上手だね。

田中 何か違うんですね。

鈴木 うん。鈴木さん家ではうまくなったかい(出来たかの意)っつうと、いや、うちもう終わっちゃったみたいな(笑)。あとは鈴木さんバナナ植えてんだねとかって、バナナ?バナナなんかないんだけどどこにあんだべっていうと、これ、とかいって。オクラ。で、オクラを取り忘れてでっかくなっちゃってバナナになっちゃって、バナナみたいになっちゃって。っていうかね、あと、いろんなことあった。うちの人その頃まだたばこ吸ってたから、たばこ吸ってっと、隣が知的障がい者の夫婦だったのね、ちょっとみんなにばかにされながら、そんでもまあ地域の人たちが面倒見ながらいた夫婦だったのね。ほんで、それも多分、本に書いてあったと思うんだけど、

田中 ありました。

鈴木 ね。うちに来てばかにすんだ私たちのことを、無農薬のお野菜作ってんのにたばこ吸ってんのかい、とかって言うわけさ。多分、近所の人が言ってんだよ。それをその人が、あそこの鈴木さん無農薬だとか言いながらたばこ吸ってんだねー、あれなー、農薬みっちり入ってるわなー、俺たち作ってんだ。船引っつうのはタバコで生産日本一だから。岩手と福島県っつうのは日本一を争ってる、つまり、それだけタバコやってるとか開墾やってるっつうのは貧しいとこだから。そういう町なのね。たばこ吸ってんだ、あれ外国のたばこだぞ、違う、日本のたばこなんだよ、マイルドセブンなんだけど、日本のいいやつはみんないいと、外国とか高いところに売れる、で、安いやつを輸入して日本のマイルドセブンとか味の素入れて作ってんだねっていうふうなことを、タダ兄ちゃんって、隣のタダ兄ちゃん、言うの。そうすっと、タダ兄ちゃんはそれ言われたとおりに、鈴木さんは農薬使ってなくたってたばこ吸ってんだねっていうふうに言いに来るの。ああ、これ、ばかにしてんだなとか思ったり。あとは、真夏なのに洗濯してたら、うち1週間に1回だけは発動機を動かして洗濯してたわけ、手で洗うのはちょっと大変で。ほいで洗濯してたら隣のヨシコさんってタダ兄ちゃんの奥さん、ヨシコさんが来て、洗濯してんのかいっつうから、はいそうですっつったら、雪降るわって。え、雪降んですか、何で?って。だってこの辺の人はね、洗濯したら雪降るっていうんだぞ。っていうのは、彼らはやっぱ水がないの、水道がないんだよ。で、川の水をくんで生活してたのね、かめの中に入れて。で、そのかめの中の水をネコがなめたり、自分たちのご飯にもしてたの。だから洗濯なんかとんでもない大変なわけだ。だけど真っ黒くなっちゃうから、1年に1回だけ洗うんだな、彼女らも。そうすっと、いやあ、ヨシコさんが洗濯やってた、こら雪降るわ、って近所の人たちがばかにするわけだ。で、そのとおり、それをそうだと思って彼女が私のとこに来て、それは洗濯やったら雪降るわって、この真夏にかい?みたいな(笑)。えーっ、とかって、私も最初、何言ってっかわかんない。それ、ばかにされてんだわみたいな。同じことを言って私たちのことをばかにしに来たという。彼女らは私たちのことしかばかにできないから、ほかの人に言うと怒られるし。だから隣組の集まりがあってジュースなんか飲む、お茶飲み会なんかがあっても、お茶はこの辺の人はみんな缶に入ったお茶しか飲まねえんだぞいって、何で?何で缶にしか、この辺の人はみんな缶のお茶しか飲まねえからね、隣組の集まりあったとき缶のお茶買わなきゃだめなの。何でだめなんと思ったら、タダ兄ちゃんちのやつはネコもなめる、自分たちもあれでのんで、その川の水は上のほうでウシの足洗う、おしっこしてるみたいな、そういう水を飲んでるから、タダ兄ちゃんちのお茶は飲まねえっていうふうなのが隣近所の人たちの暗黙の了解なわけ。ところがうちの人、隣組に回覧板持ってったとき、お茶出さっちゃから(出されたのでの意)飲んできた、大丈夫かえ?って。大丈夫だべ、タダ兄ちゃんたちだって飲んで何年もああやって元気でいんだから大丈夫だわなんつって、飲んできたうまかったみたいな感じで(笑)。あ、そう。あるときは薪っていうか、いやあ、タダンちゃんちに行ったら玄関、この真冬なのに閉まんねんだよ。何で。薪がどーんって玄関からも出てるんだっつうんだよ。何でって。切んねんだべ。切らないで薪を囲炉裏にそのまま、割らないで、どーんって玄関から出たままで囲炉裏に入ってて、囲炉裏の前でくすぶってんの。で、火を燃やしてる。で、ネコもみんなしてこんなんなって、ちょぼちょぼ、煙くて。みんな煙くて涙、鼻汁出しながら、渋いなみたいな顔して。行ったらもう目開けてられねんだ。電信柱ってコールタール塗ってあるのよ、腐らないために。それが燃えてて、何だかタダ兄ちゃんちょっとこれ、目が開けられねんだ、コールタール塗ってあっかんな、でもしょうがねえ、今日は薪がねえからこれでいいんだとかいって、はあー、みたいな。私もそれあまりにも面白いので、ちょっと隣まで行ってきたんです。そうやってお茶飲めとか言われて、ヨシコさんにどーんとお茶出されて、で、手出せとか言われて手出したら、ここに梅干し乗せられっち、で、梅干しの上に砂糖乗せられって。昔の人ってそうやって食べたんだよ、梅干しの上に砂糖。それはもうぜいたくなもんだよ、しょっぱいものの上に砂糖だからね。

田中 それはじゃあ、おもてなしなんですね。

鈴木 最高のおもてなしを受けちゃって。でもどうしょうってこの梅干しと砂糖。

田中 砂糖乗ってるし。

鈴木 どうしてみたいな。

土屋 すごい。

鈴木 困りました、あのときは。

田中 でも食べないとね(笑)。

鈴木 ね。だからちょっと、お茶ん中にこう入れて砂糖溶けて梅干しだけ食べたりして、お茶ごめん、おなかいっぱいとか言って、持って帰ってきたような気がした。

田中 すごい。

土屋 すごい。

鈴木 面白い。でもね、すごい。

田中 そういう近所づき合いも大事だからね。

鈴木 あったね。

土屋 初めてですよね、そんな(笑)。

鈴木 そうよね。で、なんちゅうの、彼らたちのことをやっぱりばかにする、ばかにしながらも地域の人が面倒見てた。っていうのが田舎のいいところと悪いところが同居した、施設に入れるんじゃなくて、奥さんなんかは、赤い銭、白い銭だからね。赤い銭と白い銭っていう、そういう10円、これが100円、これが1000円とかさ。タダ兄ちゃんは、1000円札でたばこが何個買える。自分がたばこ吸ってっから。何個買えて、お釣りがなんぼくるぐらいはわかるけど、ヨシコさんはわからないと思うね。でも、親に自分の草むしりはこうやんだぞ、種はこうやってまくんだぞって教えられた。ただ、草むしりを教えると隣の畑まで草むしるのね、ヨシコさんはね。それだとまずいから、自分の家の田んぼのところに赤い旗を置いて、棒を挿して、この赤い旗のあるところだけ草むしんだぞって教えられて、向こうの人たちは、草むしったやつを置いて乾燥させて、それをウシとかブタとかそういうところにやるから、

土屋 飼料の草なんだ。

鈴木 それだって肥やしなわけよ。それなのに隣の畑まできちゃったんでは怒られるわけです、隣の人にね。だから、そうやって教えられて、この花が咲いたら何の種をまく、カッコウが鳴いたら何の種をまいてもいいんだって、ヨシコさんは教えられたって。上手なの、作物作るのがとっても上手なんだけど、うちに来て、鈴木さん、そのバナナの種欲しいとかいって来るんだけど、私らが買う頃に、買った種っつうのはF1なのよ。

土屋 F1。

鈴木 F1っていうのは、遺伝子組み換えもやってあって、例えば、ナスでもキュウリでもいいものができるから、その種の子どもも全部同じくできるかっつうとそうじゃないの。もう今は、全部遺伝子組み換えになって、一代だけいいものができるように組み換えになってるから。

土屋 じゃ、毎回種買わなちゃいけないんですね。

鈴木 そう、毎回買うの。それ、今度種子法で、今すべてをそれにしようとしてるでしょ。

土屋 確かに。

鈴木 お米まで。もうそんなんになったら大変だよ。もう、1回何かの病気が出たら全滅になるんだね。で、ヨシコさんは、その古い種をそうやって大事に取って、自分ちの種で買わないでこうやって毎年作るんです。

田中 すごいですね。

鈴木 すごい。うちの、で、種まいたやつよりも、ドテカボチャで、生ごみに捨てたやつのほうがいいカボチャできたりすんだよね。

一同 (笑)

鈴木 これがまた不思議とね。でも、50種類ぐらいの野菜を作ってたよ、1年間。

田中 すごいですね。

鈴木 50種類で、ニワトリは300羽あまりやったからね。

土屋 すごい。

鈴木 うちの人がほとんどで、私は現場監督ですけどね。草むしりぐらいとか、種まきとかぐらいですけど、やって一緒に。

田中 結婚されてから、お子さんまでって割と期間長いんですか。

鈴木 そうそう。でも1人目は亡くなってるからね。

田中 それは早いんですか。結婚されてから?

鈴木 結婚してすぐの頃だったんだよね。だから、もうだめだべって思ってた頃にできて、生まれた子だからね。だからもう、子どもは作らないで、子どもは持たないで、自分たちだけの生活にしようっていうふうに思ったときに子どもができたんで、で、1回目の子がだめだったから、やっぱり2回目のことは誰にも言わないで、もしかしたら、まただめになるかもしれないっていう恐怖とかあってっていうふうな感じだったね。

田中 ご出産されるときとかは、病院とかはどうされたんですか。

鈴木 もう最初から、5カ月ぐらいから入院してたりしてたね。もう起きてられないというかね。

土屋 それは船引の病院?

鈴木 福島のほうの、郡山のほうのね。やっぱり私の場合、病院を探す、医者を見つけるっていうのがすごく大変、

田中 やっぱり大変ですよね。

鈴木 大変でね。福島だかどこだかに検査に行ったときには、大体70%以上の確率で障がいを持った子が生まれると思いますって言われて。

田中 そんなに高い確率なんですか。

鈴木 うん。長男、長女みたいなのは特に高いって、

田中 違うんですね。

鈴木 言われて。大体長男、長女が多いでしょ。障がい持ってる人って。

田中 どうなんだろう。

鈴木 あと双子ちゃんな。

田中 双子ちゃんは多いですけどね。でも遊歩さんも2番目。お兄さんがいて。

鈴木 そうだね。だから、長男か長女。

田中 そうか。

土屋 長女か、最初の男の子か最初の女の子か。

田中 男の子、女の子か。なるほど。

鈴木 そういうのが多い、高いというかね。そういうふうに言われて、でも私は、そのとき匡ともいろいろしゃべって、障がいがあっても別に人の幸、不幸には関係ないし、幸せになれる道があるんだよっていうふうに育てていけば、幸せになれると思うっていうふうに、心臓どきどきしながら医者に言ったわけですよ。だら、医者はそれはあなたの考えであって、子どもは違う考えになるかもしれませんよとか、また、たたみかけて言うわけさ。でも、じゃあ、あなたにはお世話にならないっていうこと。私の場合は、私がどう思おうが、医者の手が必要なわけじゃない?どうしても帝王切開っていうふうになるわけだから。だから、もしものことがあったとしても、この医者だったからよかったんだって思いたいじゃない?最終的にはね。だから、信頼できる医者を探すっていうことが大事なので、おっきな病院だからっていうふうなところでは、ダメなんだっていうふうに思ったね、そのときね。だから、あなたにはかかりませんみたいな感じで違う医者を探して、ほんで、たまたま次に行った郡山の病院の医者が一緒に頑張りましょうねっていうふうに言ってくれた医者だったので、

田中 よかったですね。

鈴木 それでそこにしたっていうかね。もう最初生まれたときには、本当に親にも誰にも言わずに、生まれてからは言ったけども、生まれる前までは言わなかったというかね。その頃はもう、山ん中にずっといたから、誰もわからないうちに、おなかがおっきくなって、あら、鈴木さんいつの間に生まれたんだいなんて、隣りの○○と同じ年だねなんて。最初の子亡くなったときには、いだましかったねえとか言われた、いだましかった(勿体なかったの意)、そういうふうに言うのかみたいな。

土屋 生まれてすぐに亡くなっちゃったんですか。

鈴木 そうだね。この子はちょっと早く生まれちゃったんだな。ちょっと頑張りすぎてて、入院もしないで、病院に行っててみたいなね。

土屋 そっか、それじゃあ、電気のないところで?

鈴木 そうそう。

土屋 暮らしてたときに?

鈴木 そうそう。まだ家が決まる前ぐらいだ。その百姓のところもね。そのときに獏に一緒に住もうっていうふうに、獏原人に住もうと思ったんだけど、やっぱり電気もないし、それに一緒にっつうか、その部落の中にその人たちに、あんたたちの面倒まで見れないとか言われて、私たちたちがね。

土屋 そうなんですか。そんなこと言うんだ。

鈴木 そうそう、そんなこと言うんだよ(笑)。あの人はエゴイストな人だから、すごいそれをはっきり出す人だからね。面白いって言えば、面白いんだけど。正直な人なんだと思うね。だから、じゃあ、それまで一緒にそこで住もうと思ったんだけど、やめようっていうふうに獏には住まない。自分たちで百姓。で、百姓の土地、最初はすぐには見つからなくて、そしたらば船引に喫茶店がつぶれたとこあんだけど、誰かやんねえかって言ってっから、おめえたちやってみたらどうかっていうふうに、やっぱ養護学校の後輩が、その白石くんたちと一緒にやってた自立生活してた船引の子が言って。

土屋 あれ、強さん?

鈴木 強。強くんが言って、

土屋 船引の人なんですか。

鈴木 そう、船引の人なの。で、強くんがその話持ってきて、田舎は、おめえらがいい人だっつうのはつき合えばわかっけっちょ、田舎は最初はだめだから、まずはおまえたちの人柄わがってもらってから土地借りたらいいべと。で、うちの人はその頃、ロングヘアになってたしで。ほんで、私があれだばい(障がい者だしの意)。土地探しやってっと、本当、あんまり入ったことのないような家の道に行くと、ぬかるんでたりするじゃない?で、スリップして、にっちもさっちもいかなくなって、で、少しでもいいから後ろに重いもの持てば動くかもしんないとかって、私をバンの後ろに乗せたりして、30キロぐらいの体重乗ったって大して変わりねえんだけど、一応私も言われたとおり、こうやって後ろに踏ん張っているわけだよね。ところがにっちもさっちもいかなくなっから、だめだこりゃ、隣組の人呼んでくるわつって、うちの人が、隣組の、隣組つったって、空き家を探してるわけだから、そんな空き家なんつうのは、大抵、人があまり行かないようなところの家なわけだから、隣組は遠いんだけど、遠くに行って、呼んで来たら、何でおめえらはこんなとこさいんだって。いや、こういうわけで土地を探してんですっていうふうに言ったと。何で今どき百姓やりてえんだ、そんなん変わってっぺって。変わってっぺって、そうかもしりませんねなんて、うちの人言ったぐらいにして。ほうだ、おかしいって。おめえ1人なのかって、いや、女房がいますっつって、後ろぱかって開けっと、ちっちゃいのがこんなんなっているわけだよね。幼女誘拐かみたいな感じでこんなしがみついているわけだ、30キロが。おめえらはおかしい、だめだ、こりゃ警察だとか、そういう話が何回もあった、土地探すのに。で、うちの母親が、匡、あんまり山ん中に絹江のことを連れていくと、幼女誘拐ってやって、テレビに出るようになっから連れてかないほうがいいぞって言ったぐらいで(笑)、まさにそのとおりのことを、何でも体験しながら、それでやっと船引に。で、すぐにストレートにいったんでは、やっぱりおめえら爆弾作るつもりかみたいなとか、やっぱその頃、連合赤軍のことがあったりとかしてたから、やっぱりすぐには貸してくれるっつうのはなかなかなかった。たまたま、私らが船引のところっていうのは、大家さんが出ていって、大家さんがお金に困ってたんだな、ちょっと。本妻と愛人とおんなじ敷地内に住まわせてた人で(笑)、

田中 何とか部族みたいなやつですね(笑)。

鈴木 だから、その人、金2倍稼がなんねえからって、隣近所の人に言われてた人で。

土屋 すごいな。

田中 すごいな。

鈴木 だから、お金、かといって、そんなに高いお金、私らだって、そんなに高いお金出せるわけではないんだけど、捨てて置いとけば、もうだめになってしまう家だから、1万でも2万でも入ったほうがいいっつうことで、私たちに貸して。だから、隣近所には言ったらしいんだ。もし、何が、怪しげなことをやったらば、いつでも出てってもらうから、入れさしてちょうだいみたいな感じで、大家さんは頼んで私たちを入れて。で、ちっちゃな土地しか貸してくれなかった。でも、だんだん私らのこともわかってくれば、ここも使っていい、そこ、鈴木さん、こっちも借りてやってくっちゃらいいばい(借りてくれたらいいの意)、ここも、ここもとか言って。で、ちっと家賃高くしていいかみたいな感じを、長年の付き合いの中には。でも、そんなにうちの人、1人でできるわけないばい。だから、そんなには要らないんですなんて言いながら。でも最終的には随分広くやってたね。その頃、村上真平くんとか、村上周平さんなんかは、全国有機農業研究会の会長、

田中 親子のね。

鈴木 親子でね。で、真平ちゃんは、バングラデシュだの、カンボジアだの海外研修やって、ほんで、帰ってきた息子で、自分のうちでご飯食べるより私のうちでご飯食べたほうが多いぐらいに、もう毎晩、だからランプ生活してて、誰も人来ないで寂しいばいってみんなに言われたが、うちの人が日記つけてたら、延べ人数300人も来てた。で、玄米の宿でもランプの宿でもしたほうがいがったんでねえかみたいな。

土屋 確かに(笑)。

田中 本当だ。

鈴木 その中に武藤類ちゃんとか、

土屋 告訴団の。

鈴木 原発告訴団のね。武藤類ちゃんとか、大河原伸さん。劇団赤いトマトの大河原伸さんがまだ独身の頃。女たちの、山内尚ちゃんは養護学校の先生。類ちゃんも養護学校の先生だけどね。その人たちは、みんな、うちに、真平ちゃんもそうだろう、みんなその頃に訪ねてきていたのね。

土屋 すごい。じゃ、すごくいろんな人のつながりがあったんですね。

鈴木 そうですね。

土屋 でもその頃は、福島青い芝の人たちとは、そんなかかわりがなかった。

鈴木 だから結局、最初、青い芝で、在宅訪問やったりなんかして、関西青い芝が解散になってきたりした。その風がやっぱり福島にもきて、健全者グループを解散みたいな。何でだよ、福島ではみんな仲よくやってたべよみたいな感じでなってたのに、解散みたいなことで、合同委員会だか、再生委員会何だかって白石くんがなったりした。その頃の集まりにも私も行ったりしてたんだけど、結局は、そのあと、福島県の青い芝は作業所活動になるのよ。ちり紙交換とかね。で、私、違うよ、だって青い芝は、われわれはCPとして自覚する、あれって、ああいうの妥協しないんじゃなかったの?私は日本刺繍をやって編み物やって、人に教えて、あと店の仕事もやってて、一生懸命働いて、生活保護は受けてたけど、それなりに稼いでたわけよ。でもそのときに白石くんは、おめえが稼げればいいってもんでねえべって、重度の障がい者が生きられる社会になんなかったら、だめだべみたいな。まあ、そうだなと。でも、私は稼がないで、カンパ活動で、世の中変えるっちゅうのは何かちょっと違うんじゃねえかなとか思いながらも、そんなふうに。でも、社会を変えてくんだって言うと、社会を変えなければ、やっぱり障がい者の状況は変わっていかないんだっていうのは、確かにそうだなって思ったから、そっちの障がい者運動に編み物もどんどん親子のけんかしながら、親子の縁を切りながらみたいな感じであれしたのに、やっぱ作業所で廃品回収で金集めるべってなって、あれ、違うべよみたいな。社会を変えるんじゃなかったの?って、私はそれにかかわらないで、百姓、匡と結婚になって、百姓生活。だから、作業所作りの頃は、あんまりかかわってはいない。で、白石くんが帰ってきてからだから、1990年代近いのかい。80年代後半、

土屋 そうですね、89年に多分白石さんが。

鈴木 だよね。その頃から、戻ってきたぜ言って、ほんで1カ月に1回の勉強会が始まったので、その頃、ほんでうちの娘が90年だかに生まれたから、91年だか90年だかおむつ当てながら、彼に会いに行って、郡山に行くと、頭痛くて、頭痛くて、やっぱり山ん中できれいな空気のとこでいるから、郡山、船引から見ると、船引は駅が450mだから、標高。

土屋 標高が。

鈴木 高いのよ、寒いとこなのよ。で、そっから郡山に行くのには、こう下を見てこう行くとこ、空気がよどんでて、頭が痛くて、頭が痛くて。うちの娘も頭痛いから、お母さん、お山に帰ろうってそういうふうに言うぐらいの。

田中 空気が全然違ったんですね。

鈴木 うん。全然違う、今だって多分違うんだと思うよね。私ら慣れちゃったから、そんな空気の違いに、わかんないのかもしんないけど。

土屋 丸々何か白石さんがいなかった時期は、絹江さんも、

鈴木 私もかかわってなかった。

土屋 障がい者運動から引いてた感じで。

鈴木 そう、結婚、とにかく毎日食べんの大変、毎日レタスだから。

田中 レタスだから、そうか。

鈴木 レタスを毎日を。

土屋 何かけんかしちゃったとかではなくて、何か離れたって感じですか。

鈴木 そうね。だって、白石くんが勝手に横浜に行くって言って、ええっ!みたいな、置いてくのか、大丈夫だ、こっちはこっちで頑張れみたいなこと言って。だけど、橋本くんはそういうふうなタイプの人じゃないからね。運動がんがんやる人じゃない。まあ、カンパ活動とかそういうのはやってたのかもしんないけど、制度を変えてくとか、制度を作ってくとか、新しいアイデアを出すとかそういうタイプではないよね。それからも、多少は白石くんが向こうに行ってからだって、多少、青い芝運動は続いてはいたけど、そのうち高校生だっていつまでも高校生でいないわけだし、卒業して大学生は大学生で就職していくわけだし、そういうふうな中で、やっぱりどんどん離れていくことと、やっぱり制度が整ってきて、介助制度が入ってきたりとか、角野さんでも24時間介助が必要な人は、だんだんそういうふうな介助の制度を使っていくとかいうふうなことになってって。私はその頃は、ランプ生活と子育てっていうふうなことになってったんだね。

土屋 ちょうどだから、その青い芝、白石さんがいなくなったりして、青い芝がちょっとごちゃごちゃし始めたときに、

鈴木 そうそう、停滞してて。

土屋 じゃ、匡さんとお百姓みたいなのが重なったから。

鈴木 そうだね。私は、青い芝の全盛期のときからはちょっとずつずれたかかわりではあるんですよね。ちょっと遅れてね。少しずつずれているんですね。白石くんたちも出て、横田さん、横塚さんの集まりとかにも顔出したりはして、遊歩と2人で筆記なんかやったんだけど、何言ってっかわかんない、何言ってんですかって手挙げたら、うるさい、ちびども黙ってろ!とぅとぅとぅとぅって怒られて。だって、今書けって言われるし、うるさいって怒られるし、なあみたいな感じでいたのを記憶してますね。横塚さんとか横田さんとか、あと、東京青い芝はちょっと毛色が違った磯部さんたちとか、磯部さんは今、東京にいるんでしょう。八王子自立ホームでもうぼけちゃったとかって。

土屋 そうですね。

田中 会ってないけど老人ホームにいるって。

鈴木 あそこに後輩が、私のやっぱ後輩が、

田中 いらっしゃるんですか。

鈴木 いたのね。いたんだけど、私ががんになったっていうふうに話したら、実は僕も食道がんなんですって連絡がきて、抗がん剤とかやんないほうがいいぞっていうふうにちょっとお知らせしたんだけど、今は飲み薬でいいのがあるからとか言って1年もしないうちに亡くなったね。

田中 あらま。

鈴木 だから、去年かな、今となればな。去年の4月にはもう亡くなってたんだね。そのときに、そのうちにちょっと毎月新聞を送ってよこしてたんだ、その八王子で、自分たちでやってた自治会の新聞ね。彼が中心になりながらやってたんだと思うんだけど。で、そのときに磯部さんは元気なの?つったら、磯部さんは奥さん亡くなってからがっくりきて、倒れたかなんか、何かなのかな、もうぼけちゃって全然だめだ、このままでは障がい者だめだって言いながら、後輩は小松忠夫っていうんだけど、これではだめなんだ、絹江さん来てしゃべってって言うから、いいよ、行くから呼んでちょうだいっていうふうに言うんだけど、彼の力では職員を説得できるだけの力がなかったんだろうね。もういつでも行くよっていうふうには言ってはいたんだけどね。磯部さんは、もう寝たきりだっていうふうに聞いてはいたね。磯部さんと若林さんか、若林さんはもっと前に亡くなってるもんね。

田中 随分、前なんじゃないかな。

鈴木 そうだね、随分前だろうね。

(間)

田中 戻ってからの話とか聞いたほうがいいですね。

土屋 そうですね、白石さんが戻ってきてから。

田中 戻ってきて、勉強会、

土屋 勉強会に娘さんと一緒に郡山に行ったりしていて、

鈴木 参加して、

土屋 それで、船引でも勉強会。

鈴木 そうね。結局、やっぱり、その頃私の地元っつうか船引の障がい者に、マッサージの盲人の方と知り合ったり、三春に嫁に来たり、私は障がい者と動物には必ずナンパするように声かけるんです。

一同 (笑)

鈴木 もし元気やったら必ず、ネコに出会ったら、ネコにはみゃおんっつって、必ずナンパするのと、で、障がい者がいたら必ず声かける。ああいう田舎では珍しいじゃない?出てきて、車椅子でいるっていうのは。だから、もう逃さない。で、そんなことやってるうちに、1人のきれいな障がい者に出会って、で、彼女としゃべって、ほんで、マッサージに行ってる人が点字を教えてくれるっつうから、じゃあ点字を習おうかなんつって、あいうえお、ぽっつんぽっつんなんか、ぽちぽちやって、が始まったりしてて、そのときに奥さんは長野のほうから来た人で、やっぱり、ほかから見ると船引は何にも制度が整ってない、何にもないってそれはあれだよねっていって。で、何にもない、何にもなってぼやいてただけでは、何も動かないから、じゃ、勉強会でも開いて、議員とかいろんな人を巻き込んで、ちょっと1個ずつぐらい言ってくかみたいな感じでの勉強会を自分たちでも始めて、それが白石くんたちの集まりとリンクしながら。ほんで、私は議員とか、保健婦さんとか、こういうのを待ってましたよなんて保健婦さんなんか最初言ったりして、ところが、いろんな障がい者とおつき合いすんのがわかんない人たち、ある集まりの日が雨の日だったんだよね。で、こんな雨の日では障がい者大変だから中止にしたらええべ、みたいなことを言って、いやいや、雨の日だから中止にするっていう皆さんの社会でもあるんですかって言ったら、いや、俺たちの仕事は休まない。障がい者だって雨降ったからって、溶けるわけじゃねえんだから、集まりは集まり、やるんだって、いや俺はかわいそうだなって思ったっていうのね。そういう誤解というか、そういう思いやりから出た、善意から出た差別というか悪意というか、そういうふうなものが、もう話し合いのそういうふうな中で出てきて、そうじゃなくて、やっぱり、障がいを持ってても地域の中で暮らしていける環境を作っていくことが福祉のまちづくりなんだよと。で、そこのところにおいては、やっぱり雨が降ろうが雪が降ろうが、槍が降ろうが、皆さんが生きてると同じように、障がい者も生きてるんだっていうことを、どういう制度なり、どういうサポートがあればやっていけるかっていうふうに考えてくことが大事なんだよっていうふうに議員にレクチャーをしたり何かしながら。そんなことをやって2年勉強会やってたのかな。そのときに、私のやっぱ後輩で、桑名敦子って、マイケル・ウィンターの奥さんになった桑名敦子がアメリカで結婚して、毎年日本に夏休みに夫を連れてきてたときにあちこちで講演してるから、ほんじゃ、うちにも来てくれたらいいばいってって、セミナーを開いた。1991年、90年、白石くんが戻ってきて、大して違いない頃に、佐藤栄左久知事が、アメリカに行って、敦ちゃんたちと会って、ほんでっていうふうな話とその辺にリンクしてて、福祉セミナーをその頃、年に1回だけどやってて12月にね。そのところにマイケルを呼んで、アメリカから、

田中 マイケルも呼んだんだ。

鈴木 マイケルを呼んだの。

田中 すごいですね。

鈴木 マイケルを呼んで、マイケルと敦ちゃんが通訳かなんかしたのかな。ほんで、その障がい者自立生活運動をやって、あ、これだというふうに私は、すごく遠い星かもしれないけど、方向性、羅針盤が決まったっていう感じ、作業所ではないと、私の中ではね。だけど、やっぱり権利に基づいた障がい者運動、社会を変えてくっていうふうなところで、あくまで自立生活運動だっていうふうに焦点が、遠い焦点が決まって、私は自立生活センターをやるというふうに言ったら、鈴木さん、アメリカの話はまだ早いぞい、日本の話だって船引はまだ早いのに、アメリカは遠すぎっぱいとか。私、誰にこの話をしたら、健常者なり議員なり、役所の人間なりね。誰に話したら、話は進むかということで。ったら、俺だばい、俺だばいっていう一人の議員がいて、ほんでしゃべったら、早いばいって、アメリカは遠いばいっていう人で。

田中 俺だという人がそうだったんだ。

鈴木 ほんで、自分が一番やってるって思っているけど、その人は、口が達者だけど、実績が伴わない人だったんだな。ところが福祉っていうと、その人がどうしても全面に出て、田舎だから、

田中 決まってるんですね。

鈴木 何人もカードがあるわけじゃなくて、その人が出てくると、ほかの人へこんでしまうみたいななってしまって、ちょっとまずい、違う人でないと、この人ではだめだ。その人も最終的には作業所をやったり、議員また立候補して、もう1期ぐらいやらして働いてみたいな同情で票が入るみたいな、そういう、田舎ってあるんだよ。あるんだよ。あの人もう一回ぐらいやらしてやっかみたいなね。そういうふうな感じで、また議員に戻ったりして、これではだめ。そしたら社会党系の人でいつも議員の選挙をやると1位で当選する鈴木正一さんっていう方がいて、その人が私にアプローチをしてきて、福祉勉強会にもいつも出てきてて、私が時々、雨降ってっから、槍振ってっから、障がい者も出ないほうがいいみたいなそういう同情からくるあれでは、やっぱ社会参画にはなってこないんだよっていうふうに言われて、そういうことちゃんとしゃべれる人いるんだなってわかったんだみたいな感じで(笑)。で、彼とのコンタクトが取れて、それから、だからと言って、何か議員の力を使ったっつうことは全くないんだけど、彼が私たちに接近してきて、いろいろ勉強してやっぱり福祉をこういうふうに変えてかなきゃなんないんだよって、情報公開の話なんかまだ全然出てこないうちにいろいろ名簿出すだ何かって、名簿っていうのは個人情報なんだから、あんたが確認取んなきゃだめだって、そんなこともあんのかいなんて議員さんが言ってるぐらいのまだ時代だったからね。もう40年も前の話だけど。だから、そういうふうな中で、議員を育てたり、役所の交渉をして、1年に1個ずつでいいから制度を変えて、タクシー券なんかはほかではどこでもやってたんだけど、船引にはなかったからタクシー券の制度を設立して、やっぱり重度の障がい者も、とにかく1年に1回でもいいから外に出るチャンスを与える。それは家族にやるんじゃなくて、本人に渡して、本人がちゃんと出てこれるようにするんだよとか言って、そういう交渉をずっとやってきて1年に1回ずつ一つずつ。で、1年に一人ずつ誰かを自立生活させるみたいなことをやり始まって、あるとき盛岡の人の自立生活もちょっとかかわってね。その人がうちに来て、勉強をやったんだけど、「鈴木さん、船引がすごいのは誰も私を振り向かないって。誰も振り向かない住民だ。」

田中 すごい。

鈴木 結局は、

田中 じゃ、意識を変えたんだ。

鈴木 そう。だから、車椅子が通ってるのが当たり前。だから駅員もとっても車椅子の押し方上手だし、あと、近くにスーパーあんですけど、そこの幅はすごく広いし、なので、車椅子行ったからってどうこうじゃない。だけど、行った人には必ず袋にまで入れてくれるサービスはするとかいうふうなことを。で、誰も振り向かない、好奇の目では見ないっていうかね。当たり前にいるんだねって、やっぱりそれは、もう私らがしょっちゅうそこを使っているから。だから、船引の駅は、踏み切りの駅だったんですよ。で、踏み切りの駅を今、最近は作らなくなって高架橋を作って、エレベーターを作ったりして、ほんで私に聞きに来たんだよ、駅長さんが。鈴木さんどうなんだべって、やっぱり高架橋じゃなくて線路の上、ストレートに外から駅に入れるのが一番私らにとっては安全なんだって。もしもことがあって、エレベーター電気止まったらだめだからつって。やっぱりそうかいとか言って。それを言って、利用者の車椅子の方たちもこう言ってますみたいな感じで出して。で、高架橋は最終的には作ったけれども、こっちの線路の上をもとおすっていう。踏み切りの上もとおすっていうふうなことを制度にして。本当は磐越東線、郡山からいわきに行く間には三春町がその管轄があんのね。ところが、だから、ほかはみんな無人なのよ、ほとんど。で、船引も本当は無人にさせられそうだったんだけど、私たちが船引に住んでて、そこをいつも使ってるから、船引はそれだったら障がい者が困るということを言って、そこをずっと無人じゃなく、ずっと。で、必ず、私が使ってて、鈴木さん、今度、仙台から電車に、どのぐらい使ってっか、利用してっか見に来るので、鈴木さん、今度何曜日に行くんですかみたいな感じで。私は、その頃、55歳ぐらいからスイミング始めたのよ。足が弱くなってきたので、ちょっとリハビリのためにっていうことで、スイミング始まって、ほんで行ったら、そこ行くと、反対側、つまり駅側じゃないほうの1車線っつうか、1車線しかなくて、その駅だけ2車線になって、上りの下りになるんだけど、こっちの下りのほうに下りるわけだ。そうすると階段しかないわけだ。階段しかなくて、私、電動で行ったから、もう大変。もう6人ぐらい必要よって言ったら、駅員が、郡山から何からみんな乗って来て、一緒になって、うーって、ほんで、あれなのよ。で、私が一番最初にそこに行くっつったら、じゃあ、大変だから、こっちの上り線に電車止めたりするというふうになったの。ところが、決してそれをやっちゃならないのよ。電車っていうのは、やっぱり信号が反対になってしまうの。青しかないからね。それが私が入るために、私が行くために、その日だけ特別仕様車になって、美智子様か絹江様かになっちゃうの。美智子様来たときにはそれやったっつってたわ。

土屋 ロイヤル(笑)。

田中 そうだった。

鈴木 美智子様か絹江様かになっちゃって、でもそれってよくないんじゃないのって。絹江様にしちゃだめなんじゃないのって私が言って、ほんで、駅員6人必要だからっつったら、最初事務員のおっちゃんみたいなのが来たんだ。腕ひょろひょろの。だから、心臓ばくばく、○○さん休んでいんせえとか、駅員の中で、だめだ今度、あの若い何とかを来てもらわないとだめだとかって、そういう感じで。

鈴木 その駅の人にエレベーターかなんかを今度、設置、高架橋の、はい、ありがと。それいいよ、あんた食べな。

ヘルパー (笑)、ありがとうございます。

鈴木 高架橋を作るために、鈴木さん来てちょうだいって言われて。ところが私、自分のことでなかったら忘れちゃって、その日行かなかったの。鈴木さん何で来てくれなかったの?なんて怒られたり、いろんなことあんの。今度、駅また、駅長が変わったときも、お菓子持って挨拶に来られて、何でお菓子持って挨拶、私に来んだべなって思ったら、やっぱり三春駅が本当は磐東線管轄だから、そこ以外は全部無人の駅のはずなのに、私たちがいるから、そこに泊まりがいて転勤したくない人もいるわけだ、地元の人なんかね。そういうことになってたから、鈴木さん、駅長変わりましたので、ご挨拶に来ましたって。

土屋 すごい影響力ですね。

鈴木 ご挨拶に。

田中 何だもう。

鈴木 あ、そうみたいな。

土屋 街になくてはならない存在になって。

鈴木 ならない存在。ところが、私が震災になって、こっちに来ちゃったら、1週間に1回は使えなくなったみたい、無人駅になっちゃった。

田中 本当ですか。途端にですね、それは。

鈴木 そう、途端に。それはとにかく1カ月に1回でもいいから、もう1週間に1回何曜日はみんなで交代で、郡山用事なくたっていいから駅に行ってこいって言ってた。それが、やっぱ自分のこととして考えなかったんだべね。そんなんなると思ってなかったんだね。ほいで、結局、そんなふうにしてたら、で、今は、何時から何時までの間しか介助できませんみたいなことを言われて。だって葬式だ何かで、突然、1週間前に言わないとだめだとか言って、葬式に行けなくなるじゃんって言ったら、まさにそのことが起きて、うちらのメンバーのお父さんが亡くなって、新幹線で帰って来いって、だから電話かけたらば、1週間後しかだめですみたいな。だから、

田中 権利条約のあとでもだめですか。

鈴木 うん。

田中 差別解消法のあとでも。

鈴木 私、震災のあとにも行って、次の日に仙台で話があったら、次の日に行くよっていうふうに連絡したら、1週間前に言わなきゃだめだとか言って、何ふざけたこと言ってんのって、もう1日前だって何だって、ほかの地域でだって、どこの地域でだって対応して、今まで郡山の人だって何だって対応してたのに、何で1日前に言ってできないの?明日。明日、私は、何だかんだそこに仕事で行かなきゃなんないんだから来てくださいっつったら、いやあ、どこの鈴木さんだべとかいう、そんなことやってて、ほんでもう、ビシバシ言ってあげて、もしあれだったら仙台陸運局にも言うからみたいに。ちょっと待ってくだんしょみたいな感じで。明日何とか対応しますみたいなことを。だから、結局強く言う人だけが、

田中 だけが、そうですよね、本当に。

鈴木 そう。で、言えない人には対応しない。そういうふうになっちゃうから、とにかく障がい者のほうも使わなきゃなんないし、こっちもちゃんとアプローチしてかないとだめだよって。で、郡山の人たちなんかも、たまにしか来ないし、昼間しか来ないしだから、白石くんもうちの理事の1人になってくれてるから来てるけど、昼間しか来ないから、昼間は対応するって言うわけさ。ちょっと前に言えば。それもあいかわらず前に言えばだからね。でも介助者連れてくから、結局はできちゃうんだよね。

土屋 福島の青い芝の人たちがすごい戦っていたのを今もやってる感じの(笑)。

鈴木 そうだね、だから、

田中 重要だね。

鈴木 やっぱ手抜くと本当にあっという間に、逆波で、

田中 戻ってしまう。

鈴木 もう後退してしまう。だからやっぱり、運動やってるっていうの疲れるよね。

土屋 本当にね。

鈴木 気がついた時点で。で、私は震災になってから、震災になったときに、みんなトイレの電気を消し始まったんだよ。便座の電気をね。あれだけだってすっごい節電だし、自動販売機の電気も電源もぐっと下ろしたでしょ。トイレもあんなん当たり前だって思うわけさ、東京の便座なんかあったかくなくたって大丈夫だみたいな、そういうところが、いろんなとこ、便座で節電のために便座消してますって書いてあるところは、もう事務局に行って、いいと思います。

一同 (笑)

鈴木 それでいいと思いますっていって褒めてた。ほんで、便座ついてっと、私、必ず、みんなぱっちぱっちみんな消して歩いて、

土屋 消して歩く。

田中 私も消すほうですね。時々、何かすごいのありますけどね。

鈴木 そういうふうにやった、いやあ、運動やっていくっつうのは疲れるわみたいな。

田中 でも桑名さんなんかは結構年齢離れてるでしょう?

鈴木 うん。

田中 割と下ですよね。

鈴木 下、下。七つぐらい。

田中 やっぱりどうやってつながりってあるんですか。学校の関係?

鈴木 彼女は小学校に上がる前から療育センターにいたから。

田中 いましたね。

鈴木 もうずっと彼女は、養護学校の始まって以来の天才だって言われてるぐらいIQが高い、二百なんぼとか何だか、大人の中にいたから、すごいIQ高い子だったから、だから福大に入るはずだったのに福大がテストは受けさせても入学はさせないとか、

土屋 テストは受けさせるって言ったんですか。

鈴木 言ったらしいよ。だけど入学は許さないって。で、バークレー大学に行って優秀な生徒10本の指に入ったんでしょ、彼女は。

土屋 すごい。

田中 何か卒業するときにね。

鈴木 卒業するときに。ひえー、どのぐらい高いんだか私なんかは全然わかんないけど、まあ高いんだべなみたいな。

土屋 その療育センターに来てて、

鈴木 そう、それとお父さんが養護学校の先生、

土屋 先生でしたね。

鈴木 だから、お父さんとのほうのつき合いのほうが年的には近いかもしんないよね。で、私、同窓会の役員もやってたりしてたから、年に1回の集まりとか、あと年に1回のほかに、学校の卒業式とか、同窓会入会式とか、そういうので集まって、ほかの人よりはちょっと養護学校に行ってたりしてたり、ほんで、桑名敦子の話も、でもほとんどつき合いがあるわけではないけど、やっぱりあそこの同じ釜のめしを食った兄弟、姉妹みたいな、

土屋 やっぱりそういうのがあるんでしょうね。

鈴木 そんなんでしょうね。私たち百姓やってたとき、電気のまだないときだけど、スイス人が遊びに来たことがあって、3カ月ぐらい居候してて、そのスイス人が徴兵制を逃れるために世界一周をしてた人で、いろんな話をしてくれて、話を聞いて旅に行きたいねっていうことになって、私たちも旅に行ったりしたのね、うちの人と2人で。そのときに、最初、インド、ネパール、バングラデシュ行って、ほんでそのときアメリカに行って、アメリカで稼いでオーストラリアに行くべとか、1周しようみたいなぐらいに考えて、ほんでアメリカに行くときには、桑名敦ちゃんとこに泊めてもらおうみたいな、もうクモの糸のような細さであっても、昔っからのおつき合いの感じの顔で、でも、結局は体調崩してアメリカには行ったけど、戻ってきちゃうんだけど、私らはね。

田中 じゃ、やっぱり、あの学校の存在は、それなりに意味があるというか、つながりを作る場ではあった。

鈴木 そうですね。そういうつながりのあれで、やっぱり、うんっていうふうな。今、彼女なんかハワイだもんね。

田中 そうですよね、うらやましい。

鈴木 時々、頭のブーケだかなんだか作って、今日もこれ作りましたみたいな、今日もサーフィンやってきましたみたいな写メをFacebookに流してるけどね。もう悠々自適のだんなの年金で暮らしてんでしょう、財産でね。そういう人生もあるんだなとか思ってね。うちの人と同い年ぐらいなんだよ。うちの人も私の養護学校の同窓会によく参加して、同窓生に、あれ、(夫を見て)おたくいましたっけ?いましたよ。誰と同級で?桑名敦ちゃん、あーなんつって。いたねとか、敦ちゃんは賢かったのよとか何とかって、もう私より同窓生みたいな顔して。

田中 (笑)

土屋 面白い。

鈴木 みんなに、同窓生の1人みたいな顔して、

土屋 顔して、一緒に行くんですね。

鈴木 ほいで、強くんに何か、おまえは匡、おまえは絶対障害者手帳もらえる、行ってこい、診断書絶対もらえると思う、俺は。保証するとか言って、それって、喜ばしいのか、喜ぶかいみたいな。

田中 なぜ手帳をすすめるのかがわからないけど。

鈴木 わかんないの。絶対おまえは、手帳をもらえるとか言って。

土屋 そっか、もう気持ち的にはこっち側みたいなそういう感じで。面白い。私、でも思い出しましたけど、絹江さんのところに行ったときに、何かすごいびっくりしたのが、ヘルパーさんが、女子高生のヘルパーさんが入ってたんですよ。制服で学校帰りに来て、何かすごい家事とかやって、それでここ携帯入んないんですよとかって当時の女子高生がやってて。それで、高校生ヘルパーやってるんだって思って。

鈴木 そうなんだ。だって、船引なんか大学ないから、もう高校生を、ほいで船引高校がたまたま家政科っていうか、福祉コースを特徴にしようとした時代だったんだわね。そこで、レベルを高くして、だから郡山から来てたのよ、あの子たちは。地元の子も何人かいたけど、郡山から来る子がいて、4人の女の子たちのグループがいて、ほんで1人始まったらみんな誘ってきて、4人が交代で、最初はジャガイモの皮もむけない子でした。でも中にはやっぱり親が働いて母子家庭だから、お料理上手な子もいたけど、リンゴの皮むくのにピーラーありませんかとか言われて。ピーラーでむくのかいみたいな、ちょっと。

田中 どんな皮の厚さになるのって。

鈴木 だから。そういう感じで育てた感じだよね。

土屋 当時、何か作られてた輝く女たちの映像も、すごく何かヘルパーさんがたくさん入って、すごいこんな人口の少ないところで、ちゃんとヘルパーさん入れて生活してるんですっていう。

鈴木 だから、それはあれ、ほとんど学生4人がローテーション組んで、昔はそんな時間数も取れなかったでしょ。だから、本当に短い時間の中で、学校帰ってきてからやるのと、朝も入ってたんだべか、朝は入ってなかったような気が。朝は普通のヘルパーが入っててとかいう感じだったと思う。土日なんかは学生たちがやっててみたいな。

土屋 でもすごいちゃんと役場と交渉して、一つずつ勝ち取っていって、すごいですね。

鈴木 そう。最初、だから、貞美さんってやっぱ24時間っていうのが介助必要な貞美さんがいたのに、月に125時間しかだめだなんて、厚労省が出したあのあったでしょ?あれしかだめだとか。

土屋 2003年の。

鈴木 うん。で、そんなのおかしいべっていうふうに、何度も何度も交渉して、私なんか交渉に行くと、鈴木さんはどこが障がい者なんだい?っていう役所の人が突然いる。どこが障がい者?。それってどういうふうに答えたら、それ差別で、障がい者はイコールばか、障がい者はイコール考えられない、障がい者はイコール意見を言えない、障がい者はイコールそういう制度に詳しくないみたいな、そういうステレオタイプというか、障がい者が健常者に刃向かうっていうことなんかあり得ないと思ってるわけだよね。口が達者で、自分より賢いこと言わないって思ってたわけじゃない?ところがばりばり言われるし、ましてや女だし、面白くないわけじゃん。そういうことに対してすごく向こうの、

田中 保守的ですよね。

鈴木 そう、すごい保守、船引は、石橋たたいて渡らないっていう格言。

田中 壊しちゃうみたいな。

鈴木 石橋たたいて、渡んねえのかいみたいな、壊す、

田中 壊しちゃうぞみたいなぐらい(笑)。

鈴木 うん。言われたの、県の人に。鈴木さん、田村船引じゃなくて、隣の三原町で住んだたら、もっと進むぞえって。何でここにしたの?って。そんなこと言ったって、

土屋 そんなこと言われても。

鈴木 住んだのが船引だし、船引でやるべって思ったわけだからね。一時期三春に支店作っかなんて、ちょっとちらっと思ったりもしたけど、三春は三春で、親の会の作業所とかがあったから。

土屋 別の何かルートでいろいろできていて。でも、役所の人なんて本当におじさんで、男性ばっかりだし、何となく船引、女性が何かやってるイメージがすごく強くあるんですけど。

鈴木 そう。行けば、私が最初始めたら、やっぱり女の人のほうが集まる率が多いですよね。

土屋 あのビデオ見てたからかもしれないですけど、最初にあの勉強会やったときも女の人が多かったですよね。

鈴木 そうなんです。男がなかなか集まらないというか、今若い子の中には男の子もいたりするけど。結局、彼らたちが、作業所に来始めたときに、私はもう原発事故でふらふらの状態になって、こっちに避難してきてるってかたちだから、本当にもったいないというか、おしいといいうか、仕事を途中半端というか、そういう思いはある。職員も男の人が入ってきて、一生懸命やったりしているんだけど、その人たちに何にも運動的なところは引き継げないで、ただの普通の事業所であるわけね。

土屋 絹江さんがいらっしゃったら、ちゃんと運動のこととか考え方とか。

鈴木 そうだね。うちの人とか、私とかがいれば、うちの人は福島に通っているけど一日の会議だけだからね、出てくるのは。もう譲るっていうふうに思ったんだから、もうしょうがないことではあるんだけど。だから、よくもってると思って。

土屋 でも今も絹江さんが理事長なんですね。

鈴木 理事長。誰も引き継いでくんないから。

土屋 そうなんだ。

鈴木 ほかの人にちょっと一回。

土屋 やっぱり頼りにしてるんですかね。

鈴木 まあ最終的にはね。職員たちはやっぱり、ほかの人にちょっと一回どうかとか、あと私は白石くんたちのところと合流してもいいんじゃないかんとか、そういうふうにいろいろ思ったりもいてるんだけど。ある人に譲ろうと思ったら、あの人が代表だったら私、その泥船には乗りませんとか言われて。

土屋 泥船。

鈴木 うん。そこまで言うかいみたいな。信頼を勝ち取るっていうのには、なかなかそれなりに、理事長はやっぱり実績を示さなくちゃなんないし、いろいろトラブルがあったときにちゃんと解決するとか、そういう姿勢を見せないとならないということです。ところがその人は(推薦された人は)そういうことに、あんまりわかんないうちに解決しといてみたいだと、やっぱり信頼は勝ち取れないよね。だから、その人は無理だってこと。白石くんたちとの合流っていうのは、まだ、もしやるってなって、白石くんがOKってなればなるとは思うけど、そのままうちの中引き継いでいけるかどうかっていうのは、まだわかんないね。辞めるっていう職員も出るかもしれないし、今までどおり、とにかくシステムは動くようにはしてきたから、結局今までどおり動いてんだよね。何とか新しい職員も入れたりしながら、何とか動いてるから、よくみんな頑張っているなと思ってね。いざって言うときに何か困ったときにはうちらにメールが来たり、Skype会議に出たりとかはしたりはしてるんですけど。

土屋 白石さんとかとは、今も連絡を取ってるんですか。

鈴木 私、ほとんど、たまに。うちの人は、運営会議に月1回出たときに、白石くんも一応、運営、理事会なんかのときとかは、運営の会議にも出てくれているので、そのときには顔を、

土屋 じゃ、そこで会って。

鈴木 うん、会って。ほんで、うちらのは、白石くんたちは、人数たくさんいるけど、結局、昔っていうのは健常者タイプの人が多いと。うちらは、うちらも健常者がシステムの動きはそうだけど、一応理事会や運営会議では、障がい者が過半数以上いるように。で、自立生活センターの活動っていうのは、その人、彼女たちに任せてるから、そこで年に1回の福祉セミナーやったりとか、介助者募集するためのリサイクルショップやったりとか、いろんなことはそれなりに、ぼちぼちだけど動いているので、そういう意味では、オフィスは白石くんがいなくなったら、本当に誰が動かすんだべっていうところがあるけど、私んとこは、私がいないけど、何とか辛うじて、動いてるっていう。ほんで個別支援のところで、若い人を自立させるってなかなかうまくいかないでいるけど、でも、それを本人とセッションしたりとか、自立生活したいんだとか、アパート暮らししたい。で、親に言ってみるとか、介助を入れてみるとか、そういうことも少しずつだけど動き、進めてはいる。それは白石くんたちのところではどうなんだろう。ほかの障がい者が白石くん以外の人がそういう声かけをしてやってるっていうのは、あんまり聞かない。介助者がしっかりしてるって言えば、しっかりしてんだろうけど、その人たちがやってるの。障がい者がリーダーシップ取ってるっていうところでは、白石くん以外どうなんだろうっていうのは郡山は郡山である。まあ、宮下さんはいるよな。

田中 ミヤシタさん。

土屋 ミヤシタさん、そうですね。

鈴木 宮下さんは、別のところで相談事業やってるからね。

土屋 福島のFILってありますよね。あれで結構、福島県内のCILの人たちってつながりがあるんですかね。

鈴木 そうだね、つながりがね。

土屋 それもやっぱり何か養護学校関係とか。

鈴木 そうだね。福島は角野さんは、橋本くんが1回千葉のベテスダホームっていう施設にいて、そこで知り合って、角野さんが自立生活したいっていうのがあって。で、そこに設楽くんっていうのが、須賀川の子なんだけど、福島で健常者の中手君と、自立生活センターを中心的にやって。ところが、中手君が原発事故で避難したっていうところで、設楽くんは精神的にぐらぐらになっちゃって、奥さんと2人で、もう辞めちゃって、今は、郡山のほうにいるけれど。だから、今、FILとしての活動は多分、停滞してやってないんじゃないのかな。福障連としての運動団体としては、だから福島はほとんどもう誰が、まあ角野さんが一応代表になってあれだけど、もう眠狂四郎みたいな。多分、会議に出てくっても、ほとんど居眠りしているっていうぐらいの角野さんと聞きました。だから、誰が障がい者のところでリーダーシップ取ってるかつうと、やっぱ健常者なんじゃないのかな、あそこはね。いわきもそうだしね。

土屋 そっか、長谷川さんとか。

鈴木 うん。だから、辛うじて障がい者っていうところでは、郡山と船引とっていうふうな、辛うじて、どっち(障がい者も介助者)も力は必要なことだから、それはあれなんだけども、会津はもう抜けちゃって。でも会津も障がい者が頑張ってはいるのはいるみたいな感じだけど、FILからは抜けた、自立生活センターからは抜けたみたいにはなってるからね。いわきは、鈴木みのるさんっていう人がいたんだけど、あの人は長谷川さんと合わなくて、別に自分で事業所立ててあれしたんだけど、去年亡くなっちゃったんだよね、突然。突然亡くなったのね。突然死だね。そのあとはどうしたかなっていうのは、ちょっと心配ではあるけれども。やっぱりどちらの力も強すぎてもね。ハセガワさんっていうのは、労働者運動からきた人なので、やっぱり労働者の待遇を改善したいっていうんで、労働者の立場からどうしても障がい者の介助のところでも、いろいろ言ってしまうとこもあんのかな。でもそれでも、よくやってる人ではあるとは思うんですけどね。

土屋 もうお疲れじゃないですか。

田中 大丈夫ですか。

鈴木 そろそろ横になるかね。

田中 何か、私、お子さんの話とか聞いてなかった。結婚のあと、その1歳、2歳ぐらいで連れてったぐらいしか聞いてないから、その辺、子育てのこととか、ちょっと聞きたいかなって。

鈴木 そうだね、子育てね。子育て。生まれて、それで、やっぱり歩かせられないと思って、1歳のときから一生懸命、娘のリハビリなのか、散歩なのか、私のリハビリなのかわかんない。隣の家まで歩いて、連れていって。で、娘は私が杖ついて歩いてるから、自分も杖が欲しいって言って、うちの人に。

田中 かわいい。

鈴木 杖を作ってもらって、ほんで、棒をこうやって渡したら、私の杖はこうなって、こうなってるじゃない、で、これがないと、これだけではだめだと、これは杖じゃないつって、で、ここにこういうふうに横棒をつけてもらって、

田中 持つところ(笑)。

鈴木 持つとこを作ったりして、一緒になって、こうやって杖ついて、行くときはあれなんだけど、帰りにはドングリいっぱい拾って来るから、本当、手にも持ってるしで、で、杖忘れてくるんだわ。

一同 (笑)

鈴木 ほんで、杖忘れて、ほんで思い出すんだな、帰ってきた頃に。で、杖がないって騒いで、ほんでうちの人がしょうがなくて、夕方、また暗くなってから、懐中電灯持って杖を探しに行って(笑)。

田中 いいパパだ。

鈴木 行ってきたりして。そんなこととか、まあ、イチゴの話は本に載っているので。

土屋 書かれていました。

鈴木 私が種まきをよくやっていると、私のやっぱ近くにいるじゃない?で、種まきいろいろやってて、東京カボチャが何個とか、こっちには、ホクホクカボチャが何個とかやっているうちに、自分も種まきやりたくなるんだね。お母さん、私もやるとか言って、これ種袋持っていきそうになるから、これは高いの1個10円もする、だめだめとか言って、その辺からもらった、銀行などがくれるお花の種もらえるでしょう。それを娘にあげると、一生懸命こうやって種まいて、ほんで、水をやったりするんだわな。カボチャの種をまきましたなんて歌教えながら、まいてやっていると、なかなか芽が出ないわけだよね。そのうちもう、その辺に落ちてる葉っぱ入れたりとか、石ころ置いたりとか、そのうちもう待ちきれずに、鉛筆立ててたりとか(笑)、してる。もう、本当に芽が出る間がない、忙しくて(笑)。っていうふうなことをやったりとかね。

田中 学校って近くにあったんですか。

鈴木 近くって、

田中 結構歩いていく?

鈴木 1キロちょいはあったんかな。1キロ以上あったのかな。その学校行く1年前に幼稚園に、学校の隣になるので、それんときに親が送りながら練習をして、ほんで、車がめったに通るところではないから、大丈夫なんですけど、で、車が来たら、動かないでずっと待ってて、車が行ってから通るんだよとかって教えると子どもはそのとおりにやるんだわね。大体、車が通るっつうこと自体あまりないような山奥にいたから、そんなに車を運転するほうの人も気をつけるから、大丈夫なところではあるんだけど、本当に。おらの街には信号がねえっつうけど、うちは信号が一つあったな。

一同 (笑)

鈴木 一つだけある。小学校の前に一つだけあるみたいなところで。

土屋 じゃ、小さい頃は、匡さんのお母さんがお手伝いに来てくださったって、本にはちょっと書かれていましたけど。

鈴木 うん、手伝いに来たっていうよりも、

土屋 会いに来たって。

鈴木 んだね。ちょっと孫かわいくてね、洋服買うのがとても好きなお義母さんだったから、子どもの洋服を。だから、私なんか子どもの洋服買った記憶がないぐらいに、お義母さんは女の子欲しかったんだな。だから、もうふりふりの洋服を着せたくて、いや、私こんな山ん中で、こんなふりふり、合わねえ。私は、スパッツとかショートパンツとか、

田中 動きやすいので。

鈴木 そういう男っぽいやつので育てたかったんだけフリフリ(フリルの意味)かえみたいな、そういう洋服買って着せてましたね。買ったら、うん万もするやつだから、もう、どんな服でも着れればいいわという感じで着せてて、夏ちゃんはどこのお姫様だい?なんて言われるぐらいに、フリフリの洋服を着ていたね。いろいろ最初は、あんな、育てられるわけねえべとか何とかっていろんなことを言ってたけど、でもまあ、そうやって、

土屋 お義母さんにですか。

鈴木 うん。でも、私らお義母さんたちに何か手伝ってほしいとか、お金欲しいとかそんなこと言ったことないから、何とか自分たちでやってくんだっていうふうに思ってたんだべね。ただ、かわいくてしょうがなくて、ミルク買って送ってよこしたり、おむつ買ってよこしたり、洋服買って、洋服なんか本当に買ったためしがないというか、お義母さん大丈夫なんですよ、やってるんだから大丈夫なんですって言っても、あれ、洋服屋に行くと、見ると買っちゃうんだべって。

土屋 ついついね(笑)。

田中 かわいくてしょうがないんですよね。

鈴木 まあね。で、その次に弟の子どもも生まれたから、もう、ちょっとおっきいの買っといて、夏に着せて、だめになったらすぐに下にもういるからねっていうふうな感じで。お義母さんにもそういう意味では助けられたというか、洋服買わずに、ワンシーズンで終わりだから子どもはね。

田中 そうですよね。どんどんおっきくなってるからね。

鈴木 ワンシーズンで終わりだからそれを買ってもらえて助かりましたよね。こんな山ん中でってお義母さんも山ん中で育ったから、山ん中嫌で街ん中に出てきた人なんだけれど、うちの母親もそういう人なんだけどね。こんな山ん中なのに、ようく人来るなって、びっくりするぐらいの。そんな感じで過ごしてたね。隣がやっぱ一山越えてたから、隣、遊びに行って来たらつったって、大変なんだろう、行くだけで。行くだけで大変だかんね。だから幼稚園とか保育所、少し、3歳くらいになってから、保育所にも通わせてたの。うちの人が送り迎えしてね。保育所にも通ってたりしてたから、送り迎えでもうちら金がないから、今年は10万円のパソコンを買うか、車を買うか。10万円、えっ、パソコンと車っておんなじ値段なの?みたいな。

田中 本当ですね。今、私もあれっと思ったけど。

土屋 確かに。

鈴木 同じなの?つったら、同じで買えるとかって。おーとか思って、あるとき、うちの人がその軽の車の足元見ると何か景色がすーすーってこれ何か動くだよ。何でだべって思ったら、車の底に穴空いてるの。だから、あるときうちの娘を幼稚園の帰りに迎えにきたときに、カランカランって音したってい言うのよ。で、どうしたの?ってつったら、ブレーキ踏んだら、ブレーキが後ろに落っこっちゃって、落ちちゃったんだって。

田中 すごい車だな(笑)。

鈴木 だから(笑)、さすが10万みたいな感じで。で、えーと、ほんで帰ってきてから言うんだよ。えー、本当にどうしたの?電話かけたがさ、自動車屋に。こういうわけで、ブレーキの何かはずれちゃったみたいだから、迎えに来てって言ったら、今代車もないし、鈴木さん、動くのかい?それ、動くわね、ブレーキ踏まねえで来たればいとか言って、えー、そんなこと言うてから、田舎だからね、

田中 (笑)

土屋 こわ(?)、そっか。

鈴木 車通ってる車がないから、ほいて、それがまだぷるんったら、ぷるんって動くんだと。ほんでシフトダウンで帰ってくれば大丈夫だからだとか言われて、

田中 大丈夫かわかんないけど。

鈴木 ほんでシフトダウンでエンジンは動くんだよねとかって言って、えーって、娘は娘で、お父さん、何か今、音したよ言って、そんなんで帰ってきた、大丈夫だったのかい?なんつって。そんなこともあったりとか。だから、ちょっとあとに、ボタン押すと、こう窓が上がり下がりするのを買ったじゃない?ほーったら、うち娘びっくり、それまでこれだったから。

田中 くるくるだね。

鈴木 びっくりして。お母さん、ボタン押すと下がるんだよ、上がるんだよって、それうちの人に、自分の家族に言ってんならいいんだけど、ほかの人に、あのね、何とかくんね、うちのナツのおうちのね、車はね、ボタン押すとびーって(窓が)下がったりするんだよ。今みんな誰でもそうなんだけれどね。

一同 (笑)

鈴木 うちらが、もう貧乏暮らしばっかりしてたから。で、うちの娘は学校1人で帰ってくると、学校のトイレが怖いんだな。水洗ではあるんだと思うんですけど、間に合わなくて、途中でうんちしたくなっちゃうんだな。ほったら、あのね、途中でね、うんち出たくなったから、やってきたの。でね、棒立てといたから踏まないでねとかね。えらいとか言って。そしたら、うちのイヌがあとから行って、ぺろり、きれいに食べちゃって。えーって、パズーが食べた、ばかパズーが。それまでパズーとかってかわいいイヌだったのに、そのパズーは、おなかすいてたんだばい。で、人間のうんちなんかは栄養価値高いから、そこに行って食べちゃって。

田中 栄養が。

鈴木 そんで、そのあとで、ペロペロって顔なめっから、

田中 それはちょっと、

鈴木 そのあと(?)それは大嫌いになっちゃって、

田中 あら。

鈴木 イヌは。パズーじゃなくて、アンナだかな。雌イヌでおなかおっきいときなんじゃないかな(?)、もうニンジンなんか生でかじってたから、うちのイヌね。

土屋 すごい。

鈴木 ほんで、その娘のうんちも食っちゃったつって、娘、怒るわ、怒るわ。何で食べるの?私のうんちとかって言うのね。棒立てといたのにとかって。

田中 (笑)

鈴木 そういう細い棒を、とにかく学校帰りに取ってくんだっけ。お父さん、薪拾ってきたからねとか言って、割りばしくらいの取ってきて、ほんで、ありがとうねって、助かった?お父さん、助かった、助かったって言って。だから、親なのでやってるのを見てるから、そうやって薪拾いいつもやってて。拾ってきてんだなとか思いながら。田んぼのあぜ道通ってきて、アカハラ拾ってきて、アカハラってわかる?ヤモリみたいな、はらんとこが赤いやつ。

田中 赤いやつ。

鈴木 背中が黒くて。それ拾ってきて、ほんでお母さん拾ってきたのこれとか、

田中 それ拾いますか、普通。

鈴木 あとしましまのヘビ捕まえて、ぶつって刺して、これいたよとか言って、おお、おおとか。

田中 すごい収穫だな(笑)。

鈴木 びっくりみたいな。ターザンみたいな生活してたからさ。もうアルプス少女ハイジ超えてますなあみたいな。

土屋 (笑)

鈴木 ほんで、アカハラ捕ってきて、お母さん、育てんのにどうしたらいい?とか言って、そうだ、まあ、いいや、じゃ、金魚鉢に入れとくかつって、金魚鉢臥せて、そこに入れといて、蓋して置いたんだけど、毎日拾ってくるから結構な数になってくるわけよ。

田中 毎日。

鈴木 5匹、6匹、7匹、10匹ぐらいになって、ほんでそれ以上増えてきて、こんなに、だめだよ、そんなに入らないのよ、これ餌もないしって。それ以上増えないんだよ。10匹以上入れてんのに。で、何でだと思ったら、

田中 食べてんのか。

鈴木 共食い始まっちゃって、ああとかって、共食いするんだとか。餌もやんなかったからね。夏、だめなんだわ、これでは。何でお母さん増えないの?みたいな。子ども、赤ちゃん生まれないねとか言って、そらそうだなみたいな、感じ。

田中 すごいですね、生活。

土屋 絹江さんの周りでは、障がい持ってて、出産された方とかっていらっしゃったんですか。

鈴木 ううん、私、だから、うちのワタナベ貞美さんは私より一年早く、

土屋 上ですよね。

鈴木 彼女は産んでで。あと高橋玉枝ちゃんなんていう子も福島の輝く女たちの、

土屋 出てましたね。

鈴木 あれの中で、彼女はもっと早いんじゃないかな。

土屋 じゃ、そういう方々を見ていて、っていうか、ご相談したりするんですか、ここのこの病院がいいよとか。

鈴木 そんなこと全然してないかもしれない。

土屋 そんなことはしない(笑)。

鈴木 自分たちでみんな、もう自分たちで見つけたみたいな感じだわね。だから、玉枝ちゃんなんかは、3人目は女医だったとか言ってたよね。だけど、おろしたほうがいいとかなんか言われたっていう。あそこは、でも、多分2番目か3番目が、HD何とかって言ってた。

田中 ADHD。

土屋 ADHD。

鈴木 ADHG。

田中 発達障がいですか。

鈴木 発達障がいっていうか、片づけられない症候群みたいな、あるじゃん、片づけ。でも、考えてみたら玉枝ちゃんもそうなんだわ。片づけられない人。もう自分の目の前にばーと、ジャーもあれば、ここにビデオ見たとき、玉枝ちゃんこれ、ほんで、片づけろってだんなに言われるって言ってたもん。私も、片づけたほうがいいんでねえかって。もう歩くの大変みたいな。で、うちの子どもは、HD何とかかんとかなんだとか、片づけられないんだよねって、でもそれって、しょうがないんじゃないのかな、とか言わなかったけど、大丈夫生きていけるよ、それだって、十分大丈夫みたいな。あと郡山には、もう1人、彼女、佐藤さんって言ったんだけど、秋本さん、結婚して秋本さんになった。彼女のだんなも、美貴子さんの旦那もそうだけども、自殺、自死なんだよね。秋本さんも、恵子さんはでも、私らよりも、ちょっと年が小さいのかな、子どもが。いや違った、先のような気がしたんだけどな。彼女も郡山で子ども産んでいて、美貴子さんとか、玉枝ちゃんとか、秋本さんなんかは同じぐらい。美貴子さんも1回子どもできたんだけど流産しちゃったんですね。そのあとできなかったんだよね。

土屋 結構周りでは、子育てしてる人もいて、

鈴木 そうだね。

土屋 でもあんまり相談とかはしないんですか。

鈴木 相談ってはしないけど、でも、ピアカンをやったりとか、そういうときとか、あと集まったときとか、ちょっと、ピアカン的なことをやったときには相談みたいな話で、秋本さんちの子どもなんかも、学校の先生に……彼女の人生を聞くと、すごいなと思うんだけど。やっぱり学校の先生だかなんだか、親が障がい者だと何だとかだって言われたとかっていう、やっぱり差別的な扱いとか、秋本さん自身が、やっぱり養護学校に入れられたときに、彼女はすごい不自由なんだな、電動車椅子でやってるけど、手の緊張が強いのかな。だから、ご飯を自分でなかなか食べれなかったんだな。それなのに、郡山ではなかった、いわきの整肢療護園のときから、ちっちゃいときに、おなかがすけば自分で食べるべつって、ほったらかしにされたとか。ほんで、どうやって食べたの?って言ったら、イヌみたいに顔突っ込んで食べたとか。

田中 こうやって?

鈴木 うん。ヘレンケラーだね、まるでみたいな感じで、しゃべったこと、聞いたことがあんだけど、すごくやっぱり、屈辱的だったっていうふうに彼女は。施設だから、リハビリとか先生がいるんだから、最初は食べさせてくれるとか全然思ってたら、そんなんじゃなくて、おなかすけば自分で食うべみたいな感じで、ほったらかしにされたっていうふうな、それはひどいなって話とか、子どものことを親が障がい者だからちゃんと育てらんんねえから、そういう子になんだっぺみたいなこと、何か問題起きたときかなんかのときに、やっぱり言われたとか、彼女の人生もなかなか大変だなっていうふうなのをちょっと感じたことがあったね。

田中 絹江さん自身は、あんまりじゃ、子育ては困ることとか、そういうのは。

鈴木 困るっていうことは、ただむしろ、健康な子どもで生まれたから、どう育てたらいんだべって、何でもできるっていうのは、何か何でもできるっていうのは、何でもできないことだ、できないと、できることが唯一の道になるけど、何でもできるつったら、すべての道で、焦点が絞れないみたいな。だから、普通に育てばいいぐらいの調子でいて。むしろやっぱり、小学校んときよりも中学校になってからのほうが、やっぱりクラブ、部活なんかに一生懸命あれだったけど、普通だったら部活に参加すればお母さんがついてってとか、運転してとか、そういう普通のお母さん役ができなかったから、そういうところでは、彼女も私に、やっぱいつも障がい者で、いつも一生懸命やってて大変、仕事やってて大変だっていう思いがあるから、あまりいろんなものをおねだりしたりとか、頼むとか、来てちょうだいとかってあんまり言えないでいたのかなと。小学校のときに、いじめられた女の子が1人いて、その子が自分のクラスに、夏たちのクラスに入ってきて、たら、先生が、夏ちゃんのお母さんが障がい者で、夏ちゃんは障がい者に対して、理解があるんじゃないかって勝手に思っちゃったんだな。ほんで、その先生が、うちの子に彼女のこと、力になってあげてっていうふうに頼んだら、そのいじめられっ子だったんだ、その子は。ところが、うちの子も一緒にいつも先生に言われたから、まじめに助けなくちゃって思って、たら、いじめられっ子になっちゃって、いつも臭いとか、

田中 囲まれちゃった。

鈴木 汚いとか。シカトされるようなことになっちゃって、それが、5年、6年とかなったのかなっていうふうな時期があったね。そのときも、私あんまりよくわかってなくて、っていうかうちの娘があんまりそういうことしゃべらない、私が大変だっていうこともあったりとか、その頃私が、やっぱり事業所を立ち上げて、ぐぐっと成長させる時期で、自分が責任者だっていう思いとかあって。で、うちの人に言わせてみれば、うちの人は、あの頃が一番家庭的で、ちょっと荒れてたというか、何かもうこの家庭解散したほうがいいんでねえかって思うぐらいだったっていうふうに、お互いに助け合って生きるっていうふうなことじゃなく、自分のやれることみんな精いっぱいみたいなことだったっていうふうな。やっぱり金と人と責任が生じてくると、いろんな問題がやっぱり起きてきて、それまでの百姓生活と、娘が10歳のときには、3年生んときには街に下りてきたからね。百姓1回辞めて。その前に、本当は、娘が生まれる前に、インド、ネパール、バングラデシュ5カ月半ぐらいの放浪の旅に出るんですけど、それが終わって、娘が生まれて、少し10年ぐらいは百姓やってたんだけど、やっぱりこっちのほうの自立生活センターなり、作業所なりを立ち上げるっていうふうなほうに力がだんだんあれしてきて、結局、山の生活をやめて、街にアパートを借りて、そこで暮らすようになって、だからやっぱり娘も生活パターンが、今まで、一緒に田舎で、トイレに行くときもくっついて行ってあげるよなんて言ってた子が、ちょっと街の子になって、人間関係も変わったとこに3年生、4年生ぐらいに入ったときに、いじめられっ子に追っかけられて、まじめに、そのいじめられっ子を助けたら、自分もいじめられたみたいな経験になっちゃって、小学校6年のときには、でも、先生が仲介に入って、みんながごめんなさいって謝ったとかっていうふうなことを言ってていたけどね。中学になったらやっぱりちょっと生活態度変わったかな。部活活動、ソフト部をやって、一生懸命やってたんだけど、親があんまり協力的じゃなかった、私らが、協力できるような状況じゃなくて、仕事に没頭していたから、娘のことはちょっと犠牲にした部分はあるかなっていう不満はあるかね。で、高校いかなくたっていいんだぞみたいなことを私らは言ってたんだけど、高校いって資格取るなんて言ってたから、高校は行ったりはしてたけど、あんまりいい生活じゃなかったかもね。その頃は、最後の10年、事業所立ち上げてからつうのは、事業所立ち上げることに精いっぱいだったっていうか、事業所には、障がい者がどんどん増えてくるでしょ。その人たちって、一般の運動会に出たことがないとか、海に行ったことがないとか、何かあったりすると、私は、夏になったらみんなで海に行くべって言うと、娘は海に行きたいって言うんだけど、私はみんな障がい者が行ったことないから、みんな障がい者を連れていきたいんだわね。みんな、じゃ、一緒に行くべって言って、そうするとすごい注目を浴びるわけだよね、障がい者ばっかりだからね。で、そこに娘が1人いるわけで、娘に言われたことある、私はお父さんとお母さんと夏で3人で海に行きたいのに、何でいつもこんな障がい者の人たち連れていくの?っていうふうに言われたりとか、あと、運動会のときも、私が、見たことないって言うから、じゃ、行くか、今度娘の運動会だからみたいな感じで、おにぎり作って、のり巻き作ってさ、みんなで行って、障がい者ばっかりいるわけだ。夏ちゃんのおうちって、障がい者いっぱいいるんだねとか言われるわけだ。ほんで、何でお母さん、みんなのこと連れてくるの?って。ほんで、さとみ(仮名)ちゃんってその1級先輩の貞美さんの娘は、さとみちゃんって言うんだけど、さとみちゃん、貞美さんは決してそれをやらないの。自分の仲間がそういうふうにいるのに、自分の障がいさえも隠すようにして娘のところに行くっていうか。だから、うちの人が、貞美さんが離婚しちゃったから、貞美さんが父兄参観で行かなきゃなんないとかってときに、送っていったりすると、さとみちゃん、お母さん、夏ちゃんのお父さんとだけは来ないでって、何で?目立つから来ないでっていうふうに、貞美さんは、障がい者運動に巻き込まないように、子どもを育てるっていうのを目標にした人だから、すごくそういうところで合わないの(笑)。でも、自分が障がい者運動の中で、本当に助けられて生きてきた人なのに、子どもをそういうところには巻き込まない、私だって巻き込みたくて巻き込んでるわけではないけど、どうしても、娘ももちろん運動初めてだけど、ほかの障がい者が見たことないな。そんなに運動会だって1年に1回しかないわけだし、だから1回ぐらいは連れてってあげたいなとか、普通の運動会体験したいんだっぺなとか思っちゃうと、私の中で娘も障がい者もみんなイコールになってんだね。でも、娘にはやっぱりお母さんとお父さんと3人だけで行きたかったんだっていうのがあったみたいで、それは言われたことがある。そっかみたいな。やっぱり自分のことは特別な扱いでいてほしいっていうのが、子どもはあるよね。それがなかなか私の中では、ほかの障がい者ができなかったっていうのが、やっぱりどっかで引っかかるところなんだろうね、どうしても。だから、そこで連れていってしまうという(笑)。

田中 じゃ、反発されたりした時期もあったってことですかね。

鈴木 そうだね。

田中 そういう中学生ぐらいとか。

鈴木 中学生ぐらいんときね。高校生になって、もう高校のときなんか、本当に、もう親と関係なくなっていくから、高校はだんだん友達といたほうがいいみたいな感じになってた。ただ、この子はもうちょっと違う育て方ができれば、遊歩と宇宙ちゃんの関係性なんか見てると、本当に、べったりといろんなことをしゃべってきた。私はそういう意味では、あんまり、かわいそうだから私ができることはつって、料理はさせなかったし、洗濯ものだって何だって、いっつもたたんであげてまでね。でも本当は一緒にやるってことで、整理の仕方とか、お料理の作り方とかも教えればよかったのに、自分ができることは、くっついてあげるとかそういうことできないから、やれるところは私がやっちゃってあげてたっていうか。でもそれは本当はよくなかったんだなっていうふうに、あとから、本当にお料理なんか何も教えないでお嫁にいったようなもんだから、苦労したっぺな。ほんで、ましてや、うちの子もベジタリアンだから、だんなが肉食べる人なのに、肉料理も教えてないであれしたから、ちょっと大変だったろうなっていうふうなのはあるかな。

土屋 で、娘さんは今、京都にいらっしゃるんじゃないんですか。

鈴木 ううん、千葉に。

土屋 千葉なんですか。

鈴木 就職したのが千葉で、千葉のサービス業やりたいっつって、チェーン店の和食屋さんみたいな、そういうとこに勤めて。でも体壊して帰ってきちゃうんですけどね。で、体壊して帰ってきた頃に、震災が今度はきて、また働くっつって戻って、免許だけ取って戻って、ほんで向こうで出会った人と一緒になっちゃったんだよね。

土屋 じゃ、また千葉で。

鈴木 うんそう、千葉人。で、千葉で。

土屋 そっか、じゃ、ちょっと遠いんですね、ここからは。

鈴木 そうですね。で、子ども2人いるんだね。4歳になったのかな、4歳と2歳ぐらいになるね。

田中 割と早く結婚されたんですか。

鈴木 そう、24、今、28才。

土屋 90年に生まれたら、今28かな。

田中 28。

鈴木 じゃ、28に今度なんのかな。

土屋 そうですね。子ども、お子様4歳だったら結構若く23とか、

鈴木 24、5前で結婚したのかな。

土屋 若いですね。

田中 ほんなら高校、大学も行かなかった?

鈴木 ううん、行かなかったの。

田中 じゃあ、高校出て働いてっていう。

鈴木 そうそう。

土屋 私、10歳ぐらいだった夏さんと会ってるから、

鈴木 そう。

土屋 すごい感慨深い(笑)。何かあのとき、

鈴木 そこに写真がある。

土屋 そうそう、ちっちゃい。

鈴木 うちにもあれ、何だか、おばあちゃんが亡くなった13回忌のときに、まだ福島にいるときの。

田中 かわいい(笑)。

鈴木 そっちはそれ孫ね。

田中 これそうですよね。こっちじゃなくて、こっち。

鈴木 うん、こっちの地球儀の、そこ地球儀の後ろに。

田中 はいはい。

鈴木 ばあちゃんが亡くなったときの13回忌だから、いくつ、

田中 すごいギャルっぽい感じの。

鈴木 23か4。

土屋 本当だ。

鈴木 結婚する前かな。そうそう、これ、何か抜けてくるからね。

田中 本当?大丈夫です。

土屋 本当だ。

田中 ユウコちゃん、だっこしてる。

土屋 そう、あのときすごい、

鈴木 あのときにもうネコもいて、震災のときも。ここにも連れてきたんだけど、去年亡くなってね。16歳で。

土屋 そんときすごい、絹江さんに、お母さんって何か(笑)。

鈴木 言ってた?

土屋 うん、べたべた、べたべたじゃないですけど、何かすごい仲いいなって思ってた。

鈴木 どこに来たとき?

土屋 あの船引に。

鈴木 船引の郵便局の近く?

土屋 郵便局の近くだったかな。あの山じゃないほうだったと思いますよ。山、

鈴木 ここじゃないところね。

土屋 ここ。

鈴木 ここ?

土屋 どこだったかな。アパート。

鈴木 一軒家だった?一軒家か。

土屋 一軒家だったかな。じゃないかもしれないな。

鈴木 言ってた、土屋さんにカンパをいただいてありがとうございますって言っといてくださいってうちの人が言ってました。

土屋 本当ですか。そう、何度か通信いただいて。それで。

鈴木 ありがとうございますって。

土屋 私のこと、多分認識していただいてないかなと思っていたからよかったです。

鈴木 言ってましたよ、土屋さんって。

土屋 本当ですか。

鈴木 カンパをいただいてるだ、時々ね。

土屋 その時々で。

鈴木 よろしく言っててって。

土屋 全然、時々。

鈴木 間に合わなかったらあれだからっつって言ってて。

土屋 全然、時々なんであれなんですけど。

鈴木 いえいえ、ありがとうございます。

土屋 すごい何かいろいろされてるから、すごいなと思って。

鈴木 ちっちゃいけど、一応自立生活するためにやんなきゃなんないことは、ちょろちょろとやってはいるんですよね。

(間)

鈴木 娘は、今、千葉にいて子ども2人育てて、ただ、だんながちょっと体調今悪いのかな。それで、今ちょっと苦労してるみたいな感じなんだけど。

田中 ここにも遊びに来たりとかは?

鈴木 うんうん、したり、1年に2回ぐらい。あと、ただ私ががんになってしまったでしょ。だから、やっぱり気使って。で、やっぱ娘だから、うちに帰ってきたときぐらい何にもやらないで、もう孫放し飼いみたいになってね。

田中 (笑)

鈴木 じじばば使い放題みたいになってるから、自分はもう寝るだけみたいな、

土屋 (笑)

鈴木 寝るのとスマホだけみたいな生活になっちゃうから、それではちょっとだめ。もう孫の声聞いただけでも、ひー、疲れる疲れる。

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 もうくたびれるというか、

田中 小さいから、まだね。

鈴木 うん。で、ばーっと駆け寄って来るし、私なんか受け止められないから、まあ、だいぶでも上のお姉ちゃんが話がわかるようになってきたからあれなんだけど。この間も、多分10月ぐらいに来たのかな。今、下の子が2歳で、ちょっとわがままが出てきたっていうか、自分はあれが欲しいっていうのに、お姉ちゃんに邪魔されると、うわーって泣くとか、そういう感じで。お姉ちゃんは何でもわかってて、ちょっといじわるするみたいなことをやるような(笑)、

田中 (笑)

鈴木 感じになってきたんだよね。

土屋 宇宙ちゃんは、だから同じ障がいだけど、

鈴木 そうね。

土屋 夏ちゃんはもう、

鈴木 そうね、障がいを持ってないからね。まあ、そういう意味では、どういうふうに、まあ、何でもやれるんだっていうことは多分、何かに焦点を絞んなきゃなんないんだろうけど、すごく。それで、何か高校のときかな、私、モデルになりたいとか言われて、ひぇ〜っ。

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 私の辞書にそんなのはないんですけどね、そんなびっくりして言葉もないんですけどとか。ちょっと驚いたかな。考えつかない、まあ、せいぜい華やかなイメージを持ってたのは、アナウンサーになりたいなんつうのは私の中ではあったけど、えー?モデルなんつうのは。

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 そんな辞書はないので、まあ、やれるだけやってみたら?みたいな。まあ、でも、何かに登録しておくと、着物の発表会みたいなのあると、時間あったら来てくださいみたいな、そんなのでちょっと何かの本に載ったとかは言ったりはしてたけど。それは本業ではない。もともとサービス業が好きだって言うんだよね。サービス業って、だから結構レストランで働いたりとか、飲み屋さんで働いたりとか、そういうのが好きだったから。そんな、何か手に職身につけたら?なんて古い話(笑)。

土屋 (笑)、そっか、絹江さんがね。

田中 (笑)、資格で。

鈴木 マッサージとか好きだって言ってたから、で、やっぱり古いタイプなんだべなあ、私もな。よく昔、私も手に職つけなさいって母に言われたりしてたけど、ただ、今、体調もよくないみたいだね、夫もちょっと調子、うつになってたとか言ってるから。オイルマッサージに、今ちょっと関心を持ち始めて、それはそれでいいんじゃないのっていう話で。私も今、友達がアロマセラピーの人がいて、来てくれて、ちょっといろいろオイルを調合してくれたりしてる。私、がんになって、元来、自立生活センターの自立生活って、やっぱ自分の生き死にを選んでいくっていうところで、生きるっていうことはもう大変なんで、まあ、生きてきたけど、最期の死をどういうふうに自分で自己決定していくかっていうことに、このがんになってからやっぱ問われたことなんだよね。マクロビアンの橋本さんに、結局どの治療法を選ぶかは、やっぱ絹江さん自身の生き方だから、手術をするっていうことももちろんそれは一つの選択だし、そうじゃない東洋医学で治すっていうことも生き方だから、これ、どっちがいいよっていうふうに誰も決められない。絹江さん自身が決めていくことなんだっていうふうに言われて、それはちょっと、あ、そっか、自分の最期を病院に委ねるんじゃなくて、やっぱ自分が決めていくっていうか。例えば、病院にかかるにしても、自分がこういう治療をこういうふうに受けて、こういうふうに最期を迎えたいんだっていうことを、やっぱ自己決定していくっていうことなんだっていうふうに、選ばなきゃなんないっていうふうなのは、ちょっと最後の決断でしたね、ちょっと大きな決断で。で、私、今回手術をしなかったのは、やっぱ自分がすっごく震災で体力をなくして、もうふらふらになってたのね、23キロぐらいまで体重減っちゃって。もう頭、枕から上げられない。ご飯だって、もうピンポン玉ぐらいしか食べれなくなっちゃった。もう仏様に上げるぐらいしか食べれなくなっちゃって、どんどんやせてって。で、そのときに、手術を、甲状腺がんだってわかって、がんになるなんか全然想像してなかったし、すっごく気をつけてたんですよ、私、福島にいたとき。飲み水はもう、決して水道水は取らなくてペットボトルだったし、お米は九州から取り寄せたし、野菜も関西から取り寄せたり。もうすべてそういうふうにやって、出かけるときは帽子かぶってマスクやって眼鏡かけて合羽着て、そうやって出かけてたのに、自分ががんになるなんて本当に想像してなかったから、体力が弱ってたっていうことも一番の心配だろうけど。だから、そこで手術をしたら、私もう起きられないなと思ったの。がんは取り除けるかもしんないけど、この今弱ってる体に麻酔を入れたらとても受けつけられない、寝たきりになるだろうなと。寝たきりになるだけじゃなくて、そのあと、甲状腺を取ると一生薬飲まなきゃなんないんですよね。で、それだけじゃなくて、放射線治療もやんなくちゃなんなくなるので、半年に一回とか。で、それはちょっと耐えられないだろうなと。だとしたら、自分はどういう最期を迎えるかって思ったら、やっぱ私はザブタネコのように死にたいと思ったんだよ。ザブタネコって知ってる?

土屋 ザブタネコ?

田中 わからない。

鈴木 座布団あるでしょう?

田中 はいはい。

鈴木 ネコって座布団がお日さまに干してあると、

田中 真ん中に丸く、

鈴木 必ず一番あったかいところでまーるくなって寝てるでしょう?

田中 はい。

鈴木 お日さまの一番当たってる。ああいうふうに死にたいと思った。お昼寝しながら、あったかい気持ちいい、

田中 一番いいですね。

鈴木 そう。

土屋 幸せな。

鈴木 そう、幸せに。ネコって本当に一番あったかいところを知ってるんだよ。

田中 知ってますよね(笑)。

鈴木 きれいな洗濯物の一番上に座るんだよね。

田中 わかる(笑)。

鈴木 ザブタネコのように死にたいっていうのがちょっと理想で。うちの母親はやっぱ最期、脳動脈瘤破裂だったから、もう即入院でそのまま、本当は手術って言われたけど手術はしないって。脳なんか開けたら大変らしい。だけど、そこからもう静脈注射で、胃ろうもさせてもらえなくて、静脈注射っつうのは大体3カ月ぐらいなんだって、もったとしても。本当だったら、意識が覚めてから、はっきりしてたから、本当は胃ろうになるんだと思うんだけど、胃ろうだと長生きするわけだよ。

田中 はいはい。

鈴木 何年ももって。で、やっぱ私のことを見て、うちの母親のことを見て、助かる見込みないって医者がもうさじを投げてるわけよ、そういうふうには言わないけど。で、そういう脳梗塞、脳動脈瘤や何かで命助かったとしても、リハビリをする人は、もうよっぽどの意志の強い人か、まあ、縁故がある人か、それか、自分でやろうとする、そういう人。何か病気を併発して、例えば、糖尿病持ってるとか、腎臓病持ってるとか、障がいを持ってるとかっていったら、もうリハビリの対象からはずされるの、OT、PTからね、もう病院の方針として。もうやりたい人はたくさんいるわけだから、そんで、うちの母なんか、全然もうリハビリの対象になんなかったわけ。で、私は、はってでもいいから、いざりでもいいから、家の中、移動だけできればいいから、そういうふうにならないだろうかって。半身にはちょっと麻痺は出たんだけど、半身大丈夫だったから、お座りでもいいから、座ってられればいいんだっていうふうに言ったんだけども、最初は病気を持ってる人は無理ですって全然リハビリの対象にされなかった。ところが、ビタミンD抵抗性くる病って珍しいから、血液取らせてくれとか、いろんな治療の対象にさせられそうになって、だめだって言ったのね。母親にとって、今こんな苦しい状態なのに、母にとってプラスになることならまだしも、ただ、医学の発達のためにみたいなかたちで血液取るなんつうのは、注射やるの、痛い思いさせたくないからだめだって。それなのに、隠れて取ろうとしたっていうのをあとで看護婦に聞いて、すっごく私怒って、その病院からでたんですけど。もう最初からリハビリの対象にされなかった。で、私を見たときに面倒も見きれないだろうと。だから胃ろうじゃなくて、もう静脈注射。私、そこ、最初わかんなくて、

田中 そりゃあ、わかんないですよね、素人じゃ。

鈴木 何で胃ろうじゃない、普通は胃ろうかなと思ってたのに静脈注射のほうがいいからとか言って、何でだろうと思ったら、胃ろうは何年ももって、もしかしたら、胃ろうははずせるっていう可能性もあるわけだよね。でも、静脈注射の場合、大体もって3カ月っていうふうに言うらしいんですよ。ところが、そっから十何年もった。

田中 すごい。

鈴木 12年。つまり心臓がすっごく丈夫、心臓弱いって言われてたのに、

田中 弱い人だったのにね。

鈴木 うん。それから、64で倒れたんだけど、数えで77まで生きてた。

田中 すごいですね。

鈴木 すごいべ?

田中 ずっと病院で?

鈴木 いや、最初は病院で、特老に入って。看護婦のいる特老だったからね。静脈注射を取り換えて、まあ、結局、だけど、口の中は何も入れてもらえなかったけどね。それはかわいそうだったけど。ほんで、何か医者もびっくり。まあ、本当は胃ろうにすれば、もうちょっと回復のあれがあったのかなって、今思えばね。そのときにはわかんなくて、静脈注射のほうがいいのか、栄養が回っていいのかなみたいなぐらいに感じていたんだけど。で母は、やっぱり、最期の苦労はいろいろ、静脈24時間だし、時々いろいろな注射やられたり何かするから、まあ、スパゲッティ症候群で死ぬのは嫌だなって思ったし。本当にどういう最期を迎えるかっていうのを、考えておく必要が。

 だからそこの覚悟を決めるっていうのが、すごくやっぱ現代医学を離れるわけだし、自分の自己決定に責任を持つわけだし。で、医者には、甲状腺がんなんつうのは取ってしまえばすごく予後がいいのにみたいなことを言われたりとか。もし、それをやらないんだったら、あとはホスピスしか紹介できませんみたいなこと言われたり、私、ステージ4であれだから。そういうふうに言われたときに、すごくやっぱ揺さぶるっていうか、医者はね。でも、医者の中には、がん患者来ると500万って、ぴーんってこう。大体何千万っていう感じで、1回当たり500万ぐらい経済の針がちこーんって入るらしいんだね。

土屋 そうなんですか、治療って。

鈴木 うん、治療、抗がん剤治療とか、放射線治療とか、標準治療そういうことをやったら、もうちゃりーん、ちゃりーんって、その患者を逃がすっていうのは、

土屋 あー、それがね。

鈴木 その人のマイナスになっていくんだよね。だからすごく私を説得しようとしたりしてたんだけど、私はやっぱもうこれ以上、放射線治療なんか、ましてや、原発事故でこうなったのに、また放射線とか、自分の体力考えたときに、生き永らえることが人生じゃないって思ったしね。だから、自分がどう納得して自分の生き死にを決めるかっていうところを覚悟したっていうのはあるかな、原発事故のこのことに関してね。まあ、そういう意味では、体力がなかったがゆえに、この道しか選べなかったっていうのは、すごく私にとってはラッキーなことで、まあ、このがんが、で、私、セカンドオピニオンか、サードオピニオンか、フォースオピニオンまで行ったのよ。

土屋 すごい。

田中 すごいですね。最初どこ行ったんですか。

鈴木 最初は、市立病院。

田中 京都で?

鈴木 京都の市立病院。

田中 やっぱり京都の中で回った?

鈴木 あ、違う。友達に、やっぱり福島から避難した人で、その人も甲状腺がんになって切ったっていう人が。この辺の関西で一番、甲状腺に対して専門家は隈病院っていうのがある、隈。

田中 クマ?

土屋 クマ?

鈴木 お面の隈の隈っていう。

土屋 あー、隈。

田中 あー、はいはい。

鈴木 隈病院っていうのがあって、そこ専門医で、ここはもう、絹江さん、1週間で退院できるよって、原発の、浪江で事故になって、やっぱ甲状腺切り取った人なんだけど。で、そのあと、どうなの?っつったら、薬を毎回飲んで、その薬の量によって何かが拮抗したり、何かするんだな。で、それを、バランスを見ながら、こっち強くしたり、こっち強くしたりとか、何か薬の影響を考えなくちゃなんないんだみたいなことを言ってて。で、絹江さん、そこが一番いいから行ってきなっつって、まあ、一応、本当かどうかは、本当にがんかどうか、あ、最初、やっぱり市立病院に行ったの。ほんで、ほとんどがんだろうと。で、本当かな?って思って、隈病院の専門医に行ったの。で、そこだと、手術ももう桁が違うのよ。こっちは、京都病院、何かのあれは年間100件ぐらいの手術例なんだね。ここは1000件。隈病院は1000人ぐらいの、

田中 すごいですね。じゃあ、全国から来てるってこと?

鈴木 そう、全国から毎日手術してる、全国から来てて。毎日手術してるぐらいの感じで、すごい全然桁が違う。ところが、また、まあ、がんはもう間違いないですっていうふうに。で、手術、こちらでお願いできますかっつったら、ここはもうがん専門だから、それ以外で鈴木さんの場合には、呼吸器系が大丈夫かなとか、あと、障がいで起きられるかなとか、まあ、ほかの専門の先生を併用してないから、もううちでは無理ですとか言われて。何だい?みたいな感じでさ(笑)。で、3番目に京都大学に行ったの。で、京都大学に行ったら、もうやっぱがんは間違いないと。で、もう一回調べてもらえますかっつったら、今から調べたって、CTを撮るだけだと3カ月待ちだとか言われて、そこはもう、やっぱ1日の患者数が2000人ぐらいいるんだな。

田中 1日2000人ですか。

鈴木 で、そんなふうに言って、ほんで、もう一つ言われたのは、声を失う可能性があるって言われてね。それと、もし、最悪、私、このままいって、これが進んだらどういうふうになるんですかって。もし救急のときに、こちらを指名していいですかって言ったの。最期のときに見取ってもらうために、こちらを指名していいですかっつったら、もし甲状腺の、そのまま手術しないであれしたら間に合わないと思いますって言われたのよ、その京都の医者に。で、何でですかっつったら、大抵、気管支のところにばっと甲状腺がんが浸潤して、気管支を破裂させて、気管支に血液が流れて窒息死するので、救急車呼んでうちに来るまでの間にもう亡くなってるって思うというふうに言われたので、あ、じゃあ、間に合わないですね。間に合わないですねと言われた。もうすっごく冷たい、私のことはもう金にならないっていう顔つきが、この人は金にならないなみたいなのが、

田中 書いてある感じ(笑)。

鈴木 もう如実に書いてある。まあ、めんどくさい患者は引き受けたくありませんみたいなのが、もう顔に書いてあるような先生で、だめだ、こりゃあと思って、間に合わないようならいいですって言って、もうそこも蹴飛ばして。ほんで、実は3通、サードオピニオンのためのあれを書いてもらったんだけど、2軒行って、もう1軒行くはずだったんだけど、この京都病院の先生が卒業した学校の付属病院なわけ。だから行ってもおんなじだ。

田中 (笑)

土屋 なるほど(笑)。

鈴木 サードオピニオンの封筒。だから、それをぴって見たらば、もうステージ4で、それで、もう原発事故のことで精神的に病んでるみたいなのを、

土屋 そんなこと書いてあるんだ。

鈴木 うん。原発事故のことが心配で切除をしないって拒否してるみたいな感じに書いてあって、これはどこに行ってもおんなじだわなんて思って(笑)。で、気管支がばんってなって、血液で窒息っていうふうなことであれば、確かに間に合わないだろうから、まあ、私は、でもそういうがんでは亡くならないって。だから、自分の中ですごく確信的に思ってるのね。だから、もし死ぬとしたら、匡の膝に、匡だけがいればいいっていうふうに思ってるので、まあ、匡の膝にだっこされながら、よしよしってやってくれればそれでいいかなって思ってるから、座布団でこのように死にたいと思ってるので、

田中 すごい。

鈴木 それはもう、そっちは選択しないと、現代医学は選択しないと思って、玄米菜食と、それから、がん患者学研究所っていうのがあるんですけど、元NHKのディレクターだった人がNPOを立ち上げたところなんです。東京、横浜にある。

鈴木 で、その人のところに入って、そこはもう玄米菜食、それから、まあ、病気になったのはストレスね。だから、生活パターンと心の問題。心、考え方の癖がやっぱりそれを生んでた。で、それを治していくためには、生活パターンを変える、心の考え方の癖を直す。それから、きちんとやっぱり玄米菜食をきちっとやって手当てをやるっていう、そのおっきな三つの柱なので、それなら自分もできそうかなと思って、もう本当にこの2年間、この3カ月、何カ月は波動医学に出会ったので、今、波動医学のほうを治療として受けてるんだけれども。玄米菜食は、もう特に厳しくきっちり無農薬のものだけを食べるようにして、で、手当ては生姜湿布っつって、体からもう汗を噴き出させる、毒素を出すっていうふうなことを。生活パターンを変えるっつうのは、やっぱり福島から離れて、やっぱもう仕事はしないっていうふうに思ったし。やっぱ目の前にいると、口を出し、手を出し、やっぱ相談されれば力になりたいって思うじゃない?だからそれをぐっと、離れたのは、やっぱあの2年半、引き継ぎしながら2年半いたっていうのは、すごく私にとってもう矛盾に満ちた2年半だったからね。申し訳ないっていう思いと、やっぱり自分が立ち上げたのになっていう思いと、でも、原発と放射能が降る中にはいられないんだっていう思いと、本当にその苦しい思いをずっと抱き抱えていたからね。そっから離れて、また違うやり方で原発のことも事務所のことも支える支え方はあるだろうから、まずは私自身が元気になって、自分の力で、自分の自然治癒力でやっぱがんを治していくっていうことが、まず一つの目標になるからね。そこのところで、そういう生き方をしていこうと。まあ、生き方と、死に方が決まったら生き方だよね。無理をしないっていうようなことと。こっちに来ても、今もやってんのは、やっぱ原発避難者への支援なりで。あとは、福島の人たちが無農薬のお野菜食べたいって言うから、その野菜送料支援も今も続けているし。それから、もう一つは、こちらの障がい者の防災、避難の在り方っていう、障がい者が災害時にあったときに、どういうことに気をつけて何をしたらいいのかっていうことを、やっぱ支援していくっていう勉強会、まだ勉強会の段階だけど、それを今やって、この二つだけはちょっとはずさないで、まあ、1カ月に1回あるかどうかの集まりですけど、それにできる限り顔は出すっていう。で、最近、知り合ったのが波動医学っていう、すべてのものには全部、波動、振動があるので、いい音叉と同じように、いい音叉をこっちでピーンってドの音をやると、こっちのドの音も響くでしょう?それと同じように、やっぱ病気になる人は悪い振動の波動を持っているので、いい波動を与えて、肝臓なら肝臓の波動、それぞれが自分でいい波動になっていこうとするものなのね、そこに本があるんですけど。

土屋 これですか。

鈴木 それは、

田中 私、最近、シンギングボウルっていうのにはまって(笑)。

土屋 気功か。

鈴木 ああ、そう。

土屋 シンギングボール。

田中 大きいチーンってやるやつみたいになってて、振動を当てるっていう。その振動で体の調子を整えるっていうのがあって、

鈴木 振動で、そうそう。

田中 何か今聞いてて通じるなと思いました(笑)。

鈴木 だと思います。これがすごい本、安保さんと船瀬俊介と、

土屋 自然治癒力。

鈴木 私が言った波動医学の先生は、そっちの余命宣告からの、

土屋 余命宣告からの、

鈴木 余命宣告からの治療っていう、写メ撮ってってもいいよ、みんな(笑)。

土屋 (笑)、あ、これですね。

鈴木 そうそう。この先生すごい、

土屋 医学博士。

田中 希望のがん治療だって、すごい。

鈴木 もともと外科の先生で毎日がんを切ってた人なんだけど、それだけではがんは治らないっていうことがわかって。で、再発して、みんな帰ってくるけど、ばたばた死んでいってしまって、そこから、やっぱ東洋医学に目覚めていって波動医学。ドイツではもう一般診療になってんだよね、この波動医学ね。

土屋 それで、じゃあ、今、高松にいらっしゃってる?

鈴木 そうそう、高松に通ってね。今まで1週間に3回ぐらい通ってたんだけど、3回っつっても1回行くと2泊3日してくるから、直接波動をやっぱり受けたほうが、受けたほうがっつったって、ただ寝てるだけなんだけどね。

土屋 (笑)

鈴木 椅子にね。

田中 今の生活ってどんな感じで回ってるんですか。さっきのヘルパーさんは?

鈴木 ヘルパーさんは9時ぐらいに来て6時半で、今日は4時半の交代で、6時半か7時ぐらいまでいてもらってっていう感じで、大体今まで午前中に治療で、自分ちでできる手足温浴、生姜とかで湿布したり、ここに陶板浴っていう、板を引いてあったかくした、何か体を温めて汗を出す、悪いものを出すっていう。で、今までは生姜湿布が多くやってたんだけど、生姜湿布やってる人のほうが疲れちまったから。で、私は生姜湿布好きなんだけど、すっごく疲れるの。ショウガをすって、お湯わかしたとこにショウガをすって、そこの中でタオルを絞って、それを患部、まあ、腎臓、肝臓にやったり、患部にやったり、まあ、全身やって汗を、サウナ風呂みたい。汗をふたふたかくっていうふうなことをやって、大体1日100グラムずつ減ってったの。

土屋 すっごい。

鈴木 ものすごい汗の量。波動医学は全国でやってる人も何人かいるけれども、ある人が教えて、川竹さんが教えてくれた腱引き療法の先生、腱引き療法、またあるんだけど、その先生もがんで、その先生が波動療法ならこの先生だって、第一人者だよって言われて、教えられて、その人のとこに行って。で、この先生が、結構いいなって思ったの、数字でちょっとわかる二つのことがあって、テロメアっていうのとインテグリンっていうのがあって、テロメアっていうのは、DNAの細胞の中の、まあ、細胞って必ず死ぬわけですけど、テロメアの先が短いと死んでしまうわけで、早くね。で、テロメアが長ければ長くもつわけだ。で、子どもなんかだと、まあ、1000とか、2200とか、テロメアの部分が長いの。で、だんだん年取ってくと短くなってきて、50代の人だと800ぐらいで、感じなんだけど、がんの末期の人なんていうのは、やっぱり300を切ったり200を切ったりとかいうふうなこと。白米、今日炊くので、

ヘルパー はい。

鈴木 3合では多いかな、2合。

ヘルパー 白米?

鈴木 うん、五分づき。五分づきは、ざるやら何かあるとこの下にあるっつったな。

ヘルパー 引き出しのここに、はい。2合ですね?

鈴木 2合。今日は珍しく玄米じゃなくて五分づき。明日までしかご飯がないってわかったのよ。

田中 (笑)

土屋 (笑)

鈴木 明日の朝。違う、それじゃないほうないかい?ちょっと大きく入ってる。

ヘルパー これ?

鈴木 うん、そうそう、それそれ、それで。

ヘルパー これ、計るの、あれもいつものやつでいいんですか。

鈴木 うん、いつものやつでいいです。そして、よく研いで、黒い土鍋で炊きます。

ヘルパー 黒い土鍋?

鈴木 はい。

田中 (笑)

土屋 (笑)

鈴木 うちのヘルパーさん、みんな鍋で炊いたりなにかするからさ。え?ご飯ってスイッチ入れるだけじゃないんですかみたいな。

土屋 確かに。

田中 (笑)

鈴木 今、みんな誰でも土鍋で炊けるようになったから。

土屋 すばらしい。

鈴木 災害時に強いですよ、うちのヘルパーさんは(笑)。

田中 いいですね。

土屋 すばらしい、大事ですよね。

鈴木 鍋でご飯炊けるようになってね。

田中 いいですよね。

土屋 大事。

田中 どこで頼んでるんですか、事業所は。

土屋 三つぐらいって、さっきおっしゃってたけどね。

鈴木 三つぐらい。

田中 この辺の三つぐらい?

鈴木 そうそう。まあ、京都自立生活センターの矢吹さんって障がい者が代表のところ、山形出身の

田中 はいはい、。

鈴木 もう20年も住んでるのに山形弁でとおしてるっていう、

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 私の京都の七不思議の一つに入ってんですけどね(笑)。

田中 そこからも頼んでるんですね。

鈴木 そう。彼が、絹江さん、介助者いんのかい?なんて。いや、ほかの自立生活センターは頼んだけど、それはもう自立生活センターの王道を行くみたいな感じで、自分で見つけて、自分で何とかかんとかなんっつってて、

田中 じゃあ、もう登録だけみたいなところだったんですね。

鈴木 うんうん。で、矢吹さんが、おらげが一番、重度訪問介護では大手だぞいなんて言われて、

田中 (笑)

土屋 (笑)

鈴木 もしあれだったら、出すっぞいなんて言われて、いやあ、じゃあ、お願いするって、私はあんまり抱え込みの、遊歩みたいな介助の使い方はあんまり好きくないんでね。できないっていうか、もう時間の中でやってほしいことをやってもらうっていうふうなかたちのほうが、もうその人の悩み事聞きながら、その人の生活まで面倒見ながら、一緒に自分の生活巻き込んでいくみたいな、それは無理。

土屋 (笑)、確かに。

田中 (笑)

鈴木 よく遊歩は、まあ、だから疲れんだべげんとね。

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 まあ、だから、いろんなとこに友達がいるっていうのも、それはそれで彼女の生き方なんだろうけど、私、それは無理なので。自立生活センターから来てもらってる。で、自立生活センターから、うちだけでは全部1週間できないので、ほかの事業所紹介しますっつって、そこ行って。

田中 そうなんですね。

鈴木 で、そこのところから、もう一つ、また紹介されてっていうふうな。

田中 紹介してもらって。

鈴木 うん。で、三つの事業所、曜日ごとで。最初はちょっと名前覚えるだけで大変だったけど。え?って、誰だっけかみたいな(笑)。

田中 何人ぐらい入ってらっしゃるんですか。

鈴木 10人ぐらいは入ってんでないべか。午前と午後が違うとかね。1日いてくれるのは2人ぐらいかな。だけど、その人だって休みのときがあるから、交代で、実習で結構時々入ってきたりする。最初の1年間はやっぱすごく大変でした。この人に言ったっけかな、言わねっけかな。冷蔵庫にあるって覚えってか。もう何が何だかわけわかんなくなってきたよね。生活、例えば、野菜にしたって、京都と東北では違うしね。

田中 違いますよね。

鈴木 お料理の作り方も違うし、私は濃い口だし、こっちは薄味だし。濃い口で煮物を作ると色濃くなるじゃない?

田中 うんうん、醤油でね。

鈴木 京都の人は、色濃くなんの怖いんだわね。

土屋 なるほど(笑)。

鈴木 そういう違いとか、お互いに理解していくのにね。だからといって濃くしないってわけじゃないですけど、もう利用者が濃いの好きなんだから、それはそれであれなんだけど。やっぱり野菜も違うと料理も違うというかね。

土屋 確かに。

鈴木 多分言葉も最初はわかんなかったんじゃないのかな。私も時々わかんないとき(笑)。今はわかるけれどもね。

田中 時間数とかは結構もらえてるんですか。

鈴木 向こうにいたときには、週2、3回の1日おきぐらいの感じの朝晩みたいな感じだったけど、私、こっちにくる前に、もう向こうで救急車4回呼んでるから。もうやせていて。ほんで、こっちに避難してくるちょっと前のときに、ちょうど切り替えの時期だったから、もう1日10時間ちょうだいって言って。だって向こうは、もう引っ越していくってわかってから、もう大盤振る舞いよ。

土屋 (笑)

田中 (笑)

鈴木 自分のとこに出る金じゃないから大盤振る舞い、いいですよ、絹江さんみたいな感じで。1日10時間で、私には340もらってきたのね。で、ガイドも60ぐらいもらって。でもこっちに来て、この間、また増やしたんだ。で、私、セルフマネジメントで、自分で交渉して自分でって、10時間なんかもらえないかなと思って、ちょっとどきどきしてたんだけど、

田中 やらないっつって、やっぱりやってますね(笑)。

土屋 (笑)

田中 セルフでやってるんだ、やっぱり(笑)。

鈴木 そうそう、うん。

田中 大変だ。

鈴木 だから、もうもらえないかなとか思ったけど、もらえて。やっぱり京都は、都会は違うよな。何か交渉しなくちゃなんない、戦わなくちゃなんないかなとか思ったけど、戦わないでもらえちゃったんだよね。

田中 プラン書いたからちゃんとです、きっと。

鈴木 それはそうかもしんないね。

鈴木匡 おつかれさま。

ヘルパー おつかれさまです。

田中 おじゃましてます。

土屋 またおじゃましてます。

田中 またおじゃましてました。

鈴木 プラン、そうね、プラン書いて。向こうも、私、一応理事長なんですって名刺出すと、すると、向こうも、鈴木さんはセルフプランですねなんて、もう最初から、向こうからよこして、え?セルフプランですか。だって、鈴木さんのやってることはみんなもうケアマネさんのやってることと同じこと。あ、そうですかみたいな。やったことないんですけどみたいな感じ。でも、自分で時間数書いて、こんなこと、こんなこと。それでいいみたいな感じだから。で、ちょっと最近410ぐらいに増やしたんだ。だって、うちの人がいないとき、ちょっと私ももうトイレとか夜中にいっぱい起きて大変だから、お泊まりしてもらおうかなあとか思って。そうしたら、お泊まりのはステップちょっと高いんだって、ハードルが高いから、鈴木さん、お泊まりしないで、時間ちょっと延ばして、こうやったほうがもらいやすいですなんて、向こうのケアマネさんも何か、

田中 親切ですね。

鈴木 親切でね。で、本当は、もっと朝6時ぐらいから入れて、夜12時ぐらいまで入れてもいいんだけど、今んとこ、まだ何とか、病院に通ったりしてっから時間数余っちゃってんだ、今ね。

田中 そうですね。ここにいる時間が短いですもんね。

鈴木 うんうん。だから、今は使わなくてもいいときには使わないで行こうかなあっていうふうに感じてね。まあ、最後の決断ではないけど、そういう意味では、自分の死を、最期を、ちょっとやっぱり自分の人生の終わり方をこうだって決められたことはすごくよかったね。決めたらもう迷わなくなった。自分の、玄米きっちり食べて、手当てもやって、で、がんのほうもすごくよくなってきて。去年、体的にはすごくいいと思ってたのに、テロメアが、私340だったんですよ。やっぱステージ4の数字なのね、それって。で、あんまりやっぱりよくない。それで、インテグリンっていうのは、がんの勢力。で、何もない人はゼロなんだけど、

鈴木 私700超えてたのよ。つまり、かなり進んで進行してて転移もあるって言われたの、先生に。おーとか思って。で、このままいくと、やっぱあんまよくないなと。で、波動をやり始めたら、最近、逆転してきて、テロメアが600近くなって、インテグリンが290、300あるかないかぐらい。

鈴木匡 白米ってどうやって炊くんだったっけ?

ヘルパー 10分ですって。

鈴木 10分。

ヘルパー ぷくぷくしてきたら10分。

鈴木 ぷくぷくして弱火で10分。

鈴木匡 10分だね。

鈴木 はい。

ヘルパー 弱火で10分。

鈴木 弱火で10分。

ヘルパー はい。

田中 (笑)

鈴木 白米と玄米、炊き方違うからな。

田中 いつも玄米だから。

土屋 違うんですね。

鈴木 というふうになってきて、この医者の先生も、もう卒業生をいっぱい出してんの、だから。大体、1年くらい通うと、みんな大体卒業してる、その進行度によるけれどね。で、今、先生がびっくりしてんのは、直接私たちには言わないけど、小口先生って、もう1人、間に入ってる先生、腱引きの先生に言うと、東北から来てる人たちもいるんだ、福島から。その人たちの数値がすっごく悪いって。やっぱり関東からでも、放射能の影響ですごくやっぱ免疫力を下げてるっていうふうな話をしてますね。この治療のいいとこ、遠隔治療もできる。で、今日も遠隔で多分電波が飛ぶんです。

土屋 そうなんですか。

鈴木 うん。遠隔って、いや、先生、いつ頃、その遠隔やるんですか。私、その頃、寝てたほうがいいの?起きてたほうがいいの?何やっててもいいんだ。

土屋 そうなんですか。

鈴木 そう。電話の電波とおんなじだから、

土屋 すごい。

鈴木 いつでもきてるというか。遠隔よりは、そりゃあ、直接のほうがすごくテロメアの上がり具合がぐっと違うけど、

田中 大きいでしょうね。

鈴木 だけど、どうしても来れない人もいるんで、私なんかも、うちの人、福島に行ってるときじゃあ、行けないわけだし。ある人なんかは、1回行くと3週間ぐらい泊まって、それで1週間家に帰ってっていう、そういうことを繰り返しながら治してる人も。だから、この先生、まず優しいというか、あれだ。アパート自分で持ってるんだな。多分、その部屋を提供してるの、ただで。やっぱ遠くから、全国から来るから、やっぱそれでホテル代、

田中 大変ですもんね。

鈴木 大変ですもん。ほんで、やっぱ食べれるのが玄米だから、やっぱほかのどれを食べればいいって、

田中 違うと困るよね。

鈴木 どれでも食べれるって、訳ではないから、

田中 食事がね。

鈴木 うん。だからそういうこともやってくれて、まあ、そのことは書いてないけど。

田中 すごい。

土屋 すごい。

鈴木 最近、だから、また新たなる世界を知って。そういう波動とか、あと、小口先生の腱引き療法療法。柳生一族の、柳生政宗あたりから発生した筋の治し方、ぎっくり腰とかね。そういうふうなこともやったり、そういう先生にも出会って。一番やっぱり、ああ、そうだなって思ったのは、やっぱ自分の、人間の体は自分の力で治ろうとする力があるってことなんだよね。そこを阻害しないで生きていく。やっぱそのためには、農薬ついてるとか、着色料とか、保存料とか、そういうものは食べない、口にしない。やっぱ体に、本当生命力のあるものを、そういうふうに自分で治ろうとする力が必ずあるから、やっぱそれを阻害しないっていうふうなことはとっても大事なこと、自分の体を信じるというか。だから、病気になったら医者に行くじゃなくて、病気になったら自分の体に聞いて治してくっていうふうなことを、まあ、がんによって教えられたなあっていうふうな感じかね。それはすごくよかった。まあ、自分の最期がどういうふうにしたらいいかっていうのが決まったしね。だから、あとはやっぱり、そこまで頑張って、そこまで一生懸命生きようっていうふうに思えるようになった。この最期の自立生活っていう決断の(笑)、最期の決断だわね、そういう意味ではね。だから本当に自分の事業としての自立生活センターは、ちょっと中途半端になってしまったけれども、それよりもうちょっとおっきく、本当に障がいを持って生まれたけれども、だからこそ、出会って、人生なり、出会いがたくさんあるわけだし、そこの中で学んで、まあ、それを後輩に伝えて。で、自分で治ろうとする力があるっていう、自分の体を信じるって、心も体も信じるっていうことがとても大事なんだよっていうことが伝えられればいいのかなと。事業所がつぶれようが発展しようが、それはもう次の世代に任せたからね。その人たちがやる気になっていけば続くだろうし、終わりたいって思えば終わったっていいし、そのことはもう浮き沈みのある、それはしょうがない。でも、やっぱ命をつないでいくっていうか、そういうところでは大事なことを、まあ、最後にがんによって学べたので、すごくそういう意味では感謝だなというか。がんは本当は敗血症になる。がんって血液が腐っていく病気なんだって、本当は。敗血症で1週間で亡くなるものを、ある内臓が、一番弱ってる内蔵なんだろうけど、それががんの血液を引き受けてくれて、ほんで、その臓器を捕食しながらというか侵害しながら、1週間で亡くなるのを延命しているというか、長もちさせてくれてるんだって。本当は1週間で亡くなってしまう病気なんだって。でも、そうではなく、やっぱ臓器が、肝臓であったり、いろいろ臓器だったら、私の場合、甲状腺であって、そこががんをぎゅっと抱きしめて、ほんで、そのほかの以外のものをすごく守って、ここだけでがんを集めて、それで延命してる。だから、ガンがこれ以上増えないようにするためには、私自身が心と体を目覚めさせていくっていう。そうすれば、自分で作ったがんだから、必ず自分で治っていくっていう。その道筋が必ずあるからっていう、そういうことを教えてくれたのね。いろんな人の本を読んだりしていくと、あ、そっかーって思って。やっぱ私は、このガンは、もちろん福島の原発事故を受けたっていう、セシウムを吸ってしまったってこともあるんだけど、やっぱセシウムをほかの人だって一緒に吸ってるのに、それを取り入れてしまうだけのストレスと、やっぱり体力と、

田中 ストレスか。

鈴木 そういうことが弱かったわけだよね。未病の状態。常にいつも体調的にはあまりよく、まあ、精神的ショックを原発で受けて、よくなかったんだろうけれども。それで、私は引き受けてしまったわけだよね。で、引き受けたからには、やっぱそこで学んで、どう今後残りの人生をどう生きていくかっていうことがとても大事なことなんだろうなあって。そういうふうに思えるようになるのには、ちょっと時間かかったけど、でも、まあ、私の中では最短距離かな。自分の死に方が決まったっていうのがすごく安定して、いつ死んでも、それはそれでしょうがないっていうか、多分、心臓が止まるとき死ぬんだろうから、それはもう私の寿命だからね。だから、それまでは、どういうふうに自分が持ってる治癒力、体の中で、自分で治ろうとする力があるんだっていう、自分を信じていくっていうかね。その自分を信じるっていうことが、最後に私には課せられた宿題なんだなって。この体だからこそ味わえた人生だったわけだし、今までずっとね。この体だったからこそ、痛みもあったけど喜びもあったわけだし、母とも出会えた、友達とも出会い、私、だから、そこには感謝しながら最期をどう迎えていくかっていうのは、やっぱ最期のステージなのかなと思いますね。だからそういう意味では、うちの母は脳動脈瘤破裂だったけど、もうだんだんぼけてきてしまうけど、私はがんなので、まあ、ぼけていくっていうことじゃなくて、やっぱ自分の今までを振り返る時間を与えられたので、それはすごく感謝だよね。本当はがんになると、みんなはイコール死だっていうふうなイメージがすごく強いと思うけど、がんはすぐには死なないから。

土屋 (笑)

鈴木 大丈夫、3年、5年はあるから。やっぱその間に、もちろん短い人もいるよ、それは今までのストレスとか、今までと同じような食事のままで、そういうことしてたら即死んでしまう人もいるけど、きちっとその辺ちょっと変えていけば3年、5年の寿命はあるから。それはすごく時間を与えられるので、そこでやっぱ自分の人生は何だったのかなっていうふうに振り返るチャンスを与えてもらえるから、すごくそういう意味では、がんはいい病気なのかもなあとか思ってる。治っていくんだよ、これがまたね。それがまたすごいところだなって。で、私の場合、がんが痛いんじゃなくて手足のほうが痛い。つまり治る力って障がいのほうも治そうとしちゃうんだよ。で、私は手術をいっぱいしてるでしょう?4回も5回も、おなかまで切ってるし、盲腸までやってるしね。で、7回ぐらい手術してるの。そのたびに麻酔が入ってる。麻酔っていうのは本当だったら、昔の侍なんかは切り傷で、刀で切られたら、熱うんうん出して刀傷を治っていくわけじゃない。いっくら薬塗ったって、麻酔なんかないわけだから。あれってとっても大事だよね。熱を出して雑菌を出していくっていうこと。それが今、麻酔なんかが進んだからごまかしちゃうわけだよね。だけど細胞は覚えてるんだって。骨とか細胞って覚えてて、突然、暗闇から切られるわけじゃん。突然、闇で切られたみたいなのね。だから覚えてるんだって。それ覚えてたやつが、私は今、新陳代謝を出すことによって変えているから、古い細胞が溶けて血液になるときに、それ、痛みとか、悲しみとか、つらさとか、そういうのを全部覚えてるんだって。それが出てくるの。だからすごく汗が出て、体がどんどん変わっていこうとするときって、落ち込んだりとか、痛かったりとか、古いことを思い出したりとか、それは全部記憶されてることが繰り返されている。だから私は、いかに自分の体をやっぱり、いくらスカート履きたいっていう、あのたった一つの思いだけで、どれだけこの体に苦労をかけてきたかっていうことがすごくあるんだっていうことがよくわかって。すごくそういう意味では、手術とかするべきじゃないよね、やっぱりね。だって、その曲がった足でも歩けてたんだから、本当は。いや、外科的なので、ぽきっと折れて骨が出ちゃってるとかならば、外科手術してくっつけなきゃ治んないけど、歩けてたんだし。だから、本当は手術なんかしないで、やっぱそのまま、ありのままでも完成品だったっていう、自分を信じてあげる、そこがとても大事だったんだなあって。でも医者っていうのは、現代医学の医者はそうは思ってないんだろうね。この医者との戦いっていうとこ大変、大変だもんね。でも、最終的に、自分の命と体は自分が決めていくっていう。そこを自立生活センターなり、自立生活の醍醐味と、最後の決断っていうふうに思いました(笑)。

土屋 (笑)

田中 聞き残したことは?

土屋 はい、いや、たくさん聞きたいことはまだあるんですけど(笑)、でも、

鈴木 今日帰るんですか。

土屋 今日は私は帰るんですけど、

田中 私はちらっと泊まるとこを用意してしまいました(笑)。

鈴木 大丈夫なんですか。また明日とかも取材する?インタビューする?

田中 いや、もういいよね。

鈴木 いいですか。

土屋 いいですか。

田中 うんうん。

土屋 でも、もしかしたら、またお願いするかもしれないですけどね。

田中 そうですね。

鈴木 はいはい、わかりました。

土屋 大丈夫ですか。

鈴木 はい、いいですよ。

土屋 はい、ありがとうございました。

田中 でも元気になってき、

(音声終了 03:21:14)



UP:20200210 REV:
鈴木 絹江  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也 
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