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桑名敦子氏インタビュー

2018/10/09 聞き手:田中恵美氏

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桑名 敦子
◇聞き手:田中 恵美子
◇文字起こし:ココペリ121 【10中01】20181009 桑名敦子氏 84分

 ※これらのインタビューをもとに以下の本ができました。ありがとうございました。
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

田中:1959年10月、いつなんですか?

桑名:誕生日ですか? もうすぐ。14日です。

田中:はあー。私、31日なんで(笑)。

桑名:あ、そうですか。

田中:10月だ!と思って(笑)。ああそうか。はい。
 ちょっと私、お聞きしたいかなと思ったのは、4歳から施設にお入りになったっていうのは、やっぱりもちろん親御さんのお考え…、

桑名:ですよね。

田中:ですよね。

桑名:私は全然覚えてないし、はっきり言って嫌でしたからね。うんうんうん。

田中:うーん、やっぱりまあ、もちろんね、子どもとしては嫌ですよね。

桑名:うーん、そうですね。

田中:何かこう、勧められたとかそういうのはあるんですか?

桑名:親がですか?

田中:福祉事務所とか…、

桑名:親が?

田中:うんうん。

桑名:たぶんそうでしょうね、あの時代ね。あとは、やっぱり、父が、さっき言ったように教師だったんですね。ですからやっぱり教育? その、教育を、まあこれも私の思想(?)、まあ、うちの父のその…、はっきり聞いたわけじゃないけども、うちの父の考え方だとかは、私の子育てとか私に対する育て方とか全体的に考えると、やっぱり父は教育を…。あ、すいません、何か、私、すいませんね…。

田中:ああ、ごめんなさいね。

桑名:いやいやいや、昨日の今日…。(?)、すいません、すいません。ていうか私もう完全に涙もろくて、色んなことが。この年になると、ありとあらゆる…(笑)、

田中:いや、大丈夫、この空間、二人だけだから。

桑名:あの、やっぱり、「教育を子どもに与えたい」っていう思いはずっとあったと思うんですよね。でもその当時、たぶんもう、何だろう、誰かに相談するとか、何とかしてこの子を普通校に、とかって、そんな、そういうことを思う術もなかったんじゃないのかな、って、私思うんですよね。周りにもそういう子がいなかっただろうし。まずとにかく、障害者が教育を受けられるっていう、受けることができるっていうこと自体、まだまだ、ねえ。義務化の前でしょう? だから、本当に重かったら、もういいですよ、みたいな感じだったと思うんですよね。
 そうすると、この子にちゃんとした教育を与えられる機会っていうのは、彼らの中にはもう…、彼らが唯一見つけた道だったんじゃないのかな。うん。だから、彼らとしては、別に私が障害者だからどこか行ってもらおうとか、隠そうとか、そういうんではなく、本当にあくまでも教育を…、教育だけではなく社会とのつながり…。まあ社会ってその、小さい社会ですよね、養護学校とか、あの…。その前に、だから4歳ですから、その隣にある療育園という病院兼施設みたいな所にね。ですからもちろんそういった医療的なサービスも受けられるし。あとはその中で、親が何かできないような、やっぱり自立…、うん、あの、も、自立訓練もそこで提供ができる…、提供してもらえるし。なおかつ学齢期に達したら、隣にある養護学校に入ることができるということで、たぶん彼らとしては、そこがもうとにかくベスト。もう…、っていうか、「もうそこしかない」っていうような思いで私を入れたんじゃないかなと思いますね。
 それはさっき言ったように、彼の私に対する態度とか、常々言ってたことの一つで、今でもよく覚えてるのは、「障害があるからこそ、教育が一番大事」。 教育はやっぱり、教育があるということは、本人にやる気があってその能力さえあれば、頭に入っ…、教育ってやっぱりその、すごい概念的なものですけども、やっぱりこう、頭に入る。すると頭に入るということは誰からも取られない、いったん頭に入っちゃったら。だからそういう思いが、だから教育さえあればどうにでもなる。どうにでもなるというか、仕事…、将来的にも仕事をするにも、教育がなかったら何もできないけども、教育があるということで、もっとこう、選択の幅が広がる、ということは、子どもの時に、中学生の頃だったかな、言われたことがありましたね。はい。

田中:ごきょうだいって…、

桑名:二人。妹がいます。

田中:ああ。下にいらっしゃるんですね。じゃあ、最初のお子さんとしてお生まれになって。

桑名:そうですね。はいはいはい。

田中:それ、やっぱり、まあ何て言うか、一番こう、気に掛けるっていうか、親御さんとしてはね。

桑名:まあそうですね、最初の子ってそうですよね。やっぱり期待がありますからね。はいはいはいはい。

田中:やっぱり教育ちゃんと受けさせたいっていう…、[00:04:56]

桑名:うん。あとはたぶん、私ももちろん覚えてないですけど、よく言われてたのは、小さい時から、頭がいい、頭がいいって言われてて、確かに馬鹿では…、馬鹿っていうか、その(笑)、知的レベルは知能指数とか高かったはずです。高かったと思うんですね。
 で、4歳の時に、だから4歳…、10月ですから、その、4月に入園したので、その療育園に、4歳と半だったんですね。で、その時にうちの母が何をしたかというと、その…、また、これも何かこう、「あんな母でもこんなことしたんだ。」って思って…、思うと何か胸にこう、こみ上げてくるものありますけど。あんな母って、うちの母すごいんですけどね、ある意味(笑)。でも、その時代ネットもなければね、その、要するに電話で話せることができ…、色んなやっぱり規律がすごい厳しいとこだったので、面会だって毎日できるわけではないし、唯一のコミュニケーションの手段が手紙。で、手紙を読み書きができる…、誰かに読んでもらうとか、誰かに書いてもらうんじゃなくって、本人が書いて本人が読めるっていうのは、それのためには、入園する前に4歳いくばくかの子どもにひらがなカタカナを教える。まあ漢字も、とか。だから、今思うと私、結構いい子だった。いやあの、頭よかったのとまた(笑)…。それはもう、4歳半で、字もちゃんと読めてたし、字も書けてたし、きちっと手紙も書けてたっていう、だから、やっぱり妹二人とは全然対応が違いますよね。妹なんか、だって、何してもいい…、まあ何してもいいって、やっぱり厳しくは育てられてましたけども、やっぱ内容が全然私とは違うね、やっぱりね。そういう、だって、環境が違うんですから。ですからやっぱり親…、今思うと、うちの親は結構、知的な部分で、がーんとこう、私にはその部分で、何とか、ねえ…、

田中:それで生きていけって、

桑名:うん、幸いにも、体は不自由だけども知的レベルは結構高い子だ、っていうのが分かったんでしょうね。だからそれには、その残された能力を何とか活かすっていうことが、やっぱあの二人にはあったんじゃないのかなって思いますね。

田中:じゃあもう、入園された時からご自分で書いて、

桑名:うん、書いてまし…、

田中:やり取りはできてたんですね。

桑名:できてたんです。できてましたね、やっぱり。いや、本もすごく好きだったし。本も結構、読めてたしね。

田中:すごいですね(笑)。本読めてた4歳半て。

桑名:うーん。まあでもそれは、母は言いますよ、「妹たちには何にも教えなかった。だって学校がやってくれるから。でもあんたの場合は、やっぱり親元離れて…。その、一緒にいれば親がね。だけどそれができないから、もう離れる前に全部教えた。」っては聞いたことがありますし、自分でもそれは覚えてます。はい。

田中:ふーん、じゃあ結構、まあ、厳しくちゃんと、

桑名:その部分においてはね、はいはいはい。

田中:そうなんだ。じゃあ離れてからも、文通でこう、つながりながら。

桑名:まあまあ、そうですね。

田中:結構、その、年齢は、まあ小さい子は、同じような年齢の子といたんですか?

桑名:ん…、うん、様々ですよね。やっぱり、あそこ、私はたぶん一番小さい。でも、上はたぶん15とか18とか? だから本当に、私を…、こう、今その時のことを思い出しても、どっちか…、だからおませな子だったんですよ。すごくおませで。私その時に、何だろう、その時の友だちだったっていう人が結構、年上。もう小学生とかそれこそ中学…、何か、やっぱりお兄さんお姉さんみたいな感じですけども。うん。初めて小学校に入って、同学年の人と接するというか、一緒に生活をし始めましたけど、それまでは、たぶん、はっきりこう、何だろう、ハキハキ物を言ったりおしゃまな子で、頭が良くて、たぶん年上のお兄さんお姉さんに気に入られる子だったと思うんです、私。だからあの…、うん。でも、思い出の中にも様々。年齢的にも障害的にも様々な子が周りにいたっていう感じですよね。うん。

田中:ふーん、何人ぐらい…、

桑名:そこの収容…、療育園っていうその施設の収容人数は100人でしたね、その時はね。で、福島県内あらゆるところから来てて。私なんかは郡山市で、その施設も郡山市だったから、一番…、ある意味恵まれてるっていうか。その当時、例えば会津の山の中だと、もう1日、2日がかりで来るとか。だから年に数回しか面会に来れないとか。でもうちは、もう車で15分、20分ぐらいの距離でしたから、結構来てましたけども。うん。でもやっぱり、ある時、施設の職員に、「お宅はまあ来るけども、来られない親の子どもさんたちもここには沢山いるんで。それは不公平になるんで、ちょっと控え…、自粛しろ」みたいな「控えてくれ」みたいなことを言われたこともあったみたいですね、うん。

田中:ちょっと酷だけどね、子どもにしてみたらね。

桑名:うん。まあ、ねえ。でも、確かにやっぱり面会に来ない人はいましたよね。それはだから距離的な問題なのか、それとも今思えば、そういったもう、障害のある子とね、接したくないとか恥ずかしいとかそういう思いなのか、それは私には分かりませんけども。うちなんかはだから距離的にも近かったし、あとはやっぱり子どもに対するそういう思い入れが強い親だったんで。うん、結構来てたほうだと思いますよ。うん。[00:10:22]

田中:じゃあもう、愛情はたっぷり、で。

桑名:うーん、まあそうですね。厳しかったですけどね。

田中:週末とかは、お家帰ったりとか。

桑名:ないない、それはない。本当にその時代…、今でこそね、今でこそ脱施設化とか、家から通うとか…。その当時は本当に、家から施設まで車で15分とか20分の距離だったにもかかわらず、1年間で親元に行けたのは夏休みの1週間、お盆の頃の。あとはクリスマス、お正月、年末年始の10日間。これだけ。ね、週末とか、そんな考え…、そんなことなかった。絶対ない。あり得ない(笑)。

田中:じゃあもう本当、夏と冬だけ?

桑名:うん、夏と冬の本当に1ヶ月もないですよね、本当にね。うん。半月くらいしか親元には戻れない、っていう状況でしたよね。

田中:妹さんたちが、じゃあ、まあ遊びに一緒に来たりは、

桑名:そうですね。だからまあ私の場合、私の障害は脊椎損傷だから、治るっていうことがね、そこにいて手術を何度しても、治るという障害ではないですよね。
 それで私がいる間に、妹二人が生まれて。だから妹とは…、二人いて、すぐ下の妹は6歳、その次は8歳離れてるんですけども。私、10歳の時に退園をして、家からその養護学校に通うようになったんですけども、それはたぶん…、たぶんっていうかそれも聞いた話によると、やっぱりその、妹がいるのに時々私が、本当に、1年に半月も満たない日数、家に帰るわけだけども、やっぱお客様扱いなんですよね。親にしたってね、やっぱり「せっかくこう、来たんだから、食べたいものとか行きたいところに。」とかって、やっぱ非日常な感じだし。妹にしたって「この人はいったい誰なの?」みたいな。もちろん教えてるとは思いますよ。うん。「あんたの上の子だよ。」っていうのは。でもやっぱり一緒に暮らしてないわけだから。
 それで、やっぱり10歳の時に、ひとつ、退院をするってのは、やっぱそういうのもあったと思います。親元を離れてもう6年近く一緒に暮らしてないし、ましてやその間に妹二人が生まれて、このままずっといったら、やっぱり親子関係なり姉妹関…、きょうだい関係がうまくいかない、ということで、退院をすることができたんじゃないのかなあって。別に体が良くなったからとか、そういうのは全くないですよね。

田中:やっぱりその辺はまあ、特にご両親が、そういう方針だったんでしょうね。

桑名:だったんでしょうね。はいはい。

田中:だから、家族っていうものを大切にしたい、っていうね。

桑名:そうですね。そうでしょう…、そうだと思いますね。

田中:すばらしいな、ねえ。なかなかそういう理由で退所する人、いないんじゃないですか?

桑名:うーん、どうなんでしょうね。だから、つい先日…、一昨日かな、妹と話をしていて、何だっけ、妹が、「『きょうだいじ』っていう言葉知ってる?」って言われて。「きょうだいじ」って知ってますか? 言葉、聞いたことありますか?

田中:「きょうだいじ」って、障害のある子の兄弟っていう意味ですか?

桑名:私も知らないんだけど…、いやいや内容は知ってますよ。字はね、「どういう字書くの?」って言ったら、「きょうだい」は「兄弟」ね。「じ」は何だろうね。児童の「じ」? 何? でもとにかく意味は、病弱だったりとか障害があったりとか、でそういう兄弟が…、あの、子どもがいると。そうすると、上にしても下にしても家族全員がそこに集中をして、結局、ネグレクトではないんだけど結果的にネグレクトになるような感じで、その子たちがちょっとこう、あの、何だろう、気持ちが悪い方向にっていうかね、親を憎んだり、その兄弟を憎んだり、家族関係がそこでガチャガチャとなったり、っていうことなんですかね。うん。

田中:うん。ありますね。

桑名:それはもちろん聞いて…、そんなことがあるのは聞いて、ドラマなんかでもよくあるしね。ついこの間もそのドラマを見たばっかりだったし。で、もう、その名前としては聞いたことがなかったけど、内容としてはもちろん、そんなの今始まったことじゃない、昔っからずっとあることで。でも、うちの妹に、「じゃあ、あんたその被害者?」とか言ったら、妹は「いや、そんな。考えたこともなかった。」って言うんですよね。だからそういう意味では、たぶんあの妹は嘘ついてないと思うから、特に…、うーん、何だろう。「あっちゃんが障害者で、親が全部そっちに集中した。」っていう…、彼女は思ってないと思う。「そんな思いをしたことはなかった。」って言ってた。

田中:ふーん。すごい何かじゃあ、上手にって変だけど、家族っていうのを形成して…、[00:15:04]

桑名:うーん、どうなんでしょうね、そりゃ、家族だからね、色々問題はありま…、どこの家族だってありますけど。全体的に見たら…、まあ、ねえ、もっと大変なひどいところは…、家族はたくさんいると思うしね。まあそういう意味では、精神衛生上はよかったのかな? うん。私も別に妹たちに卑屈になったなんてこともないしね。「あの人たちが障害がないから。」とか。
 だからうちの父が、やっぱりあの…、誰かに言ったのかな、その、「いつ敦子が自分を責めるか」。「何でこんな体に産んだのか?」っていうのを、いつ来られても大丈夫なように、準備を父親はね、していたと。ところが、それがなかったから、親はたぶん「何で?」っていうか、それがなかったということ、誰かに…、それこそ川口さんだったかな、違った…、まあ誰かに言ったらしいんですよね、私の…。それを私があとで聞いて、逆に、「え?!」 そんなね、親を責めるなんて、社会は責めただろうけども、社会のその、差別とかね。でも、親を責めるなんて、これっぽっちも思ったことがなくて。「そんなことを親が苦しんでたの?」って。だってそんな、親はそんなことを私にこれっぽっちも出さなかったし。ちょっとそれ聞いてびっくりしたの、ありますね。何かね。うん。

田中:やっぱりでも、その当時、育てるのって大変だったと思うんで。

桑名:そうですね、だから、社会からのサポートとかも非常に少なかったと思うし。やっぱりどうしてもその当時、「障害イコール悪」みたいなね。で、親は、「障害児を産んだ母親」とか「障害児がいる家庭」とかってのはすごい肩身が狭いとかね。たぶんそういうのは…、そういう…、でももう、ほぼ(?)だったでしょう、たぶん。だからその中では、私はそんなことは感じたことがなかったし。…本当になかったなあ。だから、ああ、父がそうやって、「いつ敦子に言われるか」ってまあ、ビクビ…、ビクビクというかこう…、そういう思いがあったんだって聞いて、「ええ?!」って(笑)。で、まあ、うちの父もそんなの、これっぽっちも出してなかったし、私自身も、親を、だからっつって責めるなんて全くなかった! 全くなかった。普通は、じゃないんです。普通はじゃあ、そう…、じゃ逆に普通はそうじゃないのかな、とか。うん。ですね、はい。

田中:ねえ、それはだから本当いいかたちで、ねえ。

桑名:うん、だからね、私はそれこそさっきの遊歩さんの話じゃないけど、結構ね、ぬくぬくと…。だから別に甘やかされたとかそういうのではなくて、まあもちろん、ね、その、色々、ある意味で甘やかされたと思うけど。何ていうのかな、何かこう、素直に育っちゃった? あの、何かこう、「辛い、苦しい」とかね。そりゃありますよ、それは。でも、何だろう。結構…、うん。あの、素直に育った障害者なのかなっていう感じはありますね(笑)。

田中:うーん(笑)、そうですね。で、養護学校は、じゃ、もう10歳からは、家から通った。

桑名:そうですね、家から、はい。

田中:じゃ、まあお父さん、車で送り迎え…、

桑名:そうですね、父母が。まあだいたい母が。その…、まあ、母はもともと車の免許を持っていたんですけど、その当時には珍しく。ただ、運転する機会がなかったけど。これをきっかけに、私が家に帰ってきて。家に帰ってきたことによって、養護学校の近くに家を建てたんですよね、その前にもちろん準備として。で、すぐに、まずはだから、スクールバスで。スクールバスが出てる地域っていうか、「そこに」って言って家を建てた。結局、スクールバスでは通ってなかったですけども。だから同じ町内みたいな感じで。で、母が朝晩送り迎えをするっていう。今でこそ親が送り迎えするなんて結構あるのかもしれないけど、その当時は本当珍しかったですよね。初めてだったんじゃないかな、養護学校の中で。たぶん、うん。

田中:そうでしょうね、きっとスクールバスで通うか、もう宿舎に入るか。

桑名:そうですね、もうそれしか。まあだからそう、学校には寮があって。あとその隣の私が10歳までいた施設から通ってくる…、その子は病院に入っているわけだし。あとはまあ本当に少ない人数ですけど、市内でね。で、スクールバスか、または親に送り迎えをしてっていう、その少ない数の一人でしたよね。

田中:学校の中の生活って、どんな感じだったんですか。[00:19:41]

桑名:ですから私は、寮に入ってたわけじゃないから、通学でしたから。まあもちろん、小学校の4年生まではその施設から通ってたんですけども。でもまあ、それは4年生だから、あんまりもう記憶がないんですけど。
 学校の中は、まあ、何だろう。私にとって、もうそれしか知らないんでね。まあ学校? だから勉強する? で、あとは同級生はまあ、みんな障害を持っている。そんなにまあ、せいぜい多くても10人とか十数人とかいう。まあ、だから、もうまるで兄弟みたいな感じですよね、みんなね。だって小さい時からいるわけだから。特に、もう、1年生から高校3年まで一緒だったっていう子が、何人、まあ…、1、2…、4、5人はいたかな。で、あと途中から入ったり出たりっていうのはありましたけども。
 まあ、私はその12年間、特殊教育の中で生活…、まあ勉強に…、授業を受けて、教育を受けたんですけども。うーん、教育的…、教育っていうか…、まあ、学校ですけども、やっぱりこう、年が上になるにつれて、だんだん何かこう…、何だろうな、養護学校に対する…、特にやっぱり高校生くらいの時かな、やっぱり「大学に行きたい」という思いがあったんですね。で、まずは養護学校の中の教育レベルが、大学に入学ができるって、その…、アカデミックな部分でやっぱり低いっていうことがまずあったし。あとはその中に、訓練とかね、色々あるわけだから、カリキュラム的にも全然違うわけですよね。一応、県立の高等部っていうことだけども。まあ日本はね、もちろん高校で学力格差があるわけですよね。まあでも、もちろん、だから養護学校っていうのはその中の学力的な、その、アカデミックなレベルでは、たぶん一番ね、低いとこじゃないのか、その当時は、ですね(?)。だからまず大学に入るための学力をつけるというのが非常に難しかったし、あとはもう一つは、やっぱり高校生くらいになった時に、すごく私が、社会に対する興味がものすごくあったんですね。
 で、今でも覚えてるのは、小さい時からそういう施設とか養護学校に、地域のいわゆる高校生がこう…、その当時はまだ「ボランティア」って言葉じゃなくて、「奉仕活動」みたいなことが入るじゃないですか。入るんですよね。でも…、で、小さい時はいいですよ、「お姉さん」みたいな感じで。でもだいたい、こっちもだんだん高校生らと同じ同学年なわけです。同年代になるにも関わらず、向こうは…、何だろうな、別に私たちにこう、「友だちになろう」とか何かじゃなくて、「私たちはあなたたちにやってあげてるの。」っていう、そこにものすごい、こういう線引きがあって、目に見えないものがあって。すごくそれが、すっごく居心地が悪かったんですよ。それで、んん…、これ…、何かね、これじゃない。本当にもう、自分と同じような年齢で、しかももっとこう、ミーハー的な話ができる、ね。「どの歌手が好き?」とか、何か、男の子の話、とかって、そういうことを普通にできるような、障害がない女の子とか、まあ男の子とか、っていうのに、すっごく興味があったんですね。あの…、「どんなことみんな話してるんだ?」
 あとはね、やっぱ養護学校の悪いところは、うーん…、まあ青い芝…、まあもう、その話はもうちょい取っときますけども。洗脳がものすごい。養護学校ってね、色んな意味での洗脳が。まああんまりいい意味で、とは言いたくない。やっぱり、例えば、それはその、何だろう、この「がんばれ」という意味で、あの、お前らのね、高校…、あの、とっても(?)、それは高校生の頃、その、同学年のね、「ほら、甲子園見てみろ、お前らのあの同じ学年の子があんなに一所懸命がんばってる。」とか、「どこどこの高校生がこうだ。」とかっつって。そういうことを言って、叱咤激励…。叱咤激励のつもりで言ってるんだろうけども、言われる私は、「え、そんなに、私は、やっぱりレベル的には色んな意味で、低いんだ。」っていうか。そういう、どうのこう(?)、だからすごくこう、何だろうな。うーん…、何かこう、自分が何かこう…、下だ、っていう…、こう、上からのその教師からの言い…。結局、外側の世界は教師しかいないわけですよ。だって同級生も、寮とかね、施設に入ったりしてて。で、私も自宅から通っているとはいえ、地域との接触はないわけですよ。ね。だって子ども会があったって、子ども会に入ってるわけじゃないし。妹たちは地域の小学校中学校に行ってるけど、私たちは…、私は行ってないわけだから。周りの子どもたち…、いっくら経っても周りの子どもたちとは…、何人かとはちょっと仲良くなったけども、それも、すごく何か、変な関係っていうかね。何だろう、その、自然じゃないというか。だから結局は、私の生活の主体は養護学校の中で、外部からのインフォメーションは養護学校の教師。それも正しいインフォメーションじゃなく、そういう偏ったインフォメーションで。すごく自分が…、「自分って本当に何もできない」、その、何て言うのかな、「意味のない存在なんだ」っていうふうに思わされつつあった。でも、「いや、そうじゃない。」っていう、その、「私はそうじゃないんだ。」っていうか、それは、完全にそれを信じてはいなかった。だからこそ、自分の目で見たか…、確かめたかった。本当にそうなのか、そうじゃないのか。うん。ていうのが、ありましたね。[00:25:24]

田中:うん。だからやっぱり外の世界と接触してみたいっていう…、

桑名:うん、だっていずれは接触しなくちゃ…、だってそこには高3までしかいられないんだから。だけど…、だから怖いという思いもありましたけども。でもやっぱり私、まあ性格的にもそうなんだけど、やっぱりこう、飛び込んで実際にやってみたい、経験してみたい、っていうのは、すっごくありましたね。うん。

田中:ふーん。大学に行こうっていう人は、でも、あんまりいなかったでしょ?

桑名:もういない、ほとんどいない。私の先輩でも、もう一人とか二人とか、本当に。本当に。しかも、みんな歩けるとかね。もう「車いすで」なんてのは、いただろうけども、表には出てこなかった。うん。

田中:でも「やってみたい」みたいな気持ちが強かったんですね。

桑名:私ですか? だから、本当にそこが矛盾してるんだけど。父はそれで、ガンガンガンガン、私には「勉強、勉強」って言うじゃないですか。教師だったから。で、しかも厳しい…、彼自身厳しくて。私の中のイメージ…、昨日もその話になったんですけど、食事会の時にね。私の中の…、別に父を憎んでるとか、父が私に対して虐待したとか、そんなことはないですよ。だけどもやっぱり手を上げられたりもしたこともあるし。…何だろう。でも父からは…、私の顔を見れば父は「勉強しろ」ね。で、だから勉強しなくっちゃって…。さっきも言ったように、「勉強することによって色んな選択が生まれる」っていう、彼はね、教えだったわけだけども。実際に現実としては選択は非常に、ね、ないわけですよね。だけど…、で、しかも勉強が嫌いではなかったし、成績も悪いわけではなかったし。
 あとね、私、とにかく英語が好きだったんですね。中一でだいたいね、みなさん英語の勉強始めるじゃないですか。で、私、たぶんやればできる子だったんですけども、たぶんね、色々甘えたりなんかして、たぶんそんなに思ったように成績は上じゃなかったんですよね、小学校のころとかは。それで、もうすでにだいたい「頭のいい子はあの子」とかこう、決められてるわけです。同じ学校なわけだからね。同級生も変わらないわけだから。その時に英語に出会って、「あ。これならみんなスタートレベルが同じだ。」と私、思ったんですよ。で、「ここでだったら私、1番になれるかもしれない」。「数学とか国語とか、ほかの教科ではもうほかにできる子がいるから、もうこれではちょっと無理かもしれない。英語ならみんな、ここ、スタート地点が中学生の時は同じで、これだったら何とかすれば。」っていうのと、あとは、その頃ちょっとこう、海外の音楽とかにも興味があったり、海外の映画とかにも興味があったりして、すごい、なぜか海外…、というか特にやっぱりアメリカになぜか憧れてね。それで、英語の…、もちろん意味は分からないけれども、英語の音に対して、すごくこう…、すごくきれいな、ね。すごくそのサウンドが、英語に…。今でも私、英語がすごく好きなんですけども、英語のサウンドがね、すごく何かこの…、心地よかったんですよね。しかもそのうえに、本当に英語に関してはいいことがババババッと、何でか知らないんですけども、その、「スタートが同じ、だからここだったら何とか1番取れる」っていうのと、「サウンドが好き」っていうのと、あとはその時の英語の先生がすっごくよかったんですよね。それであとは、英語が使えれば、なぜか、何の…、何の…、あの、何ですかね。あの、何の証拠も、何のあれもないんだけど、直感的に「英語ができれば、外と絶対つながりが持てる」って思ったんですよね。まあそれは今となっては現実のものになったんですけども。13歳の4月か5月の時に、「これを学んで、これがマスターすれば、何か、新しい世界が広ける」と思ったのは確実。それは本当、確実。うん。何だったんだろう。

田中:何か、第六感、ピーンて感じ?

桑名:何だったんでしょうね。で、あとは、さっきも遊歩さんと共通の友だちとね、電話とかテキストでやってたんだけど。今ちょっと彼女、色々、ある理由があって、英語勉強しなくちゃならない。で、彼女がNHKのラジオ講座…、私がだから「私で手伝えることができることがあったら何か言って。」って出したら、彼女が「ありがとう。」って。「今、NHKのラジオ講座聞いてるんだ」って言って。その時にふっと思い出したのが、私もやっぱりNHKの、それもたぶん英語の先生の指導だったと思うんですけど、英語の、NHKラジオの第2放送の基礎英語、続基礎英語とか、もうそれは聞いてて。もうテープに録って…。ちょうど私が中学生の頃にカセットラジオっつうか、カセットテープってのが普及してきた時代で、それが中学生の、中学校の時のお祝いに買ってもらったんですよ。もちろん音楽とかも入れてたけど、あとそれを使って英語の…、そのラジオ聞けない時はそれをただ録音して次の日聞く、とかっていうか。だから彼女にも言ったんだけど、あの、「NHKの英語、基礎英語、英会話って本当、馬鹿にできないよ」っていうか、すごいクオリティが高いし、安いし。[00:30:10]

田中:そうですね、本当そうですよね。

桑名:ね! で、ああやってコツコツ、コツコツ毎日やること。私なんかはその恩恵はすごく受けたと思う。で、生の英語だし。福島県の郡山で、今だってそんなに外国人はいないと思うけど、あの頃なんか外国人ってテレビで見るしかなかったしね。本当に生の英語なんて聞けるチャンスは…。全くその当時、そういったジェットプログラムのティーチアシスタントが海外から来るなんてなかったから、教える先生だって日本人でしょ。だから、

田中:そう、日本人だけどね。えらいひどい発音でね(笑)。

桑名:そうそう、今、思うとね。でもその時は分からないから、「あー、英語しゃべってる。」とかって思ってたけども。そういうので何か、私にとっての英語は、もう、英語様様ですよね。だって英語によって私の人生が大きく変わったから。うん、いい意味で。

田中:ふーん、じゃあ中学校の時から英語っていうのに目覚めて、そこでやっぱり自信持つっていうか。

桑名:そうですね、英語がね。それで、幸いにも、だからそれしか勉強してなかったから、結局。で、何か、うちの両親なんかも、「何で、敦子は英語英語って。」ね。誰も、誰一人として…。父だって別に英語の教師じゃない。それこそ社会とか体育とか、あと、のちには特殊教育のね、養護学校に15年勤めてたんですから。だから、英語の「え」の字も全く関係ないのに、「何で英語だったんだろう?」って親も言ってるし、私でも分からないけどでも。やっぱり好きこそものの上手なれで、英語だけは勉強して、とにかく英語で…。あの当時、1、2、3、4、5だったでしょ、成績が。4なんか取ったら絶対自分が許せなかった。「もう、英語だけは5じゃなくちゃ済まない」みたいな。それは結構長く続いてましたね。

田中:ふーん。じゃあそれでやっぱり、大学に…、

桑名:うん、だから大学も…、そう、大学は、だから…、日夜、父が「教育、教育、勉強しろ、勉強しろ」って、当然そういうふうに育てられたら、上の段階はやっぱ、教育を目指すじゃないですか。で、教育というかその、高い、高度なね、アカデミックなものね。それはやっぱり、大学ですよね。
 で、あとはやっぱりもう一つは、18歳のそれまでそういう隔離された特殊な環境の中で育ってきたわけですから、自信がないわけですよ。ある意…、そういう部分ではね。だからそれで社会に出るなんてこと、とても怖くてできなかった。だけど大学という…、ま、こういう感じで、ある意味で守られてますよね。この、大学っていう中で、そこでまずはちょっとこう、入ってみて、守られた中で、そしてしかも同学年のね、今まで体験したことのないような生活、勉強をして、そこで色んなことを学んで、それから社会に出るのが私はしたいな、っていうか。まあその部分で臆病だったっていうのもあるし、勉強もしたかったし、英語ももっと勉強したかった。とにかく英語で、あの、何とか…、身を立てたい、とは思ったかどうか分かんないけど、とにかく英語はマスターしたかったですね。英語で、だから何かをしようとかっていうのは、まあそれこそ翻訳とか通訳っていうのはあったけども、それほど…、でも思わなかったね。その、なぜに、だから英語だった…。やっぱりでも英語を学べば社会、外の社会につながるって、なぜか思ったということですかね。

田中:ふーん。じゃ、もうとにかく英語が純粋に好きっていう。

桑名:英語が好き。今も好き。今も好きっていうか(笑)、英語は好きです。うん。

田中:うん。でまあ、周りの人たちは、そんなにお友だちは大学とかっていうことはないけど、ご両親の勧めもあるし、

桑名:うん。それで、あとその時の高校の高等部の先生がまたよくて。英語とは関係ないんですけどね。ちょうどあの時の、私の周りに3人ぐらい、今で言ったらいわゆる学生運動とかをしてきた時代の教師がいたんですよね。で、彼らが結構新しい風を私なんかの周りで吹かせてくれて。すごいその…、何だろうな、日本の中の差別、それは障害者差別だけじゃなくて、部落問題だとかそういった問題なんかも、全然分からなかったけど、そういう先生たちから聞かされたりとか。あとはなぜか私、学生運動とは私は世代が違うんですけど、学生運動にすっごく興味があったんですね。それもね、今思うと、何でかなあ…。でも私、うん、学生運動に共鳴できる部分がたくさんあるっていうか、世代も違うんだけど、すごく憧れ。

田中:それは高校生の時に?[00:34:41]

桑名:ですね、高校生の時。その頃、赤軍派とかね、あったんですね。でもう、あの時…、私、あの時代、すっごく好きなんですね。私、別にあの、赤軍派の人たちを擁護するわけではないけども、彼らがどうしてそういう道に走ったのか、アカデミックなレベルが高いあの人たちがどうしてそういうことをしたのか、っていうことに、ちょっと共鳴する部分がありまして。殺人はないですよ。でもその、社会を変えるとかね革命を起こすとか。まあ革命を起こすまではいかないけども、その辺が…、差別とかやっぱりね、障害者に対する…、まあ私で言えば、障害者差別ですよね。そことリンクしてるのはありますね。で、そういうのをこう、高校生の時に、まだ大学出たばっかりの先生だとか、何年か前に大学紛争で実際やってた先生だとかが、「自分の学生時代はね、こうだった、ああだった」と話して、「おおー! かっこいいー」とか。あとは当時に、私が「大学に行きたい」って言った時に、その人たちが支えてくれたんですよ。「行け行け」と。「何とかやろう」っていう感じで。
 で、その当時もう本当に、どの大学っつうか、もう入れる状況じゃない。学術…、アカデミックな部分だけじゃ…、レベル的な問題だけじゃなくて、アクセスの問題。建物の問題。で、私はできれば、それこそ上智とかね、何かその、国際色豊かな、国際基督教大学とか、ああいうとこで勉強したかったんですよ。生の英語で。だけども、うちはそれこそ下にも妹二人がいるし、母は普通の主婦だし、父はただの学校の教員だから、そんなに経済的に余裕があるわけでもない。まあ貧乏ではなかったですけどね。で、しかも、父にしたって母にしたって、どうやってサポートしていけばいいか分かんないですよね、そんなのね。
 その時にたまたま、その、さっき言った数人の「行け行け」のね(笑)、養護学校の先生がサポートしてくれて。その先生たちが、福島大学の教育学部の学生がいたんですけど、その学生っていうのも私とちょっと世代が上で、その学生は成田闘争とかやっていた学生だったんですよ。その学生とこう…、だからその学生たちもやっぱりある意味、世の中の…、世の中に対する差別だとか、不公正さとか不平等さに対して、こう、何だか他の学生とは違った思いを持っているから、成田闘争と結びついたと思うんですよね。だから、そういう…、それと一貫して、じゃあ、まずは成田も大変…、大切だけども、まず、自…、この、自分たちのまず学校だよ、みたいな感じで。その、福島大学の教育学部の生徒さんたちと、まあその生徒さんたちも結構ラディカルな生徒さんたちね。と、あとはそこに福島県立医大、そこのまあ、ほんと数人ですけどもね。その人たちが、こう…。あとは市民団体ね、労働組合とか、何かが、「桑名敦子を福島大学に入れる会」みたいなのを作ってくれて。

田中:へえー…。

桑名:それで何か色々やってくれた…、やってくれてました、はい。うん。だからそれも…、うん。で、それが、だから、やっぱり賛同する人がいたわけですよ、少なくとも。誰もしてないけども、たぶん彼らは自分たちの…、その何だろう、運動に結び付けて。でも私はそんなのどうでもいいですよ。私が入りさえすればいいんですからね。でもその当時、だから父親も母親…、両親は大学には入れてあげたいけども、あとはやっぱり不安もあるしね、「東京に出すなんて」って、その、経済的にも、色んな意味でね。で、結局は、まあ私はとにかく「英語さえ勉強されれば」って思って、教師にはなりたいとは特に思ってなかったんですども、今となっては…、今、私、日本語教えてるんですけど、すごく教えるのも好きなんですね。だからあそこに入ってれば入ってたで、またあれだったんだろうけども、その当時は、試験要綱の中に「障害者は認められない。試験も受けられない」みたいな、きちきちと書いてあって。「まず、その撤廃運動」みたいな感じから始まったんだけど、それはそんなにね、私もう、この時高校2年か3年ですから、この1年で何もできるわけはない。で、その時に、その中のこの団体のその…、だからそのグループ「桑名敦子を大学に入れる会」には、その、福島大学の学生、えー、医大の学生、あとは労働組合の組合員とか、あとは養護学校の何人かの先生とか、いわゆるこう、ラディカルな人たちが集まってきて。でも、私だっていつまでも待ってられないですよね、その現実に向けて。で、その時に、私、短大は嫌だったんですね、やっぱり2年はね。で、しかもやっぱり短大って私の中のイメージで、こう何か。チャラチャラしたね、女の子がちょこっと「お嫁に行く前に行く」っていうイメージが私にはあったし、それだけは避けたかったんですね。あとは、この、女子大でこう言うのは何ですけど、女子大というのにもあんまり興味がなかった。できればやっぱり共学で、本当に社会を反映した…。今まであまりにも社会に反映されてない環境の中で育ってますからね。だからとにかく社会に一番近いところで勉強したい。まあそれは共学ですよね。しかも私の場合、4年制に入りたかった。でもそれはその当時、やっぱり無理だった。[00:39:36]
 で、その時、ある人が「じゃあ、福島市には私立のカソリック系の、桜の聖母短期大学っていうのがあるよ。」って言われて。「あそこだったらたぶん、ネイティブの先生もたくさんいるし、もしかすると、そんな福島大学なんかに行ってね、英語科の先生…、英語勉強するなんかよりは、あそこで入って2年間みっちり英語勉強したほうがよっぽどいい、英語としての教育が受けられるんじゃないの?」っていうことになって。それだったら地元だしね。2年制だし。まあ色んな意味で、私としては、「あんまり…」って思ったけども、もう私にはそういう、余地はないですよ、選択の余地は。でそこで、「じゃ、とにかく行ってみよう」と、「そこの学長先生に会ってこよう」と。で行ったら、その学長先生がまた素晴らしい人で、まだ今、生きてますけども、もう90いくつなのかな。あの、すごいやっぱり、私の中では、それが初めてのカソリックの出会いだったから。ていうか、宗教は、私はほんと今でも無宗教だし。特にそういった西洋の宗教に関していえば全くあの…、何だろな、あの、知識がなかったから。生まれて初めて、そういった西洋的な宗教の…、そん時はシスターがね、学長…、副学長だったのかな? まあとにか…、学長か、学長で。で、私に会っていいです…、あ、あの、誰かがセッティングしてくれて会いに行ったら。すごいね…、あの、何だろう、やっぱり宗教の力なのか、それとも彼女の資質なのか…。はっきり言われたんですよ。「私はね、あなたがね、障害のあるなしっていうのは、私にとっては何の関係もありません。あなたの学力だけ。ここは大学ですから、あなたが学力があればここに入れる。学力がなかったら入れない。それだけ。で、入れるとして、残念にもここの大学は、ここの短大は、エレベーターがないし、何もないけれども、それなりの処置は責任を持ってこちらでしますから、勉強だけしてください。」って言われて。

田中:へえー…。

桑名:で、すごい私は何か…、ある意味、その当時では、すごいラディカルな考えの人ですよね。うん。だからすごい、その、彼女から何かこう…、何だろう、障害者だからどうのこうのっていうことを…、何かすごく対等に見て…、対等っていうか、うん、普通の、普通の18歳の高校生として見てくれて、それも感激しましたよね。はい。だから、人には恵まれてました、私は、だから、今まで。はいはい。

田中:遊歩さんとかとは、じゃ、学校で?

桑名:あの、彼女は、私よりはずいぶん上ですよね。いくつ上なのか分からな…、うーん分からん、5、6歳上なのかな? ちょっと分からないんですけども、確実に上ですね。で、しかも彼女は養護学校じゃなくて、普通校に行ってたのかな。だから、彼女が療育園っていう施設の中に入ってた時に、「ああ、いたな」というか。彼女は、昔からあんな感じで、目立つ子だったんですよね。頭もいいし口も達者だし、みたいな感じで。で、その時は私はそんなに親しくはなくて、ただやっぱり養護学校、療育園の周辺では、やっぱり有名な子ども、色んな意味で有名な子だったから、目立ってましたよね。でも私は個人的な付き合いはあんまりなかった。まあ名前が…、向こうも私の名前は知ってて。でもまだ彼女も子どもだったと思うから。
 でもその、福島大学に入る運動の会の中に、その時に青い芝…、っていうか青い芝はちょっとずつ力を落としていったけども、その当時は。だけども地域社会に、それこそ橋本さんとかね、白石さんとかが。橋本さんは福島で。あの時橋本さんと遊歩さんは…、私の中では安積純子さんなんですけども、あの二人はカップルで一緒に住んでましたしね。だから、で、そして私を、あの、その大学に入れる会のメンバーが、そこで介護とかしてたんですよ、ボランティアで。その流れで、私はこう、純子さんと…。まあ純子さんもすごく何だ…、純子さん、まあ遊歩さんね、遊歩さんもすごくラディカルですよね。だから私の中では…、でも、彼女は私の中でラディカルすぎた。

田中:(笑)

桑名:ちょっと、キツすぎた。…し、私、さっき言ったように彼女は、私は彼女の生い立ちとかも分からないですけども、彼女から見たら、私は何かヤワヤワな、何かそういう女の子に見えたんでしょうね。そういうことも言われたことがあるし。ましてや桜の聖母短期大学って、福島市…、県内ではいわゆる「お嬢さま学校」って言われてる、そういう学校なんですよね。だからそんな学校にも入っちゃったし。まあ、うん…、何かこう…、何だろうな。うん、私はすごく、遊歩さんには、何だろうな…、うーん、うーん…、障害者のリーダーとしては尊敬してますけど、人間としては私は合わないし、彼女からも色々言われたことがあるし、だから私はすごく肩身が長い間、狭かったんですね、彼女に対して。マイケルと結婚したりアメリカに行ったりしたのも、私的(わたしてき)には、何かその、いわゆる日本でね、ガンガン運動するような…、私は運動なんかしてなかったし、する気もなかったし。どちらかといったら、本当に大学にいって遊びたいほうの感じだったしね。で、好きな人ができたら恋愛して、みたいな。そういう、本当に運動とはかけ離れた…、って言いながら、結局そういう運動する人と結婚しちゃったんですけどね。

田中:(笑)[00:45:09]

桑名:うん。でも、その、だから彼女から見たら、私は本当にヌクヌクと、「何なの?」っていう感じで思われたろうし。しかも、だから私は随分長い間、彼女に対して、こう、精神…、彼女…、何か「恥ずかしいことを私はしているんだな」っていう思いがものすごくあって。それが、随分経ってからね、遊歩さんが、ある…、書いた本をみた時に、誰かに「これ、あんたのことじゃないの?」って言われ…、私は読んでなかったから。
 とにかく私は遊歩さんから離れたかった。とにかく、もうまるで水と油っていうか。何ていうのかな。障害者としては、「すごいことやってる人だな」って思ったけども、性格的にも合わなかったし。あとは色々、彼女の…、私は彼女の後輩だから、やっぱりこの、上からこうね、「あんたは、こんな、もう…」とか言われてたから。うーん、何か、「なるべく近づかない」って思って、こう、いたんですけども。
 そしたら随分経ってから、だから、本当に20年ぐらい前? だから私がもう40とかですよ? その時に「これ、あっちゃんのこと書いてあるんじゃないの?」って言われて、「何?」て言ったら、私のことだったんですよね。名前は出てないですよ。で、彼女が、そのページは、彼女が私の結婚式に来て、その時にすごく羨ましかった、ってこと書いてあるのね。私は逆に「どうして?!」っていうか、「違うじゃん! それ、あんた私に言ったじゃん!」っていうかね。「何でさ、重度の障害者と結婚しないの?」とかね。「結婚するならもう、重度の障害者と結婚しなくちゃダメだ」とかね。「何でそんなね、知的レベルの高い障害者と、しかも体だって…、障害者としてはやっぱり…」。そのね、彼女のその当時の私に受けたあれと、あと、青い芝とリンクするんだけども、障害者であるには、やっぱり言語障害がある、CPでなきゃいけない。なるべく、その中ではね、重度の障害者。社会から虐げられてる障害者、が、まあ偉いというか、その、力、パワーがあるんだと。「あんたみたいに親には恵まれてる、周りの人間にも恵まれてる、で、行きたいところに行ってる、何か全然ね、何だ」。して、やりたいことやってるような、そういう…、それでしかも、人を好きにな…、しかもアメリカ人。で、しかもその障害っていったって、彼から見た、その青い…、そのCPで、言語障害があるね、すっごいすごい24時間介護人が必要な障害者から比べたら私たちは健常者ですよ。ただ車いすに乗ってるっていうだけで、言語障害があるわけじゃないし。まあアメリカの障害者だから(?)リーダーはみんな知的レベルは高いしね。で、私だって何だかんだ言いながら短大出てるしね。だから、私はちょっと恥ずかしかったんですよ、長い間。その部分においては。だから私は彼女に会いたくなかったの。すごくそういうふうに見られ…、目で見られれてるんだなって。ところがそれを読んで、はっきり言ってショック。大ショック。私は彼女にはこんなこと言ってほしくなかった。徹底して、そういうものに反発して、逆にもう、「こういう、私の後輩で軟弱な人間がアメリカ人と結婚して、アメリカにさっさと行ってしまいました」ぐらい書いてくれればよかったのに。すっごいね、その、女性として…、何だろうな、「羨ましい」っていう思いが、もう、もう、すっごい、文面に表れてるのね。私はそれが、怒り…、怒りというか何かこう、すごいショック。「どうして?!」っていうか。「違うじゃない、あなたは!」って。「あなたは違うところで生きてきて、違う価値観を持ってるのに、何で私が結婚したことに対して羨ましいとか憧れとかって、どうして言うの?!」って、すごい怒りが。言ってないですよ、本人には、私、未だに。だけど未だにそれがある。裏切られ…、逆に変な裏切られ方をしたっていう。徹底して、私は向こう側にいてほしかった。こっち側じゃなくて。思いも…、だって私、これっぽっちも思ってなかったから。私は逆にすごく何かこう、自己嫌悪に陥って。彼女と会うと。だから会いたくなかった。「また何か言われるんじゃないか?」っていう思いがあって。人間って本当こう、くっせき(屈折? 鬱積?)してますね、色々。彼女がそんなこと今ね、思ってるかとか、じゃ覚えてるかったら、私は知らないけども、あくまでもその文に関しては、その時はすごいショックだった。うん。でもね、そりゃもちろん女性だからね、それは分かりますよ。「だったら何であんた、あん時、私にそんなこと言ったの?」って、私は言いたい。

田中:そうね。それはあるね。

桑名:うん。「正直に言いなよ」って。うん。

田中:うんうん。何か屈折しまくっちゃったんでしょうね。気持ちが。

桑名:…なのかな。

田中:ねえ。でも接点は、じゃあ…、あんまり…、何だろう間接的にっていうか、[00:49:49]

桑名:いや、だから短大時代は同じ市内に住んでたから、ちょくちょく純子さんとこに遊びに行ってたし。そこで飲んで、…だから共通の友人がいるから、大学生とか、…行ってたし。あとはやっぱり、ある意味、魅力的な人ですよ、遊歩さんは。ガンガン言うし。私なんか言えない…、今でこそ私、これですけども。その時は、やっぱりこう…、私の中ではやっぱ。だから、私はすごく、いい障害…、いい子の障害者。あの、いわゆる青い芝が、危険思想の持ち主で(笑)、みんなから嫌われてる障害者であるならば、私は「みんなから好かれる障害者」。見てくれもまあ悪くはないし、頭だって悪くはないし、まあ、言語障害もないし、その、障害のない、非障害者の社会に一番近い障害者。それも言われたしね、私ね。だけども、でも私はまだ、私も純子さんに対してその、ああいう何かそのガンガン言ったりするのにまあ、憧れるっていうかね。「すごいなあ」っていうか。で、しかも地域社会で、そういった地域のボランティアとかの人たちに囲まれて色んな障害者の運動やってるっていうのは、すごく憧れがあって。で、その時は、私もだから屈折してて、何か、「んん…」って言いながらも、何か怖いっていう、すごく複雑な。で、そのあと、ここの大学…、あの、ドーナツ、で私は行ったでしょう。で、彼女もそのあとに行ったから、たぶん私が行ったっていうことは何らかの影響があったのかな、とは思いますよ。うん。

田中:そう、カリフォルニアに、その前に短期留学?

桑名:それはその、大学がね、英語科のあの、そういったあれだったので。ちょうどその頃、私たちのその年代…、だから70年代の後半かな、日本も経済的に潤ってきて。それまで海外なんて金持ちしか行かなかったのが、だいたいこの、「短期留学」とか「語学研修」だとかって大学の中でプログラムをどんどんこう…、出てくる頃だったんですよね。うちはしかも英語科だったから。そういうのを一番早く取り入れた学校で。で、私も、だからアメリカ行きたかったから。でもすごくこう、「でも車いすだし…」なんてこう、うんうんしてた時に、その時に親が…、私、第1回目のプログラムの時は言わなかったんですよ。だって、絶対無理だと思ったから。そしたら親がそれを知って、「え、何で言わないの?」って。「行きたいんでしょう?」って。「行きたいよ。でも、お金が…」ったら、「そんなの、おばあちゃんに言ったらすぐに出してくれるよ。」とか言われて。で、うちのおじいちゃん、おばあちゃんは結構小金持ちだったんですね。うちの母方のほうなんだけど。大金持ちじゃないですよ、商売とかしてて、まあ自由になるお金があるっていうか。で、うちの祖母に言ったら、パーンってそのお金を全部出し…、まあだから1ヶ月分の短期留学の渡航費用だとか、必要な費用は出してくれたから。あとは、大学の中でそれは行ったから、まあ一人でいったわけじゃないから、大学の中のプログラムとして行ったから、1ヶ月間。で、やっぱすごく行きたかったから。でもそれもやっぱり私の人生に大きく、今の…、結びついてますね、そこでアメリカに行ったってことが。うん。

田中:うーん。やっぱり「いい」っていう感じですかね?

桑名:うん。本当にね、あの、おも…、まずそこで何があったかっていうと、やっぱりそれまでは私は、まあ、人間には色んなアイデンティティがあると思うんですけどもね、私は必ず「障害者桑名敦子」だったんですよね。ところが初めてカリフォルニアに語学研修に行った時に、ホームステイをしたんですよね。だから現地の、日系人とかアメリカ人とか、彼らが私に対して…、それまではやっぱり日本の中では、その、福祉…、福大の学生にしたって、何か私のことをちょっと違っ…、何かやっぱ、「やってあげよう」的な、「助けてあげよう」的なっていう、そういうものがあって。でもそれもすごくさっき言ったように、そのボランティアの人が来てね、上から目線で嫌だったっていう、その思いはずっと残ってて。で、そして行ったら、もうゼロ、ね。それはなかったの。なかった。それでしかも、障害者っていう部分が、まあ本当に…、だってそれまでは障害者が1番高くて、その次に、まあ日本人とか、女とか、まあ桑名敦子って部分があるんだけど、必ず障害者が。それが、逆になったんですよね。もう「桑名敦子」。

田中:うん。

桑名:うん。障害者が、えっと、「障害者の部分どこ?」っちゅうか、「みんな、何でこんなに気にしないんですか?」みたいな感じだったし。あとは、一つの出来事として、一つ覚えてるのは、その時にコーディネーターをしてくれた現地のアメリカ人のおばさんがいたんですよね。もう本当にお金持ちの、そういうことボランティアでするような、本当に普通のおばさんですよ。その方が…、でも知的レベルは高かったね、ご主人は大学の先生とかしてて。その方が、すごくいい方だったのね。みんなに、学生みんなに平等に扱って、もちろん私も。それである日、その語学研修っていうのは、午前中は語学研修なんだけど、午後は文化交…、文化研修と名(な)をして(?)、ディズニーランド行ったりとか、海に行ったりとか、何かこういう、ね。地域の中のレクリエーション的なことをやるようなプログラムが続いたんですけども。ある日、公園というか。何かそういうところに行く、っていう予定があったんですね。で、その時に、私のその、行ってた短大の先生が引率で来てたんですよ。で、その先生が、その予定の前日だったか何かに、前もって私んとこに来て、「うーん。桑名さんは行かないよね?」って。「行く?」じゃなくて「行かないよね?」って言われたのね。「行かないよね?」って言われたから。まあでもそういう態度だから、みんな。それまでも、初めてじゃないから、そんなのはね。もう、「障害者って生きる」ってそういうことですよ、その当時は。[00:55:30]
 私には権利は、何のチョイスもできない。もう、向こうから言われことをやるまま。もちろん、それ、ちょっとは、やってましたよ。だから、私は、すごくそういうのに反発してたんですけども。その時も要するに向こうから、その先生が来て、「桑名さんは明日こういうのがあるけど、行かないよね?」って言われて、もう何か、「はい、行きます」って言えないような雰囲気じゃないですか。しかもすごい、日本人だし。そして、「分かりました」って言ってね。行きたいですよ、それは。でも「やっぱりみんなの迷惑になるかな」とかね、「やっぱり私が行くと、大変なのかな」とかって考えますよ。その時に、向こうでコーディネーターをしてくれたアメリカ人のおばさんが、「敦子、あなた行くよね?」って言われて…、あ、「行くでしょう?」って言われて…、あ、違う違う、こういう言い方じゃない。"Do you wanna go?" "Do you want?"って言われたから。「行きたいの?」って。アメリカ人ってそういう聞き方するんで。だから、行きたいか、行きたくないか。それに付随してくるものは、次に考えましょう。まずは "Do you want to go to…"って言われたから、「うーん…」とか言って、そのおばさんが、「あのさ、そんな難しい答えじゃない。イエスかノー、どっちかなんだから」ね。イエスか…、まず、日本人はそりゃイエスか…、別にこの状況じゃなくても、"Do you want ?" って言われたら「え?」って、「どういう答え?」って、言うと思うんです、まずは。そういう聞き方をされるような文化じゃないから。だけども、そのおばさんは "Do you want? って言った時に、「んー…」って言ったら 「いやいやいや。イエスかノー、どっちなの?」 ふふふん。「だからイエスかノー」って。本当それで押し問答が続いて、やっと"Yes."って言ったら、"But"って、「だから、イエスなんだけども、その先生が…」って言ったら、その人が"Forget." 「ね? そんな先生…、あの先生日本人で、アメリカの状況なんか何も知らないんだから、その人の言うことなんか聞かなくたっていいから。ここで問題は、あなたが行きたくないか行きたいか。行きたくないなら、それもご自由。それも私はリスペクトします。行きたいならそれなりの、分かりました、それなりに私たちは何かをしましょう。」と。ていうことで、すごくその、何かね、生まれて初めて、「あなた何をしたいの?」って聞かれた。それまでは、上からのね…。もちろん、だから大学とかは自分で「行きたい」だけど。それにしたって、すんなり誰も「はい、どうぞ」じゃないからね。必ず、私が「何かしたい」って時にはそこに何かがあるわけですよ。こんなおばさんみたいに、アメリカ人のおばさんみたいに、「答えは簡単。イエスかノー、どっちか。」なんて言う人、誰もいなかった! 本当にそれ言われて、「わー!」って。しかもそのおばさん、別に福祉の専門家とか、

田中:そうですね。何でもない、うん。

桑名:ただの奥さんですよ、大学の教授の。このね、私その時、このアメリカの奥の深さ、っていうか、そういうことに対する思いが。やっぱりあれですよ。あの、Civil rights。人権運動。彼女はユダヤ人だった。絶対それはあると思う、そういうのは。だからそういう、アメリカは…、私、アメリカが好きなのはそこですよ。歴史はものすごくないけども、すごく、個人個人を、どんな状態にしろ、まずは一番大事なことはリスペクトする。だからリスペクトって、日本語にすると尊敬だけど、もっと奥の深い…、相手を認めるとか、相手…、相手をそれに対してサポートするとか、そういうことも含めてのリスペクトっていうのが、まずアメリカの中で、ある人がたくさんいる。トランプみたいに変なのもいますよ。だけど、そういう思いを持ってる普通の人が、日常的にいる人が、すごくいるし、また私バークレー行っちゃったから。まあもちろんそれは、その後なんですけどもね。でもバークレーじゃなくっても、あの時はカリフォルニアだった…、あの、ロサンゼルス近辺だったんですけども。その時ですら私は感じましたもん。今、思えば。あの人たちはそういうのがあったからああいう行動、言動に結びついた。その時は私は、「これ、何? 宗教? 何なの?」って思えて、よく分からなかった。

田中:うーん。確かにね…。それだけやっぱりじゃあ、日本のそれまでの生活っていうのが、何だろう、自分ってものをこう、押し殺してる…、

桑名:あ、もちろん。押し殺してますよー。自分の言いたいことなんか十分の一も言ってなかったと思う。私ですら。「大学に行きたい」って、それだって、やっと言ったし。本当に、言えるような状況じゃなかった。そういうこと言ったらば…、あの、何? 「わがまま」だとか、ね、「甘えんじゃない」とか、そういうように叩かれるから。障害者っていうのはなるべく、苦しい道を歩まないと社会に認めてもらえない、うん。っていうような風潮だったかな…。そういうのも嫌だった。うん。とにかく私の基準は、私と同年代の、女子ね。

田中:うんうん。でも、その頃きっと、女子も言えないですよね。

桑名:まあたぶんね。

田中:ね(笑)。[00:59:55]

桑名:でも、少なくとも「障害を持った女子」よりは上だった。権利の範囲としては、許される範囲としてはね。もちろんその通りです。その通りです。でも、だって、障害を持ってる私は、障害を持ってる女性…、女性の扱いなんて受けたことはなかったからね。だから、女性です、だんだん体が大きくなれば胸も出てきます。あの…、生理もあります。肉体的には女性ですよね、もちろんね。頭の中だって女性ですよ。だけども、誰一人として、「あなたは女の子だから、こうこうこう」なんていう…、自分は女性なんだっていう…、私、その時に、「この『女性だ』っていう思いは、生まれて持ってくるんじゃなくて、社会から植え付けられるもんだ。」って思った。だって、それなかったもん、私には。でもだからっつって、男だとは思いませんよ。何か、中性的。「私には性はないんだ」。性…、だって、興味はありますよ。でも、その、「興味を出してはいけないんだ」。だからこそ、橋本さんと遊歩さんが、すごい新鮮で、「えーっ?!」っていうか。その当時まだ、障害者が恋愛をして、結婚するにしないにしても、一緒に生活をしたり子どもを産んだりとかっていう、みんなが当たり前にしてるようなことが…、もうその、ファーストジェネレーションね。その人たちが。だから、「へー! そんなことができるんだ。好きになることができるんだ。えっ、セックスしていいんだ。」みたいなね。ほんっとに、今思ったら笑っちゃいますけども。そんな時代ですよ。もう暗黒時代ですよね(笑)。

田中:そうかあ。なるほど。その頃に、だからやっぱり養護学校時代に、その、一応、知り合いが色々できて、

桑名:まあ、ところどころね。

田中:うん。で、そん中でやっぱりその、何か、すごい…飛んでちゃってるような人たちと…、そういう遊歩さんたちみたいなバーッて行っちゃってる人と。でも自分はそこには行かないけど…、

桑名:うん。で、あとは、養護学校ってさっき言ったように、洗脳がものすごいから。青い芝に対する洗脳がものすごく厳…。青い芝の「あ」の字も言っちゃったら、ものすご…、「あれは悪なんだから」。あの人たち…、そして、ものすごかった。そりゃものすごかった。私、いまだに、「ない」っつったら嘘ですよ。もちろん、尊敬はしてますよ、今となってはね。だけどもその思いは…、もちろん同意はしないけども、あの時ああいうふうにされて、CPで言語障害のある人は怖い人なんだっていう思いは、長年続いてました。

田中:ああ。植えつけられたというか。

桑名:だって、あの人たち悪者だから。養護学校の中では。あの人たちと付き合っちゃいけない。

田中:(笑) そうか。

桑名:だから、遊歩さんはその中に…、そっち側の世界とこっち側の世界の、間(あいだ)の人だったし。言語障害もないし、頭だっていいし、活発だしね。だから…、何だろう、私にとっては…、こういうふうに言うと本当すごい何か、「遊歩さんなしで私の生活は考えられなかったんだなあ。」なんて、新たにこう、何か非常に複雑な気持ちですね。今となってはね。うん。

田中:そうですね。

桑名:うん。うんうん(笑)。うん。

田中:でも、今はまあ、もうね、そう言う意味ではだから、白石さんみたいにものすごい言語障害の重い障害者の人たちに対して、すごい、思いってないけど、じゃあその頃はもう「絶対接触できない」という…、

桑名:「しちゃいけない」。もう、だから「汚いもの」。もう「悪」。もうその…、もう「人間以下」みたいな。ねずみ、ゴキブリの世界ね(笑)。だってそういうふうに養護学校の先生が言うんだもん、私たちに。うん。

田中:それ、どうやって変わってくるんですか?

桑名:私が? それを?

田中:やっぱりアメリカに行って、

桑名:うん、それだと思う。絶対それ。絶対それ。もう、アメリカの自立生活運動。ていうか、いまだに私は、やっぱり言語障害のある人にはすごくこう、おどおどしちゃうね。だって分からないから。言葉がね。うん。
 なぜに、アメリカに行って、障害者自立生活運動にはまったかっていうと、私の周りの障害者はみんな知的レベルが高くて、みんな大学院とか行ってて、大学とかね。どんなに重度でもね。弁は立つ。ジュディ・ヒューマンとか会ったことありますか? ジュディ・ヒューマン、マイケル・ウインター、エド・ロバーツってさ、もうこの三大…、何? このね、神様みたいな…、自分の夫を神様っうのは何ですけども。でも本当に、その社会においてはもう、先駆者だし、リーダーだし。で、言葉は立つね。もう、誰にも負けない、あの人たちの口には。そしてそれで、分かりやすい。すごく分かる。であとは、もちろんこの場合、言語障害は英語と日本語ですよね(笑)。英語と日本語ですよ、はっきり言って。でも英語さえ勉強すれば、言ってることは分かるわけだから。だから、私にとっては入りやすかった。彼らの社会に。こっち…、この日本の、この運動社会、だってみんないるのはさ、言語障害のさ、何か何言ってるか分かんないような(笑)、ここだけの話。 ほんでみんなからさ、社会から嫌われ者で排除されてさ、「あの人たちには近づくな」みたいなね。そういう何かこう、汚い目で…、汚い…、だからそういうグループで。それがこっち行ったら、何? 恋愛はするは、普通の生活して、もうイケイケ状態で、何? うちのマイケルなんか「何人、あんた、ガールフレンド、今までいた?」ぐらいのね、すげえ女好きで。そういうね、私の憧れていた社会がここにある、みたいな。そう、運動以外に、人間としてね、自分のやりたいことをやる、できる、社会。それですね(笑)。[01:05:19]

田中:うーん。なるほど。

桑名:しかも頭いいし。私、知的レベルの高い人に弱いんですね(笑)。すごく好きなんですね。うん、それ憧れます。だから、大学の先生とか、お医者さんとか、弁護士とかに。なぜか、好きですね(笑)。

田中:そうか。じゃあそういうところで、まあ結婚して、生活始めて。そっちからこう、日本を見る。

桑名:そうそうそう。逆にそう。その通りです。

田中:そういう時にこう、見えてくる日本の姿って、どんなふうに…。そう、だから、言語障害重い人たちがやってる運動がだんだん変わってはきましたよね、今。

桑名:うん。だから、ちょっとずつ向こうも、すっげえラディカルだったのがちょっとこう、中立に、もっと受け入れやすいものになってきて。まあその当時はね、もうね。そんでもってこっちはこっちで、こう、こう(煌々?)、キラキラ輝いてるわけですよ。アメリカの自立生活運動とか、自立生活運動のリーダーが。もう私の中でもアイドルですよね。もう大スター。うん。そういう人たちと…、だって私、結婚したわけだから。で、しかも普通にいるわけじゃない。だんだんだんだん、何かさ、私、本当にこれは私の中の錯覚で私もその一部みたいなね、じゃなかったですよ。じゃなかったですけどもね、結局は。でも何かそういうふうな、逆に本当に、あの…、何だろう、何だろう。もしかすると私の中で、うん、「私はこっち側の世界の人で、あんたたちは下じゃない?」って、たぶんあったかもしれない。うん。だから、「あんたたちに教えてあげるわよ」的な、というか、私はしなかったけども、少なくとも夫はマイケル・ウインターだったりとか、友だちがジュディ・ヒューマンだとかで、その通訳をしたり、一緒に同行してるうちに、つい何か、「え、私、こっち側の部分ー」みたいなね。「そっち側には私は行かないわよ」みたいな。うん。理解はしながらも、そこに確実に線は引いてあったし…、うん、引いてありました。うん。恥ずかしい話ですけども。

田中:いやいやいや。でもやっぱりこう、ね。たまに帰ったりとか。

桑名:もちろんもちろん。そうすると、そういう人たちが、その当時は、すごいラディカルで汚い存在で(笑)、…だった、社会のね、社会の何かもうクズみたいに言われてた人たちが、だんだんメインストリームに、っていうかね、地域で…。もう、世の中変わってきてるし。で、そういう人たちがマイケルとかジュディを招いて、レクチャーだとか、ワークショップだとかが開(ひら)いたから、その、敷居がどんどん低くなってきたっつうのはありますよね。だから向こうも、すごいガチガチがちょっとずつ柔らかくな…、もう年もとってきただろうし、うん。で、だんだんだんだん、「あ、何だ。言ってること同じじゃん。」みたいな。うん。基本的には、やってる人はね、こっちは、かたや知的レベルがものすごい高くて、大学とか大学院とか行っちゃってる障害者で、しかも言語障害がない、いわゆる成功組?

田中:うん。

桑名:…と、こっち側は、学校だってね、学歴だってそんなにはない、言語障害もあって重度で、もう、介護人がいないと生活ができないようなレベルの人たち。でも、でも、でも、その思いは、目指すものは同じだ、っていうものですよね。うん。そう。

田中:その辺はどうやって…、だんだん、気がついてくる?

桑名:そりゃそうですよね。だって、こうやって向こうから呼ばれるわけですよね、マイケルに。だから、向こうは間口があるわけですよ。「教えてください」というような。だから結局、私もつい「教えてあげようじゃないか」みたいな、そうなるんだけども。だけども、やっぱりそうしてるうちに、「あ。差別だとか、偏見だとか、不平等っていうのは、これは世界共通なもんなんだ。全く同じじゃねえのか?」っていうか。だってマイケルと私は、1世代違うんですよね。ほぼね。向こうは51年生まれで、私は59年なんです、1900(せんきゅうひゃく)ね。そうすると世代が違うんですけども。向こうはしかもね…、で、彼も養護学校で、小さい時から普通校には行ってなかった。で、病院とかには入ってた。私も養護学校で、まあ病院ていうか施設。そうすると、答え合わせっていうか自分のね、人生を書く(解く?)と、こう、繋がるところがすっごくあって。「ちょっと待って?! 全然年齢も違うし、福島県郡山市とシカゴと、何で同じなの?」っつうのがすっごくあったんですよね。だからこれはやっぱり、「障害者っていうのは、あんまりこう、国とか、ジェネレーションとか、あんまり関係がないんだな。」っていうか。障害者の女性問題は、アメリカの障害者の女性問題、日本の女性も…、日本の障害者の女性問題はアメリカの障害者の女性問題でもあるし、っていうか、こう、ダブるところがいっぱい! もう、ほぼダブる(笑)。ほぼダブる。うん。

田中:ふーん…。だんだんそういうのに、じゃあやっぱり、生活していく中で気がついていったっていう…、[01:09:40]

桑名:うん、で、あとは、私はやっぱりあの…、やっぱりそれはたぶん昔…、何かこう、子どもの時から、確実じゃなかったけど、「この社会は何かおかしい。」と思ってましたよ、もちろん。差別とかね。だから、アメリカ行った時に、差別っていうのは、これは障害者差別だけじゃない。女性差別。人種差別、アメリカの場合はね。あとは年齢だとか、まあそういった差別。「ありとあらゆる差別っていうのは共通のものだ。」と私は捉えたわけですよ。要素は違ってもね。私の中では同じ。
 で、しかもその中で、私がすごくあの…、結局そのあとに、短大を卒業して、2年しかなかった、2年…、短大の教育しか受けなかったからすごく、その、4年制にやっぱり憧れが。「とにかく4年制に入らないと、もう人間じゃないわ。」ぐらい私は思ってたから。そしたら幸いにも、バークレーに住んでて、バークレーのちょっと目の前にUCバークレーという、もう、アメリカでもトップ、世界でもトップくらいの大学がバーン!とあるじゃないですか。行けるわけですよ、距離的には。学力的には分かんないですよ。でも…、で、しかもそこからエド・ロバーツとかジュディ・ヒューマンとかバンバン出てきてて。そいで、そのいわゆる自立…、で、バークレーという街の中もすごかったし、大学もすごかったし、そういう中でこう、生活しててすごく身近になってきて。で、「そこで勉強したい」と思って、しかもマイケルが、もう「勉強しろ、しろ」っていうような人だったから。まだ子どもはいなかったんだけども、もう結婚はしてました。
 その時に、何を勉強したかったか、って、やっぱり「差別」っていう問題で。その時はまだ障害者学とかなくて、一番手っ取り早い差別は一体何なん…、どっからくるもんだろう、って勉強できるのは、Ethnic StudiesとかAsian American Studiesだった。私の場合はね。特にあとは、そのアメリカ行って初めて日系人とか、そういった人たちと会って、「え、こんな人たちがいるんだ! で、こういう、第二次世界対戦の時に収容所に入れられるとか、こんな歴史なんか私、今まで全然知らなかった!」っていう思いがあって。で、私の周りにもそういう人がたくさんいて。これを勉強すれば、何か、その差別ってのは一体どういうところから来るのかって、もっと学…、その、社会的…、社会からの経験ももちろん大事だけど、もっとアカデミ…、やっぱ私、アカデミックにはすごく憧れがあるから(笑)、もっとこう、その、アカデミックなレベルで考えたかったんですよね。その…、分析したかったっていうか。絶対共通なものがあると思ったし、今でも共通のものはあると私は思ってますから。だからそれが一番手っ取り早かったし。やっぱり自分がアジア…、もう一つは、アメリカに行って感じたのは、「障害者」、「女性」、あとは初めて「私はアジア人なんだ。」って思ったんですよ。「日本人」ももちろんだけど、日本人というよりも「アジア人」。ね、だって向こうの人たちからしたら、日本人も中国人も韓国人も関係ないんだから。みんな同じ顔してんだから。だから「アジア人」っていう、この「アメリカ社会の中のアジア人」っていう、一体これってどういう…、しかも差別されてるからね。やっぱり差別された歴史があるし、その当時…、今だってそうだけど、やっぱりいわゆる「マイノリティ」と言われている人たちってのはすごく共通な部分が、ある。全然違う体験だけども、思いは何かすごく似通ったものがあると思ったんで、すごく興味がありましたね。その、特にアジア系アメリカ人の歴史だとか、文化だとか…、うん、そういうことに。

田中:それでそういうことを研究…、

桑名:まあ研究っていうか、まあ大学に入って勉強して、まあそこは卒業、幸いにもできました。だから、すごく私としては、何度も言いますけど、アカデミックなものに憧れてる人間なわけだから(笑)、UCバークレーに入るなんては、もうね、私の中の人生のね、ハイライトですよ(笑)。もうね、もう、もしかすると「東大に入る」くらいの感じ。

田中:うんうんうんうん。

桑名:うん。まあそんなね、Asian Studyはそんなに高いレベルじゃないですよ。大学の中だって。でも、少なくとも、卒業証書には「UCバークレー卒業」って書いてあるわけだから(笑)。その中にこう、ちょっと指ぐらい突っ込んであるわけだから、そこの思いはすごくやっぱりこう、何だろう、いまだにやっぱこう、誇りはありますよね。その部分ではね。「あそこで勉強した」っていう。うん。

田中:やっぱりでも…、何だろう、自分でやっぱりこう、次にやりたいもの、見つけたらちゃんとこうして、かなえていくっていうか。

桑名:それはすごくあった。ものす…、それはだって…。だからね、私、だいたい、できてるんですよ。癌になったことと夫を亡くしたこと以外は、全部計画して達成して、ほとんど達成してる。こう言うとすごく何か上からっぽくて嫌ですよね。でも…、

田中:いや、でもそれが本当だったらいいんじゃないですか(笑)。

桑名:うん。だからそれでね、周りは私のことすごく恵まれてるって言うのね。私、「はい、恵まれてます」とは言いたいけども、「恵まれてるだけでは済まないよ。」っちゅうか、「私、努力したから。」と。

田中:そう思いますよ。それは分かる。[01:14:33]

桑名:ね。「あんたラッキーね。恵まれてるね。」って言うけど、それは、それは分かりますよ、親だって、まとも…、まあ、まともじゃないけども、教育的においてはこう、プッシュしてくれたからここまでいったわけだし。あの、何? きょうだいとのいがみ合いもなく、結構すくすくすくすく育っちゃった人間で。障害つったって、別にね、言語障害があるわけじゃない、知的障害があるわけでもない。ただ足が動かないっていうだけで、そこさえクリアすれば普通の人と何ら変わりはない。
 そういう…、うんうん、うんうんうん、…中で、でも、努力はしました。勉強も死ぬほどしたし、バークレーの中…、バークレー入った時ね。あんなに勉強したことない(笑)。アメリカの大学…、でも私だけじゃないから。アメリカの大学生はみんな勉強するの。しないと卒業できない。特にUCバークレーなんか。みんな、「UCバークレー、UCバークレー」ってね。だって、みんな勉強してるから。ほんと! 大学に…、あの、週末にね、あの時私、金曜日だけは休みだっ…、休み…、自分の中で課してやってたのが、「金曜日の午後だけは休み」。あと、土曜日の午前中ぐらいかな。あとは、土曜日の午後ぐらいから日曜日は確実に図書館に行って勉強する。席(?)がないんですから。それだけみんな勉強してるんですよ。だから、初めて、あ…、日本、その当時、今は分からないけど、短大に行ったっつったってさ、何あの、たいして勉強もしなかったし。周りの大学生見たって、「いつ勉強してんの、みんな?」みたいな感じで。だけど、だからそういう意味ではアメリカの大学に行って、すっごい辛かった、大変だったけど、勉強ができる環境っていうか、勉強をしました。
 だから勉強もしたし、あとは例えばその、息子を養子もらったんだって、向こうから来たわけじゃない。こっちが色んなことして、駆使して、ありとあらゆることをやって、来たわけだから、その中のプロセスっていうのは私なりに色んなことをした。リサーチをしたりとかして。
 だから、その、何、ラッキーとか「恵まれてる…、それはもちろん要素としてありますけども、それだけで片付けられることではなく、それは私だけではなくね、マイケルにしたってジュディにしたって、私の…、私がリーダーとして仰ぐ人間…、エド・ロバーツにしたって、努力してるからあそこにいってるんですよ。ね。だから、すごいだから人生にね、おごり高ぶりが私はあったんですね。だから自分が思ったことは、努力さえすれば…。あとはしかも、うちの父が、「とにかく努力。努力しかない。お前には努力しかない。」ってもう、洗脳(?)されたから。「努力すれば絶対何とかなる」って。しかもアメリカですよ。アメリカは、本当に(?)もうお金がなくたって、何? ね、もう本当に、マイノリティでも、いや、本人にやる気と能力があれば社会は許すし、社会はその人が求めればそのものを与える。ね。だから、本人がやる気があれば必ず解決する、ってずっと思ってたのが、乳がんになったりとか、夫が亡くなったりとかした時に、もう本当、この歳になってですよ。言われてましたね、私、人にね。「何、今頃気づいたの?」って。「人生ってそんなもんじゃないんだよ。できないことが世の中にはいっぱいあるんだから。」って言われて。「いやー、そんなことが…。え、私って、やればできるって思ってたし、やったらできちゃったし。」みたいなね。今頃になって、「人生ってそうじゃないんだ。」っていうのを学んでます。「何か、何か生きにくいなあ、この社会なあ。」って、今ごろになって思ってるの。まあその、障害にかかわらずね。色んな意味でね。

田中:うんうん。そうね。でも、努力するってことは、やっぱり大事なことですよね。

桑名:うん。だって努力はさ、自分だけだから。自分だから。

田中:そうそうそう。自分、…そうですね。

桑名:他人が「努力しろ」って、しない人はいっぱいいるでしょう。でも、言われても言われなくても、自分が「努力しよう」って頑張れば…、だって、それだけ。他には何もいら…。そこに努力するから生まれてくるものがあったり、こう、出てくるものがあるんだけども、まずは、きりょ…、その、きも…、気、気ですよ。努力という(笑)。

田中:うん、うん、うん、うん。そうね。で、自分のできる範囲っていうのが、やっぱり、「ここまでは。」っていうのは見えてきたというか。やりたいことをやって頑張るのは、自分は自分が変えられるけど、結局、外から来るもの、そやから癌とか死とか、そういうのはもう受け止める以外にない…、

桑名:まあまあまあ、もちろんそうなんですけども、私の中では何かやっぱりそれが、そういうのがなかったから、いまだに受け入れがたいんですよ。なぜに自分がコントロールができない…。要するに、だから私の今の一番の恐怖は「コントロールができない」っていうところね。そこが、私はずっとコントロール…、コントロールって、自分でその、やりたいことを計画してやってって、それがかなえてって、こうもう、端からそれを信じて…いたわけだから、そういう努力とか何かでは絶対に、解決できないものがこの世にあるんだっちゅうことが、人生の後半になって分かって、きましたかね。はい。でも、いまだにやっぱり努力は必要だと思いますよ。

田中:うん。そう、私もそれは思いますね。

桑名:うん。すごい、地味な言葉で、何かすごい、くっさい、ね。今時ね。だけど、でも、でも、だからもしかするともっと違った言葉で…、イメージが悪いんであるならばね。うん。でもやっぱ、やる気とか、モチベーション。やる気。うん。そういうこと。だから、自発的な、自分からの、想い。

田中:うん。それは、やっぱり、ないとね。うん。何もできないですよね。[01:19:35]

桑名:そう。しかもアメリカだと、それがあれば、それを表明すれば、それを自分が何か、みんなにアピールすれば、誰かしらが必ず助けてくれる。助けて…、いや、それ言わなかったら誰も助けてくれない。うん。日本は分からないけどアメリカは。だから私、アメリカ好きなんですよね。こっちからアピールすれば、賛同する人は必ずいるし、それに向かって、「あんたがおかしい」っていう人もいれば、…いるかもしんないけど、それと同じぐらいの数に「あんたは本当にその通りだ」って賛同してくれる人が必ずいる、のがアメリカだと思う、私は。

田中:日本は、やっぱり、そこの信頼感が薄いかもしれないですね。何か表明した時に賛同してくれる人がいるっていう自信みたいなのが何か、ちょっと弱い。だから(笑)、言えなくなって…。

桑名:っていうことは、「賛同します」って表明する人もいない…、あんまりいないのかもしんない。うん。

田中:うんうん。ね。そういうところでやっぱり、閉塞感っていうか、

桑名:うん。だから例えばさ、あの、LGBTね。最近こう、昨日だか一昨日…、今日だかな、その、ニュースでも見たりして…。そう、「生産性がない。」とかね。でも、LGBTにしたって、私もLGBTなんてアメリカに行って初めて知ってね、でも私の周りにもたくさんいたし。私も、LGBTと私…、障害者の中にすっごく、深く、深く、同じものが繋がってると私は思うし、共鳴する(?)もたくさんあるし。何て言うのかな、アメリカの場合、特にバークレーなんかの場合、LGBTじゃない人間がLGBTをサポートしている。だからっつって別に変な目で見られるわけでもないし、逆にそれが誇り…、誇りを持ってみんなね、LGBT…、当人はもちろんそうだし、それをサポートする人間もすごいこう、自信を持ってサポートしている。だからその、ここは当事者はもちろん、ああやっていますけど、それをその人たちだけじゃなくて、その人たちの家族とかLGBT以外の人たちが、本当にサポートしてこそが運動の完成度だと思うんだけど、日本はまだまだLGBTだけじゃなくて障害者にしたってもう偏っている…、こう、あの、メジャーになれない。なぜかメジャーになれないっていうか(笑)、やっぱり人数が少ないとかね。何か偏見があって、その偏見のある人がものすごく多いっていうか。アメリカだって偏見のある人はいっぱいいますよ。だけどそうじゃない人もいっぱいいる。だから多様…、多種多様なの。日本てやっぱりそこがすごい、偏ってますよね。うん。

田中:うーん。そういうとこがあるのかなあ…。だから、自分のこう、変わりたいとか、こうしたいとかいうイメージを伝えることに躊躇しますもんね。

桑名:うん、だからそれはどっち側の問題でもあるかもしんない。その、いわゆる…、まあ今、話題だからLGBTの例を出しますけども、LGBTの人がどれだけアプローチ…、私たちLGBTじゃない人間に対してアプローチしてるかが。ね、間違っても、社会がそんなことできるような状況じゃ、今は日本はないのかもしんないけども。でも、分かんないわけだから。やっぱり分からないっていうことが、その、何だろう、恐怖に繋がったりとか、偏見とか差別になるわけだから。お互い歩み寄る? ことがすごく大事で。本当にその…、特にだからね、障害者の運動にしたっても、私はその…、アメリカってこう、すっごく間口が広い、障害者の運動、ね。何かすごい、この、その当時の日本の障害者運…、特に青い芝…、何かこう、うーん、「CPじゃないとだめ。」とかね。何か、その、その人たちそのものが何かこう、拒絶、排除したりとか。障害じゃない、障害者じゃ…、に…、ない人間は人間じゃねえみたいなね。何、何? だから「今までに差別されたら、逆差別」みたいなね。そういう、何かこう…、何て言うのかな、何でもっと友好的になれないのかな。何で「敵、味方」って必ずなるのかな、っていうか。今日の敵は明日の友達だったり、今日の友達が明日の敵だったりっていうのがアメリカ、っていうかね。特に政治の社会とか。だからこう、マイケルなんか見てて、「ちょっと待ってよ。昨日まであれだけさ、敵だったのに、何で今日一緒に食事行くの?」みたいなのがこう、普通にある。だからねやっぱりね、成熟度が高い、アメリカ人は。色んなもののね。うん…、うん。成熟度が高いと思う、私は。うん。

田中:なるほどね。そうか。そろそろちょっと時間なので、1回閉じて、

桑名:はい。

[音声終了]


UP:20191015 REV:
桑名 敦子  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築