私は失語症や半側空間無視などの高次脳機能障害に関する臨床と研究を35年にわたり続けてきた言語聴覚士です。神戸大学医学部・大学院保健学研究科教授としてすべてが順調で多忙な毎日を送っていたまさに絶頂期の単身赴任11年目の夏自分自身が脳卒中に倒れ、一瞬にして左片麻痺と得意領域である発話障害など高次脳機能障害を持つ身となりました。
発症した私にとって、この当事者体験は学生の教育にも自分以外の関係者にも貴重なものになるはずと確信し、日々のリハビリやそのときの自分の気持などを発症直後から動画や音声で詳細に記録しました。そして、発症10か月後上肢麻痺を抱えつつも現職復帰・退職を経た時期に2冊の書籍にまとめました。
振り返ると、現在に至るまで私は発症前の状態に戻ろうとひたすら努力を重ねてきました。脳損傷の結果、心身に問題を抱えた当事者の気持として、発症前の状態に戻りたいという気持ちが生じるのは当然のことです。例えば私が対象としてきた失語症の場合、当事者もセラピストも、外的に観察可能な「言語能力」つまり「言葉でどれだけ意味を伝えられたか」だけに着目してリハビリを評価します。リハビリに対するこのような考え方は「医学モデル」と呼ばれています。私はこのモデルに立ち、発症前の状態に戻ることを目指し、諦めずに9年間奮闘してきました。その結果、発症当初観察された高次脳機能障害の大半は消失し、左片麻痺も上肢の麻痺を残すのみとなりました。
一方、この考え方に対して社会モデルと言われる考え方があります。本日はこの考え方に立つ言語聴覚士をご紹介したいと思います。
遠藤尚志STの経歴は以下の通りです。「1943年生まれ。南山大学文学部哲学科を卒業後、1973年その当時唯一の国立のコミュニケーション障害専門職養成機関であった国立聴力言語障害附属養成所修了。同年、東京都の職員として都の病院や医療センターで言語聴覚療法業務に従事。その傍ら、1980年から地域に「失語症友の会」を設立する活動に着手。1992年以降は外国の失語症者との国際交流を目的とした車椅子による海外旅行団を引率。2004年の定年後は共同作業所「パソコン工房ゆずりは」の運営委員長および失語症デイサービス「はばたき」(埼玉県坂戸市)代表に就任。卓越したカリスマ性と指導力で人々から慕われ、2013年4月惜しまれつつ病没。」
遠藤STは対象とした失語症者の「伝える能力」ではなく、「言葉が社会的に受け入れられる側面」を重視するいわゆる「社会モデル」に立つ考え方を重視し、この考えに立ったケアの実現のために努力しました。そして、回復期病院退院後の失語症者に対し、使える語彙や構文の量・バラエティ、構音の正確さを追求する「医学モデル」による個別リハビリではなく、当人の周囲によき理解者を育て、様々な環境刺激を活用することで本人の内面の理解や考えに磨きをかけその表現意欲を引き出すためのグループワークを通した「社会モデル」による様々な形態の「仲間づくりのリハビリ」を考案・実践しました。遠藤STが実践した「仲間づくり」の事業は以下の通りです。
私の回復過程を顧みると、決して諦めず復職を目指すという強い気持ちがありました。当初発話の障害と半側空間無視などの高次脳機能障害と左片麻痺があった私を見て、周囲は「復帰は絶望的」と思ったそうです。しかし、私は回復期病院退院後あらゆる努力をして大学教員という現職に復帰したばかりか、私の知る限り最短の10か月という準備期間内に復職しました。最近注目されている話題にresilienceがあります。ホロコーストを経験した孤児たちの追跡調査でトラウマや不安にさいなまれ生きる気力を亡くした人々がいた一方で、それらを乗り越え前向きに生きた人々がいたそうです。折れない心を持ち前向きに生きた人々に共通の傾向は、物事をポジティブに捉えられる人、柔軟に思考できる人、ユーモアのセンスがある人、逆境にあっても楽しめる人、周囲に支援者がいる人であったそうです。
私はそれらすべてに該当すると思います。このため、周囲が悲観的に思うほどの困難な状態から復職可能な状態へと短期間に回復できたと自負しています。よく知られているように、脳損傷者の現職復帰は極めて困難で稀有なことです。私は折れない心に後押しされて回復の過程をたどったと言ってよいかと思います。
私の良好な回復は自身が専門家であり、左利き右大脳半球損傷というイレギュラーなケースで、他の多くの右利き左大脳半球損傷の失語症者とは条件が異なりますが、一般に失語症は病前の状態に回復しにくいと言われています。遠藤STは回復期リハビリを終え地域に戻った失語症者のより良いケアのために上述の事業を展開してきました。遠藤STの活動こそ、まさに社会モデルに立ったものと言ってよいかと思います。失語症に限らず、STが対象とするコミュニケーション障害のほとんどはこのような考え方が導入できると思われ、今後言語聴覚療法はこの考え方に沿って進むのではないかと思います。それにしても、遠藤STは偉大な先駆者でした。
最後に遠藤ST自身が引用したPTの三好春樹先生の失語症に関する名言を引用します。「失語症の人の言葉が出ないのは失語症のせいだが、笑顔が出ないのは周りの人の働きかけが足りないせいである。」