本報告の目的は、書籍の手話翻訳版作成の経験をもとに、手話で本を読む(手話の本を読む)権利について検討することである。報告者の3人は出版物へのアクセシビリティを確保する試みとして、2018年3月に出版した編著書(注1)の手話翻訳版を作成し、書籍購入者のうち手話翻訳版を希望する読者に対して公開してきた。手話翻訳版を作成する過程で、「なぜ手話翻訳が必要なのか」ということを説明する必要が生じたが(注2)、その際に難しさを感じることも多かった。そこで本報告では「説明の難しさ」を手がかりに、書籍の手話翻訳の意義と「手話で本を読む権利」について考える。
手話翻訳の必要性を説明する際に難しさが生じるのは、「情報へのアクセスの保障」という文脈においても、また「本を読む権利」という文脈においても、書籍の手話翻訳は具体的に検討されてこなかったからである。これまで、ろう者や聴覚障害者に対する情報保障は、「音声・聴覚情報の代替という代替的伝達手段の保障の問題」として理解されており(森 2010: p. 286)、具体的な方法としては手話通訳や文字通訳(要約筆記)が想定されてきた。また、本を読む権利をめぐっては、マラケシュ条約の批准が注目を集めているが、同条約は「印刷物の判読」におけるディスアビリティに焦点があてられており、条約が想定する受益者の中にろう者(手話話者)は含まれていない(注3)。
その背景には、書記日本語は「聴覚障害者」にとってアクセス可能な情報であるという前提がある。実際に報告者は、手話翻訳版について説明をした際に、「聴覚障害者は目が見えるから文字が読めるのに、なぜ手話翻訳版が必要なのか」という「素朴な質問」を複数人から受けた。このような議論は、情報へのアクセシビリティを情報の「知覚可能性」という範囲に限定していると言える。
しかし使用言語に着目して考えれば、日本手話を使って生活しているろう者にとっては、日本の出版物に用いられている書記日本語は、手話とは異なる言語の文章であり、決して理解しやすい情報とは言えない。日本語の文章を読むよりも、日本手話での説明の方が分かりやすいというろう者の声を耳にすることは多く、報告者が手話翻訳版をつくるきっかけとなったのも、ろう者の知人に出版の計画を話したときに、「手話DVDがあれば、ろう者も読むと思うよ」と言われたことであった。このような、ろう者が読書において感じている「情報へのアクセスしにくさ」を理解するためには、単にアクセシビリティの問題としてだけではなく、言語権の問題として議論する必要がある。
そこで本報告では、「手話で本を読む権利」を@情報へのアクセスの保障とA言語権の保障の双方が重なるものとして理解することを提案する。そしてそのことは、「情報にアクセス可能であるとはどういうことか」という問いや、「本を読むことが社会に参加する上でどのような意味を持っているのか」という論点を再検討することにもなるだろう。
学術研究に基づく出版においては、研究成果の還元という観点からも「手話で本を読む権利」について検討する必要がある。研究者には研究成果を広く社会に伝えていく責任があるが、その手段として書籍を出版するという形をとることも多い。研究成果の情報を広くアクセス可能にするための方途の1つとして、手話翻訳を意義づけることも重要であろう。