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安積遊歩氏インタビュー

20181023 聞き手:田中恵美子 於:東京

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◇安積遊歩:http://www.arsvi.com/w/ay01.htm
◇聞き手:田中恵美子:http://www.arsvi.com/w/te03.htm
◇文字起こし:ココペリ121 【10下01】20181023 安積氏 64分

 ※これらのインタビューをもとに以下の本ができました。ありがとうございました。
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

田中:やっぱり、遊歩さん、普通学級行ってるっていうのがちょっと、なかなかないでしょ?

安積:小学4年まで。小学4年と、5、6、中1まで、養護学校で。中2からまた普通。中2、中3。

田中:やっぱりご両親にそういう、何て言うの、「普通学校に入れたい。」っていう強い思いがあった? 小学校入る時。

安積:私、私があったんじゃないかな。

田中:じゃ、頼んだ感じ?

安積:私が? 親に? 「行くのが当たりまえでしょ。」って、学校はね。そしたら両親も…、母親はすっごい貧しかったから、高等尋常小学校を出て。60人の学級だったんだって。その中で、2人だけ、進学できなかったのね。中学、旧制中学校? とか女学校か。うん。でもその、母はとにかく貧しすぎて小作農だからっていうんで、働きに出されちゃったの、双子だったのに。下の妹ちょっと体弱いから、自分の家で手伝ってたりするかな。6、7人兄弟がいたから、その中で、お姉ちゃんと自分だけが…、児童労働だよね、軍需工場の会計。賢かったから会計っつうか、事務方だったらしいんだけど。でも、ものすごい「学校に行きたい!」って思いがあったんじゃない?

田中:あ、自分がね。

安積:だからもう、私が障害があろうと、なかろうと、というか。もう、幼稚園には行かなかったのね。「障害があって危ないから」っつうことで。それが幼稚園に行かなかったことも、私にとってはある種こう…、同じ年の近所友だちが来て、幼稚園バッグ下げてさ、やっぱり。見上げてるのを覚えてんのね。そいで、その、友だちが、近所の、「私たちこれから幼稚園だもんね。」みたいな。私たちは…、私はすごいこう、屈辱と、絶対こう…、ねえ、あの、「負けたくない。」じゃないけど、何かそういう気持ち? 気分ね、「何で」、こう、うん、「私は幼稚園に行けないんだ?」ぐらいの気持ちを。でも、寝たきりだからさ、その、骨折して胸までギプス入れられて。だから、ねえ。
 でも学校はもう「絶対行くもんだ。」っていうふうに親もなってたし。だから私も「絶対行く」って思ってたから。ところがまあ、あとで聞いたら、やっぱ「校長先生がいい人だ。」みたいなことをね。小学校の4年ぐらいの…、ぜんぜん分かんない、小学校入ってからだ。「いいも悪いも。権利だろう。」みたいなさ、それ、そういう意識になるのは。やっぱ、うーん…。気持ちとしては持ってても、言葉化するのはさ。「権利だろう。」みたいなね。あの、いい、教員が…、じゃない、「校長がいい人でも、いい人じゃなくても。」っていう、言語化できるのは、どうなんだろう、中学校ですごい差別を受けて。やっぱり障害者運動に会ってからなのかな。でも気分としてはあったよね。「何でそんなひどい」ね、「言い方をされなきゃいけない?」っていうのはあった。それは、あの、幼い日々で、もうすでにあった。排除されることに対する、何か「嫌だ」っていう意識がね、やっぱりこう、あるっていうの、もう、親のおかげ。とにかくどこにいても親のおかげっていうか、まあ、親がとにかくかわいがってくれたからね。
 人間の本質はね、助け合うってことでしょ? いつも言ってたの、「お互い様だからな」。「お互い様なんだぞ。」とか。私が一方的に助けてもらって、あの、「ほんとに申し訳ない。迷惑だ」っていうふうな意識があの人にはあんまりなかったのは、すごい良かったよね。あの、母親に。貧しかったにも関わらず。だからこう、「お互い様」の思想があの人にはあったから。「共に生きる」。うん、「お互い様」っていうことで。だから、近所の…、何て言うの、市営住宅だったから。生垣なんてあるかないかのような生垣だから。
 隣の家が、あれは、私は今、戦争責任とかものすごいそういうことも考えてるから思うけど。あの、隣の家の家族が精神障害でさ、6人家族のうち4人が精神病院に通ってるような家だったのね。たぶん、戦争のトラウマだと思う。だからね、夏のある日にどったんばったん、どったんばったん、すっごいケンカになるのを見たこと、あるわけね。私、覚えてんだ。小学校の前くらいの年かな。妹と2人で、そのどったんばったんをこうやってさ、縁側で出窓からこうやって、見てるわけね。もう襖とか障子が倒れてさ、どったんばったんやってんだけど。だから近所も丸聞こえだから、バンバン、みんな扉閉めだすわけ。もう、時代は高度経済成長だからさ、「無関心であるべし。」みたいなさ、「人に関わらない」みたいな、ちょびーっと始まってる時代だから。やっぱりこうみんな、戸が…、窓が閉まるんだけど。うちのお母ちゃんね、すごかったね、あの人すごい。もうとにかく無関心とかない人だから。何か、きゅうりの漬物なんて持ってって、「食べらんしょ。」なんて。もうどったんばったんやってるのに、「食べらんしょ」かい、みたいなさ(笑)。それを妹と私は、ずっと見てんだけど、「そっか、『食べらんしょ』なんだな。」、みたいな。とにかく彼女は何とか止めようとするわけだ、彼女なりにね。[00:06:17]

田中:すごいですね。

安積:すごいよね。その勇気と愛がね。今でもね、泣けるわ、ほんと。でも、何度もそういうことがあるわけ。
 あとは例えば、乞食。乞食が、ばりっとした格好で来る乞食も、よく見ると、いっぱい穴開いってっけど、背広なんか着ちゃって、物乞いに来る。もちろん、あの、むしろ巻いた人も物乞いに来る。何か手塚治の漫画とかにさ、昔、何か、出てくるような、ほんとの乞食さんらしい乞食さんと、何かばりっとした乞食さんとかいるんだけど、あの人、態度変わんないんだよ。だから私は、乞食っていう人が、軽蔑されて、社会から疎まれる人だ、みたいなね、そういう感じが分かるのは、けっこう後になってから。
 まあほんと、母親が接待する時は、こうやって自分のポッケからチリ紙出して伸ばして、でこう、5円、10円を丸めて、そのチリ紙に。そしてこう、あげるわけ。そうすると、「ありがとうございます。」とか言う…、もちろんあっちも言うから、「いやほんとにね、大変だね。」とか「がんばりなね。」とかお辞儀してさ。「よく来たなぃ。」みたいなさ。でも近所の人の中には冷たく追い返してる人もいる…、いたんだよね、だんだん気が付くと。でも追い返されないで、うちに来ると、5円、10円を母はあげる。ほんと貧しいからさ。私ね、少し追い返す人もいるみたいなことがだんだん分かってきたころに、「何でお母ちゃんは追い返さないの。うちだって貧乏なのに。」ぐらいなことを言う時あるわけ。生意気に母に抗議する。そうすると、「お互い様だべ。」って言うのね。「誰も、ね、あの、ああいうふうに一軒一軒、回りたくて回ってるわけじゃねえ。」なんて言って。「なるほどなあ。」と思うわけだよね。
 貧しさの中で、うちのお母ちゃんの家族はほんとに助け合って生きのびた。だから貧しさっていうのは悪くないっちゅうさ。ある意味でよ。物質的な貧しさが心の貧しさに直結しないっていう。反対だね。物質的なある程度の貧しさがあった方が、助け合って心の豊かさが育つんじゃないかと。私、反比例すると思うんだよね。物質的な…、物質的な貧しさが心の豊かさをある程度育てるんだって思う。助け合う関係性があれば。

田中:ふーん、でもじゃあ、お母さんがやっぱりすごい人だったんだ。[00:10:00]

安積:でも…。そうそう。でも、お父ちゃんもほんっとにアル中で、最悪だなと思う面もいっぱいあんだけど。やっぱりその、戦争の中で、めっちゃこう、ひどいことをしたんだと思うのね。だけど、あの…、私こないだ旧満州に行って来たんだよ。

田中:うんうん。フェイスブックに書いてありました。

安積:いろんなところを見れば見るほど、お父ちゃんが何ていうか、天皇制教育で傷つき、中国の人を傷つけまくったのだろうと思ったけど。まあでも、そのあと4年半、シベリアで捕虜になり、若手だったからって、共産党の…、共産主義の教育をちょろっと、マルクスとかエンゲルスとかさ、もう分かんないなりにされたらしい。だから天皇制とか、その、日本の軍隊のすさまじさっていうの、隷属意識とか服従心。そういうのにものすごい反発を持ってたんだよね。だから、それでもとにかく、女性差別は分かってないから、お母ちゃんに対してめっちゃ偉そうでさ。それはほんとに腹立ったけど。少なくともお母ちゃんがすごく私を大事にしたから、私に対しては絶対手を上げなかったわけ。だって、当たり前だよね、骨折しやすいんだからさ。

田中:そりゃそうよね。

安積:ところがそうじゃないっちゅうことが、またこれピアカウンセリングをしたあとで見えてきた。自分のさ、骨折しやすい子を叩きまくったり、もう、何て言うの、ほんと色んな家庭がある。親に叩かれて骨折した人もいるし。私の親は、親子関係の中でみれば、十分、人間性を保障してくれた親だったと思うわ。父親はその、批判精神、メディアリテラシーっていうかさ。テレビに昭和天皇と佐藤栄作…、あの頃ずっと佐藤栄作だったから、総理大臣が。あの二人が出るとさ、もう、「こいつらの言うことは絶対信用するな。」とかね、「こいつらは大嘘つきなんだ。」っていうメディア…、メディアリテラシーを教えてくれた。「こいつらがもう権力の座にいる時には、いくらでも、何でも好きなことが、できると思い込んでっから、こいつらの言うことだけは聞くな。」っていうふうに、育ったわけですよ(笑)。

田中:うーん。なるほど。

安積:そのメッセージを言いながら、自分も偉そうなことをいう。ある時、父親が偉そうに、「誰が食わせてやってんだ。もっと勉強…、ちゃんと宿題しろ!」とか帰ってきてわめきちらした時に、「誰が食わせてやってんだって? 親が子ども食わせるの当たり前だ。日本国憲法に書いてあるだろ。」と…。

田中:(笑) 言ったの?

安積:そうそう。そいで「もっとうまいの食わせろ。」とか言ってさ。それに対して今度は、障害者差別もむき出しに、言葉でだよ。何だっけ、「障害者の子どもなんてドブに捨てる親もいるんだ。」とか言ってきた。「お前を育ててやってるだけでいい父親なんだぞ」みたいなこと言ってっからさ、そこにも負けずに言い返して、「そんな親と自分を比べて、恥ずかしくないのか! 恥を知れ、恥を!」って言ったんだって。私が(笑)。小学校4年か中学1年で。

田中:へえー。さすが遊歩さんって感じやけど(笑)。

安積:そう。そしたらうちの妹は、言い返す言葉をぜんぜん育てられなかったから…、やっぱ暴力でやられるっていうのは、言葉を奪われるんだねえ。兄も、妹もやっぱ何回か叩かれてたりしてたからね。兄や妹を見てて思うのは、言葉を持っていても言い返せなくさせられるってこと。言い返したら、さらにもっと叩かれるかもしれないわけだから。ところが私は叩かれないって前提があったから、言いたい放題だった。うちの妹なんか、もう、柱の陰で泣いてた。「お姉ちゃんかわいそう。ドブに捨てられるんじゃないかしら。」とか思ってたらしいの。

田中:(笑)

安積:自分は叩かれるから言えなくなってるってことが分かんないからさ。ね。[00:15:11]

田中:お兄さんいくつ上だったんですか?

安積:お兄ちゃんが悲劇なの。3つ上なんだけど。あの、要するに、もう、東北とか、日本全体がソーバーの思想がないから、アルコール依存をそのまんま引き受けて。結局、3代にわたるアルコール依存。じいちゃんがさ、3代続いた魚屋をアルコールでつぶして。で、満州に逃げたの。

田中:あ、そういうことか。

安積:母の兄弟と父の兄弟はまるっで違うの。資本主義にのっとられて、「働かざる者食うべからず」の思想にのっとった父親の兄弟。でも、父親がそうではなく、やっぱりあの、戦争という悲惨な体験の中でね、私が「生活保護とって自立する」って言った時に、その、あの兄弟だったらダメだったろうけど。お父ちゃんは何つったかって言うと、「まあ、俺が税金納めてんだから、それが戻ってくるって思えばいいだけだべ。俺が、お前のその、全部の生活費を出してやるわけには」、…お兄ちゃんが大学に行ってたから、うん。「出してはやれねえから、まあいいべ。」みたいなね。「生活保護取れや。」みたいな。したら私も目が点になってびっくりして。みんなが生活保護取る時に、親とか家族との葛藤で大変だって言われ…、言ってたのに。うちのお父ちゃんのその進歩的な思想、「税金が返ってくるだけだ。」みたいな。

田中:(笑)

安積:どういう形であれ。ほんと、その通りでしょ?[00:20:13]

田中:うん。やっぱりじゃあ、学校もそうだけど、生活保護に対しても何て言うか、ちょっと固定観念に囚われてないっていうかね、お父さんの考え方もね。

安積:そうそうそう。お父さんの考えが。ぜんっぜん、固定観念に囚われてない。あの、天皇が来るって言ったら…、天皇が来るって言ったら、それはほんとうに小学校前だと思うけど、旗配られてさ…

田中:あ、はいはい。振らなきゃいけない。

安積:こうやってさ。飯坂温泉っていうところに天皇がいつも泊ってたんだけど。福島市の、花水館って、行ったのね。そこにあの、天皇が来るから、ってみんな並ばされて、こう振ってる時に。父親がそんなこと知ったら激怒したと思うんだけど、何か私も、並んでお母ちゃんの背中で旗振った覚えがある。かすかにあるんだよね。うちのお母ちゃんは本当従順なんだ。私は別に離婚していいって言ってたのよ。もう「お前みたいな女と結婚したのは俺の一生の後悔だ。」とか、「不作だ」とかね、ののしられてばかりで。お母ちゃんの料理に文句つけて。それはもうほんと聞いてられないくらい。だから、そう、聞けなくなったころに、物心ついたころに、そんなお母ちゃんにね。お母ちゃんがそんな、フランス料理とか、そういうのなんか食べたことない。自分はね、魚屋の息子でさ、その、「あっちに行く前までは、満州に行く前までは、小学校の時イクラご飯だった。」とか、そういうバカな話をよく言ってたから。

田中:(笑)

安積:ね? あの、「お母ちゃんが作れないのは、お母ちゃんのせいじゃないんだから、もっとうまい料理店でも連れてって、いっぱい食べてもらってから、そういうこと言え!」とか言って。お父ちゃんのののしりを止めてね。でも、お母ちゃんに、返す刀で今度はお母ちゃんまで、「いつまでも黙って言われっぱなしじゃなくて、今日の料理でもね、テキスト買って勉強しろ!」とかいって、二人の間で仲裁してんじゃなくて、もうケンカしててさ(笑)。だから従順さと、すごいこう、物の言えなさと、すごいクリエイティブに、こう、人と付き合っていくっていうか、「絶対人との付き合いが大事だ」って、「お互い様なんだ」って。だから、「お母ちゃん、何で離婚しないの?」とか言ってもさ、「お互い様」の思想だからさ。「お前らのこと考えたら、そんなね。そんな大変に決まってぺ。」って。そんで、あんな最悪のお父ちゃんのこと、「まあ、いいとこもあんだっぺ。」みたいな。つまり、酔っ払って…、すっごく機嫌よく酔っ払った時だけは、「あきこがいなかったら、僕の人生はない。」とか、もうへらへら言える人だったの。あれもどういうことだったんだろ。「あきこ、あきこ、大好きだから。」とかって。だから私も「大好き」なんて言葉、ぜんぜん、すごく、簡単に言えるの、あれ、お父ちゃんのおかげだね。

田中:(笑)

安積:もう、めっちゃ言う、もうのろけまくって。そいでお母ちゃんの兄弟たちはもう、貧乏の中でさ、もうほんとに、ある種そういう、ね、差別されてっから、言いたいこと言うなんてのはさ、できないのに。お母ちゃんに対してあんなのろけるから。「いやあ、いい旦那だな。」なんていうこともちらっと言われるぐらい。でもね、ほんと、極端ね。天国と地獄をこう、行ったり来たりするような行き来みたいな。でも、ほとんど、私に対してはみんな天国だけどね。

田中:ふーん。

安積:でも医者がいたから。医療と教育がほとんど地獄だから。

田中:ああ…。そうね…。

安積:家庭の中での地獄は自分の力である程度止めれるっていう感覚があったから、それが今も、社会全体にね、自分がそういうふうなコミットになってんだろうね。

田中:うーん、なるほどねえ。でも、小学校の5年生ぐらいからは、まあ、ある種自分で選んでいったみたいな。

安積:そう。だから1週間で後悔したから。違う、入って30分で後悔したかな。お母ちゃんがいなくなった瞬間に。それで、泣き出して、泣いて泣いて。毛布かぶって泣いて。怒られて。そう、怒られて、初めてさ、子どもって大人の顔色見て暮らすんだっていうことを学んだっていうから、すごいよね、小学校5年まで。「そういうのって普通は…、お姉ちゃん、それ、ほんっとに違うから。」って妹に言われるんだけど。もう生まれた瞬間から学んでいくみたいなプロセスがあるっていうのね。絶対的な、親という権威に…、権威とか暴力とか、私の場合親からは一切なくて、医者の虐待もあったけど、母が泣くのを聞いてくれたので、反撃し続けられた。6歳でさ、「やぶ医者出てけ!」って怒鳴ったの覚えてんだけど、病室で、初めて手術された時。(笑)すごくない?[00:25:36]

田中:(笑) すごいね。

安積:「やぶ医者」っていう言葉を知ってたのもすごいしね。

田中:うん、すごい。ていうか、言葉にできるのがすごい、ね。

安積:でもさ、私にとっては当たり前なの。医者は痛いことをしてくる人だから。それと私、言葉を持ったから。本当はもっとちっちゃい時から言いたかったんじゃん。0歳から注射されてたから。0歳から…、私にとってはあんまり、限界を超える痛さだったから、「やぶ医者出てけ」とか言ってさ、手術されて。そのうえ、毎日9本だよ、注射されて。血液も取られて。「やぶ医者出てけ」っつたらさ、医者が私に怒れないから、母親を怒るわけ。「あんな生意気な子に…」。そしたら、お母ちゃん泣きながら、またそれを聞いてペコペコ、ペコペコしてっから、もうまたムカムカ腹立って、で、医者が出てった瞬間にお母ちゃんにまた文句言うわけ。「何で泣いて謝んの!」とか言って。「早く私を連れて出て!」みたいに。あんな状態じゃ退院できるわけない。連れて逃げたってさ、もうギプス巻いてさ、大変なことになるの。そしたらお母ちゃんまた、それを言ってる私を泣きながら見るわけね。

田中:そうねえ。それはお母さんとしては何ともしがたいもんねえ。

安積:そう、かわいそう。ほんとにもう、あの時からずっと母親を恨んだのよ、30歳まで。すごく悩んでたの。大好きだけど許せないみたいに…被害者意識満載で「無知で、大人しくて愚かな母親に育てられた私は、何と悲劇的な人生だったんだ。」ぐらいに思ってたわけ。
 でも、このピアカンで使った理論が再評価カウンセリングというんだけど、その中でめっちゃくちゃ色々…、再評価っていうカウンセリングっていうぐらいだから、人生を、いっぱい泣きながら再評価していくうちに、「母親が決して悪かったってわけじゃない」と。私、あん時ね、手術が終わった直後に、ほんとに私の言う通りに脱出してたらどうなったかとか、そう、やっぱりね。話したりしてる中で、母親はそうせざるを得なかった状況っていうのが最終的によくよくわかっていった。母親は、結婚して1週間後に最愛の妹を亡くしてるのね、双子の。結核で。その時貧乏だったから。ペニシリンとかストマイが、金持ちにはどんどん出回ってた時代だけど。母親の妹にはお金がなくて買えなかった。うちのお母ちゃんはやっぱ家父長制度や戦争による犠牲となった。システムの犠牲…、システムの中でさ、翻弄されてたんじゃない? 12歳で児童労働に行かされ、最愛の妹とは別れてさ、家族…、最愛の家族と別れて働きながら。でもやっぱほんと優しくて賢かったせいで、軍需工場の中でもさ、ひどい扱いを受けたかっつうと、そうでもなさそうだったのが、彼女の優しさのためだと思った。そうでもなさそうだったどころかさ、その中でかわいがられたんだって。「あきちゃん、こっちおいで。」とかって言って、一人で行くじゃん。男の人になんか呼ばれたっていうからね。私なんか「セクハラされたんじゃないか?」と思ってこうやって身を乗り出して聞くとさ、「いやあもう、美味しい飴もらってさ、嬉しかった。」とか言って。ガクッみたいなさ。(笑)[00:30:00]

田中:(笑) 愛されキャラですね。

安積:そうそう、愛されキャラなんだ。めっちゃさ、あっちにも呼ばれ、こっちにも呼ばれ、ちょこちょこ、ちょこちょこ飴もらったり煎餅もらったり。

田中:(笑) あの時代で大変ですよね、そんないいものもないのに。かわいがられて。

安積:うん。「公の場で言っちゃだめだよ。」って。「私の青春だったんだ。」って言ったことがあったから。そんなさ、12歳で児童労働にされて、ほんとにひどい目に遭ったっていう人は、女工哀史とかさ、そういう話ばっかりの中で。まあ、ほんとはね、寂しかったんだよ。もうほんとにじいちゃんには怒られて、軍需工場にね、取り残された時にはどんなに寂しかったろうと思うけど。それを見かねてみんなが色々、いい意味で手を出してくれたんだから。で、まあ、お母ちゃんがそういう人だったから、私はほんとに、あの、何つうの、30歳まで、ピアカウンセリングをやるまで、とにかく自分の親は、母親は無知で、フェミニズムの本なんか読んだあとでさえ、ダメな人だと思ってたからね。フェミニズムの本なんか読んじゃったから余計に。

田中:余計にね、うん。

安積:ところがだよ。ところがそれをこう、再評価していくと、その、さっきの精神障害者の家族との関わりとか、乞食に対する関わりとか。そしてもう一つは、お兄ちゃんと妹はさ、市営住宅の周りを自由に、もちろん当たり前だけど、跳ねまわって遊んでるじゃん。そうすると、やっぱりこれも戦争だと思うけど、戦争の中で子ども亡くしたおばあちゃんとかがさ、あの、ちっちゃい子どもたちがそのおばあちゃんの家の周りで遊ぶと「うるさい!」っつってよく石投げてたの。そうすっとね、みんなしてさ、止めるじゃん、子どもが遊ぶのを。その時もうちのお母ちゃん(笑)、ほんとに止めないんだよね。というのも、兄ちゃんも止められても行っちゃうのもあるけどさ。「何で止めないのかな?」って言ったの。お兄ちゃんとかが、そのおじ…、おばあちゃんが投げる石の間をくぐって遊んでるわけ。ね。「いや、当たった!」とかさ、もうさ(笑)。「今日は当たんない! 突破成功!」とか言ってさ、遊んでるわけだから。そうすっと、おばあちゃんもおばあちゃんで、石投げながらやっぱり関わってるわけじゃん。そういう様子を見てて、たぶんだよ、あの人の…、お母ちゃんの気持ちの中では、まあ何か、シリアスじゃないんだからさ、私みたいにしょっちゅう骨折するとかじゃないから。自分がさ、楽しんでっから、その兄ちゃんたちね。だから止めなくていいんだ、っちゅうさ。それからおばあちゃんも、すごい独りぼっちで寂しい、あれだからさ、子どもが来ると石投げることでさ、生きる力もあるわけじゃん。そういうこう、人との関わり合いの大事さみたいなことを、まあ見えちゃうんじゃない?
 ていうふうに私は、だんだんと見えてきてさ。泣いて泣いて泣いて、母親に対する見方が変わった。それはなぜかっつったら妹が死んだっていうことが、お母ちゃんのほんっとに力になったっていうかさ、「とにかく生きててくれさえすれば、とにかくいい。」っていうことで。だから私が生まれた時もね、脅かされたの、医者にさ。この子はもう二十歳か、3歳まで生きないとか、3ヶ月…、そう、母親が死んでからさ、3歳まで生きないって言われてたっていうふうに。おばちゃんたちに言ったらさ、「いやあもう、初め、生まれたばっかりなんて、3ヶ月も生きないって言われてたんでねえのか。」なんていう人もいたぐらい。とにかく死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬって言われてたから、「とにっかく生きててくれるなら何でもする。」って思っちゃったんでしょ。母親は妹が亡くなっちゃった直後に、結婚したから。違った、亡くなる1週間前に結婚させられたんだよ、家父長制度の中で。貧乏なくせにさ。何でかってつうと、兄ちゃんにお嫁さんが来たのね。お母ちゃんのお嫁さんがね。お母ちゃんの…、

田中:お兄さん、うん。

安積:お兄ちゃん。そのお嫁さんが貧乏なところからじゃなくて、結構…、まあとにかく分かんないけど育ち方が違うもんだから。こうみんなが、何つうの、緊張した家族になっちゃったんだね。だからその、小姑がいっぱいいたんだ、あ、小姑と舅、姑と。小姑がいっぱいいるから、こんな緊張がすごいんだろうかっていうこともあったりして。まあ何かこう、お嫁としゅうと…、嫁の問題の中に「早く結婚しろ。」っていう雰囲気がものすごく高まって、うちのお母ちゃんが選ばれて結婚しちゃっ…、させられちゃうわけよ。何でかっつうと、1年間も喪に服す…、もう最愛の妹が死にそうなんだけど、もし喪に服しちゃったら1年間は結婚できないから。[00:35:25]

田中:ああ、ああ、ああ。そうね。

安積:1週間前に結婚することになって。お父ちゃんはお父ちゃんで、お母ちゃんがすごい大好きになってたから。もう足しげく通ってて。で、条件…、

田中:あら、大恋愛。

安積:大恋愛…。大恋愛って、お母ちゃんはしたくないのにさ、追い出されるように。お父ちゃん一人で舞い上がってて。でも舅、姑がお父ちゃんにはいないと。もう満州で死んだのね、二人とも。それで、御眼鏡にかなっちゃったわけ。貧乏な両親にしてみれば、とにかく舅、姑がいないのが一番みたい(笑)。で、お母ちゃんは結婚させられてというか、結婚して。次々に子どもを産んだら…、もう女の子がほしかったのにさ、たぶんね、気持ちの中では。口には出せないような、お父ちゃんは男の子がほしいって言ってたから。だからもう愛情深い人だから、もちろん男の子でもめっちゃかわいがってたから、うちのお兄ちゃんなんてさ、お母ちゃん大好きだったと思うんだけど。私に取られた気がして、私に。ほんと私たち、ちっちゃい時は仲が悪かったから。でも仲悪いっつったっても、何つうの、やっぱり愛情深さが根底にある家族だったから。うん。ほんとは仲いいわけね。だから…、そう、ほんと色々あった。うちのお兄ちゃんなんて今、アルツハイマーのね、アルコール性アルツハイマーになっちゃって。

田中:うん。へえー…。ちょっと養護学校の話に戻っていいですか?学校はあんまり行かないで、ほとんどベッドサイドで…、

安積:そうベッドサイドスクール。

田中:どうやって、でも友だちが…。けっこう、その時できた友だちがいるっては書いてあったけど。例えば…、

安積:鈴木絹江さんとか、まあいるよ。

田中:年齢は離れてますよね。彼女はおんなじ部屋だったんですか?

安積:ううん。彼女、違うと思う。あの、ベッドサイド…、こっちベッドサイド。彼女は養護学校に通える方だった。あの、会った時はね。でも時々は、あの、手術でこっちに来た時もあったと思うけど。うん。
 でも私、ほんとに上の子にかわいがられた。あん、でも下の子に…、あ、同級…、その6人の中でも、もちろん。あの、脳性マヒの人のことはめっちゃ差別した。ほんとに悪かった。もう、すごい差別することが、日常の中にあったからさ。何か、年上が年下を、障害の重い…、軽い子が重い子を。で、私なんてしょっちゅう手術だったり骨折だったりするから、やっぱりあの、ひどい目に遭わされることもけっこうあるわけね。「お前のウンチ、臭すぎるから持って…、持ってってあげない。」とかさ。

田中:ああ、看護師に?

安積:ちゃうちゃう。看護師がその、歩ける子たちに頼むわけよ。やりたくないから。

田中:あ、そうなんだ。

安積:ひどいよね。

田中:ええー。じゃあ、子どもで子どもを世話してるみたいな。

安積:そうそう。そう、中学3年生とか高校生の子なんて。で、私、小学生じゃない? で私なんかそんなのまるで知らないからさ。「大人って、子どものためにいる」ぐらいの?気な人だったから、家の中ではね。親っていうのはね。

田中:うんうん、うん。いや、そうですよね。世話してくれるもんだと思って。

安積:もう、そうそう。だから、あの、一番最初に衝撃的だったのは、卵の中に血が入ってた時に、看護師さんに、「看護師さん、取ってください。」って言ったらさ、「何、生意気なこと言ってんの?」って言われて、すっごいびっくりしたのね。そこからもう、何か、ここにはほんっとに居たくないと思ったね。で、入園して一週間目に、「ここは地獄か!」って叫んだらさ、「お前」…、そう、「ここは地獄か。お前は地獄の番人か!」って叫んだら、そこに、レントゲン室に3時間閉じ込められるし。とにかく私は大人との関係が、奴隷と、ね、王様なんだっていうことは、あそこでやっと、さんざん学んだって(笑)。

田中:ふーん…。なるほど。

安積:「言論の自由」なんて、子どもにはないんだよ(笑)。ほんっとにそうだよね。

田中:でも、発言は止めなかったんでしょ? 遊歩さん。止めたんですか?

安積:止めたよ。だってから、その、絹江ちゃんに対してだって、ほんとに、あの、申し訳ないなと思いながら、かばえないしさ、もっとひどい目に? 「便器なんて持ってってやんない。」とか言われてさ。ほんとに屈辱的なことを言われたり、そういう目に遭うわけだから。ある程度はもう半分の、言いたいことの10分の1ぐらいしか言えなかったと思うよ。だからいっぱい覚えてる。隣のベッドの子、ものすごい緘黙症で、まるっで喋れないのね。その子のお母さんなんか来ても、お母さんとも喋んないから、私が喋ってるような、お母さんと。で、めっちゃ仲良し、だった。横からその、クジラ肉が私好きで。クジラ肉出ると彼女のベッドに行って、「くにちゃん、これ好き? あ、好きじゃない? あ、そう。じゃあ私食べてあげる。」って、めっちゃ。好きなこと言って、一人で喋って、一人で返事して。[00:45:39]

田中:(笑)

安積:もう、くにちゃんの…。で、くにちゃん、こうやって下見てんだけどさ、私が食べるの、じろっと見るからさ。めっちゃ嫌われてると思ったんだけど。お母さんとも私だけ喋るし。すっごい裁縫が上手で。次々にスカート縫ったりさ、お人形作ったりするから、それも私ちょくちょくとったりして遊んでさ。めっちゃ嫌われてると思ってたら、最後の時に、「私は純ちゃんのお陰で明るくなりました。ありがとう」って。こんなに嫌われてると思ったのに、サイン帳の交換会って必ずするからね。もう衝撃だったんだけど。やっぱかまってほしい…、かまってほしいわけじゃん。お互いにね。
 そのあとに今度、私たちよりずっと障害の重い、CPの子が入って来たわけ。その子に対して今度は私がいじめる。これが辛かった。今思い出すとね、あの頃はもう、かよちゃんて言うんだけど、かよちゃんのビックリ症候群ってあるじゃん、うわーっと大声出すと脳性マヒの人って、ビクーッてするわけじゃん。あれが面白くて、やめらんなくなっちゃって。

田中:(笑) え、じゃあわざと大きい声出して。

安積:わざと大きい声出して。もうすごい自分がいじめられたり退屈になると、かよちゃんをそういう目に遭わせるっていうのをね。で、すごい本気で怒られてるのに、その怒り方がかわいいから、また、やっちゃうわけね。かわいいっちゅうか、ね、面白くってさ。ほんとひどいよね。

田中:どうやって、でも、そう、中で知り合いになっていったんですか。障害のある人どうしというか、子どもどうしのつながりというか。

安積:だって…、うん。だからもう、とにかく追い詰められてっからさ。例えば、子どもどうし…、うん、そうだね。やっぱりこう、何つうの、最初の、めっちゃ怒られながらも、その、めっちゃ、こう、「純子は生意気だ」とかいっぱい言われながらも、やっぱどうしても聞きたいことは聞いちゃう、10分の1は、やっぱりね。聞いちゃうから。
 生理なんて何だかわかんなかったから。生理の教育が、あの、やられる前に、小学校5年の始めから来てっからさ。みんながさ、みんなが、あの、パッドとか、今日はお座布団をね、買ってきてもらわなきゃとかって。看護師、看護助手みたいな人がさ、その、施設から配られる生理ナプキンより、すごいかわいいのを…、ちょっとエリーゼとか出てきた時代だからね、そういうのを買ってきてくれる人がいたんだよね。そしてその、年上の人たちがその人と、こしょこしょ、こしょこしょって喋ってんのがさ、とてもこう、羨ましく思えて。その、何か、こうやってね、やりとりしてるの。そういうとこにも入ってってさ、「それ何?」とかさ、「お前なんかあとで、あとで…、まだまだ分かんなくていいんだ。」とかね、こう、言われながらも、時々はその、やっぱり誇らしいだろうから、私たちに教えるのも嬉しいじゃん。だから、「ここがいっぱい血吸うんだぞ。」とか、「おしめのちっちゃいやつだ。」とか、色々こう、やっぱり喋ってくれるわけじゃない? で、そんな…、[00:49:59]

田中:ふーん…。何かその、仲良くなって。

安積:そうそうそう。それにいっつもいじわるなだけでもないわけじゃないからさ、やっぱり優しい時は優しいし。やっぱ私、かわいがられるの、年上の子に。何だか知んないけど、かわいがられるから。人懐っこいからね。で、ボスみたいなのには嫌われるんだけど、ちょっと外れ者みたいな子には、かわいいってか子どもみたいにしてかわいがられるし。
 ある日ものすごい…、もうほんと私、今でも思う。やっぱほんとにフェミニズムにね、出会って良かったなって思うんだけどさ。顔のことにケチをつけるっていうのがさ、もう、組織的犯罪じゃんね。そして、ケチをつけて、そこで評価する。もう、障害者手帳だと女の人はさ、顔に傷がある人は障害者手帳で、障害等級の何番かに入ってんだよ、知ってた?

田中:顔の?

安積:うん。だから女は顔に傷があることが、売り物になんないからっつって。まあ今…、今の今はどうか分かんないけど、顔の…、に傷があるっていうだけで、障害者っていうね、等級の何番か、女だけ入ってるっていうのはね。私どっかで見たことあるんだけど、今の今はどうだか分かんない、調べてみて。そのぐらい、顔に傷があるっていうことに、ものすごくこう、大変なわけじゃん。ところがやっぱ、あの時代は、私も小学5年でさ、やっぱり愛されて育ってっから、そこまでの偏見なくて。退屈とか何とかで、かよちゃんはいじめちゃったけど。退屈とか言って…、ひどい目に遭わされることでね。
 で、ある日、やっぱり、てるこちゃんっていう、今でも覚えてる。てるこさんっていう、まあ、17歳…、16…、まあとにかく高校生で入ってきた人がいるわけね。そしたらその、ボスと取り巻きのグループは、早速、排除し始めたけど。あの、何でかっつうと、顔が全面、火傷なの。それをね、治しに…、治すってか少しは良くなる手術をするっていうんで来たんだって。で、全面、ボスたちは排除するんだけど。ベッドサイドスクールで、彼女もけっこう早めに手術したから、入院してすぐに。よく遊びに来るわけ。年下の子が好きな子もいるからね。そうすっと私なんか、こう、もう好奇心があるから。「どこ手術すんの?」とかいっぱい聞いてさ、仲良しになっていくじゃん。そしたらさ、

田中:なるほど。

安積:そしたらさ、「こう、ここね、ここね、まぶたがこうなってっから、こうやって下ろしてもらって。」とか言うんだけど、そいで、「へえ!」なんて言いながら。またその、手術したあとに来たらさ、「てるこさん、どこ手術したかさっぱり分かんない!」って私、また正直に言っちゃって。「ひどい! 純子ちゃんて、何てひどいの。」とか言いながら、彼女も、そういう気持ちがあったのか大笑いしてさ、二人で。(笑) 

田中:(笑)

安積:もう、無邪気だったよね。だからこう、何つうのかな、まあ無邪気のまんまの…、こう、ほんとに無邪気っていうか、邪な気持ちがほんとにないさ、いいところと。やっぱりほんとにかよちゃんをいじめるような…、あの、何て言うかな、すごい差別と。ね、自分もいじめる側に回るようなやっぱ差別を学び続けた。養護学校に通い出した時に、CPの子が隣だったのね。2年間いた中で、少なくとも半年は通った。
 養護学校がほんとにひどいと思ったのは、通った時にすぐに朝礼に並べって言われて。でも、私は「並びたくありません」って言ったんだね。みんなフラフラしてっから。で、車いすのまんまならまだいいかと思ったけど、朝礼だから、ね、歩ける…、ちょっとでも動ける子は、あの、「ちゃんと、車いすから降りなさい」なんて、またバカなこと言うからさ。信じられないと思って、「並びたくありません」って言ったら、「あなた、何か間違えてんじゃない?」とか言われて。「あなた」…、「普通学校では並んでなかったんです。」って言ったら、「ここは普通学校じゃなくて、養護学校で、みんな障害を持ってるのに、あなただけ特別扱いするわけにはいかないのよ!」なんてね。もう、偉そうに怒られてね。で、30分後にほんとに骨折して、もう、また寝たきり。

田中:ええー。当たっちゃったんだ、誰かに。

安積:もう、将棋倒しになっちゃってさ。その、生徒会長やってた子が、めっちゃ、あの、わんぱくで。で、その子が、こう、5人前ぐらいにいたんだね。その子がこう、からかった…、つか、こう、押した子が、松葉づえか何かで、その次の子がCPでフラフラしてて、5、6人の一番下敷きになって。ボキッ!と音が聞こえて。「あ、やられたな。」と思って。ほんでさ、で、その子、生徒会長だったからって、私がベッドサイドになったら、謝りには来たけど。謝りに来た日に…、来た時に、ウンコしてたから、よく怒られなくてさ。もう最悪なの。ほんと養護学校って嫌だったなあ。[00:55:11]

田中:ふぅん。

安積:でまた治って、また行ったんだ。そしたらさ、隣があの、…青い芝の会と関わるようになったっつうかさ、活動家になってから、彼女の自立を本当に応援した人なんだけど。すずきかっちゃんっていうの。でもそのかっちゃんがね…、て言うか、私が中学1年だよね。そう、中学1年どうしで、それがよく寝てばっかりいるわけ。それでも私は好奇心があるから、かっちゃんにこう、つっついたりしてさ、「起きないの?」とか言ってんだけど、ある日その、先生がそれを見て、「安積、お前、こんな馬鹿としゃべんなくていい!」とか言ったの。まあ、「おまえは大学行けるかもしんない学力があるんだから、そういう奴としゃべんないで勉強さえしてればいいんだ。」みたいなこと言うわけ。すーごい差別じゃん。もう心がぎゅうっと冷えるよね。だけど私の中ではもう、何て言うの…、そういう加害者側に回るような意識も育てられるわけだよね。

田中:うーん。けっこうじゃあ、出てからもつながりはあったんですね。

安積:ちゃうちゃう。もう、だから出てからは、もう、その、外れ者の、もう、出てからもうすぐに亡くなった、その、取り巻きの。とうとうあんまり喋んなかった、その、先輩のね、絹江ちゃんと、ふなやまときちゃん、まあ、名前まで出てきた(?)。ふなやまときちゃんも死んじゃったの。あの…、ぐらいだったかな、出てからは。もうほんと…、あ、いしいかよちゃん、今でも付き合ってんだけど、リウマチのね。彼女もほんっとに、痛みで苦しんでてさ。ベッドの上で転げ回ってたんだけど。何でつながりを続けたかっていうと、その彼女が、出てからしばらくしてさ、福島医大に…、もともと郡山の人なんだけど、「福島医大に入院したから」、リウマチで、「おいで。」って言われて。で、遊びに行ったら…、医大病院に。そしたらあの、すごい痛みが、すごい軽減して…、してた…、していったのかな、それは、きっかけとして、遊びに行くうちに。そうだそうだ。それが、自然食で、玄米とかで、ソーバーの思想がちょっと入ったのは。彼女のリウマチがとにかく痛くなくなっていく姿に、ちょっとびっくりしちゃったんだよね。

田中:食事で?

安積:もう食事。玄米と。

田中:はあ、すごいですね。そういうもんなんですか、リウマチって。何か、薬のイメージだけど、食事で改善していくんだ。

安積:みんなもう、ステロイドでね。

田中:うんうん。

安積:だからそれを、えっと製薬会社が主流だからさ、そんなこと言わないよね。食事と色んな手当でよくなるなんて、今は彼女はネットの自然食販売までしてっからね。

田中:ええーっ。

安積:もう、そいで、クリスチャンになって。セブンスデー・アドベンチスト教団って言って、「肉魚をほとんど食べない方がいいですよ」って言ってる教団。でも、彼女はその中でもさらに突出して、もう牛乳も一切使わず、こないだも、ココナッツミルクで作ったチーズ送ってきてくれて。

田中:すごい。そうかあ。

安積:そいで、そういう人と…、その3人ぐらいかな、絹江ちゃん。やっぱりでも、絹江ちゃんは青い芝を紹介してくれたからね。もっともね、あれだね。で、ふなやまときちゃんは死んじゃったし。もう、だから。ほんとに、ほんと、埼玉に行った時も、もう仲良しだった…、あ、かわいがってくれた、先輩もね、私の話を聞きに来てくれてさ。「あ、ちょっと足の悪い人いるな」っつったらさ、「私のこと覚えてる?」とか言われて。うん。でも、言われたけど、まあほんとにね、ほんと、もっと付き合いたいよねって思ってっけど。

田中:ああ、そうなんですか。

安積:ほんとに、だけどあそこで、ほんとに社会っていうか、大人社会…、うーん、学んだね。まあほんとに、あのまんま私が、小学校…。でもねえ、やっぱり教育の中で、小学校1、2、3で受け持ってくれた担任がさ、ほんと、うちのお母ちゃんがお互い様の思想の人だから、頑張ったと思うけど。頑張ったんだよね、最後の最後まで。ものすごい障害者に対する、「やってやってんだ。」の精神の人でさ。

田中:ああ、担任が。

安積:うん、小学校、地域のね。すっごい、まあ、あの、いじめっ子から守ってくれた、っていうようなところもあるけど。やっぱり彼らを追い払うことだけで守るっていうのはさ、私、嫌だなって思うんだけど。自分の…、私の力をやっぱり、ある程度(?)削ぎ落とすじゃんね。ある意味でよ、ほんとに。

田中:福島のね、本を書くっていう話が出てるのは、やっぱり福島にすごい、活動した人が、しかも同じぐらいの時期に、

安積:うん、ボンボンボンボンっていたよねー。

田中:ねえ。ということは、やっぱりすごいところなんだけど、みんな同じ学校に行ってるし、

安積:んだよ。だからいかに、どんなひどい学校だったかってことだよ。

田中:(笑) 逆に、それで繋がったのかな? みんな、ひどいとこで…、

安積:で、もう、ほんとに私は、あの、バネだと思うんだよね、活動っつうのは。やっぱりこう、ギューっとさ、すごい抑圧がかけられてる時に、こう…。もうもう、あまりに抑圧がすごすぎて、跳ね返せないぐらいの抑圧が、この、今の日本社会。でもまあ、あの当時のあの養護学校は、まあ跳ね返せる人は何人かいるくらいの抑圧っていうかさ、それにはやっぱり、あの、橋本さんの両親とか、お母さんもめっちゃ面白い人だったからね。白石さんは、そこまで聞いたこと、ない。橋本さんのお母さんとか、あ、でも、白石さんのお父さんもね、あれだろうし。あと絹江ちゃんのお母さんもね、もう母一人、子一人だけど、ほんっとによく頑張ったよね。私なんて、もう、お母ちゃんが貧しいってずっと思ってるのにさ、母一人、子一人の絹江ちゃんと会って、ほんっとにこう、お嬢様になっちゃったかな。「お嬢様」って呼ばれる。橋本さんのうちからも。

田中:(笑) そうか。橋本さんは、でも、ちょっと上なんですよね?

安積:うん。六つ上。だって、絹江ちゃんだってそうだよ。

田中:そうそう。学校では会ってないんでしょうね。

安積:そうそうそうそう。もうね、そう、全然会ってない。ま、その頃、ほれ、すずきかっちゃんでさえね、「お前はこういう子とは喋るな。」みたいに言われてさ。心がギューっとあれして。でもそれをやっぱどっかで信じて。CPの友だちってほんっと、いなかった。みんな脱臼か、ポリオか、火傷か。

田中:ああ。やっぱりCPの人は、養護学校も来てない感じだったんだ?

安積:うーん、いやいや。1割以上は、もっといたと思うよ。10わ…、いや、半分ぐらい。養護学校には。でも療育園には、ちっちゃい子ばっかだったね、考えると。そうだ、そうだ。

田中:あ、そうか。学校のほうは、そうか。行ってたけど。

▽安積:CPが治るっつって手術され始めたような時代が、あの、わだつとむっていたでしょう。あの人が手術し始めたんだけど、まだそれほどの腕もないのか、ちっちゃい子には、過激なあの、リハビリやってただろうけど。まあ、福島まではそこまでのすごい、切って切られてっていうね。1回も手術してないんじゃないか? 橋本さんも白石さんもね。うん。

田中:そうですよね。

安積:わだつとむがいたところは悲劇だよね。うん。でも私の障害も悲劇だわ。あんなひどい、過酷な治療って。

田中:うーん。痛みがね…、大変ですよね。ふーん。やっぱりじゃ、抑圧は…、でも、福島は強かったけど、抑圧に耐えられるような人が多かったってこと?

安積:耐えられるどころか、跳ね返そうという。その、やっぱ親との関係って大きいんじゃないのかな。わかんないけど。うん。やっぱりさ、どんな貧しさの中でも、こう、ほんっとに大事にされてるっていうか、感覚があるかないかって、すごい大事だよね。

田中:ああそうか。そしたら、遊歩さんって、施設から戻ってきて、3年ぐらい家にずっといたって。本を読んでたって。

安積:ん、違う、3ヶ月。3ヶ月…、学校に来るなって言われて。

田中:あ、そうかそうか。そして中学校は行って、高校は行かなかった?

安積:高校も行ってないからね。中学3ヶ月行って、そいで、中学2年行って。そうそう、高校が、その間がずっと閉じこもってた。中学1年の3学期と、高校3年間はまるっきり閉じこもってた。

田中:家に閉じこもってるっていうと、家族とか何か、色々言ってきたりしなかった? どう…、

安積:だからちょびっとさ、うん、あれ、何だっけ…、通信教育、もやるか? みたいなこと言われたけど。「何で私、学力…、全日制も行けるのに、何で通信教育なの?」みたいなんで。まるっきりじゃないね、2年半ぐらい閉じこもって。であまりの退屈さに、通信教育にね、高校に行き始めて2年ぐらいして、絹江ちゃんに誘われて、青い芝の会に行ったことで、もう、通信教育も2年で終わったみたいな。

田中:声かけてもらうまで、こう、家にいるときは、そんなに自分に何かこう、喪失感でもないけど、「どうしよう?」とか、そういうのは?

安積:もうすごい、あせりがあった。もう、しょっちゅう自殺未遂もさ、考えてさ。自殺…、未遂を考えてじゃなくて、自殺を考えて未遂に終わってたりとか。もう、そんでほらコミューンの本とかさ、も、読んだし。でもね、あのとき読んだのが、全部男性の本だったのがね。その後の結婚をね。「結婚しなきゃ。」っていうさ、せっかくアメリカから帰ってきたのに、結婚幻想でさ。「女は結婚とか何とかの中に幸せがある」みたいな。そういう…、わかんないけどね。何ちゅうか、そういうふうにしか、男性は見てないぐらいの、こう、そういう男性作家の本っちゅうのはね。男の作家だけだったもんな、あの、ほんと、お兄ちゃんの本棚にあったのは。うん。まだ上野千鶴子もいないしねえ。

田中:いないし(笑)。

安積:小倉千加子もいないし。誰もいなかったよ。富岡多恵子、山崎とも子、いたかもしんないけど、こん中、ぜんぜんなかったからね。まあだから、もうほんっとにあの、2年半かな、もう、辛かったね。でもね、辛かったけど、やっぱり、親と妹とお兄ちゃんには大事にされたから、力が培養されるんじゃない? これでだよ、私があとで在宅訪問で回って見る家族のように、「1日3食なんか食わせてたら、長生きされっから、困るから、1日1食にしとく」とかさ。もう、ほんっとに、部屋の奥の座敷牢に閉じ込められてたりとかさ。そういう扱い受けたらもう、終わってたろうと思うけどね。

田中:やっぱりじゃあ、親御さんも家族もみんな、その間(かん)、何て言うか、遊歩さんを支えてくれたっていうか。
安積:うん、何にも言わなかったもんね。私が、あの、養護学校で散々、手内職…、「手に職をつけろ」みたいなさ、と言われたり。それも何か腹が立つから。職業教育の時間は、何かラジオの基盤? 基盤を作るような、何か私からしたら、ちっともつまんない単純作業の方に。手内職よりはまだ、何つうのかな、屈辱がない感じの、そういうことをやったりしてたから。手内職つうか、その、和裁、洋裁、編み物。それを、こう、反発できたっていうのはさ、ほんとに親のおかげっちゅうかね。
 もう、絹江ちゃんなんかね、反発どころか親を支えるためにね、人が3年で取る師範の免状を2年で取り。編み物とかね。それから帯。帯もやって、もう親…、親に支えてもらうんじゃなくて、親を支えた人だからね。その抑圧はすさまじかったと思うよ。だからやっぱり人って必要とされることの方に人生が動く…、何ちゅうのかな、力が出るんだよね。ただただ世話してもらうよりね。
 だから私の中では、ほんとにあの、座敷牢の中に閉じ込められてた仲間たちが私に力をくれてるって、ほんとに思うんだよ。ほんとに、やっぱりこう、必要とされることがさ、やっぱり人間を動かすんじゃない? やっぱり人をね。あの、マザーテレサじゃないけど。無関心じゃないからさ、私もね。あの、無関心…、無関心でいられないから、彼らがいてくれたことで、ほんとにここまでひどい現実があるっちゅうことが。今だって、つい最近、あの愛知県のねえ、兵庫だっけ? 三田市で、うん。閉じ込められてたでしょう。[00:10:11]

田中:はいはいはい。そう、寝屋川は亡くなったしね。精神障害の人。

安積:そうか。ほんと、閉じ込められて。いっぱいあるよね。もう、私なんか。

田中:ねえ、まだあるんだなあと思って。

安積:もうめっちゃあると思う。福島なんか在宅訪問したら、もう、ありえないほどのね。ほんとに重い障害を持つ人が、地域の中に出ることの、大事さ。ほんとに大事だよね。うん。私は、でも、自分でさえ重い障害って見られてさ。あと、バスにさ、乗るたびにさ、「連絡しろ」とかさ、「予約しろ」なんてたまに言われるわね。10回に1回は言われてるわけ。だからもう、「これで十分やってる?」のと思えてくるけどね、ほんとに。

田中:そうか、在宅訪問か。そういうところにやっぱり、すごい差別があったんですかね?

安積:在宅訪問もできないようにさ、個人情報保護法通してさ、絶対もう、開示しないでしょう。

田中:うん、今はね。

安積:ほんで優生保護法でさ、絶対アイヌの人が犠牲になってると私は確信してるんだけど。それをこう、新聞記者に言ったら、その人も…、それを、何て言うかな、とにかく問い合わせたくて、でも全部黒塗りでしかよこさないんだって。情報公開って制度がなくなってるのかな? ほんとにね。もうほんと、ふざけてるよね。絶対、奴隷たちが、手を繋ぎ合えないように。(笑) このシステムはすごいよ。管理、管理、管理、管理、管理…。

田中:そう、さっき言ってた施設の話っていうのは、いつになっ…、いつ頃遊歩さんわかったんですか? その、自分が小さい頃は知らないでしょう? 太陽の…国?

安積:…国? あれはだからさ、あの、白石さんと橋本さんと在宅訪問に行くようになって、

田中:ああ、そのぐらいの頃から、だんだん、

安積:私たちが活動し始めてから、できたんだからね。

田中:ああ、そうか、

安積:あ、もう、活動始める頃にできあがってたのかな。その、

田中:70年代

安積:そうか、70年。

田中:その頃施設がね、どんどんできてたから。

安積:うん。そうそう、一番負けたのは、私はね。アクセス運動もそれなりに成就したけど、成功したけど。アクセスって言うか、駅のエレベーターとか。最悪に負けたのが、あの、養護学校義務化阻止。これが…、これが突破できなかったために、今の多様性の喪失がね。やっぱりこの子どもたちっていうか、この社会の生き難さを、作ってさ。管理主義をさ、専門家管理主義? 管理専門家主義をね、ほんっとにこう、増長させたっていうか、拡張させた。もう、養護学校義務化でね、敗北したよね。

田中:そうかあ…。

安積:うん。自民党の政策…、優生思想ってのはすごいね。ね。うん。だからね、多様性の喪失が、ほんっとに人々を困難に陥らせるわけよ、ね。「重い障害を持つ人とか、どんな人も、人っているんだな」っていう、その、子どものきらめくような心。たいらさんが顔中火傷しててさ。ほんでその、何、取り巻き党の人たちのグループが、あの、顔、顔、火傷してるなんてさ、どうのこうのってね、「人間じゃない」みたいな、ひどいこと言ってたと思うんだけど。私の中では「話してみたい!」みたいなさ。ね。「どうなってんだ?」みたいな。「何で、何で、瞬きしないでも大丈夫なの?」とかさ。

田中:そうか、好奇心旺盛なんですね。

安積:それが、それが人間の本質だと思うの。もっと知り合いたい、もっと分かりたい。これが本当のあれなのに、それを叩きのめすでしょう。泣きながらだって近づきたいんだよね、子どもって。だってお母さんにさ、「お母さんなんて嫌いだ、大嫌いだ!」って泣きながらさ、文句言ってる子っているじゃん。お母さんがすごい、ちゃんと聞ける人なら。ほんと、泣きながらだって近づいてさ。ね、「もっともっと仲良しでいたい」ってことを言ってるだけなのに、それを抑えたらさ。もう「もっともっと仲良しでいたい」っていう表現を抑えられてるんだからさ。
 うん。泣くっつうのは、本当に、ある意味、本当に大事な力なのよ。悲しむ力がね、ないから、人を殺せるの。うん。だから、ほんっとに、あの、あの時代にね、ほんっとに悲しかったよ、いっぱい、あそこの療育園の中で。チアノーゼの子がさ…、あ、ちゃうちゃう、脱臼の子が、おとなしい子でさ。もうほんっとにおとなしい。この人の名前も覚えてる。その人がさ、脱臼だけだから、すぐ…、あの、私より後に入院してきて、退院だったかな。いやいや、私より…。とにかく退院なんだよね、脱臼とか、色んな。それで、いいなあ、なんて思ってたらさ、1ヶ月前ぐらいにさ、薬飲まされて、2、3週間で、チアノーゼになって転げまわって。[00:16:10]

田中:ええー。

安積:だからもう、絶対あれは人体実験だよ。製薬会社と手を組んで。んでさ、チアノーゼになってから、その薬、止まってんだから(笑)。私みたいな子に飲ませたら、何言い出すか分かんないけど。

田中:ああ、何にも言わないからね。

安積:うん、おとなしい子だったから。優しい。死なないでよかったよね。やりたい放題だよ、ほんと。

田中:そんなん…、でも脱臼なんかで来るんですね?

安積:だからあの頃、手術至上主義だから。今だってそうじゃん。もう、年寄りが骨折すれば、すぐ手術。うん。

田中:うーん、まあそうだけど。そうか。

安積:あの頃はまだ、おしめで脱臼が治るっていうのが、まだ一般的じゃなかったから、私の年代ではね。だからあの、脱臼の子が結構いたんだよね。今70代、80に近い友だちなんて、ほんっとにものすごい脱臼だけなんだけど、すごい痛みと…、それで苦しんでる人、いるよね。だから私が自分の電動車いすくれて、「もう歩かんな。」とか言って。それはもう、もう、ずっとこっち…、つまり養護学校の時代の話じゃないけど。ほんと。
 きくちひさこさんって知ってる?援助為センターの。まあまあ、色んな意味で。私、うざがられてっけどさ、色んな人にいい影響も与えてるらしくてね、当たり前か。もうめっちゃさ、彼女にも、面と向かって感謝された時もあって。嬉しかったけどね、今は、援助為の事務局長だ。福島の人なんだよ。

田中:ああ、そうなんですね。

安積:だから行ってみたらいいよ。彼女もほんっとに大変な、親…、親子というか、ほんと、親子関係の中にいたから。そう、彼女がね、施設に行った時、福島の。私が何か、足しげく通って、「出たらいい、出れたらいいよ」ってね。さっきのすずきかっちゃんと仲良しで、ひさこさんと、かっちゃんと、もう一人まさこさんって、3人がCPで、その施設にいたのね。で、ひさこさんとかっちゃんは出てきて。かっちゃんもさ、出てきて…、「3年でいいから出たい、出たい!」っつって出てきたらさ、出てきて3年目に亡くなっちゃったけど。うん、たぶん。うん。ひさこさんのいう通り…、いや言うには、私はやっぱりかっちゃんとひさこさんが出てきたから、あとは今度、かっちゃんとひさこさんに任せようっていう気持ちになったのかもね。あんまりもう関わってなかったね、そのあとはまさこさんとは。行かなかった、その施設には。施設訪問と、在宅訪問が主だったからね、あの時代は。あと映画作ったりとか、集会やったりとか。活動っていうとね。[00:20:11]

田中:施設訪問は、入れたんですか? 施設は。

安積:だから、入れなくなったの、橋本さんと白石さんのせいだよ、とか言って(笑)。太陽の国。

田中:(笑) あ、そうなんだ。

[音声終了]


UP:20191015 REV:
安積 遊歩/安積 純子 English Korean
病者障害者運動史研究