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自立生活を身体障害者の既得権にしちゃいけないよね、って

話し手:中村和利(特定非営利活動法人 風雷社中 代表) 聞き手:田中恵美子(東京家政大学 人文学部 教育福祉学科 准教授)
2018/12/26 於:transit cafe colors

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◇中村 和利 i2018 「自立生活を身体障害者の既得権にしちゃいけないよね、って」(インタビュー)  2018/12/26 聞き手:田中恵美子 於:transit cafe colors
◇(NPO)風雷社中 http://fuu-rai.main.jp/https://www.facebook.com/fuurai.japan/
田中 恵美子  ◇自立生活/自立生活運動  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
【弱い者を肯定する生き方を模索する】
 そもそもは、いじめられていた。いじめっていっても、今みたいな陰湿なのじゃなくて、ちゃんとした不良がいたの。「ジュース買って来い」みたいな命令をする。で、いうこときかないから中学校ぐらいから殴られてて、普通にやり返してけんかしていたんだけど、高校に入るぐらいから、もう俺は人を殴るのはやめようって決めた。そうしたら、逆に面白くなって殴られ続けていた。つらかったけど。で、高校三年生の時に『弱者の論理』っていう小論文を書いた。進学コースにいたけれど、進学する気はなかった。担任の先生から、「進学しなくても小論文だけはやれ」って言われて、"弱い人がなぜ弱いまま肯定されないのか。弱い人は弱いまま肯定されるべきだ"という論を、高校生なりに1年間ずっと考えて書いたの。その中で見えてきたのは、自分はいじめられていたけれど、いじめる側にもつらい人が多かったってこと。実際に高校卒業するまでに1クラスの生徒がいなくなるんだ。で、駅前でたこ焼き屋やってたり、的屋やってたり、やくざになったっていう噂を聞いたり。俺よりもずっとひどい目に合っている奴らを見て、力がものをいう社会は良くないって思ったわけ。
 そのころ、東京シューレ★01に関するテレビ番組を見て、なるほど、面白いなって思った。学校に行かないという選択が出始めたころだった。この時子どもに携わることで社会にコミットしていけないかなって考えたわけ。フリースクールとか子どもキャンプだとか、そういうことを仕事にできないかと思って、大学に行く気はなかったから、専門学校か短大に行って何か資格を取ろうと思った。その当時は保育士しかなかったし、調べたら離島の保育士の本とか男性保育士が出始めたころだったし、面白いと思って上智社会福祉専門学校に行った。
 学校は当時夜間だったから、日中は働くんだけど、当時障害児・者の日中活動のバイトがいっぱい出ていた。いとこが重度障害児で怖いとかそういう思いがなかった。たまに一緒にお留守番させられる程度の関わりしかなかったけど、障害っていうのはこういうのかなって。親戚にも知的障害とか発達障害みたいな人もいて、なんとなくわかっていたつもりだった。実際には知らないんだけど。もともと起業するつもりだったし、見分を広めるために仕事は障害のことをやろうって思った。それで在学中から知的障害の人の日中活動に関わっていたんだけど、これが無茶苦茶面白くって。この人たちがどうしたら社会にコミットしていけるんだろうって、そのためにどうやって俺が関われるだろうって、面白くなってきて。最初に思っていた子どもとの関わりよりも障害の方にのめり込んでいった。
 結局3年の夜間学校に5年もいって、その間に結婚して、卒業して最初に就職したのが定員10名ぐらいの重度身体障害児の日中活動の場だった。1年でやめて板橋の障害児の日中活動に行くようになって、そのあと中野にも行って、江東区の身体障害者の日中活動とか、母子寮の保育士として人がいない時の助っ人として入ったり。20代はあえて1年から2年ぐらいで動いていろんなことを経験した。
 27歳の時、区立の通所施設の職員になって公務員になった。それまで、小さいところを転々としていて雇用保険に入ったこともなかった。そろそろちょっと大きな組織も経験した方がいい、ということと障害のことをもう少し勉強した方がいいと思って、大田区がたまたま中途採用職員の募集を出していて、受けたら受かっちゃった。

【障害者の自立生活に出会う】
 このころ、公務員として働く一方で、夜、自立生活をしている人の介助に内緒で入るようになった。友達の紹介で、川崎に住んでいる障害者が大田区に引っ越してきて自立生活を始めるんだけど、介助者が足りない人がいるっていうので、週に1回1泊だけその人の介護に入ることになった。組合の人なんかも関わっていて、他にも職員で働いている人はいた。その後、彼は自立生活センターを立ち上げたんだけど、俺は相変わらず施設の職員として働きながら夜の介助を続けていた。
 30になったばかりのころ、公務員が嫌になってしまって辞めることにしたんだ。民間の時代が長かったから、公務員のやり方がどうしてもあわなくて「やってらんないな」って思って。辞めるときに先輩からコミュニティカフェの立ち上げにかかわらないかって声かけられて、1年やったんだけど、すったもんだして喧嘩別れしちゃった。そのあと、仲間と一緒に障害児の放課後活動を立ち上げた。
 一方で、公務員を辞めたころから食えなくなってきて、週に1泊だった介護が2泊、3泊と増えていった。彼の方も、自立生活センターを作ったといっても、俺が連泊することもあったりして、介護体制は崩壊しそうだった。そういう中で週に何日も入るようになって有償介護人兼福祉事業所立ち上げみたいな時期がしばらくあった。ある日、俺が夜勤明けで友達とバトンタッチして、その次の日も夜勤に入るっていう予定だったんだけど、前の日の夜中に彼、十二指腸潰瘍で吐血して、筋ジスだったから吐けなくて、呼吸不全で亡くなっちゃった。
 その彼が、俺が知的障害児の放課後活動をやっているっていうのを知ってて、「自立生活を自分たちの既得権にしちゃいけないんだよね」って、ことあるごとに話をしてくれていた。いつか知的障害者の自立生活支援を一緒にやろうっていう話もしていた。

【矛盾の中から、本当にやりたいことを見つける】
 知的障害児の放課後活動をしているなかで、行動障害が強くて高等部卒業を待たずに北海道の施設に入所する子が出てきて、でもそれを聞いても最初は特にあまり感じなかった。「入所施設か、かわいそうに」ぐらいに思っていて。必要性があるし、そのうち自分も入所施設の仕事もやるのかな、ぐらいに思っていた。でも「障害者の自立生活」に出会って地域で暮らし続けるのが当たり前だという価値観に変わっていく中で、自分の関わっていた子が施設入所、しかも北海道に行くというのは違うんじゃないかと思うようになった。おまけに親が連れていかれないから、代わりに俺が北海道まで彼を連れていくことになって、本人に説明ができない。いや、説明はできるけど、ちゃんと話したら飛行機に乗らないだろうなと思って、だから説明もせずに飛行機に乗っちゃう。そして向こうについてから「今日からここで暮らすんだよ」って、そう、だまして捨ててきたわけ。その後、3人ぐらい続けて卒業を待たずに都外施設 に入所する例があった。俺が関わっているのに、これでいいのかって。そのころ、北村さん★03にも出会ってしょっぱなから叱られたんだよね。「あんたみたいな人がいるから障害児が放課後まで隔離されちゃんうだよ」って。
 だけど、一方で親は結構前からギブアップしていた。本人は他害が強くて、特に母親に対しての暴力がひどかった。でも母親はやっぱりどこかで子どもに戻ってきてほしいし、俺もまだ何かできるんじゃないかって思って、あいつを家に戻してやりたいってお母さんと話しながら、実際には入所するときに「戻ってきません」っていう誓約書を書かされたりしていて。本当にこれでいいのかって。
 そのころちょうど支援費制度★04が始まって、知り合いが居宅介護と移動支援をやりたいっていってきて、事業として始めることになった。俺は今まで通り主に放課後支援の方をやりながら、たまに手伝いで移動支援に関わるようになった。最初は、「俺、一人で7人とか8人とか相手できるのに、一対一ってもったいない」と思っていた。今思うとほんとに全然わかってなかった。で、実際に移動支援で利用者とかかわっていくうちに、「あ、そっかそっか、違うな。今までは利用者を俺に合わせるようにしていたんだ」と気づいていくようになるわけ。利用者を支援者に合わせていた施設処遇と、本人が何かをするのに100%支援していく個別支援っていうのは全く違うっていう、自立生活の感覚を取り戻していったわけ。

【社会を変える活動に】
 居宅介護と移動支援を始めて1年で大田区から不正利得という行政処分を受けて一旦事業撤退して整理するということになった。実際には過誤で不正受給なんかじゃなかったんだけど。俺はこの事業は絶対に必要な事業だとその時にはすでに認識していた。だから、指定取り消しになったわけじゃないからもう一度法人として立ち上げないと、法人としての信用が回復できないって再度事業を立ち上げるわけ。そのころ俺はもう放課後支援の方は全然やる気がなくって、他のトラブルもあって理事長職を降りてたのね。だから暇もあったし、新しい方に力を入れたいって思った。だけど、もともとの方針と違ってきているから、最初からいる人たちとあわなくなってきた。俺が変わったんだよね。それで本格的に居宅介護と移動支援をやるために、新しい法人「風雷社中」を立ち上げたんだ。
 移動支援は、地域に、社会に当事者がコミットしていくことを通して地域を、社会を変えていくという積極的で具体的な活動。この活動を広げていく中で櫻原さんとも出会った。そして目黒区での知的障害者の自立生活について知ることになったし、多摩地区の知的障害者の自立生活のことは古い友人のツイッターで知って、いつか自分たちもそういうことがやれたらいいなと思っていた。その時に福井さんに出会って、自立生活が実現した。今は、移動支援で関わっている学齢期の子の親と時々学習会を重ねている。自立生活の開始については「何でもやりますよ」という感じじゃなくて、家族との信頼関係があって、必要度が高いところで互いの合意の上で始められるような形が理想的だと思っていて、だから一人二人と声をかけながら準備していく感じかな。それから大田区だけで広げていこうとは思っていない。もう少し広い範囲で他の事業所とも協力しながら、地域全体で底上げしていくような動きも必要かなと思っている。もちろん、「知的障害者の自立生活」そのものはもっと日本中に合っていいし、そもそも知的障害者が生きていく過程で地域で親と離れて暮らすという選択肢が最初に考えられないのはおかしいことだと思っている。だから、そういう暮らし方があることを知らせていくこと、そのために仕掛けていくというのは大事だと思っている。

■注
★01 登校拒否・不登校の子どの居場所・学び場として、1984年に設立した「登校拒否を考える会」という親の会を母体として、1985年にスタートした。https://www.shure.or.jp/
★02 都外施設とは、都内の地価の高さや住民の反対運動を背景に、1960年代から行われるようになった施設建設・運営の方法で、地方の施設建設に際し、東京都が資金を提供する代わりに入所者の一定数を東京都在住の障害者に割り振るもの。2017年7月20日の毎日新聞によれば、14県の都外施設で約3,000人の東京都の知的障害者が生活しているという。
★03 北村小夜(1925〜)は「障害児を普通学校へ・全国連絡会」世話人である。
★03 2003年から始まった制度。それ以前は措置制度といって役所でサービス提供(委託)を行っていたが、支援費制度からは自らのサービスは自分で選ぶという選択制度に変わった。


UP:20191226 REV:
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