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中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第6回]」を読んで

村上 潔MURAKAMI Kiyoshi) 2018/11/10

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last update: 20181216


◆中村佑子 2018/11/06 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第6回]」『すばる』40-12(2018-12): 192-209

今回の連載を読んですぐに頭に浮かんだ言葉が一つある。それは、「産まないがエゴなら、産むのだってエゴさ!」、だ。この言葉を発したのは、日本のウーマンリブ運動の代表的活動家、武田美由紀。彼女が運営していたコレクティブ〈東京こむうぬ〉のパンフレット「ひらけひらこう・ひらけごま!――ガキ持ち女がひらく扉はこれだ!」(1971年9月発行)にある一節が、それだ。
まずおもしろいと思ったのは、以下の点だ。「個人的なことは政治的なこと」というウーマンリブに代表される第2波フェミニズムのスローガンに対して、中村さんは違和感を表明した。そして「すべてをはじまりに戻して」みた結果、そもそも子どもを産むということも「親のエゴではないのか」という問いに到達する。しかし、そのスローガンを象徴する運動を担っていた武田が、まさにこの「エゴさ」発言を(今から47年前に)していたのだ。
武田はその信念にもとづいて、優生保護法改悪反対運動、ベビーカー締め出し反対運動、そして共同保育の実践を展開した。それらは「勝手に産む」という行為のもつ意味を最優先した方向性のもとに導き出される、過剰なまでに実直なプラグマティックな実践だった。★→[cf.]
中村さんは武田のように割り切って「つっぱしって」いるわけではない。むしろ逆に、つねに迷い・戸惑っている。そして、その迷い・戸惑いの世界のなかにずっと身を置いていたいとさえ思っている。もし当時の武田に知られたら怒鳴りつけられそうだが、そういう逆の立場にありながら、しかし両者は同じ地平に立ってもいる。
中村さんの言葉からも、武田の活動からも、明らかなことがある。それは、「個人的なことは政治的なこと(――だから社会には相応の責任をとってもらおう)」と、「個人的なことを社会化・政治化させないで(――私のことは「私」の枠の中にとどめておかせよ)」とは、両立するということ、どちらが欠けても成り立たない車の両輪の関係であるということ、間違ってもトレードオフの関係ではないということ、だ。本当に基本的なことだが、ここは大事な点だ。少しでもブレた姿勢を見せると、たちまち社会から片方の選択肢を(勝手に)消されてしまう。自らの選択の帰結だ、として。注意せねばならない。
そのうえで。中村さんのとる、政治化しえない/すべきでない私的領域を護持する、そこにとどまる、というスタンスは、大きく分類すれば第3波フェミニズムのそれにあたるだろう。つまり、第2波の理念と運動の「限界」を乗り越える思考の一つ、ということだ。ただ、中村さんは一括りにできない個々の「差異」に力点を置くのではなく、個々の(女/母の)抱えもつ領域の普遍性に力点を置く。そうした意味では第2波的でもある。ここは非常に面白い。それはつまり、とりもなおさず、第2波と第3波は断絶している――と一般には認識されているが――のではなく、連続していることを証明している。この第6回では中村さんが話を聞く相手としてイ・ランさんがフィーチャーされているが、彼女も同様のスタンス・特性をもった人だと思える。ストレートにクラシカルな(第2波的な)フェミニストぶりを見せると同時に、そうしたスタンスを自ら茶化してみせるようなそぶりもとる(これは彼女がアーティストであることも関係しているだろうが)。
「イ・ランさんが指摘していたように、妊娠出産することや母性を持つことが、いまの社会が「女性」に求める生き方であり、子どもを持たない人、持ちたくても持てない人、いろいろな事情を抱えている人を、暗に排除し、権力をふるってしまっているのではないかということを、私も本稿を書きながらたびたび感じている」(p.204)と中村さんは述べているが、まさにこうしたことも、遡れば日本のリブ運動の「内部で」議論になっていた点である。これについては、「彼女たち〔日本のリブ〕が「産む性」にこだわったのは母性賛美のためではなく、むしろ母性を女の「自然」として押しつけようとする社会の「母幻想」に対して真っ向から反撃を試みるためだった」(荻野 2014: 124)という評価が確立している。武田が「勝手に産む」ことを宣言し実践していたのも、これで説明できる。ただ、中村さんは、もう少し奥にある、宣言や実践として表すことのできない認識・感情の領域を問題にしたいのだろう、とも思う。そのセンシティブな領域――純粋な・侵犯されない「私」の領域――については、たしかに日本の「運動」のなかでは手つかずだったかもしれない(そもそも「運動」になりようがないから、という理由はすぐに思い浮かぶが、それはひとまず措き)。人によっては「そこまでいくとナイーブすぎる」と一蹴するかもしれない、微妙なところだ。そこの部分を、精神分析でもポストモダンでもなく言語化・概念化する、というのは困難なことだろう。私見では、第三世界フェミニズムやエコフェミニズムが、ツールとしてはいちばん近いように思う。ただ、その中身の議論をここでするには至らないので、機会を改めさせてほしい。
いずれにせよ、「勝手に産む」実践(=「エゴ」)の追求と、「産む」という選択肢の外側に置かれた人々にかかる抑圧性を問題化するということとは、アプリオリに対立する関係ではなく、相克そのものの意味に可能性を見出したうえで止揚の道を探る価値をもつ関係性であることはたしかで、その探求の過程こそがまさに現在思考することのアクチュアルな醍醐味なのだろうと思う。


■中村佑子さんからの応答
https://twitter.com/yukonakamura108/status/1071984856190439424


■言及
◇立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」(担当:村上潔)


◆20181001− 「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読んで【集約】」

■引用


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20181110 REV: 20181209, 16
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