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増田英明氏



増田 英明さん
・20190109
・聞き手:ユジンギョン ・於:京都
・文字起こし:ココペリ121 20190109 増田英明氏 123分

※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としております。


増田氏妻 今日は、2006年の8月から在宅生活が始まったので、そこから2011年ぐらいのパーソナルアシスタントを使い始める頃辺りまでを、ちょっと記憶を辿ってみようかなと思います。

ユ はい、わかりました。

増田氏妻 えっと、在宅が始まってからの…、この前、在宅生活始まったとこまで言いましたか?

ユ はい。

増田氏妻 2006年のちょうど8月だったまで、覚えてるんですけど。そっから始まって…、始まったのと同時に、週3回、上田リハビリに通いました。9時から16時。そん時は、ここの家(うち)ではなかったので、四条河原町に住んでいたので、タクシーで通っています。うん。
 増田さん、何か変なこといっぱい書いてある。これ、ここ違うー。何でそれになってるの。違うよ、もう。手帳も全部、この前書いてある通りに直して…、

(録音中断)

増田氏妻 8月から在宅生活が始まったんですけど、上田リハビリに通うっていうことが、まあ一つの仕事になったので、増田に関して言うと、少なくとも週3回は外出する生活が始まったんですね。で、上田リハビリの上田先生が診てくれるときに、「増田さんが何をしたいか」って聞いたときに、「散歩したい」っていうことが目標だったので、最初は、そのリハビリが、その散歩ができるように、車いすに長い時間座っていられるようなリハビリをするために、結構ハードなリハビリがそっから始まったんです。(笑)。

ユ (笑)

[00:02:48]
増田氏妻 で、ただ、今聞いたら、何て言うのかな、「リハビリはしんどかった」とは言ってたんですけど(笑)、「行きたくない」とか、「嫌だ」とかは一切言わないで、やってたので、1ヶ月後には、もう、その目標クリアして、9月には平安神宮まで初めての散歩ができました。うん。

ユ すごいですね。前1回、インタビューした時に、何か、体の調子が悪くても、何か向こうは、病院だから、行きますねの感じで、一所懸命頑張った感じで、

増田氏妻 そうです。うん。

ユ で、何か1ヶ月後、何か平安神宮まで行けることになりましたね。はい。

増田氏妻 体調…、体調っていうのがすごくね、その時期はほんとに変化するんですよ。増田も人工呼吸器をつけた体に、まだそんなに慣れてないですから、

ユ そうですね。はい。

増田氏妻 その、どういうことしたらしんどいか、どういうことしたら熱が出るか、体調が崩れるかっていうことが分からなかったから。もうまるで赤ちゃんの体調みたいに目まぐるしく変わってたんです。で、その間(かん)には確か、上田リハビリに行ってるのに、急に息苦しくなったりして、死にそうな思いしたりとか、そういうこともあったんです。原因が分からなくてね。初めの頃はそういうことはもう、しょっちゅうありました。

ユ 人工呼吸器をつけて3ヶ月、4ヶ月後ですね。

増田氏妻 うん、そうです、そうです。

ユ その話ですね。はい。[00:05:00]

増田氏妻 そうです。週3回、月水金って上田リハビリに通ってたんですけど、まあ土日になると、ちょっとポッて熱出して。で、ふうふう言って。で、日曜日に熱出て、月曜日の朝まで引きずってるから、「リハビリやめましょね」って看護師さんに言われても、「いや、病院に行って診てもらったらいいだろう。」っていうことでね(笑)。

ユ (笑) そうでしたか、増田さん。はい。

増田氏妻 その時には正直…、主治医っていうのは、基本一人しかいないんです。主治医は、今とおんなじ先生なんですけど。増田にとっては、上田先生が主治医以上だったの。もう、心のその信頼関係とか、そういう面からおいても「上田先生に診てもらう」ってとこがあったので、本来なら主治医に連絡するとこなんだけど(笑)、上田先生に聞いて、「行ってもいいですか?」「来てください」っていう感じで、通ってました。たぶん、ほぼ休まないで行ったような気がします、体調が不安定な割には。で、ただね、やっぱり、ただ「頑張ろう」と思って行ってただけではなくて、そこのリハビリ診療所の、ま、いわゆるデイケアって言われてる9時から3時、4時までっていうことは、高齢者のデイケアと同じようなシステムの中に、増田は難病のリハビリっていうんで、組み込まれていったんですけど、ほとんど同じ感じで。そこのスタッフがほんとに明るかったので、結構、楽しく…、楽しんで行ってたんですね。

ユ 増田さん、その時期、すごく楽しかったんですか? はい。

[00:07:06]
増田氏妻 そう。それで、もう、あっという間に、第1目標の散歩がね、平安神宮っていうのが、すぐクリアしちゃったの。そしたら、まあ周りは「ああ、よかったねー。」で、終わったはずだったんです。私も、みんなも(笑)。そしたら帰ってきてから、うちでこういうパソコンを使って、増田が、日本のね、西国三十三所の御朱印って判子をもらう、それの1ヶ所だけ押してないところがあって、それが和歌山の青岸渡寺っていうとこなんですね。そこに行きたいけどなあ、って言ったんです。確かそれはうちに帰ってきて、二人になった時にパソコンで会話をしたと思うんですね。で、上田リハビリから、約15分、20分の平安神宮にやっと行けて、「やったね。」って喜んでいた矢先だったから、そんな(笑)、和歌山の青岸渡寺ってあの、先端なんですね、あの、串本の辺りのね。「そんな遠いところに行くなんて正気の沙汰じゃない。」と(笑)、私は思ったので、「そんなの、全然無理だよね。」っていう感じで、私はもう、軽く受け流しました。半分、冗談で言ってるんだろうと思いながら、受け流しました。

ユ 増田さん、えっと平安神宮、初めて散歩できるんじゃないですか。できた時の気持ちを、あとでインタビューにしますね。はい。はい。

増田氏妻 そして、そこで青岸渡寺の話は受け流したつもりが、次にリハビリに通った時に、この人が向こうで、和歌山に行きたいっていうことを、あの、手紙に書いて、パソコンで打って、プリントアウトをして、それを持って行ったんですね。

ユ 上田リハビリ?

増田氏妻 はい、はい。その内容が「上田先生へ」っていうことで、もう「私の人生最後のお願いです。」って書いてあったんです。

ユ 増田さん、今笑ってますね(笑)。はい。

[00:09:58]
増田氏妻 「どうしても、1ヶ所だけ御朱印をもらってない、そこが心残りだから、そこにどうしても行きたいんですけど、行けないでしょうか。」って先生にお願いをしたんです。そしたら先生もいい先生で、「うーん、行けないことはないよな。」っていう感じで、軽く答えてくれて。そしたら、「行くような感じで計画を立ててみるか。」っていう話になったんです。で、その時点で、行くっていうことはね、増田と私だけではもちろん行かれない。やはりそこに、医療関係者がいないと無理だろうって思ってたから、こっちはね、その時は。だから、「上田先生んとこで、どこまでサポートしてくれるんだろうな。」って思いながらいたんですけど。増田が、更に、その青岸渡寺に行くための企画書ってのを自分で作ったんです。

ユ 気管切開して、4ヶ月後ですね。(笑)

増田氏妻 そうです。何か、どこどこに行って、ここを見て、で、ここで泊まって、次の日はこうして帰る、とかっていう感じでね。上田先生とは大雑把な話、「和歌山行きたい」「行けるかも」しても、日帰りはとても無理なところなんですね。初め「1泊2日で行けるかな。」っていう話をしたんですけど、「まあ普通の人なら1泊2日で帰ってこれる距離ではあるけど、増田さんが1日で全部を回って、1泊だけして帰ってくるっていうのは、ちょっとハードなんじゃないかな。」って上田先生が言ったので、「少なくとも2泊3日は必要だと思う。」っていうことだったのね。
[00:12:26] で、その時に一応、上田先生の方では、リハビリの先生と、それからレンタカーで行くので、ヘルパーさんなんですけど、上田リハビリのヘルパーさんで運転もできる人っていうことで、「2人なら出せるよ。」っていうことを提案いただいたので、増田の方は、その、「もちろん宿泊費とか、それから道路の交通費とか、そういうふうなものを負担します。」っていうような話で。何か、10万ぐらいだったかな、これくらい、「10万から20万の予算でちょっとやりたいので、よろしくお願いします。」っていうことで話が決まりました。で、結論から言うと、その和歌山に同行したのはリハビリのかやはら先生と、それからドライバー兼ヘルパーさんで、今はいないんですけど女性の方がいたので、その方が二人付いてきてくれて。で、私と増田と、あと、私の妹がいたね? 一緒に。一緒には行ってない? 行ったよね。

ユ もう一人女性…、何か写真見た時は、もう一人。

増田氏妻 うん。私の妹が行ったんですよ。けいこちゃん。も、同行してくれたの。で、更に、けいこちゃんの勤め先の社長さんも、途中から来てくれて、運転手伝ってくれたり、リハの先生やヘルパーさんたちを食事に連れてってくれたりっていうことをしてくれたんですよ。

ユ 全部、6人で…

増田氏妻 うん、行きました。はい。その社長さんっていうのは、私の妹は薬剤師なんですけれども、その社長さんが経営していて、その方も薬剤師の方なんですね。で、その方にも最初にちょっと、「増田が和歌山なんかに行きたいって言ってるけど、アホだよね。」って話を、雑談でしてたんですね(笑)。

[00:15:04]
ユ 増田さん、今、プッて笑ってます(笑)。

増田氏妻 そしたら、「いや、旅行行ってる人、聞いたことあるよ。」って、その社長さんも言ったんです。それで、「そんな無理ってことないよ。行けるんじゃない?」っていうようなことを言ったのが、増田の「行きたい」っていう気持ちにますますこう、火をつけた感じになって。で、実現できたんですね。だから、ちょっと、もちろんお仕事お忙しい方たちだから、その、あれ、ずっとっていうわけには行かないので、その、「行ける」って言った手前、責任を感じてくれて。その社長さんがね。途中から合流してくれて、運転代わってくれたりとかしてくれたんですよ。だから…、で、途中から、また仕事に戻って、みたいな。元々は青森なので。

ユ ああー。

増田氏妻 そうなんです。だから、「『人生最後のお願い』っていうことだから、仕方ないな。」っていうことで、みんなが協力してくれたんです。

ユ 増田さん、思い出しました? うん。

増田氏妻 更に、上田先生も…、上田先生はもうとっても気楽に、「行けるよ、大丈夫。」って言ってくれるんだけど、その裏でどれ程心配していたか、っていうことは、あとあと聞きましたね。

ユ 増田さん、***(00:16:38)てます。

増田氏妻 和歌山の、その行く先々の病院とか、そういうところの手配、「万が一こういう人が来たらお願いね。」っていうような、連絡とか。

ユ 泣きますね、増田さん。

増田氏妻 してたらしいんです。そんなことはつゆ知らず。簡単に、実行できたって最初は思ってたけど、みんなはやっぱり、びっくりしてたんです。

ユ そうですね。

[00:17:13]
増田氏妻 人工呼吸器つけて、更にまだ、体調も安定してなかったのでね。いつ肺炎起こしてもおかしくないような状態。その頃は酸素ボンベも使ってたんです。だから酸素ボンベも持って行きましたよ。けど、やっぱり、この人のその、「どうしても御朱印がほしい。」っていう熱意が誰よりも強いので、私たちは適当で、「行けるとこまで行こう。」っていう感覚でついてったんだけど、もう「達成しなかったら、意味がない。」って、すごい、すごい眼光鋭い感じでね、やってたんですよ。で、本当にギリギリ、全部の御朱印がもらえて。全部っていうのはね、1ヶ所って言ったんだけど、メインは1ヶ所だったんだけど、増田の企画書をあとで読んだら、そこに行ったら、その、何て言うのかな、「熊野三山をお参りしないと意味がない。」って書いてあったのね(笑)。三つの大社があるんですね、お社が。そこをちゃんと回ってこないと意味がないって。判子おすのは1ヶ所なんですよ。

ユ 増田さんの気持ち的には、全部見ないと意味がない、のことですね。

増田氏妻 で、怒りだしたの。私たちは、その、青岸渡寺の判子もらったから、「やったね、終わったね。」って喜んでたら、「いや、ここに行く。」って言うから、「いやいや、無理無理。」って言ったんだけど、そしたら急に怒っちゃって。「ここ回らんかったら来た意味ない。」って、怒っちゃったんです、ほんとに。そしたら周りが凍りついちゃって。(笑) 「もう、しゃあないし。」って。もうその時間で、えっと3時かそこらだったんですね。2時半か3時。お寺って4時、早いと4時に閉まるし、「5時までやってたらいいな。」っていうくらいのとこで、そんなこと言って、あと1ヶ所、そんな、車で飛ばしていくようなとこですからね。間に合うかどうか分からないけど、とりあえず、怒っちゃったから、もう、じゃもう、「意味がないって言われたら嫌だし。」って運転手さんも、こうね、言って。それで、すっごいスピード出して(笑)、最後のお参りも行ったんです。

ユ おおー。増田さん、よかったですね。

増田氏妻 それで全部、増田の希望を叶えた途端に、増田が「息苦しいから酸素ボンベ繋いで。」って(笑)。「苦しかったんや。」って思ってね。

[00:20:08]
ユ 増田さん、今、泣きながら、笑いながら、どっちですか?(笑)

増田氏妻 ユさんも今、パルスオキシメーターで時々測るから分かると思うけど、その時はね、酸素は、ボンベつけないと95パーセントが普通だったの。更に脈は120何、ていうのが普通だったの。そんな状態で、旅行してんの。

ユ すごい。

増田氏妻 普通、ちょっとやばい。

ユ そうですね。今の時代だったらやばい。

増田氏妻 うん、やばい。「それでも行く。」っていう、その一念だけで行ったの。

ユ 増田さん、その一念が、増田さんにとっては、増田さんのやる気が急に下がって、やっぱり人工呼吸器をつけるの感じで、だんだん上がって、呼吸器を…、気管切開して、呼吸器をつけて、そこからまた新しい人生が変わった感じですか? 増田さん。ああ、そうか。それで、まず散歩って目標して、達成したから、また新しい最後のお願いのことで、やったんですね。それは、そこまでは合ってますか? はい。

増田氏妻 うん。あの、何て言うのかな、私は知らない世界ではあったけど、デイケアとか病院に行ったら、患者側もしくは家族も含めて、こっちからの提案っていうのは無謀だと思ってたのね。大抵はお医者さん側から、「安静にしてくださいね。」とか、「お大事に。」って言われるのが当たり前だから。「こっちからの希望を言うなんてとんでもない。」っていう感覚があったんですね。けど、結局は、あとで上田先生にも言われたんだけど、上田リハビリ側から、「これしませんか? あれしませんか?」って言っていくのにはやっぱり限界があるって。本人が「これしたい、こうなりたい。」っていう気持ちがないと、やっぱり、ね、「あまり意味がないよね。」っていうようなことで。そういう意味では、ほんとにわがままだとは思ったんだけど、「青岸渡寺に行きたい。」とかっていうふうな希望を出してくれるっていうのは、たぶん、半分嬉しくて半分迷惑な話だったとは思うんだけども、「叶えてやろう。」っていうふうな思いで、接してくれる人たちだったので、「よかったなあ。」って思うんですよ。

[00:23:12]
ユ そうですね。

増田氏妻 うん。普通の、ほかのとこだったら、

インタビュー できないですね、あんまり。

増田氏妻 うん、「行ったら?」って言われるんじゃないかと思います(笑)。

ユ そうですね。前回インタビューした時に、屋上で、

増田氏妻 屋上に行くのでさえも、「誰がついてくの?」って言われたから。だから、「それが普通」ってもう刷り込まれているとこがあったんですね。「病院はアウェイだし。」って。「うちじゃないんだから。」っていうふうなつもりでね、いたんですけど。やっぱりそういう意味では、いい先生に出会ったので、増田のわがままをもう、存分に発揮できる環境ができてきたんですよ。だから余計、その、「あれしようかな、これしようかな。」っていうふうな、感じに私は見えたんですね。
 あの、呼吸器をつける前は、もう、私が今まで見てきた、増田ではなかった。何か虚ろな眼差しで宙を見てて、もうテレビさえも何にも見ようともしない。で、たぶん一番落ち込んで悩んでる時期だったんだと思うけどね。で、それでそのあとにまあ、つける、呼吸器をつけるって選択をしたけど、でも、本人は、「ああ、これで人生終わった。」っても言ったので、やっぱり、「希望は持ててないんだな。」とは思って。そっからは、「もう、私が引っ張っていくしかないんだな。」っていうふうに思っていたと思います、その時期は。呼吸器つけたあとは。
[00:25:01] ところが、上田リハビリに通うようになって。「通う。」って言ったのも増田だし。で、ほんとにその時はね、タクシー代が、もう8万とかそんな感じでね、かかったんですよ。2、3週間だけなのに。「それでも行く。」言うから、もう切り崩して、「貯金を切り崩してでも行かせよう。」思ってやってたけど。「私が引っ張っていくしかないわ。」っていうふうな、「覚悟を持たないかんな。」っていうふうにも思ってた時期があったんですね。ところが、そう思ってるのに、私の考えとは裏腹に、増田がああやって、手紙を先生に渡す。上田リハビリで自分の考えを言う。私が行ったら、その増田の考えを向こうの人から聞くっていうふうな状況見た時には、「あ、もうこれ、病気になる前と変わらないな、この人。」っていうふうに思って。「全然、私が引っ張っていくどころではないなあ。」って思って。まあ呼吸器をつけたっていう、見た目は変わったんだけど、やはり、「中身は増田やったなあ。」って(笑)。それは、いまだにそうです。こっちが、「こうしよう、ああしよう。」って押し付けても、「嫌。」と言ったら、絶対に嫌なところはもう、全然変わらないです。だから押し付けても無理な人なんですね。そういう感じで進んでいって、とっても、その雰囲気のいいリハビリのところだったので…、
 増田さん違うよ、これ(笑)。違うって。またやってるし、勝手に。自薦ヘルパー導入は、2011年以降ですよ。あの、上田リハビリを卒業するのが、2011年に入ってからだったんです。たぶん、うんと、2月、3月ぐらいに卒業して、

[00:27:29]
ユ 2011年?

増田氏妻 11年、はい。◆引っ越してきたのは、ちょうどその前の年だったから、2010年の5月に。それこそ、1年前にここに引っ越してきたんですね。うん。なぜ引っ越してきたかって言ったら、そのタクシー代なわけですよ。すごく重たくのしかかるので、車いすを押して通えるところに引っ越したい。それから家賃も、ここだったら半額になるので、っていうのもあって、ここに引っ越してきて。それも全部、増田が、貯金残高を見ながら、「これではあかん。」ってなって(笑)。自分で、不動産をネットで検索して、ここを見つけて、引っ越してきたんですね。で、そうしてせっかく上田リハビリに近くに来て、引っ越してきたあたりから、そのあとあたりから、「増田さんのリハビリ卒業」っていう話が、上田先生の方から、何か考えがあったのね。というのは、一つは上田先生がもう一つの病院の方に行っちゃう…、九条の方に、第二上田リハビリが新しく建つんですね。それのためにそっちに行っちゃうんです。

ユ 今、2ヶ所あるんですね?

増田氏妻 あるんですね。で、ただもう一つね、上田リハビリじゃないんだけど、梁山会っていうおんなじ系列の病院は、田中直樹先生の病院なんです。あの先生も上田リハビリの先生たちの系統なんです。だから、名前違うんだけど、3ヶ所なんです。そこで、リハの先生とか、OT、作業療法士の先生とか、時々こう、お手伝いに行ったりとかしてました。で、その、先生がそっちに移るっていうのもあるし、ちょうど、もう、その2010年、11年になってくると、もう慣れてきちゃってるから、体調も安定してきたんです。やっと、もう、呼吸器つけた体に慣れ始めてきてて。そんなに、重篤な病気をするとかもなくなってきたので。それで、「増田さんがデイケアで拘束されるんじゃなくて、今度は増田さんが自分で行きたいところに行ったらどうなのかな。」って、「そういうふうにしたらどうなのかな。」っていうことで、リハビリ卒業を提案されたんです。

[00:30:29]
ユ えっと、リハビリのところは、さっき、2005年? うまく言えないんですけど、さっきの気管切開した時が…、

増田氏妻 2006年。

ユ 2006年6月? 5月?

増田氏妻 気管切開が5月で、在宅が8月。

ユ そうですね。

増田氏妻 で、リハビリ通い出したのも、もうその時から。

ユ 2006年8月から、さっき卒業するところまでが2011年2月?

増田氏妻 そこらへんぐらいまで。

ユ 約4年半ぐらいなんですけど、その4年半ぐらいは、向こうで、引越しする前ところから、週、また週3回…

増田氏妻 週3回ずつ行ってました。

ユ タクシーも結構高くなりましたね。

増田氏妻 で、あの、それがね、途中から、えっと、運転ボランティアの、友の会っていうのが京都にあって。あの、運転がボランティアなんです。だから定年退職した、ちょっと年配の男の方たちが運転してくれて。1キロ70円ぐらいの、金額だから、大幅に金額が下がったんです。前は片道8千円ぐらいだったの。それが、往復…、うん? 往復で3,200円ぐらいになったの。だから1,500円になるっていうの、大きいでしょう? 実際は、タクシーで河原町から上田リハビリまでね、もうせいぜいね、10分かそこらでつくような距離なんですよ。けど、リフト車じゃなきゃダメだし、前はその介護だと、介護料金みたいな、特にやってくれなくてもかかってて、一般のタクシーだとほんとにその距離だけでも、7、8千円だったんですよ。

[00:32:46]
ユ 片道で?

増田氏妻 そう。だから、1日で1万4千円ぐらいになるでしょう? 4千円、5千円になるでしょう。3日それ行くと、すごいでしょう。そういう生活をしてたらちょっとしんどいからって言って、色々探してくれたのが地域ネットワークの人…、ところだったかな。ちょっと紹介をしてくれたのが、その、京都運転ボランティアだった。そこは、もう、ある程度、「月水金でお願いね。」っていう感じでの約束をして。そうなったら、1週間で1万円切るようになったんです。約1万円。

ユ それがいつから?

増田氏妻 それがね、うんと、実質はね、2006年の9月末ぐらいかな。

ユ 1ヶ月ぐらいはちょっと高くして、そのあとからちょっと安くなりましたね。

増田氏妻 はい、はい。そうです。

ユ それは本当によかったですね。

増田氏妻 うん。じゃないと、ほんとに破産します(笑)。タクシー破産。でも、それによって、表情がみるみる良くなっていくっていうのはね、やっぱり、かけなければいけない出費だったんです、その時に、思えば。で、その卒業するまでの間にもね、写真でいっぱいあるけど、ジャズライブ行ったりとか、それから、あの、あれです、えっと名古屋とか。名古屋にね、こう、増田は名古屋の出身なんですね。で、かなりもう疎遠になってたんだけど、お母さんが…、お母さんが、あれだったの、尼さん…、尼さんっていうの? うんと、増田さんと若い頃、増田さんが30代の頃かな、お母さんとちょっと絶縁状態、何かけんかをしたらしいねんね。
[00:35:09] そこは詳しく聞けないんだけど。そういうことがあって、あのお母さんが、ま、独りになっちゃうんだよね。この人は家族ある、子どもいるっていう感じだったけど。それ、あとで聞いたんだけど、そのあとお寺に入って、で、女の人だから尼さんって言うんですけど、お坊さんの修行をやって、最後はその、大阪の近くの山寺の方で修行してたらしいんですよ。で、最後は90歳で、90何歳かで亡くなったんだけど、最後はちょっと体が不自由になった時は、いわゆる老人ホームのようなところで、過ごしてたらしいんだけど。やっぱり、連絡が取れなかったんだけど、増田がこの病気を発症してて、やっぱりバタバタしてた時だったから、電話があったかもしれないんだけど、たぶん取れてなくて、その間(かん)に亡くなっていたんですね。そしたら、その上田リハビリに通ってる頃に、電話がかかってきて。えっと、その、お母さんの、えーと何て言うの、師匠になるの? あの、お師匠さんになるお坊さん、名古屋の方なんですけど。「実は亡くなって」っていう話になって、やっぱりそういう、あとのお話とか整理もあるからっていうようなものも含めて、1回、お礼とかご挨拶に行かないといけない、っていうことで、名古屋に行くことになったんですね。その時も、酸素ボンベをこう。

ユ そこはいつでしたか?

増田氏妻 それが、青岸渡寺に行った…、それからその年か、その次の年。

ユ 2006…

増田氏妻 7年か、8年かそこらへんで、まだ、まだちょっとこう、すぐ肺炎起こすような状況の頃。

[00:37:28]
ユ はい。切開して、1年か2年ぐらいですね。

増田氏妻 はい、そうです。まだ落ち着かない頃でしたね。けど、「名古屋に日帰りで行ってもいいですか?」って上田先生に言ったら…、うーんと、確かね、私も書いたんだけど、その前、直前まで、京大病院に入院してたんです。その、肺炎で。重い肺炎かな。ところが、そういう連絡が名古屋から来たので、増田が「何日に退院したい。名古屋に行くから。」って言って。京大病院は「いいですよ。」って言って、退院させてくれた。だからまだ病み上がりの状態だったんですね。その状態で、すぐ退院したらまた上田リハビリに行って、「すぐ名古屋行く。」言うから、先生も心配したと思うけど、「大丈夫かなあ。」ぐらいに言ってくれて、やっぱり、そん時も。もう本人が「行く。」って言ったら、聞くか…、聞かないもんね、この人はね。それで、名古屋にも日帰りで。それ、その時も、その、運転ボランティアの車を貸し切って。新幹線で行くより安かったんです、びっくりするくらいに。名古屋に、えっと…、もう一人ヘルパーさんいて、二人と、運転の人もいてって。その人数で行っても、2万…

ユ おお、結構安かったんですね。

増田氏妻 むしろ「普段の方が高いわ。」思うくらいで。安く行ってきましたね。で、そういうふうな感じでね、何だかんだ言って、少ーしずつなんですけど、この、外に出る距離を少ーしずつ伸ばしていってるんです。で、体調も万全ではない中でも、自分が行きたいと思ったら、キャンセルしないので。あの、酸素ボンベを積んででも絶対に行く。私も、アンビュー揉みながら、車の中で、行きました。

ユ 増田さん、その時期、結構熱心にやりましたね。

増田氏妻 そうですか? ほんとに。

[00:40:00]
ユ (笑) 増田さん、あと、さっき奥さんから聞いた、2006年8月リハビリ始まった時から、2011年2月卒業するまでの、ちょっと思い出でちょっと話したいことがあれば、あとでインタビューしますね。はい。またその時期、在宅生活するときに、病院とか、結構行かれました? 入院とか…、

増田氏妻 あのね、まずは、その時期の在宅での介護が、今から思うと一番大変だったかな。最初の、何にも知らなかった、2、3年かな。そこそこ日中はヘルパーさんが入ってくれて、ほぼ毎日訪看さんが来てくれて、っていう状況ではあったんだけど。実質もう、午後…、そうだな、5時…、5時以降、次の日の朝8時、9時っていうところまでは、もう私一人で。で、その時はまだ、アモレもなかったから。で、肺炎を起こすくらいの状態ですから、痰の量がもうすごいんですね。で、さらに、やっぱり毎日毎日、何か起こることが新しいことが起こるから、もう、怖いわけですよ。警報が鳴るだけでもビクッとするし。私、一人でいるのに、警報が鳴ったり、アンビュー揉んでたら手が塞がるから、電話もできないわけですね。「息苦しいからアンビュー揉んで。」って言うから、揉むし。でも「呼吸器がおかしいから。」って電話しよう思っても、今度は、手、疎かになったら、大変でしょう。そういうふうな、やっぱり、すごい緊張感の中で。で、そういう不具合ってなぜか日中起こらないんですね。看護師さんがいるとか、もう一人ヘルパーさんがいるっていう時に起こってたら、「電話してちょうだい。」とか言えるんだけど。大抵は夜一人の私だけの時にそういうことが起こるので、もうビクビクしてましたね。ただ、まあ、命に支障がないことだったから良かったけど、やっぱりそういうこと繰り返してやってってるうちに、「あ、こういうふうな、になってるんだな、呼吸器は。」とか、そういうことをやっぱり、もう、実践で学んでいきましたね。[00:43:03]



ユ 前回インタビューした時に、在宅始まった時から、訪問看護の5ヶ所…、最初から5ヶ所が始まったと…

増田氏妻 あのね、そうだったと思う。ほぼそうでした。埋めるために、ここが誰も入れないってなったら、新しいところ呼んできて、って。5ヶ所でしたね。

ユ 1週間のだいたいのスケジュールは、例えば…、

増田氏妻 だいたいは、午前中の9時から10時、そこだけ。

ユ そこが訪問看護の人、

増田氏妻 うん、うん。その代わり、最初の頃は土日も来てもらってました。

ユ ふんふん。その、10時以降の時からは…、

増田氏妻 ヘルパーさんが、もう、ポツ、ポツって、その介護保険のヘルパーさんがポツポツって入ってくれてたんだけど。やっぱりメインは、上田リハビリに通うためにヘルパーさんが必要だったから、そこに合わせて来てたから。ヘルパーさんも意外と、その、移動する午前中の時間、それから帰る3時、4時の時間っていう感じで頼んでて、上田リハビリにいる時は私がずっとついてましたね。

ユ その時期の時間はどれぐらいでしたっけ? ヘルパーの時間。

増田氏妻 時間はね、もう在宅になった時から、介護保険の介護度は5で、一番重たい分だったから、たぶんそれを全部使うくらいには入ってたと思うんですね。こういう福祉用具も介護保険なんですけど、ほぼ丸々使えてたから。
[00:45:06] ヘルパーさんも毎日ではなかったけれども、少なくともリハビリに通うためには前後に1時間ずつ要ったから、2時間は使ってたし。で、それが週3回だから、えーと、6時間でしょう。で、関係のない曜日にも、1時間とか。あの、介護保険のヘルパーさんは時間に制約があるので、長時間ていうことはあり得ないんですよ。せいぜい1時間なんですよ。だからそれで言ったら、ならして言うと、「1日1時間の1週間」って考えてもいいのかな。

ユ その以外の時間は、全部奥さんが…、

増田氏妻 そうですね。

ユ 介護したことですね?

増田氏妻 すごく多くても、10時間はなかったんじゃないかな。どうだろうな。

ユ ほかの人が、手伝ってくれたり、介護してくれなかったんですか? ほかの家族とか。

増田氏妻 私がその時は、えっと、金曜日と土曜日、仕事に出勤しないといけなかったんです。金曜日は一応リハビリ行くから、「上田リハビリにお任せ」っていうスタイルは取れたんです。ただ土曜日が問題だったので、土曜日は増田の娘さんのあやさんが、とりあえず来てくれる。そして私が朝8時から、えっと夜の5時ぐらいまで…、4時だったかな。4時かそこらまでだったんだけど、そこまでの間は、娘さんと、それからヘルパーさんをちょっとこう、ちょこちょこ入れてもらったような気はします。繋いで、繋いで。訪問看護師さん、それからヘルパーさん、っていう感じで、繋いでいったよね。そうだったと思う。

ユ 増田さん、今まで合ってますか? はい。今話したのは、介護保険の時間ですね、それで、あとで出てる重度訪問介護のこの時間とかは、別。別ですね?

[00:47:45]
増田氏妻 うん。そうです。◆その時は、その時のケアマネは、「重度訪問っていうのは、知らない」って言いました。

ユ 1回目のケアマネ…、

増田氏妻 一番最初のケアマネ。で、そこの事業所が全部抱え込んでましたね。で、「それではダメだ。」っていうので、訪看さんが勝手に、違う事業所を呼んできてくれたんです。それがその土曜日のところに入ってくれるような形になったような気がします。で、介護保険って難しくて、重度訪問だと、ユさんが5時に終わったから、5時から違う人入るね、ってオッケーだけど、介護保険は次の介護保険入るまでに、2時間だか3時間空けないと入れない。

ユ ああ、そこは厳しいですね。

増田氏妻 もうほんとに制約が。厳しいです。介護保険っていうのはやる仕事が時間で区切られてるから、続けてっていうのとか、長時間とか、見守りっていうのは、ない仕事なんですね。

ユ氏 その意味では…、必ず隣に家族とか手伝う人がいなければ、介護する人がいなければならないことでしたね、その時期は。

増田氏妻 そうです、そうです。だから、あやさんも、ちっちゃい子どもがいたんですよ。あの女の子のほうかちゃんなんかが、赤ちゃんだったわけですよ。その上の子たちもちっちゃいから、3歳だの4歳だのって。はっきり言って子どもたちはすぐ、それこそ増田と一緒で、熱出すんですよ。だから私も、「明日土曜日、仕事行こう。」思ってると、「熱出したから明日行かれない。」って、そういうことはもう、いっぱいありました。

ユ氏 その時はどうしました?

増田氏妻 仕事休みます。行かれないので、

ユ氏 仕方がない。

増田氏妻 ないですね。うんうん。それはヘルパーさんに言っても、無理でしたね。介護保険では。

ユ氏 ああ。そこまでは重度訪問じゃない。2011年2月上田卒業するまでにも…[00:50:00]
増田氏妻 と思う。もう1回、私もね、何かちょっと、かなり十…、何年も前の話なので、あやふやだから、あやさんにも…、あやさんが土曜日来てくれてたから、ヘルパーさんどんな感じで入ってたかをちょっと聞いてみようかなと思う。

ユ氏 先週、あいさつしましたね。

増田氏妻 私らとしても、そこにいないので。私はその時は仕事オンリーだったから(笑)。誰入ってたか、何時間入ってたか。よくよく考えたら、そんな時間、どうやってヘルパーさん入れてたか、ちょっと私もね、介護保険なのに、おかしいなと思いながら、【とくやく】(00:50:38)でもやったのか、ちょっと聞いてみます。忘れてきたりとか…、

ユ氏 増田さんも何か思い出したら、教えてくださいね。はい。

増田氏妻 昔ね、あやさんが土曜日に来てくれてた時あったでしょう? 私が仕事に行って。その時って、ヘルパーさんずーっといた? ふれんず葉賀さんの所とかから来てくれてたよね。介護保険だよね、あれはね。ずっとはいなかった? 何時から何時だった? あとはあやさんだけって感じだった? あ、やっぱりそうだね。何か、私が帰ってくる4時5時までにね、1時間でも空いたらそれはもうダメなんです。アウトだったんですよ。だから必ず誰かがいる状況じゃないと、私は出られなかったから。何とか繋がってたんだなと思うけど、やっぱりそこは、娘がみててくれたのが主かな。で、ちょっとダブらせるように、ヘルパーさんがちょっと入っていたのかもしれない。

ユ氏 その時も、娘さんは、大阪に住んでいました?

増田氏妻 うん、そうです。で、その時は、阪急で来たら、降りてすぐのところだったので、とても便利はよかったですけど。うん。阪急の十三駅だったの…、の近くなのね。だから乗って、河原町通いったらまた高島屋の裏だったので、すぐだったんですね。

ユ氏 増田さん、ここまで、話、合ってますか? はい。

[00:52:19]
増田氏妻 合ってますか? 聞いてますか? 増田さん自分の出番じゃないと思ったら、大間違いよ。おたくの話してるの。

ユ氏 あとで年表を見ながら、また整理しますね。

増田氏妻 そう、そういう感じだったから、介護で言ったらその時が一番しんどかったね。私も、その、いつ寝る…、寝るタイミングとか。それから、やっぱり、拘束された感がとても強かったので。買い物に行くのにも人がいないと出られないから、ヘルパーさんを待って、走って行ってくるっていう感じだったなあ、っていうのは、確かその時期。

ユ氏 増田さん、今奥さんの話聞いたら、私、2年前、韓国でインタビューした、配偶者さんたちが思い出しましたね。その人たちも結構、やっぱり介護のせいで、みんな…、韓国の場合は時間がすごくすごく減らしているから、やっぱり時間が、

増田氏妻 ないのね。

ユ氏 うん、ないから、増田さんのように外出する時とか、何か病院とか、用事があるときには必ず使ってしまったら、ほかの日にちとか時間は、やっぱり奥さん一人でやったり。たまに、息子とか娘さんとか、知り合いの人に頼んでも、時間がやっぱり足りないから、結局仕事辞めて、経済的にもすごく、ちょっと大変になって。その話が結構ありましたね。

増田氏妻 そうですね。実際ね、在宅になる前に「そうだよ。」っていうふうに言われてて、「それは覚悟しないといけないのかな。」とは思いながらも、まあ、始まったんですね。ただ、えーと、その割には、もちろん一人だけの夜の時間帯っていうのは大変だった記憶はあるんですけど、その割にはストレスがたまらなかったのは、やっぱり外出して、その、それはリハビリではあったけども、外に出たので、その間(かん)は私も増田の隣に付き添ってはいるけど、休んでいるわけですよ。で、周りを見て話(はなし)したりして、挨拶して話(はなし)してっていう、気が紛れてたんですね。

[00:54:56]
ユ氏 増田さんもその時期に、たぶんストレス発散とかしたんじゃないですか? 外出していたから。たぶん、家で、ベッドばっかり、寝たばかりになったら、もっと…。韓国の場合はそんな人が結構多いので、そのストレス、例えば…。あ、あくび。

増田氏妻 ハックション。

ユ氏 はい。(笑)

増田氏妻 ハックションかな。うん、大丈夫、大丈夫、くしゃみしてたの。寒い? 大丈夫? うん。

ユ氏 韓国の場合は、結構寝たばかりの人が結構いらっしゃって、そのストレスが結構溜まってるんじゃないですか。それで指とか、ずっと動く…、韓国に今、増田さんの場合は結構屈伸とかやってるんですけど、韓国の、やっぱり、時間が足りないから、やる人があんまりいないでしょう。だからそのままちょっと硬くなったりするから、少し動いて、の話(はなし)してもすごく怒ったり、そのことが結構起こって、配偶者さんたちが結構ストレスもっと溜まってる状況でしたね。

増田氏妻 なるよねえ。それはわかります。

ユ氏 それで韓国と日本の、やっぱり保険とか制度が大事だなと、今、インタビューしながらも、私ちょっと考えてみました。

増田氏妻 そう、そうですよ。まあ、家(うち)にヘルパーさんとか、ほかの人を入れたくないっていう気持ちの人もいっぱいいるのね。自分の家(うち)に。

ユ氏 ALSの人?

増田氏妻 ◆普通…、普通でも、例えば自分の部屋に勝手に人が入ってきたら嫌だ、っていう感覚と一緒でね。そういう気持ちは確かにあるんだけど、それ以上にもっと大変なことが多くて、やっぱり。だから、入ってもらって、せめて私ら、私、一番最初にヘルパーさん来てくれて、ありがたかったのは、屈伸をしてくれることやった。ただ、介護保険ではできないのね、屈伸。「体位交換」っていう名目で屈伸してもらってたんだけど。結局、それをやってくれたら、私それをやらなくていいのね。もう、そこだけお任せできると、かなり、(咳) …ごめんね。…楽になったんですよ。全部、気になるとはいっぱいあるの。側にいるから。あ、屈伸しなきゃ、吸引しなきゃ、あ、もしかしてオムツかな。あ、食事だなって。もう次から次と気になることあるけど、それを一人で背負うと、時間が足りないんですよ。うん。
[00:57:55] そうすると側で、話(はなし)して笑ったりっていうことが、本当にできなくなるのね。もう体が疲れちゃって。だからやっぱり、そういう話(はなし)して、お互いその気持ちを、こうね、通わせないと、考えてることが分からなくなってくるからね。そういうふうな方が怖いな、って私は思ったのでね。ほかのことをやってもらいたいな、と思って、ヘルパーさんには入ってもらってると思ってんですよ、私はね。

ユ氏 増田さんもそうでした? そうではない?

増田氏妻 (笑)

ユ氏 (笑) 増田さんの考えも、あとで教えてくださいね。はい。

増田氏妻 私の印象では…、言うとね、やっぱり、不安だったのね。ほかの人に触らせること、っていうのが。だから私、私がうまいとかではなくて、私がもう知ってるから、安心して、オムツ替えも屈伸もさせるけど、これが「今日からお願いします。」っていう学生が来たって、「できるわけないやん。怖いやん。痛かったらどうしよう?」ってことを考えてるような目で、最初にこう、見てるのがわかるから。怖いんだと思うのね、最初はね。だけど、そういう感じだったから、私に「やれ。」っていう感じが最初はあったんだけど。自分で学生たちを面接して、雇い入れるようになってからは、むしろ違う、もともと人好きなところが今度は出てきて、多少下手だとかそんなことはどうでもいいから、何か楽しく話ができたらいいとか、そういう感じにちょっとこの人も変わってきたかな。

[00:59:58]
ユ氏 その、学生さんが始まった時は、重度訪問介護が始まった時からですか?

増田氏妻 そうですね。

ユ氏 その前は…、

増田氏妻 だから2011年ぐらいからです。

ユ氏 引っ越ししてから?

増田氏妻 はい、はい、そうです。

ユ そこから学生さんたちも来てくださった、はい。その前は介護保険で、訪問看護師さんとか、訪問介護の人たちが来て、奥さんと、奥さんの息子? 娘さんとか、家族で介護したことですね。はいはい。

増田氏妻 そうです、そうです。あ、一応ですね、私は、世帯で言ったら別世帯になるんです。同居はしてるけど、名前が違うんですね、世帯が違うんですね。けどまあ、対外的には奥さんっていうふうに言われてるので。

ユ 前回、最後にちょっと言いましたね。

増田氏妻 うん。増田さんの娘さんと息子さんはいるんだけど、私とはつながっているわけでは全然なくて、っていう関係ではあるけど。まあ今のところ問題なく(笑)、過ごしてきていますけど、と思ってますけど。

ユ 増田さん笑ってますね。

増田氏妻 何にもないもんね、だって。うん。

ユ その時期の息子さんはちょっと遠いところに…、

増田氏妻 滋賀県の方に住んでます。ただ息子さんとも、もともとあんまり連絡取らない人だったの。もう、元気な時から取ってないよね? 取ってる? 取ってた? 私、知らないけど。増田さんが元気な時から、息子さんとは連絡は取ってた? お互い連絡するようなあれじゃなかったね。うん。あの、娘とも…、

ユ (笑) 目をパチンとして。

増田氏妻 娘とも、病気が発覚してから、私も面会しました。

ユ ああ、そうかそうか。

増田氏妻 うん、うん。だから、あの、初めて、初めてあやさんと会ったのも、病気を伝える時だったと思う。うん。だからもう、えーとこの、このおじさんは、もうやりたい放題。家族そっちのけでやりたいことをやってきた…、

ユ そうですね、増田さん。

[01:02:24]
増田氏妻 おじいさんです(笑)。うん。そう、その、お母さんが、あの、…とちょっと絶縁状態。絶縁というのはね、連絡先もちょっと分からないような、連絡も取らないような。私、「え、どこにいるの?」って聞いても、「どこかなあ?」っていうふうに言う人だったから、「いないのかなあ。」とか思いながらね。不審に思ってたら、何かそうだったということは、あとでその、お寺の人からちょっとこう、聞いた分です。その時にもう、弟さんもいて、とかっていうのも聞いたりしてね。でも、会ったことのない弟さんがいたりとかね。そう、色んな話があとからいっぱい出てきてビックリしました。(笑)

ユ それ、今の話では、増田さん発症してから、ここ引っ越しする前、約6年、7年ぐらいですか? 2004年からですね、はい。その時期は、大体奥さんと一人か、娘さんが介護、家族としては介護しながら、ほかの介護保険とか使いながら、今まで生活してきたですね。はいはい、分かりました。

増田氏妻 そうだったよね? うん、うん。で、ただ、ちょくちょく、写真にあるように外出してたのは、やっぱりすべてその、上田リハビリの人たちの厚意で、ご厚意で。あの、普通だったらやっぱり、その人が夜に外出しようと思ったら、ヘルパーさんが要るわけですよ。でも、介護保険のヘルパーさんはそういうふうに都合よくは使えないんですよ。

ユ そうですね。

増田氏妻 「今から飲みに行くから。」とか。そういうのは全部その、リハビリの先生だったり、看護師さんだったりが、自分たちの善意で手伝ってくれたから。

ユ ボランティアですね。

増田氏妻 うん。行けて、楽しめたので。それで味を占めたわけですよ。

[01:04:53]
ユ (笑) 前、写真見ましたね、増田さん。1万5千枚の中で、何十枚は飲み会の写真。

増田氏妻 (笑)

ユ (笑) で、その中で、リハビリの先生とか、結構出ましたね。さっき言ってた旅行、2泊3日の旅行でもリハビリの先生、その先生と一緒に行ったり。

増田氏妻 そうなんですよ。

ユ 仲良いですね、増田さん。(笑)

増田氏妻 ◆だから、そうやって、「それはもう仕事外です。」って言われちゃったら、たぶん今はなかったかもしれない。

ユ そうですね。

増田氏妻 ◆うん。そういう、善意があって。だけど、いつまでもそんな善意ばっかりでは進まなくて、「何が必要か。」っていうことをこの人が理解して、「それにはどうしたらいいか。」ってことを自分で考えて、あの、【いまに】(01:05:59)広域協会を使うパーソナルアシスタントを、にするっていうのは全部、増田さんが決めたんでね。私、反対だったんですよ、最初は。うん、なぜかっていうと、やっと在宅生活が安定してきた頃だったの。最初の1、2年はほんとに、寝不足だし、買物行かれないし、「うわあ!」ってこう、パニックになるような感じだったのに。意外と慣れてきて、リズムも分かってきて、呼吸器にも私も慣れてきて、怖さも少し少なくなってきた。さらに増田の体調も少しずつ安定してきて。熱出そうなときは分かるようになってくるような頃だったから。もう、落ち着いちゃって、「大丈夫だよね、これだったらいけるよ。」って思ってたんですよ。その頃に、体制をがらっと変えようとしたんで、「えーっ!」て思ったんです。一番思ったのは、こっちに引っ越してきたでしょ? 前の家(うち)は狭かったけど、ちゃんと、何ていうのかな、プライバシーがしっかりと取れるような間取りになっていたので、トイレだったり、自分の部屋だったり、お風呂だったりはちゃんと別にあって、いたから、まだよかったんですけど。ここはハッキリ言って、病院の個室と一緒でしょ。トイレもお風呂もあれば、私の部屋もあるけど、鍵があるわけでも何でもない。プライバシーがない中で、今度はずっと四六時中ヘルパーさんを入れて、「自分が活動をするために入れなきゃいけない、だから募集するんだ。」って言った時には、「私はどこに行ったらいいの?」って話(はなし)しました。

[01:07:53]
ユ 増田さん、今、笑ってます。(笑)

増田氏妻 そう、もう極端な話、「私に出て行けということなの?」っていうふうな会話も、確かしたような気がする。

ユ その時、結構けんかしました?

増田氏妻 うん。あのね、けんかっていうこと…、あのね、私たちね、けんかじゃないねん、それは。自分の思うことは、もう遠慮なくお互いに言うから。私は「私の居場所なくなるやん。」って平気で言う。この人は「自分がこれから活動の場を広げるのに、ヘルパーがいなかったらどうするんだ。」って、自分の持論を言う。だから、「えーっ!」て思いながらも、それぞれ考えるわけ。この人はこの人で、私のプライバシーをどうやって守ろうか、っても考えてもくれるし、私は私で、「やっぱり私一人であちこち連れて行けないよね。」って。車いすを押してたら荷物持てないし。前、全部一人でやってたので。車いすを押してってから、荷物運んで、で、さらにお客さんが来たら、文字盤取って、全部一人でやってたから。

ユ 大変でしたね。

増田氏妻 大変でした。(笑) それを思うと、やっぱり要ることはわかるんです、ヘルパーさんが。「じゃあヘルパーさんと私が同居しなきゃ、こんな狭い…」、豪邸だったらいいんですけど、「こんな狭いとこで同居すんの? 私、じゃあ別のとこに借りて住めばいいのかな。」って、そういう話を色々してたんです。本当に、「別なとこに私が住んで、そしたら私がもうちゃんと仕事もフルでできて、自分は自分で生活ができて、増田さんがお任せする…、ヘルパーさんに全部お任せするっていうんであれば、私はオッケーだよ。」って出したんです。そしたら、それは嫌だったらしいんですね。(笑)

[01:09:49]
ユ それは嫌でした? 増田さん。…はい。(笑) 増田さん、普通に介護保険使いながら、今、ヘルパーとか、奥さんの話では5年…、気管切開してから5年ぐらいはもう慣れていったんですけど。なぜ、自薦ヘルパー使うように考えたんですか? それが、増田さんの気持ちが、たぶん変化があったんじゃないかな?と思って。

増田氏妻 あの、◆自薦ヘルパーっていうことを教えてくれた人がいたのね。だから、それまでは知らないでしょ?

ユ 増田さんも知りませんでした? ああ、そっか。

増田氏妻 ◆で、重訪を知らないってケアマネさんと、ちょっとこう、上手くいかなくなって。「ケアマネさんを代えたい。」って言ったのが、ま、引越しする直前ぐらいだったんです。向こうに住んでる頃にケアマネさんが変わったんです。

ユ 前、1回目のインタビューするときに、4人のケアマネさんがいて、1回目も…

増田氏妻 …は、もう最初からの人が、引越しするくらいまでだったから。2010年…、あ、2009年ぐらいまでで終わったかな。

ユ そのあと、

増田氏妻 うん、代わって。で、その方は重訪も知識もあって、自薦ヘルパーっていうのを聞いたことがあって、それを詳しい人も知ってるっていう話があったんですよ。

ユ そのケアマネージャーさんから聞いて、分かるようになりました?

増田氏妻 うん。いや、◆そのケアマネさんは、「知ってる人を知ってるから」、ケアマネさんも、「どういうシステムかは分からないから、聞いてみたら?」って紹介をしてくれたの。

ユ それが2番目のケアマネ、はい。

増田氏妻 そうなんです。◆それで、紹介してもらったのが、京都新聞の岡本さんだったのと、もう一つ電話番号を広域協会のを聞いたから、私が電話したんです。で、自薦ヘルパーというのは自分で選ぶヘルパー。「私は同居してるけど、世帯違いますけど、私は自薦ヘルパーになれますか?」って聞いたら、「なれません。」って言われました。

ユ そうですね、前回、少し話出ましたね。

増田氏妻 ◆で、「何だ…。」って思いながら、とりあえずは1回問い合わせたんです。そのことは大河内さんも知ってたよ、あとで。前の時に、「電話くれましたよね。」って言われたの。そうだったの。

[01:12:35]
ユ その時まではケアマネジャーさんが二人目…、

増田氏妻 二人目の時。そして、引越しをして。で、引越しと同時に…、同時にというか、もうそっから1年もしないで上田リハビリを卒業になるから、それこそ重訪が必要になってきだすわけです。で、今度は、自薦ヘルパーの前に重訪をまず使ったんです。金曜日に、私が、もうリハビリがなくなるから。だから金曜日に預けていたのが、預けられないでしょ。そうすると私が、その時はもう土曜日の仕事はなくなってて、金曜日だけ出勤すればいいようになってたんですけど。金曜日にお任せできないわけ、介護保険では。そしたら、「重度訪問っていうのがある」っていうのが、「そこに、重訪の事業所に頼んだら見守りができるよ。」って言ってくれて。最初に使ったんです。それが、今、金曜日の朝8時から10時までは介護保険の事業所が入ってるのね。10時から、私が帰ってくるまでだったから、5時ぐらいまでっていうことで。初めて重度訪問のヘルパーさんがそこに入ったの。

ユ ◆重度訪問はいつから始まった…、

増田氏妻 それがね、えっと上田リハビリを卒業したあとからだったの、すぐだったの。

ユ ああ、2011年2月、3月頃。

増田氏妻 うん、そう。で、上田リハビリを卒業するにあたって、上田先生はやっぱり、ただ放り投げたんじゃなくて、「何とか増田さんが、卒業したからって、うちで寝たきりになってしまったら元も子もないから、何とかあとのことよろしく。」って言ってくれたのが、◆西田先生だったの。

ユ うんうん。また運命が出ました。

増田氏妻 そうなの。で、出口先生ともそうだったの。出口先生ってリハビリの先生と、西田先生が関わってくれて、「一緒に学校に講義に行きましょうよ。」とかそういうことを言ってくれて。
[01:15:00] で、さらに、上田先生が心配してくれてたから、重度訪問の事業所も、紹介してくれたのは上田リハビリなの。そこまで至れり尽くせりで手放してくれたのね。始めは、増田は恨んでました、上田先生を。「何(なん)…、僕、上田リハビリに通いたくって引っ越してきたのに、やっと傍に来たのに、タクシーでなくて行けるのに、1年も経たないで、「卒業」ってほっぽり投げられて、どうするんだい?」って思ったみたいなの。そしたら、そう思ってすごいショック受けたんだけど、西田先生からメールもらったのね。「僕もうね、リハビリ通わなくていいしね、もう、どうしよう。大ピンチ。」っていう感じでメールしたのが、西田先生がね、「え? そんなことないよ。大チャンスかもしれないよ。」っていうメールを西田先生からもらったの。

ユ 増田さん、1回インタビューしたときに、増田さんが打ってましたね。ショックを受けたと。(笑)

増田氏妻 で、「ピンチはチャンスだ。」というのを西田先生に言われたら、コロッて変わっちゃって、「そうだ、自分で、じゃあ自分でしていこう」。「一緒に行きましょう。」って言ってくれたの、西田先生も、出口先生も。「一緒にどこどこ…」、ほんとに最初は、出口先生が滋賀の医療技術短大…、あ、専門学校の講義に出口先生が呼ばれてるの。「増田さんもついてこない?」って言ったの。それで、「一緒に講義に行こう。」っていうのを一番最初にやってくれたの。

ユ 増田さん、そこから講義が始まったんですか? ああ、そっか、そっか。

増田氏妻 そう、ほんとに。で、その時に、出口先生が講師なんだけども、出口先生が増田さんのこと話(はなし)したいからってパワーポイントを作ってきたの、ここで。で、見せたの。

ユ (笑) 増田さん、今、笑ってますね。あ、思い出しました?

[01:17:15]
増田氏妻 いや、そしたらね、普通は出口先生は「内容どうだった?」って聞くでしょ。増田は、「いくら?」って聞いたの。で、「え? 何がいくらなの?」って聞かれたら、「いや、このパワーポイントっていくらで使えるの?」って。パワーポイント見るのが初めてだったの。

ユ はあ、その時が。

増田氏妻 うん。初めて見たのね。「これを出口先生が作った。」って思って、「え? 僕も作りたい。」と思って。出口先生のその内容なんか見てないの。「え、こんなの作れるんや!」って。「そんなの、どうやって買ったらいいの?」って。

ユ 今、泣きます。泣いてます、増田さん。

増田氏妻 で、教えてもらったの。「そしたらお試しのあれ、あるから持って来るよ。」って言って、お試しのを入れたら、もう、ねえ、おもちゃを得た子どものごとく、(笑) はまったな。

ユ また新しい人生が始まったんですね。(笑)

増田氏妻 そうなんです。その時に出口先生が思ったんだって。「自分が作ってあげなきゃいけないと思って持って来たのに、何だ、作らせたらいいんだ。」って思ったって。「そっか、できないって勝手に決めたらいかんだ。」って思ったらしいのね。

ユ 今はめちゃ上手いですね、増田さん。(笑) 色んなパワーポイントを作って。

増田氏妻 だから学会に行っても、中身より、技術の方を見てます。(笑) 人のパワーポイントの。

ユ 少し、涙拭きますね。

増田氏妻 そういうの作るの好きなんだよね。企画書作るのも。パソコンで嬉しそうに作ってたからね。旅行の企画書も。

ユ 前、前回、いつだったっけ? 去年、誰かの先生がいらっしゃった時に、その時もパワーポイントを見たら、USB持ってきて、ダウンロードして、その技術を見たんじゃないですか? 思い出しました? (笑)

増田氏妻 そうです、そうです。ほんとは中身読んでほしいですけどね。(笑) ちょっとね。

ユ (笑) 増田さん、ちらっと見てます。

増田氏妻 もう、興味津々なのね。

インタビュー さっき、たぶん金曜日に人が、ココペリさんから来る話を少し、出ましたね。

増田氏妻 ◆うんと、増田さんは上田リハビリに通ってた時期もとっても幸せやったと私は思うのね。「ああしたい、こうしたい。」っていうのがどんどん出てきて。で、「卒業」って言われて、ちょっと落ち…、「えー、どうしよう、これから。」って、「僕、路頭に迷うわ。」って感じで落ち込んでたんだけど。結局は、お手伝いしてくれる、そのあとのサポートも最初あったんで。活動の足掛かりを作ってくれたんですね、西田先生とかがほんとに。で、その時に、ちょうど「震災と停電をどう生きるかっていうシンポジウムをやらない? 増田さん。」って声かけてくれたのも、西田先生だったの、最初。それがほんとに、5月かそこらの話で、そっから思いっきり走って9月にシンポジウム★やってるから、すごかったよ。もう、ここに…、

インタビュー 3月にタイ地震があったんですね、はい。

増田氏妻 そうです、そうです。で、ここに、ここに、たっくさんのJCILの人とか…

インタビュー 写真見ました。

増田氏妻 うん、集まって、みんなでシンポジウムの話し合いを詰めたんですよ、床に座って。

ユ そうですよね、うんうん。熱心に。その時期の段原さん、結構若かったなと思いました。

増田氏妻 そうです、そうです、その方です。よくやってくれてね。そうやって、やっていってるうちに、外で活動するやり方っていうのを、増田本人が学んでいったのね。で、今度はもう、そういう先生方についてって…、行かなくても、「自分もパワーポイント作って発信したい。」っていうのが、もう、出口先生のパワーポイントを見て、半年後には作ってたもんね、もう。(笑) できあがってたもんね、第1弾。

ユ 出口先生からパワーポイントをもらったはいつ?

[01:24:57]
増田氏妻 それが、2011年の、えとね、その、学校に行ったのがね、5月か6月だったかな、って気がするんですよ。その頃。

ユ はい。シンポジウムが9月だから、その間(あいだ)は増田さんがパワーポイントを作りました? ああ。

増田氏妻 うん。シンポジウムでも、さっきのあれで、ちょっと簡単なパワーポイントを作ってて。で、作ったはいいけど、しゃべれないでしょ。で、私、「増田が外で活動するのはいいけど、私は性格上、前に出て行くのは苦手だよ。」って。「後ろでサポートするのはいくらでもできるけど」。だから「私は絶対に前に出ないからね。」って約束したら、「いいよ。」って言ってくれて。「で、どうするのか?」って言うのが、自薦ヘルパーっていうことになってくる。やっぱり介護保険のヘルパーさんは、制約があるね。そういう仕事させるわけにいかないので。

ユ 2011年3月に自薦ヘルパー導入しました?

増田氏妻 3月かなあ。 あのね、一番最初は自薦ヘルパーっていうよりも、金曜日の、私の仕事の間を埋める重度訪問で使いました。ただ、それと同時に、難病センターから見学に学生たちが数人来たのね。その中に看護学生が一人いて、大学生がいて。増田さんとメールをしてる間に、「来ない?」って話になって、始めたのがやっぱり、それこそ5月、6月ぐらいからぼちぼち…、

ユ パワーポイントの、やり方も分かったと同時に、はい。

増田氏妻 そうです、そうです。始まってきましたね。

ユ 増田さん、あとで、さっきの先生のお名前もう一度お願いします。

増田氏妻 出口先生?

ユ 出口先生と一緒に何か学校始まって行ったんじゃないですか。その気持ちと、今シンポジウム、さいかい、えっと、しゅうかい? …この漢字、読み方…

増田氏妻 主催。

ユ 主催するときの、せっかく増田さんが始まったのを、初めての経験だから、その気持ちとか、その時期の増田さんの話をあとで聞きたいんですね。はい、分かりました。

増田氏妻 あの、出口先生との講義のあれは、近畿ブロックに投稿してあったよね。「やじきた道中」とか言って★。

ユ 投稿しました?

増田氏妻 うん。残ってたかどうか、ちょっと分からないんだけど。その、リハビリの先生と一緒に医療の専門学校で行ってきましたって。200人ぐらいやったね? その時もね。

ユ 前、資料もらった分であるんですか?

増田氏妻 あの、近畿ブロックの冊子の中に、取ってあるかどうかがちょっと分からない。一番、古い辺りになるんでね。ちょっとね。

ユ ああ、そこが一番最初の、どこかに載せる文章ですか?

増田氏妻 うん。そう。あ、その前は、その、和歌山に行ったのも載せました。

ユ それは、何か見た気がしますね。

増田氏妻 うん、はい。そのあとにその、学校行きましたっていうのを載せました。

ユ あとでちょっと調べます。2011年5月ぐらいから自薦ヘルパーを使って、増田さん始まったんですけど、初めての自薦ヘルパーの人はどんな人でした?

増田氏妻 えっと、大学名とか言っても構わないよね? 喋る分においては。何かまとめる時に、それがNとかAとかになればいいんだよね。
 最初に、一番最初に来てくれたのが、橘大学の看護学科の【さかいのりこ】(01:29:28)さんだったのね。その方があの、代読してくれたりとか、そういうふうなのもね、しっかりできる人だったので、シンポジウムの時にも、壇上でパワーポイントを代読してくれたんです、私に代わってね。そのあとも、もう12年とかは、立命館高校行ったりとかってそこら辺は、しばらくさかいさんがやってくれてましたね、メインになって。そのさかいさんは、一応卒業するまでやってくれてたんですよ。で、ただ、看護学生だから、3年、4年になったらそんなにここには入れなくはなったけど。でももう卒業して、そのまんま京都市立病院に決まって、看護師さんとして入っていったところまではしっかりともう、覚えてます。一番最初のパーソナルアシスタントだったので。

[01:30:36]
ユ 増田さん、初めてパーソナルアシスタント使って、どんな気持ちでした? それはちょっと教えてください、今。(笑) ちょっと聞きたいなと思っているんですけど。この辺に打ってもいいんじゃないですか?(笑) 今、私、インタビューするのが、やっぱりヘルパーをどうやって使って、そこから始まる【事件】(01:31:13)じゃないですか? またたぶんそこから人生が変わるんですね、増田さんの。世界が広がるから。

増田氏妻 痰かも。

ユ ちょっと…、

増田氏妻 痰引きますか? 上がってきてるやん。増田さん、あの、さかいのりこさんってすごい可愛がってたやん。あの、さかいのりこさんってすっごい小柄な、ちっちゃい感じなのに、腹が座ってるのよ。人前とか全然平気な人でね。高校とか、そういうところにも行って、パワーポイントでこう、できてたからもう、安心して、やってましたね。

ユ 吸引した方がいいですか。

増田氏妻 吸引するね。

(録音中断)

[01:32:16]
増田氏妻 今ではその、ほんとにパワーポイントっていう、新しいおもちゃを得てっていうか、それに集中したよね。パワーポイント作り。で、新しい技術とかもね、吸収が年の割にはすごく早いんですよ。目の前で、「こういうふうなのはこうするのよ。」って学生さんとかに教えてもらうと、もう1回で覚えるの。増田さん、すごいの。

ユ すごいですね、増田さん。

増田氏妻 もともとね、取説、取り扱い説明書を読んで、やるタイプじゃなくて、見て、感覚でパッてやるタイプだったから、すごく物覚えは良かったですね。

ユ (笑) 増田さん、笑ってますね。

増田氏妻 それが、またパソコンをガンガン使う原動力にもなって。たぶん、1日平均10時間はパソコンを使ってました。

ユ それでやっとパワーポイントが終わりました、増田さん。

増田氏妻 うん、うん。ほんとに。外出しない時は、やっぱり、もうメールのやりとりも含めて、パソコンがないと、ちょっともう生活ができないぐらいになってましたね。

ユ ◆前、写真見たんですけど、増田さん。シンポジウムの時で、立岩先生もいらっしゃいましたね。その時期で、初めてご挨拶したんですか?

増田氏妻 そうです。あの、シンポジウムを開くっていうために、そのシンポジウムの前にね、それこそ何て言うの、計画の最初の頃に、初めて立命館大学を…、たくさんみんな集まった時あったんです。JCILの小泉さんも、それからもう一人、筋ジスの佐藤謙さんも。あと、工繊大の〔坂田〕先生とかも集まった時あって、それの場所が今、立岩先生のいる部屋だったので、そこに集まったんです。その時に初めて「増田です。」っていう、うさん臭い顔をしながら、増田さんがね、ほんとにそうやって挨拶をしたのは覚えてます。

ユ その時の増田さんの気持ちも教えてくださいね。初めて大学…、2回目の大学ですね。前、さっきの先生と一緒に、ほかのところで…、

[01:35:07]
増田氏妻 うん。でも、あれはまあ、何て言うのかな。広い講堂みたいな専門学校のあれだから。そういうふうなのと、ああいう、いわゆる研究者の…

ユ うん。【本格】(01:35:22)で。

増田氏妻 うん、部屋っていうのは。そっから、ちらほら、重度訪問であそこら辺を使ったりとかっていうので、通うことにはなりましたけどね。

ユ ◆えっと、シンポジウム…、ヘルパー使う時の重度訪問介護、最初は何時間ぐらいでしたか?

増田氏妻 あの、たぶんなんですけど、200時間ぐらいだったと思う。うん。それぐらいで十分かな、っていう感じの使い方でしたね。

ユ はあ。増田さん今、年表を見たら、2012年2月に…、ああ、その前、何か申し込んで、そこから2011年9月ぐらいから始まって、また2012年、ちょっと増えましたね。その前は200時間ぐらい?

増田氏妻 一番最初、その、金曜日に私がいない時に、重度訪問のヘルパーさんに入ってもらうっていうのが前提で、こっちから「いくら必要」とか頭にないので、たぶん適当に「最初それぐらいで。」っていうので申請してもらってたのだと思うのね。こっちがした記憶がちょっとないので、よく知らなくて。ちょうど、ケアマネさんが変わって、ケアマネさんがこう、知ってる人だったから、何かやってもらったような雰囲気ではあったかな。

ユ 2番目のケアマネジャーさんですね。

増田氏妻 そうです、そうです、はい。その時はその、時間数の重要性とかはまだ全然頭になくて。「とりあえず金曜日に入ってくれればいいので。」っていう使い方で申請した気…、時間数だったと思いますね、うん。

[01:37:29]
ユ そうかそうか。増田さん、年表、ちょっと下のところに、見せていただけますか、はい。
 それで、2011年に9月シンポジウムが終わりました。シンポジウムの話はまた増田さんと話しますね。はい。そのあとはあんまり、外出する機会とかあんまりなかったんですか。

増田氏妻 いやいや。もう、そのシンポジウムが終わった辺りからだったんです。JCILの小泉さんのあれもあって。えっと、重訪の、ヘルパーさんもっと増やした方がいいし、そのシンポジウム終わった辺りから段原さんも重訪で入る話になったんです、うちに。「縁ができたので、入ってもらいたいから、この際ちゃんと時間数をもらった方がいい。」って話になったんです。

ユ シンポジウムが終わってから。

増田氏妻 うん、終わってから。それで、増田も、「パーソナルアシスタントをどんどん使いたい。」っていう方向に走っていったので、24時間使うってなると、普通に計算しても720時間ぐらいになるんですよ。だから、それで、「申請しようかな。」っていう相談をしながらやってたら、やっぱり日中にね、ヘルパーさん一人ではおむつ替えもできないのね。それから車いすに移乗もできないのね。必ず私呼ばないとできない。それだったら入ってもらう意味がないよね。でも、「そんなに簡単に二人介護なんて、二人介護は…」、まあいわゆる税金ですから、「そんな簡単に認められないよね。」って普通思うから。「せいぜい24時間の720時間で精いっぱいなんじゃないか?」って言ったけど、「いや、必要だっていうことは、言わないとダメよ。」っていうふうな流れになって。
[01:40:00] 増田の方から、細かいスケジュール表を役所に出して。それでも、向こうは意味が分からない。「何でこんな時間数が必要なのか? 二人介護が必要とか、常時いる必要があるかっていうのが分からない。」って言うわけね。「家族だっているのに。」っていうのがあったの。そうすると、「いや、もう家族もちょっと、体もね、不調を訴えてきてるし。」っていうようなこと言いながら、「どうしても二人じゃないと、移乗もできないんですよ。」っていうことを訴え続けて、訴えて。「意味が分かんない。」「いや、こうだからこれだけ使うんですよ。」っていうことで何回もやり取りして。
 そのうちに、ま、小泉さんのご尽力もあって、小泉さんが直(ちょく)で役所に行ってくれたんです。なっかなかね、下りなくて。1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、って。あの、シンポジウム9月だったでしょ。申請したあと、そのあとだったからね。もう10月だとしたら、12月ぐらいには決定が出ても普通ならおかしくないのに、出ないんですよ。月明けて1月になっても出ない。そうしてってるうちに、小泉さんがどうして…、「どうなってるの?」というようなことを言いに来てくれたら。「いや、やっぱりちょっとなかなかね、申請が出なくて。」って。で、担当者も嘱託って言って、その、正社員じゃないのね。定年退職した人が担当してるような、担当者だったのね、年配の。だから電話しても「今日は居ません。」とか、そういうののあれなんです、っていうこと言ったら、小泉さんが役所に行ってくれて。「ちょっとね、こういう人たちはね、早く出してもらわないとね、生活が大変なんですよ。」って、言ってくれたのね。そしたら、もう、すぐでしたね。あの、「役所から、どうしても二人介護っていうのを分からないんだったら、1回見に来なさい。」って言われたの。あの、小泉さんが。そしたら、担当者と課長さんのお偉いさん二人が来たんです、ここに。ちょっとここに。
[01:42:24] で、「今から、ベッドに寝てる増田を車いすに移動するので、見てもらえますか。」って言って。で、私と段原さんとでやって【やった】(01:42:37)わけ。その時はリフトもあったんですよ。それでも一人じゃ無理だっていうのは、もう、見たらすぐわかんのね。「これを四六時中やるから、一人介護だとダメなんです。」って言ったら、「そうだね。」って、見て、見て納得してくれた。そこにはもちろん、小泉さんも立ち会ってたけど、うん。あの、別に何ていうの、援護射撃しようということではなくて、「ちゃんと現実を見て、判断してね。」っていうことでね、居てくれて。そうやって、サポートしてくれたのね。そしたらもう、帰ったらすぐに、その会議にかけられて、最初に「決まりました、金額が…」、金額じゃない、「時間数が、987.5時間です。」ってなって。

ユ もともとは申請した時間は、700ぐらいでした?

増田氏妻 ううん。たぶん、最初っから、もう簡単に言ったら、二人介護で1日で。ただ、その中でお風呂があったり、それから看護師さんが来たりってあるでしょ。だから、役所は細かくそういうところは抜くわけですよ。「ここは要らないね、ここは要らないね。」だからこういう中途半端な金額…、あの、時間になるんですけど。ここは、看護師さんいる、お風呂は三人来るでしょって、そういうふうな意味で、色々とやった時間数が最終的にこうなったの。で、「寝てる時にはあれだったかな。」って言いながら、「でも、おむつ替えはできないのよ。」ってそんな話で、結局、何だかんだでこの時間になりました。

ユ その時期、えっと、2011年の時は、24時間ヘルパーを使う人があんまりいなかったんですか。

増田氏妻 いや、◆京都では、増田の前に、えーと杉江さんていう独居の人と、甲谷さんって、あのダンスのところの人たちが、もう、そういう前例があるんです。

ユ それだったら、増田さんが3番目ぐらいですね。

[01:45:00]
増田氏妻 うん。そうです、そうです。だけ…、で、ちょっと前の人の時間数は、ちょっと私は分からないんだけど。基本的に24時間オッケーで取らないと、家族いない人たちだからね。無理なはずですよ、たぶん。

ユ 市役所にとっては3番目で、なかなかあまりいないから…

増田氏妻 うん。あの、もしかしたらほかにもね、別ルートでいるかも知んないけど。やっぱり、甲谷さんとか杉江さんのところで、何か窺ったところによると、最初は立岩先生とかも関わってくれて、やってくれた、そういう流れがあったから、意外とスムーズに出してもらうの【出てて】(01:45:42)。これが、いざ、大阪にいたら、全然出さないっていう噂だから。だからもう全然、住んでるところでこんなに待遇が違うんかなあ、っていうのも、ちょっとびっくりしますけど。

ユ そうですね。前、えっと区役所一緒に会議行ったの患者さんも、その時、時間もらえるために一所懸命がんばったんじゃないですか。まあその、会議を見て私も結構びっくりしたので。増田さんもその時期があったかなと、さっき思いましたね。

増田氏妻 増田の場合は、その、増田が前面に立つので、奥さんじゃないんですね。だから、自分でメールしたり、プリントアウトして「これをファックスして。」って言って、指示で、私がしてて。電話がかかってきた時だけ増田の意向を伝えるっていう役割してたけど、結局、この人が、たん…、請願書とか全部作ってやったから。

ユ 増田さん、今までの話、合ってますか。うん。その、詳しく聞きたいことが今、えっと、やっぱり24時間始まったの月の、結構大変だったの月じゃないですか。その話をまたインタビューしますね。はい。

[01:47:14]
増田氏妻 あと、今思ったけど、増田さん、24時間常時っていうのを適当に入れちゃうと、24時間常時だったら、1,500時間ぐらいになるんですよ。言葉はちゃんと選んでね。分かる? 常時じゃないよ。987.5時間っていうのは常時じゃないよね。細かいけど、色んなとこで引かれてはいるんです。ここは「人がいるから、いるから」とかね、あるんで。

ユ 今、1,000時間超える人も結構いらっしゃいますか?

増田氏妻 あのね、結構っていうのは分からないけど、確か、宇治の患者さんが…、増田が行った、会いに行った患者さん、しょうがき…、はまぐちさんっていう患者さんが、1,000時間はもらったようなことが、フェイスブックか何かで見たような気がしますね。

ユ うーん。近畿ブロックの中ではあんまりない?ほかの…

増田氏妻 あの、近畿ブロックの中で言うとね、やっぱり、京都が一番手厚いんですね。大阪は出さないんですね。必要…、出さないっていうか、まずは申請する制度だからね。申請しなければ、くれない制度でもあるから。どうな…、そこはどうか分かんない。申請する人がいてもはじかれてるのか、それとも少ないのか。そこはちょっとその、地域のあれで分からないんだけど。

ユ 何か都道府県の税金も関係あるんですか、それは。

増田氏妻 うん。あの、そういうこともあったりもするね。例えば小さい町で、お金がないとかっていうのも一つの理由になったりもするし。でも、かと思ったら、西宮の患者さんも、確かもう亡くなったと思うんだけど、1回奥さんがね、えっと、自分の旦那さんの時間数もらうために、増田の申請した資料を参考に出した…、出して、何か時間数ちょっともらったっていう報告は聞いたことあります。ちょっと具体的に何時間とかは、それは分からないけど。「『こうやってもらってる人たちがいます。』っていうのに使ってください。」って、お渡しした資料があるんですね。まあ、前例主義って、あの、役所なんかは。前例があれば行きやすいっていうの、あるでしょ。そういうので、あの、貸したこともあるので。

[01:50:04]
ユ 最初に始まるのが一番難しいですね。でも、増田さんは周りのいい人、いっぱい…、

増田氏妻 何か消してる。あ、消した。(笑) 「常時」消してる。

ユ (笑) やさしい。

増田氏妻 (笑) でも、その間(かん)、話聞いてないのよ。

ユ やっぱり、小泉さんとか、周りに、いい人に囲まれていたから、増田さんがもっとほかの人よりちょっと早めに24時間ヘルパーを使うことになったんじゃないかな、と思うんですけど。

増田氏妻 そうです、そうです。「シンポジウムやりましょう。」となった時にすごく増田の交友関係が広がったんです。初めて小泉さん紹介してもらったり、いっぱい色んなところ、渡邉さんとか紹介してもらって。その時にちょうど、小泉さんは障害者の自立生活センターでしょ。

ユ そうそう、ですね。

増田氏妻 小泉さんが最初におっしゃっていたのが、「私たちみたいな生まれ持った障害で、何とか世の中をね、あれしてきて、きた障害者たちの気持ちは分かるんだけれども…」、増田さんのように途中で障害を得て、なった、もしくは難病っていう、まあ医療的ケアが必要な、そこってちょっとある意味こう、隔たりがあったんだと思うのね、今まで。難病患者はそういうの自立生活センターに入ってたりしなかったから。それ、そういうところでの、「増田さんにお会いして初めてのことがあるんだけれども。」って話をされた。その時に増田が、「僕は障害者だと思ってる。」って言ったの。なん…、あの、患者っていう、その時にね、もう体調がちょっと安定してきてるせいもあったのか、ALSっていう病気ではあるんだけども、患者っていう意識も、何かもう、ちょっと薄れてて、「僕は身体が不自由なだけだ。」って言ったんですね。だから、あの、「同じです。僕も障害者です。」っていうところで、「あ、同じ、じゃ志持って活動していけますね。」っていう感じで、一緒に活動始めましたね。

[01:52:51]
ユ 増田さん、その時、小泉さん…、私こっち。小泉さんと話した時もパソコンで打って、会話しました? ああ。

増田氏妻 小泉さんはメールとかでもくれるから。メールだとこの人、やっぱり読んで打てるから。あの、話だと聞こえたり聞こえなかったりっていう不都合があるんだけど。やっぱりちゃんと、それでやり取りすると一番記憶には残ってると思うんですね。で、難病…、それまでちょっと難病担当みたいのはJCILにはなかったんだけど、ALS部門とかいうので、ミーティングとかにもしばらく参加してました。月曜日の午後からとかね。そんな感じで、あの、あれしてましたね。

ユ だんだん広げてますね、うん。

増田氏妻 ◆うん、そう。そうやって、どんどんどんどん、すごい人を紹介してもらってたんですよ、うん。上田先生から西田先生に行って、岡本さんだったり、小泉さんだったり、って感じで、広がっていってるうちに、色んなところから増田さん、外で顔出してるせいで覚えてもらって、「今度ちょっと話(はなし)しに来て。」っていうようなお話をもらうようになって。そういうので、今までこう、つながってきてるかな。ねえ。聞いてました?

ユ 合ってますね? 増田さん。ああ、合ってますね。
 それが2011年2月の時期で。そのあと、増えたら、何かどうやって、何かどうやって生活が変わりました?

増田氏妻 もう、もらった。もらったらヘルパーさん確保しなきゃいけない。最初の頃はね、ヘルパーさん確保がもう、あの、えーと、ハローワークじゃなくて、タウンワークとか、何て言うのかな、一般の求人誌あるでしょう。求人、無料の雑誌。あんなのに出すから、色んな感じ。全然医療関係なかったり。ほんとにもう、飲食店のバイト感覚だったり。そういうもう、色んなあれで上手くいかなかったり。面接の仕方も分からないし。最初は苦労しました。

ユ (笑)

[01:55:42]
増田氏妻 うん。ねえ。ヘルパーさんと、あの、お互いに向き不向きもあるし、仕事とか知らない。まあ、「わがままな患者」っていうふうに見る人もいるし、やっぱり男の人はこう、扱いが荒かったりする。けど、声出せないから、怒ったりすると、何で怒られてるか分からないから、逆切れするのね。そういうことがあったりとかね。やっぱり色んな経験積んで、そうやってってるうちにやっぱり増田は、あの、学生がやっぱり、何にも知らない、場合によっちゃマナーも知らないで来るんだけれども、教え甲斐があることに気が付いたのね。自分も言えるし、そっから学生の方(ほう)にシフトをしていきましたね、うん。

ユ 最初は、一般の人たちが結構いらっしゃって。

増田氏妻 うん、来ました。あの、希望とかは、もう「ほかでヘルパーしました。」とか、「仕事を辞めたから、ちょっとヘルパーでも。」とかって、そういう人たちで、あれだったから、もう、全然、その、えーと、「増田主体に。」っていう感覚では、ちょっと、自分の描いていた通りではなかったんで。
[01:57:15] そうしてってるうちに、やっぱり一番最初のさかいさんが学生だった。学生は、自分が「こうしてほしい」っていうことを、ストレートにやってくれて。そういうのをやっぱり望むのでね。あの、とっても気が利いて、お手伝いさんのようにやってくれても、この人の意見聞かないと、怒るのね。「こんなに良くしてくれるのに」、私にとってはすごくありがたいお手伝いさんみたいな人なのに、この人はダメって言う。そういうふうなね、色んなことがありましたね。お互いに。

ユ 増田さん、その話もいっぱい聞きたいんですね、あとで教えてください。

増田氏妻 まあ、最初の頃はね、あの段原さんでも、増田がダメやったのよ。あの…、

ユ 今、増田さん笑ってます。(笑)

増田氏妻 うん。段原さんはJCILのヘルパーさんなので、今だったら分かんのね。JCILのヘルパーさんって、ちゃんと指示されたらやるのね。指示されないことはやらないのよ。で、それが、ほかの障害者たちにとっては一番いいのね。やっぱり、日常の中で、バタバタ存在感をこう発揮して、あの、うるさいと、こう、安心した生活できない。で、良さも知ってるけど、段原さんは本当に空気みたいな人なの。あんなに体大きいのに、空気みたいな存在の人なので、あれはとってもね、最初は増田が、「一々言わなければ何もしないのか。」っていうふうに受け取ったの。「何にも仕事しない。」っていうふうに言ったの、最初は。

ユ 最初は言いました? 増田さん。(笑) うん。

増田氏妻 で、「もっと気を利かせてやってよ。」って言うのね。「いや、やってほしいことは言わなきゃ。」っていうことに気が付くまで、年月かかりましたね。

(録音中断)

[01:59:38]
増田氏妻 段原さんに関してはね、最初は「ダメ」って言ってたのが、ずーっとこう、長ーく続いってってるうちに、信頼に変わってったんですよ。
 一番信頼に変わったのが、入院する時だったね。あの、胆石で。あの時に病院に行ったら検査されるのよ。で、検査するのに、呼吸器つけてる患者が普通に検査されるから、向こうだって簡単に言ったら、そういないのよ、そんな患者がね。だから平気で、こんな側臥位にされたり、こうひっくり返されたりするわけよ。そのたんびに、すごい顔して苦しい顔してるけど、私はもうビックリしちゃって、何にもできなくて。そこで、ちょうどついてったのが段原さんで、段原さんがもう盾になって守って。先生だろうが看護師さんだろうが、「ちょっと待ってください、これだとしんどいから。」って言って。あの、この人はもう眼ぇ向いてるのね、苦しさで。もちろん、中の苦しさもあるけど、その体勢の。今までされたことのない体勢も、全部そうやってね、守ってくれたのよ。そっから、ガラッと変わった。(笑) 「ああ、一番信頼できるんやなあ。」って思ってね。

ユ そうですね。うん。それは確かに。

増田氏妻 うん、うんうん。そう。そうなの。

ユ 増田さん、えらいでしょう。(笑)

(録音中断)

[02:01:21]
増田氏妻 で、もう、12年辺りからは、その、こうやって、行ったところはほぼ…、

ユ はい、ノートに書いてありますね。

増田氏妻 ヘルパーさんも書いてくれてるから。

ユ これを参考して、また増田さんとインタビューします。

増田氏妻 で、話ができると思います。こん時はこうやった、とかっていうのがね。それまではちょっと書いてなかったんでね。私もね、日記書いとけばよかったのにって、何べんも言われたんだけどね。そんな余裕もなかった。

女性(牧野氏?) あ、これコピーしたやつですね。

増田氏妻 そうです、そうです。うん。

ユ はい。分かりました。今日はインタビューありがとうございます。あとは、増田さんと…、

増田氏妻 やってくださいね。

ユ しますね。はい。ありがとうございます。増田さん、2時間に(笑)、なりました。今日したものは、持ち帰…、


UP:20190124 REV:
増田 英明  ◇病者障害者運動史研究 
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