増田英明氏
M氏逐語録
2005年4月京大病院に検査入院、結果はALSの疑い、という診断でした。5月頃指定難病の申請をしました。日本は特定疾患の難病の人は助成が受けられるので、その申請をしたのが、検査入院が終わった後退院してから。それによって、高額な薬がタダになるんです。ネット検索でALS協会の近畿ブロックで、申請の仕方を質問
して教えてもらって、総会があるというので、M氏が1人で杖をついて参加しました。
6月に障害者手帳を交付されました。その時はまだ3級だったんですが、今の第1種1級というのは、次の年の9月に障害の等級が上がりました。場所によって等級があって、例えば意思伝達、言語障害がどれくらいあるかによって、支給が変わる。そういう細かい認定があって、かなりしゃべりにくい状態ではあったけれども今ほどひどくはなかったので、1種の1級か2級だったと思います。次の月に介護保険の認定で3度くらいだったと思います。今は介護5度です。その時に電動車いすを借りることができたので、M氏が希望したので、電動車いすを借りています。ベッドも借りています。次に入院するのが半年後の12月頃だったと思います。
これは後で聞いたんですが、最初にALSの疑いということだったので、様子を見ていたんです。毎月1回京大病院に通院していました。半年たって確定するための入院をしました。そこで入院をすることがわかっていたので、その前にサイパンに行ってきました。旅行に行って先生たちはびっくりしていました。電動車いすに乗って行きました。
電動車いすに乗って2人で行ってきました。1週間くらいです。船にも乗りました。かなり飲み込みが悪いので、パクパクと食事ができる状態ではなかったんです。なので在宅の主治医の先生は、定期的に栄養剤の注射をしてくれましたし、エンシュアという栄養剤を出してくれてそれを口から飲んでいました。ときどきそれにトロミを付けて、今は胃漏から入れるものを、口から飲んでいました。でも旅行に行ったら、カップラーメンとかパスタとかを注文して食べていました。焼き肉も食べていました。そのときスッポンは食べました。
そういうことするとダメだよ。スマートフォンに転送した時にぐちゃぐちゃになってしまうので、ここでそろえちゃうと。
そして帰って来てすぐに京大病院に入院しました。そこで改めてALSの確定を受けました。ここはちょっと怪しいんですが、私の記憶では胃瘻を付けたり、という事を書いたんですけど、なぜ12月だったかという事が、かなり栄養状態が悪くなってきてたから、遺漏を付けるという事を言った気がするんです。増田の記録では、翌年の3月くらいに胃漏をしたことになっているので、そこはちょっと調べたら出るとは思うんです。実際、それまで電動車いすでガンガン移動していた人が、12月に京大病院に入院した時にかなり落ち込んで、車いすに移乗を一回もしなかったような記憶があります。それは胃漏の手術をしたのでお腹に力が入らないからかなと勝手に思い込んでいた記憶があります。後で確認をもう一回、医療的に記録を取っていると思うので。その直前までサイパンでバンバン車いす飛ばして遊んでいたのに、この入院を機に全然車いすに乗ることもなければ、テレビを見ることもなかった。見れるのに見ることもなく、1人で悩む感じになっていました。さらに次の年が明けてすぐ、飲み込みが悪いだけじゃなく息苦しいというのを訴えるようになってきて、そのためにバイパップとかをしていたんだけども、昔は本当にセッティングが難しくて、なかなか合わなくて息苦しいと訴えていたことがありました。それで1月2月で呼吸器で京大病院に救急車で運ばれたことが2回くらいあった気がします。1回はそれで落ち着いたから退院してきて、また在宅でみてたんだけどやっぱり息苦しさが強くなってということで、また入院したような気がします。
呼吸器で入院したころには京大病院の先生から、夜私宛に電話があって、こういう風に呼吸器の症状が出て来てるという事は、正直いつ死んでもおかしくない。▼だから増田さんは、呼吸器はつけないと言っていたけれども、それは確定でいいんですね、というような電話があったと思います。
増田本人がそう言っているのならばそれに従いますと、いうことだったんです。その電話は家にかかってきたんです。私もほとんど付き添っていたんですが、夜は帰ってきてたんですね。その時は家に電話がかかって来て、こういう状態が続くのなら、いつ急変するかわからない、と言われたように思います。それで私も増田の娘さんに、そういう事を言われたと電話したように思います。その頃から増田も気分が落ち込んでいて、テレビも見ない何もしない、考え事をしている、自分で何も発信しない日々が続いたので、正直その時期の増田さんの考えは、私はわかっていなかった。今思えば悩んでたんだよね。苦しいというのは言っていた。
でも京大病院のお医者さんには、呼吸器はつけないという意思表示はしていた。そういう状態だったんです。通院しているときにも聞かれたんですが、ALSで本当に呼吸ができなくなったら、あなたは呼吸器を付けますかと聞かれたら、付けつけませんと。この人は、今の話ではないと思って、付けませんと言っていたので、そうだと思っていたら、電話がかかって来た。娘に伝えたら娘も自分の思いを手紙に書いて送ってくれたから、この人に見せて読んでいました。さらに在宅の主治医が、一番信頼している先生なので、その先生に病室に来て欲しいと、呼んできてもらったんです。
その先生は病気になる前からかかりつけで、風邪ひいた、腰が痛い、インフルエンザの予防接種をするという普段から見てもらっている先生なので。50代くらいからですね。10年くらいは行ってるかな。そんなに行ってない?もっと前からかかってた?40代くらいからですかね。
増田さんは1943年生まれです。▼普段から色々とかかりつけだったんですけど、たまたまその先生が神経内科医だったんです。たまたまその先生のお父さんがALSだったんです。だから首が痛いとかだったら、やっぱり頚椎症で、薬をもらったのも先生なんです。ところが薬をいくら飲んでも良くならない、おかしいなという事で先生が元々京大だったので、整形内科と神経内科の紹介状を書いてくれました。はじめ整形外科に行って問題ないですと言われて、神経内科に行ったら、そっちの疾患だからすぐに検査を受けてくださいということでした。それで検査入院してASLという認定を受けて、それを先生に言ったらわかってくれて、色々とアドバイスしてくれたんです。そういう先生だったから、外とコミュニケーションを取ろうとしない、テレビやドラマもいっさい見ようとしなかった時期に、話ができないのに辻先生を呼んだのは、やっぱり聞きたかったんじゃないかな。
私も同席していないから、辻先生とこの人しかわからないけれど、▼辻先生が帰った後に、この人が呼吸器付けます、に変わったんです。普通はそこでおめでたいんですけど、そしたら京大病院が慌てふためいて、結局意思を正反対にしてしまったので。昔は付けたら大変だったので、ということを言われたので。つけると言ったら、京大病院にかかっていた時の主治医の先生が、意思をひるがえしたせいなのか、折り合いが悪くなって。でも後々元気になって話ができるようになったあたりから、自分の意思を変えることは恥ずかしいことではないんだと、言われました。その時に私が感じたのは、増田さんは、本当は死にたくないし呼吸器を付けたい、と思ったんだけども、周りから付けないよね、と言われたのでどうしようかと思って悩んでたんだと思います。
▼悩んだ一つの理由は、仕事ができないから、介護が24時間だから大変だと。私も増田が付けますに変わった時に、京大病院の先生方に呼ばれたんです。教授陣達7,8人に囲まれて。その時に家族の意向だと勘違いされていたんだと思います。▼あなたね、呼吸器つけるという事はどういう事かわかります? 本当に大変なんだよ、付けている家族を紹介するから明日にでも見学に行ってきなさい。と言われたんです。そう説得されようとしたんです。でも私が決めることではないということは、始めからわかっていたので、この人たちは何を言っているのかと、それは本人に言えばいいのにと思いました。本人が付けるとか付けないとか決められる問題ではないと、家族が見れないと言ったら誰が見るのかと。だから、そんな無責任なことを本人がよく言うなとか、家族がよく言うな、という無言の圧力という雰囲気がありました。私としては本人が付けたいと言う意思表示をしたのだから、できますと無責任には言えないけれども本人が言うんだからそれに従います、と伝えたと思います。そしたら、あなたね眠れないんだよ、夜に看病して昼間に仕事できると思う? と言われました。それもそうだなあと思いました。とりあえず、はいはいと聞きました。
そしたら在宅で呼吸器を付けた患者さんを紹介するので、明日見に行って来なさいと段取りをしてくれたので、増田に言って行きました。それが2月から5月の悩んでいる時期でした。紹介されたところはお母さんが患者さんで娘さんが見ているご家庭だったんです。やっぱりうす暗い中でテレビだけ付けている感じでした。本人に見えるところではなくてちょっと上のところにあって、見ているというより聞いている感じでした。行く前に増田に、何か聞いてくることがあるか聞いたら、散歩とかどれくらいの頻度で行ってるのかと。なので聞いたら、在宅になって3年くらいになるけど一回も出ていません、と言われた時に気が付いたのが、車いすと意思伝達の機械なんですが、ほこりをかぶったままなんです。使わないで置いたままになっている感じでした。出来るわけないでしょうと言われて、そうなんだと思いました。
▼落ち込まないこの人が一番落ち込んでいた時期なので。話ができないくらい何を考えているかわからなかったですね。やっぱり悩んでいたんだと思います。私と2人暮らしなので。その時に近畿ブロックの総会で講演をしてくれた先生が、今使っている◆あもれの研究をしていた先生だったんです。その時はまだ研究段階だったんです。今研究しているからこれが使えるようになったら24時間吸引してくれるから、介護する人は楽になるよと、いう話を聞いてきたんです。それを聞いたので、大分病院に聞いてくれと京大病院の先生に言ったんです。地域ネットワークの室長の方が聞いてくれたら、この1,2年でできるかどうかわからないが、いずれは市販されるように研究を続けているところだと。増田さんはそれに掛けてたんです。それができるからなんとかなると自分なりに悩んでいたんです。
結局私が見学に行ったお宅の環境は悪かったんです。だけどそれで私が付けないという理由にはならなくて、付けようということに変わりはなかったんです。なので、見てきましたけど呼吸器を付けますと伝えたんです。▼京大病院でも会議があったらしく、もう一回親族が集まって、最終の決定をしませんかという事になりました。それを室長さんが言ってくれて、私と娘さんと息子さんも来ていました。息子さんは縁が遠くなっていたのですが。親族が一番揉めるので、本人か言ったからといって伝えてなければいけないので。それで辻先生も呼ばれました。本人は付けると言って、私は本人が付けるというのでそれに従いますとしか言いませんでした。娘はつけて欲しいです、孫たちの成長を見て欲しい、と言ったら、ではそういう事で異論はないんだね、ありません、というようになったんです。一時間くらいの会議でした。そこで確定しました。付けるとなったら、気管切開をする段取りになって準備が進んでいきました。それから間もなく人工呼吸器を付けるための気管切開の手術を行ったと思います。
ここは何回か搬送されました。最後に搬送されたところからずいぶん、増田が付けないと言ったことは京大病院で亡くなるまで面倒見ますということなんです。それでそのまま入院していたんです。気管切開して付けるとなったら京大病院の役割はないんです。在宅になるための準備をしないといけない。そのために地域の病院に転院してねと言われたのが7月くらいです。手術して落ち着くまでに1か月くらいかかるんです。次の病院でも色々準備して、ヘルパーとか訪問看護ステーションとか、ここの病院の地域医療センターの人が手配してくれるんです。
その病院は京大病院からバスで2つ3つくらいで近いところにあります。左京区内の近辺の病院でした。そういうふうな状況でした。
退院してから、記録が13年ねんくらいの前までのところで、退院してから1年くらいの間は怒涛のようにすぎているんです。在宅になって、24時間介護になってデイケアに通うようになって、散歩がてら出られる状態になったんです。
この時は私たちはヘルパー事業所も知らないので、地域医療ネットワークや、ケアマネさんはついていたので、ケアマネさんに事業所を聞いて、探してくれたんです。
ケアマネジャーは介護保険のプランを立てたりする人なので、増田が介護保険の認定をするのに、素人では難しいので、役所からケアマネさんを紹介してもらうか、この中から好きなのを選んでもらってということで、わからないのでケアマネさんがこのあたりから細々と関わってくれて、ここからガッチリ関わります。今で4人目です。
▼初めてのケアマネだけは増田が辞めさせました。増田のような要介護5という重度で、そこのケアマネさんはヘルパーステーションももっているので、自分のところだけで囲い込もうとしたんです。ある意味融通をきかせてくれるので、ありがたいところはあったんです。ところがこの人が、外に出たいあれしたいこれしたいという時に色々な制約が出て来て、何か違うなと。その時難病は役所とは別に保健センターも担当だったというのがあって、そっちにも色々聞かないといけなかったんですが、そのケアマネさんはそっちの方はわからないので自分で聞いてください、介護保険しかわからない、重度訪問という方法があったとしても私はわからない、という人だったんです。そこがネックで、ちょっと違うなという事で、増田が変えて欲しいと言ったんです。今思うとそこまで知らなかったんですが、それは正しい選択をしたんです。次のケアマネさんに変わってから重度訪問や広域協会などのシステムを教えてもらったので、そういう世界があるという事を知りました。
前のケアマネさんは良くしてくれるんですが、ずっといってたらそのままだったと思います。2番めのケアマネさんは自分の事情でケアマネを辞めたので、違うところを紹介してくれて、違うところになりました。3番目のケアマネさんは体調不良でケアマネを辞めて、今のケアマネさんになりました。会社自体は同じところです。
退院するまでにいっぱい物語があるので。実際ここに入院する時に(2006年7月)リハビリの先生との出会いがあるわけです。増田は呼吸器を付けますと言ったけども、付けた後も人生終わった、と言っていたんです。繋がれてしまったから。終わったと思っていたみたいですが、ここに転院してから上田先生がきてくれて、本来ALS患者を受け入れるデイケアはなかったんです。なぜならリハビリは良くなるためのものなので、増田の難病のように悪くなっていくものを遅らせるためのリハビリは意味がないと思われていたので、やってくれる先生もいなかった。でもその先生がきて、増田さんは何がしたいのかと、散歩だと言ったんです。ずっと繋がれているので。そしたら、誰が付いて行くの、そんな暇な人いないよ、って言われたんです。でもリハビリをやってくれるPTの先生は信頼関係ができてるから、行きたいよねって言ってくれたんです。でもその人たちが看護師さんに相談しても、そんな時間ないよねって。今度はお医者さんにも言ったんです。それで空が見えるから屋上にいったんです。そうやってしてくれたのはこの人の意思が強かったからなんです。呼吸器を持つ人とお医者さんと、移動するキャスター付きのベッドでエレベータにのって、屋上に上がって、空だよって。それでもう嬉しかったよね。外出というか、病院内の移動でした。
それが初めての経験で、病院ではそういうものだと思っていたので、こちらがわがままを言ってはいけないと思っていたので。
その中でもみなさんやりくりして一回でもそうしてくれて素晴らしいなと、私は感動していました。ありがたかったと思います。
そしたらそこに上田先生が来て、何がしたいの?と言うから、散歩がしたいと。それは車いすに乗れないとダメだと。実は、それまで車いすで出歩いていた人が、ここからここまで半年は寝たきりだったんです。寝たきりだと血圧が下がってめまいがするんです。体も堅くなっているから、色々なところに痛みが出てくるんです。さらに色々と硬縮していく病気なので、痛みとしびれで大変なことになるんです。でも上田先生は希望的観測で、できるよと言ったんです。その時連れてきたPTの先生やOPの先生が、触ったりして評価して、と言って帰られたんです。ところが評価してと頼まれた先生は、堅いねと言って頭を抱えていました。でも上田先生の言葉のせいで、この人が俄然やる気が出てきたんです。こんな繋がれた生活は嫌だ、絶対外に出ると。痛くて辛くて、普通ならやめてというところを、めずらしく言わないで、ここで退院したあとに週3回リハビリに通ったんです。血圧が下がろうが、熱を出しても、行くのは病院だからと。そこからこの人の気力が出てきました。
あもれも、こうやって在宅になって、2013年くらいに、出来たよというメールが来てネットで知ったんです。それまではあもれはなかったんです。だからその間は吸引したり大変だったんです。あもれがなかったら、今こうやってお話していても吸引していたんです。
もし時間が許すのであれば、時間がかかっても増田が字を打つと思うので、またあとで本心を。
今来ているカワバタ診療所の田中先生が主治医に決まって、その時から12,3年。退院したら普通は、京大病院の話では、部屋の中で寝たきりで介護しないといけないから、私もそれを覚悟していたんですけど、増田の娘さんもお手伝いをしてくれると言っていて、結局私はそれまでもアルバイトとして週3回くらいは出勤してあとは家でやれるような仕事、字を書く仕事だったのでそれをやってたんですが、出勤が難しくなったので。というのは増田が週3回月水金と上田リハビリに通うんです。だけど、だからお願いと全部任せるわけにいかないので、結局はほとんど付いて行きました。どうしても金曜日だけは出勤しないといけなかったので、在宅の準備をしているときに、私も自分の希望を室長さんに言いました。週2日は私も仕事で出勤したいんです。そこはヘルパーさんらに見てくれる時間を欲しいですと。私の希望としたら、朝8時から夕方5時まで出勤したら、その間が誰かが居ていてほしいとお願いしたんです。金曜日はデイケアだったので、看護師さんにきてもらってタクシーで通ってあとは上田リハビリで見てもらって、帰りは看護師さんと一緒に帰って来て、私も5時になったら家に帰ってそこでバトンタッチという感じでOKだったんですが、土曜日はどうするか、ヘルパーさんとか開けないで8時から入る。さらにそこに増田の娘さんが来れる時にきて一緒にいる。というような体制ができそうだったので。あとは私が見ますという感じで計画をしました。その時訪問看護師さんは最大5か所入っていました。その時は日曜日も入っていたので。昔は土日も入っていました。毎日訪問看護師さんが1時間から1時間半ついていました。ヘルパー事業所にも頼んでいたから、囲い込んでるヘルパー事業所さんが入っていたんだけれども、途中から訪問看護師さんの紹介で違う事業所を強制的に入れたんです。そのおかげで私も出ることができたので。2か所くらいヘルパーさんに頼んでいました。それでなんとか私が仕事で留守もできた。確かに24時間介護でも外出が多いので、私も仕事で出ているし、増田に付き添って2日デイケアに行くので結構外の空気を吸っていたので、意外と大変ながらもしんどいとはあまり思わなかった。
増田さんこれは間違っている。記憶があいまいかも。生活が戻って記憶がはっきりしてきているところから合ってきてるよね。ここまでは1,2か月の差があるかもしれない。ほとんど合ってます。
近畿ブロックの総会の時にALSの患者を見て、どう思ったか私に言ったのは、大阪であったんですが私も仕事で大阪にいっていて、帰りに阪急梅田で待ち合わせして一緒に帰ってきたんです。その時にどうだったか聞いたら、あんなんになるんだなあ、びっくりした、と言っていました。自分もあんなんになるんだ。車いすに乗って寝たきりでいっぱい繋がっていて、動けない状態でびっくりしたと言っていました。ショックだったんだなあと思いました。
それでもまだまだ先の事だよねと言っていました。そういっていたのに1年後にはそうではなかったのでびっくりしたんだよね。特に進行が早いタイプだったので。それこそ10何年も先の話だと思っていたので。
8月の下旬から上田リハビリに通って、散歩したいと希望がかなったのは一か月もしないで、近くの平安神宮に行ったんです。それでも増田さんは希望を達成してよかったねといっていたら、和歌山のお寺に行きたいと言いだして周りがびっくりしたんです。西国33か所のお寺の御朱印やお札をもらうということが1か所だけ残っていたんです。それが和歌山のお寺だったんです。発病する前まではちょこちょこ2人で行っていたので最後はそこに行こうと言っていったのに病気になったから、もう行くことはできないと諦めていたんです。でも散歩にいけるとわかったらそこに行きたいと言うんです。私は和歌山なんて無理だよと言ったんです。呼吸器を付けてなんて無理だよと。半年も寝ていて急に動き出すから熱もよく出すんです。土日になるとすぐ出すんです。痰もすごく引けてたんです。何回も肺炎になりかかったりして、それでも行くって言うんです。それでリハビリに通って、すごく強い意志でしたね。
そしたら上田先生も行けるんじゃない、と言ってくれて。後で聞いたらとても心配してくれて、和歌山の病院に手配してくれていたんです。さらに運転とPTのカヤハラ先生に着けてくれたんです。
普通はみなさん仕事は仕事、プライベートはプライベート、と思うのに、PTの先生たちは、増田さんが行きたいと思うところはできるだけ叶えたいと言ってくれるし、ドライブでも誘ってくれるし、こっちも行きたいと言うし、そうやってどんどん外に出して自信を付けさせてくれるんです。そこがあそこの良いところで。でも増田さんのすごいところは、セッティングしてくれるだけで満足しないで、自分がこうしたいああしたいと思うんですね。後で聞いたんですが上田先生はそれも望んでいたんです。自分が意欲をもってやって欲しいと。だから上田リハビリを卒業と言われた時は、正直増田は、僕これからどうしたらいいのと、むしろ先生を恨むくらいの気持ちになってたんです。捨てられちゃったのかと。ところがそんなことはなくて、西田先生との出会いを作ってくれたり、その先生が一緒に外に出て学校に話をしに行きませんかと、言ってくれたんです。そういう道ができたんです。それで自分で練って、最初のパワーポイントはひどいものでしたが、それでも自分で作って学校に行って、しゃべったんです。パワフルだったんだね。
それでそういう事ができるんだと思ったところで、初めて上田先生の深い愛情がわかったんです。それまでは捨てられたと思っていましたが。他の人もそうなのよ。もうあなたはリハビリ来なくていい、在宅で訪問するからあとは好きなことしていいと言われた時には、落ち込むんです。
家族の私としたら、これをきっかけに家で寝たきりになってしまうんじゃないかと心配したんです。でもその心配は全然なかったです。最初は上田リハビリのデグチ先生が関わってくれて、一生懸命、学校に行きましょうと言ってくれて、そういう道を作ってくれたんです。西田先生も関わってくれたら、シンポジウムやりましょうよとか。そうやって少しずつ自信をつけたら、最初は大学の看護学生だったんです。
ケアマネさんを通して、この人が知っているみたいだと話をしてくれました。そのときは聞いて協会に電話したんです。その時私は籍は別なんです。鬼嫁と言っているけれども実際は赤の他人なんです。日本で言ったら内縁と書かれる、戸籍は一緒ではないから。でも実際は事実婚なので奥さんでも通る。それで、実際ちゃんとした奥さんにはなってないから、私がヘルパーをやってもいいんじゃないの、という感じで公益協会に聞いたんです。そしたらダメです、同居してるんでしょ、ダメですと言われました。わかりました残念と言って。その時は使えないんだなあと思って。
実際はリハビリを卒業するという段階になった時には、この人がまたちょっと違う世界、もっと社会に出ていこうと、みなさんのおかげで。そうなったらパワーポイントを作ったけれど読む人がいない、私は増田さんのケアはいくらでもする、ついて行って安全確保はいくらでもするけど、もともと人前で喋ったり増田さんの仕事のサポートはできない。だからそっちは増田さんが自分でやってねと言いました。
そしたら、やっぱり公益協会というシステムを使ってやらないと、事業所のヘルパーさんにお願いするにも、介護保険はそれはやってはだめこれもやってはダメ、本を読んであげるのもダメなんです。他の事業所さんに頼むことが、すごくシビアなんです。
始めての時は岡本さんに教えてもらって私が電話連絡をしました。そこからメールで増田さんがやり取りをして、簡単に言うと公益協会は介護保険のヘルパーではなくて、重度訪問のヘルパーだったから、重度訪問のヘルパーは仕事の範囲が広いんです。本を読んではダメだとかあれしてはダメとかがないんです。介護保険に比べると。だからと言って何をやってもらってもいいわけではないんですが。そしたら増田が学校に行って、講演しますと言ったときのお手伝いをしてもらうにも、うってつけだったんです。こうしてああして、と言ったことをやってもらえるんです。それが公益協会だったんです。
また整理しますが、ここに引っ越してきたのが、2010年くらいだった気がします。前は四条河原町にいました。引越して来たと同時にリハビリ卒業というのがあったので、やっぱり重度訪問のヘルパーさんを入れて外出したりしないと、ダメだなあと思ったんです。そのあたりから公益協会と連絡を取ってヘルパーさんの募集のしかたとかチラシの作り方とかを教えてもらってやったら、一番最初が橘大学の学科の子だったんです。それはチラシで来たのではなく、たまたま難病だったのを生徒さんたちがここに見学に来た中に1人いたんです。その子とメール交換したあとに、やりませんかと言われてやってみますと言ってくれて始めてもらったんです。その子がまだ一年生だったせいか、まだ看護学科でありながらもゆとりがあったので、学校の講演やシンポジウムも代読とかしれくれて、度胸もある子だったのでバンバンできる子だったので、そしたら仕事の手足として頑張ってくれたんです。そこから自分でチラシを出したり、京大にチラシを貼ってもらったりしながら、成功も失敗も色々しました。
リハビリを卒業したのは2010年か11年です。それから5年くらいは通って。どんどん出歩く先を広げていました。
岡本さんは京都新聞の記者さんです。その方も立命館の関係で、町のシンポジウムも関わってくれて、りっぱな報告書も作ってくれました。停電と震災をどう生き延びたか、ということで主催は増田になっているけれども、いっぱいこうやって作り上げてくれました。
こっちに来た時に震災もあって、シンポジウムもあって環境も変わって、というのが一緒になったときですね。