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地域移行2017年秋於金沢

古込 和宏 2018/12/24
第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれから,於:京都テルサ

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古込和宏

[著者近影]

 ※古込さんは体調のことで12/24には来れないことになりました。残念。またの機会に。以下はたぶんどなたかが代読されると思います。

 あまり長く話し続けることはできないので、途中でヘルパーの○○が代読します。
 私は輪島市に生まれ、5歳の時に筋ジストロフィー・デュシェンヌ型と診断され、地元輪島の小学校に入学し一年間だけ通い、8歳まで輪島で過ごしました。私の障害を手探りの中で受け止めてくれた当時の担任には感謝しかありません。母親からある日突然、病気を治すのに金沢の病院に入ることになると言われ、大泣きした記憶があり、入院して家族と離ればなれになるのは、子供の私にとっては衝撃で、私は、ただ入院生活で頑張れば、すぐに家に帰れるものだと思い、決心して入院したのが、1980年12月1日の大雪の日でした。やがて歩行困難になっていくことと、当時の時代背景を考えれば、私が義務教育を受け続けるためには、入院しながら病院と棟続きになっている養護学校に通うしか選択肢しかなかったのです。

 筋ジス病棟では年下の子から、成人した患者まで、45人程度が同じ病棟内で療養生活を送り、同年代の子供たちは兄弟のように過ごしました。その中で、自分が将来にどのような道をたどるか見えていました。子供のときから、闘病の果て無言で帰宅する友を、何度も数えきれないほど見送ってきて、自分は二十歳くらいまでしか生きられないと分かったのです。長く重苦しい入院生活で一番良かったことは、囲碁という一生の友を得たことでした。退屈で仕方なく暇を持て余していた私は、軽い気持ちで養護学校の先生に囲碁を教えてもらい、やがて学生の大会などに連れて行ってもらうようになり、病院から出られる貴重な機会も得られ、いつも病院にいながらも、心の眼はいつも外を向いていたのですが、遂に、そこから一度も自分の将来の姿が見えたことはありませんでした。高等部を卒業し、病状の進行で人工呼吸器をつけ、ベッドで過ごす時間も長くなりましたが、ケアの進歩と、人工呼吸器の普及で、二十歳前後までしか生きられないと言われていたデュシェンヌ型患者の生命予後も改善されましたが、高等部卒業後の人生は、とても長く感じ、気が付いたときには三十代になっていて、これ以上入院生活を続けることに意味を見出せず、かといって病院から出て生活している自分を想像しても、実現のために、どう行動を起こせばよいか分からずにいました。家に帰りたいと言えば家族の生活が立ち行かなくなるのは分かっていたので、絶対言葉にしてはいけないことだと思っていました。

 そんな私の人生に転機が訪れたのは、2012年4月26日の40歳の誕生日で、その日、虫垂炎と腸ねん転を併発した私は、ほかの病院に救急搬送され全身麻酔で手術を受けることになり、死ぬ覚悟で手術室へ入っていったわけですが、10日間ほど眠り続けている間に、一度心停止に陥り、目を醒ましたとき声を失ったことを思い出しました。私は伝達手段を失したことで、生活のあらゆる場面で困りごとが増え、毎日、両親を頼るメールを入れているうちに、いずれ家族を頼れなくなる日が来ることを想像し、今後の生活と人生について真剣に考え始めたのでした。親が高齢になるにつれ、面会に来るときの長距離移動も辛くなり、無理までして来なくていいと言ったこともありますが、親の立場からすると少しでも我が子と過ごす時間を取りたいと思うし、「来なくていい」という言葉は両親には強烈で、理解に苦しんだかもしれません。ただ私としては、いつか来る親子の別離は避けられないので「自立しなければ」という方向へと考えていくのでした。長期にわたる入院となれば、そこにある自分が持つ人間関係は、病院職員か家族が中心という患者が多く、私の場合、両親が唯一の頼れる存在なので、両親には自分に必要な手続きや金銭管理は任せていたので、自分が利用している医療サービスの内容も知らなければ、自分名義の口座の残高も把握していませんでした。2013年12月20日、少しでも自分のことを把握しなければと思い、両親が面会に来た時、自分は退院して一人暮らしをして自立したいので、自分のお金の管理状況を聞いたところ怒り出し、その場を去ったのでした。生活が苦しいのは知っていたので、聞かれる両親も心苦しく、辛いことも分かっていました。時系列は前後するのですが2013年の2月あたりに退院して地域で暮らしたい希望があることを病院のワーカーに相談したところ、地域で生活するための重度患者の受け皿がないと言われ、自立以外の方法も考え、二年近く模索しましたが、結論としては、「地域に受け皿がない」という言葉を疑ってみることにしました。地元で協力者を得て地域移行のため情報収集していたものの、地元では地域移行に関する好材料はなく、さくら会の川口さんに相談をお願いし、まず広域協会を紹介してもらい、連絡を取り合うようになってから弁護団も結成され本格的に地域移行が動き出しました。遠隔地支援だけでなく、これは後で述べますが、地元の機動力のある支援者となる人材も同じくらい重要だと痛感しました。

 私が地域移行を進めるうえで大きな障壁になったものは2つあり、ひとつめは医療的な問題と、家族の問題なのですが、退院の希望を伝えて以来、両親とは疎遠になり、自分の起こしている行動が死ぬ前に唯一できる親孝行だと信じ、互いに距離を置き自立すること、今後、互いの時間を大事にすることが重要なことだと考えました。地域移行に反対している両親に手紙を送り、地域移行への理解を求めましたが、手紙の返事はもらえずじまいで、両親と話し合えることはありませんでした。

 私自身、容易に身動きが取れないため、私の代わりに動いてくれる方は川口さんの紹介から繋がった方々で、その方たちで構成される地域移行を支援する会の第一回会合を医王病院の一室を借り開き、私は会に「地域で暮らすためにみんなで考える会」と名付けました。人の繋がりで私は地域移行できました。私が身動き取れない理由としては、外出や外泊の実績がないため、まずは地域移行するための外出や外泊のトレーニングの必要がありました。そのためには看護師の人材を自分で確保しなければなりません。退院後での生活では、ヘルパーと過ごす時間のほうが多いのに、なぜ看護師?と、思われる方が多いかもしれませんが、病院では家族以外との外出や外泊では看護師が同伴しなければならないという病院からの安全管理上の指導があり、自発呼吸がなく人工呼吸器による管理が必要なデュシェンヌ型の患者を、安全に送り出し無事帰さなければという責任は、送り出す側の病院にとっても重い負担である事実を無視できません。一方で地域移行する側としては自費で看護師の確保を求められるのなら、経済的負担が大きく、たとえ本人が地域移行を希望しても、できないという状況が今後出てくるでしょう。望まない死亡退院を選択せざるを得ないような状況は、共生社会の実現を目指す流れに逆行するもので、医療依存度の高い患者は介護保障だけでは地域移行を進めるのは難しく、医療側が地域移行を積極的にサポートできる制度の裏付けがなければ、スピード感を持って進めるのは不可能であり、進行性の難病患者にとっては深刻です。実際、地域移行の最終段階に来て私は体調を悪化させ、点滴から強心剤を入れる治療を受けているときは、果たして本当に退院できるのだろうかと思いました。退院できたのは2017年10月17日で、手術を終え、このまま入院生活を続けていたら人生に行き詰まる、このまま病院で人生を終えたくないと思い始めてから5年近くたち、地域移行には、かなりの時間とエネルギーを要しました。

 退院直後から約2か月間は、金沢市内の重度訪問介護事業所にお世話になりました。私はヘルパーをすべて自薦ヘルパーにするつもりでしたので、求人を出す作業や、求人を見て面接の応募をした人への対応、そして行政との交渉など慣れないことが一度に押し寄せてきたので、3カ月ほどは、かなり精神的な疲れを感じました。介護経験のない人に、自分の介助方法など教えられるものかと退院前には不安に思いもしましたが何とかなるものです。ヘルパーへのレクチャーで一番力を入れたのは、緊急事態を想定してのアンビューバックの練習でした。実際、自宅で人工呼吸器が停止した時は、練習通りにヘルパーがやってくれ、私の命は救われました。退院前に言われていた「病院の方が安全」という言葉もありましたが、精神的ハードルが私の中でかなり下がりました。「病院に居ればお金の心配はいらない」とも言われました。しかし地域で生活してみて経済的にも自立して生活していけることがわかりました。確かに病院では何の心配もなく生きていくことができます。ただ生きている実感がなかった。地域での生活は大変な部分もありますが、生きている実感を得られ、大変な事よりも楽しいことのほうが多いです。以前の私は病棟の業務の流れに沿って、病室の白い壁や天井に囲まれ、人工呼吸器の呼吸音やアラームだけが聞こえる空間で一人静かな時間を過ごしていました。今はアパートの一室という生活感あふれる場で自分だけの時間を楽しんだり、時には人が訪ねてきて共に楽しい時間を過ごしたりしています。近所に買い物に出かけたり、囲碁大会に参加したりと人生を楽しんでいます。

 37年近くの長期入院で、人生の軸足を医療だけに置いて生きてきましたが、今は自分のペースで無理なく生活し、程よく力を抜き生きることができていますが、社会復帰を果たすまで約3年もの月日がかかりました。その間に重度の障害を抱える私にとっては病状がさらに進行してしまったのは、地域移行をさらに難しくし、私にとっては痛手でした。ただ病状が進んでしまっても何とかなるもので、退院し地域に出て一年たちますが。在宅医療で解決できない問題は、以前、長期療養していた病院で治療を受け、入退院を繰り返していますが、あらゆる資源を活用し、医療中心だった私の人生は、生活の場にも軸足を置くことに成功し、今は、より豊かで平穏な毎日を送っています。

 私は小学校1年生のときだけ地元の小学校に通っていたのですが、病院に入院したと同時に同級生とは離れ離れになってしまい、それ以来、交流が途絶えていたのですが、約37年ぶりに幼稚園と1年生のときに一緒にいた幼馴染と再会したときは、積もる話ばかりで何から話してよいか分からない自分がいて、それと同時に社会から隔てられた場所にいた年月の長さを感じました。嬉しい再会もありましたが、叶わぬ再会もありました。小学1年の時の担任の先生は私の障害を受け入れてくれたおかげで、短い間でしたが一年間だけ、私は地元の小学校でたくさんの思い出を作ることができ、そんなこともあり私は退院する前から必ず帰省し先生に会いお礼を言おうと決めていました。しかし地域生活二度目の退院後の一週間後に先生は亡くなりました。高齢だったから仕方ないと言えばそれまでですが、私の体調も良く帰省の準備を考えていた矢先だったので、本当に悔やまれます。悲しい別れもありましたが、新しい出会いにも胸が膨らみます。

 同じ障害を持つ当事者として言えることがあるとしたら、施設や病院に入所、もしくは入院している方、あるいは家族介護を受けている方で今の生活に疑問や閉塞感を感じるなら、是非、勇気を持って自立の一歩を踏み出してください。必ず未来は開けます。自分の人生の中でやりたいことがあるなら、なりたい自分がいるなら、それが叶うよう行動を起こしてください。進行性の難病を持つなら時間との戦いになるので、自分の生き方に疑問に感じるなら迷う事はあるにしても行動し続けないと好機を逃すことになります。私は自立に関して両親から反対されたまま、一切の応援も受けられず疎遠になってしまいましたが、いずれにせよ親子の別離は避けられないので、もっと早く地域で自立するべきだったとあとになり思いました。障害を持つ人と、その家族は互いの行く末を考えてしまうと思いますが、やがて家族で支えるのも、いずれ限界の時期が来ます。そう思うと自立は互いのためになるので早い時期に行動を起こしたほうが良いと私は思います。障害を持つ人の家族は障害者の最後に行きつく場は施設や病院しかなく、そこに入れば安全で、そこでしか生きていけないと思う方もいるでしょう。もし施設や病院か施設に入るとなれば障害を持つ人は、これまでの自由が保証されるのか不安に思うでしょう。もし障害を持つ人が施設や病院ではなく地域での自立を目指しても、家族の方には温かく見守り、その思いを応援してあげてください。地域で自立するなら早い方がいいですが、施設や病院に入ってしまい、そこに長年いたとしても自立は無理とか難しいという事はありません。いろんな失敗をしたとしても人は失敗から学ぶのです。もう一度述べますが施設や病院での生活に疑問や閉塞感を感じ自分の生き方に疑問を感じるなら行動を起こし、迷いながらも行動し続けてください。施設や病院の職員の方には、「ここで生活していればお金の苦労をしない」とか「地域で生存するのは難し」などといった発言で結論付けるのではなく、自立したいという本人の気持ちに寄り添ってほしいものです。

■関連する書籍

◆立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※


UP:20181215 REV:20181216, 20190428
古込 和宏  ◇筋ジストロフィー  ◇全国ホームヘルパー広域自薦登録協会  ◇全国障害者介護保障協議会  ◇自立生活センター  ◇自立生活/自立生活運動  ◇病者障害者運動史研究  ◇全文掲載 
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