今回、題材とさせて頂くのは、私が作業療法士として携わった現場での出来事が中心となります。私は中途障害者が大半を占める高齢者領域を専門とする作業療法士です。今回のお話は、私が20歳代の時に、50人近い高齢者が毎朝、自宅から施設にやってきて、血圧、体温を計測し、そそくさと朝の体操の準備を始めていく、その風景に違和感をおぼえたのがきっかけです。何に違和感を?・・・となりますが、80歳代、90歳代の女性が、おもりを手に取り、参加者に配り、笑顔を見せながら足に巻きつけ、今日もがんばろう!と、、、この情景に違和感をおぼえたのです。
私は、何で足におもりを巻いて笑っているのだろう?足におもりを装着するのは囚人だけではないんだと、その時に感じたのです。また、何かにとりつかれているかのように歩行訓練を実施する男性、これをやらないと落ち着かないと運動を行う女性、私にとっては、何が起きているのか?これが医療保険の診療点数や介護保険報酬として私たちの給与になっている?ということに疑義をおぼえたのでした。その一方で、嫌々リハビリテーションに参加している人もいました。この違いは何であるのか?そして、嫌々リハビリテーションに参加されている人は、あの人やる気ないもんね、、、とも陰口をたたかれることも多々あり、リハビリテーションってそんなにやらなくてはならないモノなのか?とも感じておりました。
そこで、私は、おおざっぱでありますが、「熱心」、「消極」、「拒絶」という異なるリハビリテーションへの態度を示す人たちを研究対象としました。研究目的は、「リハビリテーションとの関わりの違いが、なぜ生じているのか?」としました。障害を有する人たちが、なぜリハビリテーションにのめり込むのか、または距離を置きながらも参加しているのか、拒絶しているのか、なぜ?そうなっているのかを直接、当事者の声として聞きたいと思ったのです。
今回の対象になって頂いた方は、すべて中途障害者です。「熱心」、「消極」、「拒絶」、それぞれのつきあい方を否定はしません。それぞれで置かれている状況が異なり、なるべくして、それらの対応となっていると考えるからです。以下、簡単に内容を書かせて頂きます。
熱心な取り組みを見せる人は、虚弱な高齢者であるが、障害を有しているが、頑張っていることを周りの人から認めてもらうための一つのツールとしてリハビリテーションに邁進していると考えています。「ツライ」と思いながらも、「痛み」が有るのだけど、「疲れて」いるのだけど、リハビリテーションを行っている私を、頑張っている私を認めて欲しい。改善しなくても、私は努力している。何が目的では無く、リハビリテーションを行うことが「善い」コト。そして疑う余地が存在していなかったのです。
消極的な人は、ツライのは嫌、痛いのも嫌、でも周りがリハビリテーションをした方がいいよって言うから、ほどほどにつきあっているよ。という人たちです。この人たちは、熱心な人たちよりも、存在自体の承認を獲得しており、何もしなくても、家族からの支えを感じながらリハビリテーションと対峙していました。ですから、言われれば、参加するけど、気が乗らなければ、その日はお休みしていると感じました。
最後に拒絶を見せる人たちですが、これらの人たちは、私たちの前になかなか現れることが無いので、サンプリング自体が少数となってしまいましたが、共通していることが有りました。それは強さです。自分の存在確認に他者の目を必要としていない人たちであり、自分の判断でリハビリテーションは必要ないと判断していたのです。非常に強い人たちであり、レアな人たちであると感じております。しかし、この人たちの生活が最もリハビリテーションされていたと感じました。
ちなみに数的には「熱心」 > 「消極」 > 「拒絶」で有ると感じております。
上記の内容を少しまとめさせて頂きます。
熱心な人たちは、自分の身体機能低下を自覚し、能力の低下を「努力」という産物で自己の存在証明のためにリハビリテーションという装置を使っていると考えます。そして、リハビリテーション受療者の中で熱心な人たちが最もマジョリティーであると考えます。これは虚弱になる前、障害を有する前のその人の価値観が作用していると考えています。熱心な人の家族には、同様の価値観を有している可能性が高く、家族からの承認を得るために熱心に取り組むことになっていると考えます。
消極的な人たちは、自らの存在証明のためのリハビリテーションは必要が無い。しかし、自身の存在を承認してくれる人たちが勧めるリハビリテーションを拒否することも無いという考えだと思います。したがって、つかず離れずの距離を保っていると考えます。
拒絶的な人たちは、リハビリテーションを必要としない。と宣言しています。「だって、生活できている」、「もう治った」、あるいは「やっても治らん」という表現をしていました。明らかに転倒の危険性が高いと判断せざるを得ない状況でも、必要としていないのです。200メートルを30分かけてタバコ買ってきた。筍を採りに行ってこけてしまったと泥だらけになりながら笑い、明るく話すのです。拒絶している人は、自分で存在を証明できるのです。したがって、他者がどのように感じるかは関係が無い、極めてレアな人たちであると感じています。
私個人は、リハビリテーションを拒絶している人たちの生活は非常に興味深く、この人たちが最も自分の人生を生きていると感じ調査を終えております。そして、この3つの態度のどれが善い、悪いは存在しないと考えています。あくまでもモノの見方であると考えています。
障害を有すること、虚弱になることは、人間にとって避けることのできないテーマです。予防やヘルスプロモーションは、いわば不老不死、アンチエイジングという不可能でかつ人間にとって魅力的なテーマであり、人間の欲望です。
このテーマにリハビリテーションは参加し、人間の欲望を満たすお手伝いをしていくことになります。しかし、ここに作業療法士として手放しで加担していくことはできないと考えています。それは、無意味なコトへの参加になるからです。なぜなら不老不死は不可能だからです。不老不死を望むと若さは善となり、老いは悪になります。この価値観が強烈になっているのが現代ではないでしょうか?そして、この価値観を私の研究に戻すと、「熱心」な人たちに繋がると考えています。リハビリテーションをすることで承認を得ていく、そこには改善しなくとも「努力」が評価のポイントであり、リハビリテーションに参加することが、自らの存在保証に繋がります。したがって、その技法を脅かす、リハビリテーションに参加しない人を攻撃していくことにも繋がると考えます。これは臨床的によく見る光景の一つです。現代において個の生活は、お互いを監視し合い、お互いを躾合い、そしてお互いを承認しあう社会になっていると考えます。この社会に熱心な人たちは取り込まれていると考えています。
しかし、この熱心な取り組みを見せる人たちを否定する気は有りません。それは、その個人が好きで身につけたモノではないからです。知らぬ間に刷り込まれ、結晶化されているからです。また同時に、現状のリハビリテーションを承認することもできないのが私の立場です。現状はリハビリテーションのためのリハビリテーションとなっており、手段と目的が同一のものになっていると指摘したいと思います。指摘を打破したいのなら、その前にリハビリテーションを拒絶した人たちの生活を実際に見てみることをおすすめします。そこには、まさにその人個人の生活が存在しているからです。私は、あの人たちの生活に邪魔せず、支援することができれば、、、と考えるのです。例えば、「痛み」、「やりづらさ」を感じたときに使ってもらえる、相談してもらえるリハビリテーションの専門家でありたいと思っています。