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福島智さん

2019/01/08 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館・書庫 福島智さん 聞き手:立岩真也

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福島 智  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
病者障害者運動史研究
◇福島 智 i2019 インタビュー(本頁) 2019/01/09 聞き手:立岩 真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫
◇文字起こし:ココペリ121 20190108 福島智氏 107分
天畠大輔さんの博士論文の外部審査員を福島さんにつとめていただいた。その公聴会の後、大学院(立命館大学大学院先端総合学術研究科・「公共」領域)の演習の前にお話をうかがった。


福島 どんな人がいるのかな?

福島氏の通訳者? 立岩先生と、あと、

立岩 ちょっとみんな軽く自己紹介。福島さんいる時は必ずそうするんで。えっと一番右側にいるのが立岩です。

白田 白い田んぼと書いて白田〔幸治〕といいます。院生です。はい。

立岩 ちょっと、テーマというか、

白田 精神障害の当事者で、社会モデル批判ていうか、そこら辺のことを考えたいな、と思っとります。

福島 社会モデルの批判ね?

白田 ああ、精神障害…、

福島 大学院の? はい、精神障害の当事者ね。

白田 大学院の何回生か忘れました。(笑) 長いこといます。

福島 ああ、ほんと。長くいるんだね。

白田 はい。

福島 はい、はい、はい。

ユ はい。私、韓国から参りました。今年4月から3年生になったユ・ジンギョンと申します。

福島 お名前は、ユさん?

ユ はい、ユさん、ユさんでいいです。

福島 何と呼べばいいかな?

立岩 ユさん。

福島 ユさんね。ユさんですね。4年生って言った? この4月から。

ユ 4月から3年生。

福島 3年生? それは3年生というのは、すなわち、***(00:01:58)で言うところの博士課程1年ということ?

立岩 そうです、D1です。

福島 そうですか。ああ、なるほどなるほど。

ユ 私は韓国で、修士を、ALSの配偶者のインタビュー調査をして、修士とりました。ここは今、ALSの関係ある研究したくて、4月から入りました。はい。以上でいいですか? (笑)

福島 ALSの、何のインタビューかな? ALSのどういうインタビューをしましたか?

ユ 修士の時は、配偶者の生活の、ついて、どうやって生きてきたのか。ここ博士は、今、本人、当事者の関係あることをちょっと気になって、そこから今勉強したり、研究しています。はい。

福島 あなたの、あなたの近くのご家族とか、にもALSの人がいらっしゃるの?

ユ はい、いません(笑)。

福島 そうか、そうか。

ユ いないですけど、はい。知り合いから、ちょっと繋がりがあって、そこから興味になりました。

福島 はい、分かりました。今お二人ですー。

川口 はい。次、川口〔有美子〕です。

福島 はい、川口さんね。

川口 母親がALS患者でした。

福島 はい。有美子さん。

岸 先ほどはありがとうございました。岸政彦です。

福島 はい、先生。

岸 あの、今日はちょっと用事があるんですけど、途中までお話をお伺いします。

福島 私、ちょっとね、喉というか、咳が途中で出るかもしれないので、喉、うん、よいと自分で思ってるお茶を飲んでますので、すみませんが、杜仲茶ですけども。録音とか、なさいますよね? はい。何でもどうぞ。

立岩 はい。はい。録音、はい。公開する場合は許可をいただきますので。それからたぶん、科研費の一環で、謝礼も出せると思っていますので、またそのことは連絡いたします。

福島 わかりました。どこに置いた? これ。じゃあ、あの、私は何時…、割と時間があります。ゼミがあるんですね、このあと。

立岩 はい。4時20分からです。ですから、

福島 場合によっては、そのゼミの最初のうちぐらいは見学させていただいてもいいかなと思います、この前みたいに。5時半ぐらいに出ればいいので、私たちは。

立岩 はい。了解です。

福島 車、今のうち頼んでおいたほうがいいかな?

立岩 まだ大丈夫だと思う。ちょっとしばらく、1時間ぐらい経ってから決めましょう。

福島 わかりました。



立岩 さっきの公聴会でも少し言いましたけれども、ずっと前に、2014年に…、14年じゃないか、ちょっと待ってね。石川准さんに、それから河村宏さんに、2014年に石川准が、「大学生の時、大学院生の時に、どうだったか?」っていう話を聞いて。河村宏さんは、まあ、その時東大の図書館の図書館員でもあった人でもあって、その、昔話をして。それをずっとほっといてあったんですけれども、今年のお正月に公開した◇ら、結構評判がよくてですね。僕自身もその座談会というか鼎談は面白くって。そういうことがありました。
 だから一つ、福島さんに聞けたらなって思って一つ思いついたのは、そういう学生の時、大学院生の時、どういうふうにして暮らしてというか、特にその情報、文字をどういうふうに仕入れてきたのか、というようなことが一つあるのかな、と思いました。
 もう一つは、盲ろうの社会運動っていうのがどういうふうに存在してるのか、っていうのが素朴によくわかんないとこがあって、っていうのもあります。
 で、それはどっちでも、どういう順番でも両方喋ってもらってもいいし、「今日はこれをやりたいから、これを先にやる」とか、「今日はこれだけにする」っていうので、どちらでも僕は構わないです。[00:06:58]
◇石川 准・河村 宏・立岩 真也 20140322 「視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏――その1970年代から21世紀へ」

福島 じゃ、その、どちらでも。

立岩 わかりました。

福島 割と、どっかあの、質問してくださった方が話(はなし)しやすいので。何でもいいです。ランダムでも結構ですので。

立岩 わかりました。いつもは僕はそれなりに、インタビューする時には、その人が書かれたものをみんな予習してから臨むんですけれども、今回はすみません、全然そういうことができてなくて。「もうそんなのは、ここに書いたよ」っていうのがあれば、もうそれは「ここに書いた」って言ってくれれば、それをあとに読むことにしますので、そういうことで申し訳ありませんけども、お願いします。福島さんは僕とそんなに年、変わらないんだよね。何年生まれでしたっけ?

福島 1962年、

立岩 そうですね。

福島 12月25日なんですね。

立岩 25、クリスマス。(笑)

福島 はい。そうですね(笑)。だから、ちょっと自分の誕生日について、いつも疎外感を感じてるといいますか、周りが「クリスマスだ」と浮かれているし、小さい時からお祝いとかケーキとかが1回しかなくて、「損やなあ」と。

立岩 24日と25日に2回来るってのはないわけね。ちなみに僕はね8月16日のお盆の日で、

福島 ああ、そうですか。

立岩 あれもなんかね、誕生日にはあんまり適してない日で。夏休みのど真ん中だし。あんまり誕生日的にはいい日取りじゃないですよね。で、石川准は、僕よか4つか上なのかな。彼は富山県の魚津が出身。

福島 彼は56年でしたっけ。

立岩 そうですよね。

福島 56年生まれ、そうか、そうか。

立岩 そうか、福島さん、兵庫だよね。

福島 はい。1962年の12月に兵庫の神戸、神戸市で生まれました。垂水区というね、西の方で、神戸との西に隣接する明石、明石市というところがあるんですが、その明石にかなり近いところで。

立岩 それでタコの話も出てくるわけですよね◇。
◇天畠さんの博士論文口頭試問(&公聴会)で福島さんはタコのジョークをとばした。

福島 そうそう、そうそう(笑)。明石はタコと鯛が有名で。今でも漁業をやってる人が細々ながらいますね。

■→東京都立大学へ

立岩 その幼い時の話を聞くと、たぶんそれだけで半日ぐらいかかってしまうと思うので。もう、そのうちそれはまた、ってことでずっと飛ばしますが。大学は都立大学ですよね?

福島 はい。じゃあ大学のところまで。

立岩 そこら辺からいきましょう。

福島 そこら辺ですね。

立岩 ええ、大学入る前、入る時、入ってから、ぐらいの感じで、いいですか?

福島 わかりました。最低限、お話しないといけないのは、九つで目が見えなくなって、最初は、兵庫県立盲学校というところに小学校4年生から転入します、普通の小学校から。神戸市内にあるんですね。で、同じ区内、同じ垂水区内にあったから、あの、通学していました。あの、でも、もし住んでる場所が違ったら、寄宿舎に入っていたと思いますね。兵庫県っていうのは、太平洋側にも日本海側にも両方面している、本州で唯一の県なんですね。まあ青森と山口は別ですが。だから北のほうに家がある子どもたちはみんな寄宿舎だから、何だか子ども心に「可哀想だな」とか思いました。「分離教育がどうこう」という理念の問題じゃなくて、実際問題、小学校1年生ぐらいから家から離れて生活するということの異常な感じが、すごい違和感感じましたね、私、子どもの頃から。たまたま家が近かったから、ドア・トゥ・ドアで電車使って40分ぐらいだったので、私は通いましたけれども。
 そこでは中学3年生まで過ごして、その中学2年生の時にですね、1977年に石川さんが東大に入るんです。で、「石川さんの東大入学」っていうのはすごくインパクトがあって、私が後に、高校から石川さんも行ってらした筑波大学附属盲学校というところに行こうと決心する、重要なきっかけになっています。これはおそらくどこにも書いていないかも。別に隠すようなことではないですが。だから僕は石川さんの、

立岩 福島さん77年って、何年生だ?

福島 中学2年生になった時。

立岩 中学2年か。

福島 彼は77年から東大に入っている、その直前にテレビニュースがありましたよね。で、あの、「目が見えなくても勉強すれば大学に行ける」ということ。「しかも最難関のところにも行く人がいるんだ」ということ。で、あの、一方で地方の盲学校はすごく、のんびりしていてアットホームなんですが、勉強する上では少し刺激が足りないということがあったので。まあ石川さんのことがある前から、高校からは漠然と「東京に行こう」と思っていたんですが、石川さんのことが決定的、という感じでしたね。

立岩 そのテレビのニュースは、「たまたまつけたら出てた」みたいな感じなんですか?

福島 そうですね。何回もやってます、NHKで。それであの、受験の合格を知らせる電話がかかってくる、で、それを彼が取る、で、それに対して応対する、みたいなシチュエーションになっていました。そして、誰か代表した記者がね、「あなたが全盲として初めて東京大学に入って、どんな感じですか?」みたいな質問をして、非常に石川さんはクールに、あのー、淡々と答えておられましたけれども。それはね、とにかくすごく印象に残っています。

立岩 それ以来40年経ちましたけど、彼はあの、もう40年間、「全盲で東大に入った最初の学生」とか「全盲の社会学者」とか言われ続けてもう40年ですけれども。まあ十分に飽きてると思いますけど、きっと死ぬまで同じこと言われるでしょうね。

福島 (笑) そうです。それはもう、どんなことでも初めての人がいるので。

立岩 福島さんもそうだよね。

福島 (笑) まあ、そうですね。

立岩 それで、筑波の附属の盲学校行こうと思った。

福島 それから附属に行って、はい、行って。初めて家から離れて、寄宿舎に入ったんですね。

立岩 筑波の附属ってどこにあるんですか? 場所。

福島 住所的には、文京区の目白台3丁目27-6だかな。

一同 (笑)

福島 えーっと雑司ヶ谷。地下鉄有楽町線の護国寺駅から歩いて7、8分のところです。

立岩 だから、筑波大学っていう、筑波な感じっていうよりは、もう東京の文京区のいいとこ、東京教育大学のその流れというか、そういうまあ文京区のいい感じのとこだったわけですね。

福島 そう、そうです。そうそう。附属高校が、筑波の附属、東京教育大附属っていうのは駒場高校のような、えー、普通のというか、障害者向きじゃない高校と、あと盲学校と、あとろう学校と養護学校とあるんですよね。そこで。

立岩 そうかそうか。筑駒は駒場ですよね。

福島 はい、駒場です。ああ、この、あの、私の職場の近くです。

立岩 じゃあまあ、その、

福島 筑駒出身の人は何人も、そばにいます。

立岩 はいはい、筑駒、〔東京大学に〕死ぬほどいて嫌な感じでしたけど。まあそんなことはどうでもいいです。えっと学生いっぱいいましたね。それで筑波の附属の学校に入ったのは、そうすると何年になるんだ?

福島 79年です。

立岩 79年。

福島 79年の4月から行きました。それで、

立岩 僕が大学に入った時ですけれども、まあ、

福島 ああ、そうですか。

立岩 その時は福島さんのこと、もちろん知らなかったけれども、石川さんのことも、僕は入った時点では知らなかったな。たぶん2年生の時も知らなくて、3年生になって、社会学科に行って初めて、石川さんのこと知ったんじゃないかなって気がします。

福島 彼はね、石川さんもあの、たぶん点友会、点字の友だちの会って書く、点友会っていうところの、入っておられて。で、そこがね、駒場祭で、当時、養護学校反対、義務化反対運動があって。その反対側の旗頭の一人だった福井達雨っていう人の講演会を企画して、そこに私、誰かに誘われて行ったんですよ。

立岩 ああ、そうなんですか。

福島 はい。今の点友会は全くその、そういったその、思想的というか、障害者問題的なことはやってなくて。なぜそう、やってないかと言うと、顧問が頼りなくて、その顧問が私だからです。

立岩 そうですか。

福島 ほとんど何もやってない(笑)。だいたい駒場祭の時に行って、私は鯛焼きを差し入れするぐらいですね。まあまあまあ、それは余談ですが。そこで石川さんと会いました。

立岩 こないだ石川さんと鼎談した時に、石川さん、その点友会のことは言ってたけど、「情報保障的には役に立たなかった」と。「じゃあ、点友会何してたんですか?」って。点友会っていうのは、点字の友って書いて点友会っていうんだよね。で、「何してたんですか?」って。

福島 点友会のこと、

立岩 あんまりいいこと言ってなかったね。「じゃあ、その点友会の人たちは何をしてたんですか」って石川に聞いたら、「いや、社交だよ」とか、皮肉なことを言ってましたけど。まあ、そうか。でも、達雨さん呼んだりしたこともあるんですね。

福島 呼んだ。そうそうそう。その時に石川さんと私は話(はなし)してます。私は聞こえていましたから。

立岩 ええー? それが何年の駒場祭ってこと?

福島 79年の11月でしょうね、駒場祭だから。それで福井さんが、その、えーっとその、養護学校義務化の問題点を話(はなし)していたんですが、途中でね、この、あの、案内放送でね、学内の放送がよく流れて、しょっちゅう誰か学生が、その「何とか教室の人、片付けてください」とか、ね、「何とかの荷物を動かしてください」みたいなことがしょっちゅう流れて、切れないんですよ、そのスイッチが。それで福井さんがだんだんと苛立ってきて、「こんな話(はなし)しにくい講演は初めてだ」みたいに、ぼやいてました(笑)。

立岩 そうだよね。そういうことって、話の中身は忘れても、そういうのって覚えてるよね。

福島 (笑) 話の中身も少しは覚えてますけどね、まあ福井さんの...、福井さんの話は、その前から少し、あの、知ってはいたので。まあ、それでね、それは80...、79年で、その次の80年、高校2年生になる頃までは聞こえていたんです。そういえば、石川准さんは僕が80年で高校2年生の時、教育実習で来られました、彼。

立岩 そう、石川さんが、

福島 世界史...、世界史で来た。たぶん、何月かな、5月かな。世界史で、何だったか、うん、わからない。中世ヨーロッパか何かのことを話(はなし)されていました。割と淡々と。で、そのあと、80年の終わりに神戸に帰って、冬休みで神戸に帰ったら、耳がね、あの、かなり聞こえにくくなっていて、そして、3ヶ月ぐらいの間に聞こえなくなっちゃうんですね。この辺りは『盲ろう者として生きて』というやつにかなり細かく書いてます。

立岩 そこはまた読ましてもらいます。そっか。僕は79年の入学で、確かに大学に入ったら、養護学校義務化のことで、自治会がすごく荒れてて。で、僕も79年、ずっとその運動に関わっていて、駒場祭もそういう流れで、関係してたんですけど。

福島 ああ、そうですか。

立岩 点友会が福井さんを呼んだっていうのは記憶になかったな。でもわりと近いところに、いたことはいたんですね。

福島 もしかすると、点友会じゃないのかもしれないけど。

立岩 ちょっと調べてみます。福井さん。はい、はい。

福島 別かもしれませんが、はい。別の、別の母体かもしれませんが。少なくとも石川さんがいて、で、友だちがいる、「石川、どうする?」みたいなふうに声かけていたので、まだ彼は特に何も動いてなかったけど、椅子に座って何か指示出してる感じがしたんよ。もう3年生だったからね。



立岩 それで、高校にいる間に耳聞こえなくなって、まあその辺の詳しい話はまた本で読ませていただくとして。都立大学に行く、それからどういう専攻しようとする、そういうことはどういうことなんですかね?

福島 その辺なら本に書いていないことあるから。少なくともあまり書いてないことを言えばいいですね、じゃあ。

立岩 それがいいです。

福島 一つはね、あの、盲ろうになって、指点字っていう方法が、えーっと、おふくろがたまたま見つけて。で、やっていると割と便利だということで。挨拶程度だとあまり役に立たないけれども、通訳者を通せば話が伝わるということを、今日の天畠さんの逆ですよね。僕は喋れるけど周りのことがわかんない。だから周りの人が勝手に話をしちゃうということがある。でも、ほんとは「私にちゃんと伝えて、話を進めてほしいな」っていうふうに思ってたわけですが。そこで通訳をするっていうことがなされて、いわばあの、社会参加できるといいますかね、小さい社会参加ができるっていうことがわかったので、「ほんなら大学も行けるかもしれんなあ」と思ったんです。最初は高等部を出られるのかどうかさえ、はっきりわかりませんでしたので。
 あとは、担任の先生が、塩谷(しおのや)といいますが、もう亡くなったんですが、その人が「とにかくやってみればいいんじゃないか」というふうに励ましてくれて。「やってみないとわからないし、失敗したらまたその時考えればいいでしょう」というふうに言ってくれたんですね。この人、奥さんが全盲の人です。やっぱりそういう人は雰囲気が違ってね。最初、高校1年入ってからすぐに、感じましたね。「ああ、違うな」というところが。

立岩 違うっていうのは?

福島 当事者がそばにいたら違う。

立岩 どういう違い感ですかね?

福島 どう…、非常に言語化しづらいんですが、まあ、例えば普通の盲学校の教師は、まあ紋切り型というか、教師、教師してるんですよ。(笑) 「教師、教師してる教師」というか。例えば、寮で昼飯を食ってる。舎監としてその先生も時々泊まって来る...、泊まりに来る。晩飯も、晩飯も一緒ですね、食堂でみんなで食っている。で、視覚障害者のADLを、その、えー、重視する盲学校教師というような人たちは、「お茶は自分で淹れるもの」という前提で考えるわけですね。別に自分で淹れることはできるし、あの、めんどくさいけれども、ちょっと時間のロスはあるけれども、それ自体は特に苦にはならない。だけど塩谷先生というのはだま...、さっと、「福島くんお茶淹れるぞ」というふうに声をかけてから、さっと淹れる。そういう、それが、どうということはないんですが、これは普通はやらない、やれないんですよ、こういうことは。「あ、この人何か、他と違うなあ」という感じ。他にも色々あるんですが、うまく言語化できないんですけれども。

立岩 その塩谷さんっていうのは、何の先生だったんですか? 科目、

福島 国語です。

立岩 国語の先生か。

福島 国語でした。はい、はい。そうですね。そう、それから、それでね、まああとでわかったのは、その人は早稲田出身なんですが、早稲田大学の在学中に、クラスメイトに沖縄から来た全盲の学生がいて、他の学生は何もしなかったけれども、仕方がないので自然にガイドしたり、点字を覚えたりして、教科書作ったりするようになったんですよね。その沖縄から来た人が60年代の終わりに自殺しちゃうんですね。そういうようなショッキングな経験をしてきたという背景が...、もあります。ちょっとまあ。で。それでとにかく、腹が据わってるというか。
 あの、例えば、私が耳が聞こえなくなる...、なった時は、みんな担任を、担任を引き受けたがらないんですよ。これは本に書けないことなん…(笑)。担任は引き受けたがらないけれども、彼が手をあげて、「まあ仕方がない」という、と口では言いながら、引き受けてくれた。そして「まず君がやるんだったら、応援するよ」と。大学に行きたかったら、「行くって言ってたでしょう」というふうに言うから。それで、あの、「じゃあ頑張ります」というふうに言ったんですが、

立岩 その塩谷さんっていうのは、ずっと担任だったの?

福島 高3だけ。

立岩 高3の時だけ、塩谷さんが担任してくれた、担任だったと。でもその前に高3の前から塩谷さんというのは国語の先生でいたのは知ってた?

福島 それは知ってた。国語は習っていた。でも、担任は高1も高2も違いますよ。

立岩 ああ、そうなんだ。高3の時にそういうことがあって。ほんで、で、本に書いてないとこは(笑)、と。

福島 んん? それで…、

立岩 そいで高3だよね。高3で、大学に、

福島 書いてないこと? 書いてあること?(笑)

立岩 書いてないこと。書いてあることはあとで読みます。すいません、どうしようもない。

福島 書いてあることもちょっとあるけど、ないことも含まれるんですよね。えーっと、(笑)

立岩 それは適宜、はいはい。

福島 まずね、大学行くったって、何をするのか、どこに行くのかとか、どこの大学にするのかとか、ということが問題になる。そもそも勉強が、高校2年のその、年末から半年ぐらいはほとんど手につかなくて、勉強も全然できていないし。今思い出すのはね、余談ですが、私、高校3年の夏にね、旺文社の模試だったか、共通1次の模試、模擬試験ていうの何か受けたんですよ。当時、1000点満点で、だって500点も取れなくて、480何点かで。それで私はその時志望校として冗談で、「東大」ともう一つは「大阪経済法科大学」とって書いてたんです。それは当時、偏差値で一番高いところと低いところで。そうすると(笑)、

立岩 あのさ、模試を、模試を盲ろうの状態で受けるっていうこと自体がよくわか…、どうやったんですか? 実際問題。どうやって模試を受けたんですか?

福島 それはね、点字で受けるから、その、試験って自体は、視覚障害者とあまり変わらないんです。そこは限りなく同じです、視覚障害者と。

立岩 点字で、

福島 違うのは、

立岩 点字で読みますよね、点字で読んで、

福島 点字で読んで、点字で。読んで、点字で解答すると。

立岩 点字で読んで点字で解答するから、そうか。筆記試験だから、ろうの部分は関係ないから、盲の人のと同じってことか。そういうことだよね

福島 はい。僕の場合は盲だったから。

立岩 共通1次の場合は一応、点字受験っていうのはセットされてるじゃないですか。でも例えばその、旺文社でも何でもいいんだけど、模試、模試でも点字ってあった?

福島 それは、付属も独自でやっていましたから、

立岩 ああ、そうか、そうか。

福島 先生が点訳したんだろうと思いますね。詳しいことはわかんないけど。あの、それ、そのあと2次試験の模試みたいなのも秋にありましたので。それで、私、覚えていますよ。あの、塩谷先生が、「君なあ、この点、点数で東大は合格確率Eです」っていうふうに、ABCDの「E」というのを強く打ってましたね。で、僕が笑いながら、「まあそうでしょうね。今は全然勉強してませんからね」と言って、割と、僕も先生も半分冗談で言っていました。で、まあどっちみち、すぐに勉強はできないし、時間がかかるだろうと思ってましたし。
 さらにね、これも本には書いていませんが、つまり、どこの大学受けるのかということが問題なんです。受けるのかというか、受けさせてもらえるのか、ですよね。これ、視覚障害者でも点字受験が難しかった時代、私が高校3年の1981年ですけれども、盲ろうという状態で、何が、あの、どこだったら受けて、受け入れてもらえるかということで。まず最初に考えたのは常識的には、「筑波大の附属なんだから、筑波大受けたらどうかな」というふうに、少なくとも打診してみたんですよ、盲学校で。そうすると、断ったんですよ、筑波大は。断ってきたんです。

立岩 筑波が

福島 盲ろうなんか、はい。あの、筑波大学が断った。

立岩 学校が、学校が大学に打診した形?

福島 はい。

立岩 したら、大学が学校に対して、

福島 そう、筑波の附属の進路指導部が、まずは内的に打診したら、盲ろうの生徒を受け入れたことがないから、あの、受け入れられないということで、とにかく細かいことはわかんないけど、断ってきたんです。「共通1次だけ受けるんであれば、それでもいい。2次は受けてもらえないけれどね」みたいな、そういうものすごい失礼な(笑)、返事だったんです。それで、僕と塩谷先生と周りの人間は、「筑波大学なんか絶対に行くか」という、(笑) その時に決めたんですね。まあ、心身障害学系が幅をきかせているね、頃ですね。佐藤泰正とか。筑波、筑短問題◇とかって、ご存知ですよね。
◇里内 龍司 19890401 「障害者だけの大学「筑短」はいらない――筑波技術短期大学着工阻止闘争」,『季刊福祉労働』42:143-148

立岩 はいはいはい。多少は知ってます。

福島 まあ、だからもし、筑波に行っていたら、私の人生はひどいことになっていたかもしれませんね。(笑) などと言うと悪いけど。とにかく断られたんですよ。それで、あの、どっちみち勉強も足りなかったから、仕方がなかったんですけれども。で、自動的に一浪することになりました。でもすごい、これは何かある種、差別の典型ですよね。試験を受けて落ちるんじゃなくて、試験そのものを受けさせてもらえない。それも、自分とこの附属の高校にいる生徒を受けられ...、受け入れないというひどい話で。ええー、ちょっと私はいまだ、いまだにそういう何か、筑波大学にはある種の恨みがありますね。

立岩 (笑) それで、浪人するじゃないですか。筑波の盲にいれば、そういう学校の先生がいて、何やかんや、それこそ模試を点訳してくれたりとかあるかもしれないけど。実際浪人って、どういうふうに浪人してたんですか?

福島 そこがまた大変で。その前に、81年の11月30日という日に、私を支援する市民グループを作ろうという発足の会があったんです。で、塩谷先生が事務局長となって。で、千葉大の小島〔純郎、〜2004〕先生、ご存知ですよね?

立岩 僕、それ、福島さんに話したことあるけれども、

福島 ええ、なんか重なってるんですよね?

立岩 千葉大に2年いた時〔1993.4〜1995.3〕に、小島先生が僕がいた部屋の下の階にいらして、あの、

福島 (笑) うるさかったでしょう。

立岩 面白い先生でしたよね。バイオリン弾いたりしてたよね。

福島 そうそう、そうそう。そうそうそうそう、バイオリン弾いてる。そうそうそう、金曜日に、何か、

立岩 それからね、研究室に、研究室に鍋釜があるわけ。鍋釜があって、そのサークルの子たちと一緒に飯炊いて食べたりするの。そういう、ドイツ語の先生だっけ? あの人。

福島 そう。そうです、そうです。それで、自分で、

立岩 盲ろう協会の会長さんとかなさったよね。
◇福島 智(全国盲ろう者協会理事) 200411 「哀悼――小島純郎先生逝去に接して」,『点字ジャーナル』2004-11→福島智
◇立岩 真也 1999 福島さんあて私信 http://www.arsvi.com/ml/1999fs.htm

福島 そうそうそう、あの人。そうそう、理事、のちに理事長もなってくれました。最初、私を支援する会の会長になってくれたんです。
 で、何で小島先生かっていうと、小島先生は、障害者とかの専門ではないけれども、全然。ドイツ文学だし、ヘルダーリンとかゲーテなどの詩の研究が専門なんですよね。で、だけど、その人が和光大学ですね、和光大学に非常勤講師に行ったら、あそこには視覚障害とか聴覚障害の学生が割といるので、最初わからなかったけれども、「何だか目をつぶって、いつも目をつぶってる学生がいるな」とか。あるいは、「話が聞いてるのかどうか、わからない学生もいるな」と思っているうち、2、3年が過ぎて。「どうもこれはおかしい」と思って、「視覚障害と聴覚障害の学生がいるんだ」ということがわかって。それから「自分で点字の教材を作ろう」というふうに考えて、ドイツ語の点字も勉強して、それから手話もやって。50歳ぐらいからやって、それが、いや40歳ぐらいかな、45か50ぐらいですね。そこ、かなりのレベルにまで、両方とも、あの、上手になったんです。そしてね、特徴的なのは、常に当事者と接する盲関係、ろう関係、両方にたくさん仲間が、あ、友だちがいて、学生で。だから「こういう人がいてもらえるといいんじゃないか」と、塩谷先生が考えたんですね。はい。それで、その支援グループというのを作った。支援グループは何をするかというと、今後、私が大学に行くためには、

立岩 その、その会を作ろうって言ったのは、誰なんですか?

福島 塩谷先生です。

立岩 ああ。塩谷さんは小島先生を知ってたの?

福島 はい。小島先生は、何か点字のことを習いに行くために、その、何か教えを受けるために、附属盲学校へ時々出入りしていたんです。

立岩 ああ、なるほど。

福島 そしてその小島先生が受け持っていた和光大学での授業をとっていた学生の中に、かつて塩谷先生のクラスにもいた全盲の女性がいて。その女性が三浦さんというんですが、私の最初の頃の、その、通訳を始めた人なんです。その三浦さんがいわば引き合わせた感じなんですね。

立岩 うんうんうん。で、塩谷さんが…、どうぞどうぞ。

福島 それでその、うーん、塩谷先生が会を作るっていうことは、あの、彼は色んな会を作って、誰かに引き渡して自分は身を引く、みたいなことを何度かやっていて。例えば早稲田大学に、学生でいた時も、点字、点字の教科書がないという現実を見て、「点字あゆみの会」というのを作って、点訳、今で言うところの点訳ボランティアのグループですね、そういうのを作って。大学の中と外で活動をして、社会人も巻き込んで、その、点訳するっていう会を作っていったんですよね。そういうことをやった経験のある人で、盲ろうの私を支援するには、とにかく会を作って、あの、負担を分散する、一部の人に集中するんじゃなくて負担を分散して、あの、やっていくのが良いというふうに考えたんですね。
 ちなみにそのあと、これは小島先生の強い意見でもありましたが、当時、無料ボランティアが割とありましたけども、それでは長続きしないし、制度的にも、制度化にも繋がらないし、更に、「福島君がいつもその、何と言うか、気がひける状態でいないといけないから、わずかでも謝金が払えるようにしましょう」と。それであの、カンパをね、カンパを全国的に募って、少しずつ、例えば年会費2千円とかだったかな。で、1口それぐらいでカンパを募って、それで通訳者への交通費と、えーと、謝金が当時千円だったと思いますが、1時間千円の謝金を出すっていう体制にすれば、あの、大学は支えるということでいいんじゃないか、ということ、それが提案されたんです。それが結果的にはうまくいったんですね。で、私が大学に行く、あるいは大学に行ったあと、卒業するまでを支える、という明確な目的があったので、それで、今で言えばあの、クラウドファンティングみたいな感じですよね。あれはメディアを通してやって、「支えてもらいましょう」。
 で、話戻りますが、浪人時代は、まずアパートを見つけるというのが大変で、そこでも何軒も断られて。あの、でも、どうしたんかな、どう、どういう経緯か忘れたけど、とにかく、まあどっか一つのとこ見つかって、そこにクラスメイトの男ともう一人、手話通訳さんに後になる男性と3人で小さいアパートに暮らす、

立岩 え? 3人、男が、

福島 ていうことをやりました。

立岩 男3人が一世帯用のところに住んでたってこと?

福島 そうそう。6畳と、3畳と、小さい台所でした。で、6畳に僕と盲学校のクラスメイトで、弱視でピアノのうまい男。ピアノがうまかったから、最初点字知らなかったけども、すごく指点字が上手になった男がいて。そしてもう一人の男性は3畳の小さい部屋に住んでくださって。それはまあいわば、僕とそのクラスメイトだけでは頼りないから、4歳か5歳か年上の人なので、もう社会人だったので、いわばその、何と言いますかね、一緒に住んでくださったということです。その時の、

立岩 それは何、3人がその家賃をその分担っていうか、したみたいな住み方だったんですか?

福島 そうです。えーっとね、ただ、どうしたかな? もしかしたら会から若干、どちらかには補助をしたかもしれませんね。部分的に。でも謝金とかは出してないな。はい。

立岩 うんうんうん。ちなみに石川准の家は何だか知らないけど、たぶん金持ちで。どういう職業だったか、金があるんだよ。

福島 ガソリンスタンドじゃない?

立岩 あ。そうだそうだ。そんな話聞いたことある。

福島 ガソリンスタンドって聞いた。

立岩 なので、金があったので、マンション買っちゃったんだよね。だからマンション、

福島 うん? あ、なるほど。

立岩 だからたぶん、それは困らなかったはずなんだよ。僕も知り合いで結構「アパート探すの大変だった」って人いっぱい知ってますけど、彼はブルジョアなので、それは困んなかったんだな。彼は吉祥寺に、マンションに住んでて、僕は高円寺や三鷹に住んでたことがあるので、そこから時々通ったりしたことありますね。まあ、いいとこでしたよ。そこの辺で、階級の差が出ますね。

福島 ああ。彼のマンションに行ったことあります、その、後に。学部になってから。まあ、まあそいでね、その、浪人時代なんですけど、浪人時代は、非常に大変な1年でした。それはもう、あの、一言じゃうまく言えませんけども、本来浪人時代っていうのは勉強をするっていうものですよね。でも勉強だけしていると、盲ろうになって直後ということもあるし、すごく、うーん、心理的にかなり参っているし、テレビもなくてラジオもなくて、一人で自由に動けないし、ということで、もう何かだんだんと「何のために勉強するのか?」みたいな感じになってくるし。で、しんどくなってくる。で、時々その、ボランティアの人たち、この会の人たちに訪ねて来てもらって、いわば慰問ですね。慰問に来てもらって話をしたりするっていうこと、一緒に何か食べたりとかするということが、まあ息抜きになるんですが。そうすると、普通勉強していて息抜きっていうのは、例えば「1時間息抜きしよう」とか思ってまた勉強に戻るということはあっても、誰か人が来て1時間経ったら「ほな、帰ってください」なんて言えないでしょう? それは。つまり誰か一度来たら半日ぐらいは潰れるんですよ、それで。

立岩 そうだね(笑)。

福島 で、あの、で僕は楽しいからその、だべってしまったり遊んじゃうし。そうすると勉強できないし。しかし一人で頑張って籠るというと、これはもう独房に入ったような感じで、穴倉に入った感じになるし。ものすごいしんどくなるし、ということになるし。これ、どこまで話していいもんか、という感じですが。

立岩 ねえ、その、その3人が一緒に暮らしたっていうところは、場所はどこにあったんですか?

福島 東長崎ですね。池袋から、豊島区の東長崎3丁目っていうね、えーと、ちょっと待ってくださいね。西武池袋線だったかな。そいであれですよ、あの、予備校というところにちょっとだけは通ったんです。高田馬場にある一橋予備校というのがあって、何度か通ったんですよ。それは大学に行く練習ということも兼ねて、通訳者と一緒に通うということをやったんですが。そうですね、3ヶ月ぐらいは、週に2、3度通ったかな? 古文とか、古文とか数学とか、そういうような。だけどしばらく通って、「これは効率が悪い」というふうに僕は思いました。行き帰りの時間もあるし、必ずその予備校の教師がニーズにあったこと言ってるわけではないし、と思って、もうあの、夏ぐらいからは行かなくなりました。模試、模擬試験だけもらって、あの、模擬試験をするということはやりましたけども。それは自分で時間を計って、あの、で、模擬試験の点訳はボランティアがやってくれて。で、点字で解答して...、したものを向こうに出すっていうことですね。それでやりましたけれども、予備校に通うのはもうやめたんですよね。そうなってくると余計にその、家の中に籠っているし、それからボランティアというものは、割と女性が多いわけですね。そうなってくると、女性どうしの何と言いますかね、まあ私もその頃はもう、スタイルも良かったですし、紅顔の美少年でした。

一同 (笑)

福島 ちょっとまあ、色々ややこしいこともあったわけです。

立岩 (笑) うん、ありそうですね。

福島 それで、(笑) ややこしかったですよ。それで僕はもう、自他共に認める、私は、三浦さんという人と付き合っていたので、その頃。この辺りは『ゆびさきの宇宙』という本に割と書いてありますが。そういう、いわばステディ的な人がいる、いるんだけれども、他の女性の通訳者も出入りしますので、妙な、何かこう嫉妬されたりとか。色々まあとにかくややこしかったんです、とにかく。そいでね、しん...、それでもう私は精神的にしんどかったですよね。
 その一方で、どこに行くかということで、もう6月ぐらいの時点で、82年の6月の時点で、決めなければいけない。経済的な理由で、国公立じゃないといけない。で、東京でボランティアの居住地域とか交通の便を考えると、23区内でないといけない。そうすると、ほとんど都立大と東大しか候補はない。だけど私の1年目の共通1次は708点しか取れてなかったから、「これはとても東大へは無理だから、都立大にしよう」というふうに言われて。「んー、できればほんとは、東大はチャレンジしたいだがなあ」というふうに僕は思いましたが、大きなことは言えないし。

立岩 それは708点っていうのは、その浪人が決まっ...、その高3の終わりに受けた時っていうこと?

福島 そうそう、そうそう。

立岩 なるほど、なるほど。

福島 それが708点だったんですよ、確か。それで、その1000点満点の時代だから、それであの、一応半年間で模試の480点からはちょっとアップはしたんですが、

立岩 ああ、480から。はいはい。

福島 やっぱでも、でもたいしてアップはしていない。それでね、あの、当時は、石川さんは東大にはいるし…、ああ、いないか、もう出ていたか。でも当時、都立大学にも2年目で全盲の人が、盲ろうじゃないけど、全盲の人がいたんです。そいで、「都立大がいいでしょう」という話になりました。僕は強いことを言えませんでしたので、あの、「お願いします」というふうに言って。おそらく東大も交渉すればオーケー出たと思いますけど、受けること自体は。都立大学が、あの、えーと、「彼を支援する」、つまり僕を支援する「グループがあるので、コミュニケーションが」、まあ、あの、「サポートできます」ということ言ったんですね。それが決め手で、「いいでしょう」というふうに、まあ言ってくれました。ただしかなり早い時点で、専攻を決めなければいけなかった。たぶん浪人の最初の頃ですね。

立岩 ああ。それは都立大が言ってきたんですか? 「どこを受けるつもりなんだ?」っていう、「それを決めてくれ」っていうふうに、都立大が言ってきた?

福島 そうですね、都立大が言ってきた。つまり最初は、最初は、これは私だけじゃなくてね、視覚障害者の多くの学生で、当時はそうだったし、今もそうかもしれない。つまり、あのー、東大で言うと、教養部の部分、間、1、2年生の間はいいにしても、そのあとの学部に移る時にどこに行くのか、ということが、ある程度わかっていないと、そう簡単にはあの、受け入れられるかどうかわからない。これは現在もそうですね。点数に従って、とか、希望によって振り分けるというようなことは、障害学生に対しては適用できないと思いますね。あの、少なくとも「ここに行くつもりだ」という話ぐらいはしておかないと。それで私は、文学が、ほんとは文学とか哲学が、関心があったんですが。その、塩谷先生というのが、その、塩谷先生は早稲田、早稲田の国文でしたけれども、「文学なんかやったって、やったって飯食えないぞ!」いうふうに、(笑) 言われて、

立岩 はい。うちの親もそういうこと言ってました。

福島 あまり強い希望はなかったから、(笑) 何か、そういう偏見があるかもしれませんね。

立岩 偏見でもないんじゃないですか。ほんとに文学部行くとなかなか職が、ない、少ないでしょう。うん。

福島 (笑) 実際そうか。だけど、まあそうですね。文学も哲学も、両方とも飯食えない双璧かもしれませんが。それでね、「教育心理学とか、教育学とかがいいんじゃないか」というふうに、まあ塩谷先生は言ってたんです。私としてはあんまり強い要望がなかったから、「まあ行けるんであれば、どこでもいいかな」という感じでした。それで教育学かな、で、交渉してくれたら、みんな戸惑っていたけれども、そこに、のちに全障研の委員長になる茂木俊彦★がいたんですね。

立岩 え? 茂木さんがいて、どこにいたって?

福島 (笑) 全障研の、

立岩 いやいや、それはわかるんだけど、茂木さんがどこに?

福島 教育学、教育学。教育学の専攻で。彼はその、いや、彼は准教授だったんです、その時。助教授だった。

立岩 ああ、そうか。はいはい。

福島 それで、他の先生たちはよくわからないから、都立大って小さいところだから、細かく分かれてなくて。教育哲学も、教育行政も、それから教育心理とかもみんな一緒くたで、一つのセクションだったんです。で、他の先生たちは「どうしたもんか」という感じだったけど、茂木さんがあの、私が高校時代の、高校3年時代の盲ろう生徒として、授業を受けていた様子などをね、撮ったビデオがあったんです。今どこに行ってるかわからないんですが。体育でトランポリンをしたりとか、跳び箱をしてる様子だとか、何か他の授業受けてる様子だとかが映っていたので、そういうのも見て、「大丈夫でしょう」というふうに言ってくれたので。あの、「茂木さんが言うんだったら、ほんなら、みんな、いいことにしよう」というふうに、まあそん中には、全障連的な、あの、考え方の人もいましたけどもね。まあのちに僕は、茂木、茂木先生のことをよく批判的に話したりすることはあります。出てくるわけですが、でも彼、彼はフェアにちゃんと議論をしてくれましたけれども。とにかく茂木さんが、あの、「大丈夫です」と言ってくれたんで、都立大が受け入れを決めたのが9月です。82年の9月。

立岩 ふーん。もう4、5月ぐらいから、

福島 これが初めて、

立岩 リクエストがあって、で9月に、

福島 はい、9月に、

立岩 福島さんの方で言ったわけですか? 「じゃあ、教育にします」っていうふうに。

福島 私というか、あ、しん...私は、直接は、私はタッチはせず、進路指導部ですね。塩谷先生を含めて進路指導の先生がね、二人か三人かで大学に行って、交渉すると。それでようやく82年の9月で、ですが、「都立大学の2次試験を受けてもいいですよ」ということになったと。

立岩 なるほど。

福島 それでね、その時の大きな決め手は、先ほども申し上げた支援グループ「福島智くんとともに歩む会」というものが一応あったということ。そして「通学の送り迎えと授業の時の通訳は、われわれがやりますよ」ということを、あの、言ったんですわ、塩谷先生がね。それで、それが向こうの大学を安心させたんですよね。比較的都立大学は、予算的にはまあ潤沢だった時代ですけれども、だけど盲ろう者の生徒の通訳保障なんていうのはまた想像もできないし、予算化もできないし、という感じだったんですが、「とにかくそういうことはこちらでやりますから」というのが、この時点ではそれしかなかったんですよね、対策は。それでね、ちょっと先回りして言うと、私は入学しますが、報道はされていなかったかもしれないんですが、同時にね、聴覚障害の学生が断られているんです。

立岩 え? 都立大ですか?

福島 はい、都立大で。はい。断られてるんですよ。だから、正確にはその人のこと、わからないんですよ。会ったこともないんですが、その後どこに行ったかわからないんですけれども。それが、つまり情報保障ですよね。情報保障の経費を予算化することが、「費目などが立てられない」というのが理由だったんだろうと思います。まああの、資金…、そうですね、その辺詳しくはわかりませんが、少なくともそういう人がいたということは確かです。これが光と影みたいなものですよね。

立岩 ということは、盲ろうの福島さんがオッケーだって言われて、そのろうの、聴覚障害の人がダメだったのは、要するに大学入った後、福島さんの場合は会が「情報保障関連やるから」っていう話だったんで大学はまあ安心したけれども、もう一方(ひとかた)はそういう体制ではなかった、っていうことでしょうかね?

福島 と思います。83年という時点では、まあ、本当はね、あるいは、もしかしたら私のケースがあったから、「そういう支援グループがあるのが当然だ」みたいに思ってしまったのかもしれませんね、大学側は。その辺わかりませんけどね。その人がどこの専攻かもわからないんですけれども。でも、その話を聞いて、複雑な思いでしたよね。まあ学部に入って以降、他の大学の学生と繋がりができて、実際は聴覚障害の学生も色んな大学に入っているということを、情報保障がなくても、あの、情報保障がなくて、まあ自分たちで、関東聴懇とか関東聴覚障害学生…、うん、何か問題懇談会? とかあるいは、学生がね、学生団体で手話通訳者を派遣して、障害学生を支援するみたいなそんな動きありましたよね。そういうのがあったので、私のいわば影で断られた人もうまくやればできたのかもしれませんが、とにかくそういうことがあったと聞いています。

立岩 で、秋ですよね。で、えっと、83年の4月に入学されるわけですよね。それは、受験は順調にいったんですか?

福島 はい。もう、その直前まで大変でした。色々、色々、女性問題とか。

立岩 (笑) はい。

福島 ちょっと、これはちょっとここでは話できませんけども(笑)。もう、もうもう、「どないなんねん?!」っていう件で、もう、ね、ずっと気がかりなことがあったりとか色々してましたし。私が共通1次受けてる時にも、あの、おふくろがね、おふくろが来てましたけども。塩谷先生とおふくろで、その、大学とか受験の話ではなく、私の女性問題について色々喧嘩してるというか、言い合ってるという。

一同 (笑)

福島 ひどい…(笑)。ええ、だからこう、「障害者が、清く正しく頑張って」、頑張るなんっていうのは全くの嘘で。もう、もう、僕、色んな問題を抱えながら、人を巻き込みながらという感じでしたよね。でも、「落ちるわけにいかないから」と思って、1次は頑張りました。その時は870点ぐらいいけたんですよね。872点ぐらいだったんです。だから本来なら、東大を受験というのも選択肢に入っていたんですが、もう、もう私にとってはそういう選択はないわけですね。最初の時点で決めとかないと。その当時で足切りが840ぐらいだったから、

立岩 うん。受けられますよね。

福島 一応足切りは超えるんですが、(笑)

立岩 東大って科目数が多いでしょう?

福島 そうそう。そう、数U、そう、数UBっていうのがまだ準備できていなかったから。2次は3科目ですよね? たぶん。英語と国...、英語と国語と社会と、あ、4科目か、数学と。

立岩 それは都立大が? 都立大の2次っていうのは4科目でよかった?

福島 いや、いやいやいや、あの、2次の場合、いや今は東大のこと言いました。

立岩 東大はもっとあるんじゃない。7科目ぐらいなかった?

福島 それは1次試験ですよね? 5教科7科目ですよね。

立岩 えーと、ちょっと待って(笑)。そうだっけ。まあいいや。まあでもとにかく、

福島 5教科7科目、それは1次試験はそうでした。

立岩 1次試験はそうだよね。ああ。忘れた(笑)。えっと、はいはい。

福島 それで、それで、それで2次はしゃあないから。立岩さんつ受けたんですか、共通一次は?

立岩 僕は79年。共通1次試験がスタートした時。

福島 そうか、始まった時や。最初の年や。

立岩 そうです、始まった年です。

福島 そうかそうかそうか。5教科7科目でしたね。大変でした。

立岩 ええ。

福島 僕もそうでした。それでね、それで、2次試験は、まあそれは、1次でそれぐらい取っていたから、あとは気楽に2次試験は受けて、それで、通りました。
 で、入ってからその支援さん...、支援の会の支援を受けながら始まるんですが、ここでもまた下宿探しが大変で。その時は前の年よりもすごく、一層複雑な気持ちだったのは、一方ではメディアで、あの、「日本のヘレン・ケラー」とか、何や、何やと持ち上げるわけですよ。ところが、その一方で社会の現実は、住む場所がない。で、盲ろう者が、あの、目と耳が悪い、あとね、その時もとりあえず同居人は、誰かに同居してもらうというふうにはしてたんです。そういう条件、「隣の部屋に同居人が入ります」という条件をつけても、そこは歩む会の方で、家賃補助出して、隣の部屋に住める人を確保して、それで、そういう条件で探したんですが、8軒か9軒、私自身は当時、心労がたたったのか、ものすごく眼圧が上がって入院していたので、私は実際に下宿探しはできなくて。その、小島先生とか塩谷先生なんかが中心に探して下さったんですよね。それで8軒か9軒か回って、ようやく見つけて。かなりこう、

立岩 それは何、都立大学の周辺ってことですか?

福島 そう、そうそう。柿の木坂でした。柿の木坂っていう地名があって。都立大は今は移転して南大沢ですが、当時は都立大学駅の、という名前だけは残ってる、あそこにあったんですよ。まあ、それで、その、最初隣に入ってもらった、隣に入ってもらった、盲学校の先輩の男性がいて、だけどいつまでもいてもらうわけにもいかないから、大学に入って、語学のクラスメイト40人ぐらいに、えーと、アンケート調査をしてね。私は女性でもよかったんですけれども、「まあちょっとそれはまずいだろう」ということで、「男性」ということで、「同居人募集」というふうにアンケートをしたら、一人、「住んでもいい」というふうに言ってくれる男がいたんで、彼に隣に住んでもらいました。

立岩 そのアンケートは、福島さんがしたの?

福島 はい、僕と…。ですがその時々に、人に恵まれていて、その時はクラスメイトの中で一人、一人ちょっと変わった男がいたんですよね。割と積極的で、指点字とかにも関心を持ってくれた。で、彼が、学術文化委員という、何だかわからない委員をやっていましたが、その彼が指点字の講習会も主催したりして。で、その、その一環で。そう、今思い出しますね、私をね、私の歩む会、私を支援する学外の歩む会とは別に、クラスの中で私を支援する会というのができたんです、一時的に。1年ぐらいかな。えー、それで、そこであの、アンケート調査をしたということですね。アンケートといったって大したことないんですよね。20人とか25人ぐらいに配って。

立岩 ふーん。都立大学のその、都立大、教育学部でいいんですか?

福島 いえ、人文、人文学部です。

立岩 人文学部の、僕ちょっと知らないですけど。どのくらいのサイズで、そのクラスっていうのは、いわゆる語学のクラスっていう感じですか?それとも、何かもう学科みたいになってるの?

福島 40人ぐらいかな。えーとね、たぶん人文学部がね…、あれ、大学全体では4千人ぐらいなんですが。しかしどうだったのかな? 学部で、人文学部の定員は、正確ではないんですが、たぶん1学年100人ぐらいではないんかな。それで、その、人文学部が、その「語学のクラス」と便宜上言っていたけれども、100人を50音順の前半と後半で、50人ずつぐらいに分けたんだと思いますね。

立岩 ああ、なるほど。

福島 そのうちの私は後半ですね。あれ、50音順か、アルファベット順か分からないけど、とにかく私はあの、後半です。たぶん50音順だな、「あかさたな」で。それでその40か50人ぐらいを一つのクラスとしてました。1年生、2年…、それでね都立大学って確か2年から分かれるんだ。2年から3つに分かれるんです、確か。だから1年の時だけだったかもしれませんけど。はい。それで同居人が見つかって、じゃあゆっくりながらも指点字はできる。あんまり何も、何も彼はしなかったけれども(笑)、それでも、居た...、居てくれたおかげで、学部4年間はそこで暮らせました。その後は引っ越して、完全に一人暮らしになりましたけども。

立岩 その後、ってのは、学部が終わってからっていうことですか?

福島 大学院行ってから。

立岩 ふーん。例えば石川さんの場合は、3年生で文学部の社会学科に入ってからですけれども、まあ大学からお金が出て、それで僕らなんかもアルバイトで雇われたわけですけれども。都立大の場合は、大学からの支援っていうのは、どういう感じだったんですか?

福島 そうですね。物的な支援はまず、比較的自由ですわ。点字の本を買うとか、辞書を買うとか、あとは点訳を頼む時の有料点訳、外部に頼む時の謝金などは比較的出て。あと、その、対面朗読とかですよね、立岩さんのは?

立岩 うーん、まあ僕の場合は、

福島 対面朗読、TAかな?

立岩 えーとね、僕の場合はカセットテープに録音するバイトってのをやってましたね。

福島 そうそう。そうですね。それはありました、おんなじように。私の方も図書館がかなり積極的にやってくれて。私の場合はあの、「対面点訳」などと言ってましたけれども(笑)、誰かが…、

立岩 「対面点訳」ね。うんうんうん。

福島 (笑) というのもあったんですよ。誰かが読んで、それを聞いて、その、全盲で点字を打つのが早い人が点訳するとかね、そういうのもありました。

立岩 ああ、ああ。なるほど。

福島 それからもちろん一人で、直接私に指点字を打つっていうことももちろんありましたし。あとは色々、まあパターン、私の通訳者は全盲の人が割と多かったから、当時。誰かが読んで、通訳者が私に打つとか。で、それらについて、みんな謝金が出てました。東京都は割と高いんですよ、都立中央図書館と合わせていたから。あ、天畠くん、帰れる?

天畠氏の通訳者 すいません、途中で退席させていただきます。

立岩 天畠さんに一言。

福島 お疲れさまです。

天畠氏の通訳者? (天畠氏とのやり取り) あ、か、さ、た、な、は、ま、ま行の、「ま」? あ、か、さ、た、「た」? 次が、あ、か、さ、た、な、は、ま、や、や行の…、「また」、違う、あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ、わ? 「わたし」、は? や行? ら行? ら、り、る、れ、れ? あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ、「連絡」?「させてください」でいいですか? (福島氏に)「また連絡させてください」と言ってます。

福島 了解です。また連絡取りましょう。

天畠氏の通訳者? (天畠氏に) 大丈夫ですか?

同席者(女性) ありがとうございます。

立岩 天畠さん、ご苦労さんでした。

天畠氏の通訳者? お先に失礼しまーす。

立岩 (天畠氏に) またお会いしましょう。
 そうやって本読んだりするのは、そういう形でやったとして、授業そのものとかっていうのはどんな感じでこなしてた、っていうか、しのいでたんですか?

福島 学部とはね、学部時代と大学院とでちょっと変わっていくんですが。あるいは授業の中身で変わるのかな。あの、ゼミナール、ゼミは基本的に今やってるのと同じで、指点字でやる。で、あの、講義式の授業は、当時はブリスタっていうね、紙テープが出てくるような点字のタイプライターがあったんです。これ、これもね、石川さんがドイツから取り寄せて、使ってたんですよ。

立岩 ああ、何かそんな話も出た、うん、うん。

福島 そいで…、そう、そのブリスタっていうのが、あの、速記用のタイプライターで。ドイツでは盲人が速記をするっていう職業があったようですね、少なくとも一時期。で、それでやってたんですが、あの、それね、いい所は片手で読めるから、右手で僕が点字版でノートを取って、左手のテープを読むということができるんです。ちょっと、巻き取り機というやつで巻き取りながらテープを読み、でノートを取りって、すごい忙しかったけれども。あの、指点字だとノートが取れないですよね。

立岩 ああ、そうだね。

福島 で、ただ、あの、ブリスタだけでは、やっぱり完全にはちゃんと取れないから、少なくとも1年生の頃と、それから2年生以後も、いくつかの授業では、これはもう一緒に授業を取ってる人の中に、これはもうボランティアで、ノートテイクしてくれる人、ノートテイクと言っても通訳じゃなくて、ノートに、普通にノート取るような感じで、ノート取ってもらって、あとでコピーをさせて、あの、くれる、もらう人を頼んでいたんです。それでコピーさせてもらって、それをあとで別の人に点字翻訳、点訳してもらうというふうに。

立岩 ノートテイクをする人のお金っていうか、働き方っていうのはどう、

福島 それは、それはたぶん払ってなかったと思うな。というのは、通訳という意味でのノートテイクではなく、授業の、はい、授業の、

立岩 学生の誰かに頼んで、っていうことか。

福島 そうそうそう、そう。自分の、自分にとっても必要なものだから。で、割と真面目そうなやつを(笑)、選んで。

立岩 それ、大切だよね。

福島 で、断らなさそうなやつを(笑)、選んで。

立岩 うん。ノートのクオリティって全然違いますよね。僕なんかに頼んだら…、

福島 そうそうそうそう。(笑) いやいやいや。で、その、噂で「あいつは真面目だし」とかいう子がおって、「よく勉強するらしい」という者に頼んでました。そう。そうすると、そうするとあとで、東大でもやってたんですよ、あの、ノートを取る担当の試験対策の人とか。(笑) ね。ええ。
 それで、それでねえ、そのブリスタを使うと困るのは、天畠くんの話にもちょっと似てますが、可視化されて分かっちゃうんですよね、僕がちゃんと聴いてるかどうかが。つまりその、僕がもし寝ていたら、テープが溜まってしまって(笑)。いや、打つ人は打つんですよ。打つ人は打つからテープはどんどん出てきて、溜まっちゃって(笑)。

立岩 そうか、そうか。テープは出るけど、テープを…、なるほどね。はいはい。

福島 (笑) それで、先生の、僕は一番真ん前に座っているからね。それで、で、だけど、ある時私が寝てたけどばれなかったことがあって。それは通訳さんも一緒に寝てたんです。

一同 (笑)

立岩 そうかそうか。

福島 という、そういうこともありました。(笑) あの、通訳者がいることで、ほんとは私、障害がなかったら、もっと授業さぼって他のことしたいと思っている、思っていただろうに、仕方なく行かざるを得ないみたいなところがありましたよね。

立岩 そうでしょうね。目立っちゃいますよね。

福島 それ、それ、目立ちますからね。だけどね、一方的な講義はつまらない、つまらなかったけれど、ディスカッションできるゼミになってから、すごく面白いと思いました。

立岩 都立大は、ゼミは何年からあるんですか?

福島 2年生からありました。はい。あとはゼミということではないけど、人数が少ないから、授業でも実質ゼミみたいになってるようなところもありましたし。

立岩 うんうん。それでまた、お金の話が、僕が聞くと多いんですけど。さっきノートテイク、ノートを取る人はまあそれは普通にノート取る、だからお金は払わない。それは分かるんですけど、それ以外の読書とかそっちの辺は大学が一定やってくれたっていうのはさっき聞きましたけど、授業に関する情報保障の部分っていうのは、都立大はどういうふうにしたんですか? まあ、お金のことですね。

福島 まず、まず通訳者については、私が学生でいる間は、結局、都立大からの保障はありませんでした。まあ、あまり運動をしなかったということもありますけれども。ただ、あの、えーと、教科書とか、あるいは参考文献みたいなもの、各授業で別に教科書が決まってない場合でも、参考文献は教員が指定するから、それは大学が...、の経費で、あの、優秀なボランティアに有料で、有料ボランティアで頼んで、謝金を大学が払っていました。それからさっきの、えーと、図書館でのことも、時給1,700円ぐらいでしたね、当時で。それであんまり、その時間制限もなかったので、かなり、どれぐらいだったかな。でもおそらく、でも年間100万ぐらいまでは使えたと、使えたと思います。あとは物品、必要な物品を買ったりするっていうのは…。通訳介助の部分以外はだいたい、必要なことは満たされていたという感じですね。

立岩 こないだ石川さんと、こないだって2014年ですけど、「いくらでやってたんだろうね」って話になって、正確な記憶はどっちもなかったんですけど。たぶん90分のテープ1本で4千円だったって話でね。「結構いいバイトだった」っていう話になって。実際僕、それで結構暮らしてましたもん。カセットテープ…、うん。

福島 ああ。いいです、いいですね。それは。(笑)

立岩 本1冊5万円ぐらいなるんですよ。そうするとね、2冊、3冊読むと、あの、一月暮らせるんですよ。だから僕、結構それで暮らしてました(笑)。そういう昔話を、こないだ石川さんとしてたんですけど。

福島 なるほど。

立岩 それで学部はだいたいそんな感じですけど、基本、大学院もそんな感じだったんですか? さっき「少し変わった」っておっしゃったけれど、「大学院生になって」。でも、まあもう一つは、「そもそもなんで大学院なんかに行っちゃったの?」っていうの、ありますけどね。

福島 うん。そう、僕は大学は、院に行くしか道がなかったからですよね。だからまあ、「でもしか」と言ったら悪いけど、その、マスターに行く時はね、もう行くしかなかったですよ。あの、学部出てすぐに就職できるという可能性は殆どなかったので。私、学部の4年生の時に父親が倒れたんですよね、重い病気で。そういうこともあって、経済的なことがあって。本当は何か稼げればよかったんですけれども、でも、それができないから、まだ、まだ、あの、大学院に行って奨学金とかもらった方がいいと。当時は育英会の奨学金の時代です。そうすると、将来、教員になれば返せるというやつだったので。

立岩 チャラになるっていう、そうだよね。借金の、奨学金っていう名前の借金じゃなかった時代ですよね。

福島 そう、そう。もちろん、教員にね、なれる保証は何にもなかったけども、「とりあえずは何とかしのげるかな」と思ったんで。それで、いくらだったか忘れましたけど、もう。でも10万ぐらいか、大学院だったら。学部は3万ですよね、基本、育英会。

立岩 大学院の奨学金はそこそこ出ますよ、うん。

福島 そうですね、そうですね。それで、「それと年金で何とかやっていかなあかん」みたいな感じ。だから、だからすごいプレッシャーかかってましたよ。落ちるわけにはいかないし。だって最初はね、ちなみに学部の1年か、2年の時は、大学院からは東大を受験するということも考えて、それで第2外国語もだいぶ頑張っていたんですけれども。でも、そのうちに、少なくとも大学についてはもう、どこの大学というより、何を自分がやってるかの方が、この後に向けて重要らしいということは、だんだんと分かってきたので。それと、都立大の教員も、私がいた研究室は6人中5人が東大から来ている人で、結局似たような感じだし。まあただ、東大にいられないような左がかった人間が来てるんでしょうけどね。で、面白い授業やゼミもあったので、ここに残ろうと思ったんです。で、すごい緊張しましたね。あの、人生で2回だけ真剣に勉強したことが、1年浪人した後の受験と、それからマスターを受ける時で、それはすごい緊張しました。で7人ぐらい受けて、私だけが通ったんですよね。他みな落ちた。(笑) で、みんなに恨まれた。みんな恨まれた、何か。それはちょっと。それは語学が、その時英語とドイツ語が抜群にできていたらしい、その時はね(笑)。

立岩 先端研、楽ですよ。立命館の先端研は楽ですよ、楽勝ですよ。(笑)

一同 (笑)

福島 ああ、そうですか。あ、そう、そう、そう…。それで、そのあと、うーんと、大学院行ってからディスカッション中心の授業になるから、指点字の通訳で受けるんですよね。

立岩 それも大学が、っていうわけじゃなくてですか。

福島 はい。まだ大学が、ってわけではないんです。あ、ゼミ大丈夫ですか?

立岩 そうなんだよ、で、どうしようかな?と思って。ちょっとなら延ばせるんだけど。でも、どうします? 僕は何とでもいいし、あと10分ぐらいなんです。

福島 もうちょっとだけ、言いたいことがあるので。

立岩 じゃあ、お願いします。はい。

福島 あの、どうしようかな。今日はまあ、盲ろうのこととか、盲ろうの運動のことは話できませんでしたから、それは別の機会に。

立岩 また今度。今度は東京に行きますから。

福島 はい。

川口 私も相談したいことがある(笑)。

福島 はい、はい。私ね、あの、さっき、指導教員が茂木さんで、茂木さんは全障研の全国の委員長で、発達保障論の人だったから、かなりこう、意見が違う、対立する感じだったんですよね。で、私は知り合いは全障連の人が多いし、あの、小島先生のあの、授業に出入りしていた地元の変なCPのおじさんなんかもたぶん、あれ青い芝の会の流れを、えー、あの、持つ人じゃないかなと思うような感じの、面白い感じの人でした。

立岩 それ、千葉の人ですか?

福島 全障連的な。はい、まだ千葉の。

立岩 ああ、僕知ってる人、何人かいるかもしれないです。

福島 たぶん共通の知り合いはいると思うんですよね。で、で、あの、それであの、立岩さんがあの、『私的所有論』の9章あたりでラーメン屋の話、引用してるでしょ。あれを話(はなし)してる宮〔昭夫、〜2012〕さんていうのは盲の人ですが、彼などが入っている視覚障害者労働何とか協議会なんかにも私、時々出たりもしていて。考え方としては、(笑)

立岩 ああ、そうなんですか、視労協〔視覚障害者労働問題協議会〕ですね。

福島 そう、視労協、視労協。今、視労協と言ってもどれだけ通じるかは分からないけどね。ああいう雰囲気の方が心地よかったです。だから発達保障論に対して、私はすごく懐疑的で。それで、その後、「『発達の保障』と『幸福の保障』」というような論文書いたりしました、ちょうど1年頃でね。だけど、「どうもなかなか、何かうまく論理的にというか、理論的に批判できないなあ」と思ってた時に、東大にいた黒崎勲◇というね、教育行政の人、
◇cf.黒崎 勲 199501 『現代日本の教育と能力主義――共通教育から新しい多様化へ』,岩波書店,213p.

立岩 ああ、いらっしゃいますね。

福島 これ、斉藤龍一郎さんが「授業受けたことがある」と言っていましたが。まあもともと、「能力」の人ですけれども、能力研究会ですが。能力だけじゃないけど、色んな能力主義の論文とかを紹介して議論する授業、ゼミがあったんです。それ博士課程の時に取って、すごいそれは面白かったんですよ。そこで、で、「結局、障害者論ていうのを突き詰めれば、『能力主義をどう考えるか』ってことになるよなあ」というふうに思ったことが一つ。
 もう一つは教育哲学をやってた人でね、もう亡くなったんですが、黒崎さんも亡くなった、茂木さんも亡くなったけどね、小沢有作っていう人がいて、パウロ・フレイレというブラジルの教育学者…、教育運動家か、彼の本なんかを翻訳したりしています。「民族教育論」というのが博士論文ですね。やはり東大の教育出身で、朝鮮半島やその他の様々な植民地で行った日本の教育、まあ、まあその内容を分析した、みたいな話ですね。そういう、うーん、まあ同和問題とか、様々な差別問題のゼミ、小沢さんの、そして黒崎さんの能力主義関係のゼミというのに出ている頃で、ですが、「障害の問題とそこをつなげられないか?」と考えていた時に、竹内章郎さんの『「弱者」の哲学』が93年に出て、能力の共同性論を彼は言っている。そして立岩さんの『私的所有論』が97年に出て、あの、その後、障害学が始まりますよね、99年以降に、日本で。だからすごいあの頃は、私たちも何か、興奮していましたね。「何か言えないか」、

立岩 93年の竹内さんの本っていうのは、たまたま知った、っていう感じですか? 『「弱者」の哲学』ですけど。

福島 いえ。89年の黒崎さんのゼミで、さらに前の87年に出た、『権威的秩序と国家』っていう藤田勇さんという人が編集した東大出版会の本の中にある、「能力と平等についての一視角」っていう竹内さんの若い頃の論文を検討したんです。すごい読みにくい論文だけど、とても面白かったんです、僕は、僕にとっては。ロジカルで…、もともとヘーゲル哲学者ですので、非常にロジカルで、あの、しかし、障害の問題も含めて、「能力は人間の平等存在が持っているに過ぎない」っていうふうに、能力と主体を分離するという発想がね、出ていて。それがすごく僕にとっては面白くて、「何でこんなこと書くんだろうか? この人は変じゃないのか?」と思って、のちに、電話して、訪ねて行くんですよね。それで、その後もやり取りが時々ありますが。娘さんがダウン症で、かなり重い障害、知的障害があるということが分かりました。本には全然書いてなかったけど。「いや、この論文はただ者ではない。普通じゃない」というふうに思いました。

立岩 彼、岐阜でしたっけ?

福島 岐阜大、岐阜大学です。ぼちぼち定年かな、もう。ちなみに『私的所有論』のことは彼に聞きましたよ、たぶん、それが一番早いから。

立岩 ああ、そうですか。

福島 そうそう、はい。そんで、たぶん、あの、「なかなか難しい」とは言ってましたけど。

立岩 ああ、竹内さんがね。

福島 そう(笑)。まあまあまあ。とにかくそんな感じですね。

立岩 だいたい福島さん、今、20分ですけど、今度東京行きますので、残りの話は東京でお伺いしていいですか?

福島 いいですよ。このあとのゼミは、どういうゼミですか?

立岩 いつものゼミで、えっと院生が二人、2.5人分ぐらいですけど、報告するっていうのが習わしで、今日もそんな感じですけど。この建物の一つ下ですね。今日誰やったっけ?

同席者 伊東さんと、

立岩 伊東〔香純〕さんはえっと、精神障害者の国際的な運動のことをやっている院生です。それから、もう一人が誰だっけ? もう一人は…、あ、駒澤〔真由美〕さんっていう人は、やっぱり精神障害者の就労、労働のことを研究してる人です。たぶんこないだ福島さん来た時は、伊東さんはいたな。伊東さんは確かいた。けど、こまざわさんは自転車にぶつけられて、鞭打ちになって、学校休んでたと思います、っていうそんな感じです。で、はい、どうします? タクシーの予約もあるよね。

福島 タクシー、5時半でいいですけどね。

立岩 5時半にタクシーに乗ればいいですか?

福島 聴いてるだけでもいいですし、一言ご挨拶でもいいですし。はい、はい。

立岩 じゃあ、どうせここにいる院生何人かは下に行くので、ちょっと移動しましょうか、ぼつぼつ。

福島 それなら、ちょっと誰かにどなたかに頼んでいただけませんか? じゃあ5時半に。

立岩 二人は行くよね、少なくとも。三人は行くよね、演習にね。じゃあ僕はちょっと片付けて行きますから、お連れして下さい。面白かったです、とっても。聞けてよかった。


UP:20200113 REV:
福島 智  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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