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山本勝美さんへのインタビュー

20181117 山本勝美さん 聞き手:堀智久

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・20181117
山本勝美氏:http://www.arsvi.com/w/yk04.htm
・聞き手:堀智久 http://www.arsvi.com/w/ht08.htm ・於:浜松

病者障害者運動史研究

 録音記録が文字化されたものを山本さんに見ていただいたものに、立岩がいくらかの手をいれましたが、まだ作業途上のものです。また、堀さんがインタビューした翌日、立岩と堀さんが追加のインタビューを行なっており、その記録も掲載する予定です。立岩はこの20181117のインタビューには参加できなかったため、翌日同じことを再度話していただいている部分があります。すみませんでした。(立岩真也

【11下01】20181117-1 山本勝美氏 134分

■このインタビューへの言及

◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表

 「そして、心理や精神が入ってくるとさらにやっかいになりそうだとさきに述べた。『私的所有論』では、『「早期発見・治療」はなぜ問題か』(日本臨床心理学会編[1987])等をあげ、「これらはごく一部にすぎない。主張されたことを検証する別の作業が必要になる」と記した([199709→201305:535])。こちらは、さきの脳性まひについて言った一七年前より前、二〇年以上は前に、調べることの必要性を言ったということだ。
 ただこれについては、研究は現れた。日本臨床心理学会の「改革」と、その後のいくらかの「現実路線」への転換について堀智久が調べ、堀[2011][2013]を書いて、博士論文の一部になり、書籍(堀[2014])の一部になった。資格化等を巡って分裂、反対した少数派は日本社会臨床学会を立ち上げた。臨床心理学会に長く関わった山本勝美へのインタビューとして山本[2018]がある★11。」(p.79)
 「★11 著書に山本[1999]。許可が得られたらインタビューの全体を公開する。」(p.95)


■はじめに 山本勝美 2019.02

山本 立岩先生と以前一度お会いして以来、何年ぶり、いや何十年ぶりだったでしょうか。
 昨年〔2018年〕の7月28日、駒場の東大キャンパスにあるホールで「優生手術に対する謝罪を求める会」ほかの共催で集会を持った日に、ぼくの座席の前を一段降りたところで、立岩先生がぼくの大きな話し声を聞きつけて「山本さんですか?立命館の立岩です」と挨拶をされ、初めて気が付いたのでした。
 「一度、インタービューをさせて頂きたい」とそのとき申し入れを頂きました。
 突然で、しかも経験したことのない企画を頂いて、とても光栄だったのを覚えています。
 その後、連絡し合い、10月に浜松市での障害学会の大会で共同研究者の堀智久先生(名寄市立大学准教授)と三人でお会いしました。堀先生とはその前年に臨床心理学会・水戸大会で既にお会いしていましたが、きめ細かい企画で実行にこぎつけることができました。
 堀先生のこれまでの教育学の作品も頂き(後述)、大変勉強になりました。
 さて、インタービュは、その夜、街中の料理店で行うことになり、とても恐縮しましたが、飲み、つまみ、リラックスしつつの雰囲気でした。
 おしゃべりの私には、堀先生の優れた聞き上手のおかげで、秋の夜長に2時間をかけて花が咲きました!?
 (もう難聴で、しかも人のお名前が出てこず、所々ご負担をおかけします。)
 なお、話の内容が、各所で膨れ上がりましたので、(注)をつけて立命館大学生存学研究センターのホームページに設定していただいた私のホームページの関連部所にご案内させていただいています。

■前史 少年期:亡き妹から、成人期:渡米時代から

山本 レジュメの、序として、1番目と書いてある「運動」の序、つまり前史、要するにアメリカにいた頃の、そのことに触れてから、1番目に入っていきたいと。
 1番目っていうのは「学会の改革運動」ですよね。ええ。それはやはりね、ふっと、今日に向けてまとめようと思った時に、堀さんに頂いた本のことが浮かんできて。あれほど、本当にエネルギー注いで、教育、あるいは教育心理学の運動をね、70年前からずっとたどって。例のあの先生、えっと

堀 城戸幡太郎。

山本 ええ、城戸さん。僕の大学院の頃の先生、もう非常に僕は尊敬して、懐かしいんですが。あの人なんか、出てくる、3回ぐらいね(笑)。もうワクワクして。それでちょっと書きましたけど。そういう方っていうのは、やっぱり残っているんですよね。
 だから、ぼくも堀さんにならって、前史としてアメリカにいた頃に会ったマズローと、ロロ・メイと、それからロジャーズとは手紙でやり取りしましたからね。ほかに、もう一人は
 チューリッヒのユング研究所のヒルマン。海外報告の学会雑誌★01。論文は差し上げてありますか、資料のファイルに? 私は、全部入ってるから差し上げますけど。ここから始めたいんです(笑)。出します、これですね。
★01 山本勝美「米国の臨床心理学者の活動及び諸学派の現況について」,『臨床心理学研究』Vol.7 No.3,1968年。 山本氏の著作については、本センターのサイト内「山本勝美」頁中の「生存学研究センター受入資料 目次(2018年8月)」を参照のこと。

堀 あ、入ってないですね。

山本 ええ。最初の前史のほうではこれと…、もう一つこれ、「帰国後雑感、CP紙」★02、二つしかないんで。これもどうぞ。
★02 山本勝美「帰国後雑感」,『クリニカル・サイコロジスト』No.43,1968年

堀 これは少し読んだのかな。これも読んでる気がするな。

山本 ええ。それ。うちにいっぱいありますから。そこから触れて。
 それから、今朝になって、さらにレジュメを打ったんですが、その辺をちょっとここにまとめました★03。要するにこれを喋りたいんです。で、それはもう、そうやって遡ったら、自分の、こどもの頃のこと★04をやっぱり…。いくつか原点はあるんですよね。それもやっぱりついでにちょっと触れて、それでアメリカの前史にも触れて。それから改革運動に触れてと。そういう段階を踏んでいきたいと。
★03 山本勝美「差別はのり越えられるか?」,『臨床心理学研究第』53巻1号,2015年
 <インタービュの準備・メモ>より
・自分の執筆文「差別をのり越えられるか」(臨心研:)本テーマのまとめ。
・障害学研究会・関東部会での討論
この二つの考察をまとめてみた。
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(1)障害者解放に向けた取り組み:地域=国に対する対決=対権力の闘い。
・実態調査反対運動&
・健診に対する取り組み=就園・就学運動
・介護(障害者の生活)にかかわった。
(2)「健常者ペース」との批判を受けて、村田君介護に加わる。
=障害者の自立性・主体性を重視へ
(3ー1)ところが「共生へ」(岩波書店)を執筆することになった。
(3−2)「自分の本人はどう考えているのか?」「どう感じているのか?」を
ありのままに記すように、との注文がついた。
(3−3)その結果、自分の思うこと、感じることが全面的に溢れてきた!
その中には、村田君の欠陥・問題が見えてきた。
これが第3の視点になった。ーー>家・車を追求する村田君をどうみる のか!
・一方、村田君の変化も大きい。
彼は「闘争なんてもうやめた!楽しく生きたい!」と。
そして女性団体の中に入る。生活クラブ生協へ。
地域センターを企画。その完成前に事故死。
2014年:「なぜ今出生前診断か」ーー>「優生手術に対する謝罪を求める会」へ。
>
(4)仕事を変えた。==>ショートステイへ。
そうだんいんとは異なる世界・関係づくりへ。
生活の中での関わりを共有。すると、差別意識はなくなった。
(5)ところが、当事者の薬、衣類を間違え、親から講義が来た。
(6)やがて介護制度が整備されるに連れて、介護の仕事からとうざかっていっ た。
(そして、今はかつての就園?就学の支援へ。
今は、しゅうがくまえのとりくみも消えた。
(現在)優生保護法の中の優生手術問題に力を入れている。
★04 山本勝美「亡き妹の思い出」,『SSKU』5231号,2015年

堀 妹さんが亡くなったっていうことが…、読んだんですけども。書いてあって。

山本 あ、読んでくださった…、それも、

堀 妹さんが亡くなったっていうのは…、

山本 それは、妹のことですね。ええ、それも最初の「早逝」っていうのにね。でその一番最後のところに、3行ぐらい、妹から何を自分が学んだか、と。三つ並んでますよね。それの一番最後のあたりね。とにかく、何て言うか、悲しい、可哀想だったというあたりから、それでもずっと、80年生きてきたわけですから、気がついたらそのおかげで、やっぱり一つの自 分の人生観、それを一番最後に整理するとやっぱり、この三つぐらいかなってのが出て きたんですね。うん。それがやっぱり大きいね。結構大きいんですね。だから遡るほど、やっぱり根が深いっていうかね、うん。
 [00:05:01] それで、まあ、妹の早逝、亡くなったことっていうことについて。まあ、録音ならその三つをね、直筆でちょっと加えたいと思う んですが、とにかく、死生観として一つね。
 それから、やっぱり、悩んでる人がいたら放っといてはいけないと。うん。それからもう一つは、「自分もいつか死ぬ」だったかな。三つ。そういうことを整理して。そうやって書く段になると、やっぱり出てきて、整理するわけですね(注4)。しかもね、どっか ちょっと書いてるもう一人の私の友人の堀利和さん。彼が、「山本さん、これはいいからね、うちの障害者の雑誌に載せたい」って言って。
 で、「いいよ。」って言ったら、真ん中に、今の妹のことを、はとの絵で…、真ん中にイラストがありますよね。これは、精神障害の人が書いたんだというんですね、僕は改めてね、「は あーっ」と感動して。精神障害の人ってのは そういうことなんだなってね、すごい理解を深めたんですね。そういうふうに、病者の、親の会かな、そこの雑誌に載せてくれて。
 で、それを今度は所沢で、やっぱり、今の反安倍、反戦争、反安保、そういう会やってるんですよね。で、「山本さん、そういう悲しいことがある なら、アピールしてくれないか。」って言われて。「いや、泣けて、とてもじゃないけど、喋れないよ。」ていったらね、「泣けてるままでいいから。」って言われてね(笑)。それでね !
 ほかには、1回、大学でちょっと、妹のことやったことあるんですがね。うーん、今度はだいたい百何十人かなあ、学生さんじゃなくて高齢の人。そこで、それをずっと読んだんです。「とにかく、言葉が詰まってもいいから。」って言われたのが安心で、3倍ぐらい時間かかって、読み上げたんですよ。本当にあの…、隣に一人、弁護士さんがいてね。まだかって、見上げられ(笑)、そんなことかまってられなくて、「とにかく語れないっていうんでもいいんだから。」って言って、3倍ぐらいかけて読み上げましたね。ええ、だから本当に悲しくなってきちゃって。うん。それに使ったんですね。
 だからほかにもほら『生きるって』って、私、連載を書いて、その中に3回にわたって書いたんですが、やっぱり一番コンパクトにまとまって書けたものはこれだな、というんで、それを堀さんにお送りしたんですよね。まあそんな顛末があります。 で、これが今、ちょっとここに書いた年少期のね。「今、妹の早逝体験から学ぶ、二つ…」あ、これ、間違い。三つですね、「…三つの課題」と。うん。
 で、そのほかに、私は、上にやっぱり兄貴がいるもんで、いろんな影響受けて、高校時代からやっぱり色々考えるようになって。その、兄貴から受けたのは、やっぱり「自分って何だ」とか、「なぜ生きてるのか」と。要するに大学生の頃の兄貴の問題意識をね、高校の兄貴と話してるの聞いていて。ちょっとまあ、要は、その時代の問題意識ってこういうことですよね。今だってもちろん、「自分って何だ」ってありますけど、そんなことより!も、「どう生きるか」っていうのがありますから(笑)。
 やっぱりそういう思春期の。ただ、もう一つ上の、その、トータルな人間像っていうのは、これは実はね、高校時代ね、非常に早熟な絵だけ一生懸命に描く画家がいてね。その中島くんってのが、やっぱりその、画家の世界で、何かその、刺激を受けたみたいで。「人間っていうのはトータルだ」と。で、レオナルド・ダ・ヴィンチが、画家、彫刻家だけじゃなくて、ヘリコプターの、彫刻も作っていて。ということで、「ああ、そういう工学的なことも考えていたんだな」って言って、すっごい、いい、示唆を受けて。[00:09:52] 
 で、私は、数年前に東京に、ダ・ヴィンチの、本当に総展覧会がありましてね。行ったら、もうそんなもんじゃなかったんだ。天文学をね、初めて作ったんだと思うくらいに、だーっと、天文の現象とそれから原理ね。小っちゃい字に書いてるんですよね。あ、これくらい、本当の、何て言うか、…、やっぱり科学者、て言うんで、さらに驚いて。そういうふうに一方ではやっぱ芸術家としてだけ言われて。まあミケランジェロとダ・ヴィンチと。だけどそんなものでは済まない、もう、いろんな科学的な…、当時を本当に、代表してたような部分があって。それ全部がダ・ヴィンチだと。ええ。その一面が芸術家だと。それで改めてその、展示会行ってびっくりして。
 それがとにかく…、その出発点は、この中島君て中高生時代の友だちから、そうだなってことを聞かされてね。で、ルネッサンスの頃は、こういうことだったんだと。ね。それでずっと今日(こんにち)に至ってましてね。 
 だからこれに対して、専門家っていうのは、やっぱり、何て言うんでしょうか、集中する生き方ですよね。トータルと言うよりはね。いや、その人自身は、自分の専門って以外にも、きっと持ってるんじゃないかと思いますけどね。そういうトータルな人生観がなかったら一つの専門にもね、決して生き生きしたものはね、出てこないだろうと思うんで。そう、今思うのは、そういう人もきっと口には出さないけど、トータルってのはあると思うんですけどね。ええ。
 でも、私は意識して、「あんまり専門家にならない」と。だいたい下手なもんですから。そういうかたちで、やっぱりトータルっていうことをずっと、ことあるごとに、やっぱり「それもこれも」と、というかたちで摂取してきた経過!あるんですね。 それがこの、このレジュメの一番最後に…、今のは70年代の前、それから70年のこともありますけど、90年代つうと、私の年齢はね、1938年だから、えっと60代になって、何かこういう新しい、マルタ共和国とか、それからヨーガですね。こういうことに、体が悪くなったのもあって、ぐーっと入ってって。ええ。社会運動だけじゃもたないし、疲れるし。やっぱり疲れないというか、やっぱり体を大事にするとかっていうところで、この二つが出てきて。
 こういうこともやっぱり、必要なんだっていうふうに、まあ年齢的な面もあって、入ってきて。だいたいこの、うん、三つが続いてるんですよね。うん。だから、ヨーガもインストラクターをやってますし、マルタも日本マルタ友好協会、この際だから、えーと。この際だから…、あれ?
 で、ええ、レジュメ、そのあともね、5、6枚あって、それを!昨日、清書する日としていたのが、疲れちゃって。風邪引いたもんで。ちょっと汚い書き方ですが、それをお見せして、今晩、ホテルで清書してきます。 
 その、「雑感」にも、その当時ですが、感じたこと書いてありますけどね、何て言っても、こう、アメリカでは学派ってのがはっきりしてんですよね。だから、エクレクティック(Eclectic)っていうのもあるんですけど、それは特殊という意味で…、折衷的っていうのはね。うん。そういう人もいましたけどね。その辺がやっぱり、日本と欧米の考え方っていうか、違うんだなあと思ってね。うん。

■前史:終わり


1) 臨床心理学会の学会改革は 
 始まる前(69年以前)と、始まってから(69年から72年にかけて。)
 72年以降、75年にかけて。学会離脱(75年)

山本 うん。離脱ね。

堀 学会離脱の区分が2015年までとなっている。

山本 そうそう。

堀 ここだけやたらと時間が長いんですけど。期間が40年ぐらい。

山本 うん。いないんです。40年ぐらい、もう、離れてるんですよ。心にはあるんだけど、実際活動を、臨心の中でやってないから。色んな、社臨との分裂とか。
 それから最近の、分派との対決運動とか。まあ、潰れるっていうので、急いで、今度は戻って来たんですが。篠原(睦治)くんなんかが別れたの聞いてるけど、まあ全然、他人事っていうかね。そうなんです。だからそういう意味では、オーソドックスな臨心のメンバーではありません(笑)。うん。今は一生懸命ね、「また出るなんてことはしないよ」って、今、言ってるんですけど。
 やっぱりあの時に、佐藤さんがずっと、踏みとどまって、ずっと丁寧に経過を書きましたよね。昨年(2018年)の水戸大会では。

堀 佐藤和喜雄さん?[00:19:30]

山本 佐藤和喜雄さん。だからね、彼が一番の本流って(笑)。うん。水戸大会で僕、ほとんど発言する内容なかったです、はっきり言ってね。ただまあ、帰ってきたら、私の社会派、みんなあんまりいないからね。意識はあってもそこまで実践してないから。2016年の出生前診断と、今度(2018年)の不妊手術と、やっぱりそこを、結局私が、学会の中では、うん、やる羽目になっちゃって。だからずっと踏みとどまっていた人といえばね、あのあと、佐藤さん以外には、藤本くん、高島さんなんかね、真面目にずーっとやってて。それから、亀口さん。偉いもんだと思いますよ。
 ただまあ、何で私が、離れちゃったかっていうのには二つの理由があってね。一つはその、私はだいたい、行動的な人間なんですよ。動く、行動ね。うん。とにかく、集まって、書いたり喋ったりするだけってのはね、特に70年代の頃には、「何をやってるんだ」と批判的に見ていました。「もっと、外ではいろんな運動があるし、運動を作っていくものだ」っていう。それもあって、やっぱり、モチベーション、自分の生き方としても、たまんなくなって、出て行ったのがありまして。

堀 はい。その、もう少し社会的な活動がしたかったっていう。

■障害者実態調査反対運動から学んだこと

山本 そうなんですね。で、飛び込んでって、もう、動いちゃったのが、その、障害者実態調査と。それで一番、からだ動かして。それから組織的な人間関係作り、それに力を入れて。日本を変えるのには「これをやんなきゃいけないんだ」っていうんでね。実態調査問題っていうのは、何て言うんでしょうか、わかりやすいテーマだったですね。
 当時の若者に対して、「差別だ!」って訴えるのが、分かりやすいわけね。で、何日までに、これ実行されちゃうんだから、止めなきゃいけないと。そしたらたちまち全国的に広がった。心理だけじゃなくて、もちろん労働者から市民から、わーっと広がるんですよね。
 うん。だから75年ってのが私、一番まず力が入ったんすね。まあ2日、3日で、もう、全国に燃え広がってね。ああ、一番燃えた時期じゃなかったんでしょうかね。75年、心身障害実態調査阻止ってね。うん。それなんか見て、もう、ほかの若い高校生みたいな活動家が、「この運動は伸びるなあ」って、わーっと集まってきて、たちまち3日か4日で全国化してるわけですからね。で、まあ、ある意味では、ある時期がきたらそれは終わってしまうという。非常に動きやすい、しかも端的な。その、「差別である」というスローガンということで、誰でも乗りやすかった。うん。そういうテーマとして、障害者実態調査ってのはあって。
 でまあ、ついでに言っちゃうと、83年精神衛生実態調査、と。ええ。それが最高に盛り上がったんですね。で、『調査と人権』に書いた多くは、その時に得た、いろんな、調査の実施手続きとか、いろんな面の差別性というか、問題がやっぱり大きかったですね。
 75年と83年が一番大きかったですね。だから83年についても、ちょっとあとで触れますけど、とにかく、反対運動をやると手ごたえがある。ええ。それが、学会の文化的土壌と比べると比較にならなくてね。学会のメンバーが、たまに運動の場に来て、声明文なんか出すと、「それは結構だ。」もう、その程度の行動だという感じ。まあ、そこでは、何かその程度しか評価できてなくて。うん。まあそんなことで、離脱して乗っていくにはその、テーマがちょうどよかったというかね。
 それでその、実態調査の運動全体について年表にしてる★05。どういう運動をやったのかと。10年間ぐらいで。
 今日のお話で、見ていただきたいってのがあって。これ、ありましたか?
★05 廣田伊蘇夫・暉峻淑子共編『調査と人権』,現代書館,1987年,p.28

堀 あ、あった。

山本 なかった?

堀 いや、あった、あった…、いや、あったというか、そう、『調査と人権』の本の中に、[00:25:20]

山本 そうそう、ありました。28ページ、小さい字でね。それを拡大したんですが。最初に『調査と人権』の目次が年表、これでしてね。だから、ここにあるのが75年ていうと、これ。精神衛生実態調査。これは最初ですよね。あ、これは、もう一つ前か。 あ、これですね。うん。ちょっと前後しますが、これまず75年の心身障害者、ありますよね、75年。ここで本格的に私が入っていって、問題にして。
 その次にあったのが、83年て、精神と分けてますから、この、83年って時代的にあとで。ありますよね。この83年精神衛生実態調査っていうのが、一番大きくなって。それまでは75年障害者実態調査ですね。だいたいこの二つの運動から第1章を書いてるわけです。で、28ページで、そこに全調査の社会的な影響なり意味を、1ページにまとめてましてね。だから例えば、社会的に影響大きかったのは75年の、一番右側を見ますと、全障連結成とありますよね。それなんかは、やっぱり運動的に一番大きかったです。とにかく、わーっと全国で末広がりに大きくなって。それで終わったのが、76年に全障連の結成大会のエネルギーになって。全障連がはじめて、全国の障害者運動組織としてのができていったわけですね。
 そういう影響とか、それから、83年の実態調査の右側、ご覧いただきますと、やっぱり精神医療の問題。で、端的な事件というのは、宇都宮病院、というのがそこにありますが、そこはですね、運動やってて「もう終わるかな」って頃になってね、病院の中から告発の手紙がポーンと外へ送られてきたんですよ。そしたら、そこの病院の中では撲殺をしていると。で、事件は外には出ていってないと。何人かがとにかく打ち殺されてるというのを一人、手紙を出してきてね。
 それで終わろうとした時に、日本の精神医療病院、全体の問題になって、そこから広がっちゃわけですね。だからそれの、まあ、鍵…、引き金が調査運動だったんですが、むしろ歴史的、社会的な意味では、宇都宮病院の。「ほとんど終わりかな」と思った頃にね、わーっと盛り上がって。
 で、すごいのは、国連から人権三団体と言われている、弁護士の集まりとか、それからそういう、人権問題とか、それから精神医療とか、三つの団体がそれぞれに代表者を派遣して、「何をやってるんだ!」と、もう「遅れてる」と、いう指摘をして帰ってからね、さすが、もう政府は無視できなくなってきて。
 で、すぐに精神衛生法。それから精神保健法。それから連続で精神保健福祉法、と。どんどん開拓していって、いわゆる閉鎖的な病院をね、やっぱり開くべきだと。
 で、具体的には、「赤電話を入れろ」とか。それから「鍵の病棟をほとんどなくしろ」とか。うん。そういうふうに、精神保健福祉法がね。それから、ほかの障害者はもうすでに在宅運動やってるようにね、精神障害者もやっぱり地域に住む、と。ええ。ということがそこで提案されて、まあ、精神保健福祉法ですよね。[00:30:03] それでもまあ、まだ一番強固に、閉鎖病棟が残ってますけども。とにかく、そこから、精神障害者の運動も…、今もう、山本真理さんみたいなのが出てますけど、そういう人たちやら、それから、大野萌子さんや、吉田おさみさんとか。その後はどんどん外へ出てきて、今とにかく相当数の人が、やっぱりアパートに住んでますよね。ええ。そういうのをやってるのが、さっき言った藤本くんなんですけどね。 
 まあそういうふうに、83年の直後に宇都宮病院、と。それで国連から三人権団体の派遣、と。それで基本的に、精神保健福祉関係の法律が変わっていっちゃったと。そういうのがなかったら変わんなかったと思います、今でも。それくらい、精神衛生法っていうのは強固だったですね。だからやっぱりこの、調査反対運動があり、そのあとの宇都宮病院が…、ってのは、何でもなきゃ、ポストに入れないわけで。わーっと全国に盛り上がってると。「火、つけてやれ」ってかたちで、中から投函されたと思うんですよね。ええ。やっぱりそういう、全国が燃えてるっていうことがあって、宇都宮病院に火がついたと思うんですよね。うん。それで、ざーっと、国の法律が変わった。あ、その前の、国連の三人権団体が来て。ということでもう、精神医療関係の法律ってのは、もう国連の、アドバイスの中にあるんで。それでもまあ遅れてますけどね。やっぱり、これは一つ、調査の問題を阻止するのがきっかけだったなと。それはやっぱり、全体の中の一番大きい成果としてそれがあるだろうと。だいたいそんなことですね。 ょっと先走りましたが、実態調査の、「何があったんだ」と、いうことでは、そんなこと。何か、どうですか? そのことでは(笑)。

堀 いや、ちょっとその前に、学会改革…、「学会を抜けた理由として、二つ理由がある」というふうにおっしゃったんですけども、一つは社会活動、(?)、そういうとこ。

山本 そうやって、聞き直してください。

堀 もう一つは何ですか?

山本 うん。ああ、もう一つとね。

堀 はい。

■一番大きかった集会はやはり名古屋大会


山本 ええと、もちろん、理由、と…。79年に戻りまして。ええ、やっぱり一番大きかった集会はやっぱり名古屋大会です。名古屋大会。で、私はその頃、ICUにいたもんで。ええ、国際キリスト教大学ね。で、それはその、帰国してICUに即就職して。で、67年の後半期にも非常勤で入って。で、次の68年もいて、69年4月から常勤になったんです。うん。その頃、実は全共闘が封鎖してて、全然1年間、ほとんど業務がないくらいだったの。ICUでね。で、ちょうど70…、え、69年の頃に名古屋大会がありまして、その頃ってのはやっぱり大学の…、運動と学会がほとんど同時並行にね。もう日本中どこでもだいたいそうですけど。大学にいた人間は、学会の、そういう、反理事会、反学会闘争って、もう、すぐ入ってくるわけですね。だから「そっちもだ」っていう感じでね。ええ。大学での運動と、学会での運動って雰囲気が全く同じで、発想法が同じで。だーっと、だから主に燃えたのは、学会…、ええと、大学にいた人間が主です。だからこの間の水戸大会で佐藤さんが、「何でこんなに変わったか分からない。」って言うのに対して、あの人、病院にいましたからね、うん。「それはね、実は大学にいないと分かんないんだ。」と。それが、ビューっと行けたのは、「みんな大学で動いてるから、だから学会でも同じように、発想法といい、行動力といい、それから運動の仕方といい、それができたんだ」って。何か、この間の水戸大会で私が一言、言ったことで、恐らく初めて彼が「ああ、そうなの」ってなったと思いますよ(笑)。
 [00:34:51] それから、それくらいの位置に、病臨心ってのがあったわけですが、そこは関西の人がいっぱいいましたけど、やっぱり、ついていく感じだったのは、現場にあって現場に根を張ってる人たちだという、非常に重要な人たちがいたってことと、それから、そうでない人間は、やっぱり、大学の、何て言うんですか、…影響受けて動いてると。まあ、一番はっきりしたのは、東大の中井慈朗さんだったかな。うん。それから慶應には、えっと、乾さんだったかな。渡部淳さんてのは本当に学会…、学会だけで、大学は知りません。だいたいでも色んなこと聞いて知ってたでしょうね。で、臨心の動きの最初から最後までやっぱり、渡部淳さんとそれから中井慈朗さんと、二人がずっと指導的に動いてましたよ。

■乳幼児康診で出会った子の就学へ

 で、私は、言わば、くっついてた感じでね。で、自分の主体性ってのは薄かった。結果的にね。うん。でも僕がこだわったのは、やっぱり、それぞれが病院の問題だとかチームの問題とかいう中で、私は、やっぱり、保健所に、一つ現場を置いてたもんですから。母子保健と、それから乳幼児健康診断と。やっぱりそこにこだわってましたね。それで色んなもの、書いたわけですけども。主要に…、こう、学会の全体的な、流れを作っていったのは渡部さんと中井さんです。で、しばらく経ったら、中井さん、何か、すーっと力が抜けてって、最後は渡部さんになりました。で、やっぱりそのあと、改革委員会から運営委員会と、そういうことも基本的に、こう、学会の規則とか何か作っていくのが、やっぱり渡部さんで。もう一人、ちょっと違うとしたら、やっぱり篠原くんですね。彼は、やっぱり大学で運動やって、もう大学が潰れる頃に和光に移ったわけですから、大学の動きってことはよく知ってたわけですね。だから、渡部さんと比べたら、何か、向きが違いますけど、彼も結局、改革委員会、それから運営委員長になったの、何か、真っ当な委員長として、渡部淳が委員長になるような雰囲気じゃないからね(笑)。ええ。そういう意味じゃ、何か追求する向きというか。だから篠原くんがいて、学会の正常化というか、運営員会ができてそれをずっと運営してったのは、最後は、篠原くんですよ。ええ。で、結局、あるところまできたらね、渡部さんも何か消えてっちゃってね。で、それでも消えるなんてことしないで、元病院臨心の彼女、何て言ったかな…、

堀 赤松さん。

山本 そうそうそう。赤松さんは、やっぱり強いですよね。あの人は本当に、年も増してるだけに、言うこともしっかりしてますよね。うん。赤松さんと、それからもう一人、鈴木くん。ええ。その辺がメインで、ほかにもいたけど、やっぱりだんだん消えていきましたよね。病臨心で。うん。それと篠原くんとそれくらい。それからずっと大学の教員でこだわってたのが、茨城大学の。

堀 あ、山下恒男さん

山本 そう山下さん。彼は、やっぱり一つのアカデミックな…、物書きとして、やっぱ『反発達論』なんてね。やっぱり、彼でなきゃ、勉強してる人いないって言うんで。だいたいその4人ぐらいがメインじゃないんですかね、運営委員会。で、その頃に僕はもう、外のほうに。やっぱり足を広げてっちゃって、消えていきましたね。

堀 それは大学に直接、関わってこなかったっていうことが大きな理由?

山本 私ですか?

堀 いや、先ほどその…、えっと、ICUに、いましたよね。

山本 いましたね。

堀 で、ICU、その、辞めた理由ってのは、何かある…、[00:39:38]

山本 辞めた理由。はっきり言って、首切られたんです。全共闘と一緒に、助手共闘になって。で、最後に首切られるっての分かって、労働組合っていう、学校にはなかったような、労働組合、作って。で、首切られて、その「解雇撤回」っていうんで、ずっとやったけど、まあ3人も4人も切られて、「撤回」って言ったって見えないわけですよ。やってることって言ったら、交渉を続けるだけ。で、そこにいたのは、あれですよ、田川建三っていう人がいて。ええ。『イエスという男』ってのを書いたんですけど、田川建三さん。それから私でしょ。あとは女の人で、まあ、事務職でやってた人たちもいたんだけど、結局その人たちが主流とは言い切れなくて。まあ、田川建三さんと私。それで十何人で、組合作って、まあちょっとやったけど。それに、全共闘も自分が潰れかけた頃だから、何かカンパ集めてきたりなんかして。結局、潰れちゃって、がっかりしてましたけど。ということで、学生運動の…、何て言うかな、同伴期間っていうかなあ、うん、そんな感じで半年ぐらい持ちましたかね。だけどみんな、例えば田川建三さんなんかも、大阪女子大学なんかに迎えられて(笑)。ええ、彼は聖書学者でしたけど、やっぱり歴史は詳しいから。まあ西洋史の古代か何かを教えてたみたいで。で、そっちへもう行っちゃって、もう帰ってこないんですよね。で、最後に残ったって言えば、最後は私でしたから(笑)。うん。で、労働運動らしく、本当、色んな現場の、現業職のとこ、回ったりなんかしたけど。まあ、もちませんよね。とにかく解雇撤回は、むずかしく…、もう、とても見えなくて。それで私も、辞めてしまいました。

堀 解雇撤回ってのは、解雇するというのは、どうして解雇っていうものを受けるんですか? 基本的なところが分かってないんですけど。

山本 あ、あのね、1年限度の雇用なんです。ICUの場合には、アメリカの雇用形態を真似して、常勤ってのはなくてね、フルタイムってのは1年間のフルタイムで。で、継続雇用っていうことで、だいたいみんな、全ての教授が、1年契約の延長なんですよね。それがもう、逆手に取られて。ええ。「継続しません。」と。したら、それで終わっちゃうわけ。それは今はいろんなとこでありますけど、それをもう何か先駆的に、上手い手で使って。でも、それは分かってましたからね。最後に、教育学部の学科長が来てね、「戻りなさい。」と。「じゃあ戻ったら続けられますか?」と言ったら、はっきりと「続けません」と言うわけだよね(笑)。継続雇用。「じゃあ、戻りません」と、いうかたちで、もう、切れること…、ええ、切ることが前提の話し合いで終わってます。うん。だから、ICUが切っちゃた、まあ技法というか、それはそこで、とにかく大学に切られた。
 で、残ったものは結局、保健所の、やっぱり、パート。身分でいうと臨時職員。それがドンと。それが始まったばっかりの業務なもんで。全部、私に回されてたんですよ、東京都からね。それはちょっと、多少経過はあるけど、とにかく、「3歳児健診、始めよう」っていう研究会にいた山本さんだっていうことで、全部任されて。あの頃、でもね、保健所が50から70あって。一番多い時は百何十あって。そこ、全員、仲間を派遣して。ええ。だから全部集めるとね、そう100ヶ所ぐらいかな。だけど集まった心理相談員のメンバーってのは150人ぐらいいたです。一番多い時で。それで、いや、これでやっていくんだ、と。で、それは障害児の選別の問題と、それから臨時職員という問題も、やっぱり労働者だから、両方長期的に東京都の中でやっていくんだ、ということでまあ始めたんですけど。まあ自ずから、やっぱりそこが専門職というのか、やっぱり、心理相談業務、あるいは3歳児健診、もっと広く、母子保健てのは何なんだ、と。それをどういうふうに、何か対応していくかっていう、やっぱりそういう運動のほうに入っていって。ずーっと臨時職員で、3、40年、保健所でやってきましたね。
 で、臨時職員でも、普通の事務職員もいますけども、あの何て言うか、手当てが全然違うんですよね。1回行くと1万5千円と。昔ですよ。それで、十何ヶ所って、自分が好きなように集めてると。特にだいたい、豊島区、北区とか、やっぱりその辺、集めて、3、4ヶ所の保健所でがっしり固め、「ここで自分はずっとやっていくんだ」と。で、特に北区なんか、最も保守的です。寒い、冷たいとこだから。「ここが変わったら、それは日本に革命が起こった時やな」と(笑)。で、そこへ、まあ、言わば、いわゆる、骨をうずめるって覚悟で北区にこだわって。保健所で長年、障害児との。[00:45:28] だから、3歳児健診って必ず障害児が、何回かに1回ぐらいは来て、時には重い子がいて。それで、その子たちと親とを受け入れて。ずっと保健所で会って、グループで会うようになってって。で、最後には文句言われて。「こんなグループ活動を、保健所の中でやらないでくれ」って言われて。ってのは、「3歳児検診は3歳で終わるんだ」って、逆に言われちゃってて。それで、こっち側は、「何でですか? 住民が来たいのに。」っつって。それから、争いながら最後に、就学するぐらいまで、ずーっと行って。その間に、まず就園があって。で、就園で、場所を探しては、普通の幼稚園、保育園に入れてって。で、それで就学を3年後に迎えるんですよね。ということは就学運動だ、と。すると、幼稚園、保育園で頑張った親は…、いや多いんですけど、みんな「当然、普通学級」というふうにこう、自然発生的に意識持って。で、就学時健診なんか受けないで、あるいは受けて入ってくとか、色んなやり方を考えて、結局、普通学級に全員入っていきましたね。その会が「たんぽぽ会」と言って、今もあるんですよ。だから当事者であった頃の、3歳、4歳の子は、今、四十何歳ですね。で、2ヶ月に1回、ずっと、会、持ってます。ええ。で、そういう中で、えっと就学前から就学終わって外に出るまでの、大きな一覧表★06ってのは見たことないですか?
★06 丸本百合子/山本勝美共著『産む/産まないを悩むとき』,岩波ブックレットNO.426,1997年,p.4

堀 ああ、あります。

山本 ありましたね。あれを作ったのは、一番、風上…、えっと、水で言うと、水の湧き出る頃からずーっと追いかけてると、全部が見えてきたわけね。で、それをね、学校の教職員なんかに配ったら、「あ、こうなってるんですね。」ってね(笑)。「これは分かりやすい」とか言ってね、だからずっと川上にいた人間が、ずっと子どもを追いかけていくと、全ての管理体制が、その結果が、あの表なんですよね。せっかくですから、ちょっと出そうじゃないですか。えっと、丸本さんと書いた…、

堀 そうですね。

山本 本の中に…それの一番最初のほうのページに…。あ、お持ちですか。ええ、それの3ページ目ぐらいに、私のが出てますよね。

堀 これですね。

山本 そうそう、それは、ずっと、40年の(笑)、経過の中で表ができたわけです。うん。で、それ、今も学校の、この間も、1人、教職員が、女の人がいて、「山本さん、あの表、どこにありますか?」と言ってね(笑)、「そこにもある」って言ったり、それから、全国連の、本の中にも入れてあるんですけど、結局それが今でもね、何か結構、役に立ちますね。うん。あ、そうそう、それで私が、ちょっと先行っちゃうんだけど、その表をね、えっと、持ってきたんです。飛び飛びになるけど、やっぱりここで言っとかないと。お見せしたい…、過去に書いたものを…。ちょっと待ってね。[00:50:25] いやあ…、あ、この(?)、出てきました。うん、まあいいです、せっかくその表が出てきたんですから。もっとちゃんとね、順序立てて、こう、揃えて持ってきたんですよ。ここにまだあるかな。 えっと、それで、ですから、うん、その表が出てきた。ええ。先、行っちゃったりするから、さっきの「戻って」っていうところ、もう1回、戻りましょう。何か、お聞きしたいことがあったんじゃないですか。

堀 あの…、臨床心理学会を辞めた理由。

山本 辞めた理由とか…、

堀 理由として一つは要するに、社会的な活動のほうに向かっていったという。

山本 ええ。そうですね。

堀 もう一つは…。

山本 もう一つは、 ちょっとした人間関係で。もう、それも、たまんなくなって、出ていっちゃったってのもありましてね。残念ながら。うん。とにかく、しばらくはまた、臨床心理学会と。で、その時に『「早期発見・治療」はなぜ問題か』という本、出してるんですよね。ご存じですか?

堀 はい。

山本 それに誘われて乗って、題詞を書いたわけですよ。で、母子保健法やってる人間がね、「やろうじゃないか。」ってね。「じゃ、戻るか」と一時は思ったけど、「やっぱり辞める。こんな小さいとこで。」って、そういうのがあってね。 もうそれから、ずーっと、完全に外で動いて。やっぱり保健所ってとこでも、やることいっぱいありますからね。うん。保健所と…、実態調査ってのはある時期が来たらもう終わっちゃうんです。で、そのあと、保健所ってのは最後の最後まで、課題問題、残りましたから。
 保健所の業務を書いた、医療心理学(『医療心理臨床』)っていう、

堀 はい。

山本 …のは、ご覧になりましたよね。

堀 はい。はいはい。

山本 医療心理学の中の…、ちょっとせっかくだから出そうじゃないですか。医療心理学の中にある心理学つうんで、私が、母子保健を書いたんですね。それにきちっとまとめて、やっぱり本に出すもんで、整理して、「何があったんだ、何をやったんだ」、それ、全部きちんと。それから、「どういう構造の業務なんだ」と。そしたら編集者のね、心理学では飯長喜一郎くんと、それからさっき言った、乾という慶應大学の。まあ、3人ぐらいで編集して。その飯長くんは、日本女子大に就職していた東大の教育学部出ね。うん。彼が褒めてくれましたよ。「いやあ、いいの書いたねえ。」って言ってね。それで自信があるんですけどね。
 それが、私の、そのあとの事業…、業務をまとめたもので、全部書いてあります、だいたい。状況の説明とかね。それが私にとって…、だから、実態調査のさっきの『調査と人権』と、それから医療の心理の…、要約と、その二つが、私の運動の骨子だと思ってもらってもいいですね。それ、とても大事なんです。というのは、就学前の乳幼児の相談ってのは、もう、あってなくがごとき…、領域にしか見えないんです、外側からね。で、今…、それで、特に強調したいのは、今、就学運動やってる者にとっては、就学前からね、管理されてるから、その前からずっとフォローしていかないと、就学には繋がらないということが、ひしひしと分かってきたみたいで。
 僕らそれは、最初から、大事なんだと言ってきて。やっぱり、行った保健所、数ヶ所ありますが、そこで何人かは必ずね、普通学級のままでずーっと通してったっていう。杉並区とか、それからさっき言った、北区だったら滝野川地区と、それから王子地区。それから池袋保健所。私が行く時は、必ず、本当に中学3年まで、普通学級で通してね、はい。そりゃね、信じた(?)となったら、本当に自閉症の、すごい自閉症の男の子がいてね。で、やっぱり、私は放っとかないです。やっぱり、フォロウに学校行くわけですよ。うん。そしたら、「じゃ、何々の教室行ってみてください。」って、行ったらね、授業やってるわけ。ね。その中で一人だけ、窓際行っちゃって、わーって向こう、何か、見てるわけね。で、みんなしーんとして、ま、ひとりごとですから、全然、それ、見向きもしないで、先生の話、聞いてる。うん。それで、私がちょっと部屋を覗いたら、わーっと走ってくるのね。
 嬉しかったですね。にこにこ笑って。「何か、もうちょっとこう、誘いをかけるとか、ないのかな」と思ったけど。それはえっと、『共生へ』の第1章の、翔太くんがね、最後に親が殺しましたけど。ええ。彼の場合も、親が疲れただろうと思って。で、あの時、交代で、時たま普通学級行って、ついてたわけですね。ええ。そうすると、敏感なんでね、みんな授業に向かっている。自分だけが、全然、あの…、置いてけぼりになってる。孤独っていうの? 寂しくなっちゃって、そのへん書いてあるけど、先生のいる教壇のほうに行ってね、何だったかな、紙があるの。わーってね、放りあげると、わーって、紙、散るわけじゃないですか。それを、何か、毎日やってるみたいで、みんな、しーんとして見てるわけ。それで先生がまた、「ににんがし、にさんがろく、しにがはち(ママ)」ってね。で、僕は驚いちゃって。何が驚いたって、これだけ暴れてもね、みんな見向きもしないで。だから、毎日やるわけですからね。それが、そうやってみんなの関心を引きたい。ところが誰も引かない。するとね、自分の一番後ろの机、戻ってね、泣いちゃってね。げんこでこんなに涙拭いてね、かばん持って出ようとするんだよ。だから、障害児ったって…、何て言うかな、全部、分かってるね。敏感に。だからね、「あんまり自閉症なんていう言葉は使うもんじゃないな。」と思ってね。そうやって、わーってやっても誰も見てくれない。そしたら、戻ってきて泣きながらね、かばん背負って、「もう家、帰る」と。これ、普通じゃないですかね。普通の感覚、人間性、持ってるんでね、驚きましたね。それが終わってから、あと、先生にもう、こんこんと言いましたよ。向こうは、その時どう思ったかね。先生は、「あらあら」っつって集めてね、「はい、ににんがし」ってやるわけで。「寂しかったんで、それで帰ろうとしたんです。」って言ったら、「おや、そうですか。」って。一応、良心的だから、放っといたんだよね。ええ、あのもう、「困った」っつて校長に訴えるなんかしなくて。「本当に寂しかったって、泣いてね、もう帰ろうとして、僕、止めたんです。」って言ったら、「えー、そうなんですか!」って言うわけね。だからある意味、非常に真面目な先生。で、「自分のできることは、もう、ここまでだ」ともう割り切って、みんなに向かって授業やって終わって、もう、追い出すってことをしなかった。まあいいほうなわけですよね。 で、それで説明したけど、まあ次の…、次は3年で、次の年はもう、もたなかったというかね(笑)。それで結局、「もう1年、頑張ります。」って親が言って、まあ「頑張ってください。」って言って。で、5年から特殊学級、行っちゃって、で、中学校行って。で、中学校、入った時に、養護学校送られて、「もう、一切行かない」と。だから、「豊中(とよちゅう)へ行く。」ってね。豊川…、豊川中学校かな…、豊島中(としましょうか。やっぱりそうやって、「豊中へ行く」って頑張ってたってのは、もう、障害児でも何でもないんだよね。本当によく分かってんだよね。[01:00:10] それで、そんな、「養護学校、行かない」っつって、駐車場行って、車のいたずらをしてたり、それから、留守中友だちの家へ入って、仲良かった友だちのアルバム引き出して、「わー!」っつって、自分と友達が並んでる、卒業か何かの写真。それで、「あー!」って言って、それで、帰って行っちゃったっていうの? もうそれはそれは、本当に、普通だよね。敏感なだけだよね。それから行動がね、まあ、ある時期には既存の枠におさまらないことはあるだろうけど。

■カウンセリング批判に対し、勇み足の「批判」をして


 その時に僕がね、実は後ろめたいのは、「1回、来てください。」と。で、「わかりました。」って言ってるうちに、殺しちゃったんだよね。それが、どこにも書かないけど,
 実はね、「行ってたら」ね、「止められたかなあ。」ってのがあってね。うん。その日も、朝、ちょっと余力があって、「とにかく、たんぽぽ会、行く」っつって、終わって帰ったら、その日に殺してたんだね。それだけの、実は後ろめたさがあってね。まあ、今から考えると、あの子はかわいそうでね。実にそういう意味じゃ、感覚的に、まあ、正常と言っちゃ変だけどね、鋭い。そこで悩んでた。それを親が殺しちゃったと。そういうのが第1章でしたね。うん。
 で、どこまでいきましたか? あなた、戻す役(笑)。何か、お聞きいただくとこへ戻しましょう。学会のほうで。私も、学会って、もう、その程度になるなあ、語れることは。
 だから、堀さんが、まあ、ずっと書いておられる、臨床心理学会の、エトスというか、何ですか、やっぱ、アイデンティティ? うん。書いてありますね。私、あれほどこだわった経過がないもんでね。こだわっていくと、ああなるんだと。ですから私は、学会が現代書館から出した カウンセリングか。ありましたよね。それから心理テストを問うと、ありましたよね。ええ。それなんかは、乳幼児対象の仕事の人間は、あんまり、パーソナリティ論とかって、やらないわけですよね。で、知能テストも当然やらないわけですよ。だから「テストを問う」とか「カウンセリングを問う」とかっていうほうは、同じ部族にいるから参考にはなるけど、自分の業務の中で悩んで、開拓していったっていうものは全くない。ええ。やっぱりあれは、病臨心の人たちですね。だから、鈴木さんとか、それから赤松さんとかが、やっぱりよく書いてたと思うんで。やっぱり、もう、ロールシャッハテストなんかやらされるわけですからね。で、勉強はもちろん、アメリカにいた頃は、よくやってたんです。で、スキルは磨いてきましたけど。日本に帰ってきてから、そういうチャンスはなかったですね。うん。
 だから、僕は僕独自で、やっぱり「母子保健とは」「早期発見とは」、それから「就学とは」って。だから、もう就学運動にずーっとこだわってきた人って、ほとんどいないです。みんな、大人をやってますから。まあ、篠原くんがコモン研でやってたっていうのはあるけど、彼も、現場ではなくて、大学の先生になって、ずっとみんなを、まあ色々、まとめてやってきたわけで。就学前の、業務の中で葛藤しながら、問題…、就学前の問題にこだわってたのは、コモン研だと、唯一、ほら、篠原くんと同僚の人が大学にいたじゃないですか。和光大学の教員で、女の人。

堀 小沢〔牧子〕さん? 

山本 そうそう。東京都庁の私の、心理相談員協議会の事務局に来られて、「都は、どういうふうに管理してるんですか?」っておっしゃるので、やっぱりちゃんとこう、管理の規則をごらんに入れてだけど、今日持ってこなかったんですが、都庁から、手引書を出したんです、私が。それは「2回面接でもって、3歳で見つけた子は、どっかに送って、おしまい」と。「ずっと長くいられるとこじゃありません、児相へ送るんです」って書いたのがあって。で、私は、「2回なんて、ずっとフォローしたいっていうの、できないじゃないか」って言って。そしたら、課長がちょうど変わっちゃってね、私がギャンギャンやったこともあって。で、新しい課長が来た途端に、わかる課長で、「じゃ、手引書、作ってくれ」って。厚い手引書、作って、全都に配ったんですよね、保健所にね。それは一つは、1)心理的な問題の解消のため。もう1点は、2)幼稚園、保育園に、入園させるフォローのため、と。そこまで業務として入れちゃったわけ。そしたらね、現場にいる保健所の仲間ね、「よく入れたね」って(笑)。で、あとのほうに、ずっとやってきた仲間の事例報告。ええ。彼がバッシリ書いたのを、それも入れたりしてね。とにかく保健所の「3歳児健診は就園を目指す」ってのを、公然化しちゃったわけ(笑)。ええ。で、そんなこともやって、それで、小沢さんにご覧に入れたら見てびっくり、「よくやりました…、これならできますよね」とか言って頂いてね(笑)。ええ。それですっかり仲良くなって。「もっと早く来るべきだった」って(笑)。そんなこと言っ頂いて。で、小沢さんがそのあと、カウンセリングの本お書きになったの知ってますか?

堀 はい。

山本 でね、その頃、僕はもう、臨心学会へ戻ってたんです。と、仲間から「社臨の人の作品だ」と、言うんでね、何て言うの? やっぱりカウンセリングだ何だとか言って、「日ごろの付き合いの人間関係でいいんじゃないか」とか、書いてあって。で、それだけじゃ、職場での運動にはならないんだよね。同じ人間関係って。うん。で、その作品をある意味じゃ、批判したのを書いたんですわ。で、うしろの社臨の人もみんな、だいたいね、「普通の人間関係でいいんじゃないか」みたいなね。だけど現場にいたらね、とにかく色んな障害児が来て、どう取り組むかが問われている時に、日常の人間関係では済まないわけで。どうやったんだ、と。で、どういう成果を生んだんだ、と。で、それは行政に対してどう取り組むんだ、と。それから、仲間でどういうふうにね、ちゃんと認識をして、運動論というのをね、具体的な手立て、スキルですね、技法でもいいんだけど、それを取り組んでたか、ってね、ちゃんと書いて配らなきゃだめだと。やっぱりね、これは組織としてのテーマだ、と批判的に書いたんですね。だから、普通のほかの臨床心理士みたいにね、早期発見のね業務とか、それはナンセンス、その点は一致している、と。ところがただ人間関係、だから、何か、「専門性じゃなくって」みたいな、そんな否定の仕方はね、乳幼児健診の厳しい相談状況では、全体的に、職場での運動ではできないことだ、と、書いたんです。

堀 それ、どこに書いたんですか。

山本 それはこちらの、『臨床心理学研究』に書いた。で、著者に送りました。

堀 ああ。それ、何年ごろですか。

山本 それはですね、僕が戻ったばっかりだから、6、7年前です。臨床心理学会に。で、これは探して、あげますよ。で、小沢さんが「カウンセリングとは何か」っていう批判を書いたっちゅうことで、「僕に書評を書いてくれ」って言うんで、それで、ちゃんと載せましたね。ええ。で、いささかきつかったからね。だから何か、敵に書く書き方から、もうちょっと、適度に書く事ができないもんかねえ。やっぱり、もうちょっと優しくね、本来は仲間だっていうところで、書きたかったな、と(笑)。あとで後悔してるんですが。
[01:10:12]

堀 小沢さんの本が出たんで。2000年頃の『心の専門家はいらない』〔2002〕っていう本でした?

山本 それそれそれ。まさにそれです。

堀 そんで、山本さんが学会に戻ったのが、ここに2014年って書いてんです。

山本 14年ね。それで、小沢さんの書いたのが、二千…

堀 2000年頃なんですね。

山本 随分時間経ってますね(笑)。

堀 結構…、そうですね。

山本 ちょっと経って…。でも、帰って来たら書く人間がいないから、「山本さん書いてくれ」って言ったんじゃない? 僕、すぐ書きましたよ。ただ、着いた途端にすぐ書いたんだから、ずっと前に出てた。ただ2000年と2014年じゃ、ちょっと…

堀 2000年頃じゃないですか。そんな前…、

山本 ちょっと…、4年ぐらい前じゃないの? 2010年とか。

堀 えー? そんな新しかったかな。

山本 (笑) ちょっと長すぎるよ。そんなの、みんな取っとかないよね。あ、「ちょうど山本さんが」ってね、出してきたんだから、二千…、私が14年ならね…、14年よりもっと前、来てたんじゃないかなあ(笑)。ちょっと調べますね、あとで。それ、面白いから。それから、書いた文章ね。小沢さんには、正直、悪かったなあ、って気はある。やっぱり相手を見てね、書かなきゃねえ。あなたもさすが、インタビュアーですね(笑)。ちゃんと、年表持って来て(笑)。

堀 2002年ですよ、2002年。

山本 2002年、(?)。

堀 だから、けっこう経ってんですよ。

山本 私は2014年?

堀 2002年に出てた本を、2014年…、

山本 それは長かったな。じゃ、みんな、誰も書けなくて。うん。書けなかったんでしょうね、逆に。それはわかりますよ。放っといたってことは。で、「山本さん来た、ちょうどいいや」って感じで。ちょっと、悩んでたんじゃないの?(笑) 否定もできないしね。同じく、通常の意見を批判しているわけですから。
 だから、僕は現場で、行政の中で業務をやってるっていう、現実? うん。その、現実の中での、こう、運動方針とか全体としての、やっぱりコンセンサス? それ抜きには、個人の、その日常の人間関係と同じっていうのは通らないんで。うん。やっぱり小沢さんはそういうふうに書いたのかもしれんが、僕はやっぱりその回答ですから。きちんとした…。それでやっぱり手引書を書いたわけでね。で、具体的な事例も。こんな、半分ぐらい、甲斐くんっていうのが書いて。それを、ちょうどいいからって、もらって、入れて。うん。それで、全都に、印刷物でちゃんと都庁から回ってるわけでね(笑)。うん。それなんかも楽しかったですね。うん。
 ということで、それはまた、臨心研に書いたものをお見せしますよ。もう1回、僕も読んでみて(笑)。うん。あと、何か、学会の…、

■なぜ学会に戻ったの?


堀 あ、そうそう、学会の…、何で学会に戻って、2014年頃に(?)。

山本 ええ。そうです、そうです。それ、どっかでね、書いたけどね。臨心研のあの…、そうです。結局、CP紙(Clinical Psycholojist)に、ほら、次ぎの年に立候補するにあたってね。やっぱりなぜ戻ってきたかっていうのは…。二つぐらいあって、一つはね、一人でいては対応できない問題が二つ出てきたんです。学会を離れて、保健所なんかにいて、自分が個別に、「この問題はこうだ」とか言って、専門職なんかも。で、「これじゃ何にもなんないな」って。やはりスタンスの無力さ? で、特に、例の資格の問題が、じわーじわーと迫ってきたんですね。で、要するに「心理の講習やってくれ」っつって、喜んで行くじゃないですか。ええ。そうすると、「資格はありません」っつうとね、2万円に対して1万円しか出ないわけ(笑)。うん。で、始めは我慢したけど、「何か馬鹿らしいな」と思ってね。で、結局何だっつうと、やっぱり臨床心理士っていう資格が、もう認められてるんだよね。そんなとこで、そんな、一人の反乱してもどうしようもない。で、また新しい国家資格ができそうだと聞いたもんで、いや、これはもう1人でいたらできないことだと、感じたんで戻ってった。それが一つ。[01:15:13] それからもう一つは、ちょっと内容は違うけど、発達障害。これがどんどん出てくるんですよね。で、それもごまめの歯ぎしりみたいな。おかしいと。そして、自分の中で整理してんだけど、もう本当に自分の中の問題ね。そうやって全体的にどうやって、この、発達障害って問題、切り返していくか、見えないということで、どう捉えるかと。その二つで悩んでて、結局、戻ってったんですよね。
 で、戻るきっかけは、今、副委員長をやってる滝野さんってのがいて、彼はやっぱりそれ相当の、違う毛並みだけど、力量あるんですよね。フランスなんか行ってて。それで、彼の思いは、社会ってことはよく分かるんですが、彼がやる器じゃなくて。今は、ご存知のようにST。感受性トレーニング、センシティヴィティ・トレーニング(SensitivityTraining)に値するような、今…、あなたが来た時も、もう、水戸でやってましたし。今年は、えーっと大阪人間科学大学。大々的に、そっちのほう、ドーンと。そしたら、STに、やっぱりね、傾倒してる若者が、非常に増えてんのね。あれはもう、すぐ広がる問題です。僕もSTっていうのは、日本で2回、アメリカで1回ですね。それはもう、本当によくやってきて、自分は変わって、今があるんで。STっていうのは、人と会う上でね、大事だって。そういう意味では、普通の人間同士なんてとんでもないよね。そこはやっぱり、仕事でお金もらってたら、それなりの専門性っていうかスキルってのは、必要なんですよね。で、変なスキルも、テストみたいなのあるけど、そうじゃないスキルってのは、やっぱりある。ということは、まあ、普通の常人の人間関係と、やっぱり違うんですよね。ええ。やっぱり、もっと、何て言うか、鋭いところから自分をも相手もね、ちゃんとこう見つめられるだけの、感性がなくちゃだめなんですよ。そういう意味では、私がやって来た分だけ…、そういうことを昔やったから、今はこう、分かるんだと。
 簡単に言っとくと、まずね、アメリカへ行く前に、水島恵一っていうのがいるんですが、彼が先生なんです。その水島グループで、ずっといて。で、アメリカ行くのも、水島恵一さんと、岡堂哲雄さんと、2人が審査員になって。結局3人受けて、2人だけアメリカ行って。そんなもの、水島さんが、ルート開いたとこ行ってるわけで。だから行く前、それから行って帰ってくるまでも、水島グループのスクールの中で動いてて、それから学会運動が始まったら、さすが、別れたんですよね。でも、基本的なことよく分かってる人だったので、今でも、尊敬してますね。それが行く前。
 それから、行って、向こうの…、アメリカの2年目ですけどもね、どこに書いたかな…。えっと、自分と、施設入所…、施設ってとこで、アメリカ行ったとこのことを書いてますけども。2年目の、ミズーリー州の、コミュニティ・メンタル・ヘルス・センターってとこへ、行った時には本当に、やっぱりラッキーだったというか。まあアメリカ…、もうずっと昔からそういう、2ヶ月、早ければ1ヶ月で退院して、とにかく、とどめておかない、と。後ろに、でかい、こう、ステイト・ホスピタル(州立病院)があるわけで、そこへは送らないようにして、とにかく居住地に帰しちゃう、と。そういう、ケアを中心にするCommunity Mental Health Centerに1年間いたのね。ええ。で、インターンって言うんだけど、単なる訓練じゃなくて、本当に、現場で一緒に組む。うん。そういう仕事を任されるわけで。で、2年で、英語もできるし、短期療育センターですよね。そこで訓練受けて。そのね、仕事をやっていてですね、1週間、ポンとね、全員仕事を休んで、集まって、全体で、4、50人いる、オールスタッフですね。心理、医者、ワーカー、ナースが、わーっと色んなことやって。ある時は、グループに分かれて。それで、テーマが与えられて、各グループで分かれて討論するみたいなね。今、よくありますけど。そういうようなこともやったしね。
 [01:20:23]とにかく、色んなかたちで、それが、アメリカ、そうなんですが、5、6人のスタッフ・メンバーがドーンとチームで入ってきてね、だーっと1週間、日夜をかけて、スタッフメンバーを訓練して(笑)。それが一つの、事業団の仕事なんですよね。そういうのがドーンと来て、やってって。それなんかねえ、日本で、何か、週1回集まるとか、月2回集まるみたいなのじゃなくって、やる規模が…。お金も払って呼ぶ。そういうの、今でもやってるんですね。「普通の工場、会社に雇われて、行ってる」って、この間、電車の中であった人が言ってましたけど。もう、規模が違う。それくらい「心理をやるってことは大事なことだ」っていう認識があるんですよね。日本では本当に、心理に対しては尊重しない。「それは、医者が抑えてるからだ」ってよく言いますけどね、それだけじゃなくて、「そんな、物のかたちにもなってないことのために、お金を出すのか」という、それなんですよね。そういう具合に、私はアメリカで訓練を1週間受けましてね。そういうものを。
 で、帰ってきたら、今度、水島スクールに戻って。高円寺ってとこでね、センターがあって。ずーっともう、それぞれ、ケースを出して、みんなで徹底して叩いて。それ、6、7人の、だいたい同じ世代の人間で、ダーッてやって。その経験もやっぱり今でも残ってます。
 ええ。だからそうなると…あの…、今の臨床心理学会はどうなんだ、と。それから、今の心理臨床学会って、何かあんまりやってないんじゃないかと思いますよ。資格作りでね。で、学会の何ていうか、研究発表っていうのはある。だけど本当に、我々みたいにグーッとコンデンスしたグループで、STやってるっていうのはね、ないと思うんだよね。だから、さっき言った話に戻るけど、…、滝野さんが、我々の学会でね、本腰を入れてやるってのはね、もう大賛成で。きっと、向こうにいる人間。それからね、このあいだ終わったんだけど、学校の教職員、保健師、看護師、そんなのが集まってきてね。まさにその、心理だけじゃなくて、それを…、STってのは誰にとっても必要。だから、人間関係の仕事してる人が、本当に、しかも、わーっとね、あらゆるところから集まってきてんのね。これが、いいなと思ってるんですが。
 さっきの集会じゃないけど、どっから始まりましたっけ?(笑) なぜ戻ってきたか? そうだっけな。えっと…、あ、そうですね。やっぱり、さっき言った資格の問題と、それから、発達障害の問題では自分一人では取り組めないというふうにして。それでさっきの、滝野くんってのがね、「今、変な分派がいて、わーっと撹乱して、潰れそうだ」って言うから、「それは放っとけない」って思って行ったら、何と滝野も一味に加わって(笑)。あいつは何だか、分かんなくてね。「向こう側じゃないか」っていうような動きをしていて。で、僕はもう、「これは潰してはならない」と思って、二人、男と女がいましたけど、徹底して追及してね。最後に、裁判で、追い出しましたけどね。うん。それがあって、滝野が「来てくれ」といって、行ったら、向こう側についてるという変なやつでね。分かんなくって、怒鳴りましたよ。「お前、何してるんだ?」って言ってね。うん。で、結局は、まあ二人を追い出して、今、滝野が、何か正常化して、今、副委員長やって、STをやってる。で、とにかく、どんどん今膨らんできてますね。やるたびに人が増えて。
 いや、そういうもんだと思うんですよ。色んな業務の人がやっぱり求めてるのは、本当のSTなんでね。私も今、強制不妊手術の問題やってて、弁護士さんがいっぱい来てるけど、弁護士さんに聞いたんですよ。「司法研修って、STやってる?」って言ったら、「やっていない」と。STのことは説明するけど、その人自身ができないからね、やったことがないから(笑)。全然、説明だけで終わっちゃうんだって。「僕ら、やってますよ。」って、ちょっとそのうち、誘おうと思うんですが。
 [01:25:08] やっぱり、弁護士さんなんか、本当に人間関係なんだよね。だから、法律の知識で、「そういうケースの場合はこうだ」と判例のことだけではね、全然、家族関係とかさ、説明つかないじゃないですか。だからもっとあそこ、火つけたら、きっとね、心ある人はね、「自分も入りたい」と。で、医者がそうですよね。一番頑迷固陋にね、「我々はそんなことは。あんなもの、心理のやることだ」と言って、見向きもしない。ところが、医者が一番やりにくいのがSTで、自分を裸にしなきゃいけない。「一番最後が医者だ」と思ってます、はっきり言ってね。
 うん。まあ、そういうことで、えー、また話が飛びましたけど。心理は、水島恵一さんのおかげで、やっぱりいいもの持ってるし、滝野が今やってるっていう、きちんと正しく評価して。私が社会的な、課題について、やる。彼がそっちのほう、やる。二つの両輪で、やっぱり社会の問題と、個別の問題。それがね、茨城の集会…、大会の時にね、やっぱり、「内なる差別」と「社会的な差別」って二つ並べてね。あれは、あそこの高島さんって人が書いたに違いないんだけど。「いや、その通りだ」って、私が本当、全面評価するようなタイトルで、この前、やったわけね。ということで(笑)。どうですか? 
 ( ちょっと、これ、食べますからね。ごめんなさい。)
 いや、こんなに私のしゃべることをストップかけないで聞いてくれるのは、ここだけですよ(笑)。
 えっと、学会へ戻ってくるところまで、一応、来ましたなあ。

堀 ええ。来ました。はい。

山本 うん。じゃ、一晩、ちょっと時間の余裕いただいて考えて、「あ、落っこってた」とこがあれば、明日また足しますから。
 だから、調査の問題が終わって、まあ一応、保健所の心理の問題…、まあまあね。だからちょっと、お帰りになったら私のさっきの、医療心理学、さーっとご覧になって…、結構、色々書いてるから、もし何か引っかかるとこがあったら、また、ね、明日、足しますから。あと「複合課題」って、まあ、それはまあ、どうでもいいって感じですけどね、ここでは。

■ 「自分と入所施設」


 あとは「自分と入所施設」。これは、書いてある通りで。本当にそのまま、また、この逐語記録に入れていただきたいぐらい、私は、自分と…、自分と、っていうふうに、本当個別の体験が基なんで。家族で施設に住んでましたからね。それから、アメリカにいた頃、全部とにかく、泊まるとこは、そこの子どもたちと同じ寮にいて。夜中も声が聞こえるような。それから、アメリカの州立病院も見てきたし。うん。それから2年目は…、うん、さすが、地域精神保健と。ええ。それは、入所施設に対峙にするものっていう意味で意味があったし。で、帰ってきた途端にまた、いっしょになったら、入所施設に、家族で20年ぐらい住んでたしね。この体験大きいですよ、はっきり言ってね。
 で、一つ、そこに書いてある…、真夜中もね、我々の寮に…、部屋に入ってくる男がいてね。で、真夜中に、台所、行ってね、コーヒーカップ…、カップにね、だーっと1センチぐらいの、コーヒーの粉を入れて、で、魔法瓶でジャーっと、お湯入れてね、で、ガーッと飲んで行っちゃうんですよ。それを毎晩やったらね、血圧に響く。で、連れ合いが夜泊まりの仕事してる時、来たら、「絶対、止めてくれ」って。で入ってきたわけ。だから止めたけど、体格が僕の2倍ぐらいあったりとかで(笑)、ガーっとやったら、動かせなくてね(笑)。結局、飲んで、また行っちゃってね。ええ。そういうような、こちらの職員のいる…、建物に、入ってくる。うん。[01:29:58] それから、冬なんか…、夏と冬には親が引き取りにくる。それが、来ない家族がいるんですよね。それは可哀想だからって、うちの連れ合いが、二人、連れてきて。冬、やっぱり布団を、二人分、敷いて。で、一人ずつ担当して、一緒に寝る。そうやって、一緒に寝泊まりした経験もあるね。うん。
 それから、日常的によく…、面白いのはね、玄関から入ってくるわけ。部屋をずーっと通るわけ(笑)。それから部屋を外れたとこにね、ベランダあった、それからドンっと飛び上がって、行っちゃうのね(笑)。そういう、交通路になっててね。「ああー!」って思ったら、行っちゃうとかね(笑)。うん。
 そういう…、それからうちの子どもたちがね、やっぱり慣れちゃって。そうすると一人、あれですよ、家の玄関、入ってきてね、僕の靴をタッと取るわけ。そしたら、「あ、いっちゃん、何するの?」って言ったらね、本当に、4歳か5歳の娘がね、「お父さん!」っつうんだよね。「何!?」って言ったら、それが、「・・ちゃんは、匂いかいで置くだけなんだからね!」って言って(笑)。それで、本当に匂いかいで置いて行っちゃってね。「あ、娘の方がよっぽど正しかった」っていう。そういう娘から教えられることとかね。
 まあ、すごく本当に…、家は全部、開けっぴろげ(笑)。そういうとこにいたらね、随分、色々と経験になりましたよ、はっきりいって。それが自分の臨床施設。うん。
 そういうことでやっぱり…、それでも、結局、「何で、こんな所に置いとくんだろう?」と。っていうのは、そういう、だいたい開かれた…、職員の努力も含めて、本当に鍵かけない。1ヶ所だけ、治療棟という名前の、鍵かけた寮があってね。それは、どうにもならない…、だいたい10人ぐらい入ってたかな、そこから出さないんだよ。それから、治療棟の中にさらに個室があって、そこに入れちゃって、出られなくなる。で、椅子に座ると、ガンとこう、テーブルを置くと、もう絶対に動けない。それぐらいしないと身が持たないっていう、くらいにやっぱり、色々、過激な行動をとる。そういうの見てきたらね…、うん、いくらよくやってると言っても、施設の限界だな、と思うし。うん。
 そういうことで、施設ということについて、ものすごい意識持ってるね。今でもどっかで必ず一定の人間が集められてるんだ、と。その上に一般社会があるんだ、と。もう書きましたけどね。それくらいに、施設の必要悪、誰も語れないのは、やっぱりそれがあって、普通の健常者社会がもってるっていうか。それをやっぱり感じてますからねえ。うん。そういう意味で問題意識が非常に強いです。
 だから強制不妊手術も大変だけど、ああやって閉じ込められてるのは、もっと重いなあっていう現実が実は、あってね。まあ、どっちが、っていう問題じゃないけどね。うん。

堀 奥さまが、障害者入所施設で働いて…、ずっと働いてたってということが書かれていて、同じ敷地内の中で住んでいたっていう…、

山本 そうそう。そうですね。ええ。敷地の中で。で、広ーい敷地の中でね、武蔵野の野原みたいなとこで。ドンと作って。入所施設の…、最初は誰もいない、何も建ってないところに建っていたのが、いつの間にか街の真ん中になってるね(笑)。今は、本当にみんな、民家があるんだけど。青々とした木が、中には残ってるという。ええ。変なとこです。
 まあ総じて、今度書いて、ここでも触れなきゃと思ったのは、「自分と入所施設」★07が1点。それから、私個人の流れとして、障害学研究会でお呼びいただいたように、差別を乗り越えるのはどうかとか、それから自分自身の、遍歴。それを、障害学研究会の時も、それからその「共生へ」(拙著・岩波書店・1999)の本書けって言われた時。初めは、本当、横田さんとか、それから堀利和さんとか。それから村田実くん。ほら、十傑、並んで。「これ」って持ってったんですよ。「みんなすごいよ」って。
★07 山本勝美「入所施設と自分」,『臨床心理学研究』55巻1号,2017年 [PDF]

■「共生へ」:障害者主体尊重と自分主体の間で――執筆までの紆余曲折

 [01:35:05] そしたら始めは、担当の人が「そうですね。じゃ、諮(はか)ってみましょう」と。その後電話で、「どうぞ、来てください」ってなった。「障害者のことを立派だ、立派だってね、書くんじゃなくて」って。「え、何ですか?」って言ったら、「あなたのこと書いてください」「何ですか?」って言ったら、「いや、あなたがその時、どう感じて、ずっとね、付き合ってきたか。あなたのが、あるでしょう」って言われて、「あるだろう」(笑) で、うーん…、いや、僕、もう初めて聞く話ですから、封してた問題へ。「うん、やってみましょう。」と、「分かんないけど、やってみましょう。」と引き受けた。で、書いて持ってくと、「これは、障害者がやったことを書いてるじゃないですか。」って(笑)。「あなたが、その時、どうだったのか?」って。「ああ、そうか」って。で、帰ってって、またね。で、また、同じことやって。何か、「つまんない文章だな」というふうに思って。それで、沖縄に行った時にね、沖縄のナイトクラブで、シンセサイザーをやってる、メガネかけて目が見えない、それでずーっと弾いてる人がいて。お店の人は、「いや、自閉症なんだ」と。で、驚いちゃってね。帰ってきて、「沖縄であったこと」ってね(笑)。ええ、障害者の、うん、とにかく生きざま、とかって書いたら、「また山本さん、障害者のこと書いてね、立派だ立派だって。あなたが、その時、何を感じたの?」って言われて。「これじゃ間違ってます」って。「ああ、そうか」って、ビーって(笑)。言われるたびに、そんなこと書いたけど、やっぱりそれ、だめだったなって。いや、何とかうんとか(?)、ずっとやって、それが最後のはしがきに書いてありますけども。「とにかく、あなたは自分のことを」って言われて。よくよく僕は生真面目で、自分を忘れようとしてたんだな、ってね。何か「そんな、いけないこと」みたいな。それをねえ、とにかく蓋を開けてね、「あなたのことを思った通り、だから、正直に書いてください」って。うーん、正直って言われて、僕はそれで、受けるんですがね。「じゃ書いてみます」ってやってくうちに、どんどん。で、何が変わったって、一番尊敬してるはずの村田くんがね、「ひどいやつだ」ってね(笑)。何がひどいって言ったら、とにかく、初めてあの…、あれ、東京久留米園から飛び出した時は、本当にこの、6畳間の一間で、暗ーい所ね。ええ。そこに、やっと部屋が借りられた、と。貸主が、昔、子どもが障害児だった。で、「よかったね」って言ってね。「いや、村田くん、そのうち今度ね、もっと綺麗なとこ…」。それから一軒家だよ。びっくりしちゃってね。一軒家を借りてて。すると、今度、マンションに移ってね。「いや、こいつ、またすごいなあ」って、「よくやるなあ」と思って感心してたら、ええ、「今度、車を買う」つってね。さすが、ちょっとね、「それを僕らがカンパを集めるっていうの、ちょっとひどいんじゃないか」と思って…、批判ができないわけね。そんなのがあって、「山本さん、あなたの、自分のこと」つったら、書き出したら、村田が「ひどいやつ」なのね(笑)。みんなからお金集めて(笑)、車を買おうとするってね。そしたら、車は買ったんだけど、何か、古いやつで、もう動かなくなっちゃった、って。すると、何とはなしに(?)、「ザマァ見ろ」って、友だちも、「ザマァ見ろ」になってさ。「ちょっとひどいなあ。俺たちを使うなんて」ってね。そういうのもあったわけね。それが、「あなたの好きな、本当の正直」って、あ、じゃ、書くことにして(?)、「村田はひどいやつだ」って、いっぱい書いたの。でも、本当に、敵として、ひでえぞ、って…、いや、いい面もあったって、最後はね(笑)。いいやつだったってね、それで死んじゃったわけでしょ。で、ひどいことやられたけど、まあ使う…、使われる方がまた悪いんだよと思って、最後には、いいやつだったと。それで『共生へ』の2章使ったわけでね(笑)。これが、主人公になっちゃったっていうかね(笑)。それが、あったんですね。−−−−さんってね、ずっと新書担当で。一番最初は『世界』をやってて、それからは単行本。それから、今、新書。おそらく、新書っていうのは、岩波で一番大事なところみたいですね。で、今やってるんですよ。で、彼女は、その当時ね、「山本さんの書いたのを、私は新書へ来た途端、単行本の編集委員会に渡したらね、何か、そこの人たちって拗ねてるというか、何ていうか、ちょっと冷めてるというか、『あ、障害者本ね』って言うんだ」って。で、「山本さん、障害者本ってね、軽蔑した言い方があるんでね、うちの会社はだめなんですよ」って言ってね。で、そこの編集委員が、「だけど、『この人が自分が付き合ってきて書くんならいいだろう』っていうので出たよ」って言うわけね。「それでいいじゃないの」ってね。[01:40:07] 
 まあ、さすがに嫌な感じはしないから、「よし書いてみます」っつて、書き出したらダーっと乗ってね、それで半年で書いちゃったですよ。すると、みんな「何年かかったの?」「いや半年で」「どうやったの?」ったから、毎日、ずーっと打ってるうちね…、書いてるうちに、で息子に…、また息子も、またバーッと打って。で、半年経ったら全部、「こんな厚いものを半年ですか?」って言ってさ。「いや、調べたわけではなし、ただ思ってることを書いただけですから、非常に書きやすくて、のびのびしてました」とか言ってね(笑)。
 あとは、入所施設も少し書いたなあ。それから、障害学研究会の時に話したことと、それから、私からすると、「差別は乗り越えられるか」っていうのが。うん。

堀 先ほど、『共生へ』っていう本の中で、友だち関係をね、目指していくっていうか。

山本 ええ、ええ。うん。はい。

堀 それ、言ったのは、介助者と障害者っていう点をね、関係性を超えたところで、関係性を築きたいっていうことだと思う、僕はそういうふうに理解したんですけども、

山本 はいはいはい。ええ、ええ。それはどうなのか、と。

堀 だいたいそれは、さっきの言葉で言うと、日常的な関わりっていうところ…、専門的な関わりとは…、カテゴライズされた関わりではなくてね、トータルに関わっていくっていう、

山本 うん。人間どうしの、っていう。

堀 うん。そういう大事さなのかなっていうふうに思ったんですよね。

山本 ええ。そう思いますよ。

堀 ね。

山本 だから…、はい。それで?

堀 で、臨床心理学…、さっきの、現場に行ったら現場に行ったで、そんな、「日常的な関わりがどうの」とかね、「専門性が関係なく」とかね、「そういうことじゃないでしょう」ってね、小沢さんの話に対して批判した、って話になったですけれども、

山本 ああ。なるほど。人間どうし、普通の人間どうしだと。なるほどね(笑)。

堀 そこがどういう繋がりになってんのかな、っていうかね。

山本 あ、なるほど。うん。小沢さんを引き出すと、また、小沢さんとは違って、っていうのは出てくるけど、私が友だちといる時は、やっぱりスタンスは違うんですよね、役割がね。うん。だけど、やっぱり、心っつうの? うん。それは、スタンスの、そういう関係性、要するに障害関係…、じゃない、介護関係の中であっても、やるだけやって、あと「さよなら」って別れて帰る場合の人間関係と、「本当にいいやつだ」と、ええ、やっぱり心から、琴線に触れるような、言葉のやりとりとか、やっぱりハートとか、ありますよね。これはもう、全然違うんですよね。[01:50:18] 例えば、一番、合ってたのは、(?)、荒木義昭ってのがいて。それは、無免許運転で捕まっちゃったやつで。うん。彼なんかね、年齢的にも合うし、あれは、健常者と思うくらい、同じ感性持ってて。長い間、家に住んでたからじゃないですか。村田くんって、十何歳から、ずーっともう完全に家族離れて、施設にいたから、やっぱり固いんですよね。荒木くんなんか、もう、やっぱり人の言う心情がよく分かってね。前に(まあ?)一緒に考えた時に相談したり…、結婚する話とかね。だから行くのは、やっぱり…、何でもない日にはやっぱり行かないんで、介護に行くんだけど。介護に行く時、やっぱり、相手の今悩んでることとか、一個人で話ができる? ええ。その辺を指して、「友だち」っていうふうに言ってたと思うんですよね。うん。だから、スタンスっていう面と、それから、やっぱり心の通いと。その二つの面が、人間ってあるんじゃないでしょうかね。ええ。そういうことになるね(?)。 だからそれを…、えー、言ったら(?)、「小沢さんが言ってたんじゃないか?」って言われると、ちょっと、見方を変えて考えなおさなきゃいけない(笑)。「小沢さん、それを言いたかったんじゃないか?」って言われると、「ああ、そういうこと言おうとして…。じゃ、もう1回読んでみよう」って(笑)。うん、そう思いますね、正直ね。それを無下に…、うん、こてんぱんに言っちゃったことが、よくなかったかな。 まああれですね、逐語記録するにあたっては、障害学研究会の内容と、それから僕が書いた『差別はのりこえられるか』っていうことと。まあ、そのまま載せるならそれでもいいですけどね。これじゃあ読む人には分かりにくいですよね。

山本 えっとだから、『差別はのりこえられるか』ということとか、障害学研究会とか、だから、私もコピーとったけどね、あれ、研究会の書いた本。

堀 はい。

山本 質問もあるしね。いや、ずっと久しぶりに読んだけどね、質疑応答なんかもね、何かよく、こう、ちゃんと、いい、かみ合う話をして、答えもね、サッと答えてるわけですよね。で、結構、切れ味もいいしね。あの日の雰囲気も、よかったのかしれません。瀬山さんがね、取りなしてくれて、やっぱり、全体としていいから、サッとひらめき…、それで、いっぱいしゃべったあとに質問がくるから、サッサッとね。

■「子育て相談」★08――震災被害者との出会い・生涯発達心理学・etc.
★08 「子育て相談」,『福祉労働』131号,2011年

 これ、ひとつ、子育て相談、何でもないようなのを、こう、残して…、結構、省いてるんですよ。これ、とったのはね…、えー、お持ちですか? これ、置いてきちゃった? あなたも、重いのをよく持ってきましたね。 …ちょっと待ってね。あ、じゃ、いいですよ、無理しなくても。私の、これを使ってください。
 で、この、サブタイトルをちょっと一つずつ読んでってください。例えば、これですよね? あ、ありました? じゃ、それでいいです。よいしょ。うん、じゃあ、私のほうから、じゃ、いきましょうね。 「被災した親子を巡って」と。これも、奥多摩町という東京の一番奥の町の、あれですよ、えーっと、心理相談、やってた時ですが。やっぱり、福島から富岡町ったか…、そこから、やっぱり、一番安全な奥多摩町に何家族か来てるんですよね。10家族ぐらいかな。はい。それで、そこの子どもたちの…、
 [01:59:09] えっと、「被災した親子と巡り会えて」と。ここで書いてるのは、自分も、福井大震災の…。それはえーと、大学で論文書きましたよね。ええ。その問題があって、まあ非常に共感できるっていうことだったかなあ…。うん。 で、「心のケアを…」、あ、そうだ。その辺が、まあ共感できるっていうことがあって。うん。で、「子育て支援の今」ですね。ここを書きたいと思ってね。子育て相談って…、うーん、ちょっと待ってくださいね。 …ええ。この、「子育て支援の今」っていうのは、ちょっと何を書いたっけな、これ、ちょっと、今、思い出されない。アウトリーチでどうの、って。あ、心理相談員ってのは、やっぱり、あんまり専門性って振り回さない、慎重でなければならないってこと、書いたのかな。こんなこと、僕、書いてたかな…。まあ、いいです、それは。ね。 ええ。それから、「特別支援教育と発達障害」。うん、まあ、この辺から、今の、選別の問題があって。ええ。何か、特別支援教育も大事、発達障害も大事っていうような中で、ええ、これには、えーと、ふるい分けの問題があって、「こういう特別なケアの仕方がいいとは思わない」ってことが、ここに書いてあるんですね。 それから、えーっと、新たなテーマ、子育て機能(?)、これが、さっき言った、あれですよね、複合かぞ…、複合…、複合…、何だっけ? えーっと、…課題。複合課題ね。…の問題が、最近は、やっぱり、高齢社会になる中で、そういう、家族が子どもを育てるということと、やっぱり、親の介護しなきゃならない、あるいは、義理の親の介護しなきゃならないという問題があって、どっちかだけを、全然関われないとか言って、子育てだけに相談にのってる場合と、それから介護の問題だけの相談にのってるという、専門家が結局トータルじゃなくて、自分の専門性だけで関わるとしたら、結局ちっとも相手のためになってないっていうようなことが、今、頻繁に起こってくる問題になってきた、と。そういう意味じゃ、広い視野と、関わるスキルの広さがないと、今日(こんにち)の超高齢社会では、役に立たない。専門家が、一番、こう、独善的な関わり方をして、最後はちっとも感謝されないっていう時代がきた、ということが書いてあるわけですね。 それから一番最後、「生涯発達という視点から親子関係を見直す」って言うのは、やっぱり障害児の問題はですね、特に発達障害なんかが盛んになる理由の一つでもあるんですが、やっぱり子どもをどんなふうに見ていくか、どういうふうにケアするか、っていう問題としてあるんだけど。もう一つ、生涯発達学という、生涯発達心理学というね、ジャンルが近年…、発達障害の問題に対しては、生涯発達学っていう視点が非常に盛んになって、まだまだ実は残念ながらマイナーなんだけど。心理…えー、障害の問題を考えようっていう人間がね、ちょっと、今まで流の発達障害じゃなくて、生涯発達、一生涯の発達という視野でね、もっと豊かな、人間的な、人間の一生涯の成長っていうことに関わる、やっぱりそういう専門家として、やっぱり生涯発達という視野が必要だろうと。で、高齢者になったから、まあ、衰えた、じゃなくて、高齢者だから持っている人生観とか、人に対するね、やっぱり関わり合いとか、それから大人が、そういう高齢者が持っているスキルに対して、小さいころからやっぱりそれを聞いていく、ね。うん。それから高齢者になった人間がまた、子どもにそれを伝えていくとか。まあ生涯発達っていうのは、色んな、関わり合いの往復があるんでね。そういう、非常に、そういう時限的な、年齢時限的な豊かさと、それから、そこにおける、高齢者だから衰えたじゃなく、高齢者なるが故に持っている、やっぱり価値観とか人生観、そういうことが、今まさに逆に問われていると。そういう、生涯発達学、生涯発達心理学、っていうんで、波多野誼余夫さん、…は、お会いになったことありますか?

堀 波多野?[02:05:40]

山本 誼余夫。波多野誼余夫。波多野勤子の子ども。あ、ないですか。波多野勤子の夫は知ってますか? 波多野、何だっけ? あ、あれは心理学者ですよね。ええ。いいです、いいです。やっぱりもう、いわゆる(?)、私は…、息子さんに「誼余夫」って難しい字を書いたのが、次男で、いましてね。あの『少年期』っていう映画があったのは、あったことは知ってますか? 『少年期』って名前の映画があったんです。それ、波多野勤子の書いた本を映画にしたんですよ。で、それは長男がテーマで、その次の、次男ってのがいてね。これがね、私はね、えーっと、それこそまた、水島恵一さんの…、明星大学だっけな? ええ。大正…、立正女子大学か。…で、ずっと、いた人でね。色んなとこで、彼と僕は知り合って。うん。で、そういうこともあったんで、発達心理…、『生涯発達の心理学』っていうのを高橋恵子さんという女の人と、共著で。それは、ご存知ですか? 

堀 いや、知らないです。

山本 あ、そうですか。岩波新書で出て…、いい本ですよ。で、もう、ずっと、古いんだけど、何回も読んでね、この『生涯発達の心理学』。生涯発達学っていう、社会学も、あるゆるものを含めた…、という広がりを持った学問であるんだ、って言われているけど、やっぱり、内容からいくと、岩波新書の発達…『生涯発達の心理学』っていう、これはね、失礼ですが、今からでもね、推薦しますのでね。何か、発達心理学に対するアンチテーゼとして、いい内容だなと。ええ。それを言いたかったんです。ここね。こう。で、それで、だいたい全部まとめて、「子育て相談」という名前で、終わっとります。うん。 ということで、何か色々、私の、震災に遭ったPTSDの問題から、それから今の生涯発達心理学から、うん、それから、特別支援教育、発達障害の問題点ってことで、ええ、まあ、全部、久しぶりだから、自分の関心のあるところを入れて、まあ、ちょっと短めに書いた、それだけですけどね。


UP:20190301 REV:20190303, 11, 172019/03/172019/03/17
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