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「障害学とリハビリテーション学との対話――言語聴覚士からの報告」

関 啓子 2018/10/18 障害学会第15回大会シンポジウム,於:クリエイト浜松

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last update: 20181018


1.はじめに

私は失語症や半側空間無視などの高次脳機能障害に関する臨床と研究を35年にわたり続けてきた言語聴覚士です。神戸大学医学部・大学院保健学研究科教授としてすべてが順調で多忙な毎日を送っていたまさに絶頂期の単身赴任11年目の夏自分自身が脳卒中に倒れ、一瞬にして左片麻痺と得意領域である発話障害など高次脳機能障害を持つ身となりました。

発症した私にとって、この当事者体験は学生の教育にも自分以外の関係者にも貴重なものになるはずと確信し、日々のリハビリやそのときの自分の気持などを発症直後から動画や音声で詳細に記録しました。そして、発症10か月後上肢麻痺を抱えつつも現職復帰・退職を経た時期に2冊の書籍にまとめました。

振り返ると、現在に至るまで私は発症前の状態に戻ろうとひたすら努力を重ねてきました。脳損傷の結果、心身に問題を抱えた当事者の気持として、発症前の状態に戻りたいという気持ちが生じるのは当然のことです。例えば私が対象としてきた失語症の場合、当事者もセラピストも、外的に観察可能な「言語能力」つまり「言葉でどれだけ意味を伝えられたか」だけに着目してリハビリを評価します。リハビリに対するこのような考え方は「医学モデル」と呼ばれています。私はこのモデルに立ち、発症前の状態に戻ることを目指し、諦めずに9年間奮闘してきました。その結果、発症当初観察された高次脳機能障害の大半は消失し、左片麻痺も上肢の麻痺を残すのみとなりました。

一方、この考え方に対して社会モデルと言われる考え方があります。本日はこの考え方に立つ言語聴覚士をご紹介したいと思います。


2.地域に戻った失語症者を支援したST界の先駆者

遠藤尚志STの経歴は以下の通りです。「1943年生まれ。南山大学文学部哲学科を卒業後、1973年その当時唯一の国立のコミュニケーション障害専門職養成機関であった国立聴力言語障害附属養成所修了。同年、東京都の職員として都の病院や医療センターで言語聴覚療法業務に従事。その傍ら、1980年から地域に「失語症友の会」を設立する活動に着手。1992年以降は外国の失語症者との国際交流を目的とした車椅子による海外旅行団を引率。2004年の定年後は共同作業所「パソコン工房ゆずりは」の運営委員長および失語症デイサービス「はばたき」(埼玉県坂戸市)代表に就任。卓越したカリスマ性と指導力で人々から慕われ、2013年4月惜しまれつつ病没。」

遠藤STは対象とした失語症者の「伝える能力」ではなく、「言葉が社会的に受け入れられる側面」を重視するいわゆる「社会モデル」に立つ考え方を重視し、この考えに立ったケアの実現のために努力しました。そして、回復期病院退院後の失語症者に対し、使える語彙や構文の量・バラエティ、構音の正確さを追求する「医学モデル」による個別リハビリではなく、当人の周囲によき理解者を育て、様々な環境刺激を活用することで本人の内面の理解や考えに磨きをかけその表現意欲を引き出すためのグループワークを通した「社会モデル」による様々な形態の「仲間づくりのリハビリ」を考案・実践しました。遠藤STが実践した「仲間づくり」の事業は以下の通りです。

(1)失語症ライブ:失語症者とボランティアがペアになり、会話を楽しみながら2人で協力して歌や言語課題に挑戦する。毎回笑いと涙と感動が渦巻くこの集いのネーミングは、まるで歌手のライブコンサートのような会場内の様子による。この活動を始めた動機は(1)在宅の失語症者と家族に仲間と触れ合うことの楽しさを知ってもらう、(2)一般市民に失語症者とのコミュニケーションを体験することによって、「よき理解者」になってもらう、(3)行政に在宅失語症者の長期継続ケアのための予算配分をしてもらう、の3点であった。所沢保健所で始まった本事業は関係者の熱心な支援により埼玉県内の全市町村に「言語リハビリ教室」設立の運動へと発展した。
(2)失語症友の会:慢性期の失語症者を支える活動としては最も古く、昭和50年代から続いている。遠藤STの担当患者であった重度失語症の患者Tさんにより、全国失語症友の会連合会が設立され、Tさんが初代会長を務めた。この連合会は現在の「日本失語症協議会」へと発展し、全国で8ブロック79の団体で構成されている。会員の高齢化のため解散せざるを得ない団体もある一方で、年齢や居住地域別の団体も組織化されてきている。特に高齢者の会員が多い中、20代30代の若い失語症者のSNSを介した繋がりと活躍が目立つ。全国大会も毎年開催され、現地で仲間と合流することを楽しみに参加する失語症者と家族の姿も見られる。
(3)失語症デイサービス:昭和60年代、行政から派遣される保健師とともに、「寝たきり訪問」に通っていた当時、失語症者のための社会保障制度は皆無であった。遠藤STは保健師を巻き込み、遠藤STも加わって在宅の失語症者への訪問を長く続けていた。失語症者と家族が安心し希望をもって生活するには社会制度の整備が重要であり、失語症者には日中活動の場が必要と考えていた遠藤STは介護保険制度開始により事業主の資格、自己所有の土地、多額の資金を要件としていた規制が緩和されたことを契機に、埼玉県坂戸市のファミリータイプマンションオーナーから提供されたスペースを改装して遠藤STが事業主となりデイサービス「はばたき」を始めた。それ以前にも診療所の2階の部屋を使ったデイケアを設立しており活動は軌道に乗っていたが、どのデイでも家の中に引きこもりがちの失語症者を外に引き出すことが目的であった。(1)朝起きたとき、出かける場所がある、(2)会いたい仲間がいる、(3)習いたいことがある、(4)自分のペースで会話できる、など家にいたのでは得られないような刺激を与えることを目的に活動が行われた。
(4)車椅子海外旅行団:国内の失語症友の会の広がりを見ながら遠藤STは海外の状況に思いを巡らせていたところ、イギリスにも友の会があることがわかり、さっそく旅行団を組織し時間をかけて準備したうえで、1992年、ロンドンへの旅に出た。日本からの参加者は60名、現地の友の会メンバーや通訳など合計140名が集った。同じ体験をした仲間の元気な姿が感動を誘う素晴らしい交流会だったという。遠藤STによるとこの成果は、(1)ただ生きているというだけでは幸せになれず、生きている実感が伴う一瞬一瞬を意味あるものとして味わうことができた、(2)本人の持っているADLを含む能力をフルに生かして回復感や自信を味わうことができた、(3)多くの仲間と苦楽を共にすることによって深い友情が育ったという。

3.折れない心

私の回復過程を顧みると、決して諦めず復職を目指すという強い気持ちがありました。当初発話の障害と半側空間無視などの高次脳機能障害と左片麻痺があった私を見て、周囲は「復帰は絶望的」と思ったそうです。しかし、私は回復期病院退院後あらゆる努力をして大学教員という現職に復帰したばかりか、私の知る限り最短の10か月という準備期間内に復職しました。最近注目されている話題にresilienceがあります。ホロコーストを経験した孤児たちの追跡調査でトラウマや不安にさいなまれ生きる気力を亡くした人々がいた一方で、それらを乗り越え前向きに生きた人々がいたそうです。折れない心を持ち前向きに生きた人々に共通の傾向は、物事をポジティブに捉えられる人、柔軟に思考できる人、ユーモアのセンスがある人、逆境にあっても楽しめる人、周囲に支援者がいる人であったそうです。

私はそれらすべてに該当すると思います。このため、周囲が悲観的に思うほどの困難な状態から復職可能な状態へと短期間に回復できたと自負しています。よく知られているように、脳損傷者の現職復帰は極めて困難で稀有なことです。私は折れない心に後押しされて回復の過程をたどったと言ってよいかと思います。


4.終わりに

私の良好な回復は自身が専門家であり、左利き右大脳半球損傷というイレギュラーなケースで、他の多くの右利き左大脳半球損傷の失語症者とは条件が異なりますが、一般に失語症は病前の状態に回復しにくいと言われています。遠藤STは回復期リハビリを終え地域に戻った失語症者のより良いケアのために上述の事業を展開してきました。遠藤STの活動こそ、まさに社会モデルに立ったものと言ってよいかと思います。失語症に限らず、STが対象とするコミュニケーション障害のほとんどはこのような考え方が導入できると思われ、今後言語聴覚療法はこの考え方に沿って進むのではないかと思います。それにしても、遠藤STは偉大な先駆者でした。

最後に遠藤ST自身が引用したPTの三好春樹先生の失語症に関する名言を引用します。「失語症の人の言葉が出ないのは失語症のせいだが、笑顔が出ないのは周りの人の働きかけが足りないせいである。」



*作成:小川 浩史
UP: 20181018 REV:
障害学会第15回大会・2018 障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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