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殿村久子氏インタビュー

2019/01/14 聞き手:瀬山紀子・田中恵美子 於:

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殿村 久子
◇殿村 久子 i2019 インタビュー(本頁) 2019/01/14 聞き手:瀬山紀子・田中恵美子 於:町田
病者障害者運動史研究 
 ※この本の一部となりました。ありがとうございました。
◇青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

※20190114 殿村久子氏 127分 文字起こし:ココペリ121
 聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。

田中 施設に入った時は、あんまり相談もなく入ったっていうかね、話して…、

殿村 そうですね、親が勝手に決めてた、みたいな。何か待ってたみたいなんですよね。1年半ぐらい、あの、申し込んでからすぐは入れなかったみたいで、待ってたらしいんですけど、私にはもう、入るに...、それこそ入る直前になってからしか、親からは聞いてなかったので。

田中 うーん。これ、岩手なんですね。

殿村 そうですね。生まれは岩手なので。

田中 ああ、そうなんだ。じゃ、ご実家、お母さんやお兄さんとか、ご兄弟はみんな、まだ岩手ですか?

殿村 いや、もう誰もいません。

瀬山 岩手のどちらですか?

殿村 岩手の、生まれは、あの、大震災で何もなくなった大槌という。歩いて5分で海、みたいなところだったので。

田中 なるほど。大槌。それからどうやって、こう、福島、私はもうこれ、最初読んだ時このページしかなかったから、これ福島だと思いこんで。(笑)

殿村 うち母子家庭なんですよ。で、親と兄弟と...、兄弟と年が離れてて。姉が福島に就職をすることになって、で、親も「じゃあ、一緒に引っ越しましょう。」みたいな感じで引っ越しをして。私はまだそん時、あの、岩手の施設に入っていたんですけど、2年ぐらい。だから先に親が福島に引っ越しをしていて。私はちょうど中学卒業と同時に、じゃあ、福島の施設に移る、っていう感じで福島の方に来たんですね。

田中 ああ、そうなんだ。岩手はじゃあ、お姉さんが行くから、っていうだけで出たんですか。

殿村 そうですね。

田中 何もあんまりこう、何て言う、岩手に愛着というか、(笑) そんな、変な言い方だけど。

殿村 うーん、まあ、岩手に居ても、ずっと施設だったので。土地に対する執着っていうよりは、その、施設に対する執着はありましたけど。友だちと離れるとかね、ちょっと。そういうのはあったけど、別に、「親が引っ越したら、親のところに行くのが当たり前。」みたいに思っていたので、そこら辺はそんなに、あの、何の疑問も感じず引っ越しをしました。で、ちょうど中学卒業だったので、高等部だけ郡山養護学校に行くことになって。[00:03:28]

田中 すみません。ご年齢を聞くのも何なんですけど、その…、

殿村 今、62歳ですね。

田中 遊歩さんたちとどれくらい違うんですか?

殿村 遊歩と私、同級生です。

田中 あ、遊歩さんは一緒なんだ。そうか、そうか。

殿村 でも、私が、その養護学校、高等部入った時には遊歩はもう外に出ていて、伝説の人になっていたので(笑)。学校、あの、施設の中でも、「そういう人がいたんだよ。」みたいな話で。「あ、そうなんです。」「そうなのか。」ぐらいの関わりしかなくって。
 で、私がその、養護学校高等部を卒業する時の進路で、えっと、その当時、私の進路、3つ選択肢があって。一つは在宅。で、もう一つは内職程度のお仕事をする授産施設、入所の授産施設。あと、もうちょっと医療的ケアがひつ...、ある療護施設。っていう3択しかなかったんですね。そん時に何で「地域で暮らす」っていうのがなかったのかな、って思うんだけど、全然なくって。で、親は、療護施設に行ってほしかったんですよ。もうちょっと体を、医療的ケアして治したい、って思ってたみたいで。

田中 でも、脳性まひ…、

殿村 ええ、ええ。で、私はもう、「自分の体はもうこれ以上よくならないだろうな。」って(笑)、思っていたので。無駄に、その、医療と関わるのは嫌だなって思っていたので、まあちょっとでも内職仕事ができるんであれば、授産施設の方がいいかな、と思って、その。授産施設も2ヶ所、3ヶ所ぐらい見学に行って。学生時代に行って。で、一番自分のお家に近い授産施設があったんですね。そこが、けやきの村っていう授産施設なんですけど、そこに入ることを決めたんですけど。私が初めてその、自分のことについて自己主張したのが、そこで。で、(笑) 引っ越しもそのまま来たわけだし。親に、その、自分の気持ちを初めて、こう、伝えて、その授産施設に行くって決めたのも初めてだったので、親と意見が合わなくって、ケンカをしてしまって。私は親のためも思って、お家に一番近い授産施設を選んだつもりだったんだけど、親はその療護施設に入ってほしかったので。そこの意見は合わなくって、ケンカもし(笑)。でも、親は一番驚いたんだと思うんですね。今まで何も言ってこなかった、自分のことも親の言う通りにしてきた私が初めて自分の自己主張をして、その授産施設に行く、って言ったから、驚いたんだと思うんですね(笑)。[00:07:29]

田中 何か、その時は、殿村さんの中に、自己主張するこう、何て言うか、エンパワーされたものがあったのか、何だろう? やっぱり成長してきてこう、意見が言えるようになったんですかね。

殿村 つうか、とりあえずその、医療に対する不信感とか、あと、自分の体に対する諦めみたいなものもあったし、「もう医療との関わりは要らないな。」って自分の中では思っていたのが一番かもしれないですね。養護学校も、付属の施設から通っていたので、隣、渡り廊下で郡山療育園っていうところから学校へ通っていたので。で、療育園に通って、入ってると、何の意味もなく毎朝体温計る、まいあ…、ねえ、***(00:08:30)とか。ねえ。

瀬山 うん。そういう管理、医療、

殿村 月1回カンファレンスがあって。お医者さんと、あと訓練士と、担当の看護師さん、寮母さんとか集まって、自分のこと、ああだ、こうだ言うわけですよ(笑)。

田中 うるさいですね。確かにね。

殿村 「最近の久ちゃんは…」ということを言われつつ。「何でそんなことする必要あんのかな。」とかね。

田中 けっこうリハビリとか、やっぱり。

殿村 そうそう、訓練も毎日あったけど。訓練は、高等部になると、あの、学校終わってから行くんですよ。で、さぼってて(笑)。

田中 もう、何かじゃあ、高等部に入ったあたりから、だんだんやっぱり、「自分の体にもうこれ以上何かしても。」みたいなの。

殿村 も、ありましたね。

田中 時間の無駄、というかね。[00:09:53]

殿村 そうそうそう、うん。で、高等部、その、今なら言っていいのかな、って思うけど、その、療育園の訓練士ってセク…、セクハラ。で、あの、学校終わってから行くから、けっこう夕方近く、3時過ぎとか4時近くになって訓練室に行かなきゃいけなくって。で、そうすっともう、他の子たちは自由時間だったり、その、もうごはんの準備だったりして、訓練室にはやっぱ訓練する私とその先生ぐらいしかいなくって。やたらめったら人の体を触るんですよ。触んなくてもいいような、「何でこんなとこ触んなきゃいけないのよ。」みたいな感じで触ってきたり、密着してくるのがすごく嫌で。「もうさぼっちゃえ。」って思ってて。

田中 うーん。それは嫌だね。

殿村 で、あの、放課後、「友だちと教室で勉強する。」とか言って、教室に残っておしゃべりしたりとか、お菓子食べたりとかして時間をつぶして(笑)。で、あの、夕食ギリギリ前ぐらいまで学校にいて。で、帰ってすぐもう、4時半過ぎるともう夕食の準備だったり、夕食だったりするので。そういうことをやってたので。で、ねえ、まあ、1回は、あの、信頼してる保母さんにもそのことは言って、「だから行くのが嫌なんだ。」っていうことを再三言ってはいたんですけど。やっぱり、ちゃんと受けとめてくれる人がいないと、それって、ねえ。

田中 まあ、ただ聞いた話だけになっちゃうもんね。

殿村 そうそうそう。うん。で、一応、その寮母先生は、上にちゃんと上げてくれて。どうやら私だけではなかったらしく、何人かがそういうことを言ってたらしくって。その先生は途中でいなくなってしまったんだけど。

瀬山 訓練士の?

殿村 うん。色々そういうこともあって。つうか、その前に私、子どもの時から施設に入ってたでしょ。で、「みんな、治る。」って教えてもらってたんだよ、施設で。「訓練すれば良くなるよ。」って。確かに、成長とともに歩けなかったのが歩けるようになったりとか、色々自分でできることも増えてきたので、「治るんだろうな。」とは思ってたんですけど。でもある日突然、忘れもしない、中学2年の時に、「ふっと私もうこれ以上良くなんないんじゃないかな。」って、ふっと思ったんですよ。頭をよぎったの。で、それをその、とっても信頼してる中学の時の訓練士の先生に聞いたんですね、「私の体って、もうこれ以上良くなんない?」って。私はすごくドキドキしながら聞いたんだけど、先生が「そうだよ。」ってひと言言ったんですよ。「え!?」みたいな(笑)。すごい青天の霹靂で。何かその、治らないっていうのもショックだったんだけど、それ以上に、「周りの大人がみんな嘘ついてたんだな。」っていうことの方がショックで。「親も、看護師さんも学校の先生もみんな嘘ついてたんだ。」っていうことの方がショックで。そん時私ね、半年ぐらい寝たきりになっちゃったんですよ。

田中 あらまあ。[00:14:20]

殿村 ショックで。何にもする気が起きなくなって、動けなくなって。もう、そっからもう、ね、先生とか職員の言うことは聞くのはやめようって思って。嫌いだって思って。

田中 (給仕との対応で) ありがとうございます、すいません。

殿村 それで、すごく、嫌になっちゃって。

瀬山 中2、

田中 ちょうどねえ、多感な時期でもあるしねえ。え、寝たきりになっちゃったっていうのは、もう何て言うか、その起き上がる気力もない、っていう感じ? そうかー。それはショックだねえ。

殿村 それでそん時に、その「そうだよ。」って教えてくれた先生が、3ヶ月...、半年は経ってなかったんじゃないかな、もしかしてもっと短かったかもしんないんだけど。あの、私のことを起こして、抱っこして、その、「もういいでしょ。」って言われて(笑)。

田中 「起きなさい。」って。「もう、いい加減動いて。」って。「私のひと言でショック受けちゃ困るわ。」みたいなことかな。

殿村 ではないとは思う、やさしさだったなって私は思ってて。で、「もういいでしょ。」って言われて、「そうか、もういいか。」みたいな(笑)。

田中 そっか、それから動くようにしたんですか?

殿村 うん。

田中 やっぱり気持ちって大切だね、本当にね。

瀬山 「もういいでしょう。」って(笑)。

殿村 でもそれからは、もう「施設の職員は嫌い。」って思ってるし、「嘘つき」って思ってるし、もうそっから私の施設職員アレルギーは始まってるからね(笑)。

田中 そうかあ。大っきな裏切りですもんね。うーん。なるほど、でもまあ一応、高等部は大人しくついてきたけど、そこを出る時はやっぱり自分の思いをちゃんと言おうと。

殿村 「もうやだ。」って思ったので。で、何か、すごく、大人の施設っていうのにも憧れもあったんですよね。「どんな感じかな。」みたいなね。

田中 だからやっぱり、働くっていうこともちょっと、ねえ、興味あるし。「さすがにこれ以上医療というよりは、まあちょっとでも働いてみたいな。」みたい感じだったんですね。

殿村 でも親はすごく怒って。

田中 へえー、何でだろうなあ。

殿村 で、施設って親が来ないと帰れないんですよ。卒業式に親来なくって。「そこまで怒ってんだ。」って思って(笑)。姉が代わりに来て。[00:17:50]

田中 そっかあ。まあ、お母さんはお母さんで、思いがあったんでしょうけどね。でも一応、思いを貫けたっていうのは、まあ、最終的には承諾してくれたっていうことですか?

殿村 そうですね。

田中 ね。そうしないとサインしたり、ていうか承諾するのに、やっぱり親の、

殿村 まあ、あの、担任の先生も「そっちの方が久ちゃんにはいいかもね。」って言ってくれてたので。担任の先生の、まあ、後押しもあったとは思うんですけど。

田中 担任の先生はじゃあ、いい人だったんですか、割と?

殿村 いい人というか…。(笑) まあ、養護学校の、昔の養護学校の典型的な先生。冒険はしない。「地域で生活してみたら。」なんてひと言も言わないし、そういう知識もないし。前例に倣って、「これぐらいの障害だったらここがいいでしょう。」みたいな提示の仕方、しかできない。それ以上のことはしない。

田中 うん。さっき、そうちらっと、「伝説の人に、遊歩さんはなっていた。」とかって言ってましたけど。その前の世代の、白石さんとか、あと、絹江さんもそのくらいだよね、ちょっと上ですよね。その人たちって、どうですか、話に出たりしたんですか? 「もう近づくな。」とか、青い芝、ぼちぼち…。あ、まだ動いてないか。

殿村 いや、動いてましたね。私が高校の時にたぶん、青い芝が福島にもできたはずなので。何か、できましたよ、っていう話は聞いた気がすんですよね、養護学校の時に。で、絹江さんは療育園に入ってた人なので。療育園って卒園した人の体のケアっていうのを1年に1回やってたんですよ。で、絹江さんは、1年に1回ぐらいは療育園に来て、園長先生の診察を受けてたのかな、何か、来てたんですよ。

田中 じゃ、会ってたんですか。

殿村 勝手に私たちの部屋に泊まって帰るみたいな。そん時に友だち、たぶん友だちだと思うんですけど、友だち、卒園生何人かと来てて。よく、絹江さんは私の部屋に、そのお友だちと二人で泊っていって。

田中・瀬山 へえー。[00:21:06]

殿村 で、私たちはほら、時間に決められた通りに動いてるじゃないですか。夜だって9時には寝なきゃいけないわけで。でも、あの人たちは普通にずっと喋ってたりして、「いいのかなあ。」みたいな(笑)。

田中 ちょっと先輩な、先輩風が吹いてたという(笑)。違う風が吹いてる、みたいな。へえー。じゃあその、地域の話なんかは聞いたり…、あ、まず絹江さん働いてたもんね。

殿村 何か、話を聞くっていうよりも、その、先輩同士で喋ってるのを、ダンボにして聞いてるみたいな。話に交じる、交じることなんか…。全然接点もないし。「話すこともないかなあ。」と思って。

田中 同じ部屋の端にいるけど、お互いに何か、そんなに喋ったりとかそういうことはしないんだ。まあ、そうか、そうか。ちょっとこう、語りかけたりする感じではなかった。

殿村 ない、なかったですね。

田中 ふーん。ちょうどそのくらいだと、どれくらいになるんだろう。年表持ってくれば良かったね。15歳ぐらいの時。6歳だと、21ぐらい? 二十歳過ぎぐらい?

瀬山 絹江さんが?

田中 うん。働いて、戻ってくる頃じゃない?

瀬山 うんうんうん。卒業してから、

田中 2年ぐらい働いてたでしょ、千葉で。

瀬山 2年ぐらい、刺繍工場でね、働いて。

田中 うん、で、その、転勤で戻ってきた時に青い芝に出会ってる、とかいう感じだったよね。うん。そっかあ。じゃ、当然、そんなに地域に出るとかいうことも考えていなかったし。でも、時々聞くけどその、「青い芝は怖いから近寄るな。」とか、先生がくそみそに言ってたとかいうの聞くけど、そういう話はない?

殿村 私の周りにいた先生はそれほど厳しいことは言ってはいなかったですね。何か、卒業生の集まりが集まって、何か会を作ってるらしいよ、っていう話は聞いたけど。内容がどうとか、そういうのまでは聞いてなくって。

田中 ふーん。なるほど。じゃあ、あんまり、いいとか悪いとか、話は聞いていない。じゃ、けやきの村で、橋本さんに出会う? 出会わない。もう出ちゃってたんですか?[00:24:13]

殿村 けやきの村で、遊歩に会うんです。

田中 けやきの村で遊歩さんに会うの? ふーん。

殿村 遊歩さん、遊歩が訪ねてきたの、けやきの村に。

田中 ああー。施設訪問ですか?

殿村 そうそうそうそう。

田中 卒業名簿みたいな見て、こう、訪ねてくる、そういう感じ?

殿村 なのか、どうなのかは分かんないけど、訪ねてきて。あの頃、やっぱり「施設にずっと住んでる人を外に出そう」っていうのが、たぶん、青い芝の会の大きな目標でもあったと思うので。

田中 うんうんうん。ふーん。なるほど。じゃ、伝説の人にそこで会うわけですか。

殿村 そう。

田中 (笑)「あ、聞いたことある、この人。」みたいな。

殿村 「あ、遊歩さんって、この人なんだあ。」っていう感じ。

田中 それが、施設に入られて、どれくらいですか? 18歳で入って、

殿村 20歳ぐらいかなあ。

田中 じゃ、ちょうど遊歩さん地域に出たぐらいかな。

殿村 で、遊歩も、その施設、家(うち)と、施設と遊歩の実家がすごい、同じエリア内っていうか、

田中 ふーん、近いんだ。

殿村 近かったんで。遊歩が「実家に遊びにおいで。」とか言って、たまに実家にも遊びに行ったりしてたんです。

田中 ふーん。遊歩さんの実家って、郡山? いや、

殿村 福島市。

田中 福島市ですよね。あ、そうか。遊歩さんが住んでるところが、そのエリア内だったってこと?

殿村 そうそう。実家が福島市。で、施設もその近くにあって。私の家も近かったし。

田中 じゃ福島市内ですね。ふーん、なるほど。で、「施設出なよ。」みたいな話?

殿村 うん、いきなりそうは言わないけどね。

田中 あ、さすがにじゃあ、ラディカルじゃなかったんだ(笑)、その頃は。

殿村 いやいや、あと、あの、(笑) 運動の進め方として、とりあえず楽しいことをいっぱい経験させるんですよ。

田中 じゃ最初は、いきなり「殿村さん」じゃなくて、菊池さん? 殿村さん?

瀬山 菊池さん。

田中 「いますか?」って来ちゃうんですか?

殿村 私じゃなかったかもしれない。同級生が...、一緒に入った同級生が二人、もう一人いて。養護学校卒業した時にね、一緒の施設に二人、私ともう一人入っていて。もう一人の人が...、の出身がいわきだったんですよ。だからたぶん絹江ちゃんとかもよく知ってる人で。で、その人が、[00:28:11]

田中 何て方ですか?

殿村 もう今は亡くちゃったんですけど、すずきかずこさんっていう人で。たぶんその、遊歩はその人を訪ねてきんじゃなかったのかな。

田中 なるほど。じゃ養護学校の時に、ちょっとかぶってる、っていうか。

殿村 うん。…たのかもしんない。とりあえず私、何かのきっかけで遊歩に声かけられて。家も近いし、まあ「遊びに来ない?」とか言われて。

田中 施設を出るのって、でも、親御さんの許可とか要るんですか? 外出する時。

殿村 うん。ん? 職員の許可が。たいてい1週間前。

田中 5日前?

殿村 1週間前。で、担当の生活指導員、その上の主任指導員、その上の園長の三つのハンコがそろわないと(笑)、外出できなくって。

田中 へえー。一大行事ですね、じゃあ。やっぱり、外行くのは。

殿村 でも私、実家が近かったので、「実家に帰る」って言うとそんなに、あの、厳しくなかったんですよ。だから「実家に帰る」って言って、実家に帰らず(笑)、遊歩んちに行ったりとか、よくやってました。あとその、ボランティアで知り合った女の人のアパートにたまに泊まりに行ったりとか。

田中 ふーん。すごい宿泊でも行っちゃうの? 

殿村 うん。

田中 じゃあ結構、それこそ青い芝の人たちと、のお花見とか。

殿村 うん、最初はお花見だったかも。

田中 (笑) お花見ね。お花見、何か、遊歩さんもお花見は、

瀬山 うん、やっぱりお花見っていう感じですかね。[00:30:59]

田中 やっぱり全然ちがう…、こう何か、楽しさっていうか、じゃないですか。最初ってどうですか? 驚いたりしないんですか、あの、何か、

殿村 驚きました。一番驚いたのは、私って障害者の人のお世話する人って、施設の職員とか家族の...、だとばっかり思っていたので。あの、福島の青い芝の会の事務所に遊びに行った時に、色んなボランティアさんが出入りしてて。ちょうど工事中だったってのもあるんだろうけど。改装中で。電気屋さんのボランティアさんがいたり、水道屋さんのボランティアさんがいたり。

田中 え、業者も全部ボランティア、みたいな? (笑)

殿村 うん。大工さんがいたり。色々やってたんですよ。それ見て、「え?」って思って。「何で他人なのに、こんなにお世話してくれるんだろう?」っていうのが、すごい驚きでした。

田中 うん。何かすごい、価値観の違いですよね。ショックですよね。また、ね、おんなじぐらいの年齢の人もけっこういたり。

殿村 そうそう、うんうん。うん。そこにも書いたんですけど、やっぱりその、私が生まれ育った施設っていうかさ、ずっと周りに障害者いっぱいいたじゃないですか。でもおんなじぐらいの年のボランティアさんは、大学生のボランティアさんは、「ボランティアするまで、その、障害者の人と出会ったことなかった。」って言われたのが、すごいシ…、驚きっていうか。「え、何で?」って。「私の周りには障害者しかいなかったのに」。

田中 確かに。

殿村 ていうか、逆に障害のないおんなじような年頃の人たちとの出会いは、私にはなかったよね、っていう、逆にハッとも思ったし。「あ、やっぱ違うんだな。」ってそん時思った。初めて自分が置かれてる、社会的な立場、っていうものを、そん時に「ああ、そうなんだ。」って初めて納得できたとか。「そういえば、そうじゃん。」って。

田中 そうね。分けられてるっていうね、完全に。それまでだから、お姉さんぐらいしかいない感じですか? 近しい人で、何か、障害のない人。

殿村 でも、施設に入るまでは、うち母子家庭だったんで、母子寮に入ってたんですよ。だから母子寮って、一緒に生活してるから、色んな子どもがいて。年齢も色んな子どもがいて。で、施設に入るまでは、その子たちとよく地域で遊んでもらってたし。何かいつの間にか、一人に置き去りにされることもあったけど(笑)。

田中 みんないつか、いつの間にか、どっか行っちゃうんだ。

殿村 そうそうそう。でもそうすると、近所の、ねえ、おばさんが「また一人?」とか言われて(笑)。「おばさんの家(うち)に行こうか。」とか言われて。「おばさんの家(うち)で待ってれば、帰ってくるよ。」とか言われて。[00:35:09]

田中 なるほど。じゃ施設に入るまでは、まあ交流があったけど、施設に入ってからは、当然だけど、施設の中で。

殿村 そうなんですよ。施設からお家に帰れるのは、夏と冬一週間ぐらいずつだけだったので。その間、家に帰れるのは楽しかったけど、友だちいないから。

田中 そうだね。

殿村 うん。

田中 お母さんもお仕事してるでしょうしね。一人でいるみたいな感じでしたか。

殿村 うん。

瀬山 兄弟は、お姉さんと久子さんですか?

殿村 あと兄が。でもすごい年が離れてて、私、兄と一緒には暮らしたことがないんですよね。何か物心ついた時にはもう、兄は家を出ていて、土日しか帰ってこなかったし。

田中 じゃ、働きに出てたのかな?

殿村 土日帰ってきて、私を肩車して散歩に連れてってくれるのが、すごい楽しみで。

田中 ちょっとお父さん代わりみたいな。

殿村 そうですね、私の中ではそうだったのかもしんないですよね。すごい背が高い兄貴だったので、目線が変わって気持ちいい(笑)。それまでは、ねえ、親におんぶだったり、姉におんぶだったりしてたので。

田中 そうするとあんまり、決定、何か決定する時とか、お兄さんが絡むことはない?

殿村 ほとんどない。

田中 じゃ、そうやって、遊歩さんとの出会いから、けやきの村の中での生活がだんだん、こう何か、届け出を出すためにいる、みたいな。外出届を出すためにいる、みたいな感じになってくるんですかね。

殿村 いや、あの、そこにも書いたんですけど、やっぱり一番すごく、あの、大人の施設だっていうことで、ちょっと期待してたんですよね。「どんな生活かな?」みたいな。だけど、養護学校時代とほとんど変わんなくって(笑)。勉強自体が、勉強してる時間が、その、お仕事する時間に変わっただけで。内容的にはあんまり、あとは全然、養護学校時代と変わんない生活じゃないですか。

田中 なるほど。だんだん疑問を抱いて。

[00:38:36]
殿村 うん。というか、何か将来が見えすぎて、夢が語れなくなったんですよね。やっぱりおんなじ年代の人たちだけだと、あの、イメージしかないから夢って語れるんですよね。でも、現実に、その、そこの施設って大人の施設なので、15歳から60代ぐらいまでの人が一緒に生活してるわけですよ。と、やっぱりこう、ねえ、10年後の私、20年後の私、

田中 そうねえ、60まで見えちゃうもんね。

殿村 30年後の私がいるわけですよ。それが一番嫌だった、っていうのはありますよね。「ああ、10年後は私、こんなんなんだ。」とかね。「20年後はこっちの人ぐらいか。」とかって。現実を見せつけられる、っていうか。

田中 うーん。なるほど。で、けやきの村をこう、出るっていうのはどうやって考えて、こう、行動をしたんですか。[00:40:08]

殿村 それにはもう一つの出会いがあって。けやきの村に入った時に、もう一人、養護学校の先輩がいたんです。で、その人の名前は栗城シゲ子さんっていう人なんですけど。で、私、高校の時に被服科を専攻してたんですね。で、その被服科の担当先生はいつも、「栗城シゲ子さんはね」って言う人だったんです。

田中 じゃ、そんな、優秀だったんだ。

殿村 足で何でもする人だったんです。足で縫物も編み物もしたし。で、いつも言われるわけですよ、「ここ、できない。」って言うと(笑)。

田中 「栗城シゲ子さんはね」って。

殿村 そう、「足で何でもやったんだからね、あんたも頑張ればできるわよ。」みたいなね(笑)。

田中 またそういうこと言うんだよね。

殿村 出来のいい先輩がいると、そういうことがあると思って。でも、「どんな人なんだろう?」ってずっと思ってたんですよ。でも学校時代は会うこともなく。で、見学に行った時に初めて、その、おんなじ授産施設にその栗城シゲ子さんがいて。足で編み物をして、編み物の機械を、機械編みをしてたんですよ。「あ、この人が栗城シゲ子さんなんだあ。」って思って(笑)。「なるほどね。」って思って。

田中 六つぐらい上ですか?

殿村 いや、もっと年齢はずっと上なんですけど。学年としては、白石さんと同じ、同級なので。

田中 年齢はもっと上なんだ。

殿村 うんうん。で、いて。で、何か、たまたまそんなんだけど、けやきの村に入った時は、若い子4人部屋で、私。最初にその、新しい子4人だけで入ってたんです。で、3ヶ月ぐらいしたら、また「部屋替えあります。」って言われて。そん時に、なぜかその、栗城シゲ子さんと同じ部屋になっちゃたんですよ(笑)。

田中 へえー。憧れなのか分かんないけど。その彼女と。[00:42:49]

殿村 うん。で、栗城さん、すごく面倒見いい人なので。施設もこう、組み合わせを考えてるんだと思うんです、あんまり職員の手がかからないように。「面倒見る人」と「見られる人」みたいな感じの組み合わせを考えて、部屋割りとか決めていったんだと思うんですけど。で、4人部屋は4人部屋なんだけど、その栗城さんが、だんだんその部屋の他の3人の、何か、面倒見るみたいな感じの、感じで、うちの部屋は保たれてたっていうか。

田中 へえー。

殿村 だから栗城さんにも、色んなお話もしたし。「学校の先生がね、いつも『栗城さんすごい人なんだよ。』って言ってたんですよ。」っていう話もして(笑)。「まったく、ねえ。言われたら本人は嫌だよね。」とかさ、「比べられるの嫌だよね。」とかいう話(はなし)して。

田中 ふーん。なるほど。

殿村 で、仲良くなって。で、その、私が遊歩さんと知り合って、青い芝の事務所に行ったりとか、カンパ活動ちょっと手伝ったりとかしてるのも、栗城さんも知ってたので。そいでだんだん、私が「施設出たいかも。」っていう話を栗城さんにしてたら、栗城さんが「じゃいい人紹介してやるよ。」って言ったのが、白石だったんですよ(笑)。「今度同級会があるから、じゃあ同級会に行った時に、白石に話(はなし)してみよっか。」って言われて。「絶対紹介して。」って言って。

田中 なるほど。

殿村 で、その時に、白石さんは秋田から相模原に移ってきてたので。相模原で活動始めたばっかりだったのかな。それで、施設に嘘ついて。また嘘か(笑)。

田中 いや向こうも、相当嘘ついてきてるから、大丈夫(笑)。[00:46:04]

殿村 で、栗城さんと二人で、東京にお花見見物に行く、って言って。あの時、2泊か、3…、3泊だったのかな、何か。栗城さんと二人で初めて、本当に誰の手も借りず、栗城さんと二人だけで東京まで出てきて。

田中 ふーん。でも何か、その、3つハンコ押す大変さの割には、意外と出してくれるね。施設の中でいい子だったからかな(笑)。

殿村 うん。まあ、いい子だったっていうのもあるのかもしんない。いや、いい子では【ないな】(00:46:55)(笑)。ただその時の、あの、生活指導の主任の先生がすごくいい人で、よく私たちの話を聞いてくれてた人なんだ、ですね。

田中 なるほど。時々いい人がいたんだね。時々いい人がね、ターニングポイントで。

殿村 で、嘘ついて、「東京にお花見見物に行く。」って嘘ついて。で、東京通り越して、神奈川まで行って。で、その白石さんに会って、「施設出たいんだけど。」って言ったら、「ああ、いいよ、じゃあ一緒にやろうよ。」と簡単に言ってくれて。「で、いつ出てくる?」という(笑)。ちょうど白石さんも仲間を探してた時だったので。それで4月に出てきてさ、「夏にまでには出てきます。」って言っちゃったの(笑)。

田中 お花見の時期ぐらい? いつ頃?

殿村 4月ぐらい、3月の終わりに1回来て、「夏ぐらいには出てこようかな。」って思っていて。「じゃ、夏に出てきます。」って、白石さんに言って。

田中 へー。かなり壮大な計画だけど、けっこう簡単に言っちゃった、みたいな。ふーん。

殿村 で、白石さんは「うん、わかった。」とか言って。そこから待ってた***(00:49:12)。[00:49:16]

田中 でも郡山、福島から相模原まで結構な距離じゃないですか。初めて行くんでしょう、大変だったんじゃないですか?

殿村 (笑) 私ね、親と離れたかったの。その頃は、私一人っこ状態で。親も、独立していないし。だから親が私をすごく猫かわいがりしてたし。それはいいんだけど。年が離れてるし、親も高齢だし。借家だったから、すごくバリアフルな借家だったから、施設では自由に動けてできてたこと...、できてることもお家に帰るとできないし。ましてやうちの母は私に刃物なんか持たせるのは禁句でしたから。私、本当に自分の箸以外、スプーンとかフォーク以外持ったことない人だったので、お家では。ちょっとそこまで、道路の、家の前の道路渡って斜め向かいにコンビニがあったんですよ。そこに買い物に行くことさえ、「一人で行っては、危ないからダメ。」って言うような親だったんで。私、本当に箱入りの箱入り、超箱入りだった(笑)。今から想像すると「嘘でしょ。」っていう感じだと思うけどね(笑)。本当に何にもさせてもらえなかったんでね。お家...、施設だと、リンゴの皮ぐらい自分でむいてリンゴ食べたりとかしてたんだけど、それもできないし、ハサミで何か袋切ろうと思っても「危ないからダメ。」(笑)だったし。で、まあね、親もだんだん高齢になってくるから、トイレはまだ大丈夫だったんだけど、お風呂とかも、行くのも、お家の中だと入れないので、あの、銭湯に行ってたんだけど、銭湯でお風呂に入ってたんだけど。天気のいい日はいいけどねえ、雨とか雪だと行きたくないから行かないでしょう。で、そういうことしてて、ボランティアさんと関わるようになったから、お家に帰った時に、そのボランティアさんに来てもらって一緒に銭湯に行ったりとか、そういうこともちょっとずつするようにしてたんですよね、私。それも、親はあんまり気に入らなくって、ていうか、「私がいるのに、何で」、その、親、やっぱあの当時、ねえ、「子どもの面倒は親が見るもの」っていう、「ましてや障害があったら、自分が最期まで面倒見なきゃ。」って思ってた時代なので。他人に…、がそんな、手を借りて生活するなんて、言語道断っていうか、「あり得ないでしょ、そんなこと!」みたいなね。

田中 うーん。そうかもしれないですね。[00:53:29]

殿村 うん。いくら説明しても、そこは分かってもらえなくて。「だったら、うんと遠くに、手が届かないところまで行っちゃった方がいいか。」って、そういうのもあったんですよね。あの、福島市内とかだと、やっぱり、戻されちゃうかなっていうの...、心配もあり、「どうせだったら全然手が届かないところ、生活の見えないところまで行っちゃった方が、お互いに平和かなあ」(笑)、みたいな。

田中 すごい。

殿村 で、たまたま白石さんが相模原だったので、「渡りに船」みたいな。

瀬山 栗城さんの方はその後、特に出てくることはなかったんですか?

殿村 出てきましたよ。

瀬山 あ、一緒に?

殿村 私が出た半年後に、やっぱり出てきました。

瀬山 あー、そうなんだ。

田中 一緒には出なかったんだ、逆に言うと。

殿村 一緒には出なかったですけど、半年後に栗城さんも出てきて。

田中 今、くえびこにいらっしゃる?

殿村 そうそう。くえびこの所長を、今、栗城さんがしてるので。

瀬山 ああ、そうなんだ! ああ。

田中 私も、その辺のつながりがよく分かってなかったけど。

殿村 で、半年ぐらい、栗城さんのアパートが見つかるまで、半年ぐらい…、3ヶ月かな、一緒に暮らしてたの。私のアパートで。

田中 ふーん。すごいよね。何かこの、つながりが(笑)。

殿村 (笑)

瀬山 3月から、4月、5月、6月、7月ってね、4ヶ月か5ヶ月ぐらいで出たってことなんですか?

殿村 でも毎週帰って、毎週ケンカして帰ってきましたね、親とね。もう途中で、「もう諦めようか。」とも思って。でも「今ここで諦めたら、もうあとチャンスないだろうな。」と思って。ほんっとに毎週、帰ってケンカしてました。分かってもらえなくって、本当に。

瀬山 うーん。

田中 でも、親のオッケーがないと出られないでしょ? 

殿村 出られなかった。

田中 当時の施設ってねえ。まあ今だってそうかな。うーん。

殿村 だから考えたんですよ。もう、親は、半分折れて、その、「長く施設で暮らしてたから、施設出るのはじゃあいいよ。」って。だけども、その、「出るんだったら自宅に戻ってきなさい。」っていうのが、親の話だったんで。じゃ、私はそっからまっすぐこっち来ようと思ってたんだけど、「じゃ、いい。家(うち)に帰る。」って言ったの。[00:56:26]

田中 ふーん。じゃ、出る手続きをするところまでは、自宅に帰る予定で手続きを進めてたの。なるほど。

殿村 「自宅)に帰ります。」って言って。じゃ、そのうち、親も「自宅に帰ってきたら諦めるだろう。」ぐらい思ってたと思うんだけど。自宅に帰って、自宅にいたのは2週間ぐらいで(笑)。

田中 そこはもう計画的に(笑)。

殿村 はい(笑)。

田中 (笑) 2週間ほどは家にいたと。

殿村 だから、施設の、ほとんどの荷物ほどかずに、施設から自分の荷物ね、ほどかずに。必要なものだけ、着替えだけちょっと出してやってて。で、場所もなければ…、本当は白石さんは「こっちに出てきてから自分で、あの、物件いいとこ見て探せば?」って言ってたんだけど。親はその…、「その間まで、その、白石さんの友人宅に泊めてもらえば。」って言ってたんだけど、親は「それは絶対許さん。」って。「泊るところもなければ、何もないのに、行かせられない」って言われて。「って言ってるんだあ。」って言ったら、白石さんが、「じゃあ手頃なアパート探しといてやるよ。」って言って、アパートも借りてくれて。「もうアパート借りてもらったから、行かなきゃダメだよ。」って言って。

田中 半ば強引に。

殿村 そうですね。で、あの当時はほら、措置制度だから、施設に入ってるとお金ってほとんど使わずに済んでたので。二十歳から障害者年金もらってたから。あの、当時で、60万ちょっとぐらい、私、お金があったんですよ。だからそのお金で引っ越し費用と、その、アパートのお金と、生活保護がもらえるまでの生活費と、自分でまかなったので。それは親には迷惑はかけてはいないんだけど。でも親もやっぱり心配だったから、その、引っ越す時は「あれも持ってけ。これも持ってけ。」みたいな。で、トラックを手配してくれて。で、トラックに、運転席の所に、私とお母さんと乗って。(笑) 一緒に出て来たんですよ。

田中 あ、最終的にはそういうことになったんだ。

瀬山 (笑) お母さん、その後帰ったんですよね?

殿村 帰りました。

田中・瀬山 (笑)

殿村 2週間で帰りました。

田中 ふーん。じゃ、最後は認めてくれて。[00:59:38]

殿村 まあ、ね。うん。まあ、「やってみなさい。」みたいな。でもね、その、転換したらすごく、親ってそうなのかな、って思って。今まで台所仕事なんか全然やらしてもらえなかったのに、「米研いでみろ。」とかね、「簡単なもの作ってみろ。」とかね。(笑)

田中 それは、こっち、相模原に来てからの2週間でってこと?

殿村 そうそうそう。「こうやったらお前でも何か作れるかね。」みたいなね。

瀬山 へえー!

田中 泣かせるな、何か、母。感動するな、それ。

殿村 ごはん炊くのと、味噌汁ぐらいは作れるようになっていたので(笑)。親もまあ、「ごはん炊けて味噌汁作れれば、何とか食べていけんだろう。」ぐらいは思ってくれたのかなあ、とか思って。今まで台所に立つなんてありえなかったのに、実家にいた時は。うん。「親は親なりに考えてくれてんだなあ。」って思って。

田中 そうですねえ。素晴らしい。

殿村 「こうやったら、お米研げるかなあ。」とかさ。色々教えてもらって。

田中 うん。そうなんですね。相模原、どれくらいいらしたんですか?

殿村 相模原は、25から、離婚するまでなので(笑)、15年ぐらい、かな。

田中 あ、結構長く。じゃ、くえびこで活動して。

殿村 そうですね。

田中 ああ、そうなんですね。へー。じゃあ、それこそ何の縁もない土地でいきなり暮らし始めて、でもまあ白石さんがいるから、活動はあって、みたいな。

殿村 うん、うん。白石さんがいて、その色んな、だから引っ越しして最初にやったのは本当に、相模原って市民団体がけっこういる、盛んなところだったんで、色んな集会に連れてってもらって。それこそ、ビラ撒き。介…、ボランティアさん募集のビラを撒かしてもらったりとか。集会の最後に「ちょっとだけ、5分だけ時間をください。」って言って、「今こういう状況でボランティア探してるんで、ご協力お願いします。」みたいなことをお願いさせてもらったりして。で、あの当時で、本当に、親がいる2週間の間に5人のボランティアさんを見つけて。

田中・瀬山 おおー。

殿村 今ではあり得ないと思うんですけど(笑)。

田中 (笑) そうねえ。5人…、結構、うん、ハードですね、今ね。

殿村 2週間で5人見つけて。その5人の人で1週間のローテーションを組んでもらって。で、私、前はもっと体が動けてたので、夜だけちょっと介助の人がいてくれれば何とか、生活がまかなえていたので。それで、生活。それで親も、ああ、あの、ねえ、「ボランティアさんちゃんと見つかって、来てくれるようになったから大丈夫だよ。」って言って。ちょっとは安心して帰っていったんですけど。[01:03:24]

田中 うーん。そうかあ。すごいね。で、くえびこの活動してる間にパートナーの人と出会ったんですか?

殿村 うん。まあ、くえびこ…、そうですね。白石が、あの、「作業所くえびこを作るのに職員が必要だ。」っていうことで、田舎から連れて来たんですよ。

田中 白石さん、みんなリクルートはやっぱ、福島なんだね。

殿村 そう。

田中 拠点なんだね。

殿村 そん時、彼は彼女が他にいて、二人で出て来たんです。で、本当は彼女の方を作業所の職員にしよう、と思ってたらしいんですけど、彼女は違うお仕事を探してしまったので。彼の方がその、ボランティアとして、その、くえびこ作るための活動にも関わってくれるようになって。じゃあ、彼が、あの、「くえびこの正社員、正職員として、じゃあ彼を雇おう。」っていうことになって。で、もう一人、女の職員が必要だったんですけど。その女の職員は私のボランティアをしてくれてた人が、主婦の方だったんですけど、その人も色んな活動して、今もしてる人なんですけど。その人が「パートで昼間なら、お手伝いしてもいいよ。」って言ってくれて。パートで、女の人はその人を雇って、それで始めることになった。

田中 ふーん。なるほど。ということは、健常の人?

殿村 そうです。

田中 白石さん、どうやってリクルートしてくるんだろうね? 福島からね。(笑)

殿村 (笑)

田中 養護学校つながりで、今、引っ張ったのかなあ、と思ったけど、そうじゃないんだ、じゃあ。ふーん。

殿村 向こうの青い芝のボランティアをしてたんだと思うんですよ。彼もいわきの出身なのでたぶん、絹江さんとかともすごく仲がいい、知り合いなので。絹江さんの旦那さんのこともよく知ってるし。たぶんそこら辺のつながりはあったと思うんですけど。そういうつながりで、一緒に始めました(笑)。だから職場結婚ですかね。[01:06:35]

田中 なるほど。ふーん。なるほど。で、結婚して、しばらくはそこにいて。お互いにじゃあ、もう職場、おんなじくえびこで働きながら、家も一緒みたいな。

殿村 いや、私と結婚したのを機に彼は、くえびこは、職員は辞めて、普通のサラリーマンになり。あ、その前からなってたのかな。1年前からなってたのかもしれない。普通のサラリーマンをして。で、私は相変わらず会合に行ったり、色々してたんだけど。
 で、私、学校にも行きたかったんですよね。福祉の勉強もしたかったので。社事大、社事大の専修学科。あの当時はまだ1年だったので。専修科に車いすで入学したのは私が初めてみたいで。

田中 ああ、そうなんだー。

殿村 全日制の方には何人かいたけど。「夜学の方はあなたが初めてです。」って言われて。で、「通いきれますか?」って面接の時に聞かれて。たら、「わかりません。」って答えました(笑)。「やってみないとわかりません。でも、通いたいとは思っています。」って言って。あの当時、社事大は原宿にあったので。

田中 はいはいはい。へー。すごーい。それ、おいくつぐらいから、その、学校に行ったんですか? 社事大は。

殿村 結婚したのと同時ぐらいですね。だから29歳、ですかね。だから結婚した1年間はほとんど、あまり、すれ違いが多かった(笑)。

田中 夜、ね、学校行っちゃうんだもんね、だって。

殿村 夕方から学校行って、帰ってくるともう11時過ぎぐらいなので。で、寝て(笑)。朝、彼は8時前には出てくので(笑)。

田中 サラリーマンですもんねえ。大変ですね、じゃ、最初ね。大変でしたね。[01:09:20]

殿村 ていうか、これも(笑)…、いいのかなあ。裏話があって。彼氏と付き合ってたんだけど、私は結婚したかったんだけど、彼はあんまり乗り気じゃなかったんですよ。だから、もう、諦めて、別れようと思ってたんです、私。それであの、別れる時にちょっと、何か、他のことやんないと寂しいかな、と思っていて(笑)。で、あの、一緒にボランティアしてくれてた人が「一緒に行く。」って言ったんですよ、社事大の夜学。「私も受けるからさ、一緒に受けない?」って言われて。「一人じゃないし、一緒に行ってくれるんなら、心強いからいいかな。」と思って。それで社事大も、入る手続きも進めながら。もうだから、もう別れると思って。もう「今日言って、嫌だって言ったら、別れよう。」っていう日に(笑)、確か今頃だったと思うんです、冬の寒い時期。願書も出したあとだったので(笑)。で、もう、「もう嫌だったら、もう別れるつうか、結婚してほしい。」って言ったんですよ。そしたら、「いいよ。」って言われて、「えー!」みたいな。「いいの? 何それ?」みたいな(笑)。「私、学校行くんだけどー。」みたいな(笑)。

田中 何か、賭けが違うほうに、コロッと転がっちゃったんだ。へえー。あらまあ。

殿村 「私もう、4月から学校行く予定なんだけど。」って。

田中 「でも結婚しよう。」みたいな。すごい、へえー。

殿村 そんで、その、彼のアパートが2階だったんですよ。で、市営住宅を申し込んだんです。申し込んだ時は、婚約者でも申し込んでいいことになってたので、「もう、当たるか、当たんないかわかんないけど、とりあえず申し込んでみようよ。」って言って申し込んだら、当たっちゃったんですよ。

田中 すごいラッキー続きで、何か、

殿村 そう、それで「入る時には籍を入れといてください。」って言われて、「ああ、そうなんだ。」(笑) 「籍入れとかないと入れないんだって。」って言ったら、何か「4月1日で入ってくれ。」って言われて。「えっ?」て(笑)。

田中 じゃ、「その前に急いで手続きしないと。」みたいな。[01:12:35]

殿村 そう(笑)。私の誕生日が3月24日で、で、3月の25日に籍を入れたんですよ(笑)。

田中 じゃ、もう急ぎお母さんにもお知らせし、みたいな?

殿村 あ、でもその頃もう親は亡くなっていて、いなかったので、うん。

田中 ああ、そうなんですか。

殿村 しょうがないんだけど。でもすごく、あの、大急ぎで駆け足で。だからそこらへんはダダッて来てしまって。「引っ越しもあり、学校にも行かなきゃなんないし、もう大変!」みたいな。

田中 大変ですね、本当ね。

殿村 ちょっと、あの時はバタバタしてましたけど。

田中 ね。すごい。へえー。じゃ結構その、15年ぐらい、は充実した感じで?

殿村 うーん(笑)。

田中 「うーん」なの?

殿村 「うーん」ですかね、まあ学校は楽しかったですよ、色んな職種の人がいたし、夜学だったから。色んな職種の人と同じ学生という立場で知り合えたのは、すごく、私の人生の中では大きな出会いだったなと思うし。自分が置かれてるその、利用者でもある、その、関わる福祉っていうのを、「みんなどういうふうに捉えてるんかな。」とかさ、「どういう感じなのかな。」っていうのも知りたかったし。やっぱり、守られる人であったり、サービス受ける人だったり、っていう、やっぱり、サービスを提供する側の話でしかないでしょう? ああいう、講義っていうか。「ああ、そういうもんなんだなあ。」とも思ったし。でもなかなか、面白かった1年でしたね。

田中 1年間ね、うーん。そのあとに、何か、ご出産の話もありますけど、[01:15:37]

殿村 私、母子家庭だったので、すっごく、あの、家庭っていうのに憧れもあったんだと思うんですね。お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがいるっていう、ことをすごく、憧れもあって。だから「子どもを産みたい。」ってずっと思ってたんですね。まあ1年は学校に行ってたから子どもは作ってなかったんですけど、でも彼はずっと「子どもはいらない。」って言ってて。「俺は子どもはいらねえよ。」ってずっと言ってたんだけど、私はずっと「欲しい、欲しい。」って言ってて。じゃ、1年間だけ避妊しないで、その間にできたら、まあできたことにして(笑)。

瀬山 (笑)

田中 そりゃ授かりもんだからねってことでね。ありがたくいただく(笑)。

殿村 「で、それでダメだったら、もうなしにしよう。」っていう話になって、「1年間はやる…、一応試みましょう。」ってことで試みて。で、試みて、半年しないうちに妊娠したのかな。8月、たぶん8月頃に妊娠して。その年の、その年ってまた忙しい年で、あの、日米障害者のリーダーが日本に来て、講演をする年だったんですよ。で、神奈川の実行委員会に、くえびこ、生きる会も入っていて、私もその準備で結構、月に2回ぐらいは横浜に行かなきゃいけなくって、行ってたんですよ。で、だから生理が来ないことも忘れていて。「あ、何か、最近体がちょっと…。風邪ひいた? だるい?」みたいな感じだったんで。その前の年にボランティアやってた人がちょうど出産してて、そのボランティアの人にさ、「私さ、最近何か、体の調子変なんだよねー。」って言ったら、「あんたさあ、これもしかして、できたんじゃないの?」って言われて。「そんなもんかなあ。そうかなあ。」とか言いながら。「調べてもらいな。」って言われて。でも忙しかったんでなかなか行けなくって、10月か11月ぐらいに、何か、やっぱり妊娠したかもしれないから、旦那と、「一緒に行って。」って言って。「絶対、一人で行ったら、『どうしますか?』って言われちゃうよ。」とか言われてたから。あの、障害者の先輩に。「絶対パートナーも一緒に連れてって、ちゃんと『産みたい。』っていう意思表示をしたほうがいいよ。」って言われて。じゃとりあえず行く…、とりあえず妊娠してるかどうかを調べなきゃいけないから(笑)。

田中 そうですね、調べなきゃいけないですね。[01:19:11]

殿村 で、近所の、一応、総合病院だったんだけど、そこ行って調べたら、やっぱり妊娠してて。で、そん時もやっぱり、一緒に、旦那さんも一緒に行ったにも関わらず、やっぱり「どうしますか?」っていうひと言が、第一声だったので。

田中 何なんだあー。

殿村 ああ、やっぱり。

田中 そうか。

殿村 「ああ、やっぱりそうなんだあ。」と思って、「でも、産みたいです。」って言ったら、「そうですか。」って言われて。

田中 そうですよねえ。うーん。

殿村 でもそこでも、病院探しもちょっと大変だったんだけど。あんまり、私の一つ上の世代は結構、子どもさん産んで育ててたんですけど、まだまだ私の世代、ブランク、ブランクがあって、障害者でその、子ども産んでる人っていうのはあんまりその当時、

田中 いなかった?

殿村 いなかったんですね、しかもCPで、っていうところがいなくって。私の世代に、またちょっと増えてきて。おんなじように。だから私の世代に、何人かいるんですよ。いなくって、で、で、「どうしよう、どうしよう? 病院どうしよう?」ってずっと考えて。最初に行ったところもいいかな、と思ったんですけど、どうし...、「どうしますか?」って言われた病院には行きたくないな(笑)、

田中 まあね、それはちょっとね、

殿村 いうのもあって。で、市のボランティア関係の、ちょっとお手…、活動をしてたので、市の保健所の人と知り合いがいて、その保健婦さんに、その、「いい病院ないですか?」って、「障害があってもちゃんとこう、診てくれるようなところを探してるんです。」って言って。まあ、その保健婦さんは、あの、口添えをしてもらった病院に行ったんですけど。でも保健婦さんも、ただ、「車いすに乗ってる女性が妊娠して出産したいって言ってるんで。」ていうことだけを言っただけで、そんな、脳性まひとか色々言わなかったみたいで。だから、その紹介で行った時も、最初は「えっ?」てちょっと思われたけど。でもまあ、「まあ、僕は産ませるのが商売ですから。」って言って(笑)。[01:22:31]

田中 やっぱり脳性まひだと、他の障害よりも何か言われるんですか?

殿村 うん。まあ、ねえ。遺伝のこともあるだろうし。遺伝ではないとはいえ。

田中 うん、あんまり関係ないかと。

殿村 やっぱり出産に対してはリスクが、多いのかなと思う…、のかな。

田中 のかな。ねえ。まあでも、それで、その病院で何とか。

殿村 何とか。

田中 最初は男の子ですか? 女の子?

殿村 女の子です。女の子一人しか生みませんでした(笑)。今もう…、

田中 旦那さんはどう? その時は喜んだ?

殿村 まあ、喜んではくれました。まあね。(笑) 子煩悩だからね。女の子だし、可愛いかったんじゃないんですか。

田中 ふーん、「子どもはいらない。」とは言っていたけど。やっぱり生まれてきたら可愛いいんだ。まあ娘だし、みたいな。

殿村 そうそう。でもその時、私が妊娠して、子どもを産む時に、パートナーの妹…、妹二人がいて、上の妹さんがちょうどおんなじ時期に妊娠、出産。二人目、向こうは二人目だったんだよね、妊娠、出産があって。で、向こうのお母さんはそっちの方が忙し…、お世話しなきゃなんなかったから、家(うち)に来なかったんだけど。かえって来ない方が私としては正解だったな、って思ってるんだけど。でもやっぱり、私には言わなかったけど、パートナーにはやっぱり、あの、ねえ、育てられる...、ないんじゃないの?っていう不安は言ってたみたいで。で、私が病院に入院して、退院する前、生まれて二日ぐらいした時に、向こうのお母さん、見にきたんだけど。あの、やっぱり娘だけ見て、私の病室には来ずに帰ったのね。(笑)

瀬山 えーっ![01:25:11]

田中 え、そもそも結婚は、反対はされなかったんですか? パートナーの親に。

殿村 いや、向こうもちょっと複雑な事情があって。私はお父さんはいるとは聞いてたんですけど、お父さんと妹はいる、って聞いてたんだけど、お母さんがいるのは知らなくって(笑)。

田中 お母さんいるのがわかんない感じの家だったっていう?

殿村 そうそうそう。お母さんはよそで暮らしてて、

田中 ああ、そうなんだ。ふーん。

殿村 だったので、結婚して初めて、「お母さんいたの?」っていう(笑)。それも驚きの話だったんですけど。

田中 色んなことがありますねえ。(笑)

殿村 だから結婚する前に妹と...、下の妹とお父さんには、それとなくお会いしたんですよ。まだ「結婚する」とも何とも言わないけど、まあ、「ボランティアでお世話してる人」みたいな感じで、「田舎に遊びに行って、そのついでに寄ったんだ。」ぐらいのところで、顔は会ってたんですけど、お母さんにはお会いしてなくって。で、向こうも、あの、結婚する人だとは思ってないわけだから、父ちゃんも、妹も。で、いきなり、「結婚しました」、あの、「お祝いの会を開きます。来てください。」みたいなご通知が届き(笑)。で、向こうは妹二人が来てくれて。実は妹二人はお母さんと一緒に暮らしてたんですね、その時ね。だからその妹から、あ、「こういう人だった。」とか、「こんな感じだった。」とかっていうのは聞いてたんだと思うんだけど。私が、あの、お祝いに来た時も、お母さんいるとは知らなくって。で、やっぱり心配もあったのかもしんないけど、お母さんが倒れちゃったんです、くも膜下で。1週間ぐらい、「やけに妹から毎日のように電話が来るな。」と思ってたら、「母ちゃん、倒れたよ。」言われて、「え、母ちゃんって、どこのお母さん?」って言ったら、「俺の親。」とか言う。「え、あんたお母さんいたの?」みたいな(笑)。

田中 すごいなあ、何か。ふーん。

殿村 もう最悪の状態ですよね。向こうは病院でさ、ベッドで寝ててさ。それで初めてお会いしたからね。うん。で、まあ、「やっぱり、それでも親なんだな。」って思ったけど、やっぱり私のことは気になるらしく、根掘り葉掘り色々聞かれましたけどね。(笑) 「ああ、やっぱり親なんだなあ。」ってその時、思いましたけどね。「大事な長男の嫁はどういう嫁なのかって見定めたいんだな。」っていうの、わかりましたけどね。[01:28:39]

田中 まあ、じゃあ、可愛いお孫ちゃんも生まれて。でもお孫ちゃんの顔だけ見て帰っちゃって(笑)。

瀬山 それもねー。

田中 その後の付き合い方も、じゃどっちかいうと、まあ、まあ、お孫ちゃん中心で。で、じゃあ、行事ごとに来てもらう、みたいな。

殿村 そうですね。

田中 子どもができると行事があるからね、否が応にも。

殿村 否が応でもね。

田中 七五三だのね、運動会だの何だの、色々来てもらって。

殿村 突然、雛壇が送られて来た時には、ドキッとしましたけどね。

田中 ああ、やっぱり長男の、

殿村 「こんな大きいのどこ置くの?」ぐらいの、大きなのが届いて、

田中 すごい。

殿村 「え、どうすんの? これ。見に来んだよね。飾っとかないとダメだよね。」みたいな(笑)。

田中 おうちどこですか? 旦那さんの。

殿村 実家はいわきなんだけど、その時お母さんが住んでたのは千葉で。で、何かまあ、だから、上の妹が前の年に子ども産んだ、って言ったじゃないですか。その子どもも女の子だったんですよ。で、妹さんは小っちゃい、あの、ケースに入るだけのお雛様がいい、って言って、それを買ってもらったらしいんですね。そしたら、おばあちゃんとしては、それは物足りなかったみたいで(笑)。「ちゃちい。」って思っちゃったのかな。

田中 「これは正式ではない。」と。「長男のとこにはちゃんとしたのを」。

殿村 だから私も、「それがいいな。」って思ったんですよ。片付けやすいし。

田中氏・瀬山 そりゃそうだ。

殿村 そのまま出して、しまえばいいし、置き場所もそんなに取らないし。私も「それがいいな。」とは思ってたんだけど、何か雛人形買う...、送ったって言ったよってパートナーが言うから。「じゃあ、おんなじようなのかな。」ってちょっと思ってたら、すっげー、ドーン!と来て(笑)。「え、これどこ飾るの?」って。「どうすんの、これ。毎年出すの?」みたいな(笑)。「でも見に来んだよね。出さなきゃいけないよね。」って言って、

田中 そりゃ大変だあ。

殿村 頑張って出しましたけどね(笑)。

瀬山 えらい。[01:31:15]

田中 じゃあ、お子さんが何才ぐらいまで一緒に暮らしておられたんですか?

殿村 4年生まで。だから、結婚したの...、結婚からは11年。付き合い始めてからは、15年? か、14年ぐらい。

田中 で、そのあとは引き取って?

殿村 いや。引き取れなかったんですよ、最初。

田中 あ、そうなんだ。

殿村 向こうが「子どもは渡さない。」って言って、

田中 あれ? 「いらない。」って言ってたのに。

殿村 そう。

田中 随分執着しちゃったんだ。

殿村 「子どもは渡さない。」って言われて。で、弁護士も立てたんだけど、私に障害があるから。で、そん時私まだ、働いてもいなかったので、年金と手当てだけで暮らしてたし。弁護士が言うには、「戦っても」、あの、「あなたは負けるでしょう。」って言われて。とりあえず、あの、「条件つけて和解しとくか。」って言われて。その、親権云々、「親権なんてそんな大したもんじゃないから。向こうが、あの、とりあえず離婚に応じてもらわなきゃいけないことと、あと、会える時はいつでも自由に会える、っていうことを条件にして、したらどうですか?」って言われて。「じゃ、まあ、そっか、しょうがないか。」って思って、それを条件に離婚した。向こうは、戻って…、「すぐ戻ってくる。」と、ちょっとは思ってたみたいなんですね。

田中 あ、出ちゃったんですか?

殿村 私が出ちゃったので。

田中 ふーん。そうかあ。

殿村 でも、戻る気もなく。でも、ちょうどよく、向こうも、ちょっと、今までサラリーマンだったんだけど、ちょっと転職を向こうもして、夜勤がある仕事に就いちゃったのね。だから夜勤をその、「娘一人で置いとくのは可哀想だから、じゃ夜勤の時は私が娘の面倒見ます。」って言って。夜勤の時に、向こうの家(うち)に私が行って、娘と一晩一緒に過ごして。で、また戻ってくる、みたいなことを、ずっとやってたんです。旦那には会わないけど(笑)。それをやっていて。だから娘とは結構、女の子だし、「何かあったら、お母さんに相談しなね。」って言って。で、夏休みとか休みの時は、家(うち)に遊びに来て。泊まってったりもする、っていうのをやってたんだけど。だから4年生から中2までは、あの子はお父さんと二人で暮らしてて。[01:34:53]

田中 ふーん。じゃ、その時に、もう引越しして、どこに、最初?

殿村 町田です。

田中 ああ、それからずっと町田なんですね。ふーん。町田は、どうして町田なんですか?

殿村 町田は、たまたまその当時は、町田の方が福祉の制度がよかった、っていうのもあって。ていうか私、あの、結婚生活でちょっと疲れてたんですよね。ボランティアは、***(01:35:30)ボランティアさん何人かは入れてたけど、自分でもやることもいっぱいあったし。生活を変えたかったの。もっと、ちゃんと、介助者を入れられる生活をしたかった、っていうのもあって。で、ずっと、旦那に「町田に引っ越そう。町田に引っ越そう。」って言ってたんだけど、その当時、私ピアカンも習い始めて、町田ヒューマンにも通い始めてたので。

田中 ふーん。

殿村 で、旦那はその、「そっちの方のいい情報ばっかりをお前は信じて、その町田に引っ越したいって言ってんだろう。」ぐらいにしか思わなかったの。根本的な、原因は聞いてくれなかったし、言わなかったし。そこが***(01:36:32)すれ違い。で、あの人は自分の意見をあまり言わない人で、最初はすごくそれは「私の意図を尊重してくれて、いい人だな。」って思ってたんだけど。でもそうじゃないじゃないですか、二人の生活なんだから(笑)。「あなたは、どうしたいのっていうのはないの?」っていう思いとかね。
 あんまり、あの、私がもうちょっと大人だったら、もっとうまく暮らせてたかなとは思うんだけど。そん時はもう私もいっぱいいっぱいだったし。とにかくもう、その、あの人に色んなことをやってもらうのが、苦痛で苦痛でしょうがなかったんですよ。そこを変えたかったんだけど、彼はそんなに苦痛だって思ってなかったみたいで(笑)、そこの差があるんだけど。どっちかっていうと、あの、アウトドアよりはインドアの生活が...、を好む彼なので、休みの日に別に、家(うち)にいて家事をしたり、料理をしたりっていうのは苦じゃない人なので。ただ、静かに本を読んだりとか、あの、あの、ゲームやったりとか、そういうことをしてれば気が晴れる人なんだけど。それはわかってんだけど、何かこう、そういうのにちょっと、耐えられなくなった私がいるっていうかな。何か、いつも「おんなじ立場で居れてないな。」ってどっかで思っちゃう...、てた。その、「子どもいる、いらない」の頃から、それはあったのかもしんないんだけど。「『いらない。』って言ったけど、産んだでしょう。」みたいなさ(笑)。まあ、それは結果論だからしょうがないけど。

田中 うーん。[01:38:38]

殿村 で、その、1年間、子どもが生まれて1年間、ボランティアをいっぱい入れて、子育てをお手伝いしてもらってた時に、ちょっとしたトラブルがあって。で、その、社協の職員さんが、それをこう、言いに来た時に、あまり私の、何か、味方をしてもらえない気がしたのね、そん時にね。パートナー…、パートナーもそれなりの考えがあって、「子育ては、あの、母親が中心になってるので、母親に任せてる。」みたいなことを言ってくれたんだけど、それが何となくこう、私には冷たく感じちゃった。「もうちょっと私のこと庇ってくれてもいいんじゃないの?」みたいなところが、全然そうじゃなかったし。ねえ。ボランティアさんも、急遽、昔からのお付き合いもあるボランティアさんばっかりじゃなかったので、急遽お願いせざるを得ない状況になったボランティアさんも何人かいて。やっぱりそういう人たちは、やっぱり子どもを、「自分のお世話もできないのに子どもなんか産んで。その、ボランティアに世話を頼むのはどういうことなの? 旦那はどう思ってるの?」みたいなこととかを、そっちこっちで言ってたらしくって。

田中 へー。

殿村 ていうのもあって。ちょっと、そこらへんからちょっと、しんどくなってきちゃって。旦那との関係も、ちょっとしんどくなって。で、町田に引っ越し…、せば、その、まだあの当時は町田の方が介助制度がよかったので、「もうちょっと」、それこそ「理解ある、介助者の人を入れられるかな。」って思ってたんだけど。あんまり旦那は今の生活に不満もなく、「何で引っ越さなきゃいけないのよ。」みたいな感じで、「お前はその、東京の方の制度がいいからって、単にそっちで生活したいって思っただけなんだろう。」みたいな、感じで。で、だんだんこう、離れていってしまって。でも、でも、それこそ「別れたいかも。」って思って、栗城さんに相談をして。でも栗城さん、

瀬山 栗城さーん。

殿村 (笑)

田中 キーポイント。キーパーソン。

瀬山 いいとこに出てきますね。[01:41:40]

殿村 そう、栗城さんは、「子どもがいるんだから、もうちょっと頑張れば。」って言われて。「もうちょっと頑張りなよ。」って言われて。もうちょっと頑張って、2年頑張って、「ああ、もうダメだ。」って思って。「いやあ、やっぱりダメみたい。」って言ったら、「じゃあ、しょうがないんじゃない。」って(笑)。「それも何だかな。」って思うんだけど、「じゃあ、しょうがないんじゃない。」って言われて、「そうだよね。」って。
 で、置き…、家に置き手紙を置いて、出たんだけど。出た日に栗城さんと、夜、遊び歩いて(笑)。旦那は一応心配して、栗城さんの家も見に来たみたいなんだけど、いないし。どこに行ったかわかんないんですね(笑)。私、遊び歩いてたの、栗城さんと、その夜は。遅く、遅ーくなってから、栗城さんちに帰ったので。「どこに行ったかわかんない。」みたいなね、こともありつつ。でも、そん時には私、町田にアパート借りちゃったので。もともと暮らすつもりだったから、学校にも近くって、本当に、二人で手頃に暮らせるアパートを見つけてたんだけど。娘にも、アパートに一緒に行って、「ここでお母さんと暮らすんだよ。」とは言ってたんだけど。残念ながら一緒には暮らせず。

田中 うーん。

殿村 でも4年経ってから、一緒に暮らし始めた。

田中 ふーん。それはご本人のご希望?

殿村 てか、パートナーに彼女ができたんですよ。で、バカだから(笑)。だってさあ、中2って一番微妙な時期じゃないですか。きっと、とっても仲良くして欲しかったんだと思うんです。で、彼女の気持ちも考えずに、ね、娘の気持ちも考えずに、彼女を家に呼んだり、ごはんをこう、一緒に食べたり、お出かけしたりとか色々しちゃったみたいで。で、娘は「自分の居場所がなくなった。」みたいに思ってしまい。で、電話で、娘が「お母さんちに居たい。」って言われて。「別にいいけど、どうしたの?」っつったら、「もうお父さんとは暮らせない。」とか言って(笑)、「ラッキー!」って(笑)。私にとっては「やったね。」みたいな(笑)。

瀬山 (笑)

殿村 バカタレ。焦んなくたって、ね、何とでもできるじゃないですか。隠れて暮らすと...、付き合うとかさ、「もうちょっと考えてやればいいのにな。」って思った。ね。中2の女の子の気持ちになって。ねえ。複雑じゃないですか、だって。

田中 そうねえー。

殿村 だって、離婚する時も、娘にも聞いたの、「お母さんと暮らす? お父さんと暮らす?」って聞いて。それも私、ちょっとショックだったんだけど、「お母さんには色んなボランティアさんとかヘルパーさん来るけど、お父さんには来ないから、私はお父さんと暮らす。」って言ったんだよね(笑)。[01:45:39]

瀬山 (笑) ええー。子どもって偉いね。

田中 うん。よく考えてるよー。「お父さん一人になっちゃうから可哀想だな。」って思ったのね。そうよ、きっと。いい子じゃないですかー。

瀬山 と思っていたら、お父さんは、勝手に新しい恋人を作ってたんだ。

殿村 ねえ!

瀬山 そんな娘の気持ちはわかっているんだろうか。

殿村 さあ。

田中 さあ。でも、オープンにして一緒になりたかった、とかもあったのかもしれないね。

殿村 何か、あったんだと思うよ。向こうも子持ちだったしね。うん、だから何か、

田中 ふーん。だからちょっとタイミングが、中2のタイミングがまずいね。

殿村 ちょっとまずいね。

田中 もうちょっと大人になってからか。

殿村 か、もうちょっと早いとかね。

田中 そうそうそうそう。一番いけないタイミングで***(01:46:33)。

殿村 そうそうそう(笑)。

田中 「素直すぎるわ。」みたいな。お父さん。

殿村 お父さん、焦りすぎ。

田中 そっかー。まあでも、じゃあよかったじゃないですか、かえってね。

殿村 うん、よかったよね、私にとってはね。「お母さんと暮らす。」って言って。「本人が言った時には引き取る」っていうのが条件だったから。

田中 あ、いい条件を書いときました。(笑) 先見の明がある。

殿村 もう、もう、「あいがこっちに来たいって言ったんだけど。」って言ったら、「えー?」とか言われて。「理由はわかってんでしょう?」って言って(笑)。

田中 素晴らしい。それからはもうずっと一緒に? 

殿村 はい。

田中 ああ、よかった。

殿村 はい。うんうん。だからもう、言われた、【1週間】(01:47:27)もしないうちに迎えに行ったよね、私、たぶん。「じゃあ、とりあえずのものだけまとめておきな。」って言って。

田中 今、おいくつですか?

殿村 今もう、31。

田中 おお、大人ですね、だいぶ(笑)。

殿村 いまだ脛かじられてますけど。

田中 (笑) あれ?[01:47:53]

殿村 まあ、私は親とあまり一緒にいた記憶がないので、「まあ、いられるうちは一緒に、長い人生ね、いられるうちは一緒にいてもいいかな。」とかは思ったりもするけど。彼女の年齢考えると、「もうそろそろ独り立ちしてくれないかな。」(笑)とも思ったり。複雑ですよね。

田中 そうね。割と旅立ちの早かった、殿村さんと比べるとだいぶ、

殿村 はいはいはいはいはい。だいぶのんびりと、はい。

田中 熟成型というか、ゆったりと、温まってる感じで。

殿村 そう。よく言われるんですけどね、事務所でね。あの、「居心地が良すぎると出ない、出ないんだよ。」って言われて。

田中 でも居心地悪くする理由もないしねえ。(笑)

殿村 ないんですよ。そうなの。「居心地悪くできないよ、私。」って言ったら、「じゃあ、出ていかないよ。」って言われて(笑)。まあ、「それはそうなのかな。」とは思うんだけど。

田中 うん。へえー。そうすると、援助為はどうしたんですか? どうやってこう、仕事は?

殿村 ああ。で、私町田に引っ越しをして、最初はくえびこに通ってたんですけど。町田に引っ越したから、町田の事情もちょっと知りたいな、と思って、ヒューマンにちょっと声をかけて。そしたら、まあ、「ピアカンとか講座をやりに…、る、お手伝いなら、してくれていいよ。」って言われて。で、週1ぐらいで、ヒューマンに顔を出すようにして。それでも、くえびこには通ってたし、やってたんだけど。で、それがヒューマンが週2になって、くえびこに通うのもちょっと減ってきて、やってたんだけど。くえびこ…、ヒューマンも一時期ちょっとリストラに...、があったりして。で、私ももう、「ちょっと休んでもいいかな。」と思ったので、休んでた時期があったんですよ。
 そん時に今度は、CILふちゅうの元の代表だった鈴木さんに声をかけてもらって、「ふちゅう、立ち上げからちょっと手伝ってほしい。」って言われて。で、CILふちゅうを本当に立ち上げて、軌道に乗せるまで、4年ぐらい仕事して。ふちゅうの時はものすごいお仕事の量だったので、週5で働いて。しかもピアカウンセラーだったり、介助コーディネーターだったりで、すっごいハードな仕事をして。で、そん時ちょっと2次障害も進んで、首も痛くなっちゃってて。「もう、ちょっと休まなきゃダメだ。」と思って、「いったん、辞める。」っていう話をしたんですね。その時に、またまた遊歩が(笑)。そん時に遊歩があの、ね、くにたちの代表だったので、[01:51:33]

田中 ああ、なるほど。

殿村 「久子さんが何か、ふちゅうを辞めるらしいよ。」という噂を聞きつけて。「3月いっぱいで辞める。」って言ってて。やっぱり冬、冬かな。もうちょっとあったかかったかな。何か、電話がかかってきて、「あんた、いつまで休みたい?」って聞かれて。「ええー。もうしばらく働かないことにしようかな、と思ってた...、思ってんだ。」って言ったら、「じゃあさあ、ピアカンだけやりに来ない?」って言われて。それが6月だったんですよ、ピアカン集中講座が。だから、「うん。じゃあ、集中講座のお手伝いなら、私ピアカン好きだし、やるの多摩スポだし、じゃあ、いいよ、ピアカンだけやりに行くよ。」って言って。ピアカンだけやりに行って。終わったら、「ねえ、来週いつ来る?」って言われて、「え、何、それ?」って。(笑) 私、「くにたちで働く、って言った。」って言うんです(笑)。「大丈夫だよね。週1ぐらいなら来れるよね。」とか言って(笑)。

田中 え、それは、どれくらいですか? 町田に移って、

殿村 町田に住んで、だから、5年ぐらい、かな。

田中 そしたら、そっちにお声がかかって。そうか、ふちゅう4年働いてたんだね。そうなんだ。じゃあ結局、あんまり休んでないじゃないですか。(笑)

殿村 そう、あんまり休んでない***(01:53:17)。

田中 ちょっとぐらいずつ、ぐらいしか(笑)。

殿村 ちょっとぐらいずつしか休んでない。

田中 大変。ふーん。

殿村 何か、「休もうかな。」って思った時に、タイミングよく、どっかからお声がかかってくるっていうか、かけていただいてるっていうか。タイミングいいんだか、悪いんだかわかんないけど。まあ、遊歩は、ね、ずっと昔からの友だちだったし、あの、「ピアカンだけなら手伝ってもいいかな」。そん時、ふちゅうを辞める時に、ふちゅうの鈴木さんが、「辞めるなら、しばらく仕事しないでほしい。」って言われて。私もそんなにすぐ仕事する気はなかったし。ね、「ちょっと休憩したい。」って思っていたので。[01:54:18]

田中 ふーん。それやっぱり、「すぐにやらないで。」っていうのは、何か、「辞めた理由を詮索されたりするのが嫌だ。」とかそういうこと?

殿村 そういうことだとは思うんだけど。

田中 そして、今日(こんにち)まで、じゃあ週3で、くにたちに行かなきゃなんなくなってるってこと(笑)。

殿村 そうですね。そうですね。最初週1だったのが、週2になり、週3になり、今や代表という名にね。

田中 そうですよね。大変だー。へー。すごい。何か一応、今日(こんにち)にまできた。

殿村 私の人生の中では、ほら、遊歩と、白石さんと、栗城さんが、私の人生。(笑)

田中 こわーい。

瀬山 わー。こわいねー。

殿村 ポイント、ポイントで。

瀬山 えー。でも栗城さんて、そうなんだ。今もじゃあ、ずっと。

田中 ねえ。結構、じゃあ年齢的にはもう、高いですよね。

殿村 高いですね。私と10個違うので。

田中 ふーん。じゃ、白石さんたちよりも、

殿村 白石さんよりは、ちょっと上ですね。

田中 ちょっと上ですね。

殿村 でも白石さん、

田中 10年前だから、今、69か。今年9になるんじゃないかな。

殿村 白石さん?

田中 うん。それより3つぐらい上。

殿村 そうだと思う。

田中 ね。すごいねー。

殿村 栗城さんとは、本当にもう、40年以上もお付き合いしてる感じ。

田中 今も時々ご連絡取ったりしてるんですか?

殿村 してます。1週間、前は1週間にいっぺん必ず、くえびこには行ってたんだけど。最近あんまり行く機会も少なくなってはきてるんだけど。まあ、栗城さん、運営委員にもなってるので、運営委員会は行くし。栗城さんの愚痴を聞く係ですかね、私は。今のところは。でも栗城さんもだいぶあの、お年を召してきたのに、って、「この先のことを考えると、あんたがやってくれるといいのにな。」っていうことはね、常々、口には出してくるんだけど。

瀬山 なるほど。

田中 でも、くにたちの方(ほう)の代表になっちゃってるもんね。[01:56:57]

殿村 そう。「タイミング悪いよ、栗城さん。」って。もっと早く言えばいいのに。遠慮し...、遠慮しいの人だからさ、あの人。何かタイミング、タイミングで、やっぱり私も、一時期本当に「くえびこを、ちゃんとやろうかな。」って思ってた時代もちょっとだけあって。でもその時が、白石さんが「福島に帰る。」って言った時に、ちょうど私が、ちょうどあいを産んで、子育て中だったので、栗城さんがその、私が子育て一段落するまでの間、あの、代わりでやるよ、っていう意味で、代表になったんですね。で、私に譲る気でいたんだけど、私はそのうちピアカンとかやり出し、こっちの方に流れていってしまい。それを、何か、「こっち来い。」って言えずに、ずっと経ってしまい。その次に池田まり子さんが出てきて、まり子さんがくえびこ継ぐ予定だったので、「じゃあ私は、まり子さんにお任せするよ。」っていうことで、もうくえびこの運営からは手を引こうと思っていた、いたんですね。でも、気がついたら、まり子さん町田ヒューマンで働いてたし。「ええ? 『くえびこやる。』って言ったのは、どうだ…、どういうことだったの?」みたいには思ったんだけど、栗城さんが「それは、まあ、まりちゃんの人生だから。」みたいに許しちゃったから。結局、ね、跡継ぎがいなくなっちゃった、っていうことにもならざるを得ないんだけど。

田中 じゃあ、殿村さんが町田来たあとだったんですっけ、池田さん、

殿村 いや、池…、あの、町田に来る前から、くえびこに関わってはいたんですよ、まり子さんも。

田中 うんうんうんうん。こっちに、でも、動いてきたのはどっちが先だったんですか?

殿村 私です。

田中 ああ。うんうん。で、あとから来て。うーん、なるほどね。去年でしたよね、亡くなったのね。

殿村 うん。

田中 12月だったよね。

瀬山 ねえ。何か、本当に。

田中 うーん。いやいや、何か、色んな人の名前が出てきて。(笑) これ、大作、読ませていただきます。

殿村 今、言ったこと、ほとんど書いてありますから(笑)。[01:59:59]

田中 ありがとうございます。でもすごい貴重な、ね。すごい。うん。だいたい、

殿村 いいですか?

田中 だいたい大丈夫です。ありがとうございます。だいぶ話していただいて。


UP:20190926 REV:
病者障害者運動史研究 
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