HOME

山本勝美氏インタビュー

2018/11/18 聞き手:立岩真也堀 智久 於:浜松市

Tweet


山本 勝美  ◇病者障害者運動史研究
◇聞き手:立岩真也堀 智久
◇文字起こし:ココペリ121 【12下01】20181118-1 山本勝美氏 94分
 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、  聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。

山本 昨日は〔堀さんに〕献身的な(笑)インタビューをやっていただいて、いやあ本当に助かりました※。
※山本 勝美 i2018 インタビュー 2018/11/17 聞き手:堀智久 於:浜松

立岩 3時間だいぶ喋った…、だいたい話した感じですか?

山本 だいたいね。「どれくらい、2時間ですか?」って言ったら、「いや、3時間です」って。

立岩 3時間話すと、お疲れでしょう。

山本 いや、僕は喋るのが好きですから。「2時間ですか?」って言ったら「3時間」って言って、自分の時間のズレにびっくりして。それからまた次から次と色々と、フルコースがきてね(笑)。和風の、刺身とか…、

立岩 そんな気がきくことができるやつなんて、知らなかった。

山本 いや、そうなんですよ。だから名寄にいて、どうしてこの浜松のね、いいところ探した…、誰かに聞くったってねえ。そんな観光協会、

立岩 ネットで探したのかな。まあいいや。では、山本さん、昨日3時間たっぷり喋ったとしてもですよ、昨日話し残した部分ってあります?

山本 ありますね、一応ね。いや、そりゃやっぱり立岩さんに聞いてもらって、一言感想を聞くっていうのは、やっぱり残ってる。だから、一応要約したものがありまして。それをあんまりちゃんと読まないでやったもんで、それをもう一度お二人に見ていただいて、「昨日、こんな話でした」と。「昨日はなかったやつがこれです」と。いうことをその、レジュメを見ていただいて、総括するのは一つできるんですね。それで足りなかったこと、それからお感じになったことをパパッと喋っていただいて、それで録音採っていただければ、もう、じゃ、あとで、出版じゃないんですから、また全部できあがったのを見ていただいてコメント入れるとか、私の足したりとか、まあそこをフリーにできるんじゃないかと。それ、気楽に考えてますからね。

立岩 はい。他の方にもお願いしているんですが、可能であれば十分手は入れていただいて結構ですので、そうしたバージョンを、そのままホームページに、

山本 ああ。あれのね、私の。

立岩 ウェブ、あの、ネットに載せるっていうのは、

山本 ありがとうございます、喜んで。

立岩 あり、ですかね。

山本 うん、うん。そんなことで、いったん載っても足せばいいし、削ってもいいわけですね。その辺が本じゃないからね。何か、考えれば考えるほど気楽で。いや家からね、レジュメを今朝刷ってきたのが、

立岩 あ、あるんですか? すごいな。今日刷ったんですか?

山本 ええ。あのね、私実は風邪ひいて、一昨日1日布団の中にいて、で治ってきて、だからその、やりたいそのまとめができないで、今朝刷ってきたのがあります。

女性 (立岩に) すいません。お釣りがないような。

立岩 (女性に対して) はい。お金はここから取ってください。お釣りは、お釣りのいる人は。お金はここに入れて、

女性 あ、ああ。[00:02:59]

山本 えーと、何枚かあります。これは昨日見せた【ものですね】(00:03:01)。それから、これもお見せしたはずですが、まあ、2。で、これは差し上げましたよね。それからこれなんですけども、汚いから、全然あげないで終わったんですよ。これがレジュメ、今朝やっと修正液を買ってきてね、喫茶店で少し作りまして。それで、これでだいたい主なんですよ。それでザーッとこれやれば、読み上げるだけで30分でできちゃうんですが、そこにだいたいの要点が書いてあるなあ、とは思ってます。で、あとまあ、細かいことでこういうこと、***(00:03:40)インタビューの、まあ一応、私の。だいたいこんなもんです。

■村田実

立岩 あの、昨日は、村田〔実〕さん(1939〜1992)の話とかは、

堀 あんまり聞いてないです。

立岩 その辺の話はあんまり?

山本 少し、ええ、あんまりなかったですよね。

立岩 もしよろしければですよ、その辺の、村田さん亡くなってからもだいぶ経ちますけれども、

山本 えーとね、もう7、8年【経ちますね】(00:04:08)、

立岩 その辺の関わりの、何でそういう、

山本 私の繋がり?

立岩 ええ。

山本 それは、正直、『共生へ』の本の中に、会った時の、から、

立岩 あの岩波の方(ほう)の。

山本 岩波の。5章あるうちの2章が彼で、一番深く私は関わって。で、結局亡くなってから初めて、「本、出したい」と言ってたので、彼の遺稿集を集めて、

立岩 ありますね。

山本 その編集委員長をやってたんですよ。

立岩 そうなんですか。

山本 そうなんです。どっかの...、大阪のどっかで、「こんな本もありますよ」って言うけど、「冗談じゃないよ。俺が作ったんだ」って言いたいんだけど。何か、いつの間にか広がってるのはいいことですが、どこから出たかだけでも見ていただかないと。まあ、正直ちょっとカチンときましたね。だから、あの遺稿集作るのに3年ぐらいかかってるんですよね。だから、出会ってから18年、ずっと一番長く介護やってて、で、突然事故で死んじゃって。で、それから、みんな「本を出したい」って言ってた、っていうんで、「じゃ、すぐに」って一応集まったんですが。何だかんだと言って、その遺稿集の編集が3年も延びちゃって。「もうやんなきゃダメだ」って言って、「やあっ」と力入れて。全部で、ですから、18年プラス3で、20年は彼の本でたち...、関わってるんですね。ええ。そんなことで、ほら、「こんなとこに遺稿集がある」ってちょっと、こないだお会いした時に、追悼【会】(00:05:40)って言うんで。いや、それで逆にびっくりしてね。ええ。「ずっと私が編集してきたのに」ってのがあるもんですから。それだから、逆に言えば、立岩さんが、私の知らないところでね、関わりがあっただろうし、編集もあっただろうし。その辺はちょっと交流したいな、っていうのはありますね。[00:06:01]

立岩 僕は村田さんには、生前お会いすることは実はなくて。

山本 ほんと! はあー。

立岩 ええ。そういう意味では知らない人なんですよ。書いたものとか、その、彼を知ってる人を知ってる、みたいな。

山本 ええ。ああ、そうなんですか。

■学会

立岩 そういう感じなので。ただ、まあ、僕が知ってる幾人かの方は結構、彼のことを話したり、書いたりしているので。というか、その、それから、それと前後するっていうか、重なるんでしょうけど、学会改革の時期が始まる時期がありますよね。その辺は堀さん、どの、

山本 学会ってのは、臨床心理学会?

立岩 臨床心理学会。その辺の話は、どの程度?

山本 結構やりましたね。

堀 はあ。まあ、話しましたけど。はい。

山本 話したね。

立岩 じゃ堀さん的には、だいたいもう聞けた、って感じ?

堀 うーん。ちょっと、難しい。質問した方がよかったかなって、今になって思う、と思いますけど。

立岩 その辺ちょっと、その、追加質問があれば、僕も聞きながら、何か様子がわかってくると、

堀 ああ、そうですか。

立岩 なければいいけど。

堀 いや、話としてあったのは、学会に行く前までの話で、留学をされていたっていうことと。そのあと学会を辞められるんですけども、

山本 ええ、そうそうそう。辞めてからずっと長い間、30年ぐらい、40年かな(笑)。で戻ってきたって。何で戻ってきた、なぜ出たかって、その辺は結構こだわってましたが、当然ながら。こういう理由で離れちゃって、社会の外の運動でね、やっぱり、だいぶ発揮できて。それでもやっぱり行きづまるところが出てきて。それは資格問題が、何か、「どうでもいいや」って感じでやってるけど、色んなところで資格を問われて。で、もらえるペイも違ってくるんですよね。

立岩 ああ、そうですか。そうでしょうね。

山本 ええ、2倍ぐらい、ええ、臨床心理士とは。そうなると悔しくなってきてね、「このままでは、少なくともそれは、済まない」と思って、学会戻って、どういうふうに今考えてるのか、どうやって一緒に組んで、資格のことをね、もう「なくって」っていうその、何て言うの、アナーキー的な方(かた)は、今はもう成り立たないんで。それは、石毛さんっていますけど、議員でね。

立岩 えい子さんですか?

山本 石毛えい子さん。ええ。彼女なんかも、「他が全部できちゃってるのにね、臨…、心理だけがね、何か『なくってもいい』とか『粉砕するんだ』みたいなことは今更もう立たないだろう」と言うんで。彼女までがそう【言うんだ】(00:08:29)って言うんで。やっぱりどの辺で、やっぱり妥協妥結して形を作って、まあそん中でまた食い込んでいくかと。そういう立て方、拒否ってのはもう、今更この時代では成り立たないなと。私もう、それはチェンジしたんですね。で、今の臨床心理学会も、もう作っていくってのも入っちゃいました。法律できたけどね、心理の。ええ。そういうことで、これからその中の、やっぱり内実、質的なものをこだわっていかなきゃいけないって、宿題がやっぱり結局出てるんですね。[00:09:00]

立岩 うんうん。そういう流れだと思うんですけども。そういうふうにだんだん、考えを定めるというか、収まるというか、そういうふうになっていった、この、流れっていうのを、

山本 経緯ですね。

立岩 それはだんだんに、っていう…。山本さん自身にとっては、それはまあ、やむなしというか。それをどういうふうに、っていうのは、「だんだん」という印象ですか? 自分自身の中では。

山本 えーと、少しずつ、もう何か、「私は持ってません」って言うんじゃ何の主張にもならないわけですよね。(笑) で、お金が入らないっていうだけで。これはどうもどっから見ても自己矛盾に近いものがあるっていうんで、学会に入ってどう考えるかと。ただ学会も、えー、社臨【って】(00:09:41)篠原くんたちと別れた時に、「資格はやっぱり問題だ」って、それとやっぱり、「そんなこと言ってられない」っていうね。私は「そんなこと言ってられない」って、現場でずっとやってきただけに、「どうするのか?」っていうね、その、やっぱり「答えが必要だな」っていうふうに思うようになってきたんですよ。で、その頃だいたい、国家資格が今通っていくんだ、ってところまできたからね。やっぱりその中で「入るんなら入る」ってその、戦術転換ですね。それが必要だろうと思って、それもあって戻ってきましたね。て、やっぱり準備ができてないんですよ。



立岩 臨床心理学会があって、社会臨床学会と、それは僕はこっち〔堀さん〕の方がよっぽど詳しいと思いますけど、分かれるっていう、

山本 きっかけですか?

立岩 が、ありますよね。それ何年ですか?

堀 それ1990年なんですけど。そんときはまだ入ってなかったんです。要するに***(00:10:30)状態。

山本 まだ入ってなかった。外で見てましたけどね。

立岩 ああ、いっぺん出て、出てて、その、

山本 長い間の間に、

立岩 その二つが分かれた時には、山本さん自身は会員ではなくて。

山本 全然、まだまだまだまだ、って、

立岩 で、こう、分かれて、

山本 分かれちゃった。

立岩 基本的にでも、資格を巡った分岐、別れ、

堀 そうですね、1990年の時は、まあ国家資格を、厚労省が国家資格を作るっていう動きが少しあって、それに対して賛成するかしないかっていうところで、

立岩 というところで、社臨と臨心とが分かれると。それは、その分岐、別れっていうのは、もう会員ではなかったわけだけれども、山本さんは外から、

山本 見てました。

立岩 見えてた、って感じですか?

山本 ええ、だいたい伝わってきますからね。だからやっぱり、昔通りのその「いい加減なものはあっちゃならない」という言い方で、結局アナーキーに近いような、やっぱり考え方で、社臨はずっといってて。もう社臨***(00:11:26)で心理だけやっても、色んな、毛利子来(1929〜2017)やら色んな人が入ってきて、資格をちゃんと作るかどうかという、きちんと焦点を絞ったテーマにはもう、なってなかったんですよね。やっぱり「広がり」ってことばっかりで。
 で、一方の臨床心理学会はやっぱり、現場で働いてる人間が圧倒的にやって、学者もいないしね。で、やっぱり「どう作るのか」っていうことを、オタオタしながらその全体の流れの中にね、まあ結局ついてったと。で、そこでただついて行くんじゃなくて、やっぱりこちらなりの視点を持ったような研修をやるとかね。今までの歴史を活かすとかっていう、そこはやっぱりこだわらなきゃいけないな、と思って入ってったんだけど、準備がまったく今はないっていうのが現状なんです。ただ、その諸学会が集まって法律ができたところはもう、のんで、代表はいってるわけですよね。ただ各学会ごとに任されていて、具体的にどういう内容の研修をやるかは、これからなんですよね。だからそこで、やっぱりこだわっていかなくちゃいけないというふうには考えてるんです。[00:12:25]

立岩 90年に別れる。会員ではないけれども、話を聞いたりして見えている。で、一方はこっちで、一方はこっちで、見立てとしては「資格化絶対反対」では通らない。

山本 そうそう、現場ではそうだと。

立岩 思っていた。

山本 そう。

立岩 思っていた、っていうことと、再デビューというかな、臨床心理学会にもう1回入ってくっていうことの、その、

山本 ギャップですね。

立岩 前後関係みたいなものは、どうなっているんですか?

山本 ですから、さっき言ったように、行く先々で「臨床心理士ですね?」って聞かれると。こっちは持ってないから、「いや、違います」と。「でも、***(00:13:02)心理やってます」みたいなね。そういうことで曖昧にしながら、お金的には損しながら、ずっときて。
 で、それが1点と、他にも2、3あって。もう一つは、私一人で考えきれないのが発達障害と。どんどん広がってきてますから。これおかしいんですよね。で、どうおかしいか、きちんとやっぱり整理して、それに対応...、対していかなきゃいけないな、っていうところで。それも一人で考えただけでは限界があると。そういうこともあって、二つの問題でやっぱり仲間が欲しいと思ってたところに、今度裁判になった分派があって。どんどんどんどん攻めてきてね。で、「山本さん、こんなになってるの。こう、つぶれるぞ」ってからもう、他のこと二つあったんだけど、とにかく飛んでってね。「つぶれることだけは阻止しなきゃいけない」って入ってって。



立岩 直接的には、もう1回入るっていうことのきっかけってのは、その、

山本 ええ。それ、分派に対する対決。ええ。

立岩 騒動というか、そういうことがあって。

山本 それが大きいです。昨日はちょっと、そこまで触れなかったですけどね。

立岩 それは、エッセイって…、まあ、書き物の中では、宗教勢力というか、とは書いてあります。それは、たぶん公開する時は公開しないと思いますけど、何? どういう人たちだったんですか?

山本 出て行く時?

立岩 いや、

山本 戻ってくる時?

立岩 仕掛けた、「宗教勢力」っていう人たち。

山本 あ。えーとね、だいたい知ってますけどね。もともと心理の学会にはどっかから入ってきたんですが。うーん、その何と言うか、彼らの基本的なところが、うーんとその、まず宗教、宗教…、何て言うんでしょうか、…学と言うか、心理文化心理学というか、そういうの集団なんですよ、関西を中心としたね。で、とにかく、

立岩 何(なに)宗とか、そういうんじゃないんですね。[00:15:00]

山本 いや、仏教が多いし、それも雑多なんですがね。キリスト教の牧師もいたし。ええ。で、よく分かんないんですが、とにかく宗教集団みたいになってて。ええ。それで、例えば、障害者と非障害者との間のね、何て言うか、ギャップと言いますかね、ええ、「そういうものは一切、何もない」って言う。うん。そういう形で、差別関係とかね、われわれとしては、やっぱり支援する、される方(ほう)とかって、そういう、何て、ギャップの構造、差別行動っていうのは、一切認めないんですよね。だからもう「基本的なところで違うな」と思ったけど。

立岩 、現実にそういうものがあることを認めない、っていうこと?

山本 ことを認めないですよね。それも「立場、違わない」っていうね、言い切っちゃってるんですよね。だから「何のために入ってきたのか?」と思うくらいに、障害者と非障害者の関係性って、今まで「される側に学びながら」っての、それが70年の原点だったんですね。それを何か簡単に飛ばして、ほんと「何のために入ってきたのか?」ってところまで遡ってて、喧嘩になっていきましたね。

立岩 ああ。それは特定の宗教、例えば創価学会とかね、そういうのではない、

山本 じゃあなく、

立岩 ないんだ。

山本 「宗教的な傾向を持った集団」って言ったらいいですね。一人はあれですね、芦屋市の仏教のお寺の娘でも、娘っても60か70の近く。もう一人は東大の、あれは文学部じゃなくて教育学部ですよね。いや、わかんねえな、どっちかだ。とにかくいて。

立岩 教員ということですか?

山本 いや、大学院出て、

立岩 大学院出た人?

山本 出て、それで大阪のですね、彼は何だったっけな、大阪何とか大学。東京にある、大阪何とか大学の教授をやってて。この辺で何か、あれですね、***(00:17:05)かどっかから出してる本って結構こっちでは売れてるとかいう話聞いてて。で、とにかく、彼が中心で、芦屋の仏教の娘、そのお寺が一緒に、二人が組んで、ずーっとどんどんどんどん色んな追及をし始めてきて。それが強烈なんですよね。だから論的じゃなく、もうどんどん攻めていくっていうの? そして職場までやって来たり※。
※ 立岩作成
 實川幹朗:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A6%E5%B7%9D%E5%B9%B9%E6%9C%97
 「實川 幹朗(じつかわ みきろう、1949年7月15日 - )は、日本の臨床心理学者。姫路獨協大学教授。千葉県船橋市生まれ。1974年東京大学文学部哲学科卒業。1976年同大学院文学研究科修士課程修了。1984年京都大学大学院教育学研究科博士後期課程満期退学(臨床心理学)、心の相談塾こころほぐしを開設。1987年姫路獨協大学一般教育部助教授、1998年教授[1]、2011年法学部教授[2]。日本臨床心理学会会員。」
 『臨心たて替え直し』http://nichirinshin-o.sakura.ne.jp/wordpress/
立岩 それは何を、具体的には何を言いに来るんです?[00:17:42]

山本 とにかくさっきみたいな、論的に辻褄が合わないことをやって、「臨床心理学の原点だ」みたいなことを言ってるっていう。私も全部きちんと付き合ったことがないので。ええ。こうこうこう、「論理的にこう違う」ってそこまで明確には語れないですが。
 ただもう追及の仕方が強烈で、何人かはオタオタして。例えば亀口っていうのがいまして、京都に。彼なんかもそんなこと強くできない人間なんです。それからもう一人、ずっと年下ですけど、藤本という精神医療の人間で、もっぱらだーっと、彼なんか…、彼が委員長やってたからね、もう追及されて彼もオタオタして、もう逃げ腰よ。ほとんどみんな逃げ腰で。だからそういう圧力による、何て言うか「押す、押される」で。まあそれでみんなナイーブだから、もうだからだんだんだんだん引き上げて。もうみんな引き上げて、つぶれて、乗っ取られる。乗っ取りたいんです。で、彼はやっぱり心理学会の会長をやりたい。それはもうはっきりしてるんです。だから色々あるし、色んなことやるし。「結局何だ?」ったら、そういう「地位が欲しい」っていうね。その、貪欲。最後はそれなんですね。それがやっぱり見えてるから。で、みんなもオタオタして、何か、例えば藤本なんかもう、職場へ行く、学会のそういう色んな交流会の集まりへ行ってどんどん追及する。とにかく追及するのが強烈なんですよね。でそれは、論理的には反論したって、勝つとかそんなもんじゃなくてね。手を替え品を替え、だーっと。と、もう疲れちゃってね。ね。結局もうみんな逃げ腰だったの。それで一人、滝野っていうのがいてね。ええ。ご存知? 彼が「山本さん、もうつぶれるよ」って言うから、「えっ、それは許せない」って言って。二つ基本的な課題があって、それもそうだけど、「とにかくつぶしちゃいけない」と。「自分のふるさとだ」ってね。もう行った時、言いましたよ、「心のふるさとだ」と。その二人は居たわけですね。それからもうだいたい、「だいたいこんな人間だ」って分かってからは、逆に【横】(00:19:53)からだーっと追及して、押し返しちゃったの、私がね。で、結局、その押す押される、まあこっちの方が強くなってきて、言うたびに向こうがびびってきたんですけども。「結局、きちんとした解決するには、裁判しかない」と言って、あの、大阪の谷奥っていうのがいますが、谷奥克己というのが。

立岩 知ってます。(00:20:18)、谷奥さんの書かれたものは、昔ですけど、読んだことあります。

山本 そうです、そうそう。で、彼の知ってる部落解放の、支援の有名な、えっと、川...、山北。「もう、それはやろうじゃないか」ってね。いくつかのね、学会、そうやってずーっと荒らしまくって、で最後、臨床心理学会と。ちょっとみんな受け入れるふうがあったというんで、そこをいいことにして、どんどん入ってきて。で、ほかでみんな、追っ払われてるんですね。

立岩 ああ、いくつかの学会で、乗っ取ろうと思ってやったけど、

山本 そう。

立岩 そこでは失敗して、

山本 ええ。結局、何かな、体ごとみんなね、外に飛び...、追い出したとかね、そういう感じで、出されて、されて。臨床心理学会とかは非常にソフトで入りやすい。亀口なんか初め、仲間のように色々と指示してたんですね(笑)。そういうの、そういうのが居るんです。それで、最後に「もうこれはつぶれる」となって、山北弁護士に頼んだら、もう「それは分かった」と。「あちこちでそれはもう、やってるんだから、ここでそんな奴、もうほっとけないね」って。「やろう」と、谷奥と、二人が組んで、「学会も裁判だ」って言ってきたの。で、みんな「反対はないけど、やってくれるならそれ、やってくれ」と。ほんでもう、立派な人【だから】(00:21:27)、

立岩 裁判では何を求めたっていうか、争ったんですか?★

★ この注は立岩作成:亀口公一(日本臨床心理学会会長・第 22 期運営委員長)「全面勝訴のお知らせ――裁判報告(2015 年12月25日提訴〜2017 年4月7日判決)」
http://nichirinshin.info/pdf/20170522SAIBAN.pdf">http://nichirinshin.info/pdf/20170522SAIBAN.pdf

山本 あのね、京都大学でね、〔2015年の〕総会の段階で、ええ。議長を彼がせしめちゃって、学会の。手を挙げて、こうやって出ちゃってね。それで、えっと、何を決議しようとしたかな。とにかくどっと、自分の大学の学生たち50人を動員して。そうなんです。「その日に入会する」っていう形で。

立岩 ああ、会員になっちゃう。

山本 会員になってる。50人が入ってきて。お金は全部どっかからね。一人は山口の宇部っていう、宇部大学の自閉症の有名な先生が、何かテスト作ったらものすごい儲かってて。で、彼も一人で。そのお金をもらって、アルバイトみたいに学生をだーっと入会させて。ええ。一人8千円ですからね(笑)。それを50人って。

立岩 8千円を50人に払って、

山本 4千万? ああ、そう。それで、ばーっと来て、多数決で全部押し切ろうとしたんですよ。われわれその時、せいぜい20人。と、50人対20人。それで始めようとした時に、私が、あんまりね、酷さを書いてね、だーっと全部に撒いて。で、「とにかく追及する」って書いたら、知らない学生が来て、読んで、「へえー、こんなことあるんだ」って感じでね。そしたら、いきなりまだ会議もやってないのに、「撒くのやめてください」って、そのお寺の彼女が言い出して。真っ青な顔してね。それで、結局1時間で京都大学も時間おしまいになって、だーっと散会しちゃったんです。そしたら、

立岩 そこではその、彼らのその目論見は果たせなかったんですか?

山本 ところが出て、「20人ぐらい集まって、そこで決議した」って。「自分が議長としてやったんだ」って言ってるんですよ。

立岩 ああ、ああ。

山本 それ、外(そと)で。で、それで「それは有効で、臨床心理学会はこっちのもんになった」って。議長が決めて、そこで更に役員会も開いて、そのちょっとあとが、そう。キリスト教会で、あったら、まあ10何人しか集まんないですが、「そこで議長として私がね、全部ね、ここの集会を采配します」って。結局、委員長だ、副委員長って、全部決めちゃったの、10何人で(笑)。

立岩 ああ。そういう総会でそういうことが決まった、っていうことを巡って、裁判やったんですか?

山本 そうそうそう。こっちは、もう終わった、9月にやったのに、10月の10何日に総会をキリスト教会のところで開いて、***(00:24:07)で、

立岩 「やって、決まった」って言う方(ほう)が一方にいて、

山本 あって。

立岩 「そういうのは有効じゃないし、決まった中身も決まってない」っていう、そういう対立ですか?

山本 ええ、対立なんです。そこで、「これは裁判でやるしかない」って言ったら、山北さんが全部、細かくね、

立岩 それは谷奥さんの知り合いの、

山本 そうそうそう。

立岩 弁護士さんっていうことですか?[00:24:27]

山本 ええ、弁護士さんでね。部落解放の、本当に有名な人らしいんで。で、その人権弁護士さんが細かーいところまでね。それでその、「外(そと)でやったことは、まったく無効である」と、ということをずっと始めて、半年かけて大阪地裁で「まったく無効である」という。

立岩 裁判としては、

山本 勝ったんですね。

立岩 それはもう、和解とかそういうんじゃなくて、

山本 ええ、そうそう。決定的にね。で思ったら、「上訴する」と。

立岩 ああ、高裁で。

山本 (笑) で、20日ぐらい待ってたらね、本当にやっちゃったんですね。

立岩 ああ、本当に高裁まで持ってったの?

山本 持ってっちゃった、高裁まで。

立岩 すごいね。

山本 したら…、そうなんですよ。本当にすごいんです。で高裁では、審議はやらないのね。まずその、上がってきたもの見て、そいで伝えて終わるんだね。で、もう裁判所も決定的に向こうに対してはね、問題だってのはわかってるみたいで、何かもう山北さんとツーカーみたいでね(笑)。やっぱその業界でね。それで開くことなしに、あの、きょう...***(00:25:32)却下して、

立岩 ああ、却下しちゃって。

山本 そして、1千万円のね、謝罪要求を、裁判所が判決してるんですよ。

立岩 ああ、ああ。訴えたのは山本さんたちだったわけですよね?

山本 えー、そういうことね。そうそうそうそう。

立岩 それで勝って。

山本 向こう側がそれに対して、あの、

立岩 負けて。負けて上に持ってった。だけど上も却下して、

山本 高裁でも却下。それから判決。

立岩 それでその、お金が1千万円?

山本 1千200万かな。

立岩 そういう判決になった。

山本 出たんですよ。

立岩 それでどうなったんですか?

山本 それでまあ、具体的なそのお話は、彼の3ヶ月分の給与を差し押さえ。それからお寺の、(笑)とにかく、お賽銭からがんがん。有名なお寺で。1千万。だからもう、「根をあげた」みたいなこといっぱい書いてあるのがきてね、とにかくお寺のお賽銭と、彼の3ヶ月分の差し押さえと、合わせてようやく1千200万円払ったですもん。

立岩 先方は払った。

山本 払った。で、最高裁まで行って負けたらもっと大変らしいですよね。もう負けるのはわかってるから、それ以上もうお金は出ないっていう限界は自分たちが感じて、高裁でストップして判決のんだんだ(笑)。

立岩 じゃ、それで争いは終わったんですか?

山本 終わったんです。

立岩 その人たちは出て行ったんですか?

山本 出て行っちゃったんですね。それが判決ですから。とにかく「あなた方、何の資格も持って...、学会に対しての一切資格を持ってない」って言ったら、そこまで言ったら何かね、お寺の彼女がすっと素直になっちゃって。その狼藉もすっと、ね。おお、ちょっと、やっぱり限界を感じたね。ずっと仲間がいたんですよ、大阪にね。で、みんな逃げてっちゃって、散ってっちゃって、最後の傍聴なんかね、一人で...せいぜい来て一人。こちらは、役員は全部ね、東京から動員されて、10何人で毎回。それは影響ないって言ったって、裁判官見てるんですよね、それもね。という、もうあらゆる点でこちらが、取り組んで、最後にもう追っ払っておしまい。あ、それでね、またね、「社会福祉法人日本臨床心理学会」っての作って。「社会福祉法人」って帽子つけて、「日本臨床心理学会」、それまだやってるんですよ(笑)。[00:27:59]

立岩 え、その負けた人たちが、まだそういうのやってる?

山本 ええ、一応やってるけど、もう、活動状況なんか伝わってきません。やっぱり何かやった時必ず来るんだけど。

立岩 ああ。「社福」はついてるけれども、名前、それ、その下の名前は同じ、別の物を立ち上げて。ってことは、じゃそうか、完全に廃業したわけじゃなくて、何かはしてる、ってことなんだ。

山本 ええ、もうつぶれたんじゃないでしょうかね。何にも伝わってこない。ええ。それで「名前を使っちゃいけない」ってのは出てるんだけどね。それが「社会福祉法人」ってくっつけたもんだから、「使える」って形で(笑)。

立岩 堀さんも、それ何年前ぐらい…。知ってる? その辺の話。

堀 えーと、谷奥さんだったかな、

山本 ああ、谷奥くんから、聞きましたか。

堀 その裁判の判決をもらったのが、2016とか、まあ結構最近です。

立岩 最近だよね。いや僕も少し、その臨床心理学会と、何かで調べたんだっけ、連絡して。そしたら、何か、何かこう、

山本 ごちゃごちゃ。

立岩 こう、お家騒動っていうか、訳わかんない。訳わかんないんですよ。だから、

山本 読んだだけでは、

立岩 「一体ここじゃ、何が起こってるんだ?」って、

山本 「何だろう?」 そうそう。

立岩 思ったのは覚えてます。

山本 あ、「調べてわかんない」っていうし、「わからない」んだったんですね。

立岩 うん。ちょっとは調べた。ちょっとは調べたんだけれども、

山本 ああ。いや、もう充分ですよ。

立岩 何か、お家騒動みたいな。そんなにこう、何かこう、***(00:29:20)というか、 

山本 お家騒動に見られても、形の上ではそりゃそう見えるでしょうね。だけど実際はとにかく、お家(いえ)というか、とにかく「自分たちが正統だ」。正統争いですからね。結局最後に、とにかく、山北さんのご尽力で、それで、1千...、1千200万。あれ、弁護士さんが大半取っちゃうんだね(笑)。

立岩 (笑) それは知りませんけど。

山本 まあ、いいです、いいです。それで、勝って、今は平穏にやってます。

立岩 ああ。そういう出来事があったってことなんですか。

山本 ええ。

立岩 いや、それはまあ一つね、一応確認しときたかったことでは、まあ一つ。でもまあ、このストーリーとしては、「分かれたことは知ってた」と。二つの学会が、二つに割れたことは知ってて、その時は資格を巡るのがポイントだと、それについて、

山本 社臨と。

立岩 うん、社臨と。そんときに、基本的にはもう「資格絶対反対じゃ、もういかないだろう」っていう読みはあった?

山本 そうそうそう。こちらの臨床心理学会の方(ほう)はね。社臨は何か、そのままなんじゃないですかね。

立岩 そうなってたののところで、その理由からっていうよりはむしろ、今説明してくれた騒動が、

山本 そう、もう一つ、次の時代の分裂。そうそうそう。

立岩 あったので、もう1回入り直して、そこを仕切って、まあそっち方(がた)を追い出したっていう。そういう経緯ってことですね。

山本 そうそうそう。そこで今があるっていうね、ええ。で、僕もその、路線としてはやっぱり、現場で、【学者やって】(00:30:52)現場でずっとやってきた人間だけに、「現場でどうするか?」ということから、やっぱり資格制度だね。やっぱり「拒否はもうできないだろう」と。そんなことを、内実でもって、われわれらしい資格制度にしようと。

立岩 まあ、そういうふうにお考えなった。

山本 整理ついたと。そういうことですね、はい。

立岩 だいたい、わかりました。

山本 ありがとうございます。

立岩 もう一つは、もっとずーっと前の話なんですけれど、

山本 やっと整理つきますよ。聞かれてね(笑)。私、

[00:31:21]
堀 国家資格のことが、あと2000…、最近ね、入り直したこととして、国家資格やっぱり必要だっていう、そういった理由で入ったことと、あと訴訟のこととかって、要するに「乗っ取ろう」っていう動きがあってそれで入ったっていう、それはどっちが強いもんなんですか?

山本 いやもう、実際入るとなったら、「つぶれる」っていうことで急いで入りましたね。だけど入るには、やっぱり自分が納得できるような【論】(00:31:53)があって、それはその、資格の問題と、それからさっきの発達障害のことと。そういう基本的こと、ずっとあったですね。それから「急いで来てくれ」って感じで、わっと入った直接の動因は、やっぱり「つぶれる」と。「いや、これはもう絶対追い出さなきゃいけない」と。みんながやっぱり、行ったら頼ってくるんでね。「もっと早くに来てほしかった」って(笑)。もう辞めてったやつもいたんですけどね。そういうふうに、亀口さんなんかそう言って、当てにされて。ええ。やっぱりいざとなったら、本当にもう、憎しみがいっぱい出てきてね、もう追い出しましたよね、はっきり言って。

堀 もしもね、乗っ取るって話がなかったら、入り直さなかったんですか?

山本 いや。それはもう、「入るしかないな」と思ってたわけですから。その、自分たちのその、私の考え方のレベルでの、「戻らなきゃ」という、ええ、自分の意思と。それからもう、「ほっとけない」ということ。まあ、内容が違いますけど、これが最後の押しになって入ったんですが、これがあったからやっぱり入れたんだね。ただ、「大変だから」って、「悪いけど頑張ってくれ」とか(笑)。ええ。そういう「流れに戻らなきゃ」っていうその、動機付けがあって、「危ない」って言うんで行ったという、そういう形です。やっと整理がつきました(笑)。そうね。他の方にそこまで言わないと。いい質問でした(笑)。いや、聞いてていただいてね。やっぱり、よかったですよ、今のお話とても。
 ま、だいたいそれがあり、学会ということについては今があると。相当私もこの2年ぐらい、行動的にやっぱり対立しましたよ。ね。最後に裁判になったら、「もう僕のやる分じゃない」って言って見守ってる感じで。うん。そこではまた強い奴がいてね。谷奥と違う藤本ってのが。どこでも何かいっぱいやってきたんじゃないですかねえ。裁判に強いんですよね。だってそういう、実力で強いのと、裁判に詳しいのとがやっぱりいて、まあ結果的にうまく噛み合ってやったという結果ですね。もうね。うん。ま、そういうふうにそれぞれの得手不得手がありますからね。はい。[00:34:07]

堀 あの、1990年の時に横浜大会がありましたよね。その時は外で見ていたわけですよね。

山本 ええ。もう「伝わってきた」ぐらいで、本当にもう、関心を持ってませんでした。ええ。この間初めてそれを、あ、学会の何かを読んで、「あ、こんなふうになってたんだ」というふうにね。あ、あれですよ。佐藤和喜雄さんの、きちっとした報告書、短いけどね。それで全部わかりました。あれで初めて経過が、横浜大会って意味がよくわかってきたんですよ。あれは私、来る前に読んできたから、よかったです。ああいう人がいないとね。だいたいこう、わかりにくい内容ですから。いい、***(00:35:00)しなかったね。はい、そうです。やっと繋がりましたね(笑)。

立岩 (戻ってきて) どの辺がどういう話に、

堀 いや、一つはその、「乗っ取られた話があって入った」ってことだったんですけど、「その乗っ取られた話がなかったら入んなかったのか?」っていう質問をしたんです。

立岩 ああ。そしたら、どう、どういうお答えだったの?

山本 だからさっき言った、資格問題がだんだんもう、のっぴきならないところまで来てるという社会的なね、動き。それから発達障害をどう考えるんだっていう、

立岩 さっきの二つのとこですよね。

山本 二つ。で、「やっぱりこれは帰るしかないな」と思っていたんですよ。そこへその「つぶれるんだから来てくれ」っていうのが来て、もう本当に「ほっとけない」って言って、飛び込んで行ったって、それが第3の原因っていうかね。ええ。そういう感じですね。

立岩 じゃもう最後の三つ目だけではないと。その二つが、

山本 ええ三つ目だけじゃないですよ。

立岩 あった上で。

山本 やっぱり、ね、

立岩 あった上で、いよいよっていうのがあって、

山本 そうそうそう。やっぱり内容的になきゃ、ね、「大変だね」でやっぱり終わったと思いますね。ええ、「関わりきれなかった」みたいなね。

立岩 なるほど。それで、それはもう、割と最近のことじゃないですか。まあ言ったら。

山本 そうそうそう。

立岩 で、ずーっと遡りますけれども、

山本 離れていっ【た】***(00:36:03)、



立岩 昨日僕ここで、山本さんからいただいた、それこそ一番最初の、学会改革の一番最初の頃の議事録みたいなのを、読ませていただ…、

山本 ええ。あの、改革委員会が、

立岩 …読ませていただいたんです。で、それで「だいたいわかったな」っていう感じと、「まだよくわかんないぞ」っていう感じと両方あってね。「あの頃、何が起こったんだろう?」っていう。もちろん議事録にちゃんと書いてあるので、わかるっちゃわかるんだが。そういった、文字に残っているもの以外に、今何かこう、言っときたいことってないですか?

山本 鋭いお話でね。あの、72年近くまでずっと同じ歩調で、学会改革、それから運営委員会とやってきたんです。で、その頃にですね、二つあって、一つは渡部淳っていうのがいまして。

立岩 はい、『知能公害』書かれた人。

山本 三つぐらい年上で、

立岩 渡辺さんの方が上?

山本 上。

立岩 三つ上。はい。

山本 で、強烈にいじめてきたんですよ。

立岩 え?

山本 私に強烈に嫌がらせをしてきてるんですよ。

立岩 渡辺さんが、山本さんをいじめたんですか?

山本 そうそうそう。

立岩 あらまあ。[00:37:09]

山本 もう何か本当に毒づいてきてね。普通の、いわゆる正統な学会員同士じゃなくて。それはあの、三鷹の教育相談所問題ってあるんですよね。その時三人でやってたんですよ。高橋さん【ていう方】(00:37:24)と。高橋伊久子さんっていう。

堀 高橋さんっていう方が、

立岩 高橋さん。

山本 それから渡部淳と。

立岩 渡部淳と。

山本 それから三人で組んでたんですよ。

立岩 山本さんと?

山本 ええ、そうそう。これがもう、熱い仲になっちゃって。

立岩 二人? 三人のうちの二人が? 

山本 そうそう。何言っても二人で反対してくる。「言ってるの、矛盾してるんじゃないか?」と思ってもね、とにかく、さっと言い方が変わってね、二人で組んじゃうわけ。するとこっちは「何のために支援してるんだ」と。「僕は事務局長でずっとやってきたのに」ってね。やっぱり男、女の問題ってのは、ほんと複雑で。で、共闘関係にある隣の労組なんかも来てくれて。で、終わって帰ってきて、「ねえ、わかった? ひどいだろう?」って言ったら、「いや、女が一人がいると、ああなるんだよ、どこでも」って、すぐわかったみたいでね(笑)。で、それがわーって広がってね(笑)。「山本が悩んでんの、わかる」っつって。結局最後はもう私、ずらかっちゃったんです。

立岩 え?

山本 辞めちゃったんです。

立岩 渡部…、

山本 高橋さんを支援する会を辞めちゃったんです。

堀 山本さん?

山本 ええ、辞めちゃった。三人で組んでたのを。

堀 ああ。

立岩 それは、何? どっちが言ってもいいけど、その、三鷹?

山本 三鷹。

立岩 っていうのは何がある、

堀 それは、高橋さんが解雇されたんですよね。

山本 解雇された。

立岩 高橋さんって方が解雇された。で、解雇撤回みたいな?

堀 撤回。

山本 そうそう。ずっとそれを私が中心的にやることになって。

立岩 それに山本さんが関わってた。それを渡部淳は、その高橋さん、

山本 もっと何て言うんだろ、***(00:38:47)というかね、

立岩 そういう仲になっちゃって、みたいな。

山本 そうそうそう。

立岩 ぐちゃぐちゃになって、

山本 三人で組んでて。ええ。

立岩 それは、まあ、それはそれとしてあったとして、その話と、その臨床心理学会の改革の72年ぐらいの、

山本 始めだったですね。

立岩 どういう理由、

山本 ええ、そうそう。ずっと改革は一方で進んでいて、それは70年からして。高橋さんって72年に解雇になって、

立岩 解雇? 解雇は72年?

山本 それを支援しようって言うんで、私だけで、他はみんなもちろん、それには関わりきれなくて。ただこの三人の動きは、その、ええ、三鷹の動きと学会と、【こんなんで】(00:39:24)ずっと組んでるんですよ。学会でも三人が入ってますし。で、こっちは三人で組んでるし。こっちでギスギスし始めたら、もうこっちでもね、ギスギスし始めて。もう学会の会議があるたんびに僕を、だーっと嫌がらせしてくるんですよ。ええ。さすがもうかなわなくなってね。ええ。
 それと一方では、もう一つあるんですよ。それ、圧力が一方と、僕はもう学会で何か、雑誌を出すだとかシンポジウムをやるだとか、「そんな時代じゃねえだろう」っていうのはやっぱ半分以上ありましたね。

立岩 それは山本さん自身が、そういうことを思っておられたっていうことですか?[00:40:01]



山本 ええ、ずっとあったわけですよね。で、ICUクビになりましたから。

立岩 それもちょっと聞きたかった。どっかに書かれてます?

山本 アメリカにいて、て、アメリカ行って、

立岩 「クビになった」っていうのは書いてあるんだけど、「何でクビになったのかな?」って素朴にそう思ったんですけど。

山本 それはあの、アメリカへ行って2年の終わり頃になって、日本
から就職の話があり就職。ところが2年後に全共闘運動が始まったんです。運動した学生の退学処分撤回ね。で、私はそれを支援し始めたのです。で、大学の授業一切なくなっちゃって、全共闘の運動だけがずーっと進んでいて。私は助手でしたけど。

立岩 ICUの助手だったんですか?

山本 それで全共闘の支援をしました。

立岩 はい、はい、はい、はい。

山本 で、「授業再開」って言って、機動隊導入してバリケード作って、それで教職員が全部ね、「とにかく授業再開だ」って言って。それでやっぱり何人かは…、あの、田川建三ってのがいまして、

立岩 ああ、キリスト教、神学者ですね。

山本 彼とか僕とかね、「そんなのに同調できるか」っていうんで、大学の守りの砦の外で、ずっと「全共闘支援」という形で一緒に。

立岩 ああ、田川であるとか、山本さんであるとかって。

山本 数人で。ええ、「そんな、協力できない」と。「正常化は協力できない」っつて。ずっと組んでいたら、本格的にバリケードができて。とにかく、外にいる教職員と、中で再開やってる、中に協力してる教職員と。で、こっちは圧倒的に少数ですよね。ずーっといって、「もう戻ってこないならクビだ」と学部長が私のとこに来てね、心理学科の。で、「じゃ、今戻ったら、ずっと雇用が続くんですか?」って聞いたら、「いや、3月までです」と。1年雇用。アメリカに真似してますから、1年契約で、

立岩 有期の雇用だったんですね。

山本 そうそう。で、「そんなの、どうせやっても残れない」と最終的に拒否して3月31日に労働組合をみんなで作ったんです、数人で。

立岩 はい、はい。

山本 だけど、団交なんか2、3回やりましたけど、解雇されちゃって。田川建三は大阪へいっちゃって(笑)、もう会わなくなっちゃって、そのまま。

立岩 僕は田川さんの本は読みましたよ。

山本 そうそう。あの、『イエスという男』、

立岩 面白い。

山本 え?

立岩 面白かった。

山本 面白い、そうそう。彼、やっぱり独特のキリスト教観持ってますからね。ええ。まあ、それはそれでいい。

立岩 それで、その全共闘を、まあ山本(00:42:51)さんの方が、

山本 で、クビ、

立岩 クビなんですか? 辞職なんですか? どっちですか?

山本 いや。向こう側の「雇用しません、継続しません」という形で、

立岩 「継続しない」っていう言い方ですね。

山本 もうそのまま、自動的に。そういう、

立岩 更新しないというか。[00:43:05]

山本 そうそうそう。それはもう、一度「元へ戻りなさい」って言ってきた時に、「それはできない」と。それが12月か1月かな。蹴った時からもう見えてたんですね。

立岩 向こうが「授業再開する」と。こっちは「それはまだ」、

山本 乗れない、と。

立岩 「乗れない」って、***(00:43:22)少数派が言ったと。

山本 て、3月で切れちゃうのは見えてたんです。ええ。それで、まあそのまま切れてって、2、3ヶ月は労働組合っていう形でやったんですよ。でも何の力もなかったですからね。それがあって、その頃非常勤の、保健所の仕事が始まるっていうんで、全部引き受けて。あの、

立岩 ICUは、それで辞めて、3月末に終わりになって。で、ICUも三鷹ですよね。

山本 三鷹、三鷹、そうそう。たまたま。

立岩 僕、三鷹10年住んでたので、わかるんですよ、ICUは。僕、花見に行ったんで、

山本 あ、3月の?

立岩 ICUの桜、きれいですよね。

山本 きれいですよー。そうなんです。(笑)

立岩 ねえ。近所の人、みんなICUの桜見に行くって。うん。(笑) っていう、そういうところで。

山本 ちょっと意外なところで(笑)。はい。それでその、

立岩 それで、三鷹に住んでおられたんですか? その頃。

山本 いや。あのね、私は近くの高円寺に、下宿していて、

立岩 あ、そうなんですか。

山本 そっから通ってたんです。

立岩 へえ。全然関係ないですけど、僕、高円寺に4年住んでて、そのあと三鷹に10年住んでたんですよ(笑)。時代が違いますけどね。

山本 これはね、ご縁て言うんですよ、こういうのはね。(笑)

立岩 じゃ、高円寺からICUに通っておられた。中央線に乗って。

山本 地下鉄でね。荻窪で乗り換えて、それで三鷹で降りて、バスに乗って。

立岩 あ、そうか。高円寺っつっても、丸の内線で荻窪まで行って、

山本 そうそうそう。荻窪まで行って。

立岩 荻窪からJR、中央線乗って、三鷹から、

山本 バスに乗ってったの(笑)。

立岩 僕は地元でした。10何年地元でした。よくわかります。

山本 じゃ、いや、そういうことのちょびっと、繋がるっていうのは、

立岩 そうでしょ。それでICU辞めた、それ何年だったか覚えてますか?

山本 えっと45年ですね、要するに1970年。

立岩 1970年、ちょうどその頃ですね。

山本 69年ぐらいは、ああ**(00:45:13)、

立岩 そうか、ICUもそれなりにあったんですね。

山本 そう、あったんです。





立岩 70年にそれで、全共闘の絡みで辞める。で、そして三鷹から、そのアルバイトの、さっき言った、おっしゃったの、

山本 いや。アルバイトと少し違うのですが、都内で3歳児健診の中に心理を入れるという、そういう仕事が始まったんです。でICUにいた時から、で私が色んな関係で、それをまとめ役になっちゃって。で、都内に保健所ってのはだいたい100ヶ所近くあって、そこへ3人ぐらいずーっと充当しなきゃいけないと。みんなが寄ってきて、とにかく配置して。で、私も今後のためっていうんで、だいたい東京都の豊島区と北区とに集中して。それでずっと今日近くまで保健所で仕事をしていて。
 だけどそれ非常勤なんですよ。ええ。そういうものは。だから健診がある日だけ行くみたいな。
 それでこの、早期発見の問題をここから考えて、それはやっぱり障害児がどんどん出てきましたから。やっぱりそこで3歳児で障害児と会うことで、やっぱりグループができてきてね。これはあの、就学...、「就園・就学運動やるんだ」という目標もっていってね。そこで運動の火がついて。みんなで仲間で、とにかく普通学級入るための【前段を】(00:46:35)3歳児健診でやろうと。それ、長期的に見ると、当たっててね。今でも、「障害児を普通学校へ」全国連絡会ってのありますけど。ただ管理が厳しくなってやっぱりもう全然、障害児は上がってこないんで。「就学前で頑張んなきゃいけない」ってね、改めて。もう、「山本さんはもう、その辺やってないし」(笑)っていうんですが。やっぱり、ずっと3歳児で頑張ったっていうのはものすごく大きな、障害児の運動としては、あるいはインクルーシブ教育としては、あの、

[00:47:05]
立岩 なるほど。その、3人を、その各保健所に配置する仕事を山本さんがやったってこと?

山本 ええ、事務局ですから。それ都庁で週1日だけポストがあって。そこで、あとはまた保健所行って、それでみんなを配置して、それをまとめる。

立岩 それは、どういう職種の方をその保健所に、

山本 ほとんどが心理です。やっぱり、仲間は割に研修会もやってただけあって、みんなに声かけたら、わーっと集まってきて。

立岩 臨床心理の勉強をした人?

山本 そうそうそうそう。

立岩 その人は、普段、普段はっていうか、どういうところで仕事をなさっている方?

山本 その人たちですか。例えばね、一番よく固まってるのは、慶應病院の精神科っていうのがありまして。それは小此木ってのがいまして、

立岩 あ、小此木ね。はい、はい。

山本 で、彼がそこの先生で、そこへわーっと勉強しに集まって、数年間グループができてたのがあって。そこにちょっと声かけたら、やっぱりみんな「やりたい、やりたい」と。

立岩 小此木って、精神分析家ですよね。

山本 そうそうそう。あの人が精神科をやっていて。で、心理の若い女の子たちを集めて、それで結構いろんなことを***(00:48:13)の補助として。ただほとんど、タダに近いようなボランティアでやってて。その人たちに声かけたら、「やる。ぜひ3歳児の健診入りたい」って。まあ都合のいい仕事なんですよね。週3日、あ、月3日ぐらいで、1回1万何千円と。ええ。

立岩 それは1日の仕事で。その人たちは、心理が専門じゃないですか。

山本 心理が専門です。

立岩 そうすると、3歳児健診っていうのは、その心理の人たちは何をやるんですか?

山本 あ。あのね、えっと、医療的な健康診断をやるわけです。ね。他に歯科の先生とか、保健婦***(00:49:09)。その先に、育児相談ってのが必ずあるわけです。そこに「奥の部屋行ってください」って言って。やっぱり、だいたい30人ぐらいいたら3、4人は必ずいて。一人1時間やったら、3時間かかるんですね、ゆっくりね。
 そういうふうにして、子育ての相談って結構問題があって、たくさんやってるうちに、「どうしても問題が解決しないっていうのは、障害児だった」っていうこと。それが重い子がね、その頃やっぱり重い子も来て。で、それはもう「ほっとけない」っちゅうんで、集めて「どうしようか」と思ってるうちに、やっぱり就園を、みんな3歳過ぎたら、保育園・幼稚園入るわけですよね。「これは入れなきゃいけない」と。まあそん時もうすでに色んな学会の影響力とか色々あって、とにかく「ノーマライゼイション」という言い方で、とにかく一人一人、全員どっかの保育園・幼稚園に入れるんだと。それはあちこちの。ぼくは豊島区2ヶ所、それから北区2ヶ所。で、あと、それは杉並区の保健所とか、まあ「来てくれ」って言われてはね、障害児見つけたらね、会作って。だからあちこちで就園・就学を始めたの。で、それがずっと普通学級まで入っていくわけ。その、ずっと入ってって、たいがいみんな、一緒に頑張る親たちになってきて、中学校まで頑張って、今は高校まで入ってるね。ええ、一番進んでるのは、今47歳で、今でもその、たんぽぽ会っていうのやってましてね。だからずーっとその、3歳児健診以降、ええ、これで50年ぐらい。子どもの頃からずっと、就園,就学…、[00:50:51]



立岩 そういう歴史、それは山本さん自身の歴史でもあるんだけれども、それは一方にあるじゃないですか。で、ICU辞めて、そういう仕事を依頼されて、まあ始めて。それが就園・就学運動に繋がっていく、っていう流れがありますよね。それとその72年ぐらいの前後の、その日本臨床心理学会の改革っていうのはどういう絡み、関係になるんですか?

山本 あの、3歳児健診をやってる人はほとんどいなくって。ただやってることはわかるし、教育相談員が多かったのと、それから病院にいる人が多かったですね。

立岩 学会員が?

山本 学会の中でね。

立岩 学会員ね、はい。

山本 で、病院、また違って、あの、病院、臨床心理の仲間っていうのがいて。やっぱりそのあと現代書館で「心理テストは何ぞや」とか、それから「カウンセリングって何ぞや」って、やっぱり先頭切って改革していったんですね。それは本として参考になって。
 ええ。それでもう一つ、何だっけな、ですから、私はどうも「学会としてだけでは手ぬるい」ってのがどっかにいつもありましたね。本を出すとか何かやるだけでね。やっぱりそれはもっと、社会的に色々、やっぱり障害者問題ってずーっとあの【交流】(00:52:20)してきましたから、「そういうものをもっとやるべきだ」っつって。ちょっと学会じゃ担いきれなくて。色々シンポジウムはありますよ。だけど現場っていうのは、本当に行政とぶつかるみたいなこと。
 で、何を手がけたかっつうと、やっぱり障害者の実態調査。ええ。それが、とにかく1年おきぐらいにだいたいあって、ええ。それをやっぱり、先頭切ってやると集まるんですよ、当時はねえ。それはもう、区役所に勤めている人、保健所に勤めている人、あるいは精神医療やってる人間、もうわんわん集まってきてね。三日が経つと、だーってそれは全国に流れてって、まあ京都で大阪でって形で。だから結局全部で五つか六つやりましたけど。ええ。もうやるたびに全国化して。各自治体で、自治体がやるのがメインですから、各自治体でぶつかって、最後は厚労省行って、ってね。そのパターンで5、6回やりましたね。

立岩 やるっていうのは、具体的には?

山本 阻止する。調査を阻止する。で、ひどいのはね、3割ぐらいしか…、一番ダメージを向こうも受けたのが、83年、精神衛生実態調査ってのがあって、これが、

立岩 それは、現代書館の『調査と人権』〔広田 伊蘇夫・暉峻 淑子 編 19870520 現代書館〕。本、

山本 それなんか最高に盛り上がって、やっぱり回収率が35パーセントと。ええ。それなんか「やっぱり、保安処分だ」っていうのはあったね。そういう、障害児も、三者の障害の人たちにとってそれぞれ意味持つ、障害児者実態調査と精神衛生実態調査と。ここ交代でありましたが、それ全部やったら相当の運動になっていったと。

立岩 その時期がありますよね。で、ちなみに学会員っていうのは、アメリカから戻ってこられた時に入った? 入会、

山本 ええ、入った、戻ってきた時入ったんですね。

立岩 戻ってきて、入った?

山本 そうそう。

立岩 で、ICUに、

山本 行って、

立岩 学会の方が先、ぐらいな感じですか? 同時ぐらいですか?

山本 いや、同時に、戻ってきたらすぐ、やっぱり学会の大会があるので入って、ICUはもう即、就職で、そこで始まって。

立岩 じゃもう、ほぼ、

山本 同時ですね。

立岩 すぐってことですね。そうすると、まあICUはICUで、そういう騒ぎが起こってて、そのまあ流れの中で、

山本 70…、そう。

立岩 辞めるっていうのは一方にありますよね。それと、学会は学会で、その68、9、70の時に、まあ騒動が起こってるわけじゃないですか。

山本 そうです、そうです、そうです。

立岩 で、そこの辺の、例えば学会自体が、改革っていうことで、流れを変えてくっていうことが起こってたんだと思いますけれども。それは、まあ、従来の学会の、その運営している人たちがいますよね。で、そこん中に、まあ篠原さんであるとか、ちょっと考え方を変えなきゃいけないっていう人たちもいるじゃないですか。その辺がこう、争いながら、改革派のほうが一定力を得てきた、得ていたってことですか?

山本 いや、そんなどころじゃなくて、あの、われわれは30代。それから理事は40から50。全部逃げてっちゃったんですね。で、心理臨床学会っていうのを作って。

立岩 別の学会を立ち上げて?

山本 ええ。で、その親分は結局、河合隼雄で。ええ。文科省からお金を取って、教育相談員、それには臨床心理士をつくっちゃって。学会でやってるから。それを全国に、やっぱりお金をね、【配っていって】(00:55:51)、なあなあで、それが心理臨床学会で、今も。で、臨床心理士っていうのを作っちゃっただけに、今3万人ぐらいいるんですね。こちら300人(笑)。

立岩 だからまあ言ったら、その改革でごちゃごちゃやってる時に、その上の世代の人たちが、そこから逃げて、別の学会を作っちゃって、お金をもらって、資格で繋がってっていう、そういう話で。それはすぐでした? 割とちゃちゃっと、そういう、

山本 すぐでした。例えばね、有名な学会の闘争があって。名古屋大会とか、それから福岡の大学の闘争とか、それからもう一つ、まあ三つぐらいあって。やってるうちに一番よくわかってくれる会長がいましたね。それが何だったっけなあ、早稲田大学の、高齢ですけど、その人は、「いや、私も認めますから、みなさん支援してください」って言ったら、みんな拍手でね。われわれが指揮権持ってね、ずっと始めてったと。で、そういうことやってるうちに、毎回「何をやってるんだ」みたいに追及するから、みんな逃げてっちゃって。「静かになったなあ」と思ったら、研究会が始まって、あれよと思ったら今度は学会作ってと。それですぐにまた、資格作りを始めて。

立岩 学会もね、そうやって騒ぎが起こる学会もある、あった時に、臨床心理のほうって、二通りあると思うの、あ、臨床心理じゃなくてもね。つまり逃げ...、「もうこんなとこいても損というか、めんどくさいからもうやめて、別の組織を作った」っていうのが、まあ臨床心理***(00:57:24)ですよね。他のとこだと、守旧派っていうか、が巻き返して、一時期は造反の奴らが強くても、次第に押し返すっていうパターンも結構あったじゃないですか。

山本 あったんでしょうかね、あったんですかね。[00:57:38]

立岩 ありましたよね。だって普通、そんなに新しい学会ぼこっと作るって、そんなにないんじゃないですか?

山本 われわれは強烈でしたから。それと結構やっぱりみんながあの年代は、いわゆるノンポリでもやっぱり同調するね、「やっぱり今の心理じゃダメだ」みたいなね。で、やっぱり強烈にわれわれは提起しますから、一人ずつが。するとやっぱりうなずくんだよね。「いや、それはやっぱりクライアントのことを考えるのが先だ」とか言ってね。「資格はそのためにあるもんだあ」みたいなことで、やっぱり相当ね、広ーい支持層で出発していきましたね。ところがそれが全部こう、含みきれなくてだんだん散ってっちゃって、今は毎回同じ顔ぶれ、って(笑)。

立岩 その話とさっきの渡部淳云々の話っていうのは何か関係する? それがやっぱりよくわからなかったんですよ。

山本 やっぱり初めは一緒に組んでたわけですよね。ところが一方で【みたま】(00:58:27)も組んでて。三鷹の問題っていうのはメインのそのタイトルの一つであったんですが、だんだんその、ごちゃごちゃごちゃごちゃ続いて。僕はもうとにかく辞めちゃったんです、三鷹からね。あんまりにも***(00:58:39)、ええ。そうするとね、そう、それをね、怨念感じてね、学会来るたびに私をわーって。

立岩 渡辺さんがね。

山本 ええ、やっぱり、

立岩 エキセントリックな感じがしなくはない。

山本 かっこ悪かったんでしょうね。で、だいたい広がってですね、噂としてね。まあ、***(00:58:55)って。で、もう、そんなことで疲れちゃってね。やっぱりそれもう三鷹に行かなくなりましたね。で、学会で***(00:59:02)った。で、そっちで今度ずーっと。いじめがうまいからねえ。言葉が強いしね。やっぱり3歳も年上だとね。それがもう根性があるからね、いじめることについては。それがもう、今までの行政...、行政なんかやったことないですけどね、とにかく弱い者見つけてはいじめるのが好きで(笑)。とにかくそれにやられて、もうそんなことで、あれですよ、疲れるよりも外にいっぱいやることがあるからと。それも強かったですよね。で、さっきのだーっと、まず調査の問題をほとんどやってました。保健所と調査。

立岩 それで、その渡部淳問題というか、は、その、何?

山本 ちょっと置いて、

立岩 それで学会から離れるっていうか、距離を取ることに結びついたって、そういう話なんですか?

山本 ええ。それは、ですから、学会の外に、社会的な問題で、さっきの調査の方の、「山本さん、また今から始まるよ」って来るわけですよ。で取り組むわけですよ。だから学会どころじゃなくって「どうやって組むか」って、全国に知らせるとかね。やっぱ行政とかとやったら、もう忙しくて忙しくて。

立岩 それは確かに、学会とはまたちょっと枠組みが違う活動ですよね。

山本 うん、全然違って。

立岩 でもその時に、その実態調査反対の運動やられてた頃っていうのは、学会員では…、学会の活動はなさりつつだったんですか?

山本 いや。やっぱりもう、何てえの、何かあの、暇がないのと、やっぱ行っても面白くないからね、学会なんて。ええ。それでやっぱりもう距離を置いて。やっぱり私の方でやってる運動でね、やっぱりものすごいやりがいのある、で、みんなが集まってくる、

[01:00:35]
立岩 そっちの方にシフトっていうか。

山本 それをずーっと。そうそう、そっちの。

立岩 会員ではあったんですか?

山本 会員ではあったんです。で、どっかで、また金も納めないから、2、3年で消えちゃったんじゃないですかね。

立岩 あ、あ、はい。会費滞納で、

山本 75年ぐらいにはもう、会員はなかったと思う。(笑)

立岩 あ、もう。結構早い頃ですね、75年とか。

山本 早い頃。そうなんです、そうなんです。だから【彼氏おっしゃるの】(01:00:52)、とにかくそれから40年。それから「何で戻ってきたんだ」っていう話になるのは、長いからさ(笑)。

立岩 75年だったら長いですよね。じゃあそれからずっと、学会とは、

山本 ええ。もう全然行かなくなっちゃって。

堀 『早期発見・治療…』※
※ 日本臨床心理学会 編 19871015 ;『「早期発見・治療」はなぜ問題か』,現代書館 ここに山本勝美「母子保健とはなにか――保健所の歴史をふまえて」,日本臨床心理学会編[1987:61-118][立岩付記]

立岩 ありますよね。

堀 そこでは書いてる。『早期発見・治療…』の話では、書いてる。

立岩 書いてるよね。

山本 ええ。篠原くんからね、「本を書きたいんだ」と。だけどその「3歳児検診やってるあなたがいなかったらね、早期発見とかは要するに就学前の話ですから、それはもう書けないから」って言ったら、「もう喜んでやろう」って言ったら、喜んでね。それで1冊、みんなで書き上げたんです。

立岩 あの本、何年だったんですか? 『早期発見…』、

堀 85年ぐらい。

山本 『調査と人権』と、それから『「早期発見・治療」はなぜ問題か』っていう。だいたい80年代の半ばで同時に出たんですよね。

立岩 ああ。じゃあ、そうか、

山本 で、その間はずっと、

立岩 あれ「日本臨床心理学会編」になってるじゃないですか。

山本 ええ、「編」なんです。

堀 そうですね。

立岩 ですよね。だから、まあ普通に読むと、っていうか、「山本さんも、その臨床心理学会の、として書いてるのかな」みたいに読めるじゃない。

山本 と思ったでしょ。いったん仮に入会して、で入ってるうちに、まあでき上がったと。そしたらまたギャンギャンやってくるんですね。で「もう辞めるよ」って言ったら、篠原くんが「山本、渡辺のせいか?」って言うから、「そりゃそうだよ」とか言って、もう飛び出しちゃった。ちょっと入りかけたんですよ。でもまた、いびってきたから。

立岩 その、80年代まで、ですか?

山本 そうそうそう。そのあと、もういなくなっちゃったんじゃないですか。どっかで彼も消えちゃったんです。

立岩 そうなんですか。

山本 ええ、何かもう、やる気がない、

立岩 ここ10年ぐらい、全然名前とか聞かないですね。

山本 最近ですか。ええ、もう完全に、もうどっか行っちゃって。ええ。仕事もないし。

立岩 知ってる?

堀 いやいや、知ってますよ。

立岩 知ってる? どこに?

山本 まだ、がっこ、っていう…、

堀 今、風の谷っていう、世田谷に…、世田谷かな? あの、まあ細々と、本当に、まあ、いやまあ、高橋さんもいて。

山本 高橋さんと。

立岩 ああ、そうなんですか。

山本 (笑) よく知ってる。『がっこ』って、出してるんですか。

堀 いやまあ、出してるっちゃ出してるけど。そんなに何か就学運動をやってるってわけでもなくて。

山本 もう全然そんな、

立岩 何をしてるの?

堀 うーん。

山本 そうなんだ。何をって、あのね、そんな気持ちがもうないですよ。

堀 いやまあ、教育相談を一人か二人か、たまに定期的に来る人がいて。

山本 まあ、そんなもんでしょ。

立岩 そんなことをしてると。そうかあ。じゃあずっと、割と長く中にいたっていうことではないってことなのかな?

[01:03:32]
山本 「何だ、いいのか?」と思うくらい無責任というか、ほんと、プライドもないというかね。あとになるとね。もう全然消えてっちゃったですね。

立岩 でその、まあ70…、学会改革があって、その古い人たちは逃げていなくなっちゃって。でまあそれ、一方に流れがあると。だけど、と同時にその渡辺さんの話もあり、他のことのほうが忙しいし面白い、ということの中で、「学会の活動よりは」っていう流れで、

山本 そうですね。「よりは」ですよね。

立岩 外側の仕事をしていくっていう、そういう流れ、っていうことですよね。

山本 そうですね。まあ、忙しかったからですね、実際。それから実るしね。学会なんか、本当に小さく見えちゃって。

立岩 その流れと、例えば岩波の本にお書きになった、例えば村田さんであるとか、ああいう人たちとの付き合いっていうか、ってのの繋がりは、どういう繋がりなんですか?

山本 ええ、まあ学会とはまったく…、学会ってそこまで入ってきませんからね。だいたい、心理テストとカウンセリングと、ってその辺ですから。ケーススタディとか。ええ。で、その村田くんなんかもそうですが、もう全然関係ないとこで。やっぱりそういう障害者の運動の集会で出会って。

立岩 集会で出会って。

山本 出会って。それから、まあ、「こういう調査の問題があるんだ」ったら、彼、すぐ持ってきましたね、一番よく行動的に。あの、障害者実態調査。

立岩 実態調査反対の運動を山本さんたちがおやりになっているのが、先で。まずあって。

山本 え、いや。「始めるから」ってあちこち呼びかけたんですよ。して、「いや、障害者も一緒に参加してくれ」って真っ先に動き出したのが、やっぱり村田くんでしたね。非常に身軽というか。

立岩 山本さんたちが呼びかけたら、村田さんが応えた。そういう順番。

山本 そうそう、そう、そっちです。こちらが呼びかけて、村田くんが入ってきた。で、彼は施設に住んでたから、【まず】(01:05:23)、出る日数が多くなるだけでも彼は喜んでたんです、はっきり言って。

立岩 ああ、集会やら何やら。

山本 そうそう、それもあるんですよ。それは悪いことじゃないけどね。それでずーっともう、とにかく行政なんかとやっても、明け方まで寝ないで、ずっと厚生省の中で追及して。で、「私なんかもう、施設にいるんだ」と。「どうしてくれるんだ」と。「障害者は長い間そういう中で生かされて、殺されてきたんだ」と。それは強烈でしたよねえ。こっちが「人権問題です。プライバシーだ」なんてそんなもんじゃなくて。で彼と、それから新田勲〔1940〜2013〕というのがいたんですよ。

立岩 ああ、新田さんね。

山本 彼なんかも強烈ですよね。あの、足で字を書いてね。

立岩 僕、彼と対談したことがあって。

山本 (笑) じゃあ話がわかる。だから、村田、新田。その***(01:06:11)が本当に、出かけてきて、キャンキャンね。その中で特に村田くんは東久留米。私、所沢ですから、やっぱり送って帰して。でベッドに寝かせて、帰すわけですよ。



立岩 さっきそのICUにいた頃は、高円寺にお住まいだった、って

山本 ああ、そうそうそう。[01:06:31]

立岩 山本さんの住居遍歴っていうか、引っ越し遍歴は、

山本 えっとですね、結婚...、一緒になったのが75年ぐらいで。所沢の入所施設に入ってるのと一緒になって。[…]

立岩 で、高円寺は引っ越した? 所沢に引っ越したの?

山本 所沢に通えるもんじゃないので、身体的に。だから所沢に移って、そこで同居を始めたんですよ。そいで、彼女は秩父学園、こっちは都内ってのは(笑)、とにかく寝に帰るような感じで。都内で、都内でとにかく、保健所でずっと。

立岩 所沢から。

山本 そうですね。やっぱり体力的にも大変だし。お金がそっちの方が入ってるから。それをずーっと以後40年(笑)。今でも所沢に住んでます。[01:09:35]

立岩 あの、そういう夫婦っていうのかな。島田療育園って、

山本 ええ、島田療育園、ええ知ってます、いいところですよ。

立岩 こないだ僕、その島田療育園で、…から82年に斎藤さんっていう人が脱走したって事件があるんですよ。で、それを支持支援した石田圭二さんっていう方に、2年前かな、インタビューしたんです。

山本 最近、2年前?

立岩 ええ。ちょっと似てるんです。奥さんの方はずっとその島田療…、まあ言ったら島田療育園とやっぱりぶつかるわけじゃないですか。「脱走支持」みたいなとこがあって。で、その石田圭二さんっていう亭主の方はそこを辞めて、地域の活動に行くんですよ。

山本 石田さんの方が旦那で、奥さんの方が斎藤、何だっけ?

立岩 いや、支持したのは別の人、その入所者、脳性まひの女性なんですけど。でも、その夫婦の奥さんの方はやっぱ、その島田に勤めあげて定年までいて。[…]そういう人いますよ。というか、僕知ってる障害者運動の支援者って結構、奥さんに食わせてもらってる人いますよ。

山本 (笑) この人は違いますよ。

立岩 ちゃんと常勤の仕事をするのは奥さん。で、割とその、亭主の方が色々なとこ飛び回って、っていう。

山本 立岩さんは違うよね(笑)。

立岩 僕はあの、はい、稼いでます。

山本 うん。そう、面白いね。だから***(01:11:08)でいいじゃないですか。

立岩 大賀重太郎さん〔1951〜2012〕っていう。

山本 あ、大賀、大賀。あれは大阪の。

立岩 そうですね。神戸の方(ほう)で、やっぱ奥さん高校の先生。

山本 ああ、そうでしたか。あんなに全共闘、あ、全障連やってて、どうやって食ってるのかな、と思ってた。(笑)

立岩 奥さん、高校の教師。そのパターン多いんです。あの、りぼん社で、『そよ風のように街に出よう』ってやった<小林〔敏昭〕さんも、「どうやって食ってるんですか?」って思わず聞いたんですよ。そしたら、「そうだ」っておっしゃってましたけど。そのパターン多いと思うな。それで、ずっとそれから所沢ですか。

山本 所沢です。ええ。ずっと、今でもいますね、所沢。そうなんですよ。いやあ、分かりがいいですよ。本当、すーっと。あまり説明が要らない。うん。いやあ、背景がすごくわかってくれるからありがたいです。よかったですね、昨日の話は。肉付け(笑)。

立岩 ようやく、ちょっとわかってきました。色々わかった分もあるんだけど、そういうパーソナルなことってやっぱりね、表立った文章にあまり書かないじゃないですか。

山本 ええ、書けないからね。

立岩 だから、そういうね、引っ越しの話とか奥さんの話とかね、そういうのは、うん。わかんないと、でも、「何でこうやってやってこれたのか?」ってわかんないからさあ。で、堀さん、どうですか? 補足質問みたいなの。

山本 新しい、昨日と全然違った角度の(笑)、

堀 いやいや、僕はそこまで聞かないんで。聞けないんですよ。

山本 (笑) まあ面白いです。[…]ありがとうございます。ほんと、短時間でこれだけパッパっとわかってくれて。何か奇遇と言うか縁と言うかね。そういう背景があるから、これだけわかってもらえるんだね。おんなじ時間で「いやあよくわかんない」「ちょっとわかった」ぐらいで終わる、だいたい。

立岩 やっぱり10何年は違うんですよね。で、僕は例えば、高円寺に越したのが83年です。

山本 あ、私はね、70年までいたんです。だから13年違うんだ。

立岩 やっぱり一回りは違うんですよね。一回りは違ってて、だから僕は高円寺にいたし、三鷹にもいたけれども、三鷹に、

山本 うーん、なるほど。ちょっと10何年ずつ違うんだね、

立岩 85年から、僕は95年までは三鷹にいたんです。

山本 ああ、そうですか。ということは、75年から80、うんやっぱり13年違うんですね。いやあ面白い。[01:15:09]



立岩 その、山本さんって、学生? もっと遡りますけど。

山本 大学の、博士号終わるまで、東京都立大学にいたんですね。

立岩 そうですよね、都立ですよね。

山本 で、その間(かん)2年間、アメリカへ留学して。ええ。結構色々と実になる経験がいっぱいあって。

立岩 それは、心理学、

山本 心理学ですね。だから向こうでも大学じゃなくて、病院とか、先端を行くようなコミュニティメンタルヘルスってなところにいて。それ何かすごい、今でも残ってますね。日本は何年経ってもそこまで行かない。そういう施設、ええ、病院っていう施設、それから障害児の施設、それだいたい、そういうところを回って帰ってきたから。やっぱり施設については問題意識はものすごくあるんですよね。見てきたからね。そんなことで2年間は、あの…。で、これ差し上げます、これあげませんでした?

立岩 きてると思います。

山本 一番最初に。

立岩 はい。

山本 じゃあこれでいいです。あの、ここがアメリカ行ってる間で。これはあの、***(01:16:30)、この方はあの、アイデンティティを書いた時に、70年から大体われわれは【どうやって】(01:16:36)書くんですが、この人はずーっと、戦前から書いて。ね、調べて。

立岩 ああ、そうだね。割と、昔から書いてますね。

山本 まあ、博士論文なんかでしょうね。で、私もね、だいたいみんなで、70年以降の話しかしないんですが。あ、その過去のことも当然あったし、それがどういう意味か、ってことをね、「今から、おずおずとでもいいから、とにかく調べていいことだ」ってやっと感じて来て。それでアメリカ行ってた頃に、結構有数な、エイブラハム・マズローとか、それからロジャーズ、それからロロ・メイとか。

立岩 ロロ・メイって翻訳ありますよね。

山本 ええ。翻訳ある。会ってきてるんです。だからマズローなんかは1時間ゆっくり話(はなし)して。彼はだいたいモチベーションで有名なんですが、ピーク・エクスペリエンス(peak experience)っていう、現象学的な、要するに、その人のピークになるような感動、それをずーっと集めて、体験談を。それでピーク・エクスペリエンスっていう【学】(01:17:34)をつくったんですね。

立岩 ずいぶん聞かれてきたと思いますけど、その都立大で、心理っていうのはどういう思いで? もともと東京の方なんですね? 山本さんは。

山本 ええ。都立の九段高校を出まして。ええ、1年浪人して、で入ったのが都立大学だったですね。で、いや、入って、やってみて良かったのは、あんまり専門、専攻って形で縛らないんで、

立岩 都立大は。[01:18:05]

山本 ええ、文学部、人文学部って入ると、やっぱり私好きなの、哲学の、やっぱり専門の授業も受けたし。それから英語の教師やるってついでで、とにかく英文学もやったし。それから他に、やっぱり***(01:18:20)歴史の先生のとこに聴きに行ってみたり。非常に、ちょうどほら、東大の教養学部的な、似てるんですね。

立岩 なるほど。最初からこう、分かれてるっていう***(01:18:31)じゃないと。

山本 分かれてるんだけど、すぐ変わる人もいるしね。ええ。大変、出る間に結構色んな領域の勉強ができたんで。

立岩 入ったのは、最初っから心理学は心理学だったんですか?

山本 ええ、一応心理学ね。それも始めは哲学行きたかったんですが、難しいからねえ(笑)。結局入りきれなくて。ちょっといくつかの授業を取ったけど。最後に「心理学だ」と思っている頃に、臨床心理学ってのが強く出てきたんですよ。

立岩 ちょっと僕は都立大のシステムが分かってないんだけれども、入学する時は文学部でっていうか、

山本 人文学部。学部はね。それから2年で分かれる。2で心理学、一応専攻した。

立岩 ああ。例えば僕の出た学校だと、3年になる時に進路振り分けってのがあって、学科が決まるんですよね。

山本 ええ。私は2年の時【にしています】(01:19:25)。

立岩 1年生終わって、2年生になる時に、学科が分かれるんですか?

山本 そうそうそうそう。それで心理を選んだんですね。だけど、やっぱり「哲学がやりたい」ってのが諦めきれずに、やっぱりそっちの授業を受けに行ったりして。で、大学院行った時は本当に悩みましたよ。大学院ってのもそんなふうに行かないからね。

立岩 その当時、大学院に行く人っていうのは、多くはなかったでしょ?

山本 ええ、多くなかったんです。で、結局、やっぱり最後は「よし、心理でいいんだ」って決意ができて。入って「やっぱり臨床心理学で行くんだ」と思ってるうちに、私の親分でね、水島恵一という心理のがいてね、立正女子大の、立正大の。で、そのグループの中に入って、その人が行ってきたアメリカのコースを活かして、やっぱり、われわれを送ってくれたんですね、アメリカに。ええ。

立岩 その方(かた)が、アメリカでもそんなんあって。

山本 で、そうそう。かつて渡米したアメリカのインターン研修コースがあって。で、それを臨床心理学会の研修コースとして募集してくれました。それに学会としての第一号として選抜され、送られました。フルブライトの渡米派遣制度を併用して。それで送ってくれて。1年目はそのコース、2年目はそれと全然違う、自分で開拓して次の年と。
 行ったらものすごいやっぱり向こうは、本格的な臨床心理という世界に触れてきたんで、もう迷いはなくなりましたね。水島さんも、「いやー、哲学のカントなんかはやっぱりね、山本さん、あれですよね。フロイトのあとのそう、ユングなんかね、見たら、哲学は追いつかないよ」とか言ってね。そう説明、説得されて。「ああ、それでいいんだ」と初めて納得いって。以後ずーっと迷わず、心理の実践的な仕事に入っていきましたね。[01:21:03]

立岩 大学院にお入りになった時っていうのは、まあアメリカとかだったら大学院出て実践家になるって人もいらしたと、今もそうだと思いますけれども。その、将来的には「研究者になろうかな」みたいな感じだったんですか?

山本 うん、あったんですね。だからアメリカに行ってる間にICUからの呼びかけがあって。とにかくキリスト教徒だったか【どうか】(01:21:23)。それから、

立岩 キリスト教徒なんですか?

山本 キリスト、だったんですね。

立岩 だったんですか。今は違うんですか?

山本 田川さんと一緒になった頃には、やっぱりキリスト教をやめちゃったんですよ(笑)。田川さんの影響もありましたよ、結構。ええ。だからその、何だっけ、ええ、あのー、「学者になりたい」という気持ちが半分、で実践に惹かれるっていう臨床的なことも半分。やっぱり、だから大学に入って臨床もいいと思った。大学の研究はやっぱり臨床心理学だと。そういう感じでやっぱり二つをくっつけた感じでこう歩み始めたんですね。要するに臨床をやってる、それから大学のポジションであると。ええ。で、その頃に学生運動が始まったんですよ(笑)。69年。

立岩 えと、アメリカに2回行ったんですか?

山本 いえ、65年から7年の半分まで行って、あ、2年間いて。67年の9月に帰ってきたわけです。

立岩 ちょうど68年の直前ぐらいですね。

山本 そうそうそう、直前なんだよ。それでICUに呼ばれて行って。

立岩 呼ばれて行ったらもう、すぐ始まった、ぐらいですか。

山本 すぐ始まったんです。で始めはね、まあ一応、どっちかっていうとリベラルだけど、とってもついて行けなくて。そのうちに、ずーっとわかんなくなって、逆に。熱心に学生の書いたボードの、ずーっと読んでいきましたね。ええ。そしたらやっぱり「なるほど」って、腑に落ちるところまできて、「これはもう、やるしかない」と。だから「学問の自由だ」ってのは教授会の物言いでね。「そんな一つの価値観だけじゃね、許せない」って言うと、「だって何が正しいかを選ぶのが人間じゃないか」っていうのが来て、「あ、これだ」と。「自由だ、自由だ」と言って全然こう、関わらないでいたら、「『自由だ』という論理に対して、やっぱり『これ』っていうところに、自分が信念を持って生きるべきだ」ってのは、説得されましたね。その、全共闘のビラを読んでてね、ずっと、立て看のね。もうそれで、「いや、自分がどう思うんだ?」と。「いやあ、学生が正しい」と。思った時からがらーっと世界観が、すっからかんに変わっちゃった。

立岩 へえー。ああ、そうか。じゃあ、こう割と合ったものに出会うっていう感じだったんですよね、まあある意味。色々いるじゃないですか。

山本 合ったの。そう。怒ってるうちにだんだん、迷ってるうちに、初めは反発なんかもあってるうちに、書いてることが当たっていると。ええ。それで変わって、

立岩 だからその、ね、運動やってる、その例えば、「普通学校へ」とか、山田真とかさ、ああいうのは学生の時からそういうことをやり始めて、っていう。

山本 そうそうそう、そうです。あれよりちょっと私はあとでしたね。69年になって、もう信念が決まって。ただ、69年初めて大学院が終わって。ええ。それで常勤の…、それまで非常勤で、大学院とICUと。で、69年になって、正規の、

立岩 69年の4月でいいんですか?

山本 そうそうそう。で、ちゃんとお金になったんだけど、ほんっとに授業が何にもない時で(笑)。

立岩 ちょっと待てよ。69年の4月から70年の3月まで。1年だけ。

山本 そうそうそう、1年間。で、3月で切られたっていう形。[01:24:32]

立岩 一番何か、まあ一番激動の頃ですよね。いや、69、70って一番何かガチャガチャ、ガチャガチャした時期だったじゃないですか。

山本 そうそうそう。東大のねえ、安田講堂だって68年から9年の始まりでつぶれて。つぶれたあと全国に広がったわけで、それの一つがICUだったわけですね。

立岩 そうでしたか。

山本 よくわかってくださる。

立岩 いくつか、何か繋がりました。ありがとうございます。

山本 ありがとうございました(笑)。地域も繋がったし、あの、中央線の沿線で(笑)。はい、だいたいそんなことで、どうも。

立岩 はい、本当にありがとうございます。

山本 何かあるんじゃないですか? 大丈夫ですか?

立岩 いえまあ、だんだんやりますので。

山本 またそのうち、ゆっくり、ええ。で、一つだけね、一度、立命館のキャンパスへ行きたいってのがあって。私があの、幼稚園の子ども…、戦前、あの、叔父が立命館の学生だったんです。

立岩 叔父さん?

山本 あの、私の叔父、ええ。それでね、立命館っていう名前を幼稚園の頃から知っていて。ええ。それで戦後になり…、それ戦中で、戦後になって、立命館の野球部を呼んで。それから戦時中は立命館の哲学の先生を二人も囲ってて。あの田舎の会社でね。その、やっぱり哲学の、佐保田っていうヨガを始めた先生がいて。それはあの立命館で。戦時中はずっとうちの田舎の福井県の会社で囲ってて。

立岩 ああ。面倒見たってか、生活の面倒を見たってことですか?

山本 そうですね。「もう都会にいられない」って言うんでね。もう一人はかわいさんって本当にあの、まるで仙人みたいな生活を、草を集めて食ってる人なんか***(01:26:16)、手相を見てもらったとか、とにかく昔から懐かしいんですよ。(笑)

立岩 そんな人がいらしたんですか。

山本 いたんです。まあ、いつか、そのうちまた。

立岩 今日、まあいくつかキャンパスあるんですけど、元のキャンパスとはちが…、もっと街中にあったのが、何十年か前に引っ越して。今は、金閣寺の近く。

山本 金閣寺の近く。ほおー。場所は違うんだね。

立岩 一番最初とは違います。だけれども、まあ、今の場所になってからも長いですよ。で、まあ、僕らはそこの、衣笠キャンパスって言ってますけれども、そこで働いていますので、連絡していただければ、

山本 また、その、案内して下さい。

立岩 案内差し上げます。

山本 それから戦前の、そういう哲学の先生の歴史とかって何か、そういう本ってのは、同窓会とか何か、ないですかね?

立岩 あるんじゃないですかね。

山本 大学の図書館行けばあるでしょうね。まあそれ、ちょっと見てみたいなあって。[01:27:17]

立岩 堀さん何、これから飛行機?

堀 もう今日帰ります、はい。

立岩 どこから飛行機乗るの?

山本 あ、いやいや。本当にお世話になりました。

堀 名古屋。

山本 またよろしくお願いします。

堀 中部国際空港から。

立岩 セントレアだっけ。

山本 じゃあどうもまたね。はい、どうも、どうも。

立岩 じゃあ、バイバイ。

山本 ええ、お元気で。

立岩 ほいじゃまた、連絡するね。というか、まあ、今後の段取りを。

山本 いやあ、ありがとうございました。本当にまじめにね、熱心でね。

立岩 まあ、まじめはまじめです。



山本 まじめです。もうそれ一つ(笑)。いやあ、立岩さんも本当に私をつかんでくれた。ええ、7月28日の集会で、たまたま(笑)。

立岩 いやあ、ビックリしましたね。

山本 すぐそばに座ってたからね。

立岩 ビックリしましたね。名前はずっと存じ上げてたんですけど。

山本 ありがとう。私も存じ上げてました。

立岩 あのあと、その、隣の實川真理子っていうのが、京都薬科だって、それも知らなくて。

山本 あ、だからその分派のやつは實川なんですよ。

立岩 びっくりして。實川、僕会うのは30年ぶりだったんですよ。

山本 ああ、彼女が、うん。

立岩 大学で同級生だったんですけど。でも、そのあと、

山本 何か言ってましたね、「私は隠れてたんです、長い間」とか言ってましたよ、あの時。

立岩 うん。京都薬科にいて、今僕のところを修了した、『ベーシックインカム』って本をいっしょに書いた齊藤っていうのが、京都薬科の非常勤で、今度お世話になるっていうことでちょっと今、やり取りを實川さんとしてるんです。何か奇遇だな、って思って。

山本 面白い。ええ。さっきの、分派したのがそう、思い出して。實川っていう男なんです(笑)。ですからあの、ほら、ずっと裁判までやったっていう。男の方は實川っていう男なんです。

立岩 あ。その名前に記憶がありますね。ウェブサイト、ホームページで見た時に、何かそういう名前は見たっていう。

山本 もちろん関係ないんだろうと思うんですが、あなたが「関西では珍しい名前で」って言うから。「え? ひょっとしてどっかで」と思ったけど、やっぱり彼らの時は、東京来てたわけですから。そうでしょ? 彼女がまあ東京にいて、その、大阪のどこかに行って、何かもう、「私は今、隠れてましたから」って言って(笑)。

立岩 それはたぶん、というか、全然、別の話。別の人間で、別の話。

山本 関係ない。ああ、そうですか。いや私、實川っていう名前を他では聞いたことがないから。ああ、いいんです。じゃあ関係ないんですね。(笑)

立岩 関係はないですね。彼女はどこの出身だったかな。うん、

山本 まあ、そんなことがあって。

立岩 大学の1年、2年が一緒だったんですよ。クラスっていうのが。實川さんと。で、彼女は社会心理学の方に行って、僕は社会学だったので。あそこの文学部には、心理学、社会心理学、社会学って、あるんです。實川さんは社会心理学の方に行って。何か、うん、そのあとの消息をほぼ知らなくて。ええ。こないだ聞いてビックリした。

山本 ああ、そうですか。まあだから、そうなるとたまたま、あの集会の時に私は、一人おいた、アルメニアの…、

立岩 ああ、女性の方ね[01:30:14]

山本 ちょっと隣に座れなくて、あの時さ。さあっと来て、とーんと間に入ってね(笑)。それが数週間前かな、ハンセン病の全生園てとこがあって。それ、たまたまその寮に、
ていうか、入ろうと思ったら、そばにいたんですね。「どっかで見たことがあります」とか何か、彼女が言い出してね。

立岩 全生園の、

山本 に、二人別々に、集会があったんです。

立岩 全生園を会場にした集会があった時に、山本さんもいらして、

山本 彼女も来て、

立岩 實川さんもいらしたと。それが初対面というか。

山本 初対面なんですよ。そいで、「どっかで見たことがある」「いや、そうですかねえ」って。

立岩 あ、その時はもう、見かけただけですか。

山本 見かけただけです。

立岩 挨拶もしなくて。

山本 いや、ちょっとはあったけど、お互いに紹介をしないで、もう集会、畳の上の集会座って、もう私それで帰っちゃって。だからもうそれから、まあ顔は会ったから覚え
るんですが、あの集会の時に隣に突然ぱーっと来て、座ってね。

立岩 ああ、そういうことだったんですね。

山本 ええ、ええ。で、「山本さん知ってますよ」って言い出したわけ。「何ですか?」って言ったら、あの、阻止連ってあるでしょ、女性の。

立岩 そうそう。それも僕知らなかったんですよ。で、僕は割と学生運動系のところでやってたので、そういう付き合いは多少わかるんですけど。實川さんが阻止連であるとか、そういうものと関りがあるってことは、こないだ会うまで知らなくて。「へえー、そんなことあったの」って。

山本 それも***(01:31:45)、こないだ、彼女から一言言われるまでは「へえ」ってね。「山本さん、知ってますよ」っつってね。ええ。阻止連にいたから、名前見てました」って。

立岩 そうなんですって。実はだから、意外と僕の仕事っていうか


UP:20191019 REV:20191024
山本 勝美  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)